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食品産業総合スレッド

1荷主研究者:2003/12/07(日) 23:52
製粉、飼料、製糖、製菓、製パン、乳業、ビール、清酒、飲料、製油、冷食そして食品添加物等の食品産業の総合スレッド

1672とはずがたり:2016/02/07(日) 17:25:50
日本一の純米大吟醸「獺祭」の逆転発想
http://www.msn.com/ja-jp/news/money/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E7%B4%94%E7%B1%B3%E5%A4%A7%E5%90%9F%E9%86%B8%E3%80%8C%E7%8D%BA%E7%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%80%86%E8%BB%A2%E7%99%BA%E6%83%B3/ar-BBp2LGn
プレジデントオンライン
4日前

日本一の純米大吟醸「獺祭」の逆転発想: 旭酒造社長 桜井博志(さくらい・ひろし) 1950年、山口県生まれ。73年松山商科大学(現・松山大学)卒業後、西宮酒造(現・日本盛)に入社。76年旭酒造に入社。79年旭酒造を退社、石材卸業を興す。84年父の急逝で旭酒造に復帰。「獺祭」を開発。2000年海外販売を開始。c PRESIDENT 旭酒造社長 桜井博志(さくらい・ひろし) 1950年、山口県生まれ。73年松山商科大学(現・松山大学)卒業後、西宮酒造(現・日本盛)に入社。76年旭酒造に入社。79年旭酒造を退社、石材卸業を興す。…
売上高はこの30年間で約40倍。山口県の山奥にある酒蔵に、愛飲家が押し寄せている。お目当ては日本酒「獺祭(だっさい)」。「純米大吟醸酒」として日本一の出荷量を誇り、世界20カ国に輸出されている。200年以上の歴史をもつ酒蔵は、なぜ生まれ変わったのか。その挑戦とは――。

【弘兼】海外でもワインの代わりに飲まれるようになっていますね。日本酒の輸出額は年々伸びていて、2013年には100億円を超えました。さらなる成長が期待されています。

【桜井】当社の純米大吟醸酒「獺祭」も、海外での売り上げが伸びています。世界に日本酒のよさを訴えたいですね。

【弘兼】旭酒造は、私の出身地でもある山口県・岩国市の酒蔵です。1770年から続く老舗ですが、長男として家業を継ぐことを考えるようになったのはいつ頃からですか。

【桜井】高校生ぐらいのときには「自分が家業を継ぐのだろうな」と意識するようになりました。

【弘兼】松山商科大学(現・松山大学)を卒業した後、大手の西宮酒造(現・日本盛)に入社されています。

【桜井】修業のつもりで、家業は隠して働きました。普通、酒蔵の息子が入社すると、製造に配属されるのですが、ぼくは一般応募で入社していますから営業に配属されました。

【弘兼】3年半の「修業」の成果は。

【桜井】とても勉強になったのですが、その分、実家に帰ってからは、父親とぶつかるようになりました。

【弘兼】大手のやり方を知り、お父さんの仕事ぶりに対して、改革すべき点が目につくようになったのですね。

【桜井】親にしてみれば、「まだ何も知らない若僧のくせに」とおもしろくない。1年半で、「明日からおまえ、会社に来んでええ」と勘当されました。

【弘兼】仕事はどうしたんですか?

【桜井】自分で「櫻井商事」という石材卸業の会社を興しました。父親は「そのうち詫びを入れてくるだろう」と思っていたのかもしれません。しかし、年商が2億円程度まで拡大するなど起業はうまくいきました。

【弘兼】それからの親子関係は。

【桜井】結局、最後まで修復できませんでした。父親が1984年に急逝し、私は旭酒造に復帰しました。

【弘兼】日本酒の「冬の時代」ですね。

【桜井】はい。当時の看板商品「旭富士」の生産量は10年で3分の1に減っていました。しかも旭酒造は岩国市内に4つある酒蔵のなかで4番手。酒屋では大幅な値引き販売が常態化していました。経営状況は惨憺たるもの。そして最大の問題は「値引き」を疑わない風土でした。

