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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

678やす:2013/10/13(日) 22:54:22
モダニズム詩人荘原照子 聞書最終回「猫の骸に添い寝して」
手皮小四郎様より『菱』183号を拝受いたしました。毎号楽しみにしてをりましたモダニズム詩人荘原照子の聞書が、6年間(23回)にも及ぶ連載を経てこのたび完結を迎へました。感慨も深くここにても御礼かたがたお慶びを申し上げます。ありがたうございました。

「一体に身辺に血のつながる身寄りをもたないも老女が、それも異郷の地にあって老いさらばえて死んでゆくというのはどういうことであろうか。」

今回は文学上の記述はありません。役所の手続き等、手皮様が私生活のサポートまでされた当時82歳の詩人の落魄したさまの報告が興味ふかく、表題の「猫のむくろに添い寝して」ゐたなどは無頓着に過ぎますが、しかしその平成三年から四年にかけて聞書きをされた手皮様の当時の記憶そのものが、テープの内容とは別に、謎の多い詩人の年譜の最終ページにも当たるわけです。けだしこれまでの聞書きの内容にしても、そのままが資料として威力を発揮することは少なくて、インタビューされた場が再現されるなかで、手皮様による批判的なフォローを俟ってはじめて、その肉声の意味が明らかになってくる態のものでありました。当時の手皮様の記憶こそは、聞書きに直結する終端地点であり、正確な伝記の一部に自分も参加してゐる貴重な体験記でありませう。

その場では当然話題になったに違ひない、子供など縁者の消息をはじめとして、手皮様が文中では口ごもられたことや、日常生活で萌し始めた認知症のことなど、身寄りがなく、また世間体を気にしない詩人らしさのために、あっけないほど無防備に手皮様の手に落ちていった彼女のプライバシーについては、却って手皮様の側で面くらふ仕儀となり、その結果、生活弱者としての老詩人をほって置けない羽目にも陥ってしまひます。次第に文学上の興味を逸脱して、厄介にも思はれていったらうことも自然に拝察されるのです。かつての閨秀詩人の知的な気位の高さは今や老女の偏屈さに堕し、苛立ちさへ催させるものとなってゐる――。しかし聞書きを終へた後に詩人との関係を裁ったこと、そのときはそれでよかったと思はれたことが、時を経ての自問自答、つまりこれまでは何がなし気位の強いこの先輩詩人を客観的に突き放して書いてこられた手皮様が、最後になって自分がなすべきだったことについて吐露された一節――これは全体の眼目となりますのでここでは抄出しません。一切感傷を雑へないがゆゑに却って突き刺さる告白が応へました。

昭和初期モダニズム詩といふ、ある意味「非人情」「スタイリッシュ」の極みといふべき、個性偏重の詩思潮を体現したといってよい、謎多き女詩人荘原照子。その晩年に偶然接触を持たれ、聞き書きを得た手皮様でしたが、放置されたテープの存在が、年月と共に心の中で大きくなってゆき、その意味をはっきりさせ決着をつけるために始められた連載でありました。もちろんそのまま報告しても面白いに決まってますが、手皮様は生身の詩人の息遣ひに対するに実証的なフィールドワークでもって脇を固め、その結果、日本の近代史に翻弄された一人の女性の生きざまを剔抉し、モダニズムや詩史に興味のない人の通読にも耐へる読み物に仕上げられることに成功しました。それは単なる伝記といふより、忘れられんとする過去の詩人の生涯の端っこに、報告者の存在意義をも位置づけて自分ごと引っ張りあげる作業ではなかったでせうか。謎の多い彼女の生涯を追って結末が慟哭に終ったこと、私には気高くもいじらしい詩人に対する何よりの供養に思はれてならなかったのであります。

おそらく予定されてゐる単行本化にあたっては、連載中の6年間に新たに明らかにされた事実も反映されませう。なにとぞ満願の成就されますことをお祈りするとともに、ひとこと御紹介させて頂きます。



また西村将洋様より田中克己先生の未見の文献(昭和19年11月『呉楚春秋』)につきまして、コピーを添へて御教示を賜りました。外地で編集されたやうな雑誌には、今でも知られないままの文献もまだまだあるのでせう。
ほか山川京子様より「桃だより」14号を拝受。あはせて深謝申し上げます。
ありがたうございました。

679やす:2013/10/17(木) 12:32:46
ご感想ならびに受領連絡の御礼
 このたびの拙詩集刊行につきましては、少ないながら寄贈者の皆様からのまことに手厚い激励のお言葉を賜りました。旧き友人知己のありがたさをあらためてかみしめてをります。

 なかでもむかし詩集を刊行した当時には消息さへ知らずにをり、今回初めてお手紙でその不明を詫びて御挨拶させていただきました山崎剛太郎様より、新刊詩集『薔薇の柩』とともに長文のお手紙を、きびしい視力をおして認めて頂きましたことには、感謝の言葉もございません。小山正孝の親友、『薔薇物語』の作者として晩年の立原道造が計画した雑誌『午前』構想のひとりに員へられた方であり、敗戦前後にはマチネポエティクの人々の盟友として、四季派詩人としての青春期を過ごされた、いまや当時を知る唯一の生き証人の先生であられます。

 また受領のしるしに詩誌「gui」「柵」「ガーネット」の各最新号をお送りいただきましたことにつきましても、あつく御礼申し上げます。
ありがたうございました。

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680やす:2013/11/14(木) 07:57:20
『新柳情譜』
 西岡勝彦様よりEPUB出版有料版の第二弾、成島柳北による新橋・柳橋の芸妓列伝『新柳情譜』をお送り頂きました。ここにても御礼申し上げます。書き下し文に懇切な注記が付された内容の詳細についてはサイト解説をご覧ください。

 これから残った人生をいそしんでゆきたい日本の漢詩文ですが、明治のものだからといって、また書き下し文にされたからといってすらすら理解できるかといへば、そんなことは全くなく、これは暫く口語詩の世界に戻ってゐた私の目を覚まさせるに充分のプレゼントでありました。森銑三翁をして「明治年間を通じての名著」と云はしめた未単行本の雑誌連載記事なのですが、翁が評価されたのは、花柳世界の実地実体験をつぶさに報告してゐる面白さに加へて、各章に一々茶々を入れてゐる“評者”秋風同人も語るらく、やはり「時勢一変、官を捨てて顧みず放浪自ら娯しむ。而して裁抑すべからざるの気あり。時に筆端に見る。」ところに存するもののやうにも思はれます。

 「地獄」といひ「一諾一金」といひ、あからさまな藝妓の呼名もあったものだと呆れたことですが、とまれ藝妓各人に対する解説文言・賛詩・評辞と、菲才かつ野暮天の私には落とし所の可笑しさが分からない段が多くて情けない限りです。何難しさうなもの読んでるんですか、とタブレットを覗かれて、にやにや顔を返すことができるくらいにはなりたいものです。

 ありがたうございました。

『新柳情譜』西岡勝彦編 全265p 電子出版 晩霞舎刊

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000848.jpg

681やす:2013/12/02(月) 11:51:38
『天皇御崩日記』
 大分県宇佐市在住の宮本熊三様より、以前紹介した『天皇御崩日記』という折本について、その作者「岩坂大神健平」についてメールから御教示を賜りました。(建平、連、村路、左衛士とも;なお「大神」姓は、宇佐宮祠官の名門である大神氏の子孫であることをしめす)

 また『国立歴史民俗博物館研究報告』第122,128,146,159集に『平田国学の再検討』の表題のもと、岩坂建平のことが出てゐるとのこと。以下の二点について合せて御教示を得ました。

 岩坂建平は、嘉永七年(1854)正月十九日、三十歳の時に平田門に入門。逆算すると1825年(文政八年)生。
 『平田門人録』 、豊橋市図書館 羽田八幡宮文庫デジタル版 歴史/48 平田先生授業門人録中 和281-36-2 1 / 5を見る 23コマ

 そして入門から四年後の安政五年(1858)に、彼は同じ宇佐宮祠官の国学者で後に明治の大蔵官僚となった奥並継(1824 - 1894)や、おなじく国学者で明治の外交官・実業家・ 政治家となった島原藩士の丸山作楽(さくら1840 - 1899)の入門紹介者となってゐる由。
 『平田門人録』 、豊橋市図書館 羽田八幡宮文庫デジタル版 歴史/48 平田先生授業門人録中 和281-36-2 2 / 5を見る 4コマ

 丸山作楽は島原藩士でしたが、島原藩の飛地領が宇佐郡にあり、宇佐神宮が実質島原藩の管理下にあったこと。そのため当時荒廃した宇佐宮を、島原藩・中津藩・幕府の三者で修復・再建することを、彼等は江戸に留まり何年もかけて幕府に請願し続けてゐた模様です。

 宇佐神宮が神仏習合の歴史に深く関わってゐるといふことや、また忌日の考へは仏教に起源があって神道ではあまり重要視されてゐなかったことなど、初耳に属することでしたが、しかしこの折本の作り様からして「日々の勤行に使用するため」だけに刷られた印刷物のやうにも思はれてなりません。それほど宇佐といふ土地柄においては神仏習合が身近であり、一般庶民に対する尊王広報活動も、安政当初はかうした次元から始められてゐたのだ、といふことでありませうか。謎は尽きません。

 御教示ありがたうございました。

682やす:2013/12/28(土) 22:06:38
保田與重郎ノート2 (機関誌『イミタチオ』55号)
 金沢星稜高等学校の米村元紀様より、所属する文芸研究会の機関誌『イミタチオ』55号(2013.12金沢近代文芸研究会)をお送り頂きました。同氏執筆に係る論考「保田與重郎ノート2」(11-50p)を収めます。

 対象を保田與重郎の青年期に絞り、これまでの、大和の名家出身たるカリスマ的な存在に言及する解釈の数々を紹介しながら、最後にそれらを一蹴した渡辺和靖氏による実証的な新解釈、いな、糺弾書といふべき『保田與重郎研究』(2004ぺりかん社)のなかで開陳されてゐる、保田與重郎の文業に対する根底からの批判に就いて、その実証部分を検証しながら、それで総括し去れるものだらうか、との疑問も提示されてゐる論文です。

 渡辺和靖氏による保田與重郎批判とは、反動への傾斜を詰る左翼的論調がもはやイデオロギー的に無効になりつつある今日の現状を見越し、この日本浪曼派の象徴的存在に対しては、反動のレッテルを貼るより、むしろ戦時中の青年達を熱狂させた彼の文業のライトモチーフそのものが、文学出発時の模倣からつひに脱することがなかった、つまり先行論文からの剽窃を綴れ合はせた作文にすぎなかったのだと、一々例証を挙げて断罪したことにあります。彼の文体にみられる華麗な韜晦も、さすれば倫理的な韜晦として貶められ、文人としての姿勢そのものを憐れんだ渡辺氏はその上で、日本浪曼派もプロレタリア文学やモダニズム文学と同じく1930年代の時代相における虚妄を抱へた、思想史的には遺物として総括が可能な文学運動として、止めを刺されたのであります。

 私などは、「論文らしい形式を嫌ひ」「先行思想家の影響に口をつぐんで」大胆な立論を言挙げしてゆく壮年期の独特の文体には、ドイツロマン派の末裔である貴族的な文明批評家シュペングラーにも似た鬱勃たる保守系反骨漢の魅力を感じ、参考文献を数へたてることなくして完成することはない大学教授の飯の種と同列に論ずることとは別次元の話ではないだらうか、などと思ってしまふところがあるのですが、実証を盾にしつつ実は成心を蔵した渡辺氏の批判に対して、米村氏も何かしら割り切れないものを感じてをられるやうで、批判対象となった初期論文と周辺文献とをもっと精緻に読み込んでゆくことで、さらなる高みからこの最後の文人の出自を救ひ出すことはできないか、斯様に考へてをられる節も窺はれます。米村氏の帰納的態度には渡辺氏同様、いな先行者以上の探索結果が求められるのは言ふまでもないことながら、同時に渡辺氏の文章にはない誠実さを感じました。

 後年の文章に比して韜晦度は少ないとはいへ、マルクスなり和辻哲郎なり影響を受けたと思しき文献を見据ゑながら、客気溢れる天才青年の文章を読み解いてゆくのは並大抵の作業ではありません。ところどころに要約が用意されてゐるので、私のやうな読者でも形の上では読み通してはみたのですが、新たな視点に斬り込むために提示された「社会的意識形態」などの概念は、社会科学に疎い身には正直のところなかなか消化できるところではありませんでした。
 しかし誠実さを感じたと申し上げるのは、生涯を通じて保田與重郎がもっとも重んじた文学する際の基本的な信条(と私が把握してゐる)、ヒューマニズムを動機において良しとする態度と、今の考へ方を以て昔のひとびとものごとを律してはいけないといふ態度と、この二点について米村氏が同感をもって論証をすすめてをられる気がするからであり、その上で、恣意的な暴露資料としても利用され得る新出文献の採用態度に、読者も自然と頷かれるだらうと感じたからであります。

 けだし戦後文壇による抹殺期・黙殺期を経て、最初に再評価が行はれた際の保田與重郎に対するアプローチといふのは、「若き日の左翼体験の挫折」を謂はば公理に据ゑ、捉へ難い執筆モチベーションを政治的側面から演繹的に総括しようとするものでした。米村氏は「日本浪曼派(保田與重郎)と人民文庫(プロレタリア文学)とは転向のふたつのあらはれである」と述懐した高見順を始めとするかうした二者の同根論に対しては慎重に疑問を呈してをられます。
 管見では、ヒューマニズムを動機においてみる態度に於いて同根であっても、今の考へ方を以て昔のひとびとものごとを律してはいけないといふ態度に於いて両者(保田與重郎とプロレタリア文学者)は決定的に異なる。その起因するところが世代的なものなのか、郷土的なものなのか、おそらく両者相俟ってといふことなのかもしれませんが、米村氏の論考も今後さらに続けられるものと思はれ、機会と読解力があれば行方をお見守りしたく存じます。

 とまれ今回の御論文に資料として採用された、先師田中克己の遺した青春日記ノート『夜光雲』欄外への書付や、「コギト」を全的に支へた盟友肥下恒夫氏に宛てた書簡集など、保田與重郎青年が楽屋内だけでみせた無防備の表情が学術論文に反映されたのは初めてのことではないでせうか。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

683やす:2013/12/31(火) 00:28:03
よいお年を。
年末に舟山逸子様より同人詩誌「季」98号(2013.12関西四季の会)をお送り頂きました。
精神的支柱だった杉山平一先生の死を乗り越へて、一年ぶりの再始動。お祝ひの意をこめて、私も一篇、寄せさせて頂きましたが、
今年刊行した拙詩集への収録を見送った十年前の未定稿に手を入れたもの。詩想が涸渇したこの間をふり返り・・・いろいろの思ひがよぎりました。
ここにても御礼を申し上げますとともに、同人皆様の更なる御健筆をお祈り申し上げます。これまでの御鞭撻ありがたうございました。

その「季」に発表してきた大昔の作品を中心に、集成にしてはあまりにも薄すぎる詩集でしたが、只今以て反応はとぼしく、
今年は「風立ちぬ」なんて映画も公開されましたが、抒情詩が相変らず現代詩人の評価ネットワークの埒外にある酷しい現実だけは、しっかり見せつけられた気がいたします。
書評を書いて下さった冨永覚梁先生、最後の戦前四季派詩人である山崎剛太郎先生からのお手紙は忘れられません。ありがたうございました。



さて今年の主な書籍収穫。

寄贈頂いた本から
清水(城越)健次郎 詩文集 『麦笛』昭和51年
『クラブント詩集』(板倉鞆音訳)平成21年
山崎剛太郎 詩集 『薔薇の柩』平成25年
斎藤拙堂 評伝 『東の艮齋 西の拙堂』平成25年
井上多喜三郎 詩集 『多喜さん詩集』平成25年
成島柳北 漢詩 EPUB出版『新柳情譜』平成25年
茅野蕭々 詩集 EPUB出版『茅野蕭々詩集』平成25年など

いただきものから
館高重 詩集 『感情原形質』昭和2年
『詩之家年刊詩集1932』昭和7年
雑誌「詩魔」5,9,10,34
<tt>雑誌「木いちご」昭和4年</tt>
明田彌三夫 詩集 『足跡』昭和4年
城越健次郎 詩集 『失ひし笛』昭和13年などなど

購入書から
平岡潤 詩集 『茉莉花』 昭和17年
河野進 詩集 『十字架を建てる』昭和13年
牧田益男 詩集 『さわらびの歌』昭和22年
北條霞亭『霞亭渉筆 薇山三觀』文化13年など

嬉しかったのは、三重県桑名の詩人平岡潤の詩集で戦前の中原中也賞を受賞した限定120部の『茉莉花』や
「季」の先輩でもあった清水(城越)健次郎氏の詩集、岐阜での詩作をまとめた夭折詩人館高重の詩集『感情原形質』など。
ありがたうございました。


今年はまた実生活でも新しく出発を始めた記念すべき年でした。
記憶力の減退に悩むやうになりましたが、新しいことを始めなくては、と思ってゐます。

来年もよろしくお願ひを申し上げます。
皆様よいお年を。

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684やす:2014/01/01(水) 00:01:39
今年もよろしくお願ひ申し上げます。
立原道造年賀状葉書(昭和12年)

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http://

685やす:2014/01/13(月) 14:10:00
新刊『森の詩人』 野澤一のこと
 昨夏、拙サイトを機縁に知遇を辱くした坂脇秀治様から、詩人野澤一(のざわはじめ:1904-1945)の作品を紹介・解説した御編著『森の詩人』新刊の御寄贈に与りました。出版をお慶びするとともに、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 戦後日本の自由を味はふことなく、41歳で結核に斃れた山梨県出身の自然詩人。自然のなかで自然を歌ったといふ意味だけでなく、大学を中退して六年間を地元「四尾連(しびれ)湖」畔の掘建て小屋に籠もり、村人・友人から命名されるまま「木葉童子(こっぱどうじ)」と自らも称した彼自身が、私淑したH.D.ソローに倣って酔狂な自炊生活に勤しんだ自然児詩人でありました。その作品はもちろんのことですが、むしろさうした天衣無縫のひととなりが面白く、このたびの新刊巻末40ページにわたる坂脇様による解説、そして詩友だった故・一瀬稔翁が前の再刊本で披露された回想に、語られるべき風貌や逸話は詳しいので、ぜひ読んで頂きたいのですが、昭和初期の口語自由詩が花開いた時期、実践生活からもぎとった自分の言葉で、すでに時代を突き抜けた詩を書いてゐた彼は、その脱俗の様が徹底してゐる点で特筆に値する詩人でした。恒産を案ずることなく政治体制からも超絶してゐたといふ点では、四季派同様、お坊ちゃんの現実逃避・体制承認との批判も耳をかすめさうですが、私はさうは考へません。戦争詩の類ひにも一切手は染めてゐないやうです。

 もとより物欲なく、肉食を嫌ひ、詩人は一日2升の水(!)を飲み、蟻やねづみやこほろぎの子供を炉辺の友として、散歩と詩作(思索)にあけくれることを日課としたといひます。歌や祈りが朗々たる声で庵前の湖に捧げられ、感極まれば地に額づいて土壌や灰を食らったりするといふ、かなり奇特な変人の趣きです。「その姿は求道者のようにも、野生児のようにも、仙人のようにも、あるいは世捨て人のようにも映る」と坂脇様が記してをられますが、作られる詩も作文も「なつかしい」といふ言葉の用法のほか、稚気を含んだ助詞の使ひ方など、舌足らずな独特の言ひ回しが清貧を貫いた詩人的人格と相俟り、なんとも不思議な雰囲気を醸し出してゐます。

 灰

灰を食べましたるかな
灰よ
食べてもお腹をこはしはしないかな
粉の如きものなれども
心に泌みてなつかしいものなれば
われ 灰を食べましたるかな

しびれのいほりにありて
ウパニイの火をたく時
この世の切なる思ひに
灰を舌に乗せ
やがて 寒々と呑み下しますのなり
このいのちの淋しさをまぎらはすこの灰は
よくあたたかきわが胃の中を
下り行くなり

しづかに古(いにしへ)の休息(いこひ)を求め
山椒の木を薪となして
炉辺に坐れば
われに糧のありやなしや
なつかし この世の限り
この灰は
よくあたたかきわが胃をめぐり めぐりて
くだりゆくなり


 ちっぽけな自分を「壷中の天地」ならぬ「湖中の天地」に放下して、得られた感興を赴くままに、詩といはず散文といはず、生命讃歌に昇華させるべく腐心した様子の彼ですが、しかし同時に野狐禅を嘯く自身の姿については客観視もできてをり、だからこそ風変りな謫居生活も、村人から安心を以て迎へられ、否、親しみさへ込めて遇せられたのでありませう。やがて彼は正直にも「嫁さんが欲しくなったから」と庵をたたんで山を下りるのですが、妻帯して子供も儲け、東京で父の家業を手伝ひ、何不自由のない市民生活者として上辺を振舞ひながら、その実、森のなかで過ごした青春の六年間を懐古し、鬱々と思慕する日々を送るやうになるのです。けだし彼の命を縮める遠因ともなったやうな気がします。

 前掲の「灰」ほか、彼の理想化された湖畔の独居生活の様子は、山から下りてから刊行した詩集『木葉童子詩経』(昭和8年自家版2段組242p)に明らかに、惜しみなく公開されてゐます(このたびの新刊ではうち32編を抄出)。たしかに電気もガスも無ければ、御馳走も食卓を飾ることがなかった耐乏生活には違ひないですが、森に囲まれた周囲1キロの湖と四方の山々を、借景として独り占めできた生活といふのは、ある意味こんなに贅沢な生活はないかもしれない。彼は詩集を献じた有名詩人たちのなかで、唯このひとと見定めた高村光太郎に対し、詩的独白を書き連ねた長文の手紙をほとんど毎日、250通近くも送り続けるといふ、まことに意表をつく挙に出るのですが、子供が三人もある社会人となっても、都会暮らしに馴染めず、ロマン派詩人たる多血質の性分を病根のごとく抱へて生きざるを得なかった人だったやうです。といって光太郎の弟子になりたいとかいふのではなく、敢へてそのやうな仕儀を断つため手紙では「先生」ではなく「さん」付で呼びかけて、高名な詩人を自分の唯一の同志・知己と勝手に恃んだ上で、詩的な心情を吐露し続け、手紙として送りつけ続けた。そんなところに彼なりの矜恃と甘えとの独擅場が窺はれるのではないでせうか。残念なことに、殆ど一方的だったといふそれら往信の束と、光太郎からの貴重な来信は、ともに戦災により焼失し、今日控へ書きによってその一端が窺ひ知られるに過ぎません。ですが、詩人の本領を遺憾なく伝へる内容は圧倒的な迫力に満ち、詩集以後、同人誌に発表された詩篇・散文とともに全容が紹介されることが今後の課題であります。

 「自由」や「地球」や「人民」や、所謂コスモポリタリズム思想のもとで詩語を操った人道主義や民衆詩派に与することを潔しとせず、敢へて身の丈に合った小環境に閉ぢ籠り、自然との直接交感を、身近な命たちを拝むことによって只管に希った詩人、野澤一。この世に生きて資本主義物質文明から逃げ果せることができないことは重々承知しつつ、なほ寒寺の寺男となって老僧との対話を夢想し、彼なりに宗教的命題に対して自問自答を構へるなど、晩年の思索には西洋のソローよりも、良寛さらに宮澤賢治といった仏教的、禅的な境地に心惹かれてゆくやうになるのですが、抹香臭いところは微塵もなく、坂脇様が指摘するやうに、生涯を通じて野生の林檎の如き野趣を本懐とする、やはり規格外の爽快さを愛すべき自然詩人であったやうに思はれてなりません。

 野澤一については、かつてサイト内で拙い紹介を草してをり、それを御覧になった坂脇様、そして坂脇様を通じて詩人の御子息である俊之様との知遇を賜ることになったのでした。読み返せば顔あからむばかりの文章ですが、現代の飽食社会・電力浪費社会に一石を投ずるやうな此度の新刊が、忘れられんとする詩人の供養となりますことを切に願ひ、恥の上塗りを承知でふたたび詩人の紹介を書き連ねます。


 山の晩餐

きうりとこうこうの晩餐のすみたれば
わたくしは
いざ こよひもゆうべの如く
壁を這ふこほろぎの子供と遊ばんとする

こほろぎよ
よく飽きずこの壁を好みて来りつる
秋の夜長なり
我は童子 いま
腹くちくなりて書を採るももの憂し

こほろぎの子供よ
汝(なれ)もうりの余りを食ひたりな
嬉しいぞや
さらば目を見合せ
ことばもなうこころからなる遊びをせん

しびれの山に湖(うみ)は静まり
草中(くさなか)に虫の音もしげし
大いなる影はわたくし
小さなる影は汝
共に心やはらかく落ち流れたり

さらば世を忘れ
しばし窓を開きて
こほろぎの子供よ
へだてなく
恙なき身をいたはりて
共にしばしの時を遊ばん

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000853.jpg

686やす:2014/01/26(日) 23:46:37
詩誌「びーぐる」22号 『風立ちぬ』の時代と詩歌の功罪
 季刊詩誌「びーぐる」22号の寄贈に与りました。

 特集が「『風立ちぬ』の時代と詩歌の功罪」といふことで今回、私などにもアンケートのお鉢が回ってきたのに吃驚。その冊子が送られて参りましたが1冊でしたので、自分の回答部分のみ掲げさせて頂きます。各先輩諸氏の回答はぜひ書店にてご確認を。

?「四季」派の詩を今どう評価されますか。

 雑誌『四季』に拠った「四季」派の詩人といふより、知的ではあるが線の細い、自己否定・批判精神の希薄な戦前抒情詩人たちの精神構造に対し「四季派」といふ呼称が行はれました。元来は戦後詩壇から軽侮される際に使用されたレッテルであり、特に戦争への対応に於いて批判され続けてきました。現代詩に解消されることなく、ただ過去の遺産の根強い読者を以て命脈を繋いできた、受容のみに偏った戦後このかたの在り様は、やさしい口語詩であるだけに異様とさへ云へます。
 四季派に限らずすぐれた抒情詩が表現すべきものは、丸山薫が夙に「物象」と呼んだところの、(伝統的花鳥風月に限らぬ)「物質に仮託した心象」につきます。その観照が成功するためには、同時にフレームとして状況なり文体を詩人が宿命として身に負ふてゐることが必須です。抒情には自己否定も批判精神も本来関係ないです。
 戦前に於いては意識的・無意識的にせよ、肯定的・否定的にせよ天皇制が統べる世界観、その空気圧がフレームとしてあらゆる表現者に働いてゐたと思ひます。宿痾が人生の重石になってゐた詩人たちは、ある意味、戦争も天皇制も関係ないところで詩作し得た人々でした。
ですから今、抒情詩を書いたり読んだりするには、病気持ちとして切実な孤立点を生きるか、もしくは今日の日本を総べる自由の野放図さ、おめでたさを宿命と観じ、何らかのフレームを設定して自ら向き合ふ必要があるのではないでせうか。四季派は「派」ではなく孤立点の集りでしかありませんが、戦後現代詩詩人の多くが溺れた、コスモポリタリズムを約束するかのやうな思想に流されることなく、TPPや原発・電力浪費社会が招来する殺伐とした世界に対峙する論拠を基盤に深く蔵してゐると思ひます。

?「四季」派で好きな詩人と作品をあげてください。(字数オーバーの故もあって省略。尤もこのサイトに全部のっけてあります。笑)

 特集に関する論考は、やはり四季派について語る場合、避けて通ることのできない戦争詩との関りについて。以倉紘平氏、高階杞一氏がいみじくも指摘された以下のやうな視点について、胸のすく思ひで拝読。

「私は賞味期限付き戦後思想より三好達治という詩人の<号泣>とその作品を信じたい」5p
「三好が賛美した戦争詩は、日中戦争に対しては一篇も存在しない。彼が肯定した戦争とは、アジアを侵略し植民地化した英米蘭国に対する大東亜戦争である。」6p
「憂国の詩人・三好達治」以倉紘平氏 より

「これまで述べてきたように吉本の論にはおかしな点が多々ある。達治の問題について書きながら、それをいつのまにか四季派全体の問題にすり替えたり、四季派の詩人たちが戦争詩を書いたことを、彼らの自然観や自然認識に問題があったからだと書きながら他のほとんどすべての詩歌人が戦争詩を書くに至ったこととの違いが示されていない。戦争協力詩=四季派、という図式で捉え、責任を四季派に帰趨させようとしている。」25p
「吉本隆明「「四季」派の本質」の本質」高階杞一氏 より

またアンケートでは、

「「抒情」ということばでひとくくりに解決済みとされているものとは何だろうか。それを問う機会を与えてくれる資料として、「四季」には複雑な裾野の広がりがあると思う。」貞久秀紀氏49p

「詩の核心は<感傷>にあるのではないかということだ。(中略)心の傷みを言葉に造形するのが詩であり、文学である。」藤田晴央氏54p

などといふ回答があり、もっと社会的な立場からやっつけられるかと思ってをりましたので、今日的課題を社会的関心に絡めて提出した私こそ浮き上がった感じす。

ここにても御礼を申し上げます。ことにも高階様には拙ブログの紹介まで賜り厚く感謝申し上げます。ありがたうございました。

季刊詩誌「びーぐる」22号 2014.1.20 澪標(みおつくし)刊行 ISBN:9784860782634  1,000円

◆論考「風立ちぬ」の時代と詩歌の功罪◆
憂国の詩人・三好達治 以倉紘平4
第三次『四季』の堀辰雄 阿毛久芳10
吉本隆明「「四季」派の本質」の本質 高階杞一16
萩原朔太郎と『四季』 山田兼士29
堀辰雄の強さ 細見和之35
「四季」をめぐる断章 四元康祐41

◆アンケート「四季」派について◆
安藤元雄46 池井昌樹46 岩佐なを47 岡田哲也47 神尾和寿48 北川透48
久谷雉48 貞久秀紀49 新川和江50 陶原葵50 鈴木漠51 添田馨51
田中俊廣52 冨上芳秀52 中嶋康博53 中本道代53 藤田晴央54 松本秀文54
水沢遙子55 八木幹夫55 安智史56 山下泉57

以下通常頁(〜129p)

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687やす:2014/01/26(日) 23:52:15
「季」98号
 さてその「四季」派の残党ともいふべき同人詩誌「季」は、わが古巣でもありましたが、精神的支柱であった杉山平一先生の死を乗り越え、茲に矢野敏行大兄の詩「喪のおわり」の副題を持つ「十月に」を巻頭に掲げて再出発されました。


 十月に  喪のおわり
                    矢野敏行

明け方、虫声はひときわ盛んに、地から湧き上るように、天に
響いている。その虫声を、私は、聞き分けることが出来る。

エンマは優しく、オカメは忙しげに、ツヅレサセは語りかける
ように。カネタタキはそれから少し、間遠く。

空には冬の巨人が、青白く輝くセイリオスを連れて、昇ってき
ている。その先では、プレイアスの娘達が、ささめいている。

この世から消えていった、大切な人達よ。貴方達は、この虫声
を、どこで聞き、星々を、どこで見ているのか。

もしかしたら、一枚の銀幕を、ひらりと捲れば、すぐそこに
皆、居たりするのか。

藍色をした薄明は、短い。虫の声も星の光も、消えていく。
ちょうど貴方達のように、消えていく。

いや、そうではない。貴方達は、すぐそこに居る。いや、もう
すでに、私の中に、居る。

私は聞き分けることが出来る。貴方達の声を、私は、聞き分け
ることが出来る。


津村信夫の呼吸法を矢野さん独自の解釈で、ふたたび彼等にお返ししてゐるやうな趣きです。
私も詩集に収録を見送った詩を一篇寄稿、宣伝までして頂きました。ありがたうございました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

「季」98号 (2013.12.20 関西四季の会刊行)  500 円

十月に・夏 矢野敏行4
草は踏まれて・あの日の日記から 杉本深由起8
峠ちかくで 中嶋康博12
花の蔭 紫野京子14
山里・植木鉢の花・愚問 高畑敏光16
母・戦争反対・悪態・死なないで・お題目 奥田和子20
龍の火 小林重樹29
百合の気持 小原陽子32
夏の終わり・どこへ? 舟山逸子34
後記 38


【追伸】今週は稀覯本『富永太郎詩集』を入手したり、「きりのなかのはりねずみ」「話の話」などのアニメーションで有名な映画監督ユーリ・ノルシュテイン先生の講演会&サイン会(1/25於岐阜県美術館)に赴き、憧れの映像詩人を間近にしては、嬉しくてどうにかなりさうな週末でした。詳細はTwitter、Facebookにて。

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688やす:2014/02/20(木) 00:06:45
『富永太郎 ― 書簡を通して見た生涯と作品』
 折角詩集を入手した富永太郎ですが、恥ずかしながら詩人のことを詳しく知らなかったので『富永太郎 ― 書簡を通して見た生涯と作品』(大岡昇平著1974中央公論社342p)といふ評伝の古書をamazonから最安値でとりよせたところ、なんとサイン本でありました。で、読み始めたら釈く能はずそのまま一気に読了。 著者の大岡昇平は、生前の面識こそなかったものの詩人の弟と同級生になったのを皮切りに、かの中原中也、小林秀雄、河上徹太郎などなど、フランス象徴詩の受容史に関係する友人とは悉く深いい交友を結び、仲間内では最も年少の筈ですが誰とも互角に渡りあった豪胆な気性の持ち主。殊に不遇のうちに夭折した中原中也と富永太郎にとっては、世に送り出すに与って力のあった謂はばスポークスマン的存在でもあります。愛憎を突き放したやうな筆致には、富士正晴が伊東静雄に対するやうな感触もあり、何度も改訂を経た評伝に対する責任を果たした感もあり、しかし当時から先輩に対する態度はこんなだったのでせう、当時の文学青年の知的共有圏を説明するに硬軟、幅広くあけすけに本質を突いた叙述にひきこまれてしまひました。 ボードレールもヴェルレーヌもランボーも、もとよりフランス語を解せぬ自分ですが、前半は人妻との恋愛事件に始まった詩人の、といふか大正期青年の性欲に言及する姿勢に、後半はやはり迷走を始めた京都時代以降、中原中也や小林秀雄と交友を結びながら「真直に死まで突走った」晩年の足跡について、そして全体を通しては正岡忠三郎、冨倉徳次郎の二人の親友の友情に感じ入った次第です。 本関連のことでいへば、このたび私が入手した昭和二年に刊行された私家版の遺稿詩集は、彼が生前まみゆることなく私淑した日夏耿之介と佐藤春夫に指導・助言を仰ぎ、長谷川巳之吉の尽力を俟って実現した出版であったこと、後書に記されてゐる通りです。 当時、日夏耿之介は例の豪華定本詩集3巻本を第一書房で刊行中であり、社主長谷川巳之吉とは蜜月時代にありました。その後「パンテオン」編集をめぐって堀口大学と争った際、同じ新潟出身の巳之吉とも袂を分つことになるのですが、富永太郎の当時はといへば、結核の転地療養に精神耐へず鎌倉より脱走。節約しなければならぬ家産事情も上の空、“譲価”五十円といふこの破格の予約出版を、死の床から「とりあへず発注」したのだといひます。もっとも没後、代金はそっくり『富永太郎詩集』の刊行費用の足しに宛てられたのでせう。背革こそ張られてゐませんが、サイズもほぼ同じで、これを羨んだ中原中也が『山羊の歌』を同サイズで作ったエピソードは有名ですが、なるほどそのまた原型として、この『日夏耿之介定本詩集』はゴシック・ローマン詩体に私淑した亡き詩人のために装釘を倣ったものだったといってよいのかもしれません。 けだし富永太郎は北村初雄のやうに良家の長男坊で絵心もありましたし、措辞はもちろん、「保津黎之介」といふ平井功(最上純之介)より露骨なペンネームさへ持ってゐた。専門を英仏とする違ひはあれ、黒衣聖母時代の日夏門を叩かなかったことが不思議にさへ思はれることです。 さういへば先日、ネットオークションで大正時代の無名詩人の孔版詩集を手に入れたのですが、当時の不良文学青年(?)の、今ならさしづめ“絶対領域”といふんでせうか、フェティッシュに対する感情が同じい結構でわだかまってゐる様子を、興味深く拝見した(家人にアホといはれた也)ので、一寸写してみます(笑)。 金髪叔女(淑女)の印象                    大澤寒泉 『白銀の壷』(大正12年3月序)より六月の雨けぶる新橋駅近きとある果物店の前ふと擦り違ひし金髪の淑女足早に――洋傘斜に過ぎ去りし。紫紺のショート スカートの下ブラックストッキングを透してほの見えし脛(はぎ)の白きに淡き肉感のときめきしが……。夕(ゆふべ)、 ふとも思ひいづるかの瞬間の不滅の印象秋なれば かの果物店にくれなゐの林檎の肌やつややかに並び居るらん。 大澤寒泉といふ詩人は、童謡雑誌「赤い鳥」に寄稿してゐた川越在の青年らしいのですが、関東大震災ののち名前をみません。御教示を仰ぎます。 そしてこちらが富永太郎の無題詩。やみ難きエロチシズムに表現を与へ、文学の名を冠して発表することは、由来一種の性的代償行為であり、日夏耿之介が創始したパルナシアン風の措辞(ゴシック・ローマン詩体)は、黒外套のやうな韜晦効果を以て、羞恥と衒ひを病むハイブロウな大正期文学青年輩にひろく伝播したのでありませう。大岡昇平も呆れてゐますが、「社会と現実に完全に背を向けた若者」には関東大震災に関する日記も手紙も一切遺されてゐなかった、といふ徹底ぶりでありました。 無題                   富永太郎(大正11年11月)幾日幾夜の 熱病の後なる濠端のあさあけを讃ふ。琥珀の雲 溶けて蒼空に流れ、覺めやらで水を眺むる柳の一列(ひとつら)あり。もやひたるボートの 赤き三角旗は密閉せる閨房の扉をあけはなち、暁の冷氣をよろこび舐むる男の舌なり。朝なれば風は起ちて、雲母(きらら)めく濠の面をわたり、通學する十三歳の女學生の白き靴下とスカートのあはひなるひかがみの青き血管に接吻す。朝なれば風は起ちて 濕りたる柳の葉末をなぶり、花を捧げて足速に木橋をよぎる反身なる若き女の裳(もすそ)を反す。その白足袋の 快き哄笑を聽きしか。ああ夥しき欲情は空にあり。わが肉身(み)は 卵殻の如く 完く且つ脆くして、陽光はほの朱く 身うちに射し入るなり。なほ、個人ホームページである本サイトでは向後、今回の『白銀の壷』のやうな、片々たるコレクションや著作権満了状況が不明の資料に特化した公開を心がけてゆきたいと考へてゐます。と申しますのも、国会図書館では今年から「図書館向けデジタル化資料送信サービス」が始まり、「近代デジタルライブラリー」未公開資料に対する閲覧・複写サービスが劇的に改善されたからです。わが職場でも端末が更新され次第申請の予定。これまで古書界に通用してゐた「おいそれと読めないがための高額本」といふ事態だけは、いよいよこの日本から払拭されることになりさうで、どこの図書館も予算削減の折から、これはまことに慶賀の至り。と同時に、本サイトでこれまで公開してきた稀覯詩集も、その役目を終へるものがいくつか出て来さうです。いづれ画像を整理する時が来るかもしれませんので、必要な向きには今のうちに取り込んで置かれますこと、お報せ方々お願ひを申し上げます。

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689やす:2014/02/23(日) 12:56:14
『棟方志功の眼』
 毎年お送り頂いてゐる素敵なカレンダーに続き、石井頼子様から、以前に予告もございましたの初めての著書『棟方志功の眼』が出版の運びとなり、このたびは貴重な一冊を賜りました。

 冒頭と巻末に、それぞれ

「淡々とした職人のような生活の中から厖大な作品が生まれた。そこにはおそらく多くの人が抱くイメージとは少し異なる棟方が居る。4p」

「映像ではいつも制作しながら鼻歌を歌ったり、しゃべったりしているんだけど、それは映像用のパフォーマンスで、実際はそうじゃない。今「そうじゃないんだよ」と言い続けているのは、実際の棟方の方がもっと面白いからです。162p」

 と記されてゐますが、とかく奇人扱ひされることの多い棟方志功そのひとの普段着の様子を、間近にあった祖父の記憶として織り交ぜながら、遺愛の品々をとりあげて、多角的な面から(画伯として・摺職人として・好事の目利きとして・道義の人として)論じてをられます。とりわけ著者の絶対的な信頼が、適度な客観視を許す描写となってゐるところが、気持ちよく感じられました。

「雨の予報が出ると家の中がわさわさし始め」「画室中に張り巡らされた洗濯紐にぬれぬれとした作品が万国旗のように翻る」話や、スピンドルバックチェアを疎開のために梱包するのに使はれた十大弟子版木の話、テープレコーダが届くと孫を前に突然歌ひ出されたねぶた囃子のこと、そして手も足も出ぬ入院中の境遇をたくさんの達磨に描いて人々に送った話など、興味は尽きません。 もっとも古本のことしか知らない私にとって、師と仰ぎ、交歓をともにされた民藝運動の巨擘の面々はもとより、連載時毎に話題に挙げられた「萬鐵五郎の自画像、コンヴィチュニー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるベートーヴェン交響曲全集、河井寛次郎の辰砂碗、尾形乾山の掛軸、サインに付された折松葉の意匠、通溝の壁画、梁武事仏碑懲忿窒慾の拓本、有名な「棟」の陶印、胸肩井戸茶碗、上口愚朗の背広、」などなど・・・無学者はインターネットで検索しては、一々確かめながら読み進めていったやうな次第です。

 巻末対談における深澤直人氏(日本民藝館館長)とのやりとりのなかで披露された、お二人の含蓄ある鋭い観察がまた読みどころとなってゐます。

深澤氏 「ただ民藝と棟方志功は別で、棟方志功は完全なアーティストだと私は思っている。民藝というのは自分が作家だと思ってない人がつくったものです。ここが大きく切り分けるところなんです。棟方志功が上手いも下手も関係なくグアッとつくっていける強さと、ほんとに下手な人が一所懸命につくったものの良さとは違います。154p (中略) 可愛いというのは、完全じゃないというもっと別の魅力になってくるんです。それが民藝館を支えている大きなファクターで、そのなかの一番の魅力が棟方志功のなかにも脈々と流れている。157p (後略)」

