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スーフィズムに関するHP

30とはずがたり:2005/06/28(火) 00:48:57

【エジプト現代略史】
http://www.eastedge.com/egypt/history.html
■16〜18世紀
エジプトは、16世紀からオスマン・トルコの支配下にあった。
1805年、ムハマド・アリがオスマン・トルコの宗主権のもとで、国王となった。
第一次世界大戦まではオスマン・トルコの支配は名目上残っていたが、実質的には異なる状況下にあった。 ムハマド・アリと彼の後継者たちは、経済的にエジプトを独立させようとした。巨大な綿工業が育成された。幅広い国営産業計画が始まった。その中で最も壮大な物がスエズ運河である。しかし管理不備のため、エジプトは破産寸前になった。1882年、イギリスとフランスが財政管理を引き受けた。それに乗じてイギリスは政治においても支配力を強めた。

■20世紀
1914年、第一次世界戦争が起こったとき、エジプトはイギリスの保護国となった。
1922年、エジプトは名目上の独立を果たした。そしてファウド国王のもとでの立憲君主国としての選挙が行われた。しかしこの状況の背後には相変わらずイギリスがいた。
エジプトは第二次世界大戦後も、混乱の中にあった。1948年のイスラエル独立戦争では、エジプトは敗れた。 1952年1月、大規模な反英闘争が起こり、カイロ市内の西欧資本の建物が襲撃された。

■独立
―●ファルーク国王―(無血クーデター)→ナセル―
7月26日、ガマル・アブデル・ナセル中佐によって指導された軍部若手将校の「自由将校団」は無血革命でファルーク国王を打ち倒した。1953年、ムハマド・ナギブを大統領としてエジプトアラブ共和国が樹立された。 これはエジプト人による約2300年振りの国家だった。
ナセルはムスリム同胞団を弾圧したが、ナギブ大統領はムスリム同胞団を支持していた。政権内での二人の対立は深まっていった。
1956年11月、ムスリム同胞団によるナセル暗殺未遂事件が起こった。ナセルは、ナギブがこの暗殺未遂事件に関与しているとの理由で追放し、大統領となった。
ナセルは東西どちらの陣営にも与しない開発途上国による非同盟運動を組織した。
1956年、ナセルはスエズ運河の国有化を宣言した。
1958年、シリアとともに国家として、アラブ連合を結成した。
1961年、シリアが脱退し、国家としてのアラブ連合は崩壊し、元のエジプトに戻った。 1967年、第3次中東戦争でイスラエルに敗れ、シナイ半島を占領された。
―●ナセル(病死)→サダト―
1970年、ナセルは病で亡くなった。その後継者には アンワル・サダトが選ばれた。
サダトは、開放政策、民主化を進め、西側、アメリカに接近した。
1973年、エジプト軍は、シナイ半島奪還のため、イスラエルを奇襲攻撃した。第四次中東戦争である。この戦争で、シナイ半島を一部奪回するなど、序盤エジプトは善戦し、サダトの人気は上がった。
1977年11月、サダト大統領はイスラエルを訪問した。
1978年、サダト大統領はアメリカのキャンプデービッド合意に調印した。
1979年、サダト大統領はイスラエルとの平和条約に調印した。
サダトの経済政策により、外資が導入され国内に高級品があふれるようになった。しかし富は一部の金持ち、高級官僚をより富ませ、逆に貧富の差は拡大した。
イスラム原理主義者は、サダトの政策に反対し、イスラム法にのっとった政策を要求した。そして暴動や政府の建物への襲撃事件が頻発するようになった。
体制維持のため、サダトはイスラム原理主義者への弾圧を強めた。
1981年10月6日、サダト大統領は、第四次中東戦争開戦8周年軍事パレード中、ムスリム同胞団イスラム原理主義グループ「アル・ジハード」によって暗殺された。
―●サダト(暗殺)→ムバラク―
副大統領のムバラクが大統領に就任した。
1982年、平和条約にのっとり、シナイ半島はエジプトに返還された。
ムバラクはサダトの開放政策を踏襲し、アメリカとの関係を維持した。経済危機は相変わらず続き、貧富の差は解消されなかった。
ムバラクは、サダトと同様イスラム原理主義者を弾圧し、彼らは地下に潜った。
イスラム原理主義者グループは外国人襲撃を宣言している。 1992年から現在まで、ムバラク政権に敵対するイスラム原理主義者グループによる、外国人襲撃が起こっている。


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