したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

瀬島龍三《真正売国奴》スレッド

1カマヤン[TRACKBACK]:2004/10/16(土) 21:14
瀬島龍三関連情報を、整理してみます
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1037310426/r589-599

2カマヤン[TRACKBACK]:2004/10/16(土) 21:22
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1037310426/r592
宮脇磊介は、瀬島龍三の関係者か…

「ヤクザ不況」を言い出したのは宮脇磊介だから、「ヤクザ不況」関連情報は
もう一枚裏があると仮定するべきなのか…
何が隠蔽されているんだろ?

3カマヤン:2004/10/16(土) 22:55
「南京事件」と、本宮ひろしのマンガへの「抗議」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/535/1038323808/361-379

4・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/10/16(土) 23:24
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yamashita.htm
「山下奉文大将終焉の地 慰霊碑修復計画」 に異議あり
 チャンネル櫻で紹介されている http://www.ch-sakura.jp/ 
 「山下奉文大将終焉の地 慰霊碑修復計画」を見たが、どうして揮毫が瀬島元大本営参謀なのか?
 そもそもフィリピン戦があのような惨憺たる戦いになった元凶は、当時大本営参謀であった
瀬島氏(陸士44期)が、鹿屋に派遣されていた堀栄三参謀(陸士46期)の、昭和19年10月に
フィリピン戦のさきがけとして行われた台湾沖航空戦の戦果誤認訂正電報 (堀参謀は海軍の
戦果発表に疑問を抱き、独自に調査した結果、海軍の戦果発表は全くの誇大である事実 
<註1・これを元にフィリピン戦を行えば確実に齟齬が生じる> )を大本営に打電した。
(海軍自体も後に戦果誤認に気がついたが、間違った過大な戦果が既に上聞に達した=
天皇陛下のお耳に入ったという理由で訂正しなかったのであるから、当然一義的な責任は
海軍であるが)   註2 参考 下記へ
 瀬島氏がその電報を握り潰したせいで、連合軍の艦隊は壊滅状態という海軍のでたらめな発表を
元にフィリピン戦の作戦が立てられ、あのような大東亜戦争で最大の犠牲をもたらし、フィリピン国民
にも多大な迷惑をかけたのである。(註3)
 ワイフは昨年の交通事故以来、体調が回復せず、なかなか田舎に帰れないので資料が手元になく、
正確な前後の記述や状況は省略するが、前出堀栄三氏とともに大本営参謀であった朝枝繁春氏
(陸士45期)の数々の自筆の証拠等も実家の複数の箇所に保存してある。
 瀬島氏はシベリア抑留から帰った後で、堀氏に対して上記の電報握り潰しの件がシベリア抑留中も
一番気にかかっていたと、抑留から帰り多分まだ何の地位も名誉もない一番しがらみのない人間
らしい状態の時にはっきり伝えている(詫びている)。
 世上、シベリア抑留中の態度を評して、瀬島=悪、草地(草地貞吾元関東軍高級参謀・大佐)=善、
のような見方が横行していますが、シベリア抑留中の態度はどちらかといえば個人の態度です。
瀬島氏も草地氏も責任をとるべきは戦争中、大本営参謀なり高級参謀であった時期のミスであるはず。

5・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/10/16(土) 23:25
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yamashita.htm
草地に関しては私のホームページ( http://www3.to/gwife
 (シベリア立法推進会議のなぜ「今シベリア抑留」か? )で下記のように既に少し触れているが、

>このような悲惨なことになったのも草地貞吾を始めとする関東軍の高級参謀が、
>チタ等の特務機関からの情報(ソ連の侵攻は夏ごろ)を分析もせずに、ただ「ソ連
>の侵攻は秋になってからであってほしい」という何の根拠もない希望的観測にす
>がっていたからである。これではまるで宗教である。こんな無能の輩が戦後復活
>した軍人恩給ではのうのうと高額を貰いながら、自分の格好付けの文章を書いて
>いた。日本の敗戦の原因の一斑は間違いなく、陸軍も海軍も無能な高級軍人の
>責任である。

 瀬島氏は関東軍へは終戦間際に皇族軍人の代わりに派遣されたので、こと戦時中の責任といえば、
瀬島氏の場合は、フィリピン戦に関しての責任をこそ問われるべきなのである。
瀬島氏がシベリア抑留関連について努めて毀誉褒貶の「毀」「貶」に弁明しないのは、ワイフから
見ればもっと大きなフィリピン戦のミス隠しと映る。
 山下奉文将軍が戦犯とされたのはフィリピン戦の関係というよりも、大東亜開戦当初のシンガポール戦
の復讐のような要素が大きかったので、その意味では瀬島氏には責任はない。
 しかし惨憺たるフィリピン戦を招いたことに対しては、海軍とともに陸軍の当事者として大きな責任が
ある。しかもそれはまだ戦後明らかにされていない。知らない人が多いから今回のような揮毫ともなる
のである。そのような人物が揮毫して(当然瀬島氏の名前も残る)未来永劫に子孫に伝えるというのは、
それを瀬島氏が全金額を負担するのであればともかく、純粋に英霊を思う多くの「血税ともいえる浄財
を元にしてでは、これではフィリピン戦に斃れた多くの英霊の魂が浮かばれない。瀬島氏が山下将軍を
始め、本当のフィリピン戦の英霊にこたえる道は、そんな揮毫ではなく、フィリピン戦の隠された真実を、
その犠牲になった英霊たちの子孫もいる日本国のために明らかにすることである。

6・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/10/16(土) 23:25
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yamashita.htm
 瀬島氏らと同じ戦中派世代、大正生まれ(瀬島氏は明治生まれであるが)の石井一昌氏が勇気を
持って自分のホームページ http://www.ishiikazumasa.com/ 「狼は吠える」 で発表しているように、
今生き残っている戦中派世代の責任は、戦前戦後を通じての自分たちのミスや不甲斐なさを
日本の国の建て直しのためにさらけ出すことである。それなくして、形だけ整えても、英霊は喜ばないし
決して浮かばれない ! ! 「仏つくって魂いれず」
平成16年8月4日記す(8月5日註3追記)
         ゴジラズワイフ(軍事史学会会員) 
         文中「註」はゴジラズワイフ

7・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/10/16(土) 23:25
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yamashita.htm
  註2
   大東亜戦争のフィリピン戦関係における 昭和19年10月20日の大本営発表 
   台湾沖航空戦の戦果
   轟撃沈 航空母艦     11隻
      戦艦       2隻
      巡洋艦      3隻
      巡洋艦若しくは駆逐艦 1隻
   撃破  航空母艦      8隻
      戦艦        2隻
      巡洋艦もしくは駆逐艦  1隻
      艦型不詳        13隻
   その他火焔火柱を認めたもの12を下らず
  撃墜112機(基地における撃墜を含まず)

   しかし実際の米国ハルゼー艦隊の損害は
   飛行機  89機
   巡洋艦   2隻大破
   航空母艦には1隻の損害も無し
 
  註3
  東京新聞8月5日夕刊9面「永井隆からの手紙」によると、昭和24年1月「長崎の鐘」の発売条件
として、抱き合わせに所収されたのが「マニラの悲劇」というフィリピン戦でのフィリピン国民の受難を
描いたものであるが、当時の占領政策により当然フィリピン人の悲劇は日本軍の蛮行のせいと
されている。そしてその蛮行を止めさせるために原爆使用が必要であったとの展開である。
つまりフィリピン戦は戦後の占領政策において原爆の正当化にも利用されたわけで、その意味でも
「台湾沖航空戦の電報握り潰し」の瀬島氏の責任は大きいと言わざるを得ない。

8カマヤン[TRACKBACK]:2004/10/16(土) 23:33
瀬島龍三関係ログ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1037310426/r166-167
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1037310426/r257-269
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1037310426/r530
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1037310426/r539
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1037310426/r541

9カマヤン:2004/10/17(日) 03:25
>>2
>ヤクザと不良債権の問題を取り上げたのは、【宮脇磊介】だ。
>【宮脇磊介】は、中曽根康弘の元スポークスマンだ。
>ヤクザ不況の原因を作ったのも、中曽根康弘。
>「ヤクザ不況」論の更なる奥を考えるべきだろう。キーワードは中曽根だ。
>単純に考えるなら、中曽根康弘が、アメリカに日本を売り渡し、その理由を「ヤクザ」に押しつけた。

と以前どこかのスレに書いたが、中曽根を瀬島龍三に書き変えても全く通じるなあ。

10・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/11/10(水) 14:35
142 名前:文責・名無しさん 投稿日:04/11/08 22:49:27 JBChxl7C
 口を開けば「国家への貢献」という瀬島氏は、デビ夫人を献上した東日貿易をとおして
インドネシア関連ビジネスをとるのにどうしたか。最初の取引で国家警察に日本製ジープ
など八○○万ドル相当を納めることになった伊藤忠は「相手側賠償使節団長バスキ氏に
一パーセントの手数料(ワイロ)を出せといわれて、そそくさと社内決済をし、部下である
小林氏に皇居お堀端の住友銀行からボストンバッグいっぱいに詰めた千円札を受け取らせ、
相手の待つホテル・ニュージャパンに向かわせた」(同書十三ページ)のである。
   共同通信社社会部編『沈黙のファイル』
http://ime.nu/www1.doshisha.ac.jp/~twatanab/watanabe/masukomi/97.6.html
http://ime.nu/members.tripod.co.jp/esashib/worldcup01.htm
 戦後長らく、韓国では軍人政権がつづき、最初は日本の陸士卒業あるいは参謀本部で
瀬島氏の部下であった韓国人たち、その後は韓国の陸士を卒業したそのまた「後輩たち」に
よって政権がつくられた。「瀬島氏は日本の陸士で後輩にあたる朴大統領と直接親交を
深めていたので、朴大統領の崇拝者で韓国陸士出身のチョンドウファンやノテウからも
軍人の先輩として尊敬された」にあったのである。
  (元浦項製鉄会長の朴泰俊氏の証言、『沈黙のファイル』五一ページ)。
 瀬島氏の韓国権力層ならびに児玉誉志夫氏や読売新聞の渡辺恒雄社長らにつながる
人脈と利権の構造には想像以上の奥行があったわけである(同書、三○一ページの証言)。

11・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/11/13(土) 00:10
154 名前:文責・名無しさん 投稿日:04/11/12 06:57:14 B0Ij5fap
 金大中拉致事件がKCIAの犯行と発表してアメリカに亡命した韓国人ジャーナリスト
文明子と、米国務省韓国部長ドナルド・レイナードは、拉致事件が政治決着した裏で、
田中首相にワイロが渡ったことを暴露した。
 アメリカに亡命、後にフランスで失踪(拉致殺害説あり)した元KCIA部長金炯旭は
米下院公聴会で、金大中拉致事件の首謀者がKCIA部長李厚洛であること、李厚洛の
朴正煕政権の政治資金調達に日本企業が深く関わっていることを証言した。
 在米韓国広報官長李在鉉(アメリカに亡命)の告発によって、円借款で行われた
ソウル地下鉄建設計画に絡んで、新韓碍子と日商岩井との関係、車両契約を受注した
日立製作所のリベート問題が発覚した。
 ロッキード事件に前後して相次いで表面化した、韓国の政治家や情報機関、財閥と、
日本保守政界と政商、利権右翼、企業グループの癒着構造を「日韓癒着」と呼ぶ。
 日韓癒着の起源は、【朴正煕】政権の発足直後にさかのぼる。
 日韓条約締結交渉は、竹島の領有権や戦後補償の額をめぐって何度も決裂したが、
韓国の密使が【児玉誉士夫】に接触したことで、10年以上続いた交渉は急転直下妥結した。
自民党内の反対派を説き伏せるのにどれだけの金が闇で動いたのかは見当もつかない。
条約締結で、岸派・佐藤派と伊藤忠商事が、賠償利権を手中にした。伊藤忠の【瀬島龍三】
と朴正煕は陸士の先輩後輩の間柄である。その窓口だったのが大野派の大野伴睦と、
そのNO2讀賣新聞記者(当時)渡辺恒雄だ。
 かつてフジサンケイグループ総帥の鹿内信隆(元陸軍)は、朴正煕との対談番組で
「日韓癒着と騒がれているのは、日韓の傷口が癒されている証拠だ」と揚言した。
元産経新聞社員で、許永中事件に連座して逮捕された「政財界のフィクサー」こと
福本邦夫は、産経退社後、政治家秘書として【国際勝共連合】の結成に関与したという。

12・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2004/11/30(火) 15:15
http://www.nikaidou.com/column02.html
 前略
 ビックカメラの関係者です。以下断片的ではありますが、いくつか情報提供いたしま す。
 ビック=新井の基礎資料としては、若林照光著「0からの挑戦」という、ベンチャー 企業家(当時) たちへのインタビュー集があります。まあよくある「どーでも本」ですがねw。
 その「自己申告経歴」によると新井の父親が戦艦武蔵の設計者で戦後は細々と薬局経 営なんてことが どこまでホントかわからないですがインタビューとしてつづられています。
 大事なことは、そこで【軍人閥】とつながってくることです。業界では周知の事実ですが、新井の政界パトロンは同郷の群馬【中曽根康弘】だからです。
 また、【瀬島隆三】とのコネクションも持っています。瀬島の弟がやっているコンタクトレンズ会社のSEEDはなぜか新井が会長です。 
 新井は団塊世代ですが、若い頃は「青年行動隊」なる中曽根傘下?の団体に所属していたようです。これは反アカの「商用ウヨ」でしょうか?
 その他 新井隆二という名前、戸籍上では「隆」の文字が違う、ということを上層部ががこっそり教えてくれたことがあります。あんまり口外しないほうがいいよ、との前フリ付きで。
 私はビック社員もよく知っていますが、残業時間が月100時間を下ったこ となど一度もなかったです。ですから今回の労其問題なんて見てもなにをいまさらって感じですね。
 あとドンキも「メーカー問屋サイドに店内労務」を要求なんてことで騒がれてますが、あんなのビックがパイオニアw。
 ですから、なにをいまさらって感じです。家電ディスカウント業界では当たり前です。秋葉では昔店長がメーカー社員という究極のケースもあったようですから。
<A>

13・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/06/05(日) 06:55:46
http://www.asahi-net.or.jp/~vz6g-iwt/critique/plural.html
沈黙のファイル/共同通信社社会部編/新潮文庫
 戦前・戦中の元エリート参謀、瀬島龍三は、なぜあの無謀な戦争に日本を突入させたのか? 
また東京裁判を経た後も、賠償ビジネス等を通じ、伊藤忠商事のトップにまで上り詰め、
時々の政権誕生にまで力を及ぼすことが出来たのか? 瀬島の半生はそのまま、昭和の
裏面史を浮かび上がらせます。
 緻密な取材とインタビューには興奮さえ覚えます。例えば敗戦直前の日本側特使と
極東ソ連軍総司令官との「停戦交渉」の内容です。日本側の唯一の生き残り瀬島によると、
この交渉の内容は、1・在満州居留民の早期日本帰還 2・関東軍将兵の居留民に次ぐ帰還 
3・ソ連軍などの暴行の取り締まり、だったと。つまり、いわゆる「シベリア抑留」は話し合われて
いないと言う。しかし、ソ連側の生存者によると、「瀬島は事実と違うことを言っている。
関東軍将兵の帰還を希望したなんてうそだ。あれは停戦交渉などでは無かった。
勝者が敗者に命令を下す場」であったと言う。瀬島はこのうそを糊塗するために、
後の「シベリア抑留秘史」において改竄を行っていることも露見します。
 また、戦後のいわゆる「賠償ビジネス」においても、伊藤忠商事に入った瀬島は「軍人脈」を
フルに活用し、社内でも頭角を表し、また当然ながら政界にもフィクサーとしての地位を築きます。
そのフィクサーぶりは、中曽根政権誕生においていかんなく発揮されています。
 後書きで船戸与一が書いています。                                
1995年6月、東京中目黒の自衛隊幹部学校で開かれた軍事史学会に83才になった瀬島龍三が
特別講師として招かれる。彼は自衛官たちのまえで言う。「参謀本部で杉山参謀総長が
<帝国の存立亦正に危殆に瀕せり>と詔書を朗読するのを、緊張して感動して全身で受け止めました。
一生忘れられない体験です。日本は、少なくとも対英米戦争は自存自衛のために立ち上がった。
大東亜戦争を侵略戦争とする議論には絶対に同意できません」 だが、本書を読む限り、
彼の行動には例えば石原完爾にような思想性を読み取ることができない。そこにあるのは
プラグマチズムだけだ。・・・中略・・・アジア諸国の二千万の死。日本人三百万の死。
これについて瀬島龍三の真摯な発言は聞かれない。要するに、この膨大な死者数については
彼のこころに触れることがないのだろう。したがって責任の問題は脳裏に浮上してくることもない。
徹底したプラグマチストにとって数字はただの数字なのだ。それは次のステップのための
予備知識に過ぎないだろう。
 巻末に資料編として、関係者3人へのインタビューが掲載されています。これらも含めて本書は、
決して表面化しない歴史をあぶり出す好著だと思います。

14・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/06/05(日) 06:56:10
http://ww1.m78.com/topix-2/critic%20to%20officers.html
 また有末をあげて、もう一人昭和天皇が名指しで批判した人物をあげないわけにはいかない。
それは伊藤忠の瀬島龍三である。昭和天皇はこう語る。
 「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵たちを咎める
わけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡って
それを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、
指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」
 これは入江(侍従長)さんから直接聞いたとして田中清玄が書き残している。(田中清玄自伝:
文芸春秋:1993)また田中は「私のみるところ瀬島とゾルゲ事件の尾崎秀実は感じが同じだとね」
としている。田中は瀬島をソ連に屈服したスパイとみなしているのだろう。
 昭和天皇は第1次大戦前のヨーロッパの君主のいずれのタイプとも異なる。
第一に自然科学者であり、近代人である。その意味で国家のロマンとか男のロマンのようなものに
一切興味をお示しにならなかった。外交政策でも現実を自分の理想に引付けるようなことを嫌った。
そのうえ、戦間期の特徴である国家主義と社会主義の対立情況を疎ましく感じていた。
瀬島の特色は戦争を計画し促していることである。そしてそこには昭和天皇と同じくロマンはない。
ただ昭和天皇と異なり私欲が存在しそれがこの男の全ての行動を決定した。
  瀬島龍三は自己の著作で昭和天皇に誉められたと自慢している。事実ではあるまい。

