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Tohazugatali Medical Review

7432OS5:2023/10/24(火) 18:39:56
車両の連結部で叫び続けた高校時代
高校3年の小田中さん。チックが悪化し、高校生活は苦しいことも少なくなかった。 ※一部加工しています

 高校時代は苦しかった。入学式で卑わいな言葉を口にし、周りから避けられた。「うんこ」と言ってしまいそうになると、直前に「ふんが」と言い換えてごまかした。「ふんが先輩」とあだ名が付いた。上級生や下級生からもそう呼ばれるようになった。症状をまねされるのも苦痛だった。「いじめかどうかはわかりませんが……」。思わず手を出しそうになったこともある。

 とりわけ苦しかったのは通学時間。電車がホームに着くと、真っ先に車両の連結部へ移動し、両方のドアを閉めて密室を作った。ここなら声もあまり漏れない。手が動いてもドアをたたくだけだ。肘の内側に口をあて、「うんこ、うんこ、死ね、死ね」と叫び続けた。その間も、体は勝手に動き続けた。「ひとりでいると楽だけど、ひとりでいるのはつらかった。なんで自分だけこんなところに」。ドアのガラス越しに広がる乗客たちの「日常」がまぶしく見えた。

高校の通学時間は車両の連結部で肘の内側に口を付け、叫び続けた(都営地下鉄・板橋本町駅のホームで)

 連結部で叫び続けると、そこで1日の体力を使い切った。めまいを起こし、駅の事務室で休ませてもらったことも一度や二度ではない。授業中は疲れ切って寝てしまうことも少なくなかった。いらだち、悲しみ、やるせなさ――。行き場のない複雑な感情を抱えながら、「地獄の10分間」(小田中さん)を耐え続けた。

 両親は後になって、学校から通学の様子を聞かされた。事情を知らなかった父親は、「そんなときに自分は『学校行けよ、学校行け』と言っていた。随分つらい思いをしたんだろう」と悔やんだ。「頑張っていたんだな……」と、母親は泣いた。

 共に病気と向き合ってきた家族でさえ、理解が追いつかず、症状を巡って言い合いになったこともあった。仕事を終えて帰宅した父親の横で、息子が言葉にならないような声を発し、体を動かしていた。家族で食卓を囲んだ時、我慢できずに「それ、なんとかならないのか」と声を荒らげた。病気だとわかっていても、感情を抑えられなかった。「しょうがないだろ」と反論する息子から、やり場のない怒りと悲しみが伝わってきた。「この病気がなかったら、この子にはどんな将来が待っていたんだろう。なんでうちの子なんだ」。父親はいまも、現実を受け止めきれずにいる。

20歳を過ぎて症状が悪化…諦めた音楽家への夢
バンド活動をしていた頃の小田中さん。ギターを担当していた。2019年撮影

 高校卒業後は、都内にある印刷関係の工場で働き始めた。作業は製本や梱包(こんぽう)などだが、体が勝手に動くため、首や肩、腕をコルセットやギプスで固定した。ギプスの中で強い力で動こうとする体を無理やり抑え続けた結果、体を痛めてしまった。症状が出ないよう我慢し続けていたことも災いして、20歳を過ぎると症状は急激に悪化した。

 高校時代に友人とバンドを組んで演奏していたギターは、右手が思うように動かなくなり、かき鳴らすことができなくなった。13年間続けてきたギター。「なんだよ、これで終わるのかよ」。怒りにまかせて、ヘッドの部分にドライバーで大きな傷をつけた。せめて作曲だけでもと始めたピアノも、鍵盤を弾こうとすると肩や指に力が入ってしまい、音楽家の夢は諦めた。「お守りじゃないけれど、このギターがあれば病気が治ったらもう一度弾くことが出来る。気休めだけど、気休めがなければやっていけない」。ほこりをかぶったギターはいまも、タンスの奥で眠っている。


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