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web誌友会 板

1700復興G:2012/12/07(金) 23:01:16 ID:vWpLkCzM

皆さま、ありがとうございます。

このweb誌友会、まだあと2日間ありますから、今日は私はこれにてやすませて頂こうと思います。

ありがとうございました。おやすみなさい。

1701トキ:2012/12/07(金) 23:23:13 ID:oJHbsaTc
>>1700

ありがとうございます。

なお、ご投稿は夜間も歓迎いたします。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1702さくら:2012/12/08(土) 00:14:45 ID:.noC14Us
復興G様
トキ管理人様
ご参加のみなさま

合掌ありがとうございます。

投稿を拝読させて頂いて、素晴らしい気づきにあふれていて、どの言葉もいまの自分に、ピッタリの言葉でした。

実はさいきん、個人的に、親しい知人の身体のことで…少し過剰に「心配」してしまっていました。

「大丈夫!」と頭で分かっていても、何かあると、どうしても、心は一つの現象にとどまりがちで…。

それは自分のこころに引っかかり、神のこころをあらわせない状態だったのかな…と思いました。

…一番はじめに思ってしまったのは、知人に何かあったら、と…心配なこころだったので、反省しました。



対立する気持ちがないつもりでも、
何か自分の心に「こだわり」ができてしまうと、それが現象に現れるのかな。ともおもいます。

正直、わたしには、まだまだ、「こだわらないこころ」は、難しいことが多いです。


掲示板では、ここ一ヶ月くらい、「神の子」の名で、聖典板にまで、たびたび、意地の悪い書き込みがなされていたので、ここに書き込むのも雰囲気を壊すので、本当はやめようと思っていました。
他の方は気づかない程度のことなのでしょうが、せっかくの場で、興ざめしてしまうので…。
ただ、いまの自分には、真理の学びが必要だと思いましたので、申し訳ないのですが、書かせて頂きました。

わたしにも、「こだわるこころ」があるから、反省しなければならないし、
そう言わざるを得ない気持ちが、わたしにはあるのだと、いま、思いました。

>生きていること自体が自分ではなく神であり給うのである。自分は無いのである。自分は全くのゼロであるのである。自分が存在すること自体が神であり給うのである。神は“汝は吾れであり、吾れが渾べての渾べてである”と愛し、拝し、観じ給い、吾れとなり給いて神ご自身を生き給うているのである。……(「榎本恵吾記念館」サイトの「文書館12 幽斎殿�」より)

この言葉が、とても響きました。

いまは、この「祈り」を深めていきたいです。

またよろしくお願いいたします。



1703復興G:2012/12/08(土) 07:54:10 ID:vWpLkCzM

さくら様、皆々さま

おはようございます。

書き込み、ありがとうございます。

どうぞ、また書き込んで下さいね。

ありがとうございます。

1704復興G:2012/12/08(土) 09:05:27 ID:vWpLkCzM

 ありがとうございます。

 また、少しテキストをアップさせて頂きましょう。

≪テキスト 『生命の實相』 頭注版 第2巻「實相篇 下」より (3)≫
---[Page 78]---

    病気の心的種子、決して恐れるにたらず

 しかし「病気の心的種子」は、前にもいったようにいろいろの機会にわれわれの心の底に
---[Page 79]---
忍び込んで来るのであります。この「病気の心的種子」をこうして根本的に取り除くことができればそれにこしたことはありませんが、病気の心的種子がいかに心の奥底に蒔かれていましても、これにわれわれが自身で栄養分を与えぬようにすれば、それだけでも決してじっさいの病気となって発芽せぬのであります。

 植物の肥料に堆肥(たいひ)といって馬糞や、枯草や、藁などを積み重ねておいて腐らせたのを肥料に与えると非常によく生長します。それと同じで、病気の心的種子も、その種子の周囲にいろいろの心の塵埃(ごもく)を積み重ねて風通しの悪いようにしておきますと、早く芽を吹いて生長するのであります。心の風通しのよい人は、病気の心的種子がたといまかれていてもカラカラに乾いてしまって病気の芽が吹かないのであります。

 わたしは先に売薬の広告や、病人の蒼ざめた顔や、新聞雑誌にのった病気の記事などは、真に恐るべき「病気の心的種子」のまき手だと申しましたが、この「病気の心的種子」というものはじっさいまた恐るべきでありますが、同時にまたちっとも恐れるにたりないものであります。なぜなら心の法則を知らない間こそは、知らず識らずこの病気の種子に肥料をやって「現実の病気」を生長させる恐れがありましたが、皆さんのように毎号『生長の家』を読んで本当に心の法則を知られたならば、もうこの病気の種子を養い育てるために心の塵埃で堆肥をつくるということがなくなるからであります。

 このサトリの発達の順序を考えてみますと、最初の時代は、何も知らないで、病気の解剖図
---[Page 80]---
や売薬の広告を読み、病気の心的種子を心の底に植えつけられ、それを生長させてじっさい病気にかかったのでありますが、少しく「心の法則」が解りかけてきますと、もう病体の解剖図や売薬の広告を読むとどんな害があるかということを知ったために、そんなものを見たり読んだりするのがなんだか恐ろしくなり、できるだけそれに接するのを避けよう避けようとするようになるのであります。

 むろんこんなものは避けるにこしたことはない。「心の法則」に達した人にでも迷いに強(し)いて近寄らぬということは必要なことであって、古今を通じて剣術の名人だった塚原卜伝(ぼくでん)でさえも強いて危険を冒さないことを正道としていたのであります。しかし真に「心の法則」に達して来ますと、「病気の心的種子」を避けるのだって、恐れて避けるのではなくなるのであります。

 「蛙(かわず)の面(つら)に水」がかかっても蛙の面は水をはじいて、冷たがりもしないように、われわれの心に「病気の心的種子」になりそうなものが、八方から目に入り耳に聞こえて来ましても、心が真に自由であるなら少しもそれにとらえられないようになるのであります。蛙の面に水がかかっても蛙が苦しいとも冷たいともなんとも不快を感じないのは、蛙が水というものを征服して、水に対しては実に自由自在の境地に達しているからであります。

 われわれの心も病気観念に対して真に自由自在の超脱した境地に達しますと、水を頭からブッかけるように、病気観念を正面から浴びせられてもなんともなくなる。病的観念をいくら植え付けても、自由自在に風通しの好
---[Page 81]---
い、光線がゆたかな心のうちでは発育しようがなくなるのであります。

 で、病的観念の種子が知らぬ間に何かの機会に心の底に植え付けられていましても、心がその種子に引っかからぬ――すなわち蛙の面が水に引っかからぬと同じように、われわれの心がその病的観念の種子に引っかからぬならば、水が蛙を害することができないように、その病的観念はわれわれを害することはできないのであります。病的観念の種子を養い育ててじっさいの病気にしてしまうものは、われわれの心がたまたまその病的観念に引っかかって「迷い」の塵埃(ごもく)で、その種子を育てる堆肥を作ったからであります。

1705復興G:2012/12/08(土) 09:22:33 ID:vWpLkCzM

>>1704のテキスト文で、

病気の心的種子がいかに心の奥底に蒔かれていても、「蛙の面に水」と、はじき返してしまうようになるには、
これこそ、さくら様が

『>生きていること自体が自分ではなく神であり給うのである。自分は無いのである。自分は全くのゼロであるのである。自分が存在すること自体が神であり給うのである。神は“汝は吾れであり、吾れが渾べての渾べてである”と愛し、拝し、観じ給い、吾れとなり給いて神ご自身を生き給うているのである。……(「榎本恵吾記念館」サイトの「文書館12 幽斎殿�」より)<
この言葉が、とても響きました。
いまは、この「祈り」を深めていきたいです。』

と言ってくださった、こういう祈りに、常に立ち還って行くことが根本だと、私は思います。

1706トキ:2012/12/08(土) 09:38:20 ID:tRbdVDEA
おはようございます。
 
 確かに、同じ物を食べても、ある人が食中毒になっても、別の人がならない場合もあります。
生活をしていると、病気の種から避けるという事はできませんから、そういう物に触れても、
”「蛙の面に水」と、はじき返してしまうよう”、自分がならないといけませんね。

1707復興G:2012/12/08(土) 09:50:37 ID:vWpLkCzM
 ありがとうございます。

 また、少しテキストをアップさせて頂きましょう。

≪テキスト 『生命の實相』 頭注版 第2巻「實相篇 下」より (3)≫
---[Page 81]---

    善人だのになぜ病気にかかるか

 私の友だちは実に善人だのに肺病にかかっている。これはどういうわけですか――というような問いを聞かされることがあります。なるほどこれはしごくもっともなお尋ねであります。

 この問いには、神がもしあるならば善人をこそもっと護って健康にしてもよさそうなものだという意味が含まれているのであります。しかし「善人とはなんですか」と問い返すとちょっとその人は答えにまごつくでありましょう。

 「いやしくも悪を犯さない人だ」とその人は答えられるかもしれません。あるいはまた「善悪の観念のハッキリした人だ」と答えられるかもしれません。あるいはまた「ごまかしの利(き)かぬ人だ」と答えられるかもしれ
---[Page 82]---
ません。ともかくも肺病になるような性質の善人は、善悪の観念のハッキリしたごまかしの利かない、いやしくも悪を犯さない、もしあやまって悪を犯したら、いつまでも心がその悪にこだわっていてなかなか心が自由になれないで自他の悪を咎め、いつもクヨクヨと人生を考えているような窮屈な心の善人が多いのであります。

 あらゆる他の善さがありましても、心の自由が欠け、窮屈で、気が小さく、いつもクヨクヨ自他の悪にかかわっているようではその人の善さの大部分の価値は失われてしまうのであります。

 われわれは善人でなければならない。いやしくも悪を犯すことを恥としなければならない。けれども「善」でさえもそこに引っかかってわれわれが心の自由を失うとき、われわれは罠にかかってしまうのであります。

 皆さんは、善といえばなんだとか悪といえばなんだとか、それは一目瞭然のことのように考えていられるかもしれませんが、われわれはこの世界においてある自分のきめた一つの行ないだけが善であって、そのほかのことは悪であると決めてしまうことはできないのであります。

 一人の貧しく憐れなる人間に金を恵むことを例にあげていいますと――金を恵むことはふつう「善である」と考えられていますけれども、金を恵んでもらったがためにその人が助かる場合もあるが、金を恵んでもらったがために、その人の依頼心が増長し、人間をだましやすいものだと考え、人間の慈善心を利用して、働かずに生活しようとその人が思うようになるかもしれないのであります――もし、われわれが
---[Page 83]---
こんな人に金を恵んでやったならば、かえってその人の生活を堕落に導くようになる。

 われわれはこういう人に接するとき、こういう人が金を貸してくれと頼むとき、その人の心的雰囲気を感じてなんとなく金を貸したくなくなりましょう。あるいは金を貸さないだけでなく、かえって手酷くののしりたくなるかもしれない。そして、その人は恥をかいてののしられて興奮してうらめしそうに帰って行く、帰ったあとでその人は、あんなにいわれた時の口惜(くや)しさを思い出しかえって発奮して独立独行この世の中に成功する、するとその時金を貸してくれずにののしられたということはその人にとって真の救いになったのであります。

 それだのに窮屈な善人は彼をののしって帰らせたあとで、なぜ自分はあの貧しい男をあんなにののしったのだと自分の心の狭さを悔いる。自分はなぜあの男に金をやらなかったのであろう。自分は善人のつもりでいたけれども本当は守銭奴であったのだ、一人の貧しい人にさえ施しをすることができないあさましい自分だったのだ――こう思ってその窮屈な善人は、自分を責め、自分を苦しめ、ついに自分自身が気欝症となり、この気の滞りが堆肥となってかつて心の底に植えられた病気の心的種子がそろそろ芽を吹きそれが胸に来れば肺病ともなり、心臓病ともなるのでありましょう。
<つづく>

1708復興G:2012/12/08(土) 09:51:23 ID:vWpLkCzM

<つづき>
 ここに窮屈な気の毒な善人の陥った非常な迷いがあるのであります。その迷いのために、病気の心的種子に肥料が与えられる。貧しき人に会ったならば金を施すほかに善の道はありえない――その人は善
---[Page 84]---
というものをそういうふうに一つの型に推しはめて、ある場合その型にはまらなかった自分自身を責める、あるいはその型にはまらない他の人間を見ては、その他の人間を心のうちで批難する。こうして窮屈な善人は自分を責め、他を責め、この自由な伸び伸びとした世界を、自分の心一つで不自由な狭いものにして毎日自分を嘆き、人を責めて悲しみと不平と憂欝とでその日を送るようになるのであります。

 これは一例でありますが、万事について一つの「善」というものに心が引っかかるために心の狭い善人は病気になりやすいのであります。たといこれほどまででなくとも、肺病や胃病になられるような善人は、事ごとに自他の行為に対する批判力が強くて、律義で、窮屈で、気が小さいところがあるのであります。この窮屈さを取り去ってしまえば病気の肥料となるところの気欝というものがなくなるから、病勢がとみに衰えるのであります。

    一時を救うのではなく根本的に救うことが必要

 そんなら、貧しき人に会って自分が彼より富んでいても恵む必要はないのか、恵まないでもそれでよいのか? ――とムキになって問いつめて来られる人があるかもしれませぬがここが大切なところであります。ある時には恵まないがよろしく、ある時には恵むのがよろしいのであります。恵む恵まぬが問題ではなく相手を救う――根本的に救うというこ
---[Page 85]---
とが目的だからであります。

 われわれはまず善をなそうという念願をもたなければならない、それと同時に常に、「わが行ないをして神意(みこころ)にかなわしめ給え」と祈らなければならない。そしてその祈りを深めることによって、神の聖意(みこころ)があらゆる事にあたって、自分の行ないを通じて現われて来るという自信をもたなければならないのであります。

 われわれはある人に金をやってその人が根本的に救われるか、金をやらずに彼の意気地なさを叱責する方がその人を根本的に救うことになるのか、人間心では知ることはできない。ただ神と一致することによって――神を自分の内部に祈り招(よ)ぶことによってすべてを知り給う神の聖意(みこころ)が自分を通じて働いてくださるという自信がもてるのであります。

 自分の知恵で善悪を定めるのではなく、自分に宿って、中から催してくる神の知恵に従うのであります。神に従う事こそ唯一の善であり、唯一の愛であり、唯一の知恵であって、そのあらわれは怒りの爆発となって出て来ようとも、貧しい人をののしって帰すようなことになろうとも、それを善とか悪とか、とやかく人間心で批評することはいらないのであります。そこに本当の超越的な「善」が生きて来るのであります。

 この超越的な善が生きるときわれわれは真に道徳的な自由を得るのであります。今、わたしはあの貧しき人に対してののしったが、あれは悪かったと後悔して自分を責めることはいらない、自分を責める暇があれば、「どうぞわたしのののしりが因縁になって、あの貧しき人が本当に救われますように」と心から
---[Page 86]---
の祈りを、その人の背後から捧げてあげる方がよいのであります。

 こうして本当に祈れる人なら、祈っているうちに、「これでよし、あの人は救われる」という感じが湧いて来るか、「これではいかぬ、なんとかしてあげる方がよい」とか吋から心に浮かんで来る、この祈りのうちに内部から浮かんでくる導ぎの声にまかせて次の行動をとればよいのであります。
<つづく>

1709復興G:2012/12/08(土) 10:05:33 ID:vWpLkCzM

<つづき>

    祈りに始まって祈りに終る

 すべて祈りに始まって祈りに終るとき――腹を立ててもよく、腹を立てなくともよく、ののしってもよく、ののしらなくともよく、金を貸してもよく、金を与えなくともよい――それはすべてを知り給う神の知恵が自分に宿って、自分の「我(が)」の知恵でなしに行なわれるのでありますから、どんな行為ももう後悔する必要もなく、自責する必要もない。広いゆったりとした、何をしても自由自在の境涯に出られるのであります。

 心がこうして自由自在の境涯に出られますとき、心の中に滞りというものがなく、実に伸び伸びとした「神の子」本然のよい気持になれるのであります。心が自由自在になれるから、腹を立ててもよいのだといわれても、いつまでも一つの事に心が引っかかって腹を立てているということも自然になくなる。また相手を救う必要上、一時カッと腹が立った姿をあらわしめられてもその腹の立つということにいつまでも心が捉えられないで、すぐ
---[Page 87]---
その人のために祈ってやれるようになるのであります。

    自分自身の生きる力が最上の名医

 何をしても神の聖意(みこころ)が自分を通して働いてくださる――このことが祈りによって、自分の心の内に確立して来ますならば、われわれは自由な無恐怖な状態になれるのであります。神に導かれて立つ腹ならば腹を立ててもそれがかえって人の救いになる。それと同じように、神に導かれて出る熱ならば、熱が出てもそれがかえって病気の救いになる。

 咳が出てもよいし、下痢をしてもよいし、患部が痛んでもよいし、そのほかどんな容体が出て来ても恐れることはないのであります。熱は黴菌という「迷い」を消滅さすために起こる。咳は黴菌の死体や不潔物を吐き出すために出る、下痢は今まで全身の細胞を中毒さし弱らしていた毒素を瀉出(しゃしゅつ)するために起こる、痛みはその刺激によって病患部の治癒に必要な血液を集中さすために起こる――こういうふうに今まで、病気の徴候だと思って怖(お)じ恐れていたものが、実は病気の徴候ではなく、隠れていた病気の原因をいったん形に現わして外に浮かび上がらせた上でさらにそれを消滅さすための徴候だということがわかって来る。

 こうなると、熱はけっこう、咳(せき)はけっこう、下痢はけっこう、疼痛(とうつう)はけっこう――そのたびごとに自分はいっそう今までよりも健康になりつつあるということがわかって来る
---[Page 88]---
のであります――すると熱があっても熱さましはいらないし、咳が出ても咳止めはいらないし、下痢があっても下痢止めはいらないし、そのほかどんな薬もいらない――自分自身の「生きる力」こそ、自分にとって一等の名医であることを信じて、その施術に委せきりますから、自分自身の「生きる力」も自分に信頼して委された以上は責任をもってぜひ自分自身で治さねばならぬということになり、たとい熱が高まっても、脳膜炎を起こすほどにはならず、脈搏が速くなっても心臓を麻痺さすほどには速くならず、結局薬を用いたときよりも、自然療能という名医が、病気に応じていかなる他の療法よりも、迅速に適宜の処置をとってくれるのであります。

 なぜなら、自然療能という医師は自分の外にある人を招(よ)んでくるのではなく、自分の内にチャンといる名医だからいかなる医師よりも、迅速に処置がとれ、外から患部を想像するのではなく、内にいて患部の状態を知りつくしていて、それに適応する抗毒素の製造や体温の調節や便通の調節をするのでありますから、その処置をまちがえるということは決してないのであります。
<つづく>

1710復興G:2012/12/08(土) 10:06:31 ID:vWpLkCzM

<つづき>
 ところが、内部の「生きる力」すなわち自然療能博士にその処置をまかさないで、外から呼んで来た医学博士の投薬を行ないますと、自然療能博士の内的投薬が、突然の外部的干渉で撹乱されるのであります。自然療能博士は内部にいるので、その患者が、外部の医学博士に頼る気を起こした瞬間に、もうそれをただちに知っています。彼はこの患者
---[Page 89]---
に二心(ふたごころ)あることを知って、もう自然療能の手をいく分加減し手控えして、外部から何が這入(はい)って来るかと身構えをするのであります。
 その時、次のことが起こります。

 (1)たいてい外から投薬される薬物は、内部の細胞自体にとってはある毒作用をともなった異物なので自然療能博士は今度はその毒作用を打ち消すために半分の力を割(さ)くのであります。そのため自然療能博士は全部の力を病気を治す方に集中することができない。

 (2)仮に外部からの投薬が、自然療能博士が今ちょうど身体(からだ)の中で製造しようとしていた薬物と同一性質であったとしますと、自然療能博士は内部の自家免疫薬の製造の手をいく分か休めて外からの薬物を喜んで迎えるのであります。その代り自然療能博士はこの次の時も適当なる薬物が外から来るであろうとの予想をもって、しだいに内部の自然療能力を働かせずにおくようになるのであります。消化剤の連用のごときがかえって消化力を低下せしめるごときはこれであります。
 こうなって自然療能力が弱っている時に、何かの原因で病状が変わったり外部からの薬物が急に変わったりすると、自然療能力はその全能力を発揮しない癖がついているので、ついにその人は病にたおれてしまうようになるのであります。

 (3)自然療能博士が熱を高める必要を認めて熱を高めている時に、解熱剤をのませると、一時熱はさがりますが、自然療能博士が熱を高める必要があると信じている限りこんどは解熱剤に打ち勝ってでも熱を上げねばならぬと努力しますので、熱が普通以上
---[Page 90]---
に長引くことになります。胃酸過多に重曹剤をのませれば、結局はいっそう胃酸の分泌が増加するなどもこの例であります。
 結局、外から来る薬は、たといそれが病気を治す力のあるようなものであっても、自然療能の半分の力を他に割くか、それを怠けさすか、撹(か)き乱すか、その調子をとれなくするかすることになり、結局最初より「自然の生かす力」に頼り切った人ほどにはすみやかに好結果をもたらすことはできないのであります。

 自分の内部の「生きる力」に信頼できる人は決して重い病気にかかるものではありません。なんらかの外的傷害その他で毒物が自分のうちに這入(はい)って来ましょうとも、はじめから「内部の生きる力」が全能力を発揮してそれを防ぎ止める癖がついていますから大事にいたらないで健康を回復するのであります。

1711a hope:2012/12/08(土) 10:16:43 ID:ueIDSztA
おはようございます。

復興Gさま トキさま そして、みなさま

今回は、家庭の事情でなかなか書き込みできませんが、シッカリとお勉強はさせていただいている a hope です。
すばらしい書き込みをありがとうございます。 合掌。

今回の範囲も、久しぶりに再読してみまして、あらたに大切だと気づきたところがいっぱいあり、
わたしの聖典は、さらに色とりどりに線が引かれてしまいました(笑)

復興Gさまが昨日引用して下さった箇所ではないのですが、(時間がなくて謹写できないのが残念です)
P63 に紹介されている 賀川豊彦氏の「神の乳房」というご自身の体験のお言葉ににとても感動しました。

谷口雅春先生も 、『本当の祈りは「無我」になって神に抱かれて神と一つになることであります。』と言って、
この賀川氏の体験を紹介されています。

わたしは、今朝の神想観の最中にこの賀川氏の体験を思い出していました。
素晴らしい神想観をすることができましたよ!

それでは、みなさま、あわただしくて申し訳ありませんが、わたしはこれから仕事です。

わたしの愛する「生長の家」のみなさま、今日も素晴らしい一日をお過ごしくださいね!

