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倉工ファン

1名無しさん:2017/08/17(木) 17:05:06
春、選抜でベスト4まで行ったからには、夏は優勝しかない。
倉敷市民の熱い期待を背に、大優勝旗に向かって走る倉工ナイン。
当然、招待試合などに招かれるケースも増える。

小山にとっては、これが不運。
痛めた左腕を休める間もなく状態を悪化させて行く。
女房役で主将の藤川は、「高校生離れした球威を誇った、一年生時の小山を思うと、どんどん状態が悪くなっていた。」

こうした中、九州招待試合があった。( 中津工 津久見 ) 「今日こそ、小山を休ませよう。」と、小沢監督。
小山を温存したのだった。ナインも投げられない小山を励ました。
ところが、スタンドからヤジが飛んで来た。「こらっ!小山を投げさせろ。
小山を投げささんか。ワシは小山を見に来ているんじゃ。」と。
このヤジに対して、小沢監督は知らん顔。

しかし、倉工ナインは燃えた。
主砲の、武のバットが火を噴いたのだ。
中津工のエース大島 康徳投手 (中日ドラゴンズ 入団) からセンターバックスクリーンに、豪快なアーチを放つ。
『武 渉選手のユニホームが、甲子園博物館に展示されています。』
津久見には、通算打率4割2分。本塁打17本をマークした、太田 卓司選手(西鉄ライオンズ 入団)がいた。
2年生の時、春の選抜 (倉工と対戦) に出場。
エース吉良 修一投手の好投もあり決勝に進出。
延長12回の熱戦の末、弘田 澄男選手の 高知高 を、2対1で降し初優勝。
この、太田 卓司選手も、倉工期待の一年生投手から、センターバックスクリーンに叩きこんだのだった。

倉敷工 武  津久見 太田 。
両主砲の一発に観客は酔い痺れた事だろう。
工業に観光に発展して行く倉敷市。水島コンビナートでは、連日フル操業が続いていた。
こうした中、倉工は、街のシンボルとして脚光を浴びて行くのだった。
当然、倉工ファンも多くなって行く。

小山は、「とにかく、倉工のファンは、特別なファンなんです。」と言う。

30名無しさん:2017/08/20(日) 08:25:33
室山皓之助

倉敷工業では、エース渡辺博文を擁し、1957年の春の甲子園に出場。
準決勝に進むが高知商の小松敏宏に抑えられ敗退。

卒業後は法政大学に進学。東京六大学リーグでは在学中に4度優勝。
1960年の春季リーグで首位打者を獲得した。
同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で同志社大を破り優勝。
リーグ通算68試合出場、232打数69安打、打率.297、2本塁打、26打点。ベストナイン3回。

1962年に阪神タイガースに入団。同年は開幕直後から右翼手、
七番打者として起用され33試合に先発出場するが、シーズン終了間近にアキレス腱を切断してしまう。

翌1963年は自己最多の81試合に出場し、三番打者としても先発を経験。しかし1964年は8試合の出場に終わる。
1965年には再びアキレス腱を切断し、1966年オフに引退し、後にフロント入りした。

31名無しさん:2017/08/20(日) 09:17:30
兼光保明

倉敷工業高校から1975年プロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名され入団。
6年目の1981年に1軍初出場し、この年は18試合に出場した。1983年に引退した。

引退後はフードビジネスの会社に就職し、その後独立。
2003年に大阪市平野区でパティスリー「Kenally」を開業した。


74年、75年と春の選抜に出場。
74年はベスト8。蔦監督の池田に延長12回、2-1で惜敗。

75年は伝説の開幕戦、中京と16-15。
二回戦では原辰徳の東海大相模に1-0で惜敗。

74年は居郷君が投げ兼光君はレフトだった。
兼光君に早く代えていたら勝てていたね。
この頃の兼光君の剛速球は外野には飛ばなかった。

肩をこわす前のこの春、夏と兼光君中心で戦っていたら優勝出来たのでは・・・。
小沢監督は大切に育てたかったのか?・・・。

74年、75年と夏は共に代表決定戦で惜敗した。
75年は小沢監督最後の甲子園采配。

この74年、75年の大型チームで全国優勝して欲しかったね。
その力は十分に有った。監督も自信が有った筈だ。

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33名無しさん:2017/08/20(日) 10:15:12
兼光保明

高校時代から野球部で活躍し、卒業後はドラフト指名を受けプロへ。
若い頃から自分の力で商売をして生きていくことに興味があり、引退後はすぐにその準備に取り掛かった。

「今までの人生に頼っていては新しい道は開けない。
そう考え、一から社会人としての経験を積むべくフードビジネスの会社に入社しました。」

10年間みっちり、会社組織についてのノウハウや店舗運営のスキルを習得。
退職後は同僚と共にケーキの卸・販売を手がける会社を運営。

機械化し、冷凍技術も発達した中でのケーキ作り。効率の良さは利益に直結していたが、
兼光さんの心には元来持っていた職人気質が顔を出し始めた。

「自分で考えた手作りの商品を売りたい。アナログでやりたい…そんな気持ちが加速してきたんです。」
3年後に独立。自ら企画したパティスリーを東大阪で立ち上げる。しかし今度は新たな思いが生まれてきた。

「自分は売上を上げるために徹底的に勉強してきた。
売れている店を見て多くのことを学んできた。が、果たしてそれはオリジナルなのだろうか? 」

そこそこ売れているのだからいいじゃないか…そんな自分の中の声を振り切り、
兼光さんはまた一からのスタートを決意した。「美味しいものを作るには手間をかけ、
本質から変えなければいけない。10年後まで設計図が描ける、本当に自分のやりたい店をやろう。」

商品以外でもお店の魅力を高めるため、テラス席を設けた外観を花で飾った。
自動扉ではなく、お客様が自ら扉を開けることで期待感が高まる。

そして目に飛び込んでくるショーケースには、綺麗なケーキよりも美味しさの想像を掻き立てるようなケーキを。
こうして2003年9月、「ケナリィー」が誕生した。


Kenally(ケナリィー)
電話:06-6701-0018
所在地:大阪市平野区平野南4-1-12
営業時間:10:00〜20:00(カフェのL.O.19:30)
定休日:無休
交通:地下鉄谷町線「平野駅」徒歩10分

34名無しさん:2017/08/20(日) 10:30:22
中藤義雄

岡山県立倉敷工業高等学校からプリンスホテルへ入社し、
1986年の都市対抗野球に出場。
同年、ドラフト4位で近鉄バファローズに入団。

内野ならどこでも守れる器用さと好打で即戦力と期待された。
1年目は怪我で出遅れたが、シーズン後半に1軍登録されると、そこそこの活躍を見せた。

2年目の1988年にはジュニアオールスターに選出されるなど、
2軍では活躍したが1軍に昇格することはなかった。

引退から3年後に少年野球塾を経営し、現在も野球塾を続け野球技術指導員の資格を取り、
地元で野球の指導にも力を入れている。

現在は高校野球監督を目指して教員免許取得のため通信制の大学に通っている。
と同時に通信制高校、 岡山高等学院にて講師として教育現場で働いている。

35名無しさん:2017/08/21(月) 09:51:10
小山稔

夢とロマンを持った少年。全力をかける大きな夢。
その夢とは、プロ野球選手になる事。そして、苦労を掛けた母への、感謝の親孝行の事である。
その少年とは、小山 稔。後に「黄金の左腕 小山 稔」と、異名をとる倉工のエース小山である。

(吉備中 出身) 昭和41年の春、小山は名門倉敷工業の門をくぐった。
その頃、倉敷市は工業都市として、また、観光都市として、急速な発展の最中でもあった。

実は、小山について、倉敷工業と岡山東商とが、激しい争奪戦を展開していたのである。
当時は、倉工と岡山東商とが、県高校野球の盟主として君臨。
その戦いは竜虎の戦いと言われたものでもあったのだ。

こうした中、小山を射止めたのは、「小沢監督の勧誘の言葉とお爺さんの、倉工への勧めがあったから。」と、小山は言う。

小沢監督から言われた言葉。
「私がここに来たのは、君が素晴らしい投手である事。そして、自分の力でエースを勝ち取って欲しい。
そのためには努力が必要だ。努力をする事で将来が見えてくるのだ。その努力を倉工でしてみないか。
私の前で。将来の事は、私にはわからん。そんな無責任な事は私には、言えない。
ただ言えるのは、抜群の野球センスを持っている事だ。」

それを聞いた、お爺さんは小沢監督に感銘を受け、倉工行きを勧めたのである。
一方、小山は「その頃、倉工は少し低迷をしていて。私が、倉工に行き甲子園に行ったり
活躍できたりしたら、関係者から喜んでもらえるのではないかと、思いました。」と言う。

こうして、「倉工 小山 稔」が誕生したのである。
小山が、一番最初に倉工を訪問したのは、中学生が高校への練習許可になった、
翌日の3月27日の事だった。

早速、練習着に着替えた小山。小沢監督から、「シートバッテイングに投げろ」と言われ、
しかも「小山、カーブは要らない。ストレートだけでいいから。」と。
小山は、初めて倉工のマウンドに上がった。

36名無しさん:2017/08/21(月) 10:01:24
昭和40年岡山東商 選抜優勝。

先を越された、小沢監督。岡山東商 選抜優勝のすぐ後の春の県大会では
「ここで、岡山東商をたたかいと、倉工の存在価値はない。今日が、我々の甲子園だ。」

と、悲壮感にも似た気持ちで臨み、準々決勝で 5 対 3でライバルを倒す。
この試合で2年生が大活躍。選抜の優勝投手 平松投手を攻略したのだ。
その2年生、いや新3年生の、強打者がずらりと、小山の前に立った。

シートバッティングと言えども真剣勝負。
小山にも、闘争心に火がついた。右足を上げ、腕を振った。すると、新3年生全員が驚いた。

「新3年生、全員に投げたんですけど、かすりもしませんでした。」と、小山。
ファールチップがやっとだったのである。新3年生が言った。
「おまえ、すげえなー。」 (選抜優勝投手の) 「平松より上じゃ。」

小山は、入学式の翌日に背番号14を、小沢監督からもらったのだ。
新1年生で早くもベンチ入りを果たしたのである。

41年春季県大会優勝。中国大会でも小山は、リリーフとして活躍。

工業に、商業に発展を重ねる倉敷市。
倉敷の名前を全国に轟かすための、一番の近道は
やはり、倉工が甲子園で活躍する事だろう。
その期待を全面的に受け、努力を積み重ねる小山だった。

左腕の速球派投手として、一年生ながらエースに成長して行く小山。

こうして、迎えた41年秋。県大会でこそ、決勝で津山商に負け準優勝。つづく、秋の中国大会。
当然、来年の選抜甲子園の重要参考資料である。

その秋の中国大会では、優勝候補と言われた、邇摩 (島根) 豊浦 (山口) と連続完封して決勝へ進出。
決勝では、尾道商 (広島)に対し、1 対 0 で9回までリード。3試合全て完封かと思われた。

ところが、9回ランナーをおいて倉工にエラーが連続して出て、 1 対 6 の逆転負け。
しかし、県大会準優勝、中国大会準優勝。2試合連続完封。
「来年の、選抜甲子園は、間違いない。」と、言われて来た。

37名無しさん:2017/08/21(月) 10:11:15
昭和41年 秋の県大会は、津山商に敗れて準優勝。
しかし、この決勝戦は 津山商にリードを許してはいたが、
日没のため試合を打ち切られ、準優勝となったものである。

(倉敷工 2 対 3 津山商 8回日没コールド 倉敷市営球場 )

つづく、秋の中国大会では、2試合連続完封。
決勝 尾道商 との対戦も9回まで 1 対 0のリードしていて、
ランナーを置いた所で、エラーが連続で出て、1 対 6 の逆転負け。
しかし、中国大会では津山商より、戦績は上だった。

県大会 中国大会共に準優勝した事で来年の選抜甲子園出場は、間違いないと言われた。
ナインの気持ちは、早くも選抜甲子園に向いていたのである。

選抜出場校の発表の日が来た。「多くの報道陣がグランドにきていました。40人ぐらいはいたかな。」と小山。
冬の日の夕暮れは早い。
気の早い報道陣から催促されてナインは小沢監督を胴上げして、感激の知らせを待った。

ところが、春の便りは 津山商に。
それを聞いた報道陣は、一斉に津山商へ向かったのだった。
「あっという間にいなくなりました。」と小山は言う。

小沢監督は、失意のナインに語り掛けた。
「決まった事は仕方ない。今さらどうにもならない。こうなったら、
グランドをいくら走ってもいいから、思いっきり涙を流せ。」と。

ナインは横4列に並んで、涙が枯れるまで何周も何周もグランドを走り続けた。
「あの時、泣いてない選手は誰もいませんでした。」と小山は言う。

小沢監督も、目頭を押さえてナインを見つめていた。失意のドン底の倉工ナイン。
しかし、この涙のランニングが結束を生み高める。「夏は、必ず甲子園に行くんだ。」と。

そして、ナインの絆も深いものに。
この日を境に、練習メニューは夏を見据えた形に変わったのである。
小山も、夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んだ。

昭和42年3月20日 朝6時すぎに目覚めた小山は、いつも通り朝刊を手にもう一度布団にもぐり込み新聞を広げた。

38名無しさん:2017/08/21(月) 10:20:08
昭和42年3月20日、朝6時すぎに目覚めた小山は、
いつも通り朝刊を手にもう一度布団にもぎり込み新聞を広げた。 

「津山商出場辞退」 衝撃的な見出しが寝ぼけまなこに飛び込んで来た。
目をこすりながら記事を読み進めると、「補欠校の倉敷工が繰り上げ出場か」と続く。

「本当に甲子園に」 喜びと驚きの中で失意にくれた2月始めの、選抜出場校発表の日が思いだされた。
それが、一転して甲子園出場が現実に。「夢のような気持だった。」と小山は言う。

登校した小山を待っていたのは、小沢監督からの呼び出しだった。
「小山、すまんが今日から投げ込みをしてくれ。」 
ここで、小沢監督の「すまんが」の意味は何であろうか。大会まで一週間を切っての話。

選抜出場校の発表以降、夏に向けて走り込み中心の練習に取り込んできていた。
ところが、急な投げ込み。それが原因で小山の左腕は、肘と肩に後々まで癒えない故障を抱えることになる。

4月1日、初戦の相手は、津久見(大分)。実践練習が不足していた選手たちだったが、小山の力投に打線も答え、
この選抜大会で初優勝を飾る強豪 津久見 相手に 2 対 3 と食い下がった。

「倉敷工は強い。夏が楽しみ」期待の声が高まって行くのだった。
倉敷の街は熱い期待に包まれる。

しかし、町の声援に、小山の肩が悲鳴を上げる。
昭和42年 夏。倉工ナインが地力でつかんだ甲子園。

倉敷工 4 - 0 秋田本庄   小山1勝め

小山は、2年生から全国の注目をあびた。
そして、「黄金の左腕 小山 稔」の異名までついたのだった。
甲子園常連校になった、倉敷工業。ここで、新しい伝統が生まれようとしていた。

39名無しさん:2017/08/21(月) 10:33:41
昭和42年選抜に、繰り上げ出場となった頃である。

音楽部の、木村義夫 と 木元大一はある同じ悩みを抱えていた。
それは、楽器が古すぎる事。

「中には、壊れているのもありました。」と木村。
そこで、木村と木元は校長室に向かった。

「せっかく甲子園に行くのに、こんな楽器では恥をかきます。
校長先生何とかして下さい。」と

小山俊雄校長に直訴したのだった。すると、小山校長は「よし、わかった。」と言って、
ポンと25万円を出して二人に渡した。25万円の大金をである。

当時の25万円と言うと、現在ではおそらく、150万円近くになるのではなかろうか。
早速、木村と木元の二人は、四国、高松市の日本楽器に買いに走った。
トランペット、サックス、トロンボーン等一式を買って帰ったのである。

そして、木村は思った。「ここまでしてくれたのだから、何か恩返しをしなければ。」と。

木村と木元は、「岡山県代表なのだから、岡山に関係ある曲で、しかも、倉工をPRできる曲を。」
と言う事で。こうして、生まれたのが 桃太郎 での応援だったのである。

早速、木元が桃太郎の曲をアレンジして、楽譜を部員に配った。
そして、昭和42年選抜で初披露となったのである。

しかも、練習も応援団との打ち合わせも十分に出来ずに、ほぼぶっつけ本番。
アルプス席ですぐに演奏した。
最初、倉工生は桃太郎の唄を歌っていたが、いつの間にか歓声が入るようになった。

「桃太郎さん 桃太郎さん (オー) お腰に付けた吉備団子 (オー) 一つ私に (く ら こ う)

それ以後桃太郎の応援は倉工名物となって、常に相手校を圧倒。
ある年の甲子園出場が決まった時、テレビ取材で応援団員が言った。

「甲子園では、ランナーが一人でも出たら、すぐに桃太郎をやります。」と。
しかし、時代の流れと共に現在では使われていないのが残念。

桃太郎の応援を望む、倉工オールドファンは多い。

木元大一は、現在海外でジャズを教えて活躍中。
25歳で、イギリスに渡ってトニーエバンス楽団に入団。
No.1のトランぺッターに。

日本、イギリス、ドイツ、イタリア、スイス と、トランペット一本で生きて来た男。
管楽器なら、何でもござれ の、まれな才能も持ち合わせている。

現在は、スイスに定住。5か国が話せると言う。

40名無しさん:2017/08/21(月) 10:46:46
昭和42年、秋の新チームが結成された。

俊足巧打の土倉を切り込み隊長とし、バントの名手山口、長打の武、強肩の藤川。
それらの選手は、2年生からの出場メンバーで、持ち味に磨きをかけチーム力は着々と向上すると共に、
全国トップクラスに成長。
そこに、小山の力投が加わるのだ。

さらには、野球を愛する心は誰にも負けず、ただひたすらに白球を追いかける角野。
「角野の学力は抜群でした。」と小山。

「全選手が、技術力を高めるためにそれぞれに各方面で、努力をしていたと思います。
これは、絶対に断言できます。」と角野。

さらに「私は、野球が大好きだったんです。
キャッチボールも野球、ノックを受けても野球、
グランド整備も野球練習その物が野球だったんです。」と、
角野は熱い思いを語ってくれた。

名将 小沢監督がそんな角野を見逃すはずがない。
名将は、角野を3塁コーチャーに抜擢した。役者は揃った。
あとは大舞台に立つだけ。

勝負の時が来た。秋の中国大会。

倉工は順調に勝ち進み決勝に進出。
決勝の相手は、小山の好敵手、宇根投手の広陵。
3回まで、0 対 0 だったが、降雨のため中止。(広島市民球場)

翌日、会場を替えて再開され、当然投手戦になったが、軍配は広陵に上がった。

(倉敷工 0 - 1 広陵  呉二河球場)

秋の中国大会で準優勝した事で、来春の選抜出場は当確。
しかし、浮かれた選手は誰一人もいなかった。

昭和42年、倉敷 玉島 児島が合併。新しい倉敷市が生まれた。
倉敷は、工業都市として、観光都市として発展して行き、全国に名を知られる事になる。

そこに、選抜出場の期待がかかる倉敷工業。
倉敷市民は、熱い期待に包まれて行く。

ただ、一つの心配な事。
それは、母に誓ったプロ野球選手。
少年の日の夢。小山の肩だけが心配だった。

41名無しさん:2017/08/21(月) 10:55:25
昭和43年 春の選抜出場が決定した。地力でつかんだ3季連続の甲子園。
歓喜に湧く倉工ナイン。

工業都市として、観光都市として発展して行く倉敷市。
その中、倉工の選抜出場は何より。

まさに、倉敷市発展の象徴的な存在であったに違いない。

選抜が近くなったある日、小沢監督から新しいユニホームが配られた。
その新しいユニホームは従来の物とは違っていた。
従来は、アイボリーに濃紺の文字を基調としていて、帽子、アンダーシャツ、そしてストッキングも濃紺だった。
(現在甲子園博物館に所蔵されている。)

しかし、今回のは純白を基調とした早稲田カラー。
帽子、アンダーシャツ、そしてストッキングは純白にエンジ色のライン2本。
胸には、従来と同じ「KURASHIKI」。

そして、小山には倉工のエースナンバー1が贈られた。
しかし、この新しいユニホームを配った時、小沢監督から替えた理由はげられなかった。
何日かして、次のような説明があったと小山は言う。

「濃紺を基調としたユニホームは、身体の大きい選手が揃った時には似合う。
しかし、君らのような身体の小さい選手ばかりでは、似合わない。
そこで、高校生らしく爽やかな色で早稲田カラーとした。
ここで、替えないと替えられる時はなかった。」と。

この純白のユニホームが、倉工の伝統の1ページを飾る事になる。選抜は2年連続6回目。
春夏合わせて11回目の甲子園出場。
白壁の町、倉敷から大応援団がアルプス席を埋め尽くすのだ。

そして、木村 義夫 と 木元 大一 が作った、名物応援として、
発展して行く ( 桃太郎 )を乗せた何十台もの応援バスが、聖地へと向かった。

42名無しさん:2017/08/21(月) 11:01:36
第40回選抜高等学校野球大会。

昭和43年3月28日から4月6日までの10日間開催。
中国地区からは、倉敷工 尾道商 広陵 防府商が出場した。

昨年の選抜において倉工が、繰り上げ出場。
夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んでいただけに、急な投げ込みがたたって、
小山の左腕は肘と肩に後々までいえない故障を抱えていた。

昔から甲子園には、魔物が潜んでいると言われているが、
その魔物は、「倉敷工業を甲子園に出場させてやるが、小山の肩をくれ。」と、言っているのだろうか。
こうした中、小山は歯を食いしばって投げつづける。

2回戦     倉敷工 3 - 0 清水市商   小山2勝め

準々決勝   倉敷工 4 - 0 銚子商    小山3勝め

今大会、優勝候補筆頭の銚子商を下す。

「肩が痛いのは、当然です。でも痛いながらのピッチングができました。」と小山。

「黄金の左腕 小山 稔」 2試合連続完封を達成する。

準決勝    倉敷工 1 - 3 尾道商

準決勝 ベスト4にて敗退。宿舎に帰った倉工ナイン。
小山は、小沢監督に呼ばれた。

「気力が足りない。今日の、ピッチングは何んだ。お前みたいな者は出て行け。」
すると、小山は下を向いたまま、宿舎を出た。出て見ると外は雨が降っていた。
小山は、宿舎の外で雨に打たれながら下を向いて立っていたのである。
すると、小山のもとに一人のOBが優しく語りかけて来た。

「小山、中へ入れ。風邪をひくぞ。監督さんは ( 小山には夏があるんだ。夏に向けて頑張れ )と言ってるんだよ。
監督さんの愛のムチなんだよ。」と。すると、小山は自分の手を握りしめた。前を向いた。
そして、唇をかみ再び闘志がみなぎって来たのだった。

43名無しさん:2017/08/21(月) 11:25:34
栄冠は君に輝く。 全国高校野球選手権大会の唄。

「 雲は湧き 光あふれて・・・・ 」
1948年に発表された。1948年の学制の改定に伴い、
さらにこの時の大会が第1回大会から数えて30回めの節目の大会であった事から、
主催者の朝日新聞社が、新しい大会歌として、全国から詩の応募を募った。

