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瀬島龍三《真正売国奴》スレッド

1カマヤン[TRACKBACK]:2004/10/16(土) 21:14
瀬島龍三関連情報を、整理してみます
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1037310426/r589-599

62・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:45:21
>>61
影響力のエージェント

 他方、アクティブ・メジャーズと政治・経済・軍事・戦略情報を担当する「PR系統」は、60年代前半に日本共産党の支持を失うという手痛い目にあった。中ソ関係が決裂した際に、日本共産党を中国にとられてしまったのである。日本共産党は、それまでのソ連KGBの「資産」からいっきに監視対象となった。
 KGBの日本での活動は、長年のKGBの協力者だった中国人の「ジミー」を63年に失ったことによって大きダメージを受けた。ジミーは中国情報機関の支援を得て、香港と東京に貿易会社を設置していて、KGBの非合法要員のために偽の香港の身分証を入手していたのである。ジミーの配下の非合法員だった中国系ソ連人「ワシリーエフ」は、東京で学生に扮していたが、日本人女性と結婚するためにソ連への帰国を拒んだ。
 こうして、中国との対立から日本共産党を失ったKGB東京支部にとって、62〜67年にもっとも重要だったエージェントは「KOCHI」というコードネームの『東京新聞』の記者だった。この人物は、内閣と外務省から高い水準の内部情報を入手していた。KGBファイルによると、KOCHIがリクルートされたのは62年のこと。ただし、67年からその情報価値がKGB部内で否定されていて、74年に記者を辞めた1年後の75年にはエージェント登録を抹消されている。
 なお、日本共産党との関係が切れたKGB東京支部は、次に日本社会党左派にコネを構築し、「KOOPERATIVA」とコードネームを付けた。彼らは、いわゆる「影響力のエージェント」である。
(※編集部注/影響力のエージェントというのは、インテリジェンス専門用語で、要は「自分たちの都合がいいように相手国内で言動する影響力の強い人物」のこと。工作対象を出世させて影響力をつけさせるために資金援助するケースも多い)
 70年2月26日に、ソ連共産党政治局は、日本社会党とその機関紙に助成金を支給するために、合計10万ルーブル(当時、3571万円)の支出をKGBに承認した。類似した助成金は、毎年払われたようだ。
 たとえば、72年に支払われた10万ルーブルのうち、6万ルーブルは政治資金として各議員個人に渡された。1万ルーブルは日本社会党とソ連共産党の交流資金、2万ルーブルが日本とアメリカおよび中国との関係に打撃を与えるアクティブ・メジャーズ工作資金、1万ルーブルが日本社会党に公明党や民社党など他の野党と提携させないためのアクティブ・メジャーズ資金として使われた。
(以下、続く)

2007/06/25(月) 09:44:48|

スパイ&テロ KGBの対日工作とフェン・フォーキング①
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-67.html

63・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:54:49
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作②

社会党最高幹部と自民党大物議員

 この頃、すでにおそらく5人の有力な社会党員がKGBのエージェントとなっていた。
▽勝間田清一
 コードネームはGAVR。彼は66年の日本社会党書記長選挙の次点者で、74年にその党内地位を強化するために400万円をKGBから受け取っている。KGBでは社会党中道派のリーダーと評価されていた。
(※ミトロヒン文書に勝間田氏の名前はないが、後にレフチェンコ氏がGAVR=勝間田氏と断定した)
▽佐藤保
 コードネームはATOS。社会党左派(マルクス主義派)のリーダーで、4つの党刊行物の責任者だった。KGBファイルには、佐藤氏が日本社会党機関誌に記事を掲載するための資金として73年10月に40万円をKGBから渡した記録がある。
(※ミトロヒン文書に佐藤氏の名前はないが、これも後にレフチェンコ氏がATOS=佐藤氏と断定)
▽ALFONS(実名不明)
 社会新報に記事を書いていた。72年に250万円受け取っている。KGBファイルには、社会新報に記事を書くために15万円が支払われた記録もある。
▽DUG(実名不明)
 日本社会党委員長に非常に近かった社会党員。選挙資金として72年に39万円を渡された。
▽DIK(実名不明)
 選挙ビラとポスター制作費として72年に20万円を支給された。
――それ以外にも、社会党でKGBエージェントとファイルされていたのは以下の通り。
▽JACK(キリル文字でDZHEK/実名不明)
 73年からエージェント。社会党議員。
▽伊藤茂
 コードネームはGRACE。社会党議員で党中央委員会のメンバー。おそらく75年よりエージェント。
(※ミトロヒン文書に伊藤氏の名前はないが、これも後にレフチェンコ氏が断定。レフチェンコ氏はその他に、ミトロヒン文書に出てこない2人の社会党員「RAMSES」と「TIBR」の存在も断定している)
▽DENIS(実名不明)
 江田三郎・社会党書記長の親しい側近。
▽KING(実名不明)
 後に日本社会党の幹部となった。
▽KERK(実名不明)
 勝間田派議員。KGB東京支部と日本社会党執行部のコネに重要な役割を果たした。
――この他にも、70年代には著名な労働組合活動家などがいた。
 ミトロヒン氏のメモによれば、DENISとGRACEのファイルには、彼らがエージェントになった動機は、イデオロギーと金銭獲得の両方だったと書かれていたという。他の社会党議員の場合もほぼ同様と思われる。

64・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 08:57:26
>>63
 また、KGBファイルによると、親ソ派の学者で「山本」という人物が、KGBの協力者として議会で影響力を行使したという。「山本」がリクルートされたのは77年。以後、彼はKGBの意に沿うような国会質問が出るように議員に働きかけた。
 社会党以外の協力者でもっとも重要だったのは、「HOOVER」というコードネームだった自民党幹部の石田博英・元労相である。石田氏は73年2月に「日ソ友好議員連盟」(コードネームはLOBBY)の代表になり、同年の8月〜9月の訪ソ団の団長となった。この訪ソ団は17年ぶりの日本国首相の訪ソとなる田中角栄首相訪ソの直前に行なわれた。石田氏がソ連中央で重く扱われるようにKGBGが裏で支援した。
 主要な日本の新聞社(KGBが少なくとも1人の高い地位にあるエージェントを運営している)である朝日新聞は、73年夏のモスクワへの石田氏の訪問の後にこう書いた。
「ソビエト連邦は今日、ソビエト領海侵犯で拘留される全49人の日本人漁師をすぐに解放すると発表した。発表は、石田博英訪ソ団長とソビエト最高議会党任幹部会議長の会談時になされた」
 石田氏は74年にKGB東京支部のPR系統部長ウラジミル・プロ二コフによって正式に「影響力のエージェント」としてリクルートされた。この功績によってプロ二コフは叙勲されている。
 70年代前半期、日本でのKGBの活動は、非常に重視された。たとえば、73年の日本での活動資金は、KGB本部第1総局第7部が管轄する他の11のアジア諸国のどれと比べても3倍の規模であり、インドに対する工作資金とほぼ同額だった。
(※73年のKGB第1総局第7部の工作予算は、日本が20万3100ルーブル、インドが20万4600ルーブル、パキスタンが5万4800ルーブル、ラオスが1万9000ルーブル、タイが3万2500ルーブル、カンボジアが2万6700ルーブル、シンガポールが2万2600ルーブル、マレーシアが2万3600ルーブル、インドネシアが7万2800ルーブル、ビルマが3万5300ルーブル、ネパールが1万2200ルーブル、スリランカが3万0600ルーブル、バングラデシュが5万2900ルーブル。なお、後にインド、パキスタン、バングラデシュ、ビルマ、スリランカ、ネパールは新設の第17部に移管。ラオス、カンボジアは第6部に移管された)
(続く)

2007/06/26(火) 00:35:02|

スパイ&テロ KGBの対日工作②
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-68.html

65・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:12:25
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作③

マスコミ記者のエージェントたち

 73年の田中角栄訪ソの前後、KGB日本支部は、ソ連共産党政治局が承認した日ソ平和条約の調印を実現化すべく猛烈な世論工作を仕掛けた。その条約案は、日本側が日米安保条約を破棄し、在日米軍基地を閉鎖するのと引き換えに、日本側に歯舞・色丹2島を返還するとともに、漁業権で譲歩することになっていた。
 こうしたなか、石田博英氏は70年代を通じて日ソ友好議員連盟を足がかりに、「影響力のエージェント」として使われ続けた。
 77年には、KGBの要請に基づき、彼は個人的に福田赳夫首相に意見した。モスクワの日本大使夫妻がソ連反体制派と接触し、「歓迎されざる人物」になったから、日本に呼び戻すようにということだった。
 70年代の間に、少なくとも2人のエージェントが自民党内でリクルートされた。田中角栄の側近だった「FEN」と、KGB東京支部が積極的に篭絡した自民党議員の「KANI」である。
 ミトロヒン氏がみた74年と75年のKGBファイルによると、FENのリクルート工作は72年からスタートし、75年にかなり進展があり、ついには正式なエージェントとして取り込まれた。レフチェンコ氏の証言にある「フェン・フォーキング」とほぼ同一人物とみられる。
 KGBは、自民党の一部の派閥と日本社会に固有の腐敗につけこんだ。ただ、アメリカのロッキード社がばら撒いたような巨額の資金を持たないKGBは、ロッキード社のようには日本政財界の上層部に食い込むことはできなかった。
 メディア界のKGBエージェントの大多数はおそらく金銭目的だった。ミトロヒン氏が書き写したファイルには、日本社会党機関紙以外に少なくとも5人の一般マスコミの記者が特定されている。
 朝日新聞の「BLYUM」、読売新聞の「SEMIYON」、産経新聞の「KARL」(またはKARLOV)、東京新聞の「FUDZIE」、そして、社名不明な主要新聞社の上級政治部記者の「ODEKI」である。
 さらに、ジャーナリストの「ROY」(ファイルによると、彼はKGBとの取引を単なるビジネスと考えていた)は、日本の防諜機関上級幹部の「KHUN」をリクルートするのに役立った。KHUNはとくに中国に関する機密情報を提供した。
 なお、後にレフチェンコ氏が明らかにしたところでは、ROYはレフチェンコ氏がエージェントとして使っていた「ARES」なるコードネームの人物と同一人物だろうということだ。彼は60年代半ばにリクルートされ、「KR系統」(防諜部門)に運営された。
 彼は日本の機密情報に近く、完全に金銭目的で情報を流していたが、70年代半ばに日本の防諜機関にマークされたために、その後はあまり活動しなくなった。ただ、レフチェンコ氏によれば、ARESは77年に再び活動的になったということだった。
 ミトロヒン氏はそれ以外にも「FET」(あるいは「FOT」)というジャーナリストの存在を書き留めているが、この人物については具体的な情報はない。
 ところで、日本のマスコミ人のすべてのエージェントが、自発的だったというわけではなかった。とくに読売新聞記者のSEMIYONのKGBファイルについてのミトロヒン氏のメモには、「彼が70年代初期のモスクワ訪問の間に、『名声を陥れるような資料が作られた』ことが記されていた。それは、闇市場での通貨両替の摘発事例(おそらく国内防諜を担当するSCD=第2総局によるオトリ工作)と、不道徳な振る舞い(まず間違いなく変形的なハニートラップ)だったという。
 ソ連のエージェントとしての彼の6年間の活動の間、SEMIYONはしばしば、彼を解放するようKGBを説得しようとした。そして、彼が偽情報を流すのが発覚した後、KGB本部は結局、彼との接触を切断した。

2007/06/28(木) 18:22:48|

スパイ&テロ KGBの対日工作③
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-71.html

66・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:19:56
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

北方領土問題についての私見

 当ブログでは今、昨年弊誌で掲載した「KGBの日本人エージェントは誰だったのか?」という記事を転載していますが、前回記事の冒頭で、こんな文章がありました。

「73年の田中角栄訪ソの前後、KGB日本支部は、ソ連共産党政治局が承認した日ソ平和条約の調印を実現化すべく猛烈な世論工作を仕掛けた。その条約案は、日本側が日米安保条約を破棄し、在日米軍基地を閉鎖するのと引き換えに、日本側に歯舞・色丹2島を返還するとともに、漁業権で譲歩することになっていた」

 以上は、一昨年にイギリスで出版された『ミトロヒン文書Ⅱ』の日本の項の一部ですが、北方領土に対するロシア側の意識がよく表れているなと思います。
 日本では、ある日、突然にロシアが悔い改めて、「悪かった。北方領土が日本のものであるのは当然だから、返しましょう」などと言ってくるかのような幻想があるようですが、1956年の日ソ共同宣言のずっと後の73年の時点で、あちらはこんな意識だったということを、もう少しシビアに考えるべきではないかと思います。
 なにせ、「日米安保条約を破棄して在日米軍基地を閉鎖するなら、見返りに歯舞・色丹だけは返してやってもいいよ」なんですね。ものすごい「上から目線」なわけです。
 実効支配というのは、パワーポリティクスではそのくらいの価値があります。それなのに、そういう向こうの現状を〝見ない〟ようにして、希望的観測を振りまく言説がこの国ではやたら多いのではないかという気がします。
 私はこの問題をずっとフォローしているわけではないので、今どうなっているのかはわかりませんが、過去にこんな経験があります。
 91年春にゴルバチョフが来日し、さらにその年の夏にクーデター騒動があってエリツィンが実権を掌握し、ソ連解体へと繋がっていくわけですが、その間、モスクワに居住してその動きをずっと取材したことがあります。
 で、当時、日本のメディアに盛んに流れていたのが、「ついにソ連(ロシア)もまともな国になったし、ものすごくカネに困っているから、いよいよ北方領土返還交渉が進展する!」との観測でした。けれども、モスクワで取材すると(ゴルバチョフやエリィン本人には取材できませんでしたが、上のほうは最高会議議長とか下院議長とか日本担当外務次官とかソ連外務省の局長・課長とかエリツィンの側近とかも取材しました)、まあ皆さん決まって「まあ、そういうのはあんまりマジにとらないでよね。カネもらったからってロシアの領土を売るわけないじゃん。今はこっちもたいへんなんだから、日本どころじゃないのよ」というような反応でした。よくあることなのですが、向こうと日本側の意識がものすごく乖離していたわけです。
 では、どうしてこんなふうになったのか?というと、当時、日本のメディアに流れていた北方領土交渉楽観論の震源地は日本外務省だったのですね。
 つまり、日本外務省が接触していたソ連・ロシア側のカウンターパートというのは、それは対日交渉担当ですから、向こうも希望的観測でいろいろなことを言いますけれども、まあそれほど本気ではなかったのではないかと思うのです。だいたい、ソ連(ロシア)の外交戦略を動かしているのは、第一に対アメリカ担当の人たちで、次が対西欧担当、その次が対中国担当で、その次が対中東&南アジア担当、というような感じです。対日関係なんて優先度からいうとずっと下のほうです(たぶん)。あんまりそういう人たちの言うことを真に受けてもしかたがないのではないかと思うのです。
 領土問題で妥協は許されないとの主張に異論を挟む気はありませんが、北方領土が返還されるチャンスなどそうそうあるとも思えません。なにせ「米軍を追い出したら、ご褒美に小さい島のほうだけなら返してやってもいいよ」と考えていたような人たちですので。
 以上は15年前の取材経験だけを基にした私の単なる印象ですので、間違っているかもしれません。ですが、あの頃、そんなことがあったので、その後もたびたび浮上する「領土交渉進展か!」「2島先行返還か!」「領土問題の存在をロシアが再確認!」などのニュースを見るたびに、「また同じことやってるなあ」という気になっちゃうのです。
 外交は戦争みたいなものですし、正論を掲げることは戦略上も重要なことですが、それはそれとして、現実を把握することも重要ではないかと思うのです。

2007/06/29(金) 17:32:23|

スパイ&テロ 北方領土問題についての私見
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-72.html

67・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:33:16
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作④

