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瀬島龍三《真正売国奴》スレッド

83・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 11:13:07
>>82
「反共の闘士」はソ連に篭絡されていた!?

 モスクワのホテルで録音した三時間分のコワレンコのインタビュー・テープは、実はその後、私のデスクの奥で長いことホコリをかぶっていた。なぜなら、私のしつこい質問の数々についに元「闇の司祭」が怒り出し、「このインタビューはなかったことにしろ」と言い出したからだ。取材としては最悪のパターンだったが、気難しいロシア人相手の取材ではときどきあることだった。彼らは“本当のこと”を聞かれることに慣れていないのだ(ちなみに、私は当時、モスクワに在住しており、毎日のようにそんなロシア人に会っていた)。
 そんなわけで、「対日工作の黒幕が初めて過去を語る」というスクープはお蔵入りになってしまったのだが、それから五年後の九六年十ニ月、なんとコワレンコは日本で手記を出版したのである。
『対日工作の回想』と題するその自伝は、政界でも密かな注目を集めたという。とくに、うやむやに終わったレフチェンコ・メモの中味について、何か決定的な情報が暴露されなかったか、という点が注意を引いたのだ。
 もちろん、“スパイ・マスター”コワレンコが、そんな隙を見せるはずはなかった。レフチェンコのことも、「プロの情報員ではなく、何も知らない」「麻薬中毒で、人間性も信用できない」と切り捨て、レフチェンコ・メモもすべてデタラメであると断言した。
 だが、注目される新情報もいくつかあった。その筆頭が、中川一郎との“秘密のコネクション”だった。
 コワレンコが自著の中で自慢気に語っているのは、明らかに中川篭絡の手口だった。コワレンコは、自主外交派の中川を支援することで日本を反米・反中路線に誘導することができると考え、中川の利権マタ―である日ソ漁業交渉で便宜を与えることで、彼を「親ソ派」に取り込もうとしたというのである。
 接触は八二年九月、レフチェンコ・メモにも名前のあった三浦甲子二・テレビ朝日専務の仲介で極秘裏に行われたという。その席で中川は「在日米軍の撤廃」「ソ連との長期的善隣関係構築」などの持論をぶち、果ては「北方領土は原則的な問題ではない」「中国の脅威に対抗するため、日ソ軍事条約締結の考慮の可能性もある」などとも発言。さらには、中川のほうが日ソ漁業交渉の便宜供与の早期実現を要求し、秘密接触のためにその後は大使館などの公式ルートを使わずに三浦ルートなどを使うことにも合意したというのである。
 驚くべき内容である。私とのインタビューでも語っていなかったことだ。これが事実なら、中川はまさに、コワレンコの術中にはまったといっていいだろう。それは、KGBより上位の共産党中央委員会国際部に直結する超A級の“協力者”に仕立てあげられたことを意味していた。
 だが、前述したように、私はコワレンコの“物語”には常に欺瞞が含まれていると確信している。おそらく、コワレンコが中川を篭絡しようとして「中川=コワレンコ会談」がセットしたのは事実だろう。だが、いくらなんでも「日ソ軍事条約」などのアイデアは青嵐会の“反共の闘士”とは結び付きづらい。この記述はかなり“脚色”されている可能性が高いというのが私の率直な〝勘〟である。
 しかし、それでももし本当に中川がコワレンコと極秘接触を続けていたとしたら、それだけでもレフチェンコ・メモの中味に「もしかしたら自分が?」と思い込んでも不思議ではないのかもしれない。日本の公安当局が最重要対象者としてマークしていたコワレンコの正体を、中川が知らなかったはずはないのだ。

 だが、果たしてそんな“疑惑”だけで果たして人は死ぬだろうか?――というわけで登場したのが「CIA暗殺説」だった。
 が、これもそのネタの出所は在日ソ連大使館筋=つまりコワレンコ周辺だった。コワレンコがやはり自著に書いているのだが、中川怪死に際し、在日ソ連大使館から本国へ「中川を日本の首相にさせたくなかったCIAが彼を暗殺した疑いがある」と報告していたというのである。おそらく、その話に尾ひれがついて流出したというのが真相だろう。
 コワレンコ自身は「在日ソ連大使館の分析担当者が憶測で書いたもの」と逃げているのだが、私には、そうした情報が流された背景にはコワレンコ本人の意図もあったのではないかという気がしてならない。いかにも「闇の司祭」がやりそうなことだからだ。

84・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 11:16:10
>>83
“エージェント”と“無意識の協力者”

 ところで、シベリア抑留者の洗脳工作を担当し、その帰還者を足掛かりに戦後日本へ浸透、対日工作の“黒幕”として君臨したイワン・コワレンコは、回想録の中で何人もの日本人の“友人”の実名を挙げている。そのほとんどは私とのインタビューでも語っていたが、それはつまり、逆にエージェントの可能性は低いということなのだろう。
 参考までにそれらの人々を挙げておく。(一部にレフチェンコ・メモ公安版に登場する名前もある)。
 政治家では、自民党が石田博英、鳩山一郎、河野一郎、赤城宗徳、田中角栄、中川一郎。社会党が成田和巳、石橋正嗣、勝間田清一、飛鳥田一雄、土井たか子、五十嵐広三、高沢寅男、山本政弘、岡田春夫、岩垂寿喜男、伊藤茂。その他には、三浦甲子二、杉森康二、堤清二、松前重義(東海大総長)、池田大作(創価学会名誉会長)、千田恒(元サンケイ新聞記者)、秦正流(元朝日新聞編集局長)、白井久也(朝日新聞記者)、中村曜子(画廊「月光荘」経営者)、長谷川千恵子(画廊「日動画廊」経営者)、柴野安三郎(札幌日ソ友好会館オーナー)、岡田茂(東映社長)(以上、肩書きは同書のまま)――。
 このメンバーをざっと見渡すと、ソ連通を公言していた人物も確かに少なくない。そうした人々は、ソ連共産党のシンパではあっても、エージェントと呼ぶような存在ではないだろう。
 日ソ諜報戦に絡む資料を目にするたび、私はいつもひとつの違和感にとらわれていた。それは、「何をもって“エージェント”というのか」がいまひとつあいまいなことだった。
 日本のような国では、おそらく「カネを受けとって正式な工作員となった人間」の他に、相当数の“無意識の協力者”がいる。そして、そんな大勢の名前がシャッフルされることで、本当の工作員が隠されているのではないか、という気がしてならない。
 中川一郎は、この“広義のソ連コネクション”のどこかにいた。それは確かに、総裁の座を狙う保守派の派閥領袖としては“弱み”だったかもしれない。だが、それが彼の死に直接関係しているのかどうかは、結局のところ確認のしようがない。(了)

2007/07/13(金) 09:36:06|

スパイ&テロ KGBの対日工作・番外編
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-77.html

85・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/07(日) 12:33:47
公安警察の手口
http://www.book-navi.com/book/syoseki/kouan.html

今月の本棚


「公安警察の手口」

鈴木邦男著
ちくま新書(208p)2004.10.10
680円+税


公安警察の伝家の宝刀に「ころび公妨」ってのがあるそうだ。「公妨」とは公務執行妨害。つまり、狙った相手を公務執行妨害で逮捕するための必殺技。

こいつを逮捕しようと的を定めた相手を呼びとめる。いいがかりをつけて相手と揉みあって、自分で転んでしまう。「イタタタ。お前がやったんだ。暴行だ。公務執行妨害で逮捕!」というわけ。オウムを追ったドキュメンタリー映画『A』には、この「ころび公妨」の現場が記録されている。

 似たような話は元衆議院議員・白川勝彦氏のHPにも掲載されている。白川氏は路上で4人の警官から職務質問を受け、ポケットの中を見せろと迫られて、逃げられないよう取り囲まれてしまう。警官に手を出したり、押しのけたりしたら公務執行妨害で逮捕するという狙いが明白なので、白川氏は延々と押し問答を繰り返す。職務質問に答えるのはあくまで任意だから、これは違法なやり口だ。

