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鉄鋼・非鉄金属スレッド

1795荷主研究者:2017/11/12(日) 11:32:29

https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201711/0010703279.shtml
2017/11/4 08:00神戸新聞NEXT
停止の高炉支えた旧満州の技 神鋼神戸製鉄所

完成間近の神戸製鉄所3号高炉から1号(奥)、2号高炉を望む=1966年(山地保さん提供)

高炉の内部を観察した「のぞき眼鏡」を手にする山地保さん。雨のように降り注ぐ鉄や炉内の色を確かめた=神戸市垂水区(撮影・大山伸一郎)

 神戸製鋼所は10月31日、約60年にわたり鉄鉱石から鉄を生み出し続けた神戸製鉄所(神戸市灘区)の高炉を止めた。1959(昭和34)年に稼働した1号高炉は、神鋼を鉄鋼大手の一角に押し上げる契機となったが、旧満州(現中国東北部)帰りの男たちの技術が礎になったことは知られていない。同製鉄所で三つの高炉全ての建設に携わった山地保さん(91)=神戸市垂水区=らOBの証言から歴史を振り返った。(高見雄樹)

 「湯が出たぞ」

 山地さんがハンマーを振り抜くと、穴から黄金色に輝く溶けた鉄が火花を散らしながら流れ出てきた。技術者2人が作業を見守る静かな船出だった。

 52(昭和27)年夏、神戸・脇浜(わきのはま)で試験高炉が完成した。現在のHAT(ハット)神戸、神戸市立渚(なぎさ)中学校の辺りだ。炉の直径は3メートル、高さ15メートルと“本物”に比べれば細身だが「1日10トンの鉄ができた。大きなトラブルはなく、運転成績はよかった」と山地さんは振り返る。

 千度を超える液状の鉄、溶銑(ようせん)は「湯」と呼ばれる。湯は砂で作った流路をたどり、鋳型で自然冷却して固めた。

 山地さんは炎天下、できた鉄の塊を1人で運び続けた。「手伝ってくれと社員に言うても、『熱うて怖い』と遠くから見てるだけなんや」。当時の社員に高炉は未知の装置だった。

 香川県出身の山地さんは42(同17)年に満州に渡り、遼寧省鞍山の昭和製鋼所で高炉担当として、45年5月の陸軍入隊まで働いた。昭和製鋼所時代の先輩、松尾英一さん(故人)らとは復員後に就職した神鋼で偶然再会した。松尾さんが設計した試験高炉の操作を一手に引き受けた。

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 戦後復興は鉄鋼の生産量を飛躍的に伸ばした。業界は1950年代、高炉を持つ富士製鉄や八幡製鉄、日本鋼管がリードを広げていた。神鋼、川崎製鉄、住友金属工業の3社は自前の高炉がなく、原材料の銑鉄を作れなかった。

 脇浜の試験高炉が完成した翌年、川鉄が千葉製鉄所(千葉市)で高炉を稼働。大手で後発となった神鋼にとって、自力の高炉建設は悲願だった。

 試験高炉の成功から5年後の57年、神戸市灘区で1号高炉の建設が始まり、59年1月に完成。05(明治38)年の創業時から会社を切り盛りした第五代社長田宮嘉右衛門(かえもん)は、高炉の火入れを見届けて亡くなった。61年に2号、66年には3号高炉が稼働した。

 全ての建設に携わった山地さんは今も、4センチ四方の「のぞき眼鏡」を大切にしている。細い管から灼熱(しゃくねつ)の炉内を観察し、さまざまな機器を制御する。熟練工の魂がここに宿る。

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