侵食された外務省

 レフチェンコ氏は後に、複数のKGBアクティブ・メジャーズのエージェントを名指しした。うち最も重要なのは、サンケイ新聞の編集局次長だった山根卓二氏(コードネームはKANT)だった。彼は、A部門の偽造に基づき、偽の周恩来遺書をスクープし、日中関係に打撃を与えようとした。KGB本部は、保守系紙で発表されたほうが効果が高いだろうと計算したのである。
(※同記事はサンケイ新聞の昭和51年1月23日朝刊に掲載された)
 この偽遺書については、北京ですら騙され、死にもの狂いで出所を発見しようとした。だが、やがて日本の情報機関関係者が偽造と特定した。
 79年秋時点で、KGB東京支部のPR系統は合計31人のエージェントおよび24人の秘密の接触者を持っていた。
 もっとも、その頃のKGB東京支部は、積極工作よりも諜報に大きな成功を収めていた。とくに、KGB東京支部が最も成功した標的はおそらく外務省だった。
 少なくとも60年代後半からレフチェンコ亡命のあった79年まで(おそらくその後も)、2人の日本外交官(「RENGO」と「EMMA」というコードネーム)は、東京と彼らの外国の勤務先で大量の機密扱いの資料を提供した。KGBの彼らのファイルには、両者とも『貴重なエージェント』と書かれている。
 EMMAには、彼女がエージェントになったまもなく、運営者によってハンドバッグが与えられた。そのバッグには、外交文書の写真を複写するためのミノックスカメラが仕込まれていた。
 RENGOはまた、自ら新たなエージェントのスカウトとしても働いた。
「OVOD」というコードネームの日本の外交官は、合計6年間のモスクワ勤務の間に2回、ハニートラップに引っかかり、それをネタにエージェントに仕立て上げられた。
 彼へのハニートラップのうち2回目のほうは、MARIANAというコードネームのKGBエージェントによって実行された。彼女は、OVODのロシア語教師として雇用されたが、まもなく男女関係となり、その性交渉時の写真が撮影された。OVODはいやいやながらも、KGBに協力することを承認した。
 KGBが最も成功した日本外交官へのハニートラップは、70年代前半にモスクワに駐在していた電信官「MISHA」を、LANDYSHというコードネームのKGB工作員が誘惑したケースだった。
 MISHAはおそらく、70年代後期に「NAZAR」というコードネームでKGBに運営されていた東京の外務省本省に勤務する電信官と同一人物である。このNAZARの情報は、最初の運営者だったバレリ・イワノビッチ・ウマンスキーと後任のヴァレンチン・ニコライエビッチ・ベロフが、他のすべての任務から離れてNAZAR運営に専念することになったことからわかるように、KGB東京支部でも最重要であると考えられた。
 NAZARによって供給される外交公電(それは東京とその駐ワシントン日本大使館の間の交信を含む)は、しばしばKGB東京支部がKGB本部に報告する前にすべて翻訳することが難しかったほど膨大だった。
 ミトロヒン氏はその他に、70年代にKGBにリクルートされていた日本人外交官として「MARCEL」というコードネームのエージェントも確認している。MARCELの協力で、「KONUS」というコードネームの自衛隊の駐ソ連の防衛駐在官もリクルートされたとのことだ。

68・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:41:13
>>67
KGBの科学技術情報スパイ

 70年代のKGB東京支部のその他の最も明らかな成功例は、KGB本部の第1総局T局の指揮下にある「X系統」による科学技術情報の収集だった。
 たとえば、71年6月に、東京地域のハイテク会社の社長で、「TONDA」というコードネームの日本人エージェントは、米国の空軍とミサイル部隊のための新しいマイクロ・エレクトロニクスのコンピュータ・システムに関する重要な機密資料をKGB東京支部に提供した。
 進行中の情報を提供したエージェントで最も高く評価されるものの一人が、半導体製造会社オーナーの「TANI」で、彼は日米の半導体の機密情報やサンプルを提供した。
 TANIは、KGBの担当者に対し、自分はKGBのために働いているというより、単にビジネスとして産業スパイで稼いでいると語っていた。ほとんどとまではいかないが、いくつかのX系統のエージェントは、おそらく同じような冷めた見方をしていた。
 その他に、最新技術の半導体に関する機密情報を提供したエージェントに「LEDAL」がいた。彼は日本の大学の半導体研究の責任者だった。KGBファイルのミトロヒン氏のメモによると、70年代に日本のハイテク産業と研究所の幹部職にある日本人エージェントは合計16人だったという。
 X系統のその他のエージェントには、通信技術研究者の「ARAM」、通信技術者の「ARGUS」、東京大学の科学者である「BRAT」、宇宙研究者の「EYR」、微生物学者の「KANDI」、物理学者の「KARI」、宇宙学者の「KISI」、日立社員の「RIONI」、三菱社員の「SAK」、技術専門家の「SOT」、赤外線分光学者の「TAIR」、電子技術者の「TONI」、核科学者の「UTI」などである。
 警視庁の監視チームと彼らの本部の間で交わされる通信をモニターするためにKGB東京支部が使っていた器材さえ、日本から盗んだテクノロジーに基づいていた。
 日本はKGBが最新技術を盗む対象国としては5番手の国だった。たとえば80年時点でいえば、最新技術の61・6%はアメリカからのもので、次いで10・5%が西ドイツ、8%がフランスから、7・5%がイギリス、そして3%が日本からということだった。
 日本が比較的低かったのは、日本は第1総局T局が主標的とする大きな防衛産業を持っていなかったからである。もっとも、KGBによるハイテク情報入手のわずか3%とはいえ、それでソ連では80年代に100の研究開発プロジェクトに使用された。
 70年代後期、KGB東京支部長だったオレグ・アレクサドロビッチ・グリヤノフは、部下に対し、「これらのX系統の活動で得る資金だけで、KGB東京支部全体の活動経費より大きい」と語っている。
 実際、KGBの世界的なハイテク技術のスパイによって得る利益は、全世界でのKGB海外部門の活動経費をすべてカバーした。それをみたT局長のレオニード・セルゲイエビッチ・ザイツェフは、T局を第1総局から独立したセクションに格上げするように画策して失敗した。

69・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:43:32
>>68
レフチェンコ亡命のダメージ

 79年秋のレフチェンコKGB少佐の亡命は、KGB東京支部の活動、なかでもPR系統に大きなダメージを与えた。この事件で、KGB本部はすかさず損害制限措置に着手した。東京支部とエージェントとの一連の接触は中止された。
 なかでもPR系統のネットワークはすべて作り替えることになった。とくに、「DENIS」と「山本」との接触はすかさず凍結された。この2人はレフチェンコ氏が直接運営しっていたエージェントだったからだ。
 レフチェンコ亡命によって正体が露呈する恐れがあったエージェントのうち、最も重要なものはNAZARだった。彼とその他のエージェントについて、東京支部ではその後の数年、それが露呈するかどうか神経質に見守った。
 ところで、KGB本部では、80年代初期の頃にアメリカのレーガン政権が核の先制攻撃計画を作っているとの認識で、その情報を探ることを各支部に命じた。そのため、KGB東京支部の主な優先順位にも、西側諸国のKGB支部が「RYAN作戦」と題して行なっていたこの存在しない計画に関して情報を集めることが挙げられた。
 一方、70年代にはKGBによって日本での積極工作の対象とみられていた日本社会党も、その頃に極東でのソ連軍増強に驚くようになっていた。83年、日本社会党執行部は、ソ連がアジアに配備しているSS-20ミサイルが日本やアジア地域に脅威を与えているとして、公式にソ連共産党に申し入れた。
 KGB工作員の侵入のための「主な目標」のうちの1つとして、アメリカ、その他のNATO同盟国、中国に加えて、日本も加えられた。各支部は、アメリカ、西欧諸国、日本の間で亀裂が生じるように積極工作的に乗り出すように指示された。
 レフチェンコ亡命の結果としてPR系統が大打撃を受けたが、X系統はほとんど影響を受けず、87年春までその活動を拡大した。
 その年の5月に、潜水艦のスクリュー音軽減に役立つ東芝子会社の機密情報漏洩が発覚。ほとんど同時に、ソ連情報部のための日本のスパイ網が、ソ連情報部にAWACS技術に関する秘密文書を提供したことが露呈した。
 日本政府は、KGB要員を国外に追い出すことによって応えたが、それを受けてモスクワでも、海自防衛駐在官と三菱駐在員が国外追放された。
(以上、『ミトロヒン文書Ⅱ』日本の項の抄訳)

2007/06/30(土) 09:43:59|

スパイ&テロ KGBの対日工作④
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-73.html

70・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:52:42
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作⑤

レフチェンコ証言を採用した『ミトロヒン文書』執筆者

『ミトロヒン文書』は、いわゆるレフチェンコ情報と重ね合わせると興味深い。ミトロヒン氏は明らかに「影響力のエージェント」の実名として、自民党幹部だった石田博英元労働相(コードネーム「HOOVER」)について名指ししている。
 サンケイ新聞の山根卓二・編集局次長については、ミトロヒン氏の資料に実名があったかどうかはこの記述だけからは確認できない。本書の著述は実際にはアンドリュー教授の手によるもので、必ずしもミトロヒン氏の資料だけからの記述ではないからだ。
 ただし、専門家であるアンドリュー教授が他の情報源(彼はレフチェンコ氏も直接聴取している)が本文中に実名を出したということは、それなりの根拠となる情報があったということにほかならない。山根記者の場合、周恩来の偽遺書スクープ工作の話が出ているので、その筆者である山根氏が確認されたのかもしれない。
 また、ミトロヒン氏が持ち出した機密資料写しには実名がなかったものの、レフチェンコ氏の証言を元に『ミトロヒン文書Ⅱ』では、3人の社会党議員の実名が断定されている。GAVR=勝間田清一氏、ATOS=佐藤保氏。GRACE=伊藤茂氏である。これは、KGBの内情に詳しいアンドリュー教授が、レフチェンコ証言の情報の信憑性をそれなりに評価したということを意味する。なお、『ミトロヒン文書Ⅱ』の巻末の脚注をみると、この点でアンドリュー教授は、『リーダーズ・ダイジェスト』誌ワシントン総局主任編集人のジョン・バロン氏がレフチェンコ氏に取材して執筆した『KGB Today』(83年5月刊)を参考にしていることがわかる。
 仮にレフチェンコ証言の信憑性が評価できるということなら、いわゆるレフチェンコ・メモもそれなりに正確な情報だったのだろうと推定できる。レフチェンコ・メモとは、日本人エージェントの実名についてレフチェンコ証言をまとめたものだ。
 なお、レフチェンコ証言の経緯は以下のようなものである。
 レフチェンコKGB少佐が亡命したのは79年10月。当然ながらアメリカ情報当局の管理下に置かれたが、82年7月、米下院情報特別委員会秘密聴聞会で証言し、続いて同年12月にレフチェンコ氏自身も初めて記者会見を行なった。
 レフチェンコ・メモの中身は非公開だったが、『毎日新聞』が82年12月に秘密聴聞会の内容の一部をスクープ。レフチェンコ氏は翌83年4月に初めて日本マスコミのインタビューを受けた。最初は毎日新聞で、続いて『読売新聞』『フジテレビ』『NHK』『週刊文春』などに次々と登場した。そこで何人かの日本人エージェントの実名を明らかにしたが、最終的には同5月に出版された前出『KGB Today』で、計26人のエージェントのコードネームと、うち9人の実名を明らかにした。実名を出されたのは、サンケイ新聞の山根記者、石田博英・元労働相、勝間田清一・社会党議員、佐藤保・社会主義協会事務局長、伊藤茂・社会党議員(いずれも前出)、上田卓三・社会党議員(後述するリーダーズ・ダイジェンスト日本版には記載されず)に加え、杉森康二・日本対外文化協会会長、ニュースレター『インサイダー』の編集者である山川暁夫氏、三浦甲子二・テレビ朝日専務である(山川氏の場合は本名ではなくペンネーム)。
『KGB Today』の内容は、すかさず『リーダーズ・ダイジェスト日本版』同年5月号に、レフチェンコのロング・インタビューとともに掲載されたが、これを受けて日本の各メディアは大騒動となった。ここで名前を出された人は、いずれも疑惑を否定したが、周恩来偽遺書スクープ事件のサンケイ新聞・山根編集局長は、“エージェント疑惑”が曖昧なままに辞任を余儀なくされた。単にKGBに騙されただけの可能性もあったわけだが、誤報を出したこと自体は事実であり、その責任を問われたかっこうだった。

71・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:54:50
>>70
 なお、日本リーダーズ・ダイジェスト社から84年10月に出版された『KGBの見た世界〜レフチェンコ回想録』には、日本人エージェントについて以下のような内容の記述がある。
▽ソ連のために働く日本在住の優秀なジャーナリストがいる。有力通信社勤務で、若い頃、プロニコフというKGB東京支部員にリクルートされた。日本の公安関係機関の秘密情報をもう何年も提供してくれていた。
▽40代後半の読売新聞のベテラン記者の場合、レフチェンコは最初は友人として接し、やがて篭絡。ついには報酬とひきかえに情報を流すエージェントに仕立て上げた。
▽東京新聞外信部の記者に工作をかけたが、篭絡できなかった。
▽元ジャーナリストでフリーランサーの男は、レフチェンコがKGBと知って盛んにインチキ情報を持ち込んだ。
▽大手新聞管理職の男がインチキなネタでKGBにタカった。あまりにタカりぶりがひどいので、KGB側が切り捨てた。
▽79年にレフチェンコは、元共産党員のニューズレター発行者をリクルートした。この人物は自ら進んで情報を提供した。金銭も最初からためらいなく受け取った。
(※ちなみに『KGBの見た世界』には、以下のようにKGB東京支部の描写もある。
▽11階建てのソ連大使館で、KGB東京支部は10階と11階を占めていた。レフチェンコ着任時の支部長は42歳のイェローヒン。部長室は10階。他に翻訳室、X系統室、通信傍受室、積極工作の部室、工作員の部屋などがある。電子機器類が並んでいる……)

72・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 09:59:33
>>71
渡邊恒雄回想録と警察白書

 レフチェンコの証言に出てくる読売新聞のベテラン記者に関して、『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社/2000年1月刊)に、以下のように興味深い記述がある。

 実は、当時我が社に当時いた記者が、レフチェンコ事件の協力者リストに挙げられたことがあったんだ。それで僕は本人を呼んで尋問したが、「スパイ協力行為はやってない」と言う。
 ある日、官邸で後藤田さんと会ったとき、「きみの社のあの記者は、ソ連のスパイ協力者だから解雇しろ」と言うんだ。いきなり命令調でね。だから、僕はカーッとなって、「政府の人間が我が社の社員を解雇しろなんて、命令するのは無礼じゃないか」と怒鳴ったんだ。
 後藤田さんはそうしたら、レフチェンコの自白を基にCIAや日本の公安当局がまとめた一覧表を僕に見せる。だけどコードネームだけで、実名は出ていない。それで、「おまえのとこの記者はこれに該当するんだ」とまた言う。僕は「内政干渉だ」と言い返したら、「お前は政府に喧嘩を売る気か」と怒鳴る。僕は頭にきて、総理大臣執務室に飛び込んだんだ。
 たまたま中曽根さんが一人でいて、僕は彼に、「いま後藤田さんと喧嘩してきた。やつとは絶縁する」と言ったよ。僕があんまり激しい調子で言ったんで、中曽根さんも真剣な顔をして理由を聞く。(略)
 中曽根さんは執務室の机の引き出しからガサゴソと大きな封筒に入った書類を持ってきて 「これは私と官房長官しか持っていないものです。どうぞご覧下さい」とだけ言うんだ。それを見ると、コードネームに全部実名が付いている。いまでは公然となったけれど、国会議員二、三人を含め新聞社もほとんど各社の人間が絡んでいるんだな。

 つまり、そこに、その読売新聞記者の名前も出ていて、渡邊氏も納得せざるを得なかったということだった。
 また、レフチェンコが証言した日本人エージェントについて、『警察白書』昭和59年版にはこうある。