「監視社会」という言葉が、最近、いろいろな場面で使われている。世界的には9.11以来のテロへの恐怖から、国内的にはテロに加えて種々の犯罪、特に子供をターゲットにした犯罪の増加から、セキュリティーへの関心が急速に高まっている。

「監視社会」という場合、監視カメラの設置や携帯電話を使った位置確認など情報技術の高度化による新しいセキュリティーのシステムを指すことが多いけれど、国家の古典的なセキュリティー担当部門である公安警察も、依然として大きな「闇」「伏魔殿」(いずれも著者の言葉)として存在している。

鈴木邦男は1970年代から新右翼・民族派の団体「一水会」のリーダーとして活動してきた。現在は政治運動から身を引いて言論活動に専念しているが、その間、公安から数十回の家宅捜査を受け、時には逮捕もされた。そんな経歴をもった著者だからこそ描けた公安警察の実態は、普段、ふつうの市民の目からは隠されているだけに、驚くことばかりだ。

最近の家宅捜索(ガサ入れ)では、公安は揃いの帽子、揃いの服で目立つような格好をしている。しかも携帯で大声で話し、金属探知機など使って大げさな捜索をする。本来の目的とは別に、隣近所に「ここに怪しい奴がいるぞ」と警戒心を起こさせるためだ。著者は、そんなガサ入れを繰り返され、アパートも事務所も何度も追い出されたという。

右翼には思想的なグループばかりでなく、金になるからと右翼の看板をかかげているヤクザもいる。ヤクザが右翼団体を結成すると、どう活動したらいいか、公安は指導までしてくれるらしい。「とりあえず軍歌をかけて朝から晩まで街宣車を走らせたらいい。でも、右翼団体となると綱領とか規約が必要ですね。そんなものは私らが作ってあげましょう」なんてアドバイスするそうだ。

公安は時に事件をそそのかすことさえする。ヤクザの右翼に覚醒剤かなにかで逮捕状が出ると、公安はその男につぶやく。「クスリなんかで捕まったら恥ずかしいでしょう。どうです、共産党か日教組に突っ込みませんか。そうしたら政治犯として逮捕されます」「なに、直前にぼくが止めますよ。それなら逮捕されても二十三日で出られます。男が上がります」

公安が監視の対象にしているのは主に左翼と右翼だけれど、左翼に対しては組織内に「協力者」(スパイ)をつくるのが、右翼に対しては「公然とつきあい、酒を酌み交わし、ときには交通違反を揉み消して恩を売り、手なずけようとする」のが基本だという。

公安警察の歴史をふりかえると、戦後の公安は武装闘争路線を取っていた日本共産党に対する対策として生まれた。1960年代に入って新左翼が生まれ、右翼のテロも頻発するようになると、公安の組織はいよいよ大きくなった。警察内部でも、刑事犯を相手にする刑事警察に対して、政治的存在である公安警察が大きな権力をにぎるようになった。

新左翼の運動が激化した1970年前後に大きく膨張した公安警察は、その後、新左翼が退潮し右翼の事件が少なくなってからもその規模を保ったまま、最近ではオウムなどの宗教団体や「国際テロ対策」へと主力をシフトしている。

著者の取材によると、公安の人員は警察庁警備局(全国)に約1000人、警視庁公安部(東京)に2000人、公安調査庁に2000人いるという。いずれも推定で、正確な人員や金の使い方は闇のなかだ。その人員と予算を守るために、オウムの危険性やテロの恐怖が必要以上に叫ばれている。公安調査庁は、オウムに破防法を適用して存在意義を示そうとやっきになっている。

86・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/07(日) 12:37:09
>>85
だから左翼と右翼の活動家は公安にとって大事な「顧客」であり、「お客さん」であり、公安の「生活の糧」になっている。いったん目をつけた「お客さん」に対しては、たとえ政治活動から身を引いて一般市民に戻っても、ずっと監視しつづけるシステムができている。

彼らの論理によれば、一見おとなしくしていても、いつまた過激な行動を起こすか分からないからだ。武装闘争を放棄して半世紀たつ日本共産党がいまだに公安の最大のターゲットであるのも、そのような「公安の論理」に基づいている。

鈴木は自らの体験と取材をもとに、日本の公安警察をこう結論づけている。

「公安がいるために日本の治安が守られているのではない。逆に、公安が事件を起こし、治安を撹乱させているのだ」

ほとんどの市民にとっては、公安警察は目に入らない存在だ。でも、風邪をひき少々むさくるしい格好で歩いていただけで職務質問された白川勝彦氏の例が示すように(氏を取り囲んだ警官は公安ではなかったが、一般の警官にも路上でどんどん職務質問するよう指示が出ているらしい)、警察による市民の監視は目に見えて厳しくなってきている。

公安の警察官が日常活動のなかで求められているのは、「潜在右翼」や「潜在左翼」を見つけることだという。彼らは、軽い気持ちで集会に顔を出した参加者や、事務所とか自宅の壁に張られたポスター、胸のバッジや、会話のなかのちょっとした言葉遣いといった、かすかな兆候を過大に解釈する。

自分は過激な左翼や右翼ではないし、狂信的な宗教団体の信者でもないし、ましてや犯罪者でもないと思っていても、「公安の論理」からは、すべての市民が潜在的な過激派であり狂信者であり犯罪者なのだということが、この本を読むとよく分かる。そこから「警察国家」への道は一直線につながっている。(雄)

87・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/05/14(金) 10:18:26
その『リーダーズ・ダイジェスト』が工作員の全てをリストしたものではなく、共産圏内でもある一派の工作員リストだとしたら?

88・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/05/22(土) 10:34:05
『二千年の恋』

フジテレビ系列で2000年1月10日から3月20日まで
放送されたテレビドラマである。
全11話。放送時間は月曜日21:00〜21:54。
台湾、香港、シンガポール、タイでの
同日放送と放送前から話題を呼んだ。

さいとう・たかを原作の『ゴルゴ13』の「モスクワの記憶」の
登場人物・内容をモデルにしているように思われ、
続編と思わせるような展開であるが、独自のドラマ内容を持つ。

おもな登場人物・モデル

ユーラル・・・ソ連(ロシア)
ビクトル・マロエフ・・・二階堂洋介
野上浩/ユーリ・マロエフ・・・ゴルゴ13
サムエル・マロエフ・・・イワノビッチ中尉
ナオミ・ナーギン・・・ナタリア
ウラノフ副書記長・・・ロシアの改革派のメンバー
ブコレス大佐・・・ソゴロフ大佐
 GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)副課長、班長及び副班長
佐伯健志・・・警視庁公安部警部

89・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/05/22(土) 10:37:09
>>88
日本戦略研究フォーラム

二階堂洋介は、1999年3月1日に、
ロシアの旧ソ連の保守派のあるGRUの大佐と結託し、
大政翼賛会(第二次臨時行政調査会)の後継組織として、
日本戦略研究フォーラムを設置して、
明治維新政府に連なる大東亜政府を強化させようとするが、
マッカーサー維新政府に連なる日本政府との間で、
共存共栄が出来ず紛争が勃発する。

