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倉工ファン

1名無しさん:2017/08/17(木) 17:05:06
春、選抜でベスト4まで行ったからには、夏は優勝しかない。
倉敷市民の熱い期待を背に、大優勝旗に向かって走る倉工ナイン。
当然、招待試合などに招かれるケースも増える。

小山にとっては、これが不運。
痛めた左腕を休める間もなく状態を悪化させて行く。
女房役で主将の藤川は、「高校生離れした球威を誇った、一年生時の小山を思うと、どんどん状態が悪くなっていた。」

こうした中、九州招待試合があった。( 中津工 津久見 ) 「今日こそ、小山を休ませよう。」と、小沢監督。
小山を温存したのだった。ナインも投げられない小山を励ました。
ところが、スタンドからヤジが飛んで来た。「こらっ!小山を投げさせろ。
小山を投げささんか。ワシは小山を見に来ているんじゃ。」と。
このヤジに対して、小沢監督は知らん顔。

しかし、倉工ナインは燃えた。
主砲の、武のバットが火を噴いたのだ。
中津工のエース大島 康徳投手 (中日ドラゴンズ 入団) からセンターバックスクリーンに、豪快なアーチを放つ。
『武 渉選手のユニホームが、甲子園博物館に展示されています。』
津久見には、通算打率4割2分。本塁打17本をマークした、太田 卓司選手(西鉄ライオンズ 入団)がいた。
2年生の時、春の選抜 (倉工と対戦) に出場。
エース吉良 修一投手の好投もあり決勝に進出。
延長12回の熱戦の末、弘田 澄男選手の 高知高 を、2対1で降し初優勝。
この、太田 卓司選手も、倉工期待の一年生投手から、センターバックスクリーンに叩きこんだのだった。

倉敷工 武  津久見 太田 。
両主砲の一発に観客は酔い痺れた事だろう。
工業に観光に発展して行く倉敷市。水島コンビナートでは、連日フル操業が続いていた。
こうした中、倉工は、街のシンボルとして脚光を浴びて行くのだった。
当然、倉工ファンも多くなって行く。

小山は、「とにかく、倉工のファンは、特別なファンなんです。」と言う。

81名無しさん:2017/10/15(日) 10:05:14
水本勝己

倉敷市生まれ。 倉敷工から松下電器、現在は広島カープ2軍監督。


1986年夏、岡山大会の決勝・岡山南戦で倉工の主砲は右翼席に本塁打を放った。
18年ぶり7度目の甲子園出場に強打の捕手として貢献。

この年の3年生にはのちにプロ入りした選手が5人もいた。
理大付には86年度ドラフト2位でロッテに指名された森広二投手、関西には阪神からドラフト6位指名された真鍋投手。
共にプロでは大成できなかったが、真鍋は今もNPB審判員として活躍している。

そして岡山東商には社会人・川崎製鉄水島を経て経て89年度ドラフト2位で巨人に入団した吉原捕手、
倉工が決勝で破った岡山南には90年度のドラフト外でダイエー(現ソフトバンク)に入団した坊西捕手がいた。
水本、吉原、坊西の3人は、捕手三羽がらすとして岡山球界では有名な存在だった。

甲子園では初日の第3試合で後に巨人に入団する川辺忠義投手率いる秋田工に1-11で敗退。
卒業後は社会人野球の名門・松下電器(現パナソニック)に入社。
89年度ドラフト1位で西武に入団した潮崎投手とバッテリーを組んで3年連続で都市対抗野球に出場した。

プロ野球からの誘いはなかったがプロへの夢を諦められず、
倉工の先輩でもある当時広島のコーチを務めていた片岡新之介コーチを頼ってテストで広島に入団。
しかしアマ時代まで順風満帆だった野球人生もプロでは2軍でわずか39試合、2年の選手生活だった。

82名無しさん:2017/10/15(日) 10:50:46
水本勝己 

異例の抜擢・・・広島カープ2軍監督へ出世街道を歩いた理由


「言われた時はビックリしましたよ。僕にはトラウマがある。
選手時代に上でやったこともない人間が、こういうポストに就いていいのか…」

水本自身に1軍出場歴はなく、2軍でもわずか39試合に出たのみ。
2年で早々に現役を退き、ブルペン捕手として長くチームを支えてきた。

日本球界の慣例に従えば極めて異例の抜擢。
その裏には選手時代の実績にとらわれない、球団フロントの柔軟な姿勢があった。

「厳しさと優しさがあり、下積みの時代から選手を叱咤激励していた。人間としての幅も持っている」。
鈴木清明球団本部長は水本の起用理由をそう説明する。

よかれと思えば黒田博樹、新井貴浩らにも臆せず苦言を呈した。彼らの信頼は変わらず厚い。
07年にブルペンコーチ補佐の肩書きが付いて以降は、本人が望むと望まざるにかかわらず、
とんとん拍子で“出世街道”を歩んだ。

「プロ野球の世界に入って本当によかったと思います。現役時代はいろんな指導者に出会い、
考え方とかいろんなことを勉強させてもらった。プラスになることが多かった」

最も影響を受けたのは元監督の故三村敏之氏だった。
阪神・金本、広島・緒方両監督をはじめ、同氏を慕う指導者は少なくない。

三村氏に習って読書を欠かさず、最近では「置かれた場所で咲きなさい」(渡辺和子著)を読んだという。

「三村さんは僕が1軍でやっていなくても、言わせる雰囲気を持ってくれていた。僕もそうありたい。
意見に感謝の気持ちを持って耳を傾けつつ、判断と決断をどう下すか。
それが僕の仕事なので、勉強しなくちゃいけない部分ですね」

勉強意欲、吸収意欲が旺盛で、人をいかに動かすかを考え、言葉遣い一つにも注意を払う。

名選手は名監督にあらず…とよく聞くが、実績のある選手が名指導者になるとは限らない。
人の痛みがわかる苦労人の挑戦にエールを送りたい。

83名無しさん:2017/10/15(日) 14:12:12
水本勝己

広島カープ初のファーム日本一☆


広島2軍は26日、1991年以来、26年ぶり9度目のウエスタン・リーグ優勝を決めた。
セリーグを制した1軍との同時優勝は同年以来、2度目。

この日はデーゲームの阪神戦(鳴尾浜)に勝ってM1とし、ナイターで2位・中日がソフトバンクに敗れてVが決定した。
水本勝己2軍監督(48)は「チーム全体のレベルが上がっての優勝。1軍と共に優勝できたのはとても嬉しく思う」と喜んだ。
10月7日に宮崎で行われるファーム日本選手権に出場する。


「ファーム日本選手権、巨人2-5広島」(7日、KIRISHIMAサンマリンスタジアム宮崎)


ウエスタン・リーグ覇者の広島が5-2でイースタン・リーグ覇者の巨人に逆転勝ちし、初の日本一に輝いた。
兄貴(1軍)がシーズン中に幾度となく見せつけた終盤の逆転劇を、弟分もやってのけた。

2点を追う七回、堂林の左前打をきっかけに小窪、美間の連続適時打で同点に追いつき、
なおも一死一、二塁のチャンスにルーキー坂倉が勝ち越し3ランを右翼席に運んだ。

今季は高卒新人ながら2軍の正妻の座を奪い、打率はリーグ2位となる・298をマーク。
シーズン終盤には1軍出場も果たし、プロ初安打初打点をマークした。
ファーム日本一が懸かった大舞台でも非凡な才能、そして勝負強さをいかんなく発揮した。 

33年ぶりの日本一を目指す広島1軍にとっても大きな励みとなる2軍Vとなった。

84名無しさん:2017/11/25(土) 11:11:10
水本氏に敬意を払い広島カープ情報


37年ぶりのセリーグ連覇もCSで敗退。
セリーグ初の下克上で3位の横浜が日本シリーズへ。
ソフトバンクが4勝2敗で日本一に。

CS制度で仕方ないがセとパを大差で制した同士の日本シリーズを観たかったね。



広島のドラフト・・・6選手中高校生が4人に、大学生2人。
社会人はゼロで全員が将来性を見込んでの指名。

1位で地元・広陵高の中村奨成捕手を2球団の競合の末に獲得すると、
2位で熊本工の152キロ右腕・山口翔、3位のケムナ・ブラッド・誠(日本文理大)、
即戦力というよりは将来性を買っての指名。

以下、4位の永井敦士外野手(二松学舎大付高)、5位の遠藤淳志投手(霞ケ浦高)、
6位の平岡敬人投手(中部学院大)と、これでもかと素材型を並べた。

超高校級捕手と評判の中村も、出てくるまでに3、4年はかかる?
裏を返せば、来季も現有戦力で十分に戦えるということ。

確かにカープのレギュラー陣は若い。来季いきなり働けなくということは考えづらい。
今年のドラフトの狙いは明白。「その次の世代」を見据えた補強だ。

カープはこれまで主力のFA流出に泣いてきた歴史がある。
当時とは状況が激変したとは言え、備えておく必要がある。

今季、ファームでも26年ぶりに優勝を遂げた。
2年目の坂倉や、高橋昂也ら次世代を担う若手も育ってきている。
育成に定評のある広島は、育て上げて黄金時代を作る。

85名無しさん:2017/11/26(日) 11:12:04
水本氏に敬意を払い広島カープ2軍由宇(ゆう)練習場の話題


カープの2軍練習場は山口県岩国市由宇町にある。

選手寮や室内練習場などは広島県廿日市市に存在する。
だから練習や試合日、選手など関係者はここからバスで由宇まで移動する。

もともとカープは同じ広島県福山市内に2軍本拠地を持っていた。
しかし大野からの便や施設面などを考慮。

いくつかの候補地から選定し93年から現在の施設を使用するようになった。

その由宇練習場は広島から山陽道に乗れば車で約1時間弱、
電車でも在来線で約1時間(ただしJR由宇駅からバスなどのアクセスが悪いのだが…)。
立地条件としては恵まれている方である。

とはいえ、山に囲まれた町並みで駅前も含め、閑散とした印象は拭えない。
娯楽が多くない地方都市、2軍とはいえ、プロ球団が試合を行ってくれることは町にとって大きい。

カープのリクエストに応え、由宇町もできるだけのサポートを行っている。
ハード面で はフィールドやロッカーなど球場施設の改修。

そしてソフト面ではファンへの『おもてなし』である。
ネット裏高台には、かつてのビジターチームのロッカーが改修されたショップがある。

そこではカープ由宇協力会の方々が接客をしていた。

「地元名産の神代わかめを使用した『手抜きうどん』
(『さぬきうどん』に対抗したシャレ)などは名物になりつつあります。

16年に優勝した時も商店街など、いつもとは比べられないほど人が集まった。
今日も仕入れた弁当20個が完売ですよ(笑)」。
事務局長の出雲さんはのどかな話をしてくれた。

とはいえ、カープの2軍組織である。一番の目標はチーム強化であり、実際に結果につながる大事なセクション。
球界の流れに逆行しているような由宇練習場のように感じるのだが…。

実際にチームを扱う立場の水本2軍監督に聞いた。・・・続く。

86名無しさん:2017/11/26(日) 11:36:46
「まず練習するしかない環境というのが最も大事だと思う。

プロに入って来る選手は実力もあるし、身体の強さも持ち合わせている。
それを磨くことができるかにかかっている。体力はあるのだから、

多少のハードトレーニングをさせてもしっかりケアをすれば、壊れることはない。
それができるかどうか…。選手というのはプラスかマイナスしかないのだから」


水本監督はテスト生として89年のドラフト外で入団も2年で引退。
長期に渡りブルペン捕手をつとめ11年に3軍統括コーチに就任した。
そして14年オフに2軍監督代行、16年より2軍監督に就任した、いわば生粋の叩き上げだ。


「僕自身の現役が短かった。やっぱり悔しい部分もあるし、その後の裏方生活でもいろいろな選手を見て来た。
だからこそやりたいこと、言いたいこともある。『伸びるのに人間性も必要』と言われる。
必要ないと思うかもしれないですけど、僕の経験上、そういう選手はやっぱり伸びる」

一人の選手の名が挙がった。背番号10、岩本貴裕。

10年に1軍で2桁本塁打を放ち一時レギュラーを獲得しつつも、その後、数年は不調。
そして17年、完全復活を果し、大事なところで貴重な働きを見せている。

「行けると思ったけど、少し、調子に乗ったかな。だからその時にはいろいろと話させてもらった。
厳しいこともたくさん言った。本当に怒鳴り上げたりもしました。でも彼はもう一度、頑張ってくれた」

「鈴木誠也が欠場中の中、よくカバーしている。でもまだまだ、あんなものではない。
年齢だって31歳と油が乗り始める時期。技術的にも進歩できるし、彼も身体が強いから」


「最も大事なことは1軍が強くなること。
そのために多くの選手の才能を伸ばして戦力を作ることが我々の仕事です。

だから重要なことは、2軍でも当然のように戦えないといけない。
それはベテランでも高卒の若い選手でも変わらない。
まずは2軍で戦力として結果を残す。それも飛び抜けたくらいであって欲しい」

「だから戦えない選手は下でも使いません。今、現在、試合へ出て戦える選手を使って勝つ。
それが2軍でも重要だと思う。

緊迫した試合に勝つことによって技術や経験など、様々なことを覚えることもできる。
普段の練習はもちろんですが、加えて実戦。
これらにいかに真剣に取り組むかで選手の伸び方が大きく変わって来ると思う」

「よく故障明けの調整登板などがありますけど、ああいうのも基本はやりたくない。
チーム予算の中で保有可能な選手数があって、規則上ファーム組織も1つしかないから、それはしょうがない。
だから3軍の扱いなども他チームさんとカープは大きく異なって来る。

3軍でノンビリ育成している時間も余裕もない。
戦える選手ならばシーズン中でも契約する。使えるなら即、1軍に上げる。でもそうでなければ…。
もちろん球団の判断もありますが、そこはシビアな部分だと考えています」・・・続く。

87名無しさん:2017/11/26(日) 11:50:18
いろいろな選手が混在する組織の中、水本にはやるべきことがたくさんある。

「ファームには答えがない。でも1つ確かなのは、カープが強くなることが最も大事なこと。
ここ十何年やって来たことがようやく形になり始めている。ここで萎んでしまっては、少し前の低迷期に戻ってしまう。
強くなり始めてファンも増えている。順調に進み始めた今こそ、原点を忘れてはダメ」


選手にとって由宇練習場の存在位置というのは、絶好の場所なのかもしれない。
最新の機材や設備が揃った住居隣接の練習、生活環境。

いつも多くのファンが足を運び、サインや写真を求められる施設は『恵まれた環境』とも言える。
しかしプロとして重要なことは、1軍のフィールドで戦力になること。
その原点が由宇にあるのではないだろうか。言ってみれば真逆のような環境であるからこそだ。

平日昼間のデイゲームだが、500人ほどの観客が由宇には集まった。
決して多くはない数字ではあるが、この熱烈なファンたちもカープ躍進をサポートしている。

また芝生席に椅子やテントを持ち込み、思い思いに試合を楽しんでいる。
「今日は休みを取りました。遅めの夏休みです(笑)。ここはノンビリできる。

野外フェスみたいな感じで昼からビール飲みながら寝転んで試合見るのが楽しい。
今日は大瀬良大地もいるし、他にも良い選手は多いですよ」。

鈴木誠也や西川龍馬が這い上がって来る姿も見て来たのだろう。
そうすれば思い入れや感情移入も強くなり、より強く応援したくなる。その周囲の姿勢がさらに選手の後押しをする。

山口にある少し時代とかけ離れた由宇練習場。ここがカープ躍進の一端を担っている。

88名無しさん:2017/11/26(日) 12:12:14
広島カープ2軍関係者も優勝パレードへ参加


37年ぶりにセ・リーグ連覇を果たした広島の優勝パレードが25日、
広島・西区の平和大通りで行われた。

コースは西観音町電停東から鶴見橋西詰までの約3キロ。
昨年同様、天気にも恵まれ、沿道には30万人を超えるファンが集まった。

選手、関係者はオープンカー2台、オープンデッキバス6台に分乗。

緒方孝市監督、リーグMVPに輝いた丸佳浩外野手ら一軍メンバーだけではなく、
今年は球団史上初めてファーム選手権を制した二軍の関係者も加わった。

広島の優勝パレード実施は、初のリーグ制覇を飾った1975年、

そして25年ぶり優勝を果たした昨年に続き2年連続3度目。

沿道からは「連覇おめでとう!」
「来年こそ日本一!」などの声 が聞かれ、選手たちは笑顔で応答していた。

89名無しさん:2017/12/02(土) 15:02:05
11月17日、18日、第69回倉工祭


今回から、文化祭から倉工祭に、改称して盛大に開催された。

今年のテーマは「 記憶に残るような創造性あるものを 」。

一般公開となった、18日は朝早くから、他校の生徒さんら多くの方々が来校。
体育館では、ダンスやコーラス等。

中庭では、書道部による、書道パフォーマンスや、吹奏楽部の演奏など。
さらには、各教室、各部によるパフォーマンスなど、盛りだくさんの内容でした。

おいまつ会館では、今年もOB、教職員による写真や作品の展示がありました。
こうした中で、最も注目されたのは、倉工が開校された、昭和14年の写真パネルや、戦時下の倉工生。

また、甲子園初出場した時の写真パネルなど、多くの人が見入っていました。
そして、倉敷ケーブルテレビの取材もありました。

今後の課題として、展示される数が少なくなっているので、もっと多くの方の協力を、頂きたいものです。


がんばれ 倉工!   技術 スポーツ 美しい文化の倉工へ!

90名無しさん:2017/12/02(土) 17:15:07
監督 小沢 馨物語


第31回全国高校野球選手権大会 準々決勝

三年連続優勝を目指した小倉北。

「 キープ マイ ペース 」を唱えながら

終始冷静な、投球を続けたエース小沢の過酷なマウンド。
その小沢を援護した、捕手 藤沢新六の2本の左中間への、大ホームラン。

無欲であるがゆえ、小沢は詫びた。無欲であったがゆえ、倉工は勝ったのである。


迎えた準決勝。相手は、2年連続2回目出場の岐阜。

1対3とリードされた四回、1点を返し、さらに無死満塁のところで、突然の雨。
翌日再試合となった。

宿舎に帰った倉工ナインは、風呂の中で『 これなら勝てる。優勝できるかも 』
と、はしゃぎ立てた。欲が出た。無欲から欲にかわった。

再試合では、強振を続ける打線は空回り。
頼みのエース小沢は、連投の疲れで、ひじが上がらない。

球は走らず、2対5で敗れた。敗戦を決めた無情の雨。

【 あの時さえなかったら。今でも、雨の日には想い出す。 】と、小沢は言う。


 準決勝  岐阜 3-2 倉敷工  ( 4回降雨ノーゲーム )

      岐阜 5-2 倉敷工


昭和24年8月20日。倉敷駅前広場。

初出場で、ベスト4。感激を味わったのは、倉工ナインよりも、倉敷市民だった。

倉敷駅前広場に、集まった大群衆は、駅前だけでなく、沿道にも人があふれ
人々は、「 万歳! ばんざい! 」の連呼。空には、打ち上げ花火が上がり

ブラスバンドの演奏までが、加わった。急こしらえのステージに、立った倉工ナイン。
そして、主将の小沢が、挨拶をする事になった。

91名無しさん:2017/12/02(土) 17:50:13
小沢 馨物語


昭和24年8月20日

倉敷駅前広場に集まった大群衆は、現在の倉敷国際ホテルぐらいまでの沿道を埋め尽くした。

まさしく倉敷の夜明け。新しい時代が始まろうとしていた。急こしらえの、ステージに立った倉工ナイン。


「 主将の、私に挨拶をしろと言われて、私は上がってしまいましてね。あんな大勢の人々なんで。

それで【 優勝は、できませんでした。今後は、後輩たちを指導して、必ず全国制覇を目指して、

皆様の期待に、添いたいと思います。】 と、言ったらしんですよ 」。

小沢は、大群衆に、いや倉敷市民に約束した。


のちに観光都市、あるいは工業都市に発展して行く倉敷。
倉敷の名を全国に伝えたのは、倉工エースで主将の小沢。
倉敷市民から、大いなる期待が寄せられたのである。 

倉工卒業後 小沢 と 藤沢は、プロ野球阪神タイガースの入団テストに合格。
プロ野球生活をスタートさせた。しかし、一軍からの飛び出しは、来なかった。

一年が経過した頃、社会人野球、日鉄二瀬から、誘いを受け、

阪神タイガースを一年で退団して、二人揃って日鉄二瀬に移籍する。

「 今の給料の、2倍の給料をやる。と言われて、小沢と二人で行きました。 」と、藤沢。


移籍した直後の事。倉敷から、使者が小沢のもとにやって来た。

その使者とは、何と倉敷市長からだった。 「 小沢君、倉工の監督をやってくれないか。

倉工を強くして、甲子園に行って、倉敷の名を全国に広めてほしいんだ。

就職先は、もう用意してあるから。倉工グランドの横の、倉敷市立工業高校の、事務員。

仕事の途中でも、野球の指導をしても構わない。と、市長が言ってるから。 」

倉敷市長から、直々に監督を要請された小沢。


こうして、倉工小沢監督が、誕生したのである。小沢監督が、20歳だった。

倉工の夢。倉敷の夢。夢は、ここから始まった。

92名無しさん:2017/12/10(日) 13:10:33
広島カープ 優勝旅行


37年ぶりにリーグ2連覇を果たした広島は1日夕方、

緒方監督やMVPに輝く丸ら選手17人、
家族、スタッフら計228人が優勝旅行先の米国ハワイ・ホノルルへ向け、
広島空港から日本航空のチャーター便で出発。

2軍の水本監督やコーチ陣は成田空港から出発し、現地で合流。
一行は7日に帰国した。


やはりプロは勝たねばなりませんね。
高校野球はそればかりではないのですが・・・。

93名無しさん:2017/12/10(日) 13:35:06
小沢 馨物語


昭和50年。第47回全国選抜高校野球大会。2年連続9回目の出場。

小沢監督は、今までに類のない大型チームを、作り上げる。

このチームは個性派集団で、一度火がついたら、とてつもない実力を発揮するチーム。

倉敷市民は、「 今度こそ、全国制覇を 」と、願ったのだった。

「 とにかく、個性が強い奴ばっかりだったので、チームをまとめるのに苦労しました。 」
こう、語るのは、一年生からレギュラーを獲得し、当時主将だった、大倉一秀。

この選抜に出発する前、倉工ナインは、テレビに出演。司会者が、小沢監督に尋ねた。

「 今回のチームの、いつもと違う点は、どこですか? 」すると、

小沢監督は、「 今年は、センターラインが、いいんです。センターラインがいいと、野球は強くなるんです。 」
センターラインとは、捕手、投手、セカンド、ショート、センターの事。

そして、小沢監督は、次の様に語った。
『 一度でいいから、優勝旗に手をかけてみたいですね。 』

この言葉には、マスコミが騒いだ。小沢監督が【 優勝 】と言う言葉を使ったからである。

【 優勝 】と言う言葉を使ったのは、何年ぶりであろうか。

昭和43年夏、大エース 小山投手 を擁した時、以来ではなかったか。

倉工久しぶりの、大型チーム。エースは剛腕 兼光保明。

防御率0点代と言う、驚異的な数字を持って甲子園に、乗り込む倉工ナイン。

94名無しさん:2017/12/10(日) 15:31:35
小沢 馨物語


昭和50年春。第47回全国選抜高校野球大会。組み合わせ抽選会。

小沢監督は、会場入り口で中京、杉浦監督とバッタリ。
二人は談笑しながらもお互いの健闘を誓いあった。

そして、いよいよ抽選会が始まった。
主将大倉が引いたクジは、何と開会式直後の第一試合。

しかも、相手は健闘を誓いあった名門 中京。その瞬間会場がどよめいた。

そして、二回戦では原辰徳のいる東海大相模。さらに、会場がどよめいたのだった。
一回戦から好カードだったからであろう。

剛腕エース兼光の名前は、全国的にも知れ渡っていた。

開会式が終了して一塁側 倉敷工、三塁側 中京がベンチに入った。
外野のノックは、小山コーチ、内野は、小沢監督が行った。

ノックを終えた小山コーチは、ユニホームのままバックネット裏の最前列に座った。

その時、隣にある人物が座りに来た。「 倉敷工業のコーチの方ですか 」

「 はい そうです。 」その人物こそ、豊見城 沖縄水産を合計17回も
甲子園に導いた裁弘義監督だった。

この時、甲子園初出場。どんな名監督でも、最初から名監督ではない。
最初は、誰でも「 学ぶ 」事から始めるものである。

恐らく裁監督は小沢監督から、小山コーチを通じて何かを「 学び 」に来たのであろう。

そして、プレーボールのサイレンが、甲子園に鳴り響いた。

ところが、エースに異変が生じていた。剛腕エース兼光の異変。

「 甲子園入りする前から、兼光は、体調を崩していました。 」と、小山コーチ。

95名無しさん:2017/12/17(日) 11:17:50
小沢 馨物語


昭和50年 第47回全国選抜高校野球大会。 開幕戦。

倉敷工 16-15 中京

球史に残る打撃戦になった。
大会1号を、9番レフトの野田が、大会2号を7番サード石原が、それぞれレフトスタンドに運んだ。

終わってみれば倉敷工15安打、二塁打5本、三塁打1本。
対する中京は、14安打、二塁打1本、三塁打2本だった。

剛球右腕 エース兼光は、中京戦に登板するも、高熱は下がらず、試合の記憶すら、定かでないという。

主将大倉は、「 兼光が高熱があるのは、知っていました。 」
守備の名手 神土は、「 兼光さん、よく打たれるなあ。それにしても中京は 、良く打つなあ、と思っていました。
それで、兼光さんが熱があるとは知りませんでした。 」と。

最大11点をリードするが、中京打線にノックアウトされ降板。
「 もうやけくそで、兼光をかえました 」と、小沢監督。チームは、何とか逃げ切った。

小山コーチは、次の様に語る。「 13対2の時、中京は逆に気軽になったのでは。
野球というのは、1点や2点差となったら、プレッシャーになるもの。 」

試合後、小沢監督は大会関係者に、『 ぶざまな試合をしてしまい、申し訳ございません。 』と、深く頭を下げたのだった。
この試合、同点にはなったが、逆転されなかったのが大きい。

