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石油・LNGなど=エネルギー総合スレ=

1307とはずがたり:2011/11/18(金) 21:18:28

 09年3月に発表した中長期の経営方針では、20年頃までに「海外:国内:環境・非エネルギー」の利益比を「1:5:2」から「1:2:1」へと変えることを明らかにした。

 多角化に腐心する企業は、数多ある。なぜ、大阪ガスは新芽を発掘し、枯らさずに、大木に育てることができたのか。

 そこには、独特のDNAがある。冒頭のフルオレン開発秘話には、それが最も色濃くにじみ出ている。

 フルオレンの生みの親である須田康裕(現・大阪ガスケミカル常務)と山田光昭(同取締役)は、88年、閉鎖の方針が決まった酉島石炭ガス製造所の技術者だった。ガスに代わる別の化学の分野で、なんとか製造所を存続させたい──。その一心で、大学で化学を専攻していた仲間を招集し、研究を始めたのだった。

 山田が開発に成功したフルオレンは、既存のものに比べ、はるかに高品質で低コストだった。DVDの基板樹脂への実用化などを念頭に旧カネボウとの共同開発にまでこぎ着けたものの、94年、製造所の閉鎖が決定する。2人は別々の部署へ異動することになった。

 95年3月末日、製造所で迎える最終日、荷づくりをしていた山田に須田が言った。「1セット隠せ」。山田は、ミカン箱いっぱいの実験器具、分析機器をリヤカーに乗せ、誰にも見つからないよう、資材倉庫に駆け込んだ。フルオレン10トン分も隠しておいた。

 しかし半年後、あえなくそれが本社に見つかり、呼び出しを受けることになった。新しい仕事になじめず、悶々としていた2人は、これが最後と心に決め、徹夜で資料をまとめ、炭素繊維などを担当していた幹部に存続を直談判した。その幹部の口から出たのは意外にも、「よっしゃ、予算出したろ」とのオーケーサインだった。旧カネボウとの共同開発も再開された。山田はミカン箱を開け、涙した。

 だが、事業化の道はさらに険しかった。2人は営業にも奔走した。愛媛県の大手化学メーカーに1年以上通い詰め、ようやく数百トンの受注を獲得した。最初は「ガス屋が何をしに来た」と10分で追い出されたが、転んでもただでは起きない、2人の粘り勝ちだった。

燃料電池でトヨタ
京セラと提携

 逆境からの起死回生、枯れた技術をまったく新しい分野に転用する──。この成功の方程式は、戦略分野である燃料電池でも、いかんなく発揮されている。

 石炭から石油のガスへ、原料が転換されるとともに、石油に含まれる有毒な硫黄化合物などを脱硫する必要が生じたのだが、その水素処理に使う触媒は、燃料電池の脱硫にも有効であることがわかった。石油会社も持つ技術だが、大阪ガスは非常に低い濃度まで硫黄分を取り除くことができた。

 この技術に目をつけたのが、燃料電池の核となるセラミックを主力とする京セラだった。04年に提携、ここにトヨタ自動車とアイシン精機も加わり、家庭用の固体酸化物形燃料電池(SOFC)の開発に弾みをつけたのだ。

 現行の家庭用燃料電池「エネファーム」よりも、部品数は約半分でコストを抑えられ、発電効率も高い。集合住宅にも置ける。「早ければ11年度にも販売したい」と社長の尾崎裕は言う。間違いなく、商用化に最も近いフロントランナーである。

 10年度には、太陽光発電の販売にも力を入れ、現在の約300台を5〜6倍に増やす腹づもりだ。燃料電池と太陽光の「ダブル発電」で家庭に攻勢をかける。リビング開発部長の藤田正樹は「市場の変化に一歩でも遅れたら負け」と組織を引き締めている。


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