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日本現代史メモスレッド

1カマヤン:2003/05/05(月) 02:43

某先生の講義をメモするなり。

関連スレ
「日本近現代史にわか勉強スレッド」
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=1274&KEY=1025166092

2第2講 昭和初期の〈大日本帝国〉:2003/05/05(月) 02:43
日本現代史 第2講 昭和初期の〈大日本帝国〉

一 前史(明治維新〜昭和初頭)

1;近代化と膨張主義
1−1
 明治維新直後、非常に早い時期から、日本国内における近代化と同時に、
〈膨張〉志向が登場する。征韓論や台湾出兵がその現れだ。
1−2
 〈ロシア脅威論(ロシアが南下することへの恐怖感)〉が、明治期の軍拡・膨張論を支えた。
ロシアが南下する前に、できるだけ遠くまで日本がうって出ておく、という考え方だ。
1−3
 〈主権線〉〈利益線〉を確保するための〈攻勢防御論〉。
当時、〈主権線〉と〈利益線〉というものが想定された。
〈主権線〉とは、国境線のことだ。
〈利益線〉は、国境線の外側にある、と、想定された。〈主権線〉を守るためには
外へうって出て、〈利益線〉を守らなければならない、とする考え方だ。
たとえば山縣有朋は、「朝鮮半島は日本の利益線である」と言っていた。
 この考え方には、欠点がある。〈利益線〉まで確保すると、従来の〈利益線〉が〈主権線〉化する。
朝鮮半島まで〈主権線〉が延びると次の〈利益線〉は満州になる。満州まで〈主権線〉が
延びると次は中国華北が〈利益線〉になる。
 発端は〈防衛論〉だが、対外膨張論になる。

3・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:44
2;日清戦争、日露戦争
2−1
 朝鮮半島への影響力強化をめぐる清国と日本の衝突が、日清戦争となった。
日清戦争は、日露戦争の前哨線だ。
朝鮮半島へロシアが南下するのを日本が恐れ、半島へ日本が進出したのが、日清戦争だ。
2−2
 日清戦争の結果、日本は、アジアにおける唯一の植民地帝国となった。
(植民地支配、異民族支配の開始)
2−3
 朝鮮半島の支配権、南満州への影響力強化をめぐるロシアとの衝突が、日露戦争となった。
2−4
 日露戦争に日本が勝利する。韓国併合により、日本は南満州までを〈利益線〉とした。
日本は大陸に抜き差しならない権益を持つようになった。
 〈関東州〉 遼東半島に日本は〈関東庁〉を置き、政治支配の中心とした。
 〈南満州鉄道〉 鉄道は当時植民地支配の要だった。イギリスのインド支配も鉄道による。
鉄道はその国の物資を港へ運ぶ、重要な機関だ。
 南満州鉄道は日本が海外に持っていた最大の会社だった。株の50%を日本国が持っていた、
半官半民の特殊法人会社だった。当時官僚が多数天下りした。大陸での経済支配の中心となった。
 〈関東軍〉 日本による軍事支配の中心。
 万里の長城が海へ至る場所の地名を〈山海関〉という。〈山海関〉から東側を日本は〈関東〉と
呼んだ。中国ではふつうこの地域を〈東三省〉と呼び、〈関東〉とはあまり呼ばない。

4・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:44
3;第1次世界大戦、ワシントン体制
3−1
 第1次大戦により、日本は旧ドイツ利権を引き継ぎ、山東半島、ミクロネシアに権益を
拡大した。ミクロネシア(サイパンなど)を日本は〈内南洋〉と呼んだ。ただしグアムだけは
アメリカ領だった。
これらの土地は〈委任統治領〉だ。〈委任統治領〉は、軍事施設を置いてはならない、という
点を除くと、ほぼ領土扱いだった。
3−2
 アジアでの英仏蘭植民地は、ワシントン体制では現状維持となった。
インドと英領マレーはイギリスの植民地、仏印、蘭印。
 東アジアでの独立国は、当時、以下の4つのみで、残りは全て列強の植民地だった。
 日本。
 中国。
 タイ。タイは独立していたが、両隣がフランスとイギリスの植民地だった。
 モンゴル。モンゴルは1920年代、ロシア革命の影響を受けて独立していた。

5・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:44
3−3
 なんといっても東アジアの中心は中国だ。中国に1920年代後半、激動が起きる。
蒋介石による〈北伐〉だ。
 中国は既に辛亥革命が起きていたが、中華民国政府は力が弱く、〈軍閥〉により分裂状態だった。
欧米列強は、中国に強い中央政府がないことを利用して、中国(揚子江流域)に勢力を伸ばしていた。
1920年代後半、蒋介石の〈北伐〉により、中国国家統一の動きが強くなる。
 蒋介石の〈北伐〉に対し、欧米列強と日本とでは、態度が分かれた。
アメリカは、蒋介石政権を承認し、自国の権益を守ろうとした。
日本は、蒋介石政権を抑え込むことで、自国の権益を守ろうとした。中国中央政府(蒋介石政権)
により、外国(日本)からの権益が摂取される可能性が高いと、日本は考えた。
 〈北伐〉が華北に及ぶと、日本は日本人居留民保護を名目として、〈山東出兵〉を行なった(1927年)。

6・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:45
3−4
 満州は、張作霖の支配化にあった。張作霖は日本軍を軍事顧問としていた。
張作霖軍は北伐軍に北京近郊で敗れた。日本軍は張作霖を満州へ呼び戻し、奉天で張作霖を
爆殺した(1928年)。
 張作霖を日本軍が爆殺した理由は以下だ。
張作霖は満鉄に平行する線路を作ろうとするなど、日本へ対し独自の動きを当時示していた。
日本軍と張作霖が仲がいいことは当時よく知られていたから、日本は、自分は疑われないだろう、
と、踏んでいた。
張作霖を暗殺することで、満州の治安悪化を日本軍は期待した。治安が悪化すれば、
治安維持のため関東軍に出動命令がでるはずだ。それに乗じ、満州を関東軍が制圧する。
これが、関東軍の描いていたシナリオだ。
この3年後の〈満州事変〉では、このシナリオ通り事態が進行する。
 張作霖爆殺のときは、このシナリオは頓挫した。
日本政府は関東軍に出兵命令を出さなかったからだ。治安は悪化したが関東軍を出兵させるほど
ではないだろう、と、日本政府は判断した。
 3年後の〈満州事変〉では、中央から命令が出なくとも出兵する、という選択を関東軍はした。
 日本が満州を支配しようとしたのは、〈北伐〉への対抗意識からだ。
 張作霖の後を、張学良が引き継いだ。
 張学良は、蒋介石と手を結び、中華民国に合流しようと考えた。
 そうなると、満州に蒋介石政権の影響力が広がる。日本は焦った。日本の権益が危ない、と、
日本は考えた。それが後の〈満州事変〉を招いた。

7・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:45
二 1930年代初頭での日本

1;日本は、アジア唯一の、帝国主義大国だった。
1−1
 〈帝国主義〉とは? 経済的には、他国へ資本輸出する国家を言う。
一般には、植民地支配をしている、異民族支配をしていることをもって〈帝国主義〉と呼ぶ。
 日本は当時、以下の植民地を領有していた。
 台湾、澎湖諸島、〈関東州〉、南樺太、韓国、南洋群島。 
1−2
 日本は南満州に、〈関東州〉〈南満州鉄道〉〈関東軍〉を基軸とする〈満蒙特殊権益〉を設定した。
 〈特殊権益〉とは、日本が独占的に持っている権益を言う。南満州鉄道や関東軍の居留権だ。
当時、一個師団を居留させていた。一個師団は平時で一万人、戦時には二万人の兵力だ。
一万人の兵力を常駐させるのは〈特殊〉なことだ。
 〈一般権益〉という言葉もある。日本に限らず他の列強も持っている権益を指す。
中国での居留地(租界と呼ばれるミニ植民地)の権益などを指す。

8・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:45
2;日本は、世界的軍事大国だった。
2−1
 日本の海軍力は、世界三位だった。アメリカとイギリスが同率1位、4位がフランス、5位がイタリア。
 日本の陸軍力は、常備17個師団(23万人)だった。
2−2
 日本は〈五大国(英、米、仏、伊、日)〉の一角を占めていた。
 この当時、世界最大の大国は、イギリスだった。アメリカは、まだ世界への発言力は
イギリスより小さかった。
 日本は〈国際連盟〉常任理事国の一つだった。日本の発言力はけっこう強かった。
日露戦争以来、イギリスと長く日本は同盟していた。政治的発言力を日本が持てたのは
日本の背景にイギリスがいたからだ。

9・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:45
3;日本の経済基盤は、不安定・脆弱だった。
3−1
 日本は英米圏依存型の経済構造だった。
原材料を英米圏から輸入し、製品(絹織物)を英米圏に輸出していた。
 国際金融で、日本は英米に依存していた。日本は国家予算を上回る対外債務を抱えていた。
対外債務とは、外国に売った日本の国債のことだ。平たく言うと外国へ借金することだ。
日本は外債を返すため、新たな外債を売っていた。(日露戦争のとき日本は外債をイギリスと
アメリカに大量に売っていた)
 日本は軍事大国として英米と対峙しつつも、経済的に英米に依存していた。
そこから、2つの路線が現れた。
  A;英米協調路線。
  B;英米依存を打破し、アジア独自の経済圏を作る路線。結果的に、アジアへ力づくで進出する。
3−2
 日本は農業国家だった。
 1930年(昭和5年)の産業別就業人口比率は以下だ。
 第1次産業 49%、第2次 20%、第3次 29%
日本は農業国家であることを利用して、軽工業国家化した。工業の原料は農業だった。
外貨は絹で稼いでいた。
第1次大戦時に、日本は好景気を迎えた。戦後、欧州経済が復興すると、日本は不況になった。
3−3
 恐慌が連続した。
 1920年戦後恐慌。1923年震災恐慌(関東大震災によりインフラが壊れ、恐慌になった)。
1929年金融恐慌(震災以来のツケが表に出た)。

10・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:46
4;1930年代初頭の、日本の外交スタンス
4−1
 主流路線;英米協調路線。国際連盟規約とパリ不戦条約による拘束を支持する。
 担い手;宮中グループ、民政党、財界主流、海軍主流
4−2
 傍流路線;〈アジア・モンロー主義〉路線。(〈アジア・モンロー主義〉という言葉は、当時の言葉だ。)
アジアにおける日本の排他的な覇権を求める路線だ。
 担い手;陸軍、右翼、政友会。

5;天皇の地位と、〈憲政の常道〉
5−1
 〈憲政の常道〉とは、衆議院多数派政党のリーダーが首相になることを言う。
明治大正期には、〈元老(天皇から与えられる資格)〉が、首相を決めた。
昭和には、〈元老〉は、西園寺公望ただ一人になった。
〈元老〉がいなくなり、利益調節者がいなくなった。昭和期には、天皇が全てを決定しなくては
ならなくなった。
 1928年〈即位の大礼〉〈大嘗祭〉を契機として、天皇に極端な権威主義化が行なわれた。
5−2
 1925年、男子普通選挙と抱き合わせで、〈治安維持法〉が成立した。
〈治安維持法〉は、「何かした」人を罰するのではなく、「何かをしようと考える」人(=何もしていない人)
を罰する法律だ。 →【資料】
〈治安維持法〉は、「国体の変革」概念を拡大し、反政府勢力弾圧強化に使われた。
また、植民地独立運動弾圧にも〈治安維持法〉は使われた。
 〈治安維持法〉は、1945年敗戦後もしばらく生き残った。〈治安維持法〉が停止・廃止されたのは
1945年10月のことだ。

11・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:46
三 世界大恐慌と昭和恐慌 

1;世界恐慌のはじまり
 1929.10.24 ニューヨーク・ウォール街での株価暴落。世界的大不況に。不況は1933年まで
4年間続いた。
欧州の失業者は2000万人、資本主義国の総生産は44%減。世界貿易65%減。
 ただし、当時、ウォール街の株価暴落を世界恐慌の始まりだと認識した人はほとんどいなかった。

2;浜口雄幸内閣の経済政策
 田中内閣が1929.7.2に倒れる。浜口雄幸内閣が7.2成立。
 井上準之助蔵相による〈緊縮財政・金解禁・非募債(国債を発行しない)〉政策。(井上財政)
井上財政は、デフレ誘導により、経済の体質強化(産業合理化)、財政健全化を図った。
金本位制復帰により、通貨価値と為替の安定(貿易・海外投資促進)を図った。
これらは、デフレ政策だった。世界恐慌が進行していることに当時の人々は気づいていなかった。
不況下でデフレ政策を行ってしまった。