石井氏 「古語で言うところの「なつかしい」という感じ。郷愁ではなくて、心がやさしく寄り添うという意味合いですね。158p」

 ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

690やす:2014/03/17(月) 12:05:33
サイト休止の御挨拶【予告】
 私こと長らく勤めてきました職場の図書館からはなれ、この春より一学科部局の事務職への異動を仰せつかりました。残念ですが新しい大学図書館構想から現状の体制を省みますと、事務課長として力量不足、反省面もありますが致し方ない気もしてをります。

 さて仕事上もさることながら、図書館サーバーの空き領域を拝借して開設してをりました当個人サイト(6Gb)も、保守ができなくなるため休止せざるを得ません。大学にはHP運営を黙認頂いたことに対し感謝申し上げるとともに、これまでコンテンツのために各種御協力を賜った近代文学研究者・詩人たちの御遺族・古書業界等々の関係者各位の皆様にはまことに申し訳なく、いつかは考へなくてはならない移転問題を先送りにして胡坐をかいてきた怠慢を詫びるほかございません。
 新任地では頭を冷やし、ふたたび出直すべく、暫しインターネットからも遠ざかることになるもしれませんが、精神衛生を第一に養生・修養に努めます。不徳の管理者の心中なにとぞ御推察のほどよろしくお願ひを申し上げます。

 なほ、トップと「ごあいさつ」ページ、および掲示板はこのまま残します。今後、コンテンツごとになるかと思ひますが、どのやうな形で復活させられるかは、また掲示板の方でお報らせいたします。よろしくお願ひ申し上げます。

 ありがたうございました。

691やす:2014/03/20(木) 23:21:22
【急報】山川京子様 訃報
歌人山川京子様、本日正午ご逝去の由さきほど御連絡を頂きました。休止するホームページ最後のお報せがこのやうな悲しいものになるとは…言葉がございません。謹んでお悔やみを申し上げます。

http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/essey/shiki10.htm
http://6426.teacup.com/cogito/bbs/837


【追伸】2014.3.21 11:54 御遺族山川雅典様からのメールをそのまま添付いたします。
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桃の会主宰で歌人の山川京子が、昨日、逝去致しました。
享年92歳、患うことなく眠るような大往生でした。
生前、皆様から賜りましたご厚情に心から感謝申し上げます。

通夜  3月25日(火) 午後6時〜7時
告別式 3月26日(水) 午前10時30分〜12時
場所  代々幡斎場
住所  東京都渋谷区西原2-42-1
電話 03-3466-1006??FAX 03-3466-1651

喪主 赤木圭子(姪)
連絡先 京子宅 03-3398-6585

ご生花のご注文・お問い合わせは、下記までご連絡ください。
電話 03-5770-5521 FAX 03-5770-5529 (株)一願

692やす:2014/03/22(土) 19:17:29
鯨書房 山口省三さんの訃
 本夕さきほど、自分の図書館異動のことを、最近めっきり本を買はなくなって縁遠くなってしまったご近所の古本屋さん、鯨書房にお詫び方々お報せに行ったところ、反対に御店主山口省三さんが亡くなったことを奥様から伺って絶句する。それも最近のことではない。昨年12月21日未明、神田町で呑んでの帰りに長良上天神バス停近くの溝に浸かって亡くなってゐるのがみつかったのだといふ。発見の経緯や、生前の口癖だった「俺が死んでも葬式はするな」といふ遺言を半ば守り、内うちに済ませた葬儀のことなど、ご親切にも不躾に私が訊ねるままにお話下さったが、警察の調べでは事件性はなく、さりとて命旦夕に迫る持病も無かったとのことで、涙を浮かべて当時を語られる奥様の心中の混乱、察するに余りある。

 お店は一緒に手伝ってをられた御子息がそのまま継がれてゐる。訃報は新聞にも載せず、ホームページでも知らされず、これまで直接お店にやって来た常連さんに限って伝へられてゐた。店売りのお客はインターネットと無縁なのだらうか、どこのブログにもTwitterにも何の言及も無く、3ヵ月も経った挙句に私なんかがかうして訃報を記すといふのも、ここ何年か「インターネット(日本の古本屋)の所為で忙しくなってね、困っとる。昔に帰りたいよ。」と、例の嗄がれ声で微笑みながらいつもボヤいてをられた御店主にして、まことに皮肉な思ひでもって泉下から苦笑ひしてをられるやうな気がしてならない。

 私が高校生の時に開業(レジ横に設へてあったエロ本の平台こそが我が古本との出会ひであった)、角刈りに度付きサングラスといふ強面ルックスで(斜視でいらした)、どこかしらに学生運動華やかなりし時代の反骨の闘士の面影を残し(当否を伺ったことはない)、その後10余年を経て帰郷した私の最も盛んなる古本購入時代に於いては、地元の戦前詩集・漢詩集の収集のことでお世話になった一番の恩人であった(高木斐瑳雄のアルバムを散佚寸前の際で救ひ私に御連絡下さったことなど数限りない)。
 2013年12月21日未明、岐阜の昔ながらの古本屋、名物店主だった山口省三さん逝く。昭和24年10月1日生れ、享年六十四。

 山川京子女史の突然の逝去といひ、わが図書館からの異動、ホームページの休止といひ、今やこの非常の春に、天変地異にも似た、何か自分の運命に対する終末的気分と変革的予感とを、同時に、ひしひしと感じてゐる。
 まことに間抜けな元常連の顧客より、とりいそぎのお悔やみを申し上げます。

693やす:2014/03/30(日) 10:18:04
近況
○ホームページを休止すると発表しましたら、「稀覯本の世界」管理人様からミラーサイトなるものを作って下さるとの有難いお申し出がありました。
できあがりは半分くらいの容量になるさうで、楽しみです。
ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

追記:サイトコンテンツの取り込みについて、便利なコマンドを使って順調に取り込みが終了したとのこと。当初の予定通り3月31日をもってホームページを休止いたします。永い間ありがたうございました。



○先日の山川京子女史御葬儀弔電にお供へしました三首を録します。

 悼

ふるさとの古きさくらの枝に咲く言葉のごとき人は今なく

ふるさとの花は未だしまちこがるその山川にかへりしひとはも

山川のよどみなければうたかたの消ゆる思ひもつきることなく



○五十三になりました。年をとったとて何の感慨もないですが、岳父、丈母が一緒に食事をして祝ってくれました。老母、荊妻、耄碌犬みな恙ないのが嬉しいです。

694やす:2014/04/03(木) 23:32:23
近況 2
○昨日は山川京子女史の義甥にあたる山川雅典様が、詩人山川弘至の妹君敏子様御夫妻(関市在)を伴ひ、東京より職場まで遠路をお越し下さいました。
御葬儀の様子などを伺ったのですが、入学式の忙殺中のさなか何のお構ひもできず、まことに申し訳なく、恐縮いたしました。
当日配られたリーフレットをいただきましたが、録されてあったのは、書斎の歌稿ノートに遺された三月十日付の、遺詠となった三首でした。

 いちにんの君を思ひて七十歳 面影は今も若くうつくし

 いちにんの君を思ひて幾十歳 昔を今に嘆かるるかな

 老いてなほ思はるるかな めぐまれしひとりの恋の何ぞめでたき

 亡くなる前日の夜も、普段とお変りなく御自身で床を延べて休まれたといひます。普段からその全ての詠草が遺言に等しいものであったことは、主宰された「桃」の会員の皆々様のよく御存じのところ。しかし余りにも突然のことにて、謂はば世に思ひを刻むことを一念に生きてこられた方にして、さて一期にのぞんで何の遺言をのこすこともなかった大往生に一番驚いてをられるのは、あるひは御本人であるかもしれません。夫婦の再会を寿ぐなどいふお悔やみのおざなりを、今はまだ申し上げることができません。
 あらためて御冥福をお祈り申し上げます。

695やす:2014/04/07(月) 22:28:17
サイト移転
 さてサイトの移転ですが、まったく予想しなかったスピードでの再開に驚いてをります。

 新ホームページ http://cogito.jp.net/

 御足労いただいた「稀覯本の世界」管理人様には、拙劣な文弱サイトのためにオリジナルドメインまで賜り感謝の言葉もございません。

 ありがたうございました。

696やす:2014/04/19(土) 02:45:13
訃報三たび・上京記
 八戸圓子哲雄様より『朔』177号の御恵贈にあづかりました。と同時に同日到着した小山正見様からの報知によって、今号巻頭に掲載の小山常子様(小山正孝夫人)の訃報に接し、愕然。はからずも絶筆となった「思い出 立原道造氏母堂光子様」は、周辺の回想を片々たるものでもよいから遺していただきたかったと思はずにはゐられない貴重な証言でした。亡くなられたのはすでに先月23日とのこと。御連絡いただいた翌々日の日曜には、横浜の感泣亭スペース(小山邸)で四季の詩人小山正孝をしのぶ感泣亭の会合が催されるといふことで、かねがね一度はお尋ねしたいと思ってゐたところ、故山川京子様の弔問とあはせて急遽、岐阜から日帰りで御挨拶に伺ったやうな次第です。

 午前中に伺った、短歌結社「桃の会」の歌会錬成会場でもあった荻窪山川京子邸は、これが東京の住宅地かと目を疑はんばかりの佇まひを持した、六十余年の年月を刻した純然たる日本家屋。姪御であられる赤木圭子様には、これまでこの家を訪ねてこられた保田與重郎ほか多くの文学者のことや、このたびの逝去に至る不思議な暗合エピソードのことなど、玄関入ってすぐの、夫君を祀る神棚の隣に新しく祭壇が設けられたつつましい居室において懇切にお話をしていただき、かたがた別棟の離れや菜園畑のある庭など御案内いただきました。ここにても篤く御礼を申し上げます。大変お世話になりました。ありがたうございました。

 その後に伺った横浜感泣亭スペースでは、春の別会プログラムとして雑誌「山の樹」にまつはる思ひ出話が、「青衣」創刊同人であり現詩壇の長老でもある先達詩人、比留間一成氏によってすでに語られてゐる最中でした。十名弱の聴講者に雑じり、午後の時間いっぱいを末席を汚して拝聴。その前に、正見様令閨邦子様には生田勉設計の邸内に招じ入れられ、ここでもお骨を前にして伺ったお話に、終にお会ひすることのなかったものの、先年の御著随筆『主人は留守、しかし・・・(2011年)』や、記憶に新しい拙著に賜った感想のお言葉から想像したとほりの、遺影の笑顔からにじみ出てくるやうなやさしさにとらはれては、さしぐみかけたことでした。

 山川京子様3月20日九十二歳、小山常子様3月23日九十三歳、ともにお最後まで、瞠目に値する意識の明澄をもって、夫君である詩人への「純愛」を貫かれた御生涯でございました。それは京子様のごとく守旧的であらうと、常子様のごとく開明的であらうと、抒情を志として守りとほした我が国の前時代女性においては変はりやうもない。その堅操を、はるか末世に生を享けた泡沫の男性詩人は深く銘記いたします。 合掌

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697やす:2014/04/19(土) 03:31:56
装釘を紹介する図録2種 : 棟方志功と北園克衛
 このたび古本収集のお仲間の一人だった山本正敏様(富山県埋蔵文化センター所長)から、すばらしい図録『「世界のムナカタ」を育んだ文学と民藝:高志の国文学館企画展』の御寄贈に与りました。棟方志功の画業に関して出された画集・図録は数々あれど、書籍装画に絞ったものは考察ともに少なく、雑誌自体は短命だった「日本浪曼派」の、保田與重郎を「渦の中心」に据ゑたイメージづくりに大きく関ったといへる、かの「志功装画本」の全容の解明を目指してきた山本様のコレクションは、夙に古本仲間うちでは有名だったのですが、紙質や印刷を直に確認できる現物収集の史料的な重要性はともかく、このたびは点数の統計的な分析を試みたことなど、山本様ならではの独擅場と呼ぶべき永年の成果を、郷土の文学館の企画展で披露し、カタログに美しいカラー図版で盛られましたことを心よりお慶び申し上げます。

 「棟方志功の装画本を集め、調査研究する意義はどこにあるのか」・・・その意義や、そもそもコンプリートなど不可能事であるとして、口さがない古本仲間から収集営為そのものが揶揄されたやうな時代もありましたけれども、なになに一念通じてもはや誰も否定できぬ陣容のコレクションは自ずと語ってをります。本冊解説にも曰く、ひとつは「棟方の板画や倭絵の画風の時代的変化」との関はりについて。もう一点は「装画本を通じて多くの文学者との交流の実態が明らかになること」。その通りではないでせうか。前者について門外漢の軽々に論ずるところにないのは仕方ないこととして「戦後しばらくして出身地青森県の文学者や出版社にも積極的に関わっていくのは、ようやく郷土への複雑な思いから解き放たれたあらわれであろう。」との考察など、統計によってはじめて説得力を得る新説ですし、また後者の視点を強く反映した今回の紙面づくりは、愛書家、日本浪曼派ファンの私としても、たいへん嬉しく、たしかに冒頭で福江充氏が記されたやうに「文学を愛するこころ」が棟方芸術の大きな要素となってゐることは、ただ単に装釘の仕事が多かっただけではない、何か、例へば冨岡鉄斎と儒学との関係性に似たものが類比されるやうにも思はれたことです。

 先だっては石井頼子様より『棟方志功の眼』といふ新刊の寄贈にも与りましたが、山川邸に伺った折にも、御遺族から保田與重郎とともに話題となったのは、「世界のムナカタ」の拘りのない仕事ぶりについてでありました。



 また日を分かたずして編集者の郡淳一郎様より、雑誌「アイデア」364号の御寄贈にも与りました。さきが棟方志功ならこのたびは戦前の詩精神を視覚的に代表するもう一方の極といふべき北園克衛。その彼が手がけた装釘本の総覧が大部の半分(143-254p)を占めてをります。拙サイトの旧くからの盟友、加藤仁さんのコレクションワークの産物ともいふべき、橋本健吉時代からの足取りを俯瞰した「ヴィジュアルアーティストとしての戦前の歩み」の一文や、労作「北園克衛をめぐる戦前モダニズム詩誌の流れ」を絵解きにしてみせた年表をはじめ、気鋭のキゾニストたちのセンスが汪溢する郡様編集の誌面に圧倒、ことにも貴重な戦前詩集・詩誌の類ひをフューチャーした美しい写真図譜、稀覯詩集『白のアルバム』『夏の手紙』『火の菫』や詩誌『白紙』の拡大写真などにうっとり見惚れてをります。



 大好きな詩人の装釘を紹介する、瀟洒なカタログに縁ある今週この二三日でありました。
ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。

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698やす:2014/07/11(金) 20:34:01
不機嫌な抒情詩 小野十三郎
 田舎のごった煮のイメージがある詩誌「歴程」、なかでもグループのしたたかな体臭を感じさせることで筆頭に挙げられる詩人に小野十三郎がある。反権力反権威の姿勢を貫いた経歴によって戦後詩壇に返り咲いた。草野心平を東日本の雄とするならば、さしずめ彼などは関西に君臨して現代詩を牽引する役目を担った旧世代詩人のリーダーと思しい。温和な四季派抒情詩人たちにとっては、謂はば敵陣の巨擘であったけれども、職場の帝塚山短期大学にあっては田中克己先生の同僚として一目置きあひ、同じく文学部で教鞭を執られた杉山平一先生もま た尊敬を以て両者間をとりもたれた時期を持ってゐる。在野にあっては大阪文学学校の開設に関り、ながらく初代校長を務めた。

 その小野十三郎の戦前刊行に係る詩集『古い世界の上に』『大阪』を入手した。興味があらたに湧いたといふのではなく、以前に較べて入手可能な価格で二冊が相次いで現れたのだ。これもまた出会ひである。ことにも第2詩集『古い世界の上に』 (昭和9年 解放文化連盟)は、コミュニズムに親炙する内容とは凡そマッチしない、キュートな表紙が魅力的な一冊。草野心平の装釘である。中身とマッチしないのに魅力的、といふのも変ではあるが、詩集の挿画意匠を語るとき、私の中では佐藤惣之助の詩集『荒野の娘』のカミキリムシをあしらった函とともに、いつか手にしたいと思ってゐた詩集だった。

 全体この感情過多の詩人は、詩だけでなく自著のデザインについても屈折した意識ある人であったらしい。処女詩集『半分開いた窓』(大正15年 太平洋詩人協會)のデザインはダダイズムといふか構成主義が意識されたものだが、装釘者は著者より「キタナラシクつくって呉れ」との依頼があった由、で「出来上りがキタナ過ぎた」とぼやいたのだとか。(尾形亀之助記)。

 さういふ意味では意表を突いたといふより、狙ひ通りの屈折した出来栄えと言へるのだらうか。入手したもう一冊の、有名な第3詩集『大阪』(昭和14年 赤塚書房刊)は、同じくアナーキストだった歴程同人菊岡久利の手になる実に投げやりなスケッチによる装釘が、(意識的なのだらうが)過度なつまらなさ(笑)に仕上がってゐる。(人間性の魅力本位で行動する菊岡とはこのあと思想的立場を真反対にすることになる)。

 ただしかし彼の批評精神を宿した詩想はその意識的な「つまらなさ」の下で開花したのであった。戦後、彼の作品は「抒情を排した抵抗精神の顕れ」などと担がれた。けれど私に言はせれば、彼の佳作はことごとく「不機嫌な抒情詩」と呼んだ方がしっくりする。小野十三郎が伊東静雄を回想する一文で『春のいそぎ』収録の詩篇「夏の終り」を選んで親近感を示してゐるのは、伊東が大阪在住の同世代詩人で当時子息の担任であったなどといふ卑近な事情からではない。イロニーの「不機嫌さの質」において等しいものを感じてゐたからであって、このたび酸性紙の香りが芳ばしい『古い世界の上に』の原本を、注意深く繙きながら感ずるところがあったのも、初期伊東静雄の新即物主義風の作品にも通ふやうな 成心に満ちた措辞についてであった。



 ある詩人に



あなたは眼を輝かせて

僕らの話を聞いてゐた

あなたは人一倍涙もろくてすぐに亢奮するのであつた

僕らが語らうとするもの、あなたはそれをお互ひの友愛の上でのみ読まう とした

おそらくあなたは非常に幸福だつたらう

あなたは路傍の泥酔者(のんだくれ)よりも猶悪く酔つぱらつた

あなたの誠実と熱意にもかかはらずあなたは事実その話を聞いてはゐなかつた

あなたは舌鼓をうつて飲んだのだ。僕らの話を。

                             『古い世界の上に』47p







 葦の地方



 遠方に

 波の音がする。

 末枯れはじめた大葦原の上に

 高圧線の弧が大きくたるんでゐる。

 地平には

 重油タンク。

 寒い透きとほる晩秋の陽の中を

 ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され

 硫安や 曹達や

 電気や 鋼鉄の原で

 ノヂギクの一むらがちぢれあがり

 絶滅する。

?????????????????????????????????????????????? 『大阪』13-14p

 『大阪』集中の有名な「葦の地方」といふ詩においても、イメージは全編が重苦しい。「ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され」といふ一節に、まず読者は躓かされるだらう。ユーファウシャとは「euphausia:オキアミ」のことである。言葉が分からなくても「とうすみ蜻蛉」がアキアカネでないことは分かるのだが、語義が分かると、腹脚をうごかして揺曳するオキアミよろしく、イトトンボがそこかしこを飛翔するイメージが、滄海と秋旻とを重ね合はせられて一層美しく伝はってくる。あるひは晩秋に灯心蜻蛉はそぐはない。むしろ彼が忌むべきアキツシマの語源をもち、オキアミとも似つかはしい赤蜻蛉の群泳シーンに変換して読んでも面白いと思ふ。

 とまれ「コギト」的な抒情詩だったら美しい一篇にシニカルな瑕瑾を混ぜるところ、彼はその反対をやって効果を上げたのであり、不機嫌の極みながらこれもまた抒情詩と呼んで差し支へないもののやうに私は思ってゐる。抒情詩を作れぬ詩人は詩人ではない。そして詩に社会的メッセージがなければ価値なしと断ずるなら、メッセージが社会から否定された時点で作品もまた無価値になってしまふ事情は、彼が忌んだ戦争詩だけでなく、この詩においても同様であると思ふからである。

 けだし小野十三郎によって社会的現実に対する認識が投影されない抒情詩人たちの作品が否定されたこと。それに意味があったのは、躬を挺した指弾を彼が敗戦前に放ってゐたからである。いかなる思想も遠慮なく発表できるやうになったのち、小野十三郎にかぎらない、抵抗詩人たちの戦後の詩業といふのは、なほ怨みをもって抒情詩人たちを総括糾弾した散文の詩論に較べれば、漸次戦闘の意味を失はざるを得なくなっていったやうに私には思はれる。180度転身したジャーナリズムは、現実の彼らに充分に酬ゐたであらう。けれど続く高度経済成長はかつての抵抗詩人たちの前衛の自負を後ろから刺したのであった。 その上に露見する共産主義国家の腐敗と恐怖に至っては、彼らは何を思ったらう。嫌気がさし再びアナーキズム的に嘯いてみせることは、戦争を体験した旧世代の抵抗詩人たちだけに許された特権であり、謂はば見果てぬコスモポリタンの夢である。しかし彼らの薫陶を受けた団塊世代以降の現代詩詩人たちが同じいポーズを取りながらも、師匠が否定した四季派否定には頬被りをしたまま、時に抒情詩の魅力なんぞを語る様子をみるにつけ、この上ない破廉恥を私は感ぜざるを得ない。

 詩人の責任ではないところでその詩が述べる志が社会的に有効・無効に選別される「時代」がある。時代からの「お墨付き」の評価に胡坐を掻いた途端、詩人は足元を掬はれる。それは戦前も、戦中・戦後も同じことではないだらうか。 私の中で「批評精神」とは、決して思想ではありえず、その「不機嫌さ」の真率を絶えず問ふことにつながってゐる。

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699やす:2014/07/11(金) 20:40:59
『桃の会だより』17号
 いつも頂いてゐる『桃の会だより』ですが、前号に続いて17号も主宰者山川京子女史を偲び奉る特集となりました。葬儀後初の歌会での詠草と回想は、それぞれ皆さんの哀悼・思慕・尊崇の想ひに満ち、時に曠世の女傑でもあった京子氏その人となりを伝へる消息にも触れ得て、嬉しく拝読しました。
 亡くなる前夜、姪御の赤木圭子氏の呼びかけに対し、応へるでもなく毅然と発せられた「大丈夫よ」といふ最期になった言葉のこと。ほかにも「どして百歳に限るの、百歳以上は生かしてくれないの?」「私に事へるのでなく学ぶのよ。」「甘えるじゃないの。」などなど、煥発される気丈な立ち居振る舞ひの一々が、細やかなことも決して疎かにされなかった几帳面と配慮とを一度でも経験して相対した人ならば、まことになつかしく髣髴されるに違ひありません。
 そして昨年、郡上高鷲に建てられた歌碑のこと。

「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」

 「とこしへの願ひ」とは何か。会員からの質問には「そのうちわかるわよ」なんて嘯かれた由。その真意を結社の各自銘々が心にひきとり、これからも歌の道をあゆんでゆかれることになるのでありませう。和歌はたしかに亡き夫であった詩人山川弘至と京子氏との「心の通ひ路」でありました。しかし私は野田安平氏の「とこしへの願ひについて」といふ一文にありました、「ねがひ」とは自身の没後にも夫君を追慕し続けるといふやうな、京子氏個人の願ひといふより、何かを指し示してゐるものではないか、その標識として自身の歌碑を建立せよといふ周囲からの懇請をしぶしぶ承知されたのだ、といふ卓見に同意します。

『日本創生叙事詩』は、原稿を確認してもなぜか「桃」の章※が脱落してゐます。以前、先生にお尋ねしましたが、「桃の会」発足時、そのことに結びつける意識はなかったとのことです。しかし結果として、先生は、父君の原著の脱漏を六十年にわたって埋め続けられたことになります。そして未完の長歌の最後に、美しく反歌を添へて一巻を完成なされた。そのやうに思へてなりません。12p (※古事記でイザナキが黄泉軍から逃れる条り)

 日本浪曼派の衣鉢を継ぐ短歌結社といふと、右翼か何かの集まりのやうに思はれる向きもあるかもしれません。しかし山川弘至記念館資料の整理に尽力、今後の運営についても影響されると思はれます野田氏は、靖国神社の権禰宜でありますがキリスト教の薫陶を家庭で受けた謹飭の人であり、姪御の赤木氏は英語の先生、また京子氏自身も戦前日本で迫害にさらされた大本教の司祭になられたのでした。「文学(文士)とは行儀の悪いものである」といふ世に行はれてゐる観念、その対極に立つやうな桃の会の「歌の道」そして大和魂の精神は、ますらをぶりを掲げた山川弘至を愛しむ山川京子のたおやめぶりを本義とするかぎり、俗念の赴くまま自己表現することを誡めながらも、決して表現の自由や平和の大切さを蔑ろにするものでない。むしろその反対だと、それだけは堅く言へるのではないでせうか。

700やす:2014/08/18(月) 16:35:26
連日溽暑
休暇後半も引続き修養中。

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701やす:2014/08/24(日) 23:12:02
舟山逸子詩集『夢みる波の』
 まもなく創刊100号を迎へる季刊同人詩誌「季」の旧き先輩、舟山逸子様より新詩集『夢みる波の』の御恵投に与りました。ここにても御出版のお慶びを申し上げます。
前回の素晴らしい装釘の詩集『夏草拾遺』(1987年)から、早や四半世紀が経ちます(当時は活字本でした)。あれから以降の作品を春夏秋冬、毎回ぽつんぽつんと拝見してきたわけになるのですが、今回かうして一冊にまとめられてみると、淡い色調ながら生きる悲しみが主調低音となって響いてゐることにあらためて驚き、抒情的な滑空を回想のうちに示してみせてゐるこの一冊には、前後も無く
「長い間心にかかっていた古い詩編にやっと場所を与えることができました。」
と、著者にとって何か心の荷物を下ろしたやうな呟きを記した紙片が添へられてゐるのでした。

 けだし杉山平一先生直系のエスプリあり、散文で書かれた海外美術館を巡るスケッチあり。しかし舟山さんの詩の個性はどちらかといへば、やはりエスプリといふより、母性とは異なった女性ならではの語り口、その優しさそのものにあるやうな気がしてをります。現代詩に疎い私は、それを誰それになぞらへたり、また独擅場の語り口であるとも自信を以て讃へることができないのが歯がゆいところ。わが詩的出発の際には矢野敏行大兄とともに姉のやうに見守り励まして下さった、その思ひ出もいまだに当時のままに、このたびは私好みの一篇を抄出して紹介に代へさせて頂きます。ありがたうございました。

  五月

五月の 若葉をたたいた
雨はあがって
ひろがりはじめる青空
草の匂いの濃い森のなかでは
淀んだ池の葦のあいだを
一匹の光る蛇が 首をたてて
泳いで行く


舟山逸子詩集『夢みる波の』2014.9.1 編集工房ノア刊行 75p \2,000 isbn:9784892712142

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702やす:2014/09/24(水) 07:25:03
リルユール
フランスに10日間ほど行ってきました。20年ぶりの海外旅行です。写真はFacebookにupしました。

さて、古本愛好家としてパリの古本屋さんや古書市にも行ったは行ったんですが、所詮言葉が分からないのだからどうといういふこともありません(笑)。
探してゐたドイツ人画家ハンス・トマの画集はみつからず(ここはフランスですからね)、またフランスで一番のおきにいりの詩人フランシス・ジャムの古書も、メモ帳をみせつつ訊ねてはみましたが市にはないやうでありました。(詩が一般庶民の生活に根づいてゐるといふフランスでも今や四季派みたいのは人気がないのかな。)

せめてもの旅の記念にと、美しい革装の袖珍本など左見右見するうち、やがて蚤の市で手に取った一冊の背表紙に目が。『Pierre Lafue. La France perdue et retrouvée1927』理由は写真の通り、日夏耿之介の詩集『黒衣聖母』を彷彿させたからでした(背の褪せ方がまた 笑)。
内容もよくわからぬまま求めたのですが、どうやら元は並装本で装釘をし直したもの。並製の背をそのまま遊び紙に残してあるところがなんともフランスらしく「リルユール」文化を感じた次第であります。

ここではフランシス・ジャムの本(評論) 『Armand Godoy. A Francis Jammes1939』もみつかりました。もっていったもののどう処分したら分からなくなって困ってゐた拙詩集を進呈したら、笑って二冊を値引きして頂きました。御主人ありがたうございます。訳してもらふことになる知り合ひの日本人さんにもよろしく!

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703やす:2014/10/13(月) 13:53:17
「昭和十年代 鳥取のモダニズム詩運動」
 永年モダニズム詩人荘原照子を探索してこられた手皮小四郎様より、同人誌『菱』187号の御寄贈に与りました。
 巻頭に掲げられた小谷達樹氏の御遺稿の8ページ、このあとハイブロウな読書家に人気のある歌人塚本邦雄がらみのお話に続く筈だったといふことで、続編が書かれなかったことが残念でありますが、詩人であった先君、小谷五郎(安田吾朗)が関はった、貴重な戦前の地方詩史の発掘紹介がなされたお慶びを、お悔やみとともに申し上げます。

 小谷五郎氏は現在、鳥取地方の郷土史家として名を残されてゐるやうですが、戦前に発刊されたといふ詩誌『狙撃兵』『ルセルセrecherche』から抄出された、安西冬衛テイストの作品をみるかぎり、シュールレアリズムがかった盟友清水達(清水利雄)氏のものよりも凝縮された抒情がこめられてゐて、詩集を刊行しても反応がなかったことに落胆し画業に向かったともありましたが、斬新な装釘意匠をものする才能ともに残念なことに感じられました。

 閑日の構成
                    小谷五郎

要塞の午後M大尉の私室で麻雀は行はれた。
赤い三角旗のもとで少女は十六才であると言ふことを発見した哨兵はゐた。
U河附近の図上に帰ってこない騎兵斥候。
その日は砲術家のゲミア軍曹が大尉の夫人の眼を気にかけてゐたのでたびたび牌を投げ出してゐた。

                                      (「狙撃兵」2号)

 近視で肋膜の前歴もあったためか戦争にはとられなかったやうですが、地方の師範学校出身の先生ともなれば、そうそう思想的な進取の気性を標榜し続けることも難しかったでせうし、清水氏のやうに軛を嫌って上京することも、おそらく本来詩人の稟質に叶ふものではなかったのだと思ひます。その処女詩集だってそもそも何冊刷って配られたものか、『歴程』といふタイトルの詩集は小谷五郎・安田吾朗いづれの名義でも国会図書館ほか国内の図書館に登録がありません。(一方昭和十年代の西日本同人誌界を風靡したアンデパンダン誌「日本詩壇」から出された清水氏の詩集『航海』は国会図書館で確認できるやうです。) 手皮様が、無念に斃れた達樹氏の略歴を記されましたが、当の詩人の略歴を御子息の手で書き遺して頂きたかったものと、せめて詩集の書影・書誌概略なりとも知ることができたら、これは拙サイト管理者としても残念に思はれたことであります。

 地方に隠棲して郷土史家の道を歩まれたみちゆきは、戦前最後の中原中也賞を受賞しながら詩筆を断った、当地方の平岡潤を髣髴させるものがあります。以下に手皮様の紹介文より経緯について引きます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

「確か昭和41年頃のことと思うが、部員の話題が塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』に及んだ際、家にあるよと言って、翌日持ってきた。部員に鳥取西高の短歌誌『青炎』同人も居て、120部限定のこの稀観歌集を熱心に書き写す者もあった。『水葬物語』は塚本邦雄から小谷の父、小谷五郎へ献本された一冊だった。
 小谷五郎は『狙撃兵』『ルセルセ』を編集発行した後、十年の空白を経て、十歳年少の杉原一司と避遁し、戦後『花軸』を創刊した。小谷にとって〈前衛の歴史を創る詩徒〉の相手が、上京した清水達に替わって杉原一司になったわけである。杉原は八東川対岸の若者で、前川佐美雄の『日本歌人』(当時は『オレンヂ』)に属する俊秀だった。
 昭和23年春、『花軸』が終刊すると、杉原は〈前衛の歴史を創る〉伴走者に『オレンヂ』の塚本邦雄を選び、『メトード』を創刊。 『メトード』全7冊中11冊に小谷五郎が寄稿しており、これらのことが背景にあって、塚本は小谷に『水葬物語』を贈ったのである。

 小谷五郎には多くの著作があり、没後編まれた『小谷五郎集成(文学篇)』もあるが、全作品を網羅した詳細な書誌はなかった。ぼくはかねてからこの書誌の作成と、『狙撃兵』から『メトード』更には『水葬物語』へと流入する八東川畔のモダニズム文学の系譜を纏めるべきだと言い募ってきた。
 小谷達樹がこれに応えて取りかかったとき、彼はすでに病床にあった。二稿辺りの原稿の隅には、もう頭が回らないと震える筆跡の添え書きを残している。小谷は遠のく意識に自らの頬を打ちながら、この前篇を仕上げて逝った。無念であるが、これが彼の命の最後の華と思えば感堪え難いものがある。」
                                                    (「小谷達樹遺稿一件」31p)

『菱』187号 2014.10.1 詩誌「菱」の会発行 56p  500円

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704やす:2014/11/11(火) 21:08:59
舟山逸子散文集『草の花』
 新詩集『夢みる波の』に続き、はじめての散文集『草の花』を、関西四季の会の先輩、舟山逸子様よりお送りいただきました。御刊行のお慶び、そしてふたたびの恵投に与りました御礼をここにても厚く申し上げます。

 先輩舟山さんはわたしよりもうひと世代上、第4次復刊「四季」をリアルタイムで体験された投稿世代にて、ここには「四季」終刊を契機に関西四季の会を興され、本格的に詩作を始められた1970年代から折に触れてものされた散文の粋が収められてゐます。乙女心が映える瑞々しい初期文章はもちろんですが、詩人必ずしも詩情を展ぶるに韻文に限ったものでないこと、ことにも舟山さんの詩人たる特長はむしろ散文の語り口に於いて顕著であること、かうして纏められると一層はっきりするやうな気がいたします。清楚で内省的で、地に足の付いた誠実な心情の吐露は、その手際がまた杉山先生を例に出すなら「手段がそのまま目的」であります。即ち「文は人なり」といふことに尽きる訳ですけれども、書きはじめられた頃の文章から些かの変りもない「操」「育ちの良さ」といった、実際に舟山さんに会った人がやはり同じく感じられるであらう印象に重ね合はせては、また驚いたことでありました。

 第一部の創作エッセイでは、詩人が得意とする美術館探訪エッセイの嚆矢といふべき、碌山美術館の回想を叙した冒頭の一文をはじめ、若くして逝った先考を追慕した作品、花弁を呑み込まうとしては吐き出してしまふ鯉に託した切ない短編などにこころ打たれます。
 対して第二部の詩人論には、これまで単発で発表されたままの優れた立原道造論・杉山平一論がまとめて収められてをり、昭和期の最良の読者から眺められた視点が、そのまま同時代の詩人達に同じ書き手の視線から援用されるところにもあらたな発見を認めます。

「視野の限界が映画の芸術性を支えている。」253p「「型」の肯定は杉山平一氏の特質の一つではないだろうか。」252p
「興味深いのは、この「隱す」ということが、すっかり溶けこんで混じり合ってしまうということでは決してない、ということである。(中略) 存在そのものを消しはしない。(中略) その存在のありようは、強い自負心に裏打ちされているように思われる。」257p

 これを読まれた杉山先生の喜びが手に取るやうに分かるやうな評言に、思はず鉛筆を引いてしまひます。


「私は信じる。「うそ」のなかの「ほんたう」こそが、文学の真実の世界であり、それは常に「ほんとうらしいうそ」であるかもしれぬ現実世界とせめぎ合っていると。」185p
「「夢をみた」と詩人がいうとき、詩人は決して眠ってなどいない。目を閉じてなどいない。くっきりと目ざめていて、その「夢」をみているのである。」207p

 詩人の成立背景を余すところなく語ってゐる点、そして「四季」の詩人達に私淑された影響(成果)が、当時昭和40年代の現代詩ブームが与へた影響よりも、 散文であるためよりはっきりと刻印されてゐるといふ意味においても、舟山逸子の抒情詩人を一番に証する一冊として語られるものになるのではないでせうか。

舟山逸子散文集『草の花』2014.11.1 編集工房ノア刊行 285p 2,500円 isbn:9784892712159

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705やす:2014/11/12(水) 21:11:39
「薄明の時代の詩人」
「薄明の時代の詩人」 スイス在住、写真家にして詩人でもあるschale様のブログを紹介いたします。

 まづはアルプスの山稜や高原、極北の地勢を捉へた風景写真の息を呑むやうな美しさに瞠目です。合せて詩と平和に関する断章が、実存主義に列なる詩人哲学者たちをトリビュートしながら綴られてゐるのに圧倒されました。タイトルはヘルダーリンを評したハイデガーの言葉「乏しき時代の詩人」から。
 驚いたのは、戦後文壇から「日本浪曼派」の中心人物として悪罵の限りを浴びて抹殺された感のある評論家、芳賀檀氏晩年の謦咳に接されたschale様、先師の貴族的精神に対する誤解を釈くべく、ネット上で擁護されてゐることでした。それも政治思想によるのでなく、晩年に至るまで抒情を重んじた思索する詩人としての姿を掲げてをられてゐるのを拝見して、御挨拶さしあげたい方だなと常々思ってをりました。このたび拙詩集をお送りすることが叶って、懇篤なご感想をいただくと共に同庚であることにも聞き及んで、大変励まされてをります。


 また酒田の加藤千晴詩集刊行会、齋藤智様よりは、現在酒田市立資料館で開催中の「吉野弘追悼展」に付随して設けられた、詩人加藤千晴を紹介する小コーナーについて、報告とご案内のお便りをいただきました。こちらは失明によって文字通りの「薄明の世界」を、詩を書くことのみを支へにして生きた四季派詩人ですが、在郷詩人の方々により、この機に合せて顕彰されてゐることを嬉しく思ひました。


 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。  (写真はすべて齋藤智様より)

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706やす:2014/11/29(土) 12:37:09
松本健一さんの訃報
 松本健一さんの訃が報じられた。

 先師の詩業『田中克己詩集』を、たった300冊しか刷ってゐないにも拘らず中央雑誌の書評欄で紹介して下さったのは松本健一先生だけでした。

 また小高根二郎氏による浩瀚な評伝が出された後、誰も続いて評する者のなかった蓮田善明について、詩人的側面を切り捨てずに論じた単行本を著すなど、日本浪曼派の文学に深い理解を寄せられる当代一の評論家が、折しも時の民主党政権の顧問に迎へ入れられた時には、吃驚もしたことでした。

 昔、海のものとも山のものとも判らぬ無名の若者が送り付けたペラペラの詩集に対し御感想を賜ったこと、忘れません。
 心より御冥福をお祈り申し上げます。

707やす:2014/12/11(木) 19:32:27
『感泣亭秋報』9号 『朔』178号 小山常子追悼号
 詩人小山正孝の御子息正見様より年刊雑誌『感泣亭秋報』9号を拝受、前後して八戸の圓子哲雄様より『朔』178号の御恵投にも与りました。ともに今春93歳で身罷った小山正孝夫人常子氏を追悼する特集が組まれてをり、感懐を新たにしてをります。拝眉の機会なく、お送り頂いた雑誌に対する感想をその都度これが最後になるかもしれないとの気持でお便り申し上げてきた自分には、今回あらためて寄稿する追悼文の用意がありませんでした。同じく書翰上のやりとりを以て手厚いおくやみを捧げられた『朔』同人のお言葉を拝して恥じ入ってをります。

『感泣亭秋報』9号 (感泣亭アーカイヴズ 2014.11.13発行)
発行連絡先:〒211-002 神奈川県川崎市中原区木月3-14-12

『朔』178号 (朔社 2014.11.20発行)
発行連絡先:〒031-0003 青森県八戸市吹上3-5-32 圓子哲雄様方

 詩作の出発時から現夫人との純愛をテーマに据えてきた「四季」の詩人小山正孝。その片方の当事者自らの筆により楽屋裏からのエピソードを提供、それを契機にエッセイ類を陸続発表されるやうになった常子氏ですが、このたび感泣亭の会合に集はれた皆様、そして『朔』同人の方々から寄せられた回想といふのは、亡き夫君の面影を纏ひつつも常子氏独自の人柄才幹を窺はせるエピソードが興味深く、読み応へのあるものばかりでした。

 そもそも詩人当人より奥方の方が、よほど現実生活において対人的な魅力と包容力に勝ってゐるといふのは、わが先師田中克己夫妻の例を引き合ひに出すまでもなく、詩人と呼ばれるほどの人物の家庭では、必ずやさうなのでありませう。詩人からの“呪縛”と記してをられた方もありましたが、伴侶を失った妻が驥足を伸ばし、夫より長生きするといふのも、常子氏の場合において特筆すべきは、その“呪縛”を自らもう一度縛り直すがごとき殉情ロマンチックな性質のものであったこと。まことに「小山正孝ワールド」において韜晦された愛の真実を証しするもののやうにも感じられます。最愛の夫を失った喪失感を埋めるために始められた執筆が、不自由な青春を強いた戦前戦中に成った夫婦の原風景にまでさかのぼり、たちもとほる、その回想が恐ろしいほどの記憶力を伴ってゐることに、読者のだれもが驚嘆を覚えずにはゐられなかった筈です。

