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不動産・土木・建設・土地建物等綜合スレ
2267
:
とはずがたり
:2020/05/06(水) 16:23:41
すげえなw
沢田マンション
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E7%94%B0%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
沢田マンション(さわだマンション)は、高知県高知市薊野北町一丁目の集合住宅である。鉄筋コンクリート建築を専門職として手掛けたことのない夫婦二人が(のちにはその子も加わって)建築した。鉄骨鉄筋コンクリート構造、敷地550坪、地下1階地上5階建て(一部6階)、入居戸数約70世帯、約100人居住。
増築に増築を重ねた外観から、軍艦島とともに並んで「日本の九龍城」とも呼ばれ、建築物探訪の名所のひとつとして知られる。通称「沢マン」(さわマン)、「軍艦島マンション」。
概説
沢田マンションの夜景(南側より) - 2007年12月11日撮影
南西側より。2016年8月12日撮影
沢田マンションは、素人が独自に建てた鉄筋コンクリート造の建物である。
沢田嘉農(さわだ かのう、1927年8月11日-2003年3月16日)は、高知県幡多郡七郷村(現・黒潮町)加持川字日の川出身[1]。蕨岡尋常小学校5年の時、月刊誌『家の光』で見たハイカラな「アパート」の様子に憧れ、集合住宅の建築・経営を一生の仕事にしたいと思い定める[2]。…27歳で高知県中村市(現在の四万十市)に移り、地元の製材所で働く[5]。大工・棟梁の弟子入りや修業経験も無いまま、自ら現場を手掛け土建屋として建て売り住宅の販売・分譲を開始[6]。その後はアパート経営に乗り出す[7]。この間32歳にして、当時13歳の中学生浦田裕江(ひろえ、1946年 - )と実質的な結婚生活に入る[8]。…1971年、沢田嘉農が44歳の時、高知市薊野(あぞうの)に土地550坪を買い、沢田マンションの建設に着手[11]。素人であったことから、建築確認は取らないまま着工するが、当時の役所の対応は「強度に文句は言わないが、手数料の用意が出来たら許可は取ってくれ」という程度の、非常に大らかな時代だったという。
30トンブルドーザーと大型パワーショベルを借り、地下6メートル以上を掘り抜き約10日間で岩盤に到達[12]。その上に柱を打った。作業は、敷地内の西から東へと建て増すかたちで進行。鉄筋を配置した後のコンクリート打ち込みには、小学生の娘まで動員し「届かない足でレッカー車を運転して」生コンクリートを運び、セメントの練り込みをしたという[13]。「設計図はわしの頭の中にある」として、きちんとした図面もなく独自に工事をしていった。屋上には夫妻自作のクレーンや製材所が設けられた。
当初は「10階建て・戸数100戸」という壮大な構想だったが、現在は地上5階建て・戸数約60戸(一部6階建て)となっている。はじめの頃は母子家庭など社会的に困窮状況にある人々に対して入居が優先されていたが、近年は若者の入居が増加傾向にある。沢田嘉農の死去以降は、増築はせず改装や補強など現況維持にとどまり、今日に至る。
沢田マンションの歴史はまた、度重なる行政指導や工事中止命令などの軋轢の歴史でもあった。現在では、住民で自主防災組織を結成し、年に1度の避難訓練を行なうなどして、行政との関係も概ね良好である。
沢田マンションの形容として「違法建築」「違法建築スレスレ」などとよく言われる。建築基準法における集団規定、単体規制への適合は別途検討の余地があるが、建築確認申請が出ていないというのは建築基準法第6条(建築物の建築等に関する申請及び確認)の規定に違反しているため、建築基準法第9条(違反建築物に対する措置)における違反建築物に該当する。しかし、いわゆる一般的な違反建築物と同様に、私有財産権の問題、入居者の居住権の問題などから、高知市役所建築指導課の努力にも関わらず、有効な指導が難しいのが現状である。
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