12・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:47
3;空前の不況に
3−1
 金の海外流出、国内通貨量の減少。物価・賃金が下落。金づまり。
3−2
 輸出・輸入の激減。赤字構造も変わらず。
 輸出 21.5億円(1929)→ 14.7億円(1930)→ 11.5億円(1931)
 輸入 22.2億円(1929)→ 15.5億円(1930)→ 12.4億円(1931)
輸出が半分になり、養蚕農家を直撃した。
3−3
 基幹産業だった絹紡績業(総輸出額20〜30%)に大打撃。
生糸価格暴落(半値以下)。中小紡績業者の倒産続出。
貿易の主役は、欧米向け生糸から、アジア向け綿糸・綿布へ、貿易構造と産業構造に
大変化をもたらす。
3−4
 物価下落が農村を直撃。
 米価・繭価の下落。1929年を100とすると、1931年には米64、繭42。
農家の収入は半減した。デフレ政策なので、価格は下がり続けた。
地代・小作料は低下しなかった。農民は地主へ借金することとなり、借金地獄へ。

13・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:47
4;失業と窮乏
4−1
 労働者の失業。1931-1932年には、15%前後の失業率。
 大学生も就職難。大学生の就職率が1932年度35%、1933年度40%。当時、大学への
進学率は極めて低く、大学生は超エリートだったにも関わらず。
4−2
 賃金低下。賃金指数:1929年を100とすると、1931年は85。
4−3
 労働者の帰農。農村からの再流出。
 労働者は職がなく農村へ続々と帰ったが、農村もまた窮乏していて、農村から人が
流出する、という現象が起きた。
 1930年は豊作だった。米価格が下落し、〈豊作貧乏〉となった。
 1931/1934年は大凶作だった。娘の身売り、〈欠食児童〉が続出した。

14・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:47
【資料1】
  治安維持法(1925年4月22日公布、1928年6月29日公布施行)
第一条 1;国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し
又は情を知りて之に加入したる者は十年以下の懲役又は禁固に処す
     2;前項の未遂罪は之を罰す
第二条 前条第一項の目的を以て其の目的たる事項の実行に関し協議を為したる者は
七年以下の懲役又は禁固に処す
第三条 第一条第一項の目的を以て其の目的たる事項の実行を扇動したる者は
七年以下の懲役又は禁固に処す
第四条 第一条第一項の目的を以て騒擾、暴行其の他生命、身体又は財産に害を加う
へき犯罪を扇動したる者は十年以下の懲役又は禁固に処す

【資料2】
  治安維持法改正の件(1928年6月29日、勅令129号)
第一条 1;国体を変革することを目的として結社を組織したる者又は結社の役員其の他
指導者たる任務に従事したる者は死刑又は無期若は五年以上の懲役若は禁固に処し
情を知りて結社に加入したる者又は結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は
二年以上の有期の懲役又は禁固に処す
     2;私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したる者、結社に加入
したる者又は結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は十年以下の懲役又は
禁固に処す
     3;前二項の未遂罪は之を罰す
第二条中「前条第一項」を「前条第一項又は第二項」に改む
第三条及第四条中「第一条第一項」を「第一条第一項又は第二項」に改む

15・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:47
講義の補足、質疑

 Q;清国は朝鮮に対する宗主国では? 日清戦争以前にも東アジアに植民地帝国が
あったことにならないか?
 A;前近代の中国と周辺の朝貢国との関係は、近代の宗主国/植民地関係ではない。
〈冊封体制〉〈中華帝国システム〉と呼ばれる。皇帝の国家である中国は、周辺の国王を
〈王〉として承認する代わりに、〈王〉は皇帝に朝貢することを義務付けた。中国皇帝は
朝貢国の内政に干渉しないのが原則だった。中国の代表が朝貢国に常駐することは
ない。朝貢国は中国に服属していても、独立国家(主権国家)だった。
 近代の植民地は、宗主国に完全に支配され、独立を失っている。宗主国は植民地に
〈総督〉を派遣し一方的に支配する。植民地の住民は代表を宗主国の議会に送って
政策決定に関わることは、できなかった。

 〈南満州鉄道株式会社(満鉄)〉補足
 満鉄は、日露戦争で日本が得た東清鉄道の一部(長春〜旅順)と付属利権の経営のために
1906年設立された半官半民の国策会社だ。満鉄は鉄道だけでなく、撫順炭鉱・鞍山製鉄所を
中心に、交通・鉄工業・商業・拓殖などを多角経営していた。満鉄は日本の満州経営の中核
であり、満州事変以後全満州に勢力を伸張し、一大コンツェルンを形成した。
鉄道部門は〈満州国〉成立に伴ない、満州国国有とされ、満鉄が委託経営した。

16・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/05(月) 02:48
 〈憲政の常道〉補足
 〈憲政の常道〉は、単純化して言うと、衆議院の多数党党首が首相になるという慣習のことだ。
貴族院と官僚勢力を基盤にする清浦奎吾内閣のもとで行なわれた1924年5月の総選挙で、
普通選挙実現&貴族院改革を唱えた護憲三派が勝利し、憲政会総裁加藤高明を首相とする
護憲三派内閣が成立した。
以後、1932年の五・一五事件まで、元老西園寺公望も政党を尊重し、原則として衆議院の
多数党の党首を後継首相に推薦し、政党内閣が政権を担当することが慣例となった。
この慣例が当時〈憲政の常道〉と呼ばれた。
 〈憲政の常道〉の時期は、二大政党である憲政会(のち立憲民政党)と政友会が交互に
政権を担当したが、多数党党首が内閣を組織して政策に失敗した場合、総選挙がないときは、
野党第一党党首が首相に任命された。このように与党が失敗した場合には、野党第一党が
政権をとるということを含めて〈憲政の常道〉と呼ぶ場合もある。

17・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/06(火) 05:15
>>2-16 日本現代史 第2講 昭和初期の〈大日本帝国〉

18第3講 満州事変と「満州国」:2003/05/18(日) 15:46
第3講 満州事変と「満州国」

Ⅰ;満州事変の勃発と関東軍による満州占領

 中国大陸は軍閥が割拠していたが、1920年代半ばから、中国では蒋介石により
統一運動が始まった。これを「北伐」(北方軍閥掃討)という。>>5
 中国統一されると権益を失ってしまうことを、関東軍>>3は恐れた。
関東軍は、満州を武力で奪取しようと考えた。>>6

 なお、「関東軍」が正式名称だが、俗称として「満州駐屯軍」とも呼ぶ。

1 関東軍による満州の占領
1−1
 奉天近郊・柳条湖で、日本軍は自作自演で「満鉄線爆破事件」を起こした。
1931.9.18 午後10時20分頃のことだ。
 それをきっかけとして、戦闘行為が始まった。
 この自作自演を、関東軍司令は知らなかった。
 関東軍No3の板垣征四郎と、石原莞爾による、自作自演だった。

19・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:46
1−2
 関東軍(第2師団+独立守備隊6個大隊、約1万500人)は、計画的軍事行動を
開始した。
 第2師団は、8000人からなる、東北出身兵士を集めた師団だった。

1−3
 日本政府は、「不拡大声明」を出す。
  〔資料;「満州事変に関する政府第1次声明(1931年9月24日)」参照。〕
ただし、この「不拡大声明」は、9月18日の「満鉄線爆破事件」から、一週間も
後に出されている。政府の中で混乱があったことを示している。
 日本政府は、「満州事変」を、突発的事変だと思っていた。
 だが、関東軍(板垣征四郎&石原莞爾)は、計画的に事変を遂行した。

20・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:46
1−4 時間経過

 1931.09. 18  柳条湖事件。

    09. 21  朝鮮軍(林銑十郎司令官)、独断で満州へ越境攻撃。
 林銑十郎は、「天皇からの命令なしに、独断で」軍隊を動かした。
明治憲法の枠では、これは「統帥権干犯」だ。
 「満鉄線爆破事件」を起こす前から、林銑十郎と関東軍はうち合わせ済みだった。
当初からのうち合わせ通り、林銑十郎は「統帥権を干犯」して、軍を動かした。

    10. 08  錦州爆撃(1932. 1.2 占領)。
 「錦州」は、張学良の本拠地だ。日本軍は錦州を空爆した。これは第一次大戦以来
初めての都市空襲だ。民間人と軍事施設の区別をつけない、無差別爆撃だ。
これは、ハーグ陸戦条約に違反していた。

    11. 19  チチハル占領。
 チチハルは、満州北部。ソ連の勢力圏だ。
 満州南部は元々日本軍の勢力圏だった。そこまでなら列強に認められるだろう、
という観測があった。だが、満州北部・ソ連勢力圏まで占領した。

 1932. 02. 05  ハルビン占領。満州の主要都市の占領終わる。

    03. 01 「満州国」建国宣言。
 溥儀は、はじめ「執政」として就任した。1934年に「皇帝」となる。

 1933年夏までに、旧軍閥系の抗日武装集団は壊滅した。ゲリラによる抵抗は続いた。

21・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:47
2 満州占領は、なぜ「成功」したのか?
2−1
 英米ソには、それぞれ介入できない事情があった。
イギリスは当時インド対策でおおわらわだった。
アメリカは恐慌対策の最中だった。
ソ連は第一次五ヵ年計画の進行中だった。それぞれ、それに専念していた。
 日本は、ソ連介入を最も恐れていた。

 「スチムソン声明」(1932.1.7)が出されたが、これも実質制裁はなかった。

2−2 
 蒋介石は、共産主義勢力への攻撃に全力をあげていた。
東北(満州)の問題を二の次にした。
 当時、中国共産党は瑞金に追い詰められていた。蒋介石は国共内戦を優先させた。

2−3 
 日本国内にも、不況・人口・食糧問題打開のため、「大陸進出」を待望する気運があった。
当時、日本は「人口過剰」だと思われていた。当時の日本の人口は6000万人ほどだ。
不況打開のための大陸進出・満蒙開拓、と、宣伝されていた。
 「満州国」成立以前は、自由貿易/貿易立国として日本は満州に進出していた。

22・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:47
2−4
 「満州」占領を、日本によるアジア支配の第一歩としようとする明確な構想をもった
軍事戦略家・石原莞爾が関東軍の要職(作戦参謀)についていた。

2−5
 日本政府(若槻内閣)は、クーデターを恐れ、軍部の独走を抑制しなかった。
(翌年、5.15事件が起きる。「国家改造運動」が進行中だった。)

23・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:47
Ⅱ;石原莞爾の戦争構想

1 石原の「満州」占領のシナリオ
1−1
 「参謀旅行」での討議資料として、石原莞爾は「満蒙問題私見」(1931.5)を作成した。
 石原莞爾の「満蒙問題私見」は、関東軍の理論的支柱となった。

 満州は、石炭・大豆の産地だった。大豆は満州が世界最大の産地だ。大豆は欧米へ
輸出できる世界商品だ。油・マーガリン・飼料として輸出できる。米は欧米へ輸出できない。
欧米に輸出できる世界商品に乏しい日本にとって、世界商品の大豆は魅力的だった。
 満州事変は、「国家改造」のワンステップである、と、石原莞爾は考えていた。
満州事変は、一種のクーデターだと考えるべきだ。

1−2 作戦計画
 「張作霖爆殺事件」(1928.6)>>6からの教訓として、「関東軍が主導して既成事実を作る
べきだ、その際軍中央に協力者を作っておくべきだ」と、石原莞爾は考えた。
 1929年10〜12月の東支鉄道をめぐる中ソ紛争からの教訓として、「張学良軍は砲爆撃に弱い」
と、石原莞爾は考えた。
 結果、「北大営(奉天北方の張学良軍兵営)」を重砲で砲撃し、錦州を爆撃した。(1931.10 )

1−3
 国際連盟によるリットン調査団の派遣と国際的批判をかわすため、満州「占領」論から
満州「独立」論へ、1931.12 に、石原莞爾は方針転換する。
 強圧的印象をやわらげ、華北進出の条件をつくる、という意図もあった。

24・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:48
2 石原の戦争観
2−1 
 石原莞爾(1889〜1949)は、独特な戦争史研究をした、「日蓮主義」者だ。
 「日蓮主義」という言い方は、当時の呼称だ。
マルクス主義への対抗意識から、「日蓮主義」と、当時の日蓮信者は自称した。

 「日蓮主義」は、当時、「国柱会」という組織が勢力を伸ばしていた。
石原莞爾は「国柱会」の一員だった。(宮沢賢治も「国柱会」に参加していた)

 「国柱会」の指導者は、田中智学 という名だ。田中智学は独特の「日蓮主義」
思想を持っていた。
「日本には、世界を統一する使命がある」という考えだ。
 田中智学は、「八紘一宇」スローガンの作成者だ。
「八紘一宇」とは、「四方八方を一つの家とする」という意味だ。
戦後、右翼の笹川良一が「世界は一家、人類は兄弟」とテレビで宣伝していたのは、
この「八紘一宇」を言い換えたものだ。

26・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:48
2−2
 人類闘争力の極限に達する「世界最終戦」をもって戦争は消滅し、人類は統一される、
と、石原莞爾は考えていた。
 〔参照:『最終戦争論』〕http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122038987/qid=1053236824/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-5557652-3102733

[3]「世界最終戦」の思想的特徴
 「東洋文明の王者」たる日本と、「西洋文明の覇者」たるアメリカによる、航空兵力中心の
一大決戦になる、と、石原莞爾は考えていた。
 こういう考え方の人間は珍しかった。軍人はふつうは対ソ戦を考えていたからだ。

