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Web誌友会 板/2

4961a hope:2015/01/04(日) 22:12:38 ID:cEpBaIdo

 「生命の實相」第15巻 p101 後から4行目〜

谷口――それもけっこうですが、宗教というものは、お経や聖書の講義の中にあるのではありません。むろん、お経や聖書には真理が書いてある。だからはなはだありがたいのです。しかしその解釈にいたっては、その人、その人のサトリによっていろいろに解釈されるのであります。

親鸞聖人と日蓮上人とはいずれ劣らぬ名僧でありながら、釈迦のお説きになりました仏法を全然ちがうように解釈された。親鸞聖人が「ただ念仏さえとなえればほかの行は何一つせいでもよい」と言われると、日蓮上人は全然反対に「念仏など称えていると無間地獄へ堕ちるぞ」と言われた。

どちらもえらい名僧で学問は衆に秀でている。どちらもお経の一字一句の意味が解らぬという人ではない。それだのにお経の説き方は全然別になった。だからお経の一字一句がわかったとて、本当のサトリが得られるにはきまっていないのです。

日蓮上人の説き方が正しいのか、親鸞聖人の説き方が正しいのかは、日蓮上人、親鸞聖人以上の名僧でないと判別することができない。本当のサトリというものはお経の語義の中にあるのではない。

あなたは「一燈園は宗教ではない」と言われましたが、一燈園でも立派な宗教です。「生長の家」もまた見方によれば宗教です。宗教というものはお経の文字の講義をしたり講義を聴いたりすることではない。道に随った生活をするのが宗教的生活で、道というものを指し示す教えが宗教である。

道は必ずしも何々教というものの中にはない。何々教という立派な名義の中にいて、お経やバイブルの講義をどんなに立派にしても、道をはずれた行いをする人は宗教家とはいえない。それは宗教業者です。既成宗教はだめだという声が聞こえるのもそのためである。既成宗教がだめなのではない、宗教業者が宗教を形ばかりにして生命のないものにしたのです。

これに反してお経の一字も解釈しえないでも、道にかなった行いをする人は宗教生活者です。だから宗教の開祖にはずいぶん無学な人が多い。天理教祖でも、金光教祖でも、大本教祖でも、みんな無学である。無学の人が「道」にかなった行いをした。そこで無学の人と、天地に満ちている「道」とが一体になった。そこで「道」というものが、その無学の人を通して真理の響を奏でる、これが宗教(おしえ)というものです。

教祖が無学な場合には、一絃琴(いちげんきん)のような簡単な言葉で「道」を説かれた。しかし「道」というものは、天地にミチ、すべての人の真心の内にミチているので、真心をハッキリさせている人なら必ず共鳴する。そこで多数の人々が共鳴し信者となって集まって来る。

集まった人々の中には学者もあれば、教祖が簡単な単純な言葉で伝えられた「道」をいろいろ学者ぶったありがたそうな複雑な言葉で説明する。そこで表面はますます厳めしくなり、立派になってくるけれども、それを説く人の生活が道にかなわないと、だんだん、本当の「道」が奥の方に埋もれてくるのです。

はじめに権威のあった宗教がだんだん権威がなくなってくるのは、たいていそういう経路をとるものです。

4962a hope:2015/01/04(日) 22:17:21 ID:cEpBaIdo

>>4961 a hope 所感と提案)

この雅春先生のお話の前に、宮岸さんという方がお話をされています。
その内容を要約すると「自分は宗教が好きであるから、聖書の講義を聴いたり、仏典の講義を聴くとかして、本当の安心の深い生活をしたい。以前「一燈園」に入ろうとしたが、「一燈園」は宗教でないからやめた。自分の家の近くにお寺があるので、そこのお経の講義を聴きに行かせてもらおうかと思っている」というものです。
それに、雅春先生が答えになったものが、上に謹写した内容です。


『何々教という立派な名義の中にいて、お経やバイブルの講義をどんなに立派にしても、道をはずれた行いをする人は宗教家とはいえない。それは宗教業者です。』

『集まった人々の中には学者もあれば、教祖が簡単な単純な言葉で伝えられた「道」をいろいろ学者ぶったありがたそうな複雑な言葉で説明する。そこで表面はますます厳めしくなり、立派になってくるけれども、それを説く人の生活が道にかなわないと、だんだん、本当の「道」が奥の方に埋もれてくるのです。
はじめに権威のあった宗教がだんだん権威がなくなってくるのは、たいていそういう経路をとるものです。』


これって、今の「生長の家」教団のことなのではないでしょうか?
「生長の家の教え」を説いて下さっている、総裁や副総裁がご家族や本流の先輩方と和解してくださらなければ、
本当の「道」はどんどん奥の方に埋もれ、「生長の家」の権威もどんどんなくなってしまうということですね。

それ以前に、創始者である谷口雅春先生の残された聖典「生命の實相」のない「生長の家」教団は、もはや宗教団体とは言えないのではないかとも思いますが・・・。

これはわたしの個人的意見ですが、「生長の家」教団はいっそのこと、宗教法人からNPO法人か何かに方向を転換されたらいいのではないのでしょうか?

その方が「生長の家」教団の職員の方々や信徒の方々も、いろんな意味で救われるような気がします。

そうすれば、全信徒に「信仰の自由」が戻ってきますからね。
誰に遠慮することなく、雅春先生の説かれた万教帰一の「生長の家の教え」を信仰できるわけですから・・・。

雅宣先生、教団本部の方々、もしこの掲示板をご覧でしたら一考してみてください。

4963a hope:2015/01/06(火) 11:01:18 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第1巻 p139 後から6行目〜

われわれが未来の不幸を避けるためには、その不幸を予知する霊感などいくらもっていてもなんの役にも立たないのであります。予知された未来はすでに起こりずみであるからそれを取り消す道がない。それを取り消そうとあせるのは活動写真の映写機に一定の事件のフィルムをかけて活動写真を写しながら、舞台面の映画を消しゴムで消そうとするのと同じ愚であります。