15・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/06/05(日) 07:32:43
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/27340/bbs_plain
2005/05/21 12:11
 朝鮮戦争の休戦(法的にはまだ終結していない)から50有余年、南北関係は南の韓国の大統領が金大中(キムデジュン)から盧武鉉(ノムヒョン)へと民主的に選出され、頑なな北朝鮮への和解路線をとっている。私には大学時代に所属していたアジア研究会以来、朝鮮半島の人びととの交流経験があるが、政府はどこも自己都合でうそをいうものだ。だが、今のままの日本政府の政策と世論では、日韓・日朝の関係改善のほうが南北両朝鮮の対立解消よりもはるかにむずかしい。日本の韓国併合と植民地政策に対する韓国・朝鮮人の反発は南北対立よりも心理的に大きいからだ。
 4月11日、韓国公共放送KBSの取材クルー3人が同志社大学の私の研究室へやってきた。戦争中の陸軍参謀、シベリアへの抑留後に伊藤忠商事に入り、会長にまでなり、かつての陸軍士官学校での人脈を使って、戦後の日韓関係で両国トップの結びつきを裏から形成した瀬島龍三氏について取材したい、とくに彼が戦後果たした役割は韓国ではプラス評価だが実際にはどうであったのかテーマでの議論に参加してほしいということであった。
 このドキュメンタリーは4月16日(土曜日)午後10時からの45分番組「メディア・フォーカス」として韓国で放映されたが、私の主張は①戦後の日韓関係は朴正煕大統領が戦時中の日本軍の中尉で、憲兵的役割を果たしており、その関係を日韓両国は利用して日韓基本条約もその後の経済援助もおこなった、② 従って日本側から韓国援助と1965年の日韓基本条約での話し合いを進めたのは日本の軍事侵略を容認したグループであった、③瀬島龍三はそうした線で中曽根康弘(当時の首相)とむすびついてインドネシア賠償金などもふくめ、商社の利益と日韓両国政治家たちの懐を不当に潤す役割を同時に果たした人物で、今後の両国関係が民衆同士の信頼を形成するかどうかはどこまでそうした過去のやり方を改善していけるかにかかっているというものであった。
つまり、戦後の日韓関係は両国民の幸福など考えたことなどないもの同士が推進してきたという戦後政治史のねじれをつくり、その最重要人物が瀬島龍三であったわけである。そうした軍人関係を利用した日韓のねじれは1988年のソウル五輪を開催したときの大統領、盧泰愚(ノテウ)までつづく。
 そしてこのねじれの関係と瀬島龍三の動きが国鉄労組の解体を目指した後の国鉄解体とJRの誕生となっており、今度のJR事故にも深いところでつながっている。さらには瀬島はNTT(旧日本電信電話公社)の分割、民営化にも深く関与し、NTT労組の全電通を事実上解体した。

16・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/06/05(日) 07:33:15
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/27340/bbs_plain
 以下は「愛国心」ということばに関心のある人へ:
  「歴史と伝統と文化?これまたどこの国にもあることだ。それが独自だといばってどうするか。憲法に話を戻せば、今この国に足りないのは愛国心ではなく、議員と官僚と資本家の愛民心である。弱者切り捨ての国を誰が愛することができるのだろう。EUの中に住むぼくから見ると、中国も韓国も未熟に見える。そして、私が祖国も。(池澤夏樹「愛国心を笑う」『月刊現代』05年6月号、p.27) Cf:愛国無罪
 ☆瀬島龍三については、共同通信社会部著『沈黙のファイル』共同通信社、などを参照されたい。またこの件とは直接関係はないが、日本の政界の理解には、田粼史郎『梶山静六 死に顔に笑みをたたえて』(講談社、2004年)を参照されたい。ただしこの本は梶山から伝記執筆を頼まれた著者がまとめたもので、梶山が『ニュースステーション』に干渉し、トヨタ自動車にスポンサーを降りるように迫ったことなどは書いてない。しかし日本の政治家たちの動きとその内面の心理描写に踏み込み、見事に描き抜いた第一級の書物である。さらにはマスコミと政界の関係の理解には、田中良紹(よしつぐ)『メディア裏支配―語られざる巨大マスコミの暗闘史』(講談社、2005年)はテレビ記者による日本の政治とメディアの関係について、さらには『同志社メディア・コミュニケーション研究』第2号に掲載された今西光男の論文も現在の日本のメディア産業の一側面を描いたものとして秀逸であり、学生、院生諸君に推薦しておきたい。

17・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2005/06/05(日) 07:35:41
沈黙のファイル/共同通信社社会部編/新潮文庫
http://www.asahi-net.or.jp/~vz6g-iwt/critique/plural.html
 戦前・戦中の元エリート参謀、瀬島龍三は、なぜあの無謀な戦争に日本を突入させたのか? また東京裁判を経た後も、賠償ビジネス等を通じ、伊藤忠商事のトップにまで上り詰め、時々の政権誕生にまで力を及ぼすことが出来たのか? 瀬島の半生はそのまま、昭和の裏面史を浮かび上がらせます。
 緻密な取材とインタビューには興奮さえ覚えます。例えば敗戦直前の日本側特使と極東ソ連軍総司令官との「停戦交渉」の内容です。日本側の唯一の生き残り瀬島によると、この交渉の内容は、1・在満州居留民の早期日本帰還 2・関東軍将兵の居留民に次ぐ帰還 3・ソ連軍などの暴行の取り締まり、だったと。つまり、いわゆる「シベリア抑留」は話し合われていないと言う。しかし、ソ連側の生存者によると、「瀬島は事実と違うことを言っている。関東軍将兵の帰還を希望したなんてうそだ。あれは停戦交渉などでは無かった。勝者が敗者に命令を下す場」であったと言う。瀬島はこのうそを糊塗するために、後の「シベリア抑留秘史」において改竄を行っていることも露見します。
 また、戦後のいわゆる「賠償ビジネス」においても、伊藤忠商事に入った瀬島は「軍人脈」をフルに活用し、社内でも頭角を表し、また当然ながら政界にもフィクサーとしての地位を築きます。そのフィクサーぶりは、中曽根政権誕生においていかんなく発揮されています。
 後書きで船戸与一が書いています。                                
 1995年6月、東京中目黒の自衛隊幹部学校で開かれた軍事史学会に83才になった瀬島龍三が特別講師として招かれる。彼は自衛官たちのまえで言う。「参謀本部で杉山参謀総長が<帝国の存立亦正に危殆に瀕せり>と詔書を朗読するのを、緊張して感動して全身で受け止めました。一生忘れられない体験です。日本は、少なくとも対英米戦争は自存自衛のために立ち上がった。大東亜戦争を侵略戦争とする議論には絶対に同意できません」 だが、本書を読む限り、彼の行動には例えば石原完爾にような思想性を読み取ることができない。そこにあるのはプラグマチズムだけだ。・・・中略・・・アジア諸国の二千万の死。日本人三百万の死。これについて瀬島龍三の真摯な発言は聞かれない。要するに、この膨大な死者数については彼のこころに触れることがないのだろう。したがって責任の問題は脳裏に浮上してくることもない。徹底したプラグマチストにとって数字はただの数字なのだ。それは次のステップのための予備知識に過ぎないだろう。
 巻末に資料編として、関係者3人へのインタビューが掲載されています。これらも含めて本書は、決して表面化しない歴史をあぶり出す好著だと思います。

18・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2007/09/04(火) 21:53:37
このくそじじいやっとくたばりやがったか 地獄に堕ちやがれ!!

次は中曽根の番だな

19・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2007/11/24(土) 18:33:39
【歴史】日米開戦直前…「瀬島龍三が、ルーズベルト大統領から天皇陛下への親電配達を遅らせた」

 昭和16年の日米開戦で最後通告の手渡しが遅れた原因の一端を示すとみられる史料が、
防衛省防衛研究所に保管されていることが分かった。史料は、米・ハワイの真珠湾攻撃成功
を目指す旧日本軍が開戦直前、ルーズベルト米大統領から天皇あての親電の伝達を遅らせた
ことを明確に裏付ける内容で、旧陸軍参謀本部作戦課の瀬島龍三少佐(当時)の関与を示唆
した文書が見つかったのは初めて。親電の一時差し止めが最後通告の遅れにつながった可能性
を指摘する専門家もおり、通告の遅れをめぐる論議に一石を投じることになりそうだ。

 史料は、昭和11年8月から20年までの軍関係の動きについて、戦後、防衛庁(現防衛省)
が関係者から聴取した「防諜(ぼうちよう)に関する回想聴取録」。

 それによると、昭和16年12月の開戦前、陸軍参謀本部通信課員だった戸村盛雄少佐
(当時)が昭和37年3月、防衛庁の事情聴取に対し、大統領の親電をめぐる経緯について
「7日午前11時ごろ、参本(陸軍参謀本部)の廊下で瀬島(少佐)とバッタリ会った」と証言。

 続けて戸村少佐は「瀬島から『南方軍の船団が飛行機に発見されてこれをおとした』と
聞いて、これが開戦の第一発であると思って、瀬島とも一緒に考えて親電を遅らせた」と
証言していた。

 これは、日本の船団がマレー半島沖で英軍の哨戒飛行艇に発見されたため、護衛して
いた旧日本軍の戦闘機が撃墜した事実を指す。この証言が事実なら、瀬島氏は旧日本軍
がすでに、米国と同盟関係にあった英国と開戦したという事実誤認から陸軍の規定に従い、
親電の配達を遅らせたことに関与していた可能性がでてくる。当時、参謀本部が海外情報
の統制のため、外国からの電報を10〜15時間程度遅配するよう決めていたが、大統領
親電のような特別重大な電報については例外とする余地があったようだ。

(以下略、全文はソース元でどうぞ)
ソース(MSN産経新聞)
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071124/edc0711240021000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071124/edc0711240021000-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071124/edc0711240021000-n3.htm

20:2007/12/04(火) 07:46:45
癒しの・・・いじめ撃退法

21・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 19:19:16
瀬島龍三氏 逝去-日本財団会長 笹川陽平ブログ
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1011


B&G全国市長会議(その2)-日本財団会長 笹川陽平ブログ
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1275#BlogEntryExtend

・・・、ある部分では尊敬していたのですが、
陸軍参謀の瀬島龍三氏です。60数万人のシベリア捕虜を置き、
自分だけはナホトカの一軒家に住んで、
ソビエト側の検事証人として極東軍事裁判に臨んで
天皇有罪論を唱えました。
瀬島氏も同じように私はこんな良いことを
しましたということで勲一等をもらった人です。
私は本人に「先生は何故、叙勲を申請されたのですか」と
聞いたことがあります。
すると長い間苦労をかけた妻のためにもらったというのです。

数十万人の兵士が厳寒の地で苦しみ、多くが亡くなっていく中で、
一人一軒家に住んで天皇有罪論を書き上げ、
ソ連の検事証人として出廷した人が、
その有罪論を唱えた天皇から勲章をもらっているのです。・・・

22・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 19:23:08
まもなく94歳の時の瀬島龍三

西野弘のとことん対談 瀬島龍三「マネジメント、それは“本分”をもって生きること」(前編)-オンラインマガジン -ITmedia エグゼクティブ編集部-
http://executive.itmedia.co.jp/hensyubu/archive/123
西野弘のとことん対談 瀬島龍三「道徳教育の重要性――もののあわれを心得た人材を育てる」(後編)-オンラインマガジン -ITmedia エグゼクティブ編集部-
http://executive.itmedia.co.jp/hensyubu/archive/129

23・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 19:32:30
二千年の恋

フジテレビ系列で2000年1月10日から3月20日まで
放送されたテレビドラマである。
全11話。放送時間は月曜日21:00〜21:54。
台湾、香港、シンガポール、タイでの
同日放送と放送前から話題を呼んだ。

ちまたでは、
おもな登場人物・モデルで、

ユーラル…ソ連(ロシア)
ビクトル・マロエフ…瀬島龍三

とささやかれていた。

24・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 19:35:57
>>23
ブコレス大佐・・・GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)副課長、
 班長及び副班長
佐伯健志・・・警視庁公安部警部
佐伯刑事の両親が亡くなったテロ事件の
 モデルになったと思われる実際のテロ事件・・・
 1974年(昭和49年)8月30日
 東京・丸の内の三菱重工業(株)本社ビルの
 玄関入口近くに仕掛けられた時限爆弾が爆発し、
 通行人8人が死亡、385人が重軽傷を負いました。
 1ヶ月後「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」
 が犯行声明。
 連続企業テロの最初の犯行。

「二千年の恋」いろいろ
http://www5b.biglobe.ne.jp/~sasasan/love2000_etc.html

25・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 19:40:34
>>23
ビクトル・マロエフ・・・二階堂洋介
野上浩/ユーリ・マロエフ・・・ゴルゴ13
ブコレス大佐・・・ソゴロフ大佐
サムエル・マロエフ・・・イワノビッチ中尉
ナオミ・ナーギン・・・ナタリア
ウラノフ副書記長・・・ロシアの改革派のメンバー

モスクワの記憶
http://www.asahi-net.or.jp/~AN4S-OKD/private/manman/mango346.htm

26・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 19:44:15
>>24
虹作戦

三菱重工爆破事件の半月前の1974年8月14日に、
「天皇制廃止」を究極の目標とする
「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」が、
昭和天皇が乗る「御召」列車を爆破する「虹作戦」
を立てるが未遂に終わる。
彼らは昭和時代を「昭和49年8月14日」をもって
終わらせる作戦に高揚したという。
このときに使う予定だった爆弾が、
三菱重工爆破事件に使われる。

1999年に、映画監督の渡辺文樹が「虹作戦」をモデルとして、
『腹腹時計』を制作する。

日本赤軍と東アジア反日武装戦線
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm

27・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 19:48:22
>>24
>>26
文世光事件

1972年9月29日の中国・毛沢東と
日本・田中角栄による日中国交正常化で、
大東亜がソビエト共産党・中国共産党・
朝鮮労働党・日本共産党で入り乱れている時に、
在日韓国人の文世光が、
大阪湾に停泊中の北朝鮮の万景峰号の船中で、
朝鮮労働党対外連絡部の工作指導員から、
大韓民国大統領・朴正煕射殺の指令を受け、
1974年8月15日に実行をするが未遂におわる。

しかし、朴正煕の夫人、陸英修など2名が射殺される。
使用された武器は、大阪市南区(現在の中央区)の
大阪府警南署高津派出所の拳銃2丁であった。

「三菱重工爆破事件」は、
「虹作戦」を失敗してしまった
「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」が、
文世光事件に影響されて行われたとも言われている。

1979年10月26日、大韓民国大統領・朴正煕は、
側近によって暗殺される。
瀬島龍三(壹岐正)と朴正煕は陸士の
先輩後輩の間柄であった。

28・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 19:51:25
タイムライン

不毛地帯・・・壱岐正
沈まぬ太陽・・・龍崎一清
魁!!男塾・・・藤堂兵衛
ゴルゴ13・モスクワの記憶・・・二階堂洋介
バトル・ロワイアル(魁!!男塾)・・・総統(藤堂兵衛)
二千年の恋・・・ビクトル・マロエフ
新・平成 日本のよふけSP・・・瀬島龍三

29・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 19:54:16
保守主義の哲学シリーズ---中曽根康弘元首相は保守の哲人か?中曽根康弘の正体:イザ!
http://edmund-burke.iza.ne.jp/blog/entry/1370247/
・・・

ホ) KGB将校スタニスラフ・レフチェンコの米国亡命(1979年)と
米議会での証言(1982  年7月)により、
KGBによる日本のスパイ組織網に関する
KGB日本人エージェント約二百人のうち、
何名かは実名で報道されたりして、
自民党はスパイ防止法を議員立法する直前まで準備していた。
また、警察庁もいつもとは違って捜査を精力的に進めていた。
が、1983年5月、警察庁は捜査打ち切りを発表した。
また、自民党内でも同年秋頃には、
スパイ防止法制定の動きがぱったりとまった。
中曽根総理が中止させたという噂が飛び交った。
コード名「クラスノフ」の瀬島龍三をかばうためであったとか、
中曽根自身に火の粉が飛ばないようにしたのだ
という憶測はそれなりに根拠があった。少なくとも、
これほどの「証拠」がレフチェンコから出されながら、
一人の逮捕者も出ない、
自民党のスパイ防止法もお蔵入りしたことにつき、
中曽根総理が無関係であったとするのは無理があった。

・・・

30・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 19:58:05
>>29
スタニスラフ・レフチェンコ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B3


沖縄県民斯ク戦ヘリ
http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/blog-entry-869.html
・・・。レフチェンコは
コード名「クラスノフ」の瀬島龍三と
直接コンタクトを取ったことはないとしながらも、
対日工作のボス、
コワレンコと深い仲だと証言している。
・・・


沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか
共同通信社社会部
インタビュー イワン・コワレンコ
―レフチェンコ事件

31・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 20:01:08
>>30
スパイ&テロ KGBの対日工作⑥
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-75.html
・・・
25 コードネーム「クラスノフ」
 実名不記載。著名な財界人。KGB正式エージェント。
・・・


瀬島龍三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%B3%B6%E9%BE%8D%E4%B8%89#cite_ref-4

・・・イワン・コワレンコは・・・、
「瀬島氏はソ連のスパイではないのか」と
の問いには「それはトップシークレット」と
のみ回答している[5]。
・・・

32・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 20:10:42
>>21
>>28
>>29
大東亜共和国(帝国/共栄圏/富山圏)
総統・・・瀬島龍三
首相・・・中曽根康弘
公安省・・・後藤田正晴
宣伝省・・・渡辺恒雄

こんなところであろうか。

33・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 20:17:25
>>21
>>32
ソ連のスターリンは、第2次世界大戦後、

中国・・・毛沢東
朝鮮・・・金日成
日本(ナホトカ)・・・瀬島龍三

をモスクワに呼び会談をし、
それぞれの国の共産党政権の
指導者として認定し対応していった。

3者は共々、
共産党政権樹立を強く肯定した。

近衛文麿の息子である文隆は、
この共産党政権樹立の
リーダーシップを取っていた
瀬島龍三の姿を見て驚き、
憤死してしまったのであろうか。

34・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 20:22:57
>>21
>>33
ソ連のフルシチョフは、
日本の首相がハ富山一郎となり、
総統の瀬島龍三を迎えに来る事を確認すると、
1956年8月19日に瀬島龍三の亡命政府を
ナホトカから日本列島に移動させる。

以降、瀬島龍三は、首相、
日本共産党の先輩にあたり
最高指導者であった田中清玄、
政府の黒幕の児玉誉士夫等に、
リード、サポートをされ、
大東亜の国々と交流を取り、
総統としての地位を確立して行く。

しかし、総統の瀬島龍三が、
昭和天皇と日本での共存共栄でもめ、
先輩の田中清玄に叱られた事もあった。
とても有名な話である。
田中清玄と児玉誉士夫もよくもめた。

こんなところであろうか。

35・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 20:30:34
>>34
1956年10月19日に、モスクワで
日ソ国交回復共同宣言が
締結された当時の東亜の
ソ連側の勢力情勢。

毛沢東・・・中国本土を支配。
 非ソ連側(台湾)・・・台湾島。
金日成・・・朝鮮半島北部を支配。
 非ソ連側(韓国)・・・朝鮮半島南部。
瀬島龍三・・・日本列島で昭和天皇と共存共栄。
 非ソ連側(昭和天皇)・・・
  日本列島で瀬島龍三と共存共栄。

こんなところであろうか。

36・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 20:34:36
>>34
『不毛地帯』における、
おもな登場人物・モデル

