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スーフィズムに関するHP

2620チバQ:2019/02/19(火) 15:30:13
https://www.sankei.com/world/news/190219/wor1902190001-n1.html
【こちら外信部】特ダネだったホメイニ師死去 超弩級2本の「最も長い夜」
2019.2.19 01:00国際中国・台湾
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亡命先のフランスから15年ぶりの帰国を果たし、テヘランの空港で機中から姿を現したホメイニ師(中央)=1979年2月1日(AP)
亡命先のフランスから15年ぶりの帰国を果たし、テヘランの空港で機中から姿を現したホメイニ師(中央)=1979年2月1日(AP)
 1979年、親米の独裁王制を打倒したイラン革命から2月11日で40年がたった。ということは、革命の最高指導者、ホメイニ師が10年後に死去してから今年は30年なのだなと、いささかの感慨に浸った。そして、あの夜のことを思い出した。1989年6月3日。中国通の人なら、すぐに天安門事件(同日深夜から4日未明に発生)を想起するだろう。実はもう一つ、あの夜には超弩級のニュースがあった。ホメイニ師死去、産経新聞がのるかそるかで放った特ダネだった。(外信部編集委員 佐渡勝美)

 ■「最も長い夜」

 1989年6月3日は土曜日だった。まだ新聞社では週休2日制など無縁の時代(月4休)で、編集局には朝から平日感覚の緊張感が漂っていた。テントを張るなどして北京・天安門広場に陣取り、民主化要求運動を続ける学生たちと、人民解放軍部隊との衝突が懸念されていたからだ。

 4月中旬から続いていた学生たちの天安門“占拠”では、当初は地元の人民解放軍兵士と学生たちの融和的な接触シーンが映像で報じられるなど、流血の大惨事につながる気配は感じられなかった。しかし、この数日前から地方の人民解放軍部隊が新たに北京に大量配置されていた。

 「軍が学生たちに水平乱射開始!」

 AP通信がこの一文だけの至急電(アージェント)を打ったのは、午後10時すぎだった。

 「それきたか! よし頑張ろう!」。デスクの号令一下、当日の外信部内勤記者(3人)たちは、北京に出張中(当時の産経新聞は北京から追放状態で支局はなかった)の2人の記者と連絡を取り合いながら、興奮状態のままボールペンを走らせ、記事を作成していった。後に産経新聞外信部の「最も長い夜」と称される夜のクライマックスの始まりだった。

 「1面だけでなく、2面も3面も国際面も空けて待っている。早く原稿をくれっ!」。整理部デスクの叫び声も響き渡った。

■ベタグロ4段30行

 てんやわんやの中、午前0時を過ぎ、日付も4日に変わった頃、テヘラン支局との唯一の通信手段であったテレックスが動き出した。内勤記者で最年少だった筆者は、何事かと、打ち出されていくローマ字の日本語を追うと心臓が飛び出しそうな感覚に襲われた。

 「ホメイニ師がきょう(3日)死んだ。発表されていないが、確かな情報だ。1面に掲載スペース求む」

 すぐさまデスクに知らせると、「何っ!本当か」と発するなり、デスクは編集長の元へ走った。

 誤報の恐れもあったが、現地特派員はテレックスでのやり取りで「絶対に間違いない。載せてくれないなら東京に帰る」とまで言い切った。

 この間5分ほどで、編集長は決断した。「よし、信じよう。1面にベタグロ(白抜き文字)の4段見出しで30行。一報だけ載せよう」。あとは勢いに乗るだけだった。

 大手町の東京本社3階(当時)の編集局は、てんやわんやに拍車がかかった。特派員から送られたローマ字文を漢字交じりの通常の日本文に“翻訳”する作業は、本来、筆者が受け持つべき任務だったが、その時は天安門関係の原稿も抱えていた。締め切り時間が迫る中、デスクの指示でローマ字の翻訳は優秀だった編集補助アルバイトの学生君にやってもらった。

 ホメイニ師の死去は4日午前に公式発表された。4日の新聞各紙朝刊は、1面トップで天安門の流血大惨事を扱ったが、ホメイニ師死去も報じたのは産経新聞だけだった。めったにない、見事なまでの発生ものの抜き(特ダネ)だった。


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