1712復興G:2012/12/08(土) 11:15:46 ID:vWpLkCzM

>>1711 :a hope様

ありがとうございます。

賀川豊彦さんの「神の乳房」という御文章が載っている原本を私は学生時代に読んで、

感銘を受けたことを思い出します。その本はもうぼろぼろになって、引っ越しの時に処分されたか、
今は見当たらなくなっているのですが・・・・

『生命の實相』頭注版第2巻では、63〜64頁に掲載されていますね。なつかしい御文章です。

ありがとうございます。

1713復興G:2012/12/08(土) 11:18:22 ID:vWpLkCzM

私は今日これから出かけなければならない約束行事があって、戻りは夜になります。

よろしくお願いいたします。

1714SAKURA:2012/12/08(土) 12:40:15 ID:vwhqycTM
復興G様 ヘ
こんにちは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1699に於けます「復興G様」のお言葉…ありがとうございます。 頂きました“言葉”から、
■【>「現象あり」と見ていると、どうしても、「思い込み」…<】本当に、ついつい現実を見て
しまいがちな状況は、多々あります。当に、「雅春先生の御教え…精神修行」をと、あらあためて
思います次第です。

昨日の【NANCY…】さんの投稿から〜〜私も 同様に、
■冬場になりますと、この頃、個人的ですが…潜在意識の中に【風邪…】が、浮かんでしまいます。
先程の【復興G様のテキストからの… “抜粋文”】からなのですが……
現代人は【唯物論…】が多いのでしょうかと。そうしますと、どうしても【薬剤…】に頼ります
でしょうか?多少は、心の片隅で“薬の副作用…”を、拒否しながらも…その様に思う次第なの
です。…が?ですからその時の【意志・意識力】は、現代人は希薄な面がありますでしょうかと?

≪現実に如何に対処すべきか≫を、唯物論的な考えですと…どうしても【薬剤…】に頼りますで
しょうかと。此処でその時の心理はどうかと申しまうと…例えばですが??
熱が出る!悪寒が!咳が!…云々…ドンドンと〜〜そうです〜〜〜ョネ!「病気への思い」が、
増大しますでしょうかと。病気を縛りつける事になりまうのです〜〜〜ネ!!

■>「今自分は縛られている」と信じ、その「縛られている」という…云々…< (抜粋)

そうなのです〜〜〜ョネ!これが【思い込み…執着】になりますかと??
それは、下手をしますと、“生きる活力”が〜〜〜マイナスになります事もありますでしょうか。
そこで、【信仰…真理】そうです!心の持ち方…の重要性を、改めまして、受け留めました。…

■■すべて【 心 の 法 則 】でしょうか……? 思った次第です。
                                  再合掌

1715SAKURA:2012/12/08(土) 12:43:46 ID:vwhqycTM
「復興G様」 ヘ  「トキ様」 へ  「WEB誌友会の皆様」 へ
こんにちは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今回の「復興G様」からの頂きました“該当テキスト…”の冒頭からですが……

❤心を肉体に引っかからせるな
======生命の実相 2巻から抜粋=========================
 ともかく「心が」しじゅう滞る場所には血液が滞るのでありまして、「心」が肩に、滞る人
は血が肩に滞って肩が凝り、「心」が首にとどこおって脳充血や脳溢血や不眠症などを起こす
のであります。こういう傾向のある人はとどこおっている箇所を按摩してもらうと一時その
滞っている血を散らすことになって非常によい気持ちでありますが、それは一時的であって、
「心」を滞らせている限り、そこにまた間もなく鬱血して来てそこが凝るのであります。
                              (谷口雅春著…)
===========================================

■以前は〜〜〜私も“肩コリ”…本当に“コリ〜コリ〜”なのです。特に、この寒さが増し
ます処の冬場は…いつも“首を回して”いましたかと。ですが?此処最近は、少々“肩コリ”
もありますが、以前のようには“肩コリ”飛んで行け〜〜〜♫〜〜〜なのです。
アラ〜〜〜?如何してかしらンと、思ってみますと、以前よりそうなのです。小さい物事に
【執着…】しなくなったのです〜〜〜ョネ!!

そして、今年母がなくなりましたが、此処3年間分からない事実が〜〜〜><
❤〜【亡き母の霊界通信…】で、何と「亡き母」からの【直感…】でしょうか???見え
ない事が?理解しがたい事が?今では、物事が良く見えるよな【透視…】が、多少とも
出来出しまして、それからなのでしょうか…??“肩コリ”の材料が、幾分以前より薄れ
てきまして、最近では、前以上に“物事”が見え、それが良し悪しに付けましても、こう
いう時こそ前に進む言動力の傾向にと……!!言えますでしょうかしら〜〜〜ン

■さて“心が滞る事”は、やはりこれも【執着…】からでしょうか???以前の私は、
ある面【執着のかたまり】でしたでしょうか??“コリ〜コリ〜執着?”
今では【放す事…を!すべて神様におまかせ…全托していたら?】という感じでの“行動・
スタイル“なのです!!そうなのです。モ〜〜〜ウ!何の不安もなく、まず!前進!前進!
前に進む事が【人間の使命…】でしょうかと???
それでも“血液の流れ”は滞る事もあり、この時はまだ【執着心…】が?あるのではと、今
頂きました“復興G様のテキスト該当部分”にて改めて思えます。…が?まだまだ足りない
のでしょうか?【心の執着…を放す、そして、おまかせ心になる事が〜〜〜】でしょうかと。

❤〜【私の“肩コリ”は、心の狭さから器量でしょう〜〜〜ネ!!!また、一つですが?
“心の進歩”に、私の“心のエッセンス”です〜〜〜ネ!!】
この素晴らしい〜〜〜【真理…】を勉強させて頂きます機会に感謝です。
                                   再合掌

1716トキ:2012/12/08(土) 14:57:24 ID:tRbdVDEA
 これは生長の家の人ではありませんでしたが、大学の元同級生が卒業後、医師から「精神病」と診断され
自宅に何年も引きこもっているのを知り、自宅を訪問した事がありました。
 そのとき、同級生が見せてくれたリストに、自分が毎日、医師から処方されて飲んでいる薬が書かれて
いました。それを見ると、20種類もの薬が書かれていました。驚いた私は、薬剤師をしている親戚にそれを見せる
と、「こんなに飲んでいたら、普通の人でも病気になる!」と言われました。
 ちなみに、処方をした病院には、テレビで有名な精神科医も勤務していました。

 後日、別の外科医と話をすると、「いわゆる鬱病などと言うのは、3ヶ月もじっとしていれば、そのまま治る病気
なのです。それを、医者が変な薬を飲ませるから、何年もかかるのですよ。」と言われて事を記憶しています。

 その後の事はわかりませんが、どうなったのか、気になります。

1717トキ:2012/12/08(土) 20:51:38 ID:tRbdVDEA
 追伸しますと、復興G様がご提示の聖典を拝読すると、この同級生のようなケースは極端ですが、
程度の違いはあれ、私も同じような状態にあるのではないかと思う次第であります。

1718NANCY:2012/12/08(土) 21:25:26 ID:jH5uEFzM
「復興G 様」 へ   「トキ 様」 ヘ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。

>>1716の投稿内容から〜♫~ (下記にて一部抜粋)

■>同級生が見せてくれたリストに、自分が毎日、医師から処方されて飲んでいる薬が書かれて
いました。それを見ると、20種類もの薬が書かれていました。驚いた私は、薬剤師をしている
親戚にそれを見せると、「こんなに飲んでいたら、普通の人でも病気になる!」と言われました
…云々…  (抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

拝読しまして【薬漬け…】現状を、改めて感じましたでしょうか?そして、正直申しますと、
【薬剤の副作用…】当に処方により新たなる“病気…併発する事も?”感じ取りましたでしょうか?
やはり【医者の使命…】の中に、部分的に“心のケア−”の必要性を痛感致しましたでしょうか……。
人は「生命…の生死を><」…云々…の際には、やはり絶対の信頼を、その担当医に抱きますから、
その責任は、多大なものでしょう。…が?現状を拒み?もがく状態?の精神状態の時こそ、本当に
【生きた生命哲学…真理】を、その担当医から“アドバイス”をいただきますと【生きた活力…】
いただくものです〜〜〜ョネ!

■■「復興G 様」からの“テキスト該当部…”の中から

■>自然療能という医師は自分の外にある人を招(よ)んでくるのではなく、自分の内にチャンと
いる名医だからいかなる医師よりも、迅速に処置がとれ、外から患部を想像するのではなく、内に
いて患部の状態を知りつくしていて、それに適応する抗毒素の製造や体温の調節や便通の調節をす
るのでありますから、その処置をまちがえるということは決してないのであります。<(抜粋文)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

此処で、本当に自分自身の中に【自然療能という医師…】がいますかと…自覚を致す事が…新たな
る“活力”をもつ事が出来ますでしょう。そして、この事は医者が、やはり“心のケア−”と致し
ましての“アドバイス”の必要を感じ、そして【真理の伝道…】かと、思う次第です。

                                     再合掌

1719如月:2012/12/08(土) 21:55:58 ID:ki/haAjk
トキさまのウサギのお話面白かったですね。
ウサギは構造上後退はできないんじゃ?と心の中で突っ込みを入れたらおかしくて笑ってしまいました。
でも、コース変更はできますし、やはりこだわりの心、思い込みの心は道を狭めますね。

ところで
『あらゆる他の善さがありましても、心の自由が欠け、窮屈で、気が小さく、いつもクヨクヨ自他の悪に
かかわっているようではその人の善さの大部分の価値は失われてしまうのであります。』
                                            ━━━テキストより━━━
あてはまる人を知っています。
とても正義感が強く真面目で自分にも他人にも厳しい人です。
オウムや創価のせいで宗教が大嫌いな人に、自由な心になってもらう方法はないでしょうか。

1720トキ:2012/12/08(土) 22:17:56 ID:tRbdVDEA
>>1719

 ウサギは面白いです。道を先回りして、ウサギが来るのを待っていると、私がいる場所にそのまま全速力で突っ込んできます。
で、頭をパッと捕まえると、そのまま止まります。これが、他の動物だと、こちらを見て、そのまま止まるか、横道にそれます。
今、飼っている犬なんかは、実に賢くて、うまく逃げますね。

 さて、宗教を嫌う人が多いのは、残念です。ただ、宗教家も反省しなければなりませんね。近所のキリスト教の熱心な信者が
いて、その人なんか、キリスト教以外は邪教だと言うのです。創価学会みたいなものです。こんな偏狭な人を見たら、誰でも
嫌に成ります。ただ、これは、私も深く気をつけないといけない部分です。

 で、そういう人には、宗教に入りなさい、と言ってはいけないと思います。ただ、自分の行いを正しくすることと、その人
には、明るく、親切にするのが好いと思います。誰でも時期がありますから、時期がきたら、その人も宗教に関心を持ちます。
 それまでは、神様に祈って、時期が来るのを待つのがよいかと思います。

1721復興G:2012/12/08(土) 22:25:39 ID:vWpLkCzM

 皆さま、復興Gは只今戻ってまいりました。

 あまりたくさんの書き込みはなかったようで、助かりました。
 にぎやかにたくさんの書き込みがあるのがよいとは限りません。
 大調和(みすまる)の歌にも、「宇宙(くに)静かなり」とあって、榎本恵吾先生は『「今をよろこぶ」生活のヒント』に、次のように書かれています。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 「宇宙(くに)静かなり」の「静か」とは、すべてのものが処を得ていることである。聖は聖。光りは光。神は神。人は人。すべてそのものが自らをそのものしているときを「静かなり」と言うのであります。人間は神であり、聖であり、至上であり、光りであるときを、「静かなり」というのである。

 心臓でも、異常があって動悸が大きくしているときはまことににぎやかでありますが、それは心臓のいのちが処を得ていない、充分にその働きが出来ていないときであります。心臓が処を得て、まことになめらかに作動し、人体に最もよい貢献をなしているときは、心臓があるのかないのか全く忘れられているときであります。

 「静かなり」とは、全くすべてのものが調和して、澄み切って、大活躍の出来ているときであります。全くの澄み切りの状態であります。それは全く気づかれないすがたであります。それは、吾々が迷えたと思っても、全く気づかないにもかかわらず輝きつづけ、生長しつづけている神の子のいのちの輝きと同じであります。

 いのちは、聖なるうちに聖なる生長、発展を遂げつつあるのであります。われわれの聖なる使命は、すべてのものと大調和のうちに、大調和が大調和しつづけて行きつつ果されてゆくのであります。それは神に生かされて、自ずからなされているものであります。

 山を観よ、川を観よ、木を観よ、花を観よ、空を観よ、海を観よ。そこには何か、自ずから吾らに心を開かしてくれるものがある。しかしただただ、そこには山は山し、川は川し、木が木し、花が花し、空が空し、海が海している姿があるのみである。「同じものが同じする」という、処を得た静なる姿があるばかりである。

 そして、それを偉大でないとは誰れも言わないのであります。偉大とは、自足ということである。他によって成り立っているということではない。人間はそれ自身で神の子であって、聖であって、静かであって、そのまま偉大なのである。

 神は宇宙を創造し給い、万物を生かし生長せしめていても、姿を現わし給わず。コトリとも音をたててい給わないのである。全く静かなるものである。全く己れを消してい給うのである。ここに聖なる、至上なる輝きがあるのであります。神はどこにも姿をあらわし給わず、否定しようと思えばいくらでも否定出来るようにしておられるのである。無神論者が神を否定すればするほど、それは神の無我なる、聖なるものの偉大さの自己証明となっていることを、そこに拝まずにはいられないのであります。

 静かなるうちに、聖なるうちに万物は生み出され、生長し、発展しているのである。静かなるもの、聖なるものとは、知らぬうちに、自覚されないうちに、すでにあるもののことである。神の子は「修行、修行」という大きな音をたてる必要は全くないのである。ただただ、すでに生かされてあったことに想いをいたすことがあるだけであります。ただただ輝いているだけなのが、神の子であります。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

と。

1722復興G:2012/12/08(土) 22:31:24 ID:vWpLkCzM

SAKURA様
トキ様
NANCY様
如月様

書き込み、ありがとうございます。
うれしく拝読しています。

1723SAKURA:2012/12/08(土) 22:33:56 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>SAKURA投稿の続きです…。

>>1716トキ様からの“コメント”より  その①
■>同級生が見せてくれたリストに、自分が毎日、医師から処方されて飲んでいる薬が書かれて
いました。それを見ると、20種類もの薬が書かれていました。驚いた私は、薬剤師をして
いる親戚にそれを見せると、「こんなに飲んでいたら、普通の人でも病気になる!」と言われま
した…云々…  (抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「トキ様の友人」の行方は、気になります〜〜〜ネ!非常……に!

個人的な話ですが「亡き母」も、老人サ−クルに出入りしだしてからでしょうか???
“ケア−のボランティア”が、紹介しました医者から、これも【老人ホ−ムの関連会社】で、
すべて此処の病院との関連からでしょうか??急に【認知症…】との、認定判断なのです。

■当時!この診断“オカシイ…のでは?”と、パ−トナ−ともども、変に思いました。
当時の「亡き母」は、私どもから見ても【正常…普通の人】でした。…が?
但し?“姉・妹たちの判断”にて、この“老人ホ−ム”から“認知症専門??”と言いますか
その“老人ホ−ム”に入居しだしまして、更に、この医者の言葉を、絶対的に信じている傾向
でした。ところが?ある時、ひょんなことから、私は、不審を抱くようになり、その医者に、
“面会の約束”を取ったのです。…が?その時あるケア−の方が、あの先生は慶応出身の方
ですから、大丈夫です〜〜〜ョと、何度も何度も言われましたが、私は、不信が益々と…

そして、当日、一応面会しますと、単刀直入に『モ〜〜〜ゥ!第三セクタ−は誰ですか?』と、
この言葉を直ぐさま頂いたのです!!私なのに、「障害者は一人前にみていない感じ」での
偏見の態度…当時!東京の病院に聞き【人 権 侵 害 】になると、教えて頂きました。
それでも「亡き母」は、私よりも“姉…”に頼りったのが……“死期を早まらせた原因”の
一つと申しても過言ではないでしょうと、思います。そして、どうも結局は、この担当医の
先生は、慶応出身ではなく、何処かの??大医学部でした。…が?(学生の頃は、医学部
としてはバカ大と“パ−トナ−”が……)そして、
失礼ながら、東京都比較しますと地方の医療関係者の知識が【薬剤…】一つにしても、勉強
不足かと当時は思いました。閲覧者の皆様の中にも…感じますところがありますのでは?更に
「トキ様」の投稿内容から、失礼ながら、ある面「有名な先生」と言われている人程、時と
しては、何処までの【医者のモラル…】があるのでしょうか?その時は、痛切に思いました
次第です。

■私も【薬剤…】は、今は“ネット世界”がありますから、まず【調べる事に優先!】……
それでも判らない時は、やはりホ−ムドクタ−の先生に聞いています。どうかしますと、
東京のいきつけの【薬剤師…】にも聞きますと、意外と“いい情報・オモシロイ情報”も、
頂けますから、正直申しますと、此処九州は“勉強不足”の感が致しますかと??
                            (つづく)

1724SAKURA:2012/12/08(土) 22:36:04 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>SAKURA投稿の続きです…。

>>1716トキ様からの“コメント”より  その②

■此の方が、まだ“薬…”を服用されていますと【副作用…】の症状も気になります〜〜ネ!
そして「亡き母」が【老人ホ−ム】に入居しましても“命の保証”は何処まで?言葉に語弊が
ありますカモ知れませんが…【何処までの介護心…介護のこころ】なのでしょうか?私には、
何も話しませんでしたが?当時“叩かれたようなアザ…”がありました。…が?
本当に、ケア−の方でも、現状!向こうの方々が担当の場合は、向こうの“ウイルス感染”も
あり得るのでは?人は少なくともウイルスをもっていますので…「亡き母」の死亡原因の病名
が、正直言って“ごまかしの部分?”かと、感じ取った次第です。今から、自分の“心”を
改めて、もう一度【鍛え直す…折り返し地点】でしょうかと。

「トキ様」も、その“友人…からのお話”にて【薬…】は??これで、前以上に
『生きた生命哲学…真理』への“進歩向上”でしょうか?(失礼な表現かと?ごめんなさい)

■更に!“知人”が、病院の“薬…”を、本人の思いのほか種類が多かったの
でしょうか?私どもに“薬…”に関して、これを東京の先生に聞いてほしいとの事で、依頼
されまして「先生…」に聞きますと、やはり?全く意味がないし?場合によっては【副作用】
がある〜〜〜???モット!モット!【カルテ…】を、見ないと判断が〜〜〜><
なるべくなら、服用しない方が良いと言われて、まず【薬の処方説明書】を送りまして、
その後、薬の種類をある程度控えて……服用しまして、この事が結果的には「いい結果」に
なりましたが……?【治る!】という本人の“ゆるぎない強い意志…こころ”でしょうかと。

ついつい【唯物論的…】になりましたが「医者もモラル…?低下の医者」もいますから、
まず!色々な方法にて、調べる事からでしょうか???
そして【こ こ ろ の 法 則】駆使すべきでしょう〜〜〜。

                              再合掌

1725如月:2012/12/08(土) 22:39:51 ID:ki/haAjk
>>1720 トキさま

ありがとうございます。 無理にすすめなくて良いのですね。
私は、今回のテキストの部分だけでも何とか読んで欲しいと思っていたのですが
「ありがとう教はカルトだ」と以前に、はねつけられた事があるので。

祈って、その時期が来るのを待ちます。
真面目で神経質で、精神を病む一歩手前の人なので、そんな人を見ていると
薬やお酒にひたっているヤクザさんの方が健康に見えるくらいです。

1726如月:2012/12/08(土) 22:57:49 ID:ki/haAjk
復興Gさま
おかえりなさいませ。

榎本恵吾先生の『「今をよろこぶ」生活のヒント』から「静か」についてのご説明ありがとうございます。
荘厳な静かさがアリアリと目に浮かぶ素晴らしいお話で感動いたしました。

1727NANCY:2012/12/08(土) 23:12:01 ID:jH5uEFzM
「復興G 様」 ヘ  「トキ 様」 ヘ
こんばんは……        ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678 >>1692 >>1718の投稿の続きです。

>>1719>>1720の投稿から〜
■>オウムや創価のせいで宗教が大嫌いな人に、自由な心になってもらう方法はないでしょうか。<

此処の“言葉…”の処で“引っかかり”なの で〜〜〜す???
■ 宗 教 ■を、一概に【オウムや創価…】と〜〜〜♫〜〜〜限定しても??

思いますに、【宗教…】にふれますのは?その指導的立場の方以外は〜〜〜>< 学者タイプ…?
おおかたは【迷い・悩み…】からその門をたたくのでしょうかと??その時、一番身近に感じる?
或いは第三者(知人…etc)を通じて参考になります【 宗教の…門 】に、触れますのではないの
でしょうか〜〜〜?他にもありますでしょう〜〜〜かと?
一時“マスコミ”で取りざたされていました「統一教会」「法の華」…も ><

■■ですから【宗教…】この出会いも「導き…」でしょうかと思います。
厳密に言いますと「導き…人格論」に入って行くかと思うのです…。…が??

そして、たとえ【 健康面・経済面・家庭面・人間関係…etc 】多々なる問題でありまようとも?
最終的には、思いますにはどの宗教も【 人 類 意 識 … 心 の 法 則 】を、説かれて
いらっしゃいますのではないのでしょうか? 個人的に思う次第です。 …が?

