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日本現代史メモスレッド

1カマヤン:2003/05/05(月) 02:43

某先生の講義をメモするなり。

関連スレ
「日本近現代史にわか勉強スレッド」
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=1274&KEY=1025166092

30・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:49
〔資料〕満州事変に関する政府第1次声明(1931年9月24日)
〔一〜三 省略〕
四 、
 帝国政府は九月十八日緊急閣議を開きて此の上事態を拡大せしめさることに極力努むるに
方針を決し陸軍大臣より之を満州駐屯軍司令官に訓令せり 
 九月二十一日長春より吉林に一部 隊出動せるも是れ同地方の軍事占領を行はむか為に非すして
満鉄に対する側面よりの脅威を除 かむとせるに外ならす 
 従て此の目的を達するに至らは我出動部隊の大部分は直に長春に帰還する筈なり
 尚九月二十一日に至り満鉄沿線の不安に鑑み朝鮮駐屯軍より混成一旅団兵員四千を新に
満州駐屯軍司令官の麾下に属せしめたるも満州駐屯軍の総兵力は尚条約所定の制限内に止まり
固より対外関係に於ける事態を拡大せるものと謂ふへからす
五 、
 帝国政府か満州に於て何等の領土的慾望を有せさるは茲に反復縷説するの要なし
 我か期待する所は畢竟帝国臣民か安んして各般の平和的事業に従事し其の資本又は労力を以て
地方の開発に参加するの機会を得せしめむとするにあり
 自国竝自国臣民の正当に享有する権利利 益を擁護するは政府当然の職責にして満鉄に
対する危害を排除せむとするも亦此の趣旨に外ならす〔以下 省略〕
 出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)、181-182頁。

 〔これ↑がいわゆる「不拡大声明」だ。引用部第一行に、事態を拡大させない旨が
書かれている。〕

31・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:50
 〔資料〕石原莞爾「満蒙問題私見」(1931年5月)〔注1〕
要 旨
一 満蒙の価値
  政治的 国防上の拠点/朝鮮統治/支那指導の根拠
  経済的 刻下の急を救ふに足る〔注2〕
二 満蒙問題の解決〔注3〕
  解決の唯一方策は之を我領土となすにあり
之か為には其正義なること及之を実行するの力あるを条件とす〔注4〕
三 解決の時期
  国内の改造を先とするよりも満蒙問題の解決を先とするを有利とす〔注5〕
四 解決の動機
  国家的 正々堂々
  軍部主動 謀略に依り機会の作製
  関東軍主動 好機に乗す
五 陸軍当面の急務
  解決方策の確認/戦争計画の策定/中心力の成形〔注6〕
〔本文 中略〕
第三 解決の時期
 若し戦争計画確立し資本家をして我勝利を信せしめ得る時は現在政権を駆り〔注7〕積極的
方針を執らしむること決して不可能にあらす
 殊に戦争初期に於ける軍事的成功は民心を沸騰団結せしむることは歴史の示す所なり〔中略〕
第四 解決の動機
 国家か満蒙問題の真価を正当に判断し其解決か正義にして我国の義務なることを信し
且戦争計画確定するに於ては其動機は問ふ所にあらす
 期日定め彼の日韓併合の要領により満蒙併合〔注8〕を中外に宣言するを以て足れりとす
 然れ共国家の状況之を望み難き場合にも若し軍部にして団結し戦争計画の大綱を樹て得るに
於ては謀略により機会を作製し軍部主動となり国家を強引すること必すしも困難にあらす
 若し又好機来るに於ては関東軍の主動的行動により回天の偉業をなし得る望み絶無と称し難し
〔以下 省略〕
 出典:角田順ほか編『太平洋戦争への道 別巻・資料編』(朝日新聞社、1963年)99-101頁。
原文はカタカナ。

32・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:50
 注釈・解説
 〔注1〕石原莞爾「満蒙問題私見」は、満州事変の四ヶ月前、参謀旅行の時配ったものだ。
 〔注2〕「刻下」とは、現在、という意味だ。世界商品である大豆を手に入れることで、
日本経済を安定させることができる、というのが、この文の趣旨だ。
 〔注3〕「満蒙問題の解決」とは、日本がいかに安定的に影響力を与えることができるか、
ということだ。
 〔注4〕満州を日本の領土とするのが「正義」であるという正当化をするために、
日満同祖論がこの頃盛んに宣伝された。満州民族と日本民族は同じ民族だから満州を領土と
するのは正当性がある、という論を立てようとした。「源義経=ジンギスカン説」も、
この頃「正当化」のために流布された。
 〔注5〕「国内の改造」とは、政党内閣打倒・財閥打倒のことだ。
 〔注6〕「中心力」には、皇族内閣を石原莞爾は構想していた。
 〔注7〕「現政権を駆り」とは、現政党内閣を使って、という意味だ。
 〔注8〕この時点で石原莞爾は「満蒙併合」を構想していたが、後に「満蒙独立」へ
方針転換し、「満州国」が作られる。

33・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:50
〔資料〕満州国執政溥儀の関東軍司令官宛書簡(1932年3月10日)
〔外務省仮訳〕
 書簡を以て啓上候 〔中略〕……茲に左の各項を開陳し貴国の允可を求め候
一、弊国は今後の国防及治安維持を貴国に委託し其の所要経費は総て満州国に於て之を負担す
二、弊国は貴国軍隊か国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理
竝新路の敷設は総て之を貴国又は貴国指定の機関に委託すへきことを承認す
三、弊国は貴国軍隊か必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す
四、貴国人にして達識名望ある者を弊国参議に任し其の他中央及地方各官署に貴国人を
任用すへく其の選任は貴軍司令官の推薦に依り其の解職は同司令官の同意を要件とす
 前項の規定に依り任命せらるる日本人参議の員数及ひ参議の総員数を変更するに当り
貴国の建議あるに於ては両国協議の上之を増減すへきものとす
五、右各項の趣旨及規定は将来両国間に正式に締結すへき条約の基礎たるへきものとす
 出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)217頁。

34・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:51
〔資料〕昭和天皇による関東軍への勅語(1932年1月8日)
  関東軍ヘ勅語
  曩ニ満洲ニ於テ事変ノ勃発スルヤ自衛ノ必要上関東軍ノ将兵ハ果断神速寡克ク衆ヲ制シ
速ニ之ヲ芟討セリ爾来艱苦ヲ凌キ祁寒ニ堪ヘ各地ニ蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ克ク警備ノ任ヲ完ウシ
或ハ嫩江斉々哈爾地方ニ或ハ遼西錦州地方ニ氷雪ヲ衝キ勇戦力闘以テ其禍根ヲ抜キテ
皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ嘉ス汝将兵益々堅忍自重以テ東洋平和ノ基礎ヲ確立シ
朕ガ信倚ニ対ヘンコトヲ期セヨ
 出典:井原頼明編『増補 皇室事典』(1942年、冨山房、復刻版1982年)467頁。

35・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:51
〔資料〕暫行懲治〔ちょうち〕盗匪法(満洲国・1932年9月7日公布)第七条・第八条
第七条 
 軍隊、部隊をなす盗匪の剿討〔そうとう〕粛正するに当りては臨陣格殺しうる〔注1〕のほか、
該軍隊の司令、その裁量によりこれを措置〔注2〕することを得。
第八条
 高級警察官の指揮する警察隊、部隊をなす盗匪を剿討するにあたり、その臨陣格殺しうるのほか
現場において盗匪を逮捕し、事態急迫にして猶予を許さざる事情あるときは、該高級警察官、
その裁量によりこれを措置することを得。
 出典:加藤豊隆『満洲国警察小史』(財団法人・満蒙同胞援護会愛媛県支部、1968年)93頁。
 なお、「暫行懲治盗匪法」は、1942年12月に廃止され、代って「治安維持法」が公布されたが、
この「臨陣格殺」の規定は「当分の間その効力を有す」とされた(同前、98頁)。

〔注1〕「臨陣格殺」とは、その場で殺していい、という意味だ。裁判の否定であり、
法治国家の否定だ。
〔注2〕「措置」とは、処刑のことだ。

36カマヤン:2003/05/18(日) 15:58
>>29
日本はリットン調査団の後、国際連盟を脱退するが、どうも、「辞めちゃうぞ
辞めちゃうぞ」と言っていれば、イギリスあたりが引きとめてくれるのではないか、
と、期待していたっぽい。
日本が脱退することは、国際連盟にとっても痛手だからだ。
日本は脱退を宣言した後も期日まで国際連盟の事務仕事に職員を送っていた。
「イギリスが引きとめてくれないかなあ」と期待していたっぽいが、
イギリスは日本を引き止めなかった。
メッセージが届かない、想いが通じないというのは、よくあることだ。

37第4講 2・26事件と「国策の基準」:2003/05/21(水) 01:58
第4講 2・26事件と「国策の基準」

 関東軍による「統帥権干犯>>18-22」は、1934年天皇勅語により、天皇から承認された。
 関東軍司令部に掲げられた垂幕には、「王道楽土」「五族協和」「南無妙法蓮華経」と
あった。日蓮主義者の石原莞爾による影響だろうか。
 石原莞爾にとって、満州占領>>18-29は、「国家改造」の一端だった。

Ⅰ;「国家改造」グループの形成

 1920年代末、世界恐慌により、「国家改造」論、「国家改造」運動が激しくなる。
「国家改造」論とは、天皇中心の国をもう一度作り直す、というものだ。
 「国家改造グループ」は、一枚岩ではなく、内ゲバを繰返した。

38・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:58
1;恐慌と政党政治の自壊

 「世界恐慌」へ政党政府は適切な対応ができなかった。
それを「国家改造グループ」が騒ぎ立て、政党政治の息の根を止めた。
それ以降、日本はシビリアンコントロールを失う。

1−1;
  ロンドン条約は、政党政治主導による軍縮条約だった。陸海軍の予算を削減する条約だった。
必ずしも日本に不利な条約ではなかった。
 1930年は、政党政治の頂点の年だ。
 だが、野党政友会と右翼(その背後の軍)は、これを天皇の「統帥権」を「干犯」している、
と、騒ぎ立てた。>>4 >>8-10
 政党政治排斥の空気が形成されていく。

39・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:58
1−2
 政党の自壊現象が起きた。政党排斥の空気を、政党は自ら助長した。

1−2−1
 政権党は、汚職・金権体質が激しく、手段を選ばぬ倒閣戦術を用いた。
 当時は政友会・民政党の二大政党制だった。双方競い合って利権獲得していた。
権力を握っている間に利益誘導した。

1−2−2
 政権党は露骨な利益誘導による選挙対策を行った。
この当時の言葉として「我田引鉄」という言葉がある。
自分の選挙区に鉄道を引くことを言う。
経済効率を無視して、自分の選挙区へ線路を引く、ということがこの当時行われた。
この計画性のない路線行政が、戦後、国鉄赤字の原因となる。

1−2−3
 民政党は経済政策に失敗した。>>11-13
 民政党は、デフレ政策だった。不況化にデフレ政策を行った。
「生活苦は、政党政治のせいだ」とされた。

 この「民政党の経済政策失敗」とロンドン条約「統帥権干犯問題」を騒ぎ立て、
「国家改造(政党政治を打倒し、天皇中心の国を作る)」運動が勢いをつける。

40・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:58
2;「国家改造」グループ諸派の形成。

A;
「国家改造グループ」(「ワシントン体制打破」を目的とするグループ)形成。
 中心人物は橋本欣五郎(当時中佐)と、大川周明。
彼らは、「三月事件(1931.3)」「十月事件(1931.10)」というクーデター未遂事件を起こした。
この中心グループは、「幕僚グループ」だ。
未然に情報を知った陸軍は「幕僚グループ」を逮捕しなかった。
「幕僚グループ」を「料亭に軟禁」した。「幕僚グループ」は、料亭の中で遊び呆けた。
「青年将校グループ」と「農村主義者」は、「幕僚グループ」を見放した。

41・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:59
B;Aのグループは、「十月事件」の後、三つのグループに分かれる。

 B-1;「農本主義者」
 民間人のグループ。「日蓮主義」と結びつく。
このグループは後に「愛郷塾」となり、「血盟団」と行動をともにする。
B-3の「幕僚グループ」とは対立。

 B-2;「青年将校グループ」
 「青年将校」は、兵隊を教育する人たち。
政治力を持たなかったので、政治的欲求不満から「国家改造」運動に参加した。
B-3の「幕僚グループ」とは対立関係。
「青年将校グループ」は後に、「大川周明」派と、「北一輝」派に分派する。

 B-3;「幕僚グループ」
 「幕僚」は軍の中のエリート。B-1の「農本主義者」&B-2の「青年将校グループ」とは対立。
後に「幕僚グループ」は、「橋本欣五郎」・「永田鉄山・東条英機」派・石原莞爾「満州組」に分裂。

42・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:59
C;Bの三つのグループは更に分裂する。

 C-1;「愛郷塾」
 橘孝三郎が代表。水戸を根拠地とする。B-1「農本主義者」の流れ。5.15事件を起し、壊滅。

 C-2;「血盟団」
 井上日召が代表。井上日召は坊主。茨城を根拠地とする。愛郷塾とともに、5.15事件を起し、壊滅。

 C-3;「大川周明」派
 大川周明は大アジア主義の学者。B-2「青年将校グループ」の流れ。
「愛郷塾」「血盟団」とともに5.15事件を起し、壊滅。5.15事件では、北一輝派をも襲撃する。

