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企業の提携・合併観察スレ
1504
:
チバQ
:2015/07/26(日) 22:05:40
創業時の進取性を忘れるな
土光氏が「尊敬する石坂さんの頼みだから(東芝社長を)お引き受けした」と回想している石坂氏も、第一生命保険社長から東芝の立て直しのために招かれ、昭和24年に就任した。東芝の再生には、当時の従業員数の2割に相当する約5000人の削減が必要だったが、石坂氏は会社の現状を「難しい病気をもった重病人」とたとえ、「思い切って大手術をするほかない」と全従業員に呼びかけた。経営陣を結束させ、労働組合幹部の説得には自ら当たって大争議を収めたという。
現在の東芝も、会社の立て直しに向け一定のリストラが不可避とみられる。「選択と集中」を進めるために不採算事業から撤退することになれば、石坂氏のような実行力が求められそうだ。その後、経団連会長を4期12年務めた石坂氏は、「財界総理」と呼ばれる初めての存在になった。
東芝でトップが引責辞任するほどの不祥事は、昭和62年の「ココム(対共産圏輸出調整委員会)違反事件」以来。これは、冷戦中に旧ソ連に対して軍事技術に転用可能な工作機械を輸出し、西側の国際規約を破ったという事件だ。実際に輸出したのは子会社の東芝機械だが、米国の世論による「TOSHIBA」バッシングが議会を巻き込んで過熱。当時の渡里杉一郎社長と佐波正一会長がそろって辞任するに至った。
“異端児”現わる
この事件がその後の東芝にどのような影響を与えたかを断定するのは難しい。しかし、東芝は創成期に「人の三井」と言われた三井財閥に入り、土光氏のような人格者に率いられたことで、穏やかで紳士的な社風が特徴となっていた。外交に影響を及ぼすほどの大事件に関与したことで、それまで以上に、模範的であろうとする従業員の育成につながったのかもしれない。
こうした社風は「公家」と言われ、「野武士」の日立製作所と対照的とされた。しかし、その東芝に、“異端児”が現われる。平成17年に社長に就任し、過度な損益改善要求を始めたといわれる西田氏のことだ。主に海外で経験を積んでおり、数字へのこだわりが強かった。報告書には社長時代、業績が悪化したパソコン事業のトップを「こんな数字は恥ずかしくて公表できない」と叱責した様子が記されている。ガツガツと収益を求めるような雰囲気ではなかった東芝社内だが、トップである西田氏の号令に応じ、高い業績目標の達成に向けて必死になったようだ。その中で少しずつ、不適切な会計処理による数字合わせを用いてまで、予算をクリアしようとする動きが出てきて、やがて常態化してしまった。
上司の指示に素直に従う「優等生」には、望ましい面がある一方、「当期利益至上主義」に基づいたトップの要求にも応じようとしてしまう。報告書で指摘された「上司の意向に逆らうことができないという社内風土」が醸成されたところに、達成困難な目標の必達を求める社長が現れ、“一線”を超えてしまった-。紳士的な社風の悪い面が、トップによって引き出されてしまったことが、今回の問題につながったとみられる。
「万般の機械考案の依頼に応ず」
東芝140年の歴史は明治初期、東京・銀座にこのような看板を掲げた田中久重に始まる。精妙な構造の時計やからくり人形、日本初の蒸気機関の模型、電話機などを“発明”した田中は「からくり儀右衛門」の異名を取った。東芝はスマートフォンに使われる記憶用半導体などで世界トップクラスの技術を持っており、創業時の進取性はまだ、失われてはいない。本来の力を発揮するためにも、今回の問題を乗り越え、新しい東芝として再生することが求められている。(高橋寛次)
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