マッカーサー維新政府に連なる日本政府は、
ロシアで旧ソ連の保守派の台頭を嫌う、
ロシア政府と協力し対処を図る。

ロシア政府は、ロシアの改革派のメンバーを日本に送り、
また、ゴルゴ13に、二階堂洋介に会う為に、
日本に行っているこのGRUの大佐の殺害を依頼する。

まとめると、大東亜政府側にロシアの
旧ソ連の保守派のGRU・大東亜の公安省等、
日本政府側にロシアの改革派のメンバー・ゴルゴ13等
と言う形で壮絶な争いとなる。

この両政府の争いはフジテレビ系列で、
大東亜の諸国に週1日1時間、
『二千年の恋』と言う番組名で随時放送される所となる。

二階堂洋介は、ゴルゴ13に殺害されたように見えるが、
本当は何の危害も受けていないらしい。
ゴルゴ13と話をして別れた後に、
トマトジュースを飲んでいる最中に、そのままの状態で、
失神か何かを起こし倒れてしまったように思われる。

二階堂洋介は、ゴルゴ13が自分の子であるとも思っていたので、
その関係での失神であったのかもしれない。
現に二階堂洋介は生存している。
また、ゴルゴ13は二階堂洋介の殺害の依頼は受けていない。

ゴルゴ13はテレビ放映されてしまったので、
身を隠す為に殺害された事にしたのであろう。

番組で1番出演していた大東亜の公安省の警察官が、
最後の方で右往左往して何も
出来なくなってしまったのを見てもわかるように、
大東亜の公安省の警察官は、両政府に挟まれ、
苦しむ所となり失態の連続となった。

最後に女性と赤ん坊が出て来るが、
あの2人は本当の親子らしく、赤ん坊もゴルゴ13の子ではなく、
女性の彼氏との子であるらしい。
テレビの視聴率を取る為にゴルゴ13の子としたのであろう。

『二千年の恋』の全体像を見ると、番組の編集の段階で、
歴史の事実や各個人の話す内容等に
脚色があったのは確かである。
大東亜戦争の時の大本営発表と言った所であろうか。

今回のゴルゴ13のゴルゴガールは、中山美穂であったが、
誕生月日が日本戦略研究フォーラムと同じ、
3月1日であるのをみると、
日本戦略研究フォーラムのイメージガールでも、
あったように思われる。

日本戦略研究フォーラムのイメージガールであった中山美穂が、
ゴルゴ13との出会いで、自分の主義を改心して行き、
総統の二階堂洋介から離れ、
マッカーサー維新政府に連なる日本政府側に付こうとする。

しかし、大東亜政府側のGRU・公安省等が、
中山美穂の裏切り行為を許さず、精神・金銭面で嫌がらせをし、
思想改造を行なったりする。

最後の方では、命を狙われたり、
しかも公安省の警察の佐伯健志には、
恋心まで抱かれてしまったりする。
結局、死んだ事にして、
アメリカかフランスに移住し身を隠す事になった。
ここら辺が事実なのではないのであろうか。

ちなみに、ゴルゴ13は女性との関係を後に引きずらないので、
中山美穂との関係もこの時だけであろう。

90・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/06/08(火) 16:22:05
沖縄県民斯ク戦ヘリ
http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/blog-entry-869.html
沖縄県民斯ク戦ヘリ コミンテルンに嵌められた大東亜戦争
http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/?m&no=869

・・・。レフチェンコはコード名「クラスノフ」の瀬島龍三と直接コンタクトを取ったことはないとしながらも、対日工作のボス、コワレンコと深い仲だと証言している。
・・・


スパイ&テロ KGBの対日工作⑥
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-75.html
・・・
25 コードネーム「クラスノフ」
 実名不記載。著名な財界人。KGB正式エージェント。
・・・

91・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/06/08(火) 18:47:39
『季報』平成20 年「瀬島龍三特集」―目 次―Vol. 36
http://www.jfss.gr.jp/kihou_20_Spring.pdf
日本戦略フォーラム活動年表
http://www.jfss.gr.jp/04-katudou.pdf
日本戦略研究フォーラム
http://www.jfss.gr.jp/

92・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 20:57:35
John Anthony Walker - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Anthony_Walker
This page was last modified on 8 June 2010 at 16:12.の日本語訳

ジョン・アンソニー・ウォーカー

ジョン・アンソニー・ウォーカー・ジュニア(John Anthony Walker, Jr.、1937年7月28日 - 、ワシントンD.C.)[1]は、退役アメリカ海軍上級准尉の報道員で、冷戦(1945-91)期の1968年から1985年までの間に、ソ連大使館に暗号規約を持ち込み、ソ連のスパイをした件で有罪判決を下された。[2]1985年後半に、ジョン・ウォーカーは嘆願取り決めにおいて罪を認め、それによって、彼は共謀者ジェリー・ウィットワースに不利な証言をして、彼のスパイ活動の詳細を伝えて、彼の息子(マイケル・ウォーカー)に対する軽い処罰について交渉をした。[2]ジョン・ウォーカーは、ソ連のスパイとしての間に、ソ連が100万通の暗号化されたアメリカ海軍の電報を解読するのを援助した。[3]そして、このスパイ活動は、1987年のニューヨーク・タイムズで、「歴史上、希に見る、最もアメリカにダメージを与えたソ連のスパイ活動と言える」と報じられた。[4]

目次
1 スパイになるまで
2 スパイ活動
3 逮捕・監禁
4 参考文献
5 関連項目
6 脚注
7 外部リンク

スパイになるまで
ジョン・ウォーカーは、強盗の理由で逮捕された時に、刑務所行きか軍隊の道を提供され、1955年にアメリカ海軍に入隊した。[1][5]ジョン・ウォーカーは、ボストンに配属されている間に、バーバラ・クロウリーと出会って結婚した。そして、彼らは3人の娘と1人の息子の計4人の子供をもうけた。ジョン・ウォーカーは、チャールストン(サウスカロライナ州)において、アンドリュー・ジャクソン(USS Andrew Jackson, SSBN-619) に配属されている間に、お金の遣り繰りに失敗して、すぐに負債に陥ってしまった。[1]

