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1800「訊け」管理人:2012/12/11(火) 17:57:12 ID:???

>>復興Gさま

 素晴らしいお話をありがとうございました。さて、以前投稿した拙文を再掲致します。
話題は、「支援学校の野球部が快進撃」というものであります。


(信仰体験板より再掲)

27:「訊け」管理人 2011/07/27(水) 11:28:24

BGM
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=xbmhCC_ygss

 最近感動した話です。我が田舎の中学校野球大会にて、なんと支援学校(障害児)の野球部がベスト4に入りました。

延岡ととろ聴覚支援学校野球部、ベスト4へ!
http://www1.ocn.ne.jp/~miyatiku/jhs/jhs62ken/jhs62ken/jhs62ken.html

 なんかこう・・・なんというのか、普通こんなこと、有り得ないと思います。なにせ我が田舎の野球部ですけど、結構レベルが高いんですよね。あ
あ、そんな中で彼らですけど、「よくやったなあ」と涙が出てきます。やはり神の子、無限力ですね。

補足

 まず野球ですけどね、聴覚障害のある子たちが「どうやって飛球を処理するのか」不思議なんですよね。

 あの「カキーン」という金属音で、だいたいの捕球位置を算出するわけなんですけど、彼ら、どうやったんだろう・・・もう、尋常の集中力でもない
限り、無理だと思います。

 そして、件の延岡ととろ聴覚支援学校ですけど、云うまでもなく全員が「聴覚障害の子」とのことです。グランドでの指示も手話だったとかで・
・・いやーホント、強豪揃いの宮崎県大会でよく、ベスト4に入ったものだ!一度、指導者の方に会ってみたいなあ。そして『生命の實相』を献本してみましょうかね(笑)そしたら「全国制覇」したりして(笑)

 でも本当によくやったよなあ・・・ものすごく感動してます。他の障害者の励みになって欲しいですね。

(終了)

◆追記◆


○肉体のハンディを克服した青年
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/52473288.html

<ダイジェスト>

 そして幼いとき、不具になって扱いにくい肉体になるような乗馬に乗っているのは、〝神の生命〟であって、〝神の子〟のうちでも高級霊なのだと知らされたのでした。つまり不具の体という扱いにくい乗馬に乗っても、ひとに劣らず人生の競争に耐えて行くためには、その乗り手である「人間の魂」がよほど勉強をし、注意をし、勇気を奮い起こし、努力しなければならない。そのような努力の中から魂の進歩が得られてくるのである。

(『真理入門25章』197頁より)

1801復興G:2012/12/11(火) 18:41:33 ID:vWpLkCzM

ありがとうございます。

1802SAKURA:2012/12/11(火) 20:10:54 ID:jH5uEFzM
復興G様 へ トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778>>1793>>1794>>【SAKURA投稿…】の続きです。

■「復興G様」からの“お返事…”ありがとうございます…。…ですが??  (その1)
                   
■いろんな方が、いろんな方、改めていらっしゃいますのですかと…本当に、御自身が現実!その身に
なってみないと理解が出来ないのでしょうかと……??

特に>>1799の投稿内容にて
更に【妄想…】という感覚での捉え方でありますかとの…云々…その様な“考え方”と理解しました。
この件ですが、此処まで実際投稿します事を、躊躇しましたが、再三【警察…】に話をもっていって
おります…。尚「警察本部…」まで行った事もあります…。後は…いつか“投稿”するか“ブログ”
で…!その様な考えが、私自身にはあります。…が?しかしながら、この件は【事実…】であり、
しかも「タタキ男」の件は、他にも深い〜深い〜因果関係が、あります。

■尚!!【タタキ男】というこの定義ですが、記載したりなかったのでしょうか……?
もう一度明記しますが、この事は専門的になりますが「アイロン」をします時に使用します【棒…】
そうです〜〜〜ネ【厚みが2.5センチぐらい!長さが20センチぐらいの…板】で、頭部を一撃です…。
当に【一瞬時の出来事…】ですから…出血!!尚!直ぐ様病院に行きましたが、当時の“カルテ”は、
直ぐさま【隠ぺい工作…】でした。他にもこの事に関しての事が〜〜〜これが原因での、
現在の■【中途障害…突発性難聴】の存在なのです。

■この事も【妄想…】と“解釈論”になりますのでしょうか〜〜〜??変です〜〜ネ!

この事を、詳細に、此処にて“投稿”しますと…私自身の個人的な“プライバシ−”にもなり
ますので……いずれ「タタキ男…」の件は、「裁判…」になりますでしょうかと…。
風の便りでは……【分派側…に入会】しているとの“うわさ話“も〜〜〜チラホラ〜〜〜

■私の使命感は「服飾をとしての光明化」であり…今の私は「うらやむ!妬む!」感情は、
全くありません。当然の事ながら、知人の「中途聴覚障害者」も、むしろ自分自身の「仕事」に対して
の前向きの気持ちがありますから、そちらの方への意志・信念が強いのです。そして、同様な考え方が、
私自身の仲間の考え方の根本です…。あくまでも…健常者と対等論としての“仕事”をする認識が…

ですから、【視覚障害者へのボランティア】も同じ人間・ハンディ−がありましても【仕事】という、
前向きなる姿勢を、持っております…。かなりの狭められました「仕事内容」にはなります。…が?

■例えば…【老人病聴覚障害…】を、例に取りますと、当然の事ながら、その状況下になるまでは、正常
であり、ある事情からか“聴力の低下”となります。その場合、過去の聴力と比較しますと、そこに
当然の事ながら【葛藤】が、生じますでしょう。ですから、此処に投稿されていらっしゃいます皆様も
ある“きっかけ”からの【聴力喪失】は、今やあり得ないとは断言できません…。
その時に於けます、御自身の“感情…”は、単に、此処で一部抜粋させて頂きますが……
>>1795【病苦に耐えよ。人をうらやむな。…云々…】この事を、果たして100%思わないという感情の
持主なのです〜〜〜かと!多少は、その瞬間は、マイナス感情が生じますモノと、思いますが…。

では、そうでないという事でしたら、今までの“他のボ−ド投稿内容…”には、当に!当に!
【神の子としての自覚】の【慈 愛 あ る 言 葉】ばかりでしたのでしょうか???
それは【相手の賛嘆を少しでも言葉として表現】されましたのでしょうか……?

  つづく

1803SAKURA:2012/12/11(火) 20:13:23 ID:jH5uEFzM
復興G様 へ トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778>>1793>>1794>>1802>>【SAKURA投稿…】の続きです。

>>1802投稿の続きですが…… (その2)

私が閲覧させて頂く限りには【分派…特に「学ぶ会」…】の方々の言動は、“疑問視”ですかと…?
あくまでも【WEB誌友会…】の投稿は>>1793に記載していますところの考えが私の基本の考えです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1793 (参照URL…)

今回「生命の実相」抜粋を、ピック・アップして頂きまして、誠に感謝申し上げます。
■■但し、人それぞれの【捉え方…抜粋箇所】ですから、その時の心情として、つまり……
現時点での「復興G様」自身の日頃からの【身障者への考え方】と受け止めました…。
改めて、そこでその人の【人 格 論】になりますでしょうかと……認識する事となりました。

尚!「生命の実相」の中に記載さ荒れています「雅春先生の文章」は、知っておりますが〜〜〜!
更には【甘露の法雨…】も、私なりに読誦させていただいております次第です。…が??

                                   再合掌

1804如月:2012/12/12(水) 08:35:28 ID:ki/haAjk
復興Gさま トキ管理人さま 

このたびの誌友会での御指導ありがとうございました。
最後まで参加できなくて申し訳ありませんでした。

また、ご参加下さった皆様のおかげで、新たに気付かせていただいた事も多く
充実した誌友会でした。ありがとうございました。

開会のあとに謹写させていただいた真理の吟唱があまりにもミスが多く雅春先生にも
読んでいただいた皆様にも申し訳なくて、修正版を載せると供に、深くお詫びを申し上げます。

1805如月:2012/12/12(水) 08:36:10 ID:ki/haAjk
聖経『続 真理の吟唱』より、「愛の絶対価値を高揚する祈り」

★★★愛の絶対価値を高揚する祈り★★★

今ここにわれは生きているのである。”生きている”とは何と神秘なることであろうか。
わたしが生きているということは、決して物質の機械がここに動いているということではないのである。
考える力が生きているということである。
愛する力が生きているということである。
知る力が生きているということである。
よろずのものと調和し、調和せざるものを排出し、矛盾を克服し、混乱を鎮定し、更に一層大なる
価値を生み出す不思議なる力が生きているということである。

 私は今、この不思議なる偉大なる力を尊敬し礼拝するのである。
私が今此処に生きているということは、この不思議なる神秘力が生きているということである。
この神秘力を私は”神”として讃えるのである。

それは物質の光がなくとも見ることが出来る力である。
それは電灯も、何の灯明もない胃腸の中で、食物として摂取した色々の成分を分類し、選択し
必要なるものを吸収し、不必要なるものを外に送り出すところの、それは見ずして見る力であるのである。

 私が今此処に生きているということは、この不思議なる神秘力が生きているということである。
物質の力は、物質的法則と、化学式に従って機械的に動いて行くに過ぎないが、この神秘力は
物理化学の法則を利用しながら進んで行くが、自由意志を備えていて、法則をのり越えて
新たなる独特の個性ある価値を創造する力である。

それは、他の人とは異なる個性ある血液型をつくる力であり、個性ある指紋をつくる力であり
一点一画を描いても、その”点”にも”線”にも個性を示す不思議な力であるのである。

 単なる物質は個性のない類型をつくるが、生命は単なる類型をつくることは決してないのである。
人間は絶対者の個性的表現であるから、よく似た顔をしているようだが、悉く個性の異なる
顔貌を備えているのである。
一本の樹木の単純な葉ですらも、一枚一枚個性の異なる葉脈をその葉の上に描くのである。
それは類型がないから、他に似たものによって代換えすることが出来ない。
その一つが減ずることは、かけ換えのない絶対勝ちが一つ減ることになるのである。

 生命の神秘、不可思議なる価値は、そのかけ換えのない絶対なる創造力に存するのである。
その一つすらも減ずることは絶対価値が減ずることに成るのであるが、絶対価値は、絶対であるが故に
減ずることも減することもあり得ないのである。
減じたり滅したりするものは、すべて相対価値のものばかりである。

貯金として貯えられたる貨幣の価値は、相対価値であるが故に、物価との相対的比較上
減って行くのである。
しかし人間が誰かを”愛”したという”愛”は絶対価値であるが故に、その”愛”は永遠に
滅することも減ずることもないのである。

 日本国民が国家を愛して国家を護るために戦った。
その”戦い”という行為は、対手(あいて)があり相対的なものであるから、立場立場の異なる
人々によってその価値・不価値を色々に評価されるけれども、その”戦い”という相対的行為の
奥にあるところの日本国民が天皇を愛し大日本帝国を愛したというその純忠なる”愛”の
価値は相対的比較を絶した絶対なるものであるから、肉体をいう相対的存在が滅びても
永遠にその”愛”の価値が滅びることはないのである。
純粋の愛は、絶対者に属し、絶対界より出でたるものであるが故に
それは永遠の価値をもっていて滅びることはないのである。

1806如月:2012/12/12(水) 09:02:32 ID:ki/haAjk
SAKURAさま

今回もSAKURAさまがご参加して下さって、とても有意義な誌友会になりました。
心から感謝申し上げます。

このWEB誌友会に、多くの人が参加して欲しかったので、前回あたりから個人個人に話しかけない方が
多くの人が参加しやすいのかなぁなんて考え始め、今回は意識して指導者の方以外にはお声をかけないように
していました。

唯一、訊け管理人さんにだけ話しかけたのは、訊けさんに対して神の子さんが嫌味を言われた事に
対する抵抗のつもりでした。
一般の誌友会などは、誰でも大歓迎、君は来て君は帰れなんて誌友会を私は知りません。
だからWEB誌友会でも同じようにしたかったのです。

SAKURAさまは初めから順番通りに投稿されて、私は尊敬していました。
私はマイペースで投稿してしまい、テキストを置いてくださった復興Gさまに申し訳ないなぁと思いながら
会場を見ると、SAKURAさまがきちんとテキストを使ってくださっていて救われました。

1807如月:2012/12/12(水) 09:26:31 ID:ki/haAjk
>>1724でSAKURAさまのお母様の老人ホームでのお話ですが、以前この関連の仕事を
していたとき、ある婦人が突如まったく喋ってくれなくなった事を思い出しました。

一人のスタッフだけは信用していて、誰もいない場所で『自分は神の化身に見張られていて喋ったら殺すと
言われている』と打ち明けたのですが、どう考えても薬の影響なので、お医者さんに相談して
ある薬を無くしたところ、いつもの明るいご婦人に戻られたのです。

薬ってこわいですねー

ちょっと出ますので、またのちほど

1808復興G:2012/12/12(水) 09:43:30 ID:vWpLkCzM

如月様。

貴女の深い、深い愛の心に、心から感謝をささげます。


SAKURA様。

ありがとうございます。

少しきついことを申し上げましたが、貴女がもう一歩、もう一段飛び上がって

幸福をつかまれますようにと願ってのことでした。

おゆるしください。

ありがとうございます。合掌

1809SAKURA:2012/12/12(水) 21:03:37 ID:jH5uEFzM
復興G様 ヘ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778>>1793>>1794>>1802>>1803>>【SAKURA投稿…】の続きです

>>1808の「復興G様」のお返事…こちらこそ、御丁寧にありがとうございました…。

正直申しますと…現在の私の心境は、何よりも思いますには、私の場合に於いての例えですが…
【聴覚障害…生まれながらの方、及び、中途聴覚障害…】の方のこの2のタイプに於きましての
精神的【葛藤…】〜〜〜それでなくとも、度々の言葉?となりましょうか……
「タタキ男」「ゾンビ達」そして『黒幕デザイナ−』……この執拗なる私どもへの【執着…】が、
私どもにとりましては、この“ 現実世界=現象世界 ”に於きましての【壁…】であり、
この事が、潜在意識に忘れた頃に又目の前に…出てくる!この繰り返しが〜〜〜><現在も!

■どんな時でも「生命の実相」に於きまいての【雅春先生の真理の言葉…】が如何に心の支えかと?
今回は、ことのほか、長い間の心の支えとなっていますかと?痛感した次第です…。

今年『復興G様』からの「生命の実相」の“テキスト該当部”にて、個人的に勉強をさせていた
だく機会(スロ−テンポですが……)を、春先より頂きました事は、本年度に於きましての、
私自身にとりましては大きく「人生の舵とり」の上で、多くの価値を、頂く機会となりましたかと。

❤〜ありがとうございます…。 今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます…。

                                  再合掌

PS;今回の“お言葉”は、ちょっぴり“キツ〜〜〜イ!”感が〜〜〜 ><
それでも、それを跳ね返すぐらいの意志力・認識にて【私の使命…】を、邁進していきたいと…
今年も残り少ない日々と…“冬将軍にて、寒さが厳し〜〜〜イ!昨今かと…”くれぐれも体調には、
お気を付けられます様に…そして御活躍を、心から【お祈り…】申し上げます…。

1810SAKURA:2012/12/12(水) 21:05:53 ID:jH5uEFzM
如月様 ヘ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1677>>1687>>1695>>1697>>1714>>1715>>1723>>1724>>1732>>1733>>1759>>1764
>>1778>>1793>>1794>>1802>>1803>>1809【SAKURA投稿…】の続きです

>>1806>>1807の「如月様」の言葉…お返事を頂きました事に、感謝申し上げます…。

■話は変わりますが…大変御無沙汰致しております…。事情も私なりに理解させて……。処で、
何時も、私自身は“如月様の投稿文章…”から、楽しく〜!心安らぐモノ〜!を、その“念波”
と申しますか?頂いておりまして、その事は、私にとり“再エネルギ−・パワ−源”かと。?
今回、お忙しそうで、そういう時に、私宛てに“お返事”頂きまして、ましてや……
私自身は【今回の復興G様…テキスト該当部】を、冒頭から順次、私なりの捉え方で投稿させ
て頂き、その事の感想を頂きました事に〜〜〜(冷汗)なのです。【吾輩は…若輩者ですモノ】

今年を振り返り【WEB誌友会…】にて、この「2チャンネルのネット世界」にて、この様に多少
なりとも「コミュニケ−ション…機会」を頂きました事に、深く感謝申し上げます…。“感謝!”

尚!時節柄、寒さ厳しくなって参りますが、体調にはくれぐれも、お気をつけられます事【お祈り】
申し上げます…。何時も“ホット〜〜♫〜〜暖かな言葉…”…ありがとうございます…。

                                    再合掌
PS:
この様に、寒さが厳しくなりますと〜〜〜【風邪??】
余談ですが…本当に“くすり…”は怖いです〜〜〜ョネ!❤〜【クスリ…は?リスクが大かと…】
やはり【 “真理のクスリ”…が、最高に“無限治癒力”でしょうか〜〜〜 (微笑) 】

1811runるん:2012/12/23(日) 10:18:09 ID:pic01rm6
SAKURA様

**尚!!【タタキ男】というこの定義ですが、記載したりなかったのでしょうか……?
**もう一度明記しますが、この事は専門的になりますが「アイロン」をします時に使用します【棒…】
**そうです〜〜〜ネ【厚みが2.5センチぐらい!長さが20センチぐらいの…板】で、頭部を一撃です…。
**当に【一瞬時の出来事…】ですから…出血!!尚!直ぐ様病院に行きましたが、当時の“カルテ”は、
**直ぐさま【隠ぺい工作…】でした。他にもこの事に関しての事が〜〜〜これが原因での、
**現在の■【中途障害…突発性難聴】の存在なのです


そ、そんなひどい事をされたのですか??訴えられましたか?同僚に?でしょうか?

ひどい奴です!!その男は今どうしてるのでしょうか?のうのうとお気楽に生きてたら許せない気分です!!

お苦しかったでしょうね。障害が残らなかったら「忘れることもできるでしょうが・・・」残ったら・・・中々・・簡単に「無」

と断ち切れるものではない・・ですよね。

1812神の子さん:2012/12/24(月) 23:32:57 ID:???

>「タタキ男」「ゾンビ達」そして『黒幕デザイナ−』……

「生長の家」なのに・・・何故?