二回戦は、東海大相模。三番 原辰徳 四番 津末英明を擁する打線は、全国一。
倉敷工 と 東海大相模。この試合が、事実上の決勝戦と言われたのだった。

東海大相模の監督は、「 あの程度の投手なら、うちの打線なら、楽に6点は取れる。 」と、笑みを浮かべた。


小沢さんはエースに拘る人だったですね。大変な高熱で登板させるのは無茶。
キャッチャーミットが二重三重に見えたそうだから。
塚岡君先発か、もっと早く交代させるべきだったね。
又しても奇跡の大逆転負けかと冷や冷やしたのを思い出す。


東海大相模の原貢監督・・・鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退。ノンプロを経て、福岡県立三池工業野球部監督に就任。
無名校を初出場にして1965年夏優勝へと導き、三池工フィーバーを起こす。
その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大の創設者の招きで東海大相模監督に就任。
東海大相模の名を全国に轟かせ、神奈川高校野球界の勢力図を塗り替える。
1974年(昭和49年)には長男・辰徳が東海大相模に入学し、「親子鷹」としても話題となる。
2014年に78歳で死去されています。


工業高校の優勝☆・・・1965年夏(第47大会)の三池工と1968年春(第40回大会)の大宮工のみ。

             倉敷工も優勝して然るべきだったが・・・。

96名無しさん:2017/12/17(日) 15:11:03
広島カープ 5泊7日のハワイV旅行


今年は選手やスタッフ、その家族ら228人が参加。
選手らは常夏の島で、どんな休暇を過ごしたのか?意外と知られていないので紹介したい。

ホノルルに到着した1日の夜は滞在先ホテルで、ウエルカムパーティーが開催された。
鈴木本部長のあいさつに始まり、緒方監督が乾杯の音頭を取り、連覇をお祝い。
ムードメーカー上本が飛び入りでハワイアンダンスを披露するなど大盛り上がりだった。

2日目はオーナー杯ゴルフが開催。強風に見舞われながらも選手たちはハッスル。
丸は「プロに入ってから暖かいところでゴルフするのは初体験。すごくやりやすかったです」と声を弾ませていた。

行事は2日目まで。3日目はテレビのロケ日が設けられているが基本的に自由行動だ。
4日目、5日目はそれぞれがプライベートの時間を楽しんだ。

安部、野間は報道陣の要望に応え、サーフィンに挑戦してくれた。安部は持ち前の身体能力を発揮。
見事な波乗りを見せ「楽しかった。かなり乗れましたね」と満足顔だった。

野村、薮田、中村祐はオアフ島のシンボル・ダイヤモンドヘッドへ登頂。
道中で小学生の時にバッテリーを組んでいた同級生と遭遇した野村は「びっくりです」と目を丸くし、
頂上では「景色がきれいで感動しました。パワーをもらいました」と絶景を目に焼き付けていた。

シーズン中、遠征が多い選手にとって優勝旅行は家族と過ごせる絶好の機会でもある。
緒方監督は家族で人気のパンケーキ店へ。新井も子どもたちとプールやショッピングを満喫し、
「楽しかった。家族サービスもできて良かったよ」と笑顔。
帰国の前夜は石原、会沢、小窪らの家族と夕食を楽しんだという。


今年はウエスタン・リーグを制したファーム関係者も参加。
水本2軍監督は「ありがたいことだよ」と感謝を口にしていた。

来年は球団史上初リーグ3連覇、そして悲願の日本一を目指すシーズン。
今年のような大差にはならないでしょう。 果たして・・・。

97名無しさん:2018/01/01(月) 12:27:08
鐵腕K:2018/01/01(月) 08:46:38

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

と言いたいところですが、一身上の都合により、当分の間、試合観戦ができなくなりました。
当分と言いましても、いつまでになるか今のところ判りません。
高校卒業までは倉敷市、その後は近畿地方や岡山県で生きてきました故、少なくとも公式戦の
ほとんどを見させてもらいました。

仕事と同程度に倉工野球を大事に思っていた私ですが、齢56歳にして、このまま朽ち果てるか
or もう一花咲かせるかと考えた時に、人生の最後を東京で勝負したいと思いました。
したがって、春からは仕事最優先、おいそれと帰って来られなくなります。

昭和43年7月の岡山東商戦(第50回記念大会)からファンになりまして、奇しくも丁度50代後輩に
あたる現2年生の創志学園戦(秋季県大会)が最後の観戦になりました。
最後の観戦では小山さんの近くに座ることができ、良い思い出になりました。
ユニのマイナーチェンジは残念ですが、幸いそれを見ることはありませんでした。
寧ろ潮時と思うことにしました。(ユニが変わってもファンであることは死ぬまで変わりませんが。)

昔と違い、このようなところで倉工野球の情報が読めるというのは非常に有難い時代です。
どこに行きましても、暇さえあれば当掲示板を読みに来ると思います。
時には思い出話を書き込むかもしれませんが、年寄りの独り言と読み流してください。

↑↑
明けましておめでとうございます。

Kさんのコメントを「倉工ファン」にコピーさせて貰いました。
どうぞお元気でお過ごしください。
ユニフォームの件は私も非常に残念に思っております。

時々こちらも覘いて頂ければ幸いです。
ありがとうございました。

98名無しさん:2018/01/27(土) 11:21:25
小沢 馨物語


昭和50年  第47回全国選抜高校野球大会。 二回戦。

倉敷工 VS 東海大相模

この試合が、事実上の決勝戦といわれた。
東海大相模は、3番原 4番津末を中心とした打撃のチーム。
初戦を観戦した原監督は、「 あの程度の投手なら、楽に6点は取れる 」と、笑みを浮かべた。

一方、倉工はエース兼光が本調子でなく、
明るい材料といえば、下位打線が振れていることぐらい。
もはや、自負を失いかける小沢監督。

ところが、小沢監督の目の先に信じられない光景が展開されているのだ。
心身共に衰弱しているはずの兼光が、本領を発揮しているのである。

兼光の投じた球は、相手の背筋も凍る剛速球となって、 
捕手大本のミットに吸い込まれる。乾いたミットの音。『 バシー 』。

自らのプライド、監督チームメイトへの思いが、熱い魂となって、倒れそうな肉体を支える。
このエネルギーはどこから来たのだろうか。

【 それは、やっぱり小沢監督からもらったエネルギーでしょうね。 】と、兼光。
そして、【 この信頼は絶対守らないといけないと思いました。
善戦とかではなく、絶対に勝つという気で 】と。

5回裏 東海大相模の攻撃。ランナー一塁で村中が、左打席に入る。
打球はセンター大倉へ。大倉、懸命に背走するも、届かず。
その間、一塁ランナーは、ホームイン。打った村中は、三塁へ。

『 懸命に背走したんですけどね。グローブの先に打球が、触れたんですよ。
たぶん、誰も分からないと思いますね。 』
今でも、あの時の悔しさを忘れていない大倉。


記録はヒットだが、捕れていたね。グローブに入ったがポロリと落球。
この1点が重くのしかかった。
左腕村中は大した投手ではなかったが、この頃の倉工は左腕に滅法弱かったね。
縦の緩いカーブを打ちあぐねた。ここまで散発の5安打、9回表も二死ランナーなし。
追い込まれた倉工・・・。

99名無しさん:2018/01/27(土) 12:55:47
小沢 馨物語   涙の甲子園


昭和50年  第47回全国選抜高校野球大会。 二回戦。

倉敷工0-1東海大相模

試合は、東海大相模1点リードのまま、9回表、倉工の攻撃。
すでに、二死でランナーなし。ここまで散発5安打。
ここで、エースで4番の兼光が打席に入る。

一球入魂。打球は、センターの頭上を超えた。
大歓声の中、兼光は、二塁ベースを回ったところで、ふらついた。
フラフラになりながらも、三塁へヘッドスライディング。

「 セーフ 」。さらに、大きな大歓声が、沸き起こった。
小沢監督から貰った、エネルギー。死力のマウンド。
そして、全力を使い果たした、大三塁打。

次の打者が四球で出塁。盗塁を決めて二死2、3塁。一打逆転のチャンスを掴む。
そして主将大倉がバッターボックスに。

村中はコントロールを乱し、ノーストライクでスリーボール。
ここから2球は「待て」のサインが出たらしいが・・・。

勝負球の6球目、村中が投じた瞬間、捕手が中腰になった。
高めのボールかと思われたが判定は、ストライク。
がっくり、膝をつきグランドに崩れる最後の打者。

そこへ兼光が、歩みよった。肩をポンポンと叩き、抱き起した。

そして、何ごとかささやいた。
何と言ったのだろうか。「 それは、監督さんが、教えてくれた事です。 」と、兼光。

次の瞬間、小沢監督はこみ上げるものを、こらえきれなかったという。
小沢監督、甲子園での初めての涙・・・「 兼光に勝たせてやりたかったと・・・ 」。


小沢さんが甲子園で初めて流した涙・・・。
奇しくもこれが最後の甲子園采配となってしまった。
一度は大旗に手を掛けさせてあげたかったね。

チャンスは何度も有った・・・小沢さん初出場時のベスト4、昭和32年春のベスト4
昭和36年夏の不運、昭和42年43年の小山投手時代、昭和47年山本投手時代、
そして昭和49年50年の大型チームなど。

木製バットの昭和49年、兼光君中心で戦って欲しかったね。
選手11人の池田や夏の代表戦で格下の玉商に負ける筈はなかった。
この頃の兼光君の剛速球は外野には飛ばず、バックも素晴らしいメンバーが揃っていた。
小沢さんは勝負は3年時と考えていたのだろうが・・・。

翌年からは金属バットとなり、岡山県は群雄割拠の時代となって行った。
それにしても次の選抜が34年ぶりになるとは夢にも思わなかったね。

100名無しさん:2018/01/27(土) 16:10:07
星野仙一さんが1月4日に他界されました。
野球界に多大な功績を残された重鎮、そして郷土愛のとても強い方でしたね。
星野さんを偲びたいと思います。


「 追憶 その1 」


幼少の星野は運動会が大好きだった。徒競走に自信があったからではない。
お弁当の時間が待ち遠しくて仕方がなかった。

「みんなが日の丸弁当の中で、オレはお重なんだ。それも3段重ねのな。
裕福じゃない。貧しい…まぁ、中の下くらいだったんだけど」。
身の丈を越えた豪華弁当には訳があった。

1947年(昭22)1月22日生まれ。3カ月前に父仙蔵が病死していた。
三菱重工水島の工場長を務めていた縁で母敏子が工場の寮母となり、姉2人とともに寮で育った。

仙蔵は優秀な技術者であると同時に、部下の気持ちをくみ取る優しさも備えていた。
仙蔵を特に慕っていた寮のコックがいた。
洋食のシェフあがりで腕が立ち、当時は珍しかったマヨネーズを、卵から自作したりしていた。

星野を「仙坊」と呼んでかわいがり、必ず「今日は何が食いたい?」と聞かれた。
「オムライス、チキンライスと言えば、何でも作ってくれた」。

三菱重工水島は社会人野球の名門で、このコックは野球が大好きだった。
「仙坊はうんと栄養をつけなくてはいけない。野球選手になったときのために」と、
肉料理を毎日出してくれた。

運動会となれば「仙坊のことだから。ガキ大将なんだから」とお重を渡された。
体が大きく気前のいい星野の周りには、自然に人が集まってきた。

「おい、食え」。かつお節や昆布のおにぎり。食べたこともないハイカラな洋食。
みんながおいしそうに食べる姿を見るのが好きだった。

小学4年のとき、姉が高校野球を見に連れて行ってくれた。大声で応援して思った。
「生意気なんだけどね。そこで夢を持った。まず高校で甲子園に行って、6大学に入って。
阪神が大好きだったから阪神に行って、コーチをやって。そんな想像をしたんだ」。
家に戻ると、敏子にはこう言われた。

「野球って面白いよ。チームプレーだから。きっと楽しいはずだよ」。
生活費を切り崩し、1000円のグラブを買ってくれた。
「悪ガキたち」を集めて本格的に野球を始めた。

打っても投げても上手で「『天才なんじゃないか』と思ったよ」。
水島中学に進むと「ボコ〜ンと鼻をへし折られた」。

それでも着実に力を付け、3年のころには県内で知られる存在になった。
大会になると、必ず1人の男が星野の投球を見に来るようになっていた。

3年の冬、黒縁の眼鏡をかけた短髪の紳士が寮にやってきた。

101名無しさん:2018/01/28(日) 10:10:33
「 追憶 その2 」


1961年(昭36年)の冬、星野家が暮らす三菱重工水島の寮に黒縁眼鏡の紳士が現れた。

「倉敷商野球部の、角田有三です」。母の敏子が家に招き、こたつを囲んだ。
数学の教師だという。水島中の星野が投げる試合を欠かさずに見に来ていたという。

おもむろに「星野君、君の力で倉商を甲子園に連れて行ってくれ」と言われた。
角田は選手としての経験はなかったが野球が大好きで、部の手伝いなどをしながら知識を蓄え、
部長に就任し、直接口説きに来たのだった。

星野の中で、倉敷商への進学は全く頭になかった。

「倉敷工業に行こうと思ってた。強豪だし、3年間で最低、2回は甲子園に行ける。それに家が三菱だし」。

当時の岡山は倉敷工、岡山東、関西が頭ひとつ抜けた強豪。

倉敷商は第2グループといったところで、しかも鳥取との2県で1代表を争う以上、
甲子園へ行くには遠回りの選択に思えた。

もの静かな印象の角田だったが、訴える口調に迫力があった。

102名無しさん:2018/01/28(日) 11:00:28
「 追憶 その3 」


角田は倉敷商を甲子園の常連にしようと誓い、
岡山県内で行われる中学の試合をつぶさにチェックしていた。

星野のスケール、何より周囲を引き込む雰囲気にほれ込んでいた。

「『来てくれ』と頼んだ訳じゃない。わざわざオレのために来て、こんなに熱心に口説いてくれた」。
敏子は「倉商に行きなさい」とだけ言った。

当時の倉敷商は、野球専用のグラウンドがなかった。1912年(明治45年)開校の公立校。
確実に甲子園を狙えるほどではない野球部を、特別扱いする空気もなかった。

「ハンドボールもやるわバレーボールもやるわ…危なくてしょうがなかった」。
グラウンドの周囲は、イグサと田んぼがどこまでも広がっていた。

請われて入ったとはいえ、いきなりエースになれるほど甘くはなかった。
2年上の背番号1に宮原勝之がいた。
巨人からドラフト指名を受けるも断り、法大から当時の本田技研に進んだ左腕。

「宮原さんの真っすぐとカーブを見て、ボコ〜ンと殴られた気がした。『上には上がおるなぁ』って」。
スタートラインは他の新入生と変わらなかった。

1年生の大事な仕事として、先輩の打ったファウルやホームランボールの捜索があった。
田んぼに入ったボールはすぐに分かるが、湿地帯に生い茂るイグサの中に入ると大変だった。
貴重な硬球を見つけられないと、ひどく怒られた。

大変なはずのボール探し。しかし星野はじめ1年生は「今度はオレの番だ」と競って茂みへ駆けた。

103名無しさん:2018/01/28(日) 12:50:20
「 追憶 その4 」


高校野球といえば…星野が真っ先に浮かんだことといえば「水を飲んではいけない」だった。

「『おなかの調子が悪いんです』とトイレに行ってがぶ飲みして。慌てて飲むからユニホームがぬれている。
戻ると『何でそこだけビショビショなんだ!』と怒られ、ボコボコに殴られる。水を飲むなんて、たるんでる。そんな時代さ」。

知恵を働かせた。イグサの茂みは深いから、ボール探しに入ってしまえばグラウンドからは見えない。
一升瓶の中に水を入れて、早朝のうちに隠しておいた。「魔法瓶なんて誰も持ってないからな。ストローを差して仕込んでおく」。

湿地帯のあちこちに、ストローの飛び出した一升瓶が埋まっていた。
先輩のファウルが飛ぶと「オレの番だ」と一升瓶を目指した。

瀬戸内の強い日差しにさらされた水は、練習のころにはすっかりお湯になっていた。
「お湯なら、まだいいんだ。我慢できなかった誰かが、オレの分まで飲んでしまっている時は最悪だ。

全部飲んで、みんな空っぽになっている…」。もう最後の手段しかない。
身をかがめて、イグサをのけて、泥水に目いっぱい顔を近づけ、思い切り息を吹いた。

「ボウフラがたくさん浮いてるんだよな。それをフワ〜ッと吹き飛ばして、一気に、飲む。
ボウフラって、いっぱい雑菌が付いてるはずなんだよな。それでも飲む。免疫ができて体が強くなる。
今の子なら絶対に体を壊すと思うよ」

水を飲めない。ケツバット。いいとは思わない。ただ、理不尽から“要領”を学んだことだけは間違いない。
「『今日はケツバットが来るぞ』と思ったら、あらかじめスライディングパンツを2枚はいて、タオルも入れて。

最小限のダメージで、どう逃げていくか。そういう厳しい中で、自然と要領を覚えていく」
当時、全国の球児が避けて通れなかったであろう道を、星野もまた、たくましく歩んでいた。

野球部の日々に慣れてきた1962年(昭37年)の6月6日、岡山東商との定期戦で実戦デビューを果たした。
7回を投げ被安打1、自責なし。硬球を握って3カ月も、連日200球の投げ込みで感覚をつかんでいた。
水島の「仙坊」は、どんどん存在感を増していった。

104名無しさん:2018/01/28(日) 13:26:58
「 追憶 その5 」


星野が倉敷商に入学して1年が過ぎようとしていた。
学校から2キロほど南に下ると、小高い山の頂上に足高神社がある。

明大出身の矢吹監督は、冬場になると神社の階段を10往復させるランニングを日課とした。
「階段の高さが一定じゃなくていびつで、リズムが取れない。

1回走れば息が上がるんだけど…監督が途中で待って、目を光らせているんだ。だから、サボれんのだ」。
厳しい練習をかわす“要領”を身に付けていたはずが、矢吹の目はごまかせなかった。

3年生の宮原が抜け、星野はエースの座を確保。
矢吹と「君の力で倉商を甲子園へ連れて行ってくれ」と星野を誘った部長の角田有三は、
厳しさの中に温かな視点をたたえた教育者だった。

星野が「(角田)有さん! 柿を取りに行こう」と言えば練習を中断し、みんなで柿の木に登って木陰でほおばった。
2人は人生の師になった。矢吹に「オレの出身だ。明治へ行け!」と言われ、素直に従った。

角田は4年前の5月、86歳で死去した。
「部長先生はノックもうまくないんだけど、野球を愛していた。悪く言う人が1人もいなかった。
本当にお世話になった。熱烈な阪神ファンで、オレが阪神に行ったときは大喜びしてくれた」。

亡くなる直前まで親交は続いたが、角田は最後まで“部長先生”を全うした。
入院先への見舞いは拒まれ続けた。星野が「窓の外からひと目だけでも」と食い下がっても、断られた。

「至誠剛健」を校訓とする倉敷商は、野球部員にも文武両道を求めた。
「県立高校だから、試験が厳しかった。40点以下の“赤点”を4つ以上取ったら、次の学期まで練習は禁止。
4番だろうがエースだろうが、とにかく40点以上取らなくてはいけなかった」。
星野は数学が大の苦手で、角田は数学の教師だった。

試験前は野球部員を集め、しばしば補習が開かれた。試験に出そうな問題の傾向を丁寧に教えてくれた。
「これで赤点を取ったら…もし数学で4つ目なんてことになったら…部長先生の責任になってしまう」。
一生懸命には聞いたが、星野にとって数学が鬼門の科目であるのには理由があった。

手が大きすぎた。「あまりに指が太くて、そろばんを正確にはじけないのだ。玉が1つ動いたのか、2つ動いたのか? 
とにかく、まったく計算が合わない」。
野球においては最高の武器でも、商業科では2年まで必修であるそろばんでは最大の弱点になった。

幸運にも、そろばん部の部長が前の席に座っていた。「そろばんを使ってなかったな。暗算で、スラスラッとな」。
そっと脇を空けて答案を見せてくれた。テストが返ってきた。
「うわ〜。47点。大丈夫だ」。星野が野球をできないなんて困る。クラスメートだけでなく、倉敷商の共通認識だった。

無事に2年生になった。「元気のいい時代だったよな」。
1963年(昭38年)。東京五輪を翌年に控えていた。

105名無しさん:2018/01/28(日) 14:50:54
「 追憶 その6 」


「野球一筋。あとは、まぁ…番長だったな」。高校時代を表現する星野の答えは単純だった。
2年生になり、倉敷商及び市内周辺をほぼ統治下に置いた。

野球部の仲間や同級生、後輩たちに「あの学校の○×にやられた」と言われたら「よしっ。オレが行く!」と必ずケンカをしに出向いた。
「警察にも何度か呼ばれたな。分かってるわけだ。『お、やってるな』ってな。彼らも仕事だから一応、調書は書かなくてはいけない」。

ただやみくもに、有り余るエネルギーを発散していたわけではなかった。ケンカをする際の3つの決め事だけは守った。
(1)弱い者いじめはしない (2)相手が何人だろうが1人で戦う (3)ならず者の思いに任せた暴力は、絶対許さない

重量挙げの部室を閉め切って、校内きっての不良と1対1の決闘に臨んだ。
窓の向こうにはたくさんのギャラリー…腕を組んだまま見守る教師もいた。

星野は不良をボコボコに殴って倒した。「おぉ、星野がやってくれた」と、窓の外からどよめきが起きた。
みんなが見ている前で土下座させ「もう弱い者いじめはしません」と言わせた。

母の敏子が警察に呼び出されたこともあった。「まぁ、迷惑を掛けたよな」。申し訳ないと思ったが、厳しくしかられた記憶はなかった。
女手ひとつで星野を育てた敏子は、なぜケンカをするのか何となく分かっていた。

息子は、いわゆるアウトローの不良にしか手を出さなかった。
「オレ、オヤジがいなかっただろ。当時はな、差別があったんだ。『ない、ない』と表向きには言っても、差別はあった。

いろんな事情があって当時は…半分近くはな。親がいなくて差別を受けた人 間は、ほとんどが、ぐれる。そういう姿を、うんと見てきたから」
同じ境遇の人間が差別を感じて傷つき、道を外れていく。黙って見逃すことは許せなかった。

力ずくでも気付かせたかった。卑屈になるな-。「野球一筋」と即答したのは、自分のルーツがあったからだ。
「野球しかなかったんだ。野球がなかったら、自分がどうなっていたか分からない。
道を踏み外して、おふくろや部長の角田先生、みんなを裏切るわけにはいかない」。

高校に進んで間を置かず、敏子に珍しく強い口調で言われた言葉が今も忘れられない。
今の時代、これからの時代は、絶対に大学に進まなくてはダメ。卒業してすぐプロに行くのではなく、大学で勉強しなさい。

明大を出て中日に進んでから、敏子の言葉を痛感する。
入団してしばらくすると、1人の男性に見られていると気付いた。

目深にかぶったハンチング姿と鋭い眼光に特徴があり、何となく見覚えがあった。
気になる存在になりつつあったある日「広島でスカウトをしている木庭です」と言われた。
選手発掘に無類の能力を発揮し、スカウトという仕事を世に広めた木庭教だった。

僕は、高校時代の君を本当に取ろうと思った。
でもお母さんにお願いにいったら「どうしても大学に行かせたいので」と断ってきた。
話し方で君のことを 大事に思っていると分かったから、それでいいと思った。頑張って下さい。

阪神監督となった星野が甲子園で胴上げされた2日前の、03年9月13日。敏子は91歳で死去した。
晩年は時間をかけて倉敷市内の各所を回り「仙一が本当にお世話になりました」と頭を下げて回ったという。
番長でも道を踏み外すわけがなかった。進む道の先には、いつも先回りした母の足跡があった。

106名無しさん:2018/02/03(土) 09:50:08
「 追憶 その7 」


野球もケンカも腕っぷしが強い星野仙一の名前は、2年の秋にはすっかり県内に知れ渡っていた。
1963年(昭38年)の11月23日。倉敷商野球部の同級生2人と誘い合い、市内へ繰り出した。

星野が住む三菱重工水島の寮から学校までは、自転車で40分ほどかかる。
翌朝のあんパンをかけて、同方向の仲間とどちらが早く着くか毎日競争した。

「大きな野球道具を積んでな。車もいないから、競輪選手みたいに思いっきりこぐわけだ」。
足腰が鍛えられ、どんどん大きくなっていくのが分かった。

勤労感謝の日で学校は休み。いつもと違ってゆっくり自転車をこいだ。北風が冷たい日だった。
カゴにはいつもの野球道具ではなく、悪友が仕入れてきたライフル型のポンプ銃が入っていた。

当時の最新型で、人に向けたら危険な威力があった。動く何かを狙って撃ちたい。狩人の衝動に駆られた。
「スズメがいいんじゃないか」となり、探すことにした。

ライフル型の銃を持った大柄、丸刈り、学生服の3人が、キョロキョロしながら市内をはいかいしている。
ときたま、空や地面に向かって発射しているようにも見える。通報された。

「補導員が『学校には言わないから住所と名前を』と。正直に言ったら、ばらされて。警察に呼ばれてから、職員室で怒られた」。
部長の角田が、きまり悪そうに身をすくめている。「部長先生に悪いな」と思いながら、ストーブの前で何時間も立たされた。

「寒かったし、ちょうど良かったか。帰ろう」。翌日は、後に甲子園をかけて戦うことになる米子南との招待野球が控えていた。
自宅に戻ってテレビをつけた。アナウンサーが緊張していた。

「この記念すべき日に、誠に悲しい出来事をお送りしなくてはいけません。
アメリカ合衆国のケネディ大統領は11月22日、日本時間23日の午前4時頃、テキサス州ダラスで銃弾に撃たれ、死亡しました…」