 C-4;「北一輝」派
 北一輝自身は民間人。B-2「青年将校グループ」の流れ。後に《隊付「皇道派」》となり、
2.26事件を起し、壊滅。

43・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:59
 C-5;「橋本欣五郎」
 三月事件・十月事件の中心人物。B-3「幕僚グループ」の元中心人物。
「農本主義者」「青年将校グループ」に見放され、勢力を失う。「永田鉄山・東条英機派」と対立。

 C-6;「永田鉄山・東条英機派」
 「幕僚グループ(B-3)」から分派。
後に、小畑・柳川による《幕僚「皇道派」》と、永田・登場の「統制派」に分裂し、
激しく抗争する。
《幕僚「皇道派」》は、《隊付「皇道派」》とともに2.26事件を起し、壊滅。
「統制派」は軍の中心グループとなる。

 C-7;石原莞爾「満州組」
 永田鉄山が「皇道派」に殺害され、権力の空白ができたところに台頭。「統制派」と対立。
「満州組」は満州事変を起す。日中戦争により、石原莞爾失脚。

44・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:00
3 「国家改造」派のテロ・クーデター未遂事件の続発

1930.11.14 浜口雄幸首相狙撃事件(翌31年 8月 浜口死去)

1931. 3.  三月事件:
桜会(橋本欣五郎)・大川周明らによる宇垣内閣樹立クーデター未遂。
杉山元次官・小磯国昭軍務局長ら陸軍首脳も事件に関与していた。

1931.10.  十月事件:
橋本欣五郎らによる軍部内閣樹立クーデター未遂事件。

1932. 2. 9
井上準之助 前蔵相が暗殺される。
1932. 3. 5
団琢磨 三井合名理事長が暗殺される。
 「血盟団事件」:井上日召らの「一人一殺」思想。
 「血盟団」という名は自称した名ではなく、新聞がつけた名前だ。
(余談だが「ひめゆり部隊」という名も戦後、「ひめゆりの塔」が建てられたことに
ちなんで新聞がつけた名前だ。)
 井上準之助暗殺と団琢磨暗殺は、当時、それぞれ無関係な事件だと思われていた。
「血盟団」事件に軍人が参加していないのは、1932年は、「上海事件」で、軍人が不在だったからだ。

45・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:00
1932. 5.15 5.15事件:
海軍青年将校らにより、犬養毅首相暗殺。
愛郷塾(橘孝三郎主宰)・陸軍士官候補生・血盟団残党も事件に参加していた。
軍人と民間人合同による暗殺事件だ。
愛郷塾は変電所を襲い、停電を狙った。「帝都暗黒化計画」。
農本イデオロギーを、都市民に判らせよう、という考えから、停電を狙った。
5.15事件は、最も原理主義的だった。

46・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:00
Ⅱ;2.26事件とその歴史的意味

 陸軍の最大派閥は、長州閥だった。第2派閥は薩摩閥、第3派閥はずっと少数な佐賀閥。
青年将校グループは政治力を持ってなかったので、真崎・荒木の「佐賀閥」を担いだ。
彼らを「皇道派」と呼ぶ。
永田鉄山は、出身地中心主義から、イデオロギー中心主義へ陸軍を変えようと考えた。
永田鉄山のグループを「統制派」と呼ぶ。
長州閥を引継いでいたのは、宇垣だった。

1;皇道派と統制派の抗争
1−1;
《青年将校+真崎・荒木派幕僚(佐賀閥)》VS《永田派幕僚(反宇垣・反真崎)》
 隊付青年将校グループは、永田派幕僚を「幕僚ファッショ」と非難し、
「怪文書」を応酬した。
 「ファッショ」という言葉は、当時から悪口だった。
現在、「隊付青年将校グループ」は日本ファシズム運動の中心の一つとされているが、
「隊付青年将校グループ」は永田派を「ファッショ」と非難したのは歴史の皮肉だ。

47・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:00
1−2;
 永田鉄山は事務局長のとき陸軍大臣に働きかけ、真崎甚三郎を教育総監から罷免
させた(1935年7月16日)。
 事務局長とは、①陸軍大臣 ②次官 ③事務局長 と、陸軍大臣のラインではNo.3の
ポストだ。人事権を行使できた。
 陸軍では「三長官」と呼ばれる重要ポストがあった。陸軍大臣、陸軍総長、教育総監の
三つがそれだ。人事のとき、慣例としては「三長官」で議論して決めていた。
その慣例を永田は破った。
 これにより、「皇道派」と「統制派」の対立は、一挙にエスカレートした。

1−3;
 相沢三郎中佐が、永田鉄山軍務局長を殺害する(1935年8月12日)。

1−4;
 統制派は、青年将校(皇道派)の牙城・第一師団(東京)を、満州へ派遣することを
決定した(1935年12月)。
 第一師団は東京に置かれていた師団だ。この師団には皇道派が集まっていた。
「帝都防衛」の名目があるから、第一師団は関東軍(満州)へ送られることはないだろう、
と考え、皇道派人事を第一師団へ皇道派は集めていた。東京にある師団ならば、政治運動も
しやすかった。
 統制派は、「第一師団」を満州へ飛ばすことを決定した。「三月に満州へ派遣する」ことが
決定された。天皇からの命令なので、三月になったら満州へ第一師団は移動しなくてはならない。
 満州へ飛ばされる前に決起しなくてはならない、と、皇道派は考えた。これが2.26事件だ。

48・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:01
2;青年将校グループの蜂起(下士官兵 1,400名余を動員)
2−1;
 英米協調派の中心人物を蜂起軍は殺傷。
斉藤実内大臣は殺害される。高橋是清蔵相も殺害される。岡田啓介首相は生存する。
鈴木貫太郎侍従長は殺害される。
岡田啓介は、偶然家にいた同年輩の秘書が岡田と誤認され殺害され、岡田自身は
女中部屋に隠れ、生き残ることができた。

2−2;
 統制派(反真崎)の中心人物と目された渡辺錠太郎教育総監を蜂起軍は殺害する。

49・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:01
3;蜂起の失敗
3−1;
 皇道派青年将校は、政界・宮中への政治工作のパイプを持っていなかった。
 天皇も激怒した。
 青年将校らは、昭和天皇の弟の秩父宮に期待していた。秩父宮は弘前から出てくるが、
昭和天皇によって追い返された。
3−2;
 青年将校らは、政界は真崎がどうにかしてくれるだろう、と思っていた。
 皇道派青年将校が頼りにしていた真崎甚三郎が変心した。
真崎は27日には皇道派青年将校の蜂起に見切りをつけた。
3−3;
 皇道派青年将校には、「国家改造」の具体策がなかった。
           〔資料;《2・26事件「蹶起趣意書」》参照〕

50・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:01
4;2.26事件の歴史的意味
4−1
 それまで政治グループは、「皇道派」「統制派」「ワシントン体制維持派」の三つ巴だった。
その三つのうち、「統制派」だけが生き残った。
 2.26事件は、「国家改造」派(皇道派)が、ワシントン体制維持派(親英米派)を
殺戮した事件だ。
その事件処理を幕僚派(統制派)が行い、皇道派を壊滅させた。
 二つの政治グループが壊滅的打撃を受け、政治勢力の一元化が進行することとなる。
 「国防国家」建設という路線のもと、ワシントン体制打破へ。

4−2;「ワシントン体制維持派」の変質、「幕僚派」への迎合
 政党・官僚は2.26事件後、一斉に軍部(統制派)に同調する。
  広田弘毅内閣は軍部に迎合し、 1936.8「国策の基準」を決定した。
 競争相手が消滅した幕僚派は、「国防国家」建設、大陸への膨張、ナチスドイツへの接近を
推し進めていく。

51・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:02
Ⅲ;広田弘毅内閣による「国策の基準」の策定
1 総合国策策定の発端──陸軍による要求

1−1
永田鉄山が死んだので、一時的に権力の空白が生まれ、石原莞爾が台頭した。
石原莞爾が、参謀本部作戦課長に就任(1935.8.1)、「戦争計画」の策定を提唱。
戦時における政治・統帥にわたる「総合国策(戦時一元指導計画=「戦争指導計画」)」を
石原莞爾がはじめる。

1−2;石原莞爾による「国防国策大綱」骨子(1935年末段階)
 軍が権力を掌握する(「昭和維新」)
→軍需工業(特に航空機工業・燃料)を発展させる
→対ソ軍備・対米軍備を拡充する
→重化学工業基地としての「満州国」を完成する
→ソ連打倒
→実力(武力)をもって中国・南洋方面に進出する。

2;陸軍、「国防国策」策定のため、海軍と折衝を開始する(1935.12.17〜)。
陸軍は、対ソ戦準備優先を主張。中国進出は前面に出さなかった。
海軍は、北守南進論を展開した。
折衝は不調に終わった。

52・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:02
3;陸海軍それぞれの工作
3−1
陸軍は方針転換した。
海軍と合意の上で「国防国策」を策定するのではなく、陸軍案を独自に策定し、
天皇の裁下を得るという方針に転換した。

3−2
海軍と省部首脳からなる「海軍政策及制度研究調査委員会」が発足(1936.3)。
「対外国策に関する件申進」(1936.4.16)などを策定
国策の要綱は、「大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方に発展するを根本方針」と
南進膨張論を展開した。同時に、陸軍の対ソ優先論を牽制した。

53・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:03
4;陸軍の巻き返しと「国策の基準」の決定
4−1
作戦を提案する参謀本部に「国防国策」立案のための戦争指導課を石原莞爾は新設した(1936.6)。
石原莞爾自ら課長になった。

4−2;参謀本部は「国防国策大綱」を策定した(1936.6)。
 航空兵力充実・「日満北支」持久戦ブロックの形成
→ソ連打倒
→イギリス打倒(アジアの英領占領)-「新支那」建設
→「東亜の指導者」に
→実力の飛躍的進展
→対米決戦

4−3;
 海軍との折衝の難航
→相互に譲歩、「南北併進」をもりこんだ「国策大綱」を策定(6.30)。
→広田弘毅内閣の五相会議で「国策の基準」として決定(8.7)
→〔資料; 国策の基準(1936年8月7日 五相会議決定)〕

 対ソ優先は否定されたが、海軍の視野をのりこえた内政・外交全般を規定する
膨張主義的国家戦略を決定した(政治の統帥への従属化を決定的なものする)。

54・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:03
〔資料;2・26事件「蹶起趣意書」〕
 謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一神たる 天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。
 此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。
 然るに頃来〔注1〕遂に不逞兇悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊〔注2〕絶対の尊厳を藐視し〔注3〕僣上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦に呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は此の国体破壊の元兇なり。
 倫敦海軍条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僣窃を図りたる三月事件或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕せしむは火を賭るより明らかなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の世状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く為すべし。
 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を飜すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神洲赤子の微衷を献ぜんとす。
 皇神皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを!
昭和拾壱年弐月弐拾六日
陸軍歩兵大尉 野中 四郎
外同志一同
 出典:『現代史資料』第4巻〈国家主義運動〔1〕〉(みすず書房、1963年)174-175頁。

55・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:03
 〔注1〕頃来(けいらい);最近、の意。
 〔注2〕至尊;天皇の意。
 〔注3〕藐視し;ないがしろにし、の意。
 〔カマヤン注〕「蹶起趣意書」の内容は具体性に欠き、観念的だ。

56・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:04
〔資料; 国策の基準(1936年8月7日 五相会議決定)〕
一、国家経綸の基本は大義名分に即して内、国礎を鞏固にし外、国運の発展を遂け帝国か名実共に東亜の安定勢力となりて東洋の平和を確保し世界人類の安寧福祉に貢献して茲に肇国の理想を顕現するにあり 帝国内外の情勢に鑑み当に帝国として確立すへき根本国策は外交国防相俟つて東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展するに在りて其の基準大綱は左に拠る
 東亜に於ける列強の覇道政策を排除し真個共存共栄主義により互に慶福を頒たんとするは即ち皇道精神の具現にして我対外発展政策上常に一貫せしむへき指導精神なり 国家の安泰を期し其の発展を擁護し以て名実共に東亜の安定勢力たるへき帝国の地位を確保するに要する国防軍備を充実す
 満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し北方蘇国の脅威を除去すると共に英米に備へ日満支三国の緊密なる提携を具現して我か経済的発展を策するを以て大陸に対する政策の基調とす 而して之か遂行に方りては列国との友好関係に留意す
 南方海洋殊に外南洋方面に対し我民族的経済的発展を策し努めて他国に対する刺戟を避けつつ漸進的和平的手段により我勢力の進出を計り以て満州国の完成と相俟つて国力の充実強化を期す