1813神の子さん:2012/12/25(火) 00:24:57 ID:3Dk63Vjg
波長が合うんでしょ?

1814runるん:2012/12/25(火) 07:36:47 ID:pic01rm6
復興G様

1799を見ないで、1811を書き込みました。



ただ、sakura様は耳に障害が残られたので、その相手の男性にゾンビ男というのも無理ないかなと、

思いました。

でも、sakura様にも、申し訳ありませんでした。

復興G様  常に実相を観られてること、ほんとにすごいです。私はやはり、壁にぶちあたると

「現象にとらわれてしまいます」

ほんとに、難しいです・・・ね。ダメですね。

あの、結果的にいやみな書き込みをになった感じで申し訳ありませんでした。

1815復興G:2012/12/31(月) 20:56:25 ID:vWpLkCzM

トキ様
皆々さま

合掌 ありがとうございます。

現象界は有為転変いろいろあった2012年、平成24年ももうあと残す時間はわずかとなりました。

しかし、私たちの生命は神のいのち、久遠不滅の生命です。
この久遠生命の真理、生命の実相を学ぶWEB誌友会を、今去ろうとしている21012年、ここで皆様とともに9回にわたり学ばせて頂きました。ありがとうございました。

また来たる年も、よろしくお願い申し上げます。

1月は、第2金曜日からですと11日からになりますが、それだと私は12日(土)と13日(日)夜の2回、予定された行事があって、日曜日大詰めの時に不在となります。

その次の週、18日(金)から20日(日)ならば、20日午前中にはリアルの誌友会予定がありますが、あとは特に行事は予定されていませんので、私の都合はその方がよろしいのですが、いかがいたしましょうか、皆さまのご意見を伺って決めたいと思います。

よろしくお願い申し上げます。

よいお正月をお迎えください。

合掌 拝

1816復興G:2012/12/31(月) 21:17:40 ID:vWpLkCzM

なお、上記1月の第10回web誌友会でテキストは、『生命の實相』頭注版第2巻のつづきで、第3章はp.99〜115(17頁分)、第4章はp.116〜138(23頁分)で、合わせて40頁文ですから、第3章および第4章をテキストとするのが適当かと思われますが、いかがでしょうか、このこともご意見を伺いたく存じます。よろしくお願い申し上げます。

1817トキ:2012/12/31(月) 21:19:20 ID:FptI/wKI
復興G様

 今年1年、すばらしいご指導を賜り、心から御礼を申しあげます。
復興G様のおかげで、こちらを閲覧されている方々も、もちろん私も、深く真理について
学ぶ事ができました。本当にありがとうございました。

 もとより、ご指導にあたられる復興G様のご都合が最優先だと思っています。

 私個人は、復興G様のご提案には、何も異論はありません。

 では、来年もよろしくお願いいたします。良いお年を御過ごし下さい。

合掌 ありがとうございます

管理人 敬白

1818SAKURA:2012/12/31(月) 21:46:45 ID:bhGD4phA
runるん 様 へ

はじめまして……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
大変遅くなりましたが【runるん様の>>1811>>1814】を閲覧させて頂きながら……

■【やさし〜〜〜イ!言葉】に、感謝申し上げます…。実は、此処では、この様な“言葉…”を、
頂いたことがありませんでしたので?正直申しますと…躊躇致しました。本当に【感謝…】です。
何時か?何処かで?【タタキ男…】この私の人生に於きましての【汚点…】は、ブログでも?此処に
てでも“アバウト的に投稿”させて頂きますでしょうかと。

■はっきり申しますと【洗脳…マインド・コントロ−ル】されていたと、今では確信しております。
つまり【バカ!!バカ!!…親もバカ!!親もバカ!!】という事で、自分自身の【思考すら喪失】
状態でしたかと。当時は20代の前半にて、今にして思えば?その様に云えますかと。

最後に、此処の投稿者の中で「タタキ男??」と思う様な文体があるのですが〜〜〜?その事も、
いずれ【確信…】が出来ますでしょうか?

最後に【今年最後の…やさしい“言葉…”は、神様からのプレゼント】と、投稿を閲覧させて
頂きました時に、思った次第です。

■【 良い年の瀬…そして…良い“お年”を、お迎え下さいますよう「お祈り」申し上げます。…】
                                 再合掌

1819SAKURA:2012/12/31(月) 22:00:37 ID:bhGD4phA
復興G様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今年も〜〜〜“あと数時間”となりました。…が??早いモノで、今年春先から【WEB誌友会】に、
参加させて頂き…更に【復興G様…】の毎回に於けます【テキスト…】本当に、振り返りますと、
自分自身でもそれなりの【真理…掴む機会】を、頂きましたかと。この一年間は“意義ある年”かと。
此処にて、改めまして、深く感謝申し上げます。ありがとうございました…。

■最後に“良い年の瀬…そして…良い年をお迎えされます事を、心より「お祈り…」申し上げます。

再合掌

1820トキ:2012/12/31(月) 23:04:10 ID:FptI/wKI
runるん様

 ご投稿、ありがとうございます。

 楽しいご文章で、読むのが待ち遠しいです。
来年もぜひ、ご投稿をお願いします。

合掌 ありがとうございます

1821a hope:2013/01/07(月) 07:57:57 ID:E6WSUXC.
>>1815>>1816 復興Gさま

昨年は、一昨年に続き、web誌友会などで、たくさんの真理を教えていただきありがとうございました。

掲示板というのは、本当に不思議な世界ですね。
現実でありながら、夢をみているようなそんな空間で、お互いに何の素性もわからない同士が交流を深めていくのですから…

ですが、「人間は物質ではない」わけですから、このような物質人間の相手が見えない場所であっても、
魂の交流は深まっていくのだなぁと感じています。

web誌友会も、もう第10回を迎えるのですね!

真の「生長の家の教え」を勉強したいわたしにとって、この掲示板は大切な場所です。
なぜなら、管理人のトキさまは、どなたも排除なさらない、
そして、生長の家の教えで最も大切な真理である「和解」を決して忘れることがない素晴らしい生長の家人だからです。

第10回web誌友会ですが、その週末は、毎日仕事や他の用事が入っていて、少し落ち着きませんが、
自分のペースで、参加させていただきたいと思っています。

復興Gさま、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

1822a hope:2013/01/07(月) 08:06:28 ID:E6WSUXC.

掲示板をご覧のわたしの愛する「生長の家」のみなさま

谷口雅春先生の弟子であり、「生長の家」人であるわたしたちは、今、何をすべきなのでしょうか?
忘れかけていましたが、このweb誌友会の大きなテーマは、「一人ひとりの法燈継承」です。

わたしは最近、立ち向かう相手が現象においてどんな姿をしていようとも、
自分がしっかりと「生長の家の教え」を理解さえしていれば、そんな姿は現実ではないのですから、
まったく気にならなくなるような気がしてきましたよ。

わたしは、今年もこの掲示板で、真の「生長の家の教え」を学ばせていただくつもりです。
みなさまと一緒にここでお勉強できて a hopeはとても幸せです。

今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

1823a hope:2013/01/07(月) 08:52:57 ID:E6WSUXC.
補足

>>1821>>1822において、わたしは真の「生長の家の教え」と表現させていただきました。
以前「真」と言葉を使うのはやめようと思いましたが、
やはり、「生長の家の教え」は、生長の家の大神さまから谷口雅春先生に天下った真理以外はわたしには考えられず、
それ以外の「虚説」はわたしには受け入れがたいので、あえて真の「生長の家の教え」と表現させていただきました。
わたしは、「虚説」は現象世界にはあると思いますが、闇は光を当てれば消えてしまうように、
「虚説」も「真説」をあてれば消えてしまうものだと信じています。

1824復興G:2013/01/09(水) 11:31:16 ID:vWpLkCzM

>>1817 :トキ様
>>1819 :SAKURA様
>>1821 :a hope様

そして皆々さま

ご無沙汰をお詫び申し上げます。
しばらくPCから離れておりました。PCの不調もありました。

遅れましたが
あけましておめでとうございます。

本年も、光明一元の真理=神の光をすべての人に送る神の子の使命を生ききってまいりましょう。

1月、第10回web誌友会は

1月18日(金)21:30から
1月20日(日)23:30まで

テキストは
『生命の實相』頭注版第2巻 第3章および第4章をテキストとさせて頂きます。<第3章p.99〜115(17頁分)、第4章はp.116〜138(23頁分)合わせて40頁文です>

私も、20日(日)は午前と午後2つの予定行事が入りましたので、20日の日中は不在となりますが、夜には戻って来ることができます。

では皆さま、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

1825復興G:2013/01/09(水) 11:55:09 ID:vWpLkCzM

 合掌 ありがとうございます。
 新年に当たり、「実相世界の現象化」のためにはどうすればよいかを、古事記神話の天之岩戸開きの項から、谷口雅春先生がまとめて教えて下さっていますことを。掲げさせて頂きましょう。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

≪『古事記と現代の預言』 谷口雅春先生著より≫

日の大神である天照大御神が天之岩屋戸(あまのいわやど)にお隠れになったために世界が暗黒化してしまったのを、再びこの世に天照大御神を喚招(かんしょう)し奉って、この世を光明化するための行事

一、常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を啼(な)かす。
(常住不変の実相世界の真理を宣布する――「ココケッコー、今ここ天国」と歌う)

二、鏡を作りて中枝(なかつえ)に繋(か)ける。
(現象的あらわれを心の鏡として、自己反省して心を改める)

三、弥栄(やさか)の真輝珠(まがたま)を作りて、それを上枝(ほつえ)に繋(か)ける。
(実相世界はすべての魂が真に輝いていて美しく、各々の魂は孤立分離していないで、一つの玉の緒)によって統一された大調和の世界であることを観ずる)

四、実相世界の真栄木(まさかき)を根こじにこじて現象界に移植する。
(現象が如何に暗黒に見えていてもその暗黒を見ないで、実相の根元世界の光明遍照の有様をジッと観ずる)

五、白和幣(しろにぎて)、青和幣(あおにぎて)を作って下枝(しずえ)につける。
(人に接するに、必ず和顔愛語の布をもって柔らかく包んで接する)

六、太御幣(ふとみてぐら)を奉祀(ほうし)して祝詞(のりと)をあげる。
(�`大生命�a及び祖先の生命をお祀りして聖経または祝福の祭文を読誦する)

七、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)をして待ちもうけさせる。
(機会をはずさず断行の決意をする)

八、天之日影(あめのひかげ)を手次(たすき)にかけ、天之真斥(あめのまさかさき)を鬘(かずら)として、天香山(あめのかぐやま)の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結(ゆ)いて、天之岩屋戸に汗気伏(うけふ)せる。――アメノウズメノミコト
(心を空しく、雑念妄想を無くして、心が裸になって、神のお導きを待つ)

九、蹈みとどろかし、神懸(かみがか)りする。
(いよいよ、神霊来臨したまい、何を為すべきかを指示し給う。その指示のまにまに、自然に行動する――アメノウズメノミコトは無我になって裸おどりをなさる)

十、八百万(やおよろず)の神共に咲(わら)いき。
(暗い表情を棄てて、既にあたかも光明が輝き出たのを悦ぶ如く、明るい笑顔をもって行動する)

――以上、谷口雅春先生『古事記と現代の預言』より――

1826トキ:2013/01/09(水) 11:57:59 ID:pFigj4Ss
復興G様

 謹んで、新年のご挨拶を申しあげます。

 昨年はすばらしいご指導を賜り、ありがとうございました。

 今年が、本当の意味での和解の元年になりますよう、精進をいたしますので、
なにとぞ、ご指導、ご鞭撻のほど、お願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1827復興G:2013/01/09(水) 12:07:53 ID:vWpLkCzM

   一月一日 (千家尊福作詞・上真行作曲)

一、年のはじめの 例(ためし)とて
  終りなき世の めでたさを
  松竹たてて 門(かど)ごとに
  祝う今日こそ たのしけれ

二、初日のひかり さしいでて
  四方(よも)に輝く 今朝(けさ)のそら
  君がみかげに 比(たぐ)えつつ
  仰ぎ見るこそ 尊(とう)とけれ

<「君がみかげ」は、天皇様のみ姿を意味します>

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

  『叡智の断片』より (谷口雅春先生)

       ○
 新年とは新たに生れる時である。時々刻々新年の気持ちで生活せねばならぬ。
「今、天地の開ける音をきけ」と金光教祖は教えられた。必ずしも正月のみが新たなる誕生の時ではない。吾がいのちは今、時々刻々に新生する。
       ○
 いまが、永遠である。永遠の今(Eternal Now)今が吾が生の肇(はじま)りであり、今が、自分の生活のはじまりである。今、すべてが始まるのである。
       ○
 正月にはお餅をつく。それはどういう意味であるかと言えば、先ず水を入れて、火で炊く。水は陰であり火は陽である。陰陽合一して、そこに凡(すべ)てのよきものが誕生するのである。
 お餅をつけばかくして陰陽合一し、そこに一つの新しい全体が造り出される。もちごめのぶつぶつとした一つ一つの米粒はバラバラな個別ではなくして、望月(もちづき)のごとき円満な新しい一つの全体を形造るのである。全体が完全にとけ合ってまんまるいすべすべとしたお餅が出来上がる。そのお餅を大小二つこしらえて、それを上下に重ねるのである。それは新たなる陰陽合一を意味するものである。
       ○
 お餅が出来上がると更にお雑煮をこしらえる。雑煮に入れる餅は円い餅が縁起にかなう。一つの完成した円い餅が、更に色々な他の餅や、其の他の食物と一つにとけ合って新たにより一層大きな統一をこしらえ上げるのである。全てのものがもちによって一つに統一されそしてその雑煮が人間のお腹の中に入れられる――人間の心の中にその「統一」がのみこまれて人間が円満完全な調和した心になる象徴である。
       ○
 正月には松を立てる。松とは何であるかと言えば、それはときわ木であって、永遠に栄える木、即ちサカキ(榊)である。コトバの力で今年一年の栄えを象徴するために立てるのである。神前に立てるサカキは、永遠に栄える木「生命の樹」を象徴している。
       ○
 門前に門松を立て、神に榊をそなえるのは、実は自分の心の中にサカキ(栄える木)を立てることである。榊は所謂「神様」にささげるものではなくして、かえって「自分自身」に捧げるものなのである。それ故、榊をそなえる場合には美しい生き生きとした緑の葉をみんな自分の方に向けて供える。「神様」の方には裏のきたない方が向いている。されば「神様」は自分以外の建物の中に在ますのではなくして、自分自身の心の中に存在するのであることを知らねばならぬ。
       ○
 元旦の神前にはおみきを供える。おみきはサケ(酒)である。サケ(Sake)は、やはりサカエ(Sakae)を表わすことばである。サカキを立ててサケをのむのは「サカエ」るものを観る事であり、それは「サカエ」るものを創造り出すことである。新たなるいのちの創造である。サケ(酒)はサカエ(栄え)であるから陽である。ものをいきいきともえ立たせる働きである。それに対して水は陰である。
       ○
 しめなわ(注連)の縁起は次の通りである。しめなわは天照大神が天の岩戸からお出ましになった時、二度と再びお入りにならない様に張りめぐらしたものであると古事記に書いてある。それはどういう意味かと言うと「再び退転しない」という意味である。再びもとの暗い生活には帰らないという誓いをあらわす。しめなわを張りめぐらす所はどこかのかど口の様な所だと思っていたら大間違いで、実は、自分の心の中に張りめぐらすのである。心の中で、「二度と再び過去のあやまちには退転しない」と固く決心することなのである。
――以上、『叡智の断片』より(谷口雅春先生)――
<つづく>

1828復興G:2013/01/09(水) 12:14:31 ID:vWpLkCzM

  『叡智の断片』より (谷口雅春先生) <つづき>

       ○
 毎朝、御主人に向かって挨拶をなさるのに「お目出度うございます」と言っていた人がいる。その奥さんにとっては、毎日毎日が、「新年」であった、「元旦」であった。
       ○
 凡てのものを「神」として本当に拝む事の出来る時、その人は、自分自ら「神」となるのである。何故なら、此処に「神」があるということがわかるのは、自分の心に「神」があるからである。人は誰でも凡てのものに「神」を認め、「神」を拝む時、その人は既に自ら「神」となっているのである。同様に「あいつは鬼だ」と言う人は、自分自身で「鬼」となっているのであることを反省すべきである。
       ○
 観よ、――さらば現れる。
 神想観をして実相を観よ、――さらば実相が現れる。
 観を変えよ、――さらば世界が変る。
       ○
 人間は、各々一個の創造者である。そして人間は各々自分の射造った世界の中に住む。
       ○
 男性の尊厳は女性を虐待するところにあるのではない。女性を本当に拝むところにある。
       ○
 凡てのものを神として拝める人は、自分が神であるのである。神のみ神を拝めるのだ。妻を神として拝める良人(おつと)は神であり、良人を神として拝める妻は神である。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 「常山(じようざん)の蛇勢(だせい)」

 常山に住む率然(そつぜん)という蛇は、頭を攻撃すると尾で立ち向かい、尾を攻撃すると頭で襲いかかり、中央部を攻撃すると頭と尾が襲ってきます。よく兵を用いる者は、この率然のようなものだという出典(『孫子』九地)の言葉からきています。
「善く兵を用うる者は、譬えば率然の如し。率然とは、常山の蛇なり。其の首を撃てば則ち尾至り、其の尾を撃てば則ち首至り、其の中を撃てば則ち首尾倶(とも)に至る。」
  ○常山 … 中国にある山、恒山のことで、中国五岳の一つ。
  ○率然(卒然) … にわかなさま。ただし、ここでは蛇の名。
「常山の蛇勢」は兵法で先陣と後陣、左翼と右翼が互いに呼応して戦う、隙のない戦法、隙がないたとえです。「首尾一貫」していることにもいいます。この蛇(率然、卒然)のように軍を動かす事ができれば、戦上手と言えるのですが、では、その方法とは?

