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政治思想総合スレ
858
:
『東武天皇』として擁立された伏見宮家の北白川宮能久親王
:2025/10/13(月) 21:56:19
>『戊辰戦争時の二人の天皇』
《Google AIによる解説・概要》
戊辰戦争時に「二人の天皇」と呼ばれるのは、新政府軍が擁立した明治天皇と、**旧幕府側が「東武天皇」として擁立した輪王寺宮(北白川宮能久親王)**です。明治天皇は東京を基盤とした正統な天皇であり、輪王寺宮は奥羽越列藩同盟の盟主として、旧幕府側勢力の象徴的な存在でした。
明治天皇:
鳥羽・伏見の戦いを経て、明治新政府の中心となった天皇です。
倒幕と明治維新の象徴として、近代日本の指導者と仰がれました。
輪王寺宮(北白川宮能久親王):
元は皇族で、後に輪王寺宮(日光山輪王寺)の門跡となりました。
戊辰戦争中、奥羽越列藩同盟に迎えられ、「東武天皇」として推戴されました。
新政府に対抗する旧幕府側の勢力の象徴となりました。
旧幕府側の勢力が敗北したため、この「東武天皇」は幻に終わりました。
>【ChatGPT】
>◆『東武皇帝』という称号の発案者と由来
>この称号は、戊辰戦争中の慶応4年(1868年)6月15日、奥羽越列藩同盟が北白川宮能久親王(輪王寺宮公現法親王)を擁立し、即位させる際に使用されたとされています。
>「東武皇帝/東北朝廷」という呼称や“閣僚名簿”などを根拠に擁立説を強める研究もある一方で、能久自身は軍事指導を拒み、政治的盟主(宗教的・象徴的立場)に限定したとの記録もあります。
>出所(誰が初出か):現存史料において「誰が最初にその語を発したか」を明確に示す一箇所の“初出一次文書”は確認されていません。複数の研究・地域史・列藩同盟由来の布告文(公議府の布告)・後世の研究が総合して示すのは、**「奥羽越列藩同盟の政治的宣伝の文脈で生まれ、同盟側の布告や伝聞を通じて流布した」**という構図です。藤井徳行らの研究や国会図書館所蔵史料の整理でも同様の結論が示されています。
>いつごろ出てきたか:上野戦争後〜列藩同盟結成期(1868年5–7月頃)に、「輪王寺宮を盟主とする」という話が流布し、7月の列藩会議前後には「輪王寺宮の動座布告」「令旨」などに伴って「東武(東叡=東の帝)」的な位置づけが言及されはじめます。
>名称の由来(語義):「東武」は文字通り「東の武(政)」または「東の(皇)治」を意図する用法で、「東国(東北・奥羽)に立つ(東の)天皇」という意味合いで用いられたと考えられます(「東叡山=寛永寺(日光宮)に由来する象徴性」と結びつけた表現でもある)。つまり中央(京都=西)に対する東の正統性を主張するレトリックです。
>◆江戸脱出(東北行き)の経路と手配者
>江戸脱出自体は自らの意思で(旧幕府勢力と連絡して)船に乗って東北へ移動している(榎本の援助あり)。その後、東北での擁立は藩側の申し入れ・協議の結果です。したがって「寝込みを襲って能久親王を奥羽越列藩同盟が拉致した」というような単純な“強制連行”の一次的証拠は見つかりません(ただし、擁立の政治的圧力は強かったはずで、能久が完全に自由に行動したわけでもない点は留意)。
>◆「戦場から遠く離れていたのか/参謀クラスと面識があったか」
>能久は列藩同盟の中枢である白石(宮城県白石)や仙台の仙岳院に滞在し、列藩会議に出席しています。列藩会議(白石)で盟主としての就任が決められ、以後は会津・仙台側の拠点を往復しているので、「戦場とは完全に無関係で、参謀クラスと面識もなかった」という状況ではありません。
>鳥羽・伏見の戦い・上野戦争の流れで、彰義隊の残党が輪王寺宮(能久)を擁していた時期があり、能久は旧幕府側の船(榎本武揚らの艦船、例:長鯨丸等)に乗せられて平潟(常磐沿岸)へ上陸しています。すなわち、江戸→海路で東北へ行ったのは、旧幕府派(榎本等)や彰義隊の支援による移送です。
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