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民主党スレッド

5405名無しさん:2009/09/16(水) 20:03:09
>>5404

 ◇民主結党「排除の論理」で注目 情に左右されず
 由紀夫氏は東大工学部卒業後、米国に留学。帰国後に専修大助教授になり、政治の世界とは全く無縁の生活を送った。学習院初等科の同級生で、後に由紀夫氏に誘われて政界入りする水野誠一元西武百貨店社長は「小学校時代は非常に印象が薄い。おとなしい、いかにも良家の坊ちゃんだった。政治の世界には向いていないと思った」と語る。

 現に父の威一郎氏は由紀夫氏の政界転身に積極的に賛成したわけでなく、渋々認めた。由紀夫氏が86年衆院選に当選した後も、10年早く(76年)衆院議員になっていた弟の邦夫氏の方が当時、政界では圧倒的に注目されていた。実際、由紀夫氏は細川内閣の官房副長官を8カ月務めただけで閣僚経験はない。これに対し、邦夫氏は文相(宮沢内閣)、労相(羽田同)、法相(安倍、福田同)、総務相(麻生同)と豊富な閣僚経験を誇っている。しかし、今回の首相就任で由紀夫氏が一気に追い抜いた格好となる。

 鳩山氏を知る多くの人が、鳩山氏の政治家としての転機となった出来事としてあげるのが96年の旧民主党結成時に、さきがけの武村正義代表の参加を名指しで拒否したことだ。当時、「排除の論理」と言われた。自民党離党以来行動を共にしてきた武村氏は鳩山氏の政治の師と言っていい存在だったが、鳩山氏は周囲の説得にも全く耳を貸さなかった。

 水野氏はこの時、さきがけの参院議員だったが、鳩山氏とたもとを分かち、さきがけに残留した。だが鳩山氏は強く説得することもなく淡々と「君の考えでやってください」と言うだけだった。情に左右されない鳩山氏の姿勢は際立っていた。

 細川内閣の首相秘書官だった成田憲彦駿河台大学学長は、94年2月の首相訪米に官房副長官として同行した鳩山氏と政府専用機内で話した会話が印象に残っている。「人間関係は簡単に変わる。やはり政界再編は政策ですよ」。後に「排除の論理」が話題になって思い当たった。

 ◇人事で失敗
 鳩山氏が経験した大きな挫折。それは、現在の民主党結成後の02年9月の幹事長人事の失敗だ。これによって同12月に代表辞任に追い込まれた。代表選に出馬しなかった中野寛成衆院議員を、代表当選後に幹事長に任命したことが「裏約束」とみなされ、辞任要求が各グループから次々と出るなど党内が激しく混乱した。当事者の中野氏は「鳩山氏は意外にもろいと思った」と言う。

 辞任直前、党本部で中野氏と当時幹事長代理だった岡田克也氏の2人で説得したが鳩山氏は「なるほど、うん。そうですか」と言うだけで答えない。出て行ったので翻意したのかと思っていたら、そのまま辞意表明の記者会見をしてしまったという。

 ◇意外と甘くない?概念 「官僚派打ち倒す旗印」
 鳩山氏は自らの政治理念として一貫して「友愛」を掲げてきた。政治のスローガンらしくない表現は「宇宙人」「ソフトクリーム」などという鳩山氏への政界でのあだ名とあいまって、鳩山氏の「甘い」イメージを形成する一因になってきた。

 しかし、鳩山氏は月刊誌「Voice」9月号での寄稿「私の政治哲学」で、友愛を共産主義や全体主義に対抗する戦闘的概念として位置づけ、「(祖父、一郎氏が)社共両党に対抗しつつ、官僚派吉田(茂)政権を打ち倒す旗印として掲げた。友愛の理念は戦後保守政党の底流に生き続けた」と記した。鳩山氏にとって「友愛」は、祖父が創設した自民党が忘れた初心であって、自分こそが保守の正統だという主張を含んでいる。

 鳩山氏は05年に「新憲法試案」(PHP研究所)を出版した。著書では「現在の日本は形の上では独立こそ全うしているものの、心は真の独立を得ているのか。外交は米国に依存し、内政は官僚に依存している」と憲法改正が必要な理由を訴えている。


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