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スーフィズムに関するHP

3565チバQ:2022/07/28(木) 21:41:14
 ▽モハマディ元国防相との再会

 タリバン復権後の昨年12月、私は日本へ一時帰国した。居住国の政権が転覆するという思いがけない出来事に遭遇し、住み慣れたアフガニスタンをスーツケース一つで自衛隊機で、それもたった一人で退避することになった。こんな経験をすることになろうとは全く想像していなかった。

 久しぶりの正月を日本で迎え、アフガンへ戻る途中にタジキスタンの首都ドゥシャンベに立ち寄った。というのもガニ政権最後の国防相だったビスミラ・モハマディ氏が滞在しているからだ。

 1990年代のアフガン内戦時、国民的英雄のアフマドシャー・マスード氏率いる旧北部同盟軍の拠点があったドゥシャンベ。約20年ぶりにドゥシャンベを訪れると、高層ビルが林立し、その変わりように驚いた。同じ約20年なのに、ドゥシャンベの街の発展ぶりは、カブールと比べ物にならないほどだ。タジク人が大部分のこの国と多民族のアフガニスタンの復興速度の違いを目の当たりにした。

 モハマディ氏とは、90年代の内戦時に北部同盟軍司令官として活躍していた時に知り会った。北部パルワン州のジャブルサラジの基地の玄関先で無線を片手に兵士らに指示を与えていた若いモハマディ氏の姿が今でも思い出される。  それ以来の顔見知りで共和国としての政権発足後も国防省に彼を訪ねたことが何度かあった。今回の首都陥落劇で、モハマディ氏さえも国民を捨て逃げてしまったのかと、とても気になっていた。私の知るモハマディ氏は、そんなことをする人ではないはずだ。

 

それでどうしても彼と話をしないと自分の中で納得できないと思い、知り合いを通し面会を申し込んだ。モハマディ氏は、メディアに姿を現しておらず、ひょっとしたら断られるのではないかと半信半疑だった。しかし、面会が可能ということで喜び勇んでウズベキスタンのタシケントから隣国タジキスタンのドゥシャンベへ空路向かった。

 

翌日、市内の住宅街にある民家の一つに来るように言われ、タクシーで向かった。大通りを少し入った閑静な住宅街。門を入ると洋館のような建物がありその2階の一室に通された。食事のできる食卓と応接セットが置かれた部屋の突き当たりの窓際に置かれた椅子に座り、お茶を飲みながら5分ほど待った。するとドアが開き、黒いジャケットにグレーのスラックス姿のモハマディ氏がにこやかに登場した。心の中でこの時点では、国民を捨てて逃げた悪者と一方的に思い込んでいた。しかし、長年の顔見知りに思わずほほ笑み、握手しながらお互いに「元気だったか」と聞き返しながら懐かしさがジワリとわいた。

アフガニスタンのカルザイ元大統領

▽国軍の弱体化とタリバン復権

 モハマディ氏に話を聞くと、米国とタリバンの和平合意がそもそも大きな間違いだったという。米軍撤退の約束はバイデン米新政権に引き継がれた後、5月末の撤退期限を8月末に延長したことで、タリバンはガニ政権との和平交渉のテーブルに着くことを無視し、武力での政権奪還を狙い始める。

 21年7月、7年間務めた国防相の役職から離れ引退状態だったモハマディ氏は突然内務相に承認された後、病気療養中で国外にいたハレド国防相に代わりガニ大統領から急きょ国防相に任命し直された。首都陥落40日前、国内約330地区のうち100地区が既にタリバンに制圧された状況下での再就任だった。

 ガニ政権発足後、ベテラン司令官クラスの国軍兵士らが除隊年齢を9歳も引き下げ52歳で退役させられていた。国軍を若返らせるということで経験のない多くの大統領警護担当兵士が司令官に就いている実情に驚いた。経験不足の司令官の下で多くの国軍兵士が殉死していた。兵士の士気は下がる一方で、任務を無視し、逃げ出す兵士が後を絶たない状況だった。

 国防省就任数日後、大統領府内にもう一つの国防省が存在していることに気づいた。大臣は自分のはずなのに、国防に関する決定権は全てモへブ国家安全保障長官の手中にあった。経験のない司令官の交代も認められず、国防に関し何一つ口出しすることもできない。そんな状況を理解していながら、ガニ氏もモヘブ氏もタリバンに制圧されていく祖国のために動く気配はなかった。口では最後の最後まで戦うと演説していたが、実際はそのような気持ちは見えなかったとモハマディ氏は当時を振り返る。


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