【弘兼】負け癖が社内に蔓延していた。

【桜井】最初は本当に苦労しました。「自分なら立て直せる」と考えていましたが、いくらやってもうまくいかない。死亡保険金を目当てに自殺しようかと思い詰めた時期もありました。でも、死ぬ前に、やれることをやってみよう。目の前の常識を疑い、新しい挑戦をしてみよう。そう考えて挑戦したのが「獺祭」でした。

1673とはずがたり:2016/02/07(日) 17:26:04

伝統ある名前を捨てて「負け癖」を叩き直す
純米大吟醸「獺祭」の出荷が始まったのは、1990年のことだ。旭酒造は、山口県岩国市周東町獺越(おそごえ)にある。桜井は以前から地名の「獺越」を取り入れたいと考えていた。あるとき司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』のなかで正岡子規の「獺祭書屋主人」という俳号をみつける。桜井はここから、新しい酒を「獺祭」と名付けた。純米大吟醸は小規模な仕込みでしか造ることができない。地元で4番手の小さな酒蔵という不利を、強みに変える挑戦だった。

【桜井】日本酒が売れなくなったのは、日本酒に求める機能が変わっていたにもかかわらず、酒蔵がそれに対応してこなかったからです。私はある先輩からこんなことを言われました。「昔は花見のとき、みんな酒を飲んで動けんようになって、辺りに転がっていた。最近は素面(しらふ)で帰る。日本酒が売れないのは当たり前だ」。… もう50年以上前ですが、ぼくらが小学生の頃、2級酒1升が約500円でした。それは大工や左官といった職人さんの日当とほぼ同じ。いまなら2万円ぐらいでしょうか。だから大酒飲みは、並外れた浪費家でした。いまとは感覚が違いますね。

【弘兼】日本酒はぐっと手頃な飲み物になりましたが、酒の種類は大幅に増え、飲み方も変わりました。

【桜井】日本酒に求められる機能が変わっているのだから、以前と同じように量を飲んでもらうことを前提とした経営では生き残れません。ほろ酔いでも楽しめる酒を造ろう。そう思って挑戦したのが「獺祭」です。

【弘兼】いい名前ですね。「ダッサイ」は外国人にも発音しやすい。

【桜井】最初は「変な名前だ」と冷ややかな反応が多かったんですよ。

【弘兼】「旭富士」という伝統のある名前にはこだわらない、と。

【桜井】同じ名前を使えば、負け癖のついた商習慣を引きずることになります。そうすれば、値引きをしたり、豪華な化粧箱に入れたり、中身以外での勝負になってしまう。新しい酒では中身で勝負したかった。だから箱やラベルはできるだけ素朴でシンプルなものにしました。

【弘兼】桜井さんの考え方は常に合理的ですね。醸造所を訪ねたとき、4階建てのビルだったので驚きました。日本酒の酒蔵といえば、歴史ある木造の建屋に、古めかしい木樽がある、というイメージがあったからです。ところが、獺祭の醸造所はまさに「工場」。ビルの中は空調で気温や湿度が管理されていて、製造工程はかなり機械化されています。至るところにセンサーがあり、醸造途中の酒の温度がグラフで貼り出されていました。なにより驚いたのは、酒造りの職人である「杜氏(とうじ)」がいない。

【桜井】「杜氏」の廃止は、やむをえず行ったことなんです。獺祭が少しずつ売れるようになり、会社の将来のことを考える余裕ができました。当時の課題は杜氏の高齢化でした。杜氏はいわば季節労働者。就労環境が不安定なため、若い人は杜氏を志さなくなっています。

【弘兼】一般的に日本酒は冬に仕込みますから、杜氏は冬しか仕事がない。かつては夏に農業、冬に杜氏の仕事をしていたといいますね。

(1)4階建ての本蔵の左手で、新しい本蔵の建て替えが進む。12階建て(2015年4月に完成)。(2)精米後の米の「洗米」は手作業だ。(3)蒸した米は冷まされ、「麹造り」に進む。(4)麹造りは二昼夜半、手作業で行われる。(5)仕込み。醗酵室は年間を通じて5℃に設定されている。(6)発酵期間は最大50日間。(7)瓶詰め。酒は冷たいまま瓶詰めされ、65℃まで一度温め、打栓した後に20℃まで急冷する。この「冷温瓶詰方式」では酒の香りを逃がさずに済むという。