現実世界という舞台面にこんな事件が映ってはいかぬと思うならば、「念のフィルム」にそんな事件を撮影しておかぬがよろしい。他のひとびとが集まってそういう事件の「念のフィルム」を合作しそうであったら自分だけ「類でないものは反発する」という法則によって、そのフィルムに入らなければよろしいのです。「類でないものは反発する」という法則によって、そのフィルムに入らなければよろしいのです。「類でないものは反発する!」これこそわれわれが悪運を避ける唯一の法則であります。

悪い事件の映っている「念のフィルム」に自分だけ映るまいと思うならば、自分の生命に、その悪い事件と親和し、互いに引き合うようないろいろな心持ち――暗い心持ちとか、鋭い心持ちとか、心で人を刺す性質とか、窮屈で人をいれない性質とか、恐怖の感情とか、取り越し苦労の感情とかを捨てて朗らかな、明るい、愛深い、人を咎めない、赦しの深い、寛大な、平和な、落ちついた、角のない、円満な、自信のある、自分を神の子として神と一体であると信ずる心を養成すればよいのであります。

これだけの心の準備ができるならば、自分の周囲にどんな不幸な事件が起こって来ても、自分だけはその不幸な事件の映画俳優の一座に加えられず、一緒に不幸の分け前を味わわなければならぬようなことはなくなるのであります。
(つづく)

4964a hope:2015/01/06(火) 11:02:30 ID:cEpBaIdo

>>4693 a hope まとめと所感)

●【悪い心持】 = 暗い心持ちとか、鋭い心持ちとか、心で人を刺す性質とか、窮屈で人をいれない性質とか、恐怖の感情とか、取り越し苦労の感情 
→ 病気・不和・不幸がおとずれる

○【良い心持】 = 朗らかな、明るい、愛深い、人を咎めない、赦しの深い、寛大な、平和な、落ちついた、角のない、円満な、自信のある、自分を神の子として神と一体であると信ずる心 
→ 健康・調和などの幸福がおとずれる


光明思想って意外とその仕組みは単純なんですよね。
でも、それがわかっていながら、なかなか感情をコントロールできないのがわたしたち現象人間なのだと思います。

4965a hope:2015/01/07(水) 09:24:55 ID:cEpBaIdo

>>4963 つづき 第1巻 p140 後から4行目〜

こう申しますと、なかなか繁雑な種類の心の修養をしなければならぬようで、この忙しい世の中に、とてもわれわれは実行できそうにないと思われる方もあるかもしれませぬが、これを一つの根本原理に還元しますと、決してこの修養は皆さんの想像されるほどは繁雑なものではないのであります。

この修養の根本原則とは、「自己が神の子であって、自己の生命は神の霊である」との事実に目覚めることであります。この事実に目覚めるときわれわれは心の根本において神の無限力に生かせれていることを感じますから、おのずから心が朗らかになり、明るくなり、寛大になり、円満な、平和な、恐怖心のない、取り越し苦労をしない人間になり、したがってどんな不幸も自分の側を素通りして近づかず、幸福ばかりが引き寄せられて来る心的磁石となるのであります。

では、「自己が神の子であって自己の生命は神の霊である」という事実に目覚めるにはどうしたらよいかという一つの秘訣を申しますと、常に言葉の力で「わたしは神の子である」という思想の種子(たね)を自分の心に植えつけるようにするのであります。

道を歩く時にも「神の子が今歩いている」と低声(こごえ)でいって、その言葉のとおりに思って神聖な罪にけがれない「本物の自分」を心に印象するようにします。往復の電車に乗っている小さな暇を利用しても「私の真性は神である。神こそ本当のわたしである。だからわたしは恐れない」と自分だけに聞こえる声で自分自身にいって聞かせます。

人に面会する前にも「わたしは神である。神がわが父である。父と子とは一体であるからわがなすは父がなし給うのだ」と言葉にだして数回繰り返して自分にいって聞かせて心に自信力を植えつけてから会うようにします。すると、その一回の面会には失敗してもだんだん人に面会するのに自信ができ、やがてはすばらしく成功するようになれます。結果を急いではなりません。

要するに「神と我とは父と子との関係であって自分は神の無限力に後援されている」という意味のことばを、暇あるごとに、機会あるごとに、言葉の力で、自分自身の心の奥底にたたみこむようにするならば、この自覚の深まるにしたがって運命が開けてくるようになり、神我一体の真理がいよいよ深く心の底に目覚めて、心全体が照り輝くようになりますと、「類をもって集まる」の心の法則によって、どんな時にも明るい運命ばかりが自分に吸い寄せられて来るようになり、もう前途の予感力が欲しいなどという欲望もぜんぜんなくなってしまうのであります。

なぜなら、もうその人は運命に対して不死身となり、何事が起ころうとも自分にとって悪いことは一つとして起らないとの大確信に到達するからであります。確信は「念の世界」における運命のひな形で、この世の出来事はすべて、このひな形のとおりに出てくるのであって、悪い確信をもてば運命が悪くなり、善い確信をもてば運命が善くなることは免れがたい事実なのであります。

4966a hope:2015/01/07(水) 09:26:58 ID:cEpBaIdo

>>4965 a hope所感)

「自己が神の子であって、自己の生命は神の霊である」
「わたしは神の子である」
「神の子が今歩いている」
「私の真性は神である。神こそ本当のわたしである。だからわたしは恐れない」
「わたしは神である。神がわが父である。父と子とは一体であるからわがなすは父がなし給うのだ」
「神と我とは父と子との関係であって自分は神の無限力に後援されている」


現象世界は影の世界で、実際には存在しない世界なのに、わたしたちはその影の世界で起こる出来事に、いつも一喜一憂して生きているのですよね。

今朝、信仰体験板に謹写した「今を感謝する祈り」に、

<<神は私を?神の子? として、自分の心も魂も体も、
ともに最も、勉強になり鍛錬になる場所で私を訓練していてくださるのである。
この訓練は神さまの愛から来ているのであるから、
今私はどんな場所におかれても感謝し、
どんなことを命ぜられても素直に今の仕事を感謝してていねいに深切に実行するのである。>>
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1333192083/2517

とありました。

わたしは、独身時代、自分の人生を恨み続け、神の存在を否定し続けていました。

わたしは、いつも心穏やかでいたいのに、自分の周りの人々となかよく暮らしたいのに、どうしてこんなにも辛い出来事をわたしに与えるのですか?

