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鉄鋼・非鉄金属スレッド
873
:
荷主研究者
:2011/02/20(日) 12:16:59
http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/politics_economy_kiji.php?i=nesp1296610327
2011年02月02日10時32分 千葉日報
高級鋼製造技術で前へ 新興国需要が追い風 JFEスチール千葉地区60周年
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/industry/nesp1296610327.jpg
JFEスチール東日本製鉄所千葉地区で稼働中の第6高炉=千葉市中央区
国内初の大規模臨海一貫製鉄所として誕生したJFEスチール東日本製鉄所千葉地区(千葉市中央区)が1日で開所60周年を迎えた。これまでに鉄鋼約2億2千万トン、東京タワーに使用される鋼材に換算すると約5万3千本分を生産。その間、戦後の高度成長を追い風にした急拡大期、需要の沈静化による雌伏期…と時代の変化に伴い浮き沈みを経験した。「再成長期」に当たる今、業界でも進んだ高級鋼の生産技術を武器に、着実に前進を遂げていきたい考えだ。
「ぺんぺん草が生えても知らない」。同社の前身の旧川崎製鉄(川鉄)が打ち出した製鉄所建設案に対し、当時の一万田尚登日銀総裁が言い放ったとされる言葉だ。千葉市の一般会計予算規模が約5億円だった時代に、川鉄が千葉製鉄所の開所まもなく公表した工場建設費は200億円強。市予算の40倍もの事業費を投じる壮大な構想は、政財界で物議を醸した。
しかし、「戦後日本は貿易立国として立つ以外はない」との信念を抱いた初代社長の西山弥太郎氏は、粘り強い交渉で日銀の融資や世界銀行の借款などを取り付け、第1高炉や第1冷間圧延工場など一連の初期整備を成し遂げた。
道は正しかった。戦後の高度成長とともに「産業のコメ」と言われた鉄の生産量は右肩上がり。1953年に年間50万トンだった同社の生産量は73年には30倍の1500万トンにまで膨らんだ。川鉄の成功は他の工場の呼び水にもなり、国内を代表する工業地域、京葉臨海コンビナートの形成につながった。
03年4月には川鉄と日本鋼管が経営統合し、JFEスチールとして再出発。主力設備を移転した東側の土地では05年、商業施設や公園が集積する蘇我副都心が街開きし、年間2千万人を超す来訪者でにぎわう。川鉄公害訴訟(92年和解)という苦い経験も経て環境技術を高め、「世界で最も環境対応が進んだ製鉄所の一つ」(同社)として業界の注目を浴びる。
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