応募総数5000以上の中から最優秀に選ばれたのが、
元高校球児の 加賀大介氏 が作詞したこの【 栄冠は君に輝く 】だった。

第50回全国高校野球選手権大会。

1968年8月9日から8月22日まで開催。
球史半世紀を祝う記念大会として開催された。
開会式に、皇太子夫妻を招いた。

45都道府県から各1校。北海道は南北から各1校。
さらに、米国の統治下にあった沖縄から、1校を加え、48校が甲子園に集った。

昭和43年8月9日。倉工ナインは、開会式直後のオープニングゲームに登場。
文部大臣の始球式の横に立つエース小山。そして、エース小山が投球練習を開始しようとした時、
マウンドの小山の元から、掛け声とともに、各ポジションに走るナイン。

1回戦  倉敷工  5 - 1  享栄   小山4勝め

倉工は9安打の中、二塁打2本、三塁打1本に盗塁4個を決めて、快勝。

2回戦  倉敷工  8 - 0  千葉商  小山5勝め

倉工は、初回4点、五回に3点。打っては16安打した。しかし、千葉商の左腕今井投手に、9三振を喫する

倉敷の商店街では、不思議な現象が起きた。
白壁の町は、倉工の試合時 商店街から、人影が消えたのだ。
町中は、テレビにクギづけ。勝利に湧く倉敷の町。

そして、最後の夏。肩の痛みこらえ投げ続ける、エース小山。
倉工ナインは、大優勝旗に向けて突き進む。


続きは7へ・・・後先になり失礼しました。

44名無しさん:2017/08/22(火) 06:50:09
「桃太郎さん 桃太郎さん (オー) お腰に付けた吉備団子 (オー) 一つ私に (く ら こ う)」

これ天満の頃までは、やっていたな
とはいえ、天満の頃とは平成元年
30年なんてアッと言う間ですね

45名無しさん:2017/08/22(火) 06:58:58
そうでしたか。
「 光陰矢の如し 」ですね。
又教えてください。

46名無しさん:2017/08/22(火) 08:30:20
小沢馨


戦争の爪痕が、色濃く残る昭和24年。

感激の初陣を果たしたチーム。倉敷工業野球部。

イ草の香りが風に乗って鼻をくすぐる白壁の町倉敷。
小さな町のチームが、大きく確かな第一歩を大甲子園へ。

昭和16年に創部された倉工野球部は、戦中廃部。
22年に、野球好きが集まって再結成された。

その中心となったのが、野球の申し子 小沢 馨。
小沢が、一人一人に、「 野球をやろう 」と、呼びかけたのが、切っ掛けだった。
そして、やっと9人揃ったところで校長室に行った。

すると、校長は 「 お金のかかる野球は、やらない。 」との返事。
それでも小沢ら、野球の申し子たちは、こずかいを出し合って、
ボールやバットを買って同好会的な形で、練習を行っていたという。

野球を愛する人が、自ら結成したチームだった。
そんな活動が認められて、昭和22年新しく野球部を作る事になったのである。

早速、野球部部長は 玉島商OBの 三宅 宅三氏に、監督をお願いした。
三宅は、六尺越えの、伝説の豪傑。

昭和21年第一回京都国体軟式野球大会 準優勝。
また、陸上競技 砲丸投げの選手でもあり、同大会で、第三位。
港町玉島に陸揚げされた、一個の白いボールが、数々のドラマを築いて行く事になる。

戦後、玉島商OBで結成された野球団、玉島モタエ倶楽部は、堂々の国体決勝進出。
京都国体。それは、死地から生還した当時の若者の、夢舞台でもあった。

玉島モタエ倶楽部野球団は、千年の古都に足跡を残す。
その中心選手 三宅 宅三。
新興 倉工は、三宅 宅三監督就任で甲子園を、目指すことになった。

47名無しさん:2017/08/22(火) 08:41:40
港町玉島の、誇り高き野球団 玉島モタエ倶楽部。

港町玉島の、剛腕 左腕エース 大野 仁之助 と 盟友である、六尺越えの豪傑 三宅 宅三。
大野は、激戦地で散った亡き友の、思いを胸に投げ抜き、三宅は、五輪中止の無念を、国体にぶつけた。

倉敷から越境入学して、玉島商 で、青春を過ごした三宅は、砲丸投げで全国優勝。
明治大学を経て倉敷駅前の実家で、書店を営む日々を送っていた。
一方、大野は指導者として後輩たちと、甲子園を目指した。

そんな時だった。倉工が新しく野球部を作る事になったのである。
そして、三宅に運命の時が来た。野球部部長が、三宅の家を訪問。

「 三宅君、倉工が新しく野球部を作る事になったんで、時間と暇があるんだったら、
監督を引き受けてくれないか?。 」と、監督をお願いした。

すると、玉島商OBたちは、「 倉工の監督をするのだったら、
玉島商の監督をやれい 。」と、猛反発したという。
当時、玉島は玉島市であり、倉敷への対抗意識が、根強いものがあったようである。

その後、 玉島商OBたちは、三宅 宅三 倉工監督を容認。
三宅の監督就任で、正式に 部 に昇格。

小沢ら、野球の申し子たちは、躍り上がって大歓喜。
新興、倉工は三宅監督就任で、またたく間に岡山県無敵となる。

その、源流に戦前、最強の玉島商野球が存在していた。
三宅監督の就任で、 玉島商 仕込みの猛練習だった。

48名無しさん:2017/08/22(火) 08:51:02
新興、倉工は 三宅 宅三 監督就任で、またたく間に岡山県無敵となる。

倉工は、甲子園への第2関門となる東中国大会に進出。
この東中国大会とは、第30回大会から、第39回大会までは、島根 鳥取 岡山の3県を
対象としていたが、第41回大会からは 島根 が西中国大会に編成されたため、
鳥取 と 岡山 の2県で甲子園を争っていた。

また、記念大会を除いて23回行われたが、岡山県勢が14回、鳥取県勢が8回、
島根県勢が1回、甲子園に出場した。

昭和23年、倉工はこの東中国大会決勝に進出。
原動力は、制球力が抜群で、縦へのカーブ ドロップ が持ち味の エース小沢。
横山 妹尾 藤沢らの中軸打線は、長打が狙える大型打線。
しかし、決勝戦で 関西に敗れて涙を飲む。

1948年 ( 第30回大会 ) 東中国大会決勝

倉敷工 3 - 6 関西

昭和24年、倉工に運命の時がやって来る。
昭和24年の決勝は、オープン間もない 倉敷市営球場において
倉敷工 と 倉敷商 と言う地元チーム同士で争われた。

倉敷工 小沢 倉敷商 鳥越 両エースの投げ合いとなった決勝。
まさに、市を二分しての決勝は、空前の人気を呼び、観衆はスタンドの外まで溢れ、
地鳴りのような歓声が響き渡ったという。

そして、倉工は2年連続で、東中国大会に進出。
東中国大会初優勝を飾り、夢の甲子園初出場を勝ち取る。

1949年 ( 第31回大会 ) 東中国大会決勝

倉敷工 2 - 1 境

49名無しさん:2017/08/22(火) 09:03:14
第31回全国高等学校野球選手権大会。

1949年8月13日から、8月20日まで甲子園で開催された。

開会式での、入場行進における出場校選手の先導、女子生徒がこの大会から開始された。
主将で、エースの小沢は、次の様に語る。

「 甲子園は、最初から意識をしていたわけではなく、運良く行けたんです。
また、テレビはなく、絵もないし。ただあるのは、ラジオから聞こえて来る歓声だけで。
甲子園は、あの前に立っただけで、【 こんなに大きな建物かと 】びっくりして。

また、球場の中に入って練習の時に【 こんなに、大きなグランドかと 】また、びっくりして。
そして、開会式の時、【 こんなに、大勢の人かと 】また、びっくりして。
それで、試合になった時、大歓声で第一球はどこに投げたかわからない状況でした。」

その開会式で、他県の選手は、「 倉敷ってどこ? 九州? 東北?」

また、戦前の活躍予想は、出場23校中22位というありさま。

それでも、好投手 小沢 馨 の得意球ドロップ ( 縦のカーブ )は、小気味良く、
捕手 藤沢 新六 のミットに吸い込まれた。
打線も、尻上がりに調子を上げ、 熊谷 ( 埼玉 ) 高津 ( 大阪 )と連破。
準々決勝まで進んだ。

倉敷工 9 - 1 熊谷

倉敷工 5 - 3 高津

50名無しさん:2017/08/22(火) 09:20:09
実力以上の力を引き出す無欲。先を見て足元をすくわれる欲。

昭和24年夏、甲子園初出場を果たした倉工ほど、微妙な勝負のあやを体験したチームはない。

第31回全国高校野球選手権大会。8月17日 準々決勝。
夕暮れの迫る第4試合。

相手は、中京商 以来の3連覇を目指す小倉北。
春夏通算16勝を挙げた好投手 福島 一雄 を擁し、洗練された野球をするチーム。
知名度は、雲泥の差。高く分厚い壁。 小倉北 4年連続5回めの出場。

小倉北 ( 福岡 )   対   倉敷工 ( 東中国 )

「 私どもは、勝とうなんて全く思った事はなく、9分9厘とか一厘の望みだとか
世の中には、あるかも知れませんが、その一厘でさえ認められない、
10が10小倉の勝ち。と言う戦前の予想だったんです。 」と、小沢。

捕手の藤沢 新六 は「 勝てる。と言うのは全くなくて、一生懸命やるだけだなあ。
と、私は思っていました。 」と。
スタンドを埋めたファンも、倉工の勝利より善戦を期待していた。

倉工ナインも 「 勝てるわけない 」と荷物をまとめて宿舎を出発。
負けたら、道頓堀川あたりを観光して、帰るつもりだった。

だが、この開き直りが幸運を呼び込む。
「 キープ マイ ペース 」それだけを唱え続けた、エース小沢の過酷なマウンド。
そして、倉敷の少年たちが奇跡を、起こす。


小倉北  020 102 001 0

倉敷工  010 102 110 1  ( 延長10回 )


息詰まるシーソーゲーム。倉工の守備の乱れに乗じて、ダブルスチール、スクイズと、
多彩な攻めで、先手先手と責める 小倉北 に対して、
二回と六回に藤沢の、2ホームランをはじめ、長打で追いすがる 倉工 は、
九回ついに福島投手を、マウンドから引きずり下ろした。

延長10回、一死満塁から横山 のショートゴロの間に、決勝点を挙げ熱戦に終止符を打った。

51名無しさん:2017/08/22(火) 09:30:49
第31回全国高校野球選手権大会 準々決勝 第4試合

小倉北  020 102 001 0 6

倉敷工  010 102 110 1 7 ( 延長10回 )

「 何が何だかわからない内に、試合が終わったんです。終わってみたら、
勝っていたんです。 」と、小沢。そして、小沢は次の様に語る。

「 悪い事をした。と思いました。あの時ほど、悪い事をしたと思った事はないです。
小倉に、申し訳ない。 」 

試合終了後、ホームプレートを挟んで、お互いが挨拶をする時、
「 ありがとうございました 」が、「 どうもすみませんでした。 」の心境だったという。

夢破れてうなだれる、小倉北ナイン。試合後の挨拶を交わした後、
小倉北 福島 一雄 投手は、マウンドに戻って、センタースコアーボードを
仰ぎ見て、無意識のうちに、一握りの土をつかみ、尻ポケットに入れたのだった。

小沢は、「 何をやってるんだろう。 」と思ったという。
また、その光景を、ある大会役員が見ていた。

その後、福島は、狭い通路で人目を気にせず、肩を震わせ、泣きじゃくるのだった。

小沢は、この時福島に帽子を取り、「 すまなかった 」
と一言言って、その場を立ち去ったのだった。
勝った小沢の心を占めたのは、勝利の余韻でなく、相手福島の姿だった。

小沢はこの時初めて、【 常勝チームのエースとして、マウンドを守り続けた福島の、プライドと、
甲子園に掛ける夢の大きさを、知ったのである。 】 無欲であるがゆえ、小沢は詫び、
無欲であるがゆえ、小沢は勝った。

昭和24年8月18日、山陽新聞に、『 倉工殊勲の健棒小倉の三連覇を阻む 』と出た。

小倉北ナインは、この日のうちに、夜汽車で郷里、福岡へと帰って行った。

52名無しさん:2017/08/22(火) 10:32:25
無意識のうちにポケットへ・・・第31回夏の甲子園

「甲子園の土」を持ち帰っていたことは、北九州市の自宅に届いた手紙で知った。
小倉(福岡)が夏3連覇を逃した1949(昭和24)年の第31回大会。

準々決勝で倉敷工(岡山)に敗れたエース・福嶋一雄は「杯に1杯ほど」の
土をユニホームのズボンのポケットから見つけた。

大会副審判長からの速達には「君のポケットに大切なものが入っている」とあった。

第30回(48年)は史上2人目となる全5試合を完封して連覇した福嶋だが、
最上級生だったこの年は右肘を故障。最後は直球しか投げられずに敗れた。

「甲子園を去りがたい思いだった」。無意識のうちに足元の土を手にしていたのだという。

このエピソードから福嶋が「甲子園の土を最初に持ち帰った球児」という説が生まれた。

ただ、本人は「土を拾ったことは覚えていないし、私が(持ち帰った)第1号かどうかということも知らない。
そのことについては肯定も否定もしませんよ」と穏やかに笑う。

53名無しさん:2017/08/22(火) 11:41:38
大会副審判長の長浜俊三から・・・「この甲子園で学んだものは、学校教育では学べないものだ。
君のポケットに入ったその土には、それがすべて詰まっている。
それを糧に、これからの人生を正しく大事に生きてほしい」という速達が届く。

ポケットの中の土のことなどいっさい覚えていない福嶋は慌ててバッグの中に入れたままにしている汗まみれのユニフォームを取り出し、
新聞紙を広げ、ズボンの後ろポケットをひっくり返すと、ほんの一さじほどの甲子園の土が出てきた。
福嶋は母と相談し、玄関に置いてあるゴムの木の植木鉢に入れる。この甲子園の土はその後の福嶋の心の糧となり、福嶋を支えた。

土を持ち帰った球児は実は過去にも存在していたのだがこのエピソードが有名になり、
福嶋は「甲子園の土を最初に持ち帰った球児」と言われるようになっている。

しかし福嶋は敗れた球児が甲子園の土を持ち帰るという行為を肯定的に考えてはおらず、
「おみやげではないのだから、それより甲子園を目指した努力を大切にして欲しい」と語っている。

54名無しさん:2017/08/23(水) 10:01:24
第68回倉工文化祭 2016年11月18、19日に盛大に開催。

一般公開日になった19日は、朝からたくさんの来場者でにぎわいました。
おそらく、昨年よりも多くの来場者であった様に思います。

おいまつ会館では、今年も 【おいまつ会作品展】 を開催しました。

同窓生の絵画、書道、彫刻作品、さらには野球部の甲子園出場記念のペナントの公開。
こうした中、野球部 小沢 馨監督の遺品店を公開しました。

小沢監督の、倉工時代の投球フォームの写真パネルをはじめ、
甲子園初出場した時の数々の写真パネル展示。
また、甲子園出場が決まって、ナインから胴上げされている写真。

さらには、多くの表彰状や感謝状もあり、訪れた方々が、足を止めて見入っていました。

こうした中、昭和42、43年と4季連続甲子園出場した時の選手で、
角野 充さんと小山 稔さんが、遺品展の前で再開。当時の想い出話に花が咲いていました。

角野さんは、「監督さんは、怖かったです。監督さんが、グランドに来られると身が引き締まる思いでした。」と、当時を懐かしく語ってくれました。

55名無しさん:2017/08/23(水) 10:15:30
故 小沢馨監督のプロフィール

昭和24年、倉工が甲子園に初出場した時の主将であり、エース。
この時の監督は三宅 宅三氏 (玉島商 - 明治大)。

準々決勝で、3年連続優勝を目指す、小倉北を破り、ベスト4まで進出。
この時の、小倉北のエース福島 一雄投手が、甲子園の土を一握り持ち帰った事が、 
(甲子園の土) の始まりと言われている。

卒業と同時に、甲子園で3本のホームランを打った、チームメイトの 藤沢 新六捕手と
大阪タイガースに入団するも、一年で退団。社会人野球の強豪 日鉄二瀬 に移籍。

移籍してすぐに、倉工から監督要請をうける。20歳の時だった。

倉工監督としての甲子園デビューは、昭和32年の選抜。この時ベスト4まで進出し賞賛を浴びる。
昭和50年の選抜が、小沢監督最後の甲子園だった。全国の壁は厚く、ベスト4、3回が最高成績。
【知将 小沢】 【勝負師 小沢】 の異名を持つ。

甲子園での17勝は、岡山県の高校を率いた監督としては、最多である。
倉工の名前と共に、倉敷の名を全国に広めた第一人者と言えるだろう。

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57名無しさん:2017/08/24(木) 12:53:53
第78回全国高校野球選手権大会

1回戦(阪神甲子園球場)

倉敷工 9-0 中越

投手
倉敷工:中原
中越:渋川→小柳→五十嵐→高木


倉敷工が投打とも安定した力をみせ、中越につけ入るスキを与えなかった。
2回、白神の適時二塁打で1点を先取し、5回にも福原の適時二塁打で加点。

6回には中原のスクイズ、西川の2点三塁打、福原の中前適時打で4点を加えた。
さらに8回、中越の三番手投手・五十嵐から3点を奪い、試合を一方的にした。

中原はコーナーをつく変化球を武器に、12奪三振、4安打で中越打線を完封した。
中越は四投手の継投で目先を変えようとしたが、倉敷工打線につかまった。

58名無しさん:2017/08/24(木) 13:07:13
女子マネージャーの甲子園ベンチ入り第1号 


96年第78回大会から女子マネージャーが記録員として
甲子園のベンチに入ることが正式に認められた。

その第1号が東筑の女子マネージャーだった三井由佳子さんだった。

この時の東筑は初戦で盛岡大付に2‐0で勝利し、三井さんは文字通り“勝利の女神”となった。
続く2回戦は倉敷工の前に3‐5で惜敗したが、三井さんの存在は大きな話題となった。

59名無しさん:2017/08/24(木) 16:35:30
第78回全国高校野球選手権大会

2回戦

倉敷工5-3東筑

投手
倉敷工:中原
東筑:石田

倉敷工は初回、2回、3回と1点ずつ小刻みに得点。
 
東筑は4回裏、内田の二塁打を含む4連続安打で2点、5回にも1点を取って同点とした。

倉敷工は8回、敵失で出塁した坪井を、福原が右三塁打でかえして勝ち越す。
福原も藤原二の犠飛でかえり、この回2点を勝ち越した。 

東筑は6回以降 中原のコーナーに決まる直球を打ちあぐねた。 
両チームとも攻撃ではヒット・エンド・ランを多用するなど機動力を生かし、
守備でも動きのいいプレーが目立つ好試合。

ただ、東筑は失策が3つあり、2つを得点に結びつけられたのが悔やまれた。


今年99回大会、久しぶりに出場の東筑のエースは石田。
6回出場で4回も石田姓とは奇遇。

初戦敗退となったが、今年のエース石田はまだ2年生、
100回大会でリベンジ新石田伝説を作れるか。

60名無しさん:2017/08/24(木) 17:40:26
第78回全国高校野球選手権大会

3回戦

倉敷工2-9鹿児島実


投手
鹿児島実:下窪、鍛冶屋
倉敷工:諏訪、中原、笹田


鹿児島実は序盤から攻守にはつらつとプレー。
甲子園3試合目にして、投打のかみ合ったセンバツ覇者の風格を見せつけた。

相手のミスをついてソツなく攻めた鹿児島実の圧勝だった。
2回に宮田の左中間二塁打で1点を先取した鹿児島実は3回、川田の二塁打と田上の犠飛であっさり加点。
4回は二塁打とバントで三進の下窪が二ゴロで本塁に突入、捕手の落球を誘い、
さらに岩切の安打で2死一、二塁から倉敷工の先発・諏訪が暴投。
二塁の鍛冶屋に続いて一塁走者の岩切までが本塁に走り込むと捕手からの送球を諏訪が落球、3点目を奪った。

さらに5回にも内野の乱れに乗じて無死満塁とし、下窪の右前2点適時打。
代わった中原から犠飛と内野ゴロで計4点をあげて突き放した。

倉敷工は4回、福原の適時打と9回2死後3連打して各1点をかえすのがやっと。
鹿児島実は6回から鍛冶屋を救援させる余裕で勝ち進んだ。


鹿児島実・久保克之監督:中原投手の外角の球を狙うように指示していたが、二番手投手が先に登板してくれて助かった。
下窪は三回から球が走っていた。


倉敷工・和泉利典監督:中原は肩慣らしさせた後、交代させるつもりだったがその時機を逸してしまった。
四、五回のエラーは起きるはずのないもの。これが甲子園なのかと思った。



監督の情けない采配で大敗となった。勝負が決してからエースに代えるとは何たる愚策。
コメントも実に情けない。恥ずかしいものであった。

バッテリー中心に素晴らしいメンバーだっただけに非常に悔やまれる試合である。
久保監督も中原投手先発なら負けていたかもと。
中原投手は倉工10年に一人、否20年に一人の好投手であった。

61名無しさん:2017/08/25(金) 11:32:15
倉敷工 7年ぶり夏の甲子園へ 

古豪復活 第85回全国高校野球選手権岡山大会は29日、
マスカットスタジアムで決勝を行い、倉敷工が10-7で倉敷を破って
7年ぶり9度目の甲子園出場を決めた。

倉敷工は5-5で迎えた六回一死満塁で萩原が2点適時打を打つなど、
この回一挙7点を奪い、2点差を逆転。エース陶山は13安打を浴びながらも
スライダーを駆使して力投し、逃げ切った。


陶山投手・・・「捕手の構えたコースにボールがいかず連打された。チームに申し訳ない」。
念願の優勝を果たしながらも、しきりと反省した。
一回、勝負球のスライダーを打たれて「弱気になってしまい」、甘いコースにボールが集まったという。
「絶対抑えられる」と自分に言い聞かせて投げてるうち、チームが逆転。
「気持ちを切り替えられ、何とか最後まで集中できた」という。


萩原捕手・・・活躍の裏に、けがからの復活劇があった。5月。走塁練習中に右手の甲を骨折。
高校最後の夏をフイにしかねないアクシデントに「目の前が真っ黒になった」。
だが、そこから必死の努力が続く。朝、晩は煮干しを欠かさず食べ、牛乳も飲めるだけ飲むなど
「骨にいいと聞くと何でもした」。ゴムボールを握ってリハビリに励んだ。その効果もあって1ヶ月で練習に復帰できた。
陶山も「治ってくれてホッとした。彼がいたからこそ自信を持って投げられた」と感謝の言葉を忘れない。

最後の打者が三振となると、一目散にマウンドに駆け出した。もみくちゃの輪の中でキャッチャーミットを高々と差し上げ、
勝利の喜びに酔った。「優勝は夢のよう。支えてくれた家族と監督、仲間に感謝したい」


熱戦の軌跡・・・11-0古城池、2-0大安寺、7-6岡山南、3-0関西、10-7倉敷。

倉工は苦戦になっても動じなかった。準々決勝の岡山南、決勝の倉敷戦はいずれも中盤以降に得点を重ね、
逆転勝ち。私は準決勝、関西戦での陶山君の快投を観て今年は行けると確信したのであった。