神よ、あなたは、どうしていつもわたしの希望を打ち砕くようなことをするのですか?

神さまなんている筈がない、いたら、こんなひどい仕打ちをわたしにする筈がない、もしいたら、怨み続けてやる!と、

そして、その「神を信じられない」という苦しみが頂点に達した時に経験したのが「幽体離脱」でした。

自分の肉体から魂が抜けて、小さなアパートの部屋の天井に張り付き、自分自身の体がベッドに横たわっている姿をハッキリ見ました。

その時は、その意味が全く解りませんでしたから、気が動転してしまいましたが・・・
その後は、不思議に心が落ち着き、自然に精神世界に目覚めていくようになりました。

今から思えば、あの耐え難い苦しみは、神さまがわたしを信頼し、愛してくださっていたからこそ与えて下さった、訓練だったのですね。

そして、本当に神を否定しきった時、神さまが?肉体は本当のあなたではない? ということを「幽体離脱」させることで、教えてくださったのだと思います。

本当に、すべて出来事に意味があるのですね!

4967a hope:2015/01/07(水) 09:35:36 ID:cEpBaIdo
>>4966訂正

?神の子? → 〝神の子〝
?肉体は本当のあなたではない? → 〝肉体は本当のあなたではない〝

4968るん吉:2015/01/07(水) 21:26:27 ID:p..UGkhA

現象の自分 今、心が苦しい状態。・・としても・・

本当の自分は、今も心が明るくて明るくて、感謝しててハッピーなのさ。と・・

4969るん吉:2015/01/07(水) 21:36:21 ID:p..UGkhA
幽体離脱されたんですね?凄い体験ですね。


a hopeさんは、いつもいつも自分が神の子だって頭の中にというか心の中に

有るんですね。それから、一日も雅春先生の御本を読まない日はないのですね!

そこまで、市内とだめですね。自分もこれからそうします。

4970a hope:2015/01/07(水) 23:23:53 ID:cEpBaIdo

>>4968 4969るん吉さま

わたしは、聖典「生命の實相」に出会う前から、精神世界に興味がありましたし、
気功をやっていたので、幽体離脱とは別に、小周天が回るという不思議な体験もしています。

そのような体験をしてみると、実感として肉体以外の何かが自分だと思えるようになるのかもしれませんね。

ですが、生長の家の教えである「現象は影」「物質なし」という感覚が実感として感じられてきたのは最近です。

それでも実際には、わたしは現象世界で生活しているわけですから、
子供のことなんかで色々な心配事もありますし、時には、不安で眠れないような時もあります。

ですが以前にくらべ、感情的に激しく怒ったり、悲しみが長く続いたり、誰かを恨んだりするようなことはほとんどなくなってきました。
本当にありがたいことに「神の子」の自覚が深まってきているからだと思います。

「生命の實相」を拝読していても、以前よりずっと理解できるようになってきています。


神さまがこの現象世界にわたしたちを投影してくださり、自由を与えてくださっているというのは、
神さまの深い愛情なのだったというのは、今朝、「希望の祈り」を謹写していて気づきました。

ですから、毎日「真理の言葉」に触れていれば、必ず進歩していくと確信しています。
大切なのは継続することですよね!


それから、

<<現象の自分 今、心が苦しい状態。・・としても・・
本当の自分は、今も心が明るくて明るくて、感謝しててハッピーなのさ。と・・>>

という、るん吉さまのお考え方は、ちょっと違うような気がします。
わたし的に解釈させていただければ、そのお考え方は現象・実相の二元論になってしまっているのです。

今のわたしだったら、

『現象の自分 今、心が苦しい状態の自分なんてないんだ!
こんなふうに心が苦しんでいるように感じてしまうのは、自分が現象に捉われているからなんだ!
自分は神の子だから、いつも神さまに護られていて、完全円満なんだった、ありがたいな、幸せだな〜』

とこのように、実相一元に気持ちを切り替える努力をすると思います。

あくまでも、わたしのやり方ですが・・・

それでは、るん吉さま、みなさま、おやすみなさい。

4971a hope:2015/01/08(木) 17:35:34 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第1巻 p182 3行目〜

われわれは赤ん坊をいっぺんに大人にしてしまうわけにはゆかないのであります。それと同じように皆さんの心のうちを、いっぺんに太陽のような「真理」の光でくまなく照りかがやかしてしまうということはできないのであります。

そこで本書または月刊『生長の家』を毎号繰り返し暇さえあれば読んでくださるようにしていただければ、しだいに皆さんの心の中(うち)に「真理」という偉大な太陽の光線が強く照り輝くようになる。すると、病気はむろん、どんな生活苦でも自然に消滅するようになるのであります。

それから、神想観の修行も一日一回はぜひ怠らぬようにしてくださると、いっそうすみやかに心の奥底に真理をかがやかすことになるので、効果も早いのであります。この坐法や観念法は『生命の實相』全集第四巻観経篇(頭注版 第八巻)に詳記してありますからご覧のうえ実修してくださるようにお願いいたします。

4972a hope:2015/01/08(木) 17:36:18 ID:cEpBaIdo

>>4971 a hope所感)

あらためて「生命の實相」第1巻を読み返していますが、やはり「生長の家の実相哲学」の基本がそこにあると思いました。
生長の家は発祥当初は宗教ではなく「哲学的思想運動」だった訳ですが、わたしは「生命の實相」全巻を通読してもあまり宗教色を感じません。
むしろ、「光明思想」(ニューソート)というイメージが強いです。
だからこそ、「生長の家」は世界中に広がったのだと思います。

4973るん吉:2015/01/09(金) 04:04:31 ID:p..UGkhA
a hopeさま
>>今のわたしだったら、

>>『現象の自分 今、心が苦しい状態の自分なんてないんだ!
>>こんなふうに心が苦しんでいるように感じてしまうのは、自分が現象に捉われているからなんだ!
>>自分は神の子だから、いつも神さまに護られていて、完全円満なんだった、ありがたいな、幸せだな〜』

>>とこのように、実相一元に気持ちを切り替える努力をすると思います。

>>あくまでも、わたしのやり方ですが・・・


あ、そうですねー!!きゃー 保存しよっ!そうか・・

現象に確かにとらわれてます。有る場面を想定して、考えて苦しい感情が勝手にでて・・・

でして・・

でも、このるん吉はいないんですよね。はー良かった!有難う!