 斯様な消息は、(小説と銘打ってゐますが)このたび『感泣亭秋報』に遺稿として載ることになった雑誌の懸賞応募原稿「丸火鉢」にも顕著で、これが卆寿を超えた女性の書いたものであるとは思はれない等といふ単なる話題性を超え、戦時中の日本の青春の現場が、斯様に若い女性の視点からあからさまに描かれてゐるのも稀有のことならば、戦地へ送り出す新妻の心栄えを杓子定規な御涙頂戴の視点からしか称揚してみせることができない邦画的感傷主義に比してみれば、非社会的なあどけない主人公の心持が、許婚に対する意図しない残酷さを伴って綴られてゐる様は新鮮でさへあり、家族に対する真面目な倫理性との混淆も計算上の叙述といふことであれば、非凡といふほかないと自分には思はれたことです。読み進めての途中からどんどん面白くなり、未来の御主人「O氏」が全面に出てくる前に筆を擱いてゐるところなどは、(自分に小説を語る資格などありませんが、一読者として)唸らざるを得ませんでした。
出版社も事情を飲んで一旦応募した作品の返却によくも応じてくれたものだとも思ひます。掲載に至る経緯をあとがきに読み、感慨を深くした次第です。

 一方の『朔』巻頭には絶筆となった未定稿「the sun」が載せられました。

「何時までも何時までも鼓動しているのでしょうか。私の心臓 一時は困ったことだと思っていましたが此の頃になって私の日常のラストのラストまで未知の経験と冒険の日々を作ってみようかなと思うようになりました。」5p

 生(いのち)の陽だまりに対する感謝が、英語塾の先生らしいウィットを以て太陽(sun)と息子(son)に捧げられたこの短文、御子息の編集に係る『感泣亭秋報』には、立場からすれば一寸手前味噌にも感じられてしまふ内容だっただけに、掲載されて本当に良かったと思ひました。けだし1971年に創刊した抒情詩雑誌『朔』はこの数年、小山常子氏の純情清廉なモチベーションによる貴重な文学史的回想によって、四季派の衣鉢を継ぐ面目を保ち、新たにしたといって過言ではありませんでした。常子氏においても自ら書くことによって亡き詩人の余光を発し続けることができることを悟り、残された自身の存在証明とも言はんばかりの創作意欲を、迎へ入れられた「朔」誌上でみせつけてこられたのは、同じく未亡人であった堀多恵子氏以上の情熱であったといってもいいかもしれない。それ故にこそ、訃報を受け取った圓子氏の心痛も半年以上筆を執ることができなくなったといふ体調不良にまで及んだのでありましたでせうし、常子氏が昨年文業を一冊にまとめられて区切りをつけられたことに、私も某かの讖を感じぬでもありませんでしたが、御高齢とはいへ、明晰な思考と記憶と、そして恋愛を本分とする抒情精神をお持ちだった文章の印象が先行してゐただけに、やはり突然の逝去は、期日と年歯をほぼ同じくした山川京子氏の訃報と共に不意打ちの感を伴ふものでありました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


 また今号の『感泣亭秋報』について補足します。このたびは渡邊啓史氏、蓜島亘氏の労作原稿を得て倍増し、資料的価値満載の150ページを超える大冊の文学研究雑誌となってゐます。渡邊氏は詩人小山正孝の一作一作の業績ごとに肉迫する論考を第4詩集『散ル木ノ葉』に於いて展開。一方の蓜島氏は戦中戦後の文芸雑誌人脈を出版面から実に細かく一次資料に当って描き出し、連載3回目のこのたびは、雨後の筍の如く林立しては淘汰されていった終戦直後の出版界の混乱に、抒情派の旗揚げもまた翻弄される様子が述べられてゐます。新雑誌の盟主に『四季』の名前とともに担ぎ出されんとする堀辰雄をめぐり、あくまで抒情詩の旗頭になってほしいと願ふ四季派第二世代である小山正孝・野村英夫らの若い詩人たち、文学者であるコネクションを発揮して頭角を露さんとする新進出版社主の角川源義、そして両者の間にあって病床の堀辰雄のスポークスマンを買って出た親友の神西清、その三者の思惑が一致せず、堀辰雄晩年の思案顔も髣髴されるやうな状況が、正確を期する記述と小山家に残された書翰によって明らかにされてをります。小山正孝は結局『四季』ではなく、1号で終った『胡桃』といふ雑誌を編集することになるのですが、四季派の抒情詩人として出版に携はった、例へば稲葉健吉といったマイナーポエットなども今回は紹介されてゐます。戦後しばらくの抒情詩陣営の活況を、資料によって相関関係とともに焙り出してゆく蓜島氏らしい実証作業は、現代詩一辺倒の詩史の隙間を埋めるものとして注目に値します。

 とりいそぎの御紹介まで。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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708やす:2014/12/12(金) 21:28:12
『季』 100号
 同人詩誌『季』が100号を迎へた。精神的支柱に杉山平一先生を戴いた四季派直系の雑誌である。詩を書き始めた頃、拠るべき場所を失った私を迎へ入れてくださった雑誌であり、最年少の身分で好き勝手させてもらったここでの発表が、乏しいわが詩作のピークであったことを憶ふと、お送りいただいた一冊を手に取っては今更の感慨を禁じえない。
同人の詩風はおしなべて雅馴、かつ淡彩ながら各々別あり、私の脱落とすれ違ふやうに入会された杉本深由起氏は、最年少同人の特別席を襲って杉山平一ゆずりエスプリを発揮し、『季』40年の歴史が送り出した選手と呼んでよいのかもしれません。

ちいさな我慢や 怒りが重なって
ミルフィーユみたいになってきたら
紅茶の時間にいたしましょう

カップの中のティーバッグと
白い糸でつながって
ゆらゆら ゆらしているうちに
風とおしのいい丘の上で
凧あげしている気分になってきました
(後略)                      杉本深由起「ゆらゆら」より

 長らく編集に携はってこられた舟山逸子、矢野敏行両氏の温和な人柄が、ゆったりした組み方からはじめ雑誌全体の雰囲気を決定し、毎号の扉・表紙を飾る杉山先生の簡潔なカットは、これが雑誌「四季」の衣鉢を継ぐ牙城であることを示す徽章のやうでありました。杉山先生なきあと、さきの98、99、100号と、深呼吸をしたのち再び歩みをすすめてゆかうとされる皆さんの意気込みが、気負ひなく表れてゐる誌面となってゐます。

 ここにてもお慶び申し上げます。ありがたうございました。

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709やす:2014/12/13(土) 15:16:54
おくやみ 松本和也氏(下町風俗資料館初代館長)
 口語自由律俳句の鬼才、嘗てわが上司にして台東区立下町風俗資料館の初代館長でありました、松本和也(まつもとかずや)氏の逝去を、年賀欠礼状によってお知らせいただき、吃驚してをります。さる四月十四日とのこと、二年間の闘病生活を送られてゐたことも存じませんでした。毎年娘さんの描く一風変はったイラストに、一言を添へた年賀状を返していただくのが楽しみでしたが、昨年はお送りした拙詩集に感想もないまま、いただいた賀状の言葉の意味を計りかねてゐた自分を恥かしく思ひかへしてをります。

  思ひ起こせば地方の大学を卒業して仕事も決まらぬまま上京、三月も終りに「来月からどうしよう」と思ひ倦み、上野は不忍池をぶらぶらしてゐたところ、偶然下町風俗資料館の玄関に貼りだしてあった求人広告に目がとまったのでありました。マンガ雑誌「ガロ」の影響で下町風情にあこがれて上京してきたなんぞといふ、学芸員の資格もない訳のわからない男を、よくも一見しただけで採用して下さったものだと、今に当時のことを思って不思議の感にとらはれてなりません。この資料館に私は文化財専門員として1984年から1990年までの間、丸6年お世話になりました。新任職員の賃金を上回ってはならぬといふ待遇規定で毎年更新、区は学芸員を正規採用するつもりはなく、だから私みたいな者が採用されることになった訳ですが、館長が常々仰言る「いつまでもおったらだめだよ」といふ言葉通り、同僚はここをステップにキャリアアップを目指して次々飛びたっていったのに、無目的の私は9時5時勤務で週に三日もあった休みを精神生活の彷徨に費やし(お金はありませんでしたから)、しっかり怠け者の詩人の生活が板についてしまったのでありました。

 「前衛の自負」を標榜された新日本文学派の松本館長にとって四季・コギトの編集同人だった田中克己の門を敲いた私は、謂はば「花鳥風月の詩人」「戦犯詩人」に与する反動派であり、氷炭相容れぬ関係だった筈ですが、一方では公務員らしからぬ無頼派を気取り斜(はす)に構へてみせる。例へば縦縞の入った紫色のスーツで身を固め、職場に通ずるポルノ映画館の路地裏を肩で風を切って、といふか風に吹かれてゐるやうにもみえる、浅草生まれを自負する粋人でもありました。「民主主義は多数決の勝利である」と言挙げしつつ、イデオロギーを超えたロマンとエロスに苛まれた実存を吐き出す場所を求め、あくまでも自由律「俳句」のカオスに拘泥された。お役所体質と公務員気質を心底嫌ってをられましたが、日本で初めてできた下町の文化風俗を展示する博物館(敷地規模のため資料館とされましたが)の、構想から設立・運営の差配をすべて任されたのちは、恐るべき情熱をもってこれに没頭され、明治・大正・昭和の風俗論を実地調査と共に展開して、その成果を公的刊行物らしからぬ言辞の揺曳する図録に次々とまとめてゆかれました。核となった原風景は自身が青春を送った敗戦後の猥雑たる浅草界隈であったと思しく、威圧感を嫌って物腰こそ柔らかいものの、何事につけても独断専行、わくわくするやうなモチベーションが先行した斯様な型破りのキャラクターが、私ら口さがないペーペーの若者職員にとって瞠目・称賛・畏怖・観賞に値するボスでない訳がありませんでした。遠まきに時折り議論めいた詩論をふっかけてくる、何にもわかっちゃいない、歯牙にも掛らぬ若者の生意気な口吻も、たしなめつつ不羈の精神を嘉して、温かく見守って下さった、その御恩を仕事の上で在職中にお返しすることはできませんでした。勇退後の松本館長とはむしろ私が帰郷した後、同人誌や著作のやりとりを通じてお言葉を頂く間に、頑固な四季派それもよろしい、といふ文学上の認可に至ったとも任じてをりました。

 まことに東京砂漠で路頭に迷ふ既の所を救って下さった御恩。そして資料の収集・展示にまつはる面白をかしい失敗譚の数々。当時の同僚や出向事務方との思ひ出とともに、ひさしぶりに三十年前の自分をなつかしく回想してをります。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

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710やす:2014/12/26(金) 10:07:19
『森春濤の基礎的研究』
 年末にうれしい贈り物、日野俊彦先生より御高著『森春濤の基礎的研究』の御寄贈に与りました。以前に御論文のコピーをいただいてをりましたが、資料編を万全に付した、立派な装釘に瞠目です。刊行のお慶びを申し上げます。

 内容は三度も賦されなければならなかった悼亡詩をはじめ、「洗児詩」に託す思ひが下敷きとした中国の古典のこと、維新前後の詩人の動静について丹羽花南との関はりや、漢詩時代の掉尾を飾った逐次刊行物『新文詩』の意義。そして春濤といへば必ず挙げられる「竹枝」「香匳体」について。ことにも詩壇から「詩魔」と称された一件に於ける「述志」の詩人岡本黄石との関係にスポットライトを当てての考察は興味深く、最後に野口寧斎が遺した184句にのぼる「恭輓春濤森先生」の追悼詩によって春濤の伝記を概括してゐます。
 これら「基礎的研究」と謙遜される話題の数々について、資料を明示しながら神田喜一郎、入谷仙介、揖斐高ほか先達の考察を踏まへた自説が開陳されてゐるのですが、後世の門外漢たちによって、ともすると不遇な大沼枕山をよしとする為に、まるで政界と癒着して成功を収めたかの如く対比して持ち出されることもあった森春濤のことを、人間性の面から捉へなほさうとする姿勢にまづ敬服です。

 森春濤といへば、私の関心は岐阜にまつはる事迹と、梁川星巌翁はじめ幕府から最も危険視された尊攘グループとどのやうに誼を通じてゐたか、といふことに尽きるのですが、岐阜のことは詳しくは書いてありませんが、高山については幻の選詩集に終った『飛山詩録』のことが述べられてゐます。そして政治へ身を投じることができなかった理由について、妻孥の夭折が決定的に掣肘したのではとの指摘に詩人の苦衷を思ひました。星巌門の末席に連なってゐるといふ意識は大獄の後、どのやうに総括されていったのでありませうか。けだし森春濤・大沼枕山あたりを境にして(もちろん性格と身分に拠るところも大きいのでありませうが)やや年長の小野湖山、岡本黄石といった星巌門の人々は、本当に紙一重のところでの生き残りといった感じが深いのですが、春濤は維新後、それらの人々と文事をもって濃密に交はってをります。如何なる話題が往き来したのか、本書には俊才の弟(渡邊精所)の詩稿を「付録」にしてでも収めることとなった『安政三十二家絶句』の出版事情が、編者家里松嶹からの手紙として紹介されてゐますが、同じく打診されて退けられた佐藤牧山の評価とともにたいへんおもしろい。永井荷風『下谷叢話』の粉本だったともいふ出典『春濤先生逸事談』を読んでみたくなりました。

 かつて中村真一郎は、明治新体詩の新声も、円熟した江戸後期漢詩から精神的にはむしろ後退したところから始まったと喝破して江戸後期の漢詩壇を称揚したのでしたが、では明治時代の漢詩とはいへば、こちらはこちらで市井の人情を盛る役目から、漢詩の特性に相応しい志を述べる役目へと、維新時の志士達からそのまま政界人達に受継がれてゆくに従ひ結局「詩吟」の世界へと硬直してゆかざるを得なかった。当路の人たちを指導した春濤を中心とした漢詩檀サロンの盛況こそ、さうした趨勢を裏書きしてゐるやうに感じます。実地では風俗に通じてゐるだけでなく、家庭的にも教育的にも人間味に富んだ穏健円満な「手弱女振り」ともいふべき漢詩の御師匠さんが、押し寄せる西欧文学から漢詩を救ふ活路を見出すにあたって、政事・軍事を盛りやすい「益良夫振り」が喜ばれる場所を用意した象徴的人物になってしまった、といふのはある意味とても皮肉なことでありませんか。世捨て人型の成島柳北や大沼枕山に後世の人気が傾いたのは仕方がないことですが、管見では、同じ熱情をもちながら実際行動に移すを得ぬまま維新を迎へ、はしなくも斯界の巨擘に育っていった様を、私は詩画二大文化においてもう片方に、孤峰ですが冨岡鉄斎を見立ててみたいとも思ってゐます。

 さて「詩魔」といふレッテルは、時代を下り昭和初期になってから岐阜市内に興った同人詩誌のネーミングとして敢へて踏襲されてゐるのですが、ここに拠った詩人たちは近代詩における香匳体といってよいのか、観光的俗謡の分野で大いに気炎を上げたグループでありました。そして森春濤にせよ梁川星巌にせよ、岐阜から出て斯界を総べるに至ったオーガナイザーの巨星たちには、あとになって懐の深さを誤解される批評が行はれたことも多かったこと。あるひはもっと昔の各務支考をふくめてもいいですが、美濃といふ保守的土地柄が稀に特異点を生む場合の一性格として、風土に関係することがあるのかもしれないと思ったことです。

 星巌も春濤も同じく庶民の出であり、役人の家柄を嫌って野に下り低徊したポーズはない。少年時の無頼によって培はれた反骨精神は、現体制と反対の権威の上で発現しようとする尊王精神に結びつき昇華されるものでありました。上昇志向が未遂に終ったのが星巌であり、雌伏して維新を迎へ成功したのが春濤だったといへるのではないでせうか。本書では成島柳北が槐南青年のバーチャル恋愛詩を揶揄する条りが語られてゐますが、父春濤の若き日の狭斜趣味もまた、不自由なく実地を極め得た柳北の青春とは違ったものであったことでせう。梁川星巌もまた吉原で蕩尽して改心、坊主になり詩禅と名乗ったのでありましたが、苦労人である星巌も春濤もともに禅味といふか、道学仏教に揺曳する脱俗の詩境に韜晦したがる一面を、上昇志向の裏返しと呼んでいいやうな詩人的本質としてもってゐるところも共通してゐます。 最後に、著者は星巌の詩集に妻の名なく紅蘭の詩集に夫の名なしと本書の中で記してをられますが、妻のこと夫のことを歌った詩はあり、行迹行状を顧みてもこの夫にこの妻ありの破天荒さと進取の気性は無双です。死別には終ったものの森春濤の三度の婚娶もまた、閨秀詩人であったり、夫に文才を求めたりと、先師夫妻の形態を襲った面もあるのではないかと思ったりしました。

 もっともかうしたことは全て漢詩を自在に読解することができてはじめて話するべきことがらです。頂いた本から触発され、つまらぬ我田引水の妄想まで書き連ねてしまひました。

 ここにても御礼を申し上げます。有難うございました。

711やす:2014/12/29(月) 16:47:59
2014年回顧
 今年は世の中に訃報が飛び交ふ年だったやうに感じます。拙サイトの御縁だけでも、鯨書房山口省三氏、山川京子氏、小山常子氏、元上司松本和也氏といった方々の逝去に驚いた一年でした。
 私事にても図書館からの思はぬ異動命令と待遇。骨を埋めるつもりで寄贈した文学研究書は自分の管理下を離れHPも移設。家族だった愛犬が死に、禍棗災梨の詩集は売れる筈もなく。帯状疱疹が治ったと思ったら今度は腰痛が悪化。と、今に至って難儀を重ねてをりますが、家人に連れられ20年ぶりに海外旅行に行ったことは良い思ひ出に、そして本ばかりは良い出会ひにめぐまれ、随分と慰められました。おもなものを挙げます。

【頂きもの】
坂脇秀治著『森の詩人』野澤一の伝記
石井頼子著『棟方志功の眼』
山本正敏ほか著『企画展「世界のムナカタ」を育んだ文学と民藝』図録
舟山逸子著 詩集『夢みる波の』散文集『草の花』
手皮小四郎ほか著『とっとり詩集』6集
池内規行ほか著『月の輪書林古書目録17(特集・ぼくの青山光二)』
日野俊彦著『森春濤の基礎的研究』
雑誌:『びーぐる』22号、『季』98 ,99,100号、『桃の会だより』 15,16,17号、『菱』184,185,186,187号、『感泣亭秋報』9号、『朔』178号、『Gui』101,102,103号、『遊民』9,10号

【購ひもの】
西郡久吾『北越偉人沙門良寛全傳』
イナガキタルホ『第三半球物語』覆刻版
『富永太郎詩集』昭和2年私家版
菊岡久利詩集『貧時交』『時の玩具』『見える天使』
ユーリー・ノルシュテイン絵本『きりのなかのはりねずみ』ロシア版
小野十三郎詩集『古き世界の上に』『大阪』
『南山蹈雲録』村上勘兵衛版
佐藤一英詩集『故園の莱』
田中冬二詩集『故園の歌』
『マチネ・ポエテイク詩集』
上田静榮詩集『海に投げた花』
芳賀檀『指導と信従』(カロッサ全集)
日夏耿之介訳『英国神秘詩抄』
八十島稔句集『柘榴』『炎日』

良いお年を。

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712やす:2015/01/01(木) 01:29:12
未年、何が未だか見えぬ年
新年あけましておめでたうございます。 今年もよろしくお願ひを申し上げます。


わが干支にはあらねどおひつじ座生まれなれば星図を仰ぎて思へる


やれうつな まがきに休む羝羊座


「運命よ、にっちもさっちも動けぬ者をこれ以上打ち据ゑてくれるな…。」
「おひつじ座」の上に「ハエ座」なんてのが飛んでるなんて知りませんでした。


一陽来復、どなたさまにもよいことがありますやうに。

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713やす:2015/02/03(火) 09:47:24
「薄明の時代の詩人」ブログ
ベルン在住の写真家schaleさんこと矢野正人様より、ブログ「薄明の時代の詩人」にて拙詩を紹介して下さいました。甚だ過賞面映ゆくも、海山のあなたに知己ありの思ひ。感謝の言葉がみつかりません。

 皎潔な空気が胸に溢れ来る写真は、上より南部アイスランドの海岸、スイスHallwiler湖畔、ベルギューン村。google上で地図を歩いてゐると、なんとまあ同じ教会の鐘楼を発見した次第。

 昨年ヨーロッパの土を実際に踏み体験したことで、物珍しい街並みも単なる写真に思はれぬ実感をもったものに感じられるやうにはなりました。ただしかし、アルプスや極北地方に取材された、この世のものとも思はれぬやうな風景写真の数々は、やはりスナフキンの冒険譚に胸躍らせるムーミンのやうな夢見心地でながめるばかりです。

 公私とも気の塞ぐことばかりに満ちみちた日々に、詩人冥利に尽きる御紹介を賜りましたこと、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

714やす:2015/02/12(木) 12:59:15
『小山正孝全詩集』
 小山正見様より御先考の詩業集成『小山正孝全詩集』の御恵投に与りました。

 これまで御遺族のバックアップのもと、小山正孝研究の第一人者を自他共に任ぜられた故・坂口昌明氏によって刊行されてきた潮流社の一連の著作集(『感泣旅行覚え書き』2004年、『詩人薄命』2004年、『未刊ソネット集』2005年、『小説集 稚兒ヶ淵』2005年)。その体裁をそっくり襲ひ、このたびは気鋭の評論家渡邊啓史氏の協力を得て全詩集に相応しい解題を具へるに至ったこと。さぞ泉下の詩人夫妻が無念の坂口氏を慰めながら感涙に咽んでをられるだらうと、偲ばれもすれば、これが文学出版から遠のいた潮流社から刊行される最新の詩書であることを思ふと、感慨もまた格別なものがあります。

 さても早速解題を拝読しながら、私の大好きな『雪つぶて』時代の詩篇たちに対して、渡邊氏が下された的確な評価には快哉を叫ばずには居られません。
巻頭詩篇「水の上」に対して

「それらは内面の感情を投影した心象風景というよりも、むしろ内面そのものの象徴的表現として作られた風景のように見える。310p」
「(詩篇中の「叛逆」について)恐らくはその裏に悲哀の感情を含む、虚勢に近いものである。311p」

 この「作られた風景」は実作体験から申すなら「捨象された風景」のことで、四季派詩人ならではの表現の搾り出し方を指してゐるのでありませう。「虚勢」もまた四季派詩人に特有な含羞に満ちた「身振り」の謂であり、タイトル詩篇「雪つぶて」に歌はれてゐる心情について、

「ここに歌はれている心情は、ある時期の詩人自身の切実な思い319p」

 であると、世の東西ロマン派詩人の出立期に烙印されるべき波瀾時代の痕跡であることを指摘し、

「ただ一人、詩篇「雪つぶて」の「僕」だけが、自身を閉じ込めていた殻を自らの手で破り、開かれた外の世界に走り去る。その意味で詩篇「雪つぶて」は叶わぬ愛に決別して新たな一歩を踏み出そうとする「僕」の、出発の歌でもあるだろう。318p」

 と、四季派の詩人たちが自足する精神世界の箱庭を脱すべく、殻を破って企投しようともがく契機について触れ、戦後詩の世界を先取りした実存吐露の抒情が「草叢の恋人たちの主題」に結実し、「後年の詩篇にも、さまざまに変奏されて繰り返し現れる。」と、はしなくも喝破されたこと。かうした分析を下し得る渡邊氏の読解には、詩人の後期詩篇に対しても充分に信を置くことができるやうに思はれました。

「風景が単なる背景でなく、孤独な「僕」の内面の象徴的表現であるならば、詩篇「水の上」に於て一篇の構図は、風景を見る人物を風景の片隅に描き込む古代中国の山水画にも似て、「僕」の内面を象徴する風景の中を「僕」自身が蒸気船で下ることになる。詩人後期の詩篇には、自己の二重化、多重化の主題が繰り返し現れる。それらはある時期に突如現れたものでなく、此処に見るような詩人初期の傾向の発展に外ならない。311p」

「第二詩集に小山前期の詩的世界の確立を、また第三詩集にその「ソネット」形式の完成を見ることも出来る。そのことに小山は満足しただろうか。恐らく、そうではない。326p」

 時に露悪も厭はず韜晦をこととした愛の、或は盆景的な戦後詩篇を昧読するに当たって、かうした道標を私のやうな現代詩に迂遠な読者に対し示してくれたことに、まずは感謝したい気持で一杯であるのです。

 まことに身辺騒擾としてをりますが、

「気を落としてはいけません
 僕もあなたと同じやうな目にあったことがありました
 苦境に立つこともありますよ」                『山居乱信』「チョビ髭」より228p

詩人が田中冬二氏からかけられたお言葉に感じ入りながら、余暇の徒然にひもといて参りたいと思ひます。
御上梓のお慶びを申し上げますと共に、ここにても篤く御礼を申し上げます。 ありがたうございました。

『小山正孝全詩集』??全2冊 2015.1 潮流社刊 (?:6,318p ?:6,379p) 19.3cm 並製 函入 7000円

【付記】
蛇足ながら望蜀を申し述べるならば、折角のこの機会に、若き日の詩人や常子夫人の俤、交友関係を示すやうな写真の何葉かを、各巻の巻頭に掲げて頂けたらよかったといふ一点であります。拙サイト「田中克己文学館」と同様、感泣亭ホームページ上での資料集の充実を庶幾申し上げます。

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715やす:2015/02/12(木) 21:06:07
「薄明の時代の詩人」ブログ ふたたび
 日経たずして再びブログ「薄明の時代の詩人」において、拙詩が紹介に与りました。詩人冥利に尽きるお言葉を圭復、目頭を熱くしてをります。

 今回の詩も当時その翻訳の雰囲気に酔ひ痴れてゐたドイツロマン派の影響が色濃く、「詩人の夢」は大好きだったハンス・トマの「wiesenlandschaft」といふ1871年の画を下敷きにしたもの。主人公を画家からビーダーマイヤーの詩人に翻案し、その後の姿に、天上の階段を蹈み進む初期ロマン派のヘルダーリンの姿を重ね合はせて私淑を表明した、私にしては長編(?)に属する一篇です。
 もとより孤独や喪失感といふのは憧憬をこととするロマン派詩人の必須条件なのかもしれませんが、矢野様に「たった一人屹立」などとお見立て頂いたのも、実は周りが見えない、ただの孤立点だっただけのこと。しかしながら鬱々とかなしいことばかりに満ちてゐた青春時代をこんな言葉で弔って頂けると、本当に浮かばれる気がいたします。

「2015年は、世界の歴史の分岐の一つとして刻まれるかもしれません。」(「薄明の時代の詩人」2015.2.8)

 海外においては、たとい中立国のスイスにあっても、在留邦人の身の処し方も留意すべきことが増へてゆくかもしれない今日この頃。不穏ないろんなニュースがこちらにも飛び込んで参ります。
 かつては写真家として戦場カメラマンの道に進むことを考へたこともあり、また平和学研究者として、功利主義・拝金物質主義が招来したグローバリズムの問題を取材するために紛争地に赴かうと思ったことも何度もあるといふ矢野様には、このたびの後藤さんをめぐる報道では、身に迫るものがあり一晩眠れなかったほどであったといひます。 今や当事者にもなりつつある日本の現状を踏まへ、くれぐれも御自愛いただけたらと思はずには居られません。

 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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716やす:2015/03/07(土) 20:09:30
四字熟語漢詩
 偶得

身軽言微詩人嘆   身軽言微、詩人の嘆

心広体胖細君頼   心広体胖、細君頼もし(笑)

遠謀深慮能錬胆   遠謀深慮、能く胆を錬り

慎始敬終安天命   慎始敬終、天命に安んぜん


 漢字検定の勉強過程で四字熟語に親しむ機会が多くなりました。さうして戯れに『四字熟語辞典』を繰って、開いたページに載ってゐた熟語を使って漢詩もどきをこしらへてみた訳であります。もとより平仄も脚韻もない「似非漢詩」ですが、四字熟語のお尻に3つ漢字をくっつけるだけでできるので安直この上なく、前半四字を音読すれば語調は頗るよろしい♪ 今回たまたま開いたページで作ってみましたが、同一音から始まることを一種の制約とすれば、図らずも頭韻を踏むことになります(今回は転句をわざと深謀遠慮→遠謀深慮と外してみました)。地口に落ちてしまふ虞の多い日本語で押韻詩をつくることは難しく、そもそも漢詩の脚韻など訓読すれば意味を成さない訳だから、どうでせう、みなさんも川柳レベルの心構へで「四字熟語漢詩」、試してみては如何。

 ちなみにこの詩はわが身に現在差し迫ってゐる危機の憂さを遣ったもの。




【漢字検定の勉強方法】

 といふことで漢字検定1級を受験、頓に難化が取り沙汰されるなか、前回初受験時は2点足らず(合格率6.1%)捲土重来、このたび無事合格を果たしてホッとしてをります。

 たずねられるのは勉強方法ですが、もちろん協会が制定してゐる『漢検漢字辞典』と『漢検四字熟語辞典』に親しむの以外、捷径はないといってよいのでせう。ただし私の場合、『漢字辞典』は覚えるためではなく確かめるために使ひました。

 種類の尠い問題集の中ではリピーターのみなさんが仰言るやうに『本試験型(成美堂出版)』が、手っ取り早く自信を(特に読み問題について)つけるのにはよかったです。もちろん出題者も「過去問さへやれば合格できる資格」に思はれぬやう、これまでの問題集を回避すべく色々知恵を絞って来ます。自分の場合、今や古書でしか出回ってゐない小学館の『蘊蓄字典』など、問題集ではない別の切口からも勉強してみました。

 しかし先づはみっちり取り組むべきは、多くの受験者が仰言るやうに四字熟語の書きとりだったやうに思ひます。覚える際に私が重宝したのは、ネット上にフリーで配布されてゐたimeの四字熟語辞書でした。これを印刷して膨大な単語カードに貼りつけ、できなかったものを残しながら反復して減らしてゆくのです。

 『四字熟語辞典』を片っ端から覚えてゆくのは容易ではありません。当然「1級・準1級」配当に絞り込んだものから覚えてゆく訳ですが、本番では毎回必ず下級クラスの熟語を使って足元を掬ってきます。また「“人名もの”はパスしてよい」といふジンクスももはや反故になったやうです※。このあたりが思案のしどころですが、満点を狙ふ訳ではないから労力の節減を図るのもよいでせう。下級クラスの熟語は後回しにする、次項に述べますが熟字訓は過去問以外のものには当たらない。事実、僻字の極みのやうな地名や動植物名は本当に役立たない知識です。

 さて、そして問題なのが、書き問題の際に毎回のやうに新出語が出てきてリピーターを悩ませてゐるといふ二字熟語(三字熟語)であります。さきの『蘊蓄字典』、大昔に買ったもので誤記も散見されますが、覚える熟語を絞り込んでゆく際の指標としてはなかなか優れてゐると思った次第。

 熟語を覚える際に一番大切なことは2つあります。ひとつは、故事成語もしくはそれに類した定型の用例ごと覚えてしまふことです。しかし『漢検漢字辞典』の見出し語には用例が挙げられてゐません。そして意味も読みも書いてない小見出し部に挙げられたものから出題されることも少なくない。『漢字辞典』を覚えるためではなく確かめるために使ったといふのはそのためであり、『蘊蓄字典』の熟語にはそこのところがちょろちょろっとゴシックで書いてあったりして重宝しました。宣伝してしまったので、もうamazonで1円では買えなくなるかもしれませんね(笑)。

 そしてもうひとつ大切なのは、「偏」ではなく「旁」でグルーピングして覚えて行くといふことです。音順で並べられた『漢検漢字辞典』は、大筋がその趣旨に叶ってゐるのですが、これに特化した辞書はまだ現れて居ません。幸ひなことに、ネット上で篤志家の方が学習用に作成した懇切なブログが公開されてゐて、これは大変役に立ちました。また複数読みがある場合の読みわけの法則も『漢検漢字辞典』には記してないのですが、ブロガーのみなさまが実例を挙げて解説してくれてをり、大変裨益を蒙りました。

 以上、我流ですが漢字検定1級の勉強方法まで。ここ最近の難易度がいつまで続くのかは分かりませんが、新規取得をめざす方が拙サイト訪問者の中に居られましたら御健闘を祈ります。


※同義の四字熟語が存在する場合、消去法と音感から類推することが可能な様に、配慮もされてゐるやうです(例へば今回なら「濫竿充数」を知って居れば「南郭らんすい濫吹」に到達は可能)

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717やす:2015/03/25(水) 21:38:49
『悲傷の追想―『コギト』編集発行人、肥下恒夫の生涯 』
 先日ふと思ひ立って、田中克己先生と杉山平一先生との対談記録(雑誌『文芸広場』昭和59年)を、ホームページに上すべくテキストにおこしてゐた時のことです。対談中、何度となく“同情を禁じえない”といふ態度で話題に上ってゐた、肥下恒夫氏について、なんとなく気になったのでインターネットで検索してゐたら『悲傷の追想―『コギト』編集発行人、肥下恒夫の生涯 』といふ書下ろしの新刊本が、2012年に刊行されてゐることを思ひがけず発見したのです。コギトの名を冠したホームページを運営してをりながら、全く迂闊なことですが、著者の澤村修治といふ方はこれまで全く存じ上げない未知の方でありました。
早速注文して到着したのが肥下氏の御命日前日のこと。一連の行動が御霊に呼ばて行ったもののやうに思はれてならず、祥月命日の一日、粛然とした気持ちで繙いてをりました。

 「政治的なものから意図的にずれようとした・若き不良知識人たち(同24p)」がつどった同人雑誌『コギト』。雑誌を経済的に支へ、編集雑務の一切を引き受け、『コギト』の母ともいふべき役回りを自ら演じたのは、同人中の奇特な地主素封家であった肥下恒夫でした。「協同の営為」に生涯を捧げた彼の運命はしかし、戦後を境に暗転します。

軍の協力者という誤解を含んだ否定項と、地主という戦後改革での明確な否定項をともに引き受けることになった肥下は、一方で繊細な知識人であった。(『悲傷の追想』53p)

 繊細なばかりではない、至って正義感の強い人でありました。
 本書はその悲劇的な最期に報ずるため、御遺族の協力によって得られた新資料をもとに書きおろされた伝記。前半を割いて戦後の後半生に迫った「胸中恒に花あり」(12-119p)を眼目としてゐます。

 農地改革を受け、売渡式の「祝辞」まで書いて手放した土地が、只同然で取り上げられたことより、時代とともに農地以外の貌に変っていったことの方がむしろ彼にとって不本意なものではなかったかといふ指摘(同54p)にはハッとさせられます。自ら鍬を握り、残った土地で始めた農業が立ち行かず、さりとて学校の教員にもなれず(裕福ゆゑ無理に大学を卒業しなかった)、折角得た病院事務の仕事も内部の不正に耐へられず辞めてしまふ。かつての盟友と会ふことにも気後れが生じ始めるといった条りには、彼を自殺に追ひ詰める複線が一本また一本と張られていくやうで、胸に詰まるものを覚えます。

 本書には、既出資料では大妻女子大学紀要にまとまって公開された「肥下恒夫宛保田与重郎書簡」、それから田中克己先生の回想文がしばしば引用されてゐます。が、なんといっても肥下家に遺された日記と、養女里子氏からの聞き書きといふ、フィールドワークの成果が大きい。戦後となって、訪問のたびにお土産を持ってきてくれた田中先生のことを「ニイタカドロップのおっちゃん」と懐かしく回想されるなど、肥下家と親戚関係※にあった田中先生とは気の置けない交友が続いてゐた様子を窺はせる箇所も数多見受けられるのを嬉しく拝見しました。 (※大阪高校教諭全田忠蔵夫妻それぞれの甥に当たる)

 読みながら、斯様な『コギト』伝を書けるものならば書きたかった自分の菲才を省み、また最晩年の田中先生の知遇を忝くしておきながら、もっといろんなことを聞いておいたらよかったのにと、怠慢の責にも苛まれてゐるところです。

 さうして本書は、「心を盤石の如くおし鎮め」沈黙に甘んじ沈黙を強いた、謎の多い『コギト』の裏方の実像に迫る優れた伝記であると同時に、初期『コギト』に掲載された肥下恒夫の詩・小説・編集後記を併載して、中断された彼の志を留めた作品集を兼ね、さらに『コギト』の実質的な実体であった保田與重郎、その褒貶さだまらぬ文学史的位置に対しても、もはや政治的な思惑から解放され、時代相を客観的に見つめられる世代から突っ込みを入れてゐる優れた保田與重郎論でもあるのが特徴です。といふより、それが後半の論考「協同の営為をめぐって(122-170p)」、さらに巻末に付載された「情念の論理(237-246p)」に至って特化して全開するのです。――いったい「やや翻訳調で自問自答しながら螺旋状に進んで行く(同136p)」、かの悪文(名文)から衒学的要素を剥ぎ取ったところに残るものは何なのか。

筋道を辿って「わかる」ということが、文章にとって、そもそも“いいこと”でも必要なことでもない。「わかる」は正理を強いて抑圧的だ。「わからない」こそ、飛躍がもたらす混沌の自在に開かれる豊饒な言語体験ではないか。――こういった、いささか倒錯的な理解に自分の頭を馴染ませようとしてしまう。これが保田與重郎の「危険な」ところであり、また魅力でもある。(同237p)

 このやうに愛憎意識を語る著者二十年来のモチベーションこそ、本書を著し使めた真の理由であることは間違ひないと思はれるのです。

 正当な理解を遠ざけ、かえって事態をややこしくしてしまうことを、なぜ保田は選択するのか。たとえ誤解に見舞われたとしても、それを余ってあるほどに、概念や範疇で述べることでは到達しないことがらは重要なのだ、と保田は考えていたと思うしかない。(同243p)

 評論対象に「惚れ」こむことを先行的な第一義とし、古典の甲殻を身に纏ひ、同人誌(非商業)精神に開き直ったドグマの城郭上からイロニーの槍を振り翳す。反俗を掲げ、評者と評されるものと共犯関係を築いて時代相に斬り結ばんとする保田與重郎のロマン派評論は、「おおむね、“書き始めてから”、いささか成り行き任せと思われる調子で行われ(243p)」、一種の「憑依」「酩酊」ともいふべき、むしろ詩作に等しいものであることが了知されます。

「真実獲得を昂然と主張する。ひときわ高くから見下ろす。堂々と高みにたつ。高くから見て何が悪いのだ、という開き直りすら保田にはある。その覚悟によって不純を斬り、ひとを殺す(151p)」

 彼はそのやうな覚悟を以て、英雄の日本武尊を、詩人のヘルダーリンを語りました。
本書が刊行される一年ほど前、私は保田與重郎が肥下恒夫に送った最初の著作集『英雄と詩人』の署名本を手に入れました。これ以上考へられないやうな、全くの極美状態で保存された函カバー付の原本を手にした時、私はこれがどのやうに保存されてきたのか、言葉を失ったことを思ひ出します。(画像参照)

「反ディレッタントをいい、真実追究の訴えをしても、それは階級的なものを考えるのではない。真実を明らかにするというのは、左派のいう社会主義リアリズムへの道では断じてない。また、肉親関係とか愛慾相の暴露剔抉から起こる社会的関係といったものでは断じてない。すなわち、自然主義リアリズムのことをいっているのでもない。」(同149p)

 評伝作家としてすでに宮澤賢治や自然主義リアリズムの徳田秋声について単著をものしてゐた著者ですが、肥下恒夫を合せ鏡に見立てたこの度の伝記兼評論の最後に、保田與重郎の思想について「ある部分は間違いなく死滅するが、ある部分はむしろ正当に生き残るであろう。(246p)」と締め括られてゐます。その死滅するのが政治的に、であり、生き残るのが古典として、であることを思へば、さきに当掲示板で紹介した決定版の解釈書『保田與重郎を知る』(2010前田英樹著)と併せて読まれるべき、新しいスタンダードな研究書の登場を、(二年以上も前の刊行ですが)遅まきながら言祝ぎたい気持でいっぱいです。著者が私と同世代1960年生であるところにも起因するのでせう、保田與重郎の文章を分析中(240p)に発せられた「は?」といふ語句の隣に、顔文字(゜Д゜)を頭に思ひ浮かべてゐる自分が居りました。(笑)



 一方、テキストに起こして公開しました田中克己先生と杉山平一先生との対談ですが、雑誌編者の方が語ってゐるやうに、気分屋で好悪のはげしい田中克己先生の“聞き出し”役として、これ以上の人選は考へられず、特に戦前戦中の細々とした人脈事情を、呼び水を注しつつ引き出すことのできるひとは杉山平一先生を措いて居なかったやうに思はれます。機嫌よい日の田中先生ならではのリップサービスや、それも織り込み済みで話を進めてゆかれる杉山先生の大人ぶりが眼前に髣髴とするやうです。

 なかで肥下氏が自殺直前2日ほど前に保田與重郎邸まで愁訴に赴いた日のことが述べられてゐます。これは後日保田夫妻もしくは肥下夫人から田中克己に語られた伝聞ではありますけれども、8日前まで付けられてゐたといふ日記にはその様な記録がないことを確認済の、前述著者の澤村氏が、もしこの対談の一文を読まれてゐたら、との思ひを深くいたしました。保田與重郎は肥下恒夫のお葬式には出席されなかったやうです。今生の別れとなった一日、いったい何が話し合はれたのでありませうか。
 ここには書けませんが、結婚前の保田さんが肥下さんをめぐって田中夫妻を前にして放ったといふ不穏な冗談を耳にしてびっくりしたことがあります。なんでもかんでも、もっといろいろなエピソードを田中先生におたずねして聞き質しておけばよかったと、本当に今更に悔いてゐるのです。

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718やす:2015/04/21(火) 10:15:10
『日夏耿之介の世界』
新刊『日夏耿之介の世界』(井村君江著2015国書刊行会)の読後感をサイトのBookReviewおよびamazonにupしました。(写真は詩人のしかめつら にてない笑)

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719やす:2015/05/01(金) 20:31:17
「陳曼壽と日本の漢詩人との交流について」
 成蹊大学日野俊彦先生より紀要「成蹊国文」48号の抜き刷り「陳曼壽と日本の漢詩人との交流について」をお送りいただきました。

 日中の漢詩人同士の交流。江戸時代にも、長崎出島にやってくる多少文事の嗜みのある商賈たちとの交流が、あるにはあったやうです。しかし明治に入って鎖国が解け、日本の漢詩人たちはそれまで自分達の教養・趣味を規定してきた中華文明の実態に直接触れる機会を持つことになります。明治初期の漢詩壇に陳曼壽なる清人の名がしばしば上ることは承知してゐましたが、彼がまとめた中国人による初めての日本人漢詩アンソロジー『日本同人詩選』の実態や、彼が本国での不本意な待遇から逃れてあるひは食ひ詰めて来日した下級官吏の身分であったことなど、知りませんでした。