『呉人(ごひと)と越人(えつひと)と相悪(にく)むも、その舟を同じくして済(わた)り風に遇うに当たりては、その相救うや左右の手のごとし』――「呉と越、敵同士の二つの国の人であっても、同じ舟に乗って嵐に遭遇して、舟が危ないとなれば、お互いが協力して左右の手のように動くはずだ」――良く聞く四文字熟語・『呉越(ごえつ)同舟』です。これは、単に陣地を同じにしたり、一緒に戦うといった意味ではなく、敵味方一丸となって……という事です。孫子は、思想や政治、地の利をうまく利用すれば、全軍を、あたかも一人の人間のように扱う事ができると、孫子は説いています。

1829復興G:2013/01/09(水) 12:44:34 ID:vWpLkCzM

>>1826 :トキ様

ありがとうございます。

生長の家も、いよいよ今年は「正念場」ですね。

1830復興G:2013/01/09(水) 13:18:46 ID:vWpLkCzM

トキ様。

トキ様が去年3月に「部室」板/3 に書かれた次のご投稿は、とても素晴らしく大切なことであると思います。
もう一度ここいnコピペさせていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

「部室」板/3
582 :トキ:2012/03/20(火) 19:44:09 ID:P1yrXYLM

 最高裁判所の判決は教団敗訴であるのは確実ですが、それが悪い事か、と言うと、それはそれで教団にも良い事だと思います。

 私は永年、活動をしてきましたが、ある時期までは、組織の方針には無条件で従うべきであると思い込んでいました。しかし何故、活動をするのだろう、という疑問がわきました。それで、大学で「分からなくなったら、原理原則に戻って考えなさい」と教授に言われた事を思い出し、生長の家の原理原則に戻ると解決したので、それから「原理主義者」をもって自他共に任じております。

 生長の家の原理原則とは何か? それは、「人間は神の子」ということです。

 例えば、ある人を生長の家の講演会にお誘いする場面で、「この人を本当に幸せになってほしいから」という理由で誘うのと、「教団からノルマが課せられており、それを達成するために、この人に行ってもらう」というのでは、外観は同じでも、内容は天地の差があります。前者は相手を神の子と拝んでいる姿であり、後者は自分の都合で相手を利用している姿です。ところが運動や組織の話ばかりが教団内でなされるようになり、いつしか自分も相手も神の子である、という姿勢が忘れられるきらいがありました。特に、私においては、そうでありました。

 今回、教団内でこのような騒動が生じたのは、原理原則を忘れた運動を展開した結果であると思っています。ですから、今度、行き詰まったら、また初心に戻り、原理原則に基づいた運動をすれば良いのであります。

 特に、私は個人救済の重要性を痛感しております。悩み、苦しんでいる人はたくさんいます。そういう人が真理で救われるのを見るのは、かかわった自分にも感激です。そういう光景を見ると、理屈ではなく、感性から、個人救済の重要性を感じます。今は、教団も本流復活派も「大きな話」をするのが好きですが、先ずは個人救済を見直す事が大事だと思います。

 もし、教団敗訴の判決が出たら、謙虚に反省し、何をすべきかが明らかになると信じております。その意味では、歓迎すべき事かもしれません。
 合掌 ありがとうございます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

そうですね。
今年の干支は「癸巳(きし)」。「癸(き)」は「揆」に通じ、「万事筋道を立て正しい理に従って処理しなければ、(一揆のような)事が起こる」可能性があります。しかし、筋道を失せず勇敢に溌溂と前進すれば、蛇が冬眠を終えて、或いは脱皮して新しい姿で生活を始めるように、新しい展開が始まる、ということを意味するようです(安岡正篤著『干支の活学』による)。

よい年にしましょう。
ありがとうございます。

1831さくら:2013/01/09(水) 14:15:02 ID:vKqBwMl.
>>1830
復興G様
トキ様

合掌ありがとうございます。
昨年中は、ご指導御愛念を頂きありがとうございました。

みなさまに対してそうですが、
特に復興G様、トキ様には、誌友会などでさまざまご教示頂きまして、折に触れ、個人的にも信仰姿勢に学ばせて頂きましたことを、
こころより、感謝申し上げます。

>初心に戻り、原理原則に基づいた運動をすれば良いのであります。
>理屈ではなく、感性から、個人救済の重要性を感じます。今は、教団も本流復活派も「大きな話」をするのが好きですが、先ずは個人救済を見直す事が大事だと思います。

この内容には、常々賛同していたことでしたので、
ご挨拶させて頂きました…。

本年、自分の場所で、地道に学び、地道な実践を心がけたいと思います。

本年もよろしくお願い申し上げます。



追伸

復興G様、新年に相応しいこころ洗われるご文章を、ありがとうございます。
お正月に会った姪っ子に、…今度は、ちゃんと、お正月のお飾りの意味も、お餅の意味も説明できます…(!)

1832SAKURA:2013/01/09(水) 16:59:17 ID:ybpOApPc
復興G 様 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1824 >>1830の閲覧より……

昨年は【真理の勉強…】参加させて頂きました事は、私に取りまして“意義深い”一年でした。
本年度も「復興G様」を中心に【WEB誌友会にて…真理の勉強】を開催されます事は、昨年
以上に「魂の向上」につながるモノと自覚し…内なる声と対話しながらの躍進の年に致したく
思います。何卒、本年もご指導ご鞭撻のほど…宜しくお願い申し上げます。
==============================================

❤〜去年は、私に取りまして「母…の他界」は、私にとってはある面では【精神の向上の年】で
もあったようです。そして、
■「復興G様…からの今日の言葉」より……
【原理主義は=神の子・・・】そうなんです〜〜〜ョネ!改めて自覚・認識を頂きました。

❤【大自然賛歌…】にも。。。
【吾まさに、環境は心の影なりとの教えの意味をりかいせり。自然環境も人類の心の反映ならば、
人々の争う心、自然界の乱れとなって表出せん。されど師よ、“神の子“なる人間互いに争わず。
・・・省略・・・】この様に「原理主義と決め込む心」は、「神の子・・・」ならば、自ずと
自然に入ってきますかと。そして【神の子なら、正しい理念も生まれてくるようです。】

今年は、昨年年末からの“風邪”を引きまして、逆に良い意味での【神の子の自覚…】が、
いよいよ深まっていくようです。
本日の【復興G様 からの 言葉】改めて気づきを頂きました事に、深く感謝申し上げます。

                                       再合掌

1833みすはなまる:2013/01/09(水) 18:42:52 ID:0sJRrIf2

新春のお悦びを申し上げます。

最近は、此方の誌友会板に発言させていただくことはございませんが、時々目を通させてい戴き、勉強させて戴いております。


復興G様が、>>1830におきましてトキ管理人様の

>>生長の家の原理原則とは何か? それは、「人間は神の子」ということです。>>

の御文章を引用されておられます。

この「人間は神の子」である真理は、実に深い真理であると感じました。
今日は、谷口雅春先生御著書「第二青年の書」を拝読して過ごしておりました。

P203に

>>日本皇室の御紋章が十六菊であるということは、釈尊の示された金波羅華の秘密であります。十六方向の国々が一つの中心に帰趨して渾然一体となる――そうならせなければ、世界は原水爆戦で潰滅するほかはないのであります。

それで、この生長の家の運動は、日本の使命実相を明かににして、人類を本当の平和に導いて行くところの根本自覚を日本国民に興えるために神様が地上に下された運動でありますから、ただ単に病気が治ったら、病院を退院するのと同じように生長の家をやめるのでは生長の家出現目的から外れているのであります。

病気も無論治ります。しかしそれは信仰の出口ではなく、入口なのであります。この運動を次から次へと伝えて、日本の使命を自覚せしめることが必要なのであります。

この生長の家によって少しでもおかげを受けた人、物質的なおかげは受けないでもお心の眼が開いた人は、ことごとくこの生長の家の運動を、そういう国家的な運動に、人類的な運動に結びつけて、生長の家発祥の人類救済の根本目標に近づいて行かなければならないのであります。>>


この雅春先生の御文章は、“過去のもので今は違う”ではございません。
真理であり、不変なる御言葉です。
現在、教団は、「日本の使命実相を明かにした運動」をされていません。

是非、教団内部から「日本の使命実相を明かにした運動」が展開されることを祈って止みません。


雅春先生は、「生長の家の運動は、日本の使命実相を明かににして、人類を本当の平和に導いて行くところの根本自覚を日本国民に興えるために神様が地上に下された運動」とございます。

私はこの雅春先生の御心を実践することが、「人間神の子」を生かされることであると信じ、今年も神の御心のままに運動をさせて戴きます。


合掌 再拝

1834トキ:2013/01/09(水) 19:08:32 ID:pFigj4Ss
>>1830


復興G様

 大先達の復興G様からお褒めを頂戴するのは、恐縮いたします。

 私自身、この投稿をわすれがかっていました。反省しています。
ご提示下さり、ありがとうございました。

合掌 ありがとうございます

1835復興G:2013/01/09(水) 19:59:38 ID:vWpLkCzM

さくら様
SAKURA様

レス、コメント、ありがとうございます。

そして
>>1833 :みすはなまる様。

>>日本皇室の御紋章が十六菊であるということは、釈尊の示された金波羅華の秘密であります。十六方向の国々が一つの中心に帰趨して渾然一体となる――そうならせなければ、世界は原水爆戦で潰滅するほかはないのであります。それで、この生長の家の運動は、日本の使命実相を明かににして、人類を本当の平和に導いて行くところの根本自覚を日本国民に興えるために神様が地上に下された運動でありますから、ただ単に病気が治ったら、病院を退院するのと同じように生長の家をやめるのでは生長の家出現目的から外れているのであります。

病気も無論治ります。しかしそれは信仰の出口ではなく、入口なのであります。この運動を次から次へと伝えて、日本の使命を自覚せしめることが必要なのであります。
この生長の家によって少しでもおかげを受けた人、物質的なおかげは受けないでもお心の眼が開いた人は、ことごとくこの生長の家の運動を、そういう国家的な運動に、人類的な運動に結びつけて、生長の家発祥の人類救済の根本目標に近づいて行かなければならないのであります。>>

>この雅春先生の御文章は、“過去のもので今は違う”ではございません。真理であり、不変なる御言葉です。
現在、教団は、「日本の使命実相を明かにした運動」をされていません。
是非、教団内部から「日本の使命実相を明かにした運動」が展開されることを祈って止みません。<

上記のことは、とても大事なことだと思います。
私も、「日本の実相顕現を抜きにした世界平和はあり得ない」と固く信じ、発言しています。
共に、それを言い続けて行きましょう。

しかし、トキ様がおっしゃるように、

>>例えば、ある人を生長の家の講演会にお誘いする場面で、「この人を本当に幸せになってほしいから」という理由で誘うのと、「教団からノルマが課せられており、それを達成するために、この人に行ってもらう」というのでは、外観は同じでも、内容は天地の差があります。前者は相手を神の子と拝んでいる姿であり、後者は自分の都合で相手を利用している姿です。<<

この後者のようなことが現在の運動でも一般にひろがっており、これでは全く自他共に救われません。無条件の愛を行ずることによって、自他共に救われ、それが日本の心、大和魂を発揚することになって、日本の実相顕現につながって行くと思います。この基本を原理原則として忘れないようにしたいということで、「個人救済の重要性」ということをトキ様はおっしゃっているのだと、私は思っています。

そしてもちろん、みすはなまる様がおっしゃるとおり、「日本の使命実相を明かにした運動」をして行かなければ、生長の家出現の意味はなくなります。

ありがとうございます。

1836あさひ:2013/01/10(木) 00:38:22 ID:/3nxKE2Q

復興G様  トキ様

「分からなくなったら、原理原則に戻って考えなさい」との掲示板への掲示をされたトキ様

それを コピペして下さった復興G様 有難うございます。

私も全く同感です。道に迷ったら引き返せというのと同じですね。

有難うございました。     合掌

1837志恩:2013/01/10(木) 04:37:39 ID:.QY5jUA6
復興G様

昨年も一昨年もいろいろと教えて下さいまして感謝いたしております。
今年もご指導をよろしくお願い申し上げます。

皆様がおっしゃるように、「分からなくなったら、原理原則に戻って考えなさい」という
トキ様のお話も、いいお話ですけれど

復興G様がご紹介くださいました安岡正篤氏のお言葉も、いい言葉ですね。
ありがとうございます。

>>「癸(き)」は「揆」に通じ、「万事筋道を立て正しい理に従って処理しなければ、(一揆のような)事が起こる」可能性があります。

しかし、筋道を失せず勇敢に溌溂と前進すれば、蛇が冬眠を終えて、或いは脱皮して新しい姿で生活を始めるように、新しい展開が始まる、
ということを意味するようです(安岡正篤著『干支の活学』による)。<<

1838復興G:2013/01/10(木) 11:40:51 ID:vWpLkCzM

あさひ様
志恩様

合掌 ありがとうございます。
うれしいコメント、感謝いたします。

基本の原理原則、「人間は神の子」「実相独在」「現象は影である」――その「天之御中」に立って、勇往邁進いたしましょう。

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1841復興G:2013/01/12(土) 06:37:49 ID:AB6RqYXc

トキ様

上の1839・1840を削除お願いします。

1842復興G:2013/01/12(土) 06:38:59 ID:AB6RqYXc

>>1821 :a hope様。

a hope様へのレスが亀どころではない、寿命がきた蛍光灯のようなレスになってしまって、すみません。

>>掲示板というのは、本当に不思議な世界ですね。現実でありながら、夢をみているようなそんな空間で、お互いに何の素性もわからない同士が交流を深めていくのですから…ですが、「人間は物質ではない」わけですから、このような物質人間の相手が見えない場所であっても、魂の交流は深まっていくのだなぁと感じています。<<

 ――まったく、その通りです。a hopeさまのことも、まるで自分の家族のように思っていますよ。

>>1822 :a hope
>>掲示板をご覧のわたしの愛する「生長の家」のみなさま
谷口雅春先生の弟子であり、「生長の家」人であるわたしたちは、今、何をすべきなのでしょうか? 忘れかけていましたが、このweb誌友会の大きなテーマは、「一人ひとりの法燈継承」です。
わたしは最近、立ち向かう相手が現象においてどんな姿をしていようとも、自分がしっかりと「生長の家の教え」を理解さえしていれば、そんな姿は現実ではないのですから、まったく気にならなくなるような気がしてきましたよ。
わたしは、今年もこの掲示板で、真の「生長の家の教え」を学ばせていただくつもりです。
みなさまと一緒にここでお勉強できて a hopeはとても幸せです。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。<<

 ――「一人ひとりの法燈継承」――そうですね。

 それは、生長の家の原理原則、「人間は神の子」と自分を拝み、すべての人を拝むということ。

 私は最近、榎本恵吾先生の書かれた「誌友会への所感」という御文章が出てきて読み返し、「これだ!」「ここに立たなければ!」と深い感銘に包まれています。

 web誌友会を前に、その御文章をここに啓示、掲示させていただきましょう。

1843復興G:2013/01/12(土) 06:40:16 ID:AB6RqYXc

     誌友会への所感 (榎本恵吾)――<1>

   《これは、私が、誌友会や聖典講義に立たせていただく前に、心新たにするための憶え書きのごときものであります。》

 『信』とは『人が言う』と書いている。『信』とは他をからずして、自から発するのである。それは自分が“宣言”することなのである。

 先づはじめに、神は“光りあれ”と宣り給うたのである。そこに元(はじめ)の信ということが立ったのである。

 いまここに神なる、光りなる神の子が立っている。その光りなる、神なる人が再び“吾れ光りなり”“吾れ神なり”の言葉を発するのである。

 I am that I am という。これは信の成立を意味している。I am God しかして、また God I am (God is Me) である。

 すでに救われずみの、光りなる自分がさらに“光りなり”という言葉を発する。その光りのひろがりとして誌友会が成立しているのである。

 “信ずる”とは、創造(つく)られずみのものに合一するという意味のほかに、創造すること、産み出すことの意味があったのである。

 生長の家の集りは光りの集りである。そこには“光り”が集まって来るのである。先づ光りなるものがあるのである。集まってから光りとなるのではないのである。それははじめて来た人についても同じことである。

 “誌友会に行こう”と思うことが、内なる如来が、天照大御神がその人の内からお顔を出されて、輝き出して、そう思うのである。したがって、“誌友会に行きたいなー”と思ったとき、すでにその人は如来の輝きであり、光明そのものであり、天照らして光なる人がそこに立っているのである。

 その如来なる、光明なるいのちが家を出発する。そして周囲のすべてを輝かせながら誌友会場にやって来るのである。ある人は徒歩で、ある人は車で、あるいは電車に乗って。道路を歩けば道路を燦然たる光りでかがやかせながら。そして電車に乗れば、その人から出る光りによって電車は光りと化し、木々の間を通れば木々を輝かせながら誌友会へ、誌友会へと光りが集まるのである。

 再び言う。誌友会に来てから光りとなるのではないのである。“光り”が集まって来るのである。その光りがさらに光りする行事が誌友会である。

 その光りなる如来に坐ってもらって、会場の畳はどんなに喜んでいることであろうか。光りに集まっていただいて座布団はどんなに喜んでいることであろうか。その会場全体がどんなに喜びに輝いていることであろうか。

 そこに坐っている光りからすれば、その光りをめでて、すべてのものがその人のために輝きながら用意されていたのである。その会場となっている家は、何年前に建てられたか知れないが、その人の今日そこに坐られることのために、その家が何年か前に用意されたのである。講師もその人のために今から何十年前に今日その人のいのちを祝福するためにと神がどこどこの地に生まれさせ給うたのであるということが、わかってくるのである。

 自分を“光りである”と宣言しハイと光りに飛び込んでいるときが、人が“信”となっている時であり、そのとき、その人は、“自分がこの世にうまれてここにいることをこんなにもすべてのものが喜んで呉れているのか!”ということがわかってくるのである。“疑わずに光りに飛び込め”とみ教えに示されている。

 この話しを聴いたある誌友は、“光りだった。光りだった。”とコトバでとなえながら帰途についた。すると、歩道が“さあ、お通り、さあ、お通り下さい”とよろこんで光りの道を開けて呉れたというのである。

 またある人は、家につくとすぐに感激して電話をかけて来たのである。その人がいつものように帰るために電車に乗った。“そしたら、私の前に座席が空いていたんです!”というのである。しかし座席はこれまでもいくらでも空いていたのである。それが、今日は“光りが行くのである”と宣言して乗ってみると、その座席が光りを迎えて、光りに坐ってもらうことを喜んで“さあ、お坐り、待っていましたよ”と迎えて呉れたというのである。
<つづく>