 警察庁は、証言に表れたソ連の情報機関KGB(国家保安委員会)の我が国における活動に伴って違法行為が存在するか否かについて調査するため、58年3月、係官をアメリカに派遣し、レフチェンコ氏より前記証言の更に具体的な内容について詳細に聴取した。
 証言及び聴取結果によれば、レフチェンコ氏は、亡命当時KGB少佐の地位にあり、「新時代」誌支局長の肩書を利用しつつ日本の各界に対して、日・米・中の離間、親ソロビ−の扶植、日ソ善隣協力条約の締結、北方領土返還運動の鎮静化等をねらいとした政治工作を行なうことを任務としており、この任務に関して11人の日本人を直接運営していた。この種の工作においてKGBが成功した例としては、ねつ造した「周恩来の遺書」を某新聞に大きく掲載させたことがあった。
 警察は、そのうち必要と判断した数人から事情を聴取するなど所要の調査を行なった。その結果、レフチェンコ氏やその前任者等から、金銭を使ってのスパイ工作をかけられ、実際に我が国の政治情勢等の情報を提供していたこと、また、相互の連絡方法として、喫茶店等のマッチの受渡しによる方法が用いられたり、「フラッシュ・コンタクト」(情報の入った容器を歩きながら投げ捨てると、後から来た工作員が即座にそれを拾う方法)の訓練をさせられたこと等の事実が把握されたが、いずれも犯罪として立件するには至らなかった。
 しかし、「レフチェンコ証言」については、同証言に述べられた政治工作活動の内容と、警察の裏付け調査の結果及び警察が過去に把握してきた各KGB機関員の政治工作活動の実態とが多くの点で一致するところから、その信憑性は全体として高いものと認められた。

2007/07/13(金) 08:49:19|

スパイ&テロ KGBの対日工作⑤
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-74.html

73・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:08:55
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作⑥

レフチェンコ・メモの中身

 ところで、実は本誌は「レフチェンコ・メモ」そのものを入手している。レフチェンコ自身の担当エージェントの実名がすべては記載されていないなど、部外秘レベル的には最高度のものではないが、入手経路からみて、公安警察の一部のセクションで作成されたものであることが確実の資料である。
 メディアに流出した「レフチェンコ・メモ」にはいくつかの種類があるのだが、本誌が入手したものの記述は以下のようになっている。実名を含めてここに明らかにするが、その理由は後述する(以下、カッコ内は『リーダーズ・ダイジェスト日本版』に掲載されたレフチェンコ証言情報)。

①石田博英・元労働相
 コードネーム「フーバー」。担当者はフロニコフ中佐。レフチェンコ氏は本国のKGB本部勤務時代にも報告書で名前を知っていたし、実際に東京でも工作支援の際に面識がある。意識的にKGBに協力している。
②コードネーム「フェン・フォーキング」
 実名不記載。自民党員で、党内の一派閥に影響力を及ぼし得る立場にいる。KGBの正式なエージェント。KGB東京支部の中国班が担当している。
(自民党の党員で、党内の一派閥の指導人に影響を及ぼし得る人物)
③勝間田清一・元日本社会党委員長
 コードネームは「ギャバー」。担当者はセバスチャノフ中佐。レフチェンコ氏は工作報告官として報告書に記載したことがある。意識的にKGBに協力している。
④伊藤茂・社会党議員
 コードネームは「グレース」。担当者はセバスチャノフ中佐。レフチェンコ氏は報告官として工作報告書に記載したことがある。意識的にKGBに協力している。
⑤佐藤保・社会主義協会事務局長
 コードネームは「アトス」。担当者はウマンスキー少佐。意識的にKGBに協力している。
⑥上田卓三・社会党議員(その後、党中央執行副委員長、部落解放同盟委員長)
 コードネームは「ウラノフ」。工作支援でレフチェンコ氏も面識がある。ただし、本人がKGBの正式エージェントというわけではなく、KGB正式エージェント「山本」の影響下で無意識にKGBに協力している。
⑦コードネーム「ズム」
 実名不記載。上田卓三の秘書。レフチェンコ氏は工作支援で面識がある。無意識にKGBに協力している。
(ウラノフの優れた秘書)
⑧コードネーム「キング」
 実名不記載。落選した議員。レフチェンコ氏が担当。意識的にKGBに協力している。
(社会党の有能なリーダーで議員。レフチェンコから選挙資金等を受け取った)
⑨コードネーム「ティーバー」
 実名不記載。社会党員。意識的にKGBに協力している。
(党の政策に影響力を持つ)
⑩コードネーム「ディック」
 実名不記載。議員。レフチェンコ氏が担当。数年協力していたが、その後、離脱した。
⑪コードネーム「ラムセス」
 実名不記載。社会党員。意識的にKGBに協力している。
⑫コードネーム「カメネフ」
 実名不記載。議員。レフチェンコ氏が担当。無意識にKGBに協力している。
⑬山根卓二
 コードネームは「カント」。サンケイ新聞編集局次長(後、局長)。担当は当初はスミルノフ少佐で、その後、レフチェンコ氏に引き継がれる。KGBの正式エージェント。
(社長と親しい)
⑭コードネーム「デービー」
 実名不記載。サンケイ新聞記者。KGBの正式エージェント。レフチェンコ氏はKGB東京支部内の情報でその存在を知る。
(サンケイ新聞東京版勤務。カントを補強しうる人物)
⑮T(メモには実名があるが、なぜかこの人物だけカッコ付きで記載されている。意味が不明だが、公安が確認していない可能性もあるので、ここでは実名を伏せる)
 コードネームは「トマス」。読売新聞政治部。担当者はレフチェンコ氏。ただし、実態はKGBのエージェントではなく、無意識の協力にすぎない。(編集部注/T氏と推定される読売新聞記者については前出・渡邊恒雄回顧録で登場するが、T氏自身はその後、日本テレビ取締役、ラジオ日本社長などを歴任した)。
(レフチェンコの執筆依頼に応じていた)

74・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:12:01
>>73
⑯コードネーム「カミュ」
 実名不記載。東京新聞記者。KGB正式エージェント。レフチェンコ氏は東京支部の報告書に記載したことがある。
(韓国問題のスペシャリスト)
⑰コードネーム「アレス」
 実名不記載。共同通信記者。担当は当初はフロニコフ少佐だったが、後にレフチェンコ氏に引き継がれた。KGB正式エージェント。
(公安関係の友人から膨大な秘密情報を入手し、KGBに渡していた。「情報の宝庫」と呼ばれていた)
⑱コードネーム「アギス」
 実名不記載。大手新聞記者で元モスクワ特派員。KGB正式エージェント。
⑲三浦甲子二
 コードネームは「ムーヒン」。テレビ朝日専務。レフチェンコ氏も工作支援で面識ある。ただし、エージェントではなく「友好的人物」。
⑳山川暁夫(ペンネーム)
 コードネームは「バッシン」。ニュースレター『インサイダー』編集者。担当者はレフチェンコ氏。意識的にKGBに協力している。
21 コードネーム「ドクター」
 実名不記載。フリージャーナリストで、KGB正式エージェント。
(経済的にフリーのジャーナリストで、熱狂的マルキスト。以前は共産党員。事務所、家屋、接触予定地点を撮影するなどして、KGBの工作活動に不可欠な、秘密のバックアップ活動を展開した)
22 コードネーム「山本」
 大学教授。KGB正式エージェント。
(インテリのエージェントにより成るグループの指導者で、大学教授。学界で活発に活動中で、ソ連の意思に従った各種著作物を発表している)
23 コードネーム「バロン」
 実名不記載。アメリカに詳しい学者。KGB正式エージェント。
24 コードネーム「ブラット」
 実名不記載。東京の大学教授。意識的にKGBに協力している。
25 コードネーム「クラスノフ」
 実名不記載。著名な財界人。KGB正式エージェント。
26 堤清二
 コードネーム「ツナミ」。西武百貨店会長。担当者はグリヤノフ大佐。ただし、KGBエージェントではなく、「友好的人物」。
(億万長者で財界の実力者。ソ連の影響力が日本の財界や実業界に及ぶのを助けている)
27 コードネーム「シュバイク」
 実名不記載。公安関係。共同通信記者「アレス」のサブ工作員。
(アレスの友人の公安関係者。アレスに渡した情報の中には、公安当局が作成したレフチェンコの身上調書の抄訳のコピーも含まれていた)
28 コードネーム「マスロフ」
 実名不記載。元内閣調査室職員。KGB正式工作員。
(内閣調査室関係者で中国問題のアナリスト)
29 コードネーム「ナザール」
 実名不記載。外務省電信官。KGB正式工作員。KGB本部第1総局第16課(シギント担当)直属。担当者はウマンスキー少佐とベロフ少佐。
(各国の日本大使館から発信された通信文を同省の電信課で入手し、撮影もしくはコピーして、自分のケース・オフィサーに渡していた)
30 コードネーム「レンゴー」
 実名不記載。外務省職員(夫妻)。KGB正式工作員。
31 杉森康二
 コードネーム「サンドミール」。日本対外文化協会事務局長。意識的にKGBに協力している。

2007/07/13(金) 08:58:35|

スパイ&テロ KGBの対日工作⑥
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-75.html

75・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:26:19
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作⑦

エージェントにファイルされても必ずしもスパイとは限らない

 本誌が入手したレフチェンコ・メモの内容は以上の通りである。インターネットの掲示板にもなかなか興味深い情報が出ているが、検証ができないのでここでは引用しない。本誌が以上の情報をあえて掲載したのは、これが公安警察の少なくとも一部から出た情報だということからである。
 ただし、念のために申し添えておきたいが、警察がこのようなメモを作っていたからといって、そこに掲載された人すべてがソ連の工作員だったということではない。
 たとえば、同メモには11人の実名が出ているが、三浦・テレ朝専務や堤・西部百貨店会長については、明確に「友好的人物」と位置づけられている。本人がKGBに協力しているという自覚がないままに、ただソ連大使館員と友好的に付き合っているだけの人物という意味である。
「無意識の協力者」に分類された人にも同じことがいえる。このメモでいえば、T(メモではカッコ付実名)読売新聞記者、上田・社会党議員、上田議員の秘書などである。彼らは当然ながら自分ではエージェントだと思っていないし、実際にエージェントともいえない。
 KGBに限らずどこの情報機関も、正式にリクルートしたエージェント以外に、このような「友好的人物」「無意識の協力者」を情報源あるいは「影響力のエージェント」として使っている。単に情報交換をする間柄だが、情報機関サイドはそれを工作と見なしていて、対象にコードネームをつけてファイルし、組織的に管理している。
 レフチェンコ・メモにはKGBの正規エージェントとして14人が挙げられている。うち、実名が断定されているのは山根・産経新聞記者だけである。
 だが、正式なエージェントとファイルされていても、それがどの程度の積極的なエージェントかというとケース・バイ・ケースであり、一概にはいえない。エージェントというと、組織の命令に絶対服従で、その指令に基づいてものすごい機密情報を盗み出すとか、あるいはその指令に基づいて積極的に偽情報工作を実行するといったイメージがあるが、ほんの少し便宜を図ってあげただけでも、組織側に「エージェント」とファイルされる可能性もあるからだ。
 とくに、ちょっとしたことの謝礼としてわずかでも現金や物品を受け取ったら、エージェントにファイルされる可能性が高い。そのため、こうした外国情報筋と日常的に接触し、情報交換している外交官や公安担当者、マスコミ記者などは、ある程度の情報交換はよしとしても、「カネは受け取らない」ことを心がけているはずである。
 山根記者をはじめ、このレフチェンコ・メモに登場する面々が実際にどのような役割をしていたのかはわからないが、彼らはなにも特別な存在ではなかった可能性もある。山根記者の場合も、スパイというよりは、単にニュースのネタ元としてソ連大使館員と接触していたのかもしれない。偽周恩来遺書を掴まされるなどの失策はあっただろうが、ソ連大使館員からネタを得るというのは、ジャーナリストなら誰にとっても魅力的な話だ。
 実際、日本の外交官、公安担当者、マスコミ記者のなかには、彼ら自身の日常的な職務である情報収集の一環として、外国情報筋と積極的に接触し、情報交換している人がいる。これらの職にある人で、ロシアや中国に太い情報源を持っているといわれている人は、当然ながら深い部分で情報交換をしているわけだから、かなり高い確率で、まず間違いなく向こうの情報機関に“勝手に”何らかのレベルでエージェントに分類され、怪しいコードネームでファイルされているはずである。それは「影響力のエージェント」の場合もあるし、「友好的人物」あるいは「無意識の協力者」の場合もある。
 KGB工作員とこうした〝エージェント〝の関係のなかには、おそらく両者が互いの利益のためにギリギリの情報交換をしているというケースが少なくないはずだ。金銭目的というよりも、「ロシアや中国の情報を得たい」というプロ意識、あるいは、それで「〝情報通〟として組織内で評価されたい」との動機でこうした危険な道に入る人もいるだろう。

76・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:33:46
>>75
 だが、だからといって、当然ながら彼らはスパイではない。同様に、レフチェンコ・メモに「正式エージェント」と記載されていたからといって、必ずスパイだったとは断定できない。たとえば、情報自体は日本の新聞に書いてあるような内容のことでも、それを政治家や官僚や記者などから「口頭で聞いて報告書にして本国に報告」することが、スパイ組織のなかでも「ちゃんと仕事をしている」として評価される。こうした構図では、単に「KGBスパイと会って、新聞に出ているような話をした」だけでKGBのファイルには〝エージェント〟として記録される。
 本誌も、彼らがスパイだったいうことではなく、KGB側にファイルされていたという事実をもって、ここにあえて実名を掲載した次第だ。

曖昧な「親ソ派」と「エージェント」

 このレフチェンコ・メモに「友好的人物」として登場する三浦甲子二・テレ朝専務や堤清二・西武百貨店会長、あるいは「意識的な協力者」として登場する石田博英・元労働相や勝間田清一・元社会党委員長などは、いずれももともと親ソ派の人物として知られていた。そういった意味では、彼らの立ち位置は秘密でも何でもなかったわけだ。
 こういう親ソ派の人物というのは、なにも彼らだけではない。91年11月、本誌編集長は冷戦時代の対日工作を牛耳っていたイワン・コワレンコ元ソ連共産党国際部副部長(元日本課長)にロング・インタビューを行なったことがあるが、そこでコワレンコ氏は、個人的に親しくしている日本側要人として、石田博英、勝間田清一、伊藤茂、三浦甲子二、杉森康二、堤清二といった人物の名前を挙げた。しかし、そこで名前が出るということ自体が、ソ連側の統制下にある秘密の〝スパイ〟ではなかったということではあるまいか。
 なお、コワレンコ氏はこのとき、それ以外にも、鳩山一郎、河野一郎、赤城宗徳、田中角栄、中川一郎(以上、自民党議員)、成田和巳、石橋正嗣、飛鳥田一雄(以上、社会党議員)、松前重義(東海大学総長)、池田大作(創価学会名誉会長)各氏の名前を挙げた。なかでも池田大作氏のことはベタ誉めだったが、いずれにせよ自民党の派閥領袖クラスを除けば(中川一郎議員はコワレンコ氏と三浦甲子二・テレ朝専務らを通じて深い付き合いがあった)、すでに親ソ派として知られている人物たちである。
 また、コワレンコ氏はその後、96年に手記『対日工作の回想』を日本で出版したが、そこでは右記以外の友人・知人として、土井たか子、五十嵐広三、高沢寅男、山本政弘、岡田春夫、岩垂寿喜男(以上、社会党議員)、岡田茂(東映社長)、柴野安三郎(札幌日ソ友好会館オーナー)、中村曜子(画廊「月光荘」経営者)、長谷川千恵子(画廊「日動画廊」経営者)、千田恒(元サンケイ新聞論説副委員長)、秦正流(元朝日新聞専務・編集局長・外報部長・モスクワ支局長)、白井久也(元朝日新聞モスクワ支局長)の各氏の名前が挙げられていた。
 彼らはいずれも大っぴらにソ連外務省、共産党国際部、あるいは駐日ソ連大使館と交際があったが、もちろんそれでスパイということにはならないだろう。レフチェンコ・メモに登場する〝エージェント〟の何人かも、コワレンコ氏が名前を挙げたこれらの人々とそれほど実態が違わないのではあるまいか。

77・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:36:44
>>76
スパイ「ミーシャ」(ナザール)は誰だ?