陶山君は好不調の波が大きく感じた。さて甲子園では?・・・。

62名無しさん:2017/08/26(土) 11:52:34
第85回全国高校野球選手権大会

8月8日

0-8駒大苫小牧  (4回裏二死一、三塁降雨ノーゲーム)

倉敷工:陶山ー萩原
駒大 :白石ー糸屋

駒大苫小牧は2回一死一、二塁から4連打を含む7長短打を倉敷工のエース陶山に浴びせ一挙7点。
3回にも敵失からノーヒットで1点追加。
倉敷工は駒大苫小牧のエース白石に4回まで1安打に封じられた。

だが、4回裏二死一、三塁の場面で中断。
25分後の12時20分に降雨ノーゲームとなった。


8日は台風10号の影響で、山陽自動車道が通行止め。
岡山を出発した応援団は、津山経由で、中国自動車道へ迂回して甲子園入り。
到着した時は降雨ノーゲームが決まっていた。

台風の影響が心配される中、試合を強行した大会運営本部に問題有り?。
応援団がいない中、大敗は可哀相と甲子園の魔物が再試合を命じたのであろう。

倉工は命拾いをした。
又一つドラマが生まれるか? 明日勝てばの話ではあるが・・・。

63名無しさん:2017/08/27(日) 11:50:21
第85回全国高校野球選手権大会

8月9日

倉敷工5-2駒大苫小牧

倉工:陶山ー萩原
駒大:白石ー糸屋


倉工が効果的に得点を重ねた。2回二死二塁から西野の中前打で先制。
3回に須田の二塁打などで2点を追加し、
1点差に詰め寄られた4回には松本の二塁打で再びリードを広げた。
エース陶山は4つのエラーに足を引っ張られたが2失点完投。6安打に抑えた。


前日とは見違えるような姿だった陶山君。得意のスライダーを低めに集め9奪三振。
飛球わずか「1」がその徹底ぶりを示した。

岡山県大会の直前から腰痛と戦ってきた。試合開始の30分前、痛み止めの錠剤2粒。
そして座薬を使用してのマウンドだった。2日で197球(この日は112球)を投げ抜いた。

試合終了後、生き返ったエースはホームプレートを挟み、
駒大苫小牧の石川に「いい試合ができて、ありがとう。きのうはごめん!」と言葉をかけた。

「申し訳ないと思っている。次からは駒大苫小牧の分まで頑張りたい」。
帽子のひさしの裏に書かれた「暴れたる!」の思いは36人分に増えた。


2日間がかりの奮闘は実ることはなかった駒大苫小牧。
「すべて自分の責任。選手の力を引き出してやることができなかった」
香田監督は悔しさをかみ殺した。
「あのまま続けても負けていた・・・」と話した言葉が痛々しい。
何が起こるか分からない。それが甲子園だ。

しかし、その後の努力を魔物はしっかりと観ていたのだろう。
翌年の第86回、そして第87回大会と連続優勝、88回大会の準優勝まで
駒大苫小牧フィーバーが続いた。



戦後の夏の甲子園・降雨ノーゲーム → 再試合


1949年 準決勝  岐阜3-2倉敷工(4回裏)→ 岐阜5-2

  57年 1回戦 坂出商4-1山形南(2回裏)→ 坂出商4-0

  65年 1回戦 岡山東3-1日大二(5回表)→ 日大二4-0

  70年 2回戦 江津工0-0東邦(1回表) → 東邦6-1

  82年 1回戦 八幡大4-2日大二(6回表)→ 日大二9-6

  93年 3回戦 鹿児島商工4-0常総学院(4回表)→ 常総1-0 

2003年 1回戦 駒大苫小牧8-0倉敷工(4回裏)→ 倉敷工5-2

64名無しさん:2017/08/28(月) 10:55:16
嬉しいニュースが飛び込んで来た!!


倉工コーチに旧近鉄元選手・中藤義雄さん(54)

  ☆教員資格得て復帰


倉工にOBで旧近鉄バファローズの元選手、中藤義雄さん(54)がコーチに就任した。
プロ野球経験者が教員資格を得て戻ってくる県内初のケース。

中藤さんは、かつて常勝チームとされた母校野球部在籍中は1番・遊撃手。
甲子園出場こそかなわなかったが、社会人の名門・プリンスホテル野球部(解散)を経て旧近鉄へ。

1年目の昭和62年は後半からの1軍登録で38打数10安打だったが、翌年から出場機会に恵まれず、
父親の病状悪化で家業(建設業)を継ぐために平成元年を最後に引退、倉敷市に帰郷した。

その後、会社倒産の苦境を乗り越え、バッティングセンターを地元に開業。
個別レッスンも好評で、約10人の甲子園球児も輩出した。

全国的に元プロの高校野球指導者が増え始める中、
自身にくすぶっていた「不完全燃焼の思い」が現場復帰を決断させ、49歳で通信制の星槎大(横浜市)に入学。
今春、教員免許を取得して卒業した。

中藤さんを助っ人に誘った同校の高田康隆監督(43)は「往事の“強打のクラコー”へ、
投手出身の私に及ばない部分を中藤先輩のプロ技術で補完できれば」と期待を寄せる。

中藤さんは「全国ではパワー野球が全盛期。そこに臆せぬようなチームづくりに役立ちたい」と情熱いっぱいで、
将来的には「どこかで指揮官(監督)を」との目標を胸に秘める。

65名無しさん:2017/09/02(土) 12:26:07
第85回全国高校野球選手権大会

8月16日

倉敷工4-3今治西

倉敷工:陶山ー萩原
今治西:豊嶋、山田ー相原


倉工は1点を追う四回、安打と四球で一死一、二塁とし、
須田が放った中前打が敵失を誘う間に2者が生還し、逆転。
なおも一死三塁から清水の中前打で1点を奪った。

六回には萩原の中越え適時二塁打で貴重な追加点を挙げ、リードを広げた。
打線はコンパクトな振りが徹底され、9安打を放った。

投げてはエース陶山が3失点(7安打)の完投。
緩急をうまく使いながら要所は打者の内角を突く強気の投球で抑え込んだ。

今治西は三回に先制。四、六回には1点ずつ加え、追いすがったが及ばなかった。

72年選抜(1-3倉敷工)のリベンジならず、
甲子園10勝目を逃した宇佐美監督は「陶山君に力負けです」と脱帽した。


須田一塁手・・・開幕前日のこと。大阪市内の宿舎に1通の手紙が届いた。
差出人は1996年、夏の甲子園で3回戦まで勝ち進んだ当時の主将・北条剛さん。
よく練習に訪れ、アドバイスしてくれる尊敬すべき先輩だ。

手紙には「倉工が甲子園に行くときには主将が打てないジンクスがあるんだ。
俺も7年前には打てなかった」とあった。
「皆、お前を信頼している。気にせず思い切っていけ」と、温かい言葉がつづられていた。
何度も何度も読み返し「勇気づけられ、スランプから抜け出す大きな足がかりになった」。

駒大苫小牧戦は2打数1安打。左越え適時二塁打で貴重な追加点を挙げ、復調の兆しが見えた。
そしてこの日は四回一死一、二塁で中前打し、敵失を誘って2者を生還させ逆転に導く。
八回は鮮やかな左中間二塁打でナインを鼓舞した。
「支えてくれるナインを信頼し、復調のヒントをくれた北条さんの好意にも報いたい」と決意を新たにした。

66名無しさん:2017/09/02(土) 15:51:32
今治西 義足の球児 涙の「終戦」


終わったんだ。一塁ベンチ前で倉敷工の校歌を聞き、曽我の目から涙があふれた。
「このメンバーで甲子園に来れたことが最高の思い出です」。
激しく、楽しく、そして短かった夏を惜しんだ。

義足の左足でプレーする曽我を、宇佐美監督は「自分の感覚では眼鏡をかけているようなもの」と表現した。
野球部入部の際、あいさつに訪れた御両親に「他の選手と同じようにさせますよ」と言った。
御両親は深くうなずいたという。

それから2年余り。夢の舞台で見せた姿は、全国の身障者の勇気となった。
学校に届いた手紙や電話は数え切れない。

取材攻勢にさらされた状況に「最初は嫌になったこともあった」と打ち明けたが
「こちらに来てからは気にならなくなった。成長できたと思います」と続けた。
稀有な経験はまた一つ、曽我をたくましくした。


5歳の時に農作業機械に左足を挟まれ、足首から先を失い義足になった。
「周囲の視線が気になって仕方がなかった」少年は、父から野球を教わり、
野球は自信を与えてくれた。

そして甲子園で、夢を実現することの喜びを知った。
「大学でも野球を続けます」。
さわやかな感動を残し、義足の三塁手はマンモス球場を去った。

67名無しさん:2017/09/03(日) 11:55:20
第85回全国高校野球選手権大会

8月20日

倉敷工0ー2光星学院(青森)

倉工:陶山-萩原
光星:桑鶴ー明戸


光星学院の桑鶴が4安打完封した。
内外角をいっぱいに使い、丁寧に打たせて取る投球で三塁を踏ませなかった。
打線は1回二死二塁から田中隆の右翼線二塁打で先制。
5回には小比類巻の二塁打と犠打などで二死三塁とし、有木の右前打で1点を追加した。

倉敷工は好機を3つの併殺や盗塁失敗でつぶし、力投の陶山を援護できなかった。


桑鶴投手は安定感抜群でしたね。
130キロ台前半のストレートを内外角コーナーに投げ分け、
切れのあるスライダーはコントロール抜群。
ほとんど高めに浮く事がなく、最後まで力は衰えませんでした。


倉工は8回に先頭の須田が外角変化球を上手く流し打つライト前ヒットで出塁、
続く清水に打たせるもファーストライナーの不運でダブルプレー、
9回にも代打明田の内安打、セカンドエラーで一死一、二塁のチャンスを作るも、
代打の平井がセカンドゴロ併殺打に倒れ試合終了。

陶山君はこの日も好投した。
降雨ノーゲームになった試合以外は持ち味を十分に発揮したと思います。
やはり日本一になるにはもう少し力強い打力が必要ですね。

68名無しさん:2017/09/09(土) 12:21:58
秋の中国高校野球大会 倉敷工 37年ぶり3度目の優勝☆

2008年11月2日  マスカットスタジアム

倉敷工4-1南陽工


倉工が好機を確実にものにして快勝。先制打が効いた。
一回、2安打などで二死一、二塁とし、日下が痛烈な中越え三塁打を放ち、2者生還。
主導権を握ると、三回は三木、六回は岡田の適時打で加点。
速球をコンパクトにたたき、好投手を攻略した。

今大会初登板の早藤は切れの良い変化球を軸に六回途中まで失策絡みの1点で切り抜け、
継投した山崎も力強く相手打線を抑えきった。

最後の打者を三振に取った主戦山崎にナインが駆け寄り、歓喜の輪が広がった。
「信じられない。雲の上にいるよう」。中山監督は声を詰まらせながら、あふれる喜びを表現した。

この試合の10安打を含め今大会はすべて二けた安打を達成。
強打が目を引くが、4試合で14犠打と堅実さも光った。
チーム打率:3割4分6厘。

守りは主戦山崎の踏ん張りが光った。
準決勝で十二回を投げ抜くなど全試合に登板し、防御率1・69(投球回数32)。
走者を背負っても、フォークなどの多彩な変化球で決定打を許さなかった。

決して前評判は高くなかった岡山4位校。
「試合ごとに選手が成長した」と中山監督は目を細める。
西部地区予選、県大会を通して延長戦など厳しい戦いを制し、試合運びに磨きをかけた。
これで来春の選抜出場をほぼ確実にした。



熱戦の軌跡・・・一回戦 4-1宇部鴻城(山口2位)。 準々決勝 12-5作陽(岡山1位)7回コールドゲーム。
     
        準決勝 2-1鳥取城北(鳥取1位)延長12回。 決勝 4-1南陽工業(山口3位)。        



「持ってる人」・・・

中山新監督になって初の中国大会だったが、この人は「持ってる人」だと思う。
岡山県開催の年でなければ県4位では出場すら出来なかったのだからね。
78回、85回夏の甲子園でも「持ってる人」が部長でベンチ入りしていた。

あの壮絶な選抜開幕戦16-15を観て熊本県?から憧れの倉工へ進学して来たらしいね。
この試合の話が好きで部員は何度も何度も聞かされたそうだ。

高校時代はベンチ入りもなくスタンド応援だったらしい。
足利工業大学時代は野球はせず、母校で教師になるべく資格を取った。
笠岡工から倉工へ。念願かなって倉工への赴任は嬉しかったと思うよ。

そして憧れの倉工で監督に就任、初の大きな大会で優勝を果たした。
インタビューで感涙に噎んでいたね。
私も目頭が熱くなったのを昨日のように思い出す。
監督で優勝するのは部長での優勝とはまた違う大きな感動があったに違いない。

この「持ってる人」が34年ぶりの選抜でまたしても開幕戦、
ドラマチックな試合を戦うことになる。

69名無しさん:2017/09/16(土) 12:05:47
第81回選抜高校野球大会

2009年3月21日  リニューアル甲子園のオープニングゲーム

倉敷工11-10金光大阪(延長12回)

倉工:山崎、早藤ー頼
金光:木場、藤本ー中島


初回、有川の2点適時打で先制した金光大阪は4回、石井が左翼へ大会1号本塁打を叩き込み4点目。
常にリードしたのは金光大阪だった。しかし倉工は、その裏二死二、三塁で三村が左越3ランして同点。

5回に金光大阪が2点を奪えば倉工は6回に1点、、8回に1点で追いつき6-6。2度目の同点。

9回金光大阪は二死二塁から、敵失と連続長短打で展開的にも決定的な3点を奪って9-6となる。
だがその裏一死から日下の四球を足場に内山、早藤、山形が3連続短長打して3度目の同点に追いつく驚異の粘りを見せた。

なおも一死三塁。山本が投前スクイズ。突っ込む三塁走者・山形、マウンドを降りて捕手・中島にトスする投手・木場。

クロスプレーで中島が山形にタッチした時、中島のミットから白球がこぼれ落ちた。だが球審・橘の判定はアウト。

中山監督の指示で山形が訴えたが「落としてない」という回答だ。

残念ながら審判の判定に対する疑義は多く、この時も大会本部には抗議の電話が殺到したことは後で分かる。
ここで判定が覆る事はなかった。

倉工は11回、一死三塁からのスクイズを読まれサヨナラ勝ちのチャンスを逃す。
12回に金光大阪は西村の右越え三塁打と有川の中犠飛で10点目。さすがにこれが決勝点だろうと思われた。

しかし今度もその裏、山本が遊ゴロ敵失で出塁、井上、三村、三木の3連打で4度目の同点。

なお二死一、三塁、「自分が決める」決意の日下の右前安打でサヨナラのホームを三村が踏んだ。
まさに超劇的な幕切れとなった。



中山監督:何度リードされても食らいついた選手たちの粘りはすごかった。失敗は多く出たが積極的プレーの結果。
     ただ、失点を重ねた投手陣の立て直しは急務だ。


横井監督:三度も追い付かれ、選手はしんどかったと思う。九回の3点でいけると感じたが、倉敷工が粘り強かった。
     予想以上にスイングが鋭く、バッテリーが押された。



34年ぶりの選抜で又しても開幕戦を引き当てた。
リニューアルされた甲子園に一番に招待してくれた甲子園の神様に感謝したいね。

本塁打の応酬あり、誤審あり、1試合最多11二塁打あり、そして大会史上初の「開幕戦延長逆転サヨナラ」ゲーム。
開会式の行進曲「キセキ」の余韻も残る開幕試合での劇勝はまさに「キセキ」だったと思う。

「持ってる人」は辛抱強いね。山崎君は金光大阪打線につかまっていたが9回まで引っ張った。
もう少し早く早藤君へ継投すべきではと思ったが、それも終わってみれば劇勝に繋がっていた。

34年前の小沢さんも辛抱強かった。兼光君が発熱で絶不調も塚岡君になかなか代えず、
大勝が辛勝となった。小沢さんがこの試合を観てどのように感じられたか興味深い。

土曜日、快晴、満員の開幕戦、相手は大阪、逆転サヨナラ勝ち。
もうこれ以上ないステージだったね。

70名無しさん:2017/09/17(日) 10:51:56
誤審・・・


落球したのになんでアウトなんだ?

リニューアル甲子園の幕開けは、いきなり大会本部に抗議電話が殺到する事態となった。

倉敷工ー金光大阪の9回裏、明らかに落球したタッチプレーがアウトと判定され、この時点でのサヨナラ勝ちが消された。

倉敷工が3点差を追い付いた後の一死三塁。投前へスクイズを仕掛けた。
投手が捕手にグラブトス。中島が突っ込んできた走者にタッチしようとした時、ボールはミットからこぼれた。

橘公政球審の判定はアウトだった。

中山監督の指示を受け山形が落球を訴えても受け入れられない。
「中山監督は球審から「落としてない」という回答があったので、分かりましたと言うことです」と言う。

NHKのセンターからのテレビカメラは落球をしっかりととらえていた。

捕手中島は「タッチしたけど、どのタイミングでミットから球が出たか分からない」と話した。

試合後、判定について桂等審判幹事が対応した。
「審判は「アウトが完了したあとの落球」と裁定した。落球を確認した上でアウトにしました」と説明した。

倉敷工への回答との食い違いを指摘されると「それは聞いてないので。ただ、言葉が足らなかったかもしれません」。
そして「場内に説明があってもよかった」。と付け加えた。

延長12回、倉敷工がサヨナラ勝ちして勝敗を変えることはなかったので抗議電話は収まったが、
新装された晴れ舞台にあっては欲しくない判定になってしまった。

71名無しさん:2017/09/17(日) 11:38:20
尾藤公の「わが麗しの甲子園」


開幕戦を制した倉敷工に、あきらめないことに加え、素晴らしい粘りを見せてもらった。
取られても取り返す勝利への執念に絶賛の拍手を送ります。

逆転サヨナラ勝ちへの隠れたヒーローは2番の井上君です。
1点を追う延長十二回一死、一塁で一塁側へのプッシュバントが鮮やかに決まり、内野安打になりました。

相手守備陣の位置を確認し、さらに打球の強弱を即座に判断することが必要な、勇気がいるバントです。
井上君の快打がチャンスを広げ歓喜の勝利へ導きました。

箕島が春夏連覇した昭和54年の選抜大会でプッシュバントを多用。
春の覇者になった懐かしさがよみがえるシーンでもありました。

先手先手を取った金光大阪に食らいつき、初戦を飾った倉敷工。
その精神的な自信と誇りを痛感させられた試合です。

                     (元箕島高校野球部監督)

「尾藤スマイル」懐かしいですね。

2011年3月6日 膀胱ガンにより68歳で死去されました。

72名無しさん:2017/09/23(土) 16:57:23
尾藤監督さんの箕島との対戦 (第44回選抜高校野球大会 1972年)


27校が参加、下記がサンデー毎日の選抜展望号のランキングでした。

95点(日大三、静岡商、箕島、倉敷工、高知商)

90点(銚子商、日大桜ヶ丘、PL、大鉄、市神港、今治西)

85点(東北、取手一、花園、鳥取工、松江商、高知、鹿児島実)

80点(苫小牧工、成章、松商学園、福井商、奈良工、戸畑商、諫早)

75点(専大北上、名護)


倉工も山本投手を擁し、優勝候補の一角でした。
一回戦は箕島を2-1、二回戦は今治西を3-1で倒しベスト8まで進出。
決勝は日大三ー日大桜ヶ丘、史上初の東京決戦でした。


箕島は下馬評が高く優勝を期待されていた強豪だったのですが、
初戦敗退という結果に終わった事と、夏の予選敗退で後援会などから監督批判が噴出、
不信任票はたった1票だったのですが、監督を一旦辞め、ボーリング場で勤務されました。

倉工戦は箕島野球部の歴史を語る上で大きな分岐点になった試合と言えるかも知れません。
尾藤さんも昔を懐かしみながら倉工ー金光大阪戦を観戦されたことでしょうね。

73名無しさん:2017/09/24(日) 10:26:17
第81回選抜高校野球大会

2009年3月27日  2回戦

倉敷工5-6中京大中京

倉工:山崎ー頼
中京:堂林ー柴田


中京大中京が逃げ切った。初回に四死球の走者が失策で帰り2点先制。
2回には河合の適時二塁打などで3点を加えた。6-1の6回に4長短打で1点差に詰め寄られた堂林は、
走者を背負いながらも変化球を低めに集め、好守にも助けられてしのいだ。
倉敷工は山崎が5回以降はテンポよく投げ無失点だっただけに、ミスが絡んだ序盤の失点が痛かった。


山崎は、初戦の金光大阪戦と同様、この日も立ち上がりから制球に苦しんだ。
「ストライクを取ろうという気持ちが強くなりすぎて、固くなってしまっていた」。
四死球を繰り返すなど2回までに49球を費やし、中京大中京に5点を奪われた。
「相手に狙い打たれているようだった。バントを絡められ、きつかった」と山崎。

そんなエースを立ち直らせたのが、声をかけ続けた選手たちだった。
守備陣は3回に併殺を、5回には三木がヒット性の打球に飛びつき走者を二封にし山崎をもり立てた。
中盤から山崎の制球は徐々に安定。5回以降は得点を与えなかった。

「いいところに変化球が決まりだし、直球も切れて、中盤からは打たれる気がしなかった」と頼は話した。
「守備からリズムをつくる」。倉工が理想とする展開が6回に訪れた。

先頭打者の井上が内野安打で出塁。4番の三木は遊撃手が打球を胸ではじく強襲安打。
さらに、日下の犠飛、山形の中越え二塁打、5回まで3安打だった打線が一気に爆発した。
山形に続いて、山崎の一打で、1点差に迫った。


強豪相手に粘り強さを発揮し、観衆に「キセキ」を見せてきた選手たちを、
中山監督は「選手たちを称えたい。すごいチーム。普段はおとなしいのに、不思議です。本当によく応えてくれた」と話した。


初回、2回の四死球と失策が痛かったですね。
自責点は僅かに1点の山崎君。中盤からは良かっただけに少し悔やまれます。

34年前の選抜開幕戦のリベンジを果たした中京大中京。夏の選手権大会は優勝しました。
強豪に後一歩の所まで迫った倉工の粘りは天晴れだったと思います。


甲子園から帰り、小沢さんに報告に行っています。
小沢さんは感慨無量だったでしょうね。

74名無しさん:2017/09/30(土) 16:50:17
観覧席 「興奮した伝統校の激闘」


「よっしゃ、走れ、回れ」・・・。
銀傘の下の記者席で、一岡山県民になって大声を出してしまった。

倉工が金光大阪に延長12回逆転サヨナラ勝ちした激戦を今後忘れることはないだろう。
11-10。これほど凄まじいゲームにはそうお目にかかれない。

倉工は、常にリードを許しながら三度同点に追い付き12回についに試合をひっくり返した。
驚くべきは選手たちの気持ちの強さだ。

「打たれたら打ち返せ、とみんなベンチで声かけ合った」と頼主将。

9回、3点差をつけられた時、さすがに記者席で敗戦原稿を思い描いたが、直後に3連打で同点。
ナインは全く諦めていなかった。

くしくも前回出場した34年前も開幕戦で、愛知の中京(現・中京大中京)に16-15と辛勝。
この時、遊撃手として出場した神土コーチが、今回の試合前に「もう、あんな試合は勘弁願いたい」と言っていたのを思い出す。
だがまたしても、当時を再現したかのような壮絶な打ち合い。野球の神様のいたずらか、と考えたくもなる。