では、寝ます。この頃寝れないんです。現象にとらわれて・・です・・・(´・ω・`)

4974るん吉:2015/01/09(金) 04:12:26 ID:p..UGkhA
a hopeさま

しょ、小周天てちょっとこ、こわい。すごいですね。

あれ、まかり間違うと危険やし・・気がくるくる頭の方までですね?まわって

どうなりましたか?あと、尾てい骨の辺から背中にかけて熱いのが上にいったりとか?

 もし、よかったら教えてくださいね。私はそういう気功教室も行った事あったんですけど

その先生のお説が「物質有」でしたからその日で辞めました。(イケメンでもったいなかった)

4976a hope:2015/01/09(金) 19:51:34 ID:cEpBaIdo

>>4973 るん吉さま

わたしの考え方に、共感してくださりありがとうございます!

わたしが、雅宣先生や純子先生のご著書やブログを拝見していて感じることは、
お二人が、現象・実相の二元論を説いていらっしゃる、ということなのです。

雅春先生や他の直弟子さんのご文章は現象のことを書いてもあっても、必ず「その現象はない」と否定されているのですが、
お二人の場合は、「実相世界は完全円満・・・だけれども、現象にはこういう問題がある・・・だから、神の子らしく現象問題に対応していきましょう」
という、お考え方をされてしまっているのです。

だから、現在、多くの教団の信徒さんも、そのご思想の影響を受けてしまっているのではないかと感じています。

ですが、雅春先生は、そういう「現象あり、悪あり」という考え方は「虚説」であるとハッキリ聖典に説かれていますよね。


ところで、るん吉さまは気功や精神世界に興味をお持ちのようですね。

確かに、小周天を回すのは、危険が伴うと思うので、必ず信頼できる気功師に指導を受けた方がいいと思います。
わたしの気功の先生はその数年後に亡くなってしまってしまったのですが、途方に暮れていた時に、出会ったのが聖典「生命の実相」でした。

神さまが導いてくれたのですね!

体験談、聞きたいですか?
うーん。でも、やっぱり、ここには書けませんね(笑)

4978るん吉:2015/01/10(土) 15:40:57 ID:p..UGkhA
a hope さま

れす、サンキュです。
>>実相世界は完全円満・・・だけれども、現象にはこういう問題がある・・・だから、神の子らしく現象問題に対応していきましょう」

こりゃ、総裁は二元論bんですね。現象はあるとしての解決の仕方ですね。ふむふむ。

ただ、自分もちょっと今難しいのは、「病気の問題ならね、実相の私は健康で・・云々」て
考え方が解るんですけど(それも難しいけど)ちょっと会社の悩みの場合は、どういう風に考えたら良いか、解らない・・です」

今の悩んでしまってる感情も、「るん吉なぞ本当の我でないのだ。(この物質人間るん吉は情け無い事にすぐ悩んじゃう。)本当の我は神の子で、今も悩んだりしてないし
感謝で一杯で心も明るい神の子。そして本当の我の存在する世界も苦しみもない完全調和してる世界なんだ。
現象なんか無いのだから、無い現象にとらわれないでいたら、ホントの調和してる世界が現れてくるんだ。」て
そう思うようにしてるんですけど・・
ただ、今の会社の状況が実際につらいので、それが無いにしても、実際はそこで仕事をしてるので心が苦しくなったりするので
その嫌な出来事に対する考え方を「実相独在、現象無し。と心に持っていながら、同時にその現象に対する考え方を
何とか替えなくてならないですよね。
「例えば、嫌な面ばかり見ないで、恵まれてる面をみよう。例えば仕事が有るだけ有り難い等」とか
「人の嫌がる仕事をするのを押しつけられたとしても、いやいや自分の仕事だけしてるよりも、
人の為にする機会が有ることが、却って良いじゃんか」とか、まあ無理やりに考えてます・・
(ほんとは、自分勝手な輩に対して、腹立ってたり、悔しかったりしてるんですけどね。)

このやり方で、良いのかな・・解らなくなってきた・・2元論になってるのか?
現象無し、実相独在の信じ方が、浅いので現象に対して(無いのに)悩んでしまってるんでしょうね?
へたくそな言い方でごめんなさい。

4979a hope:2015/01/10(土) 20:30:13 ID:cEpBaIdo

>>4978 るん吉さま

るん吉さまは、今、職場の人間関係で悩まれていらっしゃるのですね?

実はわたしも今の職場に転勤する前は、最悪の人間関係の中で働いていました。

わたしは、当時は新人だったので、いわゆる、〝新人いじめ〝 ともいえるような扱いを受けていたのです。

ですが、当時はすでに聖典「生命の實相」のお勉強していましたから、すべてが人生勉強だと思えましたし、
また、その意地悪な先輩たちの姿を自分自身の心の鏡であると反省するようにも努め、
毎朝の神想観の時にその人達に感謝の祈りをさせていただいていました。

それなのに、わたしがいくら反省しても、感謝の祈りを捧げても、その方たちは殆ど態度を変えることはなく、
むしろわたしへのいじめは悪化していきました。

たぶん、わたしがどんな仕打ちを受けても不平もいわず平然としているので、余計に頭に来ていたのかもしれませんね。

特定の誰かに対する「祈り」はいつもすぐに叶うとは限らないのかもしれません。

雅宣先生にしても、今まで、たくさんの信徒の皆さんが「実相顕現の祈り」をされているのだと思いますが、
現象のお姿は、いつまでもご兄弟とすら和解されようとしませんし、本流復活の先輩方とは延々と裁判を続けるなど、
とても実相を顕現されているお姿だとはいえませんものね(-_-;)

ですが、わたしはそんな不遇な扱いにも負けず、明るく自分のできることを精一杯していましたら、
そんな姿を遠くから見ていてくれて、評価してくださっていた方がたくさんいたんですよ!
もちろん、神さまも見守っていてくださったわけですが・・・。

だから、ありがたいことに、去年の4月からは人間関係の素晴らしくよい仕事場に転勤になり、
お給料もそれまでの2倍近くもらえるようになりました。

大切なのは、祈りの効果が現象にすぐに現れなくても、相手に感謝し続けることなのではないでしょうか?

