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政治思想総合スレ

535名無しさん:2015/11/03(火) 15:51:35
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151103-00055903-playboyz-soci
「国家のミニチュアになってはいけない!」 クールなデモより人間本来の“暴力”を取り戻す必要性とは
週プレNEWS 11月3日(火)6時0分配信

本書をぱらぱらとめくってみる。「ブタのようにうんと腹のでた警官二人組にとめられた」「原子力装置を破壊せよ」「ケンカだ、愉快だ、気分がよい」……。

カゲキな、時にはロックな文句が目に飛び込んでくる。といっても、不まじめな本では決してない。アナキズム研究者の栗原 康氏が「暴力」を論じた『現代暴力論「あばれる力」を取り戻す』は、人間らしく生きたいと願う人々へ贈られた饒舌(じょうぜつ)なエールであり、破天荒な人間賛歌だ。

―「暴力」というキーワードについてお聞かせください。

栗原 暴力っていうのは自分たちが日常的に持っている生きる力のことを呼んでまして、これは完全に戦前のアナキスト・大杉栄の思想に依拠しています。どんな形で生きてもいい。力の発揮の仕方というのは無数にあり得るし、どこで楽しもうとそれは自由なんだと、そういう考え方です。恋愛でもそうですし、文章を書くのでも、音楽やるにしても、なんでもそうだと思いますが、尺度にとらわれず、生きる力をあばれるような形で発揮していく。

これって本当は普通に人間が誰でもやっているはずだと思うんです。それを「暴力」という言葉で表現してみました。

―私たちが本来持っているその力に対峙(たいじ)するものとして、この本では「国家の暴力」が出てきます。

栗原 人の生きる力のほうがより幅の広いものなのに、それを囲い込み、組織的に言うことをきかせていくのが「国家の暴力」です。国家の振るっている暴力は基本的に「人をいかに奴隷化するか」にあります。もともと奴隷制国家のやっていたことの起源というのは「戦争捕虜」でした。戦争捕虜に対しては、殺されたくなかったら自分の個性とか人間性を捨てて従え、と言いきかせていく。

これをやられるとどうなるかというと、完全に人間が無力化されてしまいます。生きる力を失なってしまう。しかも恐ろしいのは、一度その囲いの中に入ってしまうと、無理やりやらされているのに、自分から進んでやってるように思ってしまうのです。それを大杉栄は「奴隷根性」と呼んでいます。古代の話をしているのですが、手段がより巧妙になっただけで現在でもそうなんじゃないかなと常々思っていました。

―その巧妙な手段の具体例として原発が挙げられています。原発再稼働反対のデモにも参加されたとのことですが、国家の暴力に対抗する術(すべ)はあるのでしょうか?

栗原 まず意識することから始めるしかないと思います。原発は、平時でも近隣の住民を支配するうってつけの装置でしたが、事故以来、その力が言説レベルで広範囲に拡散しています。事故直後は本当は関東近辺でも危なかったと思うのですが、逃げろと言うと「気にしすぎだ」「経済が止まってしまう」と押さえ込まれる。そして今は、放射能が危ないと言うと「ヒステリーだ」と言われてしまう。

それを社会の同調圧力と呼ぶにしろ、根底にあるのは経済活動を続けさせる、そのために人を動員する国家の暴力です。経済が止まっても人が生きられればいいと思うのですが、そう考えることは異端とされ排除される。放射能込みで経済に動員していく力が今、極限まで高まっているように思います。

僕が事故直後、本当に怖がっていたのは、実は逆のことでした。旧ソ連が行なったチェルノブイリの例もあるように、強制的に移住させるほうに権力が向かうと思っていたのです。本当はそれでいいのですが、その過程であんまり国家の強制力が強くなると市民生活がぶっ壊されるわけで、そこにはちょっと反対しなくちゃいけないのかなくらいに思っていたんですけど。ところが真逆だった(笑)。事故っても安全だと言わんばかりです。それで、せめて再稼働を阻止しなければと考え、デモにも行きました。


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