57・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:04
〔資料; 国策の基準(1936年8月7日 五相会議決定)〕
一、国家経綸の基本は大義名分に即して内、国礎を鞏固にし外、国運の発展を遂け帝国か名実共に東亜の安定勢力となりて東洋の平和を確保し世界人類の安寧福祉に貢献して茲に肇国の理想を顕現するにあり 帝国内外の情勢に鑑み当に帝国として確立すへき根本国策は外交国防相俟つて東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展するに在りて其の基準大綱は左に拠る
 東亜に於ける列強の覇道政策を排除し真個共存共栄主義により互に慶福を頒たんとするは即ち皇道精神の具現にして我対外発展政策上常に一貫せしむへき指導精神なり 国家の安泰を期し其の発展を擁護し以て名実共に東亜の安定勢力たるへき帝国の地位を確保するに要する国防軍備を充実す
 満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し北方蘇国の脅威を除去すると共に英米に備へ日満支三国の緊密なる提携を具現して我か経済的発展を策するを以て大陸に対する政策の基調とす 而して之か遂行に方りては列国との友好関係に留意す
 南方海洋殊に外南洋方面に対し我民族的経済的発展を策し努めて他国に対する刺戟を避けつつ漸進的和平的手段により我勢力の進出を計り以て満州国の完成と相俟つて国力の充実強化を期す

58・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:04
二、右根本国策を枢軸として内外各般の政策を統一調整し現下の情勢に照応する庶政一新を期す要綱左の如し
 国防軍備の整備は
(イ)陸軍軍備は蘇国の極東に使用し得る兵力に対抗するを目途とし特に其在極東兵力に対し 開戦初頭一撃を加へ得る如く在満鮮兵力を充実す
(ロ)海軍軍備は米国海軍に対し西太平洋の制海権を確保するに足る兵力を整備充実す
 我外交方策は一に根本国策の円満なる遂行を本義として之を綜合刷新し軍部は外交 機関の活動を有利且円満に進捗せしむる為内面的援助に勉め表面的工作を避く
三、政治行政機構の刷新改善及財政経済政策の確立其の他各般の施設運営をして右根本国策に適応せしむるか為左記事項に関しては適当の措置を講ず
(イ)国内与論を指導統一し非常時局打開に関する国民の覚悟を鞏固ならしむ
(ロ)国策の遂行上必要なる産業竝に重要なる貿易の振興を期する為行政機構竝に経済組織に 適切なる改善を加ふ
(ハ)国民生活の安定、国民体力の増強、国民思想の健全化に就き適切なる措置を講ず
(ニ)航空竝に海運事業躍進の為適当なる方策を講ず
(ホ)国防及産業に要する重要なる資源竝に原料に対する自給自足方策の確立を促進す
(ヘ)外交機関の刷新と共に情報宣伝組織を充備し外交機能竝に対外文化発揚を活発にす
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)344-345頁。

59・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:04
〔人物紹介〕
 橋本欣五郎 1890-1957
 回漕店主の四男として岡山市に生まれる。陸軍士官学校二十三期卒業。
陸軍大学校三十二期卒業。
 参謀本部ロシア班勤務を経、大正十二年満洲里特務機関長に。大正十四年参謀本部に戻る。
 1927年(昭和二年)トルコ公使館付武官に。ケマル=パシャの改革運動に共鳴し、
日本の改革運動を志す。
 昭和五年帰国し、参謀本部ロシア班長に。同年、中佐以下の有志を募り、国家改造を
目標とする「桜会」を結成。
 昭和六年、宇垣系中堅軍人、大川周明・清水行之助らの右翼、一部の無産党員などと
ともに、宇垣一成を擁してクーデターによる軍事政権樹立を企て未発に終わる。
これを「三月事件」と呼ぶ。
 満州事変では事変遂行を国内で支援、再度クーデター計画を企てるが事前に情報が漏れ
未遂に終わる(十月事件)。左遷される。昭和九年大佐に進級。
 昭和十一年の二・二六事件では上京し天皇大権による維新断行を骨子とする収拾策を
提示したが容れられなかった。同年予備役に。国家社会主義系右翼とともに大日本青年党を
結成、その統領となる(のちに「大日本赤誠会」に改組)。
 支那事変勃発により召集され連隊長として出征。
昭和十二年長江で「英艦レディバード号砲撃事件」を起こした。
 昭和十五年大政翼賛会常任総務となり昭和十七年衆議院議員に当選。
昭和十九年翼賛壮年団本部長に就任。
 終戦後「A級戦犯」として終身禁固判決受けるが、昭和三十年仮出所、三十二年肺癌で死去。
墓所は静岡県清水市村松の鉄舟寺。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)819-820頁から構成。

60・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:05
 大川周明 1886-1957
 大正昭和の日本ファシズム運動指導者の一人。老荘会・猶存社の代表的人物。
 山形県に生まれる。東京帝大で印度哲学を専攻。学生時代から参謀本部からの依頼で
ドイツ語の翻訳をし、軍人の知り合いを得る。大正初め、たまたまコットン『支那』を手にし、
一読、白人による有色人圧迫の暴状を知り翻然、アジア主義に目覚めたという。
印度哲学研究からインドの現状や植民地政策の研究に移った。この研究を満鉄総裁
後藤新平に認められ、1919年(大正八年)満鉄東亜経済調査局調査課長に就任した。
 これより少し前、第一次世界大戦前夜における国際的変動の波を受けて、内外重要諸問題に
つき議論し対策を講じるため、満川亀太郎・佐藤鋼次郎・岡悌治らとともに「老荘会」を
つくった(大正七年)。ついで、実行的国家改造運動に取り組むべく単身上海に飛んで
北一輝を迎え、満川・平賀磯次郎らとともに昭和八年「猶存社」を結成。その綱領に、
「革命日本ノ建設」「民族解放運動」などとあった。『雄叫び』がその機関誌。
 昭和十一年ごろ、北一輝とのあいだに意見不一致をきたし感情的に疎隔した。
昭和十二年猶存社解散。同年、旧本丸内「大学寮」を主宰、青年教育に与った。
これに西田税が来り投じた。陸海軍青年将校(藤井斉・古賀清志・末松太平ら)も出入りした。
 昭和十三年「行地会」を起し、昭和十四年「行地社」を創立。その綱領に、
「国民的理想ノ確立」「有色民族ノ解放」「世界ノ道義的統一」などとあった。
機関誌は『月刊日本』。同人は他に、笠木良明・綾川武治・金内良輔・島野三郎など多数。
行地社は、各大学に基礎をおいて勢力を伸張した。このようにしてほぼ大正末まで、
大川周明は日本ファシズム運動の中心に位置し、その影響下に多数の人材を培養・育成して
いった。しかし大正十五年、行地社は安田生命馘首事件を契機に分裂、主なる幹部が相ついで
脱退した。昭和四年(1929)財団法人東亜経済調査局理事長。
 昭和六年、三月事件十月事件に積極的に参加。昭和七年、満州事変を契機に昂揚した
「愛国熱」を背景に合法的維新を目指す国民運動を目論み「神武会」を作った(石原広一郎・
菊池武夫・河本大作ら)。5.15事件では、古賀清志を通じ資金を給与した。第二次大戦敗戦に
際しては精神病を発して極東国際裁判免除。
 戦後、井上日召・橘孝三郎らとともに「救国総連合」を起した。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)177-178頁から構成。

61・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:05
 北一輝 1883-1937
 新潟県加茂郡湊町に生まれる。眼病にかかり佐渡中学中退。明治三十四年頃から『佐渡新聞』
に寄稿者として登場。日露戦争前夜には、帝国主義を歴史の必然として対露開戦を主張すると
ともに、国家の強化・合理化の方策を模索し、社会主義に関心を寄せ、万世一系の皇統を
国体の精華とみるのは妄想だとする国体論批判の立場を打ち出していた。
 明治三十七年上京。明治三十九年『国体論及び純正社会主義』を自費出版、発売禁止処分に
付される。幸徳秋水ら社会主義者に接触したが、大陸浪人らが結成した革命評論者を経て、
中国革命同盟会・黒竜会などに活動の舞台を見出していく。
 明治四十四年辛亥革命勃発。黒竜会一員として中国に渡り宋教仁を支援。大正二年(1913)
宋は暗殺され、北も上海領事の退去命令により帰国。翌年第一次大戦が起こり、日本も
イギリス側に参戦すると、大正四年から政府要人に対する意見書として『支那革命党及革命
之支那』(のち『支那革命外史』と解題刊行)を執筆・頒布し、イギリス・ロシアとの対決が
中国革命を支援すると同時に日本を発展させる道であると説いた。
 大正五年再び中国に渡ったが中国革命に影響を及ぼし得る手だてはなく、中国における
排日運動の高まり、日本での米騒動の勃発などといった情勢の変化に直面し、日本国内の
改造を先決と考えるようになり、大正八年より『国家改造安原理大綱』(のち『日本改造法案大綱』
と解題刊行)を執筆。猶存社を結成していた大川周明に促され同年末帰国した。北の
「国家改造案」は猶存社同人により謄写印刷され、重要と目される人物に配布されたが、
そこでの、国家改造を対外膨張の必須の前提とする主張や、「天皇を号令者」とする
クーデター論などは、従来の国家主義思想に大きな衝撃を与えた。

62・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:05
 帰国後の活動は、岩田富美夫・辰川竜之助らの暴力的右翼を輩下とし怪文書の作成配布を
軸とするものであり、大正九年から大正十年にかけての宮中某重大事件、大正十二年ヨッフェ来日
反対運動などに関与、大川周明と対立して同年猶存社を解散してからは、政友会の小川平吉、
国本社の平沼騏一郎らに接近して。朴烈怪写真事件・宮内省怪文書事件などをひきおこし、
不戦条約・ロンドン海軍軍縮条約反対運動の一翼をになった。これらの活動は、いずれも
天皇側近や天皇大権をめぐるものであり、北がかつての国体論批判の立場を離れ、
いかなる形であれ、天皇に関する意識をかきたてることを狙うようになったことを示している。
 この間、西田税らの青年将校と接触、大正十五年に西田が退役上京して以後は、彼を通じて
多くの青年将校を影響下におくことに成功。
 満州事変の起こった昭和六年(1931)ごろには、右翼の大物、青年将校運動の黒幕と目され、
情報を得ようとする三井財閥から巨額の生活費を引き出すまでになった。しかし、陸軍中央部が
軍内の統制強化によって軍の政治力を強めようとする統制派の勢力に握られるに至ると、
北・西田に連なる青年将校は皇道派と呼ばれ、その運動は次第に抑圧され、北らも軍部の抗争に
まきこまれていった。
 昭和十一年の2.26事件が失敗すると、事件の黒幕として逮捕され、クーデターの具体的
計画・実行に何ら関与していなかったにも関わらず、昭和十二年八月十四日、軍法会議で死刑の
判決を受け、同十九日に銃殺された。五十五歳。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)338頁。

63・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:06
 橘孝三郎 1893-1974
 昭和期の農本ファシズムの指導者。水戸市に生まれる。一高入学。一高生の功利主義・
立身出世主義に反発、自分の住むべきは自覚した百姓生活にありと中退。
 水戸市で農場経営を開始。兄弟農場の称を得る。昭和二年から講演活動に乗り出し、
昭和四年、大地主義・兄弟主義・勤労主義を三大原則とする愛郷会を創立。
 昭和六年、右翼革命運動への参与を決意、自営的勤労学校愛郷塾を開く。
井上日召と同志となり、海軍青年将校と交流。
 農村連盟の結成を企て、昭和七年『農本連盟』を創刊、第1回全国協議会を開くも三派に分裂。
最過激派に属した橘は三月以降海軍青年将校とクーデタ計画を練り、五月十二日満州に渡り、
十五日奉天に着く。この日決行された未遂のクーデタが5.15事件だが、愛郷塾生らによる
農民決死隊七名は東京府下の六変電所を襲撃。指名手配された橘は七月にハルピン憲兵隊に
自首、殺人・同未遂などの罪で起訴され、九年二月無期懲役の判決を受け、下獄。十五年
減刑により出獄、愛郷会の再興をはかる。第二次大戦敗戦後二十九年四月に大川周明らと
救国国民総連合を結成するが、内部分裂に嫌気して離れ、著述に専念。八十一歳で没。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)629-630頁から構成。

64・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:06
 井上日召 1886-1967
 群馬県に生まれる。早稲田大学文科、東京協会専門学校ともに中退。
明治四十三年満州に渡る。満鉄社員、陸軍参謀本部の嘱託となり、諜報活動に従事した。
この時期に本間憲一郎・前田虎雄・木島完之を識った。大正五年(1916)帰国、
同年中国に第三革命が起るや山東省に赴き居正の顧問となる。大正十一年春帰国し、
大正十三年九月まで郷里の三徳庵という破れ堂で断食して日蓮宗の修行をした。
このとき日召と改名。大正十五年建国会の創立に参加。
 右翼運動の第一線には出ず、宇宙・国家・人生の問題解決のため身延山、静岡県三島
(このときの師が山本玄峰)で修行。昭和三年(1928)茨城県岩船山に籠り、昭和四年
茨城県大洗の東光台立正護国堂に入る。昭和五年十月までの護国堂時代にのちに血盟団
事件を起す農村の青年を門下とした。同じに海軍の藤井斉大尉以下の5.15事件を起す
将校と相識り修行。同年十月以後東京に出て七生社の東大学生を門下とした。
 西田税にも接近し十月事件に参加。
 昭和七年二月九日、三月五日に、門下の小沼正・菱沼五郎が井上準之助・団琢磨を暗殺。
いわゆる血盟団事件である。井上日召が指導したこの事件は、暗殺の対象人物、組織なき組織に
よる単独犯の結び合わせる事件として当時の社会状況と相まって空前の衝動を世に与えた。
井上日召はこの事件で無期懲役に処せられ、昭和十五年仮出所。一時近衛文麿の相談役をした。
昭和四十二年三月没。八十歳。
 井上の右翼運動における立場及び右翼の人間としてはすこぶる独自のものがあり、農民・
労働者による大衆運動の限界を悟って、一転して「一殺多生」「革命の慈悲」「捨石主義」
による国家改造運動を決行したことは今日でも、右翼運動の核心を知る上に多くの問題を
残している。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)106頁から構成。