 ところで、レフチェンコ・メモやミトロヒン文書に登場する〝エージェント〟のなかで、もっとも興味を引かれるのが、「フェン・フォーキング」(ミトロヒン文書では「FEN」)なる人物である。
 レフチェンコ・メモには、その当時、「自民党員(自民党議員とは書かれていない)で、党内の一派閥に影響を及ぼし得る」と書かれている。自民党議員でなく、あえて自民党員と記載されているのであれば、議員でもないのに派閥に発言力があるという、なかなか特殊なポジションにいる人物ということになる。
 さらにミトロヒン文書によれば、彼は「田中角栄氏の側近」で「72年から接触がスタートし、75年頃にかなり進展がみられ、ついには正式なエージェントとして取り込まれた」人物とのことである。はたしてそれに当てはまる人物はいるのだろうか?
 さて、レフチェンコ・メモやミトロヒン文書に記載されていた(つまり、KGB側にエージェントとして登録されていた)からといって、本当にスパイだったとは限らない、と本稿では前述した。実際、レフチェンコ情報に基づいて誰かが逮捕・起訴されたか?といえば、そんなことはなかった。つまり、前述の警察白書にあるように、「犯罪として立証するに至らなかった」わけで、それはどういうことかというと、要するに「公務員が機密情報を漏洩」したことが確認されなかったということである。
 しかし、だからといって、いわゆるスパイ行為がまったくなかったのか?といえば、それもそんなことはなかったろう。ミトロヒン文書の記述をみると、「これはスパイ行為そのものではないか」というケースがいくつもある。
 たとえば、共同通信記者「ROY」(または「アレス」)。彼は金銭目的でKGBに情報を流し、さらにはKGBのために公安関係者「KHUN」(あるいは「シュバイク」)からネタを集めていた。公安に食い込んでいる記者というのは複数いるが、それをKGBに流すというのは、ほとんど犯罪的行為に近い。
(おそらく一部のエージェントに関して、KGB本部内の記録にはコードネームの変更があったようで、ミトロヒン文書とレフチェンコ・メモではコードネームが一致しないケースがある)
 ミトロヒン文書には読売新聞記者の「SEMIYON」という人物が、ハニートラップなどで陥れられて無理やりエージェントとなったと書かれている。これも本人の意思ではないにせよ、明らかなスパイ行為といえる(ただし、徴募の経緯が違うので、これはレフチェンコ・メモに登場する前出・T記者のことではないと推定できる)。
 民間人である記者の場合、よほどのことがなければ犯罪性は問えないだろうが、ミトロヒン文諸には多くの外交官のエージェントが登場する。外交官が機密情報を漏洩すれば明らかな犯罪だが、日本の捜査当局はそこまで立証できなかった。おそらくその多くで実名を把握できていないものと思われる。
 なかでも、70年代にもっとも重要な情報源として活動した外務省職員「RENGO」と「EMMA」。両者とも明らかなスパイとして活動している。
 外交官の場合、モスクワ勤務時代にハニートラップに引っ掛かり、そのままスパイ行為を強要されるケースも少なくないようだ。たとえば、「OVOD」という人物はなんと2回もハニートラップにかかっている。
 ハニートラップでスパイとなった人物で、これらのファイルからもっとも悪質な人物といえるのが、「MISHA」(あるいは「ナザール」)だろう。彼はモスクワでハニートラップにかかかった外務省の電信官だが、結局は金銭と引き換えに大量の外務省公電をKGBに流し続けた。ミトロヒン文書およびレフチェンコ・メモを通じて、もっとも日本に損害を与えたスパイといえる。
 犯罪行為としてはすでに時効となるのだろうし、本人もまだ生存しているのかどうかわからないが、ミトロヒン文書で新たな手がかりが浮上した今、その正体もやがて明らかにされるかもしれない。
(了)

2007/07/13(金) 09:11:18|

スパイ&テロ KGBの対日工作⑦
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-76.html

78・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:44:15
スパイ&テロ

国際情報誌『ワールド・インテリジェンス』(軍事研究別冊)編集長・黒井文太郎のブログ

KGBの対日工作・番外編

 じつはレフチェンコ・メモの中身について筆者が書いたのは、『ワールド・インテリジェンス』誌が初めてではない。2001年1月に筆者の企画・構成で出版した別冊宝島『未解決事件の謎を追う』所収の「中川一郎はソ連エージェントだったのか?」という記事中でその概要を紹介している。
(同ムックはその後、同社より『迷宮入り〜昭和・平成 未解決事件のタブー』と改題されて文庫化され、現在も版を重ねています。黒井名で書いたのは同記事だけですが、複数の筆名あるいは編集部名で、本全体の半分以上は筆者が書いています) 
 ここでは、参考までに当該記事を転載します。

中川一郎怪死事件
中川一郎は「ソ連エージェント」だったのか?
自民党総裁候補「謎の怪死」の真相に迫る!

文・黒井文太郎

 十七年前、自民党総裁候補にまでなった大物代議士・中川一郎が、札幌のホテルで縊死体で発見された。警察は自殺と断定したが、その異常な“死に様”に他殺説も根強くささやかれた。そして、注目される「KGB関与説」――。
 そんななか、ソ連の対日工作責任者だった大物スパイが「中川を協力者に仕立てあげていた」と暴露し、疑惑の火に油を注いだ。果たして、「反共の闘士」の正体はソ連のエージェントだったのか? そのことが彼を直接、死に追いやったのか?

79・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:49:45
>>78
沈黙を破った「闇の司祭」

 古びたテープをカセット・デッキにセットした。スイッチを入れると、落ち着いた、それでいて少し甲高いロシア語が流れ出した。ああ、こんな声だったんだな、と私はまるで初めて聞くような気持ちでしばしそれに聞き入った。
 彼の声質など、すっかり忘れていた。それはそうだ。このインタビュー・テープを聞き直すのは実に九年ぶりなのである。あれはもうひと昔前といってよかった。年月の長さだけでなく、時代はすっかり様変わりしていた……。そんな年月の移ろいに思いを馳せながら、シューシューと微かな音を立てて回るテープを見詰め、私は少しずつ“そのとき”の光景を思い出していった。

――九一年十一月。晩秋のモスクワはすでに零下の寒さだったが、町にはようやく自由を手にした市民たちの静かな熱気がただよっていた。だが、なかにはそうした新時代の空気から明らかに取り残された人物もいた。共産党政権時代に“支配する側”に身を置き、国民を監視し、海外で謀略をめぐらせたような人々だ。
「赤の広場」の真正面にあるメトロポール・ホテルで、私はそんな老人のひとりと会った。
 彼の名前はイワン・コワレンコ。
 冷戦時代、ソ連共産党中央委員会国際部日本課長・同副部長として対日工作のすべてを仕切り、「闇の司祭」などとも呼ばれた大物コミュニストも、ペレストロイカでその地位を追われてからはすっかり覇気が抜けたのか、年老いたありきたりの老人に見えた。その風評から、やたら押しの強いタイプを予想していたのだが、心臓病を患う老人は、とてもそんなふうには思えなかった。
「こんにちは。私はもう日本語をあまり覚えてないので、ロシア語で話させてもらいますよ」
 老人は実に愛想のいい笑顔を見せた。まてよ……と私は内心、気を引き締めた。これは心を隠す鋼鉄の仮面かもしれない。なにせ相手は百戦錬磨の「闇の司祭」なのだから……。
 インタビューは、彼の七十ニ年間の経歴を聞くところから始まった。貧しかった少年時代、日本人少女との恋、日本語科の学生だった頃、大戦中の宣伝将校時代、対日参戦と関東軍の武装解除、シベリア抑留者の赤化洗脳工作、戦後日本での左翼支援……。およそ二時間が経過した頃、私は最も興味を持っていた質問をようやくぶつけることができた。
「日本人で親しかった人は誰ですか?」
 コワレンコは、ゆっくり言葉を選びながら、何人かの日本人の名前を挙げ、彼らとどんなすばらしい人間関係で結ばれていたのかを語った。私としては、当然、そんな表面的な話ではなく、彼が篭絡した日本人エージェントの名前を知りたかったわけだが、あのコワレンコが簡単に口を割るわけがないことは分かっていた。
「自民党の政治家はどうですか? 個人的な付き合いがあった人物は?」
 私はそう尋ねた。コワレンコはちょっと思案した後、かなり古い時代の派閥領袖たちの名前を挙げていった。
 私は、インタビューがコワレンコの“欺瞞のペース”で続いていることに気がついていた。それまですでにこんな台詞が続いていたのだ――「関東軍の挑発でソ連は参戦を余儀なくされた」「シベリア抑留者の待遇は悪くなかった」「自分は諜報活動とは関係ない」――。
 この老人は結局、欺瞞にまみれたソ連共産党の申し子なのだ。本当のことは死ぬまで言わないつもりなのだろう……私はそう思った。
「ああ、そうそう……」
 そんな私の心を読み取ったわけではないだろうが、コワレンコはそのとき、気になる人物の名前を挙げた。
「ナカガワはいい男だった。彼は私の、じつにすばらしい友人だったのだよ」
 中川一郎――の名前が唐突に元ソ連スパイ・マスターの口から出た。

 戦後日本の政治家のなかで、中川一郎ほど生き急いだ人物はなかったろう。大野伴睦の秘書として政界入りし、石原慎太郎らとともにタカ派集団「青嵐会」を結成。農水族の実力者として自分の派閥を旗挙げするまでとなったが、八二年の自民党総裁選に出馬して落選し、その直後に壮絶な自殺を遂げた“悲運の政治家”だった。
 だが、反共右派の牙城といわれた青嵐会の中川とソ連共産党の接点はどこにもないように思えた。どこまで本当のことを話しているのか……私はコワレンコの表情を探った。
 老人は急に胸を張り、それまでにない強い口調でこう言った。
「惜しい男を亡くした。ナカガワが死ななければならなくなったのはじつに残念だった。よく覚えているよ、あの頃のことはね。私は彼にはたいへんな期待をしていたのだから」
 やけに芝居がかっている……。コワレンコの様子に、私はそんなふうに感じていた。

80・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 10:55:14
>>79
疑惑だらけの「怪死」

 八三年一月九日早朝、中川一郎は滞在先の札幌パークホテルで縊死体で発見された。現場の状況から“自殺”ということで片づけられたが、その奇妙な死には、その後もさまざまな疑惑がつきまとうこととなった。
 まず、その自殺方法がなんとも不可解だった。彼はバスタブ内に座り、首とタオル台の留め金とを浴衣の紐で繋いだかたちで絶命していた。完全な首吊り状態ではなく、なぜか“座って首吊り”していたのだ。物理的には、確かにそれで死ねないわけではない。だが、それは最後の瞬間まで自身の強い意志で死に向かわなければ不可能なものだ。そんなことが生身の人間に可能なのか? そう疑問を持つことは、当然のことといえた。
 なぜ自殺しなければならなかったのか、ということも関係者に大きな疑惑を呼んだ。
 遺書らしきものはまったく発見されなかった。それに、何といっても彼は総裁選に出馬するほどの大物政治家なのだ。当時、まだ五十七歳。たとえそのときは落選でも、次の次、あるいはその次にでも総理・総裁になれる政界の王道にいることに変わりはない。しかも、とりたてて致命的なスキャンダルが表面化したわけでもなかったのだ。
 謀殺説――がささやかれたのは、したがって、ある意味で当然だともいえた。
 それなら犯人は誰なのか?
 さまざまな憶測が活字に踊った。どれも決定力に欠けるものではあったが、中川の“謎の死”の真相を解明する試みは、あれから十七年が過ぎた現在に至るまで、しばしば繰り返し行われてきた。
 自殺なのか、他殺なのか?
 彼はなぜ死ななければならなかったのか?
 それは、昭和史に残された大きな謎のひとつといってよかった。

 確かに、中川が苦境に立たされていたことを証言する声は多い。実力派秘書・鈴木宗男(現・代議士)との確執という指摘もあった。貞子夫人から離婚を切り出されていたことも後に暴露された。
 石原慎太郎や田村元(元衆院議長)は、中川が“総裁選で福田派に裏切られたと思い込んで悲嘆に暮れていた”と明かし、さらには彼が派閥維持と総裁選のために無理に借金を重ねていた内実も指摘した。
 浜田幸一はもっと明快で、著書のなかで「三塚博が中川夫人からの離婚話まで持ち出して彼を追い詰めた」と書いた。そして、そんな誰もが“あまりに涙もろく、愚直なまでに純朴な男”が、そうした理由から発作的に自殺したのだろうと推測した。
 だが、他殺を匂わせる証言もないわけではなかった。
「中川の死の間際、誰かが彼を訪ねたようだ」
 中川の十三回忌を機に発表した手記『光と影』で初めてそう明らかにしたのは石原二三朗・元在札幌中川事務所長だった。同氏が手記出版に合わせて『文藝春秋』九五年一月号に語ったところによると、死亡推定時刻のわずか一時間前に中川は彼に電話をかけ、さまざまな悩みを相談していたのだが、その最中に突然、「やあ、やあ」と誰かに呼びかけた直後、あわてて電話を切ってしまったのだという。石原氏にはそれが明らかに、夫人ではない“誰か”が部屋に入ってきたと思われたとのことだった。
 一方、死亡する前夜のパーティでの様子がおかしかった、と証言する人も少なくない。「スピーチもおとなしく、いつもの元気がなかった」「しきりに汗をぬぐっていた」といったことを指摘する声が多かったが、なかには「(会場には)もみ上げの長い怖い人たちがたくさんいた」(出席者だった宮松よし子氏:『週刊文春』二〇〇〇年一月六日号)という気になる証言もある。
「中川は無理して借金を重ねていた」という情報とつき合わせると、彼がいかがわしい資金に手を出し、総裁選の惨敗で熾烈な追い込みをかけられていたのでは、と推定することもできる。

81・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 11:01:14
>>80
 だが、幾多の疑惑のなかで“きな臭さ”が最も際立っていたのが「KGB関与説」だった。
「中川はソ連のエージェントだった」
 あるいは、
「ソ連エージェントだった中川は、それが暴露されることを恐れて自殺した」
 果ては、
「ソ連エージェント・中川の台頭を恐れてCIAが暗殺した」
 という説まで、数々の疑惑が書きたてられたのだ。
 確かに、農水族として日ソ漁業交渉に辣腕をふるった中川と、駐日ソ連大使館の外交官たちとの交流は知られていて、その怪死以前から疑惑を指摘する声がなかったわけではない。
 だが、中川怪死に際していちやくクローズアップされたのは、七九年一〇月にアメリカに亡命したスタニスラフ・レフチェンコ元駐日KGB少佐が、三年の沈黙を経て八二年七月に米下院情報特別委員会秘密聴聞会で暴露したと伝えられた日本人エージェントのリスト=いわゆるレフチェンコ・メモの存在だった。その中に中川の名前があったのではないか、というわけである。
 もしそれが事実なら、少なくとも自殺の理由としては十分に説得力があった。しかも、レフチェンコが記者会見を開き、レフチェンコ・メモの存在が初めて世間に公表されたのは八二年十二月。中川怪死のちょうど一ヵ月前で、タイミング的にはつじつまが合う。
 では、そのレフチェンコ・メモの中味とは、いかなるものだったのだろうか――。

82・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 11:05:01
>>81
亡命スパイの爆弾情報