倉工は金光大阪戦に続く中京大中京戦で破れはしたが、5点のビハインドを1点差まで追い上げた。
「うちは力がない。そう認識しているからこそ思い切りぶつかっていけた」と中山監督や選手は言っていた。

もちろん、無欲だけで結果は出ない。ひたむきな努力があればこそだろう。
大舞台で強烈なインパクトを残した伝統校に心から拍手を送りたい。

75名無しさん:2017/10/01(日) 17:32:09
倉敷工26年ぶり12度目の優勝☆


2012年5月4日 春の岡山県高校野球大会 決勝戦 マスカットスタジアム

倉工9-8関西

倉工:三知矢、太田ー浜松、平尾
関西:加藤、児山ー関


倉工が乱打戦を制した。2点を追う6回表一死一、二塁、甲斐、岡田の連続適時打で追い付くと二死後、
井上直、本行に連続長打が飛び出し一挙5点の猛攻。
7回の小倉の左越ソロ本塁打も効き、4回途中から救援登板した太田が粘り強くリードを守った。

9回裏二死二、三塁、一ゴロのベースカバーに走ったエース太田の右足が、
打者走者のヘッドスライディングよりわずかに早く一塁に達した。
倉工がしぶとく、四半世紀遠ざかっていた春の県王座についた。

「勝ち方がいちいち劇的」と中山監督も苦笑いするしかない。

前日の準決勝も逆転サヨナラのピンチをしのいで理大付に守り勝ち、
昨秋優勝の光南との準々決勝は4点差を後半ひっくり返した。

両軍合わせて29安打が飛び交い、点取りゲームとなった決勝も満点の粘り。
好守にミスもあったが、重要な局面でナインは集中力を発揮した。

県内最多の甲子園25勝を誇るが、2000年以降の全国大会出場は2回。

「中国大会でもっと勢いを付け、勝負の夏に優勝を再現する」と決勝のソロ本塁打を放った主将の小倉。
古豪復活に向け加速を誓う。


熱戦の軌跡・・・二回戦12-0朝日、 準々決勝9-6玉野光南、 準決勝2-0理大付、 決勝9-8関西。 


主将小倉君の本塁打は見事だったね。決勝での本塁打は随分と観てなかった気がする。
「持ってる」人が春の県王座も久しぶりに奪還した。

76名無しさん:2017/10/07(土) 16:30:40
春の中国高校野球大会 「頂点へ意欲」


中山監督が「不思議なしぶとさがある」というチームの土台は打線だ。
県大会は4戦でチーム打率3割3分9厘。

特に集中打は見事で、光南との準々決勝、決勝はともに中盤にビックイニングをつくり逆転した。
打率6割を残した4番の小倉は「全員が思い切り振り抜くことで勢いを生み出せている」と明かす。

投手陣にやや不安があるが、理大付との県大会準決勝は右横手の内山が4安打完封し2-0で守り勝った。
万全でなかったエース太田や右腕の三知矢が復調すれば、ロースコアでの勝負強さも増しそう。

「個々の能力は決して高くない」(中山監督)が一枚岩となって弱点を補い合う。
象徴的なのは指揮官が「2人で1人」と表現する捕手、左翼、右翼。

それぞれスタメンは打力のある浜松、甲斐、小銭が入り、後半に守備が堅実な平尾、瓜田、大橋と交代して逃げ切りを図る。
小銭は「交代に不満はない。得意の打撃で貢献することが役割」と言い切る。

主将も4人制を敷く。小倉と平尾、井上と山形で負担を分け合っている。
中国大会で主将の代表を務める小倉は「優勝し、夏への勢いを強めたい」と、1975年以来の春の中国制覇に向け気合十分だ。

主将4人制は以前からあったのかな?
「持ってる人」は選手の技量はもちろん、性格などもよく掌握していたようだね。

77名無しさん:2017/10/07(土) 17:20:17
春の中国高校野球大会  

2012年6月2日  米子市民球場

倉敷工5ー1倉吉総合産


倉工は5犠打を絡め、1点を積み重ねた。
4打席連続適時打を放った小倉の決定力が大きい。

井上、本行が2得点ずつと1、2番の役目をよく果たした。
エース太田はチェンジアップを有効に使い、8回を散発4安打、自責点0にまとめた。

倉工の4番小倉が全打席タイムリーの離れ業をやってのけた。
「神様が味方をしてくれた」とおどけるように、ややグリップを余して握るバットは、まるで魔法がかかったよう。

初回二死二塁は三遊間へ先制打。3回二死三塁ではレフト前へ。
5回一死二塁では左翼フェンス直撃の二塁打。7回一死二塁ではショートへ内野安打。

ことごとく得点圏で打席が回ってくる巡り合わせも含め「本当についている」と笑う。
県大会も6割と打ちまくり、チーム4人いる主将を代表し今大会のキャプテンを努める。

チーム全体を見渡せば13安打5得点は「物足りない」。
次戦はセンバツを経験している鳥取城北だけに「運だけでは勝てない」最後は真顔になる。
古豪の支柱は、決してうかれない。

小倉君のバットコントロールは素晴らしい。
天性のものもあるだろうが、バットを短く持って鋭く振り抜く、努力の賜物だね。

78名無しさん:2017/10/08(日) 14:32:31
春の中国高校野球大会

2012年6月3日  米子市民球場

倉敷工11-5鳥取城北


倉工が16安打で打ち勝った。初回、浜松、小倉の連続二塁打で先制。
三回は相手守備の乱れに乗じ、4短打にスクイズを絡め4点。

四回も小銭の2点本塁打などで4点を奪い優位に立った。
先発内山は5回無失点の好投。コールド勝ち目前の六回、リリーフが5点を失っただけに前半の大量点が効いた。
鳥取城北は西山、浜上の両右腕が試合をつくれなかった。


「すんなり終わらないところがうちらしい」。
最後は逃げ切る形となった中山監督は半ばあきれつつ、どこか楽しそうだ。

古豪が得意とする乱戦を制し37年ぶりの優勝へ王手をかけた。
6回までに挙げた10点の貯金が効いた。

前日4打席連続適時打の4番小倉が、又しても先制打を含む3本の適時打を放つこと自体、神懸かっているが、
攻撃がすべて良い方向へと転がっていく。

例えば3回一死一、三塁。小銭がスクイズを空振りするものも、
挟殺プレーの送球が浮く間に三走の本行が本塁をかすめ取った。

4回も小銭。エンドランを空振りした後、開き直った結果が、左中間への特大2ランだ。
県大会からミスをした選手が活躍する珍現象が度々起こる。

もう一人、象徴的なのが打撃不振で3番から下位に降格した楢原。
送りバントを失敗した次の2打席で、低めの変化球に食らい付き見事なスクイズを決めた。
8回には追い上げられるムードの中で貴重な適時打を放った。

失策と3つの四死球が絡み5失点した6回の守りに目をつむることはできないが、
何かを持っているこのチーム、このまま勢いに乗ってしまうのもいい。

79名無しさん:2017/10/08(日) 17:18:55
倉敷工 37年ぶり2度目の優勝☆  秋を含めると5度目の中国大会制覇☆

春の中国高校野球大会  2012年6月4日  米子市民球場

倉敷工7-3尾道


倉工が13安打と活発で、しぶとく二死から6得点した。
3回は井上、浜松の適時打で2点を先取。4回は二死から、四球を挟んで井上の2点三塁打など4連打で一挙4点を奪った。

右横手の内山は2併殺のほか、二塁封殺が三度と緩急でゴロを打たせ、粘り強く完投した。
尾道は先発の森実が打ち込まれた。打線は4回に4本の短打を集め反撃に出たが、その後は決定打を欠いた。


試合を終え球場を出る倉工ナインを、保護者やOB、ベンチを外れた部員たちの長い列が待っていた。
一人一人が歓喜のハイタッチを交わす。チーム全体が一枚岩となり、実に37年ぶりの栄冠をつかみ取った。

3年生で占めるベンチ入り18人の結束は格段に固い。
「よくまとまり、よく成長した」と中山監督。

一昨年の1年生大会で初戦をコールド負けした世代が大化けした。
成長の証しの打線は決勝でも火を噴いた。前日まで7適時打の小倉は沈黙したが前後の打者がカバー。

3安打3打点の井上は「全員が打撃への意識を高く持ち練習してきた。必ず誰かが打つ雰囲気がある」と打線の厚みに胸を張る。
守りでは背番号11の内山が「ピンチで粘れた」と3失点完投。

前日の5回無失点と合わせ主戦級の役割を果たした。背番号7の捕手浜松も難があった捕球でほぼノーミス。
これまで途中交代が多かったが、2日連続でフル出場し「生捕手に一歩、近付けた」。

個々のチームも逞しくなり1ヶ月後の全国選手権岡山大会は他校のマークも厳しくなるだろう。
主将の小倉は「息をつく暇はない。甲子園に行くためにもっとレベルアップする」。
春の収穫を胸に、ナインは勝負の夏へ向かう。


中国大会優勝☆・・・1963年秋、1971年秋、1975年春、2008年秋、2012年春、(合計5回)


中国大会準優勝・・・1957年秋、1958年秋、1961年春、1966年秋、1967年春、

           1973年秋、1974年秋、1986年春、(合計8回)


甲子園には行けなかったが良いチームだったね。
1年生大会で初戦コールド負けしたチームとは思えない。

中山監督の功績は大きい。随分と遠ざかっていた中国大会制覇を2回も観せて貰った。
選抜でも奇跡を観せて貰った。出来ればもっと長く監督を続けて欲しかったね。

80名無しさん:2017/10/14(土) 11:35:14
「第50回全国高校野球選手権大会  青春」 

1968年9月21日公開の長篇記録映画   総監督・市川崑


【ストーリー】

大鉄傘に風の音が鳴る冬の甲子園球場。
人影一つない風景、夏の烈日の下にエネルギーを爆発させる球児の姿が幻のようだ。

第一回全国中等学校優勝野球大会は、豊中球場に十校を迎えて村山朝日新聞社長の始球式で、熱戦の火蓋をきった。
優勝校京都二中。大正十三年、甲子園球場完成。昭和二十三年その名称は全国高等学校野球選手権大会と改められた。

数々の激闘、球児たちの青春の歴史は日本全国で力強く受継がれ、第五十回の記念大会を迎えた。

厳寒の北国。あかぎれの手がボールを握り、かじかんだ手がバットをつかむ。
雪の降り積もる校庭を掘り起して得たわずかな土の上での練習を行う。
厳しい北国のトレーニングだ。網走の雄大な流氷と並んで走る部員たち。

そしてスモッグに覆われた都会の高校では、いくつもの部にまじって、野球部もラッシュアワーのような校庭で練習を行っている。
春の到来。硬質の打球音が響いてきた。150人の部員のチーム。片腕でノックバットをふる男。
カッとまぶしい南国・沖縄。ジェット機の騒音の下、ここでも精魂をこめた猛練習が行なわれている。日本全国で、猛練習が行われている。

球児たちが夢に描く、夏の大甲子園。七月、各地一斉に地区予選が始まった。
地方の荒れたグラウンドは見物人もまばらだが球児たちの一球は甲子園と同じかけがえのない一球だ。

北は北海道から南は沖縄まで、四十八代表校が決った。
対戦相手を抽選する大阪フェスティバルホールは、組合せが決まる度ごとにどよめく。

いよいよ、第50回大会の開幕だ。スタンドを埋めた大観衆。割れるような拍手、大観衆が揺れ動く。
選手入場。ああ、夢にまでみた甲子園。大会旗の掲揚、国歌演奏。舞上る数百羽の鳩。

一転して、解体された戦時中の甲子園球場。戦死した野球人の面影。

第一球をワインドアップする投手。享栄対倉敷工、かくして今大会四十七試合の熱戦の幕が切って落された。



「審判の右手が高々と上がりました・・・倉敷工業の小山投手 やや冷静に やや意気込んで 第一球を投げました・・・」

痛い肩と肘なれども気力を振り絞って投げる小山投手の勇姿ですね。

「バッターの中村君を呼んで監督が何か言っています・・・」小沢さんも若い。

DVD化されていますのでご覧ください。

81名無しさん:2017/10/15(日) 10:05:14
水本勝己

倉敷市生まれ。 倉敷工から松下電器、現在は広島カープ2軍監督。


1986年夏、岡山大会の決勝・岡山南戦で倉工の主砲は右翼席に本塁打を放った。
18年ぶり7度目の甲子園出場に強打の捕手として貢献。

この年の3年生にはのちにプロ入りした選手が5人もいた。
理大付には86年度ドラフト2位でロッテに指名された森広二投手、関西には阪神からドラフト6位指名された真鍋投手。
共にプロでは大成できなかったが、真鍋は今もNPB審判員として活躍している。

そして岡山東商には社会人・川崎製鉄水島を経て経て89年度ドラフト2位で巨人に入団した吉原捕手、
倉工が決勝で破った岡山南には90年度のドラフト外でダイエー(現ソフトバンク)に入団した坊西捕手がいた。
水本、吉原、坊西の3人は、捕手三羽がらすとして岡山球界では有名な存在だった。

甲子園では初日の第3試合で後に巨人に入団する川辺忠義投手率いる秋田工に1-11で敗退。
卒業後は社会人野球の名門・松下電器(現パナソニック)に入社。
89年度ドラフト1位で西武に入団した潮崎投手とバッテリーを組んで3年連続で都市対抗野球に出場した。

プロ野球からの誘いはなかったがプロへの夢を諦められず、
倉工の先輩でもある当時広島のコーチを務めていた片岡新之介コーチを頼ってテストで広島に入団。
しかしアマ時代まで順風満帆だった野球人生もプロでは2軍でわずか39試合、2年の選手生活だった。

82名無しさん:2017/10/15(日) 10:50:46
水本勝己 

異例の抜擢・・・広島カープ2軍監督へ出世街道を歩いた理由


「言われた時はビックリしましたよ。僕にはトラウマがある。
選手時代に上でやったこともない人間が、こういうポストに就いていいのか…」

水本自身に1軍出場歴はなく、2軍でもわずか39試合に出たのみ。
2年で早々に現役を退き、ブルペン捕手として長くチームを支えてきた。

日本球界の慣例に従えば極めて異例の抜擢。
その裏には選手時代の実績にとらわれない、球団フロントの柔軟な姿勢があった。

「厳しさと優しさがあり、下積みの時代から選手を叱咤激励していた。人間としての幅も持っている」。
鈴木清明球団本部長は水本の起用理由をそう説明する。

よかれと思えば黒田博樹、新井貴浩らにも臆せず苦言を呈した。彼らの信頼は変わらず厚い。
07年にブルペンコーチ補佐の肩書きが付いて以降は、本人が望むと望まざるにかかわらず、
とんとん拍子で“出世街道”を歩んだ。

「プロ野球の世界に入って本当によかったと思います。現役時代はいろんな指導者に出会い、
考え方とかいろんなことを勉強させてもらった。プラスになることが多かった」

最も影響を受けたのは元監督の故三村敏之氏だった。
阪神・金本、広島・緒方両監督をはじめ、同氏を慕う指導者は少なくない。

三村氏に習って読書を欠かさず、最近では「置かれた場所で咲きなさい」(渡辺和子著)を読んだという。

「三村さんは僕が1軍でやっていなくても、言わせる雰囲気を持ってくれていた。僕もそうありたい。
意見に感謝の気持ちを持って耳を傾けつつ、判断と決断をどう下すか。
それが僕の仕事なので、勉強しなくちゃいけない部分ですね」

勉強意欲、吸収意欲が旺盛で、人をいかに動かすかを考え、言葉遣い一つにも注意を払う。

名選手は名監督にあらず…とよく聞くが、実績のある選手が名指導者になるとは限らない。
人の痛みがわかる苦労人の挑戦にエールを送りたい。

83名無しさん:2017/10/15(日) 14:12:12
水本勝己

広島カープ初のファーム日本一☆


広島2軍は26日、1991年以来、26年ぶり9度目のウエスタン・リーグ優勝を決めた。
セリーグを制した1軍との同時優勝は同年以来、2度目。

この日はデーゲームの阪神戦(鳴尾浜)に勝ってM1とし、ナイターで2位・中日がソフトバンクに敗れてVが決定した。
水本勝己2軍監督(48)は「チーム全体のレベルが上がっての優勝。1軍と共に優勝できたのはとても嬉しく思う」と喜んだ。
10月7日に宮崎で行われるファーム日本選手権に出場する。


「ファーム日本選手権、巨人2-5広島」(7日、KIRISHIMAサンマリンスタジアム宮崎)


ウエスタン・リーグ覇者の広島が5-2でイースタン・リーグ覇者の巨人に逆転勝ちし、初の日本一に輝いた。
兄貴(1軍)がシーズン中に幾度となく見せつけた終盤の逆転劇を、弟分もやってのけた。

2点を追う七回、堂林の左前打をきっかけに小窪、美間の連続適時打で同点に追いつき、
なおも一死一、二塁のチャンスにルーキー坂倉が勝ち越し3ランを右翼席に運んだ。

今季は高卒新人ながら2軍の正妻の座を奪い、打率はリーグ2位となる・298をマーク。
シーズン終盤には1軍出場も果たし、プロ初安打初打点をマークした。
ファーム日本一が懸かった大舞台でも非凡な才能、そして勝負強さをいかんなく発揮した。 

33年ぶりの日本一を目指す広島1軍にとっても大きな励みとなる2軍Vとなった。

84名無しさん:2017/11/25(土) 11:11:10
水本氏に敬意を払い広島カープ情報


37年ぶりのセリーグ連覇もCSで敗退。
セリーグ初の下克上で3位の横浜が日本シリーズへ。
ソフトバンクが4勝2敗で日本一に。

CS制度で仕方ないがセとパを大差で制した同士の日本シリーズを観たかったね。



広島のドラフト・・・6選手中高校生が4人に、大学生2人。
社会人はゼロで全員が将来性を見込んでの指名。

1位で地元・広陵高の中村奨成捕手を2球団の競合の末に獲得すると、
2位で熊本工の152キロ右腕・山口翔、3位のケムナ・ブラッド・誠(日本文理大)、
即戦力というよりは将来性を買っての指名。

以下、4位の永井敦士外野手(二松学舎大付高)、5位の遠藤淳志投手(霞ケ浦高)、
6位の平岡敬人投手(中部学院大)と、これでもかと素材型を並べた。

超高校級捕手と評判の中村も、出てくるまでに3、4年はかかる?
裏を返せば、来季も現有戦力で十分に戦えるということ。

確かにカープのレギュラー陣は若い。来季いきなり働けなくということは考えづらい。
今年のドラフトの狙いは明白。「その次の世代」を見据えた補強だ。

カープはこれまで主力のFA流出に泣いてきた歴史がある。
当時とは状況が激変したとは言え、備えておく必要がある。

今季、ファームでも26年ぶりに優勝を遂げた。
2年目の坂倉や、高橋昂也ら次世代を担う若手も育ってきている。
育成に定評のある広島は、育て上げて黄金時代を作る。

85名無しさん:2017/11/26(日) 11:12:04
水本氏に敬意を払い広島カープ2軍由宇(ゆう)練習場の話題


カープの2軍練習場は山口県岩国市由宇町にある。

選手寮や室内練習場などは広島県廿日市市に存在する。
だから練習や試合日、選手など関係者はここからバスで由宇まで移動する。

もともとカープは同じ広島県福山市内に2軍本拠地を持っていた。
しかし大野からの便や施設面などを考慮。

いくつかの候補地から選定し93年から現在の施設を使用するようになった。

その由宇練習場は広島から山陽道に乗れば車で約1時間弱、
電車でも在来線で約1時間(ただしJR由宇駅からバスなどのアクセスが悪いのだが…)。
立地条件としては恵まれている方である。

とはいえ、山に囲まれた町並みで駅前も含め、閑散とした印象は拭えない。
娯楽が多くない地方都市、2軍とはいえ、プロ球団が試合を行ってくれることは町にとって大きい。

カープのリクエストに応え、由宇町もできるだけのサポートを行っている。
ハード面で はフィールドやロッカーなど球場施設の改修。

そしてソフト面ではファンへの『おもてなし』である。
ネット裏高台には、かつてのビジターチームのロッカーが改修されたショップがある。

そこではカープ由宇協力会の方々が接客をしていた。

「地元名産の神代わかめを使用した『手抜きうどん』
(『さぬきうどん』に対抗したシャレ)などは名物になりつつあります。

16年に優勝した時も商店街など、いつもとは比べられないほど人が集まった。
今日も仕入れた弁当20個が完売ですよ(笑)」。
事務局長の出雲さんはのどかな話をしてくれた。

とはいえ、カープの2軍組織である。一番の目標はチーム強化であり、実際に結果につながる大事なセクション。
球界の流れに逆行しているような由宇練習場のように感じるのだが…。

実際にチームを扱う立場の水本2軍監督に聞いた。・・・続く。

86名無しさん:2017/11/26(日) 11:36:46
「まず練習するしかない環境というのが最も大事だと思う。

プロに入って来る選手は実力もあるし、身体の強さも持ち合わせている。
それを磨くことができるかにかかっている。体力はあるのだから、

多少のハードトレーニングをさせてもしっかりケアをすれば、壊れることはない。
それができるかどうか…。選手というのはプラスかマイナスしかないのだから」


水本監督はテスト生として89年のドラフト外で入団も2年で引退。
長期に渡りブルペン捕手をつとめ11年に3軍統括コーチに就任した。
そして14年オフに2軍監督代行、16年より2軍監督に就任した、いわば生粋の叩き上げだ。


「僕自身の現役が短かった。やっぱり悔しい部分もあるし、その後の裏方生活でもいろいろな選手を見て来た。
だからこそやりたいこと、言いたいこともある。『伸びるのに人間性も必要』と言われる。
必要ないと思うかもしれないですけど、僕の経験上、そういう選手はやっぱり伸びる」

一人の選手の名が挙がった。背番号10、岩本貴裕。

10年に1軍で2桁本塁打を放ち一時レギュラーを獲得しつつも、その後、数年は不調。
そして17年、完全復活を果し、大事なところで貴重な働きを見せている。

「行けると思ったけど、少し、調子に乗ったかな。だからその時にはいろいろと話させてもらった。
厳しいこともたくさん言った。本当に怒鳴り上げたりもしました。でも彼はもう一度、頑張ってくれた」

「鈴木誠也が欠場中の中、よくカバーしている。でもまだまだ、あんなものではない。
年齢だって31歳と油が乗り始める時期。技術的にも進歩できるし、彼も身体が強いから」


「最も大事なことは1軍が強くなること。
そのために多くの選手の才能を伸ばして戦力を作ることが我々の仕事です。

だから重要なことは、2軍でも当然のように戦えないといけない。
それはベテランでも高卒の若い選手でも変わらない。
まずは2軍で戦力として結果を残す。それも飛び抜けたくらいであって欲しい」

「だから戦えない選手は下でも使いません。今、現在、試合へ出て戦える選手を使って勝つ。
それが2軍でも重要だと思う。

緊迫した試合に勝つことによって技術や経験など、様々なことを覚えることもできる。
普段の練習はもちろんですが、加えて実戦。
これらにいかに真剣に取り組むかで選手の伸び方が大きく変わって来ると思う」