65・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:06
 団琢磨 1858-1932 
 明治〜昭和初期の実業家、工学博士。作曲家団伊玖磨の祖父。福岡藩の神屋宅之丞の4男として
生まれ、同藩士の団尚静(なおきよ)の養子となる。1871年(明治4)岩倉使節団とともに渡米し、
マサチューセッツ工科大学で鉱山学をまなんで帰国。大阪専門学校、東大助教授をへて、
84年工部省に入省、三池鉱山局に勤務した。
 三池炭鉱が三井家にはらいさげられると、三池炭鉱社事務長をへて、1894年三井鉱山合名
会社専務理事に就任し、三池炭鉱の近代化に尽力。のち筑豊炭田にも進出、北海道炭砿汽船を
系列化した。
 1909年、三井合名会社が設立されると参事となり、14年(大正3)益田孝にかわって同社
理事長に就任し、三井財閥の事業多角化に貢献した。また、日本工業倶楽部初代理事長、
日本経済連盟会会長など、経済団体のリーダーとして活躍し、労働組合法の制定に反対の
立場をとった。
 1928年(昭和3)男爵となったが、金解禁、昭和恐慌などで日本経済が大不況におちいると、
財閥糾弾の矢面にたたされ、32年3月5日、三井本館正面玄関前で菱沼五郎に暗殺された。
"団琢磨" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

66・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:06
 永田鉄山 1884-1935
 長野県上諏訪村に生まれる。陸軍士官学校を十六期卒業、陸軍大学校を二十三期卒業。
大正前期、ドイツ・デンマーク・スウェーデンに駐在。大正十年(1921)スイス公使館付武官
となり、駐在中ドイツのバーデンバーデンで岡村寧次・小畑敏四郎と陸軍革新を誓う。
大正十二年に帰国し中佐に進級。陸大教官などを勤め長州閥偏重人事への批判を強めた。
昭和二年(1927)の二葉会、昭和四年の一夕会の結成に重要な役割を演じ、陸軍革新運動の
中心人物の一人として活動した(昭和二年に大佐進級)。
 昭和五年には宇垣一成陸相の下で軍事課長を勤め総動員体制の整備にあたったが、六年には
三月事件に関与した。
 荒木貞夫の陸相就任後、皇道派の形成が進む中、昭和七年少将に昇進して参謀本部第二部長に
就任、国内整備優先の立場から対ソ強硬派の小畑としばしば対立した。
 永田は当初、皇道派のメンバーだったが、荒木・真崎甚三郎の郷党偏重人事や革新政策の
挫折に失望し林銑十郎に接近、昭和九年の林の陸相就任、永田の軍務局長就任を機に永田を核に
統制派の形成が顕現した。その後、林・永田らは宇垣系とも連携しつつ皇道派を要職から追い、
昭和十年七月には真崎教育総監の罷免を実現したが、これに怒った相沢三郎中佐に十年八月十二日、
永田は刺殺された。五十二歳。
 永田は合理主義的、漸進的な軍政家で、元老、政官界・財界とも連絡があり、昭和初期の
陸軍の自己革新と政治進出に大きな役割を果たし、統制派の基礎を築いた。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)749頁から構成。

67・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:07
 真崎甚三郎 1876-1956
 佐賀県に生まれる。陸軍士官学校を九期卒業、日露戦争に出征、陸軍大学校を十九期卒業。
昭和二年(1927)中将に昇進、弘前の第八師団長に転ずる。このころから長州閥専横への
反感と中堅・青年将校への好意を示す。昭和四年東京の第一師団長に移る。陸大卒将校を
中心に一夕会が結成され、荒木貞夫・真崎・林銑十郎の三将軍を推戴し陸軍を建て直すことが
申し合わされたのはこの直前のことだった。昭和七年盟友荒木陸相の推輓で参謀次長に就任、
参謀総長閑院宮親王に代わって参謀本部を主宰した。この時期、荒木・真崎・林の下には一夕会
系陸大卒将校や北九州・土佐出身軍人が結集し、皇道派が形成され、宇垣系を駆逐して陸軍の
支配的勢力に成長した。昭和八年大将昇進に伴ない参謀次長を退任、軍事参議官となる。
 昭和九年、病気を理由に辞任した荒木陸相の公認に擬せられたが閑院宮の反対に遭って果たせず、
教育総監兼軍事参議官となった。
 この頃から荒木・真崎の郷党人事を批判する永田鉄山らは林の庇護のもと、統制派を形成し、
皇道派の分裂が始まった。
 真崎は荒木陸相辞任後の皇道派の最高首脳として林の離反防止に努めるとともに宇垣系、
統制派と対峙したが、昭和十年七月教育総監を罷免され軍事参議官専任となった。
 昭和十一年、2.26事件後の粛軍で予備役に入る。同年七月反乱幇助容疑で拘禁されたが、
十二年無罪判決を得て出獄した。
 皇道派は一連の人事抗争、2.26事件後の粛軍で潰滅的打撃を蒙っていたが、出獄後の
真崎は政治活動を再開し、戦争中には近衛文麿・吉田茂らと結んで反東条運動、小林躋造内閣
擁立運動などを行っている。昭和二十年「A級戦犯」容疑者として収監されたが、二十二年
釈放された。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)963頁から構成。

68・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:07
 小磯国昭 1880-1950 
 大正〜昭和期の陸軍軍人・政治家。栃木県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業した
あと、関東都督府参謀、陸軍省整備局長などをへて1930年(昭和5)軍務局長となる。翌年、
陸軍中堅将校らによるクーデタ未遂事件の三月事件にかかわった。その後、陸軍次官や
関東軍参謀長などを歴任し、37年に陸軍大将に昇進。39年の平沼騏一郎内閣と40年の米内光政内閣で
拓相になり、42年朝鮮総督就任。44年、東条英機内閣の退陣で米内と協力内閣を組閣して
首相となった。
 悪化した戦局をたてなおして事態を有利にしたうえで次期内閣での和平工作を企図したが、
有効な政策をとれずに敗色が濃厚になる中で戦争継続のため徴兵年齢を17歳にひきさげたり、
学徒勤労令を公布するなどした。1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸するにおよんで総辞職した。
戦後、東京裁判でA級戦犯として終身禁固刑の判決をうけ、服役中に病死した。
"小磯国昭" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

69・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:19
第2講 昭和初期の〈大日本帝国〉>>2-16
     講義ノート>>2-13
     資料と補足>>14-16
      前史(明治維新〜昭和初頭)>>2-6
      1930年代初頭での日本 >>7-10
      世界大恐慌と昭和恐慌 >>11-13 
第3講 満州事変と「満州国」>>18-36
     講義ノート>>18-29
     資料と補足>>30-36
      満州事変の勃発と関東軍による満州占領 >>18-22
      石原莞爾の戦争構想 >>23-26
      満州事変と国内政治 >>27-28
      「満州国」の実態 >>29
第4講 2・26事件と「国策の基準」 >>37-68
     講義ノート>>37-53
     資料と補足>>54-68 人物紹介 >>59-68
      「国家改造」グループの形成 >>37-45
      2.26事件とその歴史的意味 >>46-50
      広田弘毅内閣による「国策の基準」の策定 >>51-53

70第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件:2003/06/01(日) 22:56
第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件
     1937-1938

Ⅰ;「盧溝橋事件」の発生

 盧溝橋は、「マルコ・ポーロ橋」とも呼ばれる。
 「盧溝橋事件」は、ごくごく小さな事件だった。現地ではいったん事件は解決した。
それを、政府が拡大した。

1 事件の概要
1-1;「盧溝橋事件」の発端
 起きた時は、1937年7月7日 午後10時40分頃だ。
 起きた場所は、北平〔ペイピン。現在の北京〕西南郊外、「盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)北側の
永定河〔えんていが・川の名前〕左岸。〔川の右左は、「上流から見て」右か左か決まる。〕
ここに、日本軍演習地があった。
 「盧溝橋事件」の発端は、日本兵1名の行方不明事件だった。

 日本軍が北京に駐兵していたのは、以下の理由による。1900年に「義和団事件」があり、
1901年に「北京議定書」(列強に清朝が詫びをいれた文書)が成立した。
「北京議定書」により、列強は清朝に駐兵権を得、日本も清朝に駐兵していた。

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1-2;現地軍の対処
 大隊長(一木清直少佐)は、連隊長に一応、攻撃していいかどうかを上申した。
 連隊長(牟田口廉也大佐)は、「中国軍に侮られてはいけない」という判断から、攻撃を許可した。

1-3;現地停戦協定の成立
 「支那駐屯軍」の措置
 駐屯軍参謀長橋本群少将、北平特務機関長松井太久郎大佐らは、「事件」収拾に動いた。
 松井と中国軍第38師長・天津市長張自忠との間で、7月11日午後8時に、停戦協定が成立した。

ここで一旦「事件」は終結したはずだったが…

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2;「盧溝橋事件(1937年 7月)」の経過を、もう少し詳しく見る。

 日本軍は当時、夜襲の訓練をよくしていた。ソ連より火力が弱いから、夜襲を重視していた。
「盧溝橋事件」は、夜襲訓練で起きた。

■7月 7日 午後10時40分頃
 北平(北京)西南郊外、盧溝橋北側の永定河左岸(日本軍演習地)において、
「支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊第8中隊」(中隊長・清水節郎大尉以下135名)が夜間演習中、
数発の実弾射撃を受けた。

 演習は、空砲を使う。
 実弾は、空気を裂くので、音で判る。
 この実弾を撃ったのは誰なのかは、いまだに判らない。
 中隊長は演習をやめ、集合した。
 2等兵1名が行方不明だった。
 これが問題となった。

 清水中隊長は、豊台の大隊長一木清直少佐に連絡した。
 大隊長一木清直少佐は、連隊長牟田口廉也大佐〔後にインパール作戦を指揮〕に連絡した。
 兵が行方不明になったことを重大視して、大隊を出動させた。

■同日 午後11時頃
 「行方不明」の志村菊次郎 2等兵は、午後11時頃、無事に中隊へ帰隊した。
 「行方不明」の志村2等兵は迷子になって集合に20分ほど遅れただけだった。
 つまり「行方不明事件」は起きていなかった。
 志村2等兵は、インパール作戦で戦死したので、戦後彼から証言を得ることができず、真相は判らない。

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■7月 8日 午前 2時過ぎ
 清水中隊長から連絡を受けた一木大隊が、午前2時過ぎに盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)に到着した。
 だがもう「行方不明事件」は終わっていた。

■同日 午前 3時25分頃 
 再度の銃声が、午前3時25分頃、大隊の周辺から聞こえた。
 一木大隊を取り囲むように中国軍がいた。
 「どうやら、周りの中国軍にからかわれているらしい」と、大隊長一木少佐は考えた。
 大隊長一木少佐は、「要するに日本軍の面目さへ立てばよいので…断然攻撃をしたい」と、
連隊長牟田口廉也大佐に電話で要請した。
 「バカを言うな」と、一木少佐は止めてもらうつもりだったようだ。

 連隊長牟田口廉也大佐は、「重大な挑戦である」「やって宜しい」と、攻撃を許可した。
 まさか許可が下りてしまうとは思っていなかった一木少佐は、牟田口廉也大佐の気が変わるかも
しれない、と、慎重に、朝まで実行を待った。が、中止の命令はこなかった。

 夜明けになって、一木大隊は、攻撃を開始した。

74・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:57
■7月10日 
 「蒋介石軍が北上」の情報が走った。これにより、日本軍部内の「拡大論」が「不拡大論」を圧倒した。
 陸軍中央〔参謀本部〕が、「関東軍2個旅団・朝鮮軍1個師団・内地3個師団」の華北派遣(兵力約10万人)を
決定した。
 元々、華北に駐兵していた日本軍は5000人程度だった。これを20倍に増強する命令だった。

■7月11日 
 近衛文麿内閣が、華北への派兵を承認した。各界に「挙国一致」を要請した。
 日本政府は「重大決意」声明 を出した。これで話がややこしくなった。【資料5-1】

■同日 午後 8時  
 マルコ・ポーロ橋現地では、日本軍と蒋介石軍の停戦協定が成立していた。
 現地では事態は収束した。
 「停戦協定」の内容は、下記の通り。

 中国第29軍代表が遺憾の意を表明する。中国軍は責任者を処分する。
盧溝橋城(宛平県城)・竜王廟から、中国軍が撤退する。抗日各種団体を取り締まる。

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■7月17日 
 日本政府は〔図に乗って〕、「停戦協定」に対し、中国軍幹部の陳謝と更迭を、追加要求した。
 蒋介石は「最後の関頭」声明(廬山談話)を出した。