相手には相手の業因がありますから、こちらがどんなに祈っても現象の姿がすぐに変わるということはないかも知れませんが、
自分自身が本当に心から相手に感謝できたとき、自分自身の環境は変わる(良化する)のだと思います。

わたしが辛いと感じるときに、心の支えとなっている聖典の文章を紹介させていただきますね。
すんなり受け入れるには、なかなか厳しい真理かもしれませんが・・・。

○どんな苦労があっても、因縁によって世話させて頂いていると思えばありがたいばかりの一筋である。
人間は他のために苦労させられているのではなく、自分の魂を高め上げ、
清め上げるための修行として苦労を恵まれているのである。
学校は先生のために勉強するのではなく、生徒自身の向上のために勉強するのである。
人生は魂の勉強する学校である。
苦労は教科書であり、苦労させてくださる人は皆自分の先生である。
われわれは苦労させてくださる人に感謝して拝まなければならない。
これが解ったら世の中にありがたくないものは一つもないのである。
これが解ったら人生は幸福なばかりである。
豚なら幸福とは快楽のことだと思っているかも知れぬが、本当の人間は苦労の中に喜べるものである。

「生命の實相」第8巻 観行篇 p15より

4982るん吉:2015/01/10(土) 21:38:05 ID:p..UGkhA
a hopeさま
すごいですね。実相が現れたんですね!
私はa hope様のように相手に感謝し続けれるかなぁ?グッとくる文章を読んだときは、感激して感謝できても
普段ずっとは難しいかな・・・でも常にグッとくる文章を読み続けていくことにします。
a hopeさんが貼ってくれた8巻の文ですが、

有難うございます。第8巻の文章は 私が探していた文章です。この頃生命の実相の
8巻は全然読んで無くて、解らなかったんですけど、苦労が有っても因縁・・そんな文章が
どこかにあったなあ。と思ってました。有難う。自分にピッタリ。ワード行でつね!あと、去年の暮れからワードに
写す作業をしていた時に見つけた文で、訊けサンがむか〜し書いてくれた文です

『人生は常に公平というわけにはいかないかもしれません。
しかし、醜い自己憐憫のマントをまとっていては絶対に勝てないし、
泣きごとの不快な響きは成功のチャンスを必ず追い払います。
そんなことはもうやめましょう。もっと良い生き方があるのです。』


ひとつ、ふたつの不平部分ばかりに、意識を向けてたら、他の沢山の恵まれている部分を見失ってしまう

ですね。本当に本当にありがとうございました。

4993るん吉:2015/01/11(日) 03:57:06 ID:p..UGkhA

4986 :自分が非難されるとすぐに削除他人の手を利用して非難するトキ:
                        2015/01/11(日) 01:24:57 ID:37HVEq.c

この>>4986から>>4992は曳馬野はんの貼り付けか・・

こんな貼り付け方したら、一瞬 私が「トキ」と呼び捨てにして書いたみたいになって

非常に迷惑!!うのはんと同じですね! 貼り付け方のルールを勉強しいや!

4994るん吉:2015/01/11(日) 04:05:56 ID:p..UGkhA
>>馬
>>これ「ブルンジ」経由 法的には誰が書いたかまず調べられない そういうことだよ誰が書いたかわからないと云うことは るん吉君


法的なぞ、どうでも良いよ!法的に調べる事なんざよっぽどの時だから。

法的にばれなくても、既に、あなたの「うのはなはん擁護」と「要支援2の取得方法も知らないくせに要支援2と言ったり」

等で、書込みをみれば、「あ、これ馬だ」とばれてます。その方が滑稽じゃん。

4995「訊」:2015/01/11(日) 07:01:11 ID:???



>>トキ理事長

 さて、敬愛する谷口雅春先生ですが「その先生を顕彰する誌友会スレ」です。そこに寄せられるバカな投稿ですが ―― いや、ズバリ書こう「バカである」と ―― 削除してください。騒ぐようなら私が鎮火、致します。先生の御前で汚物をばら撒く者や、汚物をばら撒いておきながら「私に発言を許さない」とか言う者、さらには、「私と和解できてイナイ」とか言う者・・・・・・そんな者あらば当方が、

 正 々 堂 々 と 論 破 

 致します。

 ですんでどうぞ、バカな投稿はすべて削除ください。私が責任持って論破、しますんで。



4996「訊」:2015/01/11(日) 07:09:17 ID:???


 再度言う。

 私が正々堂々と論破するから、かかって来なさい。

 新年からわずか11日目だと云うのに、この荒れ具合・・・・・当方は既に貴殿へ向けて、降魔の文を振るう覚悟だ。雌雄を決しようではないか。

5006a hope:2015/01/11(日) 12:04:49 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p117 9行目〜

谷口―― (略)
(p120 7行目〜)
聖典『生命の實相』や『甘露の法雨』を読んで、「人間は本来、神の子であって病気は無い」という真理を知れば胃癌でも治るというのは、病気は無いと知れば病念がなくなる、病念がなくなれば病念が形をあらわしていたところの病気そのものが消えるのは当然です。

「生長の家」の聖典を読んでも世間並みの考えの方をヨリ強くもっていられると、病気の念をもっていることになるので、その病気の念が、形の世界に顔を出して病気としてあらわれて来るわけですから病気は治らないのです。念でおもえば、念のとおりに自分に形をあらわすのが、自分の肉体とか境遇とかいうものですからねえ。

だからわたしは人に言うのです、『生命の實相』や『甘露の法雨』の聖典は幾回でも交替に繰り返して読むべきものであって、一回ぐらい読んで書いてあることの意味だけが解ったくらいでは駄目なんです。読むたびごとに自分の病念を破砕して、最後の無にまで、その病念を破砕しきったとき、忽然(こつねん)とその病気が消える。あるいは今後病気にかかるという可能性がなくなるのです。

映画の例でいえばフィルムに病気の絵が全然なくなったとき、舞台の方でも病気の映画が消えるのと同じです。だから心のフィルムに描かれて潜在している病念がことごとく完全に消え去るまでは、幾回でも繰り返して読んでいただけねばならぬのが「生長の家」の聖典であります。


