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プロ野球スレ

978とはずがたり:2005/12/18(日) 04:39:17
仰木前監督死去 遊び心持つ勝負師 偉才育てファンに夢
http://news.goo.ne.jp/news/nishinippon/sports/20051216/20051216_news_010-nnp.html?C=S
2005年12月16日 (金) 01:45


 近鉄、オリックスで監督通算988勝。選手としてより、監督として異彩を放った。「ファンあってのプロ野球」が口癖だった。ファンが喜ぶことを実践し、常識にとらわれない奔放采配(さいはい)は、仰木マジックとも呼ばれた。

 一九九六年、球宴で打者松井秀喜(当時巨人、現ヤンキース)に対して外野手のイチロー(当時オリックス、現マリナーズ)を投手に起用した。野村監督(当時ヤクルト)が「余興じゃ、球宴を見下している」と批判。代打に投手を送って抵抗したが、「歓声が上がっとったな」と、平然と笑い飛ばした。ファンの夢に重きを置く監督・仰木彬を象徴する采配だった。

 福岡・東筑高から西鉄(現西武)に入団。二塁手として実動14年、通算打率2割2分9厘。選手としては渋い脇役的存在だったが、当時の西鉄・三原監督に指揮官としての才能を見いだされ、一対一で薫陶を受けた。

 18年間のコーチ経験を経て、八八年に近鉄監督就任。めまぐるしく打線を入れ替える“仰木マジック”で八九年にリーグ優勝。九六年にはオリックスで巨人を破って「日本一」を果たした。オリックス監督就任1年目に二軍にくすぶっていた鈴木一朗を登用。登録名を「イチロー」に変えた。「なんか変な感じです」。困惑のイチローに、「鈴木って選手はほかにもおる。これからのプロ野球界をしょって立つ選手。もっと売り出して覚えてもらわんとな」と、先見の明に話題性を加えて、押し出した。イチローは、その年にシーズン200本安打を達成し、今、その名はメジャーに定着した。

 オリックスのキャンプ地では、報道陣と酒を回し飲みするのが、恒例の行事で、休日には「ネタがないだろう、なにがいいか」と、自ら話題提供を買って出た。常にファンの注目、マスコミへのアピールを頭に置いていた。「プロは見られてなんぼや」。遊び心を実践したプロの勝負師監督だった。 (運動部長・加茂為勢男)


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