「よく故障明けの調整登板などがありますけど、ああいうのも基本はやりたくない。
チーム予算の中で保有可能な選手数があって、規則上ファーム組織も1つしかないから、それはしょうがない。
だから3軍の扱いなども他チームさんとカープは大きく異なって来る。

3軍でノンビリ育成している時間も余裕もない。
戦える選手ならばシーズン中でも契約する。使えるなら即、1軍に上げる。でもそうでなければ…。
もちろん球団の判断もありますが、そこはシビアな部分だと考えています」・・・続く。

87名無しさん:2017/11/26(日) 11:50:18
いろいろな選手が混在する組織の中、水本にはやるべきことがたくさんある。

「ファームには答えがない。でも1つ確かなのは、カープが強くなることが最も大事なこと。
ここ十何年やって来たことがようやく形になり始めている。ここで萎んでしまっては、少し前の低迷期に戻ってしまう。
強くなり始めてファンも増えている。順調に進み始めた今こそ、原点を忘れてはダメ」


選手にとって由宇練習場の存在位置というのは、絶好の場所なのかもしれない。
最新の機材や設備が揃った住居隣接の練習、生活環境。

いつも多くのファンが足を運び、サインや写真を求められる施設は『恵まれた環境』とも言える。
しかしプロとして重要なことは、1軍のフィールドで戦力になること。
その原点が由宇にあるのではないだろうか。言ってみれば真逆のような環境であるからこそだ。

平日昼間のデイゲームだが、500人ほどの観客が由宇には集まった。
決して多くはない数字ではあるが、この熱烈なファンたちもカープ躍進をサポートしている。

また芝生席に椅子やテントを持ち込み、思い思いに試合を楽しんでいる。
「今日は休みを取りました。遅めの夏休みです(笑)。ここはノンビリできる。

野外フェスみたいな感じで昼からビール飲みながら寝転んで試合見るのが楽しい。
今日は大瀬良大地もいるし、他にも良い選手は多いですよ」。

鈴木誠也や西川龍馬が這い上がって来る姿も見て来たのだろう。
そうすれば思い入れや感情移入も強くなり、より強く応援したくなる。その周囲の姿勢がさらに選手の後押しをする。

山口にある少し時代とかけ離れた由宇練習場。ここがカープ躍進の一端を担っている。

88名無しさん:2017/11/26(日) 12:12:14
広島カープ2軍関係者も優勝パレードへ参加


37年ぶりにセ・リーグ連覇を果たした広島の優勝パレードが25日、
広島・西区の平和大通りで行われた。

コースは西観音町電停東から鶴見橋西詰までの約3キロ。
昨年同様、天気にも恵まれ、沿道には30万人を超えるファンが集まった。

選手、関係者はオープンカー2台、オープンデッキバス6台に分乗。

緒方孝市監督、リーグMVPに輝いた丸佳浩外野手ら一軍メンバーだけではなく、
今年は球団史上初めてファーム選手権を制した二軍の関係者も加わった。

広島の優勝パレード実施は、初のリーグ制覇を飾った1975年、

そして25年ぶり優勝を果たした昨年に続き2年連続3度目。

沿道からは「連覇おめでとう!」
「来年こそ日本一!」などの声 が聞かれ、選手たちは笑顔で応答していた。

89名無しさん:2017/12/02(土) 15:02:05
11月17日、18日、第69回倉工祭


今回から、文化祭から倉工祭に、改称して盛大に開催された。

今年のテーマは「 記憶に残るような創造性あるものを 」。

一般公開となった、18日は朝早くから、他校の生徒さんら多くの方々が来校。
体育館では、ダンスやコーラス等。

中庭では、書道部による、書道パフォーマンスや、吹奏楽部の演奏など。
さらには、各教室、各部によるパフォーマンスなど、盛りだくさんの内容でした。

おいまつ会館では、今年もOB、教職員による写真や作品の展示がありました。
こうした中で、最も注目されたのは、倉工が開校された、昭和14年の写真パネルや、戦時下の倉工生。

また、甲子園初出場した時の写真パネルなど、多くの人が見入っていました。
そして、倉敷ケーブルテレビの取材もありました。

今後の課題として、展示される数が少なくなっているので、もっと多くの方の協力を、頂きたいものです。


がんばれ 倉工!   技術 スポーツ 美しい文化の倉工へ!

90名無しさん:2017/12/02(土) 17:15:07
監督 小沢 馨物語


第31回全国高校野球選手権大会 準々決勝

三年連続優勝を目指した小倉北。

「 キープ マイ ペース 」を唱えながら

終始冷静な、投球を続けたエース小沢の過酷なマウンド。
その小沢を援護した、捕手 藤沢新六の2本の左中間への、大ホームラン。

無欲であるがゆえ、小沢は詫びた。無欲であったがゆえ、倉工は勝ったのである。


迎えた準決勝。相手は、2年連続2回目出場の岐阜。

1対3とリードされた四回、1点を返し、さらに無死満塁のところで、突然の雨。
翌日再試合となった。

宿舎に帰った倉工ナインは、風呂の中で『 これなら勝てる。優勝できるかも 』
と、はしゃぎ立てた。欲が出た。無欲から欲にかわった。

再試合では、強振を続ける打線は空回り。
頼みのエース小沢は、連投の疲れで、ひじが上がらない。

球は走らず、2対5で敗れた。敗戦を決めた無情の雨。

【 あの時さえなかったら。今でも、雨の日には想い出す。 】と、小沢は言う。


 準決勝  岐阜 3-2 倉敷工  ( 4回降雨ノーゲーム )

      岐阜 5-2 倉敷工


昭和24年8月20日。倉敷駅前広場。

初出場で、ベスト4。感激を味わったのは、倉工ナインよりも、倉敷市民だった。

倉敷駅前広場に、集まった大群衆は、駅前だけでなく、沿道にも人があふれ
人々は、「 万歳! ばんざい! 」の連呼。空には、打ち上げ花火が上がり

ブラスバンドの演奏までが、加わった。急こしらえのステージに、立った倉工ナイン。
そして、主将の小沢が、挨拶をする事になった。

91名無しさん:2017/12/02(土) 17:50:13
小沢 馨物語


昭和24年8月20日

倉敷駅前広場に集まった大群衆は、現在の倉敷国際ホテルぐらいまでの沿道を埋め尽くした。

まさしく倉敷の夜明け。新しい時代が始まろうとしていた。急こしらえの、ステージに立った倉工ナイン。


「 主将の、私に挨拶をしろと言われて、私は上がってしまいましてね。あんな大勢の人々なんで。

それで【 優勝は、できませんでした。今後は、後輩たちを指導して、必ず全国制覇を目指して、

皆様の期待に、添いたいと思います。】 と、言ったらしんですよ 」。

小沢は、大群衆に、いや倉敷市民に約束した。


のちに観光都市、あるいは工業都市に発展して行く倉敷。
倉敷の名を全国に伝えたのは、倉工エースで主将の小沢。
倉敷市民から、大いなる期待が寄せられたのである。 

倉工卒業後 小沢 と 藤沢は、プロ野球阪神タイガースの入団テストに合格。
プロ野球生活をスタートさせた。しかし、一軍からの飛び出しは、来なかった。

一年が経過した頃、社会人野球、日鉄二瀬から、誘いを受け、

阪神タイガースを一年で退団して、二人揃って日鉄二瀬に移籍する。

「 今の給料の、2倍の給料をやる。と言われて、小沢と二人で行きました。 」と、藤沢。


移籍した直後の事。倉敷から、使者が小沢のもとにやって来た。

その使者とは、何と倉敷市長からだった。 「 小沢君、倉工の監督をやってくれないか。

倉工を強くして、甲子園に行って、倉敷の名を全国に広めてほしいんだ。

就職先は、もう用意してあるから。倉工グランドの横の、倉敷市立工業高校の、事務員。

仕事の途中でも、野球の指導をしても構わない。と、市長が言ってるから。 」

倉敷市長から、直々に監督を要請された小沢。


こうして、倉工小沢監督が、誕生したのである。小沢監督が、20歳だった。

倉工の夢。倉敷の夢。夢は、ここから始まった。

92名無しさん:2017/12/10(日) 13:10:33
広島カープ 優勝旅行


37年ぶりにリーグ2連覇を果たした広島は1日夕方、

緒方監督やMVPに輝く丸ら選手17人、
家族、スタッフら計228人が優勝旅行先の米国ハワイ・ホノルルへ向け、
広島空港から日本航空のチャーター便で出発。

2軍の水本監督やコーチ陣は成田空港から出発し、現地で合流。
一行は7日に帰国した。


やはりプロは勝たねばなりませんね。
高校野球はそればかりではないのですが・・・。

93名無しさん:2017/12/10(日) 13:35:06
小沢 馨物語


昭和50年。第47回全国選抜高校野球大会。2年連続9回目の出場。

小沢監督は、今までに類のない大型チームを、作り上げる。

このチームは個性派集団で、一度火がついたら、とてつもない実力を発揮するチーム。

倉敷市民は、「 今度こそ、全国制覇を 」と、願ったのだった。

「 とにかく、個性が強い奴ばっかりだったので、チームをまとめるのに苦労しました。 」
こう、語るのは、一年生からレギュラーを獲得し、当時主将だった、大倉一秀。

この選抜に出発する前、倉工ナインは、テレビに出演。司会者が、小沢監督に尋ねた。

「 今回のチームの、いつもと違う点は、どこですか? 」すると、

小沢監督は、「 今年は、センターラインが、いいんです。センターラインがいいと、野球は強くなるんです。 」
センターラインとは、捕手、投手、セカンド、ショート、センターの事。

そして、小沢監督は、次の様に語った。
『 一度でいいから、優勝旗に手をかけてみたいですね。 』

この言葉には、マスコミが騒いだ。小沢監督が【 優勝 】と言う言葉を使ったからである。

【 優勝 】と言う言葉を使ったのは、何年ぶりであろうか。

昭和43年夏、大エース 小山投手 を擁した時、以来ではなかったか。

倉工久しぶりの、大型チーム。エースは剛腕 兼光保明。

防御率0点代と言う、驚異的な数字を持って甲子園に、乗り込む倉工ナイン。

94名無しさん:2017/12/10(日) 15:31:35
小沢 馨物語


昭和50年春。第47回全国選抜高校野球大会。組み合わせ抽選会。

小沢監督は、会場入り口で中京、杉浦監督とバッタリ。
二人は談笑しながらもお互いの健闘を誓いあった。

そして、いよいよ抽選会が始まった。
主将大倉が引いたクジは、何と開会式直後の第一試合。

しかも、相手は健闘を誓いあった名門 中京。その瞬間会場がどよめいた。

そして、二回戦では原辰徳のいる東海大相模。さらに、会場がどよめいたのだった。
一回戦から好カードだったからであろう。

剛腕エース兼光の名前は、全国的にも知れ渡っていた。

開会式が終了して一塁側 倉敷工、三塁側 中京がベンチに入った。
外野のノックは、小山コーチ、内野は、小沢監督が行った。

ノックを終えた小山コーチは、ユニホームのままバックネット裏の最前列に座った。

その時、隣にある人物が座りに来た。「 倉敷工業のコーチの方ですか 」

「 はい そうです。 」その人物こそ、豊見城 沖縄水産を合計17回も
甲子園に導いた裁弘義監督だった。

この時、甲子園初出場。どんな名監督でも、最初から名監督ではない。
最初は、誰でも「 学ぶ 」事から始めるものである。

恐らく裁監督は小沢監督から、小山コーチを通じて何かを「 学び 」に来たのであろう。

そして、プレーボールのサイレンが、甲子園に鳴り響いた。

ところが、エースに異変が生じていた。剛腕エース兼光の異変。

「 甲子園入りする前から、兼光は、体調を崩していました。 」と、小山コーチ。

95名無しさん:2017/12/17(日) 11:17:50
小沢 馨物語


昭和50年 第47回全国選抜高校野球大会。 開幕戦。

倉敷工 16-15 中京

球史に残る打撃戦になった。
大会1号を、9番レフトの野田が、大会2号を7番サード石原が、それぞれレフトスタンドに運んだ。

終わってみれば倉敷工15安打、二塁打5本、三塁打1本。
対する中京は、14安打、二塁打1本、三塁打2本だった。

剛球右腕 エース兼光は、中京戦に登板するも、高熱は下がらず、試合の記憶すら、定かでないという。

主将大倉は、「 兼光が高熱があるのは、知っていました。 」
守備の名手 神土は、「 兼光さん、よく打たれるなあ。それにしても中京は 、良く打つなあ、と思っていました。
それで、兼光さんが熱があるとは知りませんでした。 」と。

最大11点をリードするが、中京打線にノックアウトされ降板。
「 もうやけくそで、兼光をかえました 」と、小沢監督。チームは、何とか逃げ切った。

小山コーチは、次の様に語る。「 13対2の時、中京は逆に気軽になったのでは。
野球というのは、1点や2点差となったら、プレッシャーになるもの。 」

試合後、小沢監督は大会関係者に、『 ぶざまな試合をしてしまい、申し訳ございません。 』と、深く頭を下げたのだった。
この試合、同点にはなったが、逆転されなかったのが大きい。

二回戦は、東海大相模。三番 原辰徳 四番 津末英明を擁する打線は、全国一。
倉敷工 と 東海大相模。この試合が、事実上の決勝戦と言われたのだった。

東海大相模の監督は、「 あの程度の投手なら、うちの打線なら、楽に6点は取れる。 」と、笑みを浮かべた。


小沢さんはエースに拘る人だったですね。大変な高熱で登板させるのは無茶。
キャッチャーミットが二重三重に見えたそうだから。
塚岡君先発か、もっと早く交代させるべきだったね。
又しても奇跡の大逆転負けかと冷や冷やしたのを思い出す。


東海大相模の原貢監督・・・鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退。ノンプロを経て、福岡県立三池工業野球部監督に就任。
無名校を初出場にして1965年夏優勝へと導き、三池工フィーバーを起こす。
その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大の創設者の招きで東海大相模監督に就任。
東海大相模の名を全国に轟かせ、神奈川高校野球界の勢力図を塗り替える。
1974年(昭和49年)には長男・辰徳が東海大相模に入学し、「親子鷹」としても話題となる。
2014年に78歳で死去されています。


工業高校の優勝☆・・・1965年夏(第47大会)の三池工と1968年春(第40回大会)の大宮工のみ。

             倉敷工も優勝して然るべきだったが・・・。

96名無しさん:2017/12/17(日) 15:11:03
広島カープ 5泊7日のハワイV旅行


今年は選手やスタッフ、その家族ら228人が参加。
選手らは常夏の島で、どんな休暇を過ごしたのか?意外と知られていないので紹介したい。

ホノルルに到着した1日の夜は滞在先ホテルで、ウエルカムパーティーが開催された。
鈴木本部長のあいさつに始まり、緒方監督が乾杯の音頭を取り、連覇をお祝い。
ムードメーカー上本が飛び入りでハワイアンダンスを披露するなど大盛り上がりだった。

2日目はオーナー杯ゴルフが開催。強風に見舞われながらも選手たちはハッスル。
丸は「プロに入ってから暖かいところでゴルフするのは初体験。すごくやりやすかったです」と声を弾ませていた。

行事は2日目まで。3日目はテレビのロケ日が設けられているが基本的に自由行動だ。
4日目、5日目はそれぞれがプライベートの時間を楽しんだ。

安部、野間は報道陣の要望に応え、サーフィンに挑戦してくれた。安部は持ち前の身体能力を発揮。
見事な波乗りを見せ「楽しかった。かなり乗れましたね」と満足顔だった。

野村、薮田、中村祐はオアフ島のシンボル・ダイヤモンドヘッドへ登頂。
道中で小学生の時にバッテリーを組んでいた同級生と遭遇した野村は「びっくりです」と目を丸くし、
頂上では「景色がきれいで感動しました。パワーをもらいました」と絶景を目に焼き付けていた。

シーズン中、遠征が多い選手にとって優勝旅行は家族と過ごせる絶好の機会でもある。
緒方監督は家族で人気のパンケーキ店へ。新井も子どもたちとプールやショッピングを満喫し、
「楽しかった。家族サービスもできて良かったよ」と笑顔。
帰国の前夜は石原、会沢、小窪らの家族と夕食を楽しんだという。


今年はウエスタン・リーグを制したファーム関係者も参加。
水本2軍監督は「ありがたいことだよ」と感謝を口にしていた。

来年は球団史上初リーグ3連覇、そして悲願の日本一を目指すシーズン。
今年のような大差にはならないでしょう。 果たして・・・。

97名無しさん:2018/01/01(月) 12:27:08
鐵腕K:2018/01/01(月) 08:46:38

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

と言いたいところですが、一身上の都合により、当分の間、試合観戦ができなくなりました。
当分と言いましても、いつまでになるか今のところ判りません。
高校卒業までは倉敷市、その後は近畿地方や岡山県で生きてきました故、少なくとも公式戦の
ほとんどを見させてもらいました。

仕事と同程度に倉工野球を大事に思っていた私ですが、齢56歳にして、このまま朽ち果てるか
or もう一花咲かせるかと考えた時に、人生の最後を東京で勝負したいと思いました。
したがって、春からは仕事最優先、おいそれと帰って来られなくなります。

昭和43年7月の岡山東商戦(第50回記念大会)からファンになりまして、奇しくも丁度50代後輩に
あたる現2年生の創志学園戦(秋季県大会)が最後の観戦になりました。
最後の観戦では小山さんの近くに座ることができ、良い思い出になりました。
ユニのマイナーチェンジは残念ですが、幸いそれを見ることはありませんでした。
寧ろ潮時と思うことにしました。(ユニが変わってもファンであることは死ぬまで変わりませんが。)

昔と違い、このようなところで倉工野球の情報が読めるというのは非常に有難い時代です。
どこに行きましても、暇さえあれば当掲示板を読みに来ると思います。
時には思い出話を書き込むかもしれませんが、年寄りの独り言と読み流してください。

↑↑
明けましておめでとうございます。

Kさんのコメントを「倉工ファン」にコピーさせて貰いました。
どうぞお元気でお過ごしください。
ユニフォームの件は私も非常に残念に思っております。

時々こちらも覘いて頂ければ幸いです。
ありがとうございました。

98名無しさん:2018/01/27(土) 11:21:25
小沢 馨物語


昭和50年  第47回全国選抜高校野球大会。 二回戦。

倉敷工 VS 東海大相模

この試合が、事実上の決勝戦といわれた。
東海大相模は、3番原 4番津末を中心とした打撃のチーム。
初戦を観戦した原監督は、「 あの程度の投手なら、楽に6点は取れる 」と、笑みを浮かべた。

一方、倉工はエース兼光が本調子でなく、
明るい材料といえば、下位打線が振れていることぐらい。
もはや、自負を失いかける小沢監督。

ところが、小沢監督の目の先に信じられない光景が展開されているのだ。
心身共に衰弱しているはずの兼光が、本領を発揮しているのである。

兼光の投じた球は、相手の背筋も凍る剛速球となって、 
捕手大本のミットに吸い込まれる。乾いたミットの音。『 バシー 』。

自らのプライド、監督チームメイトへの思いが、熱い魂となって、倒れそうな肉体を支える。
このエネルギーはどこから来たのだろうか。

【 それは、やっぱり小沢監督からもらったエネルギーでしょうね。 】と、兼光。
そして、【 この信頼は絶対守らないといけないと思いました。
善戦とかではなく、絶対に勝つという気で 】と。

5回裏 東海大相模の攻撃。ランナー一塁で村中が、左打席に入る。
打球はセンター大倉へ。大倉、懸命に背走するも、届かず。
その間、一塁ランナーは、ホームイン。打った村中は、三塁へ。

『 懸命に背走したんですけどね。グローブの先に打球が、触れたんですよ。
たぶん、誰も分からないと思いますね。 』
今でも、あの時の悔しさを忘れていない大倉。


記録はヒットだが、捕れていたね。グローブに入ったがポロリと落球。
この1点が重くのしかかった。
左腕村中は大した投手ではなかったが、この頃の倉工は左腕に滅法弱かったね。
縦の緩いカーブを打ちあぐねた。ここまで散発の5安打、9回表も二死ランナーなし。
追い込まれた倉工・・・。

99名無しさん:2018/01/27(土) 12:55:47
小沢 馨物語   涙の甲子園


昭和50年  第47回全国選抜高校野球大会。 二回戦。

倉敷工0-1東海大相模

試合は、東海大相模1点リードのまま、9回表、倉工の攻撃。
すでに、二死でランナーなし。ここまで散発5安打。
ここで、エースで4番の兼光が打席に入る。

一球入魂。打球は、センターの頭上を超えた。
大歓声の中、兼光は、二塁ベースを回ったところで、ふらついた。
フラフラになりながらも、三塁へヘッドスライディング。

「 セーフ 」。さらに、大きな大歓声が、沸き起こった。
小沢監督から貰った、エネルギー。死力のマウンド。
そして、全力を使い果たした、大三塁打。

次の打者が四球で出塁。盗塁を決めて二死2、3塁。一打逆転のチャンスを掴む。
そして主将大倉がバッターボックスに。

村中はコントロールを乱し、ノーストライクでスリーボール。
ここから2球は「待て」のサインが出たらしいが・・・。

勝負球の6球目、村中が投じた瞬間、捕手が中腰になった。
高めのボールかと思われたが判定は、ストライク。
がっくり、膝をつきグランドに崩れる最後の打者。

そこへ兼光が、歩みよった。肩をポンポンと叩き、抱き起した。

そして、何ごとかささやいた。
何と言ったのだろうか。「 それは、監督さんが、教えてくれた事です。 」と、兼光。

次の瞬間、小沢監督はこみ上げるものを、こらえきれなかったという。
小沢監督、甲子園での初めての涙・・・「 兼光に勝たせてやりたかったと・・・ 」。


小沢さんが甲子園で初めて流した涙・・・。
奇しくもこれが最後の甲子園采配となってしまった。
一度は大旗に手を掛けさせてあげたかったね。

チャンスは何度も有った・・・小沢さん初出場時のベスト4、昭和32年春のベスト4
昭和36年夏の不運、昭和42年43年の小山投手時代、昭和47年山本投手時代、
そして昭和49年50年の大型チームなど。

木製バットの昭和49年、兼光君中心で戦って欲しかったね。
選手11人の池田や夏の代表戦で格下の玉商に負ける筈はなかった。
この頃の兼光君の剛速球は外野には飛ばず、バックも素晴らしいメンバーが揃っていた。
小沢さんは勝負は3年時と考えていたのだろうが・・・。

翌年からは金属バットとなり、岡山県は群雄割拠の時代となって行った。
それにしても次の選抜が34年ぶりになるとは夢にも思わなかったね。

100名無しさん:2018/01/27(土) 16:10:07
星野仙一さんが1月4日に他界されました。
野球界に多大な功績を残された重鎮、そして郷土愛のとても強い方でしたね。
星野さんを偲びたいと思います。


「 追憶 その1 」


幼少の星野は運動会が大好きだった。徒競走に自信があったからではない。
お弁当の時間が待ち遠しくて仕方がなかった。

「みんなが日の丸弁当の中で、オレはお重なんだ。それも3段重ねのな。
裕福じゃない。貧しい…まぁ、中の下くらいだったんだけど」。
身の丈を越えた豪華弁当には訳があった。