野田――肉体が念(こころ)の顕現であるということを知るのはなんといっても体験ですね。わたしは近ごろひどい病気もしませんがちょっとした病気になったときに谷口先生のいわれる原理を応用して、精神統一をして自己生命の本来の病気のない状態を念じていますと、ある時間後にその念(こころ)のとおり肉体が健康になってくるのでその体験を得ています。

他人の病気を治すときには病人と両手をつなぎ合わして対坐(たいざ)して精神統一していると病人の幹部と同じ場所の自分の肉体に感応があります。その人の病気がお腹ならば自分のお腹にその病的波動を感じて変に痛くなってきたりするのです。

ところが、その痛みは実際にはない、病人の痛いという念(こころ)の波動が自分に感応しているのですから、今度は「病気はない、痛みはない」という観念に精神を統一していると「病気はない、痛みはない」という念の波動の方が、「病気は在る、痛い」という念の波動にうちかって、痛みが感ぜられなくなって恍惚としてきます。するとその病人の方の痛みもとれて、軽い病気なら一度で治ってしまいます。

この体験でも、病気というものは念の波動のアラワレであって念の波動が自己本来の無病状態にかえれば治るということがわかりますね。・・・

5007a hope:2015/01/11(日) 12:06:58 ID:cEpBaIdo

>>5006 a hope所感)

ここでの雅春先生と、野田氏の会話はわたしには非常に興味深いです。
というのは、わたしはこの野田氏の体験と似たような体験を過去に何度もしているからです。

自分に病気治療の能力があると思ったことはありませんが、亡くなった気功の先生からは、お世辞かもしれませんが、
「○○ちゃん(わたし)は、一緒にいるだけで周りの人を健康にする『気』の持主なんだよ」と言われていました。

ですが、「あなたみたいな体質の人は、常に神さまと繋がっていないととんでもない危険な(悪?)道に外れてしまう可能性があるから、
「神との対話」みたいな、真理の書かれている良質な本をいつも読んでなきゃだめですよ」ともいわれていました。

わたしは、『生命の實相』は「神との対話」以上の聖典だと思っています。

そして、<<「生長の家」の聖典を読んでも世間並みの考えの方をヨリ強くもっていられる>>ような、雅宣先生や純子先生のご著書や祈りの言葉は、
「生長の家」の「病なし」「罪なし」「迷いなし」の根本真理を眩ませて、信徒を迷わせる「虚説」であると確信しています。
(a hopeの個人的な見解です。)

5009a hope:2015/01/11(日) 12:31:27 ID:cEpBaIdo
>>5008 「訊」さま

「虚説」は本来ない説だからこそ、わたしたちはその説に和解してはいけないのだと思います。
いかがでしょうか?

5012a hope:2015/01/11(日) 13:25:52 ID:cEpBaIdo

虚説に和解してはならぬ

 虚説の中でも、最大の虚説は「物質はある」という見解であります。『生長の家』誌友の中で近ごろ脱線して「物質もある、心もある」という二元論に誘惑されたり、「現象も真我のあらわれである」という説に惑わされたりした人がありました。その理由は、われわれは天地一切のものと和解しなければならないから、「物質はある」という説とも和解したとき、本当の真理がかえってわかるのだという理論から、虚説に対しても一応は耳を傾けなければならないというわけだったのであります。われわれは天地一切の実在(もの)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。「人は二人の主に事えることはできない」という諺があります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませばみずから迷うことになるのであります。迷えば迷いの影を現象界にうつして、現象界がままならぬ相(すがた)にあらわれてくるのであります。

 「物質もある、心もある」という二元論に引っかかって、現象界が変にみだれて集金が集まらなくなったり、商売がうまくゆかなかったり、歯痛(はいた)が酷くなった数氏の実例は、かつて『生長の家』に書いたとおりであります。

 最近また「真我も迷う」の妄説に引っかかって、絶えて久しく煩わなかった頭部の湿疹になやまされて、すんでのことに医者にかかりそうになった時、初めて気がついた人があります。それは最近「生長の家」の説を受け売りして、少しばかり異色を見せて独立しようとして「迷いは真我より起こる」と発表した某々氏の雑誌を読んで、その妄説にまどわされ、真我は迷うものやら、迷わぬものやらわからなくなって、心が迷って、「本来清浄の実相」を見ることができなくなったことに原因するということを知り、神想観をして、本来迷わぬ「本来清浄の実相」を観ることを努めたところが、その頭部の湿疹が癒ってしまったという報告を受け取りました。

 「生長の家」の家族となり「真我は神であり、本来清浄の実相である」ということを知らされながら、時々そういう異端邪説に耳を傾けるようになるのが、これいわゆる「試みに逢わせられる」のであり、「引っかけ戻しの仕組み」であります。精神統一せんとすればするほどかえって雑念が浮かぶのと同じであります。この時に雑念妄想の方に心を傾けたら永久に精神統一しがたいのと同じように、この時に異端邪説に和解して耳を傾けたら、自分の実相が昧まされ不幸があらわれるのであります。

 「なんじの敵を愛せよ」といったイエス・キリストさえも、「サタン」に対しては和解していないのであります。イエスが四十日四十夜、精神統一の修行をしている時、そこに幻のように現われたサタンに対しては、イエスはそのサタンの邪説に耳を傾けようとしないで、「神を試むべからず、サタンよ退け、主なるなんじの神を拝し、ただこれのみに事(つか)うべし」と、一喝しているのであります。この場合、サタンとは異端、邪説、妄説、妄想、雑念のことであります。「ただ神のみ――ただ実相のみを観よ」ということが、「主なる汝の神を拝し、ただこれのみに事うべし」ということです。そのほかの妄説妄想には決して和解して、耳を傾けてはいけない。ただ「サタンよ、去れ」と一喝しているところに、イエスの示されたる「サタンに和解すな」との範例をわれわねは見なければならないのであります。

以上、「訊ブログ」より転載させていただきました。感謝 合掌。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65589252.html

5013a hope:2015/01/11(日) 13:27:24 ID:cEpBaIdo

>>5010 「訊」さま

<<『生長の家』誌友の中で近ごろ脱線して「物質もある、心もある」という二元論に誘惑されたり>>
とありますが、わたしは、まさに、雅宣先生のご思想がこの二元論なのだと思っているのです。

二元論に惑わされてしまっている「生長の家」の総裁のご著書を読むことで、
その総裁に中心帰一を強いられている信徒も同じく二元論に惑わされることにならないでしょうか?