 今、私の手元に一枚のコピーがある。公安筋が作成したレフチェンコ・メモ公安版である。これまで断片的に伝えられてきた情報とほぼ一致しており(とくにレフチェンコを直接取材した『リーダーズ・ダイジェスト』八三年五月号が詳しい)、政界や一部マスコミに出まわったもののひとつと同一であるとみてまず間違いない。
 レフチェンコは『リーダーズ・ダイジェスト』のインタビューに「日本人エージェントは二百人はいる」と語っているが、このレフチェンコ・メモ公安版には、そのなかでレフチェンコが知り得た人物として計三十一名のコードネームと内十一人の実名が記され、それぞれKGB側の担当将校の名前、彼らがエージェントだとレフチェンコが知った時期、エージェントとしてのランク、等が列記されている。三十一名の内訳については、自民党関係者二名、社会党関係者十一名、官僚四名、マスコミ関係者九名、学者三名、財界人二名である。
 ここに実名が登場している人物を以下に挙げてみる。
 石田博英・元労相、勝間田清一・元社会党委員長、伊藤茂・社会党議員、佐藤保・社会主義協会事務局長、上田卓三・社会党議員、杉森康二・日本対外文化協会事務局長、山根卓二・サンケイ新聞編集局次長、T・読売新聞記者(※本記事では実名表記しましたが、ここでは匿名とします)、三浦甲子二・テレビ朝日専務、山川暁夫・インサイダー編集者、堤清二・西武百貨店会長(以上、肩書きは当時)――。(尚、このなかの上田、T、三浦、堤の各氏については「無意識の協力者」ないし「友好的人物」とあり、さらにこの内の上田、T、堤の各氏の名前は初期に出まわったリストにはなかったものである)
 このレフチェンコ・メモについては、その真偽をめぐって、当時たいへんな騒動となった。名指しされた人物たちは当然否定しており、確かにこれで逮捕された人物はいない。したがって、内容の真偽は今もって不明である。
 が、昭和五九年(八四年)版『警察白書』には以下のような記述もある。
「レフチェンコが直接運営していたのは十一人で、そのうち数人から事情聴取したところ、金銭でスパイ工作をかけられ、実際に我が国の政治情勢等の情報を提供していたこと、また、相互の連絡方法として喫茶店等のマッチの受け渡しによる方法が用いられたり、『フラッシュ・コンタクト』(情報の入った容器を歩きながら投げ捨てると、後から来た工作員が即座にそれを拾う方法)の訓練をさせられたこと等の事実が把握されたが、いずれも犯罪として立件するには至らなかった」
 右の“数人”がリストに実名が載った人物かどうかは、警察が公表していないので確認できない。レフチェンコが直接運営していた十一人についてはおそらく実名が判明しているとみられ、それはリストの実名記載人数と一致するが、だからといって、必ずしも人物名が一致するとはいえない。推測できるのは、おそらくこの“数人”が“犯罪として立件する”要件がより厳しい「非公務員」ではないかということだが、いずれにせよ真相は「藪の中」だ。
 だが、仮にこれが事実だとすると、どこにも中川一郎の名前は見当たらない。正体不明の自民党員にコードネーム『フェン・フォーキング』なる人物がいるが、リストに付された情報をみると、どうも中川のことを指しているようには感じられない。すると、中川がレフチェンコ・メモを怖がる理由はまったくなかったわけだ。
 しかし、それでもやはり、中川一郎がそれを恐れていた可能性は高い。なぜなら、彼にはある “心当たり”があったからである。
 それが、冒頭に紹介したソ連共産党国際部副部長イワン・コワレンコとの関係だった。中川は、KGBもアゴで使ったという恐ろしい「闇の司祭」と、誰も知らない秘密のコネクションを持っていたのだ――。

83・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 11:13:07
>>82
「反共の闘士」はソ連に篭絡されていた!?

 モスクワのホテルで録音した三時間分のコワレンコのインタビュー・テープは、実はその後、私のデスクの奥で長いことホコリをかぶっていた。なぜなら、私のしつこい質問の数々についに元「闇の司祭」が怒り出し、「このインタビューはなかったことにしろ」と言い出したからだ。取材としては最悪のパターンだったが、気難しいロシア人相手の取材ではときどきあることだった。彼らは“本当のこと”を聞かれることに慣れていないのだ(ちなみに、私は当時、モスクワに在住しており、毎日のようにそんなロシア人に会っていた)。
 そんなわけで、「対日工作の黒幕が初めて過去を語る」というスクープはお蔵入りになってしまったのだが、それから五年後の九六年十ニ月、なんとコワレンコは日本で手記を出版したのである。
『対日工作の回想』と題するその自伝は、政界でも密かな注目を集めたという。とくに、うやむやに終わったレフチェンコ・メモの中味について、何か決定的な情報が暴露されなかったか、という点が注意を引いたのだ。
 もちろん、“スパイ・マスター”コワレンコが、そんな隙を見せるはずはなかった。レフチェンコのことも、「プロの情報員ではなく、何も知らない」「麻薬中毒で、人間性も信用できない」と切り捨て、レフチェンコ・メモもすべてデタラメであると断言した。
 だが、注目される新情報もいくつかあった。その筆頭が、中川一郎との“秘密のコネクション”だった。
 コワレンコが自著の中で自慢気に語っているのは、明らかに中川篭絡の手口だった。コワレンコは、自主外交派の中川を支援することで日本を反米・反中路線に誘導することができると考え、中川の利権マタ―である日ソ漁業交渉で便宜を与えることで、彼を「親ソ派」に取り込もうとしたというのである。
 接触は八二年九月、レフチェンコ・メモにも名前のあった三浦甲子二・テレビ朝日専務の仲介で極秘裏に行われたという。その席で中川は「在日米軍の撤廃」「ソ連との長期的善隣関係構築」などの持論をぶち、果ては「北方領土は原則的な問題ではない」「中国の脅威に対抗するため、日ソ軍事条約締結の考慮の可能性もある」などとも発言。さらには、中川のほうが日ソ漁業交渉の便宜供与の早期実現を要求し、秘密接触のためにその後は大使館などの公式ルートを使わずに三浦ルートなどを使うことにも合意したというのである。
 驚くべき内容である。私とのインタビューでも語っていなかったことだ。これが事実なら、中川はまさに、コワレンコの術中にはまったといっていいだろう。それは、KGBより上位の共産党中央委員会国際部に直結する超A級の“協力者”に仕立てあげられたことを意味していた。
 だが、前述したように、私はコワレンコの“物語”には常に欺瞞が含まれていると確信している。おそらく、コワレンコが中川を篭絡しようとして「中川=コワレンコ会談」がセットしたのは事実だろう。だが、いくらなんでも「日ソ軍事条約」などのアイデアは青嵐会の“反共の闘士”とは結び付きづらい。この記述はかなり“脚色”されている可能性が高いというのが私の率直な〝勘〟である。
 しかし、それでももし本当に中川がコワレンコと極秘接触を続けていたとしたら、それだけでもレフチェンコ・メモの中味に「もしかしたら自分が?」と思い込んでも不思議ではないのかもしれない。日本の公安当局が最重要対象者としてマークしていたコワレンコの正体を、中川が知らなかったはずはないのだ。

 だが、果たしてそんな“疑惑”だけで果たして人は死ぬだろうか?――というわけで登場したのが「CIA暗殺説」だった。
 が、これもそのネタの出所は在日ソ連大使館筋=つまりコワレンコ周辺だった。コワレンコがやはり自著に書いているのだが、中川怪死に際し、在日ソ連大使館から本国へ「中川を日本の首相にさせたくなかったCIAが彼を暗殺した疑いがある」と報告していたというのである。おそらく、その話に尾ひれがついて流出したというのが真相だろう。
 コワレンコ自身は「在日ソ連大使館の分析担当者が憶測で書いたもの」と逃げているのだが、私には、そうした情報が流された背景にはコワレンコ本人の意図もあったのではないかという気がしてならない。いかにも「闇の司祭」がやりそうなことだからだ。

84・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/04(木) 11:16:10
>>83
“エージェント”と“無意識の協力者”

 ところで、シベリア抑留者の洗脳工作を担当し、その帰還者を足掛かりに戦後日本へ浸透、対日工作の“黒幕”として君臨したイワン・コワレンコは、回想録の中で何人もの日本人の“友人”の実名を挙げている。そのほとんどは私とのインタビューでも語っていたが、それはつまり、逆にエージェントの可能性は低いということなのだろう。
 参考までにそれらの人々を挙げておく。(一部にレフチェンコ・メモ公安版に登場する名前もある)。
 政治家では、自民党が石田博英、鳩山一郎、河野一郎、赤城宗徳、田中角栄、中川一郎。社会党が成田和巳、石橋正嗣、勝間田清一、飛鳥田一雄、土井たか子、五十嵐広三、高沢寅男、山本政弘、岡田春夫、岩垂寿喜男、伊藤茂。その他には、三浦甲子二、杉森康二、堤清二、松前重義(東海大総長)、池田大作(創価学会名誉会長)、千田恒(元サンケイ新聞記者)、秦正流(元朝日新聞編集局長)、白井久也(朝日新聞記者)、中村曜子(画廊「月光荘」経営者)、長谷川千恵子(画廊「日動画廊」経営者)、柴野安三郎(札幌日ソ友好会館オーナー)、岡田茂(東映社長)(以上、肩書きは同書のまま)――。
 このメンバーをざっと見渡すと、ソ連通を公言していた人物も確かに少なくない。そうした人々は、ソ連共産党のシンパではあっても、エージェントと呼ぶような存在ではないだろう。
 日ソ諜報戦に絡む資料を目にするたび、私はいつもひとつの違和感にとらわれていた。それは、「何をもって“エージェント”というのか」がいまひとつあいまいなことだった。
 日本のような国では、おそらく「カネを受けとって正式な工作員となった人間」の他に、相当数の“無意識の協力者”がいる。そして、そんな大勢の名前がシャッフルされることで、本当の工作員が隠されているのではないか、という気がしてならない。
 中川一郎は、この“広義のソ連コネクション”のどこかにいた。それは確かに、総裁の座を狙う保守派の派閥領袖としては“弱み”だったかもしれない。だが、それが彼の死に直接関係しているのかどうかは、結局のところ確認のしようがない。(了)

2007/07/13(金) 09:36:06|

スパイ&テロ KGBの対日工作・番外編
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-77.html

85・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/07(日) 12:33:47
公安警察の手口
http://www.book-navi.com/book/syoseki/kouan.html

今月の本棚


「公安警察の手口」

鈴木邦男著
ちくま新書(208p)2004.10.10
680円+税


公安警察の伝家の宝刀に「ころび公妨」ってのがあるそうだ。「公妨」とは公務執行妨害。つまり、狙った相手を公務執行妨害で逮捕するための必殺技。

こいつを逮捕しようと的を定めた相手を呼びとめる。いいがかりをつけて相手と揉みあって、自分で転んでしまう。「イタタタ。お前がやったんだ。暴行だ。公務執行妨害で逮捕!」というわけ。オウムを追ったドキュメンタリー映画『A』には、この「ころび公妨」の現場が記録されている。

 似たような話は元衆議院議員・白川勝彦氏のHPにも掲載されている。白川氏は路上で4人の警官から職務質問を受け、ポケットの中を見せろと迫られて、逃げられないよう取り囲まれてしまう。警官に手を出したり、押しのけたりしたら公務執行妨害で逮捕するという狙いが明白なので、白川氏は延々と押し問答を繰り返す。職務質問に答えるのはあくまで任意だから、これは違法なやり口だ。

「監視社会」という言葉が、最近、いろいろな場面で使われている。世界的には9.11以来のテロへの恐怖から、国内的にはテロに加えて種々の犯罪、特に子供をターゲットにした犯罪の増加から、セキュリティーへの関心が急速に高まっている。

「監視社会」という場合、監視カメラの設置や携帯電話を使った位置確認など情報技術の高度化による新しいセキュリティーのシステムを指すことが多いけれど、国家の古典的なセキュリティー担当部門である公安警察も、依然として大きな「闇」「伏魔殿」(いずれも著者の言葉)として存在している。

鈴木邦男は1970年代から新右翼・民族派の団体「一水会」のリーダーとして活動してきた。現在は政治運動から身を引いて言論活動に専念しているが、その間、公安から数十回の家宅捜査を受け、時には逮捕もされた。そんな経歴をもった著者だからこそ描けた公安警察の実態は、普段、ふつうの市民の目からは隠されているだけに、驚くことばかりだ。

最近の家宅捜索(ガサ入れ)では、公安は揃いの帽子、揃いの服で目立つような格好をしている。しかも携帯で大声で話し、金属探知機など使って大げさな捜索をする。本来の目的とは別に、隣近所に「ここに怪しい奴がいるぞ」と警戒心を起こさせるためだ。著者は、そんなガサ入れを繰り返され、アパートも事務所も何度も追い出されたという。

右翼には思想的なグループばかりでなく、金になるからと右翼の看板をかかげているヤクザもいる。ヤクザが右翼団体を結成すると、どう活動したらいいか、公安は指導までしてくれるらしい。「とりあえず軍歌をかけて朝から晩まで街宣車を走らせたらいい。でも、右翼団体となると綱領とか規約が必要ですね。そんなものは私らが作ってあげましょう」なんてアドバイスするそうだ。

公安は時に事件をそそのかすことさえする。ヤクザの右翼に覚醒剤かなにかで逮捕状が出ると、公安はその男につぶやく。「クスリなんかで捕まったら恥ずかしいでしょう。どうです、共産党か日教組に突っ込みませんか。そうしたら政治犯として逮捕されます」「なに、直前にぼくが止めますよ。それなら逮捕されても二十三日で出られます。男が上がります」

公安が監視の対象にしているのは主に左翼と右翼だけれど、左翼に対しては組織内に「協力者」(スパイ)をつくるのが、右翼に対しては「公然とつきあい、酒を酌み交わし、ときには交通違反を揉み消して恩を売り、手なずけようとする」のが基本だという。

公安警察の歴史をふりかえると、戦後の公安は武装闘争路線を取っていた日本共産党に対する対策として生まれた。1960年代に入って新左翼が生まれ、右翼のテロも頻発するようになると、公安の組織はいよいよ大きくなった。警察内部でも、刑事犯を相手にする刑事警察に対して、政治的存在である公安警察が大きな権力をにぎるようになった。

新左翼の運動が激化した1970年前後に大きく膨張した公安警察は、その後、新左翼が退潮し右翼の事件が少なくなってからもその規模を保ったまま、最近ではオウムなどの宗教団体や「国際テロ対策」へと主力をシフトしている。

著者の取材によると、公安の人員は警察庁警備局(全国)に約1000人、警視庁公安部(東京)に2000人、公安調査庁に2000人いるという。いずれも推定で、正確な人員や金の使い方は闇のなかだ。その人員と予算を守るために、オウムの危険性やテロの恐怖が必要以上に叫ばれている。公安調査庁は、オウムに破防法を適用して存在意義を示そうとやっきになっている。

86・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/03/07(日) 12:37:09
>>85
だから左翼と右翼の活動家は公安にとって大事な「顧客」であり、「お客さん」であり、公安の「生活の糧」になっている。いったん目をつけた「お客さん」に対しては、たとえ政治活動から身を引いて一般市民に戻っても、ずっと監視しつづけるシステムができている。

彼らの論理によれば、一見おとなしくしていても、いつまた過激な行動を起こすか分からないからだ。武装闘争を放棄して半世紀たつ日本共産党がいまだに公安の最大のターゲットであるのも、そのような「公安の論理」に基づいている。

鈴木は自らの体験と取材をもとに、日本の公安警察をこう結論づけている。

「公安がいるために日本の治安が守られているのではない。逆に、公安が事件を起こし、治安を撹乱させているのだ」

ほとんどの市民にとっては、公安警察は目に入らない存在だ。でも、風邪をひき少々むさくるしい格好で歩いていただけで職務質問された白川勝彦氏の例が示すように(氏を取り囲んだ警官は公安ではなかったが、一般の警官にも路上でどんどん職務質問するよう指示が出ているらしい)、警察による市民の監視は目に見えて厳しくなってきている。

公安の警察官が日常活動のなかで求められているのは、「潜在右翼」や「潜在左翼」を見つけることだという。彼らは、軽い気持ちで集会に顔を出した参加者や、事務所とか自宅の壁に張られたポスター、胸のバッジや、会話のなかのちょっとした言葉遣いといった、かすかな兆候を過大に解釈する。

自分は過激な左翼や右翼ではないし、狂信的な宗教団体の信者でもないし、ましてや犯罪者でもないと思っていても、「公安の論理」からは、すべての市民が潜在的な過激派であり狂信者であり犯罪者なのだということが、この本を読むとよく分かる。そこから「警察国家」への道は一直線につながっている。(雄)

87・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/05/14(金) 10:18:26
その『リーダーズ・ダイジェスト』が工作員の全てをリストしたものではなく、共産圏内でもある一派の工作員リストだとしたら?

