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Tohazugatali Medical Review

539名無しさん:2008/11/08(土) 11:20:39
>>538
私は提言できるレベルの人間では全くないです。よって『独り言』を書いてみます。

PS:現代(現在)のことは書かずに、昭和時代の『回想』だけ書くことにします。

【産婦人科が栄華を極めた時期】 終戦〜1980年代@医療訴訟が少なかった時代

余談:当時の産婦人科の開業医は収入に恵まれ、医師会(県医師会や市医師会)の会長や副会長を輩出し、
産婦人科の開業医が地元の看護学校(準看)の校長も兼務するなど産婦人科の黄金時代だったと申せましょう。

また(選挙関連で言えば→)まさに集票マシーンとして自民党に貢献していました。
(開業医の)産婦人科の待合室に、参院通常選挙の医師会の組織内候補のポスター、なんと自宅の応接室にもポスター。
(当時、私は子供だったのですが中学生になってから、参院選のポスターだった、と教えてもらいました。)

(しかし、医師会票は今は極端に減り、政治への影響力も少なくなり、栄枯盛衰と申せましょう。)

1980年代「後」半の出来事。
若手(当時)の産婦人科医(大学病院勤務)が「ボクは40(歳)をめどに内科医に転身(?転科?)するよ」と。
理由を聞くと「(産婦人科は)疲れるから」でした。

【疲れる】これは半端なものではなく、東京の隣りの某県で一人で産婦人科を開業していた先生(故人)が
「(医師が自分ひとりでは)休みがとれない」と。(<入院患者から目を離すわけにはいかないから)
その医院(ベッド数10〜12)は火曜日だけが休診日(土曜・日曜も外来)、しかし、そのせっかくの休みの火曜日も自宅(兼医院)で
入院患者数名の診察。
その先生は激務で50代半ばにして自宅で倒れて死去@昭和時代

大学の臨床系の教室には「メジャー」、「マイナー」という分類(=言い方、俗称)があり、産婦人科はメジャーでした。
大学によっては第一産婦人科、第二産婦人科と教室が二つもあったりしました。
(メジャー:医局員が多い診療科、マイナー:医局員が少ない診療科)

PS:昭和60年頃。産婦人科に女医がかなり増え、産婦人科の医局が、医局内禁煙のさきがけ、となった大学もありました。
(でも、一般的には眼科や皮膚科に女医が多い傾向があり、医局内禁煙のさきがけは眼科、皮膚科だったのでしょう、恐らく)

その昭和60年頃、産婦人科はメジャーな医局のままでした。その産婦人科が、まさか・・・・後年、産婦人科医不足に陥るとは予想だにしていませんでした。


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