93・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 21:00:43
>>92
スパイ活動
ジョン・ウォーカーは、自分の財政難に取り乱して、ワシントンD.C.にあるソ連大使館のに赴き、1967年12月に、ソ連のスパイを始めた。[6]そして、彼は、週に500ドルから1000ドルの収入になる様に交渉しながら、アメリカの機密扱いの文書(暗号規約)を数1000ドル分売った。[1]ジョン・ウォーカーは、彼が、まず最初にソ連に売った機密扱いのアメリカ海軍の電報が、プエブロ号事件(この事件で、アメリカ海軍の環境調査艦プエブロは、領海侵犯を理由に北朝鮮当局に拘束され、その乗員は、ほぼ1年間捕虜になった。)で、完全に危険にさらしたという根拠に関して、この犯罪行為を弁明した。しかし、環境調査艦プエブロは、この電報が売られた1ヵ月後の、1968年1月に捕らえられた。さらに、ソ連の公文書と以前KGB将校であったOleg Kaluginからの情報を使っているアメリカ陸軍指揮幕僚大学で発表された2001年の論文が、プエブロ号事件が、ソ連が、ジョン・ウォーカーによってソ連に渡された機密文書によって記載された技術を研究したかった為に起こされた可能性を示しいる。[7]
ジョン・ウォーカーは、このスパイ活動に固執した。そして、機密情報の提供で、1ヵ月につき数1000ドルの収入を受けた。[1]ジョン・ウォーカーは、1969年に、ときおり、彼の妻バーバラの援助を受けている時に、更なる援助者を求め始めた。そして、彼は、カリフォルニア州のサンディエゴの通信学校勤務中に、学生であったジェリー・ウィットワースと知り合いになった。[1]ウィットワース、彼は、アメリカ海軍上級兵曹長(SCPO)/上級無線通信士長となって行くのであるが、1973年に、ジョン・ウォーカーが、非常に機密度の高い文書を手に入れる事を援助する事に同意した。[1]部署の移動は、ジョン・ウォーカーが、ソ連が欲っした機密文書を手に入れさせる事を困難にした。しかし、彼は、ウィットワースが、スパイ活動を困難なものにさせない為に、機密文書がアメリカ合衆国の同盟国であるイスラエルに行っていると彼に話す事で、彼が、機密文書を手に入れられ続けられる事を可能にした。しばらくすると、ウィットワースは、機密文書がイスラエルの代わりに、ソ連に行っていると理解した時、彼は、それにも関わらず、1983年にアメリカ海軍を引退するまで、ジョン・ウォーカーに機密文書を与え続けた。1976年に、ジョン・ウォーカーは、彼が、彼の特定の上級将校達が、彼の過去の記録の過ちを調査するのに、余りにも熱心であると思っていたので、彼の秘密事項扱い許可を諦め、アメリカ海軍を引退した。しかし、ジョン・ウォーカーは、彼のスパイ活動を止めなかった。そして、今まで以上に活発的に、情報提供者を自分の子供達や家族の中に捜し求めて行った(ジョン・ウォーカーは、この時には、私立探偵になっていた。)。1984年までに、ジョン・ウォーカーは、彼の兄アーサー・ウォーカー(彼は軍の少佐で退役した。)と彼の息子マイケル・ウォーカー(現役のアメリカ海軍の軍人)を仲間に入れた。[1]ジョン・ウォーカーは、彼の1番下の娘(彼女は、アメリカ陸軍に入隊した。)を仲間に入れようともしたが、彼女が、男性兵士と関係を持ち妊娠して、彼と結婚して、妻と母であることに専念してしまった為、彼女は彼女の軍人としての生活をすぐに止めてしまった。 ジョン・ウォーカーは、それから自分の注意を彼の息子に向けた。彼は、彼の10代の年の多くをふらふらして過ごし、高校を中退した。ジョン・ウォーカーは、彼の息子の保護をしっかりし、彼にスパイ活動の準備をさせる為に、彼の興信所の見習いとして働かせ、それから、アメリカ海軍に入隊させる為に、高校の卒業証書を取らせる様に再び高校に入学の薦めをした。
1990年に、ニューヨーク・タイムズのジャーナリストのJohn J. O'Connorは、「ある情報機関に携わる専門家達は、ジョン・ウォーカー氏が、ロシアとアメリカの間の勢力の均衡を変えるのに十分な暗号規約を提供したと見ている。」と報告した。[8]ジョン・ウォーカーは、後に、彼がどのようにして、それだけの機密情報を手に入れる事が出来たのか尋ねられて、「Kマートは、アメリカ海軍以上の良い保安をする。」と答えている。[9] 2002年に国家対情報局(Office of the National Counterintelligence Executive)で出された報告書に拠ると、ジョン・ウォーカーは、ニューヨーク・タイムズが、彼の収入が、わずか、350,000ドルであると見積もっているにも関わらず、[8]スパイの報酬で100万ドル以上を稼いだと思われている少数のスパイの内の1人としている。[5]ソ連が、アメリカ合衆国が、ソ連のスクリューで生じられる発泡現象(キャビテーション)に拠って、ソ連の潜水艦の位置を追跡する事が出来る事に気付いた事は、ジョン・ウォーカーのスパイ活動のおかげであった。この後、ソ連の潜水艦のスクリューは、発泡現象(キャビテーション)を減らす為に改善された。[10]

94・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 21:03:42
>>93
逮捕・監禁
1985年5月に、FBIは、当時のジョン・ウォーカーの先妻のバーバラに拠って、彼のスパイ活動を通報を受けた。彼は、彼女に扶養手当を払うことを拒否していた。[1]捜査に従って、FBIは、ジョン・ウォーカー、ウィットワース、アーサー・ウォーカーとマイケル・ウォーカーを逮捕した。皮肉にも、ジョン・ウォーカー自身はモンゴメリー郡のモーテルで逮捕された。このモンゴメリー郡のメリーランド州では、彼が、人々を不貞事件に巻き込ませる計略を頻繁に行っていた。彼らのホテルの部屋に電話をかけて、彼らの車が事故で攻撃されたと彼らに話していたのである。[1]バーバラ・ウォーカーは、事件の究明をする事が彼女の役割であるが為に、起訴されなかった。[1][5]以前KGB職員であったVictor Cherkashinは、しかしながら、彼の著書の『Spy Handler』において、ジョン・ウォーカーは、Martynovと言う名のFBIのスパイによって危うくされたと述べている。Martynovは、モスクワで偶然に会話を耳にした。そして、Victor Cherkashinは、ジョン・ウォーカーの裁判の文書では、Martynovが、ジョン・ウォーカーの体裁の妥協で、重要な役割を演ずると述べていたと論じている。[11]
ジョン・ウォーカーは、捜査当局とは協力をした。そして、司法取引において、彼は服従の信念と終身刑を受け入れ、彼のスパイ活動の詳細の完全な開示を提供し、彼の息子が、わずか25年の投獄の判決しか受けないという保証を検察官から約束を受ける事と引きかえに、ジェリー・ウィットワースに対して証言することに同意した。[2][12]マイケル・ウォーカー以外の他のスパイ組織のメンバー全員は、スパイ活動での彼らの役割での終身刑を受け入れた。ジェリー・ウィットワースは、彼の罪に対して、懲役365年を宣告されて、410,000ドルの罰金を科せられた。ウィットワースは、2048年まで仮釈放には不適格である。ちなみに、その頃では、彼は111才である。
ジョン・ウォーカーの息子マイケル・ウォーカー(彼は、スパイ組織の中では、比較的に重要でない役割であり、減刑の判決と引き換えに証言する事に同意した。)は、2000年2月に、仮釈放で刑務所から解放された。[1]
ジョン・ウォーカーは、現在、行刑局(BOP)の囚人番号22449-037であり、United States Medical Center for Federal Prisoners(MCFP)に投獄されている。彼は、糖尿病とステージIVの喉頭癌に苦しめられていると言われている。彼の最も早い可能性のある仮釈放の日は、2015年5月20日である。その時点では、彼は、懲役30年と言う事になる。[13]

95・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 21:06:05
ジョン・ウォーカー・ジュニア・スパイ事件

「防衛取得研究」(第一巻 第一号)(平成19年06月)<PDF>
070630aquisionresearch_spring
http://www.bsk-z.or.jp/kakusyu/pdf/070630aquisionresearch_spring.pdf

米海軍スパイ事件の教訓

主任研究員高知尾隼

はじめに
 本事件が明らかになって既に20年以上が経過したが、事件の全容を紹介している「FAMILY OF SPIES」の日本語の翻訳本がないためこれを抄訳し、併せて当事件から教訓を導き、防衛省職員及び防衛関連企業関係者の秘密漏えい防止に資することをねらいとする。

1 事件の概要
 本事件は、1967年、当時米海軍准尉であったジョン・ウォーカーが、ソ連大使館に暗号規約を持ち込み、以後退役まで現金と引換えに暗号規約、暗号機のテクニカルマニュアル、米海軍の作戦基本計画等を提供し、1976年退役後は、海軍の友人ジェリー・ウィットワース、兄アーサー・ウォーカー及び息子のマイケル・ウォーカーから引き続き海軍の情報を盗ませ、ソ連に渡すことにより、米国の国防のバックボーンに大打撃を与えた。
 離婚していた妻バーバラが、1984年末、FBIにジョンのスパイ行為を通報し、翌年一味は逮捕された。
 この間に、米海軍の100万通の電報が解読されたといわれる。

