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スーフィズムに関するHP

3558チバQ:2022/07/28(木) 21:38:53
https://news.yahoo.co.jp/articles/a481977915cf05cbaa186363531bcf7cb58a8a13
唯一の邦人退避から3カ月、カブールに戻って住み続けると決めた タリバン支配下の生活―安井浩美のアフガニスタン便り(1)
3/12(土) 10:02配信
 昨年8月15日、アフガニスタンのニュースが世界を仰天させた。20年ぶりのイスラム主義組織「タリバン」復権。戦闘も銃声もなく、足音すら感じさせず、タリバンはいきなり首都カブールを制圧した。20世紀末に恐怖政治を敷いてアフガン国民を震え上がらせたタリバンは、中部バーミヤン遺跡の大仏像を破壊したことでも有名だ。タリバン暫定政権発足から半年が過ぎ、カブールに暮らす私自身の生活や国の様子がどう変わったかを日本の皆さんにご紹介したいと思う。(共同通信=安井浩美)

 ▽独りぼっちの退避

 私は昨年8月27日、日本の自衛隊機でカブールから退避した唯一の日本人だった。なぜ私だけだったのか。アフガニスタンはもともと「渡航しないでください」という外務省の渡航退避勧告が出ている。そこで働く日本人はそもそも、ほとんどいなかったからだ。

 自衛隊機の派遣は、渡航退避勧告下で、国際協力機構(JICA)や非政府組織(NGO)関係者らの日本人職員の渡航が制限され、日本人に代わり現地で事業を行っていた現地職員の脱出に重きを置いていたと思う。

 2021年8月、カブールからイスラマバードに到着した自衛隊機。上空では気を紛らわせようとスマホゲームをしていたら、あっという間に到着した

 自衛隊法では邦人らの救出が自衛隊機派遣の前提条件となる。もし、今回邦人の退避者が誰もおらず、アフガン人職員が空港に到着し、離陸許可を取るために東京と連絡を取っている間にロケット弾や爆発でアフガン人職員が巻き込まれたりしたら責任重大だ。

 本当は、20年も住んだこの国から出ず、自宅に残りたかった。だが、日本大使館側からの説得もあり、人命優先との説明に納得して退避を決意して空港へ向かった。しかし、結果は「邦人一人」。一緒に乗っているはずの「アフガン人職員」は、どういうわけか誰もいなかった。

 ▽3カ月ぶりのカブール

 中学生の頃、NHKのシルクロード番組に夢中になった。砂漠を悠々と進むラクダの隊商をこの目で見たかった。アパレル会社を辞め、写真家として身を立てようと決心。1993年、シルクロードの拠点として栄華を誇ったアフガンを初めて訪れた。

 当時は内戦の真っ最中。避難民が隣国パキスタン国境近くのキャンプにあふれていた。大自然や遊牧民を撮りに来たはずが、レンズを向けずにはいられなかった。何度も足を運び、2001年の米中枢同時テロ後、米英軍によるアフガン空爆も取材した。これを機にカブールに移住して共同通信の通信員にもなり、取材先で知り合ったアフガン人の夫と結婚。現地で事業も営んでいる。

 自衛隊機でパキスタンの首都イスラマバードへ退避した後は、アフガンへ戻る機会をずっとうかがっていた。退避直後は夜も眠れず、夜中に目が覚めてはアフガンのことが気になり、スマートフォンのニュースに目を通す日々だった。アフガンで暮らした20年を振り返っては、柄にもなく一人で泣いたりもした。退避の時は、もう戻って来られないかもしれないという思いと、1カ月ほどで戻れるだろうという気持ちが行ったり来たり。結局、退避からおよそ3カ月後に民間機がカブールとイスラマバード間を飛び始めたこともあり、当初の予想よりは2カ月遅れでカブールに戻ることができた。

 退避時には、自宅があるのに帰れないという世界の難民の気持ちを私も味わった。日本で何不自由なく育った私も、20年も住み続けると、やはりアフガニスタンは第二の故郷だ。たった3カ月留守にしただけなのに、やっと戻れるという、はやる気持ちが高まった。

 イスラマバードを離陸して30分も過ぎると、もう眼下はアフガニスタンだ。褐色の乾いた山の上を飛んでいたかと思うと、土色の家屋が密集したカブールの街が見え始めた。1時間ほどの飛行でカブール国際空港に到着。うれしくて涙が出そうだった。


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