1844復興G:2013/01/12(土) 06:41:04 ID:AB6RqYXc

     誌友会への所感 (榎本恵吾)――<2>

 光りだ。光りだ。と云っているとすべてのものが自分に祝福の光りを送ってくれており、光りの中に生かされていることがわかってくる。雨の音を聴いても、花の咲くのを見ても、何か今までとちがって、何か自分とシックリと来るようになった。“あっ、自分は、これから天地一切のものに感謝するのかと思っていたら、そうではなかったのだ。自分が天地一切のものから喜ばれ、拝まれ、感謝されていたのであった。”と解って来たのである。

 釈尊が“苦行は悟りの因に非ず”として、“すでに光りであった”と如来地に飛び込んだとき、山川草木国土悉皆成佛、有情非情同時成道と観えて来たのである。釈迦はこのとき天地一切のものと和解されたのである。つまり、自分が天地一切のもの即ち如来にとりかこまれていたことがわかったのである。

 尊師の“天地一切のものと和解せよ”の一句は、まさに釈迦の山川草木国土悉皆成佛、有情非情同時成道に相当するのである。尊師が現象を超えて、實相の大地に降り立たれたときが、尊師が天地一切のものと和解せられたときであったのである。弱肉強食、生老病死のそのままに、不完全、不調和はそのまま無く、大調和に抱き合って讃えあっている人類のすがたをそこに発見せられたのであった。その光の大調和のすがたが誌友のそのままのすがたなのである。

 誌友会は、これから光りとなるための準備をするところではない。光りとなるための決意をするところではない。それではいのち(神・光り)のゆにはということにはならないのである。準備のためであれば、それはいのちとなるためのゆにはとなる。光りは天国は、愛行やもろもろの行の彼方にあるのではないのである。實相とは、単に可能性として存在するだけなのではないのである。すでに今・ここに實相の光りは開かれ輝いているのである。その光りが輝く為の如何なる行も必要としないのである。もろもろの行が必要であるということが、天国を西方極楽浄土として遠くにおしやることになったのである。

 光りとなるため手段としての、神の前での成績かせぎとして愛行やもろもろの行があると思うとき、それがどれだけ出来ているかいないかが問題となり、それを基準として、自分を裁き人を裁くことになるのである。この裁きが地獄なのである。このような意味での愛行であるとき、親鸞のことばは次のように響いて来るのである。

  『愛行の人なおもて救われる。
    いわんや悪行の人をや』
 と。

 パウロはコリント人への手紙の中で次のように言明している。

  『たとい我、わが財産をことごとく施し、
   またわが体を焼かるるためにわたすとも、
   愛なくば、我に益なし』
 と。

 私はともすれば、よほど愛がなければわが財産を施すこと、他のために死すことはとても出来るものではなく、財産を投げ出し、死ぬことが出来るのは愛のある証拠であると思っていた。しかし、愛のないそれらの行もあるのである。

 先づ、無条件に神の大愛の中にゆるされ、生かされ切って、自分が神の光りと一つであるとの事実にハイとうなづくこと。神の中に飛び込むことによって、神の側に、光りの側に、愛の側に立つこと。その愛なる自分が行くことが愛行なのである。愛(光)となるためにこれから行くのでは、全財産を投げうっても、身を捨ててもそれは空しいことであったのである。三度びくりかえそう。もしも、誌友会に光りでないものが、光りをもらいに来るのであれば、それは乞食であるといわねばならない。乞食が集まるのが生長の家の誌友会ではないのである。光りなるものがすべてを輝かせて集まっているのである。それ故に誌友会は光りを世界に輝かせるところの光りの集団なのである。その行事は如来の荘厳行事なのである。荘厳とは何か、それはすでに光りであるという事実であり、荘厳行事とは、光りが行う行事なのである。
<つづく>

1845復興G:2013/01/12(土) 06:42:34 ID:AB6RqYXc

     誌友会への所感 (榎本恵吾)――<3>

 過去の如何なる行をも放ち去って、いまここに平等の如来光が全員から照りかがやいているのである。すでに光りであるから、光りは外に向かって輝き出でるより他はないのである。それ故、自分は、神様と一緒になってすべてを輝かせているのである。自分は生長の家の光りによって、神の光りによって照らされる側だと思っていたが、すでに自分は光りとなっており、すべてに光りを与える側にいたのであった。照らされる自分から照らす自分への生まれかわりなのである。

 今まで、自分は与えるものがないと思っていたが、自分は気がついてみれば、神とともに天地を創造し、神とともに世界を生かし、神とともに世界に光りを与えていたのであった。この光りは、今・ここにすでに無条件にわが全身にかがやいている光りなるが故に、このことを素直に「ハイ」とうけるとき、自分のみではなく、わが家族のすべてが、無条件に光りそのものであり、光りの集まりがわが家であったことが観えてくるのである。わが家族は、形の上で生長の家に入っているものもいないものも、すべて光りであり、神の子であり、神そのものであったのである。わが家はそのままで全世界を照らす灯台であり、太陽の集まりであったのである。まことに、わが家は生長の家であったとの祝福をこめて礼拝の心がおこって来るのである。

 いままでは、生長の家の聖典を読んでから光りとなり、光りとなるために誌友会に集まり、神想観をすると思っていたがそうではなかったのである。光りはすでに顕れ出でましているのである。何がなくとも先づ人間は生長の家であり、光りであったのである。わがいのちが生長の家であったのである。生きているということが生長の家そのものであったのである。

 この光りを発見されて、すべてのものへの讃嘆、礼拝のすがたとして形にあらわれたのが尊師のお書き下さっている聖典なのであった。

 この聖典は、『あなたは、この本を読まなければ神の子になれませんよ』とか、『この本によって、はじめてあなたは救われるのですよ』という姿はしていないのである。逆に『私が目覚めてみれば、すべての人々はそのままで、何もつけたすことのいらない如来そのものであったということがわかったのです! こうして、私は、本によってみなさまを拝ませていただいているのです』という合掌のお姿をこの聖典に拝するのである。

 その光りを萬物に発見されたとき、尊師は天地一切のものと和解されたのであった。生長の家の光りを点ずるとは、天地一切のものを祝福し礼拝することであったのである。人類光明化運動とは全人類祝福運動であったのであり、全人類礼拝運動であったのである。

 時は来ているのである。そしてすべての病人はすでに光りとして立っているのである。この光りであることに素直に「ハイ」とうなづくことが「疑わずに光りを受ける」ということなのである。

 われわれは「我」を消してから、「罪」を浄めてから、光りとなるのではない。それは非実在なのである。それを放っておいて、“ハイ”と光りの中にとびこんだとき「我」は消えるのであり、「罪」も消えるのである。先づもって飛び込むことが大切なのである。誌友会場主も自分が先づ飛び込むことによって光りとして立つ。するとすべての誌友の中に光りを観ることが出来るのである。自分が過去の成績にひっかかり、現象を認めて、光りを受けて立っていなければ、自分も立つことが出来ず、誌友も立つことが出来ず、共だおれとなるのである。

 『疑わずにわが光りを受けよ』とは、愛行だとか、行だとか、どれだけ長く生長の家をやっているとか、そのようなものを条件とせずはじめからそのまま自分が光りであることを“ハイ”と宣言せよということである。受けるとは、自分が光りであると宣言することである。

 光りと光り、絶対と絶対とが響き合い鳴り合うというところが誌友会である。
<つづく>

1846復興G:2013/01/12(土) 06:43:14 ID:AB6RqYXc

     誌友会への所感 (榎本恵吾)――<4>

 この絶対の光りにじっと眼をとどめれば、そこにいのちが無言のままに喜びに輝きながら唱っている、その歌が聴こえて来るのである。それは、すべてのものが観世音菩薩であり、その妙智力のひびきがそこにあるからである。ここにいたって、語られる言葉の内容は問題ではなくなるのである。体験談の大小などは問題ではなくなるのである。むしろ、体験は小さければ小さいほどよいということ。小さいものの中に如何に大きないのちの喜びを発見するかということである。小さいことを如何に大きく喜び感動出来るか。その感動の大きさこそが重大な問題なのである。どんな小さなことの中にもそこには神が鳴っていたまうのである。

 すべての人の中に神を拝むということは、真の祝福ということであり、真の祝福とは、手段としての祝福ではないということである。手段としての祝福ではないとは、将来何かをやってもらうため、その人をある能力に到達せしめるためのテクニックとしての祝福ではないということである。本当にその人の中に、今、此処に天国の実現を拝むことなのである。将来聖使命会員になってもらうためとか、愛行をやってもらう菩薩となっていただくためとか、そのような手段としての拝みであっては真の拝みということにならないということである。

 尊師は、『生命の實相』によって人類を拝まれたのであると書かれている。それは絶対の荘厳な拝みであって、“この本によって人類を神の子にしてやる”などという姿をこの聖典はしていないのである。ただただ既に久遠の昔から如来であるところの實相を拝まれている姿が聖典なのである。

 われらの拝みも尊師の拝みの延長なのである。わが合掌は尊師の合掌なのである。わが祝福は、神の祝福であり、尊師の祝福であり、天国そのものの鳴り響いている姿なのである。

 愛行とは、“愛が行く”と書いている。すでに光りであり、神であり、愛であるところのものが行くのである。これから光りとなるために行くのでは愛がゆくことにはならない。それは暗が光りとなるために行くのであるから正しくはこれを“光明化しに行く”ということは出来ないのである。それは、その行によって光りとなるための成績をかせがせてもらうために行っているのであるから、むしろ自分が“光明化されに行っている”のであると言わなければならないのである。これは、尊師の開かれた光明一元の道ではない。

 そうではないのである。既に今、無条件にわれらは金剛不壊の光りとしてここに立っているのである。それは天皇の六合照徹の光りである。われらはすでに与えるべきものを持っているのである。自分はいままで与えるべきものがないと思っていたが、そうではなかった、自分は神とともに光りを与える側に立っていたのであった。自分は世界に光りを与え天地を神とともに創造し、天地萬物をささえ生かしめていたのであった。“光りが近づくとき、すべての暗黒は消える”と神示されているあの光りは、先づ、神なる光りが自分を照らすということではなく、この光りは、神とともに今、輝いている自分の光りであったのである。

 それ故、“光りが近づくとき、すべての暗黒は消える”とは“あなたが近づくときすべての暗は消える”ということである。ここにすべての人は、光りをはなつ光明化の人として立ち上がるのである。“今、すべての病人が立つことが出来る”というお言葉は、すべての人はいま、光明化運動の光明の主体者として、神の光りの先きとして輝いていることを神が祝し給いて発せられたお言葉なのである。

 ここに来て私たちに、この無条件の光りは、自分のみかわが家の全員に輝いており、わが家庭は光りの集団であるという本当のすがたが観じられるようになるのであった。
<完>

1847rei:2013/01/12(土) 08:15:57 ID:bo95azFI


なんと、素晴らしい!!!


ありがとうございます。

いつも隅っこで座っておりますが、参加させてもらってます。

合掌
ありがとうございます。

1848復興G:2013/01/12(土) 10:08:40 ID:AB6RqYXc

>>1847 :rei 様

ありがとうございます!

1849a hope:2013/01/14(月) 07:44:49 ID:TqpbsVIM
>>1842 復興Gさま

>a hopeさまのことも、まるで自分の家族のように思っていますよ。<

うれしい御言葉を、ありがとうございます。

合掌。

わたしも、復興Gさまはもちろん、この掲示板で知り合ったすべての方々に対して、
家族のような親近感を感じています。

わたしたちは、生長の家の大神さまの導きにより巡り合った、魂の家族なのだと思います。
まさに「生長の家」の家族ですね!

ですが、たとえ家族であっても、意見の相違があったり、相手を理解できなかったりすることはあると思います。
だからと言って、決して相手を悪人と決めつけたり、排除したりせず、

>生長の家の原理原則、「人間は神の子」と自分を拝み、すべての人を拝むということ。<

が真の「生長の家の教え」ということでしょうか…?

また、榎本恵吾先生の素晴らしい文章を紹介して下さりありがとうございます。
本当に、恵吾先生の文章は、拝読しているとどんどん心が軽くなっていくから不思議ですね!

いよいよ、今週末が第10回web誌友会ですね。

このweb誌友会って、参加者が少ないときでも、
reiさまのように静かに見守って下さっている先輩方がたくさんいるのですね。


実は、数日前についにわたしのパソコンが動かなくなりました。
それで、この掲示板にも書き込みができませんでした。(今は、家族用のものを使っています。)

ですが、早朝の時間などを利用して皆さんとお勉強させていただきますので、
今回もどうぞよろしくお願いいたします。

1850a hope:2013/01/14(月) 07:49:27 ID:TqpbsVIM

『第10回web誌友会』予告

≪日時≫
1月18日(金)21:30から
1月20日(日)23:30まで

≪テキスト≫
『生命の實相』頭注版第2巻 第3章および第4章
<第3章p.99〜115(17頁分)、第4章はp.116〜138(23頁分)>

1851復興G:2013/01/16(水) 09:57:38 ID:AB6RqYXc

>>1849・1850
a hope さま

コメントと、web誌友会予告、ありがとうございます。

>>わたしたちは、生長の家の大神さまの導きにより巡り合った、魂の家族なのだと思います。まさに「生長の家」の家族ですね!
ですが、たとえ家族であっても、意見の相違があったり、相手を理解できなかったりすることはあると思います。
だからと言って、決して相手を悪人と決めつけたり、排除したりせず、
>生長の家の原理原則、「人間は神の子」と自分を拝み、すべての人を拝むということ。<
が真の「生長の家の教え」ということでしょうか…?<<

なんと素晴らしいことを言ってくださるのでしょう。

そうですよね。
そして、「八紘一宇」という日本建国の理想は、八方の世界人類みな一つの魂(たま)の緒でつながった家族のように、仲よく拝み合って行こうということですから、この日本の心を全世界に広めて行くことが、イエス・キリストの説かれた「御国を来らす」ことであり、釈尊の説かれた金波羅華の浄土を地上に持ち来すことにもなる! それが、大日本世界国(ひかりあまねきせかいのくに)の理想である。だから、この真の日本を守ることが世界平和の礎になる。それが真の「生長の家の教え」なのだと思います。

ありがとうございます!

皆さま、今月のweb誌友会も、ご一緒にこの生長の家の真理を深く学んでまいりましょう。どうぞよろしくお願いいたします。

合掌

1852トキ:2013/01/16(水) 12:44:09 ID:cVSDAep.
>>1851

 そう言えば、戦前に入信された信徒さんの話では、戦前は信徒のことを「家族」
と呼んでいたそうです。今でも、「規約」を見るも「生長の家の信徒を家族と称す」
とあったはずです。

 誌友会、よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1853a hope:2013/01/18(金) 09:09:50 ID:TqpbsVIM

みなさま おはようございます。

いよいよ、今夜9時半から「第10回web誌友会」が開催されます。
今回も自分の参加出来る時間に参加させていただき、みなさんと「生長の家」の真理を
お勉強させていただきたいと思っています。

開会30分くらい前に、(準備祈願のお祈り)と、聖経「真理の吟唱」から、
『智慧と愛と赦しのための祈り』を謹写させていただく予定でいます。

今回も、復興Gさま、トキさまなど「生長の家」の大先輩から「生長の家」の真理を
教えていただけることに感謝の気持ちでいっぱいです。

この掲示板をご覧のわたしの愛する「生長の家」のみなさま、
わたしたち一人ひとりが喜びに満ちた『光』なんですよね。
このweb誌友会に集まって「生長の家」に大きな灯をともしていきましょう!

1854a hope:2013/01/18(金) 09:11:24 ID:TqpbsVIM

『第10回web誌友会』予告

≪日時≫
1月18日(金)21:30から
1月20日(日)23:30まで

≪テキスト≫
『生命の實相』頭注版第2巻 第3章および第4章
<第3章p.99〜115(17頁分)、第4章p.116〜138(23頁分)>

1855復興G:2013/01/18(金) 19:20:29 ID:AB6RqYXc

>>1853・1854 :a hope 様

合掌 ありがとうございます。

積極的なご参加、うれしいです。

お世話をかけます。

よろしくお願い申し上げます。

合掌

1856トキ:2013/01/18(金) 19:58:01 ID:LRgaH7Fg
 ありがとうございます。お世話になります。よろしくお願いします。

1857a hope:2013/01/18(金) 20:57:08 ID:TqpbsVIM

みなさま

第10回WEB誌友会開会30前になりましたので、「準備祈願」としての祈りの言葉を掲載させていただきます。

(準備祈願)
 住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。

  生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
  吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
  吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
  天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ

  住吉大神様、本日の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける 今夜の生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。

  住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。

  今夜の参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。

  有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます


世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

1858a hope:2013/01/18(金) 21:05:13 ID:TqpbsVIM

聖経「真理の吟唱」より
『智慧と愛と赦しのための祈り』

私は神の子である。
〝神の子〝であるということは神より小さき者という意味ではないのである。
〝神の子〝とは、〝神の具体化〝であり、姿形(すがたかたち)の幽(ゆう)なる神が、
姿形の顕(けん)なる神として自己実現して来たという意味なのである。
それゆえに神のもちたまえる全徳をわが身に体現し得(う)るのが〝神の子〝なる人間である。
もし、神の完全なる姿を具体化することができなかったならば、
それは完全な神の実相が宿っていないからではなく、神の完全なる実相が宿っていながら、
それを自覚しないからに過ぎないのである。

〝神の子〝は神の完全さを、自己の実相として内部に包蔵するのである。
それゆえに神の完全なる生命はわが内にあり、それを神想観によって自覚すれば、
その生命力はますます健全となるのである。
また、〝神の子〝なる人間には神の完全なる智慧はわが内にあり、
神想観によって、その智慧を自覚する程度に従って、それは自己を導く光となり、
日常生活にも、職業方面にも、あらゆる企画や行動に決して躓くことがなくなるのである。

人間は神の子であり、神の完全なる愛が自己の内に宿っているのであるから、
私の愛は完全であり、如何なる人の罪をも完全にゆるして咎めることはないのである。
そして罪は本来存在しないのであるから、その人に罪があらわれているのは、
その人の実相が陰になって隠されているだけであるから、その人の完全なる実相を観じ、
真理の光をもって陰の暗黒を消し去るようにしてあげれば必ずその人の完全なる実相が顕われ、
かつて敵と見えたりし者は味方となり、自分の協力者となり、相(あい)ともに真理の道を進むようになるのである。