壱岐正…瀬島龍三
竹中完爾…田中清玄、児玉誉士夫、小佐野賢治等
秋津清輝…田中清玄
秋津千里…山崎豊子

37・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 20:43:34
>>32
>>34
>>35
大東亜富山圏(帝国/共栄圏/共和国)
総統・・・瀬島龍三
首相・・・ハ富山一郎
公安省・・・正力松太郎
宣伝省・・・渡辺恒雄

こんなところであろうか。

38・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 20:54:10
沖縄県民斯ク戦ヘリ コミンテルンに嵌められた大東亜戦争
http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/?m&amp;no=869
・・・

瀬島は伊藤忠商事の特別顧問の時、・・・、
東芝ココム違反事件に関わっていた。

・・・


第二次臨時行政調査会・・・ココム違反事件と
 同時進行で設置されたともいわれている。

第二次臨時行政調査会とココム違反事件の関係者
イーゴリ・アレクサンドロビッチ・オシポフ・・・
 ソ連の技術機械輸入公団の副総裁(KGB)。
瀬島龍三・・・伊藤忠商事の会長、
  相談役(問題が起きると特別顧問)。
 第二次臨時行政調査会の実質管理者。
 KGB正式エージェント。
 >>30
 >>31
土光敏夫・・・第二次臨時行政調査会の会長。
 東芝元会長、元社長。
 第4代経済団体連合会(経団連)会長。


スクリュー音が消えた―東芝事件と米情報工作の真相 春名 幹男

モスクワよ、さらば―ココム違反事件の背景 熊谷 独

参議院会議録情報 第109回国会 商工委員会 第4号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/109/1260/10909031260004c.html

39・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 20:57:33
>>38
ソ連のブレジネフと瀬島龍三

1976年。KGBと東芝が接触する。
1977年6月。瀬島龍三が伊藤忠商事の副会長となる。
1978年6月。瀬島龍三が伊藤忠商事の会長となる。
1980年10月。KGBと日本側がモスクワで接触する。
 日本では瀬島龍三が六本木の伊藤忠商事の事務所に、
  中曽根康弘、橋本龍太郎等を招き、
  第二次臨時行政調査会の設置を強くすすめる。
 以降、伊藤忠と東芝もKGBとの接触に
  本格的に入り始める。
1980年12月5日。臨時行政調査会設置法が公布される。
1981年3月16日。第二次臨時行政調査会が設置される。
 東芝の会長、社長であった土光敏夫が
  第二次臨時行政調査会の会長となる。
 KGBと伊藤忠と東芝の関係もほぼかたまる。
1981年4月24日。モスクワで、
  KGBと伊藤忠と東芝が正式に契約書を発効する。
 日ソ国交回復共同宣言以来の
  日ソ同盟の強化ともいわれるようになる。
1981年6月。瀬島龍三が伊藤忠商事の相談役となる。
1982年11月10日。ソ連のブレジネフが死去する。
1984年。アメリカのトム・クランシーが、
  小説『レッド・オクトーバーを追え』を発表する。
 上記をモデルにしたともいわれている。

40・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 21:25:54
>>28
一般論であるが、
何時の時代の弱小国や弱者もそうであるが、
政府が、瀬島龍三を総統に仕立てて来たのは、
アメリカ、昭和天皇、権力者等を
牽制したかったからではないのであろうか。

瀬島龍三の方も政府の意向だということで、
総統の地位を民意と受け取っていたのでは
ないのであろうか。

瀬島龍三が独裁者であったかどうかは、
アンケートを取って調べてみると
良いかもしれない。

注・・・総統としての瀬島龍三が
存在したのかしなっかたのかは、
人の意見によって異なる。

41・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/06(水) 21:29:15
>>40
瀬島龍三氏 死去 - MIYAGI VILLAGE
http://blog.goo.ne.jp/setamiyagi/e/a022e0507d70fed8799a38efa30e75e4
瀬島龍三 元伊藤忠商事会長 死去 -cawaii☆1号の時事ネタ・アイドル
http://news1gou.blog105.fc2.com/blog-entry-18.html

・・・中曽根康弘元首相との関係が深く、・・・

・・・鈴木善幸政権時代、・・・田中角栄、
福田赳夫両元首相は、・・・宮沢喜一氏(後に首相)に
「本当の国家改造を目指すなら瀬島氏しかいない」と語り、・・・

竹下登元首相・・・のアドバイザー役も務め、・・・


瀬島龍三はこの時期だけでも、
これだけの歴代・現役の首相達に、
総統として立てられている。

国家の為ならば、
仮に民主主義的に見ておかしく、
命に関わる非人道的な事を行っていても、
今までの日本の政治・公安的な観点から見て、
政府から処罰されるということはないであろう。

逆に瀬島龍三を犯罪者呼ばわりする者がいたならば、
その者が処罰されるか命までも狙われるであろう。

42・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/22(金) 10:27:30
日本の勲章受賞者の定義なんて、日本の国益をまったく別のものだからね
外国の元首に贈られる上位の勲章、そして民間の谷間で苦労している下位の勲章以外は
まったく価値もないし、受賞資格もなく、日本や日本人、そして国益に何ら寄与しなかった
罪人の類がもらう物くらいの認識しかない

43・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/01/22(金) 10:28:27
ミス
受賞者×受勲○

44>>21〜>>41:2010/01/23(土) 22:52:38
>>21>>41
スレ違いであるが、
存在するのか不明であるが、
瀬島龍三の死去後の、

大東亜富山圏(帝国/共栄圏/共和国)の亡霊
総統・・・群雄割拠
総統代理・・・高橋はるみ
首相・・・ハ富山(由紀夫+小沢)一郎
公安省・・・緒方重威
宣伝省・・・渡辺恒雄

こんなところであろうか。

45名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/25(月) 14:10:44
>>42
>>43
誘導。
Come back here.

瀬島龍三
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1165594399/286

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/02(土) 08:31:21 ID:GTOIbCNE0
なぜ 政府はこの人に勲章や挙句の果ては官位まで与えたの?
すごい弱みを握られていたとか?

46・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/02/05(金) 18:23:18
瀬島龍三氏 逝去-日本財団会長 笹川陽平ブログ
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1011

瀬島龍三氏 逝去 [2007年09月07日(金)]

(著:瀬島龍三 フジテレビ出版)

「瀬島龍三氏 逝去」


瀬島龍三氏が逝去された。享年95歳。

以下はウィキペディアからの引用である。
 『陸軍大学校を首席で卒業。昭和天皇より恩賜の軍刀をたまわる。関東軍参謀。東京裁判でソ連側証人として出廷。シベリア抑留から帰還後、伊藤忠商事に入社。最終職歴は伊藤忠特別顧問。

勲一等瑞宝章・受章。中曽根元首相のブレーンとして、土光臨調(第二次臨時行政調査会)委員などを務め、政治の世界でも活躍した。』

更に『ソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で、捕虜抑留についての密約が結ばれたとの疑惑については、保阪正康氏の主張に対して、本人も半藤一利氏も否定している。』とある。

ウィキペディアで興味を引くのは、
『1979年、昭和天皇の孫・優子(東久邇宮盛厚の娘)の結婚の媒酌の役を務めており、ご臨席された昭和天皇より「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家社会のために尽くすように。

それから、今度お世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さい時に母と別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分面倒をみられず、長く心にかかっていた。

このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる」と、天皇のお言葉が引用されている。誠に恐縮だが、一瞬、まさかとの思いがわいた。

私は確認したわけではないが、瀬島氏は、東京裁判にソ連側検事証人として出廷し『天皇有罪論』を述べたともいわれている。その後瀬島氏は、その天皇から勲一等瑞宝章を親授された。

日本の勲章制度は与えられるものではない。自分が受章に値すると思えば、自らの履歴書と功績調書を作成し、しかるべき役所を通じ提出する。

賞勲局の審査を経て、最終的には官邸の了解を得て決定されるものである。

瀬島氏は、自ら功績調書を作成して、有罪をとなえた天皇より名誉を受けたのだろうか。

かつて、東京ヒルトンホテルの事務所で、旧ソ連での遺骨収集について話し合ったとき、問わず語りに「叙勲は女房のためだった。苦労をかけたからね」と話すのを聞いたことがある。

私には、彼の行動に、日本帝国陸軍参謀としての矜恃は感じられないのだが・・・。

かつて、モスクワ(ロシア)で日本人捕虜の責任者を務めたイワン・コワレンコ氏に会ったことがある。来日した折面会したこともあり、二、三度の面識である。

(著:イワン・コワレンコ 文藝春秋)

イワン・コワレンコ氏については、知る人も多い。
『旧ソ連共産党で、戦後長年にわたり対日責任者を務め、ジベリアに抑留された旧日本兵の親ソ化工作など、日ソ裏面史の生き証人といわれた。

第二次大戦後、旧日本軍将兵がソ連各地で強制労働などに従事したシベリヤ抑留で、抑留者を共産主義に変え、ソ連への協力者に仕立てる思想教育「民主化運動」を主導した。

日本帰国後の情報提供者の育成を任務とし、抑留者が読む日本語新聞「日本新聞」の編集長を務めた。』(日経テレコンから引用)人物である。

自宅に電話を入れると、ホテルまで来てくれた。

「心臓が悪いので、娘から外出を厳しく制限されている。今日は他でもない、笹川さんだから」と言って、日頃はもの暗い感じの男が、上機嫌で2時間近くも話してくれた。

「瀬島はラーゲリ(収容所)では静かで目立たない男であった。ただある時、ラーゲリの集会で演説を始めた。

何を話したかは記憶にないが、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発したのには正直いって驚いた。ひょっとしてこの男は対日工作に使えるかもと考えた。」

コワレンコ氏は、身振り手振りで話した後
「ラーゲリで瀬島が3年間近く行方不明になったことが、今も日本では謎とされているようだが、話は簡単。ウラジオストック郊外の一軒家に、女中もつけて、ソ連側検事証人として準備をさせていたのだ」と語った。

関係されていた亜細亜大学で、先年、大量の書類、資料などが焼却されたという。研究資料として、是非、残しておいてほしかったと、残念がる歴史家が多い。

昭和史のいくつかの重要な疑問点について、瀬島氏は沈黙を守られた。
そして、その沈黙は永遠のものとなってしまった。

ご冥福をお祈りする。

Posted by 笹川 陽平 at 08:29 |

47・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/02/05(金) 18:28:04
>>46
B&G全国市長会議(その2)-日本財団会長 笹川陽平ブログ
http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1275#BlogEntryExtend

B&G全国市長会議(その2) [2008年03月18日(火)]

・・・、ある部分では尊敬していたのですが、陸軍参謀の瀬島龍三氏です。60数万人のシベリア捕虜を置き、自分だけはナホトカの一軒家に住んで、ソビエト側の検事証人として極東軍事裁判に臨んで天皇有罪論を唱えました。瀬島氏も同じように私はこんな良いことをしましたということで勲一等をもらった人です。私は本人に「先生は何故、叙勲を申請されたのですか」と聞いたことがあります。すると長い間苦労をかけた妻のためにもらったというのです。

数十万人の兵士が厳寒の地で苦しみ、多くが亡くなっていく中で、一人一軒家に住んで天皇有罪論を書き上げ、ソ連の検事証人として出廷した人が、その有罪論を唱えた天皇から勲章をもらっているのです。・・・

Posted by 笹川 陽平 at 07:41 |

48・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/02/05(金) 18:29:29
瀬島龍三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%B3%B6%E9%BE%8D%E4%B8%89

当時ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコはジャーナリスト加藤昭の取材に対し、「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」 と証言し、「瀬島氏はソ連のスパイではないのか」との問いには「それはトップシークレット」とのみ回答している。

「瀬島龍三・シベリアの真実」『文藝春秋』1992年2月号(創刊70周年記念2月特別号)。

49・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/02/05(金) 18:31:07
沖縄県民斯ク戦ヘリ
http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/blog-entry-869.html
沖縄県民斯ク戦ヘリ コミンテルンに嵌められた大東亜戦争
http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/?m&amp;no=869

第19130号 國民新聞 平成19年12月25日(火曜日)

コミンテルンに嵌められた大東亜戦争

・・・。レフチェンコはコード名「クラスノフ」の瀬島龍三と直接コンタクトを取ったことはないとしながらも、対日工作のボス、コワレンコと深い仲だと証言している。

瀬島は伊藤忠商事の特別顧問の時、ボマーク事件、バッジシステム機密漏洩事件、東芝ココム違反事件に関わっていた。

瀬島は日本軍のシベリア抑留の際、皆を裏切った張本人でもある。

・・・

50・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/02/06(土) 08:08:50
保守主義の哲学シリーズ---中曽根康弘元首相は保守の哲人か?中曽根康弘の正体:イザ!
http://edmund-burke.iza.ne.jp/blog/entry/1370247/

保守主義の哲学シリーズ---中曽根康弘元首相は保守の哲人か?中曽根康弘の正体
2009/12/16 10:06


   中曽根康弘「首相公選」論の正体―――(1961年1月1日付『憲法改正試案』)



 ● 保守主義を演出する極左主義者――中曽根康弘の『憲法改正試案』(1961年)

 

 1960年の「安保騒動」の翌年、1961年頃に衆議院議員の中曽根康弘その他によって、奇妙な四文字スローガン「首相公選」がアピールされ始めた。当時はまだ日本に議院内閣制という近代英国によってつくられた政治制度は正しく評価されていたから、中曽根らの「首相公選」は、集中的に非難を浴びて封じ込まれた。

 

 しかし、小泉純一郎が総理になった2001年頃から再び軽薄な流行現象となった。

 「首相公選」は、あくまで現行憲法第六十七条に違反する。

 

 よって、あくまでも「憲法改正の構想全体の中の一つ」であるから、「首相公選」論者の「憲法改正案全体をまずもって吟味すること」を怠ることをしてはならない。



 

 そのとき、「首相公選」の問題の核心つまり、その背後に潜む「企図」・「哲学」・「思想」が明らかとなる。中曽根が1961年1月1日付起草の『憲法改正試案』を発表したのは、三十六年後の1997年6月1日発売の月刊誌『正論』誌上であった。

 

 つまり、1961年頃の中曽根の「首相公選」論は憲法改正の構想の枠組みの一つとして考案されたもので、「首相公選」だけを単なる思い付きで主張したのでなかった点で論議に値する。

 

 だがまた、この三十六年以上も『憲法改正試案』を秘匿したまま「首相公選」論のみを宣伝したその意図に潜む何か怪しげなものも充分臭ってくる。



「首相公選」論の背後には、何か巨大な“妖怪”がうごめいている。

 

 中曽根の「憲法改正試案」で判明したことは、その名称が『高度民主主義民定憲法草案』とか、「日本は、主権が国民に存する民主主義共同体」とか、異様なほどの「民主主義礼賛」と反日的なムードを醸し出す“国家否定”色が強い。

 

 「共同体」などとせず、なぜ素直に「国」と言わないのか。ルソーは『社会契約論』の中で、「社会契約」の理想国家のことをしばしば「共同体」と呼ぶことからしても共産主義の影が見え隠れする。



 

 また、「国家間の一体的な平和秩序」などと、スローガン「平和」も乱発する。さらに「労働」という二文字をも中曽根憲法は重視する。ここまでくると、「平和」(=レーニンの「平和」=「世界共産化」)と「民主主義」(=人民民主主義=共産主義)」「労働者(=プロレタリアート)」の共産主義の臭気が中曽根憲法を包んでいることが明らかになってくる。



 

 中曽根の構想する統治機構は「憲法評議会」が最高権力機関であり、この「憲法評議会」の下に、行政の全権を握る「内閣」を置くもので、“内閣首相は公選”される。



 つまり、「憲法評議会」=「ソ連共産党政治局」と「内閣首相およびその内閣」=「米国の大統領の行政府」とが共同で独裁するという、何とも奇妙な政治システムである。



 

 しかし、この中曽根の統治機構においては、「憲法評議会」が「公選首相」を支配しているから、アメリカ大統領的「首相公選」でカムフラージュしたスターリン体制が主軸となっている。中曽根は国民を「労働」に強制的に駆り出すことからも、ソ連の計画経済をモデルに考えていることがわかるが、このことと中曽根が「理想政治」として描く変型スターリン体制とは符合する。



 

 中曽根は言う(1997年6月1日、月刊誌『正論』誌上)、



 「(首相公選を提唱した理由は)第一に、現在の日本の議院内閣制は、次の時代を切り開く原動力である科学と労働を中軸とする長期計画(=ソ連の五カ年計画のような計画経済)の推進力となっていない」



 

 「アメリカは国民の直接選挙による大統領制で、任期四年、平均二回当選するから在任八年、(計画経済の)三カ年計画は三回繰り返すことができる。ソ連においては、権力的強制により、スターリンもフルシチョフも任期はその葬式まで続く。そして五カ年計画を既に数回繰り返している。このような国が飛躍的に前進し、日本やイギリスやイタリー、フランスのような国が追いつけない原因はここに明らかであろう」

51・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/02/06(土) 08:16:58
>>50
 1997年と言えば、1991年12月25日のソ連崩壊から約6年半も経っており、ソ連の暗黒の74年間の実態も明らかになっているのに、「ソ連が飛躍的に前進し」とは何という不見識であろうか。

 

 科学技術(軍事技術)の発展のために、約六千五百万人の国民を殺戮したのが、レーニン/スターリン体制のソ連の実態である。それも周知のはずである。



 中曽根の「憲法評議会」はまず、「公選首相」の独裁を固める機関である。この「憲法評議会」と「公選首相が」組めば、国会の立法をすべて無効にできるようにしている。



 

 つまり、「公選首相」の提出する法案のみを無審査で拍手して通過させる“拍手屋”に国会議員を貶めて(=共産党支配下のソ連邦最高会議のような国会にして)、実質的に国会を形骸化することを定めている。

 

 議院内閣制は国会あっての内閣だから、議院内閣制に対する中曽根の憎悪は国会への憎悪になっている。中曽根の議院内閣制の廃止論は、“国会の実質廃止論”となっている。



 

「中曽根憲法」は、このところを、次のように書いている。これでは、国会はどんな法律を立法しても、「内閣首相」の気に入らなければ「八日以内」に無効にされる。

 

 「第九十六条・・・・内閣首相・・・・は、法律については公布前に、条約についてはその発効前に、当該の法律又は条約がこの憲法に違反するかどうかの裁定を、憲法評議会に要求することができる」

 

 「憲法評議会は、要求の日から一箇月以内に裁定しなければならない。ただし、緊急の必要がある時は、・・・・当該期間を八日とすることができる」

 

 この「憲法評議会」は「衆・参の両議長(2名)と内閣首相経験者と衆・参議長の推薦する各三名(3+3=6名)からなる」(第九十三条)としているから、この憲法改正直後では「内閣首相経験者」が不在で計8名がメンバーである。つまり、「内閣首相」と衆・参議長の三名が組めば、他の六名は彼らのイエス・マンを推薦するだろうから、この「憲法評議会」は完全に牛耳れる。日本のすべての法律と条約を支配できる。

 

