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プロ野球スレ

1232片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2009/02/06(金) 07:23:44
山内一弘さん死去:「シュート打ちの名人」たたえ、悼む声

 往年の大毎オリオンズが誇った「ミサイル打線」の主軸として活躍し、ロッテ、中日で監督も務めた山内一弘さんが2日、76歳で亡くなった。内角に食い込む変化球を右方向へ打ち返す巧みな打撃で「シュート打ちの名人」の異名をとり、オールスターゲームで3度の最優秀選手に選ばれて「オールスター男」と呼ばれた。阪神との「世紀の大トレード」でもファンを驚かせた。昭和のプロ野球を代表するスラッガーの一人だった。

 ○…山内さんが「ミサイル打線」の主砲として60年に大毎を優勝に導いた当時、監督だった西本幸雄さんは「日本で5本の指に入る打者だった」とたたえた。「特に内角球の打ち方は抜群で、ひざで体をくるっと回転させる。他の選手にはまねできない技だった」と西本さん。実は夜目が利かず、ナイターには苦労していたという。西本さんは「目に良いという食べ物を取って、努力していた。性格も明るく、誰にでも好かれる人物だった」と、しのんだ。

 ○…63年オフに山内さんとの「世紀のトレード」で阪神から大毎(現ロッテ)に移籍した小山正明さんは、「まさに野球人。(亡くなるのは)ちょっと早い」と惜しんだ。大阪の阪神電鉄本社で2人同席で開かれたトレード発表の際、山内さんから「お互いに頑張ろう」と声を掛けられたことが、今でも忘れられないという。マスコミやファンの間では「阪神と大毎、どちらが得か」と話題になったが、移籍1年目の64年シーズンは山内さんが31本塁打、小山さんが30勝を挙げた。「トレード大成功で、2人はもちろん、球団も納得してくれたのを覚えている」と小山さん。引退後も、75年に阪神で一緒にコーチを務めるなど深い間柄で「とにかく野球が好き。選手への指導も身ぶり、手ぶりで熱心だった」と懐かしんだ。

 〇…中日・落合監督がロッテでプロデビューした79年は山内さんの監督就任1年目だった。中日監督としても先輩となる恩師の訃報に接した落合監督は「ドラフトで指名していただき、私にプロ野球への道筋をつけていただいた方です。今はただただ、ご冥福をお祈りいたします」とコメントを発表した。

 ▽金田正一・名球会会長 同じ愛知県出身で、小学生の時に相撲を取ったことがあるほどの長い付き合い。寂しいわ。あれほど軸がブレない打者は二人といない。最初から同じセ・リーグにいたら、ワシは400勝できなかったかもしれん。

 ▽阪神時代の同僚だった吉田義男さん 阪神に移籍してくる以前から、球団の枠を超えて打撃のことを教えてもらったりしていた。私が75年に初めて監督に就任した時は、巨人のコーチをしていて、川上(哲治)さんにお願いして、阪神に来てもらった経緯がある。私がフランス代表監督の時にもコーチを頼み、言葉が通じない中で手取り、足取り懸命に教えていたのが、山内さんらしかった。

 ▽ソフトバンク・王貞治球団会長 シュート打ちの名人。野球界では無名の愛知の県立高校からノンプロを経てプロ入りした努力の人でもありました。名球会行事ではいつもご一緒させていただいていましたが、最近はお会いしていなかっただけに突然の訃報は残念でなりません。

 ▽中村勝広・オリックス球団本部長 タイガース時代に選手として、監督として深くかかわらせていただきました。選手時代は山内理論に心酔した一人です。非常にこまやかで、かつ大変熱心でもありました。監督時代の95年、打撃コーチとして助けていただき、大先輩なのに支えてくれました。非常に残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。

 ▽ロッテ・高橋慶彦コーチ 広島時代に臨時コーチとして打撃指導を受けた。前年まで本塁打は最高7本だったが、4年連続で20本台を打つことができた。山内さんのおかげ。自分の人生の中で師匠と言える人。今、自分が打撃コーチとして教えることができるのも山内さんの教えがあったから。山内さんと出会えたから、今の自分がいる。

毎日新聞 2009年2月5日 21時50分(最終更新 2月6日 0時50分)
http://mainichi.jp/select/person/news/20090206k0000m050112000c.html


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