 西欧列強の帝国主義に翻弄された日中両国の力関係がはっきりするなかで、漢文教養主義といふものはその後の日本において、在野の側からゆっくり瓦解の道をたどってゆくことになります。漢詩が「詩」であるための根源的な音声学を、書物を通じて理屈として学んできた涙ぐましい日本人の営為に対し、もはや本場のマイスターによる添削やお墨付きが必要とされなくなってしまふ事態――それがよりにもよって物・人の交流が実際に始まった明治時代にさうなってしまったといふのは、なんとも皮肉と言はざるを得ません。伝統的な文人生活を彩ってきた漢詩文の威光が色褪せてゆく一方で、青少年の詩的嗜好は西欧に範をとった新興新体詩へと流れてゆく。当路の人間たちがアジアの盟主たるべく和臭の漢文脈で述志をふりかざし続ける一方で、庶民は中国の現状を馬鹿にし、中華文明を骨董視するやうに変化してゆきます。(今日の中国政府が求める「日本が示すべき歴史的反省」といふのも、実はここらあたり上下でねじれた文化面からほぐしてゆかないと意味がないのではないかと私は思ってゐます。)

 しかしながら漢詩の盛況は、頼山陽の登場にはじまり倒幕維新をゴールとする草莽述志の余勢を駆って、当時の日本では依然として、否むしろ明治に入ってしばらくの期間こそ、空前の量的活況を呈してゐたことが『和本入門』のなかでも明らかにされてゐます。そして本国では左程知られてゐた訳でもない陳曼壽に対する我国の歓待ぶりといふのも、両国文化交流における最も幸せな邂逅のひとつ、日本文化が恩恵を蒙った中華文明の当事者に対して直接敬意を払った記念すべきケースであったといってよいのだと思ひます。来日時すでに小原鉄心が亡くなってゐたのは残念ですが、大垣の漢詩檀との交流などふくめ、詳細な分析結果を興味深く拝読させていただきました。


 また池内規行様より「回想の青山光二(抄)」を掲載する『北方人』21号(2015.4.1北方文学研究会発行)の御寄贈に与りました。さきに「月の輪書林古書目録」内に併載された同名原稿の続編です。小説に迂遠な自分には感想など書くことができず歯痒い限りですが、代作依頼や文学賞への応募、はては著書のサクラ購入の依頼などなど、文壇における先生と弟子との間合を書簡における肉声のやりとりを通じて拝見し、生身の小説家の生理に少しばかり触れ得た思ひいたしました。

 あはせてここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

720やす:2015/05/20(水) 18:23:19
『西征詩』の初刷本
このたびオークションで入手した梁川星巌の処女詩集『西征詩』下冊のみの端本です。
家蔵本と較べると、奥付はまったく同一であるにも拘わらず、最初の4丁だけ微妙に版が異なることが分かりました。
まったく同じ部分の丁も、罫線のかすれををよくよく見比べてゆくと、どうやらこのたびの本の方が古いものであるらしいのです。最初の4丁だけかぶせ彫りにした理由とは何でせう。版木を奥付の本屋で分け合ったために起きた、再刷に関はるトラブル処理だったのかもしれません。

さきに、生前最後の詩集となったアンソロジー『近世名家詩鈔』において、安政の大獄前後に刷られた異本について示しましたが、処女詩集においてもマイナーチェンジが行はれてゐたんですね。詩集が広島から出された経緯とともに、新たな謎となりました。


画像を掲げますので興味のある方はごらんください。

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721やす:2015/06/04(木) 00:50:59
「淺野晃先生をしのぶ集い」
 偲ぶべき故人の膨大な著作を、詩集以外は碌に読んでゐません。生前、一方的に拙詩集を送りつけ御返事を頂いたとうそぶいてゐたといふだけで、出席者のどなたにもお会ひしたこともない文学の集まりに、よく出席などできたねと仮に言はれたとしても反す言葉はないのであります(えばっちゃいけない)。

 先週、五月の晦日に東京竹芝のホテルで行われた「淺野晃先生をしのぶ集い」に、それなら私のやうな人間がなぜ参加したのかといへば、ひとへに中村一仁氏に御挨拶さしあげたかったから。同人雑誌『昧爽』の創刊時より十年にも及ぶ書簡(メール)と寄贈とのやりとりをかたじけなくした中村さんが、私淑された日本浪曼派の文学者である淺野晃の『詩文集』を独力で編集・刊行し、このたびは自身の研究活動に一区切りをつけるため、詩人の御遺族や、立正大学の教へ子、文学関係者・研究者にひろく働きかけて斯様な催し物を企画した、その御苦労をどうしてもお会ひして直接ねぎらひたかったからであります。

 『淺野晃詩文集』の刊行は2011年のことでしたが、今回の集まりは、私の中では、だから少々遅れた詩文集の出版記念会に他ならないものでありました。同じ思ひで臨んだ参会者も少なくなかったのではないでせうか。

 近代文学における伝統の問題をひろく論じてきた文芸同人誌『昧爽』は、中村一仁氏と山本直人氏との共同編集で、創刊準備号を2003年6月に発行して以後、年に2〜3冊を発行し続け、2009年12月に19号を出してからは久しく休刊してゐます。ことさら「休刊」と記すのは20号で終刊する旨をあらかじめ宣言してゐたからですが、本来は、『淺野晃詩文集』の出版を祝する記念号ととして、一緒に出される予定のものと思ってゐました。ところが中村さんの故郷である北海道の公的資料室に収められた淺野晃の関係資料の調査が、町村合併によって金銭的に行き詰まり、また詩人の最初の妻で戦前共産主義の殉教者である伊藤千代子を、転向した夫から切り離して顕彰しようとする地元文学グループの政治的思惑に制せられて、この同時進行の遠大な計画には暗雲が立ち込めた。すくなくとも私には当時そのやうに観じられたのでありました。

 中村さんらしいポレミックな刊行予告文にも一抹の不安を抱いた私は、お手紙でこそ引き続き進捗状況をお知らせいただいてゐたものの、2010年、詩人歿後二十年の命日に『詩文集』が間に合はず、年末に発行予定の20号も出ず、もしや計画は広げられたまま頓挫したのではなからうか、と思ひはじめた矢先のことでありました。東日本大震災の直後、700ページにもおよぶ『詩文集』が送られてきたときには、全く意表を突かれた思ひでしばし大冊を前にして呆然とするばかり。しかしその感慨は、震災を原因とした小火によって中村さんのアパートと蔵書が甚大な被害に遭ったことを知るに至り、痛切なものに変化したのでありました。

 あれから五年が経ちました。ひょんなことから私たちが三人ともTwitterやFacebookを始めたことを知り、近しく情報を共有する間柄にはなりましたけれど、中村さんは『詩文集』刊行の反応について、やはりおもはしくないとの感想をお持ちの様子。さきの地元文学者たちに対する思ひも強ければ、しばしば既存文学に対する懐疑と苛立ちがぶつけられた「つぶやき」に接しては心配もしたことでした。このたび思ひ切って雑誌の終刊号のことをお訊ねしたところ、休刊の間が空きすぎてしまった旨を釈明されました。とは言ふものの今回の「偲ぶ集い」は中村さんの周旋によって実現にこぎつけ、当日も御遺族のほか、文芸評論家の桶谷秀昭氏をはじめ、ネット上で詩人の聞書きを公開されてゐる野乃宮紀子氏ら、約40名の参加者を迎へて盛会のうちに終へることができたのでありました。会後の中村・山本・中嶋の歓談もまた、傾蓋故のごとき実に楽しいひとときであったことを報告します。すでに私は書評をサイトに上してしまったところではあり(ちょこっと手を入れました)、終刊号に寄せるべき『昧爽』にまつはる回想を、詩人淺野晃の御霊の冥福をお祈りするとともに、偲ぶ集ひに参加させていただいた喜びにかこつけてここに語る次第です。中村一仁様、山本直人様、そして発起人の先生方、本当にお疲れさまでございました。

 さて翌日は、淺野晃とは日本浪曼派の文化圏をともにした先師田中克己先生のお宅から、遺された日記帳を借り受け、さらに神保町にては大学卒業時よりお世話になってゐます田村書店に御挨拶。席を移してお昼を御馳走になり、通ひ始めて四半世紀、初めて店主の奥平さんから近しく古本の内輪話をお聞かせいただく機会を得て感激しました。宿泊したのは日本橋で、立原道造の生家跡を散歩できましたし、また電話ではありますが、八木憲爾潮流社会長(92)の御元気なお声にも元気づけられて、貴重な上京、月またぎの両日を終始たのしく有意義な時間のうちに過ごすことができました。

 ここにても皆様に御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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722やす:2015/06/11(木) 20:27:22
田中克己日記
 さきに報告しました、阿佐ヶ谷の御実家よりお借りした田中克己先生の膨大な日記帳ですが、翻刻を開始しました。

昭和4-11年 (『夜光雲』ノート) 9冊 翻刻済
昭和17年 スマトラ記 1冊
昭和18-19年 1冊
昭和20-29年 10冊
昭和30-39年 22冊
昭和40-49年 16冊
昭和50-59年 13冊
昭和60年-平成3年 10冊

 全部で82冊、段ボールひと箱の分量があります(「四季」より1冊多いのだ。笑)。走り書きされた筆跡の判読はたいへんですが、『夜光雲』ノート以来、再び先師の実録とむき合ふライフワークの時間が与へられたといふことであります。昨年から強いられて居る職場からの処遇(いづれお話する機会もありませう)も、ここは「天の差配」と考へ、じっくり向き合ってゆかうと思ってゐます。

 日記は、すでに翻刻公刊済の『夜光雲』については、画像をとりこみ公開する予定です(乞御指摘誤記)。日々の出来事が詳細に記録された戦後の日記については、文学外のプライバシーにも及んでをり、すべてをそのまま翻刻することは考へてをりません。

 しかし矚目のニュースとともに、文事に関はるものを拾ひ、列記してゆくだけでも、戦後関西詩壇および、日本浪曼派文化圏の交流証言として得難い資料となるには違ひなく、また詩人田中克己の東洋史学者としての面目が、詳細な読書記録を通じて私たち一般の人間にも明らかになるのではと期待してゐます。

 手始めにもっとも緊迫した記述を含む、昭和20年の日記を翻刻してみました。このあと出征期間をはさみ、敗戦を「戦犯」として迎へることになった詩人は、五人の家族を背負って(日記は家族の記録でもあります)、その後の日本の混乱期と復興期を、研究者として生計をたてつつ、青春を翻弄した詩の余香と心の平安を求めたキリスト教とにささへられて生きてゆくことになります。戦後70年を迎へる今年、激動の近現代史を生きぬいた市井の一知識人の視点・報告から、私たちが感じ取るべきものも少なくないのではないでせうか。更新は私生活が折れない程度にすすめて参ります。気長にお待ちください。

 借用に関はり御配慮を賜りました著作権継承者の美紀子様、そして御長女の依子様には、ここにてもあつく御礼を申し述べます。久しぶりに訪れた阿佐ヶ谷の、変はらぬ路地のたたずまひがあまりになつかしく、現在自らの境遇を省みては、初めて先生の門を敲いた当時のことを思ひ起こし、しばし感慨にふけってしまひました。ありがたうございました。

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723やす:2015/06/19(金) 01:46:37
田中克己日記 昭和18年
 田中克己日記、昭和18年分の翻刻を完了しました。

日記に出てくる人々はこんな方々。

池内宏、石浜純太郎、齋藤茂吉、小谷秀三、平野義太郎、堀口太平、佐々木英之助、和田清、保田與重郎、小高根二郎、肥下恒夫、桑原武夫、筒井薄郎、稲垣浩邦、松本善海、竹内好、長尾良、白鳥清、竹中郁、川久保悌郎、幣原坦、小高根太郎、田代継男、山川弘至、赤羽尚志(赤木健介[伊豆公夫])、田中清次郎、幼方直吉、小野忍氏等、野原四郎、若林つや、小山正孝、鈴木亨、稲垣浩邦、藤田福夫、信夫清三郎、塚山勇三、田代覚一郎、谷川新之輔、中尾光子、美堂正義、船越章、稲垣浩邦、江本義男、伊藤信吉、伊東静雄、堀辰雄、長野敏一、森亮、新藤千恵子、丸山薫、阪本越郎、呉茂一、津村信夫、沢西健、神保光太郎、五十嵐、野田又男、立野継男、本荘健男、中島栄次郎、山田鷹夫、野長瀬正夫、伊藤佐喜雄、平田内蔵吉、辻森秀英、坂入喜之助、吉野弓亮、若松惣一郎、藤原繁雄、大垣国司、渡辺曠彦、白鳥清、鈴木朝英、西川満、信夫清三郎、渡辺曠彦、浅野忠允、和田賢代、稲葉健吉、中野清見、丸三郎、赤川草夫、古田篤、細川宗平、清水文雄、蓮田善明、岩井大慧、野村尚吾、本位田昇、三好達治、木村宙平、倉田敬之助(薬師寺守)、市古宙三、阿部知二、坂入正之助、北川正明、吉野清、山田新之輔、石田幹之助、古沢安次郎、青山虎之助、杉浦正一郎、杉森久英、植村清二、楊井克巳、岩村忍、、中河与一、田辺東司、井上幸治、山本達郎、太田七郎、亀井勝一郎、今吉敏夫、村上正二、大達茂雄、北村旭、増田晃、篠原敏雄、北町一郎、荒木猛(釈十三郎)、宮木喜久雄、大久保孝次、野原四郎、中島敏、村田幸三郎、中野繁夫、田中城平、佐々木六郎、村上菊一郎、渡辺実定、本多喜久子、中沢金一郎、島田正郎、秋岡博、石山五郎、藤田久一、福永英二、牧野忠雄、服部四郎、木山捷平、小田嶽夫、大塩麟太郎、三島英雄、野村正良、和田久誌、外村繁、白鳥芳郎、北村西望、北條城、長与善郎、林富士馬、坂口安吾・・・。

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724やす:2015/07/02(木) 14:43:57
田中克己日記 昭和19年 20年
 田中克己日記、昭和19年 20年の翻刻を完了しました。 これで戦争中の昭和18年から20年3月出征までの日記が出そろひました。合せて本冊画像をPDFにて公開します。翻刻ミスなどお気付きの向きには御一報いただけましたら幸甚です。

 それ以前の詩作日記「夜光雲」についても、今回本冊画像すべてをPDFにて公開することとしました。
このほか昭和17年の徴用時代の覚え書きノートがありますが、メモ要素が強く、翻刻できる部分がすくないので、こちらは画像のみでご覧いただきます。

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725やす:2015/07/23(木) 02:16:39
田中克己日記 昭和21年 22年
田中克己日記、昭和21年 22年の翻刻を完了しました。

またノート本位ではなく、年で編成し直し、
解説を各年の冒頭に付する形に改めることにしました。

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726やす:2015/08/21(金) 00:38:16
『全釈 拙堂文話』
 このたび齋藤拙堂翁の玄孫であられる齋藤正和様より、新著『全釈 拙堂文話』の御恵投に与りました。誠にありがたうございました。671ページにも亘る分量に瞠目です。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 津藩の藩儒であり江戸時代の文章家として名を馳せた拙堂の著作については、これまでも齋藤先生の私家版として影印復刻された『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』や、白文のまま翻刻された『鐵研齋詩存』がありましたが、このたびは壮年時代の文章論・随筆博物誌といふべき『拙堂文話』二冊全八巻について、訓読、語釈、そして現代文による丁寧な訳文を付し、所々【余説】を設けて、中国古典の造詣が深かった江戸時代知識人の考証の機微にまで触れる解説がなされてをります。巻末に決定稿ともいふべき年譜を付録した浩瀚な一冊は、齋藤先生がさきに刊行されました『齋藤拙堂傳』(齋藤正和著 -- 三重県良書出版会, 1993.7, 427p)とならんで、正にこれまで積んでこられた御研鑽の大集成といふべきでありませう。
 その御苦労を偲びますととともに、労作を墓前に御報告叶った達成感もまた如何にと、手にした本冊の重みにふかく感じ入りました。
 心より御出版のお慶びを申し述べます。

 なほ『拙堂文話』は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」に原本画像のpdfが公開されてをります。ですからこれをタブレットなどに取り込み、並べて参照するのも、今の時代ならではの、和本の雰囲気を一緒に味はふ乙な読み方かもしれません。
 なにしろ孟子、韓愈をはじめ、その多くが中国古典の素養を前提とした作文です。なまなかに紹介さへできぬ内容ながら、ときをり息抜きのやうにみられる随筆的箇所など、たとへば拙堂の地元、伊勢の風俗を記した現代訳文をみつけては、その訓読にあたり、さらにその原本の書影にあたってみる、といった反対の読み方で楽しんでみたいと思ひます。

 拙サイトも管理人の不徳のため、地元漢詩人のコンテンツをゆるゆる充実させる計画が遂に狂ひ、この夏はお尻に火のついたやうな感じで、先師の遺した日記翻刻に専心してゐる、といった塩梅です。御本はいづれゆっくり拝読させていただきますが、とりいそぎ御礼一筆、匆卒なる喧伝を草させていただきます。
 ありがたうございました。


 はじめに            齋藤正和

 第二次世界大戦の戦前、中等学校では漢文が独立教科であった。その教科書には齋藤拙堂の『月瀬記勝』「梅渓遊記」や「岐蘇川を下るの記」が載っていた。だが拙堂は名文家といわれることを好まず、自己の本領はあくまで経世済民の仕事にあると考えた。文章は経世と表裏一体をなすが故に重視した。拙堂にとって文章は愉しむものではなく仕事そのものであった。拙堂は武士である。故に文武一如を説いた。ここに訳出した『拙堂文話』は武士のために書いた文章の指南書であり、それは同時に経世の指南書でもある。魏の文帝の「文章は経国の大業にして、不朽の盛事」という語こそ拙堂の文章観であったに違いない。文武は一如であるが故に文章は高雅であり気塊あるものでなければならない。『文話』はその視点で文章の盛衰がいかに国家の運に関わるかを述べている。文章は国家の品格を表すものと言える。そこのところをこの書から読み取つていただきたいと願うものである。
 なお、拙堂は江戸後期、寛政九年(一七九七)に生まれ、慶応元年(一八六五)に没した。本書の刊行は拙堂没後百五十年を記念するものである。


『全釈 拙堂文話』齋藤拙堂撰 ; 齋藤正和訳註, 明徳出版社, 2015年07月刊行,  671p 8000円

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727やす:2015/08/21(金) 19:45:07
『杉浦明平暗夜日記1941-1945』
 小山正見様より新刊『杉浦明平暗夜日記1941-1945』についてお報せをいただきました。編者の若杉美智子氏は、個人誌「風の音」にて立原道造の雑誌発表履歴の周辺を丹念に追跡、実証的な立原道造の評伝を連載され続けてゐる研究者であり、小山正孝研究サロン「感泣亭」の大切なブレーンでもあります。

 さて、昭和も終らうとする1988年に岩波文庫がたうとう出した『立原道造詩集』の解説のなかで、杉浦明平氏は、晩年の立原道造の日本浪曼派接近が「彼じしんの中からわき出てきたのではないかとようやく気がついた」と、哀惜する詩人に対する彼の“失恋”を完全に認める述懐を記してをられます。しかし一方的に“恋仇”にされた保田與重郎については、『文芸世紀』において主宰者の中河与一がなした非国民的告発をさも彼がなしたやうに、『コギト』の名とともに貶め、捏造したまま、終に改めようとはされませんでした。

 このたびの日記は「遺族の英断と特別な許可のうえで初めて公刊された」代物であるとのこと。それは若き日の彼の糾弾書『暗い夜の記念に』の中で、保田與重郎、芳賀檀、浅野晃といった日本浪曼派の論客たちに対して、ただ怒りに任せた無慈悲の雑言を書き殴って憚らなかった文章の、淵源にさかのぼった日々の記録といふことでありましょう。読まないで迂闊なことは云へませんが、当時の彼を念頭に置いて目を通すべき、謂はば怨念が生埋めにされた放言の産物だらうと思ってゐます。でなきゃ直言居士のこの人が、遺書で「公表を控えるように」とまでいふ訳がありません。しかしそれはもちろん戦後に思想反転してジャーナリズムのお先棒を担いだ連中が遺したものとはまるきり訳が違ふ。編者の云ふやうに、これは彼が戦中戦後いかほどの「ぶれも転換もなかった」“証拠物件”であることもまた、読まずとも分る気がいたします。
さきの岩波文庫の解説のなかで「明平さん」は、立原道造が愛した信州の地元の人たちのことを「屁理屈とくだらないエゴイスムにうんざり」と味噌糞に罵倒してゐて、私は大笑ひしたのですが、つまりは『暗い夜の記念に』から四十年経ってなほ斯様に口ひびく毒舌を、当時のそれにたち戻り、俯瞰して理解できるやうな人がこの本を手にとってくれたらいいと思ひました。

 ただ、戦局が悪化の一途をたどってゐた昭和19年の初頭に「敗戦後に一箇のヒットラーが出現」するかもしれないと彼が予言したのは、広告文がうたふやうに、敗戦七十年後のこの今を指してのことであったのか、いやさうではないでしょう。左翼が後退しっぱなしの現今の政情に溜飲を下げたい人たちに向けて煽ったと思しきキャッチコピーは、残念ながら私の心に届きませんでした。「この戦争前夜とも呼べる閉塞感に覆われた危機的な現在を生きている私たち」であるならば、起きてしまった以後の戦争の悲惨さや理不尽さを、文責を公に問はれることはなかった若者の立場でもって追体験するより、日本がアメリカに宣戦して熱狂した一般国民の心情を写しとった文章にこそ注目し、そこで標榜された当時の「正義」の分析と反省と鎮魂を通して、敗戦の意味を問うてゆくことの方が余程大切であると考へるからです。

 さて、現在当サイトで戦争末期の日記を公開中の田中克己は、杉浦明平とは社会的立場も思想も真反対(戦争末期当時戦争ジャーナリズム詩人vs文学青年、皇国史観vs共産主義)ではありますが、たった二年の歳の差であり、同じく皮肉屋で生涯を通した直情型人間であります。これらの双方の日記を読んで思ふところに現代の立場からイデオロギー評価をしないこと。そんな心構へで、あの戦争の「素の姿」が立ち現はれてこないか期待します。

 とはいへ『神軍』なんていふ詩集を何千部も世に広めた詩人に対して『暗夜日記』の中ではいったいどんな「ツイート」が浴びせられてゐたのでしょう。興味はありますが世の中には知らない方がいいこともある(笑)。保田與重郎も立原道造の全集編輯の際、手紙の提出を拒んで戦災で燃やしてしまひ、結局どのやうなものであったかさへ<tt>生涯口にはされません</tt>でした。ここは私も故人の遺志に従ひ、自分の心が「炎上」するやうな無用な看書は控へるべきかもしれません(笑)。むしろ宣伝にかうも記してある、

「と同時に意外にもそれとは相反するような恋と食と書物に明け暮れる杉浦が頻繁に登場する。」

といふ部分に救はれる思ひがしたことです。 ひとこと報知と刊行に対する感想まで。

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728やす:2015/08/31(月) 03:08:51
田中克己日記 昭和23年
本日、先師生誕104年。
昭和23年の日記を、解説ともやうやくupを終へてお祝ひします。
日々の出来事を順番に活字に起してゐるだけなんですが、辛いときの日記にはやはりドラマが感じられます。
次の昭和24年〜25年のはじめにかけてがひとつの山場となりさうです。翻刻は続きます。


写真は新発売の読書フィギュア「山本君」 + 付け合はせ(笑)。

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729やす:2015/09/10(木) 01:48:07
田中克己日記 昭和24年
昭和24年の日記を解説ともupしました。
翌る昭和25年のはじめにかけてが大学の教員生活へと脱皮するひとつの山場。翻刻は続きます。

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730やす:2015/09/13(日) 22:02:38
奥田和子詩集『独り寝のとき』
関西四季の会の同人雑誌『季』の奥田和子様より、これまでの作品をあつめた詩集『独り寝のとき』の御寄贈に与りました。巻末にしるされた「こざっぱりと 読んでいたら すり減って 消え失せた そんな一冊にしたい」といふ装幀にこめられた思ひにも人柄がにじむ、ささやかな新書サイズの詩集です。

  温度差

しじみの鍋を
覗き込んでいると

せからしいのがいて
「はいっ」と
はじけるように手を上げる

白信なげにじわっと
手を上げるのもいる

みなが上げるのを見計らって
キョロキョロ
押し切られて
半分上げたり下げたり
するものもいる


  酔い

怒っていたら
笑えてきた
笑っていたら
泣けてきた
電話が鳴って
すぐきれた

なんだか無駄に思える今宵
ありがとうに思える今宵


「温度差」、「あなた」、「ひとつ」、「酔い」、「まど・みちおの謎」、「間一髪」、「色紙」

これまで誌上で拝見してきた短かい数行の詩篇たちですが、かうしてまとまった形で拝見すると、杉山平一先生との御縁を大切にされ、また作品の上でも杉山スタイルを自家薬籠中のものにしてをられることがあらためて印象づけられ、詩人杉山平一直系の弟子筋にあることをはっきり感じさせる一冊に仕上がってゐます。短い詩はウィットが命ですが、理に落ちすぎない余韻のある詩句に立ち止まらさせられます。
とりわけ、杉山先生の追悼号に載った「色紙」は、詩集収録の際、見開きページに収めるためか末尾に繰り返される色紙本文が削られてしまひましたが(私なら末尾の方を残したかも。)、このやうな詩を捧げることができた幸せと、捧げられた詩人の冥加を思はずに居られません。

  色紙

ここに九十歳のお祝いにいただいた
手書きの色紙がある

  それでは
  友よふたたび
  運行をつづけよう
  健康で坦々として
             平一

裏に
平成十六年十二月
九十歳とある

九十七歳で『希望』
の詩集をだされ
不意打ちをくわし
すっと姿をくらまされた

いま耳元で先生の
笑い声が聞こえる
「まあこんなもんですな」
「愉快ですなあ」


『季』の誌上で私が抱いたゐた印象は、杉本深由起さんが才気の勝ったウィットで人目を惹くのに対して、おなじ杉山詩の気脈に通じながらも、奥田さんのそれには滋味に富んだオリジナルのユーモアといった得難い趣きがあること、殊にこの数年、「果たしてこんな詩を書く詩人だったらうか」と、失礼ながら認識を改めさせられることが何度もあって、一体どんな方か興味深く思ってもゐたところでした。

それが、『朔』の追悼号での回想文を読ませていただき、奥田さんがそもそも四十にして詩を志した、文学少女上がりの人物などではなかったこと、そしてこのたび初めていただいた詩集奥付にて初耳でしたが、永らく大学で栄養学の教鞭を執られた先生であったことを知りました。奥田さんの詩を外面的に特徴づける、食材やいまどきの後輩女性に注がれる視点に合点し、さらにそのオリジナリィティが発現したのも、青年期の麻疹ではない文学に対する研鑽(写生)を、杉山平一といふ人を逸らさぬ師の元で実直に積まれた成果が正直に出たまでであって、第一線から退かれて観照生活に入り、杉山先生が最後に見せた(詩集『希望』に向けた)輝きに呼応するやうに、寄り添ひ精進するところがあったからではないか、などと想像してみたことでした。

杉山先生の死生観を語った一文は、『季』の追悼号に寄せられたことさらタイムリーなものでしたが、また宗旨がカトリックである著者自身の関心に沿った切実な問題でもあること、詩編中の宗教的な題材を思ひ合せて理解しました。回想文のなかで田中克己を私淑詩人のひとりのうちに数へられたのは、カトリックだからといふよりは、やはり杉山先生が好まれたクラリティ(明確さ)への志向でもあったかと想像いたします。杉山詩の特質として明確さを挙げることには、私もまた異論ありませんが、いま少しく説明するなら、明晰な頭脳ゆゑの明晰さの限界の了知と、そこから望まれる未知領域への憧れとの間に揺曳する詩人であったやうにも思ってゐます。しかしながら決してあちら側へ踏み込んでゆくことはない。死生観にもそのやうな消息、「信じてゐる」に限りなく近い「信じたい」といふ祈りが感じられはしないでしょうか。

詩篇についても、皆さんから寄せられた感想や、生前杉山先生から頂いたお手紙に記された感想と照らし合はせて、果たしてどんな好みの一致や相違があるのか、いづれ『季』上にのぼせられる皆さんの詩集評をたのしみにするところです。

杉山先生不在のいま「気が抜けて」といふのは実感ですが、日々の日常生活から新しい発見と感動を、だれにもわかる言葉で定着すること、なほかつ短詩ならではの余韻の探求に期待いたします。新刊のお慶びかたがた御紹介まで。ここにても御礼を申し上げます。
ありがたうございました。

詩集『独り寝のとき』奥田和子著  ミヤオビパブリッシング (2015/8/25) 157ページ 907円

〔著者紹介〕

奥田和子(おくだかずこ)
1937年北九州市に生まれる。
甲南女子大学名誉教授。専門は食環境政策・デザイン、災害・危機管理と食。
2000年4月22日、力トリック芦屋教会で受洗。
40歳のときに詩誌『東京四季』の同人。その後、詩誌『季』の同人。
既刊詩集『小さな花』1992年『靴』1999年『クララ不動産』2004年・いづれも編集工房ノア刊。

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731やす:2015/10/22(木) 21:25:20
丸山薫の遺品
 昨日は豊橋まで遠征して、丸山薫賞授賞式を末席から見学。祝賀会では、拙詩集刊行に便宜を図って下さった八木憲司潮流社会長と、中日新聞に書評を書いて下さった冨長覚梁先生へ二年振りの御挨拶が叶ひ、御元気なご様子に安心するどころか逆に元気づけられて帰って参りました。

 このたびの受賞者に対する八木会長ならでは評言には、なまなかな祝辞にはない真情が籠められてをり、斯様な激励を受けられた詩人冥加を羨みました。ほめちぎるだけでなく現代詩臭の強い観念語に対しては一言、釘を刺されたことにも感じ入りました。

 当日は早めに豊橋に到着しましたので、市立図書館へ出かけ、ガラスケースに展示された丸山薫の遺品(ステッキ、ラジオ、表札、筆硯など)、ならびに豊橋で出された同人誌「パアゴラ」などを観て参りました。詩人がマッチラベルの収集を他愛なく楽しんでゐたことも知りませんでした。

 一昨年に詩人夫妻の展墓に訪れた際もさうでしたが、詩人の名を冠した賞の授賞式の当日にも拘らず、午前中、展示スペースにどなたの姿もなかったことは、当の詩人の俤を偲んでは考へさせられたことでもありました。

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732やす:2015/11/18(水) 21:24:44
紫野京子詩集『切り岸まで』
紫野京子様より詩集『切り岸まで』の御恵贈に与りました。
内容・装丁とも温雅な佇ひに、抒情詩の看板を掲げる同人誌「季」の年輪を感じる思ひを深くし、表題詩ほか、全体にmortalityや言葉のもどかしさを訴へる観念を主調音としてをり、かうした観念を表現したマチエールに関しては、現代詩詩人の皆さんの評価が別に存するものと思はれますが、私からはいちばんに感じ入った次の一篇を紹介させていただきます。

  夏の庭で

 真夏の日差しを避けて
 石燈籠のなかで
 野良猫がお昼寝

 風が吹くと
 ゆらゆらと合歓の木が揺れる
 薔薇色の糸のような花びらがかがやく

 影もない真昼
 蟻だけが乾いた地面を這う

 枝垂れ桜の緑の葉の下影で
 蓮はひっそりと
 咲くための準備をしている

 生きている今だけを
 生き物たちは繋いでいる

 実に9冊目の詩集とのことですが、著者にとって詩集を出版することは、また新しい自分の可能性に向き合ふよろこびと畏れを感じたいがためである旨。不断に脱皮し続けるバイタリティーに感服です。
ここにても御出版のお慶びとともに御礼申し上げます。ありがたうございました。

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733やす:2015/11/23(月) 19:49:57
『義仲寺昭和再建史話』
現在の義仲寺無名庵の守当番(庵主)である谷崎昭男様より、新著『義仲寺昭和再建史話』(2015.11.14義仲寺発行(編集新学社)18.8cm,127p 並製,非売)の御寄贈に与りました。以前にお贈りした拙詩集に対する御返礼と思しくも、忝く有難く、茲にても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

さて一冊に余さず記録されました、松尾芭蕉ゆかり義仲寺の再建に係る一切の出来事について、殊にも円満寺からの分離引き渡しに係り横たはった諸問題――当時の史跡保存会の機関誌に於いてさへ(関係者存命のゆゑを以て)露はには公表できなかったであらう内幕の事情――が包み隠さず、しかし決して露悪なドキュメンタリーには流れぬやう細心の注意が払はれた前半部に、思はず引き込まれてしまひました。かうした事情を知った上であらためて保田與重郎が撰んだ「昭和再建落慶誌」に目を移せば冒頭、
「史蹟義仲寺は近時圓満院の所管となつてより寺庵荒廃壊滅に瀕し両墳墓の存続さへ危い状態にて、」
といふ表現によってのみ纔かに顕された、義憤にも気がつくといふものです。

さうして三浦義一はともかく、工藤芝蘭子、斎藤石鼎、大庭勝一、後藤肇といった功労者の方々の名をこの本によって初めて知ることを得ました。巷間「右翼の大物」として悪名のみ知れ渡ってをります三浦氏ですが、資金を出されたといふだけでなく、氏がバックに控へ居たからこそ、“曲者入道”との折衝も無事成ったのではないかと推察されます。交渉の上で起きたであらう出来事を全て知悉したなかには、敢へて諷するさへ憚られたことどももあったかしれません。けだし保田氏が、碑文に彼ら全員の名をもれなく銘記した理由が、谷崎様の先師を髣髴させる筆致によって、それぞれ人柄とともに書き分けられ写真とともに掲げられてゐること、本書刊行の一番の眼目であり意義であったとも感ぜられる前半部と存じました。

また本書に説明ある通り、この事業が特記されるべきは、単に建築物の再建のみならず、一緒に、開基に与った巴御前をはじめ、芭蕉翁の近江滞在を支へた(にも拘らず墓所さへ持つことを禁じられた)曲翠、下っては俳聖没後一世紀にしてすでに廃滅の危機にあった堂宇の中興に尽した蝶夢、といった先人の事績をあまねく顕彰し、さらには途絶した「風羅念仏踊り」の再興といふ、無形の精神復興にも及んだことでありませう。義仲寺には十年余りも前、出張の途次に立寄ったことがありますが、無名庵の守りをした蕉門十哲の一人、広瀬惟然の故郷近く岐阜に住みなす私においても、嬉しい話題に接し得た後半部でありました。

以前の訪問とは別の感慨と知識を以て、また「無名庵」「弁慶庵」そして「幻住庵」にも行ってみたくなりました。

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734やす:2015/11/23(月) 22:42:46
田中克己日記 昭和25年、26年
昭和25年につづいて昭和26年の日記を解説ともupしました。

天理図書館からの脱出を、引越しを以て宣言してしまった詩人でしたが、当てにしてゐた大阪大学への転任ままならず、結局彦根短期大学での一年を経て帝塚山短期大学に腰を落ち着けることになります。住まひも、天理〜京都〜彦根〜布施へとめまぐるしく替はります。
その際、就職のコネとして頼った京都大学の東洋学研究グループの間を頻繁に行き来し、文学上でも天野忠や井上多喜三郎をはじめとする関西詩人たちと広く交はり、コルボウ詩話会と近江詩人会とを結成に導きます。他方、保田與重郎の雑誌「祖国」や前川佐美雄の「くれなゐ」歌壇にも参加し、誼を通ずる桑原武夫の主張とは相反する戦前抒情派としても活躍。翻訳『ハイネ恋愛詩集』も順調なれば、恋愛の実践の方はともかく(?)、詩人としては実り多き時期だったと申せましょう。

翻刻は続きます。

735やす:2015/12/01(火) 21:57:50
『感泣亭秋報』十号
小山正見様より『感泣亭秋報』十号をお送りいただきました。

 柿色に毎年実る秋報もたうとうこれで10冊。小山正孝といふ所謂「四季派第2世代」のマイナーポエットとその周辺をめぐる論考だけで成り立ってゐる雑誌が、途絶することもなく、年刊ながら号を追ふ毎にページ数が増へてゆくといふ考へられないことが起こって十年が経ちました。今回も常子未亡人を追悼した前号に劣らぬ質と量であるのは、年始に完成をみた『小山正孝全詩集』の刊行記念号として、制作・執筆陣ともにひと区切りを意識した気合の一冊に仕上がってゐるからです。
 まづは巻頭、詩人の盟友であり、四季派詩壇最高齢でもある山崎剛太郎先生が不如意の筆をおして「この全集で彼は彼の人生を多彩に語り、微細に変調する感性で、人生の多様性に迫った」と満腔の祝辞を述べられてゐます。没後13年、泉下の詩人ならびに常子夫人、坂口正明氏をはじめ、この一文を掲げ得た刊行者、すなはち白寿目前の翁を「山崎のおじちゃん」と幼時より慕ってこられた刊行者にして詩人の御子息である正見様の胸中も偲ばれるといふものです。

 寄稿に至っては、本格的論考から、私の如き『全詩集』巻末の解説をかいなでに紹介して責をふさいだものまで、目次の通り多種多様となりました。その『全詩集』解説を書かれた渡邊啓史氏ですが、本号においても第5詩集『山の奥』テキストに寄り添ひ、詳しい作品分析を行ってをられます。
渡邊氏の説によれば、詩人が戦後展開させた詩境のうち、所謂「愛憎の世界」では第2詩集『逃げ水』の混沌から掬はれた上澄みとして第3詩集『愛し合ふ男女』が成り、そののち分け入った「形而上世界」においても同様に、第5詩集『山の奥』が第4詩集『散ル木ノ葉』を洗練させた主題的展開として位置づけられると云ひます。詩風の区分と対応する詩集との相関関係は、シュールかつ愛憎が韜晦する戦後の作風になじみ難い私にとっても明快な道標となり、助けられる思ひです。

 また國中治氏よりは、第2詩集『逃げ水』にみられる混沌が、ソネット(十四行詩)といふ形式のみならず「立原道造的なもの」へ志向する心情と、そこからの脱却を図らうとする矛盾そのものの露呈として分析され、さうした葛藤こそが抒情詩を書く全ての戦後詩人に課せられてきた現代詩の身分証明だったのだと総括されてゐます。「立原道造的なもの」すなはち四季派の本質を「理想化された西洋文化と伝統的日本文化とのアマルガムを憧憬と郷愁によって濾過・精煉した高純度の情緒」と規定されてゐますが、成立条件にはさらに時代の制約が関係してをり、それが失はれた為に現代詩の彷徨が始まったのだともいへるでしょう。
さらに渡邊氏と同様、第4詩集から第5詩集への発展関係が指摘されるものの、「立原道造的な」自己探求のモチーフとして選ばれる「なぜ・だれ・どこへ」といった詩語・詩句の単位が、第5詩集『山の奥』では詩行単位のレトリックに切換へられ、それが詩人独自の「形而上世界」の構成をなしてゐるのではないか、との切口は新機軸です。つまり詩境を変じたのちにおいても詩人と立原道造との間には、ともに混沌(デモーニッシュなもの)に対する視点が「やや排他的な、密やかな共鳴によって結ばれていたのではないだろうか」と推察されてゐるのですが、四季派詩人の生理の内奥に身の覚えもありさうな、四季派学会理事の國中氏ならでは独壇場の明察であり、感じ入りました。

 そのほか胸に詰まったのは、『朔』誌上でも愛妻との離別を綴られた相馬明文氏からの一文でした。また毎号誌上で一冊づつ「小山正孝の詩世界」を解説してこられた近藤晴彦氏は、今回最後の第8詩集『十二月感泣集』をとりあげ「感泣」の意味を問はれます。蘇東坡の故事においては喜悦感涙の意味を持つものださうですが、けだし杜甫に親しんだ詩人なれば「感泣」はやはり老残の嘆き、ならば「秋報」も年報であると同時に「愁報」さ、などとシニカルな詩人なら答へられるかもしれません。
 とまれ近藤氏が指摘された日本人のメンタリティの特色。本音と建前を使ひ分けることが江戸時代このかたこの国に近代的個人が完全に成立しなかった理由であるといふ指摘に頷かされ、さうしていかなる建前にも臣従することなかった小山正孝について、さらに池内輝雄氏が「小山正孝の“抵抗”」と題して、大東亜戦争開戦当時の『四季』(昭和17年2月号)誌上にあたり、実証してをられます。『四季』巻末に田中克己が記した編集後記は、
「大東亜戦争の勃発は日本人全体の心を明るくのびのびした、大らかなものにした。詩人たちも一様に従来の低い調子を棄てて元気な真剣な詩を書きだした。」
といふもの。引き較べて小山正孝は同誌上で書評の姿を借りて戦争詩の在り方を問ひ、それらが本当に「真剣な詩」だったか、先輩詩人たちがつくったのは「感動のないたくさんの詩」のかたまりではなかったかと言ひ放ち、当時としては精一杯の抵抗を巷の熱狂に対し呈してゐるのですが、両者がそれなら反目の関係にあるのか、戦後はそれなら袂を分かったのかといふと、さうではないところがまた興味深いところです(そもそも編集子が載せてゐる訳ですしね)。拙稿で触れてありますが、今年公開をはじめた戦時中の「田中克己日記」にあたっていただけたらと思ひます。

 さて、このたびは近藤晴彦氏と、戦後出版界再編の事情と実態を(小山正孝を含め)発行者の立場から関った詩人たちを軸にして詳細に論じてこられた蓜島亘氏と、両つの大きな連載が一区切りをつけ、正見氏自身「やめるなら今がやめ時だ」と終刊も考へられたといふことですが、渡邊啓史氏が余す各論はあと3冊分あり、若杉美智子氏による「小山=杉浦往復書簡」の紹介も、新事実を添へてまだまだ続けられる予定であってみれば、近代詩と現代詩にまたがる一詩人を通して昭和詩の命運を俯瞰してゆかうとする試みは、来年以降も続けられることがあらためて宣言され、ひとまづ安堵されました。