 中曽根の「首相公選」制とは、まずは“トロイカ(三者=公選首相、衆・参議長)独裁”であり、次に最初の「公選首相」が第二代にその席をを譲って、第一代の「内閣首相経験者」となって「憲法評議会」のメンバーになってしまえば、あとは実質的に憲法評議会を独裁できるから、このときスターリン体制が確立する。

 

 さらにそうなってしまえば、憲法改正など易々とできるから、共産主義者の中曽根は、自分の憲法試案に嫌々ながら書いている、第一条〜第十一条までのいわゆる「天皇の章」をすべて削除する憲法改正をするだろう。



“議院内閣制”と“君主制”とは不可分のものであって、前者の消滅は後者の消滅の口実に必ず至る。





実際に中曽根は、天皇制を廃止することを絶対前提としているから、「首相公選」という言葉を造り、「総理大臣公選」という君主制から生まれた言葉を嫌う。また、珍妙な言葉、「内閣首相」を造語して「内閣総理大臣」も決して用いない。





さらにレーニンの独裁行政機関の名称をもじった「内閣委員」などという新語を造って「国務大臣」という言葉を断固排除している(第七十八条)。





「内閣総理大臣」や「国務大臣」という名称は、“君主の臣下”から生まれた、君主制あっての内閣用語である。君主制廃止を想定して、前もってそれを用いていないのである。





実際に共産主義者は、「総理大臣」を嫌い必ず「首相」という。「○○大臣」の言葉を嫌い「○○相」にこだわる。





要するに、君主制の下で自然的に発展して今日に至っている議院内閣制への中曽根康弘の憎悪感情は、「君主制の内閣」を一掃せんとする「赤い」情動(=共産イデオロギー)を原点としている。





なお、今から八十年以上も昔のロシア革命を思い出して欲しい。レーニンがロマノフ王朝を倒し、世界初の共産国家をつくった時、政府の各官僚を「外務人民委員(=外務大臣)」「内務人民委員(=内務大臣)」・・・・と命名して、それまでの「大臣」という呼称を廃止した。





中曽根は意識してこれを継承している。中曽根の正体がレーニン/スターリンの直系であるのは疑う余地がない。いわゆる「極左」である。





また、中曽根は共産主義者の暴力革命を援護する平和運動の担い手の一人として、「反軍隊」「反軍備」も主張する。中曽根憲法改正試案が、日本共産党の「反戦平和」の一分派であるのは、何の不思議さもない。

52・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/02/06(土) 08:22:58
>>51
中曽根はまず、軍隊(国防軍)の章を憲法の末尾にもっていく。(第百一条〜七条)しかも、その第一任務が“国防”ではなく、「国際平和機構」への協力である。(第百十一条)。それは次のような規定であって、この「国際平和機構」は国連を意味していない。





「第百十一条 国は、・・・・国際的な相互集団安全保障制度に参加することができる。・・・・主権の制限に、他国とともに同意することができる」





「主権の制限された相互集団安全保障制度」と言えば、冷戦時代のソ連の植民地としての東欧諸国が強制加入させられた「ワルシャワ条約機構」が典型的である。中曽根は、日本が「反軍備」「反軍隊」の状態において、ソ連に無血占領されてソ連の支配下のアジア集団安全保障の軍事機構の一員になることを想定している。





「前文」にある「国家間の一体的な平和秩序」もこの意味であろう。日本がソ連に占領されてソ連と一体的に「平和=共産化」になると言っているのである。かつての社会党党首・土井たかこの「平和憲法第九条死守、自衛隊違憲➡ソ連の日本無血占領➡社会党政権樹立」の論理と全く同じである。





中曽根康弘の「反軍備」「反軍隊」の共産主義イデオロギーは、彼の防衛庁長官(1970年〜71年)として、また、総理大臣(1982年11月〜1987年11月)としての“行動”において、もっと鮮明であった。ほんの数例をあげる。



【防衛庁長官時代】

イ) 左派社会党のイデオローグの一人で、生涯その本心は過激な親ソ主義・スターリン崇拝者であり続けた猪木正道を、防衛大学校校長に起用した(1970年7月)



【総理大臣時代】

イ) コミュニスト(共産主義者)と広く認知されていた三木武夫の反防衛政策の一つ「防衛費GNP一パーセント枠」(1976年11月)をすぐ廃棄するだろうという国民全体の予想に反して、それを断固堅持した。



ロ) 米海軍との五ヶ国共同演習「リムパック’84」への海上自衛隊の参加を禁じる策謀をなした。なお、海自は中曽根の圧力に屈せず、1984年5〜6月、艦艇五隻と哨戒機八機を参加させた。



ハ) ヒロシマの反核集会への、自民党総裁としての事実上初めての出席(1983年8月6日)。この時、秘書官等が作成したスピーチに自ら「非核三原則は国是」等を独断で加えた。この1983年秋には米海軍艦隊の核トマホーク搭載とその寄港(トランジット)の問題が予定されており、自民党内はもとより日本国内では、非核三原則の撤廃か、少なくとも「核のトランジット(寄港)は、核の持ち込みとはしない」との政府答弁かは時間の問題とだと予想されていた。これを百八十度逆に裏切ったのである。また、このスピーチで「核廃絶は平和」の文言を中曽根自身が挿入した。米国の“核の傘”に依存する日本政府の安全保障政策を「核廃絶」の是認において否定した。



ニ) 日米同盟の正常化に不可欠な「集団的自衛権の行使は合憲」という政府解釈の変更をすぐするだろうと予測されていたが、中曽根は頑としてそうしなかった。



ホ) KGB将校スタニスラフ・レフチェンコの米国亡命(1979年)と米議会での証言(1982  年7月)により、KGBによる日本のスパイ組織網に関するKGB日本人エージェント約二百人のうち、何名かは実名で報道されたりして、自民党はスパイ防止法を議員立法する直前まで準備していた。また、警察庁もいつもとは違って捜査を精力的に進めていた。が、1983年5月、警察庁は捜査打ち切りを発表した。また、自民党内でも同年秋頃には、スパイ防止法制定の動きがぱったりとまった。中曽根総理が中止させたという噂が飛び交った。コード名「クラスノフ」の瀬島龍三をかばうためであったとか、中曽根自身に火の粉が飛ばないようにしたのだという憶測はそれなりに根拠があった。少なくとも、これほどの「証拠」がレフチェンコから出されながら、一人の逮捕者も出ない、自民党のスパイ防止法もお蔵入りしたことにつき、中曽根総理が無関係であったとするのは無理があった。

53・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/02/06(土) 08:26:45
>>52
 中曽根とは「右」を演技する天才名優であった。(今でもそう騙されている日本人がほとんどだろう。)その手法は、まっすぐと「右」の“言葉”を発して、「右向け右」のムードをつくって、その中で「極左」の“行動”をするのが常であった。

 

 例えば、本物の保守主義者であった米国大統領レーガンを騙して「ロン・ヤス関係」をつくっておいて、その上で米国との同盟協力を秘かに極力妨害する。



 例えば、極東のソ連空軍基地を先制攻撃するぞ!と同じ意味をもつ、「ソ連のバックファイアー爆撃機から日本列島を不沈空母にする」という、口先だけのメッセージをレーガンとの首脳会議をしたワシントンでぶちあげておいて(1983年1月)、その半年あとにヒロシマに行き、「核武装は決して致しません」「米国の核トマホーク艦船を入港させません」とソ連に媚を売り、共産党系の平和運動家と見紛うほどの「反核」に戻る。

 

 あるいは、靖国神社に参拝しておいて(1985年8月15日)、中国共産党からの抗議があると直ちに同意する。そして中共と一緒になって、A級戦犯が合祀されている以上、天皇も総理も参拝はできないと派手に大キャンペーンする。法務死(刑死)となったA級戦犯の遺族から「分祀」の同意を取り付けようとまでした。



“天皇・総理の靖国参拝つぶし”の固定化というより、靖国神社そのものの解体が狙いであろう。

 

 なお、このA級戦犯合意問題は、官房長官でコミュニストの後藤田正晴を通じて中国共産党と事前に打ち合わせたシナリオに従った、いわゆる自作自演の可能性が高い。

 

 そして執拗にも、2004年2月にまた、中曽根は本件をむし返し、神道そのものの否定に通じる「完全分祀」の圧力をかけた。“靖国神社解体”の手を、無神論者の中曽根はゆるめようとはしない。

 

 戦後日本の政治腐敗の原因は、中曽根のように自らの信条を隠し有権者を騙し国民を騙す政治家が無数に輩出するばかりか、国民もまた、政治家の発言や行動からその人物の正体を見抜く、政治的知見を欠き、放置してきたことが大きい。



 むろん、政治家だけでなく、変節の学者や偽装の知識人、偏向マスメディア人は、政治家以上にその数が多い。



 一言で言えば、戦後日本をダメにしたのは米国でもないし、「東京裁判」でもない。

 中曽根康弘・後藤田正晴・瀬島龍三・末次一郎・猪木正道の「スターリン五人衆」を放置したことに見るように、その腐敗と堕落はすべて日本人の退嬰的な無教養と無責任に発している。



 そして、その傾向はますます強くなっている。



 そのため、このブログは、日本国民に最低限の、政治的教養と責任は身につけてもらいたいと思って作成している。



 










(参 考)リンク➡ 中曽根康弘『憲法改正試案(原文)』(1961年1月1日付)







また、中曽根康弘が会長を務める、(財)世界平和研究所が2005年1月20日付で、平和研憲法草案を発表している。この草案は明らかに上記の1961年1月1日付の中曽根試案をベースにしている。

(参 考)リンク➡(財)世界平和研究所 憲法試案(2005年1月20日付)





  

  私のホームページへのリンク➡エドマンド・バーク保守主義

(次回へつづく)

54・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 07:47:30
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

ミトロヒン文書とレフチェンコ・メモ

『ワールド・インテリジェンス』第4号にも書いたが、元KGB職員のワシリー・ミトロヒン氏(故人)とイギリスのインテリジェンス・ヒストリーの大御所であるクリストファー・アンドリュー氏の共著『ミトロヒン文書Ⅱ』と、日本の公安筋が作成したレフチェンコ・メモを付き合わせると、いろいろ興味深いことが見えてくる。
 たとえば、日本の新聞各紙が書かないところが、マスコミ内部のエージェントたちの件だ。レフチェンコ・メモには、サンケイ新聞編集局次長の山根卓二氏(コードネームは「カント」)、読売新聞の外山四郎記者(トマス)、テレビ朝日の三浦甲子二専務(ムーヒン)、『インサイダー』の山川暁夫氏(バッシン)の実名が明らかにされているほか、実名は不明ながら、サンケイ新聞東京版記者で山根編集局次長を補強しうる「デービー」(コードネーム・以下同)、韓国問題専門家の東京新聞記者「カミュ」、共同通信記者の「アレス」、大手新聞元モスクワ特派員の「アギス」、フリージャーナリストの「ドクター」の存在が明記されている。
 このうち、「友好的人物」あるいは「無意識の協力者」とファイルされている人物が、外山四郎氏、三浦甲子二氏で、その他は意識的な協力者ないしはKGBの正式エージェントということになっている。
 一方、ミトロヒン文書では東京新聞記者の「コーチ」、朝日新聞の「BLYUM」、読売新聞の「SEMIYON」、産経新聞の「KARL」(あるいは「KARLOV」)、東京新聞の「FUDZIE」、社名不詳大手新聞の「ODEKI」、社名不詳ジャーナリストの「ROY」、詳細不明の「FET」(あるいは「FOT」)の存在が指摘されている。ミトロヒン文書とレフチェンコ・メモにあるエージェントのコードネームはいずれも一致しないが、一部に同一人物がいるものと推定される。
 もっとも、記者の場合はネタ元としてソ連大使館員あるいはKGB要員に接触することもあるだろうから、彼らが必ずしもホンモノのエージェントだったとは断定できない。KGB要員側が勝手にエージェントにファイルしているケースも考えられる。
 その点、これは明らかに悪質だと考えられるケースもある。
 ひとりはレフチェンコ・メモに「フリージャーナリストの『ドクター』」と記載されている人物である。レフチェンコ証言によれば、彼は元共産党員で、ただ情報を提供するだけでなく、KGBの秘密活動をバックアップしていたという。これはもう犯罪行為といえる。
 もうひとりは、ミトロヒン文書で「社名不詳ジャーナリストのROY」となっている人物だ。この人物について、ミトロヒン文書の説明文では「金銭目的でKGBに協力。日本の防諜機関上級幹部のリクルートに貢献」となっている。
 じつは、この説明に符合する人物がレフチェンコ証言にもある。共同通信記者の「アレス」だ。レフチェンコ証言には、アレスは「公安関係の友人から膨大な秘密情報を入手し、KGBに渡していた」とある。レフチェンコの回想録『KGBの見た日本』では、こんな表現もある。
「ソ連のために働く日本在住の優秀なジャーナリストがいる。有力通信社勤務で、若い頃、プロニコフというKGB東京支部員にリクルートされた。日本の公安関係機関の秘密情報をもう何年も提供してくれていた」
 こうしたことから、『ミトロヒン文書Ⅱ』でもROY=アレスと断定されているのだが、これらの記述をみるかぎり、ROY=アレスは完全なスパイといえる。公安に食い込んでいた優秀な記者というならば、もしかしたら著名なジャーナリストなのかもしれない。KGB側は金銭目的としているが、記者ならばバーターでソ連情報を入手していた可能性もある(当然ながらKGB要員は自己保身のため、自分が記者にネタをバーターしたとは報告しない)。とするならば、ROY=アレスはソ連情報に強い記者として共同通信内で鳴らしていた人物だった可能性もある。
 レフチェンコ証言によれば、アレスは70年代半ばに日本の防諜機関にマークされたために一時スパイ活動を縮小していたが、77年より再び活発に動き始めていたという。では、70年代前半に公安情報とソ連情報に強いとして鳴らした共同通信記者とは誰か? そうたくさんいるわけではないだろうから、同社関係者ならだいたいアタリはつくのではないか。

55・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 07:58:19
>>54
 そんなROY=アレスにエージェントに引き込まれた公安機関幹部も問題だろう。レフチェンコ・メモによればコードネーム「シュバイク」。ミトロヒン文書には、「ROYは日本の防諜機関幹部(KHUN)をリクルートするにも役立った」とあるが、このKHUNがシュバイクだったのか。あるいは、レフチェンコ・メモには元内閣調査室員「マスロフ」がKGB正式エージェントだったとあるが、KHUNとマスロフはともに「中国情報に強い」とあるので、こちらが同一人物かもしれれない。いずれにせよ「KHUN」あるいは「シュバイク」あるいは「マスロフ」の行動も問題だろう。

 日本の政治家としては、レフチェンコ事件の際にすでに実名がいくつも漏洩しており、大きな問題になった。レフチェンコが実名を明らかにしたのは、自民党の石田博英氏(フーバー)、社会党の勝間田清一氏(ギャバー)、伊藤茂氏(グレース)、佐藤保氏(アトス)である。(その他、レフチェンコ・メモに実名が記載されている人物に上田卓三氏がいる)
 このあたりはKGBに利用されたということなのだろうが、ミトロヒン文書によって、じつはかなり悪質だったのではないかとの疑念がもたれるのが、石田博英氏だろう。この人物は親ソ派で知られた人物だったが、ソ連側の意向を受けて政府中枢にいろいろ働きかけていたらしい。ソ連側が嫌った駐モスクワ日本大使の召還を福田首相に意見していたなどという話も指摘されており、明らかに親ソ派政治家の域を超えているようにみえる。
 ミトロヒン文書では、自民党関係者にさらに2人のエージェントがいたと指摘されている。自民党議員の「KANI」と、田中角栄の側近の「FEN」である。
 このうち、FENはおそらく、レフチェンコ・メモに「フェン・フォーキング」というコードネームでファイルされていた人物と同一人物と推定される。じつは、レフチェンコ事件の際、関係者がいちばん大きな関心を寄せたのが、このフェン・フォーキングの正体である。レフチェンコ・メモによれば、彼は「自民党員で、党内の一派閥に影響力を及ぼしえる立場にいる。KGB東京支部の中国班が担当している」とあった。
 このフェン・フォーキングの正体について、マスコミでは一時期、レフチェンコのアメリカ議会証言直後に自殺した中川一郎代議士ではないかとの噂があった。だが、中川議員であれば、わざわざ自民党員と記すのはおかしい。レフチェンコ・メモの説明文からは、議員本人ではなく、派閥領袖クラスの大物議員の大物秘書のような立場の人物が強く示唆される。
 ということで、これは誰も表立っては言わなかったが、マスコミ記者のあいだでは、「鈴木宗男さんじゃないの?」という噂も根強かった。なぜKGB中国班かというのは謎だが、自民党員で一派閥に影響力を及ぼしえる人物で、ソ連との関係が深い人物ということではまさにドンピシャリだったからだ。
 だが、今回のミトロヒン文書によって、鈴木氏でないことが判明した。「田中角栄の側近の自民党員」であることが明らかにされたからだ。
 ということは、謎のフェン・フォーキングはいったい誰なのか? 田中角栄本人あるいは側近議員の大物秘書、金庫番、後援会のドン、のような立場の人物だったのか?

56・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:02:07
>>55
 この他、ミトロヒン文書から、とくに見逃せないケースがいくつか明らかになっている。明らかにKGBスパイとして活動した外務省職員の「RENGO」および「EMMA(女性)」。レフチェンコ・メモには「レンゴー」は外務省職員で夫妻でエージェントだったとされているので、2人はおそらく夫婦で外交官だったのだろう。彼らのスパイ活動は明らかに違法と思われる。
 また、ミトロヒン文書で「MISHA」、レフチェンコ・メモで「ナザール」と記載されているおそらく同一人物の外務省電信官は、ハニートラップでKGBに篭絡された後、金銭報酬で日本の外交公電をKGBに流し続けるという明らかな犯罪行為を長年続けた人物ということである。レフチェンコ・メモとミトロヒン文書に存在が記された日本人エージェントのなかでも、もっとも日本に損害を与えた悪質な人物といえる。
 この他、これはマズイのではないかと思われるケースを挙げてみよう。
 たとえば、そのほとんどが駐ソ連日本大使館勤務経験のある外交官たちがいる。ミトロヒン文書では「OVOD」(2回もハニートラップに引っ掛かった)、「MARCEL」などの存在が明記されている。MARCEL経由では駐ソ連日本大使館に派遣されていた防衛駐在官「KONUS」もリクルートされている。防衛駐在官がKGBにリクルートされていたという話は今回のミトロヒン文書で初めて明らかになったことだ。
 社会党議員のブレーン的存在で、親ソ派研究者の指導的立場にあった大学教授の「ヤマモト」も、これらの資料から、KGBエージェントであることが明らかな人物である。ミトロヒン文書によれば、ヤマモトがKGBにリクルートされたのは77年。それ以降、活発に政治的な活動を開始した著名な教授とはいったい誰か? これも関係者にはなんとなく「あああの先生では・・・」とわかるのではないだろうか。


2007/01/08(月) 01:37:55|

スパイ&テロ ミトロヒン文書とレフチェンコ・メモ
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-41.html

57・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:20:55
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

フェン・フォーキングは誰?

 本日発売の『週刊エコノミスト』に「噂の検証〜松岡利勝前農水相自殺でなぜか浮上 “宗男=KGBスパイ”説の怪」という記事を執筆しました。弊誌の読者にはすでにお馴染みの「レフチェンコ・メモ」+「ミトロヒン文書」のネタですが、興味のある方はぜひどうぞ。

 じつは当ブログにこの“宗男=KGBスパイ”説についてちょっと前に書いたのですが、その直後にエコノミスト誌に書くことになり、業界の仁義として削除していました。
 ですが、ネットの怖いところは、半日くらいで削除したはずなのに、もうデータが残され、複製が出回ってしまっていることですね。まあ、しかたないですが。
 それにしても、宗男説が消えたフェン・フォーキングは誰?
「角栄の側近」といえば、元共産党員のアノ人???じゃないですよねえ。話が面白すぎますし……。

2007/06/18(月) 18:31:36|

スパイ&テロ フェン・フォーキングは誰?
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-64.html

58・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:26:32
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

ロシア・欧州の情報機関/日本の戦後情報秘史

 第7号校了しました。
 今回、当初は「ロシア・欧州の情報機関」という特集テーマで企画進行していましたが、昭和の情報史に関する秘話をいろいろ取材していくうちに、興味深い記事がいくつも集まりましたので、急遽、特集を「ロシア・欧州の情報機関/日本の戦後情報秘史」の2本立てに。ちょうど創刊1周年記念号でもありますし、なかなか豪華なラインアップになりました。
「ロシア・欧州の情報機関」のほうは、「ロシアのインテリジェンス機構」や「EU全27カ国の情報機関総覧」などに加え、私もほとんど知らなかった「NATO」や「EU」のインテリジェンスのしくみも解説しています。いずれもイギリス在住の日英大学院生の手によるものですが、詳細なところまで調べ上げていて、まず他紙誌では絶対にお目にかかれないハイレベルな内容になっています。乞うご期待です。
 他方、「日本の戦後情報秘史」のほうは、「CIA機密解除文書からわかる昭和裏面史」「“F機関”指揮官=藤原岩市の戦後」「日米を繋いだ政界ブレーン=天川勇・元海軍大学校教授」「元公安調査官が語る昭和“対ソ連”諜報戦の舞台裏」など。日本人が知らなかった昭和期のインテリジェンス世界について、いくつものエピソードを掘り下げます。

2007/06/23(土) 09:04:11|

スパイ&テロ ロシア・欧州の情報機関-日本の戦後情報秘史
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-65.html

59・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:37:47
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作とフェン・フォーキング①

アクセス解析をみていたら、5月31日より「フェン・フォーキング」をキーワードに検索したヒットが極端に急増していた。どうやら、松岡大臣自殺→盟友・鈴木宗男→「宗男=フェン・フォーキング」説、という連想のようだ。
 フェン・フォーキングとは、かつてレフチェンコが暴露したという日本人エージェントのリストに載っていたコードネームで、「謎の自民党員」のことである。かねてより宗男=フェン・フォーキング説というのはマスコミ記者のあいだでは有名な話だったが、一昨年イギリスで公表された旧KGB文書の分析書『ミトロヒン文書Ⅱ』によって、「どうもガセらしい」ということになった。
 けれども、おそらく宗男=フェン・フォーキング説はなかなか面白い話なので、ネット世論を中心にどうやらかなり出回っているようだ。
 弊誌では、昨年12月発売の第4号でミトロヒン文書とレフチェンコ・メモ(弊誌では公安筋より現物入手)について長文の解説記事を掲載し、さらにその一部を当ブログで紹介したが、せっかく多くの人にアクセスしていただいているので、今回より数回に分けて、弊誌掲載の元原稿をそのままここでアップしてみたい。
 このくらい具体的な内容が弊誌では毎号読めますので(たぶん)、今後も御購入をお願いいたします!

60・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:40:58
>>59
KGBの対日工作とフェン・フォーキング①


「ミトロヒン文書」と「レフチェンコ・メモ」
KGBの日本人エージェントは誰だったのか?

KGBの元文書保管担当者がイギリスに持ち出した大量の資料――。かつてアメリカに亡命した元KGB東京支部工作員の証言――。この2つの情報源から、冷戦時代の対日工作が見えてくる。

持ち出された機密情報

 1992年4月、ワシリー・ミトロヒンという旧KGBの幹部が2000ページもの大量の機密文書の手書きの写しとともにイギリスに亡命した。ミトロヒン氏は22年生まれ。48〜84年にKGB海外部門(第1総局)の将校として勤務していたが、なかでも72〜84年には第1総局の書庫の機密文書を整理し、新書庫に移す作業を指導していた。その際に、多くの機密文書を書き写していたのである。
 この大量の資料は、イギリスのインテリジェンス学の権威であるクリストファー・アンドリュー・ケンブリッジ大学教授(現在はコーパス・クリスティ大学学長兼任)によって詳細に分析された。その後、99年にミトロヒン氏とアンドリュー教授の共著として『欧州と西側のKGB〜ミトロヒン文書』が出版された。同書はミトロヒン文書のなかでも、対欧米工作がメインとなっていた。
 ミトロヒン氏自身は2004年に死去したが、その後、残りのアジア、中東、中南米、アフリカでのKGBの工作についてまとめた続編『ミトロキン文書Ⅱ』が2005年9月に出版された。
 ここではまず、同書内の「日本」の項を以下に抄訳する。

61・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:43:13
>>60
『ミトロヒン文書Ⅱ』第16項 JAPAN

 KGB東京支部は冷戦時代を通じ、日本の対ソ外交政策をソ連に有利なように仕向けるため、積極的なウラ誘導工作=アクティブ・メジャーズ(積極工作)に力を入れた。とくに、日本とアメリカの間にくさびを打ち込むことが優先された。
 なかでも、60年安保闘争の際にいくつかの工作が行なわれた。そのひとつは、予定されたアイゼンハワー米大統領の訪日時にいくつかの破壊活動が行なわれるかもしれないという不穏情報を流すことだった。
 また、KGB本部の対外部門である「第1総局」内の欺瞞情報・秘密工作セクションである「A部門」が偽の日米安保条約付属書作戦を企画し、KGB東京支部が実行した。これは、「日本国内の暴動を鎮圧するために米軍の出動を認めるなどの旧日米安保条約の協定が、極秘で継続されることを確認する秘密付属書がある」という偽情報を流すことだったが、これはいくらかは安保反対の学生運動を鼓舞することに成功した。
 KGB本部では、日本はNATO加盟国と同様の主要な工作対象国と認定した。60年代を通じて、KGB東京支部の「F系統」(特殊活動担当)が活発に活動した。
 F系統は、本部で非合法破壊活動を実行する「破壊活動情報グループ」(DRGs)に直結したセクションとして、日本国内での非合法破壊活動を担当した。毎年、4〜6つ程度の対象に対する破壊工作の作戦が立てられたが、そこでは主に在日の米系施設が狙われた。たとえば、62年にF系統は、沖縄の米軍基地および全国4カ所の精油所に対する破壊工作を準備した。
 また、F系統は、DRGsのための日本国内の秘密拠点を作ることも指示された。70年には北海道の北西海岸に4カ所の秘密上陸地点を確保した。その上陸拠点は、KGBの資料では、正確な地図および詳細な地形説明とともにそれぞれコードネームを付けられてファイルされた。上陸拠点のことは「滑走路」(Dorozhka)、その他のDRGsの拠点は「蜂の巣」(Uley)と呼ばれた。
 KGB東京支部はまた、日米関係に打撃を与えることを目的とする平時の破壊工作に熱中した。さまざまな作戦が企画されたが、そのときに使われたF系統の隠語を例示すると、破壊活動を「ユリ」(Liliya)、爆薬装置を「花束」(Buket)、起爆装置を「小花」(Tsvetok)、爆発を「スプラッシュ(=跳ね散らす)」(Zaplyv)、破壊活動実行者を「庭師」(Sadovnik)と呼んだ。
 F系統が企画した破壊活動にひとつに、バルカン作戦がある。これは、65年10月のベトナム反戦デモと同時に東京のアメリカ文化センターの図書館を攻撃するという計画だった。ノモト(野本あるいは野元か)という工作員が閉館直前に図書館の本棚に、本型爆弾とタバコ箱内に隠した起爆装置を置く。タイマーは翌朝の早い時間にセットすることになっていた。KGBの犯行であることを隠すため、本部の「A部門」が、日本の極右グループにみせかけたビラを準備した。
 米国=日本関係で危機を引き起こすためにF系統によって考案された最も劇的な計画は、東京湾に放射性物質を撒き散らし、横須賀基地のアメリカ原子力潜水艦への非難を引き起こすという69年の計画だった。
KGB東京支部はその作戦を承認したが、ソ連製放射性物質を使った場合にそれが露呈する可能性があることと、かといってアメリカから適当な放射性物質を得ることが難しいということで、KGB本部で却下された。
 71年、F系統の将校オレグ・リャーリンがロンドンで亡命したため、KGBは非合法破壊活動全体を劇的に縮小させた。東京支部のF系統担当者たちも一斉に本国に召還された。ミトロヒン氏は、「KGB資料には70年までの日本での数々の非合法破壊活動計画がファイルされていたが、その後はまったくなかった」としている。

62・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:45:21
>>61
影響力のエージェント

 他方、アクティブ・メジャーズと政治・経済・軍事・戦略情報を担当する「PR系統」は、60年代前半に日本共産党の支持を失うという手痛い目にあった。中ソ関係が決裂した際に、日本共産党を中国にとられてしまったのである。日本共産党は、それまでのソ連KGBの「資産」からいっきに監視対象となった。
 KGBの日本での活動は、長年のKGBの協力者だった中国人の「ジミー」を63年に失ったことによって大きダメージを受けた。ジミーは中国情報機関の支援を得て、香港と東京に貿易会社を設置していて、KGBの非合法要員のために偽の香港の身分証を入手していたのである。ジミーの配下の非合法員だった中国系ソ連人「ワシリーエフ」は、東京で学生に扮していたが、日本人女性と結婚するためにソ連への帰国を拒んだ。
 こうして、中国との対立から日本共産党を失ったKGB東京支部にとって、62〜67年にもっとも重要だったエージェントは「KOCHI」というコードネームの『東京新聞』の記者だった。この人物は、内閣と外務省から高い水準の内部情報を入手していた。KGBファイルによると、KOCHIがリクルートされたのは62年のこと。ただし、67年からその情報価値がKGB部内で否定されていて、74年に記者を辞めた1年後の75年にはエージェント登録を抹消されている。
 なお、日本共産党との関係が切れたKGB東京支部は、次に日本社会党左派にコネを構築し、「KOOPERATIVA」とコードネームを付けた。彼らは、いわゆる「影響力のエージェント」である。
(※編集部注/影響力のエージェントというのは、インテリジェンス専門用語で、要は「自分たちの都合がいいように相手国内で言動する影響力の強い人物」のこと。工作対象を出世させて影響力をつけさせるために資金援助するケースも多い)
 70年2月26日に、ソ連共産党政治局は、日本社会党とその機関紙に助成金を支給するために、合計10万ルーブル(当時、3571万円)の支出をKGBに承認した。類似した助成金は、毎年払われたようだ。
 たとえば、72年に支払われた10万ルーブルのうち、6万ルーブルは政治資金として各議員個人に渡された。1万ルーブルは日本社会党とソ連共産党の交流資金、2万ルーブルが日本とアメリカおよび中国との関係に打撃を与えるアクティブ・メジャーズ工作資金、1万ルーブルが日本社会党に公明党や民社党など他の野党と提携させないためのアクティブ・メジャーズ資金として使われた。
(以下、続く)

2007/06/25(月) 09:44:48|

スパイ&テロ KGBの対日工作とフェン・フォーキング①
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-67.html

63・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:54:49
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作②

社会党最高幹部と自民党大物議員

 この頃、すでにおそらく5人の有力な社会党員がKGBのエージェントとなっていた。
▽勝間田清一
 コードネームはGAVR。彼は66年の日本社会党書記長選挙の次点者で、74年にその党内地位を強化するために400万円をKGBから受け取っている。KGBでは社会党中道派のリーダーと評価されていた。
(※ミトロヒン文書に勝間田氏の名前はないが、後にレフチェンコ氏がGAVR=勝間田氏と断定した)
▽佐藤保
 コードネームはATOS。社会党左派(マルクス主義派)のリーダーで、4つの党刊行物の責任者だった。KGBファイルには、佐藤氏が日本社会党機関誌に記事を掲載するための資金として73年10月に40万円をKGBから渡した記録がある。
(※ミトロヒン文書に佐藤氏の名前はないが、これも後にレフチェンコ氏がATOS=佐藤氏と断定)
▽ALFONS(実名不明)
 社会新報に記事を書いていた。72年に250万円受け取っている。KGBファイルには、社会新報に記事を書くために15万円が支払われた記録もある。
▽DUG(実名不明)
 日本社会党委員長に非常に近かった社会党員。選挙資金として72年に39万円を渡された。
▽DIK(実名不明)
 選挙ビラとポスター制作費として72年に20万円を支給された。
――それ以外にも、社会党でKGBエージェントとファイルされていたのは以下の通り。
▽JACK(キリル文字でDZHEK/実名不明)
 73年からエージェント。社会党議員。
▽伊藤茂
 コードネームはGRACE。社会党議員で党中央委員会のメンバー。おそらく75年よりエージェント。
(※ミトロヒン文書に伊藤氏の名前はないが、これも後にレフチェンコ氏が断定。レフチェンコ氏はその他に、ミトロヒン文書に出てこない2人の社会党員「RAMSES」と「TIBR」の存在も断定している)
▽DENIS(実名不明)
 江田三郎・社会党書記長の親しい側近。
▽KING(実名不明)
 後に日本社会党の幹部となった。
▽KERK(実名不明)
 勝間田派議員。KGB東京支部と日本社会党執行部のコネに重要な役割を果たした。
――この他にも、70年代には著名な労働組合活動家などがいた。
 ミトロヒン氏のメモによれば、DENISとGRACEのファイルには、彼らがエージェントになった動機は、イデオロギーと金銭獲得の両方だったと書かれていたという。他の社会党議員の場合もほぼ同様と思われる。

64・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:57:26
>>63
 また、KGBファイルによると、親ソ派の学者で「山本」という人物が、KGBの協力者として議会で影響力を行使したという。「山本」がリクルートされたのは77年。以後、彼はKGBの意に沿うような国会質問が出るように議員に働きかけた。
 社会党以外の協力者でもっとも重要だったのは、「HOOVER」というコードネームだった自民党幹部の石田博英・元労相である。石田氏は73年2月に「日ソ友好議員連盟」(コードネームはLOBBY)の代表になり、同年の8月〜9月の訪ソ団の団長となった。この訪ソ団は17年ぶりの日本国首相の訪ソとなる田中角栄首相訪ソの直前に行なわれた。石田氏がソ連中央で重く扱われるようにKGBGが裏で支援した。
 主要な日本の新聞社(KGBが少なくとも1人の高い地位にあるエージェントを運営している)である朝日新聞は、73年夏のモスクワへの石田氏の訪問の後にこう書いた。
「ソビエト連邦は今日、ソビエト領海侵犯で拘留される全49人の日本人漁師をすぐに解放すると発表した。発表は、石田博英訪ソ団長とソビエト最高議会党任幹部会議長の会談時になされた」
 石田氏は74年にKGB東京支部のPR系統部長ウラジミル・プロ二コフによって正式に「影響力のエージェント」としてリクルートされた。この功績によってプロ二コフは叙勲されている。
 70年代前半期、日本でのKGBの活動は、非常に重視された。たとえば、73年の日本での活動資金は、KGB本部第1総局第7部が管轄する他の11のアジア諸国のどれと比べても3倍の規模であり、インドに対する工作資金とほぼ同額だった。
(※73年のKGB第1総局第7部の工作予算は、日本が20万3100ルーブル、インドが20万4600ルーブル、パキスタンが5万4800ルーブル、ラオスが1万9000ルーブル、タイが3万2500ルーブル、カンボジアが2万6700ルーブル、シンガポールが2万2600ルーブル、マレーシアが2万3600ルーブル、インドネシアが7万2800ルーブル、ビルマが3万5300ルーブル、ネパールが1万2200ルーブル、スリランカが3万0600ルーブル、バングラデシュが5万2900ルーブル。なお、後にインド、パキスタン、バングラデシュ、ビルマ、スリランカ、ネパールは新設の第17部に移管。ラオス、カンボジアは第6部に移管された)
(続く)

2007/06/26(火) 00:35:02|

スパイ&テロ KGBの対日工作②
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-68.html

65・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:12:25
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作③

マスコミ記者のエージェントたち

 73年の田中角栄訪ソの前後、KGB日本支部は、ソ連共産党政治局が承認した日ソ平和条約の調印を実現化すべく猛烈な世論工作を仕掛けた。その条約案は、日本側が日米安保条約を破棄し、在日米軍基地を閉鎖するのと引き換えに、日本側に歯舞・色丹2島を返還するとともに、漁業権で譲歩することになっていた。
 こうしたなか、石田博英氏は70年代を通じて日ソ友好議員連盟を足がかりに、「影響力のエージェント」として使われ続けた。
 77年には、KGBの要請に基づき、彼は個人的に福田赳夫首相に意見した。モスクワの日本大使夫妻がソ連反体制派と接触し、「歓迎されざる人物」になったから、日本に呼び戻すようにということだった。
 70年代の間に、少なくとも2人のエージェントが自民党内でリクルートされた。田中角栄の側近だった「FEN」と、KGB東京支部が積極的に篭絡した自民党議員の「KANI」である。
 ミトロヒン氏がみた74年と75年のKGBファイルによると、FENのリクルート工作は72年からスタートし、75年にかなり進展があり、ついには正式なエージェントとして取り込まれた。レフチェンコ氏の証言にある「フェン・フォーキング」とほぼ同一人物とみられる。
 KGBは、自民党の一部の派閥と日本社会に固有の腐敗につけこんだ。ただ、アメリカのロッキード社がばら撒いたような巨額の資金を持たないKGBは、ロッキード社のようには日本政財界の上層部に食い込むことはできなかった。
 メディア界のKGBエージェントの大多数はおそらく金銭目的だった。ミトロヒン氏が書き写したファイルには、日本社会党機関紙以外に少なくとも5人の一般マスコミの記者が特定されている。
 朝日新聞の「BLYUM」、読売新聞の「SEMIYON」、産経新聞の「KARL」(またはKARLOV)、東京新聞の「FUDZIE」、そして、社名不明な主要新聞社の上級政治部記者の「ODEKI」である。
 さらに、ジャーナリストの「ROY」(ファイルによると、彼はKGBとの取引を単なるビジネスと考えていた)は、日本の防諜機関上級幹部の「KHUN」をリクルートするのに役立った。KHUNはとくに中国に関する機密情報を提供した。
 なお、後にレフチェンコ氏が明らかにしたところでは、ROYはレフチェンコ氏がエージェントとして使っていた「ARES」なるコードネームの人物と同一人物だろうということだ。彼は60年代半ばにリクルートされ、「KR系統」(防諜部門)に運営された。
 彼は日本の機密情報に近く、完全に金銭目的で情報を流していたが、70年代半ばに日本の防諜機関にマークされたために、その後はあまり活動しなくなった。ただ、レフチェンコ氏によれば、ARESは77年に再び活動的になったということだった。
 ミトロヒン氏はそれ以外にも「FET」(あるいは「FOT」)というジャーナリストの存在を書き留めているが、この人物については具体的な情報はない。
 ところで、日本のマスコミ人のすべてのエージェントが、自発的だったというわけではなかった。とくに読売新聞記者のSEMIYONのKGBファイルについてのミトロヒン氏のメモには、「彼が70年代初期のモスクワ訪問の間に、『名声を陥れるような資料が作られた』ことが記されていた。それは、闇市場での通貨両替の摘発事例(おそらく国内防諜を担当するSCD=第2総局によるオトリ工作)と、不道徳な振る舞い(まず間違いなく変形的なハニートラップ)だったという。
 ソ連のエージェントとしての彼の6年間の活動の間、SEMIYONはしばしば、彼を解放するようKGBを説得しようとした。そして、彼が偽情報を流すのが発覚した後、KGB本部は結局、彼との接触を切断した。