[4]「世界最終戦」に至る道
 第1段階:「満蒙」武力占領。必要ならば「国家改造」。これにより、人的・物的資源を
確保する。
 第2段階:中国を支配し、「日満支ブロック」を建設。これにより、生産力基盤を拡充する。
 第3段階:アジア全域を支配する。「東亜聯盟」を結成。これにより、軍需工業を発達させる。
 第4段階:ソ連を打倒し、しかる後、日米決戦にのぞむ。そのための軍事力の大増強めざす。

  満州事変は、来るべき日米「世界最終戦」の第一段階と、位置付ける。

27・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:48
Ⅲ;満州事変と国内政治

《関東軍による「統帥権干犯」》を訴える勢力が、日本国内に存在しなかった。
 「満州事変」での関東軍の行動は、完全に「統帥権干犯」だった。当時の参謀総長はそう考え、
うろたえていた、という記録が残っている。
 マスコミや政府は、「満州事変」は偶発的アクシデントだと思っていた。もうじき治まるだろう、
と、考えていた。

1−1
 マスコミは、関東軍の行動を追認し、戦争熱を煽った。ロンドン条約の時とは、一変していた。
1−2
 3月事件・10月事件という、陸軍によるクーデター未遂事件がこれまでにあった。
(それぞれかなりショボイ事件だが)
 若槻礼次郎内閣は、クーデターへの恐怖のため、適切に手を打たなかった。
(若槻は民政党だった。民政党は軍とマスコミのキャンペーンにより、非難対象になっていた)
1−3
 陸軍中央も関東軍を抑える具体的な手だてを発動しなかった。出兵論が支配的だった。
1−4
 天皇・天皇側近らは、楽観していた。短期間で解決と判断し、武力行使を支持した。

28・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:48
2 若槻・民政党内閣の崩壊
2−1
 若槻内閣は、1931.12.11に、総辞職した。
 犬養毅政友会内閣が作られた。これが戦前最後の政党内閣になった。
2−2
 政党主導の英米協調路線(幣原外交)と、緊縮財政(井上財政)が、挫折した。
軍需景気で景気を引っ張り上げる、という論が強くなった。

3 満州事変の政治史的意味
3−1
 クーデターへの恐怖と、戦争熱によって、政党主導の軍縮時代が、終わる。
3−2
 ワシントン体制の一角が、「満州事変」により崩壊する。これにより、英米の対日不信が
強まった。
3−3
 陸軍の国内政治への発言力が、飛躍的に強まった。政党政治否定の宣伝(プロパガンダ)が、
さらに強まった。
3−4
 日本の外交的孤立が始まり、独・伊へ日本は接近を始める。
 1933.1 熱河侵攻により日本は孤立し、国際連盟脱退へ至ることとなる。

29・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:49
Ⅳ 「満州国」の実態
1 国際連盟リットン調査団の報告
1−1
 日本の措置を「自衛の範囲」とは、リットン調査団は認めなかった。
1−2
 「満州国」を「自治運動」の結果とは、リットン調査団は認めなかった。
1−3
 リットン調査団の報告書は、「満州における日本の権益」は、認めていた。
日本にとって必ずしも不利な報告書ではなかった。
 リットン報告書は、満州国を国際連盟統治下へ置こう、という提案だった。
 日本は国際連盟からの制約を望まず、国際連盟から脱退することになる。

2 「満州国」執政・溥儀(のち皇帝)
2−1
 「満州国」は、国際的に認知されなかった。中国では現在でも「偽満州国」と
呼称されている。
2−2
 関東軍と日本人官吏による支配が、「満州国」の実態だった。
「五族協和」「王道楽土」のスローガンが掲げられた。
「五族」とは、日本民族・漢民族・満州民族・蒙古民族・朝鮮民族のことだ。
 「独立国」としては、満州国は有名無実だった。〔資料:溥儀の書簡〕
 「匪賊討伐」の名の元、毎月、数百人の抗日ゲリラを処刑しなくてはならなかった。

30・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:49
〔資料〕満州事変に関する政府第1次声明(1931年9月24日)
〔一〜三 省略〕
四 、
 帝国政府は九月十八日緊急閣議を開きて此の上事態を拡大せしめさることに極力努むるに
方針を決し陸軍大臣より之を満州駐屯軍司令官に訓令せり 
 九月二十一日長春より吉林に一部 隊出動せるも是れ同地方の軍事占領を行はむか為に非すして
満鉄に対する側面よりの脅威を除 かむとせるに外ならす 
 従て此の目的を達するに至らは我出動部隊の大部分は直に長春に帰還する筈なり
 尚九月二十一日に至り満鉄沿線の不安に鑑み朝鮮駐屯軍より混成一旅団兵員四千を新に
満州駐屯軍司令官の麾下に属せしめたるも満州駐屯軍の総兵力は尚条約所定の制限内に止まり
固より対外関係に於ける事態を拡大せるものと謂ふへからす
五 、
 帝国政府か満州に於て何等の領土的慾望を有せさるは茲に反復縷説するの要なし
 我か期待する所は畢竟帝国臣民か安んして各般の平和的事業に従事し其の資本又は労力を以て
地方の開発に参加するの機会を得せしめむとするにあり
 自国竝自国臣民の正当に享有する権利利 益を擁護するは政府当然の職責にして満鉄に
対する危害を排除せむとするも亦此の趣旨に外ならす〔以下 省略〕
 出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)、181-182頁。

 〔これ↑がいわゆる「不拡大声明」だ。引用部第一行に、事態を拡大させない旨が
書かれている。〕

31・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:50
 〔資料〕石原莞爾「満蒙問題私見」(1931年5月)〔注1〕
要 旨
一 満蒙の価値
  政治的 国防上の拠点/朝鮮統治/支那指導の根拠
  経済的 刻下の急を救ふに足る〔注2〕
二 満蒙問題の解決〔注3〕
  解決の唯一方策は之を我領土となすにあり
之か為には其正義なること及之を実行するの力あるを条件とす〔注4〕
三 解決の時期
  国内の改造を先とするよりも満蒙問題の解決を先とするを有利とす〔注5〕
四 解決の動機
  国家的 正々堂々
  軍部主動 謀略に依り機会の作製
  関東軍主動 好機に乗す
五 陸軍当面の急務
  解決方策の確認/戦争計画の策定/中心力の成形〔注6〕
〔本文 中略〕
第三 解決の時期
 若し戦争計画確立し資本家をして我勝利を信せしめ得る時は現在政権を駆り〔注7〕積極的
方針を執らしむること決して不可能にあらす
 殊に戦争初期に於ける軍事的成功は民心を沸騰団結せしむることは歴史の示す所なり〔中略〕
第四 解決の動機
 国家か満蒙問題の真価を正当に判断し其解決か正義にして我国の義務なることを信し
且戦争計画確定するに於ては其動機は問ふ所にあらす
 期日定め彼の日韓併合の要領により満蒙併合〔注8〕を中外に宣言するを以て足れりとす
 然れ共国家の状況之を望み難き場合にも若し軍部にして団結し戦争計画の大綱を樹て得るに
於ては謀略により機会を作製し軍部主動となり国家を強引すること必すしも困難にあらす
 若し又好機来るに於ては関東軍の主動的行動により回天の偉業をなし得る望み絶無と称し難し
〔以下 省略〕
 出典:角田順ほか編『太平洋戦争への道 別巻・資料編』(朝日新聞社、1963年)99-101頁。
原文はカタカナ。

32・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:50
 注釈・解説
 〔注1〕石原莞爾「満蒙問題私見」は、満州事変の四ヶ月前、参謀旅行の時配ったものだ。
 〔注2〕「刻下」とは、現在、という意味だ。世界商品である大豆を手に入れることで、
日本経済を安定させることができる、というのが、この文の趣旨だ。
 〔注3〕「満蒙問題の解決」とは、日本がいかに安定的に影響力を与えることができるか、
ということだ。
 〔注4〕満州を日本の領土とするのが「正義」であるという正当化をするために、
日満同祖論がこの頃盛んに宣伝された。満州民族と日本民族は同じ民族だから満州を領土と
するのは正当性がある、という論を立てようとした。「源義経=ジンギスカン説」も、
この頃「正当化」のために流布された。
 〔注5〕「国内の改造」とは、政党内閣打倒・財閥打倒のことだ。
 〔注6〕「中心力」には、皇族内閣を石原莞爾は構想していた。
 〔注7〕「現政権を駆り」とは、現政党内閣を使って、という意味だ。
 〔注8〕この時点で石原莞爾は「満蒙併合」を構想していたが、後に「満蒙独立」へ
方針転換し、「満州国」が作られる。

33・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:50
〔資料〕満州国執政溥儀の関東軍司令官宛書簡(1932年3月10日)
〔外務省仮訳〕
 書簡を以て啓上候 〔中略〕……茲に左の各項を開陳し貴国の允可を求め候
一、弊国は今後の国防及治安維持を貴国に委託し其の所要経費は総て満州国に於て之を負担す
二、弊国は貴国軍隊か国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理
竝新路の敷設は総て之を貴国又は貴国指定の機関に委託すへきことを承認す
三、弊国は貴国軍隊か必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す
四、貴国人にして達識名望ある者を弊国参議に任し其の他中央及地方各官署に貴国人を
任用すへく其の選任は貴軍司令官の推薦に依り其の解職は同司令官の同意を要件とす
 前項の規定に依り任命せらるる日本人参議の員数及ひ参議の総員数を変更するに当り
貴国の建議あるに於ては両国協議の上之を増減すへきものとす
五、右各項の趣旨及規定は将来両国間に正式に締結すへき条約の基礎たるへきものとす
 出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)217頁。

34・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:51
〔資料〕昭和天皇による関東軍への勅語(1932年1月8日)
  関東軍ヘ勅語
  曩ニ満洲ニ於テ事変ノ勃発スルヤ自衛ノ必要上関東軍ノ将兵ハ果断神速寡克ク衆ヲ制シ
速ニ之ヲ芟討セリ爾来艱苦ヲ凌キ祁寒ニ堪ヘ各地ニ蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ克ク警備ノ任ヲ完ウシ
或ハ嫩江斉々哈爾地方ニ或ハ遼西錦州地方ニ氷雪ヲ衝キ勇戦力闘以テ其禍根ヲ抜キテ
皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ嘉ス汝将兵益々堅忍自重以テ東洋平和ノ基礎ヲ確立シ
朕ガ信倚ニ対ヘンコトヲ期セヨ
 出典:井原頼明編『増補 皇室事典』(1942年、冨山房、復刻版1982年)467頁。

35・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/18(日) 15:51
〔資料〕暫行懲治〔ちょうち〕盗匪法(満洲国・1932年9月7日公布)第七条・第八条
第七条 
 軍隊、部隊をなす盗匪の剿討〔そうとう〕粛正するに当りては臨陣格殺しうる〔注1〕のほか、
該軍隊の司令、その裁量によりこれを措置〔注2〕することを得。
第八条
 高級警察官の指揮する警察隊、部隊をなす盗匪を剿討するにあたり、その臨陣格殺しうるのほか
現場において盗匪を逮捕し、事態急迫にして猶予を許さざる事情あるときは、該高級警察官、
その裁量によりこれを措置することを得。
 出典:加藤豊隆『満洲国警察小史』(財団法人・満蒙同胞援護会愛媛県支部、1968年)93頁。
 なお、「暫行懲治盗匪法」は、1942年12月に廃止され、代って「治安維持法」が公布されたが、
この「臨陣格殺」の規定は「当分の間その効力を有す」とされた(同前、98頁)。

〔注1〕「臨陣格殺」とは、その場で殺していい、という意味だ。裁判の否定であり、
法治国家の否定だ。
〔注2〕「措置」とは、処刑のことだ。

36カマヤン:2003/05/18(日) 15:58
>>29
日本はリットン調査団の後、国際連盟を脱退するが、どうも、「辞めちゃうぞ
辞めちゃうぞ」と言っていれば、イギリスあたりが引きとめてくれるのではないか、
と、期待していたっぽい。
日本が脱退することは、国際連盟にとっても痛手だからだ。
日本は脱退を宣言した後も期日まで国際連盟の事務仕事に職員を送っていた。
「イギリスが引きとめてくれないかなあ」と期待していたっぽいが、
イギリスは日本を引き止めなかった。
メッセージが届かない、想いが通じないというのは、よくあることだ。

37第4講 2・26事件と「国策の基準」:2003/05/21(水) 01:58
第4講 2・26事件と「国策の基準」

 関東軍による「統帥権干犯>>18-22」は、1934年天皇勅語により、天皇から承認された。
 関東軍司令部に掲げられた垂幕には、「王道楽土」「五族協和」「南無妙法蓮華経」と
あった。日蓮主義者の石原莞爾による影響だろうか。
 石原莞爾にとって、満州占領>>18-29は、「国家改造」の一端だった。

Ⅰ;「国家改造」グループの形成

 1920年代末、世界恐慌により、「国家改造」論、「国家改造」運動が激しくなる。
「国家改造」論とは、天皇中心の国をもう一度作り直す、というものだ。
 「国家改造グループ」は、一枚岩ではなく、内ゲバを繰返した。

38・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:58
1;恐慌と政党政治の自壊

 「世界恐慌」へ政党政府は適切な対応ができなかった。
それを「国家改造グループ」が騒ぎ立て、政党政治の息の根を止めた。
それ以降、日本はシビリアンコントロールを失う。