1947年(昭22)1月22日生まれ。3カ月前に父仙蔵が病死していた。
三菱重工水島の工場長を務めていた縁で母敏子が工場の寮母となり、姉2人とともに寮で育った。

仙蔵は優秀な技術者であると同時に、部下の気持ちをくみ取る優しさも備えていた。
仙蔵を特に慕っていた寮のコックがいた。
洋食のシェフあがりで腕が立ち、当時は珍しかったマヨネーズを、卵から自作したりしていた。

星野を「仙坊」と呼んでかわいがり、必ず「今日は何が食いたい?」と聞かれた。
「オムライス、チキンライスと言えば、何でも作ってくれた」。

三菱重工水島は社会人野球の名門で、このコックは野球が大好きだった。
「仙坊はうんと栄養をつけなくてはいけない。野球選手になったときのために」と、
肉料理を毎日出してくれた。

運動会となれば「仙坊のことだから。ガキ大将なんだから」とお重を渡された。
体が大きく気前のいい星野の周りには、自然に人が集まってきた。

「おい、食え」。かつお節や昆布のおにぎり。食べたこともないハイカラな洋食。
みんながおいしそうに食べる姿を見るのが好きだった。

小学4年のとき、姉が高校野球を見に連れて行ってくれた。大声で応援して思った。
「生意気なんだけどね。そこで夢を持った。まず高校で甲子園に行って、6大学に入って。
阪神が大好きだったから阪神に行って、コーチをやって。そんな想像をしたんだ」。
家に戻ると、敏子にはこう言われた。

「野球って面白いよ。チームプレーだから。きっと楽しいはずだよ」。
生活費を切り崩し、1000円のグラブを買ってくれた。
「悪ガキたち」を集めて本格的に野球を始めた。

打っても投げても上手で「『天才なんじゃないか』と思ったよ」。
水島中学に進むと「ボコ〜ンと鼻をへし折られた」。

それでも着実に力を付け、3年のころには県内で知られる存在になった。
大会になると、必ず1人の男が星野の投球を見に来るようになっていた。

3年の冬、黒縁の眼鏡をかけた短髪の紳士が寮にやってきた。

101名無しさん:2018/01/28(日) 10:10:33
「 追憶 その2 」


1961年(昭36年)の冬、星野家が暮らす三菱重工水島の寮に黒縁眼鏡の紳士が現れた。

「倉敷商野球部の、角田有三です」。母の敏子が家に招き、こたつを囲んだ。
数学の教師だという。水島中の星野が投げる試合を欠かさずに見に来ていたという。

おもむろに「星野君、君の力で倉商を甲子園に連れて行ってくれ」と言われた。
角田は選手としての経験はなかったが野球が大好きで、部の手伝いなどをしながら知識を蓄え、
部長に就任し、直接口説きに来たのだった。

星野の中で、倉敷商への進学は全く頭になかった。

「倉敷工業に行こうと思ってた。強豪だし、3年間で最低、2回は甲子園に行ける。それに家が三菱だし」。

当時の岡山は倉敷工、岡山東、関西が頭ひとつ抜けた強豪。

倉敷商は第2グループといったところで、しかも鳥取との2県で1代表を争う以上、
甲子園へ行くには遠回りの選択に思えた。

もの静かな印象の角田だったが、訴える口調に迫力があった。

102名無しさん:2018/01/28(日) 11:00:28
「 追憶 その3 」


角田は倉敷商を甲子園の常連にしようと誓い、
岡山県内で行われる中学の試合をつぶさにチェックしていた。

星野のスケール、何より周囲を引き込む雰囲気にほれ込んでいた。

「『来てくれ』と頼んだ訳じゃない。わざわざオレのために来て、こんなに熱心に口説いてくれた」。
敏子は「倉商に行きなさい」とだけ言った。

当時の倉敷商は、野球専用のグラウンドがなかった。1912年(明治45年)開校の公立校。
確実に甲子園を狙えるほどではない野球部を、特別扱いする空気もなかった。

「ハンドボールもやるわバレーボールもやるわ…危なくてしょうがなかった」。
グラウンドの周囲は、イグサと田んぼがどこまでも広がっていた。

請われて入ったとはいえ、いきなりエースになれるほど甘くはなかった。
2年上の背番号1に宮原勝之がいた。
巨人からドラフト指名を受けるも断り、法大から当時の本田技研に進んだ左腕。

「宮原さんの真っすぐとカーブを見て、ボコ〜ンと殴られた気がした。『上には上がおるなぁ』って」。
スタートラインは他の新入生と変わらなかった。

1年生の大事な仕事として、先輩の打ったファウルやホームランボールの捜索があった。
田んぼに入ったボールはすぐに分かるが、湿地帯に生い茂るイグサの中に入ると大変だった。
貴重な硬球を見つけられないと、ひどく怒られた。

大変なはずのボール探し。しかし星野はじめ1年生は「今度はオレの番だ」と競って茂みへ駆けた。

103名無しさん:2018/01/28(日) 12:50:20
「 追憶 その4 」


高校野球といえば…星野が真っ先に浮かんだことといえば「水を飲んではいけない」だった。

「『おなかの調子が悪いんです』とトイレに行ってがぶ飲みして。慌てて飲むからユニホームがぬれている。
戻ると『何でそこだけビショビショなんだ!』と怒られ、ボコボコに殴られる。水を飲むなんて、たるんでる。そんな時代さ」。

知恵を働かせた。イグサの茂みは深いから、ボール探しに入ってしまえばグラウンドからは見えない。
一升瓶の中に水を入れて、早朝のうちに隠しておいた。「魔法瓶なんて誰も持ってないからな。ストローを差して仕込んでおく」。

湿地帯のあちこちに、ストローの飛び出した一升瓶が埋まっていた。
先輩のファウルが飛ぶと「オレの番だ」と一升瓶を目指した。

瀬戸内の強い日差しにさらされた水は、練習のころにはすっかりお湯になっていた。
「お湯なら、まだいいんだ。我慢できなかった誰かが、オレの分まで飲んでしまっている時は最悪だ。

全部飲んで、みんな空っぽになっている…」。もう最後の手段しかない。
身をかがめて、イグサをのけて、泥水に目いっぱい顔を近づけ、思い切り息を吹いた。

「ボウフラがたくさん浮いてるんだよな。それをフワ〜ッと吹き飛ばして、一気に、飲む。
ボウフラって、いっぱい雑菌が付いてるはずなんだよな。それでも飲む。免疫ができて体が強くなる。
今の子なら絶対に体を壊すと思うよ」

水を飲めない。ケツバット。いいとは思わない。ただ、理不尽から“要領”を学んだことだけは間違いない。
「『今日はケツバットが来るぞ』と思ったら、あらかじめスライディングパンツを2枚はいて、タオルも入れて。

最小限のダメージで、どう逃げていくか。そういう厳しい中で、自然と要領を覚えていく」
当時、全国の球児が避けて通れなかったであろう道を、星野もまた、たくましく歩んでいた。

野球部の日々に慣れてきた1962年(昭37年)の6月6日、岡山東商との定期戦で実戦デビューを果たした。
7回を投げ被安打1、自責なし。硬球を握って3カ月も、連日200球の投げ込みで感覚をつかんでいた。
水島の「仙坊」は、どんどん存在感を増していった。

104名無しさん:2018/01/28(日) 13:26:58
「 追憶 その5 」


星野が倉敷商に入学して1年が過ぎようとしていた。
学校から2キロほど南に下ると、小高い山の頂上に足高神社がある。

明大出身の矢吹監督は、冬場になると神社の階段を10往復させるランニングを日課とした。
「階段の高さが一定じゃなくていびつで、リズムが取れない。

1回走れば息が上がるんだけど…監督が途中で待って、目を光らせているんだ。だから、サボれんのだ」。
厳しい練習をかわす“要領”を身に付けていたはずが、矢吹の目はごまかせなかった。

3年生の宮原が抜け、星野はエースの座を確保。
矢吹と「君の力で倉商を甲子園へ連れて行ってくれ」と星野を誘った部長の角田有三は、
厳しさの中に温かな視点をたたえた教育者だった。

星野が「(角田)有さん! 柿を取りに行こう」と言えば練習を中断し、みんなで柿の木に登って木陰でほおばった。
2人は人生の師になった。矢吹に「オレの出身だ。明治へ行け!」と言われ、素直に従った。

角田は4年前の5月、86歳で死去した。
「部長先生はノックもうまくないんだけど、野球を愛していた。悪く言う人が1人もいなかった。
本当にお世話になった。熱烈な阪神ファンで、オレが阪神に行ったときは大喜びしてくれた」。

亡くなる直前まで親交は続いたが、角田は最後まで“部長先生”を全うした。
入院先への見舞いは拒まれ続けた。星野が「窓の外からひと目だけでも」と食い下がっても、断られた。

「至誠剛健」を校訓とする倉敷商は、野球部員にも文武両道を求めた。
「県立高校だから、試験が厳しかった。40点以下の“赤点”を4つ以上取ったら、次の学期まで練習は禁止。
4番だろうがエースだろうが、とにかく40点以上取らなくてはいけなかった」。
星野は数学が大の苦手で、角田は数学の教師だった。

試験前は野球部員を集め、しばしば補習が開かれた。試験に出そうな問題の傾向を丁寧に教えてくれた。
「これで赤点を取ったら…もし数学で4つ目なんてことになったら…部長先生の責任になってしまう」。
一生懸命には聞いたが、星野にとって数学が鬼門の科目であるのには理由があった。

手が大きすぎた。「あまりに指が太くて、そろばんを正確にはじけないのだ。玉が1つ動いたのか、2つ動いたのか? 
とにかく、まったく計算が合わない」。
野球においては最高の武器でも、商業科では2年まで必修であるそろばんでは最大の弱点になった。

幸運にも、そろばん部の部長が前の席に座っていた。「そろばんを使ってなかったな。暗算で、スラスラッとな」。
そっと脇を空けて答案を見せてくれた。テストが返ってきた。
「うわ〜。47点。大丈夫だ」。星野が野球をできないなんて困る。クラスメートだけでなく、倉敷商の共通認識だった。

無事に2年生になった。「元気のいい時代だったよな」。
1963年(昭38年)。東京五輪を翌年に控えていた。

105名無しさん:2018/01/28(日) 14:50:54
「 追憶 その6 」


「野球一筋。あとは、まぁ…番長だったな」。高校時代を表現する星野の答えは単純だった。
2年生になり、倉敷商及び市内周辺をほぼ統治下に置いた。

野球部の仲間や同級生、後輩たちに「あの学校の○×にやられた」と言われたら「よしっ。オレが行く!」と必ずケンカをしに出向いた。
「警察にも何度か呼ばれたな。分かってるわけだ。『お、やってるな』ってな。彼らも仕事だから一応、調書は書かなくてはいけない」。

ただやみくもに、有り余るエネルギーを発散していたわけではなかった。ケンカをする際の3つの決め事だけは守った。
(1)弱い者いじめはしない (2)相手が何人だろうが1人で戦う (3)ならず者の思いに任せた暴力は、絶対許さない

重量挙げの部室を閉め切って、校内きっての不良と1対1の決闘に臨んだ。
窓の向こうにはたくさんのギャラリー…腕を組んだまま見守る教師もいた。

星野は不良をボコボコに殴って倒した。「おぉ、星野がやってくれた」と、窓の外からどよめきが起きた。
みんなが見ている前で土下座させ「もう弱い者いじめはしません」と言わせた。

母の敏子が警察に呼び出されたこともあった。「まぁ、迷惑を掛けたよな」。申し訳ないと思ったが、厳しくしかられた記憶はなかった。
女手ひとつで星野を育てた敏子は、なぜケンカをするのか何となく分かっていた。

息子は、いわゆるアウトローの不良にしか手を出さなかった。
「オレ、オヤジがいなかっただろ。当時はな、差別があったんだ。『ない、ない』と表向きには言っても、差別はあった。

いろんな事情があって当時は…半分近くはな。親がいなくて差別を受けた人 間は、ほとんどが、ぐれる。そういう姿を、うんと見てきたから」
同じ境遇の人間が差別を感じて傷つき、道を外れていく。黙って見逃すことは許せなかった。

力ずくでも気付かせたかった。卑屈になるな-。「野球一筋」と即答したのは、自分のルーツがあったからだ。
「野球しかなかったんだ。野球がなかったら、自分がどうなっていたか分からない。
道を踏み外して、おふくろや部長の角田先生、みんなを裏切るわけにはいかない」。

高校に進んで間を置かず、敏子に珍しく強い口調で言われた言葉が今も忘れられない。
今の時代、これからの時代は、絶対に大学に進まなくてはダメ。卒業してすぐプロに行くのではなく、大学で勉強しなさい。

明大を出て中日に進んでから、敏子の言葉を痛感する。
入団してしばらくすると、1人の男性に見られていると気付いた。

目深にかぶったハンチング姿と鋭い眼光に特徴があり、何となく見覚えがあった。
気になる存在になりつつあったある日「広島でスカウトをしている木庭です」と言われた。
選手発掘に無類の能力を発揮し、スカウトという仕事を世に広めた木庭教だった。

僕は、高校時代の君を本当に取ろうと思った。
でもお母さんにお願いにいったら「どうしても大学に行かせたいので」と断ってきた。
話し方で君のことを 大事に思っていると分かったから、それでいいと思った。頑張って下さい。

阪神監督となった星野が甲子園で胴上げされた2日前の、03年9月13日。敏子は91歳で死去した。
晩年は時間をかけて倉敷市内の各所を回り「仙一が本当にお世話になりました」と頭を下げて回ったという。
番長でも道を踏み外すわけがなかった。進む道の先には、いつも先回りした母の足跡があった。

106名無しさん:2018/02/03(土) 09:50:08
「 追憶 その7 」


野球もケンカも腕っぷしが強い星野仙一の名前は、2年の秋にはすっかり県内に知れ渡っていた。
1963年(昭38年)の11月23日。倉敷商野球部の同級生2人と誘い合い、市内へ繰り出した。

星野が住む三菱重工水島の寮から学校までは、自転車で40分ほどかかる。
翌朝のあんパンをかけて、同方向の仲間とどちらが早く着くか毎日競争した。

「大きな野球道具を積んでな。車もいないから、競輪選手みたいに思いっきりこぐわけだ」。
足腰が鍛えられ、どんどん大きくなっていくのが分かった。

勤労感謝の日で学校は休み。いつもと違ってゆっくり自転車をこいだ。北風が冷たい日だった。
カゴにはいつもの野球道具ではなく、悪友が仕入れてきたライフル型のポンプ銃が入っていた。

当時の最新型で、人に向けたら危険な威力があった。動く何かを狙って撃ちたい。狩人の衝動に駆られた。
「スズメがいいんじゃないか」となり、探すことにした。

ライフル型の銃を持った大柄、丸刈り、学生服の3人が、キョロキョロしながら市内をはいかいしている。
ときたま、空や地面に向かって発射しているようにも見える。通報された。

「補導員が『学校には言わないから住所と名前を』と。正直に言ったら、ばらされて。警察に呼ばれてから、職員室で怒られた」。
部長の角田が、きまり悪そうに身をすくめている。「部長先生に悪いな」と思いながら、ストーブの前で何時間も立たされた。

「寒かったし、ちょうど良かったか。帰ろう」。翌日は、後に甲子園をかけて戦うことになる米子南との招待野球が控えていた。
自宅に戻ってテレビをつけた。アナウンサーが緊張していた。

「この記念すべき日に、誠に悲しい出来事をお送りしなくてはいけません。
アメリカ合衆国のケネディ大統領は11月22日、日本時間23日の午前4時頃、テキサス州ダラスで銃弾に撃たれ、死亡しました…」

そういえば市内では号外を配っていた。日本が衛星放送に成功した日に届いた重大ニュース。
「オレがポンプ銃を撃っていたのは偶然なんだけど…」。忘れられない出来事になった。

翌年にテレビがカラーになり、東京五輪が行われ、東海道新幹線が開通した。
星野が今でも大好きな、坂本九の「上を向いて歩こう」がヒットした。

「3年の時に 、学校で五輪観戦の募集があったの。サッカーかバレーボール。
東京に行ったことなかったから、おふくろに頼んで。でも、あまりにも多いから抽選になって、落選。

新幹線は大学受験で初めて乗った。あれ? 音もしないで走ってるってな」。
高度経済成長のど真ん中。「元気な時代。世の中『さぁ、やるぞ〜』っていう活気に満ちていた。

我々、団塊世代の前の方々が頑張ったから、今がある」。
おおらかな星野のルーツには、おおらかな時代背景も深い影響を与えている。

107名無しさん:2018/02/03(土) 10:40:37
「 追憶 その8」


「ホシが自転車で通った道を、たどってみようか」。
倉敷商でチームメートだった藤川當太(71歳)がハンドルを握り、倉敷市内から瀬戸内海へと向かった。

水島工業団地の真ん中に三菱自動車の工場がある。海を見ながら一服した。
「風景は当時と変わってないなぁ。工場の建屋もそのままだ」。海路の往来はせわしなく、煙突の煙がたなびいている。

「ホシの家は…三菱の寮はもうないね」。工場から徒歩10分、寮の跡地は病院になっていた。
「学校まではけっこう遠い。自転車なら40〜50分かかる。毎日こいでりゃ足腰も強くなる」。途中から細い道に入り、縫うように進んだ。

藤川と星野の出会いは中学のころだ。「なぜか試合中のホシと口論になった。 私はスタンドで観戦してたんだけど」。
入学式で「おう、よろしくな」と後ろから肩を組まれ意気投合、クラスも一緒で竹馬の友となった。

スズメを狙って警察に叱られたポンプ銃は「私が仕入れたの。当時の最新鋭よ」と笑った。
「野球部の結束は固かった。隣のクラスのヤツに殴られたと聞けば、ホシと突入。前と後ろに分かれて『誰だ』と探し出した。

でもホシは、弱い者いじめは絶対にしなかった」。口数が多い方ではないが、いつも星野の隣にいた。
甲子園に届かなかった3年夏の東中国大会決勝、米子南戦。藤川は前後までよく覚えていた。

普段と違う様子を心配し、夜の雑魚寝は星野の隣を確保した。
「暑い夜だったが、ホシは暑さというより、興奮して寝付けないようだった。
何度も寝返りを打って起き上がり、下の階に降りて、動き回ったりしていた」。

試合は2-3で敗れた。「1番左翼」でスタメンの藤川が回想した。
「逆転された4回は、ボテボテで三遊間を抜けるレフト前がよく飛んできた。
ホシはカッとなると、とことん打者に向かっていくクセがあった。

悪いことではないが、内角を狙われた。どん詰まりだからランナーが突っ込んできて、なかなかアウトにできなかった。
相手は変則ピッチャー。バントの打球が土の具合でファウルになったりして、崩せなかった」

宿舎の好日荘に戻り、藤川は出窓に腰掛け、畳の部屋に背を向けて泣いた。
晴れ晴れした様子の仲間もいたが「明るく振る舞っている気持ちが分からなかった」。星野は終始、沈んでいた。

「倉商の練習は厳しい。30〜40人いた部員がどんどん辞めていって、最後は1学年10人いるかいないか。
『やり切った』という気持ちがあった。あれだけ厳しい練習に自分は耐えた」。野球はすっぱりとやめた。
「当時は大学に進むという選択肢は非常に狭かった。倉商の同級生で大学でも野球を続けたのは、ホシと咲本だけですよ」。

108名無しさん:2018/02/03(土) 14:32:04
「 追憶 その9 」


咲本淳一は強打の一塁手として倉敷商の3番を打ち、4番星野とクリーンアップを組んだ。
半世紀以上前、セピア色の写真では、2人はいつも隣に写っている。同じ東京6大学の法大に進み、上京後も深い関係が続いた。

中学時代は県大会で入賞する水泳の好選手だった。周囲の勧めもあって倉商から野球部。
当時としては体がうんと大きく、カラリとした性格も相まってウマがあった。

「もちろん野球でも、こまごま具体的な思い出って、あるんですけど。やっぱりホシという人間。
彼との出会い、思い出がまず、頭に浮かぶんです」。1番を打った藤川當太とともに、いつも行動を共にしていた。

2年生のときだ。「彼が二、三塁間で挟まれましてね。二塁手に向かって跳び蹴りをしたんです。
相手が怒る…ホシも負けじと言い返す。試合後はたくさんの警官隊に囲まれて帰りました」。

とにかく負けず嫌いで「勝負の鬼というか、本人とは別の何者かが、ホシの中に棲んでいるのではないかと。ホント、思うんです」。
向こう気も強く、上下関係を強要する先輩にも立ち向かった。

「当時は先輩と言えば絶対ですけど。控えの先輩の理不尽なんかには『それは、どういうことですか』とハッキリ言ってましたね」。一本気が忘れられない。
咲本にはもう1つ、忘れられない星野の姿がある。学生服のズボンに、いつもピシッと入っていた縦1本の折り目。

「お母さんがやっていたんですよね。決して裕福ではなかったはずだけど、きれいな折り目が入っていて、当時からオシャレだった。
彼のお姉さんも、みんな大学に行っている。裏切れませんよね」。

阪神の監督になった星野に呼ばれ、咲本は甲子園球場に行った。「打席に立ってもいいかい」「もちろんだ」。
あと1歩届かなかった場所からグラウンドを見た。何げなく「やっぱり甲子園はすごいなぁ」と言った。

甲子園に屋根をつける議論が起きたとき、ラジオ番組に出演した星野は強い口調で言った。
「絶対にダメだ。オレの親友が打席に立って、涙を流して感動していた。甲子園のあの風景を変えてはいけない。夢なんだ」。
咲本は言った。「立場や肩書で人を判断しない。いつまでも付き合いを変えない。そんな男なんです」。

109名無しさん:2018/02/04(日) 09:38:02
「 追憶 その10 」


星野にとって倉敷商の3年間は別格だった。半世紀以上前のことでも、追憶のかなたには位置していない。
「野球人生で一番、思い出がある。だってホントの出発点だもん」。

高校野球が自分の根っこにある。出発点が挫折だったから、今でも夢を追い続けることができる。
「中学生から『君の力で甲子園に』と言われてコロッといってしまい、倉商に行って、決勝で番狂わせと言われる事柄があって、オレの人生がある。

甲子園に行けなかったのが、逆に良かったな」。当時の気持ちを丁寧に読み解いてみると、高校野球が星野仙一という人格を形成したのだと分かった。
みんなを甲子園に連れて行けなかったこと。みんなが行けると思っていた。そりゃ普通、試合をひっくり返されたら怒るよ。

だから、人生というのはさ…負けたら取り返しがつかない。返ってこないんだから。甲子園では挫折した。
次は神宮だ、神宮の次はプロだと。みんなには申し訳ないけど、夢がどんどん大きく膨らんだ。
打ち砕かれたことで、ものすごく、気持ちが次に向かっていった。

オレはね、高校生の当時から、妙に冷めている一面というか、もう1人の自分が、野球をしている自分を客観的に見ているところがあった。
オヤジのいない環境で育ったことも影響しているのではないか。それは今でも変わらない。

先輩たちの投げるボールを見て「今は、絶対にプロでは通用しない」と分かっていた。
もしあの時、コールドに近い形で甲子園に行っていたら、どうだっただろう。

勘違いして、てんぐになって「いきなりプロに行って、やれるんじゃないか」とか、バカな考えを起こしていたかも知れない。
夢があって、現実があって、でも夢に向かってまた、進んでいく。高校野球は、そうやってオレを大きくしてくれたんだ。

