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Tohazugatali Medical Review

5454チバQ:2020/06/18(木) 18:09:40
 本来ならば、メディアの一員である私に連絡する義務はないはずだ。それでもメールで知らせてきたのは、「申し訳ない」という気持ちと、社会通念上は許されないという後ろめたさがないまぜになった苦悩を抱えていたからだと思いたい。

 横倉氏本人に電話を入れた。

 ――中川さんに選挙運動はしないと約束したことを裏切ってしまうことになる。

 「それはしょうがない。医師会のことよりも国民医療をしっかり守ることを考えざるをえない。あちこちから、コロナが収束する前に医療界のトップが交代するのは無責任だという声が強すぎるんよ。(出馬することに)決めました」


 「あちこちから」という横倉氏の言葉に聞き覚えがある。

 8年前のことだ。日本医師会の会長を1期務めた茨城県医師会出身の原中勝征氏が2期目を迎えようとしていた12年、その原中執行部で副会長だった横倉氏が、会長に立候補することを決めたときの言葉だ。

 原中執行部はねじれ執行部と言われ、10年の会長選で当選したのは原中だが、横倉氏を含む3人の副会長はいずれも対立陣営の唐澤祥人(東京都医師会)の推薦する候補だった。このねじれ執行部で効果的な医師会運営ができない原中氏に造反して、しかも1期で引きずりおろそうとすることには「大義がない」との批判があった。


 そのときに横倉氏が、筆者に漏らした言葉が「九州(地元である九州医師会連合会)のプレッシャーが強くて、どうにもならんのです」

 今回は「地元」ではなく、「あちこち」と表現をしているが、他人の意見を聞き入れて「義を欠く」ことを承知で出馬を決断した点では、8年前の構図とまったく同じことになる。

 他人の意見に聞く耳を持つことは、会長としては大切な資質の1つだとは思う。だが、他人を裏切る医師会選挙は、遺恨の連鎖につながることは横倉氏も十分知っているはずだ。


■熾烈を極める日本医師会の役員選挙

 日本医師会の役員選挙は、熾烈を極めることで知られている。出身大学、同郷、縁戚、知人などを通じて、投票権を持つ各地方医師会の代議員にアプローチする。日本医師会執行部や委員会の役員のポストを巡る駆け引きで票を集めるだけではなく、ときには恫喝があったり、投票日直前に現金がまかれたりしたこともある。このことが、遺恨の種となって日本医師会の権力闘争につながっていった。

 私が日本医師会の取材を始めた2004年以降だけをみても、会長が交代する選挙でしこりを残さなかった選挙は一度たりともない。

 2004年、4期8年にわたって長期政権を築いてきた坪井栄孝会長が5期目を模索するなか、挑戦状をたたきつけたのは大阪府医師会長の植松治雄氏だった。坪井氏が出馬当時、植松氏には「2期で降りる」と約束したにもかかわらず坪井氏が4期まで続投し、さらに5期目をもくろんでいることを知って、植松氏は坪井氏の出馬を阻止した。坪井氏の代わりに出馬した候補を、植松氏は土壇場で大阪府―東京都―愛知県の各医師会の3派連合を組んで破った。


 この「3派連合」を根に持った陣営が動き出すのは2年後の会長選だ。

 自民党の小泉純一郎政権とは「是々非々で向かい合うべき」と対峙することの多かった植松氏に対して、医師会が推薦する2人の自民党参院議員が反旗を翻した。東京都医師会の会長だった唐澤祥人氏を立て、政治との距離を争点として掲げて全面的にバックアップした。政治介入と批判されながらも、最終的には50票近い差をつけて唐澤氏が当選し、植松氏は1期で引きずりおろされた。


 今度はその唐澤氏が3期目を迎える10年には、遺恨を持つ植松氏らの全面的な支援を受けた茨城県医師会の原中氏によって阻まれる。そして、その原中氏を1期で破ったのが副会長だった横倉氏だ。

 5月26日夜、横倉氏が電話で出馬しないことを明言したとき、筆者の脳裏に浮かび上がったのは、「これで遺恨の連鎖が途切れる」という安堵感だった。権力闘争を繰り広げる限り、国民の信頼を得ることは難しいからだ。


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