けれどもわたしがここに「存在する」というのは物質的な相(すがた)で「あらわれている」ということではないのであります。形がここにあらわれていることを人は「ここにものがある」といい、形があらわれなくなったら「それは無くなった」というのでありますけれども、それはただ「迷いの客観化したもの」(forms of error)が映って出たとか消えたとかいうことを知る五官のハタラキだけのことであって、物質は仏典の各所に説かれているように、夢の如く虚妄不実のもので、親鸞聖人も「火宅無常の世界はみなもて、そらことたわごと、真(まこと)あることなし」といわれました。
>>1872 :a hopeさま。
①
>>唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……? 相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか?<<
②
>>また、生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」とも言っています。
「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。
御教示いただけるとありがたいです。<<
この「生まれ更わる」ということをまた「悔い改め」というのであります。イエスはその弟子を遣わして「悔い改めよ、天国は近づけり」と宣べ伝えしめました。この言葉は英訳の聖書では“Repent, for the kingdom of heaven is at hand”と書いてあります。この“at hand”という言葉は手近にある、そこに利用しうるように手の届くところにあるという意味であって、これから近づいてくるという意味ではないのであります。だから「悔い改めよ、神の国は近づけり」というのは、「神の国がこれから来るからその準備のために改心せよ」というのではないのであります。
① 是(こ)の身は幻の如く顛倒(まよい)より起こる。是の身は夢の如く虚妄(こもう)の見(けん)たり。是の身は影の如く業縁(ごうえん)より現ず。是の身は響(ひびき)の如く諸々の因縁に属す。是の身は浮雲の如く須叟(しゅゆ)にして変滅す。是の身は稲妻の如く念々に住(とどま)らず……<『維摩経』方便品(ほうべんぼん)>
② 迦葉(かしょう)、仏に白(もう)して言(もう)さく「二十五有(う)に、我(が)有りや否や」 仏のたまわく「善男子(ぜんなんし)、我とは即ち是れ如来蔵(にょらいぞう)の義、一切衆生悉く仏性あり、即ち是れ我(が)の義なり。……如来今日、普く衆生の諸々の覚宝蔵を示す、所謂(いわゆ)る仏性なり。一切衆生この事を見已(おわ)らば、心に歓喜を生じて如来を帰仰(きごう)す。」<『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』如来性品(にょらいしょうほん)>
③ たとい無量百千億の魔も如来の身血を侵し出すこと能わず。故は如何ん。如来の身は血肉、筋脈、骨髄にあらず。如来は真実にして実に悩壊(のうえ)なし。<『大般涅槃経』月喩品(げつゆほん)>
① 是(こ)の身は幻の如く顛倒(まよい)より起こる。是の身は夢の如く虚妄(こもう)の見(けん)たり。是の身は影の如く業縁(ごうえん)より現ず。是の身は響(ひびき)の如く諸々の因縁に属す。是の身は浮雲の如く須叟(しゅゆ)にして変滅す。是の身は稲妻の如く念々に住(とどま)らず……<『維摩経』方便品(ほうべんぼん)>
② 迦葉(かしょう)、仏に白(もう)して言(もう)さく「二十五有(う)に、我(が)有りや否や」 仏のたまわく「善男子(ぜんなんし)、我とは即ち是れ如来蔵(にょらいぞう)の義、一切衆生悉く仏性あり、即ち是れ我(が)の義なり。……如来今日、普く衆生の諸々の覚宝蔵を示す、所謂(いわゆ)る仏性なり。一切衆生この事を見已(おわ)らば、心に歓喜を生じて如来を帰仰(きごう)す。」<『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』如来性品(にょらいしょうほん)>