1−1;
  ロンドン条約は、政党政治主導による軍縮条約だった。陸海軍の予算を削減する条約だった。
必ずしも日本に不利な条約ではなかった。
 1930年は、政党政治の頂点の年だ。
 だが、野党政友会と右翼(その背後の軍)は、これを天皇の「統帥権」を「干犯」している、
と、騒ぎ立てた。>>4 >>8-10
 政党政治排斥の空気が形成されていく。

39・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:58
1−2
 政党の自壊現象が起きた。政党排斥の空気を、政党は自ら助長した。

1−2−1
 政権党は、汚職・金権体質が激しく、手段を選ばぬ倒閣戦術を用いた。
 当時は政友会・民政党の二大政党制だった。双方競い合って利権獲得していた。
権力を握っている間に利益誘導した。

1−2−2
 政権党は露骨な利益誘導による選挙対策を行った。
この当時の言葉として「我田引鉄」という言葉がある。
自分の選挙区に鉄道を引くことを言う。
経済効率を無視して、自分の選挙区へ線路を引く、ということがこの当時行われた。
この計画性のない路線行政が、戦後、国鉄赤字の原因となる。

1−2−3
 民政党は経済政策に失敗した。>>11-13
 民政党は、デフレ政策だった。不況化にデフレ政策を行った。
「生活苦は、政党政治のせいだ」とされた。

 この「民政党の経済政策失敗」とロンドン条約「統帥権干犯問題」を騒ぎ立て、
「国家改造(政党政治を打倒し、天皇中心の国を作る)」運動が勢いをつける。

40・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:58
2;「国家改造」グループ諸派の形成。

A;
「国家改造グループ」(「ワシントン体制打破」を目的とするグループ)形成。
 中心人物は橋本欣五郎(当時中佐)と、大川周明。
彼らは、「三月事件(1931.3)」「十月事件(1931.10)」というクーデター未遂事件を起こした。
この中心グループは、「幕僚グループ」だ。
未然に情報を知った陸軍は「幕僚グループ」を逮捕しなかった。
「幕僚グループ」を「料亭に軟禁」した。「幕僚グループ」は、料亭の中で遊び呆けた。
「青年将校グループ」と「農村主義者」は、「幕僚グループ」を見放した。

41・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:59
B;Aのグループは、「十月事件」の後、三つのグループに分かれる。

 B-1;「農本主義者」
 民間人のグループ。「日蓮主義」と結びつく。
このグループは後に「愛郷塾」となり、「血盟団」と行動をともにする。
B-3の「幕僚グループ」とは対立。

 B-2;「青年将校グループ」
 「青年将校」は、兵隊を教育する人たち。
政治力を持たなかったので、政治的欲求不満から「国家改造」運動に参加した。
B-3の「幕僚グループ」とは対立関係。
「青年将校グループ」は後に、「大川周明」派と、「北一輝」派に分派する。

 B-3;「幕僚グループ」
 「幕僚」は軍の中のエリート。B-1の「農本主義者」&B-2の「青年将校グループ」とは対立。
後に「幕僚グループ」は、「橋本欣五郎」・「永田鉄山・東条英機」派・石原莞爾「満州組」に分裂。

42・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:59
C;Bの三つのグループは更に分裂する。

 C-1;「愛郷塾」
 橘孝三郎が代表。水戸を根拠地とする。B-1「農本主義者」の流れ。5.15事件を起し、壊滅。

 C-2;「血盟団」
 井上日召が代表。井上日召は坊主。茨城を根拠地とする。愛郷塾とともに、5.15事件を起し、壊滅。

 C-3;「大川周明」派
 大川周明は大アジア主義の学者。B-2「青年将校グループ」の流れ。
「愛郷塾」「血盟団」とともに5.15事件を起し、壊滅。5.15事件では、北一輝派をも襲撃する。

 C-4;「北一輝」派
 北一輝自身は民間人。B-2「青年将校グループ」の流れ。後に《隊付「皇道派」》となり、
2.26事件を起し、壊滅。

43・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 01:59
 C-5;「橋本欣五郎」
 三月事件・十月事件の中心人物。B-3「幕僚グループ」の元中心人物。
「農本主義者」「青年将校グループ」に見放され、勢力を失う。「永田鉄山・東条英機派」と対立。

 C-6;「永田鉄山・東条英機派」
 「幕僚グループ(B-3)」から分派。
後に、小畑・柳川による《幕僚「皇道派」》と、永田・登場の「統制派」に分裂し、
激しく抗争する。
《幕僚「皇道派」》は、《隊付「皇道派」》とともに2.26事件を起し、壊滅。
「統制派」は軍の中心グループとなる。

 C-7;石原莞爾「満州組」
 永田鉄山が「皇道派」に殺害され、権力の空白ができたところに台頭。「統制派」と対立。
「満州組」は満州事変を起す。日中戦争により、石原莞爾失脚。

44・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:00
3 「国家改造」派のテロ・クーデター未遂事件の続発

1930.11.14 浜口雄幸首相狙撃事件(翌31年 8月 浜口死去)

1931. 3.  三月事件:
桜会(橋本欣五郎)・大川周明らによる宇垣内閣樹立クーデター未遂。
杉山元次官・小磯国昭軍務局長ら陸軍首脳も事件に関与していた。

1931.10.  十月事件:
橋本欣五郎らによる軍部内閣樹立クーデター未遂事件。

1932. 2. 9
井上準之助 前蔵相が暗殺される。
1932. 3. 5
団琢磨 三井合名理事長が暗殺される。
 「血盟団事件」:井上日召らの「一人一殺」思想。
 「血盟団」という名は自称した名ではなく、新聞がつけた名前だ。
(余談だが「ひめゆり部隊」という名も戦後、「ひめゆりの塔」が建てられたことに
ちなんで新聞がつけた名前だ。)
 井上準之助暗殺と団琢磨暗殺は、当時、それぞれ無関係な事件だと思われていた。
「血盟団」事件に軍人が参加していないのは、1932年は、「上海事件」で、軍人が不在だったからだ。

45・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:00
1932. 5.15 5.15事件:
海軍青年将校らにより、犬養毅首相暗殺。
愛郷塾(橘孝三郎主宰)・陸軍士官候補生・血盟団残党も事件に参加していた。
軍人と民間人合同による暗殺事件だ。
愛郷塾は変電所を襲い、停電を狙った。「帝都暗黒化計画」。
農本イデオロギーを、都市民に判らせよう、という考えから、停電を狙った。
5.15事件は、最も原理主義的だった。

46・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:00
Ⅱ;2.26事件とその歴史的意味

 陸軍の最大派閥は、長州閥だった。第2派閥は薩摩閥、第3派閥はずっと少数な佐賀閥。
青年将校グループは政治力を持ってなかったので、真崎・荒木の「佐賀閥」を担いだ。
彼らを「皇道派」と呼ぶ。
永田鉄山は、出身地中心主義から、イデオロギー中心主義へ陸軍を変えようと考えた。
永田鉄山のグループを「統制派」と呼ぶ。
長州閥を引継いでいたのは、宇垣だった。

1;皇道派と統制派の抗争
1−1;
《青年将校+真崎・荒木派幕僚(佐賀閥)》VS《永田派幕僚(反宇垣・反真崎)》
 隊付青年将校グループは、永田派幕僚を「幕僚ファッショ」と非難し、
「怪文書」を応酬した。
 「ファッショ」という言葉は、当時から悪口だった。
現在、「隊付青年将校グループ」は日本ファシズム運動の中心の一つとされているが、
「隊付青年将校グループ」は永田派を「ファッショ」と非難したのは歴史の皮肉だ。

47・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:00
1−2;
 永田鉄山は事務局長のとき陸軍大臣に働きかけ、真崎甚三郎を教育総監から罷免
させた(1935年7月16日)。
 事務局長とは、①陸軍大臣 ②次官 ③事務局長 と、陸軍大臣のラインではNo.3の
ポストだ。人事権を行使できた。
 陸軍では「三長官」と呼ばれる重要ポストがあった。陸軍大臣、陸軍総長、教育総監の
三つがそれだ。人事のとき、慣例としては「三長官」で議論して決めていた。
その慣例を永田は破った。
 これにより、「皇道派」と「統制派」の対立は、一挙にエスカレートした。

1−3;
 相沢三郎中佐が、永田鉄山軍務局長を殺害する(1935年8月12日)。

1−4;
 統制派は、青年将校(皇道派)の牙城・第一師団(東京)を、満州へ派遣することを
決定した(1935年12月)。
 第一師団は東京に置かれていた師団だ。この師団には皇道派が集まっていた。
「帝都防衛」の名目があるから、第一師団は関東軍(満州)へ送られることはないだろう、
と考え、皇道派人事を第一師団へ皇道派は集めていた。東京にある師団ならば、政治運動も
しやすかった。
 統制派は、「第一師団」を満州へ飛ばすことを決定した。「三月に満州へ派遣する」ことが
決定された。天皇からの命令なので、三月になったら満州へ第一師団は移動しなくてはならない。
 満州へ飛ばされる前に決起しなくてはならない、と、皇道派は考えた。これが2.26事件だ。

48・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:01
2;青年将校グループの蜂起(下士官兵 1,400名余を動員)
2−1;
 英米協調派の中心人物を蜂起軍は殺傷。
斉藤実内大臣は殺害される。高橋是清蔵相も殺害される。岡田啓介首相は生存する。
鈴木貫太郎侍従長は殺害される。
岡田啓介は、偶然家にいた同年輩の秘書が岡田と誤認され殺害され、岡田自身は
女中部屋に隠れ、生き残ることができた。

2−2;
 統制派(反真崎)の中心人物と目された渡辺錠太郎教育総監を蜂起軍は殺害する。

49・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:01
3;蜂起の失敗
3−1;
 皇道派青年将校は、政界・宮中への政治工作のパイプを持っていなかった。
 天皇も激怒した。
 青年将校らは、昭和天皇の弟の秩父宮に期待していた。秩父宮は弘前から出てくるが、
昭和天皇によって追い返された。
3−2;
 青年将校らは、政界は真崎がどうにかしてくれるだろう、と思っていた。
 皇道派青年将校が頼りにしていた真崎甚三郎が変心した。
真崎は27日には皇道派青年将校の蜂起に見切りをつけた。
3−3;
 皇道派青年将校には、「国家改造」の具体策がなかった。
           〔資料;《2・26事件「蹶起趣意書」》参照〕

50・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:01
4;2.26事件の歴史的意味
4−1
 それまで政治グループは、「皇道派」「統制派」「ワシントン体制維持派」の三つ巴だった。
その三つのうち、「統制派」だけが生き残った。
 2.26事件は、「国家改造」派(皇道派)が、ワシントン体制維持派(親英米派)を
殺戮した事件だ。
その事件処理を幕僚派(統制派)が行い、皇道派を壊滅させた。
 二つの政治グループが壊滅的打撃を受け、政治勢力の一元化が進行することとなる。
 「国防国家」建設という路線のもと、ワシントン体制打破へ。

4−2;「ワシントン体制維持派」の変質、「幕僚派」への迎合
 政党・官僚は2.26事件後、一斉に軍部(統制派)に同調する。
  広田弘毅内閣は軍部に迎合し、 1936.8「国策の基準」を決定した。
 競争相手が消滅した幕僚派は、「国防国家」建設、大陸への膨張、ナチスドイツへの接近を
推し進めていく。

51・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:02
Ⅲ;広田弘毅内閣による「国策の基準」の策定
1 総合国策策定の発端──陸軍による要求

1−1
永田鉄山が死んだので、一時的に権力の空白が生まれ、石原莞爾が台頭した。
石原莞爾が、参謀本部作戦課長に就任(1935.8.1)、「戦争計画」の策定を提唱。
戦時における政治・統帥にわたる「総合国策(戦時一元指導計画=「戦争指導計画」)」を
石原莞爾がはじめる。

1−2;石原莞爾による「国防国策大綱」骨子(1935年末段階)
 軍が権力を掌握する(「昭和維新」)
→軍需工業(特に航空機工業・燃料)を発展させる
→対ソ軍備・対米軍備を拡充する
→重化学工業基地としての「満州国」を完成する
→ソ連打倒
→実力(武力)をもって中国・南洋方面に進出する。

2;陸軍、「国防国策」策定のため、海軍と折衝を開始する(1935.12.17〜)。
陸軍は、対ソ戦準備優先を主張。中国進出は前面に出さなかった。
海軍は、北守南進論を展開した。
折衝は不調に終わった。

52・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:02
3;陸海軍それぞれの工作
3−1
陸軍は方針転換した。
海軍と合意の上で「国防国策」を策定するのではなく、陸軍案を独自に策定し、
天皇の裁下を得るという方針に転換した。

3−2
海軍と省部首脳からなる「海軍政策及制度研究調査委員会」が発足(1936.3)。
「対外国策に関する件申進」(1936.4.16)などを策定
国策の要綱は、「大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方に発展するを根本方針」と
南進膨張論を展開した。同時に、陸軍の対ソ優先論を牽制した。

53・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:03
4;陸軍の巻き返しと「国策の基準」の決定
4−1
作戦を提案する参謀本部に「国防国策」立案のための戦争指導課を石原莞爾は新設した(1936.6)。
石原莞爾自ら課長になった。

4−2;参謀本部は「国防国策大綱」を策定した(1936.6)。
 航空兵力充実・「日満北支」持久戦ブロックの形成
→ソ連打倒
→イギリス打倒(アジアの英領占領)-「新支那」建設
→「東亜の指導者」に
→実力の飛躍的進展
→対米決戦

4−3;
 海軍との折衝の難航
→相互に譲歩、「南北併進」をもりこんだ「国策大綱」を策定(6.30)。
→広田弘毅内閣の五相会議で「国策の基準」として決定(8.7)
→〔資料; 国策の基準(1936年8月7日 五相会議決定)〕

 対ソ優先は否定されたが、海軍の視野をのりこえた内政・外交全般を規定する
膨張主義的国家戦略を決定した(政治の統帥への従属化を決定的なものする)。

54・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:03
〔資料;2・26事件「蹶起趣意書」〕
 謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一神たる 天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。
 此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。
 然るに頃来〔注1〕遂に不逞兇悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊〔注2〕絶対の尊厳を藐視し〔注3〕僣上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦に呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は此の国体破壊の元兇なり。
 倫敦海軍条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僣窃を図りたる三月事件或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕せしむは火を賭るより明らかなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の世状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く為すべし。
 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を飜すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神洲赤子の微衷を献ぜんとす。
 皇神皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを!
昭和拾壱年弐月弐拾六日
陸軍歩兵大尉 野中 四郎
外同志一同
 出典:『現代史資料』第4巻〈国家主義運動〔1〕〉(みすず書房、1963年)174-175頁。

55・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:03
 〔注1〕頃来(けいらい);最近、の意。
 〔注2〕至尊;天皇の意。
 〔注3〕藐視し;ないがしろにし、の意。
 〔カマヤン注〕「蹶起趣意書」の内容は具体性に欠き、観念的だ。

56・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:04
〔資料; 国策の基準(1936年8月7日 五相会議決定)〕
一、国家経綸の基本は大義名分に即して内、国礎を鞏固にし外、国運の発展を遂け帝国か名実共に東亜の安定勢力となりて東洋の平和を確保し世界人類の安寧福祉に貢献して茲に肇国の理想を顕現するにあり 帝国内外の情勢に鑑み当に帝国として確立すへき根本国策は外交国防相俟つて東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展するに在りて其の基準大綱は左に拠る
 東亜に於ける列強の覇道政策を排除し真個共存共栄主義により互に慶福を頒たんとするは即ち皇道精神の具現にして我対外発展政策上常に一貫せしむへき指導精神なり 国家の安泰を期し其の発展を擁護し以て名実共に東亜の安定勢力たるへき帝国の地位を確保するに要する国防軍備を充実す
 満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し北方蘇国の脅威を除去すると共に英米に備へ日満支三国の緊密なる提携を具現して我か経済的発展を策するを以て大陸に対する政策の基調とす 而して之か遂行に方りては列国との友好関係に留意す
 南方海洋殊に外南洋方面に対し我民族的経済的発展を策し努めて他国に対する刺戟を避けつつ漸進的和平的手段により我勢力の進出を計り以て満州国の完成と相俟つて国力の充実強化を期す

57・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:04
〔資料; 国策の基準(1936年8月7日 五相会議決定)〕
一、国家経綸の基本は大義名分に即して内、国礎を鞏固にし外、国運の発展を遂け帝国か名実共に東亜の安定勢力となりて東洋の平和を確保し世界人類の安寧福祉に貢献して茲に肇国の理想を顕現するにあり 帝国内外の情勢に鑑み当に帝国として確立すへき根本国策は外交国防相俟つて東亜大陸に於ける帝国の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展するに在りて其の基準大綱は左に拠る
 東亜に於ける列強の覇道政策を排除し真個共存共栄主義により互に慶福を頒たんとするは即ち皇道精神の具現にして我対外発展政策上常に一貫せしむへき指導精神なり 国家の安泰を期し其の発展を擁護し以て名実共に東亜の安定勢力たるへき帝国の地位を確保するに要する国防軍備を充実す
 満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し北方蘇国の脅威を除去すると共に英米に備へ日満支三国の緊密なる提携を具現して我か経済的発展を策するを以て大陸に対する政策の基調とす 而して之か遂行に方りては列国との友好関係に留意す
 南方海洋殊に外南洋方面に対し我民族的経済的発展を策し努めて他国に対する刺戟を避けつつ漸進的和平的手段により我勢力の進出を計り以て満州国の完成と相俟つて国力の充実強化を期す

58・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:04
二、右根本国策を枢軸として内外各般の政策を統一調整し現下の情勢に照応する庶政一新を期す要綱左の如し
 国防軍備の整備は
(イ)陸軍軍備は蘇国の極東に使用し得る兵力に対抗するを目途とし特に其在極東兵力に対し 開戦初頭一撃を加へ得る如く在満鮮兵力を充実す
(ロ)海軍軍備は米国海軍に対し西太平洋の制海権を確保するに足る兵力を整備充実す
 我外交方策は一に根本国策の円満なる遂行を本義として之を綜合刷新し軍部は外交 機関の活動を有利且円満に進捗せしむる為内面的援助に勉め表面的工作を避く
三、政治行政機構の刷新改善及財政経済政策の確立其の他各般の施設運営をして右根本国策に適応せしむるか為左記事項に関しては適当の措置を講ず
(イ)国内与論を指導統一し非常時局打開に関する国民の覚悟を鞏固ならしむ
(ロ)国策の遂行上必要なる産業竝に重要なる貿易の振興を期する為行政機構竝に経済組織に 適切なる改善を加ふ
(ハ)国民生活の安定、国民体力の増強、国民思想の健全化に就き適切なる措置を講ず
(ニ)航空竝に海運事業躍進の為適当なる方策を講ず
(ホ)国防及産業に要する重要なる資源竝に原料に対する自給自足方策の確立を促進す
(ヘ)外交機関の刷新と共に情報宣伝組織を充備し外交機能竝に対外文化発揚を活発にす
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)344-345頁。

59・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:04
〔人物紹介〕
 橋本欣五郎 1890-1957
 回漕店主の四男として岡山市に生まれる。陸軍士官学校二十三期卒業。
陸軍大学校三十二期卒業。
 参謀本部ロシア班勤務を経、大正十二年満洲里特務機関長に。大正十四年参謀本部に戻る。
 1927年(昭和二年)トルコ公使館付武官に。ケマル=パシャの改革運動に共鳴し、
日本の改革運動を志す。
 昭和五年帰国し、参謀本部ロシア班長に。同年、中佐以下の有志を募り、国家改造を
目標とする「桜会」を結成。
 昭和六年、宇垣系中堅軍人、大川周明・清水行之助らの右翼、一部の無産党員などと
ともに、宇垣一成を擁してクーデターによる軍事政権樹立を企て未発に終わる。
これを「三月事件」と呼ぶ。
 満州事変では事変遂行を国内で支援、再度クーデター計画を企てるが事前に情報が漏れ
未遂に終わる(十月事件)。左遷される。昭和九年大佐に進級。
 昭和十一年の二・二六事件では上京し天皇大権による維新断行を骨子とする収拾策を
提示したが容れられなかった。同年予備役に。国家社会主義系右翼とともに大日本青年党を
結成、その統領となる(のちに「大日本赤誠会」に改組)。
 支那事変勃発により召集され連隊長として出征。
昭和十二年長江で「英艦レディバード号砲撃事件」を起こした。
 昭和十五年大政翼賛会常任総務となり昭和十七年衆議院議員に当選。
昭和十九年翼賛壮年団本部長に就任。
 終戦後「A級戦犯」として終身禁固判決受けるが、昭和三十年仮出所、三十二年肺癌で死去。
墓所は静岡県清水市村松の鉄舟寺。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)819-820頁から構成。

60・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:05
 大川周明 1886-1957
 大正昭和の日本ファシズム運動指導者の一人。老荘会・猶存社の代表的人物。
 山形県に生まれる。東京帝大で印度哲学を専攻。学生時代から参謀本部からの依頼で
ドイツ語の翻訳をし、軍人の知り合いを得る。大正初め、たまたまコットン『支那』を手にし、
一読、白人による有色人圧迫の暴状を知り翻然、アジア主義に目覚めたという。
印度哲学研究からインドの現状や植民地政策の研究に移った。この研究を満鉄総裁
後藤新平に認められ、1919年(大正八年)満鉄東亜経済調査局調査課長に就任した。
 これより少し前、第一次世界大戦前夜における国際的変動の波を受けて、内外重要諸問題に
つき議論し対策を講じるため、満川亀太郎・佐藤鋼次郎・岡悌治らとともに「老荘会」を
つくった(大正七年)。ついで、実行的国家改造運動に取り組むべく単身上海に飛んで
北一輝を迎え、満川・平賀磯次郎らとともに昭和八年「猶存社」を結成。その綱領に、
「革命日本ノ建設」「民族解放運動」などとあった。『雄叫び』がその機関誌。
 昭和十一年ごろ、北一輝とのあいだに意見不一致をきたし感情的に疎隔した。
昭和十二年猶存社解散。同年、旧本丸内「大学寮」を主宰、青年教育に与った。
これに西田税が来り投じた。陸海軍青年将校(藤井斉・古賀清志・末松太平ら)も出入りした。
 昭和十三年「行地会」を起し、昭和十四年「行地社」を創立。その綱領に、
「国民的理想ノ確立」「有色民族ノ解放」「世界ノ道義的統一」などとあった。
機関誌は『月刊日本』。同人は他に、笠木良明・綾川武治・金内良輔・島野三郎など多数。
行地社は、各大学に基礎をおいて勢力を伸張した。このようにしてほぼ大正末まで、
大川周明は日本ファシズム運動の中心に位置し、その影響下に多数の人材を培養・育成して
いった。しかし大正十五年、行地社は安田生命馘首事件を契機に分裂、主なる幹部が相ついで
脱退した。昭和四年(1929)財団法人東亜経済調査局理事長。
 昭和六年、三月事件十月事件に積極的に参加。昭和七年、満州事変を契機に昂揚した
「愛国熱」を背景に合法的維新を目指す国民運動を目論み「神武会」を作った(石原広一郎・
菊池武夫・河本大作ら)。5.15事件では、古賀清志を通じ資金を給与した。第二次大戦敗戦に
際しては精神病を発して極東国際裁判免除。
 戦後、井上日召・橘孝三郎らとともに「救国総連合」を起した。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)177-178頁から構成。

61・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:05
 北一輝 1883-1937
 新潟県加茂郡湊町に生まれる。眼病にかかり佐渡中学中退。明治三十四年頃から『佐渡新聞』
に寄稿者として登場。日露戦争前夜には、帝国主義を歴史の必然として対露開戦を主張すると
ともに、国家の強化・合理化の方策を模索し、社会主義に関心を寄せ、万世一系の皇統を
国体の精華とみるのは妄想だとする国体論批判の立場を打ち出していた。
 明治三十七年上京。明治三十九年『国体論及び純正社会主義』を自費出版、発売禁止処分に
付される。幸徳秋水ら社会主義者に接触したが、大陸浪人らが結成した革命評論者を経て、
中国革命同盟会・黒竜会などに活動の舞台を見出していく。
 明治四十四年辛亥革命勃発。黒竜会一員として中国に渡り宋教仁を支援。大正二年(1913)
宋は暗殺され、北も上海領事の退去命令により帰国。翌年第一次大戦が起こり、日本も
イギリス側に参戦すると、大正四年から政府要人に対する意見書として『支那革命党及革命
之支那』(のち『支那革命外史』と解題刊行)を執筆・頒布し、イギリス・ロシアとの対決が
中国革命を支援すると同時に日本を発展させる道であると説いた。
 大正五年再び中国に渡ったが中国革命に影響を及ぼし得る手だてはなく、中国における
排日運動の高まり、日本での米騒動の勃発などといった情勢の変化に直面し、日本国内の
改造を先決と考えるようになり、大正八年より『国家改造安原理大綱』(のち『日本改造法案大綱』
と解題刊行)を執筆。猶存社を結成していた大川周明に促され同年末帰国した。北の
「国家改造案」は猶存社同人により謄写印刷され、重要と目される人物に配布されたが、
そこでの、国家改造を対外膨張の必須の前提とする主張や、「天皇を号令者」とする
クーデター論などは、従来の国家主義思想に大きな衝撃を与えた。