 気になった論考の2,3を紹介、この余は本冊に当たられたく目次を掲げます。
 茲にてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。



『感泣亭秋報』十号 目次

詩 つばめ横町雑記抄(絶筆) 小山正孝4p

    特集『小山正孝全詩集』
『小山正孝全詩集』全二巻に寄せて 山崎剛太郎7p
「感泣五十年」 八木憲爾9p
小山正孝の“抵抗” 池内輝雄13p
『小山正孝全詩集』刊行に際して――「あひびき」の詩を中心に 菊田守17p
いのちのいろどり『小山正孝全詩集』に寄せて 高橋博夫20p
『山の奥』の詩法――今あらためて立原道造と小山正孝の接点を問う 國中治22p
小山正孝についての誤解 三上邦康25p
花鳥風月よりも何よりも「人」を愛したソネット詩人小山正孝 小笠原 眞26p
「灰色の抒情」 大坂宏子37p
“私わたくし”的の『小山正孝全詩集』 相馬明文38p
雪つぶてをめぐる回想 森永かず子40p
「アフガニスタンには」に触れ想念す 深澤茂樹43p
心惹かれる『山居乱信』 萩原康吉46p
『十二月感泣集』から 里中智沙47p
『小山正孝全詩集』に接して 近藤晴彦49p
『小山正孝全詩集』作者の目 藤田晴央52p
『小山正孝全詩集』刊行によせて――小山正孝と田中克己 中嶋康博54p
『山の樹』から感泣亭へ 松木文子58p

造化の当惑――詩集『山の奥』のために 渡邊啓史62p
小山正孝の詩の世界9 『十二月感泣集』 近藤晴彦92p
最後の小説「傘の話」を読んでみた 相馬明文97p

「雪つぶて」に撃たれて 山田有策102p
「雪つぶて」作曲のこと 川本研一107p
正孝氏のジャケット 坂口杜実109p
お出かけする三角 絲りつ112p

詩 薔薇 里中智沙118p
詩 机の下 小山正孝「机の上」へのオマージュ 森永かずこ120p
詩 互いの存在 大坂宏子124p
詩 第二章  絲りつ127p

小山正孝の周辺4――戦後出版と紙 蓜島亘128p
昭和二十年代の小山正孝6――小山=杉浦往復書簡から 若杉美智子140p

感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見144p

2015年11月13日 感泣亭アーカイヴズ発行
問合せ先(神奈川県川崎市中原区木月3-14-12) 定価1000円(〒共)

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736やす:2015/12/07(月) 02:00:37
『詩歌に救われた人びと―詩歌療法入門』
 岐阜大学名誉教授の小山田隆明先生より新著『詩歌に救われた人びと―詩歌療法入門』の御恵送に与りました。“入門”と謳ってあるとほり、前著『詩歌療法』で詳述された理論と適用について、本書では「読むことによって救はれる詩」と「書くことによって救はれる詩」を区別して、それぞれの事例と技法とにしぼった具体的な紹介がなされてゐます。

 前著は臨床研究者を念頭に執筆され、症例ごとの報告においても学術論文の体裁を有した専門書の一冊に仕上がってゐましたが、読み物としてはむしろ前半の導入部、アリストテレスやユング、フロイトといった詩学的・心理学的アプローチから説き起こされた詩の原理や、現代詩の一人者である大岡信が自ら明らかにした作品の制作過程に寄り沿って試みた考察などに、私自身の詩人的興味は注がれ、現代詩生成の内幕を垣間見た思ひをもって読んだものでした。このたびの本の中では、
「心理臨床の場だけでなく、学校教育の場でも、そして自分自身のセルフケアのためにも用いることが出来る」入門書としての性格が強く打ち出されてゐます。

 すなはち前半には、表題となった「詩歌に救われた人びと」として、
 1.独房の囚人が読んだ詩 カール・アップチャーチの事例
 2.抑うつ状態を救った詩 ジョン・スチュアート・ミルの事例
 3.会話を回復させた連詩 物言わぬベンの事例
 4.ホームレスの生活を支えた短歌 公田耕一の事例
 5.病苦を耐えさせた短歌 鶴見和子の事例
 の報告がならび、全ページの半分が費やされてゐるのですが、独房で出会った詩集をきっかけに犯罪人生から見事な脱却と転身をとげた社会活動家アップチャーチ(Carl Upchurch 1950?2003)をはじめとする、詩を読むことで、また詩を書くことで(あるひは詩で応答することにより)閉ざされた心が開かれ、「カタルシス」と「認知的変容」により前向きに人生に向かふに至ったひとびとの話が、心理学者の視点からやさしく語られてをります。
 それぞれに興味深いエピソードですが、ひところ朝日新聞の投稿歌壇をにぎはせたホームレス歌人公田耕一の謎の消息については、時系列にならべられた投稿歌の分析が、逆に彼のホームレスとしての実在を実証するやうな形で指摘され得る結果に注目しました。

 後半では、実際に詩をひとに処方する際の手引きが、読み・書き別に語られてゐます。「詩を読むための技法」として挙げられたのは17編の現代詩。「詩を書くための技法」では現代詩、俳句、短歌など「詩形」ごとにその特徴と処方上の注意とが挙げられてゐます。

 とりわけ特に前著にはなかった「詩を読むための技法」のなかで紹介されてゐる詩の数々は――さうしたセルフ・ケアの視点から詩歌といふものに接することのなかった私にとって新鮮で、ほとんど初耳に属する17編でしたが、あるひは現代詩に対する「認知的変容」を私にも、少しはもたらしたかもしれません(笑)。
 ただしせっかく挙げられた詩ですが、著作権を慮って本文に全詩が紹介されてゐないのが残念です。下記※にネット上で読めるやうリンクを掲げましたので御参照ください。またマリー・E.フライの「千の風になって」は、作曲された歌が日本でも有名になりましたが、オリジナルの原詩から起こされた著者自身の訳があり、素晴らしいのでここに掲げさせていただきます。

「千の風になって(オリジナル版) 」
                       マリー・E.フライ(小山田隆明訳)

私のお墓の前に立たないで下さい、
そして悲しまないで下さい。
私はそこにはいません、私は死んではいません。

私は吹きわたる千の風の中にいます
私は静かに降る雪
私はやさしい雨
私は実りを迎えた麦畑

私は朝の静けさの中にいます
私は弧を描いて飛ぶ美しい鳥の
優雅な飛翔の中にいます
私は夜の星の輝き

私は咲く花の中にいます
私は静かな部屋の中にいます
私はさえずる鳥
私は愛らしいものの中にいます

私のお墓の前に立たないで下さい、
そして泣かないで下さい。
私はそこにいません、私は死んではいません。

 さて「詩を書くための技法」の方ですが、現在小学校の教育現場では「俳句教育」の指導が行はれてゐるとか。これはその手引きとして、さらに連句や冠句といった(付け合ひ)による他者との対話・グループ交流へと応用をひろげたり、または短歌、五行歌からさらに現代詩へと自己表現・自己探求の筋道へと導いてあげる際の「指針」として、活用することもできさうにも思はれたことでした。
 ここに「指針」といったのは、この「詩歌療法」、場合によっては相応しくないタイプの詩や、被処方者との組み合はせもあるとのことで、教育の場はともかく文学の場では、むしろさうした毒――破滅に自ら堕ちてゆく詩人に自らを重ね、帰ってこれないカタルシスと心中しかねぬ際どいところに魅力といふか、業といふか、究極の「認知的変容」があったりするので大変です。
 けだし詩人でもゲーテは「ウェルテル」において、メーリケは「画家ノルテン」において、森鴎外は「舞姫」において悲恋の絶望に主人公を蹴落とし、現実の自分はのうのうと生き抜くことができたともいはれてゐる訳で、宮澤賢治や新美南吉の童話体験を挙げるまでもなく、「詩歌療法」と同様に、読み・書きについて「散文療法」といふセルフ・ケアの可能性もあるかもしれぬと思った次第です。

 ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『詩歌に救われた人びと―詩歌療法入門』 小山田隆明著 2015.11.25風詠社刊 19.5cm上製カバー 157,5p 1500円+税

目次

はじめに
第一章 詩歌に救われた人びとの事例
 1.独房の囚人が読んだ詩 カール・アップチャーチの事例
 2.抑うつ状態を救った詩 ジョン・スチュアート・ミルの事例
 3.会話を回復させた連詩 物言わぬベンの事例
 4.ホームレスの生活を支えた短歌 公田耕一の事例
 5.病苦を耐えさせた短歌 鶴見和子の事例

第二章 詩歌療法の技法
 1.詩歌療法とは何か
 2.詩を読むための技法
  (1)詩を読むとは
  (2)「読む」詩の特徴
  (3)処方される詩の例 ※参照
  (4)詩を読む技法
 3.詩を書くための技法
  (1)詩(現代詩)
  (2)五行歌
  (3)連詩
  (4)俳句
  (5)冠句
  (6)連句
  (7)短歌
あとがき
引用文献


※参照  詩を読むための技法
  (3)処方される詩の例

?長田弘「立ちどまる」http://suho1004.dreamlog.jp/archives/43486721.html

?ホイットマン「私はルイジアナで一本の槲の木の育つのを見た」(有島武郎訳)

私はルイジアナで一本の槲(かしわ)の木の育つのを見た、
全く孤独にもの木は立って、枝から苔がさがってゐた、
一人の伴侶もなくそこに桝は育って、言葉の如く、歓ばしげな
 暗緑の葉を吐いてゐた、
而してそれは節くれ立って、誇りがで、頼丈で、私自身を見る思ひをさせた、
けれども槲はそこに孤独に立って、近くには伴侶もなく、愛人もなく、
 言葉の如く、歓ばしげな葉を吐くことが出来るのかと私は不思議だ――
 何故なら私にはそれが出来ないと知ってゐるから、
而して私は幾枚かの葉のついた一枝を折り敢ってそれに小さな苔をからみつけ、
 持って帰って――部塵の中の眼のとどく所へ置いて見た、
それは私自身の愛する友等の思ひ出のためだとおもふ必要はなかつた、
(何故なら私は近頃その友等の上の外は考えてゐないと信ずるから)
それでもその枝は私に不思議な思ひ出として残ってゐる、――それは私に
 男々しい愛を考へさせるから、
而かもあの槲の木はルイジアナの渺茫とした平地の上に、孤独で、輝き、
 近くには伴僧も愛人もなくて、生ある限り、言葉の如く、
 歓ばしげな葉を吐くけれども、
 私には何としてもその真似は出來ない。

?与謝野晶子「森の大樹」http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/2557_15784.html
?無名兵士の詩「悩める人々への銘」http://www.geocities.jp/nkkagosu100/page014.html
?工藤直子「こころ」http://ameblo.jp/sakuratsuruchitoseyama/entry-10846480741.html
?作者不詳の詩「手紙 親愛なる子どもたちへ」http://www.utagoekissa.com/tegamishinainarukodomotachihe.html
?サムエル・ウルマン「青春」http://members3.jcom.home.ne.jp/fuyou3/profi/samueru%20uruman.htm
?茨木のり子「倚りかからず」http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/shisyu.html
?エドマンド・ウォラー「老齢」http://kainorasen.exblog.jp/21777241/
?マリー・E.フライ「千の風になって」http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A01980
?長田弘「花を持って、会いに行く」http://ameblo.jp/machikoedo/entry-11199051816.html
?永瀬清子「悲しめる友よ」http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_02/poem_hyo.php?p=5

?草壁焔太「こんなに さびしいのは」
こんなに
寂しいのは
私が私だからだ
これは
壊せない

?工藤直子「花」
わたしは
わたしの人生から
出ていくことはできない

ならば ここに
花を植えよう

?永瀬清子「挫折する」http://www.fujiseishin-jh.ed.jp/field_diary/2011/12/5641/
?工藤直子「あいたくて」http://www.ondoku.sakura.ne.jp/gr6aitakute.html
?吉野弘「祝婚花」http://www5.plala.or.jp/kappa_zaru/shukukonka.html

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737やす:2015/12/08(火) 21:46:08
流浪の民
 杉原千畝の映画を観てきました。第二次世界大戦当時、ナチスの迫害から逃れるため、唯一の経路国となった日本の通過ビザを取得せんと、領事館に殺到したユダヤ人たちに対し、国外退去の寸前までビザの発給をしつづけた外交官。いまや郷土岐阜県出身を超えて日本の偉人として有名になりましたが、彼が生存中だったわが中学高校時代を通じ、社会科政経の授業でその名を聞いたことはありませんでした。戦後の長い黙殺期間はもちろん、まして戦前にその名を現在称へられてゐる業績において知る者など、なかったのではないでしょうか。

 映画としての出来はともかく(演出をもっとあざとくやってほしかった)、ビザを手にした人々のその後、特に日本に渡るまでに尚いくたりかの(といふか日本人の意識の上にあった)善意を経なければならなかったことが描かれてゐたのは勉強になりました。ドイツと同盟を結んでゐた当時、難民の彼らははたしてどんな風に庶民には映ってゐたのでしょう。敦賀からユダヤ人協会のあった神戸に移動した彼らの姿が、『四季』同人だった竹中郁の目で次のやうに描かれてゐます。


 流浪の民
        竹中 郁 詩集『龍骨』(昭和19年)所載

西伯利亜(シベリア)鉄道は色んなものを運んでくる
曰く云ひ難いものに混つて
頬鬚を生やした亡命ユダヤ人の群を
どつさり日本へ運んでくる

かれらは町の安レストオランに屯する
帽手と外套とがひどく汚れてゐる
給仕がにこりともせず料理の皿を突出す
大きな鷲鼻が迂散くささうにそれを嗅ぐ

五千弗もつてゐてもユダヤ人だし
二弗しかなくつてもユダヤ人なのだ
かれらの寝てゆく船室はとても足りないし
それに上陸を許してくれる国がとんとない

英艦フツド號が撃沈された日
僕の友人がドイツ語で話しかけたら
神戸は動物園が仲々いいですなあと
噛んで吐き出すやうに答へた


 戦後ならばどんな風に糊塗した書き方もできましょう。戦時中に書かれたことが重要であり貴重です。詩集『龍骨』は昭和19年、湯川弘文堂で竹中郁の企画によって生まれた「新詩叢書」の一冊であり、時局柄どの本にも「戦争詩」が掲げられてゐます。杉原千畝も体制内のひとなので、規則の拡大解釈のかぎりを尽くして人道支援に努めたことでしょうが、戦時中に書かれた戦争詩についても、こめられた諷意が、詩集に一緒に収められた詩篇によって図らずも読み解かれる、といふやうなこともあるやうな気がします。

738やす:2015/12/13(日) 21:15:43
『郷土作家研究』第37号
 青森の相馬明文様より『郷土作家研究』第37号をお送りいただきました。

 なかで翻刻されてゐる小説「白い本屋」ですが、詩人の小山正孝が昭和11年、弘前高等学校休学中に書きまくってゐた短編小説のひとつで、さきにまとめられた小説集『稚児ケ淵』には収録が見送られた一篇です。

 しかしながらこの小説、理想を逐ふべきか社会人として生くべきか、小説家志望の書店の小僧を主人公にして、人生の選択を迫りつつ、その悩みに作者自身が重ねられ、救済が同時に託されてゐるといった按配は、(さきごろ『詩歌療法』を読んだので殊更さう思ふわけですが)、出来は措いても詩人の精神史上、重要な作品なのではといふ気もしないではありません。

 結局彼が小説家としての道を断念してしまったのも、ここに出てくる新助のやうな、まことに心強い先輩知己が実生活上で強く肩を押してくれることがなかったからかもしれませんし、或ひは自身が責を負ふべき結婚の結果、片がついたはずの煩悶がふたたび再燃し、家庭を守るべき方向へと実際上の彼を導いていったからなのかもしれません。

 程度は違へど辛うじて私も文学に扶けられて生きてをります。相馬様にもなにとぞ御静養専一に、ここにても御礼かたがた御健筆をお祈り申しあげます。
 ありがたうございました。

『郷土作家研究』 第37号 平成27年10月23日発行(隔年刊)
青森県郷土作家研究会(弘前市新城字平岡160-807 竹浪様方) A5版 76p 1000円

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739やす:2015/12/26(土) 14:48:01
『詩人のポケット』『初めての扁桃腺摘出術』
先般の『感泣亭秋報』10号で名を連ねさせて頂いた小笠原眞様に拙詩集をお送りしたところ、折り返し有難い御感想と一緒に、御詩集『初めての扁桃腺摘出術』および詩論集『詩人のポケット』の御寄贈に与りました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

『詩人のポケット』は、中村俊亮/藤岡保男/山之口獏/平田俊子/天野忠/圓子哲雄/田村隆一/泉谷明/金子光晴/井川博年/黒田三郎を論じた詩論集。挙げられた11人が中央・地方、名の大小に拘らず、皆これまでの詩生活に影響を与へてきた詩人からすぐられたものであるだけに、対象への愛にあふれ、評論であると同時に著者自らの詩人としての個性をも多角的に表明してゐる一冊であると感じました。雑誌『朔』の連載は読んでゐたはずですが、かうしてまとまったものを拝読してみると、姿勢(気質)によるスタイルの統一感(これは詩集を一貫して編年体で解説するところにも表れてゐます)が感じられます。それで、賛同を禁じ得ぬ評言に信を置き、別の詩人への称賛についてもその開陳に耳傾ける――こんな具合にして、わが現代詩アレルギーの蒙も一枚位は剥がされたやうな感じがしてゐます。

現代詩アレルギー――戦後詩がなぜ私の中へすんなりと入ってこないのかといふことについては、もはやあきらめてゐたことですが、歴史や伝統からの断絶から出発した戦後詩人たちに対する拒否反応が、時代を下って世代替はりをし、その因果色を薄めようとも、食物アレルギーレベルで抜きがたく私の感性に根を張ってゐるからのやうであり、詩法から云へば、四季派の詩人たちに象徴されるやうな、精神を収斂させ観照をこととするのではなく、詩人の方便で精神を拡散させてゆく詩作に付いてゆけない不器用さが蟠ってあるからかもしれません。しかし此度の機会をいただかなければ、このままこのさきも知らずに熄んだ詩篇の数々との出会ひがあり、現代詩の食はず嫌ひぶりに今さらながら呆れもしたことでありました。

本書に取り上げられてゐる山之口獏や天野忠は好きな詩人ですし、その延長上にいただいた詩集『初めての扁桃腺摘出術』を置き、いくつかの詩篇を味はふことができました。四季派を継ぐ『朔』の主宰者、圓子哲雄氏の詩と詩歴も的確に解説されてをり、結局私の抒情世界の方が狭くて、小笠原様が見渡される詩の地平のなかにすっぽり包摂されてゐるといふことを意味してゐるのですが、これは昔、四季派・日本浪曼派に対する鋭い指摘に感じ入りながら、戦後現代詩の魅力は全く伝はってこなかった大岡信氏の詩論集を読んだときにも感じた経験であり、さきの『感泣亭秋報』に於いても小山正孝の戦後詩を論ずることができなかった原因でもありました。


さて色んなタイプの詩が混在し、著者自ら「正にごった煮の闇鍋状態」と称する第5詩集『初めての扁桃腺摘出術』ですが、申し上げたやうに、ユーモアを大切にし、実生活に密着した詩篇に連なるジャンルの御作を、私自身はたのしませてもらひましたが、作者がどの種のものを詩人の本懐と目されてゐるかはよくわかりません。詩論集のラインナップを眺めれば、どれもが愛ほしいジャンルであるに違ひなく、モダニズムの横溢する作品あり、医学用語の頻出する作品あり、むしろその方が素人にも分かりやすく手引きされてゐたり、表紙の奇矯なデザインもどうやらユーモアに拠るらしいこと、また詩篇ラストの一言・一節には、杉山平一先生が自作詩でよく弁明された、作者の依怙地なヒューマニズムへの拘りをも感じさせてくれた、そんな読後感がありました。「今まで詩集に載せていなかった詩篇を掻き集め」と謙遜されるものの、医師として観ずる人の命と、家族として接する肉親の死と、斯様な立場でなければ書けない詩が収められた一冊であり、現在母を介護するわが立場からもいろいろと考へさせる詩集であります。「死を目前として生きることの本当の辛さを/僕は本当のところ分かってはいないのです。」といふ一句には釘付けにされました。


また舟山逸子様よりは『季』102号の寄贈にも与りました。精神的支柱であった杉山平一先生が居なくなっただけに、少人数同人誌の存在意義があらためて問はれてゐる気がいたしました。今回ただひとり、同人の新刊レビューをものされた矢野敏行さんが、後記の中で「団塊」といふ言葉に対し自嘲気味の嫌悪感を示されのは、図らずも象徴的な出来事だったやうにも思はれたことです。

ことほど左様に自分もふくめ、周りすべての事象に高齢化を感じ、考へさせられることばかりが続いた一年でした。あかるい兆しが戻ってくることを祈らずには居られません。

合せて御礼申し上げます。ありがたうございました。

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740やす:2015/12/31(木) 12:32:56
良いお年を。
今年の主な収穫を、入手日降順に一覧。
新刊、古書ともいただいた本が多い1年でした。といふより本が買へなくなりました。
今年の図書購入費は5万円に満たず。こんなことは初めてでしたが、今後は当たり前になるでしょう。
図書館からの異動に伴ひ、寄贈した600余冊の本の返還が叶ひ、
自分で貼ったり押したりした、ラベルや図書館印の入った研究書の姿に涙してゐます。

良いお年をお迎へ下さい。


外村彰編『高祖保集 詩歌句篇』平成27年
高祖保『庭柯のうぐひす 高祖保随筆集』平成26年(勝井様、おまけを頂きありがたうございました。)
石井頼子『言霊の人 棟方志功』平成27年(追ってレビューを上させていただきます。)
小笠原 眞『詩人のポケット』平成26年
小山田隆明『詩歌に救われた人びと―詩歌療法入門』平成27年
谷崎昭男『義仲寺昭和再建史話』 非売平成27年
大沼枕山 点『嚶々吟社詩』明治21年
斎藤拙堂『全釈拙堂文話』平成27年
佐藤惣之助『正義の兜』大正5年
一戸謙三『歴年』昭和23年
藤田金一『白い焔』昭和5年
谷鉄臣ほか『鉄庸集』明治16年
富山県詩誌『日本海詩人』『裏日本』『詩朝』『海』ほか 昭和2年-12年
冨岡鐵齋『複製扁額 山紫水明處』大正13年
松村又一『畑の午餐』大正10年
藤林平也『高空ノポエツ』昭和7年
井村君江『日夏耿之介の世界』平成27年
澤村修治『悲傷の追想 肥下恒夫の生涯』平成24年
冨岡鐵齋『鐵齋筆録集成』平成3年
小山正孝『小山正孝全詩集』平成27年
廣田末松『午前の歌』昭和5年

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741中嶋康博:2016/01/01(金) 01:32:07
謹賀新年
年末に石井頼子様よりお送り頂きました新著『言霊の人 棟方志功』(平成27年12月里文出版刊)、および新学社制作のカレンダー。
追って紹介させて頂きます。
ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

今年よりハンドルネーム返上、名前で参ります。今年もよろしくお願ひ申し上げます。

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742中嶋康博:2016/01/31(日) 01:21:15
【付記】
 本書『言霊の人 棟方志功』を繙く際、是非一緒に広げて頂きたい図録があります。

 図録『「世界のムナカタ」を育んだ文学と民藝:高志の国文学館企画展』 2013.11 高志の国文学館(富山)刊行 80p 30cm 並製 です。

 棟方志功の画業に関して出された画集・図録は数々あれど、書籍の装釘にスポットを当てたものは少なく、本書『言霊の人』のなかでも紹介されてゐますが、膨大な志功装釘本の全容を解明すべく収集に努めてこられた山本正敏氏(富山県埋蔵文化センター所長)のコレクションから、郷土の文学館の企画展で披露された永年の成果がカタログ化されてをり、主要な「柵」と同列に、ほとんど本書の章立てとも対応するやうに並べられてゐます。
 美しいカラー図版に盛られたこれら書影の数々が、文芸との関はりにスポットを当てた本書を読む際の最強の補足資料となることは間違ひありません。

目次

ごあいさつ 1p
棟方志功の板業や人物像に対する文学の視点 ―なぜ文学館で棟方志功展なのか― 福江 充 3p

第一章 棟方志功の装画本からみる文学とのかかわり
 棟方志功装画本の世界 山本正敏 8p

 児童文学の挿絵10p
 初期装画本12p
 日本浪曼派作家の装画本(保田與重郎・中谷孝雄)14p
 保田與重郎の周辺の周辺1 16p
 保田與重郎の周辺の周辺2 18p
 ぐろりあ・そさえて社の装画本20p
 戦前の装画本1 22p
 戦前の装画本2 24p
 民藝運動とのかかわり26p
 郷土作家の装画本28p
 郷土の文芸雑誌1 30p
 郷土の文芸雑誌2 32p
 戦後の装画本1(谷崎潤一郎・吉井勇)34p
 戦後の装画本2(今東光・村松梢風ほか)36p
 戦後の装画本3 38p
 戦後の装画本4 40p
 戦後詩壇の装画本42p
 戦後歌壇の装画本44p
 戦後俳壇の装画本46p
 戦後雑誌の装画48p

第二章 棟方志功と民藝運動
 棟方志功と民藝運動 52p

 板画「大和し美し」53p
 板画「華厳譜」54p
 板画「空海頌」55p
 板画「善知鳥版画巻」56p
 板画「夢応鯉魚版画柵」59p
 板画「二菩薩釈迦十大弟子」60p
 板画「女人観世音板画巻」61p
 板画「流離抄板画巻」62p
 板画「瞞着川板画巻」63p
 安川カレンダー瞞着川頌65p

《ことば》の人 棟方志功 渡邊一美66p
【特別寄稿】世界のムナカタと「立山の文学」・一枚の版画から 奥野達夫 68p
棟方志功略年譜 70p
出品目録74p
謝辞80p

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743中嶋康博:2016/01/31(日) 01:25:51
『言霊の人 棟方志功』
 石井頼子様より新著『言霊の人 棟方志功』(平成27年12月里文出版刊)および、新学社制作のすばらしいカレンダーの御寄贈に与りました。
ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 雑誌連載をまとめられたものですが、棟方志功が関はった文学・文学者との交流について、寝食を共にした家族ならではの立場から、残された手紙資料なども駆使し、大胆な推論を交へたレポートがなされてゐます。板画業の発生・展開に沿って選ばれた各章の人物は下に挙げた通りで、同一人物に費やされる連載回数はそのまま画伯との関はりの深さを示してゐます。そもそも画壇との交流の薄く、風景を観るに心の眼に拠り、文章に強い執着を示したといふ棟方志功。詩歌作者との関係は、単に画題提供にとどまらぬ側面があったはずで、本書はその人となりを、近代詩歌との親炙性に特化して論じた初めての本であるといっていいと思ひます。

 象徴的なのは、保田與重郎に相応に3章(連載)も費やされてゐることかもしれません。20〜30年前までは、憚られることはあれ、決して名声に資することはなかった日本浪曼派の文学者たちとの関はりが、斯様にとりあげられ語られることは考へられなかったことであり、さらにそれ以前の、最初に雄飛するきっかけとなった画題を提供した詩人佐藤一英との関係も、踏み込んだ推論をもって語られてゐます。
 曰く、その「大和し美はし」が保田與重郎との交流を深める過程でモチベーションが温められていったのではといふことや、詩人との交流が以後それほどには深まらなかった理由についても――つまり「大和し美はし」の後、「鬼門」といふ詩篇にふたたび触発されて制作されたと思しき「東北経鬼門譜」が、絶対的師匠である柳宗悦に認められず改変を命じられたこと。その結果、師が没するまで大きな画題にはチェックが入り、それはそれで適切な教育係によって彼が仏教に開眼する訳ですが、柳宗悦が没するまで、遂に故郷への濃密な思ひさへ断ち切る選択をしたのではなかったか、といふ条りには瞠目しました。
 他にもデビュー当時に彫った、宮澤賢治の生前に成った「なめとこ山の熊」の版画のこと、郷里青森の新聞連載小説の挿絵を描いた「これまで世に出たどの図録にも年表にも自著にも掲載されていない、幻の仕事」を考察する段(その三十 中村海六郎)においても、著者自ら本書の各所で「穿ちすぎであろうか」と断ってゐますが、一歩も二歩も踏み込んだ推論がかくやあるべしと思はれ、水際立ってゐるのです。

 もちろん生涯を通じて恩恵を被った民芸運動の指導者たちやパトロン、あるひは俳壇・歌壇・文壇の宗匠・文豪クラスのビッグネームについては戦前、富山疎開時代、戦後を通じて十全のページが割かれ、魂を太らす大切な交流が描かれてゐます(安心してください 笑)。
 初対面で意気投合した河井寛次郎が画伯を伴って帰る際「クマノコ ツレテ カヘル」と電報を打ち、京都の河井家を騒然とさせた笑ひ話など、数々の「らしい」人となりを伝へる頬笑ましいエピソードもふんだんに盛られてゐます。 しかし戦争に関はり、大方は戦後を不遇で通した詩人たちについて――詩壇に君臨した同じ東北出身の草野心平や、いっとき野鳥や骨董や趣味の悉くに傾倒した蔵原伸二郎はともかく、山川弘至・京子夫妻といった人たちにまで公平に一章が手向けられてゐることには、時代が変ったといふより、著者の心映えを強く感じずにはゐられません。このあたりがこれまでの評伝や図録解説とは大きく異なるところではないでしょうか。

 さうして本書には、「柵」として成った「板画巻もの」の作品のみならず、五百冊以上にものぼるおびただしい装釘本の仕事についても言及があります。山川夫妻の著書の他、さきにのべた日本浪曼派との関はりは主にこれにあたるといっていいでしょう。
 保田與重郎のなかだちによって、蔵原伸二郎の『東洋の満月』そして保田自身の『改版日本の橋』を初めとする装釘仕事が開始しされ、

「あばれるやうに彫り、泣くやうにして描きまくって」「何年間に亙ってなす修業を、何日かで終ふるやうな荒行」※

とも見紛ふばかりの無茶苦茶にいそがしい当時の仕事ぶりが写されてゐます。その結果、「日本浪曼派叢書」ともいふべき「ぐろりあそさえて」の35冊や、数々の伝統派文芸雑誌の表紙を飾ることになった、土俗的民族的生命感あふれる意匠の肉筆画が表象するところのものによって、棟方志功は日本浪曼派の意匠的代名詞のやうに世間から目されることになるのです。

「大東亜戦争に入った頃、私は新宿の一番大きい書店の、飾窓や、書物販売台が、内容は個々だが、棟方画伯の装釘本ばかりで埋められているのを見て、驚嘆したことがあった。前代未聞、後世にも想像できない壮観だった。」※

 『棟方志功全集』第一巻序文※に寄せられた保田與重郎のこの一文には、文壇の一時代を象徴する感慨を感じざるを得ません。

 既製の棟方像において語られることのなかった、かうした戦前文学者との渝らぬ交流が、平成の現在になってやうやく、御令孫にして女性ならではの眼によって拘りなく語られるのを読みながら、私は胸のすく思ひがし、時代の変化を実感することができました。そして戦後二度目の雄飛により「世界のムナカタ」に跳躍してゆく過程で、周辺で何がおき整理されていったのか、画伯をサポートする新しい人脈の出現とスタイルの確立との関係についても分かるように綴られてをり、得心したことでした。

 画伯自身は、周りが種々の雑音をスポイルせねばならなかったであらう多忙な創作生活にあっても、師友との交流だけは大切にし、保田與重郎との友情についても生涯憚ることはありませんでした。それだけに『保田與重郎全集』45冊の装釘が当然あるべき姿にならなかったことは、当時私も驚いたところで、後日談に分のある著者にして感想をお聞きしたかったところです。
 とまれ戦後、画伯はその板画が世界に認められることにより、当時の仕事に対する仕事以上の想ひ入れの有無についてことさら問はれることもなく済んだのであります。多くの文学者がさうしたやうに、そこで戦前の柵(しがらみ)と縁を切ってもよかった筈。しかしさうはならなかった。両者の思ひ余さず語られた言葉を引いて著者は最後に

「棟方の「芸業」はすべて「想ひ」から生まれたものと保田は説く。長い親交を通じて、棟方の「想ひ」の真の理解者が保田與重郎であった」

と締め括ってをられます。

 拙サイトに偏した紹介とはなりましたが、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。



『言霊の人 棟方志功』 石井頼子著 平成27年12月里文出版刊 18.8cm 342p並製カバー  2300円

目次

その一 棟方 志功
その二 「修証義」
その三 「善知鳥:うとう」
その四 福士 幸次郎1
その五 福士 幸次郎2
その六 川上 澄生
その七 宮澤 賢治、
その八 佐藤 一英、
その九 蔵原 伸二郎、
その十 會津 八一、料治 熊太
その十一 保田 與重郎1
その十二 保田 與重郎2
その十三 保田 與重郎3
その十四 河井 寛次郎1
その十五 河井 寛次郎2
その十六 大原 総一郎
その十七 前田 普羅、石崎 俊彦1
その十八 前田 普羅、石崎 俊彦2
その十九 永田 耕衣
その二十 山川 弘至、山川 京子
その二十一 石田 波郷1
その二十二 石田 波郷2
その二十三 原 石鼎1
その二十四 原 石鼎2
その二十五 岡本 かの子
その二十六 吉井 勇
その二十七 谷崎 潤一郎1
その二十八 谷崎 潤一郎2
その二十九 谷崎 潤一郎3
その三十 中村 海六郎
その三十一 「瞞着川:だましがわ」
その三十二 柳 宗悦
その三十三 ウォルト・ホイットマン
その三十四 小林 正一
その三十五 松尾 芭蕉
その三十六 草野 心平
その三十七 棟方 志功

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744中嶋康博:2016/01/16(土) 20:14:27
『福士幸次郎展 図録』 ほか
青森県近代文学館の資料調査員、一戸晃様より、詩人阿部幾男が紹介された『玲』別冊号、ならびに弘前市立郷土文学館の「福士幸次郎展」図録の御寄贈に与りました。茲にても御礼を申し上げます。ありがたうございました。


○探珠『玲』別冊『暮小路晩爵(阿部幾男)』

晃氏のもとには、祖父の一戸謙三が遺した原稿や来翰など、郷土の近代文学史を証言する貴重な原資料が多数管理されてをり、遺族ならではの視点から編まれた個人研究誌『玲』が現在すでに158号を数へてゐます。
資料の紹介は詩人だった祖父にとどまらずその交友関係にもひろげられてゐますが、これは(かつて坂口昌明氏が指摘されてゐましたが)初期の詩業を整理淘汰した感のある一戸謙三においては、交友を跡付ける資料から若き日の活躍ぶりが明らかになることも多いことから、広義の顕彰活動ともいへるでしょう。このたびは別冊扱ひとなってゐますが、阿部幾男といふ詩人についても、一戸謙三には絶筆と思しき葉書を送ってゐる親密な間柄であったことが知られます。青森市長だった親を持ち、放蕩詩人として宿痾やスキャンダルといった、斯様な素性につきものの逸話がたくさん報告・紹介されてゐますが、手紙や作品のなかにみられる、

「毎日吸入器のゆげばかりたべて生きてゐます。」
「只呆然と貝殻のやうに風を聴き、小川の鮒のやうに空気を呼吸し、みずたまりのやうに目は物の姿を映してゐます」
「その時私はどいふわけか、いつか夏の涼しい縁側で水色の羽織紐を噛んだときのことを思出した。(中略)どんな味がするって?おいしいことはありませんね。」

といった言葉に対する鋭い感性には紛ふ事なき詩人ぶりが感じられ、アンソロジーを旨とした「パストラル詩社」時代に、個人詩集をもつに至らなかった不幸を思ったことでした。

 「四季の目録」  阿部幾男

 春は床の水仙
 夏は岩のしめり
 秋は俥の雨
 冬は煙突のけむり

(平成28年1月 一戸晃発行 A4コピー誌24p)



○『福士幸次郎展 図録』

先達て紹介した『言霊の人 棟方志功』のなかでも、鍛冶屋の息子であった棟方志功が「鍛冶屋のポカンさん」といふ詩を書いた福士幸次郎を訪ねる条りが書かれてゐましたが、大正時代の東北地方の、詩にかぎらぬ文化活動を語る人たちの口に上る「福士幸次郎」といふ要人の名が、今以上に偉大なものとして認知されてゐたことについて、今日の公的文学館が展覧会を開き、解説を試みた意義は大きいと思ひます。

当地との関りでは、福田夕咲(飛騨高山出身)が口語詩揺籃期の盟友として、また放浪時代の一時期を過ごした名古屋との縁もあってか、金子光晴を詩壇にデビューさせた恩人として、佐藤一英とはおなじく音韻詩を模索した先輩詩人として、浅からぬ縁があります。棟方志功が雄飛するきっかけとなったのは佐藤一英の詩「大和し美し」でしたが、彼らの媒をなしたのも福士幸次郎でありました。さうなると一戸謙三をはじめとする門下生の集まる「パストラル詩社」と、福士幸次郎を講演に招いたこともある「東海詩人協会」との接触もあったかもしれません。

一方で当時、盟友からも後発の詩人達からもその詩人的奇行と見識によって尊敬を贏ち得てゐた様子だった彼が、その後およそ国柄とは本質的にそぐはぬ「ファシズム」の名を冠した団体を立ち上げ、晩節を汚したまま亡くなってしまったことにも思ひは及びました。
一家言の理論家肌がわざわひしたものか、提唱した地方主義運動によってかきたてられた郷土愛・祖国愛が、後年創始した日本古代文化史論においても「尾張は日本のメソポタミヤであり、木曽長良の両川はチグリス、ユウフラテスにあたる」といった創見にとどまらず、図らずも彼をファシズムへと迷はせる讖となった可能性はあります。
ほかにも拘泥した理論に音韻詩がありましたが、詩壇を動かすには至らず(これは聯詩を追及した佐藤一英も同じでしたが)、敗戦まもなく急逝してしまったため戦後史観によって黙殺された結果、近代詩を語る際に逸することのできない業績を遺しながら、徒らに名高い不思議なキーパーソンとしての「福士幸次郎」が取り残されてあるやうな気がしてなりません。

しかしながら、この図録に紹介されてゐますが、無名時代を損得抜きで世話になった金子光晴やサトウハチローのやうな破格の人物から生涯敬慕され続けたといふ事実、そして当時の詩壇の盟友達が彼の逸話集なら何ページでも書けると受け合ったといふ話、これらから結ばれる人物像に、およそ「ファシズム」の名も理念もそぐはないこともまた確かでありましょう。大正時代に開花した口語詩を代表する萩原朔太郎、その彼が寄せた一文が、詩人福士幸次郎の本来の面目と地位を裏書きするやうな証言として掲げられてゐるのを読んで、私自身の認識もあらためられた気がしました。

図録には、館蔵資料のほか一戸謙三の許に遺された原資料も多数掲載され、書影・書翰・原稿、そして萩原朔太郎と室生犀星が一緒に写ってゐる珍しいスナップや、金子光晴の『赤土の家』出版記念会など、全国各所の文学館所蔵の写真の数々にも瞠目しました。概してどれも小さく、もっと拡大して掲載して欲しかったところです。

大正詩に詳しい者ではありませんが、以下に目次を掲げて概略を報知・紹介させて頂きます。


『福士幸次郎展 図録』目次

詩篇紹介 「錘」ほか15編

資料紹介
書・色紙・短冊・草稿・書簡・書籍・雑誌

福士幸次郎の生涯
 1弘前に生まれて文学青年となるまで
 2自由詩社に入り、詩を発表
 3第一詩集『太陽の子』 口語自由詩の先駆
 4詩集『展望』とパストラル詩社
 5地方主義運動(1) 地方文化社の設立
 6地方主義運動(2) 地方主義の行動宣言
 7「日本音数律論」 詩のリズム研究
 8『原日本考』 古代の研究
 9館山北条海岸で没す 弘前市に文学詩碑

福士幸次郎を取り巻く詩人たち 竹森茂裕
佐藤紅緑・ハチロー・愛子に愛された福士幸次郎

福士幸次郎自伝
福士幸次郎君について 萩原朔太郎
弟の思ひ出 福士民蔵

福士幸次郎書簡
福士幸次郎年譜

(平成28年1月12日 弘前市立郷土文学館発行 29.6cm 40p)

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745中嶋康博:2016/04/11(月) 16:30:14
はぐれたる春の日に。
ひさしぶりに【四季派の外縁を散歩する】第21回 東北の抒情詩人一戸謙三 を更新しました。
このたびはまた御ひとかた、 抒情の血脈を同じくする先達の「素顔」に接し得てよろこんでをります。



さて、教へていただくまで気が付きませんでしたが、完全テキスト主義で、かなりマイナーな詩人までフォローした奇特な戦前詩人のデータベース「名詩の林」ホームページが、今年になって(?)あとかたもなくなってゐました。自分のホームページの未来をみる思ひで慄然としてゐます。

けだし自分も四捨五入すれば60になってゐたといふ始末。
現在自分にふりかかってきている運命に理由をもとめることはやめにしないといけないな、とも思ふやうになりました。
仕事のこと、家族のこと、後がありませんが、一日一日を大切に暮らしてゆく所存にて、今後ともよろしくお願ひを申し上げます。



【寄贈御礼】
ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

『詩集 修羅の歌声 (飯島研一様)』
『相逢の人と文学』 (千葉貢様)』
『北方人第23号 (池内規行様)』
『桃の会だより24号 (鷲野和弘様)』
『菱193号 (手皮小四郎様)』
『gui107号 (奥成繁様)』
『遊民13号 (大牧冨士夫様)』
『調査報告 菊池仁康訳『プーシュキン全集』とボン書店 (一戸晃様)』


【御紹介御礼】
現代詩のアーカイブ 「Crossroad of word」にて、拙詩がChronologyの末席へ掲載に与り、感謝と恐縮の至りです。

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746中嶋康博:2016/05/13(金) 16:56:38
限定15部の詩集
奥付を見ると昭和14年1月に印刷を終へたのち内藤政勝の許に預けられたもののやうで、
完成するまでの一年近く、著者は(おそらく学生であったのでしょうか)本郷の弥生アパートの一室にあって、
自分の初となる詩集の豪華な出来上がりを心待ちにしたことに相違ありません。

