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国際経済学

508とはずがたり:2012/12/15(土) 16:51:43

 TPPの正確な名称は「環太平洋戦略的経済連携協定」。貿易でぶつかる品目がほとんどないシンガポール、ブルネイ、ニュージーランド、チリが細々と始めた局部的な経済ブロックだった。そんなローカルな動きに米国が目を付けて乗り出した。リーマンショックで傷ついた経済を立て直すには、貿易で稼ぐことが欠かせない。発展するアジア市場に乗り込んで「太平洋国家」として再出発しようという国家戦略だ。中国や、ASEAN(東南アジア諸国連合)が警戒する中、当面の狙いは日本の引き込みだ。

 2月7日から米国による事前審査が始まった。いわば「入会試験」である。TPP交渉は9ヵ国で始まっている。すでにブルネイ、シンガポール、ベトナム、マレーシア、チリ、アルゼンチンの6ヵ国は「受け入れ」を表明している。最大の関門が米国だ。

 窓口は対外経済交渉を担当するUSTR(米通商交渉代表部)。米国の業界を代弁して強硬な対日要求を掲げる交渉の専門機関だ。

「言いがかり」のような「自動車輸入枠」を掲げたのは、全米自動車政策会議(AAPC)という業界のロビー団体が背後で動いているからだ。野田政権はTPPに入りたい。反対の世論を抑えるには「コメ」を例外扱いにしてもらいたい。そんな日本の事情を見込んで「自動車」を盛り込んだ。「コメは大目に見るから自動車の輸入枠を認めろ」という圧力である。

30年前の輸出自主規制を
日本側が飲んだ理由

「30年前の体験が蘇るような気分だ。あの時日本は、輸出枠を飲まされた。今度は輸入枠。いかにも米国らしいやり方です」

 通産(現経済産業省)官僚のOBは呆れながらいう。日本は1981年、米国に輸出する自動車の台数を168万台とする「自主規制枠」を決めさせられた。通産省とUSTRが交渉して「輸出枠」が決まり、通産省が自動車会社ごとに輸出台数を割り振る、ということで米国の要求に屈した。

 そのころ米国では小型車ブームが起きていた。イラン革命が起こるなど中東でイスラム勢力が強まり、米国の石油支配が崩れ、石油価格は高騰した。一方で排気ガスなど環境問題が深刻化し、ガソリンをがぶ飲みする大型車は敬遠された。品質と燃費がいい日本車が快走していた。

 GMを筆頭とするビッグ3はシェアを奪われ、経営者は政府に支援を求め、労働組合は「雇用を奪う」と日本車をハンマーで叩き潰す過激なキャンペーンを展開した。

 自国製品を守るなら、輸入品に高い関税を課したり、メーカーに補助金を出すなど政府の責任で対策を採るのが普通のやり方だ。米国はそうせず、日本の政府に「自主規制」をさせた。当時も、米国は「自由貿易」の旗手で、他国に市場開放を迫っていた。そのご本尊が、特定品目に高い関税を掛けたり、業界を補助金で護るのは都合が悪かった。「保護主義」という言葉は、米国が他国に浴びせる常套句だった。

 どう見ても、強い製品を持っている国が自主規制する、というのは異常である。しかも「強いられた自主規制」である。

 それを飲んだ日本側にも事情があった。第1は、米国に盾突けない従属国であること。第2は、輸出枠を握ることで業界への支配力を高めたい通産省の思惑、第3は輸出シェアを固定する「カルテル」を歓迎するメーカーが日本にあったことだ。

 自動車業界が強くなり官民の力関係が変わり、特にトヨタ自動車は通産省の言うことを聞かなくなっていた。天下りを排除する動きさえ出ていた。ドル箱の米国輸出を役所が握ることは、通産省の力を増すことにつながる。

 業界では「日産の退潮」が始まっていた。トヨタに完敗し、米国でホンダの追撃にあっていた。「自主規制」を受け入れた時の日本自動車工業会会長は、日産の石原俊社長だった。米国での販売数を固定することは「衰え目立つ日産」に都合が良かった。シェアを維持しようと安売りすれば、利益は減る。国内はトヨタに対抗して無理な販売を続け大赤字になっていた。


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