2 ソ連との取引
 1967年4月、ジョンは当直中に第2次大戦から最もよく使われている暗号機KL-47の暗号規約を複写し、当直明けにワシントンにあるソ連大使館に赴き、これを渡すとともに暗号機等の情報を提供できることを申し出た。
 後日バルチモアの路上での会合で、ジョンはベトナム戦争で使用していた暗号機KW-7と暗号規約、水中固定機器(SOSUS)等に関する資料を提供できることを、ショッピングリストとしてKGBエージェントに手渡した。
 KGBは、情報資料は複写によることなく、ソ連側が用意するMinoxカメラで撮影すること、情報資料及び現金の授受は、デッド・ドロップ(情報提供者が情報を、工作員が現金をそれぞれ指定地点に置き、お互いが顔をあわせることなく持ち去る)によることをメモ書きした紙きれを手渡した。(ジョンの逮捕までにデッド・ドロップは30回に及んだ)
 ジョンは退役までソ連にKW-7等の暗号規約を半年に1回程度渡していた。(ソ連は、傍受電報をテープに録音しておき、数か月遅れで解読していたと考えられる。)その他、米ソ間の戦争開始時の米海軍の攻撃基本計画、SOSUSのマイクロフォンの敷設位置、沈没した米原子力潜水艦スコーピオンの捜索情報等が渡されている。

3 海軍の友人ジェリー・ウィットワースのリクルート(スパイ組織への引き込み)
 1974年ジョンは退役後の情報提供者として、サンディエゴの通信学校勤務中に知り合ったジェリーに、ユダヤに秘密を売れば月4千ドルになると持ちかけた。
 ジェリーは1976年から1983年の間、インド洋のディエゴワルシア基地や空母エンタープライズから、KW-7暗号機や新しい暗号機の技術情報や暗号規約を持ち出し、ジョンに渡していた。
 これらは米海軍にとって最大の被害であったと連邦検事は述べており、ジェリーの情報に対するソ連の支払いが、月1万ドルに上っていたことからも情報の重要性が理解できる。

4 兄アーサー・ウォーカーのリクルート
 アーサーは、海軍少佐で退役後、1975年からジョンの資金援助を得てカーステレオ販売店を経営していたが、1979年に倒産した。
 アーサーは海軍と最大の取り引きを持つVSE社に勤務し、ノーフォークでの艦艇のオーバーホールに関する仕事に従事していた。
 ジョンは、ジェリーだけに情報を頼ることに不安を持ち、アーサーを仲間に引き込むことを考え、1980年、過去の資金援助の見返りに、アーサーに秘密区分のない資料をコピーするように要求した。ジョンは、この資料に対し4千ドルを支払い、以後秘密資料を提供するよう要求した。
 第7艦隊旗艦ブルーリッジのダメージ・コントロール・ブックや強襲揚陸艦の技術資料及び両用戦艦艇の過去5年間の故障発生に関する情報がソ連に渡された。

5 息子マイケル・ウォーカーのリクルート
 マイケルは、ジョンとバーバラの4人の子供の末っ子であり、父を一番よく慕っていた。ジョンは情報源を確保するため、マイケルを海軍に入隊させた。
 ジョンはマイケルが空母乗組みになると、他の乗員が家族にしているように長期行動について知らせるよう言い含め、さらに複写した秘密文書に1か月5千ドル払うと持ちかけた。
 F-14戦闘機、トマホークミサイル、スパイ衛星及び新型機雷に関する資料が空母ニミッツから持ち出されたが、ソ連に渡ったかは不明である。

96・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 21:08:56
>>95
6 スパイ活動の暴露
 バーバラは、1976年に離婚した後、ジョンが子供の養育費を一度も払ってくれないこと、及びスパイをさせる目的で長女のローラを海軍に入隊させようとしていること等から、1984年11月、FBIボストン支所に電話をして援助を求めた。
 バーバラは、FBI担当官に直接会い、ジョンと共にワシントン郊外でデッド・ドロップをしたことを話した。担当官は、バーバラがアル中であること、ジョンは1976年に退役しスパイをしているか疑わしいことから、これ以上の調査は必要なしと判断した。
 1985年春、この報告はノーフォークFBIにもたらされた。バーバラがポリグラフにパスしたことからFBIはバーバラの訴えを取り上げ、スパイのパートナーがアーサー・ウォーカーとジェリー・ウィットワースであることを知る。バーバラは、息子のことについては話をしなかった。

7 ジョンの追跡と逮捕
 FBIは裁判所の許可を得て電話傍受を行い、1985年5月19日夜ワシントン郊外でKGBとジョンの会合が行われるものと判断し、ワシントンへ向かうジョンを飛行機と車で追跡した。ジョンは、19日夜ワシントン郊外の指定場所にマイケルが空母ニミッツから盗んだ129件の秘密文書を入れたバッグを隠したが、FBIに押収された。KGBのドロップ地点には現金入りのバッグは置かれていなかった。ジョンはワシントン郊外のモーテルに入ったが不安を感じ、持っていたデッド・ドロップの指示書を部屋の外に隠そうと通路に出たところを、張り込んでいたFBIに逮捕された。
 FBIは、ジョンがデッド・ドロップしたバッグ内に、ニミッツに関係する秘密文書のコピーを発見した。このためイスラエルのファイファに入港中のニミッツに対し本国から電報による指示が出され、ジョンの逮捕8時間後にマイケルは憲兵事務室に連行された。
 アーサーは、ジョンの逮捕4時間後に、ジェリーは5時間後にそれぞれ自宅で逮捕された。

97・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 21:11:53
>>96
8 教訓
(1)勤務評定
 ジョンは、1967年ソ連大使館に暗号規約を持ち込む以前はまじめであったと評価されているが、スパイ行為を始めた時期は全く勤務意欲をなくしていたという評価がなされている。これは、デッド・ドロップする時の緊張感と、実施後バレるかも知れないという、不安感が常につきまとっていたものと考えられる。
 上司が部下の勤務態度に異常を感じたら話し合う機会を持つ等、一歩踏み込んだ監督指導が必要である。
(2)生活態度
 ジョンはスパイ行為に慣れてくると金遣いが荒くなり、ノーフォーク郊外に豪邸を建て、若い女性を連れて週末は遊び回っていたが、上司は異常な生活態度に全く気付かず、また同僚はうすうす気付いていたが、上司に報告することもなかった。
 ジェリーについては、秘密の電報を許可なく複写したり、個人更衣ロッカーの中で秘密の書類を見たり、秘密の資料を家に持ち帰ったのを同僚が目撃していた。
 「何かおかしい」と思いつつ報告を怠ることは、問題が生じた後で後悔する原因となる。積極的に報告をさせる手段としての「仕組み」が必要である。
 米国では、1995年「大統領令:秘密情報に対するアクセス」が制定され、政府職員に対しセキュリティ上の問題点についての報告義務を求めている。
(3)秘密情報の持ち出し
 KGBは、秘密文書は複写によることなくMinoxカメラでの撮影を指示しているが、フィルムはかさばらないので艦艇からの外出時あるいは隊から帰宅する時に、とがめられる可能性は少なく、また、いざという時に処分しやすい利点がある。
 今日ではデジタル・カメラや携帯電話で接写ができ、直ちに送信できる機能もあるので、情報を扱う職場にこれらを持ち込ませてはならないし、会社の入出時にも持ち物の検査を実施すべきである。
(4)資格審査
 空母ニミッツでの幕僚庶務室勤務では、SECRETクリアランスが必要であったが、マイケルのチェックはなされなかった。後にFBIと海軍保全担当局によって、ニミッツの保全違反が指摘された。
 マイケルは、不要になった秘密文書を焼却袋に入れて作戦室の奥にある空調室へ行くことを許されており、艦載機の発着艦がない日の夜中に一人で焼却を行っていた。
 また、マイケルは作戦室に備えられている艦内電話帳に、金庫のダイヤル番号が記入されているのを見つけ、誰もいない時に金庫を開けて秘密文書を複写していた。
 秘密の取扱者に資格審査を受けさせること、秘密文書の破棄の手続き等、決められた事項を遵守する必要がある。
(5)被害対策
 1968年1月23日、米情報収集船プエブロ号が北朝鮮沖の公海上で拿捕され、KW-7暗号機が没収された。今日、KW-7暗号機はソ連に渡ったと信じられているが、当時NSA(国家安全保障局)は、KW-7を廃止することなく、機器及び規約に一部変更を加えて対処したのみであった。この変更内容は、ジョンによりソ連に知らされており、米海軍の電報100万通が解読されたとみられている。
 米国がベトナム戦争に敗れた原因の一つとして、暗号が解読された結果、米軍の爆撃効果があがらなかったことが挙げられている。
 情報の漏えいやそのおそれがある場合、被る被害については、最大のものを想定して対処する必要がある。