「みんな高校野球の卒業生だろ」。柔和な顔が急に変わった。
「アマチュアの指導者が、どれだけ苦労して1人の人間を育てているか。

でもプロはドラフト会議という名のもとで、お祭りみたいに騒いで1位、2位とか順位をつけて、おいしいところを取っていく」。
もっと野球界を1つに。「野球人口が減っている本当の危機感について、まだピンと来ていない人が多い。

口では『危機』といっても、どれだけやっているかは疑問だ。
実効性を伴わなければ意味がない」。本当の恩返しとは-。大胆な腹案がある。

110名無しさん:2018/02/04(日) 10:07:04
「 追憶 その11 」


野球殿堂入りした星野は、ハレの壇上で意外なスピーチをした。
自分のことは「大したことない」と言ってから「野球界はどうあるべきか、掘り下げて考えたい。

我々はアマの卒業生。底辺を広げる。これは大変なんだ」と訴えた。
きれい事だけでは進まない。「都内ではグラウンドを見つけることもひと苦労。
環境をつくってあげるためには財源、つまりお金が必要。

社会人野球に休部が続いている現状では、企業に出せと言っても、無理なんだ」。
つまり、お金を作る方法を考えなければならない。時間をかけ、リサーチを重ねて煮詰めてきた腹案を披露した。
後発のサッカーはクジをやっている。プロ野球もクジを導入するべきだ。

クジと言うと、すぐ「八百長」「賭博」となる。もってのほかだ。あってはならないことだ。
八百長のできないクジの方法は、いくらでもある・・・。

集まったお金は、プロ野球は一銭もいただかない。
運営費などを引き、スポーツ庁を通じてアマチュア球界の環境整備、強化費に使ってもらう。
大きな災害、震災のために、1年で数億円ずつプールしておくことも必ず。
細かいところまでルールを作って訴えていけば、実現する可能性が出てくる・・・。


2017年 星野氏は野球殿堂に入り、オールスター、しかもかつての本拠地ナゴヤドームでの表彰式で、ファンにあいさつ。
年末には殿堂入りを祝う会を東京と大阪で行い、多くの仲間、後輩、恩人たちへの別れをしっかり済ませ、
家族が見守る中で静かに息を引き取った。

超高齢下時代の中、「終活」という言葉が盛んに言われるようになったが、
さすが星野仙一、見事な人生の終い方だった。

「大体、人生は悲しみ、悔しさが7割、喜び、幸せが3割とよく言われるけど、俺はその逆で生きてきたからな。
これからも、そのつもり」。そう話したかと思えば、こうも言ったことがある。

05年に巨人から監督就任要請を受けたが、巨人OB連の猛反発もあって実現はしなかった。
数年後、「(要請は)野球人としてめちゃくちゃうれしかった。巨人のOBたちはかわいそうに…。この人たちはひがみの人生。

あんたたちがしっかりしないから、部外者の俺に声がかかったんちゃうの?
その時、俺は決意したんだ。他人からひがまれる人生を送ってやろうとな」――。


    ◇  ◇

111名無しさん:2018/02/04(日) 11:05:16
「 追憶 その12 」


星野さんは記者席から身を乗り出すように入場行進を見ていた。
「慣れ親しんだ甲子園なのに、この興奮ぶりは何なんだろう」

2005年8月6日、全国高校野球選手権の開会式。
甲子園観戦記のゲストとして、星野さんを招いた。

3年の夏、決勝で敗れた。
甲子園の開会式のテレビ中継が始まると、家の押し入れにこもって泣いた。

「あの中に、おれがいたはずなんだよ」と。
そんな話をしながら、星野 さんはグラウンドを見つめていた。

「どんな気持ちで歩いているんだろうな。うらやましいよ」
「そうですか? プロでは甲子園のマウンドで何度も投げて、監督として胴上げもされたのに」と聞くと、
「全然違うわ」としかられた。

「ここは高校球児のものなんだ。中日の選手として初めて入った時、芝生にスパイクで入ってもええんかなと思った」

球児の連投問題についても聞いた。阪神担当時代は夏になると「猛暑の中で球児を酷使して。
(主催者の)朝日がしっかりせないかん」などときつく言われていたので、批判をいただくのではと予想した。

またも意外な答えが返ってきた。「でも、ええ。青春かけてやってるんや! なあ、そうやろ!」。
そう言って、わたしの隣にい た記者の肩を強くたたいた。

松山商のエースとして1969年夏の甲子園で優勝し、明大の後輩でもある井上明記者だった。
星野さんの心は、甲子園を目指して投げていた球児に戻っていた。
そして、決勝の延長十八回引き分け再試合を連投した後輩への優しさがにじんでいた。

今夏は100回の記念大会。甲子園を愛した星野さんに、大会を見て、語ってもらいたかった。



星野さんの追悼シリーズは一応これにて終了。
まさに倉敷が生んだスーパースターだったですね。
心よりご冥福をお祈りいたします。

112名無しさん:2018/02/18(日) 10:31:10
広島カープ2軍情報


「ちょっとかわいそうですよね。甲子園で記録を打ち立ててしまったものだから、
どうしても比較対象が清原和博さんや松井秀喜になってしまう。
でも私は、中村が清原さんや松井のような十数年にひとりの怪物だとは思っていません」

広島のルーキー・中村奨成のことをクールにそう評したのは、広島の水本二軍監督だ。

中村は昨年夏の甲子園で6塁打を放ち、清原の本塁打記録を32年ぶりに塗り替え、一躍注目を集めた。
本塁打だけでなく、打点や塁打数でも選手権の大会記録を更新。

高校球史のうえでも屈指の強打者として騒がれたのに加えて、強肩やスピード感溢れる守備も高く評価され、
超高校級捕手としてドラフトでは中日との競合の末、地元の広島が引き当てた。

岩国市でスタートした二軍キャンプ初日には千人を超すファンが押し寄せるなど、中村への注目度は高い。
二軍は第2クールから宮崎・日南入りし、練習内容も本格化。

中村は、「岩国ではできなかったことが、こっちでは長時間できる。ワクワクしながら練習できました。
やってやろうという気持ちです」と、疲れを感じさせない力強いコメントを残した。

そんな中村に鋭く目を光らせているのが、冒頭で紹介した水本監督だ。

「これだけ騒がれ、二軍でも多くのお客さんを集めた。勘違いしないように、彼をしっかりコントロールしてあげないと。
それに、清原さんや松井、田中将大は入団の段階で一軍レベルの体を備えていた。それに比べて中村は、まだまだ子供ですから」

中村のバッティングを見守った水本監督も、まだ木製バットへの対応に課題があると指摘する。

「高校日本代表にも選ばれていましたが、大会では正捕手ではありませんでしたよね。
やはり、他の選手よりも木製バットを扱いきれていなかったことと無関係ではないと思うんです。
ポイントの置き方、タイミングの取り方など、覚えなきゃいけないことは山ほどあります」


現在、広島のキャッチャーは1学年上の坂倉将吾が一軍で首脳陣に猛アピールを続けている。
中村の入団が坂倉に好影響をもたらしたのでは…という声も多く聞こえてくるが、水本監督はキッパリとこう否定する。

「坂倉は向上心が強く、1年目から誰よりも上手になりたいとの思いで鍛錬を続けてきました。
今の中村は、正直、坂倉の尻に火をつけるほどの存在ではありません。
いずれは高いレベルでポジションを争ってほしいと思いますが、今の段階では比ぶべくもないです」

現状、水本監督は中村について「いつ頃までに一軍へ」という見通しすら立っていないと言い切る。

「単純に振る力を比較しても、高卒1年目当時の丸佳浩や鈴木誠也、坂倉の方が上です。
でも肩や足のパフォーマンスは、過去に高卒でウチに入ってきた選手のなかでも明らかにトップクラス。
この点に関しては、評価が揺らぐことはありません。

ひとつ覚えればひとつ忘れる、ということを繰り返しながら成長していくのが高卒ルーキー。
だから根気強く、道を踏み外さないようにしっかりと導いていくしかないんですよ」

丸や鈴木ら、高卒ルーキーを猛練習で鍛え上げ、球界を代表する選手へと育て上げた広島だけに、
二軍で“中村フィーバー”が起きようが、チームは動じることはない。

水本監督の厳しい言葉のなかにも、伝統の育成に対する絶対的な自信を感じ取ることができる。
だからこそ、中村の将来に大きな期待を抱かざるを得ないのだ。

113名無しさん:2018/02/18(日) 11:50:29
高校野球地域ニュースから・・・


ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行を成功させた1961年、
甲子園で報徳学園が6点差をひっくり返す大逆転劇を演じた。「逆転の報徳」の異名が生まれた試合。

敗者となった倉敷工にも、またドラマがあった。
0―0で迎えた延長十一回表。倉敷工は主将・松本の適時二塁打などで一挙6点を奪い取った。

「やった、これで終わりだ!」 アルプス席を埋めた応援団の誰もが勝利を確信した。
1年生で野球部の控えだった国方は「早く次の試合が始められるように、と先輩のバットを片付け始めた」。

しかしここから、後に「奇跡」と呼ばれる逆転劇が始まった。
十一回裏。疲れの見える倉敷工の先発永山が、代打の平塚に安打を許す。
「地元代表として少なくとも1点は欲しかった。ただもう無我夢中でバットを振ったよ」と平塚。後続が続いて2点を返した。

倉敷工の小沢監督は永山に代え、背番号1の森脇をマウンドに送った。
県大会前に負傷し、約2カ月ぶりの公式戦での登板だったが、キレのある球で7番・高橋をカウント2―2に追い込んだ。

あと1球の場面。アウトコース低めに投げた球がミットに吸い込まれ、「バシッ」という音が響いた。
「ストライクだ!」。森脇は直感した。球審が腰を浮かし、右手を上げるかに見えた。

試合終了のあいさつに向かおうと、ベンチの選手たちが一斉に体を浮かした。だが、球審は短く一言。「ボール!」。
その1球について高橋は「実にいいボールだと思って全く手が出なかった。正直ホッとしましたね」。

一方の森脇は「今思えばあの一球で動揺してしまったのかな」。四球で高橋を歩かせ、安打で1点奪われた。
再び永山が登板したが、一度マウンドを降り、緊張の糸は切れていた。

「自分の役目は果たしたと思ってたから、もう完全に力が抜けてしもうた」
報徳に3点を許し、6―6の同点となった。「ウワァー!」。地鳴りのような歓声が球場を包む。

永山は止まらない汗を拭った。そして十二回裏。一死満塁から1点を奪われ、サヨナラ負け。
永山は「どえらいゲームにしてしもうたと思った」と語る。ただ、右翼手だった土倉はこう振り返る。

「あの試合は森脇のためにあったようなもんじゃ。森脇と甲子園に出られただけで、満足だったよ」
背番号1をめぐる物語は、あの年の7月上旬にさかのぼる。

県大会に向けた練習中、森脇が犠打で駆け出し、主将で一塁を守っていた松本がタッチするためグラブを伸ばした。
連日の練習で疲れていた森脇は、タッチの際に足がもつれて転倒。右鎖骨を複雑骨折した。

1年生からベンチ入りしていた森脇は、3年春から県内の公式戦で無敗。
「彼がいれば今年の夏の甲子園制覇も夢ではない」と監督の小沢も考えていた。

絶対的なエースを欠く危機的状況の中、小沢が抜擢したのが打撃投手だった2年生の永山だ。
仲間から「(球速は)トンボが止まるくらい」と冷やかされていたが制球力は抜群だった。

「球威がないから変化球で勝負しようと思った。授業中もボールを離さず、握り方を研究してたよ」と笑う永山。
県大会ではその変化球がさえ渡った。 県大会を突破して東中国大会に出場。

初戦は鳥取の強豪・米子東。「何としても森脇を甲子園に連れて行きたい」。
けがをさせた負い目を感じていた松本は、そうメンバーに告げたという。

森脇を甲子園へ――。一丸となったチームは9―7で米子東に打ち勝ち、決勝で岡山東商に快勝。甲子園出場を決めた。
森脇は練習を再開し、球威をほぼ取り戻した。

松本は監督の小沢に「森脇を甲子園で放らせてやってくれ」と頼み込んだ。それは選手全員の願いだった。
報徳戦の後、森脇を責める仲間は誰もいなかった。

土倉は言う。「森脇が投げられると思ってなかったけど、一緒に甲子園に行きてえなあってずっと思ってた。
甲子園で彼が投げた時はうれしかったなあ」

森脇は74歳になった。約10年前に胃がんの手術をしたが、元気を取り戻し、妻の実家の畑で野菜や果物作りを楽しんでいる。
「つらい思いもしたけど今となってみればいい思い出です。もり立ててくれた仲間に感謝しています」
そう静かにほほえんだ。



(16〜23で詳細は記入しています)

114名無しさん:2018/02/24(土) 11:51:43
歴史的偉業は、無情の雨天コールドから始まった・・・駒大苫小牧


佐々木は初優勝の前年、03年夏も、2年生で甲子園の土を踏んでいる。
この年、センバツにも初出場していた駒苫にとって、春夏通じて4回目の甲子園。
だがそこまで、白星は一つもない。なんとか1勝を、が合言葉だった。

その一回戦、倉敷工に8対0と大量リード。
だが4回の攻撃途中、台風10号の影響で豪雨が襲い、結局降雨ノーゲームとなってしまう。

そして翌日の仕切り直しは2対5の敗退。8点という大量リードで、一度は見えかけた甲子園初勝利が、するりと逃げた。
この試合を甲子園のスタンドで見ていたのが、当時兵庫・宝塚ボーイズの田中将大である。

その田中が入学し、日本ハムが北海道に本拠地を移した04年夏。駒苫は、ふたたび甲子園にやってきた。

「一年前の敗戦はずっと重たいものがありました。勝たせてやれなくて悪かった、と選手たちに頭を下げた。
あの悔しさを晴らすために、甲子園に来たんです」(香田監督・当時)。

当時の佐々木主将も、こんなふうに語っている。
「去年の倉敷工戦は、代打で出て三振。悔しい思いをしていたので、あの負けから全国制覇を目指してやって来ました」

宿舎には、前年倉敷工戦で敗れた3年生部員全員の連名の手紙が届いていた。
そこには、ベンチ入り18人各自に、熱いメッセージがしたためてあった。

初戦(2回戦・対佐世保実)の前日、佐々木は長い時間をかけて全文を読み、ナインに聞かせている。
その、佐世保実戦。すかっと晴れた青空そのままに、駒苫は7対3で快勝した。

初出場から58年、ようやくたどり着いた甲子園1勝だった。

白星を手にしたとはいえ、次の3回戦の相手は日大三なのだ。01年夏には、当時の最高チーム打率で全国制覇している強豪で、
ようやく1回戦ボーイを脱却したばかりの駒苫とは、ちょっと格が違う。

この時点では過去85回の大会で優勝旗はいまだ白河の関さえ超えておらず、道勢優勝にはリアリティーが薄い。
当然、駒苫の注目度も、さほど高くはなかった。

ところがところが駒苫は、日大三に7対6と競り勝ってベスト8に進出。

さらにだれもが、“いくらなんでも無理だろう”と思った準々決勝でも、
涌井秀章を打ち込んでまたも“超ブランド”横浜を撃破。

準決勝で東海大甲府に勝つと、
決勝では春夏連覇を目ざした済美と13対10という壮絶な打撃戦で頂点に立ったのである。

チーム打率・448という新記録までおまけにつけた、北海道勢初めての全国優勝。
佐々木自身も、5試合で打率・421を記録している。その佐々木監督が、指揮官として挑む2度目の春。

夏は2回の全国制覇がある駒苫だが、春はまだ頂点に届いていない。
「僕たちの時代がそうだったように、規格外の練習をするしか勝つ方法はありません」
佐々木監督、力強く宣言した。


佐々木監督・2004年夏、北海道勢として駒苫が初めて優勝した時の、主将でショート。
駒苫は翌年夏も連覇し、3連覇に挑んだ06年夏も、決勝で敗れたとはいえ、
早稲田実と引き分け再試合を演じ、球史に名を刻んだ名チームだ。
佐々木が監督に就任したのは、駒澤大卒業後の09年8月。



規格外の練習とは?・・・どんな戦いをみせてくれるのか?楽しみですね。

(駒大苫小牧戦の詳細は62〜63に記入しています)

115名無しさん:2018/03/03(土) 14:00:16
JR西日本、「広島カープ由宇練習場ウエスタン・リーグ日帰り応援プラン」


岡山駅〜博多駅間の新幹線各駅から新岩国駅までの往復新幹線指定席、
新岩国駅〜由宇練習場までの往復貸切バス、お弁当と飲物(ビールかお茶)がセットになった日帰りプラン。

広島県、岡山県、山口県内の日本旅行/日本旅行サービス、Tis博多/小倉、中洲川端支店の日本旅行商品取り扱い店舗で購入できる。

料金例:広島駅発着大人5500円、子供4200円、徳山駅発着大人5900円、子供4400円

※由宇練習場の入場は無料、1名から申し込み可能


「広島東洋カープ由宇練習場ウエスタン・リーグ日帰り応援プラン」設定試合

2018年3月29日12時30分:福岡ソフトバンクホークス戦

2018年4月22日12時30分:阪神タイガース戦

2018年5月18日12時30分:福岡ソフトバンクホークス戦

2018年6月2日12時30分:中日ドラゴンズ戦

2018年6月3日12時30分:中日ドラゴンズ戦

※試合日の10日前まで販売



(85〜87で広島2軍由宇練習場の話題を記入しています)

116名無しさん:2018/03/04(日) 13:10:07
3月1日付で母校・県岐阜商の監督に就任した鍛治舎巧氏(66歳)


岐阜県岐阜市内の同校で就任会見に臨んだ。

昨夏まで秀岳館を4季連続で甲子園へ導いた新指揮官は「全国の強豪と戦える基礎、基盤をつくりたい。
岐阜県のみならず、東海地区を高校野球界の中央にするという意気込み。カンフル剤になれれば」と決意を語った。

「野球人生の集大成。母校で、自分の後輩たちとやれるのは幸せです。お金は三の次、四の次ですよ」。

大学を含めて20数チームから届いたオファーを蹴って母校での指揮を決断した鍛治舎氏。最後の挑戦が始まった。


公立校なら収入はかなり減る・・・

社会人指導者という制度【注】があって、1400数十円の時給で、
1日(報酬が出るのが)2時間までの認定で(1週間に)5日間。1日2800円ぐらいで1週間に1万4000円。

4週間だから(1か月に)5万6000円で6万円弱。年間で70万円弱が報酬です。
秀岳館での報酬は月に50万円で年間600万円。そしてボーナスが70万円ぐらいあった。



お金は三の次、四の次の「持ってる人」が倉工にも来て欲しい。
何処かにいないか?
甲子園16勝☆伝統のユニフォームで戦うべきだ。

以前に記入した尾藤さんのお言葉に・・・
「その精神的な自信と誇りを痛感させられた試合です」
これが分からない者が指揮官では情けないと思う。

117名無しさん:2018/03/17(土) 17:31:06
校長室の硬球


槌田誠が、昭和49年倉敷で行われた、阪急とのオープン戦で放った、
3本のホームランの中の1個であります。

エースを負傷で欠きながらも、炎の闘志で、甲子園切符を掴んだ昭和36年夏。
対 報徳戦の捕手。延長11回裏、6-5に追いかけられた時だった。

センターからのバックホームを後ろに逸らしてしまい、6点目のランナーがホームを踏んだ。
「あの時、完全にキャッチしていれば、もしかしたら勝っていたかもしれない。」

『借りを作った。このまま終わってなるものか。』

昭和38年、立教大学に進学。ある日、小沢監督が立教大に立ち寄った時の事。

槌田がブルペンで、バケツをひっくり返し座って、先輩投手の球を受けていた。「ここへ投げろ。」と。
球は構えたミットを少し外れてしまった。すると、槌田は『取って来い』と。

野性味が溢れ、野武士的な槌田。先輩にも一切の妥協を許さぬ、野球の鬼。
昭和41年春。13試合、45打数、20安打。戦後、二人目の打撃三冠王。リーグ優勝。ベストナインと大活躍。

そして昭和41年、巨人ドラフト1位。
巨人V9のスタートの年だった。プロ初打席、満塁ホームランを含む、代打ホームラン通算4本。

槌田の打席は連敗阻止、完全試合阻止など、ここ一発で勝負強く、チームを救った。

昭和49年3月16日、ふるさと倉敷で阪急とのオープン戦、
3本のホームランの離れ技を演じた。1本は場外の彼方へ。

1本目は、報徳学園戦の負い目を振り払い、
2本目は、恵まれなかったプロ人生の悔しさを打ち払い、
3本目は、恩師、先輩、友人、そして、少年達に夢を与えるスイングだったのか。

公式記録にない3本の連続ホームラン。そのうちの1個が校長室に。


常勝チームに不可欠な男。名門巨人軍V9を支えた男。

灼熱の季節を力の限り生き抜いた野武士、槌田誠。

確かに見た。後輩たちが死力で掴んだ甲子園を。

平成11年1月7日、胃がんのため他界。享年55歳。

「ジャイアンツ、選手の交代をお知らせします。9番、堀内に代わりまして、代打、槌田。背番号22。」



(槌田選手は24〜25で記入しています)

118名無しさん:2018/03/18(日) 11:32:36
廃部寸前の無名県立校がセンバツ出場


秋の九州大会で準優勝を果たした富島(宮崎)は、全国の高校野球ファンには馴染みのない学校。
地区代表として送り出す九州の人間にとっても“初耳”という人は多いのではないだろうか。
学校は「とみしま」と読む。宮崎県日向市にある実業系の県立高校。全校生徒は定時制を含め618人。

日向市からの甲子園は、1989年夏の日向高校以来だけに、
センバツ切符がかかった昨年秋の九州大会には市長も応援に駆けつけるなど、
地元は“富島フィーバー”に沸いた。

近隣には、延岡学園(2013年夏の甲子園準優勝)や聖心ウルスラ(昨年夏の代表校)、
青木宣親(ヤクルト)らが輩出した日向といった人気と実力を兼ね備えた強豪校が多く、
富島は常に劣勢を強いられる立場にあった。

チーム躍進のきっかけとなったのは、2013年に浜田登監督が就任したことだった。
2008年の夏に母校である宮崎商を率いて甲子園に出場し、
同年秋のドラフトでは左腕エースの赤川克紀がヤクルトからドラフト1位指名を受けるなど、
チーム強化と選手育成に定評がある名将だ。

だが、浜田監督が就任した2013年春の段階で、野球部員はわずかに11人。
そのうち半数が野球未経験者だった。一時は部員数が5人まで落ち込んだ時期もあった。

「もはや野球部の体(てい)を成していない…恥ずかしい」と夏の開会式の時にバスから降りるのをためらう選手もいた。
当然のことながら初戦敗退が当たり前で、それだけに今回の快進撃への市民の反応は「よくもあの富島が…」と、
感心とも絶句ともつかないものだった。

「3年で九州大会、4年で甲子園に行きます」

富島着任の歓迎会でこう宣言した浜田監督に対して、当初、周りの反応は冷ややかなものだった。
部員数の減少により、廃部寸前だった野球部である。
いくら名将が来たとはいえ、それまで初戦敗退が当たり前のチームが急に変わるとは誰も想像していなかった。