そういえば市内では号外を配っていた。日本が衛星放送に成功した日に届いた重大ニュース。
「オレがポンプ銃を撃っていたのは偶然なんだけど…」。忘れられない出来事になった。

翌年にテレビがカラーになり、東京五輪が行われ、東海道新幹線が開通した。
星野が今でも大好きな、坂本九の「上を向いて歩こう」がヒットした。

「3年の時に 、学校で五輪観戦の募集があったの。サッカーかバレーボール。
東京に行ったことなかったから、おふくろに頼んで。でも、あまりにも多いから抽選になって、落選。

新幹線は大学受験で初めて乗った。あれ? 音もしないで走ってるってな」。
高度経済成長のど真ん中。「元気な時代。世の中『さぁ、やるぞ〜』っていう活気に満ちていた。

我々、団塊世代の前の方々が頑張ったから、今がある」。
おおらかな星野のルーツには、おおらかな時代背景も深い影響を与えている。

107名無しさん:2018/02/03(土) 10:40:37
「 追憶 その8」


「ホシが自転車で通った道を、たどってみようか」。
倉敷商でチームメートだった藤川當太(71歳)がハンドルを握り、倉敷市内から瀬戸内海へと向かった。

水島工業団地の真ん中に三菱自動車の工場がある。海を見ながら一服した。
「風景は当時と変わってないなぁ。工場の建屋もそのままだ」。海路の往来はせわしなく、煙突の煙がたなびいている。

「ホシの家は…三菱の寮はもうないね」。工場から徒歩10分、寮の跡地は病院になっていた。
「学校まではけっこう遠い。自転車なら40〜50分かかる。毎日こいでりゃ足腰も強くなる」。途中から細い道に入り、縫うように進んだ。

藤川と星野の出会いは中学のころだ。「なぜか試合中のホシと口論になった。 私はスタンドで観戦してたんだけど」。
入学式で「おう、よろしくな」と後ろから肩を組まれ意気投合、クラスも一緒で竹馬の友となった。

スズメを狙って警察に叱られたポンプ銃は「私が仕入れたの。当時の最新鋭よ」と笑った。
「野球部の結束は固かった。隣のクラスのヤツに殴られたと聞けば、ホシと突入。前と後ろに分かれて『誰だ』と探し出した。

でもホシは、弱い者いじめは絶対にしなかった」。口数が多い方ではないが、いつも星野の隣にいた。
甲子園に届かなかった3年夏の東中国大会決勝、米子南戦。藤川は前後までよく覚えていた。

普段と違う様子を心配し、夜の雑魚寝は星野の隣を確保した。
「暑い夜だったが、ホシは暑さというより、興奮して寝付けないようだった。
何度も寝返りを打って起き上がり、下の階に降りて、動き回ったりしていた」。

試合は2-3で敗れた。「1番左翼」でスタメンの藤川が回想した。
「逆転された4回は、ボテボテで三遊間を抜けるレフト前がよく飛んできた。
ホシはカッとなると、とことん打者に向かっていくクセがあった。

悪いことではないが、内角を狙われた。どん詰まりだからランナーが突っ込んできて、なかなかアウトにできなかった。
相手は変則ピッチャー。バントの打球が土の具合でファウルになったりして、崩せなかった」

宿舎の好日荘に戻り、藤川は出窓に腰掛け、畳の部屋に背を向けて泣いた。
晴れ晴れした様子の仲間もいたが「明るく振る舞っている気持ちが分からなかった」。星野は終始、沈んでいた。

「倉商の練習は厳しい。30〜40人いた部員がどんどん辞めていって、最後は1学年10人いるかいないか。
『やり切った』という気持ちがあった。あれだけ厳しい練習に自分は耐えた」。野球はすっぱりとやめた。
「当時は大学に進むという選択肢は非常に狭かった。倉商の同級生で大学でも野球を続けたのは、ホシと咲本だけですよ」。

108名無しさん:2018/02/03(土) 14:32:04
「 追憶 その9 」


咲本淳一は強打の一塁手として倉敷商の3番を打ち、4番星野とクリーンアップを組んだ。
半世紀以上前、セピア色の写真では、2人はいつも隣に写っている。同じ東京6大学の法大に進み、上京後も深い関係が続いた。

中学時代は県大会で入賞する水泳の好選手だった。周囲の勧めもあって倉商から野球部。
当時としては体がうんと大きく、カラリとした性格も相まってウマがあった。

「もちろん野球でも、こまごま具体的な思い出って、あるんですけど。やっぱりホシという人間。
彼との出会い、思い出がまず、頭に浮かぶんです」。1番を打った藤川當太とともに、いつも行動を共にしていた。

2年生のときだ。「彼が二、三塁間で挟まれましてね。二塁手に向かって跳び蹴りをしたんです。
相手が怒る…ホシも負けじと言い返す。試合後はたくさんの警官隊に囲まれて帰りました」。

とにかく負けず嫌いで「勝負の鬼というか、本人とは別の何者かが、ホシの中に棲んでいるのではないかと。ホント、思うんです」。
向こう気も強く、上下関係を強要する先輩にも立ち向かった。

「当時は先輩と言えば絶対ですけど。控えの先輩の理不尽なんかには『それは、どういうことですか』とハッキリ言ってましたね」。一本気が忘れられない。
咲本にはもう1つ、忘れられない星野の姿がある。学生服のズボンに、いつもピシッと入っていた縦1本の折り目。

「お母さんがやっていたんですよね。決して裕福ではなかったはずだけど、きれいな折り目が入っていて、当時からオシャレだった。
彼のお姉さんも、みんな大学に行っている。裏切れませんよね」。

阪神の監督になった星野に呼ばれ、咲本は甲子園球場に行った。「打席に立ってもいいかい」「もちろんだ」。
あと1歩届かなかった場所からグラウンドを見た。何げなく「やっぱり甲子園はすごいなぁ」と言った。

甲子園に屋根をつける議論が起きたとき、ラジオ番組に出演した星野は強い口調で言った。
「絶対にダメだ。オレの親友が打席に立って、涙を流して感動していた。甲子園のあの風景を変えてはいけない。夢なんだ」。
咲本は言った。「立場や肩書で人を判断しない。いつまでも付き合いを変えない。そんな男なんです」。

109名無しさん:2018/02/04(日) 09:38:02
「 追憶 その10 」


星野にとって倉敷商の3年間は別格だった。半世紀以上前のことでも、追憶のかなたには位置していない。
「野球人生で一番、思い出がある。だってホントの出発点だもん」。

高校野球が自分の根っこにある。出発点が挫折だったから、今でも夢を追い続けることができる。
「中学生から『君の力で甲子園に』と言われてコロッといってしまい、倉商に行って、決勝で番狂わせと言われる事柄があって、オレの人生がある。

甲子園に行けなかったのが、逆に良かったな」。当時の気持ちを丁寧に読み解いてみると、高校野球が星野仙一という人格を形成したのだと分かった。
みんなを甲子園に連れて行けなかったこと。みんなが行けると思っていた。そりゃ普通、試合をひっくり返されたら怒るよ。

だから、人生というのはさ…負けたら取り返しがつかない。返ってこないんだから。甲子園では挫折した。
次は神宮だ、神宮の次はプロだと。みんなには申し訳ないけど、夢がどんどん大きく膨らんだ。
打ち砕かれたことで、ものすごく、気持ちが次に向かっていった。

オレはね、高校生の当時から、妙に冷めている一面というか、もう1人の自分が、野球をしている自分を客観的に見ているところがあった。
オヤジのいない環境で育ったことも影響しているのではないか。それは今でも変わらない。

先輩たちの投げるボールを見て「今は、絶対にプロでは通用しない」と分かっていた。
もしあの時、コールドに近い形で甲子園に行っていたら、どうだっただろう。

勘違いして、てんぐになって「いきなりプロに行って、やれるんじゃないか」とか、バカな考えを起こしていたかも知れない。
夢があって、現実があって、でも夢に向かってまた、進んでいく。高校野球は、そうやってオレを大きくしてくれたんだ。

「みんな高校野球の卒業生だろ」。柔和な顔が急に変わった。
「アマチュアの指導者が、どれだけ苦労して1人の人間を育てているか。

でもプロはドラフト会議という名のもとで、お祭りみたいに騒いで1位、2位とか順位をつけて、おいしいところを取っていく」。
もっと野球界を1つに。「野球人口が減っている本当の危機感について、まだピンと来ていない人が多い。

口では『危機』といっても、どれだけやっているかは疑問だ。
実効性を伴わなければ意味がない」。本当の恩返しとは-。大胆な腹案がある。

110名無しさん:2018/02/04(日) 10:07:04
「 追憶 その11 」


野球殿堂入りした星野は、ハレの壇上で意外なスピーチをした。
自分のことは「大したことない」と言ってから「野球界はどうあるべきか、掘り下げて考えたい。

我々はアマの卒業生。底辺を広げる。これは大変なんだ」と訴えた。
きれい事だけでは進まない。「都内ではグラウンドを見つけることもひと苦労。
環境をつくってあげるためには財源、つまりお金が必要。

社会人野球に休部が続いている現状では、企業に出せと言っても、無理なんだ」。
つまり、お金を作る方法を考えなければならない。時間をかけ、リサーチを重ねて煮詰めてきた腹案を披露した。
後発のサッカーはクジをやっている。プロ野球もクジを導入するべきだ。

クジと言うと、すぐ「八百長」「賭博」となる。もってのほかだ。あってはならないことだ。
八百長のできないクジの方法は、いくらでもある・・・。

集まったお金は、プロ野球は一銭もいただかない。
運営費などを引き、スポーツ庁を通じてアマチュア球界の環境整備、強化費に使ってもらう。
大きな災害、震災のために、1年で数億円ずつプールしておくことも必ず。
細かいところまでルールを作って訴えていけば、実現する可能性が出てくる・・・。


2017年 星野氏は野球殿堂に入り、オールスター、しかもかつての本拠地ナゴヤドームでの表彰式で、ファンにあいさつ。
年末には殿堂入りを祝う会を東京と大阪で行い、多くの仲間、後輩、恩人たちへの別れをしっかり済ませ、
家族が見守る中で静かに息を引き取った。

超高齢下時代の中、「終活」という言葉が盛んに言われるようになったが、
さすが星野仙一、見事な人生の終い方だった。

「大体、人生は悲しみ、悔しさが7割、喜び、幸せが3割とよく言われるけど、俺はその逆で生きてきたからな。
これからも、そのつもり」。そう話したかと思えば、こうも言ったことがある。

05年に巨人から監督就任要請を受けたが、巨人OB連の猛反発もあって実現はしなかった。
数年後、「(要請は)野球人としてめちゃくちゃうれしかった。巨人のOBたちはかわいそうに…。この人たちはひがみの人生。

あんたたちがしっかりしないから、部外者の俺に声がかかったんちゃうの?
その時、俺は決意したんだ。他人からひがまれる人生を送ってやろうとな」――。


    ◇  ◇

111名無しさん:2018/02/04(日) 11:05:16
「 追憶 その12 」


星野さんは記者席から身を乗り出すように入場行進を見ていた。
「慣れ親しんだ甲子園なのに、この興奮ぶりは何なんだろう」

2005年8月6日、全国高校野球選手権の開会式。
甲子園観戦記のゲストとして、星野さんを招いた。

3年の夏、決勝で敗れた。
甲子園の開会式のテレビ中継が始まると、家の押し入れにこもって泣いた。

「あの中に、おれがいたはずなんだよ」と。
そんな話をしながら、星野 さんはグラウンドを見つめていた。

「どんな気持ちで歩いているんだろうな。うらやましいよ」
「そうですか? プロでは甲子園のマウンドで何度も投げて、監督として胴上げもされたのに」と聞くと、
「全然違うわ」としかられた。

「ここは高校球児のものなんだ。中日の選手として初めて入った時、芝生にスパイクで入ってもええんかなと思った」

球児の連投問題についても聞いた。阪神担当時代は夏になると「猛暑の中で球児を酷使して。
(主催者の)朝日がしっかりせないかん」などときつく言われていたので、批判をいただくのではと予想した。

またも意外な答えが返ってきた。「でも、ええ。青春かけてやってるんや! なあ、そうやろ!」。
そう言って、わたしの隣にい た記者の肩を強くたたいた。

松山商のエースとして1969年夏の甲子園で優勝し、明大の後輩でもある井上明記者だった。
星野さんの心は、甲子園を目指して投げていた球児に戻っていた。
そして、決勝の延長十八回引き分け再試合を連投した後輩への優しさがにじんでいた。

今夏は100回の記念大会。甲子園を愛した星野さんに、大会を見て、語ってもらいたかった。



星野さんの追悼シリーズは一応これにて終了。
まさに倉敷が生んだスーパースターだったですね。
心よりご冥福をお祈りいたします。

112名無しさん:2018/02/18(日) 10:31:10
広島カープ2軍情報


「ちょっとかわいそうですよね。甲子園で記録を打ち立ててしまったものだから、
どうしても比較対象が清原和博さんや松井秀喜になってしまう。
でも私は、中村が清原さんや松井のような十数年にひとりの怪物だとは思っていません」

広島のルーキー・中村奨成のことをクールにそう評したのは、広島の水本二軍監督だ。

中村は昨年夏の甲子園で6塁打を放ち、清原の本塁打記録を32年ぶりに塗り替え、一躍注目を集めた。
本塁打だけでなく、打点や塁打数でも選手権の大会記録を更新。

高校球史のうえでも屈指の強打者として騒がれたのに加えて、強肩やスピード感溢れる守備も高く評価され、
超高校級捕手としてドラフトでは中日との競合の末、地元の広島が引き当てた。

岩国市でスタートした二軍キャンプ初日には千人を超すファンが押し寄せるなど、中村への注目度は高い。
二軍は第2クールから宮崎・日南入りし、練習内容も本格化。

中村は、「岩国ではできなかったことが、こっちでは長時間できる。ワクワクしながら練習できました。
やってやろうという気持ちです」と、疲れを感じさせない力強いコメントを残した。

そんな中村に鋭く目を光らせているのが、冒頭で紹介した水本監督だ。

「これだけ騒がれ、二軍でも多くのお客さんを集めた。勘違いしないように、彼をしっかりコントロールしてあげないと。
それに、清原さんや松井、田中将大は入団の段階で一軍レベルの体を備えていた。それに比べて中村は、まだまだ子供ですから」

中村のバッティングを見守った水本監督も、まだ木製バットへの対応に課題があると指摘する。

「高校日本代表にも選ばれていましたが、大会では正捕手ではありませんでしたよね。
やはり、他の選手よりも木製バットを扱いきれていなかったことと無関係ではないと思うんです。
ポイントの置き方、タイミングの取り方など、覚えなきゃいけないことは山ほどあります」


現在、広島のキャッチャーは1学年上の坂倉将吾が一軍で首脳陣に猛アピールを続けている。
中村の入団が坂倉に好影響をもたらしたのでは…という声も多く聞こえてくるが、水本監督はキッパリとこう否定する。

「坂倉は向上心が強く、1年目から誰よりも上手になりたいとの思いで鍛錬を続けてきました。
今の中村は、正直、坂倉の尻に火をつけるほどの存在ではありません。
いずれは高いレベルでポジションを争ってほしいと思いますが、今の段階では比ぶべくもないです」

現状、水本監督は中村について「いつ頃までに一軍へ」という見通しすら立っていないと言い切る。

「単純に振る力を比較しても、高卒1年目当時の丸佳浩や鈴木誠也、坂倉の方が上です。
でも肩や足のパフォーマンスは、過去に高卒でウチに入ってきた選手のなかでも明らかにトップクラス。
この点に関しては、評価が揺らぐことはありません。

ひとつ覚えればひとつ忘れる、ということを繰り返しながら成長していくのが高卒ルーキー。
だから根気強く、道を踏み外さないようにしっかりと導いていくしかないんですよ」

丸や鈴木ら、高卒ルーキーを猛練習で鍛え上げ、球界を代表する選手へと育て上げた広島だけに、
二軍で“中村フィーバー”が起きようが、チームは動じることはない。

水本監督の厳しい言葉のなかにも、伝統の育成に対する絶対的な自信を感じ取ることができる。
だからこそ、中村の将来に大きな期待を抱かざるを得ないのだ。

113名無しさん:2018/02/18(日) 11:50:29
高校野球地域ニュースから・・・


ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行を成功させた1961年、
甲子園で報徳学園が6点差をひっくり返す大逆転劇を演じた。「逆転の報徳」の異名が生まれた試合。

敗者となった倉敷工にも、またドラマがあった。
0―0で迎えた延長十一回表。倉敷工は主将・松本の適時二塁打などで一挙6点を奪い取った。

「やった、これで終わりだ!」 アルプス席を埋めた応援団の誰もが勝利を確信した。
1年生で野球部の控えだった国方は「早く次の試合が始められるように、と先輩のバットを片付け始めた」。

しかしここから、後に「奇跡」と呼ばれる逆転劇が始まった。
十一回裏。疲れの見える倉敷工の先発永山が、代打の平塚に安打を許す。
「地元代表として少なくとも1点は欲しかった。ただもう無我夢中でバットを振ったよ」と平塚。後続が続いて2点を返した。

倉敷工の小沢監督は永山に代え、背番号1の森脇をマウンドに送った。
県大会前に負傷し、約2カ月ぶりの公式戦での登板だったが、キレのある球で7番・高橋をカウント2―2に追い込んだ。

あと1球の場面。アウトコース低めに投げた球がミットに吸い込まれ、「バシッ」という音が響いた。
「ストライクだ!」。森脇は直感した。球審が腰を浮かし、右手を上げるかに見えた。

試合終了のあいさつに向かおうと、ベンチの選手たちが一斉に体を浮かした。だが、球審は短く一言。「ボール!」。
その1球について高橋は「実にいいボールだと思って全く手が出なかった。正直ホッとしましたね」。

一方の森脇は「今思えばあの一球で動揺してしまったのかな」。四球で高橋を歩かせ、安打で1点奪われた。
再び永山が登板したが、一度マウンドを降り、緊張の糸は切れていた。

「自分の役目は果たしたと思ってたから、もう完全に力が抜けてしもうた」
報徳に3点を許し、6―6の同点となった。「ウワァー!」。地鳴りのような歓声が球場を包む。

永山は止まらない汗を拭った。そして十二回裏。一死満塁から1点を奪われ、サヨナラ負け。
永山は「どえらいゲームにしてしもうたと思った」と語る。ただ、右翼手だった土倉はこう振り返る。

「あの試合は森脇のためにあったようなもんじゃ。森脇と甲子園に出られただけで、満足だったよ」
背番号1をめぐる物語は、あの年の7月上旬にさかのぼる。

県大会に向けた練習中、森脇が犠打で駆け出し、主将で一塁を守っていた松本がタッチするためグラブを伸ばした。
連日の練習で疲れていた森脇は、タッチの際に足がもつれて転倒。右鎖骨を複雑骨折した。

1年生からベンチ入りしていた森脇は、3年春から県内の公式戦で無敗。
「彼がいれば今年の夏の甲子園制覇も夢ではない」と監督の小沢も考えていた。

絶対的なエースを欠く危機的状況の中、小沢が抜擢したのが打撃投手だった2年生の永山だ。
仲間から「(球速は)トンボが止まるくらい」と冷やかされていたが制球力は抜群だった。

「球威がないから変化球で勝負しようと思った。授業中もボールを離さず、握り方を研究してたよ」と笑う永山。
県大会ではその変化球がさえ渡った。 県大会を突破して東中国大会に出場。

初戦は鳥取の強豪・米子東。「何としても森脇を甲子園に連れて行きたい」。
けがをさせた負い目を感じていた松本は、そうメンバーに告げたという。

森脇を甲子園へ――。一丸となったチームは9―7で米子東に打ち勝ち、決勝で岡山東商に快勝。甲子園出場を決めた。
森脇は練習を再開し、球威をほぼ取り戻した。

松本は監督の小沢に「森脇を甲子園で放らせてやってくれ」と頼み込んだ。それは選手全員の願いだった。
報徳戦の後、森脇を責める仲間は誰もいなかった。

土倉は言う。「森脇が投げられると思ってなかったけど、一緒に甲子園に行きてえなあってずっと思ってた。
甲子園で彼が投げた時はうれしかったなあ」

森脇は74歳になった。約10年前に胃がんの手術をしたが、元気を取り戻し、妻の実家の畑で野菜や果物作りを楽しんでいる。
「つらい思いもしたけど今となってみればいい思い出です。もり立ててくれた仲間に感謝しています」
そう静かにほほえんだ。



(16〜23で詳細は記入しています)

114名無しさん:2018/02/24(土) 11:51:43
歴史的偉業は、無情の雨天コールドから始まった・・・駒大苫小牧


佐々木は初優勝の前年、03年夏も、2年生で甲子園の土を踏んでいる。
この年、センバツにも初出場していた駒苫にとって、春夏通じて4回目の甲子園。
だがそこまで、白星は一つもない。なんとか1勝を、が合言葉だった。

その一回戦、倉敷工に8対0と大量リード。
だが4回の攻撃途中、台風10号の影響で豪雨が襲い、結局降雨ノーゲームとなってしまう。

そして翌日の仕切り直しは2対5の敗退。8点という大量リードで、一度は見えかけた甲子園初勝利が、するりと逃げた。
この試合を甲子園のスタンドで見ていたのが、当時兵庫・宝塚ボーイズの田中将大である。

その田中が入学し、日本ハムが北海道に本拠地を移した04年夏。駒苫は、ふたたび甲子園にやってきた。

「一年前の敗戦はずっと重たいものがありました。勝たせてやれなくて悪かった、と選手たちに頭を下げた。
あの悔しさを晴らすために、甲子園に来たんです」(香田監督・当時)。

当時の佐々木主将も、こんなふうに語っている。
「去年の倉敷工戦は、代打で出て三振。悔しい思いをしていたので、あの負けから全国制覇を目指してやって来ました」

宿舎には、前年倉敷工戦で敗れた3年生部員全員の連名の手紙が届いていた。
そこには、ベンチ入り18人各自に、熱いメッセージがしたためてあった。

初戦(2回戦・対佐世保実)の前日、佐々木は長い時間をかけて全文を読み、ナインに聞かせている。
その、佐世保実戦。すかっと晴れた青空そのままに、駒苫は7対3で快勝した。

初出場から58年、ようやくたどり着いた甲子園1勝だった。

白星を手にしたとはいえ、次の3回戦の相手は日大三なのだ。01年夏には、当時の最高チーム打率で全国制覇している強豪で、
ようやく1回戦ボーイを脱却したばかりの駒苫とは、ちょっと格が違う。

この時点では過去85回の大会で優勝旗はいまだ白河の関さえ超えておらず、道勢優勝にはリアリティーが薄い。
当然、駒苫の注目度も、さほど高くはなかった。

ところがところが駒苫は、日大三に7対6と競り勝ってベスト8に進出。

さらにだれもが、“いくらなんでも無理だろう”と思った準々決勝でも、
涌井秀章を打ち込んでまたも“超ブランド”横浜を撃破。

準決勝で東海大甲府に勝つと、
決勝では春夏連覇を目ざした済美と13対10という壮絶な打撃戦で頂点に立ったのである。

チーム打率・448という新記録までおまけにつけた、北海道勢初めての全国優勝。
佐々木自身も、5試合で打率・421を記録している。その佐々木監督が、指揮官として挑む2度目の春。

夏は2回の全国制覇がある駒苫だが、春はまだ頂点に届いていない。
「僕たちの時代がそうだったように、規格外の練習をするしか勝つ方法はありません」
佐々木監督、力強く宣言した。


佐々木監督・2004年夏、北海道勢として駒苫が初めて優勝した時の、主将でショート。
駒苫は翌年夏も連覇し、3連覇に挑んだ06年夏も、決勝で敗れたとはいえ、
早稲田実と引き分け再試合を演じ、球史に名を刻んだ名チームだ。
佐々木が監督に就任したのは、駒澤大卒業後の09年8月。



規格外の練習とは?・・・どんな戦いをみせてくれるのか?楽しみですね。

(駒大苫小牧戦の詳細は62〜63に記入しています)

115名無しさん:2018/03/03(土) 14:00:16
JR西日本、「広島カープ由宇練習場ウエスタン・リーグ日帰り応援プラン」


岡山駅〜博多駅間の新幹線各駅から新岩国駅までの往復新幹線指定席、
新岩国駅〜由宇練習場までの往復貸切バス、お弁当と飲物(ビールかお茶)がセットになった日帰りプラン。

広島県、岡山県、山口県内の日本旅行/日本旅行サービス、Tis博多/小倉、中洲川端支店の日本旅行商品取り扱い店舗で購入できる。

料金例:広島駅発着大人5500円、子供4200円、徳山駅発着大人5900円、子供4400円

※由宇練習場の入場は無料、1名から申し込み可能


「広島東洋カープ由宇練習場ウエスタン・リーグ日帰り応援プラン」設定試合

2018年3月29日12時30分:福岡ソフトバンクホークス戦

2018年4月22日12時30分:阪神タイガース戦

2018年5月18日12時30分:福岡ソフトバンクホークス戦

2018年6月2日12時30分:中日ドラゴンズ戦

2018年6月3日12時30分:中日ドラゴンズ戦

※試合日の10日前まで販売



(85〜87で広島2軍由宇練習場の話題を記入しています)

116名無しさん:2018/03/04(日) 13:10:07
3月1日付で母校・県岐阜商の監督に就任した鍛治舎巧氏(66歳)


岐阜県岐阜市内の同校で就任会見に臨んだ。

昨夏まで秀岳館を4季連続で甲子園へ導いた新指揮官は「全国の強豪と戦える基礎、基盤をつくりたい。
岐阜県のみならず、東海地区を高校野球界の中央にするという意気込み。カンフル剤になれれば」と決意を語った。

