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倉工ファン Part2

305名無しさん:2021/01/06(水) 16:12:01
☆  同上  ②



村山に苦難の道が待ち構えていた。 ヘッドコーチとして58年の阪神退団以来の復帰となった田宮謙次郎が5月初旬、
練習中に脚の肉離れで戦列を離れ、そのままフロント入りしてしまう。
さらに長男の病気で帰国したバースの来日のメドが立たず、6月下旬に契約解除に踏み切った。

掛布も7月中旬に腰痛のため戦列を離れ、9月に現役引退を発表することに。6月22日には3連敗で早くも30敗目を喫し、
腹心のヘッドコーチ、主力打者を欠き51勝77敗2分けで2年連続最下位に沈む。


この間、7月19日朝、球団代表の古谷真吾が宿泊先の東京都内のホテルで転落死。
6月10日付で球団本部長から球団代表に就任したばかり。
バース退団や掛布の現役引退騒動の処理など、心労による自死とされた。

古谷は村山が1970年、一度目の阪神監督に就任した時の球場長。
16年ぶりに「代表」と「監督」として一緒に仕事をすることになっただけに、
村山は「時間をふんだんに割いて2人でチーム再建を図ってきたのに」と落胆を隠さなかった。


翌89年は54勝75敗1分けで、順位を一つ上げたものの村山は5位でユニホームを脱ぐ。
シーズン途中の9月17日の甲子園でのヤクルト戦終了後、辞意を表明した村山の退陣の弁は

「もうみなさんに騒がれたくないので決めました。2年間は短かったかもしれないが、若手が使えるめどがついた。
どうか明日から静かにゲームをさせて下さい」という報道陣への訴えだった。

村山は9年後の1998年8月22日、直腸がんのため61歳の若さで急逝。
長嶋茂雄にサヨナラ本塁打を許し球史に残る天覧試合など、野球ファンだけでなく記録にも記憶にも残る大エースだった。




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