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日本現代史メモスレッド

1カマヤン:2003/05/05(月) 02:43

某先生の講義をメモするなり。

関連スレ
「日本近現代史にわか勉強スレッド」
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=1274&KEY=1025166092

8・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:45
2;日本は、世界的軍事大国だった。
2−1
 日本の海軍力は、世界三位だった。アメリカとイギリスが同率1位、4位がフランス、5位がイタリア。
 日本の陸軍力は、常備17個師団(23万人)だった。
2−2
 日本は〈五大国(英、米、仏、伊、日)〉の一角を占めていた。
 この当時、世界最大の大国は、イギリスだった。アメリカは、まだ世界への発言力は
イギリスより小さかった。
 日本は〈国際連盟〉常任理事国の一つだった。日本の発言力はけっこう強かった。
日露戦争以来、イギリスと長く日本は同盟していた。政治的発言力を日本が持てたのは
日本の背景にイギリスがいたからだ。

9・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:45
3;日本の経済基盤は、不安定・脆弱だった。
3−1
 日本は英米圏依存型の経済構造だった。
原材料を英米圏から輸入し、製品(絹織物)を英米圏に輸出していた。
 国際金融で、日本は英米に依存していた。日本は国家予算を上回る対外債務を抱えていた。
対外債務とは、外国に売った日本の国債のことだ。平たく言うと外国へ借金することだ。
日本は外債を返すため、新たな外債を売っていた。(日露戦争のとき日本は外債をイギリスと
アメリカに大量に売っていた)
 日本は軍事大国として英米と対峙しつつも、経済的に英米に依存していた。
そこから、2つの路線が現れた。
  A;英米協調路線。
  B;英米依存を打破し、アジア独自の経済圏を作る路線。結果的に、アジアへ力づくで進出する。
3−2
 日本は農業国家だった。
 1930年(昭和5年)の産業別就業人口比率は以下だ。
 第1次産業 49%、第2次 20%、第3次 29%
日本は農業国家であることを利用して、軽工業国家化した。工業の原料は農業だった。
外貨は絹で稼いでいた。
第1次大戦時に、日本は好景気を迎えた。戦後、欧州経済が復興すると、日本は不況になった。
3−3
 恐慌が連続した。
 1920年戦後恐慌。1923年震災恐慌(関東大震災によりインフラが壊れ、恐慌になった)。
1929年金融恐慌(震災以来のツケが表に出た)。

10・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:46
4;1930年代初頭の、日本の外交スタンス
4−1
 主流路線;英米協調路線。国際連盟規約とパリ不戦条約による拘束を支持する。
 担い手;宮中グループ、民政党、財界主流、海軍主流
4−2
 傍流路線;〈アジア・モンロー主義〉路線。(〈アジア・モンロー主義〉という言葉は、当時の言葉だ。)
アジアにおける日本の排他的な覇権を求める路線だ。
 担い手;陸軍、右翼、政友会。

5;天皇の地位と、〈憲政の常道〉
5−1
 〈憲政の常道〉とは、衆議院多数派政党のリーダーが首相になることを言う。
明治大正期には、〈元老(天皇から与えられる資格)〉が、首相を決めた。
昭和には、〈元老〉は、西園寺公望ただ一人になった。
〈元老〉がいなくなり、利益調節者がいなくなった。昭和期には、天皇が全てを決定しなくては
ならなくなった。
 1928年〈即位の大礼〉〈大嘗祭〉を契機として、天皇に極端な権威主義化が行なわれた。
5−2
 1925年、男子普通選挙と抱き合わせで、〈治安維持法〉が成立した。
〈治安維持法〉は、「何かした」人を罰するのではなく、「何かをしようと考える」人(=何もしていない人)
を罰する法律だ。 →【資料】
〈治安維持法〉は、「国体の変革」概念を拡大し、反政府勢力弾圧強化に使われた。
また、植民地独立運動弾圧にも〈治安維持法〉は使われた。
 〈治安維持法〉は、1945年敗戦後もしばらく生き残った。〈治安維持法〉が停止・廃止されたのは
1945年10月のことだ。


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