「野球人生の集大成。母校で、自分の後輩たちとやれるのは幸せです。お金は三の次、四の次ですよ」。

大学を含めて20数チームから届いたオファーを蹴って母校での指揮を決断した鍛治舎氏。最後の挑戦が始まった。


公立校なら収入はかなり減る・・・

社会人指導者という制度【注】があって、1400数十円の時給で、
1日(報酬が出るのが)2時間までの認定で(1週間に)5日間。1日2800円ぐらいで1週間に1万4000円。

4週間だから(1か月に)5万6000円で6万円弱。年間で70万円弱が報酬です。
秀岳館での報酬は月に50万円で年間600万円。そしてボーナスが70万円ぐらいあった。



お金は三の次、四の次の「持ってる人」が倉工にも来て欲しい。
何処かにいないか?
甲子園16勝☆伝統のユニフォームで戦うべきだ。

以前に記入した尾藤さんのお言葉に・・・
「その精神的な自信と誇りを痛感させられた試合です」
これが分からない者が指揮官では情けないと思う。

117名無しさん:2018/03/17(土) 17:31:06
校長室の硬球


槌田誠が、昭和49年倉敷で行われた、阪急とのオープン戦で放った、
3本のホームランの中の1個であります。

エースを負傷で欠きながらも、炎の闘志で、甲子園切符を掴んだ昭和36年夏。
対 報徳戦の捕手。延長11回裏、6-5に追いかけられた時だった。

センターからのバックホームを後ろに逸らしてしまい、6点目のランナーがホームを踏んだ。
「あの時、完全にキャッチしていれば、もしかしたら勝っていたかもしれない。」

『借りを作った。このまま終わってなるものか。』

昭和38年、立教大学に進学。ある日、小沢監督が立教大に立ち寄った時の事。

槌田がブルペンで、バケツをひっくり返し座って、先輩投手の球を受けていた。「ここへ投げろ。」と。
球は構えたミットを少し外れてしまった。すると、槌田は『取って来い』と。

野性味が溢れ、野武士的な槌田。先輩にも一切の妥協を許さぬ、野球の鬼。
昭和41年春。13試合、45打数、20安打。戦後、二人目の打撃三冠王。リーグ優勝。ベストナインと大活躍。

そして昭和41年、巨人ドラフト1位。
巨人V9のスタートの年だった。プロ初打席、満塁ホームランを含む、代打ホームラン通算4本。

槌田の打席は連敗阻止、完全試合阻止など、ここ一発で勝負強く、チームを救った。

昭和49年3月16日、ふるさと倉敷で阪急とのオープン戦、
3本のホームランの離れ技を演じた。1本は場外の彼方へ。

1本目は、報徳学園戦の負い目を振り払い、
2本目は、恵まれなかったプロ人生の悔しさを打ち払い、
3本目は、恩師、先輩、友人、そして、少年達に夢を与えるスイングだったのか。

公式記録にない3本の連続ホームラン。そのうちの1個が校長室に。


常勝チームに不可欠な男。名門巨人軍V9を支えた男。

灼熱の季節を力の限り生き抜いた野武士、槌田誠。

確かに見た。後輩たちが死力で掴んだ甲子園を。

平成11年1月7日、胃がんのため他界。享年55歳。

「ジャイアンツ、選手の交代をお知らせします。9番、堀内に代わりまして、代打、槌田。背番号22。」



(槌田選手は24〜25で記入しています)

118名無しさん:2018/03/18(日) 11:32:36
廃部寸前の無名県立校がセンバツ出場


秋の九州大会で準優勝を果たした富島(宮崎)は、全国の高校野球ファンには馴染みのない学校。
地区代表として送り出す九州の人間にとっても“初耳”という人は多いのではないだろうか。
学校は「とみしま」と読む。宮崎県日向市にある実業系の県立高校。全校生徒は定時制を含め618人。

日向市からの甲子園は、1989年夏の日向高校以来だけに、
センバツ切符がかかった昨年秋の九州大会には市長も応援に駆けつけるなど、
地元は“富島フィーバー”に沸いた。

近隣には、延岡学園(2013年夏の甲子園準優勝)や聖心ウルスラ(昨年夏の代表校)、
青木宣親(ヤクルト)らが輩出した日向といった人気と実力を兼ね備えた強豪校が多く、
富島は常に劣勢を強いられる立場にあった。

チーム躍進のきっかけとなったのは、2013年に浜田登監督が就任したことだった。
2008年の夏に母校である宮崎商を率いて甲子園に出場し、
同年秋のドラフトでは左腕エースの赤川克紀がヤクルトからドラフト1位指名を受けるなど、
チーム強化と選手育成に定評がある名将だ。

だが、浜田監督が就任した2013年春の段階で、野球部員はわずかに11人。
そのうち半数が野球未経験者だった。一時は部員数が5人まで落ち込んだ時期もあった。

「もはや野球部の体(てい)を成していない…恥ずかしい」と夏の開会式の時にバスから降りるのをためらう選手もいた。
当然のことながら初戦敗退が当たり前で、それだけに今回の快進撃への市民の反応は「よくもあの富島が…」と、
感心とも絶句ともつかないものだった。

「3年で九州大会、4年で甲子園に行きます」

富島着任の歓迎会でこう宣言した浜田監督に対して、当初、周りの反応は冷ややかなものだった。
部員数の減少により、廃部寸前だった野球部である。
いくら名将が来たとはいえ、それまで初戦敗退が当たり前のチームが急に変わるとは誰も想像していなかった。

それでも、実力のある公立校や実績のある監督に多大なリスペクトを寄せる県民性もあって、
浜田の着任と同時に地域の有力選手が続々と富島に入学した。

もともとこの地域はソフトボール出身者を中心に選手の質が高く、県内の強豪校に何人もの選手を送り込んでいる。
それだけにこの地域の有力選手が集まった富島は、瞬く間に力をつけていった。

浜田監督が就任してから1年半後には宮崎県の1年生大会で優勝。
これが富島野球部にとって県レベルで獲得した初のタイトルだった。

また、彼らが2年となった秋には県大会準優勝を果たし、創部以来初の九州大会に進出。
翌春には宮崎の頂点に立って九州大会に連続出場するなど、就任わずか3年で一躍、県内の強豪校へとのし上がった。

昨年の秋は宮崎大会で準優勝し、3度目の九州大会に進出。文徳(熊本)、長崎商を破り、
準決勝では昨年夏に甲子園を経験している石田を擁する東筑にも勝利した。
決勝は創成館に敗れたが、初回に奪われた5点のビハインドを1点差に詰め寄るなど、
持ち味は存分に発揮。文句なしのセンバツ当確となった。

ドラフト候補がいるわけではないし、180センチを超える選手は一人もいない。
それでも、浜田監督に鍛えられた選手たちが自分の仕事をきっちりとこなし、粘り強く戦い抜く。
初戦の相手は星稜(石川)に決まった。



どんな戦いをするのか注目したいと思います。
お金は三の次、四の次の「持ってる人」が倉工にも来て欲しい。

OBでなくて良い、名将でなくて良い。何処かにいないか?
甲子園16勝☆伝統のユニフォームで戦うべきだ。

119名無しさん:2018/03/24(土) 10:55:28
富島(宮崎県)の監督


試合前、選手全員で球場の周りのごみ拾いをするのが富島の恒例行事だ。
浜田監督(50歳)は「動かないごみを拾えなければ動くボールは拾えない。
試合前にも普段通りごみ拾いをすることで、心のよりどころとして自信を持てるようになる」と意義を語る。

県立高の教員として都農、宮崎商野球部で監督などを務め、
甲子園でも指揮した経験から常に選手に伝えているのは「心の成長がなければ、技術の成長はない」という信念だ。

宮崎市出身。小学3年で野球を始め、宮崎商では内野、外野手として3年の夏に県大会ベスト8まで勝ち進んだ。
その後八幡大(現九州国際大)に進学し、野手や学生コーチを経験した。

高校野球の指導者を夢見て4年の時に教員採用試験を受けたが不合格となり、宮崎市内の企業に就職した。
4年後に再び採用試験に挑み合格。都農高商業科の教員となり、同時に野球の指導者としても一歩を踏み出した。
その後母校の宮崎商野球部副部長を経て、2003年に監督就任。08年夏にはチームを甲子園へと導き、2回戦に進出した。

野球部でも学校での指導でも、大切にしていることは「人づくり」。
都農で人権教育を担当した経験から「人を大切にすることを学んだ。だからこそ人づくりを重視してきた」と語る。

長年強豪を率いてきた浜田監督にとっても、13年の富島への異動はゼロからのスタートだった。
野球部監督に就任したが、3年生部員はおらず、2年生5人、1年生6人。

野球未経験者もおり「ボールを捕れない、バットに当たらない」状況から指導が始まった。
捕球やスイングの形を覚えるため、キャッチボールや素振りなどの基礎練習を繰り返した。
それでもすぐに結果は出ず、練習試合では30点以上の差をつけられたこともあった。

「選手たちは心が折れていたかもしれないが、そこで諦めたら社会に出ても苦しいことをすぐ諦めるようになる。やらないといけない」。
負け続けても練習に取り組んだ。翌年からは、「監督の元で野球がしたい」という新入生が入部するようになり、少しずつチームが活性化。

15年秋には九州大会に出場し、県内外に知られる存在になった。「日ごとに力をつけていく選手たちを見るのは楽しかった。
負けた悔しさをバネにして練習を重ねた結果が出た」と振り返る。

強豪校になってもグラウンドは他の部活と併用するなど練習環境は恵まれているとはいえないが、
監督は「公立校では併用が普通。効率良くやればいいだけ」と前向きにとらえる。
自身初となるセンバツの舞台。 相手は強豪だが好ゲームを期待したい。



羨ましいね。「持ってる人」が廃部寸前の富島には来た。何処かにいないか?
甲子園25勝中、16勝☆伝統のユニフォームで戦うべきだ。

そもそもユニフォームは選手の物。それに憧れて来る生徒も沢山いる。
親子孫、同じユニフォームで戦える。それだけでも長い人生の宝物になる。

随分と遠ざかっても甲子園に行けば全て初戦を勝利。8戦全勝。よほど魔物に愛されているのだろう。
岡山県で一番格好の良い高校生らしいユニフォームだと思う。

昭和61年の甲子園はユニフォームを変えたから罰が当たった。あれは監督が悪い。選手が可哀相だったね。
「持っていない人」が一日も早く去ってくれることを願っている。

120名無しさん:2018/03/26(月) 23:59:30
>>117
槌田選手の巨人での背番号は22ではなく、23でした。

121名無しさん:2018/03/27(火) 18:18:05
御指摘ありがとうございます。
背番号「22」は誤りで「23」でした。

槌田さんは縁の下の力持ちでしたね。森がいなかったら正捕手に・・・。
柴田、高田、末次がいなかったら外野手レギュラーに・・・。

ヤクルトでも背番号「23」。
広岡監督は開幕戦から1番右翼で起用したが・・・。もう全盛期を過ぎていたのでしょうね。

背番号「23」は、スワローズでは重要な背番号と云われていたそうです。
今年7年ぶりに日本球界復帰の青木が背番号「23」を。少し注目しています。

貴殿が初めて書き込んでくれた人です。
これからも色々と書き込んで頂ければ幸いです。
ありがとうございました。

122名無しさん:2018/03/29(木) 18:23:06
京都府立乙訓(おとくに)高校


その都は、たった10年という短命がゆえに、幻の都と呼ばれた。
位置的に奈良と京都に挟まれながら、長きにわたって正確な位置さえも不明で、
時代的にも奈良時代と平安時代に挟まれて名前もついていない、まるでエアポケットのような都。それが長岡京である。

今から1234年前の西暦784年、桓武(かんむ)天皇によって遷都された長岡京は、さまざまな制度改革や仏教のしがらみを断ち切り、
蝦夷(えみし)の統治を目指すなど国家の立て直しを図ろうとしていた時期に建立された。
しかし、幾多の水害や疫病に悩まされたことから怨霊のせいではないかと恐れられ、未完成のまま捨てられた、悲劇の都である。

奈良時代と平安時代、平城京と平安京はよく知られ、奈良や京都を訪れる観光客は後を絶たないというのに、
長岡京の跡地を訪ねてみようという人は決して多くはない。京都市の南西、およそ10キロの地にある長岡京市。
タケノコの産地として知られ、美しい竹林は『竹取物語』の舞台になったという説もある。

光明寺のもみじ、楊谷寺(ようこくじ)のあじさい、長岡天満宮のきりしまつつじ、乙訓寺(おとくにでら)のぼたんなど、
四季折々の景観を楽しむこともできる。しかしJRの長岡京駅に降り立つと、観光の街を感じさせる風情はない。
周辺にはハイテク企業が進出しており、数分歩けば何の変哲もない住宅街が広がる。乙訓高校は、そういうところにある。
そして、乙訓の野球部は甲子園とはこれまでに春も夏も縁はなかった。

京都大会では鳥羽、立命館宇治、京都翔英を撃破し1位で突破、近畿大会では準々決勝で奈良の智辯学園を倒してベスト4、
長岡京のエリアから甲子園に出ること自体が初めての快挙だ。



センバツ高校野球   乙訓 7-2 おかやま山陽 ( 3月28日)


「公立の星」、乙訓が同点の6回に長短5安打を集中させ、4点を勝ち越した。
春夏通じ初出場の甲子園で1勝を挙げ、3回戦に進んだ。

山陽が1回裏、2死三塁で4番井元が左翼へ大会9号となる本塁打で2点を先取した。
乙訓の甲子園初得点は2回表。2死一塁から9番、投手富山が左越え二塁打を放ち、1点を返した。

山陽は2回1死満塁、3回2死二、三塁も後続なく、追加点を奪えない。
乙訓が5回、同点に追いつく。無死一、三塁で次打者の内野ゴロ併殺の間に三塁走者が生還。

続く6回、1死一塁から7番薪谷の三塁打、8番伊佐の中前打と連続適時打で2点。
さらに2死満塁から3番浅堀が中前へ2点打と、この回5安打で4点を奪った。

昨夏甲子園で初戦敗退も、ベンチ入りメンバー6人が残った山陽だったが、1勝が遠かった。


富島の初戦敗退は残念でしたが、乙訓は中々に力強い。「公立の星」は今後も期待できそうだね。

123名無しさん:2018/04/01(日) 11:16:00
おかやま山陽の監督


甲子園出場だけが高校野球の目的ではない。その過程に意味があれば、「その先」にも意義がある。
おかやま山陽の堤尚彦監督(46歳)は、甲子園出場のその先に「野球の普及」という目的を掲げる。
経歴は異色だ。都立千歳(現芦花)から東北福祉大に。大学3年生の時だった。

深夜にテレビのニュースを見ていると、日本人がジンバブエで野球指導を行っている映像が流れた。
教わっている子どもの楽しそうな姿。それを木によじ登って見ている人々。最後にある言葉がテレビに流れた。
「お金、道具、グラウンドが無いのが問題なんじゃない。自分の次に野球指導をやる人がいないのが問題だ」。

「自分が行きます」。すぐに放送していたテレビ局へ電話を。
電話をすると、それが「青年海外協力隊」だと教えてくれた。その秋の募集で合格し、すぐに派遣されることが決まった。
派遣先が書かれた封筒を開けると「ジンバブエ」の文字。運命だと感じた。ジンバブエには十分に野球道具は無かった。

現地の調理道具を削ってバットを作り、木の実をボールにした。
グラブは日本製のグラブをばらして8枚の型紙を作り、靴屋に頼んで作ってもらった。
ラインを引く白線代わりに水を使ったが、もちろんすぐに乾いて見えなくなった。

地道な指導と普及を重ねていくうちに、現地の学校の指導要領に「ベースボール」が組み込まれるまでになった。
道具不足などの環境、現地の子どもたちの姿を目の当たりにし「世界中に野球を普及したい」という考えが大きくなった。

帰国した後も、シドニー五輪を目指すガーナや、アテネ五輪を目指すインドネシアで指導を行った。
タイでアジア野球連盟のインストラクターとして、初心者向けの野球指導を行っている時に出会ったのが、
師と仰ぐ元慶大監督の前田祐吉氏(享年86歳)だった。

当時、不祥事が続いていた高校野球。「日本の高校野球は駄目ですねえ」と言う堤監督に前田氏は言った。
「みんなが来たくなるような強いチームを作ってから言え!」。

そんな時、野球部内で問題が起き監督が辞任したおかやま山陽が、新しい監督を探していると知人から知った。
世界に野球を広めたいという思い。ならば広めてくれる人を育てる側に回ろうと、監督に就任することを決めた。

06年におかやま山陽の監督に就任するも、甲子園は遠い場所だった。
07年から11年までは春季、秋季地区予選敗退が続き、県大会に行けたのは1度だけだった。
11年の夏の岡山大会でも1回戦敗退。この後も結果が出なかったら…。新チームが始まると、あることを始めた。

ジンバブエやガーナ、発展途上国に集めたグラブやボールを送る活動だった。
集めた中古の道具を送り、現地の子どもたちからお礼の手紙や写真が届く交流が始まった。

不思議なことに、そこから野球部としての結果も出始める。12年からは地区予選負けなし。
14年の春季大会では準決勝まで進んだ。
17年夏に悲願の甲子園初出場。そして今センバツで2季連続の甲子園出場となった。

迎えた28日の乙訓戦。序盤に先制するも2-7で敗れ、甲子園初勝利はお預けとなった。
試合後のお立ち台で「長く甲子園にいないと伝わらないですね。また1試合で負けて残念だ」と言ったが、確実に輪は広がっている。
活動を知った人がアルプススタンドまでグラブやボールを持参し、地元の少年野球クラブも中古の道具を寄付する。

甲子園出場が決まると、少年野球クラブから2ダースのボールの寄付が届いた。
甲子園で使ったこのボールは、甲子園の土を付けた状態で子どもたちに返すつもりだ。岡山から甲子園へ、甲子園から世界へ。
「野球普及」を目的にする限り、堤監督は甲子園を目指し続ける。



山陽は良い人に来てもらえたね。
倉工も公募して探すのも悪くない。しかし公立は安すぎる。年収70万円弱では苦しい。 
「公立の星」、乙訓も敗退。公立はベスト8進出すら厳しい時代ですね。

124名無しさん:2018/04/07(土) 12:15:54
第90回選抜高校野球大会   外人部隊(県外の中学卒) ベンチ入り人数


明秀日立(初)・・・16人。     日本航空(初)、松山聖陵(初)・・・15人。

日大三(20回)、慶應(9回)、明徳(18回)・・・14人。    大阪桐蔭(10回)、創成館(3回)・・・13人。

聖光学院(5回)、東海大相模(10回)・・・10人。        駒大苫小牧(4回)、国学院栃木(4回)・・・9人。

三重(13回)、下関国際(初)・・・8人。    中央学院(初)、近江(5回)、智弁和歌山(12回)、英明(2回)・・・7人。

高知(18回)・・・6人。   星稜(12回)、智弁学園(12回)・・・5人。   日大山形(4回)、瀬戸内(3回)・・・4人。

東邦(29回)、延岡学園(3回)・・・3人。     おかやま山陽(初)・・・2人。      静岡(17回)・・・1人。

花巻東(3回)、由利工(初)、富山商(6回)、彦根東(4回)、膳所(4回)、
乙訓(初)、東筑(3回)、伊万里(初)、富島(初)・・・0人。  



外人部隊のベンチ入りは18人中の3分の1=6人までにすべき。
「高校野球の父」、佐伯達夫さんが高野連会長の頃なら参加させないだろう。

上記からベスト8中の6校は失格、優勝は花巻東、準優勝は星稜が相応しい。
この大きな問題をタイブレーク制の導入なんかより先に考えられない今の高野連は嘆かわしい。
ブローカーが暗躍し大金が動く、高校野球が完全に商業化してしまった。


佐伯達夫(1967〜1980年 日本高等学校野球連盟会長)

野球殿堂には、生前の1965年に一度選出されたが、
「 球界最高の名誉である殿堂入りに選ばれたことには感謝しているが私自身、
広く日本の野球界にはそれほど貢献したとも考えていない。私が選ばれては先人に申し訳ない。
殿堂入りは生死にかかわらず功成り名を遂げた人のものだ 」と辞退した。
選出後に殿堂入りを辞退したのは佐伯氏のみである。死後に改めて選出された。

彼が「高校野球の父」と称されているのは、以下の二つの功績が挙げられる。

① 「選抜を消滅の危機から救った」
② 「高校競技で初めて体育連盟に依らずに地方予選から運営するシステムを確立した」

125名無しさん:2018/04/08(日) 12:18:03
甲子園  「3本のホームラン男 」 藤沢新六 (倉敷工)  


昭和24年夏、倉敷工が甲子園初出場を果たした時の正捕手。

第31回選手権大会は倉敷工、高津など初出場が7校。
最多出場は慶応が3年連続13回目。平安が11回目の出場。

この年より開会式の入場行進でプラカードを女子生徒が担当する事となった。

1回戦 対 熊谷( 埼玉 )戦 9-1と一蹴り。

この試合で藤沢は大会3号となるホームラン1本目を記録する。
【 1本目はランニングホームランだったんです。 】と藤沢。

2回戦は対 高津( 大阪 )戦 5-3で勝利。

8月17日、迎えた準々決勝。相手は中京商以来の3連覇を目指す小倉北。
春夏通算16勝を挙げた好投手 福島一雄投手を擁し、洗練された野球をするチーム。

知名度は雲泥の差で【 一生懸命やるしかないなあ。そんな、気持ちが強かったです。 】と、藤沢。
この試合で、二回と六回に藤沢の大会7、8号ホームランをはじめ、長打で追いすがる。
延長10回、一死満塁から横山の遊ゴロの間に決勝点を挙げ熱戦に終止符を打った。

【 2本とも、左中間でした。思い切り振っただけでしたが何故かよく飛んで行きました。
二回のホームランは、審判に言われて気がついたんです。 】と、無欲の勝利を強調する。


8月18日付、山陽新聞に「 倉工殊勲の健棒 」 「 小倉の三連覇を阻む 」

「 藤沢ホーマー三本 」 「 甲子園大会に新記録 」と出た。

藤沢の通算3本塁打は昭和60年のPL学園、清原に破られるまで大会記録を保持していた。
木製バット使用によるホームラン3本は金属バットが続く限り、永遠に破られない大記録である。

準決勝、岐阜戦は2-5で敗れたが、 妹尾求が大会9号本塁打を記録。

倉敷工は甲子園で4本の本塁打を記録した事になる。
スラッガー藤沢は小沢と共に阪神タイガースに入団してプロの道を歩む事になった。

126名無しさん:2018/04/14(土) 15:35:00
甲子園勝率10割  三池工業  甲子園から遠ざかっている理由


1965年夏、炭鉱町として栄えてきた福岡県大牟田市は快挙に沸いた。
県立三池工業が甲子園初出場ながら優勝を飾った。
世界遺産・三池炭鉱宮原坑のガイドが当時の様子を話してくれた。

甲子園から戻ってきたナインは、小倉駅から大牟田までの約150キロをパレードし、炭鉱町に一時の灯を灯した。
しかし、三池炭鉱の廃鉱と共に、町の人口は減少の一途をたどり、野球部の甲子園出場は一度きり。
全国に2校しかない甲子園勝率10割(5勝0敗)の学校だ。

3年前に発足したOB会の会長が、優勝メンバーで捕手だった穴見である。
「とにかく原監督の情熱が甲子園に導いたことは間違いありません。当時は木製バットの時代ですが、
良質な木材を宮崎まで探しに行き、熊本の工場で作ってもらっていた。

甲子園に出場すると、暑さ対策として、ブドウ糖とビタミン剤の入った注射を宿舎近くの病院へ毎日打ちに行きました。
当時、そこまでしてくれる監督はいなかったでしょう。先見の明がある方でした」

母校が優勝以来、一度も甲子園に出場できていない理由については、「人材不足」と語った。
野球を愛し、選手に愛情を持って接する指導者がいなかった。

もう一度、甲子園に出てほしいというのは、原監督の願いでした。出場できるなら21世紀枠でもいい。
ただ、ボランティアをするなど、地域の理解を得られないと、高野連から21世紀枠に推薦してもらえません。

出場が叶わない理由のひとつが、生徒の8割以上が就職を希望し、就職内定率が毎年10割である点だ。
30歳の青年監督・次郎丸岳博が言う。

「少子化の影響で、企業が工業高校の人材を求めている。
大手企業に就職できますので、生徒にとっては恵まれた学校だと思います」
野球の能力に長けた選手は、プロをはじめ、大学や社会人など、可能な限り“上”でも野球を続けたいという意思を持つ。

そういった意味では、企業への就職に有利な工業高校は選手の選択肢から外れやすいのかもしれない。
さらに、少子化のあおりで、同校でも昨年まで1学年5クラスだったのが、現在は4クラスに。
野球部員は新3年生と新2年生で26人だ。

現実として、チームの目標は、ブロック予選を勝ち抜いて県大会に出ること。
53年前の凱旋パレードの際、選手が乗ったオープンカーに月桂樹の苗が投げ込まれた。
その月桂樹は今、同校の中庭に移植され、かつての炭鉱町に育った球児を見守っている。



一度だけでもパレードは羨ましいね。
福岡県は激戦区、好選手が揃わないと甲子園はかなり遠い。
倉工は「持ってる人」さえ来れば、それほど遠いとは思わない。三池工と比べれば恵まれている。

127名無しさん:2018/04/15(日) 10:51:06
JFE西日本  三木選手


社会人野球・JABA岡山大会  (4月14日 倉敷マスカットスタジアム)

予選Bブロック JFE西日本 5―1 ツネイシブルーパイレーツ

「1番・右翼」で先発したJFE西日本・三木大知外野手(26歳)が先制弾を含む2安打3打点の活躍を見せた。
「先発した新人の小倉のためにも早めに先制点が欲しかった。体がうまく反応した」。

3回の右越えソロは、直前に同じ内角直球を右翼ポール際へファウルしており、打ち直しの一打だった。
入社5年目で倉敷工、岡山商大と一貫して地元でプレーしてきたが、
あえて「そこは意識しないで自然体で臨めた」ことも好結果につながった。



2009年センバツ時の4番で二塁手でしたね。
あれから早9年か、月日の経つのは本当に早い。

あのまま中山さんがベンチに居てくれたなら、ここまでにまだ甲子園へ行けただろう。
不思議と「持ってる人」が居ると、何処からともなく素質の有る選手が集まり成長する。

78回、85回夏の甲子園でも「持ってる人」が部長でベンチ入りしていた。
私はこの時の監督が持っていたとは思っていない。

持ってる弁士は昔話が好きで語れる人だったよね。
昔話、伝統を馬鹿にする者は早く去ることだ。指揮官の資格は無い。

年齢の事を問題にする人がいるけれど、日本文理の大井監督は75歳まで続けた。
要するに「持ってる人」なら若輩、高齢など関係ない。

128名無しさん:2018/04/28(土) 10:52:06
「 部員不足に苦しんだ県立野球部、元プロ選手が異例の監督就任 」


プロ野球で活躍した佐賀市出身の永尾泰憲さん(67歳)が今春、佐賀県立太良高校の監督に就任した。
県高野連によると、元プロ野球選手が県内の野球部監督になったのは初めて。

さらに甲子園に出場したことがなく、近年は部員不足に苦しんだ県立高校での元プロ就任も異例だ。
永尾さんは4月から太良町の非常勤職員として勤めており、その傍らボランティアで指導するという。

内野手の永尾さんは県立佐賀西高校、社会人野球を経て、1972年にドラフト1位でヤクルトに入団。
トレードで近鉄、阪神と移った。79年の日本シリーズや、85年の阪神初の日本一を経験。
3球団全てでリーグ優勝を経験し、1千試合出場も果たした。

現役引退後は阪神のコーチ、スカウトなどを務め、学生野球資格を回復。
14年に母校・佐賀西のコーチ、今年1月からは太良のコーチになっていた。
監督就任にあたり、「スカウトだった目線から言えば、町にはいい素材の子が多い。
太良は一人ひとりを大事にする学校で、いいと思った」と話す。

90年夏の県大会で4強入り、91年春は優勝したが、2014年秋、15年春は部員不足となり連合チームで出場。
一昨年夏の初戦は部員の熱中症で試合が続けられなくなり、没収試合で敗戦した。
ただ、昨夏は12年ぶりの夏1勝を挙げており、永尾さんは「選手の個性を生かし、強いチームをつくりたい。
太良から甲子園を目指す」と意気込んでいる。



倉工も元プロ、中藤さんを迎えては?本心を聞きたいよね。公立の報酬は確かに安いが。
勿論「持ってる人」か否かは分からないが、お話を聞く限りでは良い人のように感じる。

春の県大会初戦で敗退。相変わらずの拙い采配、一冬を越え個々に成長の跡もあまり見えず。
今頃チャレンジャーを連呼して、伝統のユニフォームまで変えようとしている人をこのまま好き勝手にさせて良いの?