神の愛は全包容的であり、如何なる人々をも看過(みのが)すということはないのである。
それゆえに神の子なる私の愛も全包容的であり、如何なる人々をも赦すのである。
唇にて〝彼を赦す〝というのは容易であるけれども、私は単に言葉にて「赦しました」というだけではなく、
全精神を以てすべての人々を赦すのである。
赦すというよりも、すべての人々の実相を観ずるとき、すべての人々の実相は神の子であるから、
赦すべき罪もないことを知って、その実相の完全さを解放するのである。
本当の赦しというのは、相手の悪や罪をみとめて、それを怺(こら)えながら赦してやるというのではなく、
罪なき彼の実相を観じて、それを解放し顕現させるのであるから、彼自身がそのまま完全になるのである。

われは今、すべての人間の〝神の子〝たる実相の完全さを観じて、
この世界がまことに神の創造になる完全世界なる事を知り、
一人として罪人も悪人もなき事を知り、悦びに満たされているのである。

感謝 合掌。

1859復興G:2013/01/18(金) 21:16:21 ID:AB6RqYXc

a hope 様

ありがとうございます。

素晴らしい開会「準備祈願」としての祈りの言葉と、「真理の吟唱」の『智慧と愛と赦しのための祈り』、しっかりと拝読しました。

ありがとうございます。

1860復興G:2013/01/18(金) 21:26:38 ID:AB6RqYXc

ありがとうございます。

開会時刻が迫ってまいりました。

テキスト『生命の實相』第2巻より、一部 謹写させて頂きます。

   第三章 「生長の家」の神人論

(前略 p.102 3行目より)
 それでわれわれの五官を通じて存在を見る心は「迷わしの心」であって、存在の実相を観る心ではないことがわかるのであります。だから、われわれは五官の感覚で見たり知ったりしたところのものを存在の実相だと思ってはならない。存在の実相はただの感覚では見られない状態にある。「美」を見、美を知るには、われわれの内に宿っている「美」が対象(あいて)にある「美」と互いにパッと照らし合わされた時に「なるほど、そこに美があるな」とわかる。絵心がないと絵の「美」が本当にわからない。名画はそれ自身「美」を備えていても、見る人の心に名画と同じ「美」が開発されていないと「なるほどそこに美があるな」とはわからない。すべてそこに「何か」がある事がわかるのは、自分の内にあるものと同じものがそこに出ているからであります。

 「善」でも同じことであります。ある人の善行を見てわれわれが感激して「そこに善があるな」と解るのは、われわれの内にある道徳性――すなわち「善」が相手にあらわれている「善」と、互いに照らし合わされた結果、「なるほどそこに善があるな」とわかるのであります。だから道徳性(善)の無い人、または開発されていない人には、他の善行を見てもそれを感心することができない、自分に無いものは相手にいくらあったからとてそれがわからない、聖者はひとの悪を見ないといいますが、それは聖者が悪を見ないのではない、聖者は自分の内に悪がないから、他人の悪が見えないのであります。

 ひとを常に批評的に観て、「あの人はあんな行ないをしたから、それは必ずこういう悪い動機からしたのであろう」と、常に想像をたくましゅうしているような人は、その人自身の心に「悪」があるから、相手に悪があるとわかるのであります。そうすると、他人の心情の「悪」が目につく人は必ず自身の心情に「悪」がある証拠であるから、決して他人の「悪」を批評したりする資格がないのであります。だから「他人が悪いな」と気がついた時は、「それがわかるのは自分の心のうちに悪があるからだな」と反省すべきであります。

 黒住教祖は「たち向う人の心は鏡なり」といわれましたし、大本教祖は「ひとが悪いと思っているのは皆わが身が悪いのであるぞよ」と明快に平易な言葉でこの大真理を道破していられます。イエス・キリストもパリサイ人が罪ある女を石にて打とうとしているときに「なんじらのうち罪なきもの彼女を打て」と、表面は道徳家でも審判(さば)きの心に満ちている人の心には悪が宿っていると反省を促していられるのであります。

 この反対も真実でありまして、「ひとが善い、あの人も善い、この人も善い」と常に思えるようになった人は偉い人であります。なぜなら常にその人の心には「善」が宿っているからであります。時々、ひとが善く見えたり、またすぐに悪が見えて来て相手に失望したりするような人は、時々自身の心に「善」が宿って来ても「悪」がすぐ宿って来て交替になる人であるから、われわれは自分の心に「善」ばかりを養って、他の「悪」を見ようにも見えないように修養をつみたいのであります。

1861復興G:2013/01/18(金) 21:30:14 ID:AB6RqYXc

<つづき>

     存在(もの)の実相(ほんとのすがた)は何によって知るか

 で、「美」を見るには自分の心に宿っている審美性すなわち「美」で照らし出して見なければわからない。「善」を見るには自分の心に宿っている道徳性すなわち「善」で照らし出して見なければわからない。こういうふうに何事でも、みんな自分の心の内にないものは見えないということが会得されるのであります。

 では、存在(もの)の実相(ほんとのすがた)を観るにはどうしたらよいかといいますと、「自分の実相(ほんとのすがた)」によって存在の実相を照らし出して見るほかはないのであります。「存在の実相」と「自分の実相」とが互いに照らし合わされ触れ合ってカチカチと如実に鳴る、そこに存在の不思議な円満な実相がありありとわかる。なるほどこの世界は神が創造(つく)り給うた完全円満な世界であるとわかるのであります。

 この存在の実相を知る力は五官でない。これは仏教でいえば「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」すなわち「実相覚」といって一種の霊覚であります、しかしそれは霊覚といっても人間の怨霊(おにょう)や動物の霊魂の姿を見るような第六感ではないのであります。このような第六感で見える世界はやはり鏡のように澄みきった実相の世界ではなく、「実相」という鏡の上に「迷い」という息を吹きかけてできた曇りの模様のようなものを見別けるにすぎないのであります。

 で、われわれが確実に存在(もの)そのものの実相(ほんとのすがた)を知るには、五官を超越し、第六感さえも超越してこの「実相覚」によるほかはないのであります、だからわたしはこの「実相覚」にのみ遠慮なく頼って存在(もの)の実相(ほんとのすがた)を観ることにするのであります。

 五官はその世界を眺めて「すべては物質でできている」と申します。「実相覚」はこの世界を眺めて、「すべては妙々不可思議の霊質でできている」と申します。どちらがはたして本当でありましょうか。(霊質とは仮に不可説の霊妙な本質につけた名称であります。)

 「物質」と「霊質」とは牲質においても、本質においても正反対であります。どちらか一方が「真」であれば、どちらか他方が「偽」でなければなりません。どちらか一方が「実在」ならば、どちらかの他方が「非実在」でなければなりません。二元論は自己撞着に陥ります。

 存在(もの)の実相をとらえるには、われわれは「実相覚」によって「一つの神」すなわち、在りとし在らゆるものを在らしめている一つの力、生きとし生けるものを生かしている一つの力を認めねばなりません。「在る」ということと「生きている」ということとは「実相覚」で観れば一つのことであります。在るものはすべて生きている。存在とは生命の別名である。生命とは神の別名である。神とは完全の別名である。すなわち存在するものはすべて生命であり、神であり、完全であるのであります。

 けれどもわたしがここに「存在する」というのは物質的な相(すがた)で「あらわれている」ということではないのであります。形がここにあらわれていることを人は「ここにものがある」といい、形があらわれなくなったら「それは無くなった」というのでありますけれども、それはただ「迷いの客観化したもの」(forms of error)が映って出たとか消えたとかいうことを知る五官のハタラキだけのことであって、物質は仏典の各所に説かれているように、夢の如く虚妄不実のもので、親鸞聖人も「火宅無常の世界はみなもて、そらことたわごと、真(まこと)あることなし」といわれました。

1862復興G:2013/01/18(金) 21:41:30 ID:AB6RqYXc

 ありがとうございます。
 すでに「準備祈願」で祈りをしておりますが、もう一度招神歌を唱えさせて頂きましょう。

  生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
  吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
  吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
  天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ

  生長の家大神、第10回web誌友会を導き給う。
  すべての人々を「人間 神の子」の真理の奥殿に導き給う。
  ありがとうございます。ありがとうございます。


神よ、荘厳にして美しき緑なす丘、
透きとおる蒼空(あおぞら)に漂う白き雲、
山々の樹々に囀(さえず)る小鳥の歌、
清冽(せいれつ)なる渓流(けいりゆう)に泳ぐ金鱗銀鱗(きんりんぎんりん)、
万物はあなたの影を宿して生き生きと輝いています。
あなたの輝きをもて人類の心を照らしたまえ。
すべての人類が争うことなく
唯一つの神の生命(いのち)の岐(わか)れなることを自覚し
互いに手をつないで
み心が既に�`実相の世界�aに成るが如く
現象の世界にも、至福平和の世界が実現いたしますように、あなたの無限の愛をわれにそそぎ給え。
  (谷口雅春先生『理想世界』昭和34年3月号 「3月の祈り」より)

ありがとうございます。ありがとうございます。

1863復興G:2013/01/18(金) 21:44:27 ID:AB6RqYXc

み心が既に�`実相の世界�aに成るが如く

→み心が既に“実相の世界”に成るが如く

1864a hope:2013/01/18(金) 21:46:37 ID:TqpbsVIM

復興Gさま、トキさま、みなさま
今回もどうぞよろしくお願いいたします。


>>1860に復興Gさまが、謹写してくださった箇所ですが、この箇所には、とても厳しい真理が書かれていると思いました。

特に、
p103 2行目〜

>>…ひとを常に批評的に観て、「あの人はあんな行いをしたから、それは必ずこういう悪い動機からしたのであろう」と、
常に想像をたくましゅうしているような人は、その人自身の心に「悪」があるから、相手に悪があるとわかるのであります。
そうすると、他人の心情の「悪」が目につく人は必ず自身の心情に「悪」がある証拠であるから、決して他人の「悪」を批評したりする資格がないのであります。
だから「他人(ひと)が悪いな」と気がついた時は、「それがわかるのは自分の心のうちに悪があるからだな」と反省すべきであります。…<<

わたしは今まで普通に社会で生きてきましたが、他人の悪ばかり目についてきました。
今でも仕事をしていると、同僚や上司の「悪」と思える言動が目につきます。
まだまだ、自分の心の中には、たくさんの「悪」があるのだなあ〜と反省しなければいけないのですね。

1865復興G:2013/01/18(金) 21:53:09 ID:AB6RqYXc

テキスト『生命の實相』をしっかりと拝読、心読、霊読、体読して、お感じになったことをご発表ください。

時間はたっぷりありますから、ゆっくりとまいりましょう。

私は、特に上記 >>1861の後半で、

>> ……「在る」ということと「生きている」ということとは「実相覚」で観れば一つのことであります。在るものはすべて生きている。存在とは生命の別名である。生命とは神の別名である。神とは完全の別名である。すなわち存在するものはすべて生命であり、神であり、完全であるのであります。<<

というお言葉に、感銘を受けています。

1866復興G:2013/01/18(金) 22:00:32 ID:AB6RqYXc

>>1864 :a hopeさま。

すばらしい反省ですね。
「実相世界の現象化」のために、古事記神話の天之岩戸開きの項で

二、鏡を作りて中枝(なかつえ)に繋(か)ける。
(現象的あらわれを心の鏡として、自己反省して心を改める)

とあったのを思い出しました。

神社にも、ご神体は「鏡」というのが多いですよね。

1867神の子さん:2013/01/18(金) 22:15:10 ID:LRgaH7Fg
>>1860

>>「あの人はあんな行いをしたから、それは必ずこういう悪い動機からしたのであろう」

 耳が痛いご文章です。(笑)

 ちょっと、脱線しますね。ごめんなさい。

 昔、シンドラーのリストという映画がありました。まあ、ご存知の人も多いと思います。オーストリアの山師というか
実業家というか、オスカーシンドラーという男が、第2次世界大戦でドイツ占領下のポーランドにやってきます。で、
ドイツ軍の将官に賄賂をばらまいて強制収容所の囚人をタダで使う権利をもらい、会計士のイザック シュターンという
ユダヤ人を無理矢理パートナーに仕立て上げ、ユダヤ人の金持ちを脅して出資させて軍需工場を造ります。で、大金持ち
になるのです。別に彼は、善意で始めた訳ではなくて、自分が金持ちになりたい、という動機で始めたのです。
 大金持ちになったシンドラーは、酒の女に狂います。それを見た、シュターンは軽蔑の眼で彼を見ます。

 ところが、働いているユダヤ人にとって、シンドラーの工場で働いている間は生命が保証されるのです。それで、彼らは
口々にシンドラーに「ありがとうございます」と感謝をするのです。最初はシンドラーは不愉快になります。別に彼らを
助けるつもりで工場を始めたのではないから。しかし、毎日、口々にユダヤ人が彼に感謝の言葉を現している間に段々と
シンドラーの言動が変化します。

 やがて、戦局の悪化で強制収容所が閉鎖される事になります。このままでは、工場で働いているユダヤ人はガス室に送られ
ることになります。そこで、シンドラーはサディストの強制収容所の所長 アーモン ゲートに莫大な賄賂をわたし、ユダヤ人
をアウシュビッツ移送から阻止します。もうけた金を吐き出してユダヤ人を救おうとするシンドラーに、シュターンは、尊敬と
驚きの眼で、囚人のリストを示して言います。「このリストは絶対の善です」と。

 そして安全なチェコに収容所を移転させ、役人に賄賂を渡して囚人の殺害を禁止させ、最後は破産してしまいます。
戦争が終わって、彼に感謝をする囚人にシンドラーは、泣きながら、自分があんなに浪費をしなければ、もっとたくさんの人命
が救えたのに、と後悔をします。

 別にシンドラーは始めの動機は利己的なものでした。が、途中から、人々の感謝の言葉で、動機が変化したのです。映画を
見ていて、そう感じました。そう考えると、動機よりも、やっている人を拝む姿勢が大事かな、と思いました。

 どうも、関係のない話をして、ごめんなさい。

1868トキ:2013/01/18(金) 22:15:42 ID:LRgaH7Fg
>>1867はトキです。ごめんなさい。

1869復興G:2013/01/18(金) 22:23:00 ID:AB6RqYXc

>>1867:トキ様

人間は誰でも皆、本来神の子である。

だから、どんなことがあっても、結局は神の子の実相が顕現するように、神はつくられているのである、ということかなと思いました。

ありがとうございます。

1870復興G:2013/01/18(金) 22:24:49 ID:AB6RqYXc

では、もう少し テキストを謹写させていただきましょう。 
<p.106より>

     実相の世界における神人としてのわれの存在

 本当の人間――神が造ったままの人間――わたしが常に「真の人間(リーアル・マン)」または「神人(ゴッド・マン)」といっている人間は物質の人間ではないのであります。それは円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、無憂苦の人間、絶対無病の人間――いくらわれらが上等の最上の言葉をもって説明しても、この物質界の事物を形容するためにできている現在のわれわれの通用語ではとても説明のしようがないほど完全な人間であります。

 そんな人間がこの世界に実際あるものかと疑う人もありましょうが、皆さんめいめいが今現に実相の世界においては、この霊妙な円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間……等々であられるわけで、それが本当の「あなた」なのであります。この「真の人間(リーアル・マン)」をおいてその他にあなたはないのであります。あなたは真の人間――すなわち「神の子」で神人(ゴッド・マン)なのであって、今あなたが、これこそ自分の身体(からだ)だと思っているその肉体は「ウソのあなた」「念の影のあなた」なのであります。

 『華厳経』の入法界品第三十四ノ十七には善財童子が文殊師利の教誨を受けて、無量の大知、無量の神通を得て、普賢菩薩の所行の道場に透入し普賢菩薩を見たということがあります。すると、「普賢菩薩の金剛蔵道場に在って如来の前に坐し、大衆に囲繞(いにょう)せられ、心虚空のごとくして染着(せんじゃく)するところ無く、心に退転なく、衆生のうちにおいて最勝最上にして、いっさいの世間能(よ)く壊(やぶ)る者なく、一切菩薩もその知恵の境界を察する能わず、不思議のもろもろの妙功徳を具(そな)え……云々」とありますが、この普賢菩薩というのはなんであるかというと「衆生のうちにおいて最勝最上である」とあるから、明らかに一個の人間であります。

 その人間が、一切菩薩もその知恵の境界を察する能わずというのですからよほどの大知恵を成就しているのであります。この大知恵を成就した普賢菩薩がどこに坐しているかというと、金剛蔵道場である。金剛蔵道場とは金剛不壊の実相世界であります。また『観普賢菩薩行法経』には「普賢菩薩はいまし東方の浄妙国土に生ず……身量無辺、音声(おんじょう)無辺、色像(しきぞう)無辺なり。この国にきたらんと欲して、自在神通に入り身を促(ちぢ)めて小ならむ」と書いてあります。衆生の一人でありながら、彼は実相世界(金剛蔵道場)に坐すときは、身量無辺、色像無辺であるので、われわれは神想観によって実相世界に帰一し実相人に接触することができるのであります。

 善財童子が金剛蔵道場の普賢菩薩を見たときの心はどうであったかと申しますと『華厳経』入法界品第三十四ノ十七によりますと、「正念して……虚空界に等しき心、一切無着の心、一切刹(せつ)を浄めて障礙(しょうげ)なき心、一切法の境界において障礙なき心、一切十方に充満する」等々の心を起こしたとあります。この正念して虚空界に等しき等々の心を起こすことが神想観であります。神想観中「生長の家」の神様の姿を拝するというのは、善財童子が正念して金剛蔵道場の普賢菩薩を見たのと同じようであります。

 すべての人は普賢菩薩と同じように衆生の一人であると同時に身量無辺、色像無辺、音声無辺なのであります。音声無辺であるというのは、われわれの実相は天地に満つるコトバであるからであります。これが金剛蔵道場すなわち実相世界における「われ」の実相(ほんとのすがた)なのであります。
<つづく>

1871復興G:2013/01/18(金) 22:26:15 ID:AB6RqYXc

<つづき>
 神想観に入る時に静かに端坐合掌瞑目して「われ今、五官の世界を去って実相の世界に入る。自分の坐っているのはこれ実相の世界であって、神の無限の知恵、無限の愛、無限の生命、無限の供給に満されている大調和の世界である。この大調和の実相の世界にいてわれ神の子として神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである」と念じて精神統一にいるのは、自己が衆生の一人であると同時に普賢菩薩と同じように身量無辺、音声無辺、色像無辺である自己の実相を悟らんがための行法でありまして、これこそ真正の観普賢菩薩行法なのであります。