 日本政府は「上げた拳の下ろし先」を探していた。
 日本政府と蒋介石との間で、「強気」の応酬がされ、感情的にエスカレートした。

■7月19日  中国政府は、日中両軍の同時撤退などを提起した。
■7月25日  日中両軍が衝突(郎坊事件)
■7月26日  日中両軍が、再び衝突(広安門事件)
■7月27日  日本政府は、内地3個師団の派遣を最終的に承認する。
■7月28日  午前 8時
 日本軍は、蒋介石軍に対し、総攻撃に出る。

76・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:58
【資料5-1】政府「重大決意」声明(1937年7月11日)
 今次事変は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし。思ふに、北支治安の維持が帝国及満州国にとり緊急の事たるは茲に贅言を要せざる処にして、支那側が不法行為は勿論排日侮日行為に対する謝罪を為し及今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障等をなすことは東亜の平和維持上極めて緊急なり、仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し、北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり。然れども……政府は今後共局面不拡大の為平和折衝の望を捨てず、支那側の速かなる反省によりて事態の円満なる解決を希望す
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)365-366頁。

〔解説〕 
 「仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し」という言葉が問題となり、話をややこしくした。
 「重大決意」とは何を意味するのか? 
 日本政府は「派兵する」という意味として書いたようだ。
 中国政府は「宣戦布告」だと解釈した。
 日本・中国両国間で感情のエスカレートが、これによって起きた。

77・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:58
Ⅱ;「盧溝橋事件」の、「拡大論」と「不拡大論」
1 事件第一報と陸軍内の反応
1-1「拡大派」
 陸軍省では、軍事課(編成・動員担当、課長・田中新一大佐)。
 参謀本部では、第一部作戦課と、第二部(情報部)とりわけ支那課。
 「このさい、これ(盧溝橋事件)を利用して、〈華北(北京周辺)〉を蒋介石から切り取ろう」、
という論を張った。「華北分離論」。
 「支那課」は、1937年7月10日に「蒋介石北上」の情報を流した。何に基いた情報だったのかは判らない。

1-2「不拡大派」
 陸軍省では、軍務課(軍事政策担当)。
 参謀本部では、第一部長石原莞爾少将と、戦争指導課(課長・河辺虎四郎大佐)。
 石原莞爾は「満州事変」で出世していた。

78・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:58
【参考図5-1】盧溝橋事件当時の陸軍中央首脳

陸軍大臣  ─── 陸軍次官 ──┬─ 軍務局長 ┬ 軍事課長 田中新一大佐
杉山元大将    梅津美治郎中将  │ 後宮淳少将 └ 軍務課長 柴山兼四郎大佐
                        │
                        └─ 兵務局長 飯田祥二郎少将

参謀総長 ─── 参謀次長 ──┬─ 総務部長 中島鉄蔵少将
閑院宮戴仁元帥   今井清中将 [1] │
            多田駿中将[2] ├─ 第1(作戦)部長 ─┬ 作戦指導課 河辺虎四郎大佐[4]
                       │  石原莞爾少将〔3〕  .└ 作戦課 武藤章大佐[5]
                       │
                       ├─ 第2(情報)部長 ─┬ ロシア課 笠原幸雄大佐
                       │   渡久雄少将      ├ 欧米課 丸山政男大佐
                       │                   └ 支那課 永津佐比重大佐
                       ├─ 第3(運輸・通信)部長
                       │  塚田攻少将
                       │                     
                       └─ 第4(戦史)部長 下村定少将
教育総監 ──── 本部長
寺内寿一大将    香月清司中将

出典:秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、1991年)より作成。

79・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:58
〔解説〕
 〔1〕参謀次長今井清中将は、当時重病だった。
 〔2〕参謀次長多田駿中将は、石原莞爾を支持していた。
 〔3〕作戦部長石原莞爾少将は、参謀本部の事実上のリーダーだった。
 〔4〕河辺虎四郎大佐は、不拡大論者だった。
 〔5〕武藤章大佐は、拡大論者だった。

80・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:59
2 「拡大派」の論理
2−1
 中国の抗日意識や中国軍の抗戦力を軽視した、楽観論を「拡大派」は展開した。「一撃論」。
 ガツンと一撃ショックを中国に与えれば、中国はすぐに折れる、という意見だ。
2−2
 華北を「第二の満州国」にし、あわよくば蒋介石政権を倒す、という「華北分離論」を展開した。

81・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:59
3 「拡大派」と「不拡大派」の対立
3−1
 「不拡大派」の論理
 対ソ戦準備と「国防国家」建設こそが軍部の最優先課題であ、り中国との戦争に、戦力・国力を
消耗すべきでない、と、「不拡大派」は考えた。
3−2
 議論は、「拡大論」が押し切った。
 「蒋介石軍が北上」の情報に、「拡大論(一撃論)」が「不拡大論(慎重論)」を圧倒した。
 7月10日に、陸軍中央は、内地3個師団等の華北派遣を決定した。11日に、閣議承認した。
 8月13日には、戦火は上海に飛び火した。15日からは海軍も加わり、「海軍航空隊」が、南京を
九州から渡洋し、爆撃する。
3−3
 「拡大派」は、「不拡大派」を排除した。
 石原莞爾部長を9月28日転出させた。
 石原莞爾は「関東軍参謀副長」に左遷された。関東軍参謀長は東条英機だった。
東条と石原莞爾は犬猿の仲だった。石原莞爾は東条の下にはいられず、帰国した。
これは命令違反であり、石原莞爾はそれにより失脚した。
 〔ここで失脚したために、戦後、東京裁判では石原莞爾は戦犯にならず、破格の待遇を得た〕

 「不拡大」を執拗にとなえる「戦争指導課」は、「作戦課戦争指導班」に格下げされた。(10月26日)
 〔「作戦指導課」は石原イズムに染まっていた。〕

82・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:59
Ⅲ 戦線の拡大と初期講和工作

1 宣戦布告問題と、「大本営」の設置
1−1
 「北支事変」(7月11日)から「支那事変」(9月2日)へ、呼称が変更になる。
1−2
 「宣戦布告」なき戦争
 陸海軍省はそろって、アメリカが「中立法」を適用するのを恐れ、中国への「宣戦布告」に反対した。
 「中立法」とは、戦争している当事国にもの(武器や弾薬)を売らない、というアメリカの国内法だ。
1−3
 「大本営」の設置(11月20日)
 日露戦争以来32年ぶりに、陸海軍の最高統帥機関=「大本営」を、皇居内に設置した。
 陸海軍の強い要求で、「大本営」構成員から、首相・外相らの文官は、すべて排除した。

 「大本営」は、臨時統括司令部だ。
陸軍と海軍は完全に分かれ、陸軍参謀本部には、小船一隻動かす権限がない。
それを統括するのが「大本営」だ。
 「大本営」は、明治時代には、条文上は軍人のみで構成されていたが、元老文官が参加していた。

83・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:00
2 トラウトマン工作(和平工作)
2−1
 石原莞爾作戦部長は、転出直前に、ドイツ駐華大使トラウトマンを介して、国民政府と和平交渉を
はかろうとした。これが「トラウトマン工作」の発端だ。9月に、接触に成功した。

 1936年日独防共協定で、日本とドイツは提携関係にあった。
 ドイツは蒋介石軍に武器を売っていた。ドイツは蒋介石軍の軍事顧問もしていた。
 ドイツは日本と蒋介石軍の仲介役に適任だった。

84・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:00
2−2
 「不拡大派」の巻き返し
 「トラウトマン工作」を成功させ、御前会議で「不拡大」を天皇に言わせる戦略を、石原莞爾は練った。
2−3
 昭和天皇にとって初めての「御前会議」が、1938年1月11日に行われた。
 「御前会議」の開催は、これまでの慣例を破るものだった。
 発言すべきか否か、昭和天皇は迷った。結局、昭和天皇は発言しなかった。
 元老西園寺公望が、「君権に瑕〔キズ〕」がつくのを畏れ、昭和天皇に、御前会議で喋るなと、
強く要求していたためだ。
 元老西園寺公望は「御前会議」自体に強く反対していた。昭和天皇は御前会議を開きたがったが、
西園寺公望がそれをずっと止めていた。
2−4
 1937年12月13日に、南京陥落。日本国内では「強硬論」が強まった。日本政府は、講和条件を
賠償を含む厳しいものにかえた。
 近衛首相・杉山陸相・広田外相・木戸文相は、工作打ち切り論を述べた。
 日本政府は、「トラウトマン工作」を打ち切った。

 南京陥落前に、「トラウトマン工作」は、かなり進んでいた。
首都が陥落したら勝ちだ、と、日本は考えた。
このとき戦争を終わらせる手続きをしっかりとしておかなかったのが、後々尾を引いた。

85・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:00
Ⅳ 近衛声明と戦争の泥沼化
1 南京大虐殺(1937年12月〜38年2月):20万人前後の戦闘員・捕虜・一般市民を殺害 【補足資料5-3】
1−1
 日本軍は上陸作戦以来、中国各地で、虐殺・略奪・放火・強姦を繰り返した。
1−2
 日本軍は投降中国兵を「捕虜」とみなさなかった。激戦による報復意識があった。
1−3
 「現地調達」という考え方が、略奪を許すこととなった。
1−4
 日本軍による虐殺と略奪は、中国人の抗日意識の高揚と日本軍への非協力を招いた。
その結果また日本軍が虐殺と略奪を行なう、という悪循環が起きた。虐殺と略奪には性暴力も必ず伴なう。
 南京攻略以降、「慰安所」(従軍慰安婦)が、激増する強姦対策として設置された。

86・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:01
2 「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年 1月16日) 【資料5-2】
2−1
 近衛文麿は自ら外交交渉の相手を否定しまい、戦争終結の手段を失った。
 日中戦争は泥沼化した。
2−2
 「トラウトマン工作」打ち切りと、「対手とせず」声明で、中国国内は、抗日の一点で強固に結束した。
 国共内戦から国共合作へ。
2−3
 現地軍はさらに大作戦を続行した。1938年4〜6月には徐州作戦、 6〜11月には武漢作戦。
 その後も続々と大兵力を投入した。

87・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:01
【資料5-2】「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年1月16日)
 帝国政府は南京攻略後尚ほ支那国民政府の反省に最後の機会を与ふる為め今日に及べり、然るに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し内民人塗炭の苦しみを察せず外東亜全局の和平を顧みる所なし、仍つて帝国政府は爾後国民政府を対手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝国が支那の領土及主権並に在支列国の権益を尊重するの方針には毫も変る所なし、今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し、政府は国民が此の重大なる任務遂行の為め一層の発奮を冀望して止まず
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)386頁。

 以下カマヤンによる余談だけど、近衛文麿の声は子供のように甲高い。
近衛文麿のルックスは裕仁に似て、裕仁を端正にしたような感じだ。
近衛文麿の声は裕仁がつっかえずに喋っているような声質だ。

88・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:01
4 日中戦争拡大の要因
4−1
 「一撃論」の失敗。軍事力への過信と、中国への過小評価、中国への蔑視。
4−2
 中国侵略(華北分離)を狙う勢力(軍部)の国内政治における発言力が強大化した。
 満洲事変から連続する華北分離工作。【補足資料5-4】
4−3
 中国の抗戦意識の高揚(中国軍の積極的作戦、民衆の抗日意識)
4−4
 日本外交の拙劣(あいまいな戦争目的、戦勝に幻惑された強気の交渉)

89・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:01
【補足資料5-3-1】南京攻略戦を指揮した第16師団長・中島今朝吾中将の日記
(1937年12月13日)
一、本日正午高山剣士来着す。時恰も捕虜七名あり。直に試斬を為さしむ。
一、……到る処に捕虜を見、到底其始末に堪えざる程なり。
一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端より之を片付くることとなしたる〔れ〕共……中々実行は敏速には出来ず。……
一、……佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大〔太〕平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、其仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり。尚続々投降し来る。
一、此七、八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず。一案としては百、二百に分割したる後、適当のケ処に誘て処理する予定なり。
出典:「南京攻略戦『中島師団長日記』」『歴史と人物 増刊 秘史・太平洋戦争』(1984年)261頁。

90・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:02
【補足資料5-3-2】第13師団歩兵第65聯隊・第4中隊・少尉『宮本省吾陣中日記』
〔1937年12月16日〕
 警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎〔束〕の間で午食事中に俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮〔虜〕約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。
〔1937年12月17日〕
 本日は一部は南京入場式に参加、大部は、捕慮〔虜〕兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、壮〔荘〕厳なる史的光景を見〔目〕のあたり見る事が出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。
 中隊死者一傷者二に達す。
〔1937年12月18日〕
 昨日来の出来事にて暁方漸く寝に付〔就〕く、起床する間もなく昼食をとる様である。
 午后敵死体の方〔片〕付をなす、暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。
〔1937年12月19日〕
 昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かゝる。
 夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かゝる、牛肉の油上〔揚〕迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)134頁所収。