チャレンジャーになって40年、まさに群雄割拠の時代故に「持ってる人」が不可欠。
ここを読んでくれている人は少ないが、もし中山さんを御存知の方がいたら、このスレッドを教えてあげてください。

定年退職後、出来ればもう一度ユニに袖を通し昔話を聞かせてやって欲しい。
小沢さんが去りし後、甲子園5勝の全てにベンチ入りしていた「持ってる人」の昔話はとても貴重です。

129名無しさん:2018/04/29(日) 10:15:15
「 甲子園3本のホームラン男   藤沢新六   (倉敷工) 」


倉工バッテリー、小沢と藤沢。
二人は揃って阪神タイガースの入団テストに合格。プロの道へと歩むことになった。

3月8日、阪神タイガース結成試合が行われ、藤沢は早くも4番打者に抜擢された。背番号は39。
しかし、1年が過ぎても、一軍からの呼び出しは来なかった。
そうした時、社会人野球の強豪「 日鉄二瀬 」から声を掛けられたのだった。

「 今の給料の2倍やるから、うちに来ないか?と言われましてね。それで阪神タイガースを
1年で辞めて日鉄二瀬に小沢と二人で行ったんです 」と藤沢。

「 日鉄二瀬は炭鉱の会社でした 」。 移籍してすぐの事だった。
突然、小沢が言った。「 藤沢、わしはもう倉敷に帰るからな 」と。
それは倉敷市長から、小沢が倉工の監督を要請された為だったのである。

倉敷に帰った藤沢は倉紡倉敷で野球を続けていた。
社会人野球の最高峰の大会「 都市対抗 」に岡山鉄道管理局が出場。藤沢は補強選手としてチームに呼ばれた。

「 監督が私を4番打者として使ってくれたんですよ 」 「 都市対抗はベスト4が最高成績でした 」と胸を張る。
「 後楽園球場で行われる都市対抗は当時に於いても凄い応援合戦でしたよ 」と、熱く語る。
「 私は素晴らしい青春時代を過ごさせて頂きました 」。

その後、現役を退いても野球道を歩み続けた。野球の発展に尽くした藤沢。
岡山県軟式野球連盟副会長、倉敷市体育協会野球部部長、倉敷市学童軟式野球連盟顧問を歴任。

確かに見た。後輩たちが死力で掴んだ甲子園を。その目はいつも母校愛に満ち溢れ大きく輝いていた。



練習場の看板を下したの? 「 甲子園25勝 」 「 ベスト4が4回 」 「 ベスト8が2回 」
何で下す必要がある? 県下随一の伝統と実績を掲げて練習に取り組むのは有意義だ。

持っていない人は色々と焦りがある様だね。焦れば焦るほど結果は出ない。
ユニは変えるは、看板は下すは、そのうちに罰が当たる。もう既に当たっているのか。

先輩たちに嫌な悲しい思いをさせる人に幸運は訪れない。早く身を引いた方が良い。
もう少し続けたいなら、自らを律するのが一番。

ユニは変えず、看板は元に戻す、頭を丸め、滝に打たれてお祓いをして貰う。
これ位の事をすれば少しは風向きが変わるだろう。

白のユニには理由、伝統、実績が有る。看板にも理由、実績が有る。
これらを変えようとする人には何の実績も無い。世にも不思議な物語だ。

130名無しさん:2018/05/05(土) 11:02:34
「 夏の甲子園史上初の完全試合まであと1人・・・新谷 」


甲子園は100回大会を迎えるが、その中で一度も達成されていない記録のひとつが完全試合。
1982年夏、その完全試合に最も近づき後にプロでも活躍した新谷博(53歳)が、
あと1人に与えた“世紀の死球”とその後の激動の野球人生を振り返った。


「 毎回ベンチで『まだパーフェクトだぞ』というのは話してたけど、史上初というのは知らなかった。
知らなかったから良かったんです。仮に知ってたら、ビビってもっと前に四球を出してますよ 」

投手陣の揃う佐賀商で、入学当初は「 補欠にも入らなかった 」という新谷だが、2年時にある機会が巡ってくる。
投手2人が風邪で揃って練習を欠席。人数合わせで入ったノックでの動きが、たまたま見に来ていたOBの目に留まった。

「そこから監督に目をつけられて、鬼のようにしごかれた。
他の選手がアップしてるなか、1人だけ個人ノックを浴びせられて、1時間もたつともう立てない。

立てなくなったら今度は腹筋で、100回やるごとに角度をつけて、回数も増やしていく。
100回から始めて、200、300…。1600回になるころにようやく解放されて、そうするともう歩けない。
そこからようやく全員練習が始まって、終わったらまた腹背筋。毎日監督が来るまでトイレで震えてました」

3年の夏は圧倒的な強さで佐賀大会を制し、迎えた甲子園初戦の木造高校(青森)戦。
新谷は高校野球史に残る大記録に、あと一歩まで迫る。

「 絶対に打たれない自信があったから、大して興奮もしなかった。客席が騒がしいから『 何を騒いでんだろ。
ああ、次の試合が池田だから、池田が来たのか 』と思ったくらい 」

初回からノーヒット、無四死球を続け、迎えた27人目の打者。
完全試合達成まであと1人というところで、内角を攻めたボールは打者の右腕に当たってしまう。

次打者を打ち取り、結果的にはノーヒットノーラン。
“世紀の死球”に甲子園は大きなため息に包まれたが、悔しさを感じることはなかったという。

「 当てた瞬間は『 しまった 』というよりも、謝らないとという感じ。
当時は佐賀の田舎者だったから、甲子園に来ただけで満足しているところがあった。
あれだけ練習させられて監督のことも大嫌いだったから『 早く終わらないかな 』とばかり考えていた 」

その年のドラフトではヤクルトから2位指名を受けたものの、監督の一声で駒大へ。
この選択がその後の人生を大きく狂わせることになる。

「 高校からプロに入って成功するんだったら、大学から行ってもドラフトにかかるだろうと思っていた。
そしたら3年の終わりに怪我をしてしまって。そうなると高校の時のドラ2位が重荷でね。
当然ドラフトにもかからず、そのままイップスになっちゃった 」

卒業後は日本生命に進みプレーを続けたが、置きにいく球しか投げれない、力を入れるとあらぬ方向に飛んでいく…。
精神的にも追い詰められたイップスから復活したのは、些細な事がきっかけだったという。

「 ぎっくり腰をやっちゃって、10日ぐらい練習を休んだんです。
それが治った直後の練習で、アウトコースに1球目を投げたら、バッターが空振りした。
その瞬間ですね。『 野球ってこんな簡単やったんや 』と思い出したのは 」

完全復活を遂げると1年半後に西武に入団。高卒ドラフトからはすでに9年の歳月がたっていたが、
27歳でプロ入りすると主に先発として10年間で54勝を挙げた。

「 高校から入ってれば、記録的にはもっといいものを残せたかもしれない。通算勝利数とかね。
でも記録には興味がなかった。野球って相手がいるし、完全試合も勝利数も、たまたまの巡り合わせじゃないですか 」

引退後に女子野球の監督を引き受けたのも“たまたま”一番にオファーがあったから。
それから10年以上がたった今も、変わらぬ指導を続けている。



もう36年も経ちましたか、池田が深紅の大優勝旗を初めて徳島に持ち帰った夏。
それにしても体罰のような凄い練習によく耐えられたものだと思います。
人並み外れた体力、精神力がないと潰れていたでしょうね。この監督は・・・。

131名無しさん:2018/05/06(日) 11:18:03
大阪桐蔭  西谷監督の本業は「 指導よりスカウト 」


獲得したい中学生を『 ドラフト1位 』と呼んで熱心に勧誘する。
その強さは、全国から選りすぐった選手の活躍なくして語れない。

スーパー二刀流の根尾は岐阜出身。エースナンバーをつける柿木投手は佐賀出身。
ベンチ入りメンバー18人中、大阪出身は5名にとどまる。

気に入った選手を見つけたら、何度も通うのが西谷流。
大阪の元高校野球監督が、西谷監督と会った当時を述懐する。

「 かねてより、練習を見るよりもスカウト活動のほうが熱心で、練習を休む日も少なくなかった。
『 コーチまかせにしないで、もうちょっと練習に参加せえよ 』と、たしなめたほどです 」

根尾の獲得をめぐっては、ライバル校とスカウト合戦を繰り広げた。
慶應高校に進学するといわれていたが、そこから猛烈な巻き返し。
根尾の実家がある岐阜県内のホテルに連泊して、実家へ通い続けた。

入学後、投手にするか野手にさせるか、監督が現地まで赴き、直接見て判断する。
日本代表の投手でも、野手の方が可能性が広がると判断すれば、野手として勧誘する。
監督と選手の合言葉は100回記念大会に出場して「 史上初の2度目の春夏連覇 」だと云う。



せめて外人部隊のベンチ入りは3分の1までにしないと公立では勝負にならない。
今の高野連は観客が増え、儲かれば良いのでしょう。誰一人として問題提起の雰囲気すらなし。

他校としては「名スカウト」がデブ菌により歩行困難になるのを待つしかない?
130kg位は有りそう、重度の肥満、早急なダイエットが必要ですが・・・。

132名無しさん:2018/05/12(土) 10:21:15
雨中のサヨナラ四球、江川は言った「 最高の一球 」

1973年2回戦  作新学院 0―1 銚子商


午後1時24分に始まった作新学院―銚子商戦のスコアボードには、「0」が連なっていた。
選手が主役なら、時間の経過とともに強まっていった雨は、名脇役として試合を動かしていく。
雨が「 怪物 」と呼ばれた江川卓を翻弄しただけではなかった。 江川は第55回大会の目玉だった。

春の選抜大会で4強入り。 球が浮き上がるような豪速球で60個の三振を奪い、大会記録を塗り替えた。

夏の栃木大会は5試合を被安打2で勝ち上がった。 3試合はノーヒットノーランだ。

夏の甲子園に初めて出場する怪物の投球への注目度は普通ではなかった。
周囲の期待とは裏腹に、捕手の亀岡(旧姓小倉)は開幕前から不安を募らせていた。

「 甲子園入りしたときからボールが高めに浮き気味だった。
春から夏にかけて基礎練習ができず、徹底的に鍛えることができないまま、夏を迎えていた 」

選抜大会以降、全国から招待試合に呼ばれた。九州、沖縄、北陸…。
週末、遠征に出ると、月曜日の授業に間に合わせるために夜行列車で栃木に戻ることもあった。

もうひとつ、チームに影を落としていたのが、江川を擁するがゆえの周囲の過熱ぶりだった。
どんな試合でも、メディアは打った野手ではなく、江川を囲んだ。
チームメートは取材攻勢にさらされる江川と距離を置き、仲間を気遣う江川は孤立するようになっていた。

栃木大会のチーム打率は2割4厘。「 打っても評価されないから、みんなおかしくなっていった 」。
江川と野手の間に立っていた亀岡は振り返る。

落ち着かないまま迎えた全国大会で、柳川商との1回戦は延長十五回の末に2―1のサヨナラ勝ち。
2回戦の銚子商戦について、亀岡には「 最初から厳しいと思っていた 」という予感があった。
江川も「 あの試合が限界だった。僕も野手も本当に疲れていたから 」とのちに述懐している。

銚子商戦の劇的なサヨナラ負けの前に、江川の心を激しく揺さぶるピンチがあった。
十回裏、雨は激しくなっていた。二つの四球などで2死一、二塁。許した右前安打を右翼手がこぼす。
江川は「 終わった 」と思った。

捕手の亀岡はいちかばちかのプレーに出た。
走者の本塁ベース到達を遅らせるために、ライン際に本塁ベースから三塁側へ3歩離れた。
走者は足元に突っ込みタッチアウト。走者に雨で本塁が見えなかったのかは分からない。 

亀岡が思ったのは「 これで勝てる。流れは完全にこちらにある 」。
一方、江川の心境は「 えっ、まだやらなきゃいけないの 」だった。

十二回表、作新学院の攻撃は無得点。どしゃ降りの雨のなか、大会本部はこの回での打ち切りを検討していた。
亀岡自身は試合途中から、雨で滑って、江川に返球できなくなっていたという。滑り止めを借りに、何度もマウンドにいった。

「 もともと雨に弱いのに、あの状態で投げていたのは奇跡的だと思う 」
十二回裏、銚子商の攻撃は1死満塁でフルカウント。

マウンドに集めた野手に、江川は「 真っすぐを力いっぱい投げていいか 」と尋ねている。
「 お前の好きなボールを投げろ。お前がいたから、俺たちここまで来られたんだろ 」。
一塁手の鈴木秀男から返ってきた言葉だ。

「 あの瞬間、勝とうというよりも、全員がこの野球を最後までやろうという気持ちだった。
それまではいがみあいとか、いろいろあった。最後の1球でチームがまとまったというのはその通りかもしれない 」

その169球目を受けた亀岡がいまだに感じるのは、悔しさではなく、すがすがしさだ。
雨の中、怪物と作新学院は散った。押し出しの四球になった直球は雨で滑っているように見えるが、江川はこう振り返っている。

「 その時は滑ったという感覚はなかった。あの球は高校時代で最高の一球だった 」。



こんな裏話は知らなかったけれど、まさに高校時代の江川は怪物、凄い投手だった。
当時を知る人なら、今までで一番凄いと思った高校投手は?と聞かれれば大多数は江川と答えるでしょうね。

決勝は広商3ー2静岡、「 サヨナラスクイズ 」 、ドラマチックな幕切れだった。

133名無しさん:2018/05/12(土) 10:50:20
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」


舞台は人を変える 人を作る ある人は才能に気づき ある人は気弱を発見して狼狽する

しかし 大舞台は結果に責任を持たない 変えるだけである

甲子園ほど見事な大舞台を知らない


その夏 その日 その試合 その時 その一瞬 誰が主役であったか 

何が慄えを呼び 何が胸をえぐったか

人々よ 時間の経過とともに 薄れる宿命の 心の壁の小さな記憶を 色鮮やかに とどめてほしい

                                                

入場式から決勝戦まで、男はテレビの前を動かない。とすると、
ほんの数秒だけ見ることが出来る入道雲が1回戦、2回戦、3回戦、準々決勝、準決勝、決勝と段々に
季節の変ぼうを見せて行くことを知っている。

その入道雲の表情とともに大勢の少年たちの顔と、たくさんのドラマとを覚えこんでいる。
男とはそういう覚え方をするのである。

阿久悠さんは全試合をご覧になったそうです。
NHKがテレビ化。 ( 放送予定 2018年8月8日22時〜 )

134名無しさん:2018/05/13(日) 10:52:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1979年8月8日   第61回大会  開会式  「 孤独の行進 」


君の手の栄光のしるしは重たいか 君の背の感動の記憶は重たいか 目を上げれば空あくまで青く高く

あの日と同じ夏の雲が踊っているが 君の目はそれを見ようとしない 君はただひとり 君はただひとり


孤独の行進をつづける甲子園 暑い夏がなお熱く燃え 人みな青春のときめきに酔うとき

興奮にともすれば乱れる足音と 鎮めようとして鎮まらぬ鼓動と 荒々しくもれる息吹きを 背に感じながら 

君は 君は 乱れることもなく 高鳴ることもなく しかし 先頭に立って行進する 君はただひとり 君はただひとり


孤独の行進をつづける甲子園 青春は短く熱い夏祭 まして君の甲子園は 奇跡にいろどられた華やかな祭り

祭りのあとの孤独は ただひとりの行進に現れても 祭りが終わったわけじゃない 青春が去ったわけじゃない

君の手の栄光のしるしは重たいか 君の背の感動の記憶は重たいか 



青春という言葉が魅力的に思え、青春という不確実なものを具体的に見ようとする時、大抵青春という時代は去っている。
だから、ぼくらは、甲子園の入場行進に目をこらし、それが大いなる序曲であることを知ると涙ぐむ。

何でもない時に感動するのは、自らの青春が遠いことを知っている故かもしれない。
決して渦中に棲むことが出来ないと知った世代の感傷かもしれない。選手たちには感動はあっても感傷はないだろう。

久慈高校の選手の手と足がどうしても整わなかったり、宣誓をした中京高の小川主将が他校の列に戻って行ったり、
現代っ子にもこのセレモニーは、やはり大いなる序曲とよぶにたる興奮であるらしい。

さて、入場行進の先頭は、昨年の優勝校PL学園だったが、それは、渡辺主将ただひとりの孤独な行進だった。

135名無しさん:2018/05/13(日) 11:31:19
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1979年8月9日  一回戦  「 太陽を食った少年 」


甲子園は少年を見る楽しみだ 少年は大人の心の故郷であり だから 美しい方がいいし おおらかな方がいい

いつの間にか社会の荒波で削られ 程よく形を整えた大人には 緑したたる故郷との出会いを思わせる

少年との出会いが 何よりも嬉しい 生き生きと のびのびと 晴ればれと そんな言葉を日常から失ったから

そんな言葉で讃える少年との出会いが 何より嬉しい 君に逢えてよかった 君に逢えてよかった


太陽を丸かじりにした少年は コロナのような笑顔をふりまき アポロのように振舞う

なかばあきらめていた少年の姿を 目のあたりに見る時 人々は心の中にオアシスを見つけ

冬の日の太陽に出会った思いがする 君に逢えてよかった 君に逢えてよかった おおらかな君には 甲子園でもせま過ぎる



数多くの選手のほとんどに禁欲的な猛練習から来るかげりのようなものを感じる。
それは美しく見えないこともないし、尊いと思えないこともないが、やはり、かげりはかげりと見えるし、痛ましさもつきまとう。

そのかげりを抱いた少年が、白球を中にして戦うのであるから、その姿は悲壮美といってもいいものである。
但し、浪商のドカベンこと香川には、そのかげりを見ることがない。

どこまでも天衣無縫にふるまう風貌と雰囲気には、型にはめこまない少年の魅力があふれているし、
それは野球を超えている。笑顔も大きい。又、泣く時は涙も超弩級であろう。それも魅力に違いない。

136名無しさん:2018/05/13(日) 12:12:31
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月10日  一回戦  「 少年よ さらば 」


風燃える緑の原に 九人の兵士は走る あどけなさのこる笑顔を 興奮に少しあからめて

のしかかるアルプスの高さ ゆれ動く人波の嵐 こだまする叫びの中で 若い兵士は身構える

ときめきは男をつくる おののきは男をみがく 少年のおさなさは消えて ほれぼれとする男になる


少年よ さらば さらば 今ここで さらば さらば 初めての戦場に 夏の日がまぶしくきらめく

少年よ さらば さらば 戦いが終わるころ 夏の日が斜めに傾く 勝つ人の涙の熱さ 敗れる人の涙の重さ

手ばなしの涙の味が はじめての甲子園 がんばれよ がんばれよ 勝ちのこる甲子園 

また来いよ また来いよ 背をむける甲子園



初陣のときめきとおののきは、人間の顔から無駄な表情をとり除く。ときめきとおののきだけがキラキラと輝くのだ。
人間はいつでもあのような興奮とおそれの交錯した緊張の中に身を置きたいと思うが、そうも行かない。
だからこそ、少年たちの熱戦に心をときめかすのであろう。

さて、第三日目は、初出場が四校も登場した。安積商、久慈高、明石南高、桜井高である。
過熱の甲子園ブームの中での初出場は、あらゆる意味での重圧がかかる。戦う相手が多すぎる。

だからぼくは、技術や勝敗に関係なく、今日をさかいに男に変わって行く少年の表情ばかりを見ていた。

137名無しさん:2018/05/19(土) 10:17:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月11日  一回戦  「 故郷は緑なりき 」


故郷はと問われ 語るべき何物も持たない青年が 今誇らしく 甲子園の便りを指さし あれがぼくの故郷だとおしゃべりになる

故郷によくある名前の選手が ブラウン管にアップになれば 遠い日の友に思えて 思わず声をかける

陽に焼けた小柄の選手の 黒々とした瞳の奥に 砂糖きび畑とさんご礁の 故郷の景色がひろがる


打てよ 走れよ 投げよ 捕れよ 白い歯を見せて笑えよ 勝てよ 残れよ 故郷の友よ 輝く陽の中で歌えよ

青年の故郷は遠く 思い出すこともわずか 季節さえ忘れて生きる日々の中で 胸おどる甲子園の季節


友は行き 友は去り 都会ではいつもひとり 紅い花髪に飾る乙女も 今は夢の中だけ

友が来る夏の甲子園 友が呼ぶ夏の甲子園 目を細め見つめるテレビには 故郷が呼ぶ 手招きする

ああ故郷は緑なりき ああ故郷は緑なりき



ぼくが知っている沖縄出身の青年の夏休みは、夏の甲子園へ沖縄代表校を応援に行くことである。
例年そうであるようで、赤嶺が活躍した豊見城高校の時には、随分長い休みになったと話していた。
早く敗れれば夏休みは早く終わり、勝ちつづければ、それだけ長くなる。

青年はその間故郷を満喫し、また都会へ戻ってくる。甲子園にはそういう思いいれがある。
特に沖縄と甲子園のつながりには、何らかの感慨がついてまわる。今年も拍手が多い。

138名無しさん:2018/05/19(土) 11:10:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月12日  一回戦  「 勝利の女神 」


白球はグラブをはじき 追いすがるこの身を避けて 砂けむりたてて遠ざかる はるか緑の草の上へ

どよめきがあたりをつつみ 波乱にゆれ動く空気 ただひとりとり残されたこの身を 友の手がやさしく叩く


痛恨のエラーのかげで 入れかわる女神の位置を 痛い程心に感じ あふれ出る涙をぬぐう

何故にこのぼくが選ばれ 何故に晴れの日につまずく 泣くなと友がいう 打って返せとなぐさめる

唇を噛んでうなずくこの僕に 次の打席がまわる さあ 背を向けた白い女神よ このぼくの腕に戻れよ


雨の日も 風の日も 春 夏 秋 冬 君のために鍛えてきた 勝利の女神よ きけよ

このぼくの祈りを きけよ 汚れたままのユニホームは 君のための目じるしだ



試合であるから、大殊勲もあれば、大失策もある。大殊勲での勝負の結着は素直に拍手で讃えられるし、
敗れた方にもなぐさめようがある。しかし、大失策で全てが決まってしまったりすると、本人以上に胸が痛んでしまうのだ。

ヴィデオテープではその場面を再現できても、現実に、もう一度ということはあり得ない。
たった一球の処理をあやまったために、何もかもが崩壊してしまうのはあまりにもむごい。

しかし、それも仕方がないことである。過去にも何百人もの選手が、その場の、その役まわりに選ばれ、
そして、後の人生で女神を抱きしめるために立ち上がったのだ。

139名無しさん:2018/05/19(土) 12:21:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月13日   二回戦  「 ライバルへ 」