著者の江泉正作はこののち、詩人ではなく俳人に転身。
昭和16年の滝春一の句集『手毬唄』を同じく内藤政勝が造ってゐるのですが、おそらくこの詩集制作が機縁となってのことでしょう。
江泉は瀧春一が主宰する『暖流』(『馬酔木』の衛星雑誌)の編集実務をつかさどり、戦後も師を支へたと聞きます。
一方の内藤政勝はといへば、これは個性的な造本家として著名ですね、
すなはち後に数々の稀覯本詩集も手掛ける「青園荘」の主人であります。



長らく詩集を集めてきましたが、限定15部なんて本を手にするのは初めてです。
稀覯性に鑑み内容を公開しました。
奇抜な意匠はみられませんが、結構大きく、堅牢な造りであり、
内藤政勝の仕事においても最初期の一冊に数へられるものではないでしょうか。
詳細を御存じの方には情報をお待ちしてをります。

http://cogito.jp.net/library/0e/ezumi.html

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747中嶋康博:2016/05/14(土) 21:40:48
『田中克己日記』 昭和29年
『田中克己日記』昭和29年upしました。

保田與重郎との関係について、少しだけつっこんで解説を書いてみました。

http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1954.html

748中嶋康博:2016/06/08(水) 07:14:57
「保田與重郎ノート3」 紹介
 金沢の米村元紀様より2年半ぶりの発表となる「保田與重郎ノート3「當麻曼荼羅芸術とその不安の問題」をめぐって」を収めた『イミタチオ』57号(2016.5金沢近代文芸研究会)の御寄贈に与りました。

 このたびも保田與重郎の初期評論が対象に据ゑられてゐるのですが、前回論考において呈された「渡辺和靖氏の保田與重郎批判」に対する再批判が、より徹底的に展開され、保田與重郎をその文学的出発時にさかのぼり、文人としての姿勢に宿す本質において批判と総括を試みた渡辺氏の考察が完全に覆され、のみならず、逆に当の批判者本人の批評家としてのスタンスが問はれる恰好ともなった模様です。

 保田與重郎研究書の真打ちの如き、時期と・分量と・装釘でもって2004年に現れた渡辺氏の研究書『保田與重郎研究』(ぺりかん社刊)でしたが、保田本人と直接親交のあった信奉者と、彼らを敵視した左翼マスコミ系イデオローグ達とが、共に評論の舞台から退場した今日、残されたテキストから問題点の整理をし直した、といふ執筆の姿勢が新鮮にも映ったのは事実です。保田與重郎の独特に韜晦する文意を、周辺文献への博捜によって、外壕を埋めるやうに実証的に質し、解きほぐし得たかにみえた考察でしたが、このたびは同じく実証的スタンスを重んじた米村氏による更なる精査によって、渡辺氏の読解の「拙速さ」が指摘され、否、それは果たして「拙速」であったのか、そもそも渡辺氏の執筆動機には、保田與重郎が今日読まれる意義に対して引導を渡さんがための「歪曲」の意図があったのではと、あからさまに筆には上さないまでも疑念さへ呈されてゐるやうに、私には感じられました。

さきの論文では、保田與重郎の文学者としての倫理を問うた「剽窃疑惑」に対し「待った」がかけられましたが、今回はデビュー当時の評論手法に対して渡辺氏が行った批判への反証が徹底的に述べられてゐます。保田與重郎の当時の文章から「視覚的明証性(みればわかる)」を重んずる高踏的な芸術家態度を指摘する一方で、「古典には主観の介入する余地はない」といふ矛盾したもう一つの態度を導き出し、自家撞著を指弾した渡辺氏ですが、「保田のやり方は、口では考証の排除を言いながら実は暗黙裡に時代考証を前提としている。63p」とも語り、批判の手をゆるめません。これに対し米村氏は

 そもそも芸術作品に「知識や思想」を読み取ることを避けるのは「実証的な検討」を否定していることになるのであろうか。(63p) 保田は「芸術史家の途方もない科学的批評」の「観念形態」そのものが歴史的産物であることを暴露しているだけなのである。(64p)
 保田は古典作品に対して「主観の介入する余地はない」などと言ってはいない。それどころか古典作品の享受とは「芸術のレアール」、つまり「切々と心うつ何ものか」を感受することだと主張していた。(65p)「歴史的実証性」に背を向けて古典論を展開しているのではない(67p)[し、]「芸術のレアール」の享受のために科学的実証を否定するわけで[も]ない。「知識や思想」を当て嵌めて批評とする態度を批判しているだけ(68p)[であり、また、]保田は「芸術のレアール」の感受だけを批評だと言っているわけで[も]ないのである。(69p)

 と、それぞれの箇所で保田與重郎自身の文章を引きながら至極まっとうな論駁によって切って捨て、再考が促されてゐます。そして続いて、

では、近代芸術の概念に基づく芸術史を否定するのであれば、保田はどのような歴史を想定するのであろうか。(中略)それに代替するものとして精神史なるものを措定する。(67p)

 と、その後昭和10年代に突入して後の展望の方向が示されてゐます。けだし渡辺氏の「拙速」が本当に「歪曲」ならば、目論見はこの時代を批判したいが余りに、しかしイデオロギーによる悪罵の無効をさとり、土台を崩しにいって失敗したといふことでありましょうから、今度は米村氏の手になる引き続いての論考も待たれるところです。

 前半には哲学者三木清を向ふに回した当時の評論も考察対象に挙げられ、学術用語に詳しくない門外漢の私には就いてゆき辛い個所もあったのですが、論理的なミスリードを突いて白黒決着をつける部分については分かりやすく、最後は心の通った眼目によって論文が締めくくられてゐることにたいへん好感を感じました。

 とまれ雑誌一冊の大半を占める内容には瞠目です。日本浪曼派を論ずる研究書を読まなくなって久しく、斯様な論文に首をつっこんで紹介するなど烏滸がましい限りですが、渡辺氏の労作『保田與重郎研究』も今後は米村論文を念頭に置いて読まれなくてはならぬものになってしまったことだけは云っておきたく、ここに紹介させていただきました。
 同号には、四季派詩人としては珍しく田中冬二を主題に据ゑた、抒情の感傷性・モダニズム・全体主義を、異次元世界構築に向けて発動する想像力の問題として捉へた、西田谷洋氏の力作論考も併載されてゐます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。



『イミタチオ』57号 (2016.5金沢近代文芸研究会)  目次

小説 「想いのとどく日」くどう文緒……2p
評論 「田中冬二 詩のセンチメンタル・モダニズム」西田谷 洋……8p

評論 「保田與重郎ノート3「當麻曼荼羅芸術とその不安の問題」をめぐって」米村元紀……24p

 第一章 「生の意識」と新しいロマンの探求
  1.『戴冠詩人の御一人者』と「當麻曼荼羅」
  2.「剽窃」としての「當麻曼荼羅」
  3.論争の説としての「當麻曼荼羅」
  4. 「生の意識」と三木清との確執
  5.既成文学批判と新しいロマンの探求
  6.三木清の二元論への苛立ち
  7.「パトス」論と三木清の影響
  8.不安の時代と芸術論
  9.保田與重郎と小林秀雄

 第二章 「當麻曼荼羅」と不安の芸術
  1. 不安の芸術と芸術のレアール
  2.「不安の時代に於ける芸術」、「芸術の示す不安」、そして「芸術のあらわす不安」
  3.「芸術のレアール」とは何か
  4.「知識や思想」を排除する批評
  5.「科学的美学の公式」と「知識や思想」
  6.印象批評と「科学的」批評

評論 「五木寛之(金沢物)の傑作「金沢あかり坂」 森英一……76
評論「カンガルー日和」について 改稿から見えてくること 宮嶌公夫……90
北陸の本……98

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749中嶋康博:2016/07/12(火) 23:18:24
『田中克己日記』 昭和30年
『田中克己日記』昭和30年upしました。

歌集『戦後吟』が刊行され、いよいよ小高根二郎氏とあたらしい雑誌を創刊する計画が。

http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1955.html

750中嶋康博:2016/07/27(水) 13:14:14
「 モダニズムと民謡について」
さきに季刊『びーぐる』第31号 <特集>土地の詩学?に書かせていただいた拙文ですが、バックナンバーとなりましたので掲げさせていただきます。


 モダニズムと民謡について          中嶋康博

 詩のなかに土地があらはれると、その土地が作者の詩人たる存在にどんな意味をもってゐるのか関心をもちます。それが詩人の生まれ故郷だった場合、慕はしき場所なのか呪はしき場所なのか。中原中也や萩原朔太郎を持ちだすまでもなく、ふる里はしばしば文学者の性格を決定づけます。そして宮澤賢治はその典型ですが、作者のロマンチシズムによってしばしば変容されるものです。
出身地でなく他郷の場合であっても事情は同じで、理想郷に描かれたり、逆に疎外感にさいなまれて居れば、やはり大きな刻印を詩人に残すのです。信州は都会人である立原道造ら「四季派」の詩人たちによって、彼らの詩的故郷に仰がれましたし、多くの上京詩人たちにとって、都会生活のなかで味はった孤独と不遇とが、故郷への思慕となって彼らのもとに返ってくることを幾多の望郷詩が傍証してゐます。近代文化史的な疎外感、思ひ描かれた故郷が日本の原風景であるやうな、文明開化に対する象徴的な反省として「日本浪曼派」も現れたのだといってよいかもしれません。

 ながらく近代の口語詩を渉猟してきた私ですが、おもしろいと思ったことがあります。それは如上の、詩人らしい故郷との関係のことではなく、都会生活に軋轢を感じるどころか、文明志向がさらに彼らを駆ってゐるやうなモダニズムの詩人たち、ことに東京近傍の中途半端な文化圏から上京したためか、それが一層顕著に感じられる名古屋・中京地区出身の詩人たちのことでした。同じく東海地方に生を享けた自分だから感じるのかもしれません。
 近代物質主義の申し子である彼らにとって、土地はアイテム同様にハイカラなスタイルを纏ふべきものとして詩の中に登場します。先頃刊行された『白昼のスカイスクレエパア 北園克衛モダン小説集』でも感じたことですが、昭和初期に詩壇を席巻したレスプリヌーボー、春山行夫が御膳立てをしたモダニズム詩の運動には、ディレッタンティズムと非政治性――つまり「ハイブロウな平俗性」ともいふべき心性を強く感じます。文学手法の革新が海外文芸の翻訳紹介に偏してゐることに飽き足らず、政治体制批判に目覚める人たちもありましたが、中京地区からの参加はなかったやうであります。おもしろいと云ったのは、その一方で、真反対な「ローブロウな平俗性」を象徴する「民謡詩」といふジャンルが、同じ中京地区の衛星都市である岐阜を拠点に詩壇として成立し、昭和初年の同時期に地方勢力を保ってゐた事実と、私の中でワンセットで思ひ起こされることです。

 土地を題材とする作品が現代詩としての価値を持つためには、詩人の自我がその地の風俗や自然を通して顕れてくることが大切だと思ってゐます。しかし音頭・長唄・小唄といった民謡詩には、公的に要請される校歌や翼賛詩と同様、制作意図に作者の切実な自己(生の意識)は必要とされません。自意識を卑俗的日常まで頽落させた大衆迎合の表現が、御当地詩人たちにとって如何なる制作モチベーションと結びついてゐたものか不思議に思ふのですが、岐阜県の民謡詩運動の場合、アンデパンダン結社であった『詩の家』の詩人岩間純が帰郷し、彼が興した詩誌『詩魔』を足がかりにして昭和初年代に大いに盛り上がったもののやうです。当時、詩と流行歌との二足の草鞋を履くやうになった『詩の家』主宰者である佐藤惣之助が、中央から物見遊山かたがた岐阜市に訪れて歓待される様子は、まるで江戸時代の漢詩人の宗匠をとりまく田舎サロンをみる思ひがします。それから一世紀近く隔てた現代から遠望すれば、歌はれた和風情緒はすでに私たちの生活から遠く、都市化された風景の変容も、資源を食ひ尽くしてなほ観光地の名をとどめる空しさの上に痛感されるところです。

 前述したモダニズムによって描かれた都市化された風景についていへば、そのさきの未来が、今日につながらぬ当時の最先端風景として創造的に懐古されるところに意義があり、今なほ新しい読者を勝ち得、北園克衛の新刊にも注目が集ってゐるのだといってよいでしょう。しかし民謡詩については残念ながら、それが寄りかかってゐる文化的な共通理解の前提をとり除けば何も残らなくなるやうなポエジーのあり方は、戦争翼賛詩と同列に考へられる事象なのかもしれません。ついでながらモダニズムから体制批判を志した詩誌『リアン』の同人たちもまた『詩の家』ファミリーでした。こちらは戦時中の弾圧によって解体、詩派としては継承されず今に至ってゐることを併せて書き添へておきたいと思ひます。

 翻ってグローバリズムが極まり、文化的な共通理解の前提が民主主義の価値観に一元化されるやうになった現代の日本で、詩人は土地をどう歌ひ、何を意味づけすることができるのでしょうか。「地球」を概念としてとらへる野放図さ、土地として向き合ふやうになったときのパースペクティブに私は耐へられず、戦前抒情詩が成立した“箱庭”を仮想し、そこで現代との折り合ひをつけながら詩を書いてゐたやうに思ひます。そして上京生活を切り上げて帰郷した後も、地域の伝統的な風土風俗を詩に詠みこむことに不毛を感じ、むしろ不毛そのものが歌はれる「イロニー」や「パロディ」としての土地の詩学に親しんできたやうに思ひます。過去の作品でいふなら小野十三郎によって描かれた一連の「大阪」や、中原中也の「桑名の駅」といふ詩。土地はこの先あのやうに歌はれ、それがまた新たな歌枕として平俗性をまとって日本文化に定着してゆくのかもしれません。すでに桑名駅には立派な詩碑が建ってゐるとか。斯様な詩碑が建てられる観光まちおこしの思想と経済力に、私はかつての民謡詩人たちが情熱を傾けた姿を重ね合はせ、ふたたび数十年後の行末を思っては(それをむなしいといってよいものか)現在に生きてゐる一種の感慨にとらはれます。


季刊『びーぐる』第31号 2016.4.20 発行:澪標(税込定価1,000円) 現在、最新号32号を発行。

751中嶋康博:2016/09/15(木) 22:11:37
『田中克己日記』 昭和31年
『田中克己日記』昭和31年upしました。

同人誌『果樹園』創刊と、戦後関西在住時代の詩集『悲歌』の刊行。
そして一区切りついた詩人の上京計画が始動します。

http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1956.html

752中嶋康博:2016/10/13(木) 00:25:16
『田中克己日記』 昭和32年
昭和32年『田中克己日記』解説共にupしました。
関西から詩筆を折る決意で上京、十年ぶりの東京で待ってゐたものは・・・。
http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/tanakadiary1957.html

753中嶋康博:2016/11/24(木) 08:44:16
『感泣亭秋報 11』
詩人小山正孝の子息正見様より、今年も『感泣亭秋報 11』の御寄贈に与りました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

特集は“『四季』の若き詩人たち”。すなはち戦前の第2次『四季』の常連投稿者のなかで個人詩集を持つことがなかった当時の青年詩人たち、そしてその後の第4次『四季』――戦後詩史上、抒情詩の牙城を守る“真田丸”的存在となった、丸山薫の『四季』――に鳩合することをも得なかった詩人たちの中から、今回は村中測太郎(むらなかそくたろう)、木村宙平(きむらちゅうへい)、能美九末夫(のうみくすお)、日塔聰(にっとうさとし)の4名が選ばれ、それぞれ作品の紹介と解説とがなされ、不遇が弔はれてゐます。

限られたスペースで、紹介作品は『四季』掲載以外のものがあれば積極的に掲げ、プロフィールも複数の書誌を校合して加筆されてゐますが、執筆担当の“信天翁”氏は蓜島亘氏と思しく、自身が抱へる連載とは別に今回は特集全体のオーガナイズを任された趣きです。今後も主宰者正見氏の信を得て坂口昌明氏の亡きあとの『感泣亭秋報』を守り、坂口氏と同様、在野研究者ながら書誌的正確さと資料の博捜を以て、大学で禄を食む研究者からは、畏るべき目を持つ“候鳥”の存在が一目置かれてゆくことでしょう。
連載中の「小山正孝の周辺 その5」において傾けられる蘊蓄にも、氏らしい謹飭さが窺はれますが、戦後復刊した第3次『四季』とは詩的精神を同じくし、主に散文を扱った雑誌だった『高原』について、そこによった山室静や片山敏彦といった正に四季派周辺のことが触れられてゐます。そして彼等が傾倒したシュティフターをはじめとするドイツ語圏の詩的精神が、昭和初期の読書人におよぼしたブームの受容史について。特集にも呼応させるべく何人ものマイナーポエットの名が挙げられてをります。

また現在の四季派研究の先頭に立つ國中治氏からの寄稿を今号でも読めることが、戦前抒情詩の愛好者には嬉しい限りです。
「四季派詩人」の中で「詩集を持たぬ小惑星中の最大」ともいふべき能美九末夫の作品を『四季』誌上にたどり、一篇一篇考察を試みてゐるのですが、自身が詩人である鋭い直感から、このマイナーポエットが伊東静雄や中原中也に対して反対に影響を与へたかもしれない可能性を示唆してみせる条りなど、刺戟に富んだ内容となってゐます。

そして特集以外でも、小山正孝詩との正対を続けてゐる近藤晴彦・渡邊啓史両氏の連載論文が今回も充実してゐます。現代詩音痴の私が敬遠してゐる「戦後詩集における変転」に対し、継続して取り組んでをられるのですが、入る者を韜晦で迷はす、決して“小山”と侮れない山水のなかで試みられたアプローチの論点が、道筋をつけるべく多岐点々と道標のやうに提示されてゐます。

近藤晴彦氏は『未刊ソネット』の成立事情について、主体的抒情に耽ってゐた詩人が抒情を客観視し凝視できる視点をもつまでの過渡期的作品として、
「『雪つぶて』の谺を含みながら、大部分が『逃げ水』の定稿を定めるほぼ9年間に製作されたものではないか」
との推定を下してをられますが、膨大なこれら愛の詩篇たちの向ふには、無垢な四季派詩人で居ることがもはや出来なくなった小山正孝の「立原道造との暗闘」が、対象を愛人に、ソネットといふ形式をとりつつ息苦しく横たはってゐるやうな気分が、私にも感じられます。

一方、質量ともに瞠目すべきは、第六詩集『風毛と雨血』を紹介する渡邊啓史氏の論文「精神の振幅」でしょう。50代を迎へた初老の詩人が描く、理想郷とは呼べぬ心象世界が、実存の深みを指し示すと同時に、それとの距離のとりかたを摸索してゐるやうだと、翻訳を通じて関ってきた中国の古典との関係を挙げながら語られてゐるのですが、現実でも去りゆく「若さ」に対する嫉妬や屈辱があったのではとの指摘には、『唐代詩集』を共訳した田中克己の同時期の境遇を思ひやり、或ひは詩を書けなくなった同世代の自分自身の葛藤をも投影してみたことでした。
加へて渡邊氏には、今回の特集でも日塔聰の宗教観に触れてをられ、彼や、亡き配偶者の貞子や、同じく山形へ帰郷した加藤千晴にも宿ってゐるところの、早春の氷柱に雫するが如き“『四季』の若き詩人たち”に共通する内省する抒情に対して、共感をあらたにしました。

渡邊氏は蓜島氏とともに、この『感泣亭秋報』において懐刀と呼ぶべき、なくてはならぬ存在となってゐます。研究業績の点数かせぎとは無縁の雑誌であればこその御活躍を、今後も期待せずにはゐられません。

それから今号には、詩人小山正孝の最大の理解者でありながら、当の本人についてどんな方だったのか分からぬまま、その学際的博識を畏怖申し上げてゐた坂口昌明氏について、杜実夫人の回想が掲げられてゐます。
亡き詩人の人となりを、たとへば小山常子氏からのレクイエムと比するなら、やはりこの教養詩人にしてこの夫人ありとの印象を表現に感じました。鈴木亨氏など周辺にあった詩人の名も現れる、何回にも分けて聞きたいやうな濃い内容の文章には、
「坂口の詩は読むのに少々努力がいる。(中略)日常の経験を書いても彼の意識はいろいろな要素が相互に浸透しあい多様な変化で詩に象徴される」
とありましたが、これって全く盟友である小山正孝と同じではないかとも思ったことでした。

一方で教育者としての小山正孝のおもかげについて、
「先生のユニークなところは講義に出席さえすれば及第点をいただけるというところで、非常に人気がございました。開始から終了まで真剣勝負、学生は先生の豊富な文学に圧倒されたと聞いております」
とは、関東短期大学在職中の様子を伝へる高橋豊氏の一文。同じく女子大に勤め、畏れられ慕はれた田中克己の日記を現在翻刻中の私には興味深く、頬笑ましい消息にも思はれたことです。

この個人誌がすでに『四季派学会論集』をしのぐ学術研究誌の域にまで達してゐることについては、一詩人の顕彰にとどまらぬ、彼の生きた時代の「特異な人たちの群像(173p)」へと対象をひろげてゆかうとする主宰者正見氏の姿勢において、後記に語られてゐるとほりなのですが、ここ数年の内容を一覧するにあらためて瞠目を禁じ得ません。
全ての文章にコメントをする余裕がありませんが、つまらぬ紹介は措いて、前号を上回るページ数を毎度更新してゐる、この恐ろしい雑誌の目次を以下に掲げます。実際に手にとって頂く機会があれば幸ひです。


年刊雑誌『感泣亭秋報 11』 2016年11月13日 感泣亭アーカイヴズ発行 174p  定価\1,000  問合せ先HP:http://kankyutei.la.coocan.jp/

詩稿・・・・・・小山正孝 3p

【特集『四季』の若き詩人たち】

序にかえて・・・・・・信天翁 5p
「四季派」とは・・・・・・小山正孝 10p
〈村中測太郎詩抄〉12p
詩人・村中測太郎・・・・・・信天翁 15p
〈木村宙平詩抄〉18p
もう一人の九州詩人・木村宙平・・・・・・信天翁 22p
〈能美九末夫詩抄〉24p
能美九末夫と『四季』 たゆみない挑戦・・・・・・國中治 28p
能美九末夫の源流・・・・・・信天翁 41p
〈日塔聰詩抄〉44p
日塔聰 詩および詩人・・・・・・渡邊啓史 47p
詩人日塔聰にまつわることなど・・・・・・布川鴇 50p

盛岡の立原道造・・・・・・岡村民夫 58p
『四季』立原道造と小山正孝と村次郎・・・・・・深澤茂樹 73p

精神の振幅 詩集『風毛と雨血』のために・・・・・・渡邊啓史 77p
小山正孝の詩世界10『未刊ソネット史』・・・・・・近藤晴彦 117p

【詩】
 長い坂・・・・・・山崎剛太郎 126p
 「出てきて おくれ」亡き妻に・・・・・・比留間一成 128p
 手紙・・・・・・大坂宏子 130p
 風・・・・・・里中智沙 132p
 便り・・・・・・森永かず子 134p

【わたしの好きな小山正孝】
漂泊する詩人の魂・・・・・・岩淵真智子 137p
詩になった内部空間・・・・・・松木文子 139p

「浅は与に深を測るに足らず」・・・・・・坂口杜実 141p
常子抄・・・・・・絲りつ 153p
小山正孝先生の思い出とその当時の関東短期大学について・・・・・・高橋豊 155p
鑑賞旅行覚え書1 キネマの招き・・・・・・武田ミモザ 158p

小山正孝の周辺5 『高原』をめぐる詩人たち・・・・・・蓜島亘 160p

感泣亭アーカイヴズ便り・・・・・・小山正見 172p

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754中嶋康博:2016/11/26(土) 12:20:00
探珠『玲』
津軽の抒情詩人一戸謙三を顕彰する探珠『玲』といふ無綴のコピー雑誌があります。詩人の令孫、一戸晃様よりお送り頂いてゐるのですが、昨年に続き今年も、

別冊『戦時下の一詩人』
『調査報告 菊池仁康』、 『調査報告 木村助男』
『詩人一戸謙三の便り』その3、その4、その5
『詩人一戸謙三 青春歌』その1、その2

と発行が続き、詩人とその周辺、戦時期や出発期の消息についてが、数多くの資料とともに明らかにされました。
そしてこのたびは製本を施した刊行本『詩人一戸謙三の軌跡』が、物語仕立ての伝記として始まり、第1巻のご恵投に与りました。ここにても御礼を申し上げます。

ボン書店の社運を賭して刊行した『プーシュキン全集』。その訳者の菊池仁康とはどのやうな人物であったか。また、高木恭造と一戸玲太郎(謙三)の名声の陰に隠れているものの、津軽方言詩をあやつる木村助男といふ不遇のうちに夭折した詩人のあったこと。
東海地方に住んでゐる私には、一戸謙三以外のことについてもいつも知らないことばかりを、新出もしくは稀覯の資料とともに紹介してくださる晃氏ですが、いかんせん無綴のコピー紙のあつまりなので散逸が心配です。「資料のデジタル保存」作業も始められたとのことですが、別に在庫ありとのことでお送りいただいた『玲』百号記念号には、これまでの歩みが記されてをりました。
そのなかに『みちのくの詩学』を著した坂口昌明氏の、晃氏への遺言となってしまった「跋文」が認められてをり、ここに引き写します。

五年前に第一号を頂いてから、 ここで百号に達したという。一戸謙三の詩を研究する者にとって、今後よけては通れない最大の資料集成であることは、すでに間違いない。謙三先生直系の孫である一戸晃氏は、一九九七年秋、弘前市藤田記念庭園前の謙三詩碑除幕式で、膨大な草稿・資料が存在するむねを明らかにしていた。結局、自身が直接整理分類し、このような形で編纂するに至った裏には、既往の伝記や研究のたぐいにあき足りない思いが介在していたからではないかと推測される。

一戸謙三とその時代の文学背景は非常な厚みと混沌を内蔵しているのに対し、再検討する後進の素養と心構えが段ちがいに未熟だったのが主な原因である。そこで晃氏はまず自分の眼で、祖父の文学領域に起きたことを正確に知り、それを捉えなおして提示しようと志したのである。

謙三書斎の保管者としてだけでなく、氏の調査は周辺関係者への聞きとり、図書館文献資料の博捜にまで及んだ。その情熱と努力は半端ではない。詩人謙三の出発から生長、変貌までが、そのおかげでつぶさに辿れるようになったのは、もちろん最大の貢献であろう。ふり返って、謙三の詩が一九三二年末に、超現実主義から方言詩へと変っていった、その転換点を如実に示しているのを、私は知り得た。言葉が観念の重圧に硬化し、鬱からの脱山を足もとの現実=土に求めたと読みとれる。謙三には常に進境を求める存外性急な一面があったようで、それが前の作品を抹殺してしまう傾向につながった。したがって、その意味でも探珠「玲」のような、息の長い、地道な跡づけが必要になってくる。
「探珠」という語は、一九一四年にときの陸軍軍医総監森鴎外が、東北・北海道の軍医療施設を視察の途次、史伝「渋江抽斎」取材のため弘前の斎吉旅館に投宿した際、館主の求めに応じて揮毫した書「探珠九淵」から取られている。その軸を旅館の御曹子で謙三の盟友だった斎藤吉彦が東京遊学中も所持していたという由来にもとづく。吉彦は謙三より五歳若かったが、誕生日が同じ二月十日、慶応義塾の同門ということもあり、意気投合する仲になった。そこに「玲」を添えた、晃氏のネーミングの趣向があろう。

記憶に残り、恩恵を受けた記事のなかで印象に鮮明なのは、竹内長雄(たけのうちのぶお)と桜庭スエの「お岩木様一代記」に果した役割であり、また飯詰の方言詩人木村助男の生涯に当てられたスポットライトである。

百号の跋文をと言われたが、それは本来書物のために書かれるものであって、この場合のようなペーパー類に合うかどうかは分らない。視点にまとまりを欠き、叙述が枝葉に入りすぎるケースが散見される。文献の扱いや措辞に、基本的な条件を欠くうらみも、少なからず感じられる。NHKドラマや教養番組の影響なのかもしれないが、人間模様をドラマ仕立てで語らせてつないでゆく手法も、せっかくの実証性を割り引くことにしかなるまい。何を本当に描きたいのか、気が散りすぎていると思う。研究と小説とは違うのである。

情に篤い氏の性格は財産であるものの、それを生かすのも殺すのも、手きびしい文学の眼である。そういう意味では探珠「玲」は、まだレポートの域をこえていない。謙三は祖父としては満足だろうが、詩人としては苦笑するかも知れない。

これまでの晃氏の営為を過不足なくねぎらって、なほ「きびしい文学の目」をもって鞭撻の視線が注がれてゐました。

このたび刊行された『詩人一戸謙三の軌跡』を拝見するに、蓄積・整理した資料をそのまま提示することには、やはり慊い模様の晃氏ですが、なればそれらを駆使し、情に篤い氏の持ち前の語り口を活かした、坂口氏が希望したその上を往くやうな、御祖父の伝記をぜひとも書きあげて頂きたいものと念じてをります。

『詩人一戸謙三の軌跡 1』 平成28年11月3日 著者・編者・発行者 一戸晃 21cm 108p 非売品

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755中嶋康博:2016/12/27(火) 20:47:16
詩集『野のひかり』
年末にうれしい贈り物ふたつ。
ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございます。

ひとつはネット上で初めて読んだ未知の詩人の詩に感じ入り突然の御挨拶、返礼にいただいた小網恵子様の詩集『野のひかり』です。
造本感覚がゆきとどいた装釘は、刊行元である水仁舎の、著者の作品に寄せられた厚意の感じられる淒楚なもので、活字の効果的使用には羨望を覚えました。私の好きな版型だけでなく扉の配色にも特段の親近を覚えたことでした。
さうして詩集を繙き、ネットでは紹介されてゐなかった詩の数々にふれ、思ったとほりの自然に対するまなざしに、後半の散文詩には寓意風の詩想の妙に、共感と親しみを新たにしました。
一見素朴にみえる自然な描写にこめられた雕琢が、よくわかります。

「野」

あの人が喋ると
ねこじゃらしが揺れる
相槌をうちながら
風の方向を感じていた

食卓に座れば
いつもわたしに向かって風は流れる
風下に風下に
種は飛ばされて
わたしの後ろに
ねこじゃらしの野が広がる

あの人が一つ大きく息をついた
話したことをもう一度反鈍するように
黙して
落とした肩の向こうで何か揺れた


『Crossroad of word』ホームページでいち早くこの詩集の紹介をされた管理人様の炯眼にもあらためて感心しました。
現代詩はみな、理に落ちぬ遠心的な措辞で煙に巻くことを性分にしてゐるものですが、「野」「五月」「ぐるり」など、言葉が作者の心情に回収され、抒情の表情として目を伏せたやうな心の持ちやうが、何とも言へない魅力になってゐます。 みなさんも手にとることのできる機会がありましたら是非。

年末に「この世界の片隅に」といふ素晴らしい映画に出会ひ、心が温まったところ、日ごろの憂さがしばし解きほぐされたやうな心地いたしました。

そしてもひとつ嬉しいいただき物は、石井頼子様からの新学社のカレンダー。
来年も「無事」に過ごせますことを切に祈りをります。
今年は色褪せですが、拙宅の廊下にも保田與重郎「羽丹生の柵」の複製を飾ることができました。

ついでに今年の収穫(いただきもの含む)を掲げて締め括りとします。
額は定めてはゐないですが本年の「図書費」は結果的にその半分を地元漢詩人の詩稿(オークション)に費やして終了。

白鳥郁郎詩集『しりうす』(田中克己校正)
まつもとかずや評論集『するり』(下町風俗資料館元館長)
宮田嘯臺 書幅
『山川京子歌集』 桃の会版
加藤千晴詩集『宣告』(然るべき先へ寄贈したら、奇蹟的に再び入手できました)
冨岡一成『江戸前魚食大全』 (下町風俗資料館元同僚)
戸田葆堂自筆日記『芸囱日彔』うんそうにちろく (来春4月お披露目予定)
河合東皐、木村寛齋 詩草稿
『果樹園』欠号さまざま
江泉正作詩集『花枳穀』限定15部
『自撰 一戸謙三詩集』
北園克衛小説集 『白昼のスカイスクレエパア』加藤仁編
詩誌『咱芙藍:サフラン』(福井県武生)大正15年


さて誰からの催促も反応もないライフワーク「田中克己戦後日記」ですが、
これまでは内容をそのまま載せることを原則としてをりましたが、東京時代に入り、親戚等のプライバシー情報は不要に感じられてきたので、
すでに翻刻と解説が終了してゐる昭和33年は、昭和34年を翻刻して様子をみながら、編集を施しゆるゆるupして参ります。よろしくお願ひを申上げます。


よいお年をおむかへください。

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756中嶋康博:2017/01/03(火) 20:05:27
謹賀新年
あけましておめでたうございます。

酉年ださうですが、今年は明治時代の大垣の漢詩雑誌『鷃笑新誌』の編集長であった戸田葆逸(1851 嘉永4年〜1908 明治41年)の自筆日記を入手したので、その翻刻と紹介を試みたいと思ってゐます。

「鷃笑(あんしょう)」とは荘子の故事で、鵬(おおとり)の気概など感知しない斥鷃(せきあん)といふ小鳥が嗤笑するとの謂であり、雑誌のタイトルが示すところは、葆逸の祖父、大垣藩家老だった小原鉄心の鴻図を仰ぎ、同時に、また彼が身上としてゐた低徊趣味に倣って、旧詩社の名を継いで新しい雑誌の名に掲げた、といふことでしょうか。
毎号、同人の作品の他、小野湖山や岡本黄石など幕末を生き残った著名詩人からの寄稿も受け、十丁ほどの小冊ながら、一地方都市からよくも斯様な雑誌が毎月欠かさず発行されたものと感嘆します。こちらの雑誌も稀覯ながら1〜11巻までの合冊を幸運にも入手してゐました。或ひはそのことがあったので、編集長の日記を天が差配して私に入手させたのかもしれません。

さてこの日記が書き継がれた明治14年3月24日から15年12月18日までといふ期間が、恰度この『鷃笑新誌』の創刊(14年9月)を挟んでゐて、読んでゆくと単なる覚書ではなく、地方の漢詩サロンの中心にゐた彼をめぐって、同好の士との交歓の様子がつぶさに、ありのままに記録されてゐることがわかるのです。
なかでも興味深かったのは、明治の初期に「雑誌」を印刷するために使用した活版機械や活字について記されてゐること。そして当時の漢詩壇において賓客として遇せられてゐた中国人、つまり鎖国が解かれた日本に清国からはるばるやってきた「本場の漢詩人」との交流が詳しく写し取られてゐることでした。

日記にさきがけて、雑誌『鷃笑新誌』の方はすでに公開してゐます。このたび目次を付しました。また日記も翻刻発表と同時に原冊の画像を公開しますので(3月予定)、研究者には自由に活用していただきたく、御教示をまって補遺・訂正に備へたいと考へてをります。しばらくおまちください。

今年もよろしくお願ひを申し上げます。

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757中嶋康博:2017/02/05(日) 16:55:32
『コギト』79号「松下武雄追悼号」
旧制大阪高等学校関係者の御遺族より、『コギト』のバックナンバー47冊の御寄贈に与りました。
ついては頂いた雑誌をまじへて『コギト』総目録の書影を更新しましたのでお知らせします。毎年表紙のデザインは変ってゐますが、昭和19年、雑誌統合に抗してたった8pで出し続けた最後期の「甲申版」には表紙がなく、後継誌『果樹園』の装釘がこれをなぞってゐることがわかります。

また『コギト』の『コギト』らしさ、旧制高校の友情が芬々と感じられる一冊といへる79号「松下武雄追悼号」を画像にてupしましたので合せてご覧ください。
恩師・学友が居ならぶ、当時の“共同の営為”を一覧するやうな目次ですが、なかに立原道造が客人として上席に、伊東静雄は年長の同人ですが此度は親友等より後方に遇せられてゐる配置が興味深いです。

毎日のアクセスが10件に満たぬやうなサイトを、いったいどなたが御覧になって下さってゐるのか、いつも心許ない気持で更新をつづけてゐますが、開設者冥利に尽きるこのたびの御厚情に対し、ここにても篤く御礼を申し上げます。

ありがたうございました。

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758中嶋康博:2017/02/06(月) 10:51:11
『日本近代詩の成立』
市立図書館の新刊コーナーに、職場の大学院にも出講される亀井俊介先生の『日本近代詩の成立』(南雲堂 2016)をみつけました。アメリカ文学とその受容史に取り組んでこられた比較文学界の泰斗にして、このたびは日本の明治大正詩人を縦横に解釈されてゐます。近代詩に縁の深いフランス詩のみならず、漢詩にまで踏み込まれた内容に興味津津、早速借り出してきました。

600頁にものぼる内容の約半分が、80歳以降に脱稿された書き下ろしであることに先ず驚かされ、当ホームページの興味を惹く章から繙き、残りは半ば勉強のつもりで読んでゆきましたが、七五調の文語詩に疎い上、翻訳の機微に触れる考察等にも歯が立たず、果たして他の部分も理解できたかどうか怪しいところ。ですが目をつむって拙い紹介を試みてみます。

『日本近代詩の成立』といふ、たいへん大きなテーマのもとに各章が配置されてゐますが、浩瀚な分量かつ広範なジャンルにわたる文章は、執筆時期も半世紀にわたる著者のライフワーク集成であります。
序章に述べられてゐるやうに、そもそも岐阜県は東濃の田舎町から詩人を志されたといふ先生、若き日には日夏耿之介の大著『明治大正詩史』を読み、多大な感化を蒙られたと云ひます。そして学識と主観とを前面に打ち出した、あの佶屈聱牙な「入念芸術派」の論旨に対して信頼と敬意とを払ふ一方、切り捨てられた詩人たちについてはやはり納得ゆかない気持を持ち続けてこられたとのこと。ならば自らは「入念芸術派」でなく「シンプル自然派」の感性を以て、その補完を試みてみたいと謙遜の辞を述べ、過去に書かれた論文を集めて時代ごとに配し、足りない部分は書き下ろして、ここにやうやく完結をみた本であるといふことです。

なるほど島田謹二を介して日夏耿之介とは専門を同じくする孫弟子にあたる亀井先生ですが、『明治大正詩史』を「補完」するといふ趣旨に極めて忠実、忠実すぎるといふべきか、かの大冊において詳述されてゐる「浪曼運動」から「象徴詩潮」の条り、近代詩の立役者といふべき薄田泣菫・蒲原有明、北原白秋・三木露風、そしてトップスターの萩原朔太郎さへもすっぽり省略されてゐる目次を、まずはご覧ください。

『日本近代詩の成立』亀井俊介著 2016.11南雲堂刊行  B6版574p ¥ 4,860

序 章 日本近代詩の展開 書き下ろし(平成27年2月脱稿)

第1章 『新体詩抄』の意義 書き下ろし(平成27年12月脱稿)

第2章 草創期の近代詩歌と「自由」 (昭和51年2月『文学』岩波書店)

第3章 『於母影』の活動 書き下ろし(平成25年11月脱稿)

第4章 北村透谷の詩業 (昭和50年4月『現代詩手帖』思潮社)

第5章 近代の漢詩人、中野逍遥を読む (平成25年10月『こころ』平凡社)

第6章 『若菜集』の浪漫主義 (昭和32年2月『比較文学研究』東大比較文学會)

第7章 内村鑑三訳詩集『愛吟』 (昭和57年1月『文学』岩波書店)

第8章 正岡子規の詩歌革新 書き下ろし(平成25年7月脱稿)

第9章 ヨネ・ノグチの英詩 (昭和48年10月『講座比較文学5』東京大学出版会)

第10章 「あやめ会」の詩人たち (昭和40年8月『英語青年』研究社)

第11章 『海潮音』の「清新」の風 書き下ろし(平成26年5月脱稿)

第12章 『珊瑚集』の官能と憂愁 (平成15年3月『知の新世界』南雲堂)

第13章 「異端」詩人岩野泡鳴 (昭和48年7月『講座比較文学2』東京大学出版会)

第14章 昭和の小ホイットマンたち (昭和44年11月『東洋の詩・西洋の詩』朝日出版社)

第15章 『月下の一群』の世界 書き下ろし(平成26年7月脱稿)

第16章 安西冬衛の「春」 (昭和52年11月『文章の解釈』東京大学出版会)

参考文献 初出一覧 あとがき

もちろん近代詩の歴史は、謂はば西欧詩摂取の歴史でもありますから、著者の専門とする「訳詩」の考察には重きが置かれてゐます。『於母影(明治22年)』、『海潮音(明治38年)』、『珊瑚集(大正2年)』、『月下の一群(大正14年)』とエポックメイキングな訳詩集の4冊が、詩壇へ及ぼした影響もふくめ、詳しく論じられてをりますが、しかし何といっても気になるのは、その影響下に名を連ねるべき明治大正詩人の重鎮たちが、批判対象としても俎上に上ってゐないことではないでしょうか。
一方それとは反対に、北村透谷や内村鑑三、野口米次郎、岩野泡鳴といった、明治以降日本に持ち込まれた“自由”の問題と何らかの意味で格闘して、敗れた感じのある人々ばかりが論はれてゐます。
(先生と同郷の島崎藤村が芸術派で唯一、章を立てられてゐますが昭和32年の旧稿。また変ったところでは、漢詩ゆゑ一般には敬遠されてゐる中野逍遥にも一章を割き、畑違ひにも拘らず、日夏耿之介も認めた「新体詩以上の詩的エフェクト」が論じられてゐます。)

そして読みつつ気づいていったのは、『明治大正詩史』から発せられた無視や批判を「まったく逆転させてはじめて正鵠を射る(435p)」やうな、「品位なるものに支配されない」表現力にあふれた詩集を中心に拾ひあげてゐることであり、「日本近代詩史は、一般に主流的考え方を正統としてうけいれてしまっているので、こういう詩集を無視してきたが、これを検討し直し、再評価することは、近代詩史そのものの内容をどんなにか豊かにすることになるのではなかろうか。(263p)」と、全体を通して各所に説かれてゐる点でありました。ことにも、

「詩人の骨法を持ってゐるやうではなく、その散文も無骨で滋味を欠いてゐるやうであったが、その点が却って我々の心に食ひ入る」(230p)
「これは失敗訳であろう。ただその失敗によって、内村鑑三の思考の在り方は鮮明になっている。」(247p)
「結果だけとらえて批判することは、何の役にも立たぬ。」(418p)
「非「詩的」な表現(=あけすけな「自己」の告白427p)のほうになんと胸に迫るものがあることか。」(425p)
「やがて日本近代史の背骨となるべき現実主義的精神と詩法をもっともよくつかみ、もっとも大胆に実行してゐた詩人」(433p)

と、内村鑑三の訳詩集『愛吟(明治30年)』、岩野泡鳴の口語詩集『恋のしやりかうべ(大正4年)』に対しては、惜しみない言辞が贈られてゐます。

つまりは日本の“近代詩の詩史”における“詩”が、これまで「芸術性」に偏って評価されてきた弊害を匡し、あらたに「現実性」を基にした“近代日本の詩史”を論じようとしたところに本書の眼目があります。「抒情詩」の歴史ではなく「思想詩」の歴史といってもいい。

斯様な詩史を私は読んだことがありませんでした。といふのはそれが、左翼リアリズム史観から放たれる、芸術派への軽侮否定を伴った批判とも異なってゐたからです。さう、これはあくまでも『明治大正詩史』の「補完」。当時の詩壇を決して否定するものではなく、その点では確かに、詩史本流が影響を蒙った訳詩を比較文学者の視点から考察を加へることにより、その歴史性を明らかにしようとしてゐるのです。むしろ詩史の傍流として消えていった詩人たちに対しては、軽侮の念で眺めるのではなく、「思想詩」を開花させられなかった弱さと同時に、可能性を抱へたまま取り残された時代の必然性の問題として保留し、彼らの営為に対しては寄り添ふ姿勢が感じられます。

これは著者が詩文学を評価する規範として掲げた“自由”の概念が、プロレタリア文学の叫ぶ政治的“自由”よりも大きな、ホイットマンが掲げたやうな、全人的な“自由”であったことに由来してゐるのだらうと思ひます。
(本書では訳詩者としての有島武郎や富田碎花も萩原朔太郎同様にスルーされてゐますが、ホイットマンの受容史については、別に『近代文学におけるホイットマンの運命』(1970研究社出版)といふ、若き日の著者が心魂を傾けて成った一冊があり、そちらを読んでほしいといふことになりましょう。)

書き起こしこそ、どの通史でも嚆矢に挙げる『新体詩鈔』から論じられてゐるものの、ホイットマンを持ち得たアメリカとは異なる近代日本における“自由”をめぐる問題を、「近代詩」が取り組むべきだったなまなましい歴史的課題として据ゑ、表現が担った意義や切実さによって、論じられる(再評価される)詩人が選ばれていったのではないでしょうか。
この基準は、通常の詩史では問題にもされない、自由民権運動と呼応しつつ消えていった新体詩草創期の歌謡詩人たちの動向や、ホイットマン熱が冷めていった昭和初期の詩壇激変期に、自然に返る生活を固守し続けた「小ホイットマン」たちの動向を紹介する条りにおいて、彼らが無名に終ってゐるだけに一層強く感じられるところとなってゐるやうです。

ですから本書の『日本近代詩の成立』といふタイトルが、内容を示すに果たして適切な命名だったのかどうかは、正直なところ意見が分かれるのではないでしょうか。『日本近代思想詩の可能性』とでもいふ題名だったら、とさへ思へる著者の強い反骨の気構へが私には感じられました。

このホームページに関するところで申し上げると、日夏耿之介が勝手に癇癪を起こして絶交した堀口大学のために、一章が新たに書き下ろされ、これまた専門外のフランス文学にも拘らず、訳詩集『月下の一群』が俎上に上されてをります。
著者は堀口大学について、名前こそ「大学」といふものの、官立大学とは縁もゆかりもなく、長きにわたる海外生活のなかで「自由人」として「筆のすさび」の訳業を愉しみながら取り組んだ『月下の一群』の成立事情のことをとりあげてゐる訳ですが、これとて「ほとんどの文章がエロチシズムとウイチシスムを強調している。私もこれに同感だ」と従来の評価をなぞりつつも、世界大戦と対峙したヨーロッパモダニズムが背負った問題意識を翻訳上に表現することを、彼は決して忘れた訳ではなかったと指摘。堀口大学を「いろんな批評でいわれるよりはるかに広い詩的世界を包み込み、精神的なたかまりをもっている」詩人であったと評してゐます。次世代のモダニズム詩派のウィットや、四季派の主知的抒情の揺籃としての役割にとどまらぬ、その訳業から継承されずに終った精神面を強調する切り口が提示されてゐる訳であります。

最後には安西冬衛の短詩「春」一篇をもってモダニズムが論じられ、現代詩への移り変りへの感想が示されてゐますが、こと現代詩については、少年時に『詩の話』といふ啓蒙書で世界を啓いてくれた北川冬彦についても、恩は恩として「北川冬彦は日本における現代詩の興行師的なところがあり、自分たちの詩的実験をいつも「運動」に仕立てた。(527p)」となかなかに手厳しい。日夏詩観だけでなく、戦後史観に沿ったおざなりの詩史を書くつもりも無いことが、あらためて伝はってきて私は嬉しくなりました。

巻末に添へられた「参考文献」も、書名をただ列記するでなく、各文献の特徴を一言で評しながら、ものによってはその装釘にさへ言及する独特の手引きとなってゐます。ことにもこれまで数多く発表されてきた詩史についての、「私は個人による詩史に積極的な関心をそそられる。532p」と断った上で記された、感想の数々が興味深いです。さうしてこの参考文献に自著を挙げられた章、そして参考文献がないと述べられてゐる章などは、著者の創見が打ち出された一番の読みどころかもしれないと思ったことです。

ふたたび申しますが、タイトルと本冊の厚みによってこの本を、東京大学名誉教授のオーソリティーが教科書的・辞書的なテキストとしてまとめ上げたもの、などと判断するのは早計、かつもったいないことに思はれ、是非手に取って中身を御覧いただきたく、ここに紹介・宣伝をいたします。

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759中嶋康博:2017/03/20(月) 12:42:19
『敗戦日本と浪曼派の態度』
 同人雑誌『コギト』の事務的・経済的サポートを唯一人で負ってゐた発行者、肥下恒夫の初めての評伝『悲傷の追想』(2012.10ライトハウス開港社)が出たことには、本当に驚きましたが、その後、続篇といふべき『敗戦日本と浪曼派の態度』(2015.12同)が刊行されてゐたことを知り、先師田中克己の盟友であった肥下氏の数奇な生涯が、さらに詳しく明らかにされ、そして顕彰されてゐるのを目の当たりにしました。

 前著同様、引用されてゐる日記と原稿は、著者澤村修治氏のフィールドワークによって発掘された肥下家に遺されてゐた初公開資料であり、日記には保田與重郎や田中克己の名も頻出してゐます。
 喜びと、不思議な懐かしさも伴っての読後感を、遅まきながら澤村様にお便り申し上げたところ、折返しの御挨拶と、わがライフワーク(田中克己日記)に対する激励のお言葉を賜りました。そして、肥下氏の御遺族とは現在もやりとりが続いてゐること、またこのサイトの存在についてもお報せ頂いたとのことに恐縮しました。
 けだし肥下氏の「戦後日記」の内容は、当然ですが「田中克己日記」の記述と符合するものですし、戦前の「コギトメモ」の方は、恰度詩人が日記を書かなかった時期にあたり、文学史の中心に『コギト』があった時代の、貴重かつたいへん興味深い証言資料です。
おそるおそる澤村様を通じてお尋ねしたところ、二冊の著書に引用されている「肥下恒夫日記」の“田中克己の出て来る個所”について、「田中克己日記」に併記する形でネット上に転載してもよろしい、との許可を頂いて、御二方に感謝してページを更新、喜んでゐる次第です。

 当時の肥下恒夫、田中克己、保田與重郎(そして中島栄次郎・松下武夫・服部正己)らは、旧制高校らしい友情のむすびつきにおいて、今ではみることのできない、濃い文学上の同志関係を築いてゐました。
 なかでも一番の富裕で年長者でもあった肥下氏は、学業からも創作活動からも離れ、自分たちが興した雑誌『コギト』の編集・発行者として自ら黒子に徹することで“共同の営為”の舞台を支へ、保田與重郎と二人三脚で戦前文学史に於いてノブレスオブリージュを果たしたと呼ぶべき奇特な同人でした。その驕ることのない穏健な性格には、君子然の視線が感じられ、年少の庶民階級出身の田中克己を、才気煥発の直情詩人として終始大らかに見守ってくれてゐた様子は、例へば『大陸遠望』のゲラを読んでの感想(昭和15年9月8日)にも、

「良い詩集になるだらう。一冊に集めて見るといろいろ気付くことが多い。矢張りえらい男と思ふ」(『敗戦日本と浪曼派の態度』154p)

と、偽らざるメモ書きのうちにも表れてゐます。
 ところが田中克己の方では、彼らの伯父叔母同士が夫婦であった遠戚の気安さも手伝って同級の肥下氏にはぞんざいなところがあり、敗戦間近の昭和19年4月9日には、『コギト』の存続問題に関して談判にいったものの意見が容れられず、癇癪をおこして一方的に絶交を突き付けてしまひます。

「15:30肥下を訪ね、コギト同人脱退、絶交のこと申渡す。20:00肥下来りしも、語、塞がりて帰る。」(田中克己日記)

 もちろん肥下氏は絶交するつもりなどなかったのですが、二人はそのまま出征。生きて帰国した後も、近くに住みながら、会ひに来ない往かないといふ気まづい事情がしばらくわだかまってゐたやうです。
その肥下さんの、昭和22年4月16日の日記に記された「夢」の一件が面白い。

「今暁田中の夢を見る。保田の家に泊つて寐てゐると田中が来る。ベッドに腰を降して寐てゐる身体に手をかける。こちらは前から知つてゐるので少し笑ひたくなつたが眠つた振をしてゐると身をもたせかけて来るので目を開くと彼の顔が間近にあつた。福々とく肥えてゐた。抱き合つて横たはると二人は期せずして目から涙が流れ出て来た。」(『敗戦日本と浪曼派の態度』89p)

 復縁への期待が深層心理に働いてゐるのでしょうね。「コツ」と綽名された田中克己が夢の中で太って現れたのは、復員した保田與重郎に遭った時の驚きが投映されてゐるのかもしれません。事実、田中先生も別人のやうな頑丈な姿で家族を驚かせたさうですから。
 結局昭和22年になって田中克己が反省し、旧交は無事復活したのですが、農地解放で資産を失ひ、学業を中途放棄したため再就職もままならず、『コギト』の復活が自分の元ではできなくなってしまったことにより、戦後の肥下さんの周りからは文学的な交遊が消えてゆきます。
 帰農した肥下さんの立場がふさがる一方で、田中克己は出世街道を歩む旧友たちに伝手を求めながら、大学人としてなんとか「社会に順応」してゆきました。尤も縁戚である二人は他の友人等とは異なり、気の置けない間柄は両者の日記からも窺はれはするのですが、次第に二人が疎遠になっていったには、お互ひの生活に手一杯だったことに加へ、気心の知れすぎた気安さもこの際には仇となり、却って無関心で済ますことができたといふ事情もありはしなかったか、そんな思ひを日記を翻刻しながら肥下さんの名が現れるたびに私は感じてをりました。もし田中克己が上京せず、帝塚山もしくは関西の大学に残って居ればどうなってゐたでしょうか。

 引き続き一年一年の日記に解説を付すにあたっては、澤村氏と同じく、私も田中克己長女の依子さんと連絡をとり、断片的な記述を御遺族の記憶によっておぎなふことで、出来るかぎりの正確を期すべく心掛けてゐます。そんな日記も只今1959年までの公開を了へました。肥下さんの最期を伝ふるまであと3年。本日は山川京子様と日を同じくしての祥月命日です。
 御冥福をお祈りするとともに、ここに澤村修治様、肥下里子様に対し、厚く御礼を申し上げる次第です。ありがたうございました。

追而
澤村様からは別途、編集に携はる論壇誌『表現者71号』と御著『八木重吉のことば』もお送りいただきました。『表現者』には対談「今こそ問われるべき日本浪曼派の意味」が載せられ、一世代前の研究者たちがたどりついた共通認識を踏まへた論点が、再確認されながら総括されてゐます。『コギト』の意義について話して下さった澤村氏の発言が、日本浪曼派に対する関心を『コギト』の同人にまで拡げ、無償の営為に殉じた肥下恒夫の生涯に思ひを致してくれる人が一人でも増へてくれればと期待いたします。

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760中嶋康博:2017/03/26(日) 16:50:14
「アフリカからアジアをみる ―日中戦争期の保田與重郎とマルクス主義民族論―」
 西村将洋様より雑誌『昭和文学研究』74集抜刷(42-56p)「アフリカからアジアをみる ―日中戦争期の保田與重郎とマルクス主義民族論―」をお送り頂きました。


 ここにてもあつく御礼を申し上げます。

 保田與重郎が『コギト』を始めるにあたって問うたのは「何を文学する(マルキシズム)」でも「どのように文学する(モダニズム)」でもない「なぜ文学を始めた」といふ問題意識でした。それを鮮明に他者へ伝へるために発動された「イロニー」は、読者の偽善や安穏を暴き、当事者性を掻き立てる、挑発的な表現手法といってよいでしょう。


 今回、俎上に上げられたテキストは、ペンネーム「松尾苳成」名義の保田與重郎の一文「文明と野蛮についての研究──ダホミーのベベンチュ陛下の物語の解説」(『コギト』昭和13年1月号)です。


 このなかで「解説」が施されてゐるのが、いつもの日本の歴史や古典、或ひはドイツロマン派でもなく、アフリカの一王国の野蛮な逸話であることに、先づ驚きがありました。しかし蘊蓄を封印した分、一文のイロニーも直截です。さうして斯様な表現をするためには、自身が先づ「過剰な読解者」でなければならなかったといふことを西村さんは指摘します。けだし表現と読解とはコインの裏表である筈で、過激な表現で読者に噛み付く彼は、いったい何を読み取った上でそのやうな言挙げをしてくるのか、その剥き出しの表現の手前でおさめてゐるものは何なんだ、それこそが問題なんじゃないかとの洞察に感じ入りました。


 一文の趣旨は、列強視点の「野蛮人」を擁護するべく、宗主国への反証を敢へて試みたものなのですが、他者を自分の尺度で「野蛮人」として見くびる「文明人」のことを非難する論者自身は、ならば文明人なのか野蛮人なのか。謂はば「上から目線」で彼らのことを勝手に忖度する矛盾を犯してゐるのを指摘したところで、「だからペンネームなんです」と逃げ道の絵解きがされてをり、なるほどと、再び驚いた次第です。


 中盤には「何が文明で、何が野蛮か」といふ同趣旨で開陳を試みた、スペイン人民戦線が冒した野蛮行為を嫌悪する一文(「文芸時評 法王庁の発表」『日本浪曼派』昭和11年10月号)が上げられてゐますが、教会への破壊行為を敢行する彼らの野蛮と、やはり当時党員の粛清を始めたスターリンの野蛮とは、新たな文明のために払はなければならぬ犠牲といふ意味において何ら変るものでないと言及、まんまと挑発にかかって噛みついてきた、人民戦線を擁護する三者(林房雄・亀井勝一郎・三波利夫)を、犠牲者に寄り添ふ濃度によって色分けをし、斬り捨ててゐます。


 しかし保田與重郎が三者のなかで同情を寄せた林房雄が語った、犠牲物でなく犠牲者に心を寄せる「庶民の血」とは、言ってみればポピュリズムそのものではないでしょうか。さうして「何が文明で、何が野蛮か」「何が犠牲者で、何が侵略者か」の議論は、ポピュリズムにおいてどちら側にも横滑りしてゆく危険があることを、西村さんは「マルクス主義民族論(植民地解放闘争)の問題意識を共有していた」中野重治との意識の差異を通して明らかにしてくれました。中野重治と保田與重郎と、世代の異なる両者が意識するところの「植民地(犠牲者)」が、日本に対する朝鮮なのか、欧米に対するアジア諸国なのか、そこから発動される倫理は「他者(の立場)を想像せよ」と傲慢を弾ずることなのか「たやすく他者(の心)を想像するな」と軽佻を戒めることなのか。


 左翼思想が後退を余儀なくされたインテリゲンチャ世代の心情が、自他ともに対する厳しい自己責任論の上に立ち、当事者として「命がけの立場に立つか、さうでないか」「命がけの立場に立てば犠牲者が出ても仕方がないのか、そんな犠牲がでるようなものは正義でも何でもないのか」の決意表明や選択を次々に迫られていった時代下でのお話です。


 西村さんは最後に己の決意の純粋のみによりかかる保田與重郎のレトリックを、「決断の修辞学」「野蛮の倫理学」と呼び、時代によっては「極めて危険な言葉」となって飛び出すと心配してをられますが、──さて警鐘は時を隔て、現在の日本でも鳴らされる可能性があるものかどうか。


 現在の日本は、金権政治家とマスコミとが反目しつつも一致して掲げるグローバリズムへと巻き込まれてゆくやうにもみえます。このまま欧米と同様の格差社会・分断社会への途を進んでゆくのではないか、本当に不安ですが、もしも保田與重郎が再び現れ、イロニーを弄してタブーの告発を行ったとして、飽食文化と自虐史観に馴らされた国民が「炎上」し、目醒めることなどあるでしょうか。このたびはポピュリズムによって潰されてしまふのではないでしょうか。

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761中嶋康博:2017/03/31(金) 09:07:40
八木憲爾潮流社会長を悼む
 八木憲爾潮流社会長(94)が3月21日、心不全のため横浜の自宅で亡くなった。葬儀は遺志により近親者ですでに執行、香典・供花も同様に固辞される由。吾が拙い詩作に対して若き日から御理解と激励を賜り続けた、敬慕する庇護者の逝去に接し、俄かに言葉がありません。このたび小山正見様および潮流社の総務の湯本様より八木会長の訃をお報せ頂き、突然のこととて、たいへん吃驚してゐます。

 昨年十月には、豊橋で毎年催される丸山薫賞の授賞式に欠席される旨を伺ひ、電話にてお見舞させて頂きましたが、その折には、左眼失明や酸素吸入の話に驚いたものの、すでに退院され、旧に渝らぬ矍鑠たる御声に接し、却ってこちらこそ元気を頂いた位でした。

 お歳は承知してゐたものの、謦咳に接するたび斯様な明朗な精神の持主であることに安心し、むしろ安堵しすぎてゐたのかもしれません。今年の年賀状に返信のなかったことに、お電話してお加減をお伺ひすべきだったと今さらながら悔やんでゐます。

 ただ潮流社の御方より訃報とともにお報せ頂いた、御遺族からの最期の様子には、睡眠中に亡くなり朝、発見されたこと、それはとても自然で本人にとって一番楽な逝き方だったのではないか、とあり、山川京子氏の場合もさうでしたが、少し救はれたやうな気持になりました。

 もっとも自然にすぎて、「これから書きたいことがあるんだ」とは『涙した神たち』刊行後、お手紙・お電話のたびに仰言っていた会長ですが、亡くなる直前まで読書のために新しい眼鏡を希望されていたとのことですから、やはり山川氏同様、後事を托す一筆さえ執ることなく逝ってしまった御本人こそ一番に当惑されておいなのではなからうか、そのやうにも思はれたことでした。

 八木会長とは、私がまだ東京の六畳一間で一人暮しをしながら詩を書いてゐた駆け出しの頃に、お送りした最初の詩集に対して過分のお言葉を賜り、銀座のビル階上にあった事務所まで初めて御挨拶に伺った日に始まって以来ですから、お見知りおきいただいて早や三十年近くなります。

 わが師匠と見定めた田中克己先生とは第四次の『四季』をめぐって絶縁状態だったにも拘らず、以後、丸山薫以下『四季』の詩人の末輩として拘りなくお認め頂き、可愛がって頂きました。

 拙い詩作に対する激励はもとより、田中先生の歿後詩集の編集刊行、そして私の集成詩集刊行もこれに倣って「潮流社」の名を冠する許可とアドバイスとを賜りました。四季派一辺倒の自分の詩風が今の詩壇には認められ難いことに対し「世間を気にすることはない」とたえずなぐさめ勇気づけて下さったお言葉は、旧弊を嫌はれた闊達なその御気性の俤とともに、忘れることはありません。

 けだし関西の杉山平一先生が平成二十四年に九十七歳で亡くなられたあと、わが敬慕する精神的な庇護者として、唯一人お残りになった大切な御方でありました。

 四捨五入すれば還暦となる昭和三十六年生の私も、昨日新たにまた年をとり、無常迅速の思ひに呆然とすることが、ちかごろは本当に多くなりました。

 このたびは八木会長の御霊のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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762中嶋康博:2017/04/05(水) 20:10:50
『芸窓日録』
新年の掲示板で予告してをりました、明治期の漢詩人戸田葆逸の写本日記『芸窓日録』ですが、ながらく図書館勤めをしてをりました記念に、職場の研究機関である地域文化研究所の紀要に「資料紹介論文」として載せて頂くことになりました。
写本の原画像とともに公開いたしますので御笑覧ください。
(Twitterフォロワーの鸕野讃良皇女様から早速御教示を賜り、旧蔵者が杉山三郊と判明しました。ここにても御礼申し上げます。)

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763中嶋康博:2017/04/11(火) 12:20:32
『丸山薫の世界(丸山薫作品集)』
 愛知大学丸山薫の会代表の安智史様より、会の編集発行に係る非売品の新刊『丸山薫の世界(丸山薫作品集)』(2017.3.31発行 149p,21cm)の寄贈に与りました。
故八木憲爾潮流社会長との御縁を以て、私のやうなものにまでお送り頂き感謝に堪へません。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 内容ですが、「初期作品より」「詩集より」「豊橋関連エッセイより」「インタビュー、講演筆記より」と4つに分けて詩人の作品が収録され、「丸山薫作詞団体歌・校歌」「略年譜」が資料として付録されてゐます。

 主たる分量を占めるのは「詩集より」ですが、戦前に刊行された7冊の詩集の殆ど全てに、戦後山形県岩根沢での生活を写した『仙境』を加へた陣容は、エッセンスといふより全詩集に近いものであり、丸山薫のやうなゆったり余白を活かした詩篇も、2段組になれば全体が100ページに収まってしまふものであることを知っては、意外にも思はれたことでした。

 編集のみせどころは「詩篇」以外からの選択に表れてゐるといってよいでしょう。
 すなはち冒頭の「初期作品より」の2編「両球挿話」「オトギバナシ文学の抬頭」は、旧全集しか持ってゐない多くの人々が初めて目にする文章であり、丸山薫が花鳥風月の抒情詩を嫌った“物象詩人”とならざるを得なかった消息を、稲垣足穂との気質的な親和性や既存文壇への不満を綴ることによって示したもの。
 また後半の「エッセイ」2編は、後半生を豊橋で暮した詩人にゆかりの、地元ならではの文章が選ばれてゐるのですが、

 戦後、ふたたびここに12年間も住みつづけた現在、曾住の地のどこよりも親しみは感じるけれども、ここが自分の故郷だという、胸を締めつけるような愛情は湧かない。むしろ親しみと同時に、多分の反発感や冷淡な感情を持ち合わせている。そんな事を言うと、土地の人達の不愉快を買うだろうし、みずからの不利益になることは解っていても、それが偽りのない気持であるなら仕方ないではないか。(中略)
 その代りいつしかエトランゼエの思いがはぐくまれていた。私は、いつも近くに在るものを無視して遠方だけをあこがれる子供になっていた。(「伊良子岬」『岬』1960年11月刊) 110-111p

 といふ、中京文化圏に対する“よそ者”感、中部日本詩人連盟の頭(かしら)に担がれることに対しても、当初辞退しようとしたのも解らうといふ述懐に思はず目がとまります。この文章を肯へて選ばれたところに編者の見識を感じないではゐられません。豊橋は、子供のころ暮したことのあった縁故の地には違ひありませんが、戦後、疎開先から上京する繋ぎに一時の落着き先と思ひなしてゐた場所でした。そのまま“大いなる田舎”名古屋の文化圏に居ついてしまふことになったのは、「オトギバナシ文学の抬頭」にみるやうに、最初に私小説の理念を否定して詩人一本で立った彼が、外国語にも手を染めなかったために、小説や翻訳といった原稿料での生活の目途が立たなくなってしまったことにあったと思ひます。
 そんな彼を特別待遇を以て手を差し伸べてくれた愛知大学は、恩誼の対象であるとともにそれ故にこそ、彼を慕ってやってくる素質のよい文学青年たちを前に、本心複雑な思ひは欝々として抱いてゐたのではないかと忖度するものです。
 コスモポリタンの夢を抱く故郷喪失者であるとともに、同時に日本人たる自覚を強く持してゐた彼は、やはり東京か、それとも“先生”と呼ばれる職業に尊敬が無条件に集まるやうな、人心の純朴な僻村か、そのどちらかに本来定住すべき詩人であったと、私には思はれてなりません。

 巻末には、新修全集でもお蔵入りにされたといふ「私の足迹」と題された最晩年の講演の様子(1973年6月17日第13回中日詩祭にて)が収められてゐます。
 中京詩人たちの前で話すのですから、地元が悲しむことは言ってませんが、その代りに、心の中で大切にしてゐた岩根沢の風景が、経済優先の世相の中で変はり果ててしまったことに対する、もはや面に表すことが許されない嘆きや、第四次の潮流社版『四季』をこれまで五年続けてきたものの、若い詩人たちは『四季』より『現代詩手帖』を好むことが語られてゐます。
 岩根沢だって教へ子たちの心は変りなく先生を敬ってゐる。また当時は詩と詩集のブームの時期でありました。しかしながら詩人にとっては、尊敬の結果として詩碑が建てられることに抵抗し、もはや詩とは言ってもフォーク“ソング”の世代からは結局、立原道造や津村信夫のやうな詩人が現れなかったことに対する自嘲といふか、もはや諦めのやうなものが窺はれる気もするのです。

 この録音は、本書冒頭の「初期作品」への自註になってゐる稲垣足穂に対する回想や、中盤からの、自らの感想をさしはさみながら萩原朔太郎からもらった手紙を読んでゆく条りが何ともいへず可笑しい読み物ですが、戦後のみちゆきを、何か掛け違ってしまったかやうな旧世代の日本人のさびしさが、詩壇の中心にあった当時の回想を振り返るたびに、笑ひのうちににじみ出てくる、そんな談話になってゐる気がします。
 それはまた「四季派」といふカテゴリー・レッテルに対しても、当事者として微妙なスタンスで話してゐることからも窺はれます。
 戦後昭和28年の時点で編まれたアンソロジー『日本詩人全集』(創元文庫)における解説においては、「詩壇」など詩を書く当事者の主観の中にないことを前提に、『コギト』との密接な関係に言及しつつ「いわゆる「四季派」と呼ばれたオルソドックスの流れ」や、「いわゆる四季派の精髄」として中核をなした詩人の名を挙げることに躊躇のなかった詩人が、いざ『四季』が復刊されて自分が親分に祭り上げられた現状での意識表明となると、一歩引いた様子がみられるのです。

 旧世代らしさは、現在の政治家の講演だったら新聞記者が食ひつきさうな表現にもあらはれてゐます。表現に対して大らかだったこの時代、詩人ならではの拘りない気宇の感じられる話ぶりですが、この講演筆記を本書に収録することを決めた編者の選択をやはり買ひたいです。金子光晴は抵抗詩人ではないと言って、おそらく聴衆をドキッとさせたでしょうが、そんな彼の、戦前には人権や平和に対する、戦後は国威や伝統への目配り・配慮を欠かさない、「ポリティカル・コレクトネス」とは異なる「中庸」の面目が随所に躍如した、貴重でなつかしい詩人の俤に触れ得た気持ちがしました。

 装釘も「暮しの手帖」っぽいロゴが可愛らしい。詩人夫妻の自宅の縁側での睦まじい姿をとらへた表紙写真と共に、愛読者にはぜひ一冊手許に欲しい出来上りとなってゐます。

 非売品なので、罪なことにならないか心配ですが、ひとこと報知させて頂きたく、ここにても御礼を申し上げます。
 ありがたうございました。


【追而1】昭和17年12月〜昭和18年9月までの戦艦大和の艦長が丸山?の義弟であったことも初耳でした。
【追而2】金華山と岐阜城の事が書かれてゐるのは、管理人にとってはうれしいところなので、最後にちょっと引かせていただきます。

 いま私の住む近くで知っている城を語るなら、先にもちょっとふれたが標高330米、金華山のピークに屹立する稲葉城への道は、数年前に架設されたロープウェイのお蔭で、登るのに骨は折れない。城は山の峻嶮と高さと、その山麓を流れる長良川とのゆえに、上からの展望も下からの眺めも絶佳だ。
 そういえば、これらの山と川との美しさによって、岐阜という都市の全休が、いや、その空までがどんなに品格を挙げていることか。有名すぎる鵜飼の情調はともかくとして、山麓河畔一帯の町のニュアンスまでが、なにか京都を連想させるものをもつ。(「城の在る街と豊橋」『市政』1958年11月号)108p

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764中嶋康博:2017/04/25(火) 10:21:08
豆馬亭訪問記
「朝、聯車十五名同行、公園ニ赴ク。[此]日頗牢晴、看客亦多。夜、桜樹燈ヲ点ス。甚此観ヲ極ム。豆馬亭中ニ宿ス。」  ?『芸窓日録』明治十四年四月十九日

 この資料の紹介論文を書いての後、かねてからの懸案であった豆馬亭への訪問を、先日やうやくのことで果たすことができました。

 戸田葆堂らが中国からの賓客画人胡鉄梅を伴ひ、整備されたばかりの養老公園を訪れ、ここに宿泊したのが明治14年4月19日。恰度136年後となる同じこの日を定めて訪問したのは、往時をしのぶ感慨に耽りたかったからに他なりません。
 名前もそのまま、今では「しし鍋」を名物にする「豆馬亭」は、土日の予約営業といふことで、4月19日は生憎休日だったのですが、事前に用向きをお話したところ、予定があったにも拘らず見学の快諾をいただき、当日朝早く到着して建物の外観をカメラに収めてゐると、現在の主人である村上真弓さんが現れ、御挨拶もそこそこに招じ入れられると、早速当時のまま遺された座敷に御案内いただいたのでした。

 公園開設と時を同じくする明治13年の開業ののち、北原白秋や河東碧梧桐、塩谷鵜平など多くの文人も訪れた和風建築の料理宿屋は、改築を経てゐるものの、主要な客室や、階段、波打つガラスがなつかしい廊下の窓枠などが当時のまま。長押や床の間には「豆馬亭」の名にちなんだ扁額や軸が掲げられてゐました。
 新緑に飾られた窓外は、当時、濃尾平野が見渡され、養老・伊勢・津島の各街道の結節点であった麓の往来をゆきかふ人馬が、それこそ豆粒のやうにながめられたといひます。玄関前にモミジの大木があり(秋はまた美しいことでしょう)、蛍の出る小流れと池溏を配して、こんなところに暮してみたい、さう思はずにはゐられない谷間の山腹の一軒宿でありました。

 先人の筆蹟を眺めながら、ひとつ謎といふか、不思議に思ったことがあります。それはこの木造三階建の「豆馬亭」が明治13年に開業される前、その前身である「村上旅館」がすでにあったらしいのですが、場所や起源をつまびらかにしないことです。
 「豆馬亭」の命名は、養老公園事務所の主任だった田中憲策氏の文章(※)によると、明治時代に活躍した浄土真宗の名僧、島地黙雷の漢詩が元となったともいふことですが、天保9年(1838)生れの黙雷は明治13年(1880)の開業時には42歳。一方、座敷には「寸人豆馬亭」といふ貫名海屋の書額も掲げられてをり、そちらには「癸卯菊月」とあるのです。海屋は文久3年(1863)に亡くなってゐますから、癸卯菊月はおそらく天保14年(1838)の9月と思はれます。
 同じ「寸人豆馬亭」の賛は『芸窓日録』にも出て来る石川柳城も大正4年に書いてをり、小崎利準の額(同年)と一緒に客室に掲げられてゐました。また海屋の額よりもっと古さうな「空外」なる人物による「寸人豆馬」の額もあり、かうした江戸時代の扁額が当の旅館の客室に掲げられて在るのは、旅館の由来において何を意味するものか、可能性をいろいろ考へてみるのも面白いと思ひました。

 この日、天気は旧時と同じく「頗る牢晴」。当時の養老公園では夜桜を照らす提灯が掲げられ、4月19日はお花見どきの最中だったやうですが、136年後となっては温暖化のため並木もすっかり葉桜に変じてをり、それでも山腹にはまだ自生の山桜の、和菓子のやうな花簇を数へることができました。
 今年は年号が「養老」に改元されて1300年を迎へるといひます。その名にし負ふ名瀑にも立ち寄り、まばゆい新緑のしぶきを身体いっぱいに浴び、まるで一泊した旅行客のやうな気分で山道を降りて帰って参りました。(?『芸窓日録』に追加upした他の写真とともに御覧下さい。)

(※)「美濃文化誌」書誌不明のため現在養老町役場に照会中。

豆馬亭 養老郡養老町養老公園1282 電話0584-32-1351

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765中嶋康博:2017/06/26(月) 00:24:24
杉山美都枝「高原の星二つ 立原道造と沢西健」
 先日購入した古本雑誌『ポリタイア』第4号(昭和43年12月1日発行)。特集とは銘打ってゐないものの編集後記には、
「本誌の同人にゆかりの深い師友先達についての心のこもった寄稿を中心に編集した。」
 とあり、『四季』や『コギト』に拠った詩人たちについて論考と回想が並んでゐました。

 なかんづく杉山美都枝(若林つや)氏による立原道造の回想は、『四季』追悼号で有名になった“5月のそよ風をゼリーにして”ほかのエピソードの詳細を、親しく詩人と交はった著者にしてさらに細かく、複雑な心情を交へて吐露してゐて、そのためか以後の「特集誌」で再録の機会もなかったやうに思はれるので、報知かたがたここに紹介したいと思ひました。

杉山美都枝(若林つや)「高原の星二つ 立原道造と沢西健」92-100p

 文中「誰かの出版記念会」とは『詩集西康省』の出版記念会のことであり、「『四季の人々』という誰かの書いたもの」も、立原道造入院中の「ベッドのわきの弥勒菩薩の思惟像の写真」も田中克己からのものなのですが、この文章が書かれた当時、『ポリタイア』の創刊同人である芳賀檀と田中克己とはすでに折合が悪かったらしく、名前が伏せられてしまってゐます。
 逆に芳賀檀については、立原道造の親炙する様子が、油屋での“首吊りびと”のエピソードなどとともに面白く活写されてをり、ことほど左様にいろいろな忖度がなされた上で当時の思ひ出が書かれてゐるやうです。
 立原道造詩集の刊行を、没後最初に堀辰雄に相談したのは出版社「ぐろりあそさえて」に勤めてゐたこの杉山氏であったといふことですが、その場で“きっぱり”反対されたことも書かれてゐます。
 「新ぐろりあ叢書」で展開された、日本浪曼派を象徴するやうな棟方志功による装釘が、堀辰雄や立原道造の「このみ」に合はなかったのは確かでしょう。しかし思想的に峻拒したからと考へるのは、戦後リベラル派らしい付会にすぎるのではないでしょうか。
 一番弟子であった立原道造が自分と決別して傾倒していった先に待ってゐたのは若きカリスマ文芸評論家、保田與重郎でした。ぐろりあそさえて顧問だった彼の用向きを社員として彼女が携へてやってきたとなれば、さうしてその内容が自分の影響下で育った愛弟子の詩業集成を、商業出版にしてまるごともってゆくといふことであってみれば、反対するのは無理からぬ気がいたします。
 彼は結局、山本書店版『立原道造全集』3巻本の刊行に、用紙の手配から腐心するとともに、逆に弟子によって理由付けされた自分の詩集を出版することまで行って、立原道造と共に創り上げた四季派の抒情世界を戦時下の世相から激しく守らうと尽力します。
 『四季』と『日本浪曼派』と両方の気圏にもっとも気安いかたちで住んでゐたといへる彼女は、彼らの無防備な日常会話や挙措のうちにも顕れる心の機微を、女性として感じとる機会が多々あったといへるでしょう。堀多恵子夫人をのぞき周りがすべて自分たちより年長の師友であること――室生犀星や中里恒子やの言動に対しても、同様に憚りつつ、羸弱な詩人を慮るやうに草されてゐるこの回想は、『四季』同人のマイナーポエットである沢西健の消息を伝へる貴重な回想とともに、まことに興味深い行間を味はった一文にも思はれたことです。

 この号には他にも、浅野晃による増田晃の紹介、小田嶽夫による蔵原伸二郎の回想、そしてこの年の8月に亡くなってゐる木山捷平については、小山祐士、村上菊一郎、野長瀬正夫3名の追悼文を併載してゐるので、合せて紹介いたします。

浅野晃「増田晃、その『白鳥』」117-122p
小田嶽夫「随想・蔵原伸二郎」122-131p
小山祐士「木山捷平さんのこと」141-145p
村上菊一郎「夏の果て 木山捷平追悼」145-147p
野長瀬正夫「木山捷平と私」148-157p

野長瀬氏の一文は面白い書き出しで始まってゐます。

 昭和二十四年の秋頃のことである。当時私の家には五歳と三歳になる女の子がいた。毎日部屋じゅう人形や玩具やぼろきれをひきちらかして、 ままごと遊びに夢中の年頃であったが、ある日、その二人の子供が、
「ねえ、木山さんごっこをしようよ」
「うん、しよう」
 と隣りの部屋で話し合っているのが、ふと私の耳にはいった。それきり声は途絶えたが、二人は何かもそもそやっている気配である。「木山さんごっこ」とは何だろう。私は軽い好奇心にかられて、そっと覗いてみた。(後略)

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766中嶋康博:2017/07/04(火) 21:32:05
『絶対平和論』
 このたび保田與重郎の本で、永らく探し求めてゐた一冊を入手しました。『絶対平和論』といふ本です。

 そのむかし大阪の『浪速書林古書目録32号』で「保田與重郎特輯」が組まれた際(平成13年11月)にも、入手困難で有名な『校註祝詞』や『炫火頌歌巻柵』など珍しい私家版本が現れ目を瞠りましたが、世間に訴へるべく刷られたこの市販本は載ってゐませんでした。
 自分が現物を目にしたのも、その更に10年以上も前に神田の田村書店で一度きり。笑顔で「それ珍しいよ」とわざわざ店主が教へて下さったのに、同じ祖国社から同時に出された函入り上製本の『日本に祈る』の方だけ買って、並製本のこちらは「また今度」といって手を出さなかった。以来三十年です(笑)。
 雑誌『祖國』での無署名の匿名連載が本になったものであり、表題も政治的なら内容も純粋な保田與重郎の著作としては認められぬまま、古書市場に残らなかった事情があったのかもしれません。

さて『浪速書林古書目録』は毎度特輯にまつはり専門家による一文が巻頭を飾ることで有名ですが、この特輯でも「保田與重郎の「戦争」」と題して、鷲田小彌太氏の読みごたへある一文が掲げられてゐます。さうして「絶対平和論」のことにもふれ、最後にかう総括されてゐます。

「国防であれ戦闘であれ、その実行ならびに精神はつねに実用を基盤とする。それは、絶対平和を体現するとされる米作りが実用を基盤とするのと、変わるところがない。喫茶や稲作をはじめ、実用(技術神経)を無視、ないし放棄した精神は、ついに、虚妄にいたる、という生活の仕方をしたのは、戦後の保田自身であった、と私は考える。保田の光栄の一つである。」

 保田與重郎は実用を「無視、ないし放棄」した。そのアナクロニズムこそが彼の「光栄」だったと皮肉ってゐるのですが、たとへば“新幹線をなくせと云ってゐるのではない、あるならあってもいい、ただなくても一向構はない”、といふ処世を、私はアナクロニズムとも無責任な放言とも思はない。実用を決して「無視」はしないし、「放棄」したのは実用(利便性)そのものでなく、利便性に胡坐をかくことだと云ってゐるにすぎないからです。

 鷲田氏の一文においても言及されてゐますが、保田與重郎は口を酸っぱくして「共産主義とアメリカニズムとを“一挙に”叩かなくてはならない」と日本の針路に対する警鐘を鳴らし続けてきました。そんな彼が敗戦を経てたどり着いた、近代生活を羨望せぬ、米作りを旨とした社会に道徳文明の理想を託した「絶対平和論」。
 これを現代に活かして具現化するとならば、少人数ながら、つましくサステナブルな、平和で平等なエコロジー文化国家を守り続けること、につきるのではないでしょうか。
 保田與重郎はもちろんその眼目として天皇制の意義を説いてゐるのですが、彼の農本主義がアナクロニズムならば、とまれ過去の遺産だけでなく、生きて居る日本人そのものが (卑下するなら人倫の見せ物として、自慢するなら人倫の手本として) 観光資源になってみせる位の、“世界に対して肚を括りなさい”といふ意味のことを、彼は戦争に負けてまづ最初に提言してゐるわけであります。

 日を追ってキナ臭い袋小路に迷い込みつつあるやうな今日の日本。まじめに2025年問題も心配です。
 今年(左翼フェミニストである筈の)上野千鶴子氏が「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」と公言して物議をかもしました。が、さういふコンセプトが国民にひろく認知されるやう、左右の思想を越えた「非コマーシャル」な文化運動が興らなくては(起こさなくては)ならないと、私もさう思ってゐたところです。「絶対平和論」の覚悟の立ち位置とはさういふものです。
 日本が国柄(アイデンティティ)を保ちながらグローバル世界の中で生き残るにはこれしかありません。
 里山の田圃が消え、国民統合など眼中にない移民がなし崩しに許可され、原発事故が連発してからではもう遅い。日本はアメリカのやうな移民格差社会になり果ててはもらひたくありません。