おわりに
 アメリカ人がスパイになる動機は、金を求めて自ら情報を売りにいくケースが大部分である。一方、日本人のスパイは、就職の依頼、卒業論文に必要な資料の入手等、善良な気持ちで外国人と関係し、プロの工作員にリクルートされてしまうという例が多い。日本人はスパイに対して、免疫力がないと言える。
 したがって、管理責任者が管理者に対して、スパイの脅威、保全手続き・規則及び部下の指導監督法について教育し、現場の実務担当者まで徹底を図り、強固な保全組織を作り上げる必要がある。

98・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/08/09(月) 08:45:57
「癒着」って、いったい何のことだったんだろう? :イザ!
http://sarahctr.iza.ne.jp/blog/entry/1648662/

「癒着」って、いったい何のことだったんだろう?
2010/06/11 18:54



金大中拉致事件がKCIAの犯行と発表してアメリカに亡命した韓国人ジャーナリスト文明子と、米国務省韓国部長ドナルド・レイナードは、拉致事件が政治決着した裏で、田中首相にワイロが渡ったことを暴露した。


アメリカに亡命、後にフランスで失踪(拉致殺害説あり)した元KCIA部長金炯旭は米下院公聴会で、金大中拉致事件の首謀者がKCIA部長李厚洛であること、李厚洛の朴正煕政権の政治資金調達に日本企業が深く関わっていることを証言した。


在米韓国広報官長李在鉉(アメリカに亡命)の告発によって、円借款で行われたソウル地下鉄建設計画に絡んで、新韓碍子と日商岩井との関係、車両契約を受注した日立製作所のリベート問題が発覚した。

ロッキード事件に前後して相次いで表面化した、韓国の政治家や情報機関、財閥と、日本保守政界と政商、利権右翼、企業グループの癒着構造を「日韓癒着」と呼ぶ。

日韓癒着の起源は、朴正煕政権の発足直後にさかのぼる。
日韓条約締結交渉は、竹島の領有権や戦後補償の額をめぐって何度も決裂したが、韓国の密使が児玉誉士夫に接触したことで、10年以上続いた交渉は急転直下妥結した。


自民党内の反対派を説き伏せるのにどれだけの金が闇で動いたのかは見当もつかない。条約締結で、岸派・佐藤派と伊藤忠商事が、賠償利権を手中にした。伊藤忠の瀬島龍三と朴正煕は陸士の先輩後輩の間柄である。

かつてフジサンケイグループ総帥の鹿内信隆(元陸軍)は、朴正煕との対談番組で「日韓癒着と騒がれているのは、日韓の傷口が癒されている証拠だ」と揚言した。元産経新聞社員で、許永中事件に連座して逮捕された「政財界のフィクサー」こと福本邦夫は、産経退社後、政治家秘書として国際勝共連合の結成に関与したという。


現在も、フジテレビ社長村上光一は統一教会信者と噂され、産経新聞主筆住田良能はKCIAエージェントと噂されている。

「日韓癒着」は戦後日本のコアの部分だ。朴正煕は日本を腐らせた。

99・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/08/10(火) 16:54:17
「二千年の恋」いろいろ
http://www5b.biglobe.ne.jp/~sasasan/love2000_etc.html

佐伯刑事の両親が亡くなった
テロ事件のモデルになったと
思われる実際のテロ事件

1974年(昭和49年)8月30日
東京・丸の内の三菱重工業(株)本社ビルの
玄関入口近くに仕掛けられた時限爆弾が爆
発し、通行人8人が死亡、385人が重軽傷を
負いました。1ヶ月後「極左グループ東アジア
反日武装戦線・狼」が犯行声明。
連続企業テロの最初の犯行。

佐伯刑事の生年月日と本人が
語った「明日で夏休みも終わるな
あという日だった」という言葉から、
この事件と思われます。


「虹作戦」

「三菱重工爆破事件」の半月前の1974年8月14日に、
「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」が、
昭和天皇が乗る「御召」列車を爆破する「虹作戦」
を立てるが未遂に終わる。
このときの爆弾が、「三菱重工爆破事件」に使われる。

1999年に、映画監督の渡辺文樹が「虹作戦」をモデルとして、
映画『腹腹時計』を制作する。

日本赤軍と東アジア反日武装戦線
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm


「文世光事件」

1972年9月29日に、中国の毛沢東と
日本の田中角栄が日中国交正常化を行い、
大東亜が中国共産党・朝鮮労働党等と
親密になっていっている時に、
在日韓国人の文世光が、
大阪湾に入港している北朝鮮の万景峰号の船内で、
朝鮮労働党の工作員から、
韓国大統領の朴正煕射殺の指令を受け、
大阪府警南署高津派出所で拳銃2丁を入手し、
韓国に入国して、
1974年8月15日に実行するが未遂におわる。

しかし、朴正煕の夫人の陸英修など2名が射殺される。

「三菱重工爆破事件」は、
「虹作戦」を失敗してしまった
「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」が、
「文世光事件」に影響されて行われたとも言われている。

1979年10月26日、韓国大統領の朴正煕は、
側近のKCIAによって暗殺される。
瀬島龍三(二階堂洋介)と朴正煕は陸士の
先輩後輩の間柄であった。

100・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/08/11(水) 13:28:42
>>99
訂正→>>101

101・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/08/11(水) 13:30:03
「二千年の恋」いろいろ
http://www5b.biglobe.ne.jp/~sasasan/love2000_etc.html

佐伯刑事の両親が亡くなった
テロ事件のモデルになったと
思われる実際のテロ事件

1974年(昭和49年)8月30日
東京・丸の内の三菱重工業(株)本社ビルの
玄関入口近くに仕掛けられた時限爆弾が爆
発し、通行人8人が死亡、385人が重軽傷を
負いました。1ヶ月後「極左グループ東アジア
反日武装戦線・狼」が犯行声明。
連続企業テロの最初の犯行。

佐伯刑事の生年月日と本人が
語った「明日で夏休みも終わるな
あという日だった」という言葉から、
この事件と思われます。


「虹作戦」

「三菱重工ビル爆破事件」の半月前の1974年8月14日に、
「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」が、
昭和天皇が乗る「御召」列車を爆破する「虹作戦」
を立てるが未遂に終わる。
この時に使う予定だった爆弾が、
「三菱重工ビル爆破事件」に使われる。

1999年に、映画監督の渡辺文樹が「虹作戦」をモデルとして、
映画『腹腹時計』を制作する。

日本赤軍と東アジア反日武装戦線
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm


「文世光事件」

1972年9月29日に、
中国の毛沢東と日本の田中角栄が日中国交正常化を行い、
大東亜政府が中国共産党・朝鮮労働党と
親密に向かっている時に、
在日韓国人の文世光が、
大阪湾に入港している北朝鮮の万景峰号の船内で、
朝鮮労働党の工作員から、
韓国大統領の朴正煕射殺の指令を受け、
大阪府警南署高津派出所で拳銃2丁を入手し、
韓国に入国して、
1974年8月15日に実行するが未遂におわる。

しかし、朴正煕の夫人の陸英修を含む2名が射殺される。

「三菱重工ビル爆破事件」は、
「虹作戦」を失敗してしまった
「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」が、
「文世光事件」に影響されて行われたとも言われている。