88・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/05/22(土) 10:34:05
『二千年の恋』

フジテレビ系列で2000年1月10日から3月20日まで
放送されたテレビドラマである。
全11話。放送時間は月曜日21:00〜21:54。
台湾、香港、シンガポール、タイでの
同日放送と放送前から話題を呼んだ。

さいとう・たかを原作の『ゴルゴ13』の「モスクワの記憶」の
登場人物・内容をモデルにしているように思われ、
続編と思わせるような展開であるが、独自のドラマ内容を持つ。

おもな登場人物・モデル

ユーラル・・・ソ連(ロシア)
ビクトル・マロエフ・・・二階堂洋介
野上浩/ユーリ・マロエフ・・・ゴルゴ13
サムエル・マロエフ・・・イワノビッチ中尉
ナオミ・ナーギン・・・ナタリア
ウラノフ副書記長・・・ロシアの改革派のメンバー
ブコレス大佐・・・ソゴロフ大佐
 GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)副課長、班長及び副班長
佐伯健志・・・警視庁公安部警部

89・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/05/22(土) 10:37:09
>>88
日本戦略研究フォーラム

二階堂洋介は、1999年3月1日に、
ロシアの旧ソ連の保守派のあるGRUの大佐と結託し、
大政翼賛会(第二次臨時行政調査会)の後継組織として、
日本戦略研究フォーラムを設置して、
明治維新政府に連なる大東亜政府を強化させようとするが、
マッカーサー維新政府に連なる日本政府との間で、
共存共栄が出来ず紛争が勃発する。

マッカーサー維新政府に連なる日本政府は、
ロシアで旧ソ連の保守派の台頭を嫌う、
ロシア政府と協力し対処を図る。

ロシア政府は、ロシアの改革派のメンバーを日本に送り、
また、ゴルゴ13に、二階堂洋介に会う為に、
日本に行っているこのGRUの大佐の殺害を依頼する。

まとめると、大東亜政府側にロシアの
旧ソ連の保守派のGRU・大東亜の公安省等、
日本政府側にロシアの改革派のメンバー・ゴルゴ13等
と言う形で壮絶な争いとなる。

この両政府の争いはフジテレビ系列で、
大東亜の諸国に週1日1時間、
『二千年の恋』と言う番組名で随時放送される所となる。

二階堂洋介は、ゴルゴ13に殺害されたように見えるが、
本当は何の危害も受けていないらしい。
ゴルゴ13と話をして別れた後に、
トマトジュースを飲んでいる最中に、そのままの状態で、
失神か何かを起こし倒れてしまったように思われる。

二階堂洋介は、ゴルゴ13が自分の子であるとも思っていたので、
その関係での失神であったのかもしれない。
現に二階堂洋介は生存している。
また、ゴルゴ13は二階堂洋介の殺害の依頼は受けていない。

ゴルゴ13はテレビ放映されてしまったので、
身を隠す為に殺害された事にしたのであろう。

番組で1番出演していた大東亜の公安省の警察官が、
最後の方で右往左往して何も
出来なくなってしまったのを見てもわかるように、
大東亜の公安省の警察官は、両政府に挟まれ、
苦しむ所となり失態の連続となった。

最後に女性と赤ん坊が出て来るが、
あの2人は本当の親子らしく、赤ん坊もゴルゴ13の子ではなく、
女性の彼氏との子であるらしい。
テレビの視聴率を取る為にゴルゴ13の子としたのであろう。

『二千年の恋』の全体像を見ると、番組の編集の段階で、
歴史の事実や各個人の話す内容等に
脚色があったのは確かである。
大東亜戦争の時の大本営発表と言った所であろうか。

今回のゴルゴ13のゴルゴガールは、中山美穂であったが、
誕生月日が日本戦略研究フォーラムと同じ、
3月1日であるのをみると、
日本戦略研究フォーラムのイメージガールでも、
あったように思われる。

日本戦略研究フォーラムのイメージガールであった中山美穂が、
ゴルゴ13との出会いで、自分の主義を改心して行き、
総統の二階堂洋介から離れ、
マッカーサー維新政府に連なる日本政府側に付こうとする。

しかし、大東亜政府側のGRU・公安省等が、
中山美穂の裏切り行為を許さず、精神・金銭面で嫌がらせをし、
思想改造を行なったりする。

最後の方では、命を狙われたり、
しかも公安省の警察の佐伯健志には、
恋心まで抱かれてしまったりする。
結局、死んだ事にして、
アメリカかフランスに移住し身を隠す事になった。
ここら辺が事実なのではないのであろうか。

ちなみに、ゴルゴ13は女性との関係を後に引きずらないので、
中山美穂との関係もこの時だけであろう。

90・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/06/08(火) 16:22:05
沖縄県民斯ク戦ヘリ
http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/blog-entry-869.html
沖縄県民斯ク戦ヘリ コミンテルンに嵌められた大東亜戦争
http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/?m&no=869

・・・。レフチェンコはコード名「クラスノフ」の瀬島龍三と直接コンタクトを取ったことはないとしながらも、対日工作のボス、コワレンコと深い仲だと証言している。
・・・


スパイ&テロ KGBの対日工作⑥
http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-75.html
・・・
25 コードネーム「クラスノフ」
 実名不記載。著名な財界人。KGB正式エージェント。
・・・

91・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/06/08(火) 18:47:39
『季報』平成20 年「瀬島龍三特集」―目 次―Vol. 36
http://www.jfss.gr.jp/kihou_20_Spring.pdf
日本戦略フォーラム活動年表
http://www.jfss.gr.jp/04-katudou.pdf
日本戦略研究フォーラム
http://www.jfss.gr.jp/

92・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 20:57:35
John Anthony Walker - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Anthony_Walker
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ジョン・アンソニー・ウォーカー

ジョン・アンソニー・ウォーカー・ジュニア(John Anthony Walker, Jr.、1937年7月28日 - 、ワシントンD.C.)[1]は、退役アメリカ海軍上級准尉の報道員で、冷戦(1945-91)期の1968年から1985年までの間に、ソ連大使館に暗号規約を持ち込み、ソ連のスパイをした件で有罪判決を下された。[2]1985年後半に、ジョン・ウォーカーは嘆願取り決めにおいて罪を認め、それによって、彼は共謀者ジェリー・ウィットワースに不利な証言をして、彼のスパイ活動の詳細を伝えて、彼の息子(マイケル・ウォーカー)に対する軽い処罰について交渉をした。[2]ジョン・ウォーカーは、ソ連のスパイとしての間に、ソ連が100万通の暗号化されたアメリカ海軍の電報を解読するのを援助した。[3]そして、このスパイ活動は、1987年のニューヨーク・タイムズで、「歴史上、希に見る、最もアメリカにダメージを与えたソ連のスパイ活動と言える」と報じられた。[4]

目次
1 スパイになるまで
2 スパイ活動
3 逮捕・監禁
4 参考文献
5 関連項目
6 脚注
7 外部リンク

スパイになるまで
ジョン・ウォーカーは、強盗の理由で逮捕された時に、刑務所行きか軍隊の道を提供され、1955年にアメリカ海軍に入隊した。[1][5]ジョン・ウォーカーは、ボストンに配属されている間に、バーバラ・クロウリーと出会って結婚した。そして、彼らは3人の娘と1人の息子の計4人の子供をもうけた。ジョン・ウォーカーは、チャールストン(サウスカロライナ州)において、アンドリュー・ジャクソン(USS Andrew Jackson, SSBN-619) に配属されている間に、お金の遣り繰りに失敗して、すぐに負債に陥ってしまった。[1]

93・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 21:00:43
>>92
スパイ活動
ジョン・ウォーカーは、自分の財政難に取り乱して、ワシントンD.C.にあるソ連大使館のに赴き、1967年12月に、ソ連のスパイを始めた。[6]そして、彼は、週に500ドルから1000ドルの収入になる様に交渉しながら、アメリカの機密扱いの文書(暗号規約)を数1000ドル分売った。[1]ジョン・ウォーカーは、彼が、まず最初にソ連に売った機密扱いのアメリカ海軍の電報が、プエブロ号事件(この事件で、アメリカ海軍の環境調査艦プエブロは、領海侵犯を理由に北朝鮮当局に拘束され、その乗員は、ほぼ1年間捕虜になった。)で、完全に危険にさらしたという根拠に関して、この犯罪行為を弁明した。しかし、環境調査艦プエブロは、この電報が売られた1ヵ月後の、1968年1月に捕らえられた。さらに、ソ連の公文書と以前KGB将校であったOleg Kaluginからの情報を使っているアメリカ陸軍指揮幕僚大学で発表された2001年の論文が、プエブロ号事件が、ソ連が、ジョン・ウォーカーによってソ連に渡された機密文書によって記載された技術を研究したかった為に起こされた可能性を示しいる。[7]
ジョン・ウォーカーは、このスパイ活動に固執した。そして、機密情報の提供で、1ヵ月につき数1000ドルの収入を受けた。[1]ジョン・ウォーカーは、1969年に、ときおり、彼の妻バーバラの援助を受けている時に、更なる援助者を求め始めた。そして、彼は、カリフォルニア州のサンディエゴの通信学校勤務中に、学生であったジェリー・ウィットワースと知り合いになった。[1]ウィットワース、彼は、アメリカ海軍上級兵曹長(SCPO)/上級無線通信士長となって行くのであるが、1973年に、ジョン・ウォーカーが、非常に機密度の高い文書を手に入れる事を援助する事に同意した。[1]部署の移動は、ジョン・ウォーカーが、ソ連が欲っした機密文書を手に入れさせる事を困難にした。しかし、彼は、ウィットワースが、スパイ活動を困難なものにさせない為に、機密文書がアメリカ合衆国の同盟国であるイスラエルに行っていると彼に話す事で、彼が、機密文書を手に入れられ続けられる事を可能にした。しばらくすると、ウィットワースは、機密文書がイスラエルの代わりに、ソ連に行っていると理解した時、彼は、それにも関わらず、1983年にアメリカ海軍を引退するまで、ジョン・ウォーカーに機密文書を与え続けた。1976年に、ジョン・ウォーカーは、彼が、彼の特定の上級将校達が、彼の過去の記録の過ちを調査するのに、余りにも熱心であると思っていたので、彼の秘密事項扱い許可を諦め、アメリカ海軍を引退した。しかし、ジョン・ウォーカーは、彼のスパイ活動を止めなかった。そして、今まで以上に活発的に、情報提供者を自分の子供達や家族の中に捜し求めて行った(ジョン・ウォーカーは、この時には、私立探偵になっていた。)。1984年までに、ジョン・ウォーカーは、彼の兄アーサー・ウォーカー(彼は軍の少佐で退役した。)と彼の息子マイケル・ウォーカー(現役のアメリカ海軍の軍人)を仲間に入れた。[1]ジョン・ウォーカーは、彼の1番下の娘(彼女は、アメリカ陸軍に入隊した。)を仲間に入れようともしたが、彼女が、男性兵士と関係を持ち妊娠して、彼と結婚して、妻と母であることに専念してしまった為、彼女は彼女の軍人としての生活をすぐに止めてしまった。 ジョン・ウォーカーは、それから自分の注意を彼の息子に向けた。彼は、彼の10代の年の多くをふらふらして過ごし、高校を中退した。ジョン・ウォーカーは、彼の息子の保護をしっかりし、彼にスパイ活動の準備をさせる為に、彼の興信所の見習いとして働かせ、それから、アメリカ海軍に入隊させる為に、高校の卒業証書を取らせる様に再び高校に入学の薦めをした。
1990年に、ニューヨーク・タイムズのジャーナリストのJohn J. O'Connorは、「ある情報機関に携わる専門家達は、ジョン・ウォーカー氏が、ロシアとアメリカの間の勢力の均衡を変えるのに十分な暗号規約を提供したと見ている。」と報告した。[8]ジョン・ウォーカーは、後に、彼がどのようにして、それだけの機密情報を手に入れる事が出来たのか尋ねられて、「Kマートは、アメリカ海軍以上の良い保安をする。」と答えている。[9] 2002年に国家対情報局(Office of the National Counterintelligence Executive)で出された報告書に拠ると、ジョン・ウォーカーは、ニューヨーク・タイムズが、彼の収入が、わずか、350,000ドルであると見積もっているにも関わらず、[8]スパイの報酬で100万ドル以上を稼いだと思われている少数のスパイの内の1人としている。[5]ソ連が、アメリカ合衆国が、ソ連のスクリューで生じられる発泡現象(キャビテーション)に拠って、ソ連の潜水艦の位置を追跡する事が出来る事に気付いた事は、ジョン・ウォーカーのスパイ活動のおかげであった。この後、ソ連の潜水艦のスクリューは、発泡現象(キャビテーション)を減らす為に改善された。[10]

94・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 21:03:42
>>93
逮捕・監禁
1985年5月に、FBIは、当時のジョン・ウォーカーの先妻のバーバラに拠って、彼のスパイ活動を通報を受けた。彼は、彼女に扶養手当を払うことを拒否していた。[1]捜査に従って、FBIは、ジョン・ウォーカー、ウィットワース、アーサー・ウォーカーとマイケル・ウォーカーを逮捕した。皮肉にも、ジョン・ウォーカー自身はモンゴメリー郡のモーテルで逮捕された。このモンゴメリー郡のメリーランド州では、彼が、人々を不貞事件に巻き込ませる計略を頻繁に行っていた。彼らのホテルの部屋に電話をかけて、彼らの車が事故で攻撃されたと彼らに話していたのである。[1]バーバラ・ウォーカーは、事件の究明をする事が彼女の役割であるが為に、起訴されなかった。[1][5]以前KGB職員であったVictor Cherkashinは、しかしながら、彼の著書の『Spy Handler』において、ジョン・ウォーカーは、Martynovと言う名のFBIのスパイによって危うくされたと述べている。Martynovは、モスクワで偶然に会話を耳にした。そして、Victor Cherkashinは、ジョン・ウォーカーの裁判の文書では、Martynovが、ジョン・ウォーカーの体裁の妥協で、重要な役割を演ずると述べていたと論じている。[11]
ジョン・ウォーカーは、捜査当局とは協力をした。そして、司法取引において、彼は服従の信念と終身刑を受け入れ、彼のスパイ活動の詳細の完全な開示を提供し、彼の息子が、わずか25年の投獄の判決しか受けないという保証を検察官から約束を受ける事と引きかえに、ジェリー・ウィットワースに対して証言することに同意した。[2][12]マイケル・ウォーカー以外の他のスパイ組織のメンバー全員は、スパイ活動での彼らの役割での終身刑を受け入れた。ジェリー・ウィットワースは、彼の罪に対して、懲役365年を宣告されて、410,000ドルの罰金を科せられた。ウィットワースは、2048年まで仮釈放には不適格である。ちなみに、その頃では、彼は111才である。
ジョン・ウォーカーの息子マイケル・ウォーカー(彼は、スパイ組織の中では、比較的に重要でない役割であり、減刑の判決と引き換えに証言する事に同意した。)は、2000年2月に、仮釈放で刑務所から解放された。[1]
ジョン・ウォーカーは、現在、行刑局(BOP)の囚人番号22449-037であり、United States Medical Center for Federal Prisoners(MCFP)に投獄されている。彼は、糖尿病とステージIVの喉頭癌に苦しめられていると言われている。彼の最も早い可能性のある仮釈放の日は、2015年5月20日である。その時点では、彼は、懲役30年と言う事になる。[13]

95・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 21:06:05
ジョン・ウォーカー・ジュニア・スパイ事件

「防衛取得研究」(第一巻 第一号)(平成19年06月)<PDF>
070630aquisionresearch_spring
http://www.bsk-z.or.jp/kakusyu/pdf/070630aquisionresearch_spring.pdf

米海軍スパイ事件の教訓

主任研究員高知尾隼

はじめに
 本事件が明らかになって既に20年以上が経過したが、事件の全容を紹介している「FAMILY OF SPIES」の日本語の翻訳本がないためこれを抄訳し、併せて当事件から教訓を導き、防衛省職員及び防衛関連企業関係者の秘密漏えい防止に資することをねらいとする。