それでも、実力のある公立校や実績のある監督に多大なリスペクトを寄せる県民性もあって、
浜田の着任と同時に地域の有力選手が続々と富島に入学した。

もともとこの地域はソフトボール出身者を中心に選手の質が高く、県内の強豪校に何人もの選手を送り込んでいる。
それだけにこの地域の有力選手が集まった富島は、瞬く間に力をつけていった。

浜田監督が就任してから1年半後には宮崎県の1年生大会で優勝。
これが富島野球部にとって県レベルで獲得した初のタイトルだった。

また、彼らが2年となった秋には県大会準優勝を果たし、創部以来初の九州大会に進出。
翌春には宮崎の頂点に立って九州大会に連続出場するなど、就任わずか3年で一躍、県内の強豪校へとのし上がった。

昨年の秋は宮崎大会で準優勝し、3度目の九州大会に進出。文徳(熊本)、長崎商を破り、
準決勝では昨年夏に甲子園を経験している石田を擁する東筑にも勝利した。
決勝は創成館に敗れたが、初回に奪われた5点のビハインドを1点差に詰め寄るなど、
持ち味は存分に発揮。文句なしのセンバツ当確となった。

ドラフト候補がいるわけではないし、180センチを超える選手は一人もいない。
それでも、浜田監督に鍛えられた選手たちが自分の仕事をきっちりとこなし、粘り強く戦い抜く。
初戦の相手は星稜(石川)に決まった。



どんな戦いをするのか注目したいと思います。
お金は三の次、四の次の「持ってる人」が倉工にも来て欲しい。

OBでなくて良い、名将でなくて良い。何処かにいないか?
甲子園16勝☆伝統のユニフォームで戦うべきだ。

119名無しさん:2018/03/24(土) 10:55:28
富島(宮崎県)の監督


試合前、選手全員で球場の周りのごみ拾いをするのが富島の恒例行事だ。
浜田監督(50歳)は「動かないごみを拾えなければ動くボールは拾えない。
試合前にも普段通りごみ拾いをすることで、心のよりどころとして自信を持てるようになる」と意義を語る。

県立高の教員として都農、宮崎商野球部で監督などを務め、
甲子園でも指揮した経験から常に選手に伝えているのは「心の成長がなければ、技術の成長はない」という信念だ。

宮崎市出身。小学3年で野球を始め、宮崎商では内野、外野手として3年の夏に県大会ベスト8まで勝ち進んだ。
その後八幡大(現九州国際大)に進学し、野手や学生コーチを経験した。

高校野球の指導者を夢見て4年の時に教員採用試験を受けたが不合格となり、宮崎市内の企業に就職した。
4年後に再び採用試験に挑み合格。都農高商業科の教員となり、同時に野球の指導者としても一歩を踏み出した。
その後母校の宮崎商野球部副部長を経て、2003年に監督就任。08年夏にはチームを甲子園へと導き、2回戦に進出した。

野球部でも学校での指導でも、大切にしていることは「人づくり」。
都農で人権教育を担当した経験から「人を大切にすることを学んだ。だからこそ人づくりを重視してきた」と語る。

長年強豪を率いてきた浜田監督にとっても、13年の富島への異動はゼロからのスタートだった。
野球部監督に就任したが、3年生部員はおらず、2年生5人、1年生6人。

野球未経験者もおり「ボールを捕れない、バットに当たらない」状況から指導が始まった。
捕球やスイングの形を覚えるため、キャッチボールや素振りなどの基礎練習を繰り返した。
それでもすぐに結果は出ず、練習試合では30点以上の差をつけられたこともあった。

「選手たちは心が折れていたかもしれないが、そこで諦めたら社会に出ても苦しいことをすぐ諦めるようになる。やらないといけない」。
負け続けても練習に取り組んだ。翌年からは、「監督の元で野球がしたい」という新入生が入部するようになり、少しずつチームが活性化。

15年秋には九州大会に出場し、県内外に知られる存在になった。「日ごとに力をつけていく選手たちを見るのは楽しかった。
負けた悔しさをバネにして練習を重ねた結果が出た」と振り返る。

強豪校になってもグラウンドは他の部活と併用するなど練習環境は恵まれているとはいえないが、
監督は「公立校では併用が普通。効率良くやればいいだけ」と前向きにとらえる。
自身初となるセンバツの舞台。 相手は強豪だが好ゲームを期待したい。



羨ましいね。「持ってる人」が廃部寸前の富島には来た。何処かにいないか?
甲子園25勝中、16勝☆伝統のユニフォームで戦うべきだ。

そもそもユニフォームは選手の物。それに憧れて来る生徒も沢山いる。
親子孫、同じユニフォームで戦える。それだけでも長い人生の宝物になる。

随分と遠ざかっても甲子園に行けば全て初戦を勝利。8戦全勝。よほど魔物に愛されているのだろう。
岡山県で一番格好の良い高校生らしいユニフォームだと思う。

昭和61年の甲子園はユニフォームを変えたから罰が当たった。あれは監督が悪い。選手が可哀相だったね。
「持っていない人」が一日も早く去ってくれることを願っている。

120名無しさん:2018/03/26(月) 23:59:30
>>117
槌田選手の巨人での背番号は22ではなく、23でした。

121名無しさん:2018/03/27(火) 18:18:05
御指摘ありがとうございます。
背番号「22」は誤りで「23」でした。

槌田さんは縁の下の力持ちでしたね。森がいなかったら正捕手に・・・。
柴田、高田、末次がいなかったら外野手レギュラーに・・・。

ヤクルトでも背番号「23」。
広岡監督は開幕戦から1番右翼で起用したが・・・。もう全盛期を過ぎていたのでしょうね。

背番号「23」は、スワローズでは重要な背番号と云われていたそうです。
今年7年ぶりに日本球界復帰の青木が背番号「23」を。少し注目しています。

貴殿が初めて書き込んでくれた人です。
これからも色々と書き込んで頂ければ幸いです。
ありがとうございました。

122名無しさん:2018/03/29(木) 18:23:06
京都府立乙訓(おとくに)高校


その都は、たった10年という短命がゆえに、幻の都と呼ばれた。
位置的に奈良と京都に挟まれながら、長きにわたって正確な位置さえも不明で、
時代的にも奈良時代と平安時代に挟まれて名前もついていない、まるでエアポケットのような都。それが長岡京である。

今から1234年前の西暦784年、桓武(かんむ)天皇によって遷都された長岡京は、さまざまな制度改革や仏教のしがらみを断ち切り、
蝦夷(えみし)の統治を目指すなど国家の立て直しを図ろうとしていた時期に建立された。
しかし、幾多の水害や疫病に悩まされたことから怨霊のせいではないかと恐れられ、未完成のまま捨てられた、悲劇の都である。

奈良時代と平安時代、平城京と平安京はよく知られ、奈良や京都を訪れる観光客は後を絶たないというのに、
長岡京の跡地を訪ねてみようという人は決して多くはない。京都市の南西、およそ10キロの地にある長岡京市。
タケノコの産地として知られ、美しい竹林は『竹取物語』の舞台になったという説もある。

光明寺のもみじ、楊谷寺(ようこくじ)のあじさい、長岡天満宮のきりしまつつじ、乙訓寺(おとくにでら)のぼたんなど、
四季折々の景観を楽しむこともできる。しかしJRの長岡京駅に降り立つと、観光の街を感じさせる風情はない。
周辺にはハイテク企業が進出しており、数分歩けば何の変哲もない住宅街が広がる。乙訓高校は、そういうところにある。
そして、乙訓の野球部は甲子園とはこれまでに春も夏も縁はなかった。

京都大会では鳥羽、立命館宇治、京都翔英を撃破し1位で突破、近畿大会では準々決勝で奈良の智辯学園を倒してベスト4、
長岡京のエリアから甲子園に出ること自体が初めての快挙だ。



センバツ高校野球   乙訓 7-2 おかやま山陽 ( 3月28日)


「公立の星」、乙訓が同点の6回に長短5安打を集中させ、4点を勝ち越した。
春夏通じ初出場の甲子園で1勝を挙げ、3回戦に進んだ。

山陽が1回裏、2死三塁で4番井元が左翼へ大会9号となる本塁打で2点を先取した。
乙訓の甲子園初得点は2回表。2死一塁から9番、投手富山が左越え二塁打を放ち、1点を返した。

山陽は2回1死満塁、3回2死二、三塁も後続なく、追加点を奪えない。
乙訓が5回、同点に追いつく。無死一、三塁で次打者の内野ゴロ併殺の間に三塁走者が生還。

続く6回、1死一塁から7番薪谷の三塁打、8番伊佐の中前打と連続適時打で2点。
さらに2死満塁から3番浅堀が中前へ2点打と、この回5安打で4点を奪った。

昨夏甲子園で初戦敗退も、ベンチ入りメンバー6人が残った山陽だったが、1勝が遠かった。


富島の初戦敗退は残念でしたが、乙訓は中々に力強い。「公立の星」は今後も期待できそうだね。

123名無しさん:2018/04/01(日) 11:16:00
おかやま山陽の監督


甲子園出場だけが高校野球の目的ではない。その過程に意味があれば、「その先」にも意義がある。
おかやま山陽の堤尚彦監督(46歳)は、甲子園出場のその先に「野球の普及」という目的を掲げる。
経歴は異色だ。都立千歳(現芦花)から東北福祉大に。大学3年生の時だった。

深夜にテレビのニュースを見ていると、日本人がジンバブエで野球指導を行っている映像が流れた。
教わっている子どもの楽しそうな姿。それを木によじ登って見ている人々。最後にある言葉がテレビに流れた。
「お金、道具、グラウンドが無いのが問題なんじゃない。自分の次に野球指導をやる人がいないのが問題だ」。

「自分が行きます」。すぐに放送していたテレビ局へ電話を。
電話をすると、それが「青年海外協力隊」だと教えてくれた。その秋の募集で合格し、すぐに派遣されることが決まった。
派遣先が書かれた封筒を開けると「ジンバブエ」の文字。運命だと感じた。ジンバブエには十分に野球道具は無かった。

現地の調理道具を削ってバットを作り、木の実をボールにした。
グラブは日本製のグラブをばらして8枚の型紙を作り、靴屋に頼んで作ってもらった。
ラインを引く白線代わりに水を使ったが、もちろんすぐに乾いて見えなくなった。

地道な指導と普及を重ねていくうちに、現地の学校の指導要領に「ベースボール」が組み込まれるまでになった。
道具不足などの環境、現地の子どもたちの姿を目の当たりにし「世界中に野球を普及したい」という考えが大きくなった。

帰国した後も、シドニー五輪を目指すガーナや、アテネ五輪を目指すインドネシアで指導を行った。
タイでアジア野球連盟のインストラクターとして、初心者向けの野球指導を行っている時に出会ったのが、
師と仰ぐ元慶大監督の前田祐吉氏(享年86歳)だった。

当時、不祥事が続いていた高校野球。「日本の高校野球は駄目ですねえ」と言う堤監督に前田氏は言った。
「みんなが来たくなるような強いチームを作ってから言え!」。

そんな時、野球部内で問題が起き監督が辞任したおかやま山陽が、新しい監督を探していると知人から知った。
世界に野球を広めたいという思い。ならば広めてくれる人を育てる側に回ろうと、監督に就任することを決めた。

06年におかやま山陽の監督に就任するも、甲子園は遠い場所だった。
07年から11年までは春季、秋季地区予選敗退が続き、県大会に行けたのは1度だけだった。
11年の夏の岡山大会でも1回戦敗退。この後も結果が出なかったら…。新チームが始まると、あることを始めた。

ジンバブエやガーナ、発展途上国に集めたグラブやボールを送る活動だった。
集めた中古の道具を送り、現地の子どもたちからお礼の手紙や写真が届く交流が始まった。

不思議なことに、そこから野球部としての結果も出始める。12年からは地区予選負けなし。
14年の春季大会では準決勝まで進んだ。
17年夏に悲願の甲子園初出場。そして今センバツで2季連続の甲子園出場となった。

迎えた28日の乙訓戦。序盤に先制するも2-7で敗れ、甲子園初勝利はお預けとなった。
試合後のお立ち台で「長く甲子園にいないと伝わらないですね。また1試合で負けて残念だ」と言ったが、確実に輪は広がっている。
活動を知った人がアルプススタンドまでグラブやボールを持参し、地元の少年野球クラブも中古の道具を寄付する。

甲子園出場が決まると、少年野球クラブから2ダースのボールの寄付が届いた。
甲子園で使ったこのボールは、甲子園の土を付けた状態で子どもたちに返すつもりだ。岡山から甲子園へ、甲子園から世界へ。
「野球普及」を目的にする限り、堤監督は甲子園を目指し続ける。



山陽は良い人に来てもらえたね。
倉工も公募して探すのも悪くない。しかし公立は安すぎる。年収70万円弱では苦しい。 
「公立の星」、乙訓も敗退。公立はベスト8進出すら厳しい時代ですね。

124名無しさん:2018/04/07(土) 12:15:54
第90回選抜高校野球大会   外人部隊(県外の中学卒) ベンチ入り人数


明秀日立(初)・・・16人。     日本航空(初)、松山聖陵(初)・・・15人。

日大三(20回)、慶應(9回)、明徳(18回)・・・14人。    大阪桐蔭(10回)、創成館(3回)・・・13人。

聖光学院(5回)、東海大相模(10回)・・・10人。        駒大苫小牧(4回)、国学院栃木(4回)・・・9人。

三重(13回)、下関国際(初)・・・8人。    中央学院(初)、近江(5回)、智弁和歌山(12回)、英明(2回)・・・7人。

高知(18回)・・・6人。   星稜(12回)、智弁学園(12回)・・・5人。   日大山形(4回)、瀬戸内(3回)・・・4人。

東邦(29回)、延岡学園(3回)・・・3人。     おかやま山陽(初)・・・2人。      静岡(17回)・・・1人。

花巻東(3回)、由利工(初)、富山商(6回)、彦根東(4回)、膳所(4回)、
乙訓(初)、東筑(3回)、伊万里(初)、富島(初)・・・0人。  



外人部隊のベンチ入りは18人中の3分の1=6人までにすべき。
「高校野球の父」、佐伯達夫さんが高野連会長の頃なら参加させないだろう。

上記からベスト8中の6校は失格、優勝は花巻東、準優勝は星稜が相応しい。
この大きな問題をタイブレーク制の導入なんかより先に考えられない今の高野連は嘆かわしい。
ブローカーが暗躍し大金が動く、高校野球が完全に商業化してしまった。


佐伯達夫(1967〜1980年 日本高等学校野球連盟会長)

野球殿堂には、生前の1965年に一度選出されたが、
「 球界最高の名誉である殿堂入りに選ばれたことには感謝しているが私自身、
広く日本の野球界にはそれほど貢献したとも考えていない。私が選ばれては先人に申し訳ない。
殿堂入りは生死にかかわらず功成り名を遂げた人のものだ 」と辞退した。
選出後に殿堂入りを辞退したのは佐伯氏のみである。死後に改めて選出された。

彼が「高校野球の父」と称されているのは、以下の二つの功績が挙げられる。

① 「選抜を消滅の危機から救った」
② 「高校競技で初めて体育連盟に依らずに地方予選から運営するシステムを確立した」

125名無しさん:2018/04/08(日) 12:18:03
甲子園  「3本のホームラン男 」 藤沢新六 (倉敷工)  


昭和24年夏、倉敷工が甲子園初出場を果たした時の正捕手。

第31回選手権大会は倉敷工、高津など初出場が7校。
最多出場は慶応が3年連続13回目。平安が11回目の出場。

この年より開会式の入場行進でプラカードを女子生徒が担当する事となった。

1回戦 対 熊谷( 埼玉 )戦 9-1と一蹴り。

この試合で藤沢は大会3号となるホームラン1本目を記録する。
【 1本目はランニングホームランだったんです。 】と藤沢。

2回戦は対 高津( 大阪 )戦 5-3で勝利。

8月17日、迎えた準々決勝。相手は中京商以来の3連覇を目指す小倉北。
春夏通算16勝を挙げた好投手 福島一雄投手を擁し、洗練された野球をするチーム。

知名度は雲泥の差で【 一生懸命やるしかないなあ。そんな、気持ちが強かったです。 】と、藤沢。
この試合で、二回と六回に藤沢の大会7、8号ホームランをはじめ、長打で追いすがる。
延長10回、一死満塁から横山の遊ゴロの間に決勝点を挙げ熱戦に終止符を打った。

【 2本とも、左中間でした。思い切り振っただけでしたが何故かよく飛んで行きました。
二回のホームランは、審判に言われて気がついたんです。 】と、無欲の勝利を強調する。


8月18日付、山陽新聞に「 倉工殊勲の健棒 」 「 小倉の三連覇を阻む 」

「 藤沢ホーマー三本 」 「 甲子園大会に新記録 」と出た。

藤沢の通算3本塁打は昭和60年のPL学園、清原に破られるまで大会記録を保持していた。
木製バット使用によるホームラン3本は金属バットが続く限り、永遠に破られない大記録である。

準決勝、岐阜戦は2-5で敗れたが、 妹尾求が大会9号本塁打を記録。

倉敷工は甲子園で4本の本塁打を記録した事になる。
スラッガー藤沢は小沢と共に阪神タイガースに入団してプロの道を歩む事になった。

126名無しさん:2018/04/14(土) 15:35:00
甲子園勝率10割  三池工業  甲子園から遠ざかっている理由


1965年夏、炭鉱町として栄えてきた福岡県大牟田市は快挙に沸いた。
県立三池工業が甲子園初出場ながら優勝を飾った。
世界遺産・三池炭鉱宮原坑のガイドが当時の様子を話してくれた。

甲子園から戻ってきたナインは、小倉駅から大牟田までの約150キロをパレードし、炭鉱町に一時の灯を灯した。
しかし、三池炭鉱の廃鉱と共に、町の人口は減少の一途をたどり、野球部の甲子園出場は一度きり。
全国に2校しかない甲子園勝率10割(5勝0敗)の学校だ。

3年前に発足したOB会の会長が、優勝メンバーで捕手だった穴見である。
「とにかく原監督の情熱が甲子園に導いたことは間違いありません。当時は木製バットの時代ですが、
良質な木材を宮崎まで探しに行き、熊本の工場で作ってもらっていた。

甲子園に出場すると、暑さ対策として、ブドウ糖とビタミン剤の入った注射を宿舎近くの病院へ毎日打ちに行きました。
当時、そこまでしてくれる監督はいなかったでしょう。先見の明がある方でした」

母校が優勝以来、一度も甲子園に出場できていない理由については、「人材不足」と語った。
野球を愛し、選手に愛情を持って接する指導者がいなかった。

もう一度、甲子園に出てほしいというのは、原監督の願いでした。出場できるなら21世紀枠でもいい。
ただ、ボランティアをするなど、地域の理解を得られないと、高野連から21世紀枠に推薦してもらえません。

出場が叶わない理由のひとつが、生徒の8割以上が就職を希望し、就職内定率が毎年10割である点だ。
30歳の青年監督・次郎丸岳博が言う。

「少子化の影響で、企業が工業高校の人材を求めている。
大手企業に就職できますので、生徒にとっては恵まれた学校だと思います」
野球の能力に長けた選手は、プロをはじめ、大学や社会人など、可能な限り“上”でも野球を続けたいという意思を持つ。

そういった意味では、企業への就職に有利な工業高校は選手の選択肢から外れやすいのかもしれない。
さらに、少子化のあおりで、同校でも昨年まで1学年5クラスだったのが、現在は4クラスに。
野球部員は新3年生と新2年生で26人だ。

現実として、チームの目標は、ブロック予選を勝ち抜いて県大会に出ること。
53年前の凱旋パレードの際、選手が乗ったオープンカーに月桂樹の苗が投げ込まれた。
その月桂樹は今、同校の中庭に移植され、かつての炭鉱町に育った球児を見守っている。



一度だけでもパレードは羨ましいね。
福岡県は激戦区、好選手が揃わないと甲子園はかなり遠い。
倉工は「持ってる人」さえ来れば、それほど遠いとは思わない。三池工と比べれば恵まれている。

127名無しさん:2018/04/15(日) 10:51:06
JFE西日本  三木選手


社会人野球・JABA岡山大会  (4月14日 倉敷マスカットスタジアム)

予選Bブロック JFE西日本 5―1 ツネイシブルーパイレーツ

「1番・右翼」で先発したJFE西日本・三木大知外野手(26歳)が先制弾を含む2安打3打点の活躍を見せた。
「先発した新人の小倉のためにも早めに先制点が欲しかった。体がうまく反応した」。

3回の右越えソロは、直前に同じ内角直球を右翼ポール際へファウルしており、打ち直しの一打だった。
入社5年目で倉敷工、岡山商大と一貫して地元でプレーしてきたが、
あえて「そこは意識しないで自然体で臨めた」ことも好結果につながった。



2009年センバツ時の4番で二塁手でしたね。
あれから早9年か、月日の経つのは本当に早い。

あのまま中山さんがベンチに居てくれたなら、ここまでにまだ甲子園へ行けただろう。
不思議と「持ってる人」が居ると、何処からともなく素質の有る選手が集まり成長する。

78回、85回夏の甲子園でも「持ってる人」が部長でベンチ入りしていた。
私はこの時の監督が持っていたとは思っていない。

持ってる弁士は昔話が好きで語れる人だったよね。
昔話、伝統を馬鹿にする者は早く去ることだ。指揮官の資格は無い。

年齢の事を問題にする人がいるけれど、日本文理の大井監督は75歳まで続けた。
要するに「持ってる人」なら若輩、高齢など関係ない。

128名無しさん:2018/04/28(土) 10:52:06
「 部員不足に苦しんだ県立野球部、元プロ選手が異例の監督就任 」


プロ野球で活躍した佐賀市出身の永尾泰憲さん(67歳)が今春、佐賀県立太良高校の監督に就任した。
県高野連によると、元プロ野球選手が県内の野球部監督になったのは初めて。

さらに甲子園に出場したことがなく、近年は部員不足に苦しんだ県立高校での元プロ就任も異例だ。
永尾さんは4月から太良町の非常勤職員として勤めており、その傍らボランティアで指導するという。

内野手の永尾さんは県立佐賀西高校、社会人野球を経て、1972年にドラフト1位でヤクルトに入団。
トレードで近鉄、阪神と移った。79年の日本シリーズや、85年の阪神初の日本一を経験。
3球団全てでリーグ優勝を経験し、1千試合出場も果たした。

現役引退後は阪神のコーチ、スカウトなどを務め、学生野球資格を回復。
14年に母校・佐賀西のコーチ、今年1月からは太良のコーチになっていた。
監督就任にあたり、「スカウトだった目線から言えば、町にはいい素材の子が多い。
太良は一人ひとりを大事にする学校で、いいと思った」と話す。

90年夏の県大会で4強入り、91年春は優勝したが、2014年秋、15年春は部員不足となり連合チームで出場。
一昨年夏の初戦は部員の熱中症で試合が続けられなくなり、没収試合で敗戦した。
ただ、昨夏は12年ぶりの夏1勝を挙げており、永尾さんは「選手の個性を生かし、強いチームをつくりたい。
太良から甲子園を目指す」と意気込んでいる。



倉工も元プロ、中藤さんを迎えては?本心を聞きたいよね。公立の報酬は確かに安いが。
勿論「持ってