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人格類型論 他

1鎌やん:2002/07/09(火) 03:11
人格類型論は、ある程度思考の補助線になると思うので、
宮台先生から以前講義してもらったことのメモとか。

参考図書 『サブカルチャー神話解体』(パルコ出版)
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3a5264679332f0106d5c?aid=&bibid=00968484&volno=0000

2鎌やん:2002/07/09(火) 03:11
====以下、メモ=====
 人格類型論

 自己啓発セミナー、自己改造セミナーのルーツはアメリカにある。
ベトナム戦争帰還兵が日常モードへ戻れないことが社会問題化した。
アメリカではゲシュタルト療法など国家的に色々試された。
自己啓発セミナーはその一つ。もともと、エグゼクティブ・官僚向けに
短絡化(ショートカット)されたシステム。80年代初めハイブロウ向けに
日本で流行した。宮台氏は複数回参加し、観察した。
 記憶は合理化される。記憶は捏造されている。自己改造セミナーの
セッションにより、自分に強い影響を与えたであろう記憶を再現すると、
「記憶だと思っている」こと・「思い出してしまうと自分は傷つくだろう」と
予期していたことと、記憶との落差に気づき驚く。
 再現した記憶が「本当の記憶」なのかどうかは、誰にも判らない。
 精神分析では、19世紀から(同様のことが)なされている。本当は
家族の中で何があったのか。記憶の枠変えなど。
 「客観的に家族問題があったかどうかは判らない」と、フロイトは言っている。
(続く)

3鎌やん:2002/07/09(火) 03:11
 自己改造セミナーの優秀なトレーナーは、3分で人を洗脳できる。
他者の心の鍵をどう開けるかどう閉じるかは、テクニックとして確立
されている。人間の心はオートマチックに機械的に反応する。
 「これをすると自分は傷つくのではないか」というフレーム枠組と、
実際にやってみて傷つくことは、別。実際にやってみると、別に傷つかない。
ナンパや営業など。
「ナンパして失敗したら、自分は傷つくのではないか」と考える枠組は、
そう考えることが思考者にとって都合がいいということにすぎない。

 自分が、ある行為に踏み出せるかどうかは、自己イメージ・セルフ
イメージによる。それに従い《行為》がなされる。《行為》には《偶然性》
《偶発性》が伴う。
前近代的共同体では、行為による結果は決まっていた。「お定まり」の
結果が得られた。
近代では人それぞれの反応が返ってくるので、《偶発性》が高くなる。
行為によって得られる体験によって、セルフイメージは強化、あるいは
変化する。
セルフイメージはこのように循環する。
(続く)

4鎌やん:2002/07/09(火) 03:12
 体験によって生じる期待外れを処理する方法には、1990年に宮台氏が
統計したところでは、五種類ある。
(参照;『サブカルチャー神話解体』パルコ出版)
名称は消費者類型に当てた仮称であり、学問的なものではない。

 ■ミーハー;個別に適切な期待水準を設定する。青山立教系。
 ■バンカラ;期待水準を高く設定し、期待外れに対しては批判をもって処理する。
東大女子に多い。
 ■ニヒリスト;期待水準を低く設定し、期待外れを回避する。早大系。
 ■ネクラ;ニヒリストの模倣によって期待外れを回避する。期待外れの生じる
領域、対人領域から退却する。
 ■よりかかり;ミーハーの模倣によって期待外れを回避する。

 80年代半ば、「新人類」「オタク」という言葉が生まれる。
 何をもって「オタク」とするかはまた別な問題になるが、ひとりでcommitment(傾倒)
する遊びに嵌る度合いが高い者を、ここでは「オタク」とする。
「オタク」はこの五分類では、「ニヒリスト」と「ネクラ」がそれである。
「ニヒリスト」はオタクリーダーであり、「ネクラ」はオタクフォローアーである。
 「新人類」はこの五分類では「ミーハー」と「よりかかり」である。
「ミーハー」は高感度消費者、新人類リーダーである。「よりかかり」は新人類
フォローアーである。
 「バンカラ」は情報的には鈍感である。
(続く)

5鎌やん:2002/07/09(火) 03:12
 「ミーハー」「バンカラ」「ニヒリスト」は、自己イメージが高い。
「ネクラ」「よりかかり」は自己イメージが低い。
自己イメージが低いから模倣という行動になる。
 社会的なもの、社会問題・政治問題へ関心が高いのは、
自己イメージの高い人間である。
社会的なものへの関心が低いのは、自己イメージの低い人間である。

 80年代は分類の時代だった。一概に「若者は」とは言えなくなったので、
分類し若者分布を見ることにより、分類に頷きあうことによって
共通の地平を確認しようとした。
 90年代に至り、どのタイプがどういう情報に接するかの偶然の
度合いが大きくなり、その後の分布は、いっそう不透明になった。
====以上、メモ=====

6鎌やん:2002/07/09(火) 04:16
上記の人格類型論は、90年時点の人格類型であり、調査の継続と理論の
発展が望まれます。
で、ここから連想したことなど、鎌やんなりに、以下、つらつら書きます。

社会への人間の基本態度には、2種類ある。
1;楽観(社会への「期待値」が高い…「正の先決戦略」)
2;悲観(社会への「期待値」が低い…「負の先決戦略」)

社会にどう関わっているのか、のイメージには、2種類ある。
A;当事者的(状況に関与している、という自意識)
B;傍観者的(状況に関与していない、分析している、という自意識) 

仮に図式すると、こう↓である。

             1;楽観(「期待値」が高い)
                         ↑                      
      楽観的研究者       |   楽観的実業家
                         |
 B;傍観者的 ←―――――――+―――――――→ A;当事者的
                          |
      悲観的批評家        |   悲観的従事者・悲観的活動家
                          ↓
             2;悲観(「期待値」が低い)

(それぞれの立場を代表する呼称は、あくまで暫定)
(続く)

7鎌やん:2002/07/09(火) 04:17
宮台氏が90年に分類した「5類型」を、この図に振り分けると、
1−A;バンカラ
1−B;よりかかり、ニヒリスト
2−A;バンカラ? ミーハー?
2−B;ニヒリスト、ネクラ
に、だいたい対応する…かな?

オタクは悲観によって現実に耐えようとしている。悲観的になるのは、
信用に足る情報を当人が持っていないからだ。自分の持っている
情報が信用できず、それゆえ状況に関与できないから、
悲観的になる。(期待値を故意に下げる)

 社会にはさまざまな有意義有意味な情報がある。それを得るためには
アンテナを立てる必要がある。アンテナさえ立っていれば、情報はいくらでも
入ってくる。
だが、「アンテナを立てる」という行動が、非常に困難だ。
オタクは、アニメやマンガに関するアンテナは立っている。
だが他のジャンルのアンテナを立てていない。
他のジャンルにいる人間も、全てにアンテナを立てるのは不可能だ。
人が何にアンテナを持っているのかは、偶然に左右される。
アンテナで受け止めないものに対しては人は傍観者にならざるを得ない。
アンテナを素通りするものの多さに自覚的になれば、悲観的にならざるを得ない。
(続く)


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