1979年10月26日、韓国大統領の朴正煕は、
側近のKCIAによって暗殺される。
瀬島龍三(二階堂洋介)と朴正煕は陸士の
先輩後輩の間柄であった。

102・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 10:44:17
>>21
訂正→>>46-47

>>23-25
訂正→>>88-89

>>26-27
訂正→>>101

>>29
訂正→>>50-53

>>30-31
訂正→>>90


以下のスレの削除は可
>>21>>23-27>>29-31>>42-43>>45>>99-100>>102

103・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 12:07:35
國民新聞(平成11年1月)あの瀬島氏が「日本戦略研究フォーラム」を企画
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H11/1101/110113sejima.html

110113    あの瀬島氏が

「日本戦略研究フォーラム」を企画



 戦中は大本営、戦後シベリアからの帰国後は財界、中曾根
政権以降は政界の、それぞれ「参謀」としての道を歩んでき
た瀬島龍三伊藤忠商事特別顧問が国家戦略研究のため、日本
戦略研究フォーラム設立へ向けて動き出した。

 設立趣意書によれば、わが国の21世紀における国家戦略
確立へ向けて、政治、経済、軍事、科学技術分野に重点を置
いた研究を行う。

発起人には、

自由党の小沢一郎 党首、
 自民党の中山太郎 元外相、
 樋口廣太郎 アサヒビール会長、
 小田村四郎 柘植大学総長、
 田久保忠衛 杏林大学教授、
 岡崎久彦 元駐タイ大使

 らが名を連ねている。

抑留や東京裁判証人、ソ連(ロシア)との関係などで
さまざまに論評される瀬島氏だけに危ぶむ人々も。

104・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 12:53:29
瀬島龍三氏の米寿祝う会に小渕首相、小沢党首ら勢ぞろい
http://www.asahi.com/1211/news/politics11009.html

1999年12月11日

中曽根康弘元首相のブレーンで、伊藤忠商事特別顧問の瀬島龍三氏の「米寿」を祝う会が11日夜、東京都内のホテルで開かれ、小渕恵三首相、自由党の小沢一郎党首、橋本龍太郎前首相、中曽根氏らが顔をそろえた。瀬島氏は戦前、関東軍参謀を務め、戦後は伊藤忠商事に入社。政界【と陰謀界】にも知己が多い。
瀬島氏はかつて臨時行政調査会や臨時教育審議会の委員として、民間の立場から行政改革や教育改革の推進役を務めた。
あいさつした中曽根氏が瀬島氏とともに進めた行革の思い出話を語り、小渕首相も「教育改革が非常に大事だ。中曽根元首相、橋本前首相がやり残した仕事に力を尽くしていきたい」と語るなど、「改革」話に花が咲いた。

105・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 14:17:34
>>104
訂正→>>106


以下のスレ(のレス)の削除は可
>>21>>23-27>>29-31>>42-43>>45>>99-100>>102>>104-105

106・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 14:19:26
瀬島龍三氏の米寿祝う会に小渕首相、小沢党首ら勢ぞろい
http://www.asahi.com/1211/news/politics11009.html

1999年12月11日

 中曽根康弘元首相のブレーンで、伊藤忠商事特別顧問の瀬島龍三氏の「米寿」を祝う会が11日夜、東京都内のホテルで開かれ、小渕恵三首相、自由党の小沢一郎党首、橋本龍太郎前首相、中曽根氏らが顔をそろえた。瀬島氏は戦前、関東軍参謀を務め、戦後は伊藤忠商事に入社。政界にも知己が多い。

 瀬島氏はかつて臨時行政調査会や臨時教育審議会の委員として、民間の立場から行政改革や教育改革の推進役を務めた。

 あいさつした中曽根氏が瀬島氏とともに進めた行革の思い出話を語り、小渕首相も「教育改革が非常に大事だ。中曽根元首相、橋本前首相がやり残した仕事に力を尽くしていきたい」と語るなど、「改革」話に花が咲いた。

107・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 19:51:45
チャンネル桜 旧掲示板スレッドツリー
http://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=51691&page=1&genre=sougou

山下奉文大将終焉の地 慰霊碑修復計画

チャンネル桜開設準備室 [ホームページ] 2004-07-29 18:22:42 No.51691
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チャンネル桜ONLINETVに集われる皆様にお知らせ申し上げます。

 私ども株式会社ウィンズインターナシヨナルは、四月六日、100パーセント出資の子会社株式会社日本文化チャンネル桜(資本金二億円、放送開始時に五千万円増資)を設立いたしました。この会社は衛星デジタル放送「日本文化チャンネル桜」の事業主体であり、八月十五日に開局を目指しております。

 さて、本日、この告知を掲載させていただきましたのは、フィリピン共和国、ロスバニョス州・バランガイ・ティモスにあります陸軍大将山下奉文閣下終焉の地における慰霊碑修復についてであります。当地は、山下将軍がフィリピンにおける戦いの罪を不当にも問われ、その全責任を負わされる形で、軍人として屈辱的な「絞首刑」に処せられた場所です。

 山下閣下は勇猛果敢な戦いぶりから「マレーの虎」と称せられた世界的な名将軍であり、同時に、その武勇と共に人情に厚く高潔なお人柄から、多くの人々から慕われた人物です。しかし、将軍の御遺体は、祖国日本に返されぬまま、フィリピンの何処にか埋められたまま、行方知れずとなっています。つまり、この終焉の地が山下閣下のいわばフィリピンにおける「御墓」とも言えるのであります。

 ご遺族や関係者の皆様が建立された慰霊碑やその周辺も、数十年の時が過ぎ、荒れ果てたままになっております。

 先人の血と汗のおかげで、今日の平和と繁栄があることを考える時、私たち日本人にとって、この状況はまことに悲しむべき事態であり、山下閣下慰霊碑の荒れようは、私たち戦後日本人の精神的荒廃の表れでもあるように思われます。

チャンネル桜開設準備室 2004-07-29 18:23:18 No.51692
--------------------------------------------------------------------------------
 私たちは、微力ながら、山下将軍閣下慰霊碑の修復を決意しました。日本文化チャンネル桜の開局を控え、私たちの開局への決意と散華された英霊への感謝と崇敬の念を表すためにも、この修復を記念事業として行うことを決め、実行に移しました。幸いにもマニラ在住の日本人建築家野沢氏のご協力により、慰霊碑とその周辺の修復計画と設計図、見積もり等を作成していただきました。また、当地の土地所有者のポンス・バトゥガル氏は、私たちの意図に賛同していただき、慰霊碑周辺の土地約七百五十平米を当地のバランガイにご寄付していただくこととなりました。

 慰霊碑付近には掲示碑が建立されますが、元陸軍参謀瀬島龍三氏の揮毫によって「将軍山下奉文この地に眠る」と刻印されます。既に日本から刻印済みの石碑が送られております。工事も無事開始され、順調に進められ、今月末にはほぼ完成される見込みです。

 本年八月十五日には、在フィリピン日本国特命全権大使高野閣下参列をいただき、除幕式を行う予定であります。

  山下将軍終焉の地慰霊碑の修復に賛同いただける日本人の皆さん、あるいは、企業の皆様、是非、私たちの趣旨にご賛同いただき、ご協力とそのお志をお願い申し上げる次第であります。


   ご協力金 一口 10、000円 (何口でも可)

   振込み先 東京三菱銀行 渋谷明治通支店

        口座 株式会社日本文化チャンネル桜
                  山下大将慰霊碑


ご寄付をいただいた方のご芳名は、付近に建立いたします掲示碑内に収める奉加帳に記され、末永く保存させていただく予定であります。

 尚、見積もり表の数字は、最低限の費用で出来る限りの修復を為そうとするものであります。もし、ご賛同の金額が予算を超えれば、名将軍に対してさらに相応しい施設を造成する所存であります。また、隣接する文人将軍本間雅晴中将の慰霊碑等の修復も出来ればと考えております。また、これからの維持管理は、私たちがチャンネル桜が責任を持って行います。

