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鉄鋼・非鉄金属スレッド
2186
:
荷主研究者
:2020/12/05(土) 12:02:45
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/480333?rct=n_hokkaido
2020年11/11 10:33 北海道新聞
<京極 消えた鉱山をたどって>上 軍需に翻弄 盛衰の記憶
旧脇方小学校の門柱。川崎宏さんはグラウンドを今も手入れしている
羊蹄山の伏流水が多くの観光客を引き寄せる後志管内京極町。中心部から東に約8キロの山あいの脇方地区の町道を進むとササやぶの向こうに突如、濃い赤茶色の岩壁が姿を現す。褐鉄鉱と呼ばれる鉄鉱石鉱床の露頭だ。
■国内最大規模
「かつてここに、日本有数の鉱山があったんです」。町の歴史を調査している、町教育長の横路裕さん(61)は日中でも薄暗い一角でこう力を込めた。
旧日鉄鉱業倶知安鉱山、通称・脇方鉱山―。京極町史などによると掘削は1916年(大正5年)に始まり、20年(同9年)には鉄鉱石を室蘭の製鉄所へ運ぶため鉄道が敷かれた。農地として恵まれていなかった脇方地区は鉱山開発に伴って激変した。町史は「50年間にわたり、町の発展に大きな影響を与えた」と意義を記す。
31年(昭和6年)の満州事変以降、日本が戦争へと突き進む中、国内最大規模とされた脇方の鉄鉱石は貴重な資源となった。生産力は増強され、太平洋戦争中の44年(昭和19年)には現在の京極の人口より千人多い約4千人が暮らし、狭い谷間には映画館や社交場が立ち並んだ。
■悲劇の歴史も
戦時下、年60万トン近く産出された鉄鉱石は室蘭へ運ばれて軍需産業を支え、「東洋一の鉱山」とも称されたという。
しかし、終戦後、安価な外国産の鉄鉱石が輸入されるようになり、産出量は急減。高度経済成長最中の69年に役割を終え、閉山した。当時、数百人が残っていたが、翌年には全員が移転し、集落は消滅した。
「潮が引くように人がいなくなった」。学生時代、脇方で過ごした京極町に住む川崎宏さん(75)は寂しげに話す。家々の基礎は草むらに隠れ、わずかに残る小学校の門柱や集合煙突だけが、人が住んでいたことを物語る。
「手入れをする度に昔を思い出すんだ」。10年前から川崎さんは年2度、旧脇方小学校のグラウンドを訪ね、草を刈る。「知る人が戻ってきた時、何も残っていないのは寂しいからね。自分はできるだけのことをするから、鉱山を語り継いでほしい」
長い時を経て原野に埋もれた町、脇方。町史によると、戦時中は増産のため中国人や朝鮮人約1600人が強制労働させられており、終戦後には暴動も起きた。町の発展を支えた半面、忘れてはならない悲劇の歴史も残っている。
国策に翻弄(ほんろう)されたこの町の盛衰の記憶は今、地元でも、消滅の危機にひんする一方、語り継ぐ動きも始まっている。(倶知安支局の桜井翼が担当し、3回連載します)
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