91・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:02
【補足資料5-3-3】第13師団歩兵第65聯隊・第8中隊・少尉『遠藤高明陣中日記』(原文はカタカナ)〔1937年12月16日〕
 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し・〔第一大隊〕に於て射殺す。
 一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたりものゝ如し。
〔1937年12月17日〕
 幕府山頂警備の為午前七時兵九名を差出す、南京入城式参加の為十三D〔第13師団〕を代表してR〔聯隊=第65聯隊〕より兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城、中央軍官//学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見、端書にて×子、関に便りを送る、帰舎午後五時三十分、宿舎より式場間で三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支より在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)219〜220頁所収。

92・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:02
【補足資料5-3-3】第13師団山砲兵第19聯隊・第8中隊・伍長『近藤栄四郎出征日記』
〔1937年12月16日〕
 午前中給需伝票等を整理する、一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。//
 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お陰で随分酩酊した。
 夕方二万の捕慮〔虜〕が火災を警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
 月は十四日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨〔いたま〕しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るゝ事の出来ざる光影〔景〕であつた。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)325〜326頁所収。//は改ページ個所。

93・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:03
【補足資料5-3-4】第13師団山砲兵第19聯隊・第・大隊大隊段列・上等兵『黒須忠信陣中日記』(原文はカタカナ)
〔1937年12月16日〕晴
 午后一時我が段列より二十名は残兵掃〔湯〕蕩の目的にて馬風〔幕府〕山方面に向ふ、二三日前捕慮〔虜〕せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思ふ存分に突刺す、自分も此の時ばが〔か〕りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
 山となつて居る死人の上をあがつて突刺す気持は鬼をも//ひゝ〔し〕がん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供を居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切つて見た、こんな事は今まで中にない珍らしい出来事であつた、××少尉殿並に×××××氏、×××××氏等に面会する事が出来た、皆無事元気であつた、帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)350〜351頁所収。//は改ページ個所。

94・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:03
【補足資料5-3-5】第16師団輜重兵第16聯隊・輜重兵特務兵『小原孝太郎日記』
〔1937年12月24日〕南京・下関
 扨〔さて〕、岸壁の下をのぞいたら、そこの波打際の浅瀬に、それこそえらい物凄い光景をみた。何んと砂〔浜〕の真砂でないかとまがふ程の人間が、無数に横〔往〕生してゐるのだ。それこそ何百、何千だろう。南京の激戦はこヽで最後の幕をとぢたに違ひない。決定的のシーンだ。数へ切れない屍体が横〔往〕生してゐる。敵はこヽまで来て、水と陸よりはさみ打ちに逢って致命的な打ゲキをうけたわけなのだ。わが南京陥落はかくてなったわけわけママである。
出典:江口圭一・芝原拓自編『日中戦争従軍日記─輜重兵の戦場体験─』(法律文化社、1989年)143頁。

95・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:03
【補足資料5-4】北支処理要綱(1936年1月13日 閣議決定)
北支処理ノ主眼ハ北支民衆ヲ中心トスル自治ノ完成ヲ援助シ以テ其ノ安居楽業ヲ得セシメ且日満両国トノ関係ヲ調整シ相互ノ福祉ヲ増進セシムルニアリ之カ爲新政治機構ヲ支持シ之ヲ指導誘掖シテ其機能ノ強化拡充ヲ期ス
要綱
(一)自治ノ区域ハ北支五省〔河北・山西・山東・綏遠・チャハル〕ヲ目途トスルモ徒ニ地域ノ拡大ニ焦慮スルコトナク第二項以下ノ要領ニ則リ徐ニ先ツ冀察二省及平津二市ノ自治ノ完成ヲ期シ爾他三省ヲシテ自ラ進ンテ之ニ合流セシムル如クスルモノトス冀察政務委員会ニ対スル指導ハ当分宋哲元氏ヲ通シテ之ヲ行ヒ民衆ノ自治運動ニシテ公正妥当ナルモノハ之ヲ抱容セシメツツ逐次其ノ実質的自治ヲ具現セシメ北支五省ノ自治ノ基礎ヲ確立ス
冀東自治政府ニ対シテハ冀察政務委員会ノ自治機能未タ充分ナラサル間其ノ独立性ヲ支持シ翼察ノ自治概ネ信頼スルニ至ラバ成ルヘク速ニ之ニ合流セシメルモノトス〔中略〕
(五)北支処理ハ支那駐屯軍司令官ノ任スル所ニシテ直接冀察翼東両当局ヲ対象トシテ実施スルヲ本則トシ且飽ク迄内面的指導ヲ主旨トス又経済進出ニ対シテハ軍ハ主動ノ地位ニ立ツコトナク側面的ニ之ヲ指導スルモノトス但当分ノ間冀察政務委員会指導
ノ爲一機關ヲ北平ニ置キ支那駐屯軍司令官ノ区処(自治機構ノ指導竝ニ顧問ノ統制等)ヲ受ケシム関東軍及北支各機開ハ右工作ニ協力スルモノトス、其ノ他在支各武官ハ右工作ニ策応シ特ニ大使館附武官及南京駐在武官ハ適時南京政権ニ対シ北支自治ノ必要性ヲ理解セシムルト共ニ自治権限六項目ノ承認ヲ強要シ、少クモ自治ヲ妨害スルカ如キ策動ヲ禁遏セシムルモノトストス
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)322〜323頁。

96・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:05
東京裁判では南京虐殺は30万人だと言われた。
埋葬記録から追跡できるのは、10数万だ。

97・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:15
第2講 昭和初期の〈大日本帝国〉>>2-16
     講義ノート>>2-13
     資料と補足>>14-16
      前史(明治維新〜昭和初頭)>>2-6
      1930年代初頭での日本 >>7-10
      世界大恐慌と昭和恐慌 >>11-13 
第3講 満州事変と「満州国」>>18-36
     講義ノート>>18-29
     資料と補足>>30-36
      満州事変の勃発と関東軍による満州占領 >>18-22
      石原莞爾の戦争構想 >>23-26
      満州事変と国内政治 >>27-28
      「満州国」の実態 >>29
第4講 2・26事件と「国策の基準」 >>37-68
     講義ノート>>37-53
     資料と補足>>54-68 人物紹介 >>59-68
      「国家改造」グループの形成 >>37-45
      2.26事件とその歴史的意味 >>46-50
      広田弘毅内閣による「国策の基準」の策定 >>51-53
第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件>>70-96
     講義ノート>>70-88 >>96
     Ⅰ 盧溝橋事件>>70-75
      〔資料〕政府「重大決意」声明(1937年7月11日)>>76
     Ⅱ 「盧溝橋事件」の、「拡大論」と「不拡大論」>>77-81
      〔資料〕盧溝橋事件当時の陸軍中央首脳>>78-79
     Ⅲ 戦線の拡大と初期講和工作>>82-84
     Ⅳ 近衛声明と戦争の泥沼化>>85-88
      〔資料〕「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年1月16日)>>87
      〔資料〕南京事件>>89-95

98・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:41
 第2講>>2-16をより調べるには
大江志乃夫『昭和の歴史3 天皇の軍隊』(小学館)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094610235/qid=1054477241/sr=1-16/ref=sr_1_0_16/249-5557652-3102733
家永三郎『戦争責任』(岩波書店)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006030509/qid=1054477314/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/249-5557652-3102733
江口圭一『新版・十五年戦争小史』(青木書店)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4250910091/qid=1054477355/sr=1-8/ref=sr_1_0_8/249-5557652-3102733
中村隆英『昭和史 ・ 1926-45』(東洋経済新報社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4492060588/qid=1054477404/sr=1-3/ref=sr_1_0_3/249-5557652-3102733

 第3講>>18-36をより調べるには
岡部牧夫『満州国』(三省堂)
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=00535753
江口圭一『昭和の歴史4 十五年戦争の開幕』(小学館)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094610243/qid=1054477651/sr=1-2/ref=sr_1_0_2/249-5557652-3102733
浅田喬二・小林英夫編『日本帝国主義の満州支配』(時潮社)

99・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:41
 第4講 >>37-68をより調べるには
秦郁彦『軍ファシズム運動史』(河出書房新社)
高橋正衛『二・二六事件』(中公新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121900766/qid=1054478055/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-5557652-3102733
三宅正樹ほか編『昭和史の軍部と政治(2)』(第一法規出版、1983年)
藤原彰・今井清一編『十五年戦争史(2)』(青木書店)

 第5講>>70-96をより調べるには
藤原 彰『昭和の歴史 5 日中全面戦争』(小学館)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094610251/qid=1054478268/sr=1-5/ref=sr_1_2_5/249-5557652-3102733
古屋哲夫『日中戦争』(岩波新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004203023/qid=1054478307/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-5557652-3102733
吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4250980197/qid=1054478346/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-5557652-3102733

100カマヤン:2003/06/02(月) 00:07
>>88 >>95【補足資料5-4】「北支処理要綱」 補足。

これは1936年1月13日の閣議決定だ。岡田内閣時、2.26事件以前の閣議決定だ。

「北支処理ノ主眼ハ北支民衆ヲ中心トスル自治ノ完成ヲ援助シ」
は、満州国を作ったのと同じロジックだ。

「(五)北支処理ハ支那駐屯軍司令官ノ任スル所ニシテ」
とは、具体的なやり方は現地司令に任せる、という意味だ。

101・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/02(月) 14:02
>>96
東京裁判では、南京事件の被害者数は2〜3万しか主張されてなかったと思いますが。
もっと広くいろんな資料読んだほうがいいのでは?

103カマヤン:2003/06/02(月) 19:45
>>101
そうなんすか? わしゃ東京裁判マニアじゃないから根気が続かないなあ…
資料の書名提示きぼんぬ。
個人的には「南京事件」は、日本と中国双方へ商売していたアメリカ軍産が
戦争を長期化させるため、アメリカ国内の対日感情を悪化させるメディア戦略としての
性格が強いんじゃあないかなあ、と思います。
論証するのはしんどすぎるので私にはムリですが。
また同時期の事件で注目するべきは「盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件」のマヌケな経緯だと
私は思うです。

一年前から日本現代史を私が勉強し始めたのは、「南京事件」について正確な知識を
得たかったから。というのも理由の一つなのですが、一年勉強して、どうもそこだけ
微視的に見るのは相対的に妥当ではないかもな、と思うに至りました。

当時の日本は既に法治国家ではなくなっていて、法治国家ではなくなった一つの現象として、
「盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件」というマヌケな開戦をして、マヌケの玉突きで
「南京事件(南京虐殺)」という恥ずべき事件に至り、アメリカ軍産に突け込まれる隙を
目いっぱい作った、と、私は思うです。

104・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/02(月) 23:42
>>103
ごめん、私も間違えてた。
正しくは20万人以上。(東京裁判における認定)
2〜3万は脳内学説でした。

105カマヤン:2003/06/03(火) 04:38
>104
ういっす。

南京事件関連の文献としては、>>99の他に以下のものを教授から教わったので、挙げとくです。

笠原 十九司『南京事件と三光作戦―未来に生かす戦争の記憶』大月書店
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4272520571/qid=1054578052/sr=1-5/ref=sr_1_2_5/249-5557652-3102733
南京事件調査研究会 『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4760117849/ref=pd_ecc_rvi_1/249-5557652-3102733

 で、不毛になりがちな南京事件の数字論争については教授から以下のように教わりました。

106・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/03(火) 04:39
 〔南京虐殺の犠牲者数議論1〕
 中国政府は30万人説を主張している、その根拠は当時の遺体埋葬記録だ。
 日本軍の南京占領後、南京市内・南京城区に放置・仮埋葬されていた、軍人・民間人の遺体を、南京の宗教団体・慈善団体・個人が、火葬または土葬にした。
 その遺体埋葬数が約26万体。
 以下が、東京裁判に証拠資料として提出されたもの。

【埋葬団体・個人】 【埋葬遺体数】
南京市崇善堂.     11万2266体
紅卍字会.          .4万3071体
下関区            2万6100体
伍長徳.             約2000体
魯甦            約5万7400体
張鴻儒・楊広才      約7000体
無縁仏 .            約3000体
合計            約26万体 〔上記人数をそのまま足すと、25万0837体〕
 洞富雄『日中戦争南京大残虐事件資料集』第1巻 青木書店378頁。

107・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/03(火) 04:39
 〔南京虐殺の犠牲者数議論2〕
 上記の埋葬記録のうち、詳細な記録(埋葬日・人数・性別・死体発見場所など)が残っているのは、「南京市崇善堂」(慈善団体)と、「紅卍字会」(宗教団体)の2団体。
 この2団体の活動は他の資料や戦前の日本側の記録でも裏づけがとれるので、かなり信憑性が高いと見られている。「南京市崇善堂」と「紅卍字会」が埋葬した 15万5337体は、ある程度再検証が可能だ。だが、残り約10万体は詳細な記録が残されておらず、現時点での再検証が不可能だ。
 中国政府は上記26万(25万?)を基礎にして「30万」としている。
 日本の歴史研究者の多くは、遺体埋葬記録のうち15万人ぶん(「南京市崇善堂」と「紅卍字会」の埋葬ぶん)を確度の高い数字として採用し、揚子江に流してしまった遺体数を2万以上と推定し、南京事件の中国人(軍人と民間人)犠牲者総数を「15万から20万」「20万前後」「20万を下らない」としている場合が多い。犠牲者数には所説ある。
 が、「虐殺はなかった」というのは学説ではなく、政治的主張である。

108・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/03(火) 04:40
 以下、講義補足。教授から教わったことのメモ。