あの日 ぼくは 君に負けた 晴れの切符は君が握った 傾いた夏の日に長い影をひく

勝者の影は赤く燃え 敗者の影は青くゆれ 君は歌い 僕は泣いた 


手を出せば握り返す君の大きな手 がんばってくれと声をかければ 君はいつもより大きく見えて

まかしてくれと肩を叩いた ライバルはパレードの中を去って 紙吹雪舞う中でVの字を描く


梅雨があけ 勝者は甲子園 蝉時雨降る中を 敗者はグラウンドで あの日 ぼくは 君に負けた

晴れの切符は君が握った もしかしたら そのマウンドにぼくが立ち 白いボールを掌でこねながら

真夏を切り裂くサイレンを 待っていたかもしれない もしかしたら もしかしたら

しかし ぼくは 君に負けた 晴れのマウンドに君がいる



たまたま神奈川県決勝の横浜商、横浜高の一戦をテレビで見た。
宮城、愛甲という評判高い選手の対決で見応えがあったが、勝敗が決した瞬間の両者の姿は忘れられない。

愛甲は、どこまでも自らの矜持を捨てずに泣き、
宮城は、腹の底から湧き起こってくる歓喜に何度も跳躍した。実に印象的な光景だった。

甲子園には四十九校しか登場しない。しかし、参加した3170校のことも忘れないでおきたいと思う。
宮城、愛甲といったライバルは、どこの県、どこ地区にも存在したと思うし、それによって、甲子園をなお熱くしている。

140名無しさん:2018/05/20(日) 10:20:07
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月14日  二回戦  「 同じ高校生じゃないか 」


同じ高校生じゃないか 恐れることはない 獅子と兎ほどの差があるわけじゃなし 同じ高校生じゃないか

兎が獅子を食うことは不可能でも ぼくらが彼らを食うのは不可能じゃない

おそれを捨てることだ おびえをなくすことだ 彼らをまぶしく見ないことだ 同じ高校生じゃないか


一発で一点がとれないなら 三発打てばいい 歓呼でダイヤモンドは一周しなくても 熱い塊でかけ巡ればいい

うなりを上げる速球がないなら 一球も無駄に投げなければいい 華麗にふるまえなければ 堅実であればいい

一人の顔はクローズアップされないが 九人の集団が印象に残ればいい 同じ高校生じゃないか


恐れることはない 獅子と兎ほどの差があるわけじゃなし 同じ高校生じゃないか

勝利はぼくらに微笑まず 敗者となって甲子園を去るけれど 激闘の記憶は 青春の日を飾るにふさわしい

ぼくらは一度もおそれなかった ぼくらは一度もおそれなかった



一口に高校野球といっても、チームの印象は随分と違う。
野球の才能にあふれたスタープレーヤーをそろえた学校もあれば、クラブ活動そのものという学校もある。

すぐに野球は人生のすべてと決意している選手もあれば、青年の一時期を燃焼させるものととらえてる選手もある。
どちらがいいともいえない。どちらも高校野球である。高校野球を強調するあまり、才能を軽視することは許されない。

しかし、明らかに素質の違いが見受けられる学校が、健闘する姿が美しい。
その気持ちを詩にしている時、初陣の富士高校が、名門高知高に延長十五回サヨナラ負けを喫した。
あっぱれな健闘ぶりだった。

141名無しさん:2018/05/20(日) 11:12:06
「 甲子園の詩   ( 阿久悠 )  」

1979年8月15日  二回戦  「 八月十五日の青春 」


戦争を知らない子供たちから さらに十年が過ぎて あの八月十五日は 既に歴史の中の点になってしまった

今 若者は甲子園に集い 紺碧の下で しばしの黙禱を捧げる 四半世紀前 この日本が焦土と化し

多くの人々が死に そして 飢え 前途に希望もなく ただ呆然と歩みはじめた歴史を 若者は知らない


甲子園の大会にも暗雲がたちこめ 幻の大会を一回含み 時代の淵にうずもれたことを 若者は知らない

有名無名の球児たちが ボールを捨て バットを捨て 海に 野に 空に 若い命を散らせたことを 若者は知らない


そして 時ゆき 時過ぎて 1979年8月15日 八月十五日の青春は 灼熱の陽に飾られた平和の青春

のびやかな肢体で打ち出す球音は 青空にこだまする鐘の音 舞い踊る白球は 青空を乱舞する鳩の姿

若者よ 野球の出来る時代はいい 若者よ 野球の出来る時代はいい 



今年甲子園に集まっている選手たちは、昭和三十年代の後半に生まれた少年たちである。
従って、昭和二十年の八月十五日は遠い遠い歴史の中の一日と思うことも無理はない。

その日が来たからといって、特別な感慨を抱くなどということは勿論ないだろうが、
当然のように満喫している平和が、決して当然ではないということは知るべきだろう。

平和は常に綱渡りで、目を放すとたちまちに落下するものなのだ。
しかし平和はいい。日本人の体がのびやかに美しくなっただけでもいい。

142名無しさん:2018/05/26(土) 11:01:06
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月16日  二回戦  「 敗れても誇らしく 」 


敗れて悔いなしなんて 美しく着飾った慰めに過ぎない 敗れれば悔いはある 悔いはなくてもくやしさはある

善戦であればあるほど 熱戦であればあるほど 健闘であればあるほど 敗れて後の 悔いやくやしさは大きいものだ

そうでしょう もう少しで勝てそうだったのだから 一度は掌中にあった勝利が 翼がはえたようにとんで行った


それは疾風にさらわれた紙のように軽く 湿度を含んだ球場の空に消えた 力をそそいでも 声をからしても

ひきとめられない軽やかさで ふわりと舞い そして 遠い視界へ吸いこまれて行ったのだ

ぼくらはがんばった がんばったから勝ちたかった もう少しだった もう少しで勝利の歌が歌えたのだ


サイレンが鳴った 僕らの野球は終った 敗れた悔いは残るけれど ぼくらは誇らしく故郷へ帰る

そうでしょう 悔いと誇りは違うものだから 長く そして 短い ぼくらの甲子園は終った



明野高が敗れた。学校創設三年目にして甲子園出場を果たした話題の学校も姿を消し、
これで、今年の初出場校はすべて甲子園を去ったことになる。

明野高は、茨城県決勝の時から見ていたが、まさに町の奇跡という感じの代表決定で感動的だった。
人々が、極く身近なところでこのような興奮や、奇跡を願う気持ちを抱ける機会はめったにない。

明野町の人々が胸を熱くしてナインをみつめるのも当然であろう。
二回戦は敗れはしたが、確かに、明野という小さな町は動いたのだ。

143名無しさん:2018/05/26(土) 11:38:05
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月17日  三回戦  「 あと一人 」 


あと一人 あと一人 あと一人で勝利はぼくらのものになる あと一人 あと一人 あと一人で長い長い戦いが終わる

ボールよ お前にはわかるだろう 握りしめているこの指のおののきが 語りかけているこの唇のたかぶりが

出来るなら 今 ぼくは この時 ぼく自身がボールとなって あと一人の強敵に対したい


あと一人 あと一人 あと一人で勝利はぼくらのものになる あと一人 あと一人 あと一人で長い長い戦いが終わる

ボールよ お前にはわかるだろう こんなに一生懸命に 心をこめて投げるこのぼくが 負けるわけがない


あれほどに鍛えて来たこのぼくが 打たれるわけがない スコアボードは最終回を残すだけ 赤いランプが二つついて

塁上には誰もいない 総立ちの応援席は勝利を信じ ベンチはいつでもとび出せる体制だ ボールよ さあ行くぞ

ぼくの指の言葉をきいてくれ ボールよ さあ行くぞ あと一人に ぼくのものになってくれ あと一人 あと一人 あと一人で・・・



一夜明けても甲子園は、昨日の箕島ー星稜熱闘の余韻が残っているようだった。
そのためか、いささか気合ぬけした感じがしないでもない。

高知ー都城戦、浪商ー広島商戦共に好カードで、白熱の試合が期待されたが、
信じられない大差がついてしまった。

それにしても、今大会、箕島ー星稜戦をはじめとして、浪商ー上尾戦、高知ー富士戦等々
あと一人から試合の展開が変わるという劇的な場面が印象に残る。

劇的は片側から見れば悲劇的になる。劇的展開に至らず、劇的の時点をとめてしまいたい気持ちがする。

144名無しさん:2018/05/26(土) 12:18:01
「 甲子園の詩 ( 阿久悠 ) 」

1979年8月18日  三回戦  「 甲子園の砂 」 


うずくまり 無心に砂をかき集めて 十五人の少年は影になる 夏が傾き 秋がしのび寄る甲子園で 

十五の影は砂になる 少年達の青春が砂になっているから 甲子園の砂はなくならない 

言葉でいいつくせない思いが そこに残されているから


少年たちの人生で 確かに一つが終った 一つの終りと始まりの儀式に 少年たちは砂を持って行く

ある者は瓶に詰め話し相手とし ある者は皮袋に入れ母親にあずけ ある者は植木鉢で木を育て

ある者は青春の記念に愛する人に渡す ある者は母校のグランドにふりまき

そして ある者は帰りの船や汽車から 校歌を歌いながら捨てるかもしれない 


それでもいい 君らには永遠に甲子園の砂がある

あの日の砂はどこへ行った あの日の砂は胸の奥 暑さののこる砂の上に 流した涙忘れない


一つの青春が終るときを 激しく照らす夏の日は 体を焼いて胸を焼いて 涙も汗も焼きつくす 

あれから時は過ぎて行き あの日は遠くなったけど 心の隅でサラサラと いつでも響く砂の音



四十九校、昨年優勝のPL学園を入れて五十校が堂々の行進をしたのは、つい何日か前である。
それが、今日を終って、たったの八校が残るだけになってしまった。

四十一校の選手615名が、それぞれの思い出甲子園の砂をかき集め、球場を去って行ったのである。
それにしても、最も多感な時代に、多感の代表として砂を手にすることの出来る少年たちをうらやましく思う。
これからの人生を勇気づける記念碑を自らの手でうち建てたことになるのだから・・・。

しかし、形こそ違え誰にでも甲子園の砂はある筈である。
拍手と喝采こそなかったが、このぼくにも残された砂はある。

145名無しさん:2018/05/27(日) 10:20:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月16日の回想  「 最高試合 」


君らの熱闘の翌日から 甲子園の季節は秋になった 東南の海を駆ける台風が 思わず走りをとめてのぞくほど

試合は熱く長く激しく 翌日の空は 熱気をはらんでいるものの高く澄み もう秋だった


それにしても君らが示したあの力は 一体何だったのだろうか 奇跡とよぶのはたやすい だが 奇跡は一度であって

二度起これば奇跡ではない 言葉がない 言葉で示そうとするのがもどかしい 一言でいいつくす言葉の奇跡が

ぼくにはほしい 勝利は何度も背を向けた 背を向けた勝利を振り向かせた快音が 一度 そして 二度起こったのだ


誰が予測出来るだろう 祈ることはあっても 願うことはあっても 予測出来るはずがない ましてや 確信など誰にあろうか

熱く長い夏の夜 人々の胸に不可能がないことを教え 君らは勝った 球史にのこる名試合は 箕島・星稜

時は昭和五十四年八月十六日 君らの熱闘の翌日から 甲子園の季節は秋になった



若いというのはうらやましい。延長十八回の熱戦、おそらく精神も肉体も極限に達したであろうに、二日も休むと回復してしまう。
生きものの勢いというものを見せられたようで感動してしまうのだ。
生きものにとって若いという評価が何よりも勝るということを、知らされたようで、ぼくらはくやしくもある。

あの箕島が登場、そして勝った。その時、星稜の選手はどこで何をしているのだろうかと思った。
そして、まだ、脳裏に残っている名試合を賛歌として書き残したいと思った。
興奮に、三日目になってもなおさめない興奮に胸を熱くしながら、ぼくはこの詩に「最高試合」という題をつけたのだ。

146名無しさん:2018/05/27(日) 11:10:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月20日  準決勝  「 野生の子よ また逢おう 」


グラウンドを去るうしろ姿の 君は頭ひとつ大きい 心持ち背を丸めて 君は歩を運ぶ

グラウンドをわかせた野生の子よ 来年ここで また逢おう 君の雄姿が再び見られる日を

誰もが心から待っている その時 君は 今より大きく 今より力強く 今より荒々しくあってほしい


鋳型にはめられた大きい少年ではなく 野生のまま帰って来てほしい 野生の子よ 野生のままあれ

獣の本能と息づかいを失うな 軽やかな都会の風に染まるな 要領よく戦うことを覚えるな

追うも 逃げるも 襲うも 防ぐも 敏捷な本能の命ずるまま 懸命に吠えろ 駈けろ とびかかれ


野生の子よ うなりを上げる速球を投げろ つむじ風がまき起こり 地響きがする速球を投げこめ 

技巧に野生をそがれるな  牙をぬかれて微笑むな 大きい 大きい野生の子よ また逢おう 

さらに大きくなって帰って来てくれ  戦慄させる力を備えて帰って来てくれ



ぼくらは常に見果てぬ夢を見つづける。それは弱小チームが総力戦で強敵を打ち破る逆転の奇跡や、
信じられない力を発揮する驚異や、また、超人、英雄の待望や、さまざまな夢を見つづけている。

浪商香川や、横浜商宮城には、超人の超能力を思わず夢みてしまうのだ。
巨漢宮城に対しては、特に人並みはずれた力というものを期待して見た人が多いと思う。
そして、その意味では多少の落胆はあったかもしれない。

なにしろ、スーパーマンや、ヘラクレスの怪力を思い描いていたのだから。横浜商は甲子園を去る。
しかし、宮城にはまだ来年がある。その時こそ、力にあふれた投球を見せてほしい。
君なら出来る。もっと肉体を、もっと力を、もっと闘争本能を誇ってもいいのではないか。

147名無しさん:2018/05/27(日) 12:02:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月21日  決勝  「 謝夏祭 」


決勝戦は 華やかさでいろどられながらも どこか寂寥の影がつきまとう それは燃えに燃えた夏が 

今日を限りに去って行く 葬送の儀式でもあるからだ 山陰から雨雲が南下し 夜を思わせる黒雲におおわれて 


それでも甲子園は 命みじかい夏の狂宴に花と咲いた 頂点を目ざす球児は 息苦しい攻防に回を重さね 

栄光の門と悲嘆の門を 交互に幻想しながら 投げ そして 打った ホームランもあった エラーもあった 


灼熱の夏を 一気に奪い去るような雨が 今にも降り出しそうに見えながら 何物かが踏みとどまらせた

試合は終わった 勝者には余りある栄光が 敗者には敢闘の賛辞が与えられた 夏が終わった 本当に夏が終わった 


日本中の人々の胸の中から 熱い固まりが瞬時に消え 球場を去る人の テレビの前をはなれる人の 

肩にさびしげな秋が舞いおりた 幻覚に思えた季節が終わって 人々は日常のさめた檻に戻り また無口になってしまう



甲子園は箕島高校の春夏連覇という偉業で幕を閉じた。しかし、箕島の栄光にも、池田高校の敢闘にもふれたくない。
むしろ、ただひとつの勝者を決定しなければならない仕組を呪わしく思う程である。

とにかく、十四日間に集約した燃える夏が終わった。野球という形をかりた壮大な謝夏祭が終わったのだ。
夏が終われば季節が変わる。季節が変わればすべてが感傷の淵に沈む。球児たちよ。来年また熱くなろう。


1979年の出来事・・・米スリーマイル島原子力発電所事故。 サッチャー英首相、欧州初の女性元首。 
             朴韓国大統領暗殺。 東京サミット開催。 ソニーがウォークマン発売。


「 甲子園の詩 」は1979年から2006年の全国高校野球選手権大会の期間中、スポーツニッポン紙上に連載。
偉大なる阿久悠さんの凄い高校野球愛が伝わってきますね。 2007年8月1日、尿管癌のため逝去。
ラストとなった2006年の決勝まで書き込む予定。

148名無しさん:2018/05/27(日) 13:27:04
「 史上初の決勝引き分け  エースが泣くほどの緊張感 」

1969年 決勝   松山商 0―0 三沢  ( 延長18回 ) 


第51回大会(1969年)の決勝は、第100回を迎える大会史のなかでも屈指の名勝負だ。
主役の1人が、松山商のエース井上明。 明大を卒業後、朝日新聞社で長くスポーツ記者を務めた。
そんな井上が自賛するプレーが、4時間16分に及んだ戦いのなかにある。

「 この試合のなかで、自分で、『 あ、よくやったな 』と思うのがこのプレーなの 」
それは延長十五回裏、1死満塁とサヨナラ負けの大ピンチを背負っていた場面で出た。

相手9番にフルカウントからの6球目を打ち返された。体の右側を痛烈な打球が襲う。
井上はこの打球に飛びついた。かろうじてグラブに当て、打球は遊撃手の前へ。
本塁へ返球され、ぎりぎりでサヨナラの生還を阻んだ。

投球直後の投手による横っ跳びなど、なかなか見られるプレーではない。
まして、右投手は投げ終えた後、体が一塁側に流れるのが一般的だ。この打球が襲ったのは、その逆だ。

グラブに当たった打球が遊撃手の目の前へ転がった。
三塁走者のスタートが遅れた…幸運は重なったが、少なくともあのとき、
井上がダイビングキャッチを試みていなければ、この勝負は十五回で決着していた可能性が高い。

離れ業には、裏付けがある。「 投手というのは5人目の内野 」
自分の近くにきたら自分でアウトにする。それが近道 」。井上の持論だった。 

「 緊張状態のなかでも、あの打球に動けた。体に染みついていること、ボールに対する意欲、
そういうものを出せたのがあのプレーだった 」。
一時期、遊撃手に転向し、練習を積んでいたことも奏功した。

松山商は18回目の出場で当時、すでに全国制覇が3度。対する三沢は2回目の出場だった。
「 我々が三沢に負けるということは許されない。そういう気持ちがすごくあった 」と井上は明かす。

その三沢に土壇場に追い込まれていたのが十五回。中飛で3アウト目をとり、ベンチに戻った井上は泣く。
「 野球をやっていて怖いと思ったのは初めてだった。なんとか抑えて、
一色監督が『 よおーくやったよ 』と迎えてくれて、緊張がぐわっと緩んで、もう涙がでた 」。
それほどの緊張状態で戦っていた。

松山商は続く十六回の満塁のピンチも耐え、十八回、36個目のゼロがスコアボードに刻まれた。
ともに1人で投げ抜き、投球数は井上が232、太田が262だった。


翌日の再試合は選手層に勝る松山商が、左腕中村の好投もあり4―2で制した。
井上は1回3分の1を投げたのみで、試合終了の瞬間を右翼で迎えた。
「 2日やって、やっと終わった。うれし涙も全く出なかったし、あぁ、やっとこれで終わったな、と 」


「 3年生の時にああいう試合をして、その後も高校野球をずっと見られている。そんな人生、中々ないよね 」。
高校野球の引力圏から逃れられなかった36年の記者生活を、そんな風に振り返った。

(75年、朝日新聞社に入社。大阪本社運動部次長などを務め、2011年に定年)



15回裏もだけど、16回裏にも無死満塁でノースリーの大ピンチがあったような・・・。
とにかく延長からは三沢が押しに押して、松山商が懸命に凌いだ記憶がある。
松山商が執念で勝ち取った4度目の全国制覇でしたね。

149名無しさん:2018/06/02(土) 10:08:16
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月8日  一回戦  「 冷夏よ 燃えろ 」


地球の夏よ なぜ寒い 人の心よ なぜ寒い 冷夏よ 燃えろ 

ほら お前の大好きな球音が 肩すかしに合って 響きを忘れてしまうではないか 青空が欲しい 炎暑が欲しい

あの子たちの劇的なドラマを飾るには まぎれもない夏の 過酷なほどのまぶしさと暑さが欲しい 


また始まった またやって来た 何気なく ふるまいたい日常の中で 熱い心を発見する短い季節が 甲子園にやって来た 

冷夏よ 燃えろ せめて 球児たちの熱闘と 見守る人々の昂ぶりに似合うほどの いつものきらめきをとり戻せ

今日より明日 明日より明後日 一日一日と暑さとまぶしさを増し その二つが一つになって熱さとなり ほんものの夏になってくれ


ぼくらは それぞれの想いの中で 自らの心の中に眠る 熱狂 興奮 情熱 奇跡という きらびやかな死語との再会を願っているのだ 

1980年8月8日 午前10時 プレイボール けい浦高校本西投手第一球ストライク・・・



球場にまだ入場式の余韻が残っている間に、既にそこを去っていく学校がある。
大会第一試合の緊張についてはよく語られる。そして、当然のことに最後に残る学校についても語られる。
しかし、最初に去って行く学校については語られない。

他の学校の選手たちの体や脳裏に、まだ入場式の興奮が実感として渦巻いている時、
敗者の想いにひたらなければならないというのは、どういう想いだろうか。
初出場けい浦高校がそのたった一校に今年選ばれてしまった。
甲子園を一番最初に去っても、一番弱いわけではないのだ。それにしても、夏が欲しい。

150名無しさん:2018/06/02(土) 11:00:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月9日  一回戦  「 さもなくば一握の砂を 」


今日 勝利の報せを送る さもなくば 一握の砂を いずれにせよ ぼくの青春のまぶしい記録として

汗を流し 砂にまみれ 時に血と汗までもまじえて ぼくはここにやって来た 


何ものにも変え難たい日々が 音たてて過ぎて行き ぼくを小さな戦士として 甲子園へ押しやった 

甲子園のマウンドに立つ 立つからには憎まれたい 今 この場に立って さわやかだの 無欲だのといわれたくない

やはり ぼくは勝ちに来た 勝ちに来た 友よ 今は 勝利の報せを送る さもなくば一握の砂を 


いずれにせよ ぼくの青春のまぶしい記録として 甲子園は大きい 故郷の山の偉容より更に大きく 

高いところでふくれ上って 空をせばめるぼくはこの山に勝てるだろうか

友よ・・・  一握の砂を持って帰る ぼくよりももっと饒舌な砂を持って



二日目を終り、既に七人の敗戦投手が記録されたことになる。
それぞれのチーム十五人の中で、ただ一人敗戦の名を冠せられる投手という立場の少年が、
そこで手にするものは何だろうかと思ってしまうのである。他の十四人と違うのであろうか。

やはり、今年も敗れたチームは甲子園の砂を持って帰る。
これはもうここ何十年かの一つの習慣となり儀式となった。それはいい。
しかし、どうせなら、饒舌な、その日の全てをかたりつくしてくれるような砂を持って帰ってほしいと思う。

君らには、ドキュメントを心に刻むという長い一日があった。
敗戦投手という言葉の意味をいつの日にかその砂は語るだろう。何げない記念品であってはならない。
大差で敗れ去った日高高校の甲子園の去りぎわを見ながらそう思った。

151名無しさん:2018/06/02(土) 13:50:14
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月10日  一回戦  「 サヨナラは時間を停めた 」


その瞬間で全てを終らせ 突然の決着を着けてしまった

たった何秒かの壁を境にして 勝者と敗者に別れていた ぼくは一生忘れないだろう 


あの一球が 指をはなれる瞬間のおののきと その願いをたちきる金属バットの響きと

曇天に舞い上がった白球と くるりと背中を向けた外野手と 絶叫しながらホームに躍りこんだ走者と

そして 何ともいえない空白の虚脱感と


サヨナラは 何気ない挨拶の言葉で 時に甘く再会を夢見させたりするが

ぼくらのサヨナラには 甲子園のサヨナラには再会はない

サヨナラは結末であり 頁をくり終えた本のように 二度と開かれない 


運命のようにその瞬間で時を停め その場からぼくらを追い払う サヨナラ サヨナラ サヨナラ サヨナラ 

ぼくも今 何かに対して サヨナラをいわなければならない サヨナラ甲子園 サヨナラ青春 

また逢えないサヨナラを どよめきの中でつぶやく



劇的であるということは、一方に対しては残酷なことである。
それは突然訪れるから劇的であって、サヨナラゲームなどは、まさにその典型である。
昨日の旭川大ー日向学院の逆転サヨナラも、旭川大から見れば劇的であるが、日向から見れば残酷な結末であった。

そして、今日習志野ー倉吉北の一戦でも、互角と思えた勢いが、一瞬にして光と影ほどに別れてしまう光景を見た。
高校野球に於るサヨナラは、如何にも意味が深か過ぎる。試合自体のサヨナラ決着ということだけではなく、
一人々々に残酷なサヨナラを投げつけるような気がしてならないのだ。

152名無しさん:2018/06/02(土) 16:27:19
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月11日  一回戦  「 おそれを知らない子供たち 」


おそれを知らない子供たちが 百戦錬磨をしのぎ そして勝った 魔物といわれる巨大な庭も

彼らにとっては 快適な楽園だったのだろうか まるで緑したたる草の丘を 裸になってとびはねる天使のように

歓喜のさまを見せながら のびのびと戦った


悪魔のように冷静に 天使のように闊達に おそれを知らない子供たちは ここで初めて獅子となり 孔雀となり 

巨鯨となった 若いから 未熟だからと 危ぶんだ大人たちは 自らの常識の修正にとまどいながら

しかし 興奮と歓喜が 才能を孵化させることを知り 夢見るような思いになる


若いことは自由なことであり 未熟なことは可能なことであり だから 魔物の庭も沈黙するかと納得する

悪魔のように冷静に 天使のように闊達に おそれを知らない子供たちは 百戦錬磨をしのぎ そして勝った

ゲームセットのコールの時 初めて おそれを知る子供の顔になり 少年という緊張の美しさを見せた



一回戦の好取組と思われた早実ー北陽の一戦は、予想外のワンサイド・ゲームになってしまった。
早実勝利の原動力となったのは、一年生投手の荒木の好投、一年生の小沢二塁手の再三の好守、
そして二年生の小山、高橋のホームランであった。

高校野球は、若さの象徴として見られているが、さらにその中にも、もっと若い層があることを今日知った。
早実の一年、二年組がそれで、彼らを見ていると、多くのものを背負って自滅するという甲子園パターンは考えられない。
嫉妬さえ感じるほどである。

153名無しさん:2018/06/03(日) 10:38:30
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月12日  一回戦  「 夏がもどって来た 」