1 事件の概要
 本事件は、1967年、当時米海軍准尉であったジョン・ウォーカーが、ソ連大使館に暗号規約を持ち込み、以後退役まで現金と引換えに暗号規約、暗号機のテクニカルマニュアル、米海軍の作戦基本計画等を提供し、1976年退役後は、海軍の友人ジェリー・ウィットワース、兄アーサー・ウォーカー及び息子のマイケル・ウォーカーから引き続き海軍の情報を盗ませ、ソ連に渡すことにより、米国の国防のバックボーンに大打撃を与えた。
 離婚していた妻バーバラが、1984年末、FBIにジョンのスパイ行為を通報し、翌年一味は逮捕された。
 この間に、米海軍の100万通の電報が解読されたといわれる。

2 ソ連との取引
 1967年4月、ジョンは当直中に第2次大戦から最もよく使われている暗号機KL-47の暗号規約を複写し、当直明けにワシントンにあるソ連大使館に赴き、これを渡すとともに暗号機等の情報を提供できることを申し出た。
 後日バルチモアの路上での会合で、ジョンはベトナム戦争で使用していた暗号機KW-7と暗号規約、水中固定機器(SOSUS)等に関する資料を提供できることを、ショッピングリストとしてKGBエージェントに手渡した。
 KGBは、情報資料は複写によることなく、ソ連側が用意するMinoxカメラで撮影すること、情報資料及び現金の授受は、デッド・ドロップ(情報提供者が情報を、工作員が現金をそれぞれ指定地点に置き、お互いが顔をあわせることなく持ち去る)によることをメモ書きした紙きれを手渡した。(ジョンの逮捕までにデッド・ドロップは30回に及んだ)
 ジョンは退役までソ連にKW-7等の暗号規約を半年に1回程度渡していた。(ソ連は、傍受電報をテープに録音しておき、数か月遅れで解読していたと考えられる。)その他、米ソ間の戦争開始時の米海軍の攻撃基本計画、SOSUSのマイクロフォンの敷設位置、沈没した米原子力潜水艦スコーピオンの捜索情報等が渡されている。

3 海軍の友人ジェリー・ウィットワースのリクルート(スパイ組織への引き込み)
 1974年ジョンは退役後の情報提供者として、サンディエゴの通信学校勤務中に知り合ったジェリーに、ユダヤに秘密を売れば月4千ドルになると持ちかけた。
 ジェリーは1976年から1983年の間、インド洋のディエゴワルシア基地や空母エンタープライズから、KW-7暗号機や新しい暗号機の技術情報や暗号規約を持ち出し、ジョンに渡していた。
 これらは米海軍にとって最大の被害であったと連邦検事は述べており、ジェリーの情報に対するソ連の支払いが、月1万ドルに上っていたことからも情報の重要性が理解できる。

4 兄アーサー・ウォーカーのリクルート
 アーサーは、海軍少佐で退役後、1975年からジョンの資金援助を得てカーステレオ販売店を経営していたが、1979年に倒産した。
 アーサーは海軍と最大の取り引きを持つVSE社に勤務し、ノーフォークでの艦艇のオーバーホールに関する仕事に従事していた。
 ジョンは、ジェリーだけに情報を頼ることに不安を持ち、アーサーを仲間に引き込むことを考え、1980年、過去の資金援助の見返りに、アーサーに秘密区分のない資料をコピーするように要求した。ジョンは、この資料に対し4千ドルを支払い、以後秘密資料を提供するよう要求した。
 第7艦隊旗艦ブルーリッジのダメージ・コントロール・ブックや強襲揚陸艦の技術資料及び両用戦艦艇の過去5年間の故障発生に関する情報がソ連に渡された。

5 息子マイケル・ウォーカーのリクルート
 マイケルは、ジョンとバーバラの4人の子供の末っ子であり、父を一番よく慕っていた。ジョンは情報源を確保するため、マイケルを海軍に入隊させた。
 ジョンはマイケルが空母乗組みになると、他の乗員が家族にしているように長期行動について知らせるよう言い含め、さらに複写した秘密文書に1か月5千ドル払うと持ちかけた。
 F-14戦闘機、トマホークミサイル、スパイ衛星及び新型機雷に関する資料が空母ニミッツから持ち出されたが、ソ連に渡ったかは不明である。

96・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 21:08:56
>>95
6 スパイ活動の暴露
 バーバラは、1976年に離婚した後、ジョンが子供の養育費を一度も払ってくれないこと、及びスパイをさせる目的で長女のローラを海軍に入隊させようとしていること等から、1984年11月、FBIボストン支所に電話をして援助を求めた。
 バーバラは、FBI担当官に直接会い、ジョンと共にワシントン郊外でデッド・ドロップをしたことを話した。担当官は、バーバラがアル中であること、ジョンは1976年に退役しスパイをしているか疑わしいことから、これ以上の調査は必要なしと判断した。
 1985年春、この報告はノーフォークFBIにもたらされた。バーバラがポリグラフにパスしたことからFBIはバーバラの訴えを取り上げ、スパイのパートナーがアーサー・ウォーカーとジェリー・ウィットワースであることを知る。バーバラは、息子のことについては話をしなかった。

7 ジョンの追跡と逮捕
 FBIは裁判所の許可を得て電話傍受を行い、1985年5月19日夜ワシントン郊外でKGBとジョンの会合が行われるものと判断し、ワシントンへ向かうジョンを飛行機と車で追跡した。ジョンは、19日夜ワシントン郊外の指定場所にマイケルが空母ニミッツから盗んだ129件の秘密文書を入れたバッグを隠したが、FBIに押収された。KGBのドロップ地点には現金入りのバッグは置かれていなかった。ジョンはワシントン郊外のモーテルに入ったが不安を感じ、持っていたデッド・ドロップの指示書を部屋の外に隠そうと通路に出たところを、張り込んでいたFBIに逮捕された。
 FBIは、ジョンがデッド・ドロップしたバッグ内に、ニミッツに関係する秘密文書のコピーを発見した。このためイスラエルのファイファに入港中のニミッツに対し本国から電報による指示が出され、ジョンの逮捕8時間後にマイケルは憲兵事務室に連行された。
 アーサーは、ジョンの逮捕4時間後に、ジェリーは5時間後にそれぞれ自宅で逮捕された。

97・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/07/02(金) 21:11:53
>>96
8 教訓
(1)勤務評定
 ジョンは、1967年ソ連大使館に暗号規約を持ち込む以前はまじめであったと評価されているが、スパイ行為を始めた時期は全く勤務意欲をなくしていたという評価がなされている。これは、デッド・ドロップする時の緊張感と、実施後バレるかも知れないという、不安感が常につきまとっていたものと考えられる。
 上司が部下の勤務態度に異常を感じたら話し合う機会を持つ等、一歩踏み込んだ監督指導が必要である。
(2)生活態度
 ジョンはスパイ行為に慣れてくると金遣いが荒くなり、ノーフォーク郊外に豪邸を建て、若い女性を連れて週末は遊び回っていたが、上司は異常な生活態度に全く気付かず、また同僚はうすうす気付いていたが、上司に報告することもなかった。
 ジェリーについては、秘密の電報を許可なく複写したり、個人更衣ロッカーの中で秘密の書類を見たり、秘密の資料を家に持ち帰ったのを同僚が目撃していた。
 「何かおかしい」と思いつつ報告を怠ることは、問題が生じた後で後悔する原因となる。積極的に報告をさせる手段としての「仕組み」が必要である。
 米国では、1995年「大統領令:秘密情報に対するアクセス」が制定され、政府職員に対しセキュリティ上の問題点についての報告義務を求めている。
(3)秘密情報の持ち出し
 KGBは、秘密文書は複写によることなくMinoxカメラでの撮影を指示しているが、フィルムはかさばらないので艦艇からの外出時あるいは隊から帰宅する時に、とがめられる可能性は少なく、また、いざという時に処分しやすい利点がある。
 今日ではデジタル・カメラや携帯電話で接写ができ、直ちに送信できる機能もあるので、情報を扱う職場にこれらを持ち込ませてはならないし、会社の入出時にも持ち物の検査を実施すべきである。
(4)資格審査
 空母ニミッツでの幕僚庶務室勤務では、SECRETクリアランスが必要であったが、マイケルのチェックはなされなかった。後にFBIと海軍保全担当局によって、ニミッツの保全違反が指摘された。
 マイケルは、不要になった秘密文書を焼却袋に入れて作戦室の奥にある空調室へ行くことを許されており、艦載機の発着艦がない日の夜中に一人で焼却を行っていた。
 また、マイケルは作戦室に備えられている艦内電話帳に、金庫のダイヤル番号が記入されているのを見つけ、誰もいない時に金庫を開けて秘密文書を複写していた。
 秘密の取扱者に資格審査を受けさせること、秘密文書の破棄の手続き等、決められた事項を遵守する必要がある。
(5)被害対策
 1968年1月23日、米情報収集船プエブロ号が北朝鮮沖の公海上で拿捕され、KW-7暗号機が没収された。今日、KW-7暗号機はソ連に渡ったと信じられているが、当時NSA(国家安全保障局)は、KW-7を廃止することなく、機器及び規約に一部変更を加えて対処したのみであった。この変更内容は、ジョンによりソ連に知らされており、米海軍の電報100万通が解読されたとみられている。
 米国がベトナム戦争に敗れた原因の一つとして、暗号が解読された結果、米軍の爆撃効果があがらなかったことが挙げられている。
 情報の漏えいやそのおそれがある場合、被る被害については、最大のものを想定して対処する必要がある。

おわりに
 アメリカ人がスパイになる動機は、金を求めて自ら情報を売りにいくケースが大部分である。一方、日本人のスパイは、就職の依頼、卒業論文に必要な資料の入手等、善良な気持ちで外国人と関係し、プロの工作員にリクルートされてしまうという例が多い。日本人はスパイに対して、免疫力がないと言える。
 したがって、管理責任者が管理者に対して、スパイの脅威、保全手続き・規則及び部下の指導監督法について教育し、現場の実務担当者まで徹底を図り、強固な保全組織を作り上げる必要がある。

98・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/08/09(月) 08:45:57
「癒着」って、いったい何のことだったんだろう? :イザ!
http://sarahctr.iza.ne.jp/blog/entry/1648662/

「癒着」って、いったい何のことだったんだろう?
2010/06/11 18:54



金大中拉致事件がKCIAの犯行と発表してアメリカに亡命した韓国人ジャーナリスト文明子と、米国務省韓国部長ドナルド・レイナードは、拉致事件が政治決着した裏で、田中首相にワイロが渡ったことを暴露した。


アメリカに亡命、後にフランスで失踪(拉致殺害説あり)した元KCIA部長金炯旭は米下院公聴会で、金大中拉致事件の首謀者がKCIA部長李厚洛であること、李厚洛の朴正煕政権の政治資金調達に日本企業が深く関わっていることを証言した。


在米韓国広報官長李在鉉(アメリカに亡命)の告発によって、円借款で行われたソウル地下鉄建設計画に絡んで、新韓碍子と日商岩井との関係、車両契約を受注した日立製作所のリベート問題が発覚した。

ロッキード事件に前後して相次いで表面化した、韓国の政治家や情報機関、財閥と、日本保守政界と政商、利権右翼、企業グループの癒着構造を「日韓癒着」と呼ぶ。

日韓癒着の起源は、朴正煕政権の発足直後にさかのぼる。
日韓条約締結交渉は、竹島の領有権や戦後補償の額をめぐって何度も決裂したが、韓国の密使が児玉誉士夫に接触したことで、10年以上続いた交渉は急転直下妥結した。


自民党内の反対派を説き伏せるのにどれだけの金が闇で動いたのかは見当もつかない。条約締結で、岸派・佐藤派と伊藤忠商事が、賠償利権を手中にした。伊藤忠の瀬島龍三と朴正煕は陸士の先輩後輩の間柄である。

かつてフジサンケイグループ総帥の鹿内信隆(元陸軍)は、朴正煕との対談番組で「日韓癒着と騒がれているのは、日韓の傷口が癒されている証拠だ」と揚言した。元産経新聞社員で、許永中事件に連座して逮捕された「政財界のフィクサー」こと福本邦夫は、産経退社後、政治家秘書として国際勝共連合の結成に関与したという。


現在も、フジテレビ社長村上光一は統一教会信者と噂され、産経新聞主筆住田良能はKCIAエージェントと噂されている。

「日韓癒着」は戦後日本のコアの部分だ。朴正煕は日本を腐らせた。

99・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/08/10(火) 16:54:17
「二千年の恋」いろいろ
http://www5b.biglobe.ne.jp/~sasasan/love2000_etc.html

佐伯刑事の両親が亡くなった
テロ事件のモデルになったと
思われる実際のテロ事件

1974年(昭和49年)8月30日
東京・丸の内の三菱重工業(株)本社ビルの
玄関入口近くに仕掛けられた時限爆弾が爆
発し、通行人8人が死亡、385人が重軽傷を
負いました。1ヶ月後「極左グループ東アジア
反日武装戦線・狼」が犯行声明。
連続企業テロの最初の犯行。

佐伯刑事の生年月日と本人が
語った「明日で夏休みも終わるな
あという日だった」という言葉から、
この事件と思われます。


「虹作戦」

「三菱重工爆破事件」の半月前の1974年8月14日に、
「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」が、
昭和天皇が乗る「御召」列車を爆破する「虹作戦」
を立てるが未遂に終わる。
このときの爆弾が、「三菱重工爆破事件」に使われる。

1999年に、映画監督の渡辺文樹が「虹作戦」をモデルとして、
映画『腹腹時計』を制作する。

日本赤軍と東アジア反日武装戦線
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm


「文世光事件」

1972年9月29日に、中国の毛沢東と
日本の田中角栄が日中国交正常化を行い、
大東亜が中国共産党・朝鮮労働党等と
親密になっていっている時に、
在日韓国人の文世光が、
大阪湾に入港している北朝鮮の万景峰号の船内で、
朝鮮労働党の工作員から、
韓国大統領の朴正煕射殺の指令を受け、
大阪府警南署高津派出所で拳銃2丁を入手し、
韓国に入国して、
1974年8月15日に実行するが未遂におわる。

しかし、朴正煕の夫人の陸英修など2名が射殺される。

「三菱重工爆破事件」は、
「虹作戦」を失敗してしまった
「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」が、
「文世光事件」に影響されて行われたとも言われている。

1979年10月26日、韓国大統領の朴正煕は、
側近のKCIAによって暗殺される。
瀬島龍三(二階堂洋介)と朴正煕は陸士の
先輩後輩の間柄であった。

100・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/08/11(水) 13:28:42
>>99
訂正→>>101

101・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/08/11(水) 13:30:03
「二千年の恋」いろいろ
http://www5b.biglobe.ne.jp/~sasasan/love2000_etc.html

佐伯刑事の両親が亡くなった
テロ事件のモデルになったと
思われる実際のテロ事件

1974年(昭和49年)8月30日
東京・丸の内の三菱重工業(株)本社ビルの
玄関入口近くに仕掛けられた時限爆弾が爆
発し、通行人8人が死亡、385人が重軽傷を
負いました。1ヶ月後「極左グループ東アジア
反日武装戦線・狼」が犯行声明。
連続企業テロの最初の犯行。

佐伯刑事の生年月日と本人が
語った「明日で夏休みも終わるな
あという日だった」という言葉から、
この事件と思われます。


「虹作戦」

「三菱重工ビル爆破事件」の半月前の1974年8月14日に、
「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」が、
昭和天皇が乗る「御召」列車を爆破する「虹作戦」
を立てるが未遂に終わる。
この時に使う予定だった爆弾が、
「三菱重工ビル爆破事件」に使われる。