 〔南京事件で、議論を混乱させやすい点〕

 1
 「南京」と呼ばれる場所は、「南京市」「南京城区」「国際安全区」がある。

 広さは、南京市 > 南京城区 > 国際安全区。
 「南京市」の中に「南京城区」が、「南京城区」の中に「国際安全区」がある。
 1937年12月当時の、それぞれの人口は、南京市;200万、南京城区;100万、国際安全区;10万以上。

 「虐殺」は南京城区を中心に行われ、結果、避難民が国際安全区に押し寄せ、国際安全区の人口は20万人さらに25万人になった。
 小林よしのり『戦争論2』幻冬社では、「国際安全区人口」を「南京人口」だとすり替え、「元々南京には20万人しかおらず、とても20万人も30万人も殺すことはできない」と主張している。だが、南京市人口が200万、内側の南京城区だけで100万の人口がいたことは、小林よしのりは無視している。
 この人口の他に、蒋介石軍が十数万人いた。

 2
 「一般住民への虐殺」と「捕虜への虐殺」を分けるのは不可能だ。軍服を脱ぎ一般住民に紛れ込んだ中国兵(一般住民と見分けがつかない)を日本軍は摘発し、捕虜として連行し、「処理」した。当然その中には多数の一般住民も混ざっていたと思われる。この摘発は一般民家にまで踏み込んで行われ、その過程で、一般住民への暴行・虐殺、逮捕連行された後の「処理」が起きた。

110・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/03(火) 04:40
 従軍慰安婦関係文献
鈴木裕子『「従軍慰安婦」問題と性暴力』未来社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4624501071/qid%3D1054581716/249-5557652-3102733
川田文子『戦争と性―近代公娼制度・慰安所制度をめぐって』明石書店
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4750306932/qid=1054581786/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-5557652-3102733
吉見義明『従軍慰安婦資料集』大月書店
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4272520253/qid=1054581867/sr=1-9/ref=sr_1_2_9/249-5557652-3102733
吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004303842/qid=1054582038/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-5557652-3102733

111・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/03(火) 04:41
 従軍慰安婦関連。教授から教わったことのメモ。

 1
 吉見義明氏は、小林よしのり氏や「新しい教科書をつくる会」から「自虐史観」だと激しく攻撃され、生活を脅かされるような脅迫すらあったそうだ。その過程で「吉見が誤りを認めた」というデマが意図的に流された。が、依然として吉見氏の『従軍慰安婦』(岩波新書)が慰安婦問題を考える上で最も基本的な文献であることに変わりはない。吉見氏がこの問題を研究する第一人者であることに変わりはない。

 2
 「その時代に生きていないからわからない」と考える必要はない。歴史学が成り立たなくなる。その時代を生きていないと判らない」ことは確かにあるが、「その時代の真っ只中に生きていたからこそ、その時代の特徴が判らない」こともある。戦中戦前のように情報が統制されていた時代ならなおさらだ。人間がその時代の特徴や事件の意味を判るためには、どうしても一定の時間が必要だ。後世の人間には後世の人間なりの、大権のない人にはない人なりの歴史の「判り方」があるから、現代人として史料から歴史をどう見たらよいか考えるのがいい。

112カマヤン:2003/06/03(火) 04:42
>>105-111 南京事件・従軍慰安婦関係

113カマヤン:2003/06/26(木) 01:03
  日中戦争・補遺 「マヌケの連鎖としての、日中戦争」

1;序

 マヌケの連鎖で起きた「蘆溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件」を発端として、日中戦争が始まった。
「蘆溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件」は1937年7月7日深夜に起き、戦闘は7月8日に起きた。
何回も事態収拾のチャンスはあったにも関わらず、主に日本側のマヌケの連鎖で、事態は
拡大しつづけた。>>70-76

2;「国民精神総動員運動」

 日中戦争は、日本の転機だった。
 「国民精神総動員運動」などにより、国内の言論は統制されていった。
戦時なのだから娯楽は自重せよ、という「風潮」が形成されていった。

114・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/26(木) 01:03
3;軍隊の「水脹れ」

 日本陸軍は、日中戦争期に、物凄い勢いで「水脹れ」した。
 1937年7月時点では、日本陸軍は、約25万人だった。これが現役兵の総数だ。
 1937年12月には、日本陸軍は、90万人に増員された。そのうち50万人は中国大陸へ
派遣された。
 急速な増員はムリを伴なっていた。
 2年間の兵役を終えた人は「予備役」登録をされていた。彼らが召集された。
 当時、20歳になると全員が徴兵されるわけではなかった。約半数は体格の不足、
体質の虚弱などを理由に徴兵されなかった。急速な増員は、この虚弱な人々を
「補充兵」として徴兵し、即席で訓練することで賄った。

 中国大陸での戦争には、どれだけ兵士がいても足りなかった。占領地が増えれば
占領地に兵士を駐屯させる必要があるからだ。

 1945年には、日本陸軍は、600万人に増員していた。1945年当時動ける人は皆、
兵士として戦場へ送られた。兵士には本来厳格な訓練が必要だ。体力的に劣り、
訓練が充分ではない人をムリヤリ兵士として仕立てても、軍隊としてマトモには機能しない。

 日清日露では異様にモラルの高かった日本軍は、急速な「水脹れ」により、軍紀が物凄い
勢いで劣化し、匪賊化した。「南京事件」で示した日本軍のモラルの低さは、急速な増員が
一つの原因だった。

115・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/26(木) 01:04
4;「刺突」

 日中戦争では、「補充兵」を「訓練」すると称して、捕虜を「刺突」させた。
銃剣刺突訓練は、ふつう、藁人形などを相手に行う。
兵士としての適性の乏しい「補充兵」に、「度胸をつけさせる」ため、生きた捕虜や民間人を
的として、「補充兵」に「刺突」させた。
 もちろんこれは国際条約違反だ。

 日本軍上層部は、当時「いかに英米の枠組を出し抜くか」に意識が集中し、国際条約を
軽蔑する「風潮」が形成されていた。その決定的原因を作った一人は「満州事変」を起こし
「英雄」となった石原莞爾だ。
 また、急速な「水脹れ」は、国際条約への無知も形成した。
 国際条約の遵守義務があるという意識を当時の日本軍は欠いていた。
客観的には、匪賊同然の軽蔑されるべき軍隊に成り下がっていた。滑稽なことに、主観的には
日本軍は最高のモラルである天皇に直属し、世界で最も高いモラルを持っている、という神話を
唱え続けた。何が違法であるかすら教えられていなかった。

 日本軍が捕虜を「刺突」した写真は、当時毎日新聞の従軍記者が撮影し、おそらく戦意昂揚
を目的としてのことだろう、新聞紙面に載せることを考えた。検閲で却下された。
 毎日新聞社にはその写真が、「不許可」のスタンプ入りで、残されている。
 毎日新聞社だけは、戦中の「不許可写真」を今でも持っている。毎日新聞のこれら「不許可写真」
は、戦中を知るための貴重で重要な史料だ。
 他の新聞社は、1945年終戦のとき、内務省命令で全て焼却した。
 特高警察や神祇院、神宮司庁などで形成されていた内務省は、戦後、警察庁、自治省、建設省、
などに解体された。現在は警察庁、総務省、国土交通省がその流れを受け継いでいる。

116・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/26(木) 01:04
5;検閲

 「検閲」では、戦争での、「残虐」「残酷」な映像は、不許可とされた。
 死体などの「残酷」な映像は、「検閲」された。
 当時の従軍記者は、「残酷」な映像は「使えない」から、撮影しなかった。
 日本本土の新聞に載る戦争写真だけで見ると、日本兵士は無人の荒野を勇壮に行進していた。
その写真からは、死体の類は「修正」され、消去されていた。
 当時、新聞では写真の「修正」は頻繁になされていた。死体のような「残虐」なものを写真上から
消去する「名人」職人もいた。
 軍事機密である兵器なども「修正」され、新聞紙上の写真からは姿を消していた。だがニュース映画
では軍事機密の兵器が映っていた。消去する技術がなかったからだ。

 「南京事件」を写した、とされる写真は、出所の不明なものが多い。ので、「南京事件」では
写真資料は取扱い注意だ。
 「南京事件」を知るには、従軍日記が史料として重要だ。

117・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/26(木) 01:04
6;近衛文麿

 南京陥落の際、近衛文麿首相は大失言をした。「爾後南京政府を対手にせず」声明を出してしまった。
1938年のことだ。>>86-87
 戦争は終結のとき、必ず話し合いを必要とする。この大失言で、日本は戦争終結の手段を失った。
近衛文麿は自分で自分の手を縛ってしまった。日中戦争はマヌケの連続だったが、近衛のこの
大失言声明は、その中でも極めつけだ。

 大失言「爾後南京政府を対手にせず」声明を出したとき、首都を陥落したことだし、これで
蒋介石政権は自然に潰れるはずだ、と、甘い見通しを近衛文麿は持っていたようだ。
 蒋介石政権は中国奥地に転進し、潰れず、粘り強く反抗した。

 自分で戦争終結の方法を棄ててしまうという大ポカをやらかした近衛文麿首相は、それでも
戦争終結のために、蒋介石政権と話し合いをする必要があった。
 「爾後南京政府を対手にせず」と声明を、自分の面子を潰さないまま事実上取り消すために、
近衛文麿首相は、「東亜新秩序」というスローガンを発明した。

 「南京政府は対手にしないが、『東亜新秩序』という日本の理想に南京政府が賛同するのなら、
交渉のテーブルについてやってもいい」
というポーズを作るための、日中戦争を終結させるための、その場凌ぎの名目・スローガンだった。

 失言を取り消すための「東亜新秩序」というスローガンは、英米を刺激し、英米からの反発を
招いた。当然だ。「東亜新秩序」とは、中国を日本の支配下に置く、という意味だからだ。
中国に権益を持つ英米が黙っているわけがなかった。
 失言を取り繕おうとして、更なる大失言を近衛文麿は行った。マヌケの連鎖だ。

118・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/26(木) 01:05
7;汪兆銘

 日本は、蒋介石政権のNo.2である汪兆銘の引き抜きを考えた。
 蒋介石政権を、蒋介石と汪兆銘に分断し、汪兆銘政権を交渉相手にしよう、と、日本は考えた。
 汪兆銘の引き抜きには成功したが、蒋介石政権から誰も汪兆銘についていく者はいなかった。
 これは日本側が提示した条件が悪かったからだ。
 はじめ、日本は汪兆銘に「二年以内に日本軍は中国から撤兵する」ことを条件にしていた。
これは中国から見て悪い条件ではない。だから汪兆銘は乗った。
 だが日本の側は汪兆銘に相談なく、条件を書き変えた。「二年以内の撤兵」を、「近い将来の
撤兵」と書き変えた。期限を削った。日本側が欲を出し、条件を中国に悪くした。
 そのため、汪兆銘についていく者がいなくなった。
 汪兆銘個人以外誰も引き抜くことができず、この工作は失敗した。
 肝心なところでつまらない欲を出し、ここでもまた日中戦争終結に日本はしくじった。
果てしないマヌケの連鎖だ。

119・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/26(木) 01:05
8;死者

 1937-1941年の間に、日中戦争で、日本軍は20万人の死者を出していた。
 日露戦争での日本軍の死者の総数は10万人だ。
 日清戦争での日本軍の死者の総数は1万人だ。
 日中戦争は、日露戦争の半分の期間で、日露戦争の倍の死者を日本側に作っていた。
 日中戦争は厳しく激しい戦争だった。

9;従軍慰安婦

 「従軍慰安婦」は、「南京事件」によって作られた。日本軍兵士による略奪・強姦が激しすぎて、
軍紀が乱れすぎて、これでは軍隊を維持できない、と、考えたからだ。

 「戦争と売買春」の問題は、どこの軍隊にもある。
 日本の場合、行政が深く関与した点が特徴的だ。
 日本軍の場合、兵士に休暇を与えないことを前提としていた。

 第1次大戦を経験していた欧州の軍隊は、「兵士に休暇を与えないと、能率が下がる」ことを
理解していた。だから欧米軍は、兵士に定期的に休暇を与えた。

 日本軍は兵士を戦場に貼りつかせた。戦場に慰安所を行政が設けた。
 慰安婦ははじめ日本国内のプロの女性を動員した。全く数が足りなかった。
日本国内で慰安婦を集めるわけにいかないので、植民地で慰安婦を集めた。
現場で集めたのは業者だ。だが、地区ごとに何人慰安婦を集めろ、と、計画を立てたのは
日本の行政だ。

 戦闘の前線では略奪・放火・強姦を日本軍は繰返した。占領地に慰安所は設けられた。
慰安所は日本軍による略奪・放火・強姦をなくすためには役に立たなかった。

120・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/26(木) 01:05
10;「社会的兵営化」

 日本の軍隊は、出身地ごとにまとめられた。故郷の人間関係がしばしばそのまま軍隊に
持ち込まれた。故郷の人間同士で略奪や強姦をしたとき、一人だけそれに参加しないで
いると、故郷に帰ってから、逆に、略奪し強姦した人々からネチネチと延々非難された。