いろいろと…個人的に【 宗教の旅???巡り〜♫〜 】を、致しましたが
最終的には「雅春先生の説かれました…真理」は、素晴らし〜〜〜イ!モノと、益々と思うのです。

1728トキ:2012/12/08(土) 23:15:39 ID:tRbdVDEA
>>1727

 そうですね。失礼をしました。

1729復興G:2012/12/08(土) 23:20:53 ID:vWpLkCzM

SAKURA様
如月様
NANCY様

ありがとうございます。


前に>>1711 でa hope様が触れてくださった
賀川豊彦氏の「神の乳房」という御文章ですが、その部分、テキスト『生命の實相』第2巻p.62〜64から謹写しますと、

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    無我本然(ほんねん)の状態に還れ

 で、われわれが身体のどこかが健康でない状態になったとしますと、その時にぜひなさねばならぬことは、心を肉体のどこにも滞らせず、身体のどこからも心を放ち去って、無我本然(ほんねん)の状態に還ることであります。

 われわれの本然の生命の相(すがた)は無我でありまして、形によってここからここまでが自分だというような、そんな限られた窮屈なものではありません。それだのに身体(からだ)という有限のものを描いてそれに「心」を滞らせて病気になったのでありますから、その「限られたわれ」の感じを放下(ほか)し去って、大生命――大無我に帰一しなければならないのであります。

 大生命――大無我に帰一し、無我本然の状態に立ち還りますと、忽然(こつねん)として本来の無限自在さがわれわれの生命に立ち帰って来て病気がなおるのであります。

 日本古来の「鎮魂(たましずめ・ちんこん)」の術と申しますのも、「内体の感覚を蕩尽(とうじん)してひたすら天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)と一体になる」のが本義でありますが、仏教の禅定でも同じことであって、自己の本然の「無我」を体証することであります。

 キリスト教の祈りと申しますのでも、必ずしも「神様、どうぞこの事をわがために成就したまえ」と一つのことに執着してそれを頼み込むことばかりではないのであります。

 本当の祈りは「無我」になって神に抱かれて神と一つになることであります。賀川豊彦氏も昭和六年一月中の大阪毎日新開に「神の乳房」と題して次のようなことを書いていられます。深き体験のお言葉だと思いますので次に引用させていただきます。

 「年久しく私は、神との対坐を祈りのうちにつづけてきたが、四十を越えて今日、端坐して祈るときの嬉しさと、平安と、休息をこよなくよろこんでいる。これまで、祈りをすることが何か特殊な変態の世界にはいって行くように思われていたが、このごろになっては、睡眠と同様に一つの本能であることに気づかれてきた。

 綿のように疲れた体を床柱に凭(もた)らせ、しわがれた血の出る喉の呼気をしずめ、しずかに神にすべてをうち任せて孤坐すれば、醒めたる霊に、睡眠以上の安息が与えられる。邪気は逃げ去り、神秘の霊域は眉間(みけん)にせまり、火気なきトタン屋根の下にも、春陽の暖かさが通うてくる。求むるでもなく、せがむのでもなく、母の二つの乳房の間に、小さい顔をねじこんでいる赤ん坊のように、ただ神の乳房を両手に握り、静かに、静かに静坐すると、地震も、地辷(じすべ)りも、暴風も、洪水も、災厄も、疾病もこわいものではなくなってしまう。

 わたしはもうすでに、無窮の愛に吸い込まれ、すべての不浄を忘れて神の懐(ふところ)に帰ったものである。壁も、トタンも火鉢の灰も、それらは神の乳房の毛孔のように考えられる。神の乳房に吸い着くことを知ったわたしには、徹夜の労作も、神の与え給う睡眠に均(ひと)しい。

 ただ祈りはつづく、祈りはつづく。わたしの生命の祈りはつづく。神の乳房に吸い着いたわたしは、両眼をうち開いて、眠りよりなお安らかな安息を味わう。」

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 以上はテキスト『生命の實相』第2巻からの引用でした。

1730復興G:2012/12/08(土) 23:29:35 ID:vWpLkCzM

 私は、毎月一回、讃美歌を中心にしてアカペラ(無伴奏)の美しいハーモニーを味わって歌う合唱団にも参加しています。そこで毎回必ず歌う聖歌に、讃美歌310番「しずけき祈りの…」というのがあります。
 その歌詞は――

1.しずけき祈りの ときはいと楽し
 なやみある世より われを呼びいだし
 父のおおまえに すべての求めを
 たずさえ至りて つぶさに告げしむ

2.しずけき祈りの ときはいと楽し
 さまよいいでたる わが魂(たま)をすくい
 あやうき道より ともない帰りて
 こころむるものの 罠をのがれしむ

というのでありますが、これを歌うときの気持は、「神の乳房」に吸い付くような祈りの気持かも知れません。

「私は、ないのである。ただ神のみいます。今、ここに神が生きてい給うのである。ありがとうございます。」

と、神に全托して、「今」をよろこんで生きて――生かされてまいりましょう。

1731復興G:2012/12/08(土) 23:34:07 ID:vWpLkCzM

では、皆さま、今夜は静かに、やすらかにおやすみなさいませ。

ありがとうございました。

1732SAKURA:2012/12/09(日) 01:44:58 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>> SAKURA投稿の続きです…。

頂きました【今回のテキスト該当部…】から、個人的ですが…冒頭から勉強・投稿形式を
取らせて頂きます。

❤ 生理的状態は暗示によって感染する   その①
======生命の実相 2巻から抜粋=========================
 精神的感染によって、あくびという生理作用が感染ったり、人の涙を見てこちらも涙が出た
り人の食べるのを見て唾液が出たりする事実は、誰でも知っているところであります。これを
見ればわれわれの心の状態がどんなに生理作用に影響を及ぼすかは考えてみてもわかるのであ
ります〜〜云々〜〜ラジオ・ドクタ−が衛生のことや健康法のことについて説くことは参考に
なります。けれども、黴菌の恐るべきことや、人間が少しでも不注意であれば病気に冒される
ことなどを説いて、恐怖心をそそることは感心しないのであります。それは人々を病気の想念
の中におくことになりますし、病気の想念により喚起された恐怖心によって、生理作用が攪乱
され、病気に対する抵抗力が鈍ってしまいかえって病気になってしまうのであります。予防医
学は社会政策的立場において必要でありますけれども、すでに病気になっている人が、通俗医
学の書を読んだりラジオ・ドクターの病気恐怖の話をきくのは必要でないばかりか、恐怖心を
そそられて病気に対する抵抗力を薄弱ならしめますから、なるべく避ける方が結構であります。
                             (谷口雅春著)
==========================================

■“病気になる事”は、以前の“心の種をまいた結果”でしょうか???たとえばですが?
父親が【癌に侵されて病気】になりまして、悲しいかな?死亡…そうしますと、人間の潜在
意識の中に【自分もいつか〜〜〜“癌…”になって、同じような死を迎える】という
“恐怖心の種”が、無意識に植えつけられて、いつか月日が立ち【時間・空間】でしょうか?
忘れた時に“恐怖の病気の芽”があらわれるのです〜〜〜ョネ!!

                               つづく

1733SAKURA:2012/12/09(日) 01:49:43 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>SAKURA投稿の続きです。

頂きました【今回のテキスト該当部…】から、個人的ですが…冒頭から勉強・投稿形式を
取らせて頂きます。
>>1732>>投稿の続きです…。

❤ 生理的状態は暗示によって感染する   その②
これは【三界の唯心所現】として現れる!「生長の家の人」ならば、必ず知っています言葉!

■私も“5歳の頃交通事故…”に遭い、その時、空中に跳ね跳ばされて運よく“木の枝”が
クッションになり、一命を取り留める結果となりました。…が?ですから“顔のホホ”に、
傷が出来ておりまして“4センチ”くらい縫合しております。当時の医療では難しいのです
が、私の記憶では、車に乗せられて横になって運ばれていく光景を、今でも覚えています。

その後、手術が無事にすみ、目が覚めて“顔のホホを中心に包帯…”更に、腕も骨折です。
ですから、三角巾??みたいな固定していた感じ?当時の包帯をした“姿…”が、この頃よ
く浮かんできます私です。その時、当然の事ながら頭部を打っていますから「体の後遺症」
がと?当時の“両親の恐怖心”は???多大なものであった事でしょう。
ある時…小2の頃でしょうか?「担任先生」が“左の聴力”が、以前より聞こえがオカシイ
のではないのかと言われて、“病院…”へ、その時の病院の担当医の先生は、頭部を打ってい
ますから、今回は、運よく“無事”に乗り切れましたが、今度、なにか事故で…例えば、
頭部を叩かれたり?打ったり?このように“頭部”に何らかの力で、損傷しますと神経系が、
侵かされる事になると…つまり■【聴力喪失…】を言ってた事を「亡き母」は、良く言って
いましたから、私は“潜在意識”で、常に“交通事故…”を、再度!起こさなければいいと
思い、そうしますと、潜在意識に【 “大丈夫!”事故が起きなければいい!! 】と…、
いつかその自覚を、忘れてしまい、そうこうしています内に【21歳の夏の頃…の出来事】…
これが「タタキ男」に叩かれ“出血…”です。
その後、忘れもしませんが“22歳の3月10日の朝”に目が覚めても“音〜♫〜”が全く><
前日の【音のある世界…から…音のない世界】に、当に【暗闇の世界…】に引きずり落とされ
この日が【聴力喪失…日時】に、なりました。

■逆に今思いますと【 心 の 法 則 】 つまり“両親の言葉の念?”で、この様な
“悪い男…タタキ男”に、想念感情から結ぶ事となつたのでしょう〜〜〜。
「種をまく!」のも、やはり“いい種”を巻く事が、その後!結果として“大輪の花”が、
咲くのではと思います。…が?この【タタキ男の執着…】は、今日でも“腹”が立ちます
が、それを「雅春先生の言葉」から…【こころで縛りますと、また同じ繰り返し〜】になり
【四次元の世界…】に入っていくようなモノです〜〜〜ョネ!!この様に、毎日!毎日!
“決めつける事=思い込み事”は、必ずその時は、一時的にごまかしても、必ずや!
化けの皮が、出てくるのですから、そう断言して思うこの頃です。【円環…】

■あの「ヒットラ−の時代」も“永遠”には続かなかった事でしたでしょ〜〜〜う!!
これにならって【必ず!今は善くないけれど…必ず!良くなる事を信じて進む事】に、心を
振り向け…そして【祈る…】事が出来る人が❤〜【人生の勝者…】と思う次第です。

最終的に、相手に“恐怖心”を与える言葉を使用するよりも“希望の言葉”が一番!!
しかも【 正しい希望実現の言葉…】でしょうかと。?

1734a hope:2012/12/09(日) 09:53:57 ID:ueIDSztA
みなさま おはようございます。

わたしの住む所は、昨日はとても寒かったです。
紅葉もほとんど散ってしまい、いよいよ本格的な冬が到来したという感じです。

今朝、みなさまの投稿を拝見しまして素晴らしい内容に感動しています。

復興Gさまが>>1721で、

>>あまりたくさんの書き込みはなかったようで、助かりました。
 にぎやかにたくさんの書き込みがあるのがよいとは限りません。<<

とおっしゃって、榎本恵吾先生のご文章を紹介してくださっています。

ですが、実際に現象生活を送っていると、なかなかこの「静か」な心境に至れないのが現実なのではないでしょうか・・・?

今回の範囲で気になった言葉で、「人類意識」というのがあります。
さらに聖典には、「人類の通念」ですとか「人類の共通観念」という表現もされています。

たとえば、
『病気になったら、薬を飲まなければ治らない。』
『こんなに寒い日に、薄着でいると風邪を引く』
『咳をたくさんしているから、風邪をひいている』…というよな、
世間で常識とされているようなことが「人類意識」というのだと思いますが、
そのような人類意識に戸惑わされてしまい、わたしたちは心静かにしていられないのではないかと感じました。

偶然なのだと思いますが、ハマナスさまが昨晩、聖典引用板で「人類意識の大波を超出すべし」という、
雅春先生のお言葉を謹写してくださっています。
わたしは、このような偶然が起こるは、ハマナスさまのお祈りの力が深いからなのではないかと感じ、
ハマナスさまにはいつも感謝し、心から尊敬させていただいています。

以下、ハマナスさまの聖典引用板への投稿です。(ハマナスさま、勝手をして申し訳ありません。)

―――――――――――――――――――――

1777 :ハマナス:2012/12/08(土) 23:56:13 ID:mR2szZkc
人類意識の大波を超出すべし
(『新版生活の智慧365章』p.308)

「病気は無い」と“心”で念じたら病気が消えるならば、「肉体は無い」と“心"で念じたら肉体が消える筈だが、そんなに念じても肉体は消えないではないかと云う質問があるが、それは“心”と云うものが幾層にも重なっていて、一個人の単なる表層の現在意識で念ずるだけでは、人類全体の意識や、個人の意識にしても深層にある潜在意識面にある観念は容易に消えないと云う理由によるのである。

一個人一個人の意識内容は集団して一個人の人類意識と云う巨大な波動となって、個人個人の意識をその上に浮動させているのである。だから人類意識が「此の毒薬を幾グラム服(の)んだら死ぬ」と知っている毒薬を飲むならば、その人個人は、それが毒薬だと知らなくとも服用すれば、人類意識の“唯識の所現”としてその人は毒薬に当てられて死ぬことになるのである。だから其の人が人類意識の大波を超出するのだけの大信念を起し得るよう、熱心に神想観をして実相の完全さを揺るぎなく瞶(みつ)めない限りは、人類意識の大波のまにまに打ち上げられて破壊されることになるのである。

個人が「肉体がない」と心の表層で念じても肉体が早速には消えないのは、個人自身の潜在意識の中に「肉体がある」と云う観念の惰力が残っているのと、人類意識の中に「人類は肉体をもつ」と云う観念があり、その波から超出出来ないからである。

感謝合掌

―――――――――――――――――――――――


>>だから其の人が人類意識の大波を超出するのだけの大信念を起し得るよう、熱心に神想観をして実相の完全さを揺るぎなく瞶(みつ)めない限りは、人類意識の大波のまにまに打ち上げられて破壊されることになるのである。<<

とあるように、この人類意識の大波を乗り切るためには、真の神想観(祈り)をして、神の子の自覚を深めるしかないのだと思いました。


>>1729復興Gさま

賀川豊彦氏の「神の乳房」という御文章を謹写してくださりありがとうございます。
また讃美歌310番「しずけき祈りの…」歌詞も素敵ですね。
「祈り」は楽しいものなんだということが、わたしにもようやくわかってきました。
そして、聖歌を歌うことでも、神との一体感を感じられるようになったらどんなに素敵でしょうか…。

素晴らしい聖歌を紹介してくださり、ありがとうございます。

みなさまお一人おひとりのご投稿にも、コメントをしたいのですが、なかなか時間が取れなくて残念です。
ですが、拝見して、お勉強させていただいています。
ありがとうございます。

合掌。

1735復興G:2012/12/09(日) 10:21:57 ID:vWpLkCzM

>>1733 :SAKURA様

深夜のお書き込み、ありがとうございます。

>>【必ず!今は善くないけれど…必ず!良くなる事を信じて進む事】に、心を振り向け…そして【祈る…】事が出来る人が❤〜【人生の勝者…】と思う次第です。<<

ありがとうございます。
『【祈る…】事が出来る人が❤〜【人生の勝者…】』

――本当に、そうだと思います。

祈るとき、「神は完全にして神のつくり給いしすべてのものも完全なり」なのですね。

ある人の子どもが、高いところから落ちて脳震盪(しんとう)を起こした。それ以来、しばしば癲癇(てんかん)の発作を起こすようになった。それは、前に脳震盪を起こしたのが原因だから仕方がない、と思ったいたが、あるとき、過去はない! 未だかつて脳震盪を起こしたことは、いっぺんもないのが実相だ、神の子だ! と、そう思ったら、子どもはそれきり癲癇を起こすことがなくなった、という話をどこかで聞いた(読んだ)記憶があります。

実相神の子は、交通事故に遭ったことはない、完全円満なお姿がすでにある。ありがとうございます。
そのお姿を観じ、礼拝させて頂きます。
合掌礼拝

1736復興G:2012/12/09(日) 11:01:32 ID:vWpLkCzM

>>1734 :a hope様

 コメント、ありがとうございます。

>>聖歌を歌うことでも、神との一体感を感じられるようになったらどんなに素敵でしょうか…。<<

 ――谷口雅春先生作詞の「堅信歌」も、私が大好きな聖歌です。

 「堅信歌」の歌詞は、

1. われは聴く わが内なる声を
 “みひかりを常にもとめて
わが御手をしかと握れよ
安らなれすべて善ければ
とこしえに此処極楽に
なれは今まもられてあり。
  われは汝(な)の内なる神ぞ
  わが護り常に完たし。”

2. われは聴く わが内なる声を
  “われ常に汝(なれ)をまもれば、
  われ常に汝(な)を導けば、
  何時(いつ)のとき何処(いずち)にあるも、
  汝は完(ま)たく清くけがれず、
 行く道に迷うことなし。
  われは汝(な)の内なる神ぞ
  わが護り常に完たし。”

ですね。

 この「内なる」というのは、自分の内に小さくかくれている、というような意味ではない。
 榎本恵吾先生もおっしゃっていますように、

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 生きていること自体が自分ではなく神であり給うのである。自分は無いのである。自分は全くのゼロであるのである。自分が存在すること自体が神であり給うのである。神は“汝は吾れであり、吾れが渾べての渾べてである”と愛し、拝し、観じ給い、吾れとなり給いて神ご自身を生き給うているのである。……(「榎本恵吾記念館」サイトの「文書館12 幽斎殿Ⅴ」より)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ですから、「自分はないのである」と自覚したら、おのずから
≪われわれの本然の生命の相(すがた)は無我でありまして、形によってここからここまでが自分だというような、そんな限られた窮屈なものではありません。……大生命――大無我に帰一し、無我本然の状態に立ち還りますと、忽然(こつねん)として本来の無限自在さがわれわれの生命に立ち帰って来て病気がなおるのであります。≫

というようになることだと思います。

 そうは言っても、気になる「人類意識の大波」を超出すべし――素晴らしいですね。

合掌

1737トキ:2012/12/09(日) 11:46:26 ID:dcwAKtQA
 「自分はないのである」というのは、高齢の方がよく言われます。
やはり長く人生を経験すると、そういう心境になるのでしょうか。
 ただ、何もしていないで、そういう心境にはなれないとは思います。
やはり、真面目に勉強をし、行もして、はじめてわかるのかもしれない、
と感じています。

1738さくら:2012/12/09(日) 11:48:04 ID:WA9w81Yw
復興G様
ご参加のみなさま。

>>1703
復興G様、温かいお言葉ありがとうございました。学びを機会を与えて頂いて、感謝しています。

本当は、知人の身体のことでも、わたしには、大切なものを失う「恐れ」の心がとてもあることが、分かったんです。

何かを「失うのが怖い」と思うのは、外のものに依存する心がまだまだ強いからかな、と思うのですけど…
近しいものなど余計に、「執着」の心が出てしまいますね、、



復興G様がお書きくださった「静かなり」の意味が心に残りました。

 >「宇宙(くに)静かなり」の「静か」とは、すべてのものが処を得ていることである。聖は聖。光りは光。神は神。人は人。すべてそのものが自らをそのものしているときを「静かなり」と言うのであります。人間は神であり、聖であり、至上であり、光りであるときを、「静かなり」というのである。


以下、すべてのご文章から…、
すべてのものが、処を得て調和しているとき、「自らをそのものとしているとき」それが、「静かなり」、とハッとしました。

先日、聖典板に、『静思集』からの、
「寂静にして鳴るなり」「寂静にして病むなり」という言葉を、謹写させて頂いたのですが、それを思い出しました。
わたしには、意味が難しかったのですが、とても心に響いた言葉だったので。


祈りの方向を教えて頂き、すこしずつ、心のコリが和らぎました。

ありがとうございます。

1739さくら:2012/12/09(日) 11:48:37 ID:WA9w81Yw

それから、自分の中の課題の一つでしたが、
如月様の質問にトキ様がお答えになっているところがあります。

>>

>さて、宗教を嫌う人が多いのは、残念です。ただ、宗教家も反省しなければなりませんね。近所のキリスト教の熱心な信者が
いて、その人なんか、キリスト教以外は邪教だと言うのです。創学会みたいなものです。こんな偏狭な人を見たら、誰でも
嫌に成ります。ただ、これは、私も深く気をつけないといけない部分です。

 で、そういう人には、宗教に入りなさい、と言ってはいけないと思います。ただ、自分の行いを正しくすることと、その人
には、明るく、親切にするのが好いと思います。誰でも時期がありますから、時期がきたら、その人も宗教に関心を持ちます。
 それまでは、神様に祈って、時期が来るのを待つのがよいかと思います。


この姿勢はとても素晴らしい伝道の姿勢でもあるな、と思いました。

わたし自身、宗教だけの話ではないのですが、自分がこれが「絶対正しい」と思ってしまうと、
正直、「そうではない人、それと違う考えの人」に対して、やはり反発や嫌悪を感じてしまうことがあります。
受け入れられない気持ちと、自分の考えを強制したくなる気持ちでしょうか…。
ひどくなると、人を区別して、ある意味「差別的な意識」を感じることもあったかもしれません。
自分では、この想いに、さみしい気持ちがあるのにです。

前の宗教していたときには、殊更、この傾向が強かったし、だから、ぶつかる心も多かったと思います。

そんな中で、生長の家に触れて、もっとも感銘を受けたみ教えの一つが、「萬教帰一」の教えでした。
それは、すべての良き宗教宗派の教えの真髄に光をあてて生かすのが、生長の家の教えだと知ったので、この教えこそ、宗教間の和解を実現する偉大な教えだと感じました。

…でも、やっぱり、それさえも、「これが絶対正しい」に、自分の心が凝り固まってしまうと、そこにぶつかるものがでできてしまうのですね…。
この点でも、トキ様の姿勢は素晴らしいと感じました。

如月様が謹写して下さった
聖経『続 真理の吟唱』より、「愛の絶対価値を高揚する祈り」
の中で、

>人間が誰かを”愛”したという”愛”は絶対価値であるが故に、その”愛”は永遠に
滅することも減ずることもないのである。
 日本国民が国家を愛して国家を護るためい戦った。
その”戦い”という行為は、対手(あいて)があり相対的なものであるから、立場立場の異なる
人々によってその価値・不価値を色々に評価されるけれども、その”戦い”という相対的行為の
奥にあるところの日本国民が天皇を愛し大日本帝国をあいしたというその純忠なる”愛”の
価値は相対的比較を絶した絶対なるものであるから、肉体をいう相対的存在が滅びても
永遠にその”愛”の価値が滅びることはないのである。
純粋の愛は、絶対者に属し、絶対界より出でたるものであるが故に
それは永遠の価値をもっていて滅びることはないのである。

という言葉がありました。

一見、相対的な価値観の違いや対立すると見える物事や相手があると見えても、

その奥に、永遠の価値を持つ神の愛の世界では、一体であるのが、真相だと信じることが大切なのですね。

それが、この誌友会で教えて頂いている、祈りにあると、受け取りました。

ありがとうございます。

1740「訊け」管理人:2012/12/09(日) 12:21:30 ID:???

