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日本現代史メモスレッド
1
:
カマヤン
:2003/05/05(月) 02:43
某先生の講義をメモするなり。
関連スレ
「日本近現代史にわか勉強スレッド」
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=1274&KEY=1025166092
70
:
第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件
:2003/06/01(日) 22:56
第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件
1937-1938
Ⅰ;「盧溝橋事件」の発生
盧溝橋は、「マルコ・ポーロ橋」とも呼ばれる。
「盧溝橋事件」は、ごくごく小さな事件だった。現地ではいったん事件は解決した。
それを、政府が拡大した。
1 事件の概要
1-1;「盧溝橋事件」の発端
起きた時は、1937年7月7日 午後10時40分頃だ。
起きた場所は、北平〔ペイピン。現在の北京〕西南郊外、「盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)北側の
永定河〔えんていが・川の名前〕左岸。〔川の右左は、「上流から見て」右か左か決まる。〕
ここに、日本軍演習地があった。
「盧溝橋事件」の発端は、日本兵1名の行方不明事件だった。
日本軍が北京に駐兵していたのは、以下の理由による。1900年に「義和団事件」があり、
1901年に「北京議定書」(列強に清朝が詫びをいれた文書)が成立した。
「北京議定書」により、列強は清朝に駐兵権を得、日本も清朝に駐兵していた。
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:2003/06/01(日) 22:56
1-2;現地軍の対処
大隊長(一木清直少佐)は、連隊長に一応、攻撃していいかどうかを上申した。
連隊長(牟田口廉也大佐)は、「中国軍に侮られてはいけない」という判断から、攻撃を許可した。
1-3;現地停戦協定の成立
「支那駐屯軍」の措置
駐屯軍参謀長橋本群少将、北平特務機関長松井太久郎大佐らは、「事件」収拾に動いた。
松井と中国軍第38師長・天津市長張自忠との間で、7月11日午後8時に、停戦協定が成立した。
ここで一旦「事件」は終結したはずだったが…
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:2003/06/01(日) 22:57
2;「盧溝橋事件(1937年 7月)」の経過を、もう少し詳しく見る。
日本軍は当時、夜襲の訓練をよくしていた。ソ連より火力が弱いから、夜襲を重視していた。
「盧溝橋事件」は、夜襲訓練で起きた。
■7月 7日 午後10時40分頃
北平(北京)西南郊外、盧溝橋北側の永定河左岸(日本軍演習地)において、
「支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊第8中隊」(中隊長・清水節郎大尉以下135名)が夜間演習中、
数発の実弾射撃を受けた。
演習は、空砲を使う。
実弾は、空気を裂くので、音で判る。
この実弾を撃ったのは誰なのかは、いまだに判らない。
中隊長は演習をやめ、集合した。
2等兵1名が行方不明だった。
これが問題となった。
清水中隊長は、豊台の大隊長一木清直少佐に連絡した。
大隊長一木清直少佐は、連隊長牟田口廉也大佐〔後にインパール作戦を指揮〕に連絡した。
兵が行方不明になったことを重大視して、大隊を出動させた。
■同日 午後11時頃
「行方不明」の志村菊次郎 2等兵は、午後11時頃、無事に中隊へ帰隊した。
「行方不明」の志村2等兵は迷子になって集合に20分ほど遅れただけだった。
つまり「行方不明事件」は起きていなかった。
志村2等兵は、インパール作戦で戦死したので、戦後彼から証言を得ることができず、真相は判らない。
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:2003/06/01(日) 22:57
■7月 8日 午前 2時過ぎ
清水中隊長から連絡を受けた一木大隊が、午前2時過ぎに盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)に到着した。
だがもう「行方不明事件」は終わっていた。
■同日 午前 3時25分頃
再度の銃声が、午前3時25分頃、大隊の周辺から聞こえた。
一木大隊を取り囲むように中国軍がいた。
「どうやら、周りの中国軍にからかわれているらしい」と、大隊長一木少佐は考えた。
大隊長一木少佐は、「要するに日本軍の面目さへ立てばよいので…断然攻撃をしたい」と、
連隊長牟田口廉也大佐に電話で要請した。
「バカを言うな」と、一木少佐は止めてもらうつもりだったようだ。
連隊長牟田口廉也大佐は、「重大な挑戦である」「やって宜しい」と、攻撃を許可した。
まさか許可が下りてしまうとは思っていなかった一木少佐は、牟田口廉也大佐の気が変わるかも
しれない、と、慎重に、朝まで実行を待った。が、中止の命令はこなかった。
夜明けになって、一木大隊は、攻撃を開始した。
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■7月10日
「蒋介石軍が北上」の情報が走った。これにより、日本軍部内の「拡大論」が「不拡大論」を圧倒した。
陸軍中央〔参謀本部〕が、「関東軍2個旅団・朝鮮軍1個師団・内地3個師団」の華北派遣(兵力約10万人)を
決定した。
元々、華北に駐兵していた日本軍は5000人程度だった。これを20倍に増強する命令だった。
■7月11日
近衛文麿内閣が、華北への派兵を承認した。各界に「挙国一致」を要請した。
日本政府は「重大決意」声明 を出した。これで話がややこしくなった。【資料5-1】
■同日 午後 8時
マルコ・ポーロ橋現地では、日本軍と蒋介石軍の停戦協定が成立していた。
現地では事態は収束した。
「停戦協定」の内容は、下記の通り。
中国第29軍代表が遺憾の意を表明する。中国軍は責任者を処分する。
盧溝橋城(宛平県城)・竜王廟から、中国軍が撤退する。抗日各種団体を取り締まる。
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■7月17日
日本政府は〔図に乗って〕、「停戦協定」に対し、中国軍幹部の陳謝と更迭を、追加要求した。
蒋介石は「最後の関頭」声明(廬山談話)を出した。
日本政府は「上げた拳の下ろし先」を探していた。
日本政府と蒋介石との間で、「強気」の応酬がされ、感情的にエスカレートした。
■7月19日 中国政府は、日中両軍の同時撤退などを提起した。
■7月25日 日中両軍が衝突(郎坊事件)
■7月26日 日中両軍が、再び衝突(広安門事件)
■7月27日 日本政府は、内地3個師団の派遣を最終的に承認する。
■7月28日 午前 8時
日本軍は、蒋介石軍に対し、総攻撃に出る。
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