2007/06/28(木) 18:22:48|

スパイ&テロ KGBの対日工作③
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-71.html

66・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:19:56
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

北方領土問題についての私見

 当ブログでは今、昨年弊誌で掲載した「KGBの日本人エージェントは誰だったのか?」という記事を転載していますが、前回記事の冒頭で、こんな文章がありました。

「73年の田中角栄訪ソの前後、KGB日本支部は、ソ連共産党政治局が承認した日ソ平和条約の調印を実現化すべく猛烈な世論工作を仕掛けた。その条約案は、日本側が日米安保条約を破棄し、在日米軍基地を閉鎖するのと引き換えに、日本側に歯舞・色丹2島を返還するとともに、漁業権で譲歩することになっていた」

 以上は、一昨年にイギリスで出版された『ミトロヒン文書Ⅱ』の日本の項の一部ですが、北方領土に対するロシア側の意識がよく表れているなと思います。
 日本では、ある日、突然にロシアが悔い改めて、「悪かった。北方領土が日本のものであるのは当然だから、返しましょう」などと言ってくるかのような幻想があるようですが、1956年の日ソ共同宣言のずっと後の73年の時点で、あちらはこんな意識だったということを、もう少しシビアに考えるべきではないかと思います。
 なにせ、「日米安保条約を破棄して在日米軍基地を閉鎖するなら、見返りに歯舞・色丹だけは返してやってもいいよ」なんですね。ものすごい「上から目線」なわけです。
 実効支配というのは、パワーポリティクスではそのくらいの価値があります。それなのに、そういう向こうの現状を〝見ない〟ようにして、希望的観測を振りまく言説がこの国ではやたら多いのではないかという気がします。
 私はこの問題をずっとフォローしているわけではないので、今どうなっているのかはわかりませんが、過去にこんな経験があります。
 91年春にゴルバチョフが来日し、さらにその年の夏にクーデター騒動があってエリツィンが実権を掌握し、ソ連解体へと繋がっていくわけですが、その間、モスクワに居住してその動きをずっと取材したことがあります。
 で、当時、日本のメディアに盛んに流れていたのが、「ついにソ連(ロシア)もまともな国になったし、ものすごくカネに困っているから、いよいよ北方領土返還交渉が進展する!」との観測でした。けれども、モスクワで取材すると(ゴルバチョフやエリィン本人には取材できませんでしたが、上のほうは最高会議議長とか下院議長とか日本担当外務次官とかソ連外務省の局長・課長とかエリツィンの側近とかも取材しました)、まあ皆さん決まって「まあ、そういうのはあんまりマジにとらないでよね。カネもらったからってロシアの領土を売るわけないじゃん。今はこっちもたいへんなんだから、日本どころじゃないのよ」というような反応でした。よくあることなのですが、向こうと日本側の意識がものすごく乖離していたわけです。
 では、どうしてこんなふうになったのか?というと、当時、日本のメディアに流れていた北方領土交渉楽観論の震源地は日本外務省だったのですね。
 つまり、日本外務省が接触していたソ連・ロシア側のカウンターパートというのは、それは対日交渉担当ですから、向こうも希望的観測でいろいろなことを言いますけれども、まあそれほど本気ではなかったのではないかと思うのです。だいたい、ソ連(ロシア)の外交戦略を動かしているのは、第一に対アメリカ担当の人たちで、次が対西欧担当、その次が対中国担当で、その次が対中東&南アジア担当、というような感じです。対日関係なんて優先度からいうとずっと下のほうです(たぶん)。あんまりそういう人たちの言うことを真に受けてもしかたがないのではないかと思うのです。
 領土問題で妥協は許されないとの主張に異論を挟む気はありませんが、北方領土が返還されるチャンスなどそうそうあるとも思えません。なにせ「米軍を追い出したら、ご褒美に小さい島のほうだけなら返してやってもいいよ」と考えていたような人たちですので。
 以上は15年前の取材経験だけを基にした私の単なる印象ですので、間違っているかもしれません。ですが、あの頃、そんなことがあったので、その後もたびたび浮上する「領土交渉進展か!」「2島先行返還か!」「領土問題の存在をロシアが再確認!」などのニュースを見るたびに、「また同じことやってるなあ」という気になっちゃうのです。
 外交は戦争みたいなものですし、正論を掲げることは戦略上も重要なことですが、それはそれとして、現実を把握することも重要ではないかと思うのです。

2007/06/29(金) 17:32:23|

スパイ&テロ 北方領土問題についての私見
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-72.html

67・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:33:16
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作④

侵食された外務省

 レフチェンコ氏は後に、複数のKGBアクティブ・メジャーズのエージェントを名指しした。うち最も重要なのは、サンケイ新聞の編集局次長だった山根卓二氏(コードネームはKANT)だった。彼は、A部門の偽造に基づき、偽の周恩来遺書をスクープし、日中関係に打撃を与えようとした。KGB本部は、保守系紙で発表されたほうが効果が高いだろうと計算したのである。
(※同記事はサンケイ新聞の昭和51年1月23日朝刊に掲載された)
 この偽遺書については、北京ですら騙され、死にもの狂いで出所を発見しようとした。だが、やがて日本の情報機関関係者が偽造と特定した。
 79年秋時点で、KGB東京支部のPR系統は合計31人のエージェントおよび24人の秘密の接触者を持っていた。
 もっとも、その頃のKGB東京支部は、積極工作よりも諜報に大きな成功を収めていた。とくに、KGB東京支部が最も成功した標的はおそらく外務省だった。
 少なくとも60年代後半からレフチェンコ亡命のあった79年まで(おそらくその後も)、2人の日本外交官(「RENGO」と「EMMA」というコードネーム)は、東京と彼らの外国の勤務先で大量の機密扱いの資料を提供した。KGBの彼らのファイルには、両者とも『貴重なエージェント』と書かれている。
 EMMAには、彼女がエージェントになったまもなく、運営者によってハンドバッグが与えられた。そのバッグには、外交文書の写真を複写するためのミノックスカメラが仕込まれていた。
 RENGOはまた、自ら新たなエージェントのスカウトとしても働いた。
「OVOD」というコードネームの日本の外交官は、合計6年間のモスクワ勤務の間に2回、ハニートラップに引っかかり、それをネタにエージェントに仕立て上げられた。
 彼へのハニートラップのうち2回目のほうは、MARIANAというコードネームのKGBエージェントによって実行された。彼女は、OVODのロシア語教師として雇用されたが、まもなく男女関係となり、その性交渉時の写真が撮影された。OVODはいやいやながらも、KGBに協力することを承認した。
 KGBが最も成功した日本外交官へのハニートラップは、70年代前半にモスクワに駐在していた電信官「MISHA」を、LANDYSHというコードネームのKGB工作員が誘惑したケースだった。
 MISHAはおそらく、70年代後期に「NAZAR」というコードネームでKGBに運営されていた東京の外務省本省に勤務する電信官と同一人物である。このNAZARの情報は、最初の運営者だったバレリ・イワノビッチ・ウマンスキーと後任のヴァレンチン・ニコライエビッチ・ベロフが、他のすべての任務から離れてNAZAR運営に専念することになったことからわかるように、KGB東京支部でも最重要であると考えられた。
 NAZARによって供給される外交公電(それは東京とその駐ワシントン日本大使館の間の交信を含む)は、しばしばKGB東京支部がKGB本部に報告する前にすべて翻訳することが難しかったほど膨大だった。
 ミトロヒン氏はその他に、70年代にKGBにリクルートされていた日本人外交官として「MARCEL」というコードネームのエージェントも確認している。MARCELの協力で、「KONUS」というコードネームの自衛隊の駐ソ連の防衛駐在官もリクルートされたとのことだ。

68・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:41:13
>>67
KGBの科学技術情報スパイ

 70年代のKGB東京支部のその他の最も明らかな成功例は、KGB本部の第1総局T局の指揮下にある「X系統」による科学技術情報の収集だった。
 たとえば、71年6月に、東京地域のハイテク会社の社長で、「TONDA」というコードネームの日本人エージェントは、米国の空軍とミサイル部隊のための新しいマイクロ・エレクトロニクスのコンピュータ・システムに関する重要な機密資料をKGB東京支部に提供した。
 進行中の情報を提供したエージェントで最も高く評価されるものの一人が、半導体製造会社オーナーの「TANI」で、彼は日米の半導体の機密情報やサンプルを提供した。
 TANIは、KGBの担当者に対し、自分はKGBのために働いているというより、単にビジネスとして産業スパイで稼いでいると語っていた。ほとんどとまではいかないが、いくつかのX系統のエージェントは、おそらく同じような冷めた見方をしていた。
 その他に、最新技術の半導体に関する機密情報を提供したエージェントに「LEDAL」がいた。彼は日本の大学の半導体研究の責任者だった。KGBファイルのミトロヒン氏のメモによると、70年代に日本のハイテク産業と研究所の幹部職にある日本人エージェントは合計16人だったという。
 X系統のその他のエージェントには、通信技術研究者の「ARAM」、通信技術者の「ARGUS」、東京大学の科学者である「BRAT」、宇宙研究者の「EYR」、微生物学者の「KANDI」、物理学者の「KARI」、宇宙学者の「KISI」、日立社員の「RIONI」、三菱社員の「SAK」、技術専門家の「SOT」、赤外線分光学者の「TAIR」、電子技術者の「TONI」、核科学者の「UTI」などである。
 警視庁の監視チームと彼らの本部の間で交わされる通信をモニターするためにKGB東京支部が使っていた器材さえ、日本から盗んだテクノロジーに基づいていた。
 日本はKGBが最新技術を盗む対象国としては5番手の国だった。たとえば80年時点でいえば、最新技術の61・6%はアメリカからのもので、次いで10・5%が西ドイツ、8%がフランスから、7・5%がイギリス、そして3%が日本からということだった。
 日本が比較的低かったのは、日本は第1総局T局が主標的とする大きな防衛産業を持っていなかったからである。もっとも、KGBによるハイテク情報入手のわずか3%とはいえ、それでソ連では80年代に100の研究開発プロジェクトに使用された。
 70年代後期、KGB東京支部長だったオレグ・アレクサドロビッチ・グリヤノフは、部下に対し、「これらのX系統の活動で得る資金だけで、KGB東京支部全体の活動経費より大きい」と語っている。
 実際、KGBの世界的なハイテク技術のスパイによって得る利益は、全世界でのKGB海外部門の活動経費をすべてカバーした。それをみたT局長のレオニード・セルゲイエビッチ・ザイツェフは、T局を第1総局から独立したセクションに格上げするように画策して失敗した。

69・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:43:32
>>68
レフチェンコ亡命のダメージ

 79年秋のレフチェンコKGB少佐の亡命は、KGB東京支部の活動、なかでもPR系統に大きなダメージを与えた。この事件で、KGB本部はすかさず損害制限措置に着手した。東京支部とエージェントとの一連の接触は中止された。
 なかでもPR系統のネットワークはすべて作り替えることになった。とくに、「DENIS」と「山本」との接触はすかさず凍結された。この2人はレフチェンコ氏が直接運営しっていたエージェントだったからだ。
 レフチェンコ亡命によって正体が露呈する恐れがあったエージェントのうち、最も重要なものはNAZARだった。彼とその他のエージェントについて、東京支部ではその後の数年、それが露呈するかどうか神経質に見守った。
 ところで、KGB本部では、80年代初期の頃にアメリカのレーガン政権が核の先制攻撃計画を作っているとの認識で、その情報を探ることを各支部に命じた。そのため、KGB東京支部の主な優先順位にも、西側諸国のKGB支部が「RYAN作戦」と題して行なっていたこの存在しない計画に関して情報を集めることが挙げられた。
 一方、70年代にはKGBによって日本での積極工作の対象とみられていた日本社会党も、その頃に極東でのソ連軍増強に驚くようになっていた。83年、日本社会党執行部は、ソ連がアジアに配備しているSS-20ミサイルが日本やアジア地域に脅威を与えているとして、公式にソ連共産党に申し入れた。
 KGB工作員の侵入のための「主な目標」のうちの1つとして、アメリカ、その他のNATO同盟国、中国に加えて、日本も加えられた。各支部は、アメリカ、西欧諸国、日本の間で亀裂が生じるように積極工作的に乗り出すように指示された。
 レフチェンコ亡命の結果としてPR系統が大打撃を受けたが、X系統はほとんど影響を受けず、87年春までその活動を拡大した。
 その年の5月に、潜水艦のスクリュー音軽減に役立つ東芝子会社の機密情報漏洩が発覚。ほとんど同時に、ソ連情報部のための日本のスパイ網が、ソ連情報部にAWACS技術に関する秘密文書を提供したことが露呈した。
 日本政府は、KGB要員を国外に追い出すことによって応えたが、それを受けてモスクワでも、海自防衛駐在官と三菱駐在員が国外追放された。
(以上、『ミトロヒン文書Ⅱ』日本の項の抄訳)

2007/06/30(土) 09:43:59|

スパイ&テロ KGBの対日工作④
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-73.html

70・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:52:42
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作⑤

レフチェンコ証言を採用した『ミトロヒン文書』執筆者

『ミトロヒン文書』は、いわゆるレフチェンコ情報と重ね合わせると興味深い。ミトロヒン氏は明らかに「影響力のエージェント」の実名として、自民党幹部だった石田博英元労働相(コードネーム「HOOVER」)について名指ししている。
 サンケイ新聞の山根卓二・編集局次長については、ミトロヒン氏の資料に実名があったかどうかはこの記述だけからは確認できない。本書の著述は実際にはアンドリュー教授の手によるもので、必ずしもミトロヒン氏の資料だけからの記述ではないからだ。
 ただし、専門家であるアンドリュー教授が他の情報源(彼はレフチェンコ氏も直接聴取している)が本文中に実名を出したということは、それなりの根拠となる情報があったということにほかならない。山根記者の場合、周恩来の偽遺書スクープ工作の話が出ているので、その筆者である山根氏が確認されたのかもしれない。
 また、ミトロヒン氏が持ち出した機密資料写しには実名がなかったものの、レフチェンコ氏の証言を元に『ミトロヒン文書Ⅱ』では、3人の社会党議員の実名が断定されている。GAVR=勝間田清一氏、ATOS=佐藤保氏。GRACE=伊藤茂氏である。これは、KGBの内情に詳しいアンドリュー教授が、レフチェンコ証言の情報の信憑性をそれなりに評価したということを意味する。なお、『ミトロヒン文書Ⅱ』の巻末の脚注をみると、この点でアンドリュー教授は、『リーダーズ・ダイジェスト』誌ワシントン総局主任編集人のジョン・バロン氏がレフチェンコ氏に取材して執筆した『KGB Today』(83年5月刊)を参考にしていることがわかる。
 仮にレフチェンコ証言の信憑性が評価できるということなら、いわゆるレフチェンコ・メモもそれなりに正確な情報だったのだろうと推定できる。レフチェンコ・メモとは、日本人エージェントの実名についてレフチェンコ証言をまとめたものだ。
 なお、レフチェンコ証言の経緯は以下のようなものである。
 レフチェンコKGB少佐が亡命したのは79年10月。当然ながらアメリカ情報当局の管理下に置かれたが、82年7月、米下院情報特別委員会秘密聴聞会で証言し、続いて同年12月にレフチェンコ氏自身も初めて記者会見を行なった。
 レフチェンコ・メモの中身は非公開だったが、『毎日新聞』が82年12月に秘密聴聞会の内容の一部をスクープ。レフチェンコ氏は翌83年4月に初めて日本マスコミのインタビューを受けた。最初は毎日新聞で、続いて『読売新聞』『フジテレビ』『NHK』『週刊文春』などに次々と登場した。そこで何人かの日本人エージェントの実名を明らかにしたが、最終的には同5月に出版された前出『KGB Today』で、計26人のエージェントのコードネームと、うち9人の実名を明らかにした。実名を出されたのは、サンケイ新聞の山根記者、石田博英・元労働相、勝間田清一・社会党議員、佐藤保・社会主義協会事務局長、伊藤茂・社会党議員(いずれも前出)、上田卓三・社会党議員(後述するリーダーズ・ダイジェンスト日本版には記載されず)に加え、杉森康二・日本対外文化協会会長、ニュースレター『インサイダー』の編集者である山川暁夫氏、三浦甲子二・テレビ朝日専務である(山川氏の場合は本名ではなくペンネーム)。
『KGB Today』の内容は、すかさず『リーダーズ・ダイジェスト日本版』同年5月号に、レフチェンコのロング・インタビューとともに掲載されたが、これを受けて日本の各メディアは大騒動となった。ここで名前を出された人は、いずれも疑惑を否定したが、周恩来偽遺書スクープ事件のサンケイ新聞・山根編集局長は、“エージェント疑惑”が曖昧なままに辞任を余儀なくされた。単にKGBに騙されただけの可能性もあったわけだが、誤報を出したこと自体は事実であり、その責任を問われたかっこうだった。

71・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:54:50
>>70
 なお、日本リーダーズ・ダイジェスト社から84年10月に出版された『KGBの見た世界〜レフチェンコ回想録』には、日本人エージェントについて以下のような内容の記述がある。
▽ソ連のために働く日本在住の優秀なジャーナリストがいる。有力通信社勤務で、若い頃、プロニコフというKGB東京支部員にリクルートされた。日本の公安関係機関の秘密情報をもう何年も提供してくれていた。
▽40代後半の読売新聞のベテラン記者の場合、レフチェンコは最初は友人として接し、やがて篭絡。ついには報酬とひきかえに情報を流すエージェントに仕立て上げた。
▽東京新聞外信部の記者に工作をかけたが、篭絡できなかった。
▽元ジャーナリストでフリーランサーの男は、レフチェンコがKGBと知って盛んにインチキ情報を持ち込んだ。
▽大手新聞管理職の男がインチキなネタでKGBにタカった。あまりにタカりぶりがひどいので、KGB側が切り捨てた。
▽79年にレフチェンコは、元共産党員のニューズレター発行者をリクルートした。この人物は自ら進んで情報を提供した。金銭も最初からためらいなく受け取った。
(※ちなみに『KGBの見た世界』には、以下のようにKGB東京支部の描写もある。
▽11階建てのソ連大使館で、KGB東京支部は10階と11階を占めていた。レフチェンコ着任時の支部長は42歳のイェローヒン。部長室は10階。他に翻訳室、X系統室、通信傍受室、積極工作の部室、工作員の部屋などがある。電子機器類が並んでいる……)

72・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:59:33
>>71
渡邊恒雄回想録と警察白書

 レフチェンコの証言に出てくる読売新聞のベテラン記者に関して、『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社/2000年1月刊)に、以下のように興味深い記述がある。

 実は、当時我が社に当時いた記者が、レフチェンコ事件の協力者リストに挙げられたことがあったんだ。それで僕は本人を呼んで尋問したが、「スパイ協力行為はやってない」と言う。
 ある日、官邸で後藤田さんと会ったとき、「きみの社のあの記者は、ソ連のスパイ協力者だから解雇しろ」と言うんだ。いきなり命令調でね。だから、僕はカーッとなって、「政府の人間が我が社の社員を解雇しろなんて、命令するのは無礼じゃないか」と怒鳴ったんだ。
 後藤田さんはそうしたら、レフチェンコの自白を基にCIAや日本の公安当局がまとめた一覧表を僕に見せる。だけどコードネームだけで、実名は出ていない。それで、「おまえのとこの記者はこれに該当するんだ」とまた言う。僕は「内政干渉だ」と言い返したら、「お前は政府に喧嘩を売る気か」と怒鳴る。僕は頭にきて、総理大臣執務室に飛び込んだんだ。
 たまたま中曽根さんが一人でいて、僕は彼に、「いま後藤田さんと喧嘩してきた。やつとは絶縁する」と言ったよ。僕があんまり激しい調子で言ったんで、中曽根さんも真剣な顔をして理由を聞く。(略)
 中曽根さんは執務室の机の引き出しからガサゴソと大きな封筒に入った書類を持ってきて 「これは私と官房長官しか持っていないものです。どうぞご覧下さい」とだけ言うんだ。それを見ると、コードネームに全部実名が付いている。いまでは公然となったけれど、国会議員二、三人を含め新聞社もほとんど各社の人間が絡んでいるんだな。

 つまり、そこに、その読売新聞記者の名前も出ていて、渡邊氏も納得せざるを得なかったということだった。
 また、レフチェンコが証言した日本人エージェントについて、『警察白書』昭和59年版にはこうある。

 警察庁は、証言に表れたソ連の情報機関KGB(国家保安委員会)の我が国における活動に伴って違法行為が存在するか否かについて調査するため、58年3月、係官をアメリカに派遣し、レフチェンコ氏より前記証言の更に具体的な内容について詳細に聴取した。
 証言及び聴取結果によれば、レフチェンコ氏は、亡命当時KGB少佐の地位にあり、「新時代」誌支局長の肩書を利用しつつ日本の各界に対して、日・米・中の離間、親ソロビ−の扶植、日ソ善隣協力条約の締結、北方領土返還運動の鎮静化等をねらいとした政治工作を行なうことを任務としており、この任務に関して11人の日本人を直接運営していた。この種の工作においてKGBが成功した例としては、ねつ造した「周恩来の遺書」を某新聞に大きく掲載させたことがあった。
 警察は、そのうち必要と判断した数人から事情を聴取するなど所要の調査を行なった。その結果、レフチェンコ氏やその前任者等から、金銭を使ってのスパイ工作をかけられ、実際に我が国の政治情勢等の情報を提供していたこと、また、相互の連絡方法として、喫茶店等のマッチの受渡しによる方法が用いられたり、「フラッシュ・コンタクト」(情報の入った容器を歩きながら投げ捨てると、後から来た工作員が即座にそれを拾う方法)の訓練をさせられたこと等の事実が把握されたが、いずれも犯罪として立件するには至らなかった。
 しかし、「レフチェンコ証言」については、同証言に述べられた政治工作活動の内容と、警察の裏付け調査の結果及び警察が過去に把握してきた各KGB機関員の政治工作活動の実態とが多くの点で一致するところから、その信憑性は全体として高いものと認められた。

2007/07/13(金) 08:49:19|

スパイ&テロ KGBの対日工作⑤
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-74.html

73・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:08:55
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作⑥

レフチェンコ・メモの中身

 ところで、実は本誌は「レフチェンコ・メモ」そのものを入手している。レフチェンコ自身の担当エージェントの実名がすべては記載されていないなど、部外秘レベル的には最高度のものではないが、入手経路からみて、公安警察の一部のセクションで作成されたものであることが確実の資料である。
 メディアに流出した「レフチェンコ・メモ」にはいくつかの種類があるのだが、本誌が入手したものの記述は以下のようになっている。実名を含めてここに明らかにするが、その理由は後述する(以下、カッコ内は『リーダーズ・ダイジェスト日本版』に掲載されたレフチェンコ証言情報)。

①石田博英・元労働相
 コードネーム「フーバー」。担当者はフロニコフ中佐。レフチェンコ氏は本国のKGB本部勤務時代にも報告書で名前を知っていたし、実際に東京でも工作支援の際に面識がある。意識的にKGBに協力している。
②コードネーム「フェン・フォーキング」
 実名不記載。自民党員で、党内の一派閥に影響力を及ぼし得る立場にいる。KGBの正式なエージェント。KGB東京支部の中国班が担当している。
(自民党の党員で、党内の一派閥の指導人に影響を及ぼし得る人物)
③勝間田清一・元日本社会党委員長
 コードネームは「ギャバー」。担当者はセバスチャノフ中佐。レフチェンコ氏は工作報告官として報告書に記載したことがある。意識的にKGBに協力している。
④伊藤茂・社会党議員
 コードネームは「グレース」。担当者はセバスチャノフ中佐。レフチェンコ氏は報告官として工作報告書に記載したことがある。意識的にKGBに協力している。
⑤佐藤保・社会主義協会事務局長
 コードネームは「アトス」。担当者はウマンスキー少佐。意識的にKGBに協力している。
⑥上田卓三・社会党議員(その後、党中央執行副委員長、部落解放同盟委員長)
 コードネームは「ウラノフ」。工作支援でレフチェンコ氏も面識がある。ただし、本人がKGBの正式エージェントというわけではなく、KGB正式エージェント「山本」の影響下で無意識にKGBに協力している。
⑦コードネーム「ズム」
 実名不記載。上田卓三の秘書。レフチェンコ氏は工作支援で面識がある。無意識にKGBに協力している。
(ウラノフの優れた秘書)
⑧コードネーム「キング」
 実名不記載。落選した議員。レフチェンコ氏が担当。意識的にKGBに協力している。
(社会党の有能なリーダーで議員。レフチェンコから選挙資金等を受け取った)
⑨コードネーム「ティーバー」
 実名不記載。社会党員。意識的にKGBに協力している。
(党の政策に影響力を持つ)
⑩コードネーム「ディック」
 実名不記載。議員。レフチェンコ氏が担当。数年協力していたが、その後、離脱した。
⑪コードネーム「ラムセス」
 実名不記載。社会党員。意識的にKGBに協力している。
⑫コードネーム「カメネフ」
 実名不記載。議員。レフチェンコ氏が担当。無意識にKGBに協力している。
⑬山根卓二
 コードネームは「カント」。サンケイ新聞編集局次長(後、局長)。担当は当初はスミルノフ少佐で、その後、レフチェンコ氏に引き継がれる。KGBの正式エージェント。
(社長と親しい)
⑭コードネーム「デービー」
 実名不記載。サンケイ新聞記者。KGBの正式エージェント。レフチェンコ氏はKGB東京支部内の情報でその存在を知る。
(サンケイ新聞東京版勤務。カントを補強しうる人物)
⑮T(メモには実名があるが、なぜかこの人物だけカッコ付きで記載されている。意味が不明だが、公安が確認していない可能性もあるので、ここでは実名を伏せる)
 コードネームは「トマス」。読売新聞政治部。担当者はレフチェンコ氏。ただし、実態はKGBのエージェントではなく、無意識の協力にすぎない。(編集部注/T氏と推定される読売新聞記者については前出・渡邊恒雄回顧録で登場するが、T氏自身はその後、日本テレビ取締役、ラジオ日本社長などを歴任した)。
(レフチェンコの執筆依頼に応じていた)

74・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:12:01
>>73
⑯コードネーム「カミュ」
 実名不記載。東京新聞記者。KGB正式エージェント。レフチェンコ氏は東京支部の報告書に記載したことがある。
(韓国問題のスペシャリスト)
⑰コードネーム「アレス」
 実名不記載。共同通信記者。担当は当初はフロニコフ少佐だったが、後にレフチェンコ氏に引き継がれた。KGB正式エージェント。
(公安関係の友人から膨大な秘密情報を入手し、KGBに渡していた。「情報の宝庫」と呼ばれていた)
⑱コードネーム「アギス」
 実名不記載。大手新聞記者で元モスクワ特派員。KGB正式エージェント。
⑲三浦甲子二
 コードネームは「ムーヒン」。テレビ朝日専務。レフチェンコ氏も工作支援で面識ある。ただし、エージェントではなく「友好的人物」。
⑳山川暁夫(ペンネーム)
 コードネームは「バッシン」。ニュースレター『インサイダー』編集者。担当者はレフチェンコ氏。意識的にKGBに協力している。
21 コードネーム「ドクター」
 実名不記載。フリージャーナリストで、KGB正式エージェント。
(経済的にフリーのジャーナリストで、熱狂的マルキスト。以前は共産党員。事務所、家屋、接触予定地点を撮影するなどして、KGBの工作活動に不可欠な、秘密のバックアップ活動を展開した)
22 コードネーム「山本」
 大学教授。KGB正式エージェント。
(インテリのエージェントにより成るグループの指導者で、大学教授。学界で活発に活動中で、ソ連の意思に従った各種著作物を発表している)
23 コードネーム「バロン」
 実名不記載。アメリカに詳しい学者。KGB正式エージェント。
24 コードネーム「ブラット」
 実名不記載。東京の大学教授。意識的にKGBに協力している。
25 コードネーム「クラスノフ」
 実名不記載。著名な財界人。KGB正式エージェント。
26 堤清二
 コードネーム「ツナミ」。西武百貨店会長。担当者はグリヤノフ大佐。ただし、KGBエージェントではなく、「友好的人物」。
(億万長者で財界の実力者。ソ連の影響力が日本の財界や実業界に及ぶのを助けている)
27 コードネーム「シュバイク」
 実名不記載。公安関係。共同通信記者「アレス」のサブ工作員。
(アレスの友人の公安関係者。アレスに渡した情報の中には、公安当局が作成したレフチェンコの身上調書の抄訳のコピーも含まれていた)
28 コードネーム「マスロフ」
 実名不記載。元内閣調査室職員。KGB正式工作員。
(内閣調査室関係者で中国問題のアナリスト)
29 コードネーム「ナザール」
 実名不記載。外務省電信官。KGB正式工作員。KGB本部第1総局第16課(シギント担当)直属。担当者はウマンスキー少佐とベロフ少佐。
(各国の日本大使館から発信された通信文を同省の電信課で入手し、撮影もしくはコピーして、自分のケース・オフィサーに渡していた)
30 コードネーム「レンゴー」
 実名不記載。外務省職員(夫妻)。KGB正式工作員。
31 杉森康二
 コードネーム「サンドミール」。日本対外文化協会事務局長。意識的にKGBに協力している。

2007/07/13(金) 08:58:35|

スパイ&テロ KGBの対日工作⑥
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-75.html

75・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:26:19
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作⑦

エージェントにファイルされても必ずしもスパイとは限らない

 本誌が入手したレフチェンコ・メモの内容は以上の通りである。インターネットの掲示板にもなかなか興味深い情報が出ているが、検証ができないのでここでは引用しない。本誌が以上の情報をあえて掲載したのは、これが公安警察の少なくとも一部から出た情報だということからである。
 ただし、念のために申し添えておきたいが、警察がこのようなメモを作っていたからといって、そこに掲載された人すべてがソ連の工作員だったということではない。
 たとえば、同メモには11人の実名が出ているが、三浦・テレ朝専務や堤・西部百貨店会長については、明確に「友好的人物」と位置づけられている。本人がKGBに協力しているという自覚がないままに、ただソ連大使館員と友好的に付き合っているだけの人物という意味である。
「無意識の協力者」に分類された人にも同じことがいえる。このメモでいえば、T(メモではカッコ付実名)読売新聞記者、上田・社会党議員、上田議員の秘書などである。彼らは当然ながら自分ではエージェントだと思っていないし、実際にエージェントともいえない。
 KGBに限らずどこの情報機関も、正式にリクルートしたエージェント以外に、このような「友好的人物」「無意識の協力者」を情報源あるいは「影響力のエージェント」として使っている。単に情報交換をする間柄だが、情報機関サイドはそれを工作と見なしていて、対象にコードネームをつけてファイルし、組織的に管理している。
 レフチェンコ・メモにはKGBの正規エージェントとして14人が挙げられている。うち、実名が断定されているのは山根・産経新聞記者だけである。
 だが、正式なエージェントとファイルされていても、それがどの程度の積極的なエージェントかというとケース・バイ・ケースであり、一概にはいえない。エージェントというと、組織の命令に絶対服従で、その指令に基づいてものすごい機密情報を盗み出すとか、あるいはその指令に基づいて積極的に偽情報工作を実行するといったイメージがあるが、ほんの少し便宜を図ってあげただけでも、組織側に「エージェント」とファイルされる可能性もあるからだ。
 とくに、ちょっとしたことの謝礼としてわずかでも現金や物品を受け取ったら、エージェントにファイルされる可能性が高い。そのため、こうした外国情報筋と日常的に接触し、情報交換している外交官や公安担当者、マスコミ記者などは、ある程度の情報交換はよしとしても、「カネは受け取らない」ことを心がけているはずである。
 山根記者をはじめ、このレフチェンコ・メモに登場する面々が実際にどのような役割をしていたのかはわからないが、彼らはなにも特別な存在ではなかった可能性もある。山根記者の場合も、スパイというよりは、単にニュースのネタ元としてソ連大使館員と接触していたのかもしれない。偽周恩来遺書を掴まされるなどの失策はあっただろうが、ソ連大使館員からネタを得るというのは、ジャーナリストなら誰にとっても魅力的な話だ。
 実際、日本の外交官、公安担当者、マスコミ記者のなかには、彼ら自身の日常的な職務である情報収集の一環として、外国情報筋と積極的に接触し、情報交換している人がいる。これらの職にある人で、ロシアや中国に太い情報源を持っているといわれている人は、当然ながら深い部分で情報交換をしているわけだから、かなり高い確率で、まず間違いなく向こうの情報機関に“勝手に”何らかのレベルでエージェントに分類され、怪しいコードネームでファイルされているはずである。それは「影響力のエージェント」の場合もあるし、「友好的人物」あるいは「無意識の協力者」の場合もある。
 KGB工作員とこうした〝エージェント〝の関係のなかには、おそらく両者が互いの利益のためにギリギリの情報交換をしているというケースが少なくないはずだ。金銭目的というよりも、「ロシアや中国の情報を得たい」というプロ意識、あるいは、それで「〝情報通〟として組織内で評価されたい」との動機でこうした危険な道に入る人もいるだろう。

76・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:33:46
>>75
 だが、だからといって、当然ながら彼らはスパイではない。同様に、レフチェンコ・メモに「正式エージェント」と記載されていたからといって、必ずスパイだったとは断定できない。たとえば、情報自体は日本の新聞に書いてあるような内容のことでも、それを政治家や官僚や記者などから「口頭で聞いて報告書にして本国に報告」することが、スパイ組織のなかでも「ちゃんと仕事をしている」として評価される。こうした構図では、単に「KGBスパイと会って、新聞に出ているような話をした」だけでKGBのファイルには〝エージェント〟として記録される。
 本誌も、彼らがスパイだったいうことではなく、KGB側にファイルされていたという事実をもって、ここにあえて実名を掲載した次第だ。

曖昧な「親ソ派」と「エージェント」

 このレフチェンコ・メモに「友好的人物」として登場する三浦甲子二・テレ朝専務や堤清二・西武百貨店会長、あるいは「意識的な協力者」として登場する石田博英・元労働相や勝間田清一・元社会党委員長などは、いずれももともと親ソ派の人物として知られていた。そういった意味では、彼らの立ち位置は秘密でも何でもなかったわけだ。
 こういう親ソ派の人物というのは、なにも彼らだけではない。91年11月、本誌編集長は冷戦時代の対日工作を牛耳っていたイワン・コワレンコ元ソ連共産党国際部副部長(元日本課長)にロング・インタビューを行なったことがあるが、そこでコワレンコ氏は、個人的に親しくしている日本側要人として、石田博英、勝間田清一、伊藤茂、三浦甲子二、杉森康二、堤清二といった人物の名前を挙げた。しかし、そこで名前が出るということ自体が、ソ連側の統制下にある秘密の〝スパイ〟ではなかったということではあるまいか。
 なお、コワレンコ氏はこのとき、それ以外にも、鳩山一郎、河野一郎、赤城宗徳、田中角栄、中川一郎(以上、自民党議員)、成田和巳、石橋正嗣、飛鳥田一雄(以上、社会党議員)、松前重義(東海大学総長)、池田大作(創価学会名誉会長)各氏の名前を挙げた。なかでも池田大作氏のことはベタ誉めだったが、いずれにせよ自民党の派閥領袖クラスを除けば(中川一郎議員はコワレンコ氏と三浦甲子二・テレ朝専務らを通じて深い付き合いがあった)、すでに親ソ派として知られている人物たちである。
 また、コワレンコ氏はその後、96年に手記『対日工作の回想』を日本で出版したが、そこでは右記以外の友人・知人として、土井たか子、五十嵐広三、高沢寅男、山本政弘、岡田春夫、岩垂寿喜男(以上、社会党議員)、岡田茂(東映社長)、柴野安三郎(札幌日ソ友好会館オーナー)、中村曜子(画廊「月光荘」経営者)、長谷川千恵子(画廊「日動画廊」経営者)、千田恒(元サンケイ新聞論説副委員長)、秦正流(元朝日新聞専務・編集局長・外報部長・モスクワ支局長)、白井久也(元朝日新聞モスクワ支局長)の各氏の名前が挙げられていた。
 彼らはいずれも大っぴらにソ連外務省、共産党国際部、あるいは駐日ソ連大使館と交際があったが、もちろんそれでスパイということにはならないだろう。レフチェンコ・メモに登場する〝エージェント〟の何人かも、コワレンコ氏が名前を挙げたこれらの人々とそれほど実態が違わないのではあるまいか。

77・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:36:44
>>76
スパイ「ミーシャ」(ナザール)は誰だ?

