したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

Tohazugatali Medical Review

2123とはずがたり:2013/08/23(金) 15:36:02

1.白い巨塔時代(昭和時代)
時代は昭和から平成に代わり、女医率はジワジワ増加し、女医のうちそれなりの割合の者が出産・育児ゆえに戦力ダウンとなったが、「白い巨塔」は権威を保ち続けたように見えた。

2.平成ヒトケタ時代(女医ジワジワ増加)
2004年4月、ドラマ「白い巨塔」唐沢バージョン放映終了の翌月から新研修医制度が始まった。医師免許取りたての新人医師は2年間、特定の医局に属さず「内科4カ月→小児科2カ月……」式にいろんな科をローテートすることとなった。厚労省のエライ人によると、こうすることによって「幅広い臨床能力が身に付く」そうだが、「その代わり専門性が手薄になるんじゃないの?」などと突っ込んではいけないらしい。それまでは、伝統的に卒業した医大の附属病院に就職することが多かった新人医師だが、この制度変更をきっかけに都市部の大病院に就職する者が急増した。その結果、大学医局のピラミッド構造を下支えしたマンパワーが失われ、これは大学医局という組織にとってかなりの打撃となった。

3.新研修医制度(2004年〜)
徐々にくずれゆくピラミッド型組織

それまで「封建的」とたたかれることの多かった大学医局だが、「僻地への医師派遣」などでそれなりの社会貢献もしていた。この制度変更で、大学医局はそういう余力を一気に失った。新聞やテレビで「医師不足」「医療崩壊」の文字を見かけることが多くなり、それは現在に至るまで本質的には改善していない。ちなみに、この批判の多い新臨床研修制度だが、すでにあれこれ関連する天下り団体……もとい第三者機関ができており、それぞれの団体で理事とか評議員とか就任しちゃっているので、いまさら廃止するのはかなり困難そうである。

また日本の医大定員は1980年ごろまで一貫して増加し、その後に「医師過剰(=医療費増加)を警戒→定員削減」に転じるため、2000年代後半ごろから頭数の多い「医大バブル期入学世代」が管理職に転じる年代となった。多くの大学医局は、「特任教授」「臨床教授」といった管理職ポストを増やすことによって中高年医師をつなぎとめ、大学医局における若手医師不足の帳尻を合わせようとしたが、そこはすでにかつてのような整然としたピラミッド型組織ではなくなっていた。

4.2010年代〜(女医更に増加・だぶつく管理職)
そもそも医局制度とは、日本社会のそこかしこに見られる年功序列制度の一種である。「若い頃に割安な給料でソルジャーとして働く→中年(おおむね40代)以降はラクでそこそこ儲かる」というシステムでもあった。そして2004年以降、「頭数に比べ、少ないポスト」「おいしいポストはジジイが定年までしがみつき」「部下なしナンチャッテ管理職の増加」という、バブル崩壊以降に多くの日本企業で散見された症状に、大学病院も苦しむようになった。

ほとんどの大学病院では、管理職トップである病院長は「定年間際の教授が数年ずつ持ち回り」なので、「このままじゃそのうちマズイことになりそう……」とうすうす感づいていても「とりあえず自らの定年までは無難に過ごす」ことが優先され、「大規模なリストラ」のような痛みを伴う改革を選択する院長はまれであった。そして、「じわじわと組織全体が弱体化」という、多くの日本型大企業と同じ病に苦しむようになった。

図1と図4を比較すれば一目瞭然なように、組織の構成人員数は一見同じようにみえるが、実働部隊の割合は大きく減少した。組織の多すぎる管理職は、自らの地位を守るために会議や書類を増やしたがり、数少ない実働部隊は、さらなる雑用を増やされて疲弊していった。また管理職ポストの前には、多くの先輩が列をなして何年も待っており、出世を望むならば、増える雑用に加えて多くの諸先輩を忖度(そんたく)する度量も要求される。かくして、それなりに優秀で意欲も高かった中年医師も、管理職ポストに就く頃には待ち疲れてありがちな老害医師と成り果ててしまう……。まさに、現在の国内電機産業あたりで、よく聞くストーリーである。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板