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政治思想総合スレ

643とはずがたり:2017/10/08(日) 12:26:48
>(当時の)小沢一郎氏のめざしたのは「小さな政府」で、彼が『日本改造計画』で描いた構想は、自民党と霞が関のコンセンサスに近かった。
此に関しては池田は此処http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1191664843/2136でも書いてゐる。

>小沢氏の理念は80年代の英米の改革の延長で、「新自由主義」といわれるような特殊な思想ではなかった
池田はこう書いてるが,ばらまき大好き化するこの15年間程の小沢の様子は,寧ろ当時の小沢が霞ヶ関に祭り上げられた御輿で本心ではなかったのではないか?御輿は軽くて…を思い出すがw

立憲民主党で日本から「社会主義の亡霊」が消える
https://news.goo.ne.jp/article/jbpress/politics/jbpress-51281
10月06日 07:00JBpress

 民進党代表代行の枝野幸男氏など左派が、新党「立憲民主党」を設立した。これは民進党が希望の党に合流したときから予想されていた展開で、前原誠司代表も「想定内だ」とコメントした。希望の党の小池百合子代表が憲法改正を否定する左派を公認するはずがなく、それが合流の目的だったと思われる。

 共産党はさっそく新党との共闘を表明し、全国で独自候補を取り下げ始めた。もともと小選挙区で共産党が勝つ見込みはないので、その票が立憲民主党に入ると、意外に健闘するのではないか。これで「自民・公明」と「希望・維新」と「立憲・共産」という3極の戦いになるが、この構図には既視感がある。

よみがえる「社共共闘」
 55年体制で「革新勢力」が最盛期だったころ、社会党は共産党と組む社共共闘か、民社党・公明党と組む社公民共闘かで揺れていたが、東京都の美濃部知事をはじめとする革新自治体で選挙戦を制したのは社共共闘だった。

 その背景には、総評という労働組合の動員力があった。民社党系の同盟は大きな勢力にはなれなかったので、社公民は選挙に弱く、社会党の主流は「プロレタリア独裁」をめざす社会主義協会だった。これは共産党の方針とも似ていたので、1970年代まで「社会主義」が野党の共通の目標だった。

 1980年代には社会主義の実態が分かってきたので、社会党の土井たか子委員長は「護憲」を持ち出した。その中身は第9条の一国平和主義で、社会主義のように体系的な理論はないが、争いを好まない日本人にはなじんだ。立憲民主党は、このころの社会党に戻って「社共共闘」で生き残るつもりだろう。

 だが冷戦が終わると、社会主義と労働組合の力が弱まった。英米でサッチャー・レーガンの保守革命が起こり、日本でも中曽根内閣で国鉄と電電公社の民営化が行われた。小沢一郎氏のめざしたのは「小さな政府」で、彼が『日本改造計画』で描いた構想は、自民党と霞が関のコンセンサスに近かった。

 この構想は1992年まで順調に進んでいたが、彼が自民党竹下派の後継争いで敗れて挫折した。自民党を離党した小沢氏は93年に政権交代を実現したが、彼の強権的な手法に反発して、社会党は94年に非自民連立政権を離脱した。これによってできた村山内閣は自衛隊と日米安保条約を認めたために社会党は崩れ去り、ここから今に至る野党の迷走が始まった。

失われた日本の「保守革命」
 小沢氏の理念は、それなりに一貫していた。彼が自民党の幹部だったときは、ハト派を追い出して「社公民」と合併させ、保守とリベラルの二大政党にしようという保守二党論だったが、彼が自民党を離党して社公民と合流したことが混乱の始まりだった。

 細川政権の最大会派は社会党であり、何かにつけて小沢氏と対立した。この「ねじれ」を解消するため、彼は1994年に自民党の右派を引き込んで社会党などを切ろうとしたが、自民党は社会党の委員長を首相に指名する奇策で裏をかき、自社さ連立政権ができた。


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