>>1737トキ理事長


>>「自分はないのである」というのは、高齢の方がよく言われます。やはり長く人生を経験すると、そういう心境になるのでしょうか。<<


 そうかもしれませんね。ただし若輩者であれ「生死の境」を彷徨った経験などあれば、そのような心境になれるのかもしれません。少なくとも「近づくこと」くらいは、可能かもしれませんね。私なんかでもかの、リーマンショックを経験し御教えのありがたさ、堪能出来ました。なにせ「自分がある」限りは、心労が絶えぬわけです・・・

 たとえば「自分がある限り」とは、こんな意味です。

 たとえば、請求書を出した金額が¥2,000万だったとします。そうなると当然、人間知で考えれば翌月入金は¥2,000万であるはずです。(当り前の話です。請求額を超えて入金があるはず、ないわけですからね)。そしてこの場合、「入金¥2,000万では資金ショートだ」とします。こんなケース下で「自分がある」限りは、資金ショートするというシナリオ以外、思い浮かんでくるハズがありませんよね。

でも実際はその、「請求額を超えた額」が、突如入金になったりするのです。しかも「充分に運転資金として活用可能な額」がポンと、なぜか銀行口座に振り込まれていたりするのです(!)こんなことは「自分がある」(=自我を殺し終えていない)限りは、予想不能なことです。そして中には、取り越し苦労気味に〝自殺〟〝一家心中〟を選択する経営者も、出て参るわけです。

 若輩者であれ「生死の境」を、彷徨った経験などあればそのような心境になれるのかもしれません。少なくとも「近づくこと」くらいは、可能かもしれませんね。「自分はないのである」なる心境ですが、自殺寸前まで追い込まれたりすると、案外簡単に得られる心境なのかもしれません。(その意味で「自殺まで追い込まれた経験」というものも、「神の御使い」と言えるかもしれません)
 なお、余談ながら戦前期に御教えが広まった理由も、この辺りだったのかもしれません。なにせ当時は「25歳まで、生きられるかどうか」という若者が多数いたわけでしょう。そしてそんな、死線を彷徨う経験ある若者であれば現代でも、充分に通用する教えだと思っております。


>>1738さくらマネ

>>(趣旨)身近な者に対して執着が沸き、なかなか祈りの効果が現れないケース<<

 私の場合は「外注」します。祈りをアウトソース、します(^^)。意味は、知り合いの白鳩姉さんに「祈ってもらうようお願いする」ことです。

 やはり、たとえば「自分の会社の業績」なんてテーマになると、なかなか祈りの効果がありません。貴女が(以前より)言われる如く執着の念が生じるためだと思います。他人の病などは簡単に治せるんですが、自分の会社業績の場合が「なかなか上手くいかぬ」という、そんな事態に見舞われました。

 ・・・・そこで私は、「外注」しました。祈りをアウトソース、したわけです。まあ、徳久先生も「祈り合い」を重視しておられましたが、理由はおそらく、その辺りだったのではないでしょうか。

追伸

 ちなみに知人の白鳩姉さん達ですが、成就率100%です。(^^)もう、彼女たちに祈りを「依頼した時点」で私、もう、大安心の境地になれるのです。大安心の境地になれるのですからつづけて、唯心所現の法則でそのとおりに進展していくという・・・・

1741神の子さん:2012/12/09(日) 13:04:49 ID:3Dk63Vjg
神聖な誌友会の場で「祈りの外注」ってどんな心境であれば書けるのかな?
「祈り」についての根本的な理解が出来ていない。
「祈り」の事を「費用対効果」と同等に考える人って、驚きを通り越して虚しいだけだ。
尊師を呼び捨てにする理由もよくわかる。

オレはアンタのために祈るよ。

1742「訊け」管理人:2012/12/09(日) 13:16:53 ID:???

 と、言うことで皆さん「さようなら」






1743さくら:2012/12/09(日) 14:10:12 ID:WA9w81Yw
>>1740
訊け管理人様

ありがとうございます。
「祈りの外注」というのは、新鮮な言葉ですが、
本当、そうですよね。

自分に関することや自分の執着あることは、なかなか、純粋な祈りにならないことがあるな…、とわたしも感じましたので、
真理に叶っている、とおもいました。

そういえば、わたしが自分のことでくよくよしがちな時に、
生長の家の講師の方が、
「そういうときほど、人のために祈りなさい」とご指導くださいました。

はじめの頃参加した練成の、「祈り合いの神想観」は、本当に感動したのを覚えてます。
祈って頂きたい人が前にでて、練成員が向き合うようにただ、その人のために一心に祈り合う…
その時、わたしは、その姿がとても「美しい」と感じました。

グループで、小さな輪になって、祈り合いをしたこともありましたが、
その時には、祈っているうちに、本当に、ただ、涙が出てきました。
人のために祈るのは、一体である自分も救われていることなんだな、と実感したことです。

訊け管理人様の、ただ、神にそのままゆだねる、大安心のこころは、祈る上で、大切な心境ですね。

教えて頂きありがとうございます。

1744如月:2012/12/09(日) 14:22:34 ID:ki/haAjk
>>1740 訊け管理人さま

自殺未遂を数回して生死の境を彷徨った人がいますが、いまだに隙あらば死のうとします。
そこで自分は無いのだという心境になってくれていればなぁと思います。
こういう人には祈ってあげるしか無いのでしょうね。
祈りにはじまり、祈りに終わるというのは良い言葉ですね。

1745復興G:2012/12/09(日) 14:43:43 ID:vWpLkCzM

さくら様
トキ様
皆々さま

 合掌 ありがとうございます。

 ご投稿、ありがとうございます。

 ところで、私はずっと、今回のテキストを拝読しながらも、考えていました。

 現在の生長の家教団の状況も、いわば病気の症状を現しているようなものではないのか。
 それを、健康状態に回復するには、いかにあるべきか、自分はいかに祈り、いかに行動すればよいのか――そのヒントがこのテキストの中にあるのではないかと。

 これまでテキストを拝読してきて、教えられましたことは、「無我になって、神に全托して祈りなさい」ということが重要な柱であったと思います。

 しかし、その「自我をなくして」「無我になって」というのが、なかなか難しい。
 そして、自我をなくして祈るだけで、果敢な行動をともなわなかったら、症状は消えない、問題は解決しないかもしれない。

 そう思いながら他の聖典も傍証のために見ておりましたら、『實相研鑽』[第一集]にとても参考になる記事があるのが目にとまりました。「“無我”の限界について」というテーマで、昭和35・7・31、当時地方講師の方たちが熱心にいのちがけの気持で研鑽し合い、谷口雅春先生のご指導をいただいた記録です。かなり長文になりますが、もう50年以上前のことであり、ここに登場される講師の方々は皆すでに霊界へ旅立たれた方々ばかりでありますので、お名前もそのままに、謹写ご紹介させていただこうと思います。
 よろしくお願い申し上げます。

1746志恩:2012/12/09(日) 14:48:06 ID:.QY5jUA6
トキ様は、うさぎ体験を語って下さいましたが、
私も、過去に、ニワトリ体験がございます。

今回のテキストの71頁に、

「白墨の線も自分を縛る綱だと思えば,動けなくなる」とうタイトルのところに
例として、ニワトリに催眠術を施す方法が載っておりますけれど、

《ニワトリを静かに抱いて少しもその翼や足をバタバタすることができないように抱きすくめ、
それを床の上に横に置いて、眼のところから床の上に白墨で一直線を引いて静かに手を離しますと、

そのニワトリはもう起き上がることが出来ないのであります。。。》

というものですが、
私が高校生の時のことですが、

実家の父が、「生命の實相」のこの部分を拝読後、

「ほんとかどうか、実験したい」と言い出しまして、東京でしたが、たまたま近所に
ニワトリを飼ってる家があったものですから、そのおうちの人に交渉して承諾を得て、

興味津々の、われわれ家族が立ち会いのもと、
父は、一羽のニワトリを
実際に、地面に押さえつけて、ニワトリの眼の前に、白墨で白い線を引いてみました。

すると、ニワトリは、本に書いてある通り、即座に死んだように硬直して、動かなくなってしまいました。

この「生命の實相」に書かれていることは、本当だったのです。

われわれ家族は、実験者の父と共に「ほんとだ、ほんとだ」と歓声をあげました。
凝り性の父は、「もう1羽、やってみるか」と、もう1羽やりました

結局、2羽のニワトリが、われわれの眼前の足元で、死んだように硬直して動けなくなって
いるのでした。

ところがですね,今,思い出してもおかしくて笑いがこみ上げて来るのですが、
この催眠術は、施す術は書いてあるのですが、術を解く方法は、書かれていなかったのです。

まさか、変わりもんの父のように、実際にやる人があるとは、思われていなかったのかもしれません。

それで、父は、ものすごく焦りまして、汗だくになって、あれこれやって、やっと元に
戻したのでした。

今でしたら,ネットで調べれば、すぐに分ります。
「パンパンと2拍手すると、はい、催眠から眼が覚めます」と言ってから、2拍手すれば、
催眠術から解放されることを。

やはり、頭で理解したことは忘れがちですが、
感動体験したことは、何年経っても、忘れないものです。

1747NANCY:2012/12/09(日) 14:51:32 ID:jH5uEFzM
「復興G 様」 ヘ  「トキ 様」 ヘ
こんにちは……        ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678>>1692>>1718>>1727の投稿の続きです。…が??

>>1732>>1733の【SAKURA様の投稿内容】を、閲覧させて頂きながら…(下記URLにて参照)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1732
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1733

個人的に思いました事は……今回【聴力喪失…そして“心の法則”との関連】に関しまして思い
ましたのですが?実によく“病気”をしました時に生じます【 恐怖心=ネガティブ感情 】が、
そうです〜〜〜ョネ!そこから生じます“恐怖”・“不満”…伴う“不平”……此処から、更に
【念の法則】にて、必ずや【引き寄せの法則】による次なる【出来事…アクシデント】となります
事が、理解出来ました。
そうでありますならば【ネガティブ感情でありますところの“悪感情”…】に関しては、当に
❤【幸福な生活…】を望みます私どもにとりましては、少なくとも抱くべきではないモノと!!!
改めまして、考え直した次第です。

■当に「生命の実相」中の言葉に…… (雅春先生著)
〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『三界は唯心の所現である。そこまでわかっていたから、家族たちの病気が心なあらわれである
ということは明らかであった。しかし心をいかにすれば自由になしうるかがまだわからなかった
のである。心配すればその心配の形にあらわれて病気になる、それは解る。しかし、家族が病気に
なっているのを心配しないでいることはむずかしいのである。』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

本当にこの“言葉…”に、最も値しますモノと、思った次第なのです。そして、

■【 心 が 一 切 現 象 の 源 で あ る …!!】ですから、今回の
“恐怖の種”・“悩みの種”・“不平の種”……etc
これは逆に【マイナス要素…】になりますモノと…改めて思いましたかと…。

つづく

1748トキ:2012/12/09(日) 15:04:33 ID:dcwAKtQA
>1740

 web誌友会へのご参加、ありがとうございます。

 祈りの外注ですか。(笑)
確かに、祈り合い神想観がそうですね。面白い表現だと思いました。

1749復興G:2012/12/09(日) 15:18:18 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<1>

  “無我”の限界について (35・7・31)

    公憤して胃に孔あく

 橋村正治 「無我の限界について」というとちょっとおかしな問題ですが、私がこの疑問に達した経過を簡単に申し上げまして、問題の主旨を明らかにさしていただきます。

 私は昭和十五年に入信いたしました。べつだん入信の動機は病気とかいうようなことではないんですけれども、当時十二指腸潰瘍の宣告をうけて医者の薬をのんでいたのが、『生命の實相』第一巻を読ましていただいてから、薬はいらないんだということがわかりましたので止めまして、それっきり医者にもかかりませんし、長年の間別に何ともなかったんです。

 最近になりまして胃潰瘍が再発(十二指腸潰瘍とは同じようなものだそうで)、二、三回血を吐きまして、最後に胃に孔があきましたので、四月のなかばにいやおうなしにお腹を切られまして、胃を三分の二とってしまわれたんです。

 ところで私は入信以来、最近にいたりまして“我(が)”というものがなくなったと自分では思っていたんですね。ところが入院しましたとき、“まだお前には我(が)があったんだ”ということをマザマザと見せていただいたんです。それは私につきそって下さったおばさんが非常に我の強い方でして、私のいうことはちっとも聞いてくれない。むろん病人の看護ですから、病人の言うことをいちいち肯(き)くわけにはいかんのは当然ですけども、いろんなことがあって「ああ、これは自分にまだ我が残ってたんだ」ということを分らしていただいたんです。(そのおばさんは、私が退院するまでに誌友になってくれました)

 それで私つくづく考えてみまして、どうも自分には、まだ我がある。どういうところにあったかしらと思って考えてみましたところ、私が昨年来、東京都連合会の副会長をやらしていただいている期間に、都連をめぐるいろいろの問題についてちょいちょい憤慨した。そういうときに我があらわれたわけなんです。

 最初に血をはきましたのが三月の初めでしたが、考えてみるとその時に何かの問題で憤慨しとるですね。それは一週間ばかりして治りまして、今度は四月初めにまた血をはきました。その時も何か憤慨してるんですよ。それから最後に胃に孔のあいた時には、ある問題で非常に憤慨しまして、伊藤会長にも大それた進言をしたくらいで、今でも赤面のいたりなんですが、帰った翌日の次の晩かに孔があいちゃったわけなんです。

 私はそれまでただ慢然と「私事について“私”が出さえしなければ我はないんだ」と思ってたんです。ところが“公”の問題でも憤慨したりするということは、やはり“我”のあらわれだということを悟らしていただいたわけなんです。
<つづく>

1750復興G:2012/12/09(日) 15:18:54 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<2>

    “我”をなくせるか?

 ところが「我がない」ということは結局、相手はないということなんですから、相手があって憤慨する以上は、それは我があるわけで、大いに分らしていただいたつもりでおりますが、さてひるがえって社会の状態なんか見ますと、どうも憤慨せぎるを得ぬことが多いんですね。

 たとえば日教組だとか、総評だとか、これは憤慨せざるを得ないわけなんですよ。そういう場合にはやはり、これは“我”のあらわれにはちがいないんですけどね。我がなければ相手がないわけで、早い話が、神様になれば、あんな日教組や総評は問題にされないんだろうということになる。あれはああいうことしたとか、こういうことしたとかいう悪い状態は神様のお目には入らないんじゃないかと思いますね。

 そうすると我が完全になくなるためには(神に近くなるためには)そういう悪いことは自分の認識に入らないようにならなきゃいかんのじゃないか。認識に入る以上は、やっぱり、我はあるんだと。そこまで考えてきて私は分らなくなったわけです。どこまで我をなくしうるか、人間として、肉体人間として、どこまで我をなくしうるものだろうかと。また、なくしてもいいんだろうかと、五里霧中の状態になりましたので、皆さまの御指導をねがいたいと思うのでございます。ありがとうこざいました。

 司会 大分むつかしい問題ですが、どうぞ御遠慮なく発言を願います。現在、橋村講師のような状態におかれているという方でも結構でごぎいます。

    ガーンとやって反省

 林利男 無我になることは悟りの境地だと思うんですね。私なんか最も我の強い方でして、その証拠には前の住居のお隣りの方が、とても私の方へつっかかって来るんですよ。「立ち向う人の心は鏡」ですから、そういう人が近所にいていろいろいわれるのも私の我のある証拠だと思いまして、心に合掌しながらつきあっていました。

 しかしその後もしばしば問題が起るので、これはいったいどういうわけであるかと、私は大いに反省したんです。一つは私の職業(弁護士)がいけないんで、ある程度闘争してなきゃならない。闘争という言葉はないんですが、これは一度ガーンとやって、迷いを覚まさせなきゃいけないと思って、頭からガーンとやったところ、それから非常によくなった。

 しかしそれが、大いに『生命の實相』を説いてよくなったんなら私は手柄ですけどね、威圧を加えてよくなったというんじゃ、名誉でもない。そこに私はあとで「ああ自分には我がぬけきらないなあ」と悲しみをまざまざと感じたんですが、まあ反省するだけの私になったことは、やはりみ教えのおかげなんです。昔は反省しなかったですから。

 ところが無我ということはですね、結局は公けの問題にしろ私の問題にしろ、神と一つになり切ること、自分の個我が滅却してしまわなけりゃならない。われわれは個性の生命を神から与えられておりますから、個性の生命が働くことはいいんですが、それが神と一つの生命において働く。いわゆる個我が、普遍我いわゆる宇宙の生命と一つになった働きをする境地になることが無我ではないかと思うんです。

 だからある場合には、迷いを摧破(さいは)するためには大いに日の丸運動をおこし真理運動をおこして、共産主義や行きすぎた革新思想を催破するということは、やはり神と一つになるところの運動であり、その場合においては無我の運動である。だから大いに勇敢にやってもよろしいと思います。

 それでどこに限界があるかというと、自分のイノチが個の利益のため、個の考えのみのためにうごいているか、あるいは公けの神と一つになった動きをしているかというところに、その限界があるんじゃないかと思うんであります。私自身その限界一杯に動いていないことを非常に悲しむものですが、そういう考えだけは持っております。
<つづく>

1751復興G:2012/12/09(日) 15:19:29 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<3>

    影はゆれるが跡をとどめず

 白山守夫 終戦後しばらくのころでございましたが、神誌に谷口先生が官僚の横暴を非常に攻撃されたような御文章があったのでございます。そのとき私は「平和そのものと思っていた先生もやはりそういう攻撃をなさるのか」と思ってお手紙で御質問したわけです。そうしたらこういう名文の御返事をいただきました。(手帖に書きとめた原文のままを朗読する)

 「太刀先だけを見てその太刀筋を批評すべからず。憤激はせず、憤慨の語調をとる。虚にして実なり。共産党は何故あんなに拡がるか、官僚に対する憤激の形をとる故なり。滔々(とうとう)たる官僚攻撃の波に和する。これ全体に和するなり、和して同ぜず。呵々(かか)」

 私は非常に打たれまして、今でもよく覚えております。
 先ほどの御質問の中の、私事による憤慨や公共的なことに対する憤慨の場合でも、先生のお手紙を拝見しまして憤慨の語調をとるが、腹の底からは怒っていない。つまり

 「風に木の葉がゆらいでゆらいだ影が映っても、影は跡をとどめず」

 そういうように我のない場合には、そういう語調をとったとしても、自分自身がそれにまきこまれない場合は、自分を痛めるということはないという意味のお言葉だと、この御文章を非常に尊く、一生忘れんようにと覚えとるわけでございます。

 菱沼利一 「信徒行持要目」の第二項――“そのままの心を大切にすべし”というところに、お答えの意義を感じさせていただきました。私たちは常に感情に走りやすいのでこざいますが、ただ今のお答えのように、無我ということは、自己の感情をとり除いた上で行うことであると感じさせていただいたのであります。“そのままの心を大切にすべし”というのは非常に疑問でしたが、そのままの心というのは、神様の心であるということに感じまして、本当にありがたく拝聴さしていただきました。

    よごれものは受けて洗う

 伊嶋四耕 今日の本部道場の午前中の法語は田中イサノ先生の慈悲喜捨の「四無量心について」のお話でございましたが、この問題と非常に関連深く、ありがたく拝聴いたしました。

 谷口先生は常にお教え下さっていますが、不完全なものが目に入った時には、心に入った時には、やはり一応それは自分が取捨しなければならない。自分がそれを本当にとって、それをようく玩味して、そういうものはないのであると本当に考えなければ、生きていけないのであると、仰せられておるところを常に感じさせていただいております。

 さらに谷口先生がお教え下さいますように、よごれ物がここに出て来て、きれいにしようと思うならば、やっぱりそれは洗わないときれいにならないのであります。その場合、水で洗うのか、湯で洗うのがいいのか、陰ぼしがいいのか、日光にあてるのがいいのか、石鹸はどういうものを使うのか、それらを知らなければならない。それが本当の洗濯の意義である。その智慧はどこから出て来るのか、それは神の智慧によるのであり、神想観にあるのだと考えます。ありがとうございます。
<つづく>

1752復興G:2012/12/09(日) 15:20:02 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<4>


    相手を生かす愛

 山本暎一 伊嶋講師が申されましたように私もそう考えております。きたないものは一応うけとらなくちゃきれいにならない。その汚いものをうけとった時に腹が立つんですね。そういういろんな感情をなくするにはすべて愛である。

 たとえば全学連が運動し、共産党がさわぐ。これは真理国家としてこの日本の実相顕現という真理の点から見る時には、彼らはまちがっている。そこでまちがっていることを一応うけましてですね、どうしたら彼らを正しい真理の道に目覚めしめるか、神想観によってみちびく。のみならず、日の丸擁護会というような運動をもって徐々に彼らに知らしめることが必要で、あくまで相手を生かす。感情で相手をやっつけるんでなくして、あくまで相手を生かす。つまり愛である。生かす道はいろいろあるわけですが、議論すればいかにも腹立っているように見えるけれども、心の奥では相手を生かすということが根柢にならないと問題は解決しない。

 たとえば御本にありますように、自分の子供は何でも完全であると拝んでればいいもんじゃない。真理は、剣の如く鋭く、半面において、鳩のごとくやさしいという、愛と智慧とが表裏一体をなしている。智慧のない愛はいかん。子供が今、何か変なビンのものを飲もうとしているというときに、ただ拝んでおっちゃいかん。そのビンに青酸カリが入っているということになると、母親はいかに子供が泣き叫ぼうとも、横つらをはり倒してでもそのビンをもぎとる。この行為そのものは、いかにも腹を立てて引っぱたくような姿に見えますけれども、これはあくまでも相手を生かす精神の現われである。

 つまり涙をもって愛の鞭をふるうという場合、やはりここには鋭い智慧が必要でありまして、すべてきたないものは一応うけとっておいて(これは公けでも私的でも同じだと思う)すべて相手を生かす道が(あるいは形の上では争いのように見えるかもわからんけれども)ある。あくまでも真理を知らしめる。正してあげようという愛念に代っていくならば、ちょっとは腹が立ちましてもまた、相手本位に行ける無我の世界に入れるんじゃないかと思うのでございます。

    “そのままでいいんですよ”とは?

