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3567チバQ:2022/07/28(木) 21:42:00
https://news.yahoo.co.jp/articles/8f04cf868ff46f15d9a23bab47a74f49f7f77c04
交流30年、凶弾に倒れた中村哲さんとの深い思い出 砂漠を緑の大地に、住民からあつい尊敬―安井浩美のアフガニスタン便り(4)
6/20(月) 7:02配信
 2019年12月、アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードで、日本の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」(本部・福岡市)の現地代表を務めていた中村哲さんが灌漑(かんがい)事業現場に向かう途中、武装した何者かの銃撃を受け殺害された。アフガニスタン取材を続け、カブールに住んできた私は、30年近くにわたり、中村哲さんやペシャワール会と交流があった。井戸を掘り、用水路を作って灌漑してきた枯れた土地は土色から緑色に変わった。なぜ命を賭してまでアフガンの大地に力を注いだのか。現地で今もあつい尊敬を受ける中村さんとの思い出を振り返る。(共同通信=安井浩美)

 ▽中村さんと私

 

中村さんとのつながりは1989年、私が20代後半の若かりし頃、高校時代の友人と出かけたシルクロードの旅の途中に立ち寄ったパキスタン北西部ペシャワールにさかのぼる。当時、中村さんはミッション系の病院で支援活動をされていて、ご家族も一緒に滞在していたと思う。私たちは、日本人がこの街にいると聞きつけ、病院を訪ねた。日本人の看護師さんとパキスタン人の事務長さんらしき人が対応してくれた。

中村哲さん(中央)と筆者(左から3人目)=2016年11月撮影

 この時は、中村さんはご不在だったと思う。甘いお菓子を食べながらいろんな話をした。私たちが日本を出て3カ月ほど過ぎていると話すと「お風呂に入っていって」と看護師さん。いきなりの歓待に少し戸惑ったのを覚えている。ご厚意に甘え早速お風呂に入らせてもらうことになった。3カ月ぶりのお風呂。病院の一角にある浴場は、大きな浴槽にふんだんにお湯が入り、日本の銭湯さながらで感動した。聞くとこの浴場の設計者は中村さんだという。家族が一緒に入浴を楽しめるためなのか、はたまた風呂好きなのか。中村さんは医者でありながら、この頃から設計にご興味があったのかと、後になって思った。

 この後、1年余りの旅を終え日本へ帰国。旅の途中、内戦中で入国できなかったアフガニスタンにどうしても行きたくてカメラを勉強し、写真家になった。ジャーナリストビザを取得し1993年にパキスタン経由でアフガニスタンに向かった。どういういきさつだったかはっきり覚えていないが、その頃アフガニスタンに通うたび、入国前には、当時ペシャワールにあったペシャワール会の宿舎に滞在させてもらうようになった。

 「また来たとですか」と中村さんにも福岡弁で歓迎を受けたりした。以降、中村さんやペシャワール会で働く看護師さんに会うのも楽しみの一つとなった。宿舎では、日本食を作り、お膳に座って食事をしたことが今でも懐かしく思い出される。中村さんと一緒にペシャワール会の活動に同行することもあった。無医村の山岳地がほとんどで、野外の広場に診療所が設けられ、医者である中村さんが着くと多くの村人が診察を受けにやってきた。私の中ではこの頃の中村さんの姿が脳裏に焼き付いて離れない。落ち着いた話し方の中村さんが今でもどこかにいるような気がする。

 ▽最後のインタビュー

 亡くなる約3年前の2016年11月、日本政府などとは協力せず一匹おおかみとも言えた中村さんが国際協力機構(JICA)と一緒に灌漑事業を始めると聞いた。一体どうしたことかと思い、アフガン東部ナンガルハル州のジャララバードにいた中村さんに会いに行った。ペシャワール会の事業の成果をこの目で見るのも楽しみだった。カブールから陸路で3時間。パキスタンとの国境に近いジャララバードの事務所に尋ねた。ものすごく久しぶりにお目にかかり、インタビューもさせてもらった。その時の録音記録を久しぶりに聞き直した。住宅街にある事務所入り口には警備の警察官が数人、入り口を入るとすぐに母屋の玄関。玄関を入って右手にサロンがあり、食卓代わりの長テーブルに座ってお話しさせてもらった。ゆっくりと静かにお話しする中村さんがいまでもどこかにいらっしゃる感じがしてならない。


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