 本当の自分の実相は今も儼然(げんぜん)として実相の世界(エデンの楽園)に存在する、今までも天地とともに生きとおして来た、これからも天地とともに生きとおして、朽ちず、老いず、苦しまず、病まず、悩まざる円相的妙楽の存在、金剛身、不可壊身、無量無辺身、自由自在身、久遠の如来、アブラハムの生まれぬ前より在るところの「久遠のキリスト」なのであります。

 今まで自分たちの実相をこの肉身であると思っていたのは自己の真性を磔(はりつ)けに架け、自己の実相をエデンの楽園から仮に追放して有限身をもって無辺身に換え、有限生命をもって無限生命に換え、自己の生命の実相を蔽い隠していたのであります。その蔽いを取りさって自己の内に宿るキリストを復活せしめる、これがキリストの再臨であり、普賢菩薩の在(おわ)す実相浄土「東方浄妙国土」の地上再現なのであります。

 これこそ一切苦厄を度(すく)う神癒の根本原理であってこの原理を、自分に宿る真理と宇宙に存する真理と相触れてカチカチ鳴る体(てい)の直接的認識作用すなわち「実相覚」によって悟らなければ、われわれは「本当の自分」――金剛不壊身(こんごうふえしん)の自己を掴むことができないわけで、この自己を掴むためにする修行が、毎日一定の時間を期してみなさんに実修していただいている「神想観」の修行であります。

 天理教祖が最初神憑(かんがか)りになったときに、その憑(かか)って来られた神は、「元の神、実の神である」といわれた。この「元の神、実の神」というものこそ「本来の世界にいる金剛身(かみ)」すなわち「実相の世界にいる神人」でありましょう。それはたんに普遍的な原理とか法則とかいうような冷たい存在ではなく一種の人格的存在である。しかしそれは物質的肉体をもっていられるかというと、それは霊妙身、金剛身、自由自在身であって、肉体をもっていられるのではない。これを仏教では「如来(にょらい)」といっているのであります。

 「如(にょ)」は「真如(しんにょ)」であり「大生命」であり、「神」であり、宇宙独一真神であります。この「真如」から来生(らいしょう)せし神人が如来であります。『生命の實相』第五巻霊界篇に収録せる「デンマーク戯曲家の霊界通信」にも、「人間とは神から放射された観念である」ということが示されてあるのでありますが、「神から放射された」ということは「真如から来生した」ということと同じことであります。

 太陽から放射された光線は、太陽とは決して別な存在ではない、太陽を離れて「太陽の光線」は存在しない、「太陽の光線」と太陽とは一体である。それと同じく、「真如」から離れて「如来」は存在しない、「如来」と「真如」とは一体である。そのごとくまた「神から放射された観念」であるところの「人間」も、「神」から離れて存在することはできないのであって、神と人間とは一体なのであります。

 だから「生長の家」の「智慧の言葉」には「道を歩く時には今神が道を歩いていると思え」とあるのであります。おなじようにわれわれは机に凭(よ)っている時も「今神が机に凭っている」と思うべきであります。夜寝床に横になる時にも「今、神が横たわっている」と思うべきであります。こういうようにして常にわれは神人であるという自覚を失わないようにすると、われわれは常に朗らかな光線ゆたかな気分を維持することができ、自分の実相の円満さが「影であるところの肉体」または「境遇」に映写されてきて、肉体は健康に境遇は幸福になってくるのであります。

 ありがとうございます。

1872a hope:2013/01/18(金) 22:46:54 ID:TqpbsVIM
>>1866 復興Gさま

ありがとうございます。

唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、
『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……?

相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、
すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか?

また、生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」
とも言っています。

「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。

御教示いただけるとありがたいです。

いつものごとく、質問だけしておいて、申し訳ありませんが、
わたしは、明日仕事が早番なので、今夜はこれでおやすみさせていただきます。
明日、また参加させていただきます。

それでは、わたしの愛する「生長の家」のみなさま、おやすみなさい。

1873トキ:2013/01/18(金) 22:52:55 ID:LRgaH7Fg
>>1871

「神想観に入る時に静かに端坐合掌瞑目して「われ今、五官の世界を去って実相の世界に入る。自分の坐っているのはこれ実相の世界であって、神の無限の知恵、無限の愛、無限の生命、無限の供給に満されている大調和の世界である。この大調和の実相の世界にいてわれ神の子として神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである」と念じて精神統一にいるのは、自己が衆生の一人であると同時に普賢菩薩と同じように身量無辺、音声無辺、色像無辺である自己の実相を悟らんがための行法でありまして、これこそ真正の観普賢菩薩行法なのであります。」

 私自身、フルタイムで仕事をしているので、仕事で接する場合には、なかなか相手を拝めない時があります。
仕事をしている人の多くはそういう人が多いと思います。それで、プロ野球や漫才をみて、ビールを飲んで寝てしまう。
 そうやって、ストレスの発散をする。

 一般の人は、そういう人が多いと思います。
が、それでも、やはり昼間の事を考えてしまう場合があります。で、若い頃は、まあ、今でもそうですが、
クヨクヨと考える場合があります。

 ただ、そんな心境で考えても、ロクな事はないみたいです。

 昼間、何があっても、原理原則に戻り、祈りで考えてみる。その中で、本当の向上があると思います。
 原理、原則というのは、ここに書かれている事だと思います。

 年齢が高くなると自然と悟とばかり言えなくて、やはり、自分から求めて学ばないと、ある年代で向上が鈍化すると
思います。これは恐い事だと思います。やはり、真理の本を読み、謙虚に考える。そういう姿勢は、きっと死ぬまで
必要なのかな、と思います。

 忙しくなると、どうしても、真理は真理、実生活は実生活と思いがちですが、本当は忙しい時ほど、学ぶべきなの
かと痛感します。でも、偉そうな事を言っても、まだまだ、私は修行中です。

1874復興G:2013/01/19(土) 00:05:36 ID:AB6RqYXc

>>1872 :a hopeさま。

>>唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……? 相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか?<<

>>また、生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」とも言っています。
「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。
御教示いただけるとありがたいです。<<

――たいへんよい質問を出してくださって、ありがとうございます。
(私は、テキストの御文章をアップしてからお風呂に入ってきました)

一つずつ、じっくりと考えてまいりましょう。

まず、①ですね。
>>唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……? 相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか? <<

そういうことですね。
でも、唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、『心の眼鏡が曇っている』ということも「ない」のですよね。

「ないはずの悪」が見えてしまったというのは『自分のかけている心の眼鏡が曇っていたから』だ、と気がついたら、長くそこ(反省)に引っかかっていないこと。神の子はサル(反省ザル)ではありませんから、早くそこから去る。

自分を責めてばかりいないことです。あまり自分を責めていると、かえって周囲の人が責められているような、暗い気持になってしまうものです。完全な神だけしかない! というのが根本真理なのですから、そこに立ち還らなくては。
「光明一元」の、「悪は無い」――「自分の曇りもない」ところ、「自他一体の完全な神の生命だけがある、ありがたい。ただ感謝」というところに立ち還ることですね。

完全にその境地に到れば、「衆罪は霜露のごとし、慧日よく消除す」で、悪は消えてしまう、ということになると思います。

それは、a hopeさまも、
>>1822
>>わたしは最近、立ち向かう相手が現象においてどんな姿をしていようとも、自分がしっかりと「生長の家の教え」を理解さえしていれば、そんな姿は現実ではないのですから、まったく気にならなくなるような気がしてきましたよ。<<

と書かれていた通りですね。


②については、また明日考えさせて頂きましょう。
ありがとうございます。
では、おやすみなさい。

1875復興G:2013/01/19(土) 10:01:33 ID:AB6RqYXc

皆さま、おはようございます。

今朝、神想観をしましたら、次のような思いが浮かんできました。

生長の家の人類光明化運動は、神が始められた神の国運動である。

しかし、現在の有様は、天照大御神が岩戸隠れなさった時のようだ。『古事記と現代の預言』によれば――

≪須佐之男命の乱行により、時間の順序を司る天斑馬(あめのふちこま)が逆回転して、昼が夜になってしまった。即ち明るかるべきこの世界が暗くなってしまったのであります。すると、高天原(たかあまはら)も暗く見えるし、葦原中國(あしはらなかつくに)もことごとく暗く見えるようになったのであります。高天原は實相世界ですから永久に暗くなることはないのですが、見る人の心の秩序が顛倒して心が暗くなれば、どんなに光明遍照の實相世界でも暗く見えます。それは悟りをひらいた人には、この世界は「唯心所現の世界」即ち心の想いが展開した世界だとわかりますが、悟りのひらいていない人には、この世界が物質の塊の暗黒世界だと見えるようなものであります。

 高天原は實相世界(生命の世界)であり、夜見國(よみのくに)は暗(やみ)の國(無の國・暗は“光の無”であって積極的存在ではない)であり、黄泉國(よもつくに)とも称(い)われて、死の國であります。「生命の世界」が「無の國」にはたらきかけて、その中間にできた現象界が葦原中國(あしはらなかつくに)であります。葦(あし=悪)とも蘆(よし=善)とも称する青人草(人間)の生うる世界で、善悪混淆の現象世界が葦原中國であります。それが心の持ち方が顛倒して“悪し”の面ばかりがあらわれるようになり、喧々囂々(けんけんごうごう)として、あたかも安保反対闘争時の國会内外の乱闘さわぎにも似た状態があらわれて、所狭きまでむらがる蝿がブンブンと涌き立つような大騒ぎでいろいろの妖(わざわい)が無数に起こって來たというのであります。≫

――というよな状況になっていると思われます。

 しかし、現象界は実相世界の完全なすがたを、時間的順序を通して段階を追って展開して行く映画のようなものですから、天照大御神の岩戸隠れも必要なのである。それがあればこそ、岩戸開きが行われた後、いっそう素晴らしい世界が展開して行くのである。だから、憂えてばかりいる必要はないのだ。――そのように思われたのであります。

 必ず、岩戸開きは行われて、いっそう素晴らしい光あまねき世界が展開するときが来る! そのようになっているのだ! だから、>>1825の行事を、粛々と実行して行けばよいのだ!
 ――そういう確信が湧いてまいりました。

1876復興G:2013/01/19(土) 10:16:52 ID:AB6RqYXc

>>1825 修正
六、太御幣(ふとみてぐら)を奉祀(ほうし)して祝詞(のりと)をあげる。
× (�`大生命�a及び祖先の生命をお祀りして聖経または祝福の祭文を読誦する)
○ (“大生命”及び祖先の生命をお祀りして聖経または祝福の祭文を読誦する)

1877トキ:2013/01/19(土) 10:22:41 ID:uEWrvcJY
 おはようございます。素晴らしいご指導、ありがとうございます。

 他の皆様も、ぜひ、どんどんご参加下さい。

1878トキ:2013/01/19(土) 10:40:07 ID:uEWrvcJY
 人生でも、山あり谷あり。活動をしていても、うまく行く時期もあれば、どん底の時期もありました。

 法人としての生長の家もそうでしたね。白鳩が「決戦」という名前になった時期もあれば、紙がなくて
印刷物が出せない時期もありました。谷口雅春先生が公職追放をされた時代もありました。
先達はそれを見事に乗り越えてきたのです。

 後輩である我々も、後の世代に恥じないような態度で、この難局を乗り越える姿勢が大事だと
思います。

1879神の孫:2013/01/19(土) 11:18:57 ID:pic01rm6

虚説とは= 物質有り。  ですよね。

この物質世界が、この肉体が有る。と信じる。→ これ虚説。  ですかね。

1880復興G:2013/01/19(土) 11:36:01 ID:AB6RqYXc

さて、>>1874で書いたこと――

≪ >>唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……? 相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか?<<

――そういうことですね。でも、唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、『心の眼鏡が曇っている』ということも「ない」のですよね。
「ないはずの悪」が見えてしまったというのは『自分のかけている心の眼鏡が曇っていたから』だ、と気がついたら、長くそこ(反省)に引っかかっていないこと。神の子はサル(反省ザル)ではありませんから、早くそこから去る。≫

――上記は、「小懺悔」にとどまっていてはだめだ。「大懺悔」すなわち、今回のテキスト『生命の實相』第2巻では

≪本当の人間――神が造ったままの人間――わたしが常に「真の人間(リーアル・マン)」または「神人(ゴッド・マン)」といっている人間は物質の人間ではないのであります。それは円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、無憂苦の人間、絶対無病の人間――いくらわれらが上等の最上の言葉をもって説明しても、この物質界の事物を形容するためにできている現在のわれわれの通用語ではとても説明のしようがないほど完全な人間であります。
 そんな人間がこの世界に実際あるものかと疑う人もありましょうが、皆さんめいめいが今現に実相の世界においては、この霊妙な円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間……等々であられるわけで、それが本当の「あなた」なのであります。この「真の人間(リーアル・マン)」をおいてその他にあなたはないのであります。≫

とある、その「真の人間(リーアル・マン)」に立ち還ること。そして、ただ喜ぶこと。それが「大懺悔」である。

≪自分を責めてばかりいないことです。あまり自分を責めていると、かえって周囲の人が責められているような、暗い気持になってしまうものです。完全な神だけしかない! というのが根本真理なのですから、そこに立ち還らなくては。「光明一元」の、「悪は無い」――「自分の曇りもない」ところ、「自他一体の完全な神の生命だけがある、ありがたい。ただ感謝」というところに立ち還ることですね。≫

と、>>1874に書いていましたね。

ここでちょっと、プライベートなうれしい体験を書かせて頂きましょう。

今年は、私の最初の孫が20歳、成人式を迎えたんです。
長男の長男なのですが、息子の勤務地の関係で、ちょっと離れたところに住んでいます。
で、長男家族と両祖父母(嫁の両親も招待)そろって初孫の成人祝いの食事会を持ちました。

そしたら、孫が感謝の言葉を記したカードをくれました。
私宛のカードには、こう書いてありました。

<おじいちゃんへ
信念を貫くために、いつまでも志を持って生き生きとしたおじいちゃん。
小さい頃から、いつも明るいおじいちゃんと一緒にいると、本当に楽しくて幸せでした。
おじいちゃんのように、夢のある、いつも明るくて人から慕われる大人になりたいです。
   平成25年1月14日
             孫の名>

――孫からこんなカードをもらって、私は最高に幸せでした。
そして、このような幸せな時を持つことができたのは、谷口雅春先生のお説きくださった生長の家の御教えによって生きてきたからであると、あらためて感謝の念を深くしました。そして、これからもご恩報じのために、ますます明るく勇往邁進して生きなければならぬとの決意を新たにしました。ありがとうございます。

1881復興G:2013/01/19(土) 11:44:05 ID:AB6RqYXc

>>1879 :神の孫 様。
>>虚説とは= 物質有り。  ですよね。
この物質世界が、この肉体が有る。と信じる。→ これ虚説。  ですかね。 <<

ありがとうございます。
その通りですよね。

「神の孫」様のご発言を機に、

>>また、生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」とも言っています。
「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。
御教示いただけるとありがたいです。<<

の課題に取り組んでまいりましょう。

まずは、皆さまからの活発なご意見ご投稿をお待ちいたします。
ありがとうございます。

1882トキ:2013/01/19(土) 11:50:14 ID:uEWrvcJY
>>1880


 御孫様のご成人、おめでとうございます。さすが、復興G様の御孫様です。立派な方だと感服しました。

 子供の頃は、大人になると自動的に「立派な人」になるのだろう、と想像していましたが、そんな事は
なくて、普段、強い信念をもち、まじめに努力しないと尊敬される大人にならないとわかりました。
 その意味で、正しい信仰を持つ事こそが、高齢になってからの人生を左右すると思います。
 復興G様は、その点、やはり先達だけに、尊敬できます。

 余談ですが、取引先のある老人の方が違う意味で教訓になりました。某帝国大学を卒業し、当時の
高等文官試験(今の国家公務員1種試験)に合格し、某官庁に勤めていた人です。が、威張るので
家族からも嫌われてしまい、退職後は天下り先で寂しい人生を送っていました。仕事で接する事が
あったので、休み時間に話し相手になると、喜んでおられました。生長の家の行事にも誘いましたが、
ご自分の信仰があるので、断られてしまいました。

 復興G様は、その点、ご高齢と拝察しますが、信徒から尊敬され、家族から愛され、ネットでも
頼りにされています。さすがに生長の家の先達だけの事はあります。信徒の手本ですね。

 私も、復興G様を手本に、精進を重ねたいと思います。

1883復興G:2013/01/19(土) 12:43:00 ID:AB6RqYXc

>>1882 :トキ様。

過分なお言葉に、穴があったら入りたい気持です。

でも、「実相の真人(リーアル・マン)なる私を讃嘆してくださったと思い、感謝いたします。
ありがとうございます。

1884復興G:2013/01/19(土) 12:48:12 ID:AB6RqYXc

さて、ほめて頂いたので、② の課題に取り組む前に、また調子に乗って脇道へ行くことをお許しください。課題と必ずしも無関係ではないと思いますので……

>>1880 の最後に孫のことを書かせて頂いたつづきなんですが……

私は成人式の翌日15日に、孫宛にメッセージを贈りました。次のようなことを書いて――。

≪……14日成人祝いの日、東京では朝から空は暗く雨が降っていて、やがて雪に変わり、そのため交通渋滞も起きて私は祝賀会場のつくば山水亭へ行くのに40分も遅れて、ご迷惑をかけてしまった。

せっかくの祝いの日に、なんで?
と、私もはじめは思った。

しかし、思い直した。
悪い天気なんていうものはない。雨も、雪も、嵐も、みんな素晴らしいよい天気なのだ。
毎日晴ればかりだったら、植物は育たない。干ばつで土地はひからび農作物も穫れなくなって、飢饉になる。雨も必要、雪も必要、嵐も必要なんだ。そう思い直した。

人生も、晴れのような、楽なことばかりではない。それがいいのだ。苦労もあった方が、人生の味わいも深くなり、喜びも大きくなる。人間が大きくなるのだ。だから、困難も、挫折もよいことなのだ。だから、雪の日の成人祝い、おめでとう!