つまり、無意識に、自分の意志とは別に、「虚説」をつかまされてしまうのです。
実際、わたしも入信した後、その経験をしているのです。

それだけ、「生長の家」総裁としてのご発言は重大なのです。

わたしは、どう考えても、雅宣先生や純子先生が「生長の家」の聖典「生命の實相」の実相独在の真理を体得されるまで熟読されているとか思えないのです。


「訊」さま

わたしは、自分の主張を押し通したいからこの掲示板で雅宣先生や純子先生を批判しているのではないのです。

一日も早く、本来の「生長の家」の教えの素晴らしさを思い出していただき、本来の「生長の家」あるべき姿に戻していただき、
生長の家総裁副総裁として、本来の「人間神の子」の真理を伝える「人類光明化運動」を指揮していただきたいと願っているからなのです。

ですが、もちろん、わたしの方が野狐禅である可能性はあります。
ですから、わたしの見解へのご指摘、ご批判、なんでも素直にお受けする覚悟はできています。

5014a hope:2015/01/11(日) 13:35:52 ID:cEpBaIdo

>>5011 「訊」さま

雅宣先生は、〝現〝 生長の家総裁です。

今、現在もブログでご自分のご思想を信徒に向けて発言し続けておられます。

わたし自身の経験したことだけでいえば、それは過ぎ去った過去の話ですが・・・。

5016a hope:2015/01/11(日) 14:19:29 ID:cEpBaIdo

>>5015 「訊」さま

<<*「物質もある、心もある」という二元論と云うその物質もなく心もないのが生長の家ではないですか?唯物論でもなく唯心論でもなく
 唯神実相論であると云われている。にもかかわらず『二元論』なんて端から存在しないものを言揚げする先生は?>>


確かに「唯神実相論」が生長の家の中心真理だと思いますが、「唯心所現」も横の真理として雅春先生は説かれていましすよね?
『二元論』に関するご説明は、そちらの真理に関わっているのだと思います。
わたしは「人間の我の心はない」でも「神の子の心はある」と信じています。



<<*そのない心で一瞬に体験した、全て体験したと云う夢の中の出来事、人間の生死と同じ、生まれたことも死ぬこともない人間が、
生まれて死ぬと云う夢を見ている。あなたは生まれていろいろ体験していると思っているでしょう。そしていつか死ぬと。
生死が夢ならばすべての体験も思いの世界のものでしかないのでは。>>


この現象世界の出来事は、しょせん影ですから、確かに夢なのかもしれませんが、
せっかく神さまがこの現象世界にわたしを投影してくださり自由に生きるという経験をわたしにさせてくださっているのですから、
たとえそれが夢であっても、わたしは精一杯自分のできることをして生きて、神さまに褒めていただきたいです。

5017a hope:2015/01/11(日) 14:41:50 ID:cEpBaIdo

ところで、訊けさま

今日のweb誌友会の書き込みって、本当に全部「訊」さまご本人ですか?

5018トキ:2015/01/11(日) 15:01:27 ID:cQ90QTGI
>>5017

謹告

 本日のは、訊け管理人様の名前を勝手に使った
曳馬野さんのなりすましです。これは、卑劣な行為です。

 当該投稿を削除の上、厳重に注意します。
今後は絶対に他人のHNを詐称しないでください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5019茅ヶ崎:2015/01/11(日) 15:02:06 ID:???
私もそれが知りたいと思ってました
「訊」と「訊け」さんは同じ人?

5020茅ヶ崎:2015/01/11(日) 15:03:04 ID:???
>>5018
リロード遅れまして間抜けな質問してしまいました。すみません。

5021トキ:2015/01/11(日) 15:05:13 ID:1j83ED3E
謹告

 本日、この時間までの投稿は、訊け管理人様からの
投稿はありませんでした。

 ご注意ください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5022a hope:2015/01/11(日) 15:24:07 ID:cEpBaIdo

やっぱり、一連の書き込みは「訊」さまではなかったのですね。
なんとなく、文章の感じが曳馬野さまににてるな〜と思ってました(笑)。

ご感想やご意見をいただけるのはありがたいのですが、
なりすましは混乱するのでやめていただきたいです。

どうぞよろしくお願いいたします。

5025a hope:2015/01/11(日) 17:45:48 ID:cEpBaIdo

>>5023

申し訳ありませんが、「訊」さまになりすましをしていらっしゃるような、
どなたかわからない方のご文章は拝見する気にもなりません。

真理を追究される前に、人としての道を正しく歩まれたらいかがですか?

夕食の支度があるので、失礼いたします。

5030トキ:2015/01/11(日) 22:39:07 ID:DdasF.5E
>>5025

a hope様

 本当に、その通りです。しかも、なりすましをするような人が
青年会の先達を自称するのですから、驚いています。

 こういう人たちに関わり会わずに、真摯に谷口雅春先生の教えの勉強
をしましょう。

5038るん吉:2015/01/12(月) 09:03:52 ID:???

>>物質もある、心もある」という二元論に引っかかって、現象界が変にみだれて集金が集まらなくなったり、商売がうまくゆかなかったり、歯痛(はいた)が酷くなった数氏の実例



現象有り、という説(妄説)を心に受け入れると、とたんに 上記のようになっちゃうんですね。

・・・・・

5039a hope:2015/01/12(月) 10:03:18 ID:cEpBaIdo

>>5038 るん吉さま

そうなのですよ!
だから、わたしは4年前からそのことに警告を発しているつもりなんです。
当初は本流宣言掲示板へ投稿していましたが・・・

雅宣先生のご文章や祈りの言葉の内容は現象や物質を認めてしまっているんです。

現教団の運営はうまくいっているのでしょうか?
病人が増えてはいないでしょうか?
人間関係はどうでしょうか?