教科書通りに造ると杜氏より美味くなった

【桜井】年間を通じて杜氏に働いてもらうにはどうすればいいか。冬は日本酒を仕込みますから、夏は地ビールを造ってもらえばいい。そう安直に考えて、99年に地ビール工場とレストランを造りました。しかし開業してみると、まったく商売にならない。レストランは3カ月で閉店。約2億円の損失だけが残りました。

【弘兼】たった3カ月で撤退を判断するとは、さすがに素早いですね。

【桜井】いえ、それぐらい厳しかった。当時の年商が約2億円でしたから。途方に暮れていると、今度は経営危機の噂を聞きつけた杜氏たちが、ほかの酒蔵に移ってしまったんです。

【弘兼】酒蔵なのに、杜氏がいない。

1674とはずがたり:2016/02/07(日) 17:26:16

【桜井】実はそれ以前から杜氏との関係はよくありませんでした。私が酒造りにいちいち口を挟むからです。

【弘兼】酒蔵の主人といえば、いわば「旦那さん」。酒造りは杜氏に任せて鷹揚に構えた人が多いですね。

【桜井】私は「こんな酒造りはおかしい」と思っていました。酒蔵こそが、酒造りのすべてに責任を持つべきです。だから、現場にも顔を出して、細かく指示していました。

【弘兼】杜氏からすれば、自分たちの仕事に口を出す嫌な奴ですね。

【桜井】ええ。経営危機のときに、自問自答を重ねました。「私はなにをやりたいのか」。答えは明らかでした。「いい酒を造りたい」。これからは杜氏に遠慮せず、思う通りにやってみよう。そこで社員と相談して酒造りに挑むことにしました。

【弘兼】杜氏がいなくても、酒は造れるんですか。

【桜井】日本酒の造り方はシンプルです。私たちは教科書に書かれている通りに純米吟醸酒を造ってみました。そうすると、おもしろいことに明らかに味がよくなった。特に製造量の多い手頃な品種で違いがでました。

【弘兼】職人の経験や勘よりも、基本に忠実なほうがいい酒になった。

【桜井】このときから、徹底した数値管理に基づく酒造りが始まりました。

(1)東京・京橋にある「獺祭バー23」では、直販も行っており、蔵元からの入荷日には行列ができる。(2)陳列されたものはすぐに売れてしまった。(3)店内の様子。(4)最高級品「磨き その先へ」は1本3万円(税別)。

「幻の酒」のままでは顧客は離れてしまう
「杜氏のいない酒造り」を支えるのは徹底した数値管理だ。酒米の外側の50%以上を磨いて造ったものを「大吟醸」と呼ぶが、獺祭の場合、最大の売れ筋である「磨き2割3分」では、77%も磨いた芯の部分だけを使う。精米には7日間、計168時間をかける。また磨いた米に水を吸わせる「洗米」では、米の質や気候に応じて、秒単位で吸水時間を変える。1袋15キログラムずつに分けて、手作業で時間を管理している。吸水が終わった米は蒸され、約1カ月の発酵を経て、酒となる。発酵場所は空調完備の「工場」だ。このため1年を通じて酒造りができる。
【弘兼】現在、獺祭は20カ国で販売されています。特にニューヨークとパリで人気だと聞きました。どのように海外に進出したのですか。

【桜井】販売業者には最初にこう伝えました。「我々は獺祭を売る覚悟がある。売れるまで引き下がらない。できるかぎり努力する。だが、それでも売れなかった場合は、取引する相手を代える。売れなくてもずるずると付き合うことはない」。

【弘兼】品質への自信があるからできる方法ですね。これでは相手は必死にやらざるをえない。桜井さんは非常に交渉力がありますね。

【桜井】これしか知らないだけなんです。安くすれば売れる、というのは嘘です。もう二度とやりません。

【弘兼】2015年には地上12階建ての「本蔵」が完成、生産能力は年間9000キロリットルと約3倍になりました。すこし意地の悪い質問になりますが、獺祭は手に入らない酒だから価値がある、という見方もあります。量が増えると、価値が下がる恐れはありませんか。