ドイツの文豪ゲーテは、「若くして求むれば、老いて豊かなり」と言った。

この場合の「求める」というのは、他に求めるのではない。
志を高く持って、どんなことに出会っても貪欲にそこから魂の栄養を吸収するということ。
「豊か」というのは金持ちになることではない。精神的財産をいっぱい持っていること。

アンドレ・ジイド(1869〜1951)というフランスの文学者は、「文学における影響について」という講演で、次のように言っている。(ジイド『プレテクスト』小林秀雄・河上徹太郎訳より)
       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆
 紳士淑女諸君
 私はこれから影響というものの弁護をいたしたいと思います。
世には善い影響と悪い影響とがある、そう一般に考えられております。私はこれを区別しようとするのじゃない、凡そ影響というものを善いものも悪いものも引っくるめて弁護しようとするのであります。
 甚だ善い影響だが、誰もそうとは思わない、そういう影響があると思う。
 絶対に善い影響、絶対に悪い影響というようなものはない、善い悪いはこれを受けるもの如何にあると思います。
 私の考えでは、世には何事につけても巡り合せが悪く、事がうまくはこばないような劣等な性質を持った人があるが、反対に、何でも結構な糧(かて)となし、言わば石ころもパンに変えてしまうような性格をもった人もあると思います。「ヘルデルがまさに私に教えたいと思ったものは、すべて貪り食らった」とゲエテは申しております。
       ○
 偉大な精神が貪るように影響を求めるというのも、そういう人たちは自分自身の富を確信し、本能的な感情に溢れ、自分に固有の豊富さに就いて淳朴で、新しい花のひらくのを楽しみにして待っている、そういう具合に生きているからです。
       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆
――この中から生き方の糧となるものをくみ取って、幸福な人生を築いて行ってほしいと切に願っている。
 では、あらためて、成人おめでとう! 君は必ず人生の勝利者となる! ≫

――上記は、私から孫に贈ったメッセージの一部です。

1885復興G:2013/01/19(土) 13:27:09 ID:AB6RqYXc

上記のメッセージをここに貼らせて頂いたのは、アンドレ・ジイドの言葉にも、常に自分の偉大な可能性を信ずる光明思想が背後にあると思ったからです。

≪本当の人間――神が造ったままの人間――わたしが常に「真の人間(リーアル・マン)」または「神人(ゴッド・マン)」といっている人間は物質の人間ではないのであります。それは円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、無憂苦の人間、絶対無病の人間――いくらわれらが上等の最上の言葉をもって説明しても、この物質界の事物を形容するためにできている現在のわれわれの通用語ではとても説明のしようがないほど完全な人間であります。≫

と言っても、
<釈迦の弟子中でも有数な高弟、迦葉(かしょう)さえも、この肉体にとらわれて本当の体――金剛身(こんごうしん)、不可壊身(ふかえしん)、常住身を見ることができなかったらしいことが、お経に出ているのであります>
と、テキストの112ページには書かれています。

≪『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』巻三、金剛身品には次のように書いてあります。
 「善男子(ぜんなんし)、如来身とはこれ常住身、不可壊身(ふかえしん)、金剛身、非雑食身(ひぞうじきしん)、すなわちこれ法身なり」と釈迦が弟子の迦葉にいわれた。すると迦葉は釈迦に向かって「世尊、あなたの所説のごとく、かくのごとき霊妙身をわたしは少しもあなたに見ません。ただ無常、破壊(はえ)、塵土(じんど)、雑食(ぞうじき)等のあなたの身を見るばかりです。なぜかといえば、如来よ、あなたは今涅槃(ねはん)というて肉体が滅びようとしていられるではありませんか」といった。そこで釈迦が迦葉に答えていわれた「なんじ、いまわたしの肉体が死ぬにしても、本物のわたし――すなわち如来の身を不堅(ふけん)、可壊(かえ)の無常なる凡人の身だというてはならない。なんじは今まさに知らねばならない、如来の身は無量億劫、無始無終に堅固であって破壊しがたきものである。……」と。これはキリストが「アブラハムの生まれいでぬ前(さき)よりわれは在る」といったのと好一対で、たれでも「本当の自分」というものを実相において眺めた者はそれがわかるのであります。≫
(テキスト『生命の實相』第2巻112〜113ページより)

私たちはふだん肉眼を持って目に見える現象世界を見ていますから、目に見えない実相身を悟ることは、釈尊涅槃の時でも、高弟の迦葉尊者でさえできていなかった。それくらい、ある意味で難しいことなんですね。

で、
>>生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」とも言っています。
「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。
御教示いただけるとありがたいです。<<

これも、>>1879で「神の孫」様が
>>虚説とは= 物質有り。  ですよね。
この物質世界が、この肉体が有る。と信じる。→ これ虚説。  ですかね。 <<

と書き込んでくださいました通りだと思いますが、それが「悪」とどう違うか――なかなか難しい課題だと思います。言葉の上だけで「こうだ」と論議することはできても、魂が納得して、生まれ更わりができないと――と、思ってしまいます。

でも、いろいろな面から、御教えの骨髄、精髄に迫ってまいりましょう。

皆さまのご発言をお待ちします。
ありがとうございます。

1886トキ:2013/01/19(土) 18:23:29 ID:uEWrvcJY
 ご説の通り、「虚説」とは、物質あり、という考え方かと思います。とはいえ、かって、大川隆法が
「谷口雅春霊言集」なる本を捏造し、純粋な信徒を惑わした時に、機関誌には「虚説に惑わされるな」と
いう題材で文章が載りました。広く考えると、神様から天下った信仰ではなくて、人間が造った捏造の
信仰も意味するのかもしれません。

 ただ、安易に「虚説」という言葉を使うと、濫用と言いますか、自分と違う意見はみな、虚説という
事になりかねないと思います。中世の欧州では、「異端」という言葉が暴走して、魔女狩りのような
ことを宗教家がしました。

 あくまでも自分を戒めるための言葉であると、私個人は考えています。

合掌 ありがとうございます

1887復興G:2013/01/19(土) 19:46:26 ID:AB6RqYXc

そうですね。
ありがとうございます。

「虚説に和解してはならぬ」というのは、特に『生命の實相』第14巻第4章(p.55〜65)に書かれていることでありますが、
ここを部分的に読むだけでなく、『生命の實相』第13巻〜14巻の「倫理篇」全体をしっかり拝読して、谷口雅春先生の
お悟りの境地に近づく努力を抜きにして喋々すると間違うおそれが多いと私は思います。

私は今、その点をしっかりとふまえるよう、「倫理篇」の中の大切なポイントを謹写中です。
後ほどアップさせて頂きます。

1888SAKURA:2013/01/19(土) 20:21:43 ID:dGeUHjWM
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

■大変…御無沙汰いたしております。
いつも「復興G様」の【抜粋テキスト…】ありがとうございます。
実は〜〜〜><事務所に「生命の実相…2巻」を置いていましたし〜〜〜
遅くなりましたが…【WEB誌友会】に参加させて頂いても宜しいでしょうかう??

唯今【事 務 所】にいます。

「トキ様」の“コメント”に私も“後…で?”……と「先延ばし??」かと思いました。…が?
今、旨く言葉として表現が??出来かねますかもと。此処で、簡単に“コメント”させて頂きます。

さて!!実況中継ですが(冷汗)今から【2巻…】を読んでいきます。…が?現在の時点の思考です。

■■【 虚説 = 悪 】でしょうかとの事ですが???
先程「トキ様」の投稿の【魔 女 狩 り】です〜〜〜ョネ!
あの時代は、【人間が霊的な事が、できます人に対し、そうですネ!例えば“物品を移動する事”が
できる人…そのような人に対し“対象人間”とされまして【魔女狩り…】でしたモノ。
当時の「霊媒師」は、悲惨な時代背景でしたでしょうかと。
つまり、世間一般では【認 め な い 心】そのものです〜〜〜ョネ?

■例えば、私も【悪 は 本 来 無 い】と思います。…が?それはこの「現実世界=現象世界」
に於けます視野にて、見える範囲?感じます範囲?では……?今の私は…ここでよく云いますが??
【吸血鬼・ゾンビの人達】は、【悪との取引での…行動】なのです〜〜〜ョネ!そのような人達は、
【悪…との自覚】は、全く無いものと思っております。…が?この【捉え方の相違…】

では?私と云いますと【吸血鬼・ゾンビ達は…“悪”そのモノ】と見ている訳です〜〜〜ョネ!
ここが【ポ イ ン ト】で、彼らの“悩み”を、第三者である他人が、相談を受け聞いていく
事は、果たして【解決策…】は、どの様になりますでしょうかと。

それは〜〜〜“悪…”という定義の相違ともうしますか【無理…】というものではないでしょうかと。

同じような「境遇・環境の人間…」が、そこで【悪…の定義】が異なる事を、自覚しまして、
始めて“目ざめる!”とします、そのような人間を【救済ができる…】のではと思います。
【 類 の 法 則 】かと。

■【本来は、悪は無いのです。】…が?、私の見方と?彼らの見方?の相違にて見えるのは、
彼らが【お金…】に負けて、相手に対し如何なる行動【嫌がらせ行動・からかいの行動…etc】を、
しても、それは、かれらの【世界観での尺度…】で見てるのですから〜〜〜
本人達に取りましては【悪…】とは取らないのでしょうかと。つまり、私が、彼らに対し
【悪 … 悪 魔】と見なしても、通じないのも“当たり前”ととるべきでしょうか?ですから、
【私は悪は本来ない!と……彼らが、ワザと来ても…><本来は存在しない!と見ていく事】が、
この五感で見えます【現象…】に、惑わされず、いつしか消えていく事に繋がるのではと思います。

【吸血鬼・ゾンビ…】は存在しないという感じで…視界を変えて、みていけば〜〜〜
これらの「現象…」に振り回される事もなくなるのではと、皆様の投稿を閲覧しながら、
フト!フト!〜〜〜思いました次第です。…が?
この【訓 練 中】〜〜〜〜〜でしょうか??

1889SAKURA:2013/01/19(土) 20:32:45 ID:dGeUHjWM
「復興G 様」 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1887の「復興G 様」の言葉から〜♫〜
■>「虚説に和解してはならぬ」というのは、特に『生命の實相』第14巻第4章(p.55〜65)
…云々…<  (一部抜粋の言葉)

本当に【この言葉…】実感しました。“認めない〜〜〜こころ〜〜〜”ですネ!!
つまり【つかまえる“心…”も…認める事になりますでしょうかと〜〜〜】ですが?
とても〜〜〜とても〜〜〜【難問…】です。唯今!実行中…です。

1890a hope:2013/01/19(土) 22:02:04 ID:TqpbsVIM
みなさま こんばんは

>>1867トキさま

シンドラーのリストという映画の興味深いお話をありがとうございます。
わたしも、そのお話ほどではないのですが、似たような経験があります。

わたしがPTA役員をしていた時なのですが、PTA会長の役の引き受け手がなくて困っていると、
あるお父さんが快く引きうけてくださいました。
彼は年齢もとても若かったですし、わたしには最初、彼がとても頼りなく見えました。
ですが、周りから、快く引き受けてくれたこと感謝され、
「会長、会長」と呼ばれ、頼りにされていくうちに、
最初頼りなく見えた彼にだんだんPTA会長らしい貫禄が出てきました。
そして、最後の卒業式にはとても立派な感動的な挨拶をしてくれました。

そんなことから、わたしは、人というのは、周りから感謝されたり、
頼りにされたりることでずいぶん変わるものなのだな〜と実感しています。

先日、うのはなさまが、信仰/体験板>>914で「ありがとうごさいます」
の言葉が起す奇蹟のお話を紹介してくださいましたが、心からの感謝の気持ちというのは、
ほんとうにありえない奇蹟を起こせるのではないかと感じています。


>>1874>>1880復興Gさま

わたしの二つの質問を取り上げて下さりありがとうございます。
①>>唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……? 相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか? <<

に関しては、お返事をありがとうございます。
小懺悔は必要だけれども、長くそこに引っかかっていてはいけないのですね。
「真の人間(リーアル・マン)」(つまり「神の子」ですよね?)の自覚=大懺悔の心境にならなければいけないのですね。

そして、この自覚を深めるために、神想観をするのですね!
だんだん解ってきました。
すばらしいをご指導をありがとうございます。

②に関しては、わたしも、生命の實相「倫理篇」をじっくり読みなおす必要を感じています。
引き続いての御指導、どうぞよろしくお願いいたします。

また、お孫さんがご成人されたとのこと、おめでとうございます。
すばらしいお孫さんの感謝のお言葉と、復興Gさまのお孫さまへのメッセージ、
今から、もう一度ゆっくり拝見させていただきます。

感謝 合掌。

1891a hope:2013/01/19(土) 22:02:48 ID:TqpbsVIM
SAKURAさま

ご参加、とてもうれしいです。
「悪」と「虚説」の関係を本当に理解するのはとても難しいことのようですね。

ですが、これは「生長の家の教え」を正しく法燈継承するには、
避けては通れない重要な問題だとわたしは感じています。

ここで、お勉強できることに心から感謝しています。

そして、先輩方の御意見をたくさん聞かせていただいて、
自分なりに納得のいく答えが見つかればいいなと思っています。

1892a hope:2013/01/19(土) 22:18:16 ID:TqpbsVIM
>>1879神の孫さま

はじめまして!

>>虚説とは= 物質有り。  ですよね。
この物質世界が、この肉体が有る。と信じる。→ これ虚説。  ですかね。<<

つまり、唯神実相 (一元論)以外の二元論を信じることが虚説であるということなのでしょうか…?

ご参加してくだったことに心より感謝しています。
御教示ありがとうございました。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

1893復興G:2013/01/19(土) 22:37:50 ID:AB6RqYXc

a hopeさま

おかえりなさい。ありがとうございます。

『生命の實相』第13巻・14巻「倫理篇」には、今回のテキスト第2巻第3・4章に書かれてある根本真理を、さらに系統立てて詳説してあり、大変勉強になります。

そして、a hope様が提起してくだいました

>>生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」とも言っています。
「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。
御教示いただけるとありがたいです。<<

という課題についても、詳しくご教示くださっていますから、そのポイントとなるところを謹写、掲示させていただきます。

<倫理篇 永遠価値の生活学(1)>

(『生命の實相』第13巻 p.112〜118より)

   第四章 自心の展開としての客観世界

 ……(前略)……
 仏教では「三界は唯心の所現であり、心外に別に存在無し」と申しますが、それを徹底的に実生活の上でも実証せしめているのが「生長の家」であります。キリスト教でも「口に入るものなんじを汚さず、口より出ずるものなんじを汚す」とイエスがいっていますのは、外にあるように見えているものは、本当は外に独立性をもっているものではないから、それ自身で穢(けが)す力はない、外の物で穢されるとか穢されぬとかいうけれども、実は外は内界の投影であるから、もし汚されるならば、内から出るものすなわち「心」によって、および心によって発せられる「言葉」によって汚されるのだといっているのであります。

 われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わってき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。(中略)

 ……その一、二例をあげておきますならば……(略)……こういうようにこの二人の親が見本であります。子供は母親にとって一見すれば外界の存在のように見える。外界の存在だと思って、外界扱いをして、内界をうっちゃらかして、外界ばかりを治そうとしてみても治らないが、内界を治してしまうと、外界と見える子供の病気が治ってしまう。すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。

 これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけではなく彼女の周囲いっさいのものいっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。

 こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。

 で、罪とは「自他一体」の実相を知らないことであるとともに、「三界はただわが心の所現である」との真理を隠蔽して知らないことをいうのであります。客観世界がただ自心の展開であることを悟らないために、外界に見える事物を「内界の存在」だと知らず、外界に心を捉えられ、心をひっかからすために、ここに「五官的存在」に捉われる罪(隠蔽)が顕われてくるのであるのであります。
<つづく>

1894復興G:2013/01/19(土) 22:40:03 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(2)>

(『生命の實相』第13巻 p.140〜141より)

     教育の目的

 教育とは道徳教育にせよ、職業教育にせよ、芸術教育にせよ、知能教育にせよ、本当にあるものを現われの世界に引っ張り出すところの方法、本当にある値打を現実の世界に延長し出してくるということであります。そこでこの人生の目的も、道徳の目的も、教育の目的も、芸術の目的もみな一つの本当にあるものに一致してくるということになるのであります。むろんそれが一致してこなければならないというのは、それはすべての価値は本当にあるものに源を発するのであり、人生の目的は、本当にあるものを現わすにあるからなのであります。人生の目的がそうであるとしますと、道徳の目的も、芸術の目的も、教育の目的も、さらにもっと進んでいえば、あらゆる人間の文化活動の目的はいずれも本当にある値打をいかに現わすか、ということが根本になるわけなのであります。

     教育方法論の根拠

 ところが、今までは教育にせよ、人生における諸般の訓練にせよ、たいてい本当にあるものを現わすために、「ここが現われておらんぞ」といって、その現われておらない悪いところを指したものです。
 「お前は腹立てているな。腹立てることは、値打のないことだから止せよ」という。すると、相手はますます腹を立てるというようなぐあいだったのです。「悪しきもの」は「真価がないこと」であり、「本当にあるもの」は必ず価値があるとすると、「悪しきもの」を指さして、そこから善きものを生み出そうとすることは、「無い」ものを指さして「有る」ものを呼び出そうとする愚かさであったのです。「悪」ということは実在が現われていないということ、本当にある価値が現われていないということであって、決して積極的存在ではないのであります。ですから、その無い現われに執着しないで、本来無い「悪」が現われているのは心の支持力で、あるかのごとく現わしているのですから、心を「悪」から放下して光明の言葉を発せば消えるのであります。ところが、これまでの教育は、無い「悪」をわざわざ言葉に現わして指摘し、これを表現して、ますます強く心に思い浮べますから、ない「悪」が言葉の支持力によって消えないのであります。今まで教育盛んにしてますます「悪」が盛んになったのは、「悪」を指摘し、「悪」を心の世界に描くようにしたからであります。心の世界で「『悪』というものはないんだ、あるかのごとく見えても、それは心をそこから放下してしまえば本来無いのであるから消えるほかはない」と、全然考えないことにいたしますと、それで消えてしまうのであります。

(『生命の實相』第14巻 p.6〜15より)