心が調えば環境(現象)もおのずから調うというのが、本来の「生長の家の教え」なのだと思うのです。
そして、その教えを広めるのが人類光明化運動ですよね。

それなのに雅宣先生は人間の犯した罪だとか欲望だとか、破壊されつつある自然だとか、
そのような暗い現象面を最初に見つめるところから、運動を出発させてしまっているから、
その認めた通りの現象がこれからどんどんあらわれてきてしまうのだと思うのです。

よくこういうと、雅春先生も人類が苦しんでいる姿(現象)をみて人類光明化運動を始められたという方がいらっしゃいますが、
これは、復興Gさまもおっしゃっていましたが、まったく違うと思います。

雅春先生には最初に、完全円満な「実相世界のお悟り」があったのです。
そのお悟りの心(明るい歓びの心)を人類に伝え、地上天国を実現したいという使命感から立たれたのです。

雅宣先生の運動とは全く違うとわたしは思っています。

5040曳馬野:2015/01/12(月) 13:04:24 ID:???
 本当に、その通りです。しかも、なりすましをするような人が
青年会の先達を自称するのですから、驚いています。

訊け本人が何も言わないうちからなりすましだと判断し、削除と云いだすこの不思議さ驚き桃の木山椒の木

トキ=訊け なんかな そして教団の大幹部

5047a hope:2015/01/12(月) 15:38:54 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第15巻 p123 後から4行目〜

谷口――わたしは誌友の方に、推しつけがましいことをいっさいしようとは思っていません。「生長の家」は誌友が助かるために出現したのであって、わたしの生活費が助かるために出現したのではないのですから、誌友が自分で進んで聖典を欲しいと申し込まれるのでなければ送ろうとは思いません。

そうでないと義理に縛られて聖典をとるというようになられると「生長の家」で説く道が立たなくなるのです。誰かのためになるということが、そのためになったことをいいがかりにして、あとでその恩義でその人を縛るようなことにでもなると、始めからその人のために尽くさずにいればよかったということにもなるのです。

「生長の家」の生きる道は、人間を縛る道ではなくて、いろいろのものから縛られているその縛りからその人間を解放する道なんです。医学や衛生に縛られている人なら医薬や衛生から解放する、人相や家相に縛られている人なら人相や家相から解放する、因縁に縛られている人なら、その因縁から解放する。職業に縛られている人なら、その職業を乗り越えてなお生きる道があることを示す。

こういうように人間の生命を縛っているあらゆる束縛を解き放って「生命」本来の自由さを奪還させるのが「生長の家」の道なのですから、「生長の家」が誌友に対して少しでも押しつけがましいことをすれば、たとい聖典の売れ行きはよくなり、経済的に、「生長の家」が大きくなっても「生長の家」の道が立たなくなるのです。

5048a hope:2015/01/12(月) 15:40:56 ID:cEpBaIdo

>>5042 a hope所感)

この第四章の対談も、まだ、雅春先生がバキュームオイルカンパニーでお仕事をされながら、「生長の家」誌を発行されていた時のようです。
野田氏(第三章に出てこられた野田氏と同一人物でしょうか?)が雅春先生に、今の仕事をやめて「真理」の執筆に専念した方が、
「生長の家」も発展するし、「生長の家」の生き方にかなっているのではないかと、提案されています。

何年か後には雅春先生はそうされたようですが、当時はその提案を否定され、

<<人間の生命の偉大さは、その仕事の形の大いさで計られるべきものではないのです。欧州全土を征服したナポレオンの事業よりも、本間俊平氏が困れる人に与えた一足の草鞋(わらじ)の方が尊いのです。>>p138 後から8行目〜

といわれ、ナポレオンも偉大だけれども、それよりも、キリストが『兄弟のいと小さき者になせる愛の行為はわれにしたのと同じことである』
と言われたように、本間俊平氏のごとく今の自分にできることをして、目の前の困った人を助けることこそ、
神の御心にあった生き方であると教えてくださっています。

[
「生長の家」の信仰の基本ですね!

5059a hope:2015/01/12(月) 17:13:52 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第15巻 p140 5行目〜

谷口―― 
(略)
「生長の家」の生活が我の生活ならわたしの定めたように進んでも行きますが、聖意(みこころ)を行わんがために出現した生活であるこの生活は神のみこころに従って千変万化するほかはありません。

我で貫きとおす自信と、大生命にバックされて大生命の流るるままに動く自信とがあります。ナポレオンの自信が前者ならば、「生長の家」の自信は後者です。

時が来ればわたしは会社員生活を止(よ)すことにもなるでしょう。また止さないかもしれません。いずれにせよ、それは雑誌を大きくするという野心のためにするのでは普通の雑誌業者になってしまいます。

わたしが今会社員でいるのは、人類全体が今はまだわたしに普通の会社員生活をしながらでも、自分も生き、人も助け、万人に光を与える生活ができるという範例を示してくれと望んでいるからです。

もうそんな範例は十分見せてもらったから、今度は会社員でない生活も見せて欲しいという人類の声がより多くなってくれば自然に神催(かんもよお)しでわたしの生活は変わってくるのです。それは自然に神催しにです。「我」で変えるのではないのです。

「生命」はどういう形でいけねばならぬということはない。大生命に押し流されて生きる時最も自由なのです。形の方は「執して執せず」です。形というものは影であるから執する必要はないのです。「生命」が主です。「生命」さえわれかくのごとくして生きるという筋道が立っているなら、形は千変万化してもよいのです。

その反対に形は一つを貫いていても、形を維持することに「生命」の方が支配されていてはその人の生活は生きたものではありません。そうかといって形の方をむやみにやり方を始終変えてゆくのかというとそうでもないのです。しっかりと自分の魂の底に死んでも死なない生きとおしの生命が自覚されてきますと、自然に時に応じた最も適当な生き方ができてくるのです。

「我」の力で焦る生活、力む生活、こうでなければならぬと形を極(き)めすぎた生活は、ある時期は大いに生長してもやがては行き詰まるのです。幸いにして、その人が死ぬ瞬間までは行き詰まらないにしても、そのいよいよの瞬間には行き詰る。ナポレオンも行き詰り、豊臣秀吉も行き詰ったのです。いわんや雑誌経営の夢は捨てなければならないでしょう。われわれは死の時になってさえも行き詰らない生活をしなければならないのです。

形には執して執さず、ただわれわれの「本当の生命」が影を映して進む生活なら、死んでさえも行き詰らないのです。


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