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政治思想総合スレ

859『東武天皇』として擁立された伏見宮家の北白川宮能久親王:2025/10/13(月) 22:02:54
>◆誰が“擁立”したか=盟主に据えた主体

>奥羽越列藩同盟(会津・仙台・米沢などの主要藩)側の合意と列藩会議により、輪王寺宮(能久)を同盟の盟主(名目的な統帥・象徴的最高位)に擁立することが決まりました。つまり「藩側(列藩会議)」の政治決定です。

>◆能久親王は列藩同盟の中枢に出入りし、会議に出席していた

>能久は白石城での列藩会議に出席し、仙台・米沢・会津と面会している記録が残っています(滞在・往来)。したがって「戦場から遠く離れて完全に無関係」「参謀クラスと面識が全くなかった」とは言えません。

>◆能久親王が発出した『令旨』の存在(=政治文書を出している)

>列藩会議出席に先立ち、7月9日(秋田藩宛)、7月10日(仙台藩宛)などに『輪王寺宮(能久)令旨』とされる文書が出された旨を示す記録・研究があり、そこでは「薩賊を除く(=薩長を排撃)」といった文言が見えることが報告されています。すなわち、能久の名で発布された政治的布告(令旨)は実在します。

>一方で、能久自身の私的手記や日記で「私は明治天皇に対して反逆の意思はない」「自分はあくまで徳を守るために動いている」と明確に書かれた一次史料(本人の直筆の明確な弁明)は、主要公開史料・研究で確認できていない。

>能久が「明治天皇に対する反逆の意思は全く無かった」と自己弁明する本人直筆の強い証拠がない以上、列藩同盟側の布告で能久名義の令旨が出ている以上、外形的には能久名義で反新政府(=明治側)を非難する公的文書を発したという事実が残る。このため、能久が東北で発した令旨を根拠に「明治天皇に匹敵する国家元首になろうとしていた」と推定する側の主張を完全に反証するためには、やはり本人の意思を示す直接史料(私信・日記・陳述等)が必要だが、それは現時点では確認できない、というのが史料的帰結です。


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