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スーフィズムに関するHP

1594とはずがたり:2016/08/04(木) 23:34:01
エルドアンとギュレンの蜜月は汚職疑惑で終了
 トルコで15年にわたってジャーナリストとして働き、現在は米ニュージャージー州で暮らすジェームズ・キュネイト・セングルさんに、前回の記事に続き話を聞いた。セングルさんは「トルコ共和国建国の父」として知られるアタチュルクや彼の後継者が、徹底して行ってきた世俗主義に対する賛否こそがトルコ社会を理解するための大きなポイントと語る。世俗主義とは政治や公の場などから宗教的要素を排除する原則だが、その宗教の政治利用が近年のトルコで非常に目立つ存在になっていたと語る。

 トルコで政治ニュースを担当していたセングルさんは、エルドアン支持者にも、ギュレン支持者にも、そしてトルコのアイデンティティでもある世俗主義を守ろうとするケマリスト(アタチュルクのミドルネームのケマルが由来となっている)にもそれぞれ問題があると指摘し、トルコ社会が一枚岩になれない現状を嘆く。

「トルコ共和国を建国したアタチュルクは志半ばでこの世を去り、国家作りにおける自身の理想を完全に達成することはなかった。トルコ人もアタチュルクの遺志を継ぐことに成功したとは言えず、今の状況を見ていると、トルコが共和国建国以前の状態に逆戻りするのではないかとさえ思えてしまう」

 エルドアン大統領は1999年にイスラム原理主義を扇動した罪で有罪判決を受け、被選挙権を剥奪されたが、被選挙権を失った状態で2001年にイスラム色の強い公正発展党(AKP)を結成し、党首に就任した。AKPは2002年の総選挙で地滑り的な勝利をおさめ、単独与党に躍り出た。それから間もなくして、被選挙権を回復したエルドアンは首相に就任するが、皮肉にもAKPの大勝利の要因となったのがギュレン派であった。セングルさんが当時の国内事情について語る。

「AKPの躍進を支えたのは間違いなく、ギュレンに率いられたヒズメット運動の支持者たちだ。ギュレンはトルコの国内外で学校や病院を建設し、教育の重要性を訴える市民活動家のイメージが定着しているが、同時にトルコだけではなく他国にもイスラム教を広めていくことに努める宗教指導者の顔も持つ。当初はギュレンもエルドアンも一蓮托生の関係だった。トルコでは2007年にもクーデター未遂が発生し、ケマリストの軍人が逮捕された。

クーデター未遂後、エルドアンはケマリストが大勢を占めていた軍のエリート層に、ギュレン派を多く置くようになった。これによって、軍内部でギュレン派の兵士や将校の力が増大したが、2010年に軍内部のテストでトップスコアを出した約3200人の兵士が不正行為を疑われ、そのほとんどがギュレン派だった。組織ぐるみで不正行為を行い、軍や警察、司法などの世界に次々とギュレン派が送り込まれているという批判も出たが、その頃はまだギュレンとエルドアンの関係は良好であった」

 エルドアン大統領とギュレン氏の蜜月関係は2013年に終焉を迎える。エルドアン政権の複数の閣僚やエルドアン自身が汚職に手を染めていた疑惑が浮上し、これをきっかけにしてギュレン氏はエルドアンと距離を取り始めた。

「トルコ国内でも大きな影響力を持ち、軍や政財界のトップにも支持者が少なくないギュレンはエルドアンとの関係が良好だった時代にもトルコに戻らず、アメリカからトルコ社会をコントロールする道を選んだのだ。興味深いのは、ギュレンが他のイスラム圏の国に移住するのではなく、アメリカに移り住んだことだ。アメリカにとっても、影響力のあるギュレンを抱え込むことに外交上のメリットを見出したのだ。

ここからは私の推測になるが、エルドアンはやっかいな存在になっていたギュレン派を一斉に排除する最大のチャンスとして、クーデターを利用したのだと思う。自作自演説はさすがに疑わしいが、クーデターの可能性を知りながら、それを止めなかったという説には一理あると思う。エリート層からギュレン派を追い出し、トルコの国家基盤そのものを変えるチャンスを手にしたエルドアンは、これまで以上に危険な存在になったが、クーデターで多くの死傷者が出たためにギュレン派の排除を支持するトルコ人が増えたのも事実だ」


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