いつもより少しひかえめながら 鉄塔の彼方の入道雲や 六甲の遠山を彩る青空に 夏がもどって来た

球場は白さを増し まぶしさを増し 熱さを増し 激しさを増し そして 好試合があった


君らの姿に普通の少年の上限を見た 生まれながらのスターや 生まれながらの偉材ではなく

体の底にしみついた野球への愛情を ていねいに磨き上げた心と 懸命に駈けることが 

夏の太陽をもしのぐという美しさを見た 


夏はもどって来てよかったという 冷夏のいましめを解いてよかったという 

群像が群像として熱くなれるのは 甲子園に夏があるからだ 

浜松商 岡山理大付 追いつ追われつ 四対三 はでやかでなくとも人を酔わせた好試合


試合が終わり ホームベースをはさんで対い合う時 もしも許されるなら 彼らが整列の列をくずし 

たがいの手を取り 肩を叩き あるいは遠くから微笑みを送り 後にして思えば友情とよべるような 

心の昂りを示し合う時間を 健闘の二チームに与えてあげたかった 夏がもどった日 小さな好試合があった



ホームベースを中にして、一声挨拶の声を発した後の数秒、
選手たちの表情や体に微妙な衝動が起きているのがわかる。
それは、おそらく、寸前まで戦っていた相手に対する友情の突然の認識であろうと思う。

しかし、今の高校野球は、それを見守るロマンティシズムに欠けている。
敗者はすぐに追い払われ、勝者も儀式への参加を強要される。
せめて握手を、せめて微笑を、せめて一言を、と思うのはぼくだけではあるまい。
心の中に衝き上げて来た思いこそ大切にしたい。
今日も、浜松商ー岡山理大付の好試合のあと、そんな思いを抱きながら健闘の少年たちを見つめていたのである。



この頃は、まだ試合終了後の握手などなかったようですね。 
阿久悠さんがお認めになったのですから、好試合だったのでしょう。
残念ながら、私の記憶には残っていない。阿久悠さんの詩を拝借すると・・・
時間の経過とともに 薄れる宿命の 心の壁の小さな記憶を 色鮮やかに とどめてなかった。

154名無しさん:2018/06/03(日) 12:16:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月13日  二回戦  「 時よとまれ 女神よとまれ 」


時は速い ぼくらが思うよりずっと速く もう半分後姿を見せて ゴールに駈けこもうとしている

時よとまれ 女神よとまれ 今一度ぼくらに姿を見せてくれ 


このままでは終らせない だってそうじゃないか このままでは悔いだけが残る 

晴れの舞台のきらめきの中で ぼくらはいつものぼくらであり得たか 体の隅々まで鍛え上げた自信も 

心の隅々まで鍛え上げた誇りも  まだ何も出ていない このままでは終らせない


だってそうじゃないか ぼくらはぼくらの全てを見せるために この舞台に立ったのだから 

女神よ急ぎ足で駈けこむな 微笑んでくれとはいわない せめて 立ちどまれ いや 立ちどまらせてみせる


時は速い もう九回だ 二死だ 点差は三点ある 陽がまぶしい 土は熱い スタンドは雲海のように揺れ

甲子園は噴火口だ さあ まだ ぼくらであり得るぞ 安打 二塁打 二塁打 同点! 女神は立ちどまった

ぼくらがひきとめた 此処へ来てよかった やって来てよかった



前橋工対鳴門の一戦は、この一瞬で終わりにしたいと思う。
三点差を九回二死から追い上げた気力と執念に拍手を送ればそれでいい。
たまりにたまったエネルギーが、僅かな亀裂を見つけて噴出する様に溢れ、前橋工は、この1/3回に全てを出しきった。

エネルギーの回転の輪と、勝運の回転の輪が、必ずしも同じ円周を回るとは限らない。
延長12回、前橋工は不運なサヨナラ負けを喫したが、それについては書くまいと思う。
体の中に残高がないほどに戦えた幸運の方を思うべきだ。
敗戦の悔いより、エネルギーを出し残した悔いの方がずっと大きいからだ。

155名無しさん:2018/06/03(日) 15:25:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月14日  二回戦  「 愛しの甲子園 」


愛甲 その名は 愛しの甲子園か 君は帰って来た 

二年前のあどけない紅顔を たくましい男の顔に変えて 君は帰って来た 


よりしなやかに よりしたたかに 勝つための本能を身に備えて やわらかく  しなりながら 君は投げる

剛であろうとするはやりは消え  冷静に呼吸を合せながら  一瞬の隙に襲いかかる獣のしなやかさを

二年の間に身につけた 愛くるしい目の森の子鹿は  時を経て  サバンナの獅子となり 人々の目を見はらせる


もはや 手をさしのべて 可愛いとささやくことを許さない 熱風吹き荒ぶ道を 悠々歩く王者の心の気負いさえ

あたりに感じさせる そして その気負いが 奥深く形に現われないから尚のことだ


しかし 君にはまだ余裕がある 追いつめられ懸崖に立たされた時 それでも尚 しなやかに したたかに 

こわばりを見せずにいられるか それを見てみたい その時 君の顔はまた変わるに違いない


紅顔から男へ 男から王者へ 磨かれて変貌する瞬間を見てみたい

愛甲 その名は 愛しの甲子園か 君は帰って来た



横浜高の愛甲投手を見て、猫科の動物の成長の驚愕といったものを感じた。
子供の時の愛らしさは、猫も虎も獅子も同じであるが、青年期から後は、近寄り難い程の威厳と凄味を備えて来る。
愛らしいと思えた要素の全てが、闘争本能の未熟部分であったことがわかるのだ。

三年間で、これ程顔の印象が変った選手も珍しい。
アイドルの殻を脱ぎ、ヒーローに変貌しようとしている愛甲投手を見つめていた。

そして、何故か、またぼくの目の前で、アッというような変貌をとげるような気がしていた。
それを期待したい。 鍛えられた少年が集う甲子園には、そういう楽しみもある。

156名無しさん:2018/06/09(土) 10:22:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月15日  二回戦  「 北の勇者たち 」


夢は大きい方がいい しかし 大それた夢は どこか空虚でもろく 力に欠ける 

大それた夢をふりかざして来ても 圧迫にはならない 

それより ひたむきな思いの結集というのが 実は一番破壊的で恐ろしい


北の勇者たちは ただ一戦に勝ちたい思いを爆発させ 奇跡の道を拓いた 

あの第一戦の決勝の砂けむりの中に  自らの手で切り拓いた道を見て 

第二戦でも同様に 苦境を一気に勝利につなげた


もしかしたら 君たちは  この甲子園で学んだのかもしれない 

不可能な怠け者の結論であることを 勝利に対して怠けない者には 可能の夢がきらめくことを 

そして それは 一つの誠意でもあることを 北の勇者たちは 遠来の客へのもてなしの言葉ではなく

ほんものの勇者として駈けめぐり 今 心から拍手を受ける 


そして 短い夏の故郷へ 熱い便りを送りつづけているのだ 逆転の奇跡は二度微笑んだ 

ひたむきな思いが二度通じた 三度目も 大それた夢になることなく 思いの結集であってほしい



高校野球では先制点が絶対で、逆転勝ちというのは少ない。その逆転を一戦、二戦と演じた旭川大高に注目したい。
監督は一戦にひきつづき、この日も「信じられません」と正直な思いを話していた。

圧倒的戦力を誇る学校が、その実力を見せつけながら勝ち進むのも見ものだが、甲子園へ来て何かを発見し、
それによって学び、思いもかけない力を発揮して行く学校も、それ以上に楽しみである。旭川大高にはそれを感じる。  
事例として夏はそれ程でもないが、春の選抜の優勝校にはこの型の学校が多いのである。

さて、今年もまた終戦記念日がやって来て、甲子園でも試合を中断して黙禱がささげられたが、
やはりまぶしい八月十五日だった。 この日が何であるのか、大人たちのメッセージが足りないような気もした。

157名無しさん:2018/06/09(土) 11:16:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月16日  二回戦  「 早過ぎた決勝戦 」


この日 甲子園に人があふれたという 熱狂的な人はその場を去らず 蔦のからまる球場をとり巻き

球音と歓声に胸をときめかせたという 思いがけなく早々にやって来た対決に 人々は我を忘れたのかもしれない

それは 早過ぎた決勝戦といえた 春の覇者が黒潮の町からやって来た  去年の覇者が蜜柑の里からやって来た


ともに 春夏と二年連続の 大きな野望と期待を背負い それでも 尚 それらに押しつぶされることなく勝って

堂々と甲子園の土を踏んだ そして 今日対決する 高知商には まだ肌寒い春の甲子園を 誰よりも熱くした鮮烈な記憶があり

箕島には 度重なる奇跡を起してみせた 昨夏の戦慄する記憶がある 縁はなくても ゆかりはなくても 故郷は違っても 

白球を愛する人間には それだけで興奮を誘われる 


試合開始を待たずして 人の興奮と緊張を伝える無声音が うなり声のように甲子園をつつみ 早過ぎた決勝戦に魅せられた

戦いが終り 意外な静けさが球場に満ち 春の覇者が普通の少年になって 去って行った

称える言葉と送る言葉は 多分同じものだろう



高校野球であるから、好カードという騒ぎ方は違っているのかもしれない。
しかし、そうはいっても、それぞれの学校に描いているイメージというものがあり、そのイメージの鮮烈な学校の対決となると、
建前はともかくとしてときめく。

箕島と高知商は、二回戦の抽せんの場で悲鳴に近いどよめきが起った程で、
早過ぎた決勝戦といういい方も間違いではないだろう。 試合は意外な大差となったが、これは力の差ではない。

サイレンが鳴りやまぬうちに第一球を叩いた児島の安打が、流れという魔ものを変えた気がする。
高知商に少々の気負いが感じられ、箕島にやわらかな心が感じられた。やわらかな心の強さを今年も箕島は知っている。

158名無しさん:2018/06/09(土) 15:02:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月17日  三回戦  「 さらば好投手 」


さらば 好投手 夏の風景の中の忘れもの 幻のようにあいまいで そのくせ 時として鮮明によみがえる雄姿

勝運に恵まれず敗れても 夏に躍った君たちの技と力と それに見とれた憧憬にも似た思いは

永く忘れないだろう さらば 好投手 また逢おう さらば 好投手 また逢おう


その日 その時 純白のユニホームの背に 背番号1を光らせ 大観衆を陶然とさせた歴史は 敗退の苦渋を超える

君たちは注目されたのだ 注目される人生の幸福を その日 その時 味わったのだ


のびやかな肉体は壮大な詩に勝り 磨かれた技は精緻な絵に勝り 動じない心は朗々の曲に勝る

君たちは その全てを出しつくし 充分に人を酔わせ満足させた しかし まだ上がある まだ果てしない上がある


もしも いつか 別の場所で 君を投手として見かけるなら この日描いた讃歌が 夏の日のまぼろしでなかったと

思わせてほしい さらば 好投手 甲子園が実に似合った大きな少年たちよ



好投手の思い出、という特別の感情が甲子園にはある。それは、観る人間の網膜の中で最も躍った少年ということであろうか。
大会経過や、学校に関する記憶は薄れても、好投手の名前とフォームだけは、遠い夏の日の懐かしい景色のように浮かんで来る
それに好投手というのはどこか不運で、学校そのものは敗退することが多い。

滝川が敗れ、実に力感あふれるピッチングをした石本という好投手が甲子園から姿を消すことになった。
松商学園の川村、田川の村田、鳴門の島田、高知商の中西、それに滝川の石本、大会一の速球投手、秋田商の高山。
既に姿を消した好投手たちに、さらばと語りかけ、何年か先の素晴らしい思い出としてよみがえることを期待したい。

159名無しさん:2018/06/10(日) 11:53:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月18日  三回戦  「 甲子園は大きな父だった 」


今 思えば 甲子園は 大きな父親だった 失われた家族の神話が 唯一残された 巨大な父親だった

決してやさしくはなかった 時には冷酷ですらあった 甘い思いや 淡い期待は 無残に打ち砕く非情さを持ち


そして いつも 前に立ちはだかる壁だった 幾度かそれに挑み その都度踏みにじられ

半ば傷ついた青春という形で 彼の甲子園はあった 春 夏 春 四季のめぐりの中で不動の甲子園は 

ただ一度も微笑むことなく 彼を見下し たった一つのやさしさといえば 常に拒むことなく 受け入れてくれることだった


そして 最後の夏が来た ようやくにして甲子園と話が出来た 巨大な胸にぶつかり 存在を示すことが出来た 

そう 今 思えば 甲子園は 彼にとって 大きな父親だった 素晴しい男をつくるための 妥協のない 巨大な父親だった



今大会で、数多くのスター選手とは別の意味で注目を集めたのは、東北の中条投手だった。
過去三回の甲子園は、勲章どころか大きな傷になるのではないかと、他人でも心配になるくらいの成績であったが、
見事にその汚名を返上したのだ。

けい浦、習志野と連続完封した中条には、春の大会での不安げな表情はかけらも見えなかった。
本人の努力もさることながら、彼に四度目のチャンスを与えた監督の姿勢と、
それを盛り上げた僚友にさわやかなものを感じるのである。

東北は、今日、浜松商の巧技にペースを乱され敗れはしたが、中条投手にとって甲子園は何であったかと考える時、
はじめて意味あるものであったという思いになり、ホッとしたのである。
君は、見事な父親に、男になったな、とほめられたのだ。

160名無しさん:2018/06/10(日) 13:01:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月19日  準々決勝  「 ふたたび吹けよ 熱い風 」


その昔 大きな拍手で迎えられた ただ登場するだけで 

人々はたっぷり思いをこめた拍手を 彼らの代表に送った


しかし 常に彼らの代表が手にしたものは 敢闘であり 殊勲ではなかった それが甲子園での歴史だった

甲子園の砂が劇的に見えたのも 彼らの代表が手にしたからだった そこにも たっぷりと思いをこめた拍手があった 

そして 時は流れ 日は移り 彼らの代表へのそういう思いの拍手は だんだん減って行った


人々の心が冷めたのではなく 人々の心が感傷的でなくなったのだ すばらしい甲子園の変身だ 

もはや 大きな拍手はない なぜなら 彼らは強かったからだ


敬意は脅威にも変り 時に 憎悪の目で見ることも 出来るようになった 

甲子園を誰よりも荒々しく駈け巡り 誰よりも奔放にふるまったのも君たちだ 

野性元年 まぎれもなく沖縄の新しい野球が 君たちから始まった ふたたび吹けよ 南の野性の風よふけ



勝つためのチームを形成するために鍛えられたチームというのはたくさんあった。
しかし、肉体そのものを鍛え野性をも研ぎすましたというチームが少ないのがさびしい。
よくいえば都会的で洗練されているということであろうが、どこかひ弱で、若さとか、
肉体に対する憧憬には至らない。

そんな中にあって、沖縄の興南にだけは、それらが感じられて楽しみだった。
そして、沖縄代表の学校が、遂に甲子園において、特別の招待客でなくなったことに、
何ともいえないさわやかさを感じたのだ。
興南は、ベスト4進出はならなかったが、「 ふたたび吹けよ 熱い風 」そういう期待を充分に抱かせた。



1990年と91年の夏、沖縄水産が2年連続準優勝。 99年と2008年には沖縄尚学が春を制覇。
そして、興南が2010年に春夏連覇。
沖縄県勢の偉業が、すでに阿久悠さんには見えていたようですね。

161名無しさん:2018/06/16(土) 10:25:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月20日  準決勝  「 逃げるなよ蜃気楼 」


雨煙の彼方に 栄光の蜃気楼が見えた それは今までの夢と違って もっと確かな存在として

ぼくらの前に浮かんだ 栄光まで後一つ やっと此処までやって来たのだ


祈りや願いの対象としてではなく 少くとも半分の確率のところまで ぼくらは駈けのぼって来た

いわば青春の総決算が 後一試合でつけられる その幸運を今つかんだのだ


幸運は吝嗇で 決して気前よくふるまってくれなかった 幸運に出会うためには 待つことは許されない

常に幸運より早く駈けて 巡り合いをつくらなければならないのだ 勝敗は気まぐれで

勝利の予感に対して いつもさからう 努力は怠惰で ぼくらの努力を見落とそうとする


青春の過酷で 時代とひきかえでなければ 充足をくれない それらの数多くのものとの闘いに

一つ一つ勝って 今ぼくらは後一歩というところに来た 雨煙の彼方に 栄光の蜃気楼が見えた

逃げるなよ蜃気楼 消えるなよ蜃気楼  雨が降っている 雨が降っている まだ闘う相手がきまらない



二桁の背番号にはドラマがある。野球というのはよく出来ていて、二桁になると一応補欠ということになる。
従って、この二桁の背番号の選手が重大な場面に登場して来ると、特別なことが持ち上がったような期待を感じる。
未知の力、いわば秘密兵器のようなドラマ性を感じさせるのだ。

天理が起用した小山投手がそれで、彼は期待に応えて力投し、危うくとんでもないヒーローの登場になるところだった。
雨中の一戦は、雨と泥濘が微妙に作用した試合であったが、横浜が地力にものをいわせて逆転した。
但し、第二試合が中止になったため、相手がまだきまらない。

162名無しさん:2018/06/16(土) 11:20:59
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月21日  準決勝  「 甲子園は燃えている 」


この日晴れるか この日燃えるか 甲子園の夏よ 最後の昂揚のために せいいっぱい晴れてくれ

せいいっぱい晴れてくれ  東から来た少年たちに 甲子園を独占されたからといって 西の空が暗く沈むことはあるまい

甲子園の夏よ ありあまる日ざしと熱で飾って この天晴れな少年たちの 偉大な舞台となってくれ 


1980年 夏の甲子園  決勝戦は 横浜高校と早稲田実業 3267校の頂点に立ち 歴史に刻まれるのは

横浜か 早実か 熱い顔合せが 大人たちをも含めてときめきを誘う 列島は早くも秋の気配を見せ 

どこか淋しげな色につつまれても ここだけには日がさして 熱風の渦が巻くだろう


人々は息をつめ 声をからして あるいは身をのり出して 少年たちの激突を見守るだろう

その時 誰もが少年たちと同じ若い獣になり グラウンドの詩人になっている


旗は一つ 栄光は一つ 勝者があれば 敗者がある だけどともに全てを出しきり 忘れものだけはしないで欲しい

甲子園は燃えている  甲子園は燃えている



決勝戦は横浜、早実という話題性にもこと欠かない両校の対決ということになった。
京浜対決ということで首都圏の熱狂はいうまでもないが、それだけではなく全国の人が注目するであろう魅力が、
この両校には備わっている。夏を一気に秋に変えてしまう甲子園の決勝戦としては、またとない対決かもしれない。

それにしても、早稲田実業に敗れた瀬田工業の健闘を称えたいと思う。
誰がここまでの奮闘を予測しただろうか。まさに「 ミラクル瀬田 」といっていい進出であった。
甲子園は、奇跡願望が集まるところである。そういった意味で最大のミラクルであったと思う。

163名無しさん:2018/06/16(土) 16:11:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月22日  決勝  「 いつか ある日 」


いつか ある日 時をこえて 君に出会うことがあったなら あの目の色のきらめきに 心がすくんだと打ち明けたい 

急ぎ足で過ぎる夏が 君の上でしばしとどまって 見つめるほどのはげしさに 体がふるえたと打ち明けたい


曇り空まで紅く染め そぼ降る小雨を乾かして 一つの夢をあらそった 日本の夏の甲子園 

さよなら さよなら 好敵手 君とつくった青春よ 心に深くやきついて 逢いたくなる日が来るだろう


いつか ある日 夏の中で 君の顔を思い出したなら 誇りに満ちた一日を 心の勲章に出来るだろう

ぼくは勝って 君は敗れ 長い長い熱い一日が 終ったあとの微笑みと 涙のきらめきは色あせない


今日はとばない赤とんぼ 入道雲さえ浮かばない 舞台は燃える想いだけ 日本の夏の甲子園

さよなら さよなら 好敵手 君とつくった青春よ 心に深くやきついて 逢いたくなる日が来るだろう



愛甲、荒木大、ともにマウンドを降り、川戸、芳賀が投げ合うという意外な展開となったが、それはそれで感動的だった。
スーパーヒーローのかげにかくれていた川戸と、一年生にマウンドをゆずっていた背番号1の芳賀に、
この最後の大舞台で機会が巡って来たという神のはからいに、むしろ胸が熱くなる。

チャンスというのは誠実で、公平で、しかも、粋なものだと知っただけでも、今日の一戦の意義は大きい。
冷夏は、ついに激しく燃えることなく、秋という感傷の季節にすべりこもうとしているが、
この十五日間甲子園はやはり熱かった。それにしても、このような一日を経験出来た少年たちは、何と幸福だろう。


1980年の出来事・・・レークプラシッド冬季五輪、 大平首相急死、 記録的冷夏、

           王貞治選手引退(最多本塁打記録868本)、 ジョン・レノン射殺

164名無しさん:2018/06/17(日) 10:15:03
「 元ソフトバンク捕手・田上氏が監督就任  母校の大産大付高 」


ベストナインにも輝いた田上秀則氏(38歳)が、2月1日付で野球部監督に就任した。

「 高校野球の指導をしたかった 」と現役引退後の2016年、学生野球の指導資格を回復。
05年の選抜大会以降、甲子園出場から遠ざかり、低迷する母校の再建へ、
OBの田上氏に白羽の矢が立った。

資格回復制度の導入後では、大阪府で初のNPB経験者の監督。
「 今すぐ甲子園というのはなかなか難しい。3年、4年、5年と、徐々に強くしていかないと 」。

中日を自由契約になりながら、ソフトバンクで正捕手をつかんだ苦労人。すぐに結果は出ない。
それでも努力を積み重ねれば、いつか、必ず報われることを、ホークスで体感してきた。
「 僕自身も日々、勉強です 」。


教員ではない田上監督は、練習が休養日の月曜日に学校へ出向く。 部員58人。
その一人一人の性格や実力を把握するために、部員が授業を受けている教室を視察する。
担任教諭にも普段の生活や授業での態度を確かめる。

「 人として成長させないといけない。プロだったら、野球がうまいだけでいける。
でも、彼らは高校生。ただうまいからメンバーにいるのじゃない。野球だけさせていたらいいんじゃない。
それを絶対に忘れてはいけない 」。
技術だけでなく、野球に取り組むための普段からの心構えも、伝えていこうとしている。



申し分ない新監督です。 プロのスタッフにも、なかなかいないような人。
蛇足ですが、本来なら球場内にいるべき時間帯に、盗撮で逮捕された阪神のスタッフとは雲泥の差。
情けないことこの上なし、捕まって良かった。年貢の納め時だったのでしょう。
こんな奴と比べては田上さんに失礼でしたね。

さて、大産大付は大阪桐蔭や、履正社など全国トップクラスの強豪がひしめく地区。
「 巨漢スカウト 」にひと泡吹かすようなチームを作ってほしいものです。

165名無しさん:2018/06/17(日) 11:25:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月8日  開会式  「 大いなる序曲 」


なぜと問うなかれ それぞれが それぞれの神話と再会するのに なぜが必要なわけがない

甲子園は鏡であり 人々は同じに見えて全く違う 心が汗をかく祭典を見ている


一億人の祭りに見える人は悲しく 一人の祭りが一億行われている と 思える人は豊かだ 

だから なぜと問うなかれ


今 大いなる序曲のたかぶりに まぎれもない夏の訪れを感じ そう たとえ その時寒くても

陽はかげりを見せていても この序曲が鳴り響けば 真っ赤な陽炎がゆらめき 

稲妻の虹がかけぬける暑い夏なのだ ぼくらは そう感じるスクリーンをもっている


少年たちの行進に 山脈とも波濤とも思えるスタンドは 白くゆらめいて 真夏の復活祭の幕は開かれた

これから二週間 いまわしい倦怠や 奢れる道化は姿をかくす それが日本の夏なのだ


グラウンドを踏みしめる獅子の子たちよ 遠い道のりを駆けて来た子供たちよ 

熱い視線と たえまないどよめきの中で きみたちは何を思う  栄冠は一つでも 誇りは一つではない 


たとえば もし きみたちがこれを感じるなら そう 甲子園の涙は目から流れない

甲子園の涙は すべてを出しきった体が 虚脱と同時に流してくれる という事を知ったなら 大いなる夏なのだ



ぎらつく太陽にはめぐまれず、第一試合からあいにくの雨になってしまった。
しかし、それが想いを薄めてしまうものでもない。
巡礼の歩みはとまらず、神話に向かって歩き続けているというのが実情だろう。

スターがいないといわれる大会ほど嬌声をうわまわるドラマが出現する。
そして、感動のドラマは、すべてを納得させ得る力を持っていると信じている。

166名無しさん:2018/06/23(土) 10:35:20
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月9日  一回戦  「 突然の主役 」


試合はときめく 一進一退ならなおさらのことだ 勝負はスリリングだ 決着の瞬間には非情な答を出す

一点一点が いたずら好きの女神のように 公平に入って行く そして 延長戦 それが試合で それが勝負だ

だが それだけではない 他のことにも心は惹かれる たとえば 一人の人間に 思いがけない好機が舞いこむ


そして 同時に 恐ろしいほどの試練を強いる瞬間を 魅せられたとしたなら ときめきも スリルも

人生にままある ドラマの縮図として 見たような気がする 好機は 晴れがましい主役への扉であり

同時に壁でもある 微笑と落胆の真中に 好機という使者は立っている


突然主役の座に立たされた少年には おそらく そのような想いはなかったであろう ただ一球を打ち 

ただ一球を捕るということ いや 幻想に近かった甲子園の主役の座に 純粋な身ぶるいと高揚を

何倍ものスピードで駆け巡る血液を 感じただけに違いない きみは ただ懸命に 日頃のきみであろうとしただけだろう


だから きみは 四番の責を果たし そして ウイニングボールまで手にした 

熱闘が進行する中で 人間と運命のかかわりに 胸おどらせることもあるのだ



福島商と浜田高の試合は、力量一杯の好ゲームであった。
技術や作戦や、また華やかさなどを語らなくて済む高校野球であったと思う。
この試合で、途中負傷退場した福島商の主砲高野に代わって四番を打った紺野の活躍に拍手を送りたい気持になったのである。

少々守備に不安を感じさせる場面はあったものの、二安打、うち一本は延長十回大量四点のきっかけをつくる投手強襲安打であり、
しかも、最後には、彼にウイニングボールを捕らせる粋なはからいは、女神に感謝の意を表したい。