62・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:05
 帰国後の活動は、岩田富美夫・辰川竜之助らの暴力的右翼を輩下とし怪文書の作成配布を
軸とするものであり、大正九年から大正十年にかけての宮中某重大事件、大正十二年ヨッフェ来日
反対運動などに関与、大川周明と対立して同年猶存社を解散してからは、政友会の小川平吉、
国本社の平沼騏一郎らに接近して。朴烈怪写真事件・宮内省怪文書事件などをひきおこし、
不戦条約・ロンドン海軍軍縮条約反対運動の一翼をになった。これらの活動は、いずれも
天皇側近や天皇大権をめぐるものであり、北がかつての国体論批判の立場を離れ、
いかなる形であれ、天皇に関する意識をかきたてることを狙うようになったことを示している。
 この間、西田税らの青年将校と接触、大正十五年に西田が退役上京して以後は、彼を通じて
多くの青年将校を影響下におくことに成功。
 満州事変の起こった昭和六年(1931)ごろには、右翼の大物、青年将校運動の黒幕と目され、
情報を得ようとする三井財閥から巨額の生活費を引き出すまでになった。しかし、陸軍中央部が
軍内の統制強化によって軍の政治力を強めようとする統制派の勢力に握られるに至ると、
北・西田に連なる青年将校は皇道派と呼ばれ、その運動は次第に抑圧され、北らも軍部の抗争に
まきこまれていった。
 昭和十一年の2.26事件が失敗すると、事件の黒幕として逮捕され、クーデターの具体的
計画・実行に何ら関与していなかったにも関わらず、昭和十二年八月十四日、軍法会議で死刑の
判決を受け、同十九日に銃殺された。五十五歳。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)338頁。

63・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:06
 橘孝三郎 1893-1974
 昭和期の農本ファシズムの指導者。水戸市に生まれる。一高入学。一高生の功利主義・
立身出世主義に反発、自分の住むべきは自覚した百姓生活にありと中退。
 水戸市で農場経営を開始。兄弟農場の称を得る。昭和二年から講演活動に乗り出し、
昭和四年、大地主義・兄弟主義・勤労主義を三大原則とする愛郷会を創立。
 昭和六年、右翼革命運動への参与を決意、自営的勤労学校愛郷塾を開く。
井上日召と同志となり、海軍青年将校と交流。
 農村連盟の結成を企て、昭和七年『農本連盟』を創刊、第1回全国協議会を開くも三派に分裂。
最過激派に属した橘は三月以降海軍青年将校とクーデタ計画を練り、五月十二日満州に渡り、
十五日奉天に着く。この日決行された未遂のクーデタが5.15事件だが、愛郷塾生らによる
農民決死隊七名は東京府下の六変電所を襲撃。指名手配された橘は七月にハルピン憲兵隊に
自首、殺人・同未遂などの罪で起訴され、九年二月無期懲役の判決を受け、下獄。十五年
減刑により出獄、愛郷会の再興をはかる。第二次大戦敗戦後二十九年四月に大川周明らと
救国国民総連合を結成するが、内部分裂に嫌気して離れ、著述に専念。八十一歳で没。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)629-630頁から構成。

64・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:06
 井上日召 1886-1967
 群馬県に生まれる。早稲田大学文科、東京協会専門学校ともに中退。
明治四十三年満州に渡る。満鉄社員、陸軍参謀本部の嘱託となり、諜報活動に従事した。
この時期に本間憲一郎・前田虎雄・木島完之を識った。大正五年(1916)帰国、
同年中国に第三革命が起るや山東省に赴き居正の顧問となる。大正十一年春帰国し、
大正十三年九月まで郷里の三徳庵という破れ堂で断食して日蓮宗の修行をした。
このとき日召と改名。大正十五年建国会の創立に参加。
 右翼運動の第一線には出ず、宇宙・国家・人生の問題解決のため身延山、静岡県三島
(このときの師が山本玄峰)で修行。昭和三年(1928)茨城県岩船山に籠り、昭和四年
茨城県大洗の東光台立正護国堂に入る。昭和五年十月までの護国堂時代にのちに血盟団
事件を起す農村の青年を門下とした。同じに海軍の藤井斉大尉以下の5.15事件を起す
将校と相識り修行。同年十月以後東京に出て七生社の東大学生を門下とした。
 西田税にも接近し十月事件に参加。
 昭和七年二月九日、三月五日に、門下の小沼正・菱沼五郎が井上準之助・団琢磨を暗殺。
いわゆる血盟団事件である。井上日召が指導したこの事件は、暗殺の対象人物、組織なき組織に
よる単独犯の結び合わせる事件として当時の社会状況と相まって空前の衝動を世に与えた。
井上日召はこの事件で無期懲役に処せられ、昭和十五年仮出所。一時近衛文麿の相談役をした。
昭和四十二年三月没。八十歳。
 井上の右翼運動における立場及び右翼の人間としてはすこぶる独自のものがあり、農民・
労働者による大衆運動の限界を悟って、一転して「一殺多生」「革命の慈悲」「捨石主義」
による国家改造運動を決行したことは今日でも、右翼運動の核心を知る上に多くの問題を
残している。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)106頁から構成。

65・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:06
 団琢磨 1858-1932 
 明治〜昭和初期の実業家、工学博士。作曲家団伊玖磨の祖父。福岡藩の神屋宅之丞の4男として
生まれ、同藩士の団尚静(なおきよ)の養子となる。1871年(明治4)岩倉使節団とともに渡米し、
マサチューセッツ工科大学で鉱山学をまなんで帰国。大阪専門学校、東大助教授をへて、
84年工部省に入省、三池鉱山局に勤務した。
 三池炭鉱が三井家にはらいさげられると、三池炭鉱社事務長をへて、1894年三井鉱山合名
会社専務理事に就任し、三池炭鉱の近代化に尽力。のち筑豊炭田にも進出、北海道炭砿汽船を
系列化した。
 1909年、三井合名会社が設立されると参事となり、14年(大正3)益田孝にかわって同社
理事長に就任し、三井財閥の事業多角化に貢献した。また、日本工業倶楽部初代理事長、
日本経済連盟会会長など、経済団体のリーダーとして活躍し、労働組合法の制定に反対の
立場をとった。
 1928年(昭和3)男爵となったが、金解禁、昭和恐慌などで日本経済が大不況におちいると、
財閥糾弾の矢面にたたされ、32年3月5日、三井本館正面玄関前で菱沼五郎に暗殺された。
"団琢磨" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

66・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:06
 永田鉄山 1884-1935
 長野県上諏訪村に生まれる。陸軍士官学校を十六期卒業、陸軍大学校を二十三期卒業。
大正前期、ドイツ・デンマーク・スウェーデンに駐在。大正十年(1921)スイス公使館付武官
となり、駐在中ドイツのバーデンバーデンで岡村寧次・小畑敏四郎と陸軍革新を誓う。
大正十二年に帰国し中佐に進級。陸大教官などを勤め長州閥偏重人事への批判を強めた。
昭和二年(1927)の二葉会、昭和四年の一夕会の結成に重要な役割を演じ、陸軍革新運動の
中心人物の一人として活動した(昭和二年に大佐進級)。
 昭和五年には宇垣一成陸相の下で軍事課長を勤め総動員体制の整備にあたったが、六年には
三月事件に関与した。
 荒木貞夫の陸相就任後、皇道派の形成が進む中、昭和七年少将に昇進して参謀本部第二部長に
就任、国内整備優先の立場から対ソ強硬派の小畑としばしば対立した。
 永田は当初、皇道派のメンバーだったが、荒木・真崎甚三郎の郷党偏重人事や革新政策の
挫折に失望し林銑十郎に接近、昭和九年の林の陸相就任、永田の軍務局長就任を機に永田を核に
統制派の形成が顕現した。その後、林・永田らは宇垣系とも連携しつつ皇道派を要職から追い、
昭和十年七月には真崎教育総監の罷免を実現したが、これに怒った相沢三郎中佐に十年八月十二日、
永田は刺殺された。五十二歳。
 永田は合理主義的、漸進的な軍政家で、元老、政官界・財界とも連絡があり、昭和初期の
陸軍の自己革新と政治進出に大きな役割を果たし、統制派の基礎を築いた。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)749頁から構成。

67・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:07
 真崎甚三郎 1876-1956
 佐賀県に生まれる。陸軍士官学校を九期卒業、日露戦争に出征、陸軍大学校を十九期卒業。
昭和二年(1927)中将に昇進、弘前の第八師団長に転ずる。このころから長州閥専横への
反感と中堅・青年将校への好意を示す。昭和四年東京の第一師団長に移る。陸大卒将校を
中心に一夕会が結成され、荒木貞夫・真崎・林銑十郎の三将軍を推戴し陸軍を建て直すことが
申し合わされたのはこの直前のことだった。昭和七年盟友荒木陸相の推輓で参謀次長に就任、
参謀総長閑院宮親王に代わって参謀本部を主宰した。この時期、荒木・真崎・林の下には一夕会
系陸大卒将校や北九州・土佐出身軍人が結集し、皇道派が形成され、宇垣系を駆逐して陸軍の
支配的勢力に成長した。昭和八年大将昇進に伴ない参謀次長を退任、軍事参議官となる。
 昭和九年、病気を理由に辞任した荒木陸相の公認に擬せられたが閑院宮の反対に遭って果たせず、
教育総監兼軍事参議官となった。
 この頃から荒木・真崎の郷党人事を批判する永田鉄山らは林の庇護のもと、統制派を形成し、
皇道派の分裂が始まった。
 真崎は荒木陸相辞任後の皇道派の最高首脳として林の離反防止に努めるとともに宇垣系、
統制派と対峙したが、昭和十年七月教育総監を罷免され軍事参議官専任となった。
 昭和十一年、2.26事件後の粛軍で予備役に入る。同年七月反乱幇助容疑で拘禁されたが、
十二年無罪判決を得て出獄した。
 皇道派は一連の人事抗争、2.26事件後の粛軍で潰滅的打撃を蒙っていたが、出獄後の
真崎は政治活動を再開し、戦争中には近衛文麿・吉田茂らと結んで反東条運動、小林躋造内閣
擁立運動などを行っている。昭和二十年「A級戦犯」容疑者として収監されたが、二十二年
釈放された。
 出典:日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)963頁から構成。

68・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:07
 小磯国昭 1880-1950 
 大正〜昭和期の陸軍軍人・政治家。栃木県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業した
あと、関東都督府参謀、陸軍省整備局長などをへて1930年(昭和5)軍務局長となる。翌年、
陸軍中堅将校らによるクーデタ未遂事件の三月事件にかかわった。その後、陸軍次官や
関東軍参謀長などを歴任し、37年に陸軍大将に昇進。39年の平沼騏一郎内閣と40年の米内光政内閣で
拓相になり、42年朝鮮総督就任。44年、東条英機内閣の退陣で米内と協力内閣を組閣して
首相となった。
 悪化した戦局をたてなおして事態を有利にしたうえで次期内閣での和平工作を企図したが、
有効な政策をとれずに敗色が濃厚になる中で戦争継続のため徴兵年齢を17歳にひきさげたり、
学徒勤労令を公布するなどした。1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸するにおよんで総辞職した。
戦後、東京裁判でA級戦犯として終身禁固刑の判決をうけ、服役中に病死した。
"小磯国昭" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

69・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/05/21(水) 02:19
第2講 昭和初期の〈大日本帝国〉>>2-16
     講義ノート>>2-13
     資料と補足>>14-16
      前史(明治維新〜昭和初頭)>>2-6
      1930年代初頭での日本 >>7-10
      世界大恐慌と昭和恐慌 >>11-13 
第3講 満州事変と「満州国」>>18-36
     講義ノート>>18-29
     資料と補足>>30-36
      満州事変の勃発と関東軍による満州占領 >>18-22
      石原莞爾の戦争構想 >>23-26
      満州事変と国内政治 >>27-28
      「満州国」の実態 >>29
第4講 2・26事件と「国策の基準」 >>37-68
     講義ノート>>37-53
     資料と補足>>54-68 人物紹介 >>59-68
      「国家改造」グループの形成 >>37-45
      2.26事件とその歴史的意味 >>46-50
      広田弘毅内閣による「国策の基準」の策定 >>51-53

70第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件:2003/06/01(日) 22:56
第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件
     1937-1938

Ⅰ;「盧溝橋事件」の発生

 盧溝橋は、「マルコ・ポーロ橋」とも呼ばれる。
 「盧溝橋事件」は、ごくごく小さな事件だった。現地ではいったん事件は解決した。
それを、政府が拡大した。

1 事件の概要
1-1;「盧溝橋事件」の発端
 起きた時は、1937年7月7日 午後10時40分頃だ。
 起きた場所は、北平〔ペイピン。現在の北京〕西南郊外、「盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)北側の
永定河〔えんていが・川の名前〕左岸。〔川の右左は、「上流から見て」右か左か決まる。〕
ここに、日本軍演習地があった。
 「盧溝橋事件」の発端は、日本兵1名の行方不明事件だった。

 日本軍が北京に駐兵していたのは、以下の理由による。1900年に「義和団事件」があり、
1901年に「北京議定書」(列強に清朝が詫びをいれた文書)が成立した。
「北京議定書」により、列強は清朝に駐兵権を得、日本も清朝に駐兵していた。

71・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:56
1-2;現地軍の対処
 大隊長(一木清直少佐)は、連隊長に一応、攻撃していいかどうかを上申した。
 連隊長(牟田口廉也大佐)は、「中国軍に侮られてはいけない」という判断から、攻撃を許可した。

1-3;現地停戦協定の成立
 「支那駐屯軍」の措置
 駐屯軍参謀長橋本群少将、北平特務機関長松井太久郎大佐らは、「事件」収拾に動いた。
 松井と中国軍第38師長・天津市長張自忠との間で、7月11日午後8時に、停戦協定が成立した。

