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継続:科学と疑似科学を判別する

80Ken:2024/08/16(金) 15:29:37
18世紀までの光の正体論争を、もう1度まとめましょう。

まず、空間を移動する存在は、粒子と波動しか知られていなかった。粒子でなければ波動、波動でなければ粒子、という二者択一の関係があった。

粒子説と波動説の双方に、いわゆる「苦しい説明」はあった。苦しい説明とは、観測事例がない想定を必要とした、という意味です。

例えば、粒子説のニュートンは、光の屈折を説明するのに、水の粒子が光の粒子を引き付けて加速させる、という想定をおいたが、そのような引力を示す観測事象はなかった。粒子説には、他にも観測されない想定があった。

一方、波動説のホイヘンスは、鉄のような物質が空間を充たし波を伝える、という想定をおいたが、そんな物質の観測はなかった。波動説には、他にも観測されない想定があった。

ここまでは、粒子説も波動説も、観測事例のない想定を行う点で「苦しい説明」なのです。しかし、両者はここからが違います。

水の粒子と光の粒子に働く引力のような、粒子説が行った想定は、そういう想定をしても、矛盾する観測事象はありません。

波動説が想定した、空間を充たす、鉄より硬い物質も、宇宙空間を考えている限りは、矛盾する観測事象はありません。宇宙は観測されなかったのだから。

しかし、光は大気中、水中、ガラス中のような、人間が観測できる場所も伝わります。そういう空間の性質は17、18世紀でも十分に観測されており、鉄のような物質が充ちていないことは分かっていました。

つまり、

粒子説の想定には、積極的に肯定する観測事象がない。
波動説の想定には、積極的に否定する観測事象がある

粒子説の「苦しい説明」と波動説の「無理な説明」の違いはここにあります。粒子説にも苦しい説明があるのだから、波動説の可能性を追求するのは、大いに結構。しかし、波動説の無理な説明を解消できないのに、波動説を粒子説より優位におくのは、論理の筋が通りません。

これが、光波動説の逸脱にほかなりません。

あなたが提出した(1)〜(5)は、波動説の無理な説明が、無理な説明ではない、と主張するための材料です。それに対して、私は(1)〜(5)はすべて、18世紀の知識体系で否定され、無理な説明は無理な説明のままである、と言いました。


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