重ねまして、皆様のご協力をお願い申し上げます。


      山下奉文将軍慰霊碑修復委員会
      株式会社日本文化チャンネル桜
      株式会社ウィンズインターナショナル
                        代表  水島 総

108・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/09(木) 15:21:22
写真館「著名人・芸術関係」22
http://www.morimuraseiichi.com/shashinkan/b/20-005.html

角川春樹「復活の日」祝宴会

左・松任谷由美氏、右・角川春樹氏。
撮影・森村

右・元伊藤忠会長・瀬島龍三氏。

左・大林宣彦監督。

左・渡瀬恒彦氏。

左・崔洋一監督。

左端・紀伊國屋書店会長松原治氏、2人目・ジョー山中氏、右・辺見じゅん氏。

109・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/09(木) 15:23:58
HORI AKIRAマッドサイエンティストの手帳
http://www.jali.or.jp/hr/mad6/mad305-j.html

『マッドサイエンティストの手帳』305

●マッドサイエンティスト日記(2004年6月後半)

主な事件
 ・角川春樹「復活の日」祝宴会(24日)

2004年

6月24日(木)

 夕刻、ホテル・ニューオータニ「鳳凰の間」へ。
 角川春樹「復活の日」祝宴会。
 発起人代表は森村誠一さんである。一昨年の小松左京賞の時に、「真の祝賀会を会費10万円でやろう」と話されており、もし森村さんが本当にやられるなら必ず参加すると決めていたのである。まあ、それくらいおれは森村ファンになってしまったのである。(ちなみに角川春樹氏と直接話したことはない)
 会場前で井上雅彦氏に会う。母上が交通事故でこの数ヶ月、世話がたいへんだったという。大腿骨骨折も含む大けがらしい。お互い似たような事情なんだなあ。
 会費は10万円よりは桁違いに安かった。
 入り口廊下に長い行列。春樹氏自身が森村さんと並んでの出迎えで、挨拶する人が多いのであった。
 司会がなんと三遊亭円窓師匠。俳句の縁らしい。こういう人なんだよ。『御乱心』の愛読者としてはなぜかおかしいのであった。
  
 最初に「親代わり」の後見人・瀬島隆三登場、92歳のはず。源義氏に同郷のよしみで「遺言」として頼まれたのだとか。
 「不良性」側の友人代表として北方謙三氏が挨拶。
 そして角川春樹氏本人の挨拶。「2年5ヶ月と3日」この間に練り上げた戦略で、これから社員「四十七士」とともに世界制覇に乗り出すという。いったい何が始まるのか、この構想の一端も語られた。
 こりゃ熊谷守一とは対極のメンタリティ。まさに風雲児の「復活日」である。
 広い会場、超満員といっていい盛会。
 小松左京さん、筒井康隆さん、眉村卓さんが揃っているというのも久しぶりではないかなあ。
 他に会ったのは、覚えているだけで、山田正紀、田中光二、野田昌宏、南山宏、朝松健、大多和伴彦、荒俣宏、機本伸司、新井素子、今野敏の各氏……他にもまだまだ色々な人に会ったと思う。
  
 写真は初対面(というか初めてしゃべった)朝松健さん、樋口明雄さんら。それに機本さんと荒俣さんという組み合わせも珍しい。
 会場、さすがにえらい人があちこちに。大林宣彦氏や津川雅彦氏の顔も。
 ジョー山中が登場して2曲。久しぶりであるなあ。
 あとでなんとユーミンも登場(ここでは撮影禁止のアナウンスがあった)。
 なんやかやで21時半頃にお開きとなった。
 森村さんの挨拶で終わり、また出口でお見送り。
 
 ミーハー的に森村ファンとして記念写真をお願いした。快く応じていただいた。
 わが森村ファン度、ますます上昇である。
 二次会はしんどいので、まっすぐ隠れ家に帰る。
 23時頃に帰るというボンクラ息子その1のために食事の用意。居候としては、これくらいのサービスをしておかなくては。

110・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/09(木) 15:25:46
日刊リウイチ2004・6下
http://www.asahi-net.or.jp/~WF9R-TNGC/nikko200463.html

縮刷版2004年6月下旬号

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 【6月24日】

 仕事をやり倒してから「ホテルニューオータニ」で開かれた角川春樹さんの出所パーティー、と呼べば呼べるけどここは優雅に「復活の日」と読んだイベントへと出席。取材とゆーよりSF系からの観察とゆー立場だったけど来る人訪れる人の豪華さに、さすがは業界にその名を轟かせ、今なお強い影響力を持つ人物のパーティーだと強く激しく納得させられる。友人代表として挨拶にも立った北方謙三さんに親代わりな紀伊国屋書店の松原治会長にやっぱり親代わりの日本陸軍元参謀にして現在はNTT顧問の瀬島龍三さんをトップスリーに、小松左京さんやら町田康さんやら津川雅彦さんやら崔幼一さんやら富野悠由紀さんやら大林信彦さんやら井上やすしさんやら渡辺淳一さんやら新井素子さんやら山田正紀さんやら、なにやらかにやら近寄ればその後光に身もすくむ人たちばかりでそんな人たちを間近に見られたこの会合、会費1万5000円は払って全然惜しくない額だった。

 もちろんそーした有名な人に出会えたってこともあるけれど、それよりもむしろ価値があったのは角川春樹さんてゆー、日本の出版史上に燦然としてその名を刻むだろー人の、かくも大きな転機となったイベントに居合わせられたってことの方。還ってきたと挨拶し、これからも不良であり続けると宣言し、47人の角川春樹事務所の社員を率いて株式公開を目指し、それどころか世界制覇すら目指しているんだと宣言した場に居合わせられたことは将来においてきっと、強い思いでとなって一生のうちの幾ばくかのページを飾るだろー。一時期体調も危ぶまれ、激痩せも目立って余命に不安を感じたけれど、2年5カ月と3日ぶりに世に出てからのアグレッシブな活動ぶりとも重なって、顔色は良く艶も張りも出て入獄直前に見た時よりもはるかに健康になっている感じ。このままだと軽くあと10年20年は生きて角川春樹事務所を引っ張って行きそーで、大言壮語に聞こえないこともない”世界制覇”もあながち夢物語で終わらないかもしれない。さてどーなるか。何をやらかしてくれるのか。もー1度くらい「SFセミナー」に呼んでくれないかな。でも「SFの時代」って言ってくれるとも限らないか。何の時代? やっぱ「グルメ」なのかな。グルメ文庫創刊だそーです。

 帰りがけにもらった包みに「週刊読書人」の6月25日号が入っていて開けるとそこに角川春樹インタビュー。末尾に「我は神なり。神は我なり。神、我とともにあり」って言葉もあって相変わらずの超然ぶりが伺える。出所して翌日に出社して人事異動を断行だなんて普通の経営者じゃー出来ないよ。受ける側は戦々恐々だろーけど、獄にあってもそれだけ見てたんだってことが納得出来る人事だったら文句も言えないだろー。どこにあっても見ている人は見ていてそれを即座に断行する。人の上に立つもののそれが当然の資質って奴なんだろー。そんな人の下で働ける人たちが羨ましい。同じ「週刊読書人」には歌人の枡野浩一さんのコラムもあって新人歌人の脇川飛鳥さんを紹介していて写真も載ってて脇川さんなかなか美人っぽい。でも紹介が「体育会系」。性格が体育会? それとも武力が体育会?

111わかりません:2012/01/22(日) 09:33:03
本番OKらしいです(人・ω・)★ http://www.64n.co/


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