 現在の左・右のリベラル勢力はグローバリズムとコマーシャリズムを是とし、彼らに支へられてきたマスコミと経済界は、企業や富裕層の富が非正規雇用者へ再分配されること、過疎化してゆく地方を都会から護り助けようとすることを、実のところ望んでゐません。さうして肝心の日本政府もいったい何処に顔を向け、国益の何を守ってゐるのか全く判らないといふのが現状です。
 弱肉強食を本分とするグローバリズム(安易な移民受け入れ)とコマーシャリズム(浪費社会)と、その両方を“一挙に”叩き、リベラル勢力と政府に今一度反省をうながしてもらふこと。
 保田與重郎の絶対平和論を担保したのは「天皇制」でしたが、老鋪看板の権威を担保するのは政府ではなく、国民の総意であることを「日本国憲法」はうたってゐます。

 棟方志功の装釘で飾られた述志の一冊をながめながら、よせばいいのに皆さんに不評な床屋談義をまた一席ぶってしまひました。

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767中嶋康博:2017/09/04(月) 17:04:35
東北の抒情詩人一戸謙三 モダニズム詩篇からの転身をめぐって
【四季派の外縁を散歩する】
第22回 東北の抒情詩人一戸謙三 モダニズム詩篇からの転身をめぐって をupしました。

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768中嶋康博:2017/10/05(木) 00:19:43
映画評
 期待したモダニズム雑誌や稀覯本が次々に繰られるものの、戦前の知性的な詩は目で味はふ要素が強いから朗読はそぐはず、BGMの前衛ピアノも(昔のNHK「新日本紀行」みたいに陰気で)いただけなかった。

 本場シュルレアリストの絵画作品とのコラボや、フィルムの逆回しといふ古典的手法による新たに追加された映像も、この映画の主人公たち──『椎の木』に拠った楊熾昌(水蔭萍)にせよ、『四季』執筆者には名前がみつからなかった林永修(林修二、南山修)にせよ──彼らとは気質を異にするもののやうに、私には思はれた。

 監督の手腕にかかるドラマ演出部分であるが、役者の顔が見えないのはよいとして、ならば西川満をしっかり役に入れ、日本人との交流、日本人による日本語を絡ませてほしかったところ。何より詩人の実生活が(食卓と子供が纔かに描写されてゐたものの)殆ど描かれてゐないことが惜しまれた。後半の歴史的事実が告げるやうに、さうして監督がパンフレットのインタビューのなかで語ってゐるやうに(これは読みごたへあり)、この映画は、単なるシュルレアリスム的手法によりかかった芸術映画であってはいけない内容だからである。

 画面の中で、当時の彼ら学生らしい視点を垣間見せてくれてゐるのは、同世代人である師岡宏次といふ孤独な青年写真家によって切り取られたアングルの視覚的効果に拠るところが大きい。これだけは成功してゐた。

 もろ手を挙げて好意的に迎へたい内容であるだけに、期待が大きすぎたのだらうか。パンフレットにおける巖谷國士氏の解説も、あらためてよく読み返してみれば、「ああ、確かにさうとも言へるなあ」と、苦笑をさそふ誉め方において関心させられたことであった。★★☆☆☆

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769中嶋康博:2017/10/13(金) 21:57:26
『詩人一戸謙三の軌跡 第四集:「黒石」と詩人一戸謙三』
 青森県つがる市の一戸晃様より『詩人一戸謙三の軌跡 第四集:「黒石」と詩人一戸謙三』の寄贈に与りました。

 今回は詩人が代用教員をしてゐた黒石高等小学校時代(大正9,10年)22,23歳の、詩を発表し始めた当時のことをとりあげてゐます。親戚・思ひ人・文壇・教へ子と人間関係を幅広く紹介してゐる内容が興味深いのですが、東北の詩壇にも土地勘にも事情の暗い私においては、刊行された分もふくめてこれまでの目次を下記に掲げて公開するに留めたいと思ひます。
 ひとつだけ記すとして興味深く思ったのは、私は常々「詩人の出発あるある」と称して、魅惑の女性との破局が詩人のトラウマとなってゐること、そして母方の叔父に変人が居て詩人の文学的成長に少なからぬ影響を与へてゐること、この二点をいつも注目しながら伝記を読んでゐるのですが、一戸謙三に於いてはその両つともが該当してゐたといふことです。

 さて今回、わが詩集サイトとして内容からとりあげたのは、職場のガリ版印刷機を使ってたった二十三冊印刷されたといふ第一詩集『哀しき魚はゆめみる』。 冊子では書影の紹介のみですが、晃様の許可を得ましたので今回、全文のPDF画像を公開させて頂けることになりました。
 http://cogito.jp.net/library/0i/ichinohe-kanashiki.pdf

 当時の詩壇を風靡した萩原朔太郎や室生犀星の影響が色濃い、「詩人の出発期」を感じさせる一冊ですが、語感の滑らかさや言葉の抽斗・繊細なその選択は、単なる摸倣から一歩抜きん出た様相をみせてをり、詩人の天稟を感じさせます。

 いったいに詩風に幾変転はあっても、所謂駄作を残さない、知的で潔癖な印象を読者に与へ続けて来た詩人ですが、この処女詩集にまでさかのぼって見てみても、いとけない情感はさりながら、さうして朔太郎の語感、犀星の語調の痕はありながらも、完成品として眺めることが可能であり、その審美眼が確かであった証拠品といへるのではないでしょうか。そしてまたこれはテキストに翻字してしまふより、かうして詩人のあはあはしい筆跡のままに、より強く感じられるところのデリケートな原質を大切にしたい。そんな風にも思はれたことです。

 またこれを読んで考へさせられたのは、さきに『玲』163号でも公開されたパストラル詩社時代の添削詩稿のことです。福士幸次郎からの先輩詩人としての指摘は、摸倣を脱するようにとの真っ当な助言であるとともに、彼に理知を以てまとまってしまふ危険を感じて不満を呈した、世代の差異によるところがあったかもしれません(『玲』163号より抄出↓を参照のこと)。

 この利発さはこののち、ガサツに過ぎるプロレタリア文学ではなくモダニズム文学へと彼を誘ひ、さらにその利発さにさへ自己嫌悪を覚えた挙句、折角身につけたモダニズム手法を破産・放棄させ、郷土詩や定型詩といふ古典的な「殻」を身に纏って防禦的な決着へと彼を導いていったやうに思ひます。エロチシズムにも領されながら、ここにみられる一種の端正な佇ひは、謂はば詩人の原初にしてその最初からの発現ではなかったかと思はれてならないのです。

 潔癖に過ぎる審美眼が、この初期作品群を羞恥とみなし、在世中には長らく纏められることもなく、坂口昌明氏によって『朔』誌上に於いて再評価されるまでそのままにあったことは残念なことではありましたけれど、その純情で知的な詩心は、時代をもう少しだけ下ってゐれば、(戦争中の詩作がそれを証してゐるのですが)、必ずや含羞をこととする『四季』のグループに交はってゐたものとは、私の常々直感するところです。

 一方、朔太郎のエロチシズムや犀星の望郷調が語彙語法として盛り込められなかった歌の方には、詩人の素質としてのオリジナリティが、純情な感受性と共にそのまま豊穣に感知されます。

草色の肩掛けかけて池の辺に鶴を見入りしひとを忘れず

雨はれて夕映え美しきもろこしの葉陰にさびし尾をふれる馬

月のした輪をなしめぐる踊り子の足袋一様に白く動けり

うす苦き珈琲をのみつしみじみと大理石(なめいし)の卓に手をふれにけり

鏡屋の鏡々にうつりたる真青き冬のひるの空かな


 東北の一角より個人的に刊行され、中々手にすることの難しい冊子でありますが、昭和前期を中心に、詩人が遺してきたモダニズム文学・郷土文学の業績に対して真摯な思ひがおありの方には、まづは書簡等にて挨拶申し上げて送付を乞ひ、この奇特な私家版らしい風合を身上とした詩人顕彰の営みにふれてみられるのも、資料的側面にとどまらずまことに有意義のことのやうに思ひます。
 ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。


『詩人一戸謙三の軌跡』(非売品)



第一集 平成28年11月3日発行


詩人 一戸謙三 1-4p

第1篇 「雪淡し(少年時代)」 5-38p

第2篇 「地方文化社(福士幸次郎との出会い)」 39-76p

第3篇 「那妣久祁牟里:なびくけむり(齋藤吉彦との出会い)」 77-104p

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第二集 平成29年4月25日発行


方言詩人 一戸謙三 1-9p

第4篇 「津軽方言詩集(「茨の花コ」から「悪童」まで)」 10-39p

第5篇 「津軽方言詩集『ねぷた』」 40-77p

第6篇 前期「芝生」(同人誌) 78-95p

第7篇 「月刊東奥」方言詩欄 96-113p

第8篇 後期「芝生」 114-139p

付録 追悼一戸れい(詩人長女) 父謙三の思い出 140-162p



第三集 平成29年8月18日発行


第9篇 総合文芸誌「座標」と超現実の散文詩 3-32p

第10篇 詩誌「椎の木」と錯乱の散文詩 33-42p
第11篇 津軽方言詩人一戸謙三の誕生 43-66p
資料 一戸謙三の「日記」抄 昭和8年〜9年 67-129p



第四集 平成29年9月30日発行


第12篇 「黒石」と詩人一戸謙三 1-122p





すべて著者・編者・発行者:一戸晃
連絡先〒038-3153 青森県つがる市木造野宮50-11

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770中嶋康博:2017/10/21(土) 20:38:40
『イミタチオ』58号 「芸術の限界と限界の芸術」
 金沢近代文芸研究会、米村元紀氏より『イミタチオ』58号の御寄贈に与りました。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

 保田與重郎を論ずるライフワークも四回目。今回は、初期の『コギト』同人たちが創作理論の眼目として重要視した「リアリズム」について。それが解体期の左翼文壇とどのやうな関りをもってゐたのかを第一章に、そして当時のソビエトにおけるスターリン独裁体制の現実を、保田與重郎がどのやうに理解し評してゐたのかを第二章に、二つに分けて論じられてゐます。

 先づ第一章「ナルプ解体と社会主義的リアリズム」では、昭和8〜9年にかけての、プロレタリア文学運動が解体してゆく過程を説明。その理由として、小林多喜二虐殺を象徴とする国家暴力といった外的要因だけでなく、
「昨日までの正しかった創作理論(唯物弁証法的創作方法)が突然誤りとされ、(創作精神の個々に自立を要求する社会主義リアリズムといふ)新理論が登場したのである。」39p ※( )内中嶋
といった内的要因の大きかったことが指摘されてゐます。そして昭和9年に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が解散し、左翼文学者たちが見舞はれた混乱を紹介。
そんな最中、「反帝国主義」を掲げた学生運動の気運のもとで、昭和8年4月創刊された雑誌『現実』に集った同人の一人として、保田與重郎の姿を追ってゐるのですが、雑誌の中心人物であった田辺耕一郎の回想はなかなか意外なものでした。

 保田与重郎氏とは彼がまだ東大の学生だった頃からよく知っていた。
 その頃は「コギト」という高踏的な雑誌にくねくねとした優雅でねばりのある文章で、 東洋の古典芸術についての研究やエッセイを毎号発表していた。
 文壇的にはまだ無名であったが、人間がおっとりしていて、博学多才で、高邁な精神とやさしい心情とをもつ珍らしい天才のように思って、私は毎日のように逢っていた。また、彼を通じ「コギト」の人たちとも親しくした。
 三木清、豊島与志雄氏ら先輩と文化擁護の運動を私がはじめた際には、彼はファッシズムの圧力に抵抗することに若々しい熱意をもって私を助けてくれたものだった。
 彼は「コギト」の仲間とともに宣伝ビラを手わけして東大の学内でまいてくれたり、書記局のメムバーになって手伝ってくれたりしたのである。」 (田辺耕一郎「学芸自由同盟から「現実」まで」)

 雑誌『現実』はしかし、折角「リアリズム」を問題意識として共有しながらも僅か半年五冊をもって廃刊してしまひます。こののち象徴的なナルプ解散を経て、左翼陣営の文学者たちは、「人民文庫陣営」・「日本浪曼派陣営」へと分れてゆくことになる訳ですが、その過程において、内外でものされた批判の応酬を紹介しつつ、保田與重郎と左翼系文学者との関係(友情と齟齬と)に即した省察がめぐらされてゐます。(森山啓に対して行はれた批判の応酬が、日本浪曼派に合流する亀井勝一郎からのものとともに詳述されてゐるのですが、私の荷に余る話題なので措きます。)

 当時『コギト』の内部では、保田與重郎とは異なる考へ方をもつ高山茂(長野敏一)が突出して左翼思想を標榜してゐました。彼は東大在学中の昭和7年、構内でアジ演説を行った廉で退学処分となり、コギト同人では唯一学生運動の犠牲者となりますが、その際、演説を聞いてゐて共に警察に検束された田中克己は、一晩泊められた拘置所で正義感の表明方法に対する反省をし、文芸の指向も以後モダニズムへと傾斜してゆきます。文中この演説事件のことが触れられてゐますが、当時を記した日記がこの期間のみ残ってゐないのは残念でならぬことです。
『コギト』同人の中でもすぐ頭に血が上る正義漢だったのでしょう、長野敏一・田中克己の二人は、高校時代の同盟休校ストライキの際の行動においても急進派らしい振舞をしてゐますが、イデオロギーより人間を重視し、しがらみも無視しなかった保田與重郎にしてみれば、さぞ付合ひに苦慮するクラスメートだったことでありましょう。

 寮では皆で歌を合唱している内、保田、竹内、松下、俣野らが内談して、このままでは犠牲者が出る。三目後にはストライキ中止ということになり、長野敏一とわたしが「再起しよう。今度は偶発的でダメ」というと、「今ごろ何をいうか」との罵声が飛んだが、投票の結果はストライキ中止が過半であった。このとき、 病気で一年下って来て同級となった金持の肥下恒夫は非常に残念がって、わたしを驚かせた。(田中克己『コギト』解説:昭和59年臨川書店復刻版)

 さうして左翼陣営の人々の「抵抗する生きざま」には共感を示しつつ、保田與重郎が具体的な政治的課題を責任を以て担ふことができぬ自分の弱さを認め、軽率な行動をいましめていった要因には、実はこの身近な友人たちの決起に逸った顛末も、大きく影響してゐるやうに思はれてならないのです。

 ★

 さて第二章の表題「芸術の限界と限界の芸術」は、保田與重郎の『コギト』寄稿タイトル。
マルクス主義が実践されてゐるロシアの文学者、ゴーリキーが言挙げる「社会主義的リアリズム」。その任務と、彼が夢見た芸術の将来像について、そしてそれを完膚無く裏切った独裁者スターリンによる「ソヴェート的現実」に対して、保田與重郎がめぐらせた思惑についてが語られてゐます。

 そして恐怖政治の実際を実見して一転、ソビエト批判に転じたフランスのジイドについて、彼の言葉を信じない左翼陣営の教条主義者たちを嗤ったのはもちろんですが、個人主義者ジイドの西欧ヒューマニズムにも加担せず、保田與重郎は「ソヴェート的現実」の本性から目を背けようとする左翼ヒューマニストたちに対して、政敵を次々に粛清してゐる「スターリンに感心する」と殊更に言ひ放ってみせたりする。自身の良心にも匕首を当てつつイロニーを弄する、これが保田與重郎ならではの立ち回りとは云ふものの、誤解の危険の代償ある言挙げであるといへましょう。

苛烈な政治の場で芸術がどうあるべきか、また何を背負はされるかを自問する彼にして、これよりさき「芸術の力を用いて人民を功利的に思想教育するプロパガンダ」といふものに対する拒絶反応といふのは、右左に関係なく、物事や人物の善し悪しを見分ける際にほとんど生理的な嗅覚となって発動し、働くやうになったもののやうに思はれます。

 さうして独裁者のもとで華ひらく芸術の様相を比較してみる際にも、ふと豊臣時代に成った桃山文化の豪壮を念ひ泛かべるなど、まことにこの時期の彼の言辞には、米村氏が冒頭に引いた高見順の言葉、「彼の「精神の珠玉」を信ずる」ことのできる人とは、如何に時代と自分の弱さとに絶望した人でなければなければならなかったかと、そんなことを思はされたのでありました。

 ★

 このたびも冊子の過半頁を占める力作ですが、これまでの分量から察して『イミタチオ叢書』の一冊として単行本にまとめられる予定も立てられて来たのではないでしょうか。広く戦前文学を研究される方々に報知させていただきたく目次を掲げます。

『イミタチオ』58号(2016.10金沢近代文芸研究会)

評論 「保田與重郎ノート4「芸術の限界と限界の芸術」米村元紀……37-91p

第一章 ナルプ解体と社会主義的リアリズム
  1. ナルプ解体声明書
  2.森山啓と社会主義的リアリズム
  3.保田與重郎と社会主義的リアリズム
  4.学芸自由同盟と『現実』創刊
  5.新たな友情
  6.「委托者の有無」
  7. 森山啓の反論
  8.保田の再批判
  9.亀井勝一郎の森山批判
  10.森山啓の「転向」

第二章 芸術の限界と限界の芸術
  1.「ソヴェート的現実」と芸術の将来
  2.十九世紀文学の死滅とロマン
  3.ジイドと「ソビエトの現実」
  4.スターリンと「ソビエトの現実」
  5.保田與重郎と「ソビエトの現実」
  6.「誰ケ袖屏風」

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771中嶋康博:2017/12/31(日) 15:58:04
良いお年を
年末は日常生活から些末事を追ひ出すことに専念したかったのですが、介護の件を発端に、不便を感じなかった携帯電話をスマートフォンに買ひ替へてより、その機能に驚くわ、自らの情弱ぶりに呆れるわ、休暇をゆっくり読書に勤しむ時間はなくなりさうな気配。
毎年恒例で晒してきた購入古書も、懐具合もさることながら未だに放置中。今年は五点記すに留めます。

『星巌絶句刪』天保6年(とても探してゐた梁川星巌の第2詩集。)
『絶対平和論』昭和25年(とても探してゐた保田與重郎の筆になる無署名本。)
『現代詩人集』全6冊 山雅房 昭和15年(第2巻は田中克己を収めたアンソロジーの一冊。今年は他にも先生の本で買ひ残してゐたものを揃へてゆきました。)
『村瀬秋水 巻子軸』(「憶昔相逢歳執徐・・・甲子夏日臨書 秋水七十叟 老朽故多誤字観者 宜恕之」恕すも何もまったく手つかず状態。)
『奎堂遺稿』乾坤 明治2年(刈谷で出された最初の版。森銑三翁による評伝も一緒に購入。)

みなさま良いお年をお迎へ下さいませ。

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772中嶋康博:2018/01/03(水) 16:23:59
評伝『保田與重郎』
あけましておめでたうございます。今年も宜しくお願ひを申し上げます。

旧臘、相模女子大学谷崎昭男先生より御先師の書き下ろし評伝『保田與重郎』(ミネルヴァ日本評伝選 2017年)の御恵投に与りました。ここにても新刊のお慶びを申し上げます。

冒頭に記された、「つとめて文学の言葉で保田與重郎についてしるしたい」との執筆趣意、文明批評家としてではなく文人として師の俤を伝へたいとの志は、かたちの上では、一息の長い独特の文体のなかに端的に、象徴的に顕れてゐます。
仮名遣ひも歴史的仮名遣ひに改められてをり、前著『花のなごり』(新学社刊1997年)にもまして與重郎大人の気息を体現する文章には、本書を手にされた皆さん一様に瞠目したところでありましょう。

そしてそれが形の上に留まるものでないことも、(評伝を書くには「直接そのひとを識ってゐるのとさうでないのでは随分と相違すると思はれる」とありますが)、まさしく対象に直接師事した著者だからこそ描き得た血の通った事情が、見聞の無い期間についても確からしさを伴ひ、伝はってくる一冊でした。

戦後、高村光太郎に宛てた原稿依頼の手紙や、生田耕作の回想中に記された“戦犯保田與重郎”に対する桑原武雄の見苦しい振舞ひなど、全集未収録の新発見資料がさりげなく紹介され、仄聞するエピソードへの目配りも忘れない。贔屓の引き倒しにならぬやう、裏付けるべき事実をもって忖度の限り(先師の言動に異を唱へる際の著者の心映え)が尽された筆致の表情こそ、本書の一番の魅力ではないかと思はれたことでした。

ことにも前半生の(絶望的な)正義感と、後半生の(受忍といふべき)節操。ことごとしくいふなら左翼・右翼との関係の機微に属する真相について、保田與重郎から特別に寵愛せられたと任ずる著者がどのやうに「政治の言葉」でなく「文学の言葉」で書き留められたか。これは特段に関心を抱いて読んだ部分でしたが、抜き書きしたくなるやうな言辞が鏤められてゐて、一度ならず快哉を叫んだことでした。

「政治か文学か」、それが一大事とされた日である。しかし、政治へ行くか、文学をとるか、そのどちらかを択ぶのではなく、政治か文学かを問ふ、さういふ心情そのものの上に文学を位置させようとすることにしか、自身の良心を護る途はない。83p

現実に対して、追随する安易さも、そこから逃避する卑怯も保田のものでなく、向き合った現実と格闘しつつも、それとの共生を図らうとしたことに、時代への保田の良心といはれるべきものを見る私は、その点で、戦争を保田ほど十全に生きた文学者はゐなかったと思ふのである。163p

全体を通じ“一評伝”を超えて訴へてくるものが感じられるのは、文学者がどのやうに戦争と向き合ってきたか、そして戦争責任をとるとはどういふことであるのか、といふ、戦後日本文壇が抱へ続けてきた大問題についてでしょう。本人からは言ふことを得なかった念ひを、著者がはっきりと代弁、回答してゐて、祖述者のまことの在り方を教へられた気がします。

そのうち「戦時中に書いた文章の一字一句を保田與重郎は決して改めなかった」といふのは戦争責任にまつはる具体的な一事。責任の取り方(受け止め方)の一斑が示されてゐるのですが、もちろん開き直りで改めなかったといふことではありません。

保田與重郎にとって「戦争責任をとる」とは、自分の文章を心の支へにして戦場に向かった若者たちに、最後まで向き合ひ寄りそふことでありました。勝者から押し付けられた「お前たちが一方的に起こした間違った戦争」といふ思想理念を、生き残った人間が無批判に押し戴いたり、無謀な大本営、野蛮な軍隊、卑怯な上官への怒りをぶつける為にそれを利用することでは決してあり得なかったといふことです。

思ふに正義感の発現とは、傲慢に抗してなされるか、ずるさを軽蔑してなされるか、或ひは欲念からの達観へとむかふのか、それにより左翼にも右翼にも宗教者にも転じ得ると私は思ってゐます。それはまた時代相や、出自・トラウマによって、決定されるところでありましょう。一方で、気質において愛憎の激しい人間は身を誤りやすい。

本書でも論はれてゐますが、戦後“日本浪曼派一党”に対して放たれた批判、ことにも杉浦明平による感情をむき出しにした悪罵は、真偽のみならず表現としても正義の鉄椎と呼ぶに当たらず、彼自身これを若気の至りと訂正することもありませんでしたが、文学者の戦争責任が、報道者(ジャーナリスト)の戦争責任、つまり政治的裁定とは自ら異なるものでなければならなかったことを著者は訴へ、そして保田與重郎ほどそれを日常坐臥の上に示して生きた文学者は居なかったと、本書のなかで繰り返し語ってゐるのです。

「そんなことは言はんでも分かるやらう」と保田與重郎が収めてしまふところを、杉浦明平は「それは敢へて言ひ続けていかなきゃいかんことだらう」と怒り続けた。
無念に死んだ人のために生き残った者がしなくてはならなかったこととは何だったのか。それが死者に寄り添ふことであらうと、死者に代って復讐することであらうと、これから生きてゆく人たちに対して、身を正さしめるために、生き残った者自らが生活を律して生きてゆくことを見せることには違ひありません。

保田與重郎は、さうして杉浦明平も自分(の身)を勘定に入れずに自分(の志)を大切にして、それぞれの節を全うした人生を送ったやうに、私には観ぜられます。しかしながら彼等とその世代が退場した今日、日本人はどのやうに変貌してしまったか。

保守を任じながら環境よりも経済優先の国家経営に余念がない政府のもとで、まもなく日本が戴くべき御代は革められようとしてゐます。隠遁者、もっとはっきり謂ふなら遺民として生きた保田與重郎が願ったのは、国柄を基にした独自の宗教的自然観を、一人でも多くの日本人が守り続けていってくれることだったのではないでしょうか。

本書には、ひとりの文士が大戦争の時代を生き永らへ、やがて最後の文人として崇められるに至ったいきさつの全てが、弟子にして知己である一番の理解者によって書き綴られてゐます。さきの吉見良三氏による評伝『空ニモ書カン』(淡交社刊1998年)とあはせて一読をお勧めします。


追而:
年末に石井頼子様より、棟方志功のカレンダー、および「棟方志功と柳宗悦」展の御案内をお贈り頂きました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

本書にも棟方志功、および彼ら民芸運動の主導者たちとの交流を描いた興味深い記事がみられますが、保田與重郎の昭和18年「年頭謹記」を彫った棟方志功の板画が“不敬”の理由で国画会展から撤去された一件については、「要するに、その筋において保田が危険な人物と目された、その累が棟方志功に及んだ」と説明されてゐます。
何の反政府的なことを書かなくとも「今ある生命の現在に対する絶大な自信と確信」を表はした戦争末期の彼の心の拠り所、つまり「人事を尽して天命を待つ」ではなく「天命に安んじて人事を尽せばよい」との悠々たる態度から、当局(その筋)は“危険な人物”の非協力的態度を嗅ぎとらうとする。同じ態度が進駐軍の審問者には古い大和の貴族に映ったさうですから、思へばこれもまた、日本人にとっての文学者の戦争責任といふものについて、思ひめぐらさされる場面でもありました。

追而その2:
本書ですが、大阪高校時代のストライキの一件では、先師田中克己の日記『夜光雲』にも言及して頂き、そのため私ごとき末輩にも貴重な一冊が恵与されたことと思しいのですが、礼状を書きかけのままお送りしたことが判り赤面してをります。ここにても、あらためての御礼かたがた御詫びを申し上げます。

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773中嶋康博:2018/03/28(水) 12:34:32
『忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡』
この数日、この本の面白さにかかりきりでした。図書館で借りてきた『忘れられた詩人の伝記 - 父・大木惇夫の軌跡』といふ本。

幼いころの優しかった父の思ひ出をなつかしむと同時に、母を貧乏と浮気で苦しめた“生きた詩人の現実”を、時に冷たく突き放して記録してをり、個々に下される作品評も、編集者らしい批評精神を以て、情や思想に左右されることのない客観性に貫かれてゐるのが印象的。わたくし的には大木惇夫は決して“忘れられた”感じはしませんが(さうならば、拙サイトで紹介してゐる詩人は全員“忘れられた詩人”ですね。笑)、この詩人の略歴や、詩さへ全く知らないひとにも楽しく読める、とても面白い伝記です。すでにネット上には田村志津枝氏による、的確で申し分のない書評があがってゐました。

火山麓記2016-11-16 『忘れられた詩人の伝記』を読んで  家族ってなんだろう
  http://jan3-12.hatenablog.com/entry/2016/11/16/105443

ここに私から付け加へるとするならば、大木惇夫は北原白秋の推輓で華々しくデビューした明治28年生れの抒情詩人ですが、「戦友別盃の歌」を始めとする多くの戦争詩を書いて戦後文壇から「戦争協力者」として指弾された、先師田中克己とは立場において通ふところのある詩人です。2男・3女(うち1男は夭折)という家族構成も同じながら、両親から「一度も叱られたことがなかった」といふのは、田中家とは随分ちがってゐるやうですが(汗)。本文中に先師の名は一度しか出てきませんが、同じく文士徴用に出された際に知り合った浅野晃とは親しく、全詩集の解題は保田與重郎が書いてゐます。

本書は、詩人の下世話な現実を叙したワクワクする部分を除けば(笑)、前半生では、激賞された北原白秋との出会ひを叙したシーン、そして中盤の戦争詩を書いた詩人に対する姿勢が素晴らしく、『詩全集』の解題を書いた保田與重郎に礼を執る是々非々のまなざしが清々しい。以下に抜いてみます。

嫌いではない雨が、この日は行く手を阻む敵意にも思えて、しぶきを蹴飛ばす感じで歩きに歩いた。(72ページ)

「読まない先から失望することが多くてね。頼まれた人の作品を見るのは苦痛なんだ。これ、と言うものには滅多に出会わないのでね。」(中略)
「いいねえ、君、素晴らしくいい。」(73ページ)

批判は痛く堪えたものの、かえってその厳しい苦言が激賞の真実味をも父に感じさせた。(74ページ)

曩日は知らず、目下の君はもはや砂中の金ではない。(中略)
一詩集の序文が(刊行に先立ち新聞紙上で) 4回連載で紹介されるなどと言う例はあるのだろうか。(84ページ)


国の存亡の時に遭遇し、熱く心に点火されるのも詩人であるし、石の沈黙を守るのも詩人なのだろう。厭戦詩はあり得ても、反戦詩を書く土壌は父の内部にはなかった。(201ページ)

戦地で父は、われは詩人であるという、一代の矜持をもって、高揚にまかせて戦争を歌ったのだった。自分を捨て、半ば生と死を往来しつつ、澄んだ詩境にあって歌ったのが「海原にありで歌へる」であった。その詩人の中に大いなる幼児がいたのであって、無垢な一介の幼児が詩人だったのではなかった。(中略)
敗戦時の詩を読む限り、私には、苦しみを徹底して苦しまなかったところに、もっと言えば、苦しみを自分の内部において極限まで受容できなかったところに、父の詩の停滞があるように思わずにはいられないのである。(234ページ)

「懲らしめの後」の「懲らしめ」とは何なのだろうか。もしも、原爆の惨事を「懲らしめ」であると言うならば、その認識の欠如に私の心は蒼ざめるしかないのだ。(中略)
このような饒舌な言葉が虚しい「ヒロシマの歌」を書くのならば、詩人は暗い心を抱きつつ、沈黙の中で堪えるべきだっただろう。(270ページ)

父をどんなに意見をしていようと、外からの攻撃に対して、私は毛を逆立てて反撃する猛々しい猫のように変身する自分を知った。(322ページ)

保田氏は最後まで父の理解者として一途に詩人大木惇夫を守ってくださった希有な人であった。父が後に『大木惇夫詩全集』(全三巻)の全解題を保田與重郎氏に委ねるのは当然の選択であったろう。それについてはこれからの章で触れていかなければならないが、手紙に
「作中主人公を包む人生の好意にも大いに打たれました、どちらかと申すと茫洋としたこの世の人情に感動しました、罪の意識や苦の意識よりその方を感じをりました」
と書き送る保田氏の中に浪漫的精神の純粋性をあらためて知らされる。父と保田氏の深い関わりを考えるならば、父の人生や仕事にまつわる不遇や不運もいくらか埋められそうな気がする。(333ページ)

その日印象的だったのは、奈良から来られ、スピーチをされた保田與重郎氏の渋い和服姿、麻の羽織袴姿の格好よさであった。父に紹介され、私は氏の立ち姿の端麗さに見とれてしまった。(392ページ)

それでは、「詩全集」全巻を通して「解題」を描いた保田與重郎氏の大木惇夫論をたどってみよう。(423ページ)

この人は評論によって陶酔を与える稀な才を持っている。少なくとも、第一巻に関してはそう言える。
父の詩集「海原にありで歌へる」は、「大東亜戦争の真実」を知らせるためのものではない。自らが投げ込まれた「戦場での真実」を歌ってはいるが、大東亜共栄圏を理想とする「大東亜戦争の真実」を歌ったものではなかった。
「海原にありで歌へる」は半分死を体験した生身の人間が歌う戦場の悲劇である。それゆえに、いつも傍に死を実感する兵士たちは心を動かされたのだろう。(中略)
どうやら、保田氏のペンがある自縛に包まれてしまうのは、「大東亜戦争」に対した時のようだ。激烈な文章のようでいて、結論を探してはずむ躍動感が見られない。第一巻の詩論との差異は歴然としている。(424ページ)

したがって、父が受けた保田與重郎氏の共感は、大きな恩寵には違いないが、その恩寵の影にかすかな不幸が潜んでいたようにも思える。保田氏の純粋一徹な気質や張り詰めた美意識、さらには、美を描いてさえ滲み出るあの殺気もまた「悲劇」を想像させる。(427ページ)


著者の宮田毬栄氏は大木惇夫の実の娘で元中央公論社編集者です。この本は時代と恋愛とに翻弄された多情多感な一詩人の伝記であるとともに、中盤以降、著者自身の自伝として、その時々の父親の姿と絡みながら並走してゆくさまも面白い読み物となってをり、かなり分厚く高価な本ですが、叙述の妙にグイグイ引き込まれてしまひました(おかげで喪中のひとときを有意義にすごすことができました)。読売文学賞を受賞した本なので、どこの図書館にもあると思います。機会がありましたらお手に取られることをおすすめします。

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774中嶋康博:2018/08/10(金) 23:55:17
『若い日に読んだ詩と詩人』
 amazon、そして拙サイトにもupした『日本近代詩の成立(2016 南雲堂刊)』の書評ですが、著者の亀井俊介先生のお目に留まり、そのおかげだと思ひますが、このたび『若い日に読んだ詩と詩人』といふ一冊のエッセイの御寄贈に与りました。おそらくこのやうな新刊があったことなど、どなたも御存じないでしょうし、今後も手に取ることはおろか目にすることもない本となるでしょう。なぜって奥付には信じられない発行部数が「限定21部」と印刷されてゐましたから。

 しかしながら、カバーこそ即席デザインですが(愛書家としてこれだけは残念でした)、A5版139pのコンテンツをしっかり印刷・製本されたこの本が、たった21冊しか造られなかったとはやっぱり信じられない。不審に思ひつつ早速「あとがき」に目を通すと、中身の文章7本のエッセイのいずれもが、亀井先生がアメリカに留学される前、東京大学大学院時代に友人と興した文芸同人誌『状況』『浪曼群盗』等に発表した、1958年当時の執筆にかかる“若書きエッセイ”をまとめたものであるということ。そして昨年まとめられた『亀井俊介オーラルヒストリー(2017 研究社刊)』の、謂はば余勢をかった副産物として、岐阜女子大学大学院で教鞭を執られた亀井先生をかこむ英米文学愛好サロンの人々により、その強力な要望に応へるかたちで作成されたプライベートプレス本であるらしいといふこと。
 本書のかうした成立事情、つまり超稀覯本ができた理由と、タイトルとなった「若い日に読んだ詩と詩人」の背景、当時の同人誌をめぐる興味深い懐旧譚とが「あとがき」に綴られてゐました。僅かに十数冊が届けられたと思しきそのうちに、ゼミ生でも教へ子でもなかった私を選んで頂いた幸せをかみしめた次第です。

 さて、であるならばです。さきの書き下ろしの大著『日本近代詩の成立』の冒頭で、亀井先生が日夏耿之介の『明治大正詩史』を引き合ひに出して述べられた若き日の詩観のこと、芸術派だけでなく難解な現代詩に対しても飽き足らぬ思いを詩作者として抱いておられたといふ当時の先生が、その時点のその立場で、いったいどんな文章を実際に書いてをられたのか、これは興味深いことです。読みはじめて、前半の日本の抒情詩について論じられた部分、「立原道造」、「津村信夫」、そして四季派の末裔変種として戦後、発芽しただけで熄んでしまった「マチネ・ポエティク」を論じた3本に早速瞠目しました。

 例へば立原道造の項では、「僕はこのごろレトリックなしになりたい」との告白を「彼の心の謙虚さをあらわしたにすぎない」と喝破。そして津村信夫については、西欧に夢見た物語から妻の在所を通じて日本の(信州の)物語に回帰してゆく過程で、語り部として「触媒のような存在になって」しまった詩人に対して食ひ足りなさを表明し、「たとえば堀辰雄が隠しもっているような果敢さはほとんどないといってよい」と言及。また彼が「自然、自然」と言ひながらも「自然美ということには大して関心を示さなかった」と、立原道造との差異を指摘された条り、などなど。

 「露骨な反感の表現は反省する」と回顧された「マチネ・ポエティク」論のなかで「生活が詩の言葉の一つ一つを徹底的に鍛え、その上で詩は生活から独立した詩的価値を持つはずだ」との詩観を開陳されてゐる亀井先生ですが、60年前の当時、新進気鋭だった同時代人、大岡信や田中清光といった人々が、これらのエッセイを読んだかどうかわかりません。ですが、私が詩を書き始めたころ、彼らの評論を通じて再確認することのできた、四季派と呼ばれる詩人たちの生理について、詩作者として悩み、進路を模索してをられた若き日の亀井先生が、同じく彼らの詩に魅力を認め、その問題点とともに探ってをられたといふこと。「自身の詩的態度の検証のために書いた」と仰言るエッセイに、それが、短くも的確に分かりやすく説明されてあることに吃驚しました。そして、これまで多くの関係論文を読んできた私ですが、半世紀以上前の創見に瞠目の思いを新たにし、この3エッセイを“若書き”だからという理由だけで、たった20人に供するだけでは、あまりにももったいないのではないかと思ったのでした。

 「四季・コギト・詩集ホームぺージ」という名前のサイトを開設し、四季派や日本浪曼派に括られそうな詩人たちの詩と詩集の紹介にいそしんできた私ですが、これまで立原道造・津村信夫(そして伊東静雄)といった中心人物については、あまりにも多くの論者によって分析的研究がなされてきたこともあって、生中なコメントを書くことが躊躇はれ、これまで正面からコメントすることを避けてきました。亀井先生のこれらの文章を、許諾を得て全文を紹介させて頂くことが出来たのは、まことに名誉なことで、これまで「四季」の名を冠しながら彼らに言及してこなかった拙サイトの正に両眼に点晴を得たやうな思ひもしてゐるところです。

 各原稿の転載を快く許諾くださった亀井俊介先生、そしてこの本を企画して作ってくださった犬飼誠先生、日比野実紀子さんに深甚の謝意を表します。ありがたうございました。

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775中嶋康博:2018/08/27(月) 09:52:05
大垣漢詩人展墓
現在調査中資料に関り、大垣の先賢に御挨拶。午後は関西からみえた先生に就いて調査資料を陪観することが叶ひ眼福の至り。吾が古本狂時代の先輩コレクターとの面晤もはたして傾蓋故の如く誠に楽しい有意義な一日をすごしました。華渓寺の御住職ならびにむすびの地記念館の学芸員様にも深謝です。ありがたうございました。

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776中嶋康博:2018/08/28(火) 03:24:33
田中克己日記 1965
【田中克己文学館】に「田中克己日記 1965年」の翻刻をupしました。

 最近ニュースで東京医科大の「差別入試」問題が炎上しましたが、運営が鷹揚だった昔の私立大学の内部事情など、当時の関係者の日記を覗けばいくらでも見てとれるやうに思ひます。
 田中先生の日記を翻刻しながら嬉しく思ったのは、そんな当時でも、お金には潔癖な様子が窺はれるところでした。
 しかしながらこの日記も昭和40年代に突入。関係者の多くが存命人物となるこれより先、個人情報を大幅に割愛してゆかうと考へてをります。御了解ください。

http://

777中嶋康博:2018/09/09(日) 16:51:50
重陽
現在翻刻着手中の、大垣藩臣河井東皐(1758 宝暦8年〜1843 天保14年)の写本詩集から。


 重陽上養老山

雲裡登高古佛龕
境移盧岳藹烟嵐
飛流直逐青蓮跡
泛酒兼開黄菊潭
養老況逢佳節會
交歓何厭醴泉甘
休嘲狂態頻傾帽
風是龍山自澗南
         養老山南有龍峰※4

重陽、養老山に上る。

雲裡に登高すれば 古佛の龕
境は盧岳に移る 藹烟の嵐
飛流は直ちに逐ふ 青蓮の跡※1
酒に泛べるに兼て(前もって)開く 黄菊の潭※2
養老 況や佳節の會に逢はんとは
交歓 何ぞ厭はん醴泉の甘きを
嘲けるを休めよ 狂態 頻りに帽を傾けるを※3
風は是れ龍山 澗の南よりす

安永十年(1781)九月九日の作と思はれ、23歳の作です。

※1青蓮居士(李白)の詩「望廬山瀑布」の「飛流直下三千尺」を踏まへる。
※2酒に菊花弁をうかべた陶淵明を踏まへる。
※3龍山の宴にて孟嘉が落帽した重陽の故事を踏まへる。
※4養老山南に地元僧龍峰が住んでゐた事に掛ける。



もひとり大垣藩臣の野村藤陰(1827 文政10年〜1899 明治32年)の詩集から。
河井東皐からは随分後輩にあたる人ですが、こちらの宴は鉄心先輩が居ないもののメンバー豪華すぎ。
嘉永三年(1850)の作でしょうか。とすれば東皐と同じく23歳の作です。

重陽日。
凉庭新宮翁、拙堂先生の為に都下名流を南禅寺順正書院に招く。先生携ふるに諸子を従行して往く。煥(藤陰)亦た陪す。
是日会する者。中嶋棕隠、梁川星巌、牧贛齋(百峰)、紅蘭女史、池内陶所、牧野天嶺、佐渡精齋諸子也。七律一章を賦して之を紀す。

不用登高望古関
且陪笑語共懽然
同時難遇文星聚
令節况逢晴景妍
烏帽白衣人雜坐
黄花緑酒客留連
龍山千古傳佳話
孰與風流今日筵

登高を用ゐず 古関を望むに
且く陪笑す 共に語りて懽然たり
同時に難ひ遇し 文星聚まる
令節 況んや晴景の妍(うつく)しきに逢はんとは
烏帽※白衣※ 人は雜坐し
黄花 緑酒 客は留連す
龍山 千古 佳話を伝へ
孰れか風流今日の筵を與にせん

※前述龍山の宴にて孟嘉が落帽した重陽の故事と
※陶淵明が白衣の人より酒を送られた故事を踏まへる。


9月9日は重陽の節句ですが、新暦だとやはり七夕と同様霖雨にたたられますね。
本日美濃地方は曇天。旧暦の9月9日、今年は新暦10月17日とのことです。(写真は台風が来る前の長良川)

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