     悔い改めよ天国は近づけり

 この「生まれ更わる」ということをまた「悔い改め」というのであります。イエスはその弟子を遣わして「悔い改めよ、天国は近づけり」と宣べ伝えしめました。この言葉は英訳の聖書では“Repent, for the kingdom of heaven is at hand”と書いてあります。この“at hand”という言葉は手近にある、そこに利用しうるように手の届くところにあるという意味であって、これから近づいてくるという意味ではないのであります。だから「悔い改めよ、神の国は近づけり」というのは、「神の国がこれから来るからその準備のために改心せよ」というのではないのであります。

 悔い改めよというのは、心をクラリと転向せよ、今までこれが自分であると力んでいた「自分」はそれは「本当の自分」ではなかった、それは「ニセ物の自分」であった、「本当の自分」は別にあった、それは「神の子なる自分」であったと悟る。ここに完全に「われの転回(おきかえ)」というものが行なわれる。これが悔い改めであり、新生であるのであります。こういうように悔い改めが行なわれ、われの転位というものが行なわれますと、もうそこにはチャンと手の届くところに、生きて利用できるところに神の国というものが現われているのであります。「悔い改め」すなわち「われの根本的置き換え」と同時に「神の国」――幸福の国、常楽の国――は実現するのであります。
<つづく>

1895復興G:2013/01/19(土) 22:41:50 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(3)>

(中略 p.12〜)
 「悔い改め」はこういうように「われの置き換え」――「ニセ物のわれ」を「本物のわれ」に置き換える悟りでありますから、いつまでも「自分は悪い」に引っかかっているのはいけないのであります。高橋正雄さんでも、「われの置き換え」ができるまでの「自分」を「悪い悪い」といっていられますけれども、「われの置き換え」のできてしまってからの「自分」を悪い悪いとは思っていられないのであります。むしろ「自分は偉い」と思っていられるからこそ雑誌を出したり講演に出かけていって道を説いたりしていられるのであります。この「自分は悪い」ということにいつまでも引っかかっていたら今の高橋正雄さんは無いのであります。今でも高橋正雄さんは「すまぬすまぬ」などと講演していられますが、高座へあがって講演したりせられるところを見ますと、本当は「自分は偉い」と思っていられるに違いないのであります。

     悔い改めは「悪を犯すまいの決心」ではない

 また「悔い改め」とは一悪一悪と順次悪を減じて、一善一善と順次「善」を積み立ててゆくということではありません。全体の悪が、クラリと光の方向へ転向してゆくことなのであります。われ全体の乗り換えができず、いつまでもおとぎ話の「カチカチ山」の狸のように泥の船に乗っていては、一つ、二つ、三つと水の浸入口を順次埋めていっても、結局その船は沈んでしまうほかないのであります。

 泥船はただ一つ水の浸入口が明いているだけでも沈んでしまうのであります。毎日具体的な一悪一悪を減ぜんとしてできるだけ罪を犯さないようにしましても、完全に「われの置き換え」というものができていないで、いつまでも泥船に乗っているのではまたどれだけでも水の浸入口ができてくるように、また別の悪が湧き出てくるのであります。だからわれわれはいくら悪を犯すまいと思っても「ニセ物のわれ」という泥船に乗っているかぎりは、次から次へと「悪」が出てくるのであります。

 これでは本当の悔い改めとはいうことはできない。泥船の孔を塞ごうと決心することが、われの乗り換えではない。悪を犯すまいと決心することが悔い改めではない。孔のあきやすい泥船から、金剛不壊の実相のわれに乗り換えてしまうことが悔い改めなのであります。

 金剛不壊の実相の船に乗り換えてしまうと自然に船に孔があかなくなる、その人の行ないにボロが出なくなる、自然にその人から悪行が消えてくるのであります。

(『生命の實相』第14巻 p.24〜25より)

     悔い改めと世界の変貌

 「悔い改め」というものは、ちょっと考えると心だけの問題のようでありますけれども、これは「われの置き換え」――われそのものの内容がクラリと一転してしまうことでありますから、それはただ心だけの問題ではない、世間そのものが一変して別世界になるのであります。自分が変われば世界が変わるということはちょっと考えると「そんなことはあるはずはない」と思われるかもしれませんが、自分が変わればその人の世界が変わる。自分が眼を開けば世界は明るい、自分が眼を閉じれば世界が暗い。これは事実であって、理屈ではない。理屈であればなんとでも駁撃(ばくげき)することができるのでありますが、事実であるからなんとも否定のしようがないのであります。

 われわれは心がクラリと一転して「偽存在のわれ」を見なくなり、「真実在(ほんもの)の神に創造(つく)られたままのわれ」を見ることをキリスト教では「悔い改め」と申しますが、仏教では「サトル」と申します。「サトル」には「覚」という字を書く。そして「サトッタ人」を仏といい、覚者という。この「覚」という字は「覚める」という字であります。われわれが夢を見ている、夢の中でわれわれはある環境の中に住んでいる、夢の中ではその環境は実在だと思っている。しかし一たび覚めると環境がクラリと変化してしまう。なんじゃ悲劇の中にいたと思っていたのに蒲団の中かとわかる。しかし夢を見ている人に「それは夢だよ。覚めたら、お前の周囲の事情は、お前が今見ているような不完全な状態ではない」と教えてやっても、覚めるまではわからない。それと同じで、覚(さと)れば環境までも変わってくるものだということを、まだ覚らない人に教えてあげてもなかなか解りにくいのであります。
<つづく>

1896復興G:2013/01/19(土) 22:42:37 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(4)>

(『生命の實相』第14巻 p.55〜65より)

   第四章 和解の倫理

     悪魔の試みにも和解すべきや

 われわれが神の方ヘクラリと向きを変え、神に従って生活しようと決意したとき、かえってその神に従う生活に反対し邪魔をしようとするような環境があらわれて来ることがあります。この状態をキリスト教では「試みに逢わせられる」と申しますし、ある教えでは「引っかけ戻しの仕組みである」といっています。それはあたかもわれわれが神想観をして精神統一をして、ただひたすら「神と一体」なる観念に精神を集注しようとしますとき、いよいよますます雑念が浮かび上がってくるようなものであります。「生長の家」倫理学の中心思想は、「人と神と一体であり、万(よろ)ずのもの皆神より出でたるものであるから、なんじを害するものは一つもないのであるから、天地一切のものと和解せよ」ということであります。そこで天地一切のものと和解するには、天地一切のもの、すなわち異端邪説とでも和解したらよいかどうかが問題になるのであります。

 卑近な例を引いてみればいっそうよくわかると思いますから、先日、大阪から来られた浜田夫人の「家ダニ退治」のお話を申し上げましょう。それはその人が近ごろ引っ越していった家にたくさんの「家ダニ」がいて、その「家ダニ」に触れると、南京虫の食い跡のように腫れ上がって痒(かゆ)いのであります。ホルマリンガスの燻蒸消毒を三回おやりになりましたが、それでも「家ダニ」が絶えないのであります。それでその家の奥さんが、「万教帰一篇」第六章に書いてある「南京虫に食われぬ話」を思い出されまして、実相の念力で「家ダニ」を逐(お)い出して見ようとお考えになりまして、神想観をして大体次のように実相を念ぜられると、その翌日から「家ダニ」がその家から消滅したのであります。――
 この家は人間の棲居(すまい)であって家ダニの棲み家(すみか)ではない。家ダニには家ダニの棲み家があって、実相の世界においては、互いに相侵すことなく完全に調和しているのである。自分は家ダニを害することなく、家ダニは自分を害することなく、完全に調和しているのが生命の実相である。
 こう繰り返し念じながら、実相の互いに相傷つくることなき調和した相を念じていると、家ダニとその人との関係に実相が鮮やかにあらわれて、家ダニは、家ダニの棲み家に帰り、人間をささなくなったのであります。この事実は、その翌日たずねて来られた神戸の田村福子さんも、自分の家で同様に念じて家ダニのいなくなったことを、こちらから求めざるに自然話し出されたので、浜田夫人の場合が決して偶然でないということがわかったのであります。今この事実を考察してみたいのであります。
<つづく>

1897復興G:2013/01/19(土) 22:43:21 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(5)>

 ここに「和解の倫理」がハッキリと顕われているのであります。和解するのは誰と和解するのかというと、「自分を害する家ダニ」と和解するのではないのであります。「害する者」と和解するのは、「害する者」をのさばらせることになるのであります。

 たとえば、結核菌という、人間を害する敵と和解することを考えてみます場合、結核菌は人間を害するものだと思いながら、結核菌と和解するつもりでことさらに結核菌を培養して、これを呼吸器に吸い込むということにいたしましたならば、いかにも結核菌と人間とは和解したように見えるかもしれませんが、それは「実相の結核菌」と和解したのではないのであります。

 「生長の家」倫理学の特色といたしますところは、存在を「実相]と「仮相(まよい)」とに別けることであります。そして「仮相」は存在するように見えても、それは非実在(ない)というのであります。そして「実相」だけが存在するのであって、その「実相」は完全であるというのであります。

 例をあげていえば、人間に結核病を惹き起こす毒物としての結核菌は、それは仮相であって実相ではないのであります。この場合、われわれが仮相の結核菌を認め、許し、それに触れ、それを培養することにすれば、われわれ人類は滅びるのであります。なぜなら「仮相」を実在だと思ってこれに和解し、「仮相」をことさらにのさばらせれば、実相はますます隠れるほかないからであります。

 ところが、神は結核菌を人間を害するようには作ってい給わないのであります。結核菌は人間に対して無害の状態に造られており、実在の世界においては、人間と結核菌とは調和して互いに生かし合っているのであります。調和が実相であって、「実在する結核菌」の本当の相(すがた)なのであります。それで「結核菌と和解する」とはこの本当の姿を認めて、その心の投影(芭として自然に結核菌と人間とを互いに相侵さない状態に至らしめるので、われわれを害する「仮相の結核菌」を認め、それに栄養を与え、培養するということではないのであります。

 大体、「仮相」というものは、あるように見えても本来無い――「無いもの」と和解のしようがないのであります。それでわれわれが和解するとは、ただ「本来あるもの」と和解するほかない。それでわれわれが、「天地一切のものと和解せよ」という場合は、仮相――われわれに対して毒性または敵性をもって顕われているウソのスガタ――に和解するのではなくて、実相(すなわち、われわれと本来調和し、われわれと互いに生かし合っているその物の内性)と和解することなのであります。

 さらに例をあげてみれば、ここに放蕩息子がいるとします。放蕩息子といえども人間でありますから、実相は放蕩息子ではないのであります。放蕩息子にあらわれているのは仮相すなわちウソのスガタであります。それでその息子に和解する場合を考えてみますと、「放蕩息子よ、よう放蕩してくれた。わしはお前の放蕩を喜ぶぞ」というように仮相に和解していたのでは、仮相はますますのさばって大きくあらわれて来るのであります。

 よく富豪の甘い親をもった家庭に始末におえない道楽息子があることがあります。これは道楽息子という仮相を排撃することをしないで、仮相に和解してしまったからであります。仮相に和解してしまったら仮相があらわれる。それではいけない。それで「生長の家」の聖経『甘露の法雨』には、「仮相(かりのすがた)に対しては実相をもって、相対せよ」「非実在に対しては実在をもって相対せよ」と書いてあるのであります。
<つづく>

1898復興G:2013/01/19(土) 22:44:03 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(6)>

     仮相は本来「無」と知るのが実相への和解

 だから、真に和解するとは、「ものそのもの」の完全なる実相を認めその実相と和解することであります。「家ダニ」を見たならば、吸血鬼であるその仮相を見ず、互いに調和した場所において相侵し相傷つけないように造られている「完全なる家ダニ」と和解することであります。結局「和解する」とは、その「実相」を見て、その実相において完全を観ることであります。

 対人関係、対物関係の和解は、そういうように物そのもの、人そのものの実相を見て、それと実相において和解してしまいますと、相手の調和した実相があらわれて相手が自分に逆(さから)いまたは害しなくなるのでありますが、「迷い」に対したり「誤れる見解」に対しては、われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。「迷い」に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。「誤れる見解」に対して和解したら実相がくらまされてしまうのであります。だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。

 「誤れる見解」をわれわれは「虚説」と申しますが、虚説とはよく名づけたものであります。「誤れる見解」は実相の世界にはない。それは「虚説」すなわち「無い説」でありますからわれわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。虚説に和解したら自分の完全なる実相が昧(くら)まされ、完全なる実相が昧まされたならば、その投影として不完全なる現象すなわち不幸、病気、災厄等があらわれてくるのであります。

     虚説に和解してはならぬ

 虚説の中でも、最大の虚説は「物質はある」という見解であります。『生長の家』誌友の中で近ごろ脱線して「物質もある、心もある」という二元論に誘惑されたり、「現象も真我のあらわれである」という説に惑わされたりした人がありました。その理由は、われわれは天地一切のものと和解しなければならないから、「物質はある」という説とも和解したとき、本当の真理がかえってわかるのだという理論から、虚説に対しても一応は耳を傾けなければならないというわけだったのであります。

 われわれは天地一切の実在(もの)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。「人は二人の主に事えることはできない」という諺があります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませばみずから迷うことになるのであります。迷えば迷いの影を現象界にうつして、現象界がままならぬ相(すがた)にあらわれてくるのであります。

 「物質もある、心もある」という二元論に引っかかって、現象界が変にみだれて集金が集まらなくなったり、商売がうまくゆかなかったり、歯痛(はいた)が酷くなった数氏の実例は、かつて『生長の家』に書いたとおりであります。

 最近また「真我も迷う」の妄説に引っかかって、絶えて久しく煩わなかった頭部の湿疹になやまされて、すんでのことに医者にかかりそうになった時、初めて気がついた人があります。それは最近「生長の家」の説を受け売りして、少しばかり異色を見せて独立しようとして「迷いは真我より起こる」と発表した某々氏の雑誌を読んで、その妄説にまどわされ、真我は迷うものやら、迷わぬものやらわからなくなって、心が迷って、「本来清浄の実相」を見ることができなくなったことに原因するということを知り、神想観をして、本来迷わぬ「本来清浄の実相」を観ることを努めたところが、その頭部の湿疹が癒ってしまったという報告を受け取りました。

 「生長の家」の家族となり「真我は神であり、本来清浄の実相である」ということを知らされながら、時々そういう異端邪説に耳を傾けるようになるのが、これいわゆる「試みに逢わせられる」のであり、「引っかけ戻しの仕組み」であります。精神統一せんとすればするほどかえって雑念が浮かぶのと同じであります。この時に雑念妄想の方に心を傾けたら永久に精神統一しがたいのと同じように、この時に異端邪説に和解して耳を傾けたら、自分の実相が昧まされ不幸があらわれるのであります。

 「なんじの敵を愛せよ」といったイエス・キリストさえも、「サタン」に対しては和解していないのであります。イエスが四十日四十夜、精神統一の修行をしている時、そこに幻のように現われたサタンに対しては、イエスはそのサタンの邪説に耳を傾けようとしないで、「神を試むべからず、サタンよ退け、主なるなんじの神を拝し、ただこれのみに事(つか)うべし」と、一喝しているのであります。この場合、サタンとは異端、邪説、妄説、妄想、雑念のことであります。
<つづく>

1899復興G:2013/01/19(土) 22:44:42 ID:AB6RqYXc

<倫理篇 永遠価値の生活学(7)>

 「ただ神のみ――ただ実相のみを観よ」ということが、「主なる汝の神を拝し、ただこれのみに事うべし」ということです。そのほかの妄説妄想には決して和解して、耳を傾けてはいけない。ただ「サタンよ、去れ」と一喝しているところに、イエスの示されたる「サタンに和解すな」との範例をわれわねは見なければならないのであります。

     光は暗と和解せず

 「敵を愛せよ」と仰せられたイエスが、なぜ「サタンよ、退け」といわれて、「サタンを愛せよ」といわなかったのでしょうか。「敵」というものも、その実相は完全な人間でありますから、「敵を愛せよ」とは、その実相なる完全な人間を見て愛せよという意味において、正しい真理であります。

 しかしサタンというものはどうであろうか。それは精神統一修行中に現われた妄想が客観化したものであります。妄想というものは「本来無いもの」をあるかのごとく描いたのが妄想でありますから、その客観化であるサタンというものも、結局は存在するかのごとく見えても本来非実在であります。

 それで、敵ならその敵の実相を見れば、敵の内性に神の子なる実相を見て愛することができますけれども、異端、妄説、妄念、妄想は「本来無い説」――虚説――でありますから、その実相を見れば、「本来無い」ということがわかるだけでありますから、「本来無いもの」(虚説)に和解することは絶対にできないのであります。

 光は暗と和解することはできない。光が近づけば暗は消えるほかはない。それと同じく真説は虚説に近づけば虚説を消す働きになる。真理が妄想の客観化なるサタンに和解せんとして近づけば、かえってサタンを消す働きにならざるをえない、すなわち言葉でこれをいえば「サタンよ、去れ」の一喝とならざるをえないのであります。

 虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳がないように思うのはまちがいであります。また虚説を容(い)れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのもまちがいであります。虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

 わたしにも最近その例がありました。「生長の家」の某支部をみずから造るべく申し出られまして、聖典『生命の實相』を数十部みずから進んで預かって帰られた方がありました。その某氏は最近、「物質はある」「真我も迷う」の虚説を立てて「生長の家」の真説を迷わす機関雑誌を発行されたのであります。それとともに聖典『生命の實相』を誌友その他に売られたまま、その公金を私用に着服費消しておしまいになったのであります。

 わたしは「真我は神であるから決して迷わぬ」という正説をもって文章でその虚説を排撃したのでありますが、(すなわち虚説に対してはどこまでも排撃したのでありますが)その人が消費された公金に対しては少しも咎めず、無条件にその金額を進呈して決して請求しませぬという深切な手紙を書いて、その人の実相――決して公金を費消せぬような完全なその人の実相を見ることにしたのであります。これがわたしの範例であります。虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許すことにしたのであります。

 どうかみなさんも虚説に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、人間に対しては、その表面の包み(罪)を見ないで、その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦す(その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいのであります。

 要は「天地一切のものと和解せよ」との「生長の家」の第一最大の誡命(いましめ)は「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、仮相や虚説に対しては「サタンよ去れ」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃せられたのであります。
(以上)


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