 中野愛子 私たちが毎日生活しておりますと、“神の愛ならばこうすべきだ”ということは分るわけなんです。心静かに考えますと、学生に対する態度や教職員との縦横一切の人間関係は、“神様ならこうする”ということから“自分はどうすべきか”ということは、もうちゃんと答えは出てるんです。(中野さんは東京女子経済短期大学教授)

 しかし実際そういう問題にぶつかりました時に、明らかに答えは判っていながら、心ならずも、その答えとちがったかんばしくない態度が出てしまうことがあるわけなんです。

 そうすると非常に反省させられまして「ああ、また悲しいことをしたな」と他の人から見ればそういうことは問題じゃないだろうと思うんですけど、一つ一つの言葉や行動の中に毎日反省させられるんです。

 そんなとき私は、『生命の實相』の中から自分に都合のいいような言葉を選んだり「神様は愛だからそのままでいいんですよ」と谷口先生がおっしゃったお言葉などを一所懸命となえてみても、だめなんでございます。それで「“神様”と言ったら、いいんだよ。そのままでいいんだよ」とか「あすはまあがんばってごらんなさい」というような形で、私などは自己を勘弁していただいておるんでございます。

 あるいはまた親鸞聖人の煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)なんて素敵な言葉を考えて、このまま菩提かしら、天国が一緒にあるとすればこれでもいいのかしらって、いうように考えて、絶対の愛というものは批判もされないんじゃないかしらなんて思うのでこざいますが、一所懸命神想観して、自分を磨いて完全にというような直線的なことは(できる方はできると思うんですけど)なかなかむつかしい。私など非常にぬらりくらりと欠点だらけでございますが、先生、その時どのように神様はお救いいただけるんでしょう。質問と共に、“そのままでいいんですよ”というこの楽な方がいいような気がいたしますので、お伺いいたします。
<つづく>

1753復興G:2012/12/09(日) 15:20:40 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<5>

    大いなるみ手に抱かれ

 黒田輝子 ただ今、無我につきまして皆さんから結構な御意見、御体験を頂戴したのでございます。私、それに対しまして、私の唯今の心境の一端をちょっと申しあげてみたいと思うのでございます。

 私は入信は十四年で二十二年に講師にさせて頂きました。当時、広島県におりましたが、島根県にお話にまいりまして、佐藤さんというお宅でお風呂をいただいているとき、もう周囲の一切に対しまして良い気持になりながら感謝さしていただいておったのでこざいます。そのとき突如として耳にきこえたと申しますか何と申しますか、親鸞聖人のお言葉がこう響いたのでございます。

 「煩悩障眼(しょうげん)して見えずといえども大悲倦(あ)くことなく、われを照す」(その時に私はその言葉は存じませんでした)

 「あらっ」と思いまして、同時に私は嬉しくて嬉しくて、ああそうだったんだ、私は今までこの世に生をうけてから、憎いとか可愛いとか、惜しいとかほしいとか、腹が立つとか、しゃくにさわるとか、そういう煩悩にあけくれる生活をつづけておったにもかかわらず、神様の御愛、仏様の御慈悲は「お前はこれではいけないから、こちらに向かなきゃいけない」というような激しいものでなく、私の知らないうちに私を慈悲の御手にしっかりとおだき下さいまして、今私を生長の家のすばらしい御教えの中にひき入れて下さいまして、しかも皆さんの前に立って神仏を説き人間の生きる道を説くことを教えて下さいました。

 本当にありがとうございます、と、私はお風呂の中に泣きぬれたのでございます。本当にそうだった。神様は私が行こうと思えばどこへ行こうと、憎んでおろうと怒っておろうと、それをいけないとは決しておっしゃらないけども、ゆきづまったり、かべにゆきあたった時には、自然に自分が神様の方にむくように、神さまの方からしていて下さったんだ。ありがとうこざいます。今まで仏教を研究し、いろいろな宗教をきかせていただいたけれども、どうしても分らなかったそのことを、『生命の實相』によって谷口先生に導かれて知り、私はなんてありがたいんだろうと思いまして、お風呂の中で泣いて泣きぬれたのでございます。

 それ以来、私はただありがたい、うれしい、ありがたい、というわけで生活させていただいておりました。

 そのうちに広島県の五日市に参りました時に、お床にかかっておりましたお軸にただいまの言葉、「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(ぼんのうしょうげんすいむけん だいひむけんじょうしょうが=ぼんのうしょうげんしてみえずといえども だいひあくことなくつねにわれをてらす) 雅春書」と書いてありました。

 それを拝見いたしました時にまた泣きぬれたのでございます。(谷口先生のこの御揮毫を拝見いたしましたのはそこだけでございます) そこでそれについてお話させていただきましたら、皆さんもたいへんおよろこび下さいました。

 私はまことに我のつよい女でございまして、自分を顧みる、いわゆる常に「わが内なる声」を聞きながら、私の欠点を「ああ、これはいけなかった。そうじゃなかった。私はまたあの方をこんなふうな目で見ていた。口には出さなかったけれども、心でこういうふうに思っていたんじゃないか、申しわけなかった」というように反省し、脚下照顧しておりますが、まだまだだめなんでごぎいます。相手を、問題の瞬間に、「相手は神であった」と拝める、どんな瞬間にもすべてを拝める私にならせていただきたいと、一所懸命精進させていただいておるのです。そこに立ちましたときはじめて、世の中のすべての問題も私の心の中で浄化して、お導きすることができるのじゃないかと、私のただいまの心境でございます。
<つづく>

1754復興G:2012/12/09(日) 15:21:11 ID:vWpLkCzM

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)<6>

    もっと日本人の我を出すべき

 法貴雪子 私は無我の限界はあると思います。『生長の家』誌三十五年八月号の明窓浄机の最後のべージを読ましていただきましたら、谷口先生は御自分の身に日本の国の危機をお引受けになって、左の耳翼から前額にかけて痛みに耐えかねると書いてございました。

 私は昔、「自分のためには汗を流し、人のためには涙を流し、国のためには血を流す」という言葉を読んだことがありますけれども、私たちが怒っていいのは、そして体が痛くてもいいのは、国の問題の時だけであると思います。

 谷口先生のは我ではいらっしゃらなくて、そのまま実相でいらっしゃるでしょうけれども、私たちは今あまりにも無我になりすぎていると思います。私たちは本当の意味で、日本人としての“善人の我”を出して、もっと団結しなければ、谷口先生お一人に全部お引受けさしたのではあまりにもったいないと思います。もっと限界をはっきりひいて、私事だとか公けのことといっても、日本の実相顕現に関係のないことなら全部ガマンすべきです。そのために胃病になっても肺病になってもそれは致し方ない。そんなことで傷つく私たちの実相ではない。

 谷口先生はこのあいだ目黒の公会堂での講演のとき、「天皇が政治をおとりにならないから、凡人が政治をとっておるから、今日本の国は乱れている。日本のため、天皇の御代になるまでがんばりましょう」と、この物情騒然たる今日、堂々とおっしゃられました。しかも公会堂の壇を踏みならさんばかりにして、(私は本当に先生が般若(はんにゃ)におなりになって、ああして怒っていらっしゃるんじゃないかと思うくらい)烈々と話される先生の御気迫に本当に打たれました。それを思いますとき、私たちは本当に、今はもう我を出してもよいと思います。生長の家の我だけは絶対に出すべきだと思います。(拍手)

 司会 それでは最後に谷口先生の御意見を伺わしていただきます。

    すべてのものは善きように働いている

 谷口雅春 ありがとうございます。皆さんからいろいろ尊い見解を承りまして、だいたい言うべきことは言い終ったように思います。中野愛子さんの非常に反省の深い言葉を承りましたが、「自分でこうするとき神様ならこうなさるであろう、と頭ではわかっているけれども、実際には腹が立って変なことを言うこともある」というのはね、“それでいいんです”よ。(笑)

 “それでいい”というのは、それは自分の過去の中にいろいろのレコードがありましてね、仏教的に言うと、業というものがあって、それがある機会にまきもどされて形に現われて消えてゆくんだから、それをもう一ぺんつかまえないようにしてですね、“それでいいんだ”と放す。

 黒田輝子さんがおっしゃったようにね、「煩悩の中に溺れているようだけれども、大悲倦くことなく我を照す」というわけで、その煩悩の流動するに従って腹立つ言葉が出てくる。そこに大生命の無限の愛があって、自分の業も自然と解消してゆきつつあり、それによってまた相手の業も解消してゆきつつあってですね、自然にこの世の中が浄化されてゆきつつあるということになるわけでありましてね。だから腹が立つとか、何とかいうような問題にひっかからないで、“そのままでいいんですよ”という所へ行くところにですね、神様の大生命の無限の愛の中に自然と生かされて、常にわれわれは宇宙浄化の働きの中にのっている、ということになると思うんです。

 共産党に憤慨するのも、これも自然と宇宙浄化の働きの中に乗っておりましてね、日本精神(顕現)のために大いに公憤するのも、これも真理国家の実現という、実相の正しい相(すがた)を実現するために動き出しているところの一つの神催しの波であります。だからそれも“そのままでいいんですよ”ということになるわけですね。

 雷が鳴って雷霆(らいてい)霹靂(へきれき)が空をゆり動かすように見えているけれども、それは宇宙の電気の不調和が中和するために動いているというのと同じようにですね、“すべてのものは善きように動いておって、悪いものは一つもない”というところへいって、落着きが得られるということになると思うんです。そうでなければ、途中にひっかかっておれば、反省して反省して反省にくたびれてしまって、自己暗示で劣等感を得て、ますます悪い方へ崩れてゆくのであってですね。劣等感なしに、宇宙の本当の大自然の浄化作用の中にのっているんだという大安心が「大悲倦くことなく我を照す」ということになるんだと思います。ありがとうございます。
<完>

1755復興G:2012/12/09(日) 15:39:46 ID:vWpLkCzM

 ――以上、長文を謹写掲載させていただきました。

 結局、谷口雅春先生のご指導は、

 ≪「煩悩の中に溺れているようだけれども、大悲倦くことなく我を照す」というわけで、その煩悩の流動するに従って腹立つ言葉が出てくる。そこに大生命の無限の愛があって、自分の業も自然と解消してゆきつつあり、それによってまた相手の業も解消してゆきつつあってですね、自然にこの世の中が浄化されてゆきつつあるということになるわけでありましてね。……≫

 ≪日本精神(顕現)のために大いに公憤するのも、これも真理国家の実現という、実相の正しい相(すがた)を実現するために動き出しているところの一つの神催しの波であります。だからそれも“そのままでいいんですよ”ということになるわけですね。≫

 ――で、「必ずよくなる」と、大生命の浄化の御働きを信じ、祈りつつ、使命感のままに行動して行けばよい、ということになるのでしょうね。

1756「訊け」管理人:2012/12/09(日) 15:43:49 ID:???
>>1753

>>「煩悩障眼(しょうげん)して見えずといえども大悲倦(あ)くことなく、われを照す」<<


>>1754


>>“それでいい”というのは、それは自分の過去の中にいろいろのレコードがありましてね、仏教的に言うと、業というものがあって、それがある機会にまきもどされて形に現われて消えてゆくんだから、それをもう一ぺんつかまえないようにしてですね、“それでいいんだ”と放す。<<


>>“すべてのものは善きように動いておって、悪いものは一つもない”というところへいって、落着きが得られるということになると思うんです。そうでなければ、途中にひっかかっておれば、反省して反省して反省にくたびれてしまって、自己暗示で劣等感を得て、ますます悪い方へ崩れてゆくのであってですね。劣等感なしに、宇宙の本当の大自然の浄化作用の中にのっているんだという大安心が「大悲倦くことなく我を照す」ということになるんだと思います。<<


 誠にありがとうございます。感動致しました。


追伸

 悪いものを観た際、どうすべきや?――よごれたものは「受けて洗えばよい」

 「洗う」とは、いかなる行動を指すや――“すべてのものは善きように動いておって、悪いものは一つもない”というところへ、行くこと。

1757復興G:2012/12/09(日) 16:09:15 ID:vWpLkCzM

私も、>>1753 「大いなるみ手に抱かれ」という黒田輝子様のお話に、とても感動しました。

「煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいむけん=煩悩障眼して見えずといえども)大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが=大悲は倦むことなく常に我を照らす)」というのは、「私たちは煩悩が障りして眼に見えなくても、阿弥陀如来の大慈悲は常に私たちを見捨てずに、(無倦=あきることなく)慈愛の光明で包んでくださっています」という意味で、親鸞聖人が「正信偈」の中に書き記されている言葉でありますね。

黒田様は、この言葉を知らなかったけれども、あるとき島根県にお話に行ってお風呂をいただいているとき、突如としてこの言葉が耳にきこえたというか、響いてきて、ありがたくてお風呂の中で涙にむせんだ、というのでありますね。

『私は嬉しくて嬉しくて、ああそうだったんだ、私は今までこの世に生をうけてから、憎いとか可愛いとか、惜しいとかほしいとか、腹が立つとか、しゃくにさわるとか、そういう煩悩にあけくれる生活をつづけておったにもかかわらず、神様の御愛、仏様の御慈悲は「お前はこれではいけないから、こちらに向かなきゃいけない」というような激しいものでなく、私の知らないうちに私を慈悲の御手にしっかりとおだき下さいまして、今私を生長の家のすばらしい御教えの中にひき入れて下さいまして、しかも皆さんの前に立って神仏を説き人間の生きる道を説くことを教えて下さいました。
 本当にありがとうございます、と、私はお風呂の中に泣きぬれたのでございます。』

 と、発表されています。

 私も、なんだか感動して、涙が出てきました。

 ありがとうございます。

1758志恩:2012/12/09(日) 16:34:24 ID:.QY5jUA6
復興G様

大変貴重な資料をご提示下さいまして、深謝申し上げます。

『實相研鑽』[第一集](谷口雅春監輯)より
「“無我”の限界について」(S35・7・31)

  
私は、昭和35年は、まだ本部には、おりませんでしたが、
復興G様が、この資料を持っておられたということは、
この頃から『實相研鑽』に出席 出来るほどの幹部でいらしたわけで…。

それにしても、よくこんな古い時代の資料を、保存されてらしたなぁ!!と、おどろくばかりです。

この時のご発言の男性の方々は覚えていないのですが、女性の方々のことは、よく覚えております。


谷口雅春先生の締めくくりのお言葉は、本当に、智慧と愛が溢れていらっしゃる貴重なお言葉だと存じました。

 >>  『すべてのものは善きように働いている』

 谷口雅春  ありがとうございます。皆さんからいろいろ尊い見解を承りまして、だいたい言うべきことは言い終ったように思います。中野愛子さんの非常に反省の深い言葉を承りましたが、
 「自分でこうするとき神様ならこうなさるであろう、と頭ではわかっているけれども、実際には腹が立って変なことを言うこともある」というのはね、“それでいいんです”よ。(笑)

 “それでいい”というのは、それは自分の過去の中にいろいろのレコードがありましてね、仏教的に言うと、業というものがあって、それがある機会にまきもどされて形に現われて消えてゆくんだから、
 それをもう一ぺんつかまえないようにしてですね、“それでいいんだ”と放す。

 黒田輝子さんがおっしゃったようにね、「煩悩の中に溺れているようだけれども、大悲倦くことなく我を照す」というわけで、その煩悩の流動するに従って腹立つ言葉が出てくる。
 そこに大生命の無限の愛があって、自分の業も自然と解消してゆきつつあり、それによってまた相手の業も解消してゆきつつあってですね、

 自然にこの世の中が浄化されてゆきつつあるということになるわけでありましてね。だから腹が立つとか、何とかいうような問題にひっかからないで、“そのままでいいんですよ”という所へ行くところにですね、
 神様の大生命の無限の愛の中に自然と生かされて、常にわれわれは宇宙浄化の働きの中にのっている、ということになると思うんです。

 共産党に憤慨するのも、これも自然と宇宙浄化の働きの中に乗っておりましてね、

 日本精神(顕現)のために大いに公憤するのも、これも真理国家の実現という、実相の正しい相(すがた)を実現するために動き出しているところの一つの神催しの波であります。

 だからそれも“そのままでいいんですよ”ということになるわけですね。

 雷が鳴って雷霆(らいてい)霹靂(へきれき)が空をゆり動かすように見えているけれども、それは宇宙の電気の不調和が中和するために動いているというのと同じようにですね、
“すべてのものは善きように動いておって、悪いものは一つもない”というところへいって、落着きが得られるということになると思うんです。

そうでなければ、途中にひっかかっておれば、反省して反省して反省にくたびれてしまって、自己暗示で劣等感を得て、ますます悪い方へ崩れてゆくのであってですね。
劣等感なしに、宇宙の本当の大自然の浄化作用の中にのっているんだという大安心が「大悲倦くことなく我を照す」ということになるんだと思います。

ありがとうございます。<完> <<

1759SAKURA:2012/12/09(日) 16:46:27 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>
SAKURA投稿の続きです。

頂きました【今回のテキスト該当部…】から、個人的ですが…冒頭から順次「勉強・投稿形式」
を、取らせて頂きます…。昨日からの続きですが……

❤  病気の真の感染原因
======生命の実相 2巻から抜粋========================
 病気は物質的感染によっても起こる場合もありますが、その根本原因は、物質的感染を
容易ならしめる薄弱な抵抗力と、その病気の忌まわしい症状を心に描く連想作用とが、病
気感染の有力なる精神的土台を作るのであります。 食中毒を起こして下痢をして赤痢に
なったというがごときは、赤痢菌の感染による場合もありますが、その食事の時「これは
変だ」と思わしめるのがあったか「あまり水を飲みすぎてお腹がじゃぶじゃぶする」とか、
「お腹が冷えた」とかいう感じが病気を連想せしめて、 胃腸の消化作用を弱め、腸内消
毒作用をもつ胆汁の分泌などを少なくし、ついに病菌に打ち勝った抵抗力をなくして病気
を起こすのであります。                 (谷口雅春著)
==========================================

■病気になりますと、必ず!【原因・結果の法則】があるようにも思えます。ので、病気の
原因をつきとめていきますと、必ず!心からの“精神作用”が多大でしょうかと??まれに
【外部要因…】で起こる事も、本当にありますモノ! 私の経験ですが、今!思いますと、
当にそのような事が、度々起きたのです。…が?

■此処で、当時「千葉の行徳在中の頃」の出来事です。そこの“賃貸住居…”で、やはり?
今振り返りますと【水…】に、何か?異物が混入された感じの経験があります。…が?
その時は、知らずに【水…】を使用していましたら“パ−トナ−”は胸にしこり、そして、
私も“出血”が頻繁に起きるようになり、当時の私の潜在意識には【病気はない!!】と
固く〜固く〜信じていました時に〜〜〜エッ!【パ−トナ−のガンの早期発見】でした。

その時、自分の病気の事に“心を振り向ける”よりも、ひたすら“パ−トナ−のガン”に
集中!!の私でした。…が?当時は、まず【祈り…】そして【治る…】これのみを“集中”
していましたら【検査の結果…】2週間後に“ガンが消えて”いましたが、この時、私も
気がつきますと【自分自身の出血も収まり】当に【祈り…】で、全て治ったのです。ややも
しますと“病気”は不安ですが、此処で【 一念集中して祈り…】に徹し、心を振り向ける
のですから、この時こそ【チ ャ ン ス 到 来】なんでしょうかと思います。それは当に!

今!今しか出来ない事を、神様が私に“振り向かせる事”その気づき…頂いたものと!
本当に【心 の 法 則 の 訓 練】なんです〜〜〜ョネ!!

「唯物論的…原因」??その前に、全ては【心の精神作用での病気】言い換えますと、すべて
【自分の心の影…迷い】ですから、必ず“治る事”を信じることが、そしてこの事への
【持続精神作用…】が必要かと思えます。
【病気こそ正しい道徳観念の気づきをもつ“チャンス到来”】と解釈しても良いかと思えます。

■■“言葉の力”で……プラス思考の暗示を続けましょう。そうしますと、必ず!
【無限の宝庫…】があらわれる〜〜〜〜そう!「なんでも出来る!無限力」

最後に、今の私は、この時の“心境”を思い出し【獅子奮迅にて前に進む事!!】でしょうか?
「病気本来無し…」これこそ【無の境地…】でしょうか〜〜〜?

1760志恩:2012/12/09(日) 16:52:49 ID:.QY5jUA6
私は、昔、谷口雅春先生が、
官僚の横暴さや、公人の間違った意見に対して,結構激しく ”憤慨 ”されてるご様子を、お近くで拝見したことがありますので
雅春先生は、あのように憤慨されておられて、お体に障らないものかしら、、と不思議に思っていたことがございましたが、

実際は、憤慨はせず、憤慨の語調をとられたいたという今回の ご発言をして 納得した次第です。


 >>《影はゆれるが跡をとどめず》3

 白山守夫 終戦後しばらくのころでございましたが、神誌に谷口先生が官僚の横暴を非常に攻撃されたような御文章があったのでございます。
 そのとき私は「平和そのものと思っていた先生もやはりそういう攻撃をなさるのか」と思ってお手紙で御質問したわけです。

 そうしたらこういう名文の御返事をいただきました。(手帖に書きとめた原文のままを朗読する)

 「太刀先だけを見てその太刀筋を批評すべからず。憤激はせず、憤慨の語調をとる。虚にして実なり。共産党は何故あんなに拡がるか、官僚に対する憤激の形をとる故なり。
 滔々(とうとう)たる官僚攻撃の波に和する。これ全体に和するなり、和して同ぜず。呵々(かか)」

 私は非常に打たれまして、今でもよく覚えております。
 先ほどの御質問の中の、私事による憤慨や公共的なことに対する憤慨の場合でも、先生のお手紙を拝見しまして憤慨の語調をとるが、腹の底からは怒っていない。つまり

 「風に木の葉がゆらいでゆらいだ影が映っても、影は跡をとどめず」

 そういうように我のない場合には、そういう語調をとったとしても、自分自身がそれにまきこまれない場合は、自分を痛めるということはないという意味のお言葉だと、
 この御文章を非常に尊く、一生忘れんようにと覚えとるわけでございます。<<

1761NANCY:2012/12/09(日) 17:17:53 ID:jH5uEFzM

「復興G 様」 ヘ  「トキ 様」 ヘ  「観覧者の皆 様」 へ
こんばんは……        ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678 >>1692 >>1718>>1727>>1747>>の投稿の続きです。…が??

>>1732>>1733の【SAKURA様の投稿内容】を、閲覧させて頂きながら…(下記URLにて参照)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1732
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1733
■確かに、家族が病気になった場合は、心配しないということは非常に難しいモノです。…

更に「生命の実相」に雅春先生がおっしゃいました言葉に……(抜粋文)
〜〜〜【抜粋】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『心が一切現象の源であると知ったとき、その心が思うように支配せられたならばなんぼでも
ないが、その心が思うように支配されない時には、心のものがかえって恐怖の種の原因となる
のである。…云々…』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

つまり、前回の【>>1732>>1733のSAKURA様の投稿】であります処から生じます
“恐怖の種”・“悩みの種”・“不平の種”……etcこの感情ですと何時までも『心の安住…』は、
当に!ほど遠い世界になりますものと、思います。何時も〜何時も〜この「狭い世界」での
堂々巡りとなりますのでしょうか??

■『実相の世界』は、どこでしょうか〜〜〜><
此処で「徳久先生の文章の中から…」一部抜粋させて頂きます。

〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「私は思索を重ね、静思を重ねたけれども安住の境地にはたっしなかった」と書いておられます。
それから、
「ある日、わたしは静坐合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。わたしはその時、
偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の『色即是空』という言葉を思い浮かべた。
と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような
声が聞こえてきた。

『物質はない!!!』とその声は言った」

先生がお悟りを開かれる、「神よりの啓示の最初の言葉」が、「物質はない」であったのです。
生長の家の真理は、この「物質はない」から、はじまっているのです。つづいて
…云々…『色即是空』という言葉をつづいて思い浮かべた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

これは「実相世界…」への『悟り…の言葉』かと、思います。しかしながら、現実の私は、今
現在でも、どうしても「五感での現象世界=現実世界」にどっぷり浸り気味と、反省するのです。
病気の時は、そこに引っかかりの心…又!経済問題・家庭問題・人間関係の問題…etcも同様です。
この事は「現実世界=現象世界」は、最終的には、物事に於きまして振り回される事の原因になり
ますでしょうかと?

つづく

1762志恩:2012/12/09(日) 17:22:01 ID:.QY5jUA6
復興G様

如月様からのご質問でしたけれど、
復興G様は、うつ病について

どのようにご指導をされてますでしょうか?

私の場合は、前にも言いましたが、近所のうつ病の女性2名の
人と友達になって、ただ話を聞いてさしあげるということで、
年数はかかりましたが、その方達は,今は、うつ病は、すっかり消えています。

しかしですね。うつ病の治った女性の1人のおかたに、社会人になったひとり息子さんが居るのですが、
その息子さんが、昨年あたりから、お母さんと同じ様なうつ病にかかりまして、
半年ほど会社へ行かれない状況になりました。

でも、地方公務員なので、クビには、なっていないそうです。
そのような病気の場合は、休んでいても地方公務員の場合は、お給料もちゃんと支給されるそうです。

私は,息子さんの方まで手がまわりません。お母さんには、以前に
生長の家の真理の本を差し上げましたが、その息子さんは,宗教には、全然関心がないようです。

今は、息子さんは、心療内科へ通院してるそうですが、処方してもらった薬が合うとかで、最近ようやく
会社へ行ける様になってきたと、お母さんは、よろこんでいます。

うつになる人は、まじめでやさしいタイプの人が多いと聞きます。
実際に、うちの近所のうつになった奥さんは、2人とも生真面目なタイプです。

宇治の練成会の体験談集をみますと、練成会に参加すると、うつが治ったという人が
多くおられますけれど、生長の家の縁の無い方を、お導きするのは、限界があり、むずかしいなと、
私の場合は思っています。

1763復興G:2012/12/09(日) 17:54:19 ID:vWpLkCzM

>>1756 :「訊け」管理人様
>>1758>>1760 志恩様

ご投稿ありがとうございます。

私はこの実相研鑽会に登場されているすべての方をなつかしく存じ上げていますが、S35.7.31の研鑽会の場に私自身参加していたかどうか、参加していたような気もしますが、記憶は定かではありません。その頃私は光明実践委員になりたてぐらいだったかと思います。『實相研鑽』は単行本として日本教文社から出版されていますから、誰でも買って読むことが出来ます(今品切れでなければの話ですが)。

ともかく、この本は当時の谷口雅春先生と弟子(地方講師・光明実践委員)との丁々発止のやりとりなどが載っていて、貴重な本だと思います。

ありがとうございます。

1764SAKURA:2012/12/09(日) 18:03:00 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>> 1759>>
【SAKURA投稿】の続きです。

頂きました【今回のテキスト該当部…】から、個人的ですが…冒頭から順次「勉強・投稿形式」
を取らせて頂きます。>>1759続き投稿です。

❤  人類意識と個人の潜在意識との問題
======生命の実相 2巻から抜粋========================
 病気の知識のない子どもには、病気に対する恐怖心などというものはないのであろうに、
病気にかかることがあるのは、病気が決して心の作用によるのではなく、じっさいに物質
的原因で起こる証拠ではないか――という人があるかもしれませんけれども、それは赤ん
坊の「意識」といえども「人類全体の潜在意識の大海原」の中に動いている「一波」なので
あります。したがって無邪気な赤ん坊の意識は「人類全体の病気を信ずる心」の波動に常に
乗せられて動いているのでありますから、親が病気を思わないでも、本人が思わないで赤ん
坊は病気にかかるのであります。そしてまた「こうしたら病気が治る」ということをすれば
病気がなおるのであります。               (谷口雅春著)
==========================================

■前回!記しました様に、本当にそうなのです〜〜〜ョネ!と、改めて思います、
【念の波動…】を、知らずに受け入れる!これは「無意識な状態」での事でしょうか???
「雅春先生」のおっしゃる言葉から❤〜【 「人類全体の潜在意識の大海原」 】これが
【念の波動】なんです〜〜〜ョネ!!そうしますと【 密教 】も、それに当たります。

…が?

【 密教 】とは???実際に“行”じています「黒幕デザイナ−」・「吸血鬼」・「ゾンビ」が、
更に「元々元W会長」達…もでしょうか【密教の対象…】にしています「人?」もしくは
「赤ん坊のような素直な心の人?」へ…… 知らず知らずの内に…【潜在意識…】に入れ込む
【念の波動…】が、あるのです〜〜〜ョネ!!
これを知らずに受けた方は??その人の心の中に【悪感情…ネガティブ感情】がありますと
この念波と同調し“アクシデント”が起きる事となりますでしょうか?? 逆に申しますと
この【悪念波…密教】を受けた方が、これを知って“捕まえない心境”そうなのです〜〜ョネ!

■【放つ心…捕まえない心】が、一番の対処法でしょうか?
「生長の家…現象なし!物質は無い!心も無い!……」従いまして…「無い…の世界」かと。
そして、心が【正しい心境・境地】に入っていきますと、この様な
「人類全体の潜在意識の悪波動」を、つまり受けつけない事になるはずなのです。

そうしますとこのような【環境は心の影という事!!】になります〜〜〜ョネ!!今の私は、
彼等の仕業に、更に!彼らの“心の貧しさ?=低級霊”に、引っかからない様にと…
【無我の心境】として…
【人間としての大きな使命観】をもちまして、前に進む事と・・・でしょうか??
                        
 再合掌

1765復興G:2012/12/09(日) 18:07:18 ID:vWpLkCzM

>>1762 :志恩様

うつ病の方のお導きについて。

私は、重いうつ病の方のご指導をしたことはありません。

「私は神の子、完全円満。これから毎日あらゆる点でいっそうよくなる。必ず善くなる」

私の中に太陽が照り輝く。私は太陽である。

うれしいなあ。たのしいなあ。ありがたいなあ。わあ、笑いましょう」

というような行を毎朝つづける、ということで、重症でなければ健康増進ができていましたから、

重い場合については、わかりません。

1766志恩:2012/12/09(日) 18:08:17 ID:.QY5jUA6
今回は,病気がテーマですが、


「日本のメタボ検診 海外から笑われる」とい記事を読み,私は、考えさせられました。
2012.12.06


 《調査を行なったラッセ・クログスボール医師は、調査結果についてこう述べている。

「検査項目で設定されている「基準値」である。この値は非常にあいまいなものだと多くの医師が声を揃える。

 東海大学医学部名誉教授の大櫛陽一氏がいう。
「ほとんどの健診や人間ドックにおいて、日本の基準値は年齢はおろか性別でさえも分けていない項目が大半です。

20歳の活力に満ちた男性と80歳のおばあさんが同じ基準で判断されるのはどうでしょうか。

 また、科学的な根拠のない基準値を設定している検査項目が多い。それは、各分野の臨床学会が患者数を水増しするために厳しい基準を作っているからです。

そのため、健診受診者のほとんどが異常とされる項目もある。
*********************************************************

特に、メタボ関連の基準値であるウエストや血圧、脂質などは欧米に比べて極端に狭い基準値を使っているので問題です」


 こんなデータがある。日本人間ドック学会が今年8月、昨年に人間ドックを受診した全国の約313万人について、

「異常なし」とされた人の割合が過去最低の7.8%だったと発表した。メタボ関連の項目一つで「正常者が50%」になり、複数の項目を調べることで、

 健康な人の9割以上が何らかの異常と指摘される状況になっている。
******************************************************************
これには同学会さえも「生活習慣病に関する項目の判定基準が厳しくなっている」と頭を抱えたほどだ。》



 また、  中村仁一医師著「大往生したけりゃ 医療とかかわるな」(自然死のすすめ)幻冬舍新書の ご一読もお勧めします。

1767志恩:2012/12/09(日) 18:10:58 ID:.QY5jUA6
復興G様

早速のお返事を、ありがとうございました。合掌

1768NANCY:2012/12/09(日) 18:17:46 ID:jH5uEFzM
「復興G 様」 ヘ  「トキ 様」 ヘ  「観覧者の皆 様」 ヘ
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678 >>1692 >>1718>>1727>>1747>>1761>>の投稿の続きです。…が??

>>1732>>1733の【SAKURA様の投稿内容】を、閲覧させて頂きながら…(下記URLにて参照)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1732
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1733
■確かに、家族が病気になった場合は、心配しないということは非常に難しいモノです。…

更に「徳久先生の書籍文章の中から…」続き投稿にて、一部抜粋させて頂きます。

〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
無いよりいっさいを生ず。一切現象は心の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無より
いっさいを生ず。有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。有に執せ
ざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、『無』より百千億万
を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象
無し。なんじの肉体も無し』

では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間『心もない!』とその声は言うのだった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この文章の所から『????ない』この事への理解が…この頃ようやく理解しつつでしょうか?

■■「実相」は、「物質は無い」「心も無い」と、「生長の家…御教え」は、説かれています。
この【 無 】ということに、やはり一時は私も“こだわりの心”となりましたでしょうか…!
例えば、病気に例えますと『心』と『肉体』の関係を多々なる観点からみますと…
「雅春先生の言葉」の中にも■【 想像妊娠 】ということに関しての文章があります。
当に【病 気 と い う の は 、 心 が 強 い 影 響 が あ る …】つまり
【心の影である肉体…】となりますかと、思う次第です。こうして参りますと…『ない…無!』を
更に考えますうちに……???

では?心の持ち方で“病気が治る”と捉えますといいのでしょうか??此処で、よく
“病気が治った体験談”を耳にしますが『病気が治る=心が変わる』そこの根本を、良〜〜〜く
認識すべきで、振り返りますと、当然のことながら【心が変われば…病気も治る…体も健康に】
でしょうか?

この事は【SAKURA様の投稿>>1759】 にも該当しますのではと思いました。 (下記URL)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1759

そして『 我 … 無 我 の 境 地 』ではと、解釈するようになったのです。

              つづく

1769観覧車:2012/12/09(日) 18:24:18 ID:onAYWLyc
唱和35年の「実相研鑽」、当時の真剣な信徒の求道問答は色褪せず今も感動します。

触発されて本流掲示板にあった童子さんの阿倍野道場の記事を読んで、息子さんの芳邨一弘弁護士の古いネット講演を思い出しました。

①童子さんの記事:http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&amp;mode=res&amp;log=826


日時:2012年12月06日 (木) 02時50分
名前:童子

          ◆芳邨十四喜(よしむらとしき)氏は語る


 『私が四ツ橋道場へ行ったのは十四年頃でした。生長の家が別にいいと思って行ったのとちがうんです。 〃あれは邪教だ〃と思っていました。ところが生長の家に知識層が吸収されて行く。それが私には解せません。それで一つのぞいてやろう思うて、四ツ橋道場へ行きましたわ。


 道場は三階でしてね。昇って行くと丁度寺田先生が指導していなさる最中でした。田舎の村長さんみたいなけったいな人が羽織、袴はいてやってたんですね。その時の指導が面白かったんです。

 三角関係で悩んでいる中年の婦人でした。その御主人が二号さんとアメリカに渡ってしまって食えなくなって、その御主人と海をへだてて争っているのがらちあかん。 それで 〃もう私は玄海灘へはまって死ぬつもりで切符買うているんだ〃と頑張っているんですわ。


 そしたらあの寺田先生は、純情な人ですから頭から汗ぽつぽつと流いて湯気立てながら指導なさる。湯気たててね。

 そのときの寺田先生の指導は、「そのアメリカに行っている主人を拝め」というんです。 そしたらその奥さんは 

 「私がこの手でおがんだら先祖に申訳ない。拝まんならんのは主人や」

 というて寺田先生に喰ってかかるんですよ。 寺田先生は元気にね、「それでも拝むんや!」って、・・・・ 私はそれを聞いていて 〃はあ面白いな、こんな世界もあるのかいな〃 と思って、はじめて‘拝む’ということを私は其処で聞いた。 その奥さんは、

 「私は明日、玄界灘はまって死んで、主人の首にとりついて仇討ちをする」

 その時、明日死ぬというから、私は 〃この人どないなるやろう。女の人ってこわいなあ〃 と思うて聞いておった。 そしたらその奥さんは寺田先生の言うことを聞かないから、先生はとうとう 〃帰れ! 帰れ!〃 とおこりはった。それで奥さん帰ると思ったら帰らんでちゃんと坐っているんですよ。 〃あのおっさん怒らんといいのに、何でまたあんなにきつう怒りはるんやろうな〃 と思っておった。

 翌日ですよ。私は〃もうあの奥さん玄海灘へはまって死んだかいなあ〃と調べに行くこっちゃ・・・・・ それで次の日に又四ツ橋道場へ行って三階へトントンと上がって見たら、昨日の奥さんが来ていなはる。 〃やれ死なないでよかった〃 やはり私の心根は可愛らしいのね(笑声)


 それから五日位したですが、その奥さんが、「こんな遠い日本から手を合わせて拝んでもアメリカに届きますか」と質問したんですよ。寺田先生は「届きます」と言う。私は 〃ああ、あの奥さんの心、随分おさまったんだな〃 と思いました。

 私は根が坊主ですから、郷里の北陸へ帰ってこの教え弘めたらいいなと思いました。この頃になると、別に生長の家は悪いことも教えてないし、邪教だと思ったけども邪教じゃないわという気持になって、これまで土・日曜は漫才に行っておったのをやめて、四ツ橋道場に通ったですよ。


②芳邨弁護士の講話:http://www.sakaerukai.com/houraku/0717yosimura.html

芳邨一弘弁護士の本が出たとき「弁護活動をとおして見た人生の光と影―「維摩経」の心を求めて 」を弟さんからネット愛行して頂きました。

1770志恩:2012/12/09(日) 19:20:50 ID:.QY5jUA6
観覧車様

ご深切に、芳邨一弘弁護士の古いネット講演を貼付して下さいまして、ありがとうございます。
とても見たかったのですが、私のPCは、Windows対応でないので、残念ながら見れないのでした.

私は、AppleコンピュターMac(マック)でして、
これ不便。
今度買い替えるときは、Windows対応のを買おうと思います。


芳邨十四喜(よしむらとしき)氏の息子さんだということですから、お父さん同様に
話術が面白いお方なのでしょうね。。

1771復興G:2012/12/09(日) 19:41:07 ID:vWpLkCzM

 ありがとうございます。
 ここでテキスト第2章の最後の所をアップさせて頂きましょう。

≪テキスト 『生命の實相』 頭注版 第2巻「實相篇 下」より (5)≫

    刺激療法の効果は心の自由を回復するにある

 世間には鍼灸(しんきゅう)療法というものがあって、皮膚の一部を焼いたり刺したりすると病気が治るのであります。それにはその療法が効(き)くという予備的信念を強めるためにいかめしい学説的背景をもった経穴(けいけつ)すなわち灸所(つぼ)というものがあります。近ごろは皮膚の感覚過敏点というものが研究されて来まして、どの内臓の神経はどの皮膚の部分につながっていて、ある内臓が悪いと皮膚のある一定部分の神経が過敏になっている。で、逆にこの部分の皮膚を焼いたり、電気をかけたり、小さな傷をつけたりすると、その刺激で、内臓の作用が興奮されたり鎮静したりするということが研究され、また焼けた肉体の一部は吸収されて自己蛋白体療法となり、自己の抗病力を強めるということも発表されました。

 そういう学説でいかめしく武装されて来ただけこれらの物理療法はいっそう効果を収めるようになったのであります。しかし、いろいろ物理的理由や生理的理由があるにしましてもこれらの療法に効果があるゆえんは、何よりもまず、これらの療法の温熱または疼痛の刺激が病的観念に引っかかっていたわれわれの心を病気の出ている場所から解放するからであります。

---[Page 92]---
 かつて私は西村美亀太郎(みきたろう)博士の眼球温罨法(おんあんぽう)療法で、ほとんどあらゆる病気が治ると主張されている話を紹介しましたが、これはあらゆる病気が博士の主張するように眼から来るからではなく最も感覚の鋭敏な眼の方へ向けて心の注意を転ずるために、その病気と病気の出ている場所とに心がひっかからなくなるからなのであります。

 だから万病を癒す刺激療法は、何も眼球を温罨法で刺激する方法だけには限らない、平田式熱鍼快(ねつしんかい)療術でもほとんどあらゆる病気が治ると主張されているのであります。平田式の治療法をみましても患部の中心区域には決してその熱鍼を当てて刺激しないのでありまして、患部以外の点を刺激する、足のうらとか、首筋とか、後頭部とか、たいていは患部とはできるだけ遠ざかった場所を円錐形の熱い鍼(はり)の尖(さき)で刺激するのであります。

 施法者はむろん「これで病気は治る」と信じつつ施法する、受法者も「これで病気は治る」と信じて治療を受ける。その時の術者の心の態度がいかに患者に波及して影響するかは、「祈りの心、奉仕の心でするほど効果が多い」と創始者平田内蔵吉(くらきち)氏が言明していられるのでもわかるのであって、決して物理的理由ばかりで病気が治るのではありません。

 ともかく、一方には、施法者の強い「治る」という信念の波及で病的観念の根を抜きつつ、他方では病気でない場所を熱い鍼で刺激されるために、今まで患者の病気の局所の辺に低迷し滞っていた心が自由になって、そこから「心」が他へ散ることができるようになる、今まで「心」がそこに凝りかたま
---[Page 93]---
り滞って、病気の極子を養い育てていたのだったが「心」が自由になって、病気の局所に滞っていることを止めるために、もう病気の種子を養い育てる肥料がなくなり、病気はひとりでに自滅せぎるをえなくなるのであります。

 つまり、それが、どんな方法によりましょうとも「心」の自由を回復しさえすれば、病気というものは本来気の滞りが形にあらわれたものでありますから、気の滞りの消滅とともに病気そのものも消滅するのであります。
<つづく>

1772復興G:2012/12/09(日) 19:41:47 ID:vWpLkCzM

≪テキスト 『生命の實相』 頭注版 第2巻「實相篇 下」より (6)≫

    大乗仏教の根本的思想は心の自由を説いている

 では、「気の滞り」はどうしたら消滅さすことができるかという問題に再び帰って来るのであります。

 われわれが何か事物に「心」がとらえられてそこに「心」がひっかかるというのは、感覚に見える「現象世界」の事物を実在だと思っているからそれに執着し、執着するからそこに心がとらえられるのであります。

 毎度申すとおり、感覚で見る世界の事物は実在ではなく影である。影だと知ったならば執着する必要がなくなる。執着しなかったら心がどこにもひっかからない。ひっかからなくなったら「心」は本来の自由を得る。このことは大乗仏教の中心思想として説かれているのでありまして『大般若経第十般若理趣分』には巧みにこれを要約してありますから、その一部を次に読んでみます。

---[Page 94]---
 「一切の法は自性(じしょう)空(くう)なるを以ての故に、自性遠離(おんり)なり。遠離に由るが故に自性寂静(じゃくじょう)なり。寂静に由るが故に自性清浄(しょうじょう)なり。仏かくの如き般若(はんにゃ)の理趣、清浄の法を説き已(おわ)りて金剛手菩薩に告げて言わく、若し、此の甚深微妙(じんじんみみょう)の般若の理趣、清浄の法門を聞くことを得て、深く信受する者あらば、……一切の障礙(しょうげ)皆染(せん)すること能わず、謂(いわ)ゆる煩悩障、業障(ごっしょう)、報障多く積築すと雖も皆染すること能わず。……一切の法に於て皆自在を得て恒(つね)に一切勝妙の喜楽を受けん。」

 つまり、『大般若経』も「生長の家」の説くところも古今の真理は同じでありまして、感覚に映ずるいっさいの現象は空無である、現象が空無であるからその奥に清浄なるものがある、その奥に円満なるものがある、その奥に自在なるものがある。この清浄、円満、自在なるものこそ実在であるからこの真理を信解(しんげ)せよ、受持(じゅじ)せよ、読誦(とくじゅ)せよ、修習(しゅうじゅう)せよ、なんじは自由自在の境地になれるであろう。どんな煩悩障のなかにいても、業障のなかにいても、報障のなかにいても、それに捉えられることはなくなるであろう。つまり、この真理を信じ、理解し、読み、実修したならば今までにどんな悪い悪業があり、どんな悪い因縁があり、どんな悪い障りを作っていようとも、それに煩(わずら)いせられずに自由自在の境地にいることができるというのであります。

---[Page 95]---

   『生長の家』は現代人のために説かれた現代の生きたお経

 むろん『大般若経』を読んでよく解る人はそれをお読みになって実習せられるがよいのであります。真に読み信じ理解し実習せられれば病気が治るばかりでなく、事業などの上にも自由自在の境地に入れるのであります。

 釈迦はこの同じ経の中に「この金剛の法門を聞くことを得て信解受持し、読誦修習するもの有らば一切の事業皆能く成弁し、常に一切の勝事と和して、修行せんと欲する所の一切の勝知、諸々の勝福業、皆速かに円満す」と説いていられるのであります。

 お経は何も職業僧侶ばかりが読むべきものではありません。病人が読んで病気が治り、事業家が読んで自他を成就する最も完全な知恵が湧いて来るところに値打があるのであります。

 キリストは「死せる者に死せる者を葬らせよ」と断然いっていられます。死骸というからっぽにお経を読み聞かすのには生きた僧侶はいらない。生きた人に、生きたお経を読み聞かすのであってこそ、始めて生きた知恵が湧いて来る。病人が聞いたら病気が自然に治る知恵が湧いて来る。事業家が聞いたら事業を建て直す本当の知恵が湧いて来る。それであってこそお経というものが尊い。

 しかし、今の世の中に、「大般若経』を読んでその意味が本当にわかる人は、職業僧侶かその道の専門研究家のほかにはほとんどない。解る人にとっては生きたお経であるが、解らぬ人にとっては
---[Page 96]---
「生きたお経」ということができない。
<つづく>

1773復興G:2012/12/09(日) 19:42:28 ID:vWpLkCzM

≪テキスト 『生命の實相』 頭注版 第2巻「實相篇 下」より (7)≫

 釈迦の住んでいた時代と、われわれの住んでいる時代とは人間の生活状態も異うし人間の知恵も異う。それで説明の仕方や、実例の引き方や、譬喩(たとえ)のたて方も、使う言葉も、変えて来てこそ、現代人に解りやすいお経となって来る。生長の家の本を私が書いている目的は実にそこにあるので、その目的がどの程度まで達せられつつあるかは読者諸氏の知っていられるとおりであります。

 在来、家族中で一等虚弱な繊弱な体格の息子であった人が、生長の家の本を読むようになられてから誰よりも健康な、健康の標本のようになられて、自分よりも数倍体格のよい人たちの数倍も仕事をしても疲れないようになられた方もあります。

 不景気でほとんど皆が皆まで就職を求めて就職難で困っているような時代に、今まで貰っていたサラリーをきれいにさらりと捨てて、独立新開業をする知恵と勇気とが湧き出て来て現在相当にやっていっている人も出ました。

 在来薬迷信にかかっていて一日も薬なしにはいられなかった難治の慢性病患者で『生長の家』数冊を読んで服薬を申止する勇気が出て、たちまちその十数年来の難病から癒された人もあります。

 「果実を見てその樹の良否を知れ」という諺がありますが、今までのところにおいて、「生長の家」の本を信解(しんげ)し読誦(とくじゅ)し実修している方はこれだけの効果を得ていられるのであります。

 「生長の家」の本をわたしが書くのならばあまりに喋々(ちょうちょう)その効果を語ることは気がひけるわけでありますが、これはわたしが書くのではない。わ
---[Page 97]---
たしにインスピレーションを与えて書かしめ導く霊界の神があることを霊眼でチャンと見ている読者も数氏あるのであります。

 わたしは先生ではなく、先生とは天を指さして霊界の神であるというほかはない。よく生長の家の本部の建物はどこだときく人がありますが、わたしが今坐っているここは生長の家本部ではなく「生長の家本部」は霊界にあるのです。

 そしてわたしはただこの霊界の本部の神の啓示を出版する役目を受け持たされているだけですから、雑誌『生長の家』第二集第一号にもわたしのことを「生長の家」の出版部係と書いてあります。住吉在住当時のわたしの宅へお出でになった方はこぞんじでありましょうが、わたしの宅には「生長の家出版部」とのみ標札が出ていた。
 これは霊界にある「生長の家本部」と地上にある出版部とを区別せんがためであった。

 ともかく、わたしは皆さんとともに『生長の家』の一読者として、それを読み、習い、修養して皆さんとともに一歩一歩向上せんと努力している一求道者にすぎないのであります。わたしだって道をはずせば立ちどころにそれが具象化するのであります。

 かくのごとく『生長の家』は単なる人間なるわたしが書くのでないからこそ尊い現代の経典たるを得るゆえんで、読んで病気が治るほどの真理が書けているのであります。聖書やお経も肉体のキリストや釈迦の言葉ではなく神の啓示が、キリストや釈迦の口からほとばしり出たからこそ尊いのであります。「わたしがするのはわたしの業ではない、天の父のなしたまう業だ」と、キリストもこのことを知っていた。

---[Page 98]---
 わたしも今同様のことを感じています。先日も「生長の家」の昭和六年三月例会における誌友の一人の話に、その方がある日、姉の所へ『生長の家』を送ってあげられた。すると、それが姉の留守中に着いたので、その姉の良人がひらいて見て読まれた。その良人といわれる方は本来善い方だが、当時身持ちが乱れていた。その方が『生長の家』をお読みになると、ピッタリとそれ以来不品行をお止めになって、その家庭に和気あいあいたる空気が蘇生(よみがえ)って来たのであります。
 わたしは当時夫婦生活については一度も本文に書いたことがないのにこんな事が起こった。そこに神の書かせ給える神誌『生長の家』の権威が明瞭に出ているのであります。
<完>

1774NANCY:2012/12/09(日) 19:53:36 ID:jH5uEFzM
こんばんは……    ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678 >>1692 >>1718>>1727>>1747>>1761>>1768>>の投稿の続きです。…が??

>>1732>>1733の【SAKURA様の投稿内容】を、閲覧させて頂きながら…(下記URLにて参照)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1732
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1733
■確かに、家族が病気になった場合は、心配しないということは非常に難しいモノです。…

しかも私も良く耳にしますが「生長の家…病気を治す処?」とかいわれますが???この言葉を、
「亡き清超超先生」もそして「徳久先生」もおっしゃつていましたかと……!
この事は、最終的には【 心の持ち方で“病気が治る”と捉えますといいのでしょう】此処では、
“病気が治った体験談”を、その過程経過を冷静に見ますと『病気が治る=心が変わる』そこの
根本を、良〜〜〜く認識すべきで、振り返りますと、当然のことながらですが〜〜〜♫〜〜〜

「生命の実相」の中からの抜粋……
〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「元来「生長の家」は人類の思想中よりその転倒妄想を去らしめ人類生活の全面を光明化せん
我為に出現したので病気治療のみを目的に出現したのではありません。」(一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そうなのです〜〜〜ョネ!
■【心が変われば…病気も治る…体も健康に】でしょうか?
最終的には【 心 の 持 ち 方! 心 の 法 則】でしょうか??
これは、全ての問題解決の『鍵…心の持ち方』と考えますと、今現在の社会問題も改善出来る…
その様に思えるのです。「ストレスからのうつ病…」とか?「自殺」とか?…でしょうか?

此処で「復興G様」の抜粋文から

〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■>ですから、「自分はないのである」と自覚したら、おのずから≪われわれの本然の生命の相
(すがた)は無我でありまして、形によってここからここまでが自分だというような、そんな限ら
れた窮屈なものではありません。……大生命――大無我に帰一し、無我本然の状態に立ち還りま
すと、忽然(こつねん)として本来の無限自在さがわれわれの生命に立ち帰って来て病気がなおる
のであります。<
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

今から…此処の“解釈論…”を、【NANCY】 なりに考えて参りたく思います。…が?
■【 自 分 は な い の で あ る!】という“言葉…”に関しまして、更に
>>1737の投稿を、参考にしながら……
                                つづく

1775復興G:2012/12/09(日) 20:05:54 ID:vWpLkCzM

 テキストを拝読してまいりますと、結局、私たち人間は「神の子」であって、本来外なる何ものにも支配されない「心の自由」を持っている。

 その心とは、神の心である。自他の区別をしない、「本来一体」の心である。

 その本来の「心の自由」を得ることが、病気を克服し、運命を支配し、幸福を得る根本である。それが根本真理なのですね。

 ≪われわれが何か事物に「心」がとらえられてそこに「心」がひっかかるというのは、感覚に見える「現象世界」の事物を実在だと思っているからそれに執着し、執着するからそこに心がとらえられるのであります。

 毎度申すとおり、感覚で見る世界の事物は実在ではなく影である。影だと知ったならば執着する必要がなくなる。執着しなかったら心がどこにもひっかからない。ひっかからなくなったら「心」は本来の自由を得る。……≫

 この根本真理を把握して、自由自在な健康幸福生活を送り、この真理を広めて、地上天国を樹立するよう、使命を果たしてまいりましょう。

≪わたしは皆さんとともに『生長の家』の一読者として、それを読み、習い、修養して皆さんとともに一歩一歩向上せんと努力している一求道者にすぎないのであります。わたしだって道をはずせば立ちどころにそれが具象化するのであります。
 かくのごとく『生長の家』は単なる人間なるわたしが書くのでないからこそ尊い現代の経典たるを得るゆえんで、読んで病気が治るほどの真理が書けているのであります。≫

――とのお言葉をかみしめて――。
合掌

1776復興G:2012/12/09(日) 20:11:16 ID:vWpLkCzM

>>1774 :NANCY様

ご投稿、ありがとうございます。
どうぞお続けください。

1777トキ:2012/12/09(日) 20:22:14 ID:XNoBEp5E
 これは私のやり方ですが、生長の家に入る前や、入ってからもしばらくは、暗黒的な思考をしていたので、
鬱病みたいな状態になった事がありました。そこで、つとめて笑うようにしました。声をあげると、さすがに
「危ない人」だと思われるので、心の中で笑っているようにしました。すると、鬱病的な感情は出なくなり
ました。

1778SAKURA:2012/12/09(日) 20:58:18 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
SAKURA投稿の続きです。

頂きました【今回のテキスト該当部…】から、個人的ですが…冒頭から勉強・投稿形式を
取らせて頂きます。(オンリ−・ワン?でしょうか?)

❤  通俗医学書の功罪
======生命の実相 2巻から抜粋========================
 したがってわれわれは人類の病理学的知識がどんなものであるか、治療学的知識がど
んなものであるかを知っておくことはある意味からいって必要なのであります。人類の通
念は、それを現在意識が知ると知らざるとにかかわらず(潜在意識はそれを知っているが
ゆえに)それに触れると害せられ、それに従うとつごうがよくゆくのは、法律はそれを知
ると知らざるとにかかわらず、触れた者は罰せられるようなものであります。だから人類
全体または一地方、一時代の多数人が「これは害がある」とか「こうすると病気にかかる」
というようなことはしないほうが「君子危うきに近寄らず」ということになるのでありま
す。しかしここがむずかしいところでありまして、「これはいかぬ」「これは善い」といろ
いろのことを知りますと、いわゆる「知恵の樹の果」をたべた結果となりまして、生活の一
挙手一投足が戦々競々として、ただこれ、栄養学に、衛生学に、予防医学にかなわざらん
ことを希うことになりますから、常に病気恐怖に心がとらえられ、ちょっとしたことにも
病気を連想し、心に描くものが形にあらわれるという原則にしたがってかえって病気にか
かりやすくなるのであります。            (谷口雅春著)
=========================================

■【知識…】は、知らないより知った方が、いいです〜〜〜ョネ!良く言われます処の
【知らずにします事より、知ってした方が大きなやけどもしません】ですから…そう!!
“知識”を習得しますと、潜在意識に無意識なる“行動”が…“ラクな方”を求めやすい
のカモ…そうしますと【楽々に治る!全てが順調にいく!…】この様になりますでしょうか?

たとえば【金…】をもっていれば、なんでも出来ると、考えやすく、そこから本人の
【自己中心的なる行動…】が生じますでしょうか!【楽〜楽〜〜〜〜♫〜〜】たとえ
不利な状態でもそこに“金”という“ステ−タス”を置いていますと、そこに、その人は
猛進なのです〜〜〜ョネ!!相手の“不幸”とか顧みずと…とりあえずは“表面上”を
つくろう形での“行動”ですかと?

このような人種が「黒幕デザイナ−」と「吸血鬼」「ゾンビ」達…でしょうか???そして
「吸血鬼」「ゾンビ達」は、必ずその言葉の中に似た“表現言葉”で、それは、必ずや
【暴力団…ヤクザ…金…】此の言葉が〜〜〜出てきますネ! これは、ある人に取りネガティブ
感情を与えますモノと…そして、この人に取りましては、相手の感情を“ネガティブな状況へと
催眠状態…に導く手段“でしょうか〜〜〜??

これは先生のおっしゃいますように「君子危うきに近寄らず」に当てはまります。…が?
ですから【正しい知識】は、大事なのです〜〜〜ョネ!!【真理…】を、正しく表現できる
ように今の私は、前に!又一つ…前に!進む過程なのですが???そして、【正しい心の法則】
を知りますと、こような人達と関わる接点も?必要性も?自然と消滅するのです。

皆様は、本当に“悪しき言葉…”は、それだけの【価値観…】だと思います。…が?
■■悪い「知恵の樹の果」食べないことは【日々…の祈り】になるはずです。…が?

                            再合掌

1779志恩:2012/12/09(日) 21:00:23 ID:.QY5jUA6
トキ様

「心の中で笑うんですね」。それはいい方法。 それなら私、得意です。だから、私、病気になりにくいのかも(笑)

笑うと、幸福な時に出るセロトニンの分泌が増え、NK細胞が活性化され、ストレスホルモンであるコーチゾールが減る。

鬱病は、脳のセロトニンの分泌が,過度に無くなるのが原因だと言われていますから、薬も飲まず、自分でセロトニンを作り出せるなんて、
副作用もなく経済的でもあり、いい方法ですよね。

 例え、つくり笑いでも脳が、カンチガイをして脳の血流が増えて脳が活性化し、NK細胞を活性化する刺激となる。
だから、苦しい時でも 悲しい時でも 腹立つ時でも、無理に 笑うことは、心と体のために良い。

ただし、つくり笑いの時は、目と口もとの両方で笑うことが刺激を送るために必要なのだそうです。

良い情報を脳に伝えるために、目の間の(眉間)のしわをとることと、左右対称な笑顔にする事が大切なのだそうです。

 目が上手に笑うと大脳皮質にまで刺激が伝わるのですが、口のみの笑いだと大脳辺縁系のみの伝わりとなるので、
効果が違ってくるのだそうです。
                     o(^-^)o(笑)… o(^-^)o(笑)… o(^-^)o(笑)


 笑いの効果は、2時間だそうですね。2時間ごとに、心の中で笑っていらば、かなりの健康増進に!
鬱病な感情は出なくなるのですよね。

近所の鬱お母さんにも、教えてさしあげようと思いました。

1780志恩:2012/12/09(日) 21:33:24 ID:.QY5jUA6
私が、
叔母さんに生長の家を勧めたときは、叔母さんは、5つくらいあった病気が
奇跡的に消えたのです。

しかし、叔母さんは、70すぎたとき、直腸ガンになって、治療も虚しく
亡くなりました。

ですから、
私は,今の気持ちとしては、病気であっても無くても、、、無いほうが、いいに決まっていますが、
どちらでも、いいような気がしています。

1781志恩:2012/12/09(日) 22:07:02 ID:.QY5jUA6
トキ様

すごいですね。生長の家は…、もう、こてこての「雅宣教」になってますよ。
あちらも、笑いの練習しています。目等さんが、先導して大笑い。
とありました。

 どこにも,創始者である雅春先生の名が,見当たりません. 
          ほんとに病んでますねえ、生長の家は、、、


光明掲示板より
>>偽経の日常化、カルチャー・スクール化が着々と進行していますNEW (4446)
日時:2012年12月09日 (日) 20時59分
名前:唖然

下記引用の本間本部講師のブログを拝見しました。
偽経の日常化、カルチャー・スクール化が着々と進行しています。


2012年11月30日 (金)
秋季大祭に於ける「全国地方講師会長懇談会」


1. 各教区に於ける経本『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』読誦の事例発表
   2. 新刊書『生長の家ってどんな教え?』の活用について
『次世代への決断』『おいしいノーミート 四季の恵み弁当』活用について

3. 新しいタイプの誌友会開催の意義と出講講師の心得について
−−質疑応答・フリートーキング−−
 6.閉会の挨拶                     ………目等 教化・講師部長
7.「新生日本の実現に邁進する祈り」・閉会の祈り     ………本間課長補佐

「開会の祈り」「自然と人間の大調和を観ずる祈り」につづき、

 
 連絡事項の後には、各教区地方講師会からの“自然と共に伸びる運動”推進についての活動報告と意見交換−
 まず、今年度発刊された新経本『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』使用の事例について各教区の講師会長から発表…

教化部での早朝行事や練成会の中で経本『大自然讃歌』及び『観世音菩薩讃歌』を拝読する時間を設けているとの報告がありました。
埼玉教区の講師会長からは、練成会の行事の中では、自ら率先して「経本」の先導を担当しているとの報告もありました。

 また、地方講師・光明実践委員研修会において、開会・閉会時に「自然と人間の大調和を観ずる祈り」・
「新生日本の実現に邁進する祈り」を拝読すると共に、研修会の中で『大自然讃歌』や『観世音菩薩讃歌』を拝読して、
神・自然・人間の大調和せる世界を実現する意義を全講師が噛みしめながら…

 更に、新刊書の活用については、『次世代への決断』や『おいしいノーミート 四季の恵み弁当』をはじめ、
特に、今秋季大祭において発刊された総裁先生の新刊書『生長の家ってどんな教え?』は、
地方講師・光明実践委員研修会や受験勉強会に於けるテキストとして十分活用し、

 
意見交換の後に、目等教化・講師部長による「閉会の挨拶」ということで、目等部長先導による「笑いの練習」が行われ、
                                  :********************

楽しい嬉しい大笑いの「閉会の挨拶−懇談会−」となりました。

 大笑いの「閉会の挨拶」の後に…
※懇談会の後、会場となった顕斎殿(龍宮殿控室)で「記念写真」を撮りました。
まだ目等部長先導の“大笑い”の余韻がつづいていました。<<
*************************

1782さくら:2012/12/09(日) 22:18:20 ID:e8ieIrPA
閉会の祈りの前に失礼します…、

もうパソコンを閉じてしまうので、お礼だけ置かせて頂きます。

復興G様

いつも、信仰の原点に立ち返らせて頂き、心より感謝いたします。
今回もまた、大きな気づきと指針を与えて頂きました。
ご指導ありがとうございました。


ご参加の皆様
生長の家の皆様

いつも、愛深い気づきを頂き、もう一度、わたしを「生長の家」に導いて下さり、ありがとうございます。


本当に、皆様のおかげです。


ありがとうございます。


礼拝

1783復興G:2012/12/09(日) 23:04:50 ID:vWpLkCzM

皆さま、ありがとうございます。

11時を過ぎ、閉会時刻が迫りましたので、ひとつ、聖経『続真理の吟唱』より、祈りの言葉を掲載させていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    われら“誠”を生きるための祈り
        (聖経『続真理の吟唱』より)

 “誠”とは「成る言(ことば)」と書くのである。自己に宿る神の至上命令たる“言(ことば)”を生きることを“誠を尽くす”というのである。その“言”とは、『ヨハネ伝』福音書には「はじめに言あり、言は神とともにあり、コトバは神なりき。よろずのもの是(これ)に由(よ)りて成り、成りたるものにひとつとして是に由らで成りたるはなし。これに生命(いのち)あり」と示されていて、更につづいて「この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」と示されているのである。

 ここに「暗黒(くらき)」とあるのは肉体を指していうのである。神の生命が肉体に宿って、肉体に生命を与え給い、見る力、聴く力、知る力、味わう力、創造する力等を与え給うて、肉体を生かして居たまうのである。それなのに、肉体はその内部にある聖なる生命の光に気がつかずして、肉体それみずからの力によって生きているかの如く錯覚していて、内なる光を見ることができないのである。それゆえに“誠”が生活にあらわれないのである。聖書はこれを「暗黒(くらき)」と名づけているのである。

 しかし肉体が生きているのは、内に輝いている神の生命の光に照らされ導かれ生理作用を営んでいるのである。そしてその光はイエス・キリストだけに宿っているのではない。だから「もろもろの人を照らす真(まこと)の光ありて、世にきたれり」と聖書は録(しる)しているのである。

 「世」とは「世界」のことであるが、「肉体」も一つの世界であるのである。ところが暗黒なる此の物質の世界は、もろもろの人を照らす真(まこと)の光ありて「世」に来り、その光は「世」に在り、「世」はその光に由りて成りたるに、「世」はこれを知らなかった。それゆえに聖書はこれを歎いて「かれは己(おのれ)の国にきたりしに、己の民は之を受けざり」と書いているのである。

 けれどもこの光を素直に受けて、自分を生かしているのは物質ではない、肉体ではない、自分を生かしている光は神の生命であると悟った者は――という意味で「されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には“神の子”となる権を与え給えり」と『ヨハネ伝』は書いているのである。「名」というのは「はじめに言(ことば)あり」のコトバであって、万物及び人間生命の由って来る本質又は実相である。自分の生命の本質は“神のいのち”である。其の実相を知ったとき、人は“神の子”たる権を与えられているのである。

 「言(ことば)は肉体となりて我らの中(うち)に宿り給えり」われら即ちすべての人間に言(ことば)は宿っていて、それが仮に肉体の姿をあらわしているのである。この実相を知っても知らないでも本来人間は“神の子”であるけれども、それを知らない間は“神の子”たる権を行使することはできない、一種の放浪者であり、迷い児であるのである。彼は虚仮(こけ)不実の仮存在であって「誠あることなし」である。

 人が誠実に生きるとは“単に真剣に生きる”ということではなく、人間の本質であるところの実相すなわち“神の子”の自覚に基づいて生きることなのである。われらこの真理を悟り得たるは神の導きにほかならず、神に感謝し奉る。ありがとうございます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

1784NANCY:2012/12/09(日) 23:05:55 ID:jH5uEFzM
「復興G 様」 ヘ  「トキ 様」 ヘ  「観覧者の皆 様」 へ
こんばんは……        ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678>>1692>>1718>>1727>>1747>>1761>>1768>>1774の投稿の続きです。…が??

先程の>>1774の投稿の中からですが……
〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■>ですから、「自分はないのである」と自覚したら、おのずから≪われわれの本然の生命の相
(すがた)は無我でありまして、形によってここからここまでが自分だというような、そんな限ら
れた窮屈なものではありません。……大生命――大無我に帰一し、無我本然の状態に立ち還りま
すと、忽然(こつねん)として本来の無限自在さがわれわれの生命に立ち帰って来て病気がなおる
のであります。<
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

此処に、思いますには、
■>…云々…「自分はないのである」…云々…形によってここからここまでが自分だというような、
そんな限られた窮屈なものではありません<
ここの『自分はないのである』という処に、正直申しますと“引っかかり”でしょうか……

先ず!「生長の家」…で説かれています処の「雅春先生の言葉」の中から……

■>『「物質は無い!」「病気は無い」と、この「無い」ということをさとるのは、名人の階級に
属するものである、とハッキリ説いておられます。…』<   (抜粋文)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私もこの“無い…”の言葉には何時も?引っかかり、下記の「雅春先生の言葉」の中から……
要約と理解が〜〜〜しつつでしょうか?

                           つづく

1785NANCY:2012/12/09(日) 23:07:55 ID:jH5uEFzM

こんばんは……        ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1678>>1692>>1718>>1727>>1747>>1761>>1768>>1774>>1784>>の投稿の続きです。…が??

下記の「雅春先生の言葉」の中から……要約と理解が〜〜〜しつつなのでしょうか?

〜〜〜【抜粋文】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「『生長の家で物質は無い、現象界は蜃気楼のように心の影にすぎない』と申しますのは理論や
理屈でそう言うのではなく、実際真理において『物質は無い』から無いと言うのであります。
実相から観て現象は映像(えいぞう)であるから映像(かげ)であるというのであります。その
ほかに別に理屈はないのであります。むろん聖典『生命の実相』の中にはてん大の筆を揮って
物質の無い理論が詳しく書いてあります。しかしそれは実相の悟りに導くためにそう書いてある
だけでありまして、理論がこうだから『物質は無い』と結論するのではありません。理論は、
真実の悟りに導く方便として後から造ったものであって、理論より先に『物質は無い』という
真理がり、その真理の啓示を解りやすく納得させるために理論を説いているのであります。
だからその真理に権威があって、読んで信じる人の心に『生命の実相』を悟らせ、自由自在
の心境に達せしめ、その副作用として医術難治の固執でもズンズン治る例がたくさんあるので
あります」                    (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■つまり『無い…』この“言葉…”なのですが〜〜〜
これは『真理に於きまして「無い…」という事と、「生命の実相」を拝読します内に、後日、
私自身知ることになりました。そうです〜〜〜ョネ!
❤〜『真理…心の持ち方…心の法則』というべきなのでしょうかと?

そうしますと「肉体」はあると思いがちですが【甘露の法雨…】の中にあります処の
“五感の世界を去って…云々…”といいます様に、現実世界から【実相世界…】へと入ります。
そこは自由自在なる…世界!!当然のことながら、そうしますと「肉体も無い!」という事に
なりますでしょうか……??
当に【 “こころ”次第で、自由自在 】という事でしょうか……!今回 思いましたのは
“病気”というものは、一つの現象世界での『迷いから生じます…“心”』から生まれます
モノであり、ということは『迷い…』を無くしますと、当然“病気も消える事”になりますで
しょうかと。

では『迷い…』は、思いますに“対象の事物”に対して、自分自身の“我・我欲”にて、思う
ようにならず、ある面では『 誇示・執着…etc 』がするが故に、生じますのでしょう。
ですから【 無…無我の境地 】をどこまで、この現実界での人間として出しきるかという事
でしょうか……?
【自 我 を 死 に き る べ し ……! 無 我 の 境 地】

■■従いまして『 正 し い 心 の 法 則 』を駆使します事は、
全てが…【実現可能…思考の実現】なのでしょうかと思います。……「肉体なし」「病無し」!!!
                               
再合掌

1786復興G:2012/12/09(日) 23:29:14 ID:vWpLkCzM

NANCY様

最後までご投稿、ありがとうございます。
これからも、引き続きこの道を究めてまいりましょう。


閉会の時刻が近づきました。

この第9回web誌友会、管理人トキ様の絶大なご支援ご協力をはじめ、皆々さまのご参加、ご愛念をいただきまして、有意義に行われましたことを、心より感謝申し上げます。

>>1775で申し上げましたことを、もう一度結びの言葉として掲げさせて頂きます。

 今回のテキストを拝読しますと、結局、私たち人間は「神の子」であって、本来外なる何ものにも支配されない「心の自由」を持っている。

 その心とは、神の心である。自他の区別をしない、「本来一体」の心である。

 その本来の「心の自由」を得ることが、病気を克服し、運命を支配し、幸福を得る根本である。それが根本真理なのですね。

 ≪われわれが何か事物に「心」がとらえられてそこに「心」がひっかかるというのは、感覚に見える「現象世界」の事物を実在だと思っているからそれに執着し、執着するからそこに心がとらえられるのであります。
 毎度申すとおり、感覚で見る世界の事物は実在ではなく影である。影だと知ったならば執着する必要がなくなる。執着しなかったら心がどこにもひっかからない。ひっかからなくなったら「心」は本来の自由を得る。……≫
(テキストより)

 この根本真理を把握して、自由自在な健康幸福生活を送り、この真理を広めて、地上天国を樹立するよう、使命を果たしてまいりましょう。

≪わたしは皆さんとともに『生長の家』の一読者として、それを読み、習い、修養して皆さんとともに一歩一歩向上せんと努力している一求道者にすぎないのであります。わたしだって道をはずせば立ちどころにそれが具象化するのであります。
 かくのごとく『生長の家』は単なる人間なるわたしが書くのでないからこそ尊い現代の経典たるを得るゆえんで、読んで病気が治るほどの真理が書けているのであります。≫(テキストの最終部分)

――とのお言葉をかみしめて――。


では、最後に世界平和の祈りをさせていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

◇◇◇世界平和の祈り◇◇◇
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い
すべての人々の心に、愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

◇◇◇光明思念の歌◇◇◇
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ありがとうございました。

1787トキ:2012/12/09(日) 23:44:50 ID:XNoBEp5E
復興G 様

 ご多忙の中、長時間に渡り素晴らしいご指導を賜り、深く感謝申し上げます。
この誌友会に参加された方々はもちろん、閲覧者様にも意義の深い内容だったと思います。

 本当に、ありがとうございました。

合掌 ありがとうございます

1788トキ:2012/12/10(月) 00:00:40 ID:XNoBEp5E
 また、参加者の皆様、閲覧者様にも、心から感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1789志恩:2012/12/10(月) 07:55:26 ID:.QY5jUA6
復興G様、トキ様、

ご指導を感謝申し上げます。合掌

1790a hope:2012/12/10(月) 08:22:42 ID:ueIDSztA
復興Gさま、トキさま、ご参加下さったみなさま、

素晴らしい誌友会をありがとうございました。
今回は時間的余裕があまりなく、なかなか参加できませんでしたが大変お勉強させていただいています。
まだすべて拝見していないので、これからしっかり拝見したいです。

また、『本流対策室』板では、復興Gさまが、<<生長の家教団 戦後60年の運動 その光と影>>として、
を、執筆して下さっています。

わたしは、聖典「生命の實相」に魂を揺さぶられ、数年前に信徒になったばかりの新人で、
生長の家の歴史についてはほとんど知りませんでした。

ですから、なせ、万教帰一の教えである「生長の家」がこのように分裂してしまっているのか、不思議でしかたありませんでしたが、
『本流対策室』板の復興Gさまの書き込みや、他の先輩方のお話を伺っていると、だんだんその理由もわかってくるような気がします。


わたしの現在の感想ですが、わたしたち信徒一人ひとりが、>>1783で復興Gさまがおっしゃっている、

>>結局、私たち人間は「神の子」であって、本来外なる何ものにも支配されない「心の自由」を持っている。
>>その心とは、神の心である。自他の区別をしない、「本来一体」の心である。
>>その本来の「心の自由」を得ることが、病気を克服し、運命を支配し、幸福を得る根本である。それが根本真理なのですね。

この、「生長の家」の根本原理をしっかりと理解していさえすれば、分裂など起こり得なかったのではないかと感じました。


『わたしは「神の子」だから、なにものにも支配されないぞ!
わたしの運命はわたしが支配するのだ!
だから、もう、だれのせいにもしないぞ!』

わたしは、復興Gさまのお言葉が心に響き、そんな風に決意しました。

感謝 合掌

1791a hope:2012/12/10(月) 09:22:48 ID:ueIDSztA
>>1790訂正

>>1783で復興Gさまが→>>1786で復興Gさまが
②この、「生長の家」の根本原理→この、「生長の家」の根本真理

1792復興G:2012/12/10(月) 11:14:04 ID:vWpLkCzM

さくら様、トキ様、志恩様、a hope様、皆々さま

コメント、ありがとうございました。

さくら様が聖典引用板に謹写アップしてくださいました、「萬教歸一の藭示」に

≪われは大いなるものなるかな。すべての教を呑吐(どんと)して、これに生命を與へ、すべての相争ふ教をその眞髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を與へ、すべてに栄養を與へ、すべてを生かす地下水である。他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず、常に讃事(たたえごと)と、善き言葉とを雨ふらして、それを浄めその眞髄に燈(ひ)を点ずる。あらゆる宗教がその眞髄を禮拝して手をつなぐやうにならねば此の現實世界の改造は完成せぬ。精藭界が先で現實界はその影である、元亂れて影完からず、宗教家よ、宗派争ひをしてゐる時ではない。≫

とある神示に、あらためて感じ入ります。

「元乱れて影完からず」

――この「元」にしっかりと立ち還らねば、生長の家出現の意味はなくなります。

合掌

1793SAKURA:2012/12/10(月) 21:29:09 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ  トキ様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1778【SAKURA投稿…】の続きです。

■■>>1735「復興G様」 ヘ
こんばんは…… 
今年、最後の【WEB 誌友会…開催】に、於きまして、参加させて頂きました事、感謝申し
上げます。此処に、挨拶が、大変遅くなりました事、深くお詫び申し上げます。

そして>>1735「復興G 様の“ お返事”」…ありがとうございました。
遅くなりましたが…閲覧させて頂きまして、
「脳震盪の方」は、高いところから落ちて「脳震盪…」を起こすようになったそうで、更に
それが“きっかけ”での【てんかんの発作…】が起きるようになったとの事なのですネ…そして、
「親の愛…深い愛」で、その後!治ったとの事……素敵な【体験談…】を、ありがとうございます。
本当に【 親 の 愛 の 想 念 感 情 の 波 動】が…きっと
「神の御心」に叶いましたのでしょか?その事は、本当に人ごとではなく“良かった〜〜〜!”かと。

■さて!私の場合は、まだ異なるケ−スになりますでしょうか?
世間一般での“誤解…”が、常に感じるモノがあります。それは……
【聴 覚 障 者 と 身 体 障 害 者 の 開 き】この事は、聴覚障害団体の知人でも
常日頃から感じます問題であり、かなりの隔たりがあると思います。…が? どうしても、一般
の健常者の皆様は【身体障害…】と言いますと、必ずや【目に見える形での障害…】という観念
の捉え方が一般的傾向かと思えます。知人でも、この様な考えが、今日の日本人の大半では、な
いのでしょうか?と、良く話題にします事柄です。正直な話!まったく異なります…。
ましてや、
姿・形として【障害に見えない場合の中途聴覚障害…】には…世間一般からの冷ややかな“視線”
を、常日頃から感じ取ります。何といっても「聴覚障害」は【人間関係…コミュニケ−ション】に
於きまして、人の接触が限定されますし、この事は、もちろん【視覚障害者…】も同様です…。あ
る時は、【視覚障害団体…】の所に、個人的にボランティアに参加した事もあります…。そして、
この方達も含め“仕事”も限定されますので、やっ〜〜〜と!自力にて得た“職種”でも、
「黒幕デザイナ−」「吸血鬼」「ゾンビ」からの【 妨 害 】更に??そうです〜〜〜ネ!
「信者同志…でも?」例えば?「元々元W白鳩教区会長の妨害」は、【ある面は信仰者の道】に
反するモノと思います。

正直、今回本当に【分派…学ぶ会】の方々の参加での(常日頃)投稿内容でも、このような体験
に関し、だれ一人として“声…”をかけられない状況の現実…この事は【信仰…真理】の前に、
世間一般では、第三者的には【人格…】を見ますでしょうかと…?個人的に思った次第です…。
今回、改めて、これでは、例え【生長の家…真理】という“素晴らしい真理でありますところの
❤〜【 「生命の実相」の討論…… 】どこまでの【ネットでの閲覧者…】されました方々がの
心に、どの様に響くのでしょうか?【救 済】に関しては、弱冠“不安な気分”が生じますので
は無いでしょうか??

個人的には【WEB誌友会…】参加に当たりましては、常日頃から、思いますのは、
【迷い・悩み…ある方々】を、この素晴らしいい【生命哲学…】のお導きしたい…という根本から
【分派…云々…】の前に【生長の家…雅春先生の真理を学んだ?学んでいる?者同志…】での、
仲間意識として、あくまでも【討論…】という形の“参加”が私の“基本的考え方”なのです。

まだまだ若輩者の私ですので…【復興G様】から頂きました【テキスト該当部…】に関し、
冒頭からの選択にて、初めての方が閲覧でしたらと【私なりの引用…】を、させて頂きました。
また!テキスト該当部に関しまして“勉強続行…”させて頂きます…。やはり、私自身は、
【キ−ボ−ドで打つ…この事は、脳裏にしっかりと入り込みますでしょうかと???】それにて
スロ−・テンポ…なのです。

最後に、今年の春先より「復興G様」からの【勉強テキスト…】を頂きました事は、
私の【真理…勉強】を極めていきます過程に於きましては、多大な価値ある機会を頂きましたと、
此処で改めまして、深くい感謝の念をと。。。思います。本当に、ありがとうございます……。
今後とも、若輩者の私ですが、何卒よろしくお願い申し上げます。

                       再合掌

1794SAKURA:2012/12/10(月) 21:30:39 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778【SAKURA投稿…】の続きです。

■「トキ様」…遅くなりましたが、今回の【WEB誌友会…参加】させて頂きました事に、感謝申し
上げます。ありがとうございました…。

後で、今回の【WEB誌友会…投稿内容】を、見直しますと、確かに?もしかしますと?
一人!!【SAKURA暴走…】してるのかしら〜〜〜ンと??? (冷汗…)

今回の【討論課題…】が、“テキストの最後のペ−ジ”からでしたので、個人的な判断にて
(私の【WEB誌友会…参加】する際の基本的な考えを、「復興G様 宛へ」記載させて頂きましたが)
私は、やはり“テキスト冒頭部である最初からの方が理解しやすいのでは〜〜><”と言った感じで、
「復興G様の配慮の言葉…」に、甘えまして“ペ−ジ”を進めていきました。そうしながら〜〜と、
それでも、追いつかなくって〜〜〜><気がつきますと、【中途半端…】のような感でしょうか??

後に、また【続き投稿…】をさせて頂きます。…が?(ズウズウし〜〜〜く!)【ウサギではなく亀】

■「トキ様」の“コメント…”より、遅くなりましたが…
>>1777の投稿内容から
【心を一点にして切り替えますと“うつ病”が消えましたのです〜〜〜ョネ!今の私も、さすがに、
神経質では??と思われるくらい「吸血鬼」・「ゾンビ」…そして「黒幕…」の執拗さは、計り知れない
気持ちです。従いまして、みたくないモノを、見ていく内に、そこに「かなしばりのような生活の日々」
でしたかと??当に【暗黒世界…暗やみ〜〜〜どっぷり??】でしたかと。
ところが、これが、今回!【真面目に最初からキ−・ボ−ドで先生の言葉を打って投稿】しますうちに
……私も、本当の意味での【 こ こ ろ の 法 則 】が、見えてきたようです。
「トキ様」ように“笑う事が少ない私…”ですが〜〜〜><「トキ様」をお手本に、私も、
モット!モット!【心を開いて…心を光明化…】していこうと思います。ありがとうございます。
                                   再合掌

1795復興G:2012/12/11(火) 16:54:22 ID:vWpLkCzM

>>1793 :SAKURA様

丁寧なご投稿、ありがとうございました。

『生命の實相』第22巻「聖語篇」≪智慧の言葉≫に、次のような聖語があります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

○名騎手はかえって駄馬をも乗りこなそうと試みる。ことさらに乗りこなせない病弱な肉体を選んでその肉体に宿って来た「生命」がある。生まれつきの不具者、難病者の「生命」はそれである。

○皆のものよ、不具者と難病者の「生命」をいっそう尊べ、彼の「生命」は名騎手であるから、特にかかる不便利な肉体に乗っているのである。彼を軽蔑するな。憐れむのさえ、名騎手たる彼の「生命」に対しては失敬である。その「生命」の悲壮美に驚異せよ。讃嘆せよ。

○不具者よ、不治の難病者よ。病苦に耐えよ。よき乗馬(肉体)をもっている人を羨むな。他を呪うな。自己の「生命」が特に名騎手であるから病弱な乗馬(肉体)に乗っていることに自信をもて。弱い音(ね)を吐くな。名騎手たる自己の(生命)を恥ずかしめるな。

○一つの「生命」は地上なる肉体を選んで這入(はい)ってくるとき、その受くべき苦しみをあらかじめ知りながらその肉体に宿ってくる。受苦の多き生命ほど「高速」の進化をとげる。

○飛行機は高速であるから歩くより震動は激しい。高速に進化する「生命」よ。歩く者の震動の少なきを羨むな。速力の迅(はや)きを見て喜べ。

――『生命の實相』第22巻「聖語篇」≪智慧の言葉≫より――

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

清川妙さんという、91歳の文筆家・古典研究家がいらっしゃいます。今も、毎月3つの雑誌に連載ものを執筆し、今年も2冊の新刊書を出されています。
『つらい時、いつも古典に救われた』と、
『91歳の人生塾』の2冊です。

そのほか、毎月3ヵ所の古典教室に講師として出講されています(その一つに谷口純子先生も通っておられるそうです)。

さて、その清川妙先生の息子さんが、完全に音の世界から遮断された「聾(ろう)」でした。でも、親と子の想像を絶する努力で、結局早稲田大学を卒業し、すばらしく充実した幸せな人生を送られることになったのです。
そのお話を、ご紹介しましょう。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

清川妙先生は昭和20年8月の終戦3日目、生後3ヵ月の赤ちゃんだった息子さんとともに、復員兵などがすし詰めのすさまじい列車に乗った。一人の兵隊が網棚から荷物を下ろそうとした時、汽車が大きく揺れて急停車。網棚から、鉄砲を3、4本布で巻いた固い包みが、眠っていた赤子の頭上に落ちた。それが原因だと思われる。成長しても、周囲の音に何も反応しないことがわかってきた。

近所の子はどんどんしゃべることばが増えて行くのに、わが子は「ング、ング、ング」と言うばかり。
清川さんは、涙と、絶望と焦慮と、そしてよその子に対する嫉妬に明け暮れた。
<つづく>

1796復興G:2012/12/11(火) 16:55:09 ID:vWpLkCzM

<つづき>
――清川さんの「聞こえない葦」という手記より――

 その地の日赤に連れていった日、耳鼻科の医長から
 「ろう学校に入れるのですね」
 と止(とど)めをさされたとき、私の悩みはくっきりと輪郭を持った。私は春嵐の町を、一史(息子さん)を抱いて夢遊病者のように帰っていった日のことを、忘れることはできない。

 この子の耳は、ただの飾りに過ぎないのか。思いなしか、耳たぶの肉も薄く、不幸そうな耳。私にはその耳が、線の切れた電灯のような気がしてくるのだった。

 もしもそんな手術が許されるならば、私は、自分の耳を、耳の神経を一史にやりたい。音のない、これからの長い一生。世間から、一人前にも扱われず、日陰の草のように弱々しく生きるかもしれぬ一生を、これからわが子が持とうとするのか。

 愛情深い結婚をした私ども夫婦の、最初の子。限りない愛情を注いでやまぬ祖父母の最初の孫なのに、一史は、どうして、そんな運命を背負わなくてはならないのだろう。

 どの子もどの子もみな聞こえるのに……。

 私は、よその子供が皆しゃべることができるのが、不思議でたまらなかった。はだしの足を泥まみれにしながら、嬉々としてしゃべり散らして、遊ぶ子供たち。私は道ばたにたたずんでそれを聞く。耳の聞こえる子が、また、その親が、たまらなく羨ましい。

 私の心には索漠(さくばく)とした風が吹く。私の顔からは生気が失せた。呆けたように目をすえ、思いはいつもひとつところを堂々巡りしていた。

 「一史は耳が聞こえないのだ」という、抜きさしならぬ事実。この足かせはどうしても取れぬ。泣いたって、わめいたって。

 私は、耳に栓をしてみる。音は、地虫のようなかそけさに変わり、まるで真空のなかにいるようなたよりなさ。一史は、一生この空白のなかで生きなければならぬ。鳥の声も虫の音も、人の声も音楽も、劇も映画も、すべての美しい物音も、なんだって聞こえはしない。

 音の闇のなかで、一生、手さぐりで生きていかなければならぬ一史よ。

 一史は、けげんな顔で私を見守り、真似して自分も耳を押さえるのだった。

 私の目には涙があふれ、一史のひなたくさい髪も、まるい頬も見えなくなった。

 ――以上は、清川さんの「聞こえない葦」という手記より――


そんなとき、ラジオで聞いた 盲聾唖三重苦の聖女 ヘレン・ケラーの

 「ありがとう、ありがとう」

 という、少ししわがれた、しかしはっきりした声が、生々しく胸に飛び込んできた。

  「ありがとう」とラジオにききしヘレン・ケラーの声よ一日(ひとひ)の耳朶(じだ)をはなれず

と、清川さんは歌に詠んだ。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

――清川さんの「聞こえない葦」という手記より――

 耳が不自由であっても、唇を読み取ることによって人の話もわかるし、また、上手な忍耐強い訓練によって、発声もできるようになるということを、私は前から、本のうえでは知っていたが、現実に、ろうの人の声を聞いたのは、これがはじめて。

 私は揺さぶられた。

 「よし、負けないでやってみよう」

 けっして、一史を人生の敗者にはしたくない。……
<つづく>

1797復興G:2012/12/11(火) 16:56:02 ID:vWpLkCzM

<つづき>

 ――清川さんは、当時山口県の山口市にお住まいでご夫婦ともに高校の教師をしていらっしゃいましたが、息子さんを人生の勝利者にする、幸せな人生を送らせるための最高の教育をしてやろうと、千葉県市川市国府台の東京教育大学附属聾学校が日本で一番進んだ聾(ろう)教育をしていると聞き、一家あげて国府台に移り住んで、必死の努力をされるのです。

 「聾教育は、底なしのつるべで水を汲むようなもので、根気が要りますよ」と、聾学校の校長さんから言われる。
 底のないつるべでは、水を汲み上げようとしても、ほとんど水は上がってこない。それでも、一滴ぐらいはつるべに着いて上がってくるだろう。その水のひとしずく、ひとしずくをためていこう、と覚悟をきめて。

 結果、息子さんは聾学校から早稲田大学に進学し、ろう学校の先生になった。生徒たちに限りない愛情を注ぎながら、歴史を教えた。恋をし、すばらしい伴侶も得た。幼いころから夢中だった中世城郭の研究を続け、仲間とともに「忘れられた城下町を歩く会」という同好会活動もおこなっていた。まわりのみんなに愛され、充実した、幸せな人生を過ごしていた。平成7年(1995)膵臓癌のため49歳で亡くなるその日まで。

 その間、清川さんは、

≪私がもの書きになったきっかけは、ひとつの記事だった。
 長男で耳の不自由だった一史が描いたお城の絵を、ある新聞の記者の方がごらんになって、耳の不自由な息子をどう育てたか知りたいと取材にいらした。その記事は、地方版、そして全国版に大きく掲載された。昭和32年(1957)のことだった。
 記事が掲載された十日後、ある婦人雑誌の記者の方から、息子を育てた経験を手記にして書いてみないかという依頼が来た。
 私はその手記を心をこめて書いた。60枚の原稿を1週間で書きあげた。
 『聞こえない葦』と題したその手記を、編集者はほめてくださった。
 「この人は、ものを書いて生きていける人じゃないかと、編集長が言っていました」
 そのひと言が私の支えとなった。それから3年間、書きたい、という気持ちが積もりに積もった私は、あの日の編集者に電話して会い、そこから縁をつないでいただいて、ライターとしての生活をスタートさせたのだった。≫

 ということになったのでした。それで、

 ≪一史の病気の正体が膵臓がんで、余命は月計算だと、医師から告げられたとき、私がまず思ったのは、彼のいのちの灯の尽きる最後の最後まで、しあわせにしてやりたいということだった。
 私は、一史の妻である千恵子さんに言った。
 「一史は、子供のときには、家族のみんなから愛されて育ち、結婚してからは、あなたといういい妻を持ち、学校時代も職場でも、たくさんのいい友だちを持ちました。最後のときが来たいま、愛しきり、愛しぬいて、一史を送ってちょうだい」
 千恵子さんは、その言葉をみごとに完了した。一史の妹の茉莉子もまた、看病に加わり、ふたりのすばらしいバトンタッチのおかげで、一史はしあわせな最後の日々を得た。
 死に顔は澄んで美しかった。私はその顔の上に涙をこぼし、こう言った。

 「一史、いい人生だったね。充実した人生だったね。」
 「そして、私も、あなたに育てられて、こうして今も幸せな、充実した人生を送らせてもらっているのよ。ありがとう。」

 今も私のなかに生きている一史に向かって、私はその言葉を繕り返している。≫

1798復興G:2012/12/11(火) 16:59:53 ID:vWpLkCzM

×繕り返している → ○繰り返している

1799復興G:2012/12/11(火) 17:43:33 ID:vWpLkCzM

>>1793:SAKURA様。

>>“仕事”も限定されますので、やっ〜〜〜と!自力にて得た“職種”でも、「黒幕デザイナ−」「吸血鬼」「ゾンビ」からの【 妨 害 】更に??そうです〜〜〜ネ!「信者同志…でも?」例えば?……<<

――>>「吸血鬼」「ゾンビ」<< なんて、そんなものは「ない」のですよ。

あなたは、聖経『甘露の法雨』を読んでいらっしゃいますか。

読み方が足りないのではありませんか。

上記のようなことを書かれる時間があったら、もっと『甘露の法雨』をお読みください。聖経『甘露の法雨』には

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

神は遍在する実質且つ創造主なるが故に
善のみ唯一の力、
善のみ唯一の生命、
善のみ唯一の実在、
されば善ならざる力は決して在ることなし、
善ならざる生命も決して在ることなし、
善ならざる実在も亦決して在ることなし、
善ならざる力即ち不幸を来す力は畢竟悪夢に過ぎず。
善ならざる生命即ち病は畢竟悪夢に過ぎず。
すべての不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。
病気、不幸、不調和、不完全に積極的力を与えたるは吾らの悪夢にして、
吾らが夢中に悪魔に圧えられて苦しめども
覚めて観れば現実に何ら吾らを圧える力はなく
吾と吾が心にて胸を圧えいるが如し。
まことや、悪の力、
吾らの生命を抑える力、
吾らを苦しむる力は
真に客観的に実在する力にはあらず。
吾が心がみずから描きし夢によって
吾と吾が心を苦しむるに過ぎず。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 と書かれているではありませんか。

 「吸血鬼」「ゾンビ」なんて、そんなものは実在ではない、妄想ですよ。妄想のことなど、二度と言わないでください。
 合掌


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