1999年に、映画監督の渡辺文樹が「虹作戦」をモデルとして、
映画『腹腹時計』を制作する。

日本赤軍と東アジア反日武装戦線
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm


「文世光事件」

1972年9月29日に、
中国の毛沢東と日本の田中角栄が日中国交正常化を行い、
大東亜政府が中国共産党・朝鮮労働党と
親密に向かっている時に、
在日韓国人の文世光が、
大阪湾に入港している北朝鮮の万景峰号の船内で、
朝鮮労働党の工作員から、
韓国大統領の朴正煕射殺の指令を受け、
大阪府警南署高津派出所で拳銃2丁を入手し、
韓国に入国して、
1974年8月15日に実行するが未遂におわる。

しかし、朴正煕の夫人の陸英修を含む2名が射殺される。

「三菱重工ビル爆破事件」は、
「虹作戦」を失敗してしまった
「極左グループ東アジア反日武装戦線・狼」が、
「文世光事件」に影響されて行われたとも言われている。

1979年10月26日、韓国大統領の朴正煕は、
側近のKCIAによって暗殺される。
瀬島龍三(二階堂洋介)と朴正煕は陸士の
先輩後輩の間柄であった。

102・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 10:44:17
>>21
訂正→>>46-47

>>23-25
訂正→>>88-89

>>26-27
訂正→>>101

>>29
訂正→>>50-53

>>30-31
訂正→>>90


以下のスレの削除は可
>>21>>23-27>>29-31>>42-43>>45>>99-100>>102

103・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 12:07:35
國民新聞(平成11年1月)あの瀬島氏が「日本戦略研究フォーラム」を企画
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H11/1101/110113sejima.html

110113    あの瀬島氏が

「日本戦略研究フォーラム」を企画



 戦中は大本営、戦後シベリアからの帰国後は財界、中曾根
政権以降は政界の、それぞれ「参謀」としての道を歩んでき
た瀬島龍三伊藤忠商事特別顧問が国家戦略研究のため、日本
戦略研究フォーラム設立へ向けて動き出した。

 設立趣意書によれば、わが国の21世紀における国家戦略
確立へ向けて、政治、経済、軍事、科学技術分野に重点を置
いた研究を行う。

発起人には、

自由党の小沢一郎 党首、
 自民党の中山太郎 元外相、
 樋口廣太郎 アサヒビール会長、
 小田村四郎 柘植大学総長、
 田久保忠衛 杏林大学教授、
 岡崎久彦 元駐タイ大使

 らが名を連ねている。

抑留や東京裁判証人、ソ連(ロシア)との関係などで
さまざまに論評される瀬島氏だけに危ぶむ人々も。

104・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 12:53:29
瀬島龍三氏の米寿祝う会に小渕首相、小沢党首ら勢ぞろい
http://www.asahi.com/1211/news/politics11009.html

1999年12月11日

中曽根康弘元首相のブレーンで、伊藤忠商事特別顧問の瀬島龍三氏の「米寿」を祝う会が11日夜、東京都内のホテルで開かれ、小渕恵三首相、自由党の小沢一郎党首、橋本龍太郎前首相、中曽根氏らが顔をそろえた。瀬島氏は戦前、関東軍参謀を務め、戦後は伊藤忠商事に入社。政界【と陰謀界】にも知己が多い。
瀬島氏はかつて臨時行政調査会や臨時教育審議会の委員として、民間の立場から行政改革や教育改革の推進役を務めた。
あいさつした中曽根氏が瀬島氏とともに進めた行革の思い出話を語り、小渕首相も「教育改革が非常に大事だ。中曽根元首相、橋本前首相がやり残した仕事に力を尽くしていきたい」と語るなど、「改革」話に花が咲いた。

105・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 14:17:34
>>104
訂正→>>106


以下のスレ(のレス)の削除は可
>>21>>23-27>>29-31>>42-43>>45>>99-100>>102>>104-105

106・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 14:19:26
瀬島龍三氏の米寿祝う会に小渕首相、小沢党首ら勢ぞろい
http://www.asahi.com/1211/news/politics11009.html

1999年12月11日

 中曽根康弘元首相のブレーンで、伊藤忠商事特別顧問の瀬島龍三氏の「米寿」を祝う会が11日夜、東京都内のホテルで開かれ、小渕恵三首相、自由党の小沢一郎党首、橋本龍太郎前首相、中曽根氏らが顔をそろえた。瀬島氏は戦前、関東軍参謀を務め、戦後は伊藤忠商事に入社。政界にも知己が多い。

 瀬島氏はかつて臨時行政調査会や臨時教育審議会の委員として、民間の立場から行政改革や教育改革の推進役を務めた。

 あいさつした中曽根氏が瀬島氏とともに進めた行革の思い出話を語り、小渕首相も「教育改革が非常に大事だ。中曽根元首相、橋本前首相がやり残した仕事に力を尽くしていきたい」と語るなど、「改革」話に花が咲いた。

107・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/01(水) 19:51:45
チャンネル桜 旧掲示板スレッドツリー
http://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=51691&page=1&genre=sougou

山下奉文大将終焉の地 慰霊碑修復計画

チャンネル桜開設準備室 [ホームページ] 2004-07-29 18:22:42 No.51691
--------------------------------------------------------------------------------
チャンネル桜ONLINETVに集われる皆様にお知らせ申し上げます。

 私ども株式会社ウィンズインターナシヨナルは、四月六日、100パーセント出資の子会社株式会社日本文化チャンネル桜(資本金二億円、放送開始時に五千万円増資)を設立いたしました。この会社は衛星デジタル放送「日本文化チャンネル桜」の事業主体であり、八月十五日に開局を目指しております。

 さて、本日、この告知を掲載させていただきましたのは、フィリピン共和国、ロスバニョス州・バランガイ・ティモスにあります陸軍大将山下奉文閣下終焉の地における慰霊碑修復についてであります。当地は、山下将軍がフィリピンにおける戦いの罪を不当にも問われ、その全責任を負わされる形で、軍人として屈辱的な「絞首刑」に処せられた場所です。

 山下閣下は勇猛果敢な戦いぶりから「マレーの虎」と称せられた世界的な名将軍であり、同時に、その武勇と共に人情に厚く高潔なお人柄から、多くの人々から慕われた人物です。しかし、将軍の御遺体は、祖国日本に返されぬまま、フィリピンの何処にか埋められたまま、行方知れずとなっています。つまり、この終焉の地が山下閣下のいわばフィリピンにおける「御墓」とも言えるのであります。

 ご遺族や関係者の皆様が建立された慰霊碑やその周辺も、数十年の時が過ぎ、荒れ果てたままになっております。

 先人の血と汗のおかげで、今日の平和と繁栄があることを考える時、私たち日本人にとって、この状況はまことに悲しむべき事態であり、山下閣下慰霊碑の荒れようは、私たち戦後日本人の精神的荒廃の表れでもあるように思われます。

チャンネル桜開設準備室 2004-07-29 18:23:18 No.51692
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 私たちは、微力ながら、山下将軍閣下慰霊碑の修復を決意しました。日本文化チャンネル桜の開局を控え、私たちの開局への決意と散華された英霊への感謝と崇敬の念を表すためにも、この修復を記念事業として行うことを決め、実行に移しました。幸いにもマニラ在住の日本人建築家野沢氏のご協力により、慰霊碑とその周辺の修復計画と設計図、見積もり等を作成していただきました。また、当地の土地所有者のポンス・バトゥガル氏は、私たちの意図に賛同していただき、慰霊碑周辺の土地約七百五十平米を当地のバランガイにご寄付していただくこととなりました。

 慰霊碑付近には掲示碑が建立されますが、元陸軍参謀瀬島龍三氏の揮毫によって「将軍山下奉文この地に眠る」と刻印されます。既に日本から刻印済みの石碑が送られております。工事も無事開始され、順調に進められ、今月末にはほぼ完成される見込みです。

 本年八月十五日には、在フィリピン日本国特命全権大使高野閣下参列をいただき、除幕式を行う予定であります。

  山下将軍終焉の地慰霊碑の修復に賛同いただける日本人の皆さん、あるいは、企業の皆様、是非、私たちの趣旨にご賛同いただき、ご協力とそのお志をお願い申し上げる次第であります。


   ご協力金 一口 10、000円 (何口でも可)

   振込み先 東京三菱銀行 渋谷明治通支店

        口座 株式会社日本文化チャンネル桜
                  山下大将慰霊碑


ご寄付をいただいた方のご芳名は、付近に建立いたします掲示碑内に収める奉加帳に記され、末永く保存させていただく予定であります。

 尚、見積もり表の数字は、最低限の費用で出来る限りの修復を為そうとするものであります。もし、ご賛同の金額が予算を超えれば、名将軍に対してさらに相応しい施設を造成する所存であります。また、隣接する文人将軍本間雅晴中将の慰霊碑等の修復も出来ればと考えております。また、これからの維持管理は、私たちがチャンネル桜が責任を持って行います。

重ねまして、皆様のご協力をお願い申し上げます。


      山下奉文将軍慰霊碑修復委員会
      株式会社日本文化チャンネル桜
      株式会社ウィンズインターナショナル
                        代表  水島 総

108・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/09(木) 15:21:22
写真館「著名人・芸術関係」22
http://www.morimuraseiichi.com/shashinkan/b/20-005.html

角川春樹「復活の日」祝宴会

左・松任谷由美氏、右・角川春樹氏。
撮影・森村

右・元伊藤忠会長・瀬島龍三氏。

左・大林宣彦監督。

左・渡瀬恒彦氏。

左・崔洋一監督。

左端・紀伊國屋書店会長松原治氏、2人目・ジョー山中氏、右・辺見じゅん氏。

109・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/09(木) 15:23:58
HORI AKIRAマッドサイエンティストの手帳
http://www.jali.or.jp/hr/mad6/mad305-j.html

『マッドサイエンティストの手帳』305

●マッドサイエンティスト日記(2004年6月後半)

主な事件
 ・角川春樹「復活の日」祝宴会(24日)

2004年

6月24日(木)

 夕刻、ホテル・ニューオータニ「鳳凰の間」へ。
 角川春樹「復活の日」祝宴会。
 発起人代表は森村誠一さんである。一昨年の小松左京賞の時に、「真の祝賀会を会費10万円でやろう」と話されており、もし森村さんが本当にやられるなら必ず参加すると決めていたのである。まあ、それくらいおれは森村ファンになってしまったのである。(ちなみに角川春樹氏と直接話したことはない)
 会場前で井上雅彦氏に会う。母上が交通事故でこの数ヶ月、世話がたいへんだったという。大腿骨骨折も含む大けがらしい。お互い似たような事情なんだなあ。
 会費は10万円よりは桁違いに安かった。
 入り口廊下に長い行列。春樹氏自身が森村さんと並んでの出迎えで、挨拶する人が多いのであった。
 司会がなんと三遊亭円窓師匠。俳句の縁らしい。こういう人なんだよ。『御乱心』の愛読者としてはなぜかおかしいのであった。
  
 最初に「親代わり」の後見人・瀬島隆三登場、92歳のはず。源義氏に同郷のよしみで「遺言」として頼まれたのだとか。
 「不良性」側の友人代表として北方謙三氏が挨拶。
 そして角川春樹氏本人の挨拶。「2年5ヶ月と3日」この間に練り上げた戦略で、これから社員「四十七士」とともに世界制覇に乗り出すという。いったい何が始まるのか、この構想の一端も語られた。
 こりゃ熊谷守一とは対極のメンタリティ。まさに風雲児の「復活日」である。
 広い会場、超満員といっていい盛会。
 小松左京さん、筒井康隆さん、眉村卓さんが揃っているというのも久しぶりではないかなあ。
 他に会ったのは、覚えているだけで、山田正紀、田中光二、野田昌宏、南山宏、朝松健、大多和伴彦、荒俣宏、機本伸司、新井素子、今野敏の各氏……他にもまだまだ色々な人に会ったと思う。
  
 写真は初対面(というか初めてしゃべった)朝松健さん、樋口明雄さんら。それに機本さんと荒俣さんという組み合わせも珍しい。
 会場、さすがにえらい人があちこちに。大林宣彦氏や津川雅彦氏の顔も。
 ジョー山中が登場して2曲。久しぶりであるなあ。
 あとでなんとユーミンも登場(ここでは撮影禁止のアナウンスがあった)。
 なんやかやで21時半頃にお開きとなった。
 森村さんの挨拶で終わり、また出口でお見送り。
 
 ミーハー的に森村ファンとして記念写真をお願いした。快く応じていただいた。
 わが森村ファン度、ますます上昇である。
 二次会はしんどいので、まっすぐ隠れ家に帰る。
 23時頃に帰るというボンクラ息子その1のために食事の用意。居候としては、これくらいのサービスをしておかなくては。

110・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2010/09/09(木) 15:25:46
日刊リウイチ2004・6下
http://www.asahi-net.or.jp/~WF9R-TNGC/nikko200463.html

縮刷版2004年6月下旬号

--------------------------------------------------------------------------------
 【6月24日】

 仕事をやり倒してから「ホテルニューオータニ」で開かれた角川春樹さんの出所パーティー、と呼べば呼べるけどここは優雅に「復活の日」と読んだイベントへと出席。取材とゆーよりSF系からの観察とゆー立場だったけど来る人訪れる人の豪華さに、さすがは業界にその名を轟かせ、今なお強い影響力を持つ人物のパーティーだと強く激しく納得させられる。友人代表として挨拶にも立った北方謙三さんに親代わりな紀伊国屋書店の松原治会長にやっぱり親代わりの日本陸軍元参謀にして現在はNTT顧問の瀬島龍三さんをトップスリーに、小松左京さんやら町田康さんやら津川雅彦さんやら崔幼一さんやら富野悠由紀さんやら大林信彦さんやら井上やすしさんやら渡辺淳一さんやら新井素子さんやら山田正紀さんやら、なにやらかにやら近寄ればその後光に身もすくむ人たちばかりでそんな人たちを間近に見られたこの会合、会費1万5000円は払って全然惜しくない額だった。

 もちろんそーした有名な人に出会えたってこともあるけれど、それよりもむしろ価値があったのは角川春樹さんてゆー、日本の出版史上に燦然としてその名を刻むだろー人の、かくも大きな転機となったイベントに居合わせられたってことの方。還ってきたと挨拶し、これからも不良であり続けると宣言し、47人の角川春樹事務所の社員を率いて株式公開を目指し、それどころか世界制覇すら目指しているんだと宣言した場に居合わせられたことは将来においてきっと、強い思いでとなって一生のうちの幾ばくかのページを飾るだろー。一時期体調も危ぶまれ、激痩せも目立って余命に不安を感じたけれど、2年5カ月と3日ぶりに世に出てからのアグレッシブな活動ぶりとも重なって、顔色は良く艶も張りも出て入獄直前に見た時よりもはるかに健康になっている感じ。このままだと軽くあと10年20年は生きて角川春樹事務所を引っ張って行きそーで、大言壮語に聞こえないこともない”世界制覇”もあながち夢物語で終わらないかもしれない。さてどーなるか。何をやらかしてくれるのか。もー1度くらい「SFセミナー」に呼んでくれないかな。でも「SFの時代」って言ってくれるとも限らないか。何の時代? やっぱ「グルメ」なのかな。グルメ文庫創刊だそーです。

 帰りがけにもらった包みに「週刊読書人」の6月25日号が入っていて開けるとそこに角川春樹インタビュー。末尾に「我は神なり。神は我なり。神、我とともにあり」って言葉もあって相変わらずの超然ぶりが伺える。出所して翌日に出社して人事異動を断行だなんて普通の経営者じゃー出来ないよ。受ける側は戦々恐々だろーけど、獄にあってもそれだけ見てたんだってことが納得出来る人事だったら文句も言えないだろー。どこにあっても見ている人は見ていてそれを即座に断行する。人の上に立つもののそれが当然の資質って奴なんだろー。そんな人の下で働ける人たちが羨ましい。同じ「週刊読書人」には歌人の枡野浩一さんのコラムもあって新人歌人の脇川飛鳥さんを紹介していて写真も載ってて脇川さんなかなか美人っぽい。でも紹介が「体育会系」。性格が体育会? それとも武力が体育会?

111わかりません:2012/01/22(日) 09:33:03
本番OKらしいです(人・ω・)★ http://www.64n.co/


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