 日本社会全体が軍隊化した状態を、「社会的兵営化」という。
 戦場のストレスは、銃後にも持ち込まれた。

 兵役は本来2年だけのはずだった。期限があるのなら人間は苦しみにも耐えられる。
「予備役召集」により、いつまで従軍しなくてはならないのか判らなくなる。
 兵士は消耗し、兵士の精神は荒廃した。

121カマヤン:2003/06/26(木) 01:14
第2講 昭和初期の〈大日本帝国〉>>2-16 講義ノート>>2-13 資料と補足>>14-16 
      前史(明治維新〜昭和初頭)>>2-6 1930年代初頭での日本>>7-10
      世界大恐慌と昭和恐慌 >>11-13 
第3講 満州事変と「満州国」>>18-36 講義ノート>>18-29 資料と補足>>30-36
      満州事変の勃発と関東軍による満州占領 >>18-22
      石原莞爾の戦争構想>>23-26 満州事変と国内政治>>27-28
      「満州国」の実態 >>29
第4講 2・26事件と「国策の基準」 >>37-68 講義ノート>>37-53 資料と補足>>54-68
      人物紹介 >>59-68 「国家改造」グループの形成>>37-45
      2.26事件とその歴史的意味>>46-50
      広田弘毅内閣による「国策の基準」の策定>>51-53
第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件>>70-96 講義ノート>>70-88 >>96
      Ⅰ;盧溝橋事件>>70-75 〔資料〕政府「重大決意」声明(1937年7月11日)>>76
      Ⅱ;「盧溝橋事件」の、「拡大論」と「不拡大論」>>77-81
       〔資料〕盧溝橋事件当時の陸軍中央首脳>>78-79
      Ⅲ;戦線の拡大と初期講和工作>>82-84  Ⅳ;近衛声明と戦争の泥沼化>>85-88
       〔資料〕「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年1月16日)>>87
       〔資料〕南京事件>>89-95
 文献案内 >>98-99 >>105 >>110
 〔南京虐殺の犠牲者数議論〕>>106-108
 〔従軍慰安婦議論〕>>111
日中戦争・補遺 「マヌケの連鎖としての、日中戦争」 >>113-120

122カマヤン[TRACKBACK]:2004/11/01(月) 10:02
「通州事件」資料
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1025166092/r153-154

123・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2013/02/23(土) 21:56:55
74 :地震雷火事名無し(北海道):2012/08/25(土) 13:00:12.82 ID:RURTbGGK0
現状=支配の構造を知れば人を助けてる場合ではないことが解るし
歴史を再考したら解るがそんなことしてもなにも解決しないことが解る。
銀行家は洗脳している「自分のために行動するのは悪」と・・
だが自分のために学び力を付け自立し自我を持つ人が増えたらどうなる?
支配が終わる・・だから銀行家は洗脳した。
他国を思いやる・他人を思いやる・外人を思いやる

↑これを最良の行動と洗脳した・・
これは先ず自身が自分の足で立ち自分の頭で考え自立し自我を持ち
信念を持ってなければ最良のこうどうにはならない。
「ホームレスが人を助けるようなもんだ・・」
「生保受給者がニートに説教するようなもんだ・・」

親俺で自立してからだろ?自身がボロボロになってるのに他人のために行動する?
そんなことをやったら「見返りはなに?何が望みだ?」って言われるぜ?
無知が俺を支援すると行為と同じ。
支配層が親俺なの奴隷に親他人になれと洗脳する。
この洗脳が完成したときに奴隷が奴隷と自覚していない奴隷経済が完成する。
欧州の銀行家はそれが望みなのです。
だから銀行家の飼い犬は国=国民の権利を剥奪し義務だけを押し付けたのです。
国=国民の権利を剥奪したら支配層=司法=行政=株主=世界機関は義務を放棄できる。
「国=国民の権利剥奪=義務放棄=責任を負う必要がない」となり
騒動を起こした支配層は責任を負うことなく問題解決する立場を維持できる。

我々がすべきことは権利を主張していけば良いのです。
現在は国=国民は権利があるのに無いと信じ込まされている。
本当は強大な権利を保有しているのです。
国=国民がこれを知り理解し生きる権利を主張したら支配は終わるのです。
国=国民が権利を保有した時点で支配層は義務を負うことになり責任を負うことになる。
目を開けたらそこに権利はあるのです。
手は届きます簡単に掴めます・・
だが無知=知らないためそれが何か解らない・・
なんでもそうだが窓口=教えてくれる人に聞いても嘘しか言わない・・
「そんな権利はない」と嘘を吐く・・・
法律を知りたいから弁護士に聞く
生保を受給したいから窓口の相談担当に相談する。

↑こんなことするから騙される。

専門家=詐欺師は奴隷を奴隷のまま維持するのが仕事の人達。
医者の処方する薬=毒を飲んで脳神経を蝕まれて医者が設立した
カウンセリングを受けてもなーんにも解決しないのと同じことだわな。
弁護士に相談しても意味わないの・・支援してるのが犯人達だから・・
株主や株主の犬達=役員様は言う。
「企業の為に!」と・・従業員に強要する。

だが株主や株主の犬達は企業の為になんか行動していない・・
企業=従業員だろ?企業だけあっても従業員がいなけりゃ成り立たないだろ?
従業員は仕事を義務をこなしている。
株主や株主の犬の命令通りにな・・
その証拠に莫大な利益配当や莫大な役員報酬を毎年払っている・・
払って赤字になってる・・赤字になってまで利益配当や役員報酬を
要求する株主や株主の犬達は企業の事なんかなーんにも考えてませんw
従業員の方が考えてます・・だから少ない給与で黙って仕事してるんです・・
赤字と言われたらボーナスなしでも文句は言いません・・

でも・・赤字の原因が株主に帯する利益配当や役員に対する役員報酬と知ったとき
従業員は「仕方ないね」と許すでしょうか?
十二項目を読めば原因がそれだけではない事が解る・・
呑気にスポーツ観戦やバラエティー番組なんか見てられなくなるだろう。

124・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2013/02/24(日) 17:55:37
7 :名無しさん@3周年:2012/02/12(日) 04:36:06.07 ID:Z+Z4K6tn
フランス革命と明治維新
http://roronotokoro.blog113.fc2.com/blog-entry-35.html

「近代化とは、土着勢力を抹殺し、国家や社会を無色透明化することである」
近代化の正体というのは、金を持っている人間が全部を独り占めに出来る仕組みを作り上げるということに他ならないんです。
、ナポレオンはスペインやドイツに攻め込んで、そこでもフランス革命の「成果」を
広めてしまったんですね。ナポレオンが支配した地域は、みんなナポレオン法典の精神にのっとった「近代市民法」を作りました。
法学の世界では、大陸法とか言われているやつです。
そのナポレオンがやったことで、画期的なことがあります。それは、「民法」を作ったことです。
私は少し法学をやっていたことがあるんで分かるんですが、近代的な民法を作ったのはナポレオンだと、
どの教科書でも書いています。
そのナポレオン法典の核心は、「財産権の不可侵」です。簡単に言えば、俺のものは俺のものなんだか
ら、手を出すなということです
非難されるのを承知でいいますが、そういう連中は大半がユダヤ人です。
もう一つ重要なことがあります。それは何かというと、近代国家が成立してから、文化伝統というのが死に始めるということです。

フランス革命⇒共産主義(ソビエト、集団主義)、自由主義(アメリカ、個人主義)に分派

125・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2013/02/24(日) 18:20:49

176 :地震雷火事名無し(北海道):2012/09/29(土) 10:00:55.05 ID:e/kZayAk0
この手の話をされるとネトウヨも陰謀論者も誰も反論できない。
特に「江戸時代を見習った軍人=役人制度」は戦争抑止にもなるし無駄な費用も削減できる。

各省庁又は地方又は警察・消防・海保・特殊法人に勤める連中は
例外無く軍事訓練を受けてもらう。
そして有事の際は真っ先に最前線に行って戦う又は復興支援をしてもらう。
もし戦争になって負けたら例外無く財産没収で全員極刑である。
体調不良を理由なら財産没収で身内を差し出してもらう。
勝っても国民に被害が出たら軍事=役人個人の財産で支払ってもらう。
任務に拒否権はなく逆らえば極刑である。

↑ここまでやれば大義ある任務を全う出来るだろう。
義務=責任を負う事がない=人事だから無責任に好き勝手やるわけだ。

「賞罰を公正にしなければ軍ではなく山賊になるだろう・・」
現在は行政府=司法に公正と言う文字はなく私物化と言うが文字しかない。
現在は行政府=司法に義務=責任はない・・責任を負う仕組みすらない・・

低脳諸君・・現在存在する権力機関の義務ってなにか考えてみ?実行されてる?

国際連合の義務ってなに?
IAEAの義務ってなに?
WHOの義務ってなに?
BISの義務ってなに?
日銀の義務ってなに?
年金機構の義務ってなに?
健康保険組合の義務ってなに?
行政府の義務ってなに?
司法の義務ってなに?
人権団体の義務ってなに?
宗教法人の義務ってなに?

明確に義務とその義務を全うしていると熱弁出来る奴いる奴いる?

126・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2013/02/24(日) 18:38:35
198 :地震雷火事名無し(福岡県):2012/10/02(火) 12:07:40.78 ID:7+zFRx0v0



カネがあるやつは日本から逃げるの法則。


今更二郎 外国の医療費は100倍 去年の今頃から岡山辺りまで 病気は必然
追伸 沖縄の人間に触らない方が特に
飲み屋には命懸けて飲むべし なぜって?
対戦で爆弾を落としたのは確かだが
人間の目を見て殺されたのは すべて 赤ん坊まで 目を見て銃殺してきた
あとは アメリカンに殺されるよりはと
自決したのがはとんど
さて 米軍はと言うと 洞窟に入った沖縄の人間を 白い物を上げて出て来なさいと
チョコレートを配った 火炎放射器は洞窟から炙りだし 助けるためだけ 一人とさえ
沖縄人を 面と向かって 殺しはしなかった
言葉が分からない沖縄の人間は殺される
としか考えてなかったためである

そのくせ 日本軍は 沖縄の女をレイプし放
題の アメリカ人に居場所がバレると泣き叫ぶ赤ん坊を目をみながら 虫けら同然に
その母親が発狂するのは当然だから近くにいる沖縄人を大量虐殺 同じ日本人を平気で殺し あげくのはては 復帰しても日本本土ではほとんどが 飯食う飲食店でさえ沖縄人立ち入り禁止の看板がすべての店に
南京虐殺どころか おなじ日本人に対して
さの怨みだといまの40代までみな 聞かされ育った 食べものに 毒を盛る 内地の人間には 今も変わらず これは真実の真実だ
沖縄の人間にそのばで聞かぬように!
電話で疑う者たちは聞くがいい。

127・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2013/02/24(日) 20:23:09
「樺太の戦い」に日本の戦争のウソが

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0204/48/314.html

ソ連空軍は、「白旗」めがけて、何度も何度も爆弾を投下した。

( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0103/34/231.html )

128・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2013/03/03(日) 17:47:59
ナチ○の旗、日本の国旗の赤と白を反転させて、逆まんじを入れたやつ。
緑○会・・・。

ナチスとチベットの妖しい関係
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha200.html

国家「日本」の欺瞞 共産主義(革命)を恐怖した昭○天皇
http://www5.ocn.ne.jp/~iranka/kyosan.html

昭○天皇こそが正真正銘の売国奴
http://www.amezor.to/cgi-bin/i.cgi?dir=shiso&log=070716000101&next=90&mode=fa

裏天皇が総てを支配している
http://ameblo.jp/maeni76pop/entry-11420624671.html

表もあれば裏もある。複雑・・・。

129・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2013/05/18(土) 14:15:21
052 名無しさん (2013/04/28(日) 14:43:57 ID:prq9SafVv.:au)



●●●●●●●●●●●
【号外】松本清張
黒い霧事件

〇大日本帝国大政翼賛会は、
大日本帝国の
中枢第2層、第3層の決まりで動いていました。

〇朝鮮総連は、第4層でした。
〇韓国ハナ銀行は、第5層でした。
〇朝鮮系人で、第5層にいた6家族のうち、
フランス社会党を戦後嫌った1家族を、CIAが作ったフランス自由の党の8人が、
CIAと一緒に、大政翼賛会のことを、その1家族が、
朝鮮総連が属していた第4層に属していたように暗想させる
文章を、講談社と松本清張を、
ダイアモンドマネーで買収して書かせました。

松本清張と講談社の変造でした。
●●●●●●●●●●●

首にロープの輪を掛けていきます。

●●●●●●●●●●●
フランスが1999年に、スペインに大陸弾道弾を配置して、
東京に原子力爆弾を打ち込む準備をスペインにさせました。

※電通は、日本人を圧縮するときに使う『泳がせ』玉です。
腐敗を進ませつつ、圧縮します。
●●●●●●●●●●●●
答えは、

それぞれが属している国なり、組織なり、セレブ仲間なり、
政党なり、商社なり、会議なり、警察関連なり、アメリカンエクスプレスなりの中の
ランキング別枠ポジションを、
王家の出身とは、タイヤのゴムを開発した家系の出とかと
同じで、囲われてる風になりたいという
不自由な人の手法ですよ。アハハアハハアハハ。

フランス絡みは、それだよ。
アハハアハハアハハ。
●●●●●●●●●●●●●


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