甲子園が、選ばれた九人、いやベンチに入っている十五人だけではなく、
もっと、チャンスとめぐり会える機会が多かったらと、しみじみ思うのである。

167名無しさん:2018/06/23(土) 11:32:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月10日  一回戦  「 甲子園の一点 」


さあ みんな 甲子園に足跡を残そう 敗者でもいい

たしかに この日この時 みんなで踏みしめたという確信を しっかりと刻もう 


勝利は果てしなく遠い 奇跡を望むすべもない 高らかな校歌の響きも ひるがえる校旗も 

栄光のインタビューも  もはや まぼろしでも  一点を記すことは不可能じゃない 


大差を縮める何ほどにもならないが  勝利より大切な一点もある 

さあ みんな たとえ勝利は遠くても 一点だけは残そう ぼくらにはそれが出来る しなければならない


後輩たちが 未来へつづく後輩たちが 道標に勇気を得るような そんな一点を 甲子園に残そう

ひるむな  臆するな  たかが一点じゃないか 

そして ぼくらにとっては 大きい大きい一点じゃないか  さあ みんな  



勝利は勿論尊い。はれがましくもある。
しかし、高校野球の場合、それだけでなく一点を記すことの重要さということもあると思うのである。

そんなふうに思った場面があった。 報徳学園に9対0と大量リードを奪われた盛岡工が、
後半に入って、スクイズを試みた時である。

野球の常識からいえば、無意味な作戦であるかもしれないし、大量アヘッドに対する一点は大した価値もない。
それより走者をためてということだろうが、
でも、ぼくは、甲子園の一点が少年たちに何をもたらすかを考えた指導者の美技と感じたいのだ。

168名無しさん:2018/06/23(土) 15:56:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月11日  一回戦  「 若き獅子よ 」


去年のきみは稚かった 時には はにかみと見える笑や おびえと思える目の動きも 愛らしくうつった

去年の甲子園は若獅子を誕生させたサバンナだった 王の子の疾駆を 人々は目を細めて眺めた

そして きみは それらの熱い視線を受けながら 大胆だった


今年の春の甲子園は 試練に満ちていた きみの視界にひろがる虹は 無残にくずれ落ち 

日蝕の春に立ちすくんだ サバンナは 飢えの荒野にも見えただろう


そして今日 またまぶしく熱い夏の中で きみのサバンナは 青々と草に満ち 風わたり 

きみは 前にもましてしなやかに 前にもまして冷静に 前にもましてしたたかに その雄姿を走らせた 


そう 少年が青年に変る寸前の 好ましい稚さと 息をのむ成熟を同時に見せて きみは立っていた

今年の夏は 甲子園に風わたる おそらくは きみのために・・・



早熟の才能が大成寸前で脱落して行くさまを見るのは淋しい。
未来の大器の遅過ぎる開花を待ちつづけるより、もっと哀しい。

早過ぎた開花はどこかひ弱で、外気にふれたとたんに散り急ぐという例がいくらでもある。
甲子園というのは、そういう変態期の才能を見つめる楽しみがあり、同時に、おそれのようなものもある。

去年のアイドル荒木大輔が、早熟のひ弱さをいくつかの試練の後にふり払い、
1安打、10三振、完封を見せてくれたのは、他人をもホッとさせるものがあるのである。

169名無しさん:2018/06/24(日) 10:25:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月12日  一回戦  「 ネバーギブアップ 」


ネバーギブアップ あきらめてはいけない  ネバーギブアップ  終らせてはいけない

あの時 ぼくは 七百三十五名の選手を代表して 晴れがましく宣誓した 

たった一人の声が 五万人の球場を揺さぶり そして 静寂に誘いこんで行く一瞬を経験した 


名誉よりも 大事に立った戦慄と なし終えた興奮にふるえたものだ 

今 ぼくは  配色濃い九回表  二死から最後の打者として ボックスに立っている 

大会はぼくから始まっても  試合をぼくで終らせてはいけない ネバーギブアップ ネバーギブアップ


あの時 ぼくの目は 八月の空をつき刺していた ぼくの手はどよめきをつかみ ぼくの胸は五万人を受けとめていた

今 傾きかけた勝運に立ち向い ぼくの手は ぼくの目は そして ぼくの胸は あの時に勝る昂揚を示している

ネバーギブアップ あきらめてはいけない  ネバーギブアップ ぼくは死なない



鶴商学園の三浦主将に注目していた。
彼は今大会の選手宣誓に選ばれたが、これは稀に見る好宣誓だと思っていたからである。
選手宣誓につきまとう悲壮感がなく、力強さと明るさが同居してさわやかであった。

その三浦が、近江との一戦で、一点リードされた九回表、二死からの打者としてボックスに立った時、
巡り合せの面白さとでもいうものを感じたのである。まさにネバーギブアップ、
三浦はスリーベース・ヒットを放ち、最後の打者とはならなかった。

170名無しさん:2018/06/24(日) 11:30:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月13日  二回戦  「 火の玉キッド 」


久々の青空のところどころに  もしかして秋かと思わせるうろこ雲が  しかし 陽ざしは夏そのもので

汗にまみれた人々の顔をうつし出す 甲子園


さえざえとした空の色と 肌を灼く熱の混り合いは そのまま その時の球場の表情で

四万の観衆は胸に熱い息をため きみは あくまで冷静に 最後の一球の前に深く息を吸い

キャッチャーのサインに対し 大きく三度 小さく三度首をふり 七回目にうなずいて投げた


落ちるカーブ いやいや昔流に それはドロップといわせてほしい もっというなら 懸河のドロップ

ノーヒット・ノーラン達成  奪三振毎回の十六  きみは どこまでも少年の顔で

だから 記録に生臭い思惑はからまない


ただ ただ 少年小説を読む如く 火の玉小僧  いや 火の玉キッドがいいなどと 思ったりする 

鉄塔に金粉をまぶしたように  真昼の光がはね  一番短い影法師をグラウンドの土に置いて きみは跳ねた

夏の甲子園  二十回目のノーヒット・ノーラン



記録が生まれる時というのは、妙に淡々としているものらしい。
空気の流れまでが、力みをとり払うために平静をよそおう。

名古屋電気の工藤の快投は、大器とか、逸材とか、目玉といった評価とは違った、
少年名投手の感じがして好ましかった。

夏の大会二十回目、金属バット時代になって初の快挙である。
何かをなしとげたという瞬間を目撃するということは楽しい。

171名無しさん:2018/06/24(日) 12:27:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月14日  二回戦  「 祭が通り過ぎた 」


それは 夏の夜を 火と汗と雄叫びで染める 祭にも似て 原色の興奮と素朴な情熱と

息絶えることのない生命力が 終りのないクライマックスのように 果てしなくつづいた


熊谷商と下関商  両校合せて38安打 12対11のサヨナラ・ゲーム

大人たちよ これを野球のものさしで 計ってみる愚はやめよう しばし野球の眼鏡をはずして

少年たちを見てみよう きっとどこかで 我々が失ってしまった心の祭と 若さに涙するに違いない


そして あらためて 野球が好きになるに違いない 甲子園を めまぐるしく少年が駈けていた

一度も立ちどまることなく 一度もつくろうことなく  最も自然で 最も忘れやすい


そう いい顔ってやつで 本気でおののき 本気でよろこび たっぷりと汗を流して 熊谷商と下関商

両校合せて38安打 12対11のサヨナラ・ゲーム 今は 祭が通り過ぎた 少年たちの祭だった



名試合というのは過去にもある。緊迫の糸がぎりぎりまで張りつめて、クライマックスを迎えるという試合だ。
まだ記憶に新しい箕島ー星稜戦などがそうだ。しかし、今日の熊谷商・下関商はそれとも違う。
ぼくは、乱戦と呼びたくないし、猛試合とでもいおうか。が、これも少し違う。

野球の試合は1点のアヘッドで勝つ。その1点のために12点を要したもの凄さは祭としかいえない。
敗れた下関商にも同等の拍手を。そして、熊谷商には、予選の決勝から何かがついているような気がしてならない。

172名無しさん:2018/06/30(土) 10:00:05
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月15日  二回戦  「 大旗よ さらば 」


大旗よ さらば 今 お前はぼくらの手をはなれ 新しい勝者のもとへ旅立った 追うまい 見送るまい 

栄光は掌の感触だけではない 僕らの青春を染めあげた 歓喜と誇りで残されている 大旗よ さらば

晴れやかにそういおう 堂々の敗者として ぼくらは約束を果した 必ず お前を 全員で返しに来るという約束を 


たった一人の返還は 真夏の日の下で余りに悲しいから そして 未だ昨年のどよめきが残る土を

全員で踏みしめたいから 大旗に見つめられて ぼくらは一年を過した 


秋・冬・春・夏  時は流れても 大旗は色あせない 見つめられて 苦難と思える日々も 耐えて過した

それは 全員で返しに来たかったから そして ふたたびこの胸に抱き 前より勝る感慨で 持ち帰りたかったから

大旗よ さらば 晴れやかにそういおう 堂々の敗者として



昨年の優勝校の横浜が敗れた。二年連続というのはやはり難しい。
まして、すっかりチームカラーも一変した横浜であれば尚のことである。しかし、勝つことを公言し、
その通りに勝者となった昨年よりも、小粒ながら、全員が同じ大きさの粒である今年の方が好ましいと思う人も多いだろう。

多くの試練を強いられた後、さわやかで、きびきびした高校生らしいチームとして登場して来た横浜に賛辞を送りたいと思う。
それにしても、力投、豪打の報徳学園・金村からは、昨年の横浜を思い浮かべるほどである。

173名無しさん:2018/06/30(土) 11:25:03

「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月16日  三回戦  「 大器よ 」


大器に夏は微笑まなかった まぶし過ぎる光が 敗者となった大器の背中を 強烈に照らすだけだった

みちのくに大旗への夢を抱き  胸をはってのりこんだ甲子園  堂々の投球は 一すじの道を拓いたかに見たが

夏は微笑まなかった  夏は微笑まなかった 大器よ泣くな 


マウンドの土を摑んだ君の掌は これから先 さらに大きなものを摑むに違いない 大器よ 泣くな

たとえ勝利と巡り合わなくても きみは見事に存在したのだ


そう 1981年の夏に存在した 道は平坦でないから道であり 門は閉ざされているから門であり

勝利は得にくいから 栄光をともなう きみは 今 それを知り 体の細胞の一つ一つに 神経のひだの一つ一つに

しみこませたことで大きくなった 大器よ また逢おう 


平静なきみの顔がくずれた瞬間  巨くを折り曲げてしまった瞬間  一番遅れて整列に加わった瞬間 

それらが また逢う日には きらめくハイライトになっているだろう  大器よまた逢おう  大器よまた逢おう



試合の明暗の分岐点がどこであったか気にならないまま勝敗が決してしまうこともある。
志度商と秋田経大付の十回裏、レフト線にさよならヒットが出た瞬間、マウンドの松本投手に夏の光がふりそそぎながら、
それはどこか稀薄な暗であったのが、この詩を急いで書かせた因である。
大器というものはどこか悲運に出来ているのであろうか。

174名無しさん:2018/06/30(土) 12:30:19

「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月17日  三回戦  「 きみのために盃を上げよう 」


きみのために盃を上げよう 高々と 晴れやかに 勝利にまさる美酒を満たし きみのために盃を上げよう

新発田農フィフティーン 雪の子よ 土の子よ 緑の子よ 


きみらが運んで来た風は 人々の心に やすらぎと歓喜を与えた よろこぶことを知る少年の美点を

自然に 何より自然に示した 今年の雪は深かった 南に花がある頃 まだ雪に埋もれていた


遅過ぎた自然の微笑みは 炎暑の甲子園で花開いた 雪の子よ 土の子よ 緑の子よ 季節を知る子のやさしさよ 

勝ったぞ! そして また勝ったぞ! 甲子園の土を 晴れがましく三度も踏んだ

この歓びを大きな土産として 胸をはり 帰って行くがいい きみのために盃を上げよう


由縁のない人々も 好ましい少年の原点を見て 唇をゆるめ 手をうち 心地よく酔う盃を上げるだろう 

乾杯! 新発田農フィフティーン 真夏が少しとどまって きみらを見送る



今年の大会でうれしいのは、未熟ながらも、本格を志向する高校が多いことである。
勝つためのさまざまな無理が感じられた大会もあったが、今年は少ない。
ぼくも現実には見たこともないが、中等野球の面影が感じられたり、少年名投手というイメージがあったりで楽しいのだ。

中でも、大会を盛り上げているのは新発田農と志度商の敢闘であろう。
トーナメントの大会では優勝を称えるのは当然であるが、その他に、最もふさわしいチーム、という表彰があっていい気がする。
とすると、三回戦で大敗は喫したものの新発田農がそれにあてはまる。

175名無しさん:2018/06/30(土) 15:05:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月18日  三回戦  「 激 涙 」


昂ぶることをおさえながら 語ることは難しい ましてや ペンをとることは 熱投 猛打 激走

うねりに似た試合展開に 人々は我を忘れた 


もう秋かもしれない いや きっと秋になる きみらが列島にはりついた夏を 使いきってしまったから 

明日からは鰯雲が出るだろう 赤とんぼが舞うだろう


メスの切れ味を思わせる荒木 山刀の猛々しさを感じさせる金村  そして 敏捷な草原の獣たちと

豪胆な山の獣たちとの呼吸合せ 意外に静かな進展を見せて ドラマは クライマックスに雪崩れこむ


太陽は真上からわずかに傾き  しかし それは頭上といっていい

巨象を翻弄するピューマのように 技が力を制する瞬間を見た  そして それから わずか後

力の圧倒を息を呑んで見つめた 報徳学園・早稲田実業  きみらのどちらをも 去らせたくない


敗者を見送る運命の甲子園は 今たしかにそう思っているだろう ドラマは終った

熱く長い夏の午後のドラマは終った 激涙が流れた 激々と 涙々と



得点経過が劇的な配分で一進一退の形をとっていても好試合とは呼べない。
両者がそれぞれの形で力量を発揮して、初めて名試合が成立する。
その上に、まさかと思える展開が加われば、もう何もいうことはないだろう。

報徳学園と早稲田実業の一戦は、実力的に見て決勝戦と思える顔合せであり、
誰もがある種の昂揚のもとに注目したわけだが、それを何一つとして裏切らなかった。

勝った金村の晴れやかな笑顔。敗れた荒木の涙に光った顔。
どちらも青春のいい顔だとしみじみ思うのである。

176名無しさん:2018/07/01(日) 10:11:17
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月19日  準々決勝  「 先輩の夢 」


きみたちの先輩が 甲子園にやって来たのは この日本が まだ歴史の荒波にもまれていた頃

34年も前になる きみたちにとって それは遠い歴史の一頁で もちろん知るすべもないが

何か その時の情熱が 時を超えてよみがえった気がする 


実に 実に 甲子園に似つかわしい敢闘であり 純白のユニホームが 夏の日に見事に映えた

一人一人が能力の限りをつくす 誰をかばうでも 誰を頼るでもなく 一人一人が同等の大きさに育った

見事な環が ここまで来た因であろう


黄金色に染った瀬戸の海を 銀鱗を光らせて躍る魚のように ピチピチと キラキラと そして 群れの美しさを見せて 

きみたちの印象は目に鮮やかだ 34年前のきみたちの先輩は もうきみたちの父親の歳を超えているが

今 真白なスタンドに はるかで しかし 明確な 夢を描いたことだろう

1981年8月19日 志度商業 準々決勝で甲子園を去る



準々決勝あたりのなると、意外に緊迫が薄れることが多い。無欲の限界というのだろうか、
力つきて大差になることがよくある。しかし、志度商業は劣勢にありながらも、一つ一つのプレーがきわ立ち、
その印象が変ることがなかった。

白井投手の力投はもとより、死球退場の竹内の代役一年生の野崎の打席での粘り、
セカンド斎藤の最後まであきらめない姿勢の超美技、記録帳には只の三振であったりするのだろうが、
このチームを象徴するプレーで埋められていた。

177名無しさん:2018/07/01(日) 11:13:14
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月20日  準決勝  「 怪 童 」


その昔 いやいや ほんの少し前まで 怪童という言葉があった それは 技術の秀れた天才ではなく

どこか未完成で どこか粗野で ユーモラスな人間性を感じさせる少年に 与えられる最大の勲章だった


怪童は たとえば入道雲で 青空に湧き立つ雄々しさと 同時に微笑を誘うおおらかさと 雷鳴を秘めた力を持っている

だから 真夏に怪童はよく似合ったものだ 吹きぬける涼風もいいが 稲妻をともなう夕立もいい


怪童はどこへ行った と時代は嘆いていた あの大きな少年はどうしたのか と時代は恋しがる

甲子園の楽しみの一つは 入道雲のような怪童に 出会うことでもある しかし 怪童のいない夏がつづき

もはや死語になりそうだった 去りかけた夏がふり返り 正午には34度になった


準決勝戦 久々の怪童が 黒々とした顔をほころばせて 二塁の塁上で手を上げた 打球はセンターの頭上をこえた

大きな一発だった そして 怪童は その場で屈託なくしゃべりそうだった 



報徳学園の金村の活躍がめざましい。投げることももちろん、打つ時の方が何倍も魅力的である。
打席に立つことに無上のよろこびを感じているさまが、ありありとわかる。
筋肉の一つ一つが欣喜雀躍しているようだ。こんなに嬉しそうに打つ選手はめったにいるものではない。

鍛えられた好選手の評価も惜しむものではないが、このように、エネルギーがあふれ出ているという少年を見ることも好ましい。
少年とは元来、制御のきかないほどにエネルギッシュなもののはずだから。

178名無しさん:2018/07/01(日) 12:12:16
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月21日  決勝  「 この輝やける青春の日々を 」


青春の日を 輝やけるという言葉で飾れる 少年たちよ

容赦ない夏の光を 鮮明な記憶にとどめることが出来る少年たちよ 

そして 感涙にむせぶという 今では選ばれた人々だけに残された 昂りを味わった少年たちよ 


きみたちの夏はただの季節ではなく きみたちすべてに与えられた 大いなるメダルなのだ

勝者敗者にかかわりなく 735人の少年のすべてが まぶしく 

そして 重いメダルを 心にかけて 甲子園から去って行ったのだ 


人々の祭りは 青空の下の光の粒のような 透明なきらめきを見せて あるいは燃え 

あるいは叫び あるいは涙を流して 長くてみじかいにぎわいが終った 


人々が見たかったのは 人間という生物の 一番精気に満ちた 限りある一瞬ではなかったか 

それが何よりも美しいと知る人の 祈りの歌ではなかったか


1981年8月21日 12時29分 プレーボール 報徳学園 京都商業 14時7分 ゲームセット

2対0で報徳学園初優勝 この日 気温32度  雨は降らなかった



毎年のことであるが、結末がついてしまうと一種の虚脱状態になる。
はりつめていた糸が幻影であったかのように体の中から消えてしまっているのだ。 

突然に夏を暑く感じ、そのくせ気持ちの上では既に秋を呼びこんでいる。
おそらく、このような状態になるのは、ぼくだけではあるまい。

とにかく列島をまきこんだ壮大な夏の祭典は終わったのだ。
また、この壮大さに対して、あれこれの話が出るかもしれないが、
人間には、大いなる感傷も必要なのだということをいったおきたいのだ。



1981年の出来事・・・英皇太子結婚でダイアナ妃誕生、 沖縄でヤンバルクイナ発見

179名無しさん:2018/07/01(日) 13:05:13
守屋巧輝  ( 倉敷工 → ホンダ鈴鹿 → 2014年 阪神 ドラフト4位 ) 


「 十井麻由実のSMILE TIGERS 」


野球選手にとって数センチの変化って、とても大きい。
今季、大きく腕を下げようとしている4年目の守屋功輝投手(24歳)。
「 力んだら上がっちゃう 」とはいうものの、だんだんと自分の形になってきているようだ。

昨季は夏前にファームで調子が上がってきたが、ちょうど落ち始めた頃に1軍に昇格した。 巡ってきた登板機会は広島戦だった。
「 鈴木誠也、エルドレッド…日本を代表する強打者と対戦して、『 これ、抑えられたら自信になる。いいチャンスだ 』 って思ったけど、

モノにできなくて…。いろいろ考えているうちにシーズンも終わってしまった。すごくもったいない、悔しいシーズンだった 」
昨年6月25日の話だ。その後は1軍昇格のチャンスは得られなかった。

そんなとき、ヒントをくれたのが矢野2軍監督だった。(当時は作戦兼バッテリーコーチ)
実は1軍で打たれたときもマツダスタジアムのベンチで「 もっと腕下げたらどうや 」と言ってくれた。

そのときは「 今シーズンはこのフォームで頑張りたい 」と答えたものの、
「 結局、その後はパッとしなかった 」と悶々としているところに、秋季キャンプでまた下げることを提案された

さらに矢野監督からは動作解析の先生を紹介され、そこに何度も通って判明したのが、
「 下半身が横の使い方だから、上と合っていなかった 」という自身の体の特性だった。
矢野監督の見立てどおりだったのだ。 そこで腕をサイドに下げようと一大決心を固めた。


すると昨年12月、台湾でのウインターリーグに欠員が出て参加できることになり 「 実戦で試せる 」 と喜んで行った。
台湾では終盤には完全にサイドで投げていたが、やはりこれまでと違う筋肉を使うのか、肘が張りだしたという。
そこで腕の位置は考えず、まずは下半身に意識をおき、下半身主導のフォームで腕は自然についてくるように任せることにした。


その後、共通の知り合いの縁から1月、巨人の田原投手の自主トレに参加させてもらった。
サイドハンドの使い手である田原投手にはキャッチボールの相手をしてもらい、さまざまなアドバイスを授かった。
「 上半身に力が入りすぎって言われた。 やはり下半身主導が大事だなって、再確認した 」

そして、変化球も伝授された。 「 カーブとシンカーです。 田原さんのカーブはすごいブレーキがかかってなかなか来ないし、
シンカーは伸びながら落ちる。 握りや意識するところを教わった 」。
変化球でキャッチボールをしながら 「 今のいいよ 」「 ちょっと手首が寝てるよ 」 など、1球1球丁寧に見てくれたという。

さらに大きかったのは、帯同していた骨盤の専門家であるコーチに骨盤の使い方を教わったことだ。
「 それでだいぶよくなった。 投げ終わってビデオを見るとき、自分でチェックポントがわかりやすくなった。
骨盤のハマり方で良し悪しが変わる。 ちゃんとハマればゾーンにいくし、逆に悪くなっても修正の仕方がわかるようになった 」。


その試行錯誤の答えが11日の練習試合で出せた。 四国銀行戦で3回をパーフェクト。 しかも自分の思ったように体が使えた。
受けた小宮山捕手も 「 よかったよ。やろうとしていることを継続すべき 」 と言ってくれた。

実はそれまでブルペンではなかなか手応えが得られず 「 不安しかなかった 」ことを、
小宮山捕手も「 大丈夫か 」と心配してくれていたのだ。 それだけにこの好投を自分のことのように喜んでくれた。

さらに藤井バッテリーコーチも 「 上半身の力が抜けてて、よかったよ 」と褒めてくれた。
「 今それをテーマにやってるんです 」と胸を張って答えたが、「 今までいかに力んでたかってことですよね 」と思わず笑みがこぼれる。

田原投手直伝のカーブも1球だけ投げた。この時期なのでほとんどまっすぐだったが、スライダー4球とシンカーも1球試すことができた。
「 感覚がつかめていけば、勝負できると思う 」。 この日得られたさまざまな感覚は、今季への自信となった。

この自信を携え、今後もアピールを続ける。 矢野監督はじめ田原投手、関わってくれたすべての人に恩返しを誓う。
それはすなわち1軍で活躍するということにほかならない。



1軍では結果が出ないね。 もし、自由契約になったら、水本氏のいる広島カープへ行って再挑戦してみては?
カープの強力打線をバックにすれば、変身しそうな気もする。 一念発起するなら若いうち。
倉工に高価なバッティングマシーンを寄贈してくれた。 有り難いことです。

180名無しさん:2018/07/01(日) 15:15:30
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月7日  一回戦  「 佐世保工の初勝利 」


きみたちの甲子園初勝利は もしかして 長崎の人々に 希望という言葉を 思い出させたかもしれない

暗雲のきれ間に  わずかにのぞいた青空と そして  微笑むことをよみがえらせる太陽と

唇に歌を持つ幸福とを 与えたかもしれない  佐世保工ナイン いや フィフティーン 

きみたちの甲子園初勝利は ゲームの一勝というより 心をあたためる歌だ


自然は時に悪魔と化す 恵みの天使と同じ手で 人を踏みにじる 悪魔と化した時の自然は 原始と変らない

7月23日の集中豪雨は きみたちの故郷を引き裂いた そして その嵐が去った後 遅ればせながら夏がやって来た


きみたちは そのいたましい夏の序曲を背にして 甲子園へ向った筈だ 一人一人の思いの中に 何があったか知らない

しかし 今までのいつよりも 今年の一勝が価値あることは 感じていたに違いない

佐世保工高 きみたちの甲子園初勝利は 南々西の風2、5メートル 晴れ 気温32度1分の夏に さわやかに微笑んだ



もしかして、この詩のような思いで高校野球を見つめることは間違いなのかもしれない。
高校野球は高校野球として、甲子園の中の二時間のドラマとしてだけ興奮すべきなのかもしれない。

しかし、少年といえども社会に生きる人間である。 それぞれに劇的背景があり、それが二時間の中に集約され、
時に技術や人材を超えることだってあるだろう。  とにかく、遅い遅い夏がやって来た。

今年は特に夏への助走がなかった。 ジリジリとした日射しと、噴き出す汗を感じながら、甲子園を待つ気分でなかった。
今日からが夏で、多分、決勝戦の翌日には秋になるであろう。
短い夏であろうが、甲子園の上に、とびきり極上の夏を提供してくれることを、悪戯が過ぎた自然に頼みたい。


( 長崎集中豪雨は299人の命を奪った )




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