【桜井】日本酒業界は希少性にとらわれすぎだと思います。「幻の酒」という言葉がありますよね。しかし、3回に1度ぐらいは手に入らないと、本当の幻になってしまう。供給が続かなければ、ブランドは維持できません。「いい酒」は希少だから価値があるのではなく、おいしいから価値があるのだと思います。

【弘兼】寿司やラーメンだけでなく、「和食」が世界無形文化遺産になるなど、日本の食文化全体への関心が高くなっています。そのなかでも日本酒は海外で花開く可能性が高い。

1675とはずがたり:2016/02/07(日) 17:26:36
>>1672-1675
【桜井】日本酒が世界でブレークスルーを迎えようという時期に、酒蔵の社長を務められるのは、とても幸せなことです。しかし、この状況に慢心するつもりはありません。大切なことは挑戦すること。守りに入れば、お客様は離れてしまう。チャレンジを続けている間は、お客様はついてきてくださると思っています。「いい酒」を造って、世界中の人たちに日本酒のよさを訴えたいですね。

弘兼憲史の着眼点
▼「1人1本」に客が殺到、それでも品薄が続く理由
山口県岩国市出身の私にとって、獺祭は故郷の酒でもあります。とはいえ、旭酒造のある周東町獺越は、岩国市内からかなり離れています。岩国駅から1〜2時間に1本という「岩徳線」で約40分、最寄りの周防高森駅からは、さらに車で山道を走ること15分。

以前、私が酒蔵を訪れたとき、辺鄙な山道にもかかわらず、車通りがあることに気がつきました。獺祭のファンが貴重な1本を手に入れるために、酒蔵に併設されている直売所まで訪ねてくるのです。ひとりでも多くの人に飲んでもらおうと、販売は「1人1本」に制限していますが、週末になると昼過ぎにはすべての商品が売り切れてしまうそうです。

この対談が行われた東京・京橋の「獺祭バー」でも事情は同じでした。バーの入り口横にはガラス張りの冷蔵庫があります。もともとは酒瓶が並ぶことで、「壁」になることを想定していたそうですが、蔵元から入荷するたびに売り切れてしまうので、「壁」ができません。

獺祭が品薄なのは、生産能力の問題だけではありません。材料となる高級酒米「山田錦」の確保が、年々、難しくなっているという側面もあります。

桜井さんによると、山田錦の生産量は、すべての米のなかでわずか3%。その量も減少傾向にあります。山田錦の名高い生産地でもある兵庫県の場合、JAの取扱量は1993年には33万俵だったものが、現在では17万俵と、この20年で約半分に落ち込んでいるそうです。

▼食用米と酒米を混同「減反廃止」を急ぐべき
山田錦の生産量が減っている原因は、日本酒離れだけではありません。最大の原因は米の「減反」です。「減反」とは、国が農家ごとに米の生産量を割り当てて価格を維持する生産調整の仕組みです。私は『会長島耕作』で、日本の農業政策のあり方を論じてきました。本来、農家は山田錦をつくったほうが儲かります。普通の食用米よりも、酒米のほうが買取価格は高いからです。しかし減反政策の影響から、事実上、多くの農家は栽培する作物を自由に選べませんでした。

桜井さんは山田錦の自社生産を試みたこともあったそうです。そこは「餅は餅屋」でした。「我々の山田錦と、農家の『特A』の山田錦とでは、味が違う」。

2013年11月、安倍首相は、5年後を目途に減反政策を廃止する、と発表しました。私は大賛成です。今年からは、酒米の増産分はいちはやく減反の対象外になりました。次第に酒米の生産も増えることでしょう。日本酒には大きな可能性があります。「いい酒」は日本食と共に、世界へ広がるはずです。

弘兼憲史(ひろかね・けんし)
1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)勤務を経て、74年に『風薫る』で漫画家デビュー。85年『人間交差点』で第30回小学館漫画賞、91年『課長島耕作』で第15回講談社漫画賞、2003年『黄昏流星群』で日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年紫綬褒章受章。


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