 ところで、レフチェンコ・メモやミトロヒン文書に登場する〝エージェント〟のなかで、もっとも興味を引かれるのが、「フェン・フォーキング」(ミトロヒン文書では「FEN」)なる人物である。
 レフチェンコ・メモには、その当時、「自民党員(自民党議員とは書かれていない)で、党内の一派閥に影響を及ぼし得る」と書かれている。自民党議員でなく、あえて自民党員と記載されているのであれば、議員でもないのに派閥に発言力があるという、なかなか特殊なポジションにいる人物ということになる。
 さらにミトロヒン文書によれば、彼は「田中角栄氏の側近」で「72年から接触がスタートし、75年頃にかなり進展がみられ、ついには正式なエージェントとして取り込まれた」人物とのことである。はたしてそれに当てはまる人物はいるのだろうか?
 さて、レフチェンコ・メモやミトロヒン文書に記載されていた(つまり、KGB側にエージェントとして登録されていた)からといって、本当にスパイだったとは限らない、と本稿では前述した。実際、レフチェンコ情報に基づいて誰かが逮捕・起訴されたか?といえば、そんなことはなかった。つまり、前述の警察白書にあるように、「犯罪として立証するに至らなかった」わけで、それはどういうことかというと、要するに「公務員が機密情報を漏洩」したことが確認されなかったということである。
 しかし、だからといって、いわゆるスパイ行為がまったくなかったのか?といえば、それもそんなことはなかったろう。ミトロヒン文書の記述をみると、「これはスパイ行為そのものではないか」というケースがいくつもある。
 たとえば、共同通信記者「ROY」(または「アレス」)。彼は金銭目的でKGBに情報を流し、さらにはKGBのために公安関係者「KHUN」(あるいは「シュバイク」)からネタを集めていた。公安に食い込んでいる記者というのは複数いるが、それをKGBに流すというのは、ほとんど犯罪的行為に近い。
(おそらく一部のエージェントに関して、KGB本部内の記録にはコードネームの変更があったようで、ミトロヒン文書とレフチェンコ・メモではコードネームが一致しないケースがある)
 ミトロヒン文書には読売新聞記者の「SEMIYON」という人物が、ハニートラップなどで陥れられて無理やりエージェントとなったと書かれている。これも本人の意思ではないにせよ、明らかなスパイ行為といえる(ただし、徴募の経緯が違うので、これはレフチェンコ・メモに登場する前出・T記者のことではないと推定できる)。
 民間人である記者の場合、よほどのことがなければ犯罪性は問えないだろうが、ミトロヒン文諸には多くの外交官のエージェントが登場する。外交官が機密情報を漏洩すれば明らかな犯罪だが、日本の捜査当局はそこまで立証できなかった。おそらくその多くで実名を把握できていないものと思われる。
 なかでも、70年代にもっとも重要な情報源として活動した外務省職員「RENGO」と「EMMA」。両者とも明らかなスパイとして活動している。
 外交官の場合、モスクワ勤務時代にハニートラップに引っ掛かり、そのままスパイ行為を強要されるケースも少なくないようだ。たとえば、「OVOD」という人物はなんと2回もハニートラップにかかっている。
 ハニートラップでスパイとなった人物で、これらのファイルからもっとも悪質な人物といえるのが、「MISHA」(あるいは「ナザール」)だろう。彼はモスクワでハニートラップにかかかった外務省の電信官だが、結局は金銭と引き換えに大量の外務省公電をKGBに流し続けた。ミトロヒン文書およびレフチェンコ・メモを通じて、もっとも日本に損害を与えたスパイといえる。
 犯罪行為としてはすでに時効となるのだろうし、本人もまだ生存しているのかどうかわからないが、ミトロヒン文書で新たな手がかりが浮上した今、その正体もやがて明らかにされるかもしれない。
(了)

2007/07/13(金) 09:11:18|

スパイ&テロ KGBの対日工作⑦
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-76.html

78・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:44:15
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作・番外編

 じつはレフチェンコ・メモの中身について筆者が書いたのは、『ワールド・インテリジェンス』誌が初めてではない。2001年1月に筆者の企画・構成で出版した別冊宝島『未解決事件の謎を追う』所収の「中川一郎はソ連エージェントだったのか?」という記事中でその概要を紹介している。
(同ムックはその後、同社より『迷宮入り〜昭和・平成 未解決事件のタブー』と改題されて文庫化され、現在も版を重ねています。黒井名で書いたのは同記事だけですが、複数の筆名あるいは編集部名で、本全体の半分以上は筆者が書いています) 
 ここでは、参考までに当該記事を転載します。

中川一郎怪死事件
中川一郎は「ソ連エージェント」だったのか?
自民党総裁候補「謎の怪死」の真相に迫る!

文・黒井文太郎

 十七年前、自民党総裁候補にまでなった大物代議士・中川一郎が、札幌のホテルで縊死体で発見された。警察は自殺と断定したが、その異常な“死に様”に他殺説も根強くささやかれた。そして、注目される「KGB関与説」――。
 そんななか、ソ連の対日工作責任者だった大物スパイが「中川を協力者に仕立てあげていた」と暴露し、疑惑の火に油を注いだ。果たして、「反共の闘士」の正体はソ連のエージェントだったのか? そのことが彼を直接、死に追いやったのか?

79・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:49:45
>>78
沈黙を破った「闇の司祭」

 古びたテープをカセット・デッキにセットした。スイッチを入れると、落ち着いた、それでいて少し甲高いロシア語が流れ出した。ああ、こんな声だったんだな、と私はまるで初めて聞くような気持ちでしばしそれに聞き入った。
 彼の声質など、すっかり忘れていた。それはそうだ。このインタビュー・テープを聞き直すのは実に九年ぶりなのである。あれはもうひと昔前といってよかった。年月の長さだけでなく、時代はすっかり様変わりしていた……。そんな年月の移ろいに思いを馳せながら、シューシューと微かな音を立てて回るテープを見詰め、私は少しずつ“そのとき”の光景を思い出していった。

――九一年十一月。晩秋のモスクワはすでに零下の寒さだったが、町にはようやく自由を手にした市民たちの静かな熱気がただよっていた。だが、なかにはそうした新時代の空気から明らかに取り残された人物もいた。共産党政権時代に“支配する側”に身を置き、国民を監視し、海外で謀略をめぐらせたような人々だ。
「赤の広場」の真正面にあるメトロポール・ホテルで、私はそんな老人のひとりと会った。
 彼の名前はイワン・コワレンコ。
 冷戦時代、ソ連共産党中央委員会国際部日本課長・同副部長として対日工作のすべてを仕切り、「闇の司祭」などとも呼ばれた大物コミュニストも、ペレストロイカでその地位を追われてからはすっかり覇気が抜けたのか、年老いたありきたりの老人に見えた。その風評から、やたら押しの強いタイプを予想していたのだが、心臓病を患う老人は、とてもそんなふうには思えなかった。
「こんにちは。私はもう日本語をあまり覚えてないので、ロシア語で話させてもらいますよ」
 老人は実に愛想のいい笑顔を見せた。まてよ……と私は内心、気を引き締めた。これは心を隠す鋼鉄の仮面かもしれない。なにせ相手は百戦錬磨の「闇の司祭」なのだから……。
 インタビューは、彼の七十ニ年間の経歴を聞くところから始まった。貧しかった少年時代、日本人少女との恋、日本語科の学生だった頃、大戦中の宣伝将校時代、対日参戦と関東軍の武装解除、シベリア抑留者の赤化洗脳工作、戦後日本での左翼支援……。およそ二時間が経過した頃、私は最も興味を持っていた質問をようやくぶつけることができた。
「日本人で親しかった人は誰ですか?」
 コワレンコは、ゆっくり言葉を選びながら、何人かの日本人の名前を挙げ、彼らとどんなすばらしい人間関係で結ばれていたのかを語った。私としては、当然、そんな表面的な話ではなく、彼が篭絡した日本人エージェントの名前を知りたかったわけだが、あのコワレンコが簡単に口を割るわけがないことは分かっていた。
「自民党の政治家はどうですか? 個人的な付き合いがあった人物は?」
 私はそう尋ねた。コワレンコはちょっと思案した後、かなり古い時代の派閥領袖たちの名前を挙げていった。
 私は、インタビューがコワレンコの“欺瞞のペース”で続いていることに気がついていた。それまですでにこんな台詞が続いていたのだ――「関東軍の挑発でソ連は参戦を余儀なくされた」「シベリア抑留者の待遇は悪くなかった」「自分は諜報活動とは関係ない」――。
 この老人は結局、欺瞞にまみれたソ連共産党の申し子なのだ。本当のことは死ぬまで言わないつもりなのだろう……私はそう思った。
「ああ、そうそう……」
 そんな私の心を読み取ったわけではないだろうが、コワレンコはそのとき、気になる人物の名前を挙げた。
「ナカガワはいい男だった。彼は私の、じつにすばらしい友人だったのだよ」
 中川一郎――の名前が唐突に元ソ連スパイ・マスターの口から出た。

 戦後日本の政治家のなかで、中川一郎ほど生き急いだ人物はなかったろう。大野伴睦の秘書として政界入りし、石原慎太郎らとともにタカ派集団「青嵐会」を結成。農水族の実力者として自分の派閥を旗挙げするまでとなったが、八二年の自民党総裁選に出馬して落選し、その直後に壮絶な自殺を遂げた“悲運の政治家”だった。
 だが、反共右派の牙城といわれた青嵐会の中川とソ連共産党の接点はどこにもないように思えた。どこまで本当のことを話しているのか……私はコワレンコの表情を探った。
 老人は急に胸を張り、それまでにない強い口調でこう言った。
「惜しい男を亡くした。ナカガワが死ななければならなくなったのはじつに残念だった。よく覚えているよ、あの頃のことはね。私は彼にはたいへんな期待をしていたのだから」
 やけに芝居がかっている……。コワレンコの様子に、私はそんなふうに感じていた。

80・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:55:14
>>79
疑惑だらけの「怪死」

 八三年一月九日早朝、中川一郎は滞在先の札幌パークホテルで縊死体で発見された。現場の状況から“自殺”ということで片づけられたが、その奇妙な死には、その後もさまざまな疑惑がつきまとうこととなった。
 まず、その自殺方法がなんとも不可解だった。彼はバスタブ内に座り、首とタオル台の留め金とを浴衣の紐で繋いだかたちで絶命していた。完全な首吊り状態ではなく、なぜか“座って首吊り”していたのだ。物理的には、確かにそれで死ねないわけではない。だが、それは最後の瞬間まで自身の強い意志で死に向かわなければ不可能なものだ。そんなことが生身の人間に可能なのか? そう疑問を持つことは、当然のことといえた。
 なぜ自殺しなければならなかったのか、ということも関係者に大きな疑惑を呼んだ。
 遺書らしきものはまったく発見されなかった。それに、何といっても彼は総裁選に出馬するほどの大物政治家なのだ。当時、まだ五十七歳。たとえそのときは落選でも、次の次、あるいはその次にでも総理・総裁になれる政界の王道にいることに変わりはない。しかも、とりたてて致命的なスキャンダルが表面化したわけでもなかったのだ。
 謀殺説――がささやかれたのは、したがって、ある意味で当然だともいえた。
 それなら犯人は誰なのか?
 さまざまな憶測が活字に踊った。どれも決定力に欠けるものではあったが、中川の“謎の死”の真相を解明する試みは、あれから十七年が過ぎた現在に至るまで、しばしば繰り返し行われてきた。
 自殺なのか、他殺なのか?
 彼はなぜ死ななければならなかったのか?
 それは、昭和史に残された大きな謎のひとつといってよかった。

 確かに、中川が苦境に立たされていたことを証言する声は多い。実力派秘書・鈴木宗男(現・代議士)との確執という指摘もあった。貞子夫人から離婚を切り出されていたことも後に暴露された。
 石原慎太郎や田村元(元衆院議長)は、中川が“総裁選で福田派に裏切られたと思い込んで悲嘆に暮れていた”と明かし、さらには彼が派閥維持と総裁選のために無理に借金を重ねていた内実も指摘した。
 浜田幸一はもっと明快で、著書のなかで「三塚博が中川夫人からの離婚話まで持ち出して彼を追い詰めた」と書いた。そして、そんな誰もが“あまりに涙もろく、愚直なまでに純朴な男”が、そうした理由から発作的に自殺したのだろうと推測した。
 だが、他殺を匂わせる証言もないわけではなかった。
「中川の死の間際、誰かが彼を訪ねたようだ」
 中川の十三回忌を機に発表した手記『光と影』で初めてそう明らかにしたのは石原二三朗・元在札幌中川事務所長だった。同氏が手記出版に合わせて『文藝春秋』九五年一月号に語ったところによると、死亡推定時刻のわずか一時間前に中川は彼に電話をかけ、さまざまな悩みを相談していたのだが、その最中に突然、「やあ、やあ」と誰かに呼びかけた直後、あわてて電話を切ってしまったのだという。石原氏にはそれが明らかに、夫人ではない“誰か”が部屋に入ってきたと思われたとのことだった。
 一方、死亡する前夜のパーティでの様子がおかしかった、と証言する人も少なくない。「スピーチもおとなしく、いつもの元気がなかった」「しきりに汗をぬぐっていた」といったことを指摘する声が多かったが、なかには「(会場には)もみ上げの長い怖い人たちがたくさんいた」(出席者だった宮松よし子氏:『週刊文春』二〇〇〇年一月六日号)という気になる証言もある。
「中川は無理して借金を重ねていた」という情報とつき合わせると、彼がいかがわしい資金に手を出し、総裁選の惨敗で熾烈な追い込みをかけられていたのでは、と推定することもできる。

81・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 11:01:14
>>80
 だが、幾多の疑惑のなかで“きな臭さ”が最も際立っていたのが「KGB関与説」だった。
「中川はソ連のエージェントだった」
 あるいは、
「ソ連エージェントだった中川は、それが暴露されることを恐れて自殺した」
 果ては、
「ソ連エージェント・中川の台頭を恐れてCIAが暗殺した」
 という説まで、数々の疑惑が書きたてられたのだ。
 確かに、農水族として日ソ漁業交渉に辣腕をふるった中川と、駐日ソ連大使館の外交官たちとの交流は知られていて、その怪死以前から疑惑を指摘する声がなかったわけではない。
 だが、中川怪死に際していちやくクローズアップされたのは、七九年一〇月にアメリカに亡命したスタニスラフ・レフチェンコ元駐日KGB少佐が、三年の沈黙を経て八二年七月に米下院情報特別委員会秘密聴聞会で暴露したと伝えられた日本人エージェントのリスト=いわゆるレフチェンコ・メモの存在だった。その中に中川の名前があったのではないか、というわけである。
 もしそれが事実なら、少なくとも自殺の理由としては十分に説得力があった。しかも、レフチェンコが記者会見を開き、レフチェンコ・メモの存在が初めて世間に公表されたのは八二年十二月。中川怪死のちょうど一ヵ月前で、タイミング的にはつじつまが合う。
 では、そのレフチェンコ・メモの中味とは、いかなるものだったのだろうか――。

82・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 11:05:01
>>81
亡命スパイの爆弾情報

 今、私の手元に一枚のコピーがある。公安筋が作成したレフチェンコ・メモ公安版である。これまで断片的に伝えられてきた情報とほぼ一致しており(とくにレフチェンコを直接取材した『リーダーズ・ダイジェスト』八三年五月号が詳しい)、政界や一部マスコミに出まわったもののひとつと同一であるとみてまず間違いない。
 レフチェンコは『リーダーズ・ダイジェスト』のインタビューに「日本人エージェントは二百人はいる」と語っているが、このレフチェンコ・メモ公安版には、そのなかでレフチェンコが知り得た人物として計三十一名のコードネームと内十一人の実名が記され、それぞれKGB側の担当将校の名前、彼らがエージェントだとレフチェンコが知った時期、エージェントとしてのランク、等が列記されている。三十一名の内訳については、自民党関係者二名、社会党関係者十一名、官僚四名、マスコミ関係者九名、学者三名、財界人二名である。
 ここに実名が登場している人物を以下に挙げてみる。
 石田博英・元労相、勝間田清一・元社会党委員長、伊藤茂・社会党議員、佐藤保・社会主義協会事務局長、上田卓三・社会党議員、杉森康二・日本対外文化協会事務局長、山根卓二・サンケイ新聞編集局次長、T・読売新聞記者(※本記事では実名表記しましたが、ここでは匿名とします)、三浦甲子二・テレビ朝日専務、山川暁夫・インサイダー編集者、堤清二・西武百貨店会長(以上、肩書きは当時)――。(尚、このなかの上田、T、三浦、堤の各氏については「無意識の協力者」ないし「友好的人物」とあり、さらにこの内の上田、T、堤の各氏の名前は初期に出まわったリストにはなかったものである)
 このレフチェンコ・メモについては、その真偽をめぐって、当時たいへんな騒動となった。名指しされた人物たちは当然否定しており、確かにこれで逮捕された人物はいない。したがって、内容の真偽は今もって不明である。
 が、昭和五九年(八四年)版『警察白書』には以下のような記述もある。
「レフチェンコが直接運営していたのは十一人で、そのうち数人から事情聴取したところ、金銭でスパイ工作をかけられ、実際に我が国の政治情勢等の情報を提供していたこと、また、相互の連絡方法として喫茶店等のマッチの受け渡しによる方法が用いられたり、『フラッシュ・コンタクト』(情報の入った容器を歩きながら投げ捨てると、後から来た工作員が即座にそれを拾う方法)の訓練をさせられたこと等の事実が把握されたが、いずれも犯罪として立件するには至らなかった」
 右の“数人”がリストに実名が載った人物かどうかは、警察が公表していないので確認できない。レフチェンコが直接運営していた十一人についてはおそらく実名が判明しているとみられ、それはリストの実名記載人数と一致するが、だからといって、必ずしも人物名が一致するとはいえない。推測できるのは、おそらくこの“数人”が“犯罪として立件する”要件がより厳しい「非公務員」ではないかということだが、いずれにせよ真相は「藪の中」だ。
 だが、仮にこれが事実だとすると、どこにも中川一郎の名前は見当たらない。正体不明の自民党員にコードネーム『フェン・フォーキング』なる人物がいるが、リストに付された情報をみると、どうも中川のことを指しているようには感じられない。すると、中川がレフチェンコ・メモを怖がる理由はまったくなかったわけだ。
 しかし、それでもやはり、中川一郎がそれを恐れていた可能性は高い。なぜなら、彼にはある “心当たり”があったからである。
 それが、冒頭に紹介したソ連共産党国際部副部長イワン・コワレンコとの関係だった。中川は、KGBもアゴで使ったという恐ろしい「闇の司祭」と、誰も知らない秘密のコネクションを持っていたのだ――。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板