ここで一旦「事件」は終結したはずだったが…

72・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:57
2;「盧溝橋事件(1937年 7月)」の経過を、もう少し詳しく見る。

 日本軍は当時、夜襲の訓練をよくしていた。ソ連より火力が弱いから、夜襲を重視していた。
「盧溝橋事件」は、夜襲訓練で起きた。

■7月 7日 午後10時40分頃
 北平(北京)西南郊外、盧溝橋北側の永定河左岸(日本軍演習地)において、
「支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊第8中隊」(中隊長・清水節郎大尉以下135名)が夜間演習中、
数発の実弾射撃を受けた。

 演習は、空砲を使う。
 実弾は、空気を裂くので、音で判る。
 この実弾を撃ったのは誰なのかは、いまだに判らない。
 中隊長は演習をやめ、集合した。
 2等兵1名が行方不明だった。
 これが問題となった。

 清水中隊長は、豊台の大隊長一木清直少佐に連絡した。
 大隊長一木清直少佐は、連隊長牟田口廉也大佐〔後にインパール作戦を指揮〕に連絡した。
 兵が行方不明になったことを重大視して、大隊を出動させた。

■同日 午後11時頃
 「行方不明」の志村菊次郎 2等兵は、午後11時頃、無事に中隊へ帰隊した。
 「行方不明」の志村2等兵は迷子になって集合に20分ほど遅れただけだった。
 つまり「行方不明事件」は起きていなかった。
 志村2等兵は、インパール作戦で戦死したので、戦後彼から証言を得ることができず、真相は判らない。

73・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:57
■7月 8日 午前 2時過ぎ
 清水中隊長から連絡を受けた一木大隊が、午前2時過ぎに盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)に到着した。
 だがもう「行方不明事件」は終わっていた。

■同日 午前 3時25分頃 
 再度の銃声が、午前3時25分頃、大隊の周辺から聞こえた。
 一木大隊を取り囲むように中国軍がいた。
 「どうやら、周りの中国軍にからかわれているらしい」と、大隊長一木少佐は考えた。
 大隊長一木少佐は、「要するに日本軍の面目さへ立てばよいので…断然攻撃をしたい」と、
連隊長牟田口廉也大佐に電話で要請した。
 「バカを言うな」と、一木少佐は止めてもらうつもりだったようだ。

 連隊長牟田口廉也大佐は、「重大な挑戦である」「やって宜しい」と、攻撃を許可した。
 まさか許可が下りてしまうとは思っていなかった一木少佐は、牟田口廉也大佐の気が変わるかも
しれない、と、慎重に、朝まで実行を待った。が、中止の命令はこなかった。

 夜明けになって、一木大隊は、攻撃を開始した。

74・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:57
■7月10日 
 「蒋介石軍が北上」の情報が走った。これにより、日本軍部内の「拡大論」が「不拡大論」を圧倒した。
 陸軍中央〔参謀本部〕が、「関東軍2個旅団・朝鮮軍1個師団・内地3個師団」の華北派遣(兵力約10万人)を
決定した。
 元々、華北に駐兵していた日本軍は5000人程度だった。これを20倍に増強する命令だった。

■7月11日 
 近衛文麿内閣が、華北への派兵を承認した。各界に「挙国一致」を要請した。
 日本政府は「重大決意」声明 を出した。これで話がややこしくなった。【資料5-1】

■同日 午後 8時  
 マルコ・ポーロ橋現地では、日本軍と蒋介石軍の停戦協定が成立していた。
 現地では事態は収束した。
 「停戦協定」の内容は、下記の通り。

 中国第29軍代表が遺憾の意を表明する。中国軍は責任者を処分する。
盧溝橋城(宛平県城)・竜王廟から、中国軍が撤退する。抗日各種団体を取り締まる。

75・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:57
■7月17日 
 日本政府は〔図に乗って〕、「停戦協定」に対し、中国軍幹部の陳謝と更迭を、追加要求した。
 蒋介石は「最後の関頭」声明(廬山談話)を出した。

 日本政府は「上げた拳の下ろし先」を探していた。
 日本政府と蒋介石との間で、「強気」の応酬がされ、感情的にエスカレートした。

■7月19日  中国政府は、日中両軍の同時撤退などを提起した。
■7月25日  日中両軍が衝突(郎坊事件)
■7月26日  日中両軍が、再び衝突(広安門事件)
■7月27日  日本政府は、内地3個師団の派遣を最終的に承認する。
■7月28日  午前 8時
 日本軍は、蒋介石軍に対し、総攻撃に出る。

76・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:58
【資料5-1】政府「重大決意」声明(1937年7月11日)
 今次事変は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし。思ふに、北支治安の維持が帝国及満州国にとり緊急の事たるは茲に贅言を要せざる処にして、支那側が不法行為は勿論排日侮日行為に対する謝罪を為し及今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障等をなすことは東亜の平和維持上極めて緊急なり、仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し、北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり。然れども……政府は今後共局面不拡大の為平和折衝の望を捨てず、支那側の速かなる反省によりて事態の円満なる解決を希望す
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)365-366頁。

〔解説〕 
 「仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し」という言葉が問題となり、話をややこしくした。
 「重大決意」とは何を意味するのか? 
 日本政府は「派兵する」という意味として書いたようだ。
 中国政府は「宣戦布告」だと解釈した。
 日本・中国両国間で感情のエスカレートが、これによって起きた。

77・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:58
Ⅱ;「盧溝橋事件」の、「拡大論」と「不拡大論」
1 事件第一報と陸軍内の反応
1-1「拡大派」
 陸軍省では、軍事課(編成・動員担当、課長・田中新一大佐)。
 参謀本部では、第一部作戦課と、第二部(情報部)とりわけ支那課。
 「このさい、これ(盧溝橋事件)を利用して、〈華北(北京周辺)〉を蒋介石から切り取ろう」、
という論を張った。「華北分離論」。
 「支那課」は、1937年7月10日に「蒋介石北上」の情報を流した。何に基いた情報だったのかは判らない。

1-2「不拡大派」
 陸軍省では、軍務課(軍事政策担当)。
 参謀本部では、第一部長石原莞爾少将と、戦争指導課(課長・河辺虎四郎大佐)。
 石原莞爾は「満州事変」で出世していた。

78・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:58
【参考図5-1】盧溝橋事件当時の陸軍中央首脳

陸軍大臣  ─── 陸軍次官 ──┬─ 軍務局長 ┬ 軍事課長 田中新一大佐
杉山元大将    梅津美治郎中将  │ 後宮淳少将 └ 軍務課長 柴山兼四郎大佐
                        │
                        └─ 兵務局長 飯田祥二郎少将

参謀総長 ─── 参謀次長 ──┬─ 総務部長 中島鉄蔵少将
閑院宮戴仁元帥   今井清中将 [1] │
            多田駿中将[2] ├─ 第1(作戦)部長 ─┬ 作戦指導課 河辺虎四郎大佐[4]
                       │  石原莞爾少将〔3〕  .└ 作戦課 武藤章大佐[5]
                       │
                       ├─ 第2(情報)部長 ─┬ ロシア課 笠原幸雄大佐
                       │   渡久雄少将      ├ 欧米課 丸山政男大佐
                       │                   └ 支那課 永津佐比重大佐
                       ├─ 第3(運輸・通信)部長
                       │  塚田攻少将
                       │                     
                       └─ 第4(戦史)部長 下村定少将
教育総監 ──── 本部長
寺内寿一大将    香月清司中将

出典:秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、1991年)より作成。

79・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:58
〔解説〕
 〔1〕参謀次長今井清中将は、当時重病だった。
 〔2〕参謀次長多田駿中将は、石原莞爾を支持していた。
 〔3〕作戦部長石原莞爾少将は、参謀本部の事実上のリーダーだった。
 〔4〕河辺虎四郎大佐は、不拡大論者だった。
 〔5〕武藤章大佐は、拡大論者だった。

80・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:59
2 「拡大派」の論理
2−1
 中国の抗日意識や中国軍の抗戦力を軽視した、楽観論を「拡大派」は展開した。「一撃論」。
 ガツンと一撃ショックを中国に与えれば、中国はすぐに折れる、という意見だ。
2−2
 華北を「第二の満州国」にし、あわよくば蒋介石政権を倒す、という「華北分離論」を展開した。

81・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:59
3 「拡大派」と「不拡大派」の対立
3−1
 「不拡大派」の論理
 対ソ戦準備と「国防国家」建設こそが軍部の最優先課題であ、り中国との戦争に、戦力・国力を
消耗すべきでない、と、「不拡大派」は考えた。
3−2
 議論は、「拡大論」が押し切った。
 「蒋介石軍が北上」の情報に、「拡大論(一撃論)」が「不拡大論(慎重論)」を圧倒した。
 7月10日に、陸軍中央は、内地3個師団等の華北派遣を決定した。11日に、閣議承認した。
 8月13日には、戦火は上海に飛び火した。15日からは海軍も加わり、「海軍航空隊」が、南京を
九州から渡洋し、爆撃する。
3−3
 「拡大派」は、「不拡大派」を排除した。
 石原莞爾部長を9月28日転出させた。
 石原莞爾は「関東軍参謀副長」に左遷された。関東軍参謀長は東条英機だった。
東条と石原莞爾は犬猿の仲だった。石原莞爾は東条の下にはいられず、帰国した。
これは命令違反であり、石原莞爾はそれにより失脚した。
 〔ここで失脚したために、戦後、東京裁判では石原莞爾は戦犯にならず、破格の待遇を得た〕

 「不拡大」を執拗にとなえる「戦争指導課」は、「作戦課戦争指導班」に格下げされた。(10月26日)
 〔「作戦指導課」は石原イズムに染まっていた。〕

82・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 22:59
Ⅲ 戦線の拡大と初期講和工作

1 宣戦布告問題と、「大本営」の設置
1−1
 「北支事変」(7月11日)から「支那事変」(9月2日)へ、呼称が変更になる。
1−2
 「宣戦布告」なき戦争
 陸海軍省はそろって、アメリカが「中立法」を適用するのを恐れ、中国への「宣戦布告」に反対した。
 「中立法」とは、戦争している当事国にもの(武器や弾薬)を売らない、というアメリカの国内法だ。
1−3
 「大本営」の設置(11月20日)
 日露戦争以来32年ぶりに、陸海軍の最高統帥機関=「大本営」を、皇居内に設置した。
 陸海軍の強い要求で、「大本営」構成員から、首相・外相らの文官は、すべて排除した。

 「大本営」は、臨時統括司令部だ。
陸軍と海軍は完全に分かれ、陸軍参謀本部には、小船一隻動かす権限がない。
それを統括するのが「大本営」だ。
 「大本営」は、明治時代には、条文上は軍人のみで構成されていたが、元老文官が参加していた。

83・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:00
2 トラウトマン工作(和平工作)
2−1
 石原莞爾作戦部長は、転出直前に、ドイツ駐華大使トラウトマンを介して、国民政府と和平交渉を
はかろうとした。これが「トラウトマン工作」の発端だ。9月に、接触に成功した。

 1936年日独防共協定で、日本とドイツは提携関係にあった。
 ドイツは蒋介石軍に武器を売っていた。ドイツは蒋介石軍の軍事顧問もしていた。
 ドイツは日本と蒋介石軍の仲介役に適任だった。

84・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:00
2−2
 「不拡大派」の巻き返し
 「トラウトマン工作」を成功させ、御前会議で「不拡大」を天皇に言わせる戦略を、石原莞爾は練った。
2−3
 昭和天皇にとって初めての「御前会議」が、1938年1月11日に行われた。
 「御前会議」の開催は、これまでの慣例を破るものだった。
 発言すべきか否か、昭和天皇は迷った。結局、昭和天皇は発言しなかった。
 元老西園寺公望が、「君権に瑕〔キズ〕」がつくのを畏れ、昭和天皇に、御前会議で喋るなと、
強く要求していたためだ。
 元老西園寺公望は「御前会議」自体に強く反対していた。昭和天皇は御前会議を開きたがったが、
西園寺公望がそれをずっと止めていた。
2−4
 1937年12月13日に、南京陥落。日本国内では「強硬論」が強まった。日本政府は、講和条件を
賠償を含む厳しいものにかえた。
 近衛首相・杉山陸相・広田外相・木戸文相は、工作打ち切り論を述べた。
 日本政府は、「トラウトマン工作」を打ち切った。

 南京陥落前に、「トラウトマン工作」は、かなり進んでいた。
首都が陥落したら勝ちだ、と、日本は考えた。
このとき戦争を終わらせる手続きをしっかりとしておかなかったのが、後々尾を引いた。

85・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:00
Ⅳ 近衛声明と戦争の泥沼化
1 南京大虐殺(1937年12月〜38年2月):20万人前後の戦闘員・捕虜・一般市民を殺害 【補足資料5-3】
1−1
 日本軍は上陸作戦以来、中国各地で、虐殺・略奪・放火・強姦を繰り返した。
1−2
 日本軍は投降中国兵を「捕虜」とみなさなかった。激戦による報復意識があった。
1−3
 「現地調達」という考え方が、略奪を許すこととなった。
1−4
 日本軍による虐殺と略奪は、中国人の抗日意識の高揚と日本軍への非協力を招いた。
その結果また日本軍が虐殺と略奪を行なう、という悪循環が起きた。虐殺と略奪には性暴力も必ず伴なう。
 南京攻略以降、「慰安所」(従軍慰安婦)が、激増する強姦対策として設置された。

86・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:01
2 「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年 1月16日) 【資料5-2】
2−1
 近衛文麿は自ら外交交渉の相手を否定しまい、戦争終結の手段を失った。
 日中戦争は泥沼化した。
2−2
 「トラウトマン工作」打ち切りと、「対手とせず」声明で、中国国内は、抗日の一点で強固に結束した。
 国共内戦から国共合作へ。
2−3
 現地軍はさらに大作戦を続行した。1938年4〜6月には徐州作戦、 6〜11月には武漢作戦。
 その後も続々と大兵力を投入した。

87・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:01
【資料5-2】「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年1月16日)
 帝国政府は南京攻略後尚ほ支那国民政府の反省に最後の機会を与ふる為め今日に及べり、然るに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し内民人塗炭の苦しみを察せず外東亜全局の和平を顧みる所なし、仍つて帝国政府は爾後国民政府を対手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝国が支那の領土及主権並に在支列国の権益を尊重するの方針には毫も変る所なし、今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し、政府は国民が此の重大なる任務遂行の為め一層の発奮を冀望して止まず
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)386頁。

 以下カマヤンによる余談だけど、近衛文麿の声は子供のように甲高い。
近衛文麿のルックスは裕仁に似て、裕仁を端正にしたような感じだ。
近衛文麿の声は裕仁がつっかえずに喋っているような声質だ。

88・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:01
4 日中戦争拡大の要因
4−1
 「一撃論」の失敗。軍事力への過信と、中国への過小評価、中国への蔑視。
4−2
 中国侵略(華北分離)を狙う勢力(軍部)の国内政治における発言力が強大化した。
 満洲事変から連続する華北分離工作。【補足資料5-4】
4−3
 中国の抗戦意識の高揚(中国軍の積極的作戦、民衆の抗日意識)
4−4
 日本外交の拙劣(あいまいな戦争目的、戦勝に幻惑された強気の交渉)

89・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:01
【補足資料5-3-1】南京攻略戦を指揮した第16師団長・中島今朝吾中将の日記
(1937年12月13日)
一、本日正午高山剣士来着す。時恰も捕虜七名あり。直に試斬を為さしむ。
一、……到る処に捕虜を見、到底其始末に堪えざる程なり。
一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端より之を片付くることとなしたる〔れ〕共……中々実行は敏速には出来ず。……
一、……佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大〔太〕平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、其仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり。尚続々投降し来る。
一、此七、八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず。一案としては百、二百に分割したる後、適当のケ処に誘て処理する予定なり。
出典:「南京攻略戦『中島師団長日記』」『歴史と人物 増刊 秘史・太平洋戦争』(1984年)261頁。

90・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:02
【補足資料5-3-2】第13師団歩兵第65聯隊・第4中隊・少尉『宮本省吾陣中日記』
〔1937年12月16日〕
 警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎〔束〕の間で午食事中に俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮〔虜〕約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。
〔1937年12月17日〕
 本日は一部は南京入場式に参加、大部は、捕慮〔虜〕兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、壮〔荘〕厳なる史的光景を見〔目〕のあたり見る事が出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。
 中隊死者一傷者二に達す。
〔1937年12月18日〕
 昨日来の出来事にて暁方漸く寝に付〔就〕く、起床する間もなく昼食をとる様である。
 午后敵死体の方〔片〕付をなす、暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。
〔1937年12月19日〕
 昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かゝる。
 夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かゝる、牛肉の油上〔揚〕迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)134頁所収。

91・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:02
【補足資料5-3-3】第13師団歩兵第65聯隊・第8中隊・少尉『遠藤高明陣中日記』(原文はカタカナ)〔1937年12月16日〕
 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し・〔第一大隊〕に於て射殺す。
 一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたりものゝ如し。
〔1937年12月17日〕
 幕府山頂警備の為午前七時兵九名を差出す、南京入城式参加の為十三D〔第13師団〕を代表してR〔聯隊=第65聯隊〕より兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城、中央軍官//学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見、端書にて×子、関に便りを送る、帰舎午後五時三十分、宿舎より式場間で三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支より在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)219〜220頁所収。

92・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:02
【補足資料5-3-3】第13師団山砲兵第19聯隊・第8中隊・伍長『近藤栄四郎出征日記』
〔1937年12月16日〕
 午前中給需伝票等を整理する、一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。//
 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お陰で随分酩酊した。
 夕方二万の捕慮〔虜〕が火災を警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
 月は十四日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨〔いたま〕しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るゝ事の出来ざる光影〔景〕であつた。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)325〜326頁所収。//は改ページ個所。

93・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:03
【補足資料5-3-4】第13師団山砲兵第19聯隊・第・大隊大隊段列・上等兵『黒須忠信陣中日記』(原文はカタカナ)
〔1937年12月16日〕晴
 午后一時我が段列より二十名は残兵掃〔湯〕蕩の目的にて馬風〔幕府〕山方面に向ふ、二三日前捕慮〔虜〕せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思ふ存分に突刺す、自分も此の時ばが〔か〕りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
 山となつて居る死人の上をあがつて突刺す気持は鬼をも//ひゝ〔し〕がん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供を居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切つて見た、こんな事は今まで中にない珍らしい出来事であつた、××少尉殿並に×××××氏、×××××氏等に面会する事が出来た、皆無事元気であつた、帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)350〜351頁所収。//は改ページ個所。

94・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:03
【補足資料5-3-5】第16師団輜重兵第16聯隊・輜重兵特務兵『小原孝太郎日記』
〔1937年12月24日〕南京・下関
 扨〔さて〕、岸壁の下をのぞいたら、そこの波打際の浅瀬に、それこそえらい物凄い光景をみた。何んと砂〔浜〕の真砂でないかとまがふ程の人間が、無数に横〔往〕生してゐるのだ。それこそ何百、何千だろう。南京の激戦はこヽで最後の幕をとぢたに違ひない。決定的のシーンだ。数へ切れない屍体が横〔往〕生してゐる。敵はこヽまで来て、水と陸よりはさみ打ちに逢って致命的な打ゲキをうけたわけなのだ。わが南京陥落はかくてなったわけわけママである。
出典:江口圭一・芝原拓自編『日中戦争従軍日記─輜重兵の戦場体験─』(法律文化社、1989年)143頁。

95・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:03
【補足資料5-4】北支処理要綱(1936年1月13日 閣議決定)
北支処理ノ主眼ハ北支民衆ヲ中心トスル自治ノ完成ヲ援助シ以テ其ノ安居楽業ヲ得セシメ且日満両国トノ関係ヲ調整シ相互ノ福祉ヲ増進セシムルニアリ之カ爲新政治機構ヲ支持シ之ヲ指導誘掖シテ其機能ノ強化拡充ヲ期ス
要綱
(一)自治ノ区域ハ北支五省〔河北・山西・山東・綏遠・チャハル〕ヲ目途トスルモ徒ニ地域ノ拡大ニ焦慮スルコトナク第二項以下ノ要領ニ則リ徐ニ先ツ冀察二省及平津二市ノ自治ノ完成ヲ期シ爾他三省ヲシテ自ラ進ンテ之ニ合流セシムル如クスルモノトス冀察政務委員会ニ対スル指導ハ当分宋哲元氏ヲ通シテ之ヲ行ヒ民衆ノ自治運動ニシテ公正妥当ナルモノハ之ヲ抱容セシメツツ逐次其ノ実質的自治ヲ具現セシメ北支五省ノ自治ノ基礎ヲ確立ス
冀東自治政府ニ対シテハ冀察政務委員会ノ自治機能未タ充分ナラサル間其ノ独立性ヲ支持シ翼察ノ自治概ネ信頼スルニ至ラバ成ルヘク速ニ之ニ合流セシメルモノトス〔中略〕
(五)北支処理ハ支那駐屯軍司令官ノ任スル所ニシテ直接冀察翼東両当局ヲ対象トシテ実施スルヲ本則トシ且飽ク迄内面的指導ヲ主旨トス又経済進出ニ対シテハ軍ハ主動ノ地位ニ立ツコトナク側面的ニ之ヲ指導スルモノトス但当分ノ間冀察政務委員会指導
ノ爲一機關ヲ北平ニ置キ支那駐屯軍司令官ノ区処(自治機構ノ指導竝ニ顧問ノ統制等)ヲ受ケシム関東軍及北支各機開ハ右工作ニ協力スルモノトス、其ノ他在支各武官ハ右工作ニ策応シ特ニ大使館附武官及南京駐在武官ハ適時南京政権ニ対シ北支自治ノ必要性ヲ理解セシムルト共ニ自治権限六項目ノ承認ヲ強要シ、少クモ自治ヲ妨害スルカ如キ策動ヲ禁遏セシムルモノトストス
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)322〜323頁。

96・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:05
東京裁判では南京虐殺は30万人だと言われた。
埋葬記録から追跡できるのは、10数万だ。

97・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:15
第2講 昭和初期の〈大日本帝国〉>>2-16
     講義ノート>>2-13
     資料と補足>>14-16
      前史(明治維新〜昭和初頭)>>2-6
      1930年代初頭での日本 >>7-10
      世界大恐慌と昭和恐慌 >>11-13 
第3講 満州事変と「満州国」>>18-36
     講義ノート>>18-29
     資料と補足>>30-36
      満州事変の勃発と関東軍による満州占領 >>18-22
      石原莞爾の戦争構想 >>23-26
      満州事変と国内政治 >>27-28
      「満州国」の実態 >>29
第4講 2・26事件と「国策の基準」 >>37-68
     講義ノート>>37-53
     資料と補足>>54-68 人物紹介 >>59-68
      「国家改造」グループの形成 >>37-45
      2.26事件とその歴史的意味 >>46-50
      広田弘毅内閣による「国策の基準」の策定 >>51-53
第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件>>70-96
     講義ノート>>70-88 >>96
     Ⅰ 盧溝橋事件>>70-75
      〔資料〕政府「重大決意」声明(1937年7月11日)>>76
     Ⅱ 「盧溝橋事件」の、「拡大論」と「不拡大論」>>77-81
      〔資料〕盧溝橋事件当時の陸軍中央首脳>>78-79
     Ⅲ 戦線の拡大と初期講和工作>>82-84
     Ⅳ 近衛声明と戦争の泥沼化>>85-88
      〔資料〕「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年1月16日)>>87
      〔資料〕南京事件>>89-95

98・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:41
 第2講>>2-16をより調べるには
大江志乃夫『昭和の歴史3 天皇の軍隊』(小学館)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094610235/qid=1054477241/sr=1-16/ref=sr_1_0_16/249-5557652-3102733
家永三郎『戦争責任』(岩波書店)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006030509/qid=1054477314/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/249-5557652-3102733
江口圭一『新版・十五年戦争小史』(青木書店)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4250910091/qid=1054477355/sr=1-8/ref=sr_1_0_8/249-5557652-3102733
中村隆英『昭和史 ・ 1926-45』(東洋経済新報社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4492060588/qid=1054477404/sr=1-3/ref=sr_1_0_3/249-5557652-3102733

 第3講>>18-36をより調べるには
岡部牧夫『満州国』(三省堂)
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=00535753
江口圭一『昭和の歴史4 十五年戦争の開幕』(小学館)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094610243/qid=1054477651/sr=1-2/ref=sr_1_0_2/249-5557652-3102733
浅田喬二・小林英夫編『日本帝国主義の満州支配』(時潮社)

99・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2003/06/01(日) 23:41
 第4講 >>37-68をより調べるには
秦郁彦『軍ファシズム運動史』(河出書房新社)
高橋正衛『二・二六事件』(中公新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121900766/qid=1054478055/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-5557652-3102733
三宅正樹ほか編『昭和史の軍部と政治(2)』(第一法規出版、1983年)
藤原彰・今井清一編『十五年戦争史(2)』(青木書店)

 第5講>>70-96をより調べるには
藤原 彰『昭和の歴史 5 日中全面戦争』(小学館)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094610251/qid=1054478268/sr=1-5/ref=sr_1_2_5/249-5557652-3102733
古屋哲夫『日中戦争』(岩波新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004203023/qid=1054478307/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-5557652-3102733
吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4250980197/qid=1054478346/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-5557652-3102733

100カマヤン:2003/06/02(月) 00:07
>>88 >>95【補足資料5-4】「北支処理要綱」 補足。

これは1936年1月13日の閣議決定だ。岡田内閣時、2.26事件以前の閣議決定だ。

「北支処理ノ主眼ハ北支民衆ヲ中心トスル自治ノ完成ヲ援助シ」
は、満州国を作ったのと同じロジックだ。

「(五)北支処理ハ支那駐屯軍司令官ノ任スル所ニシテ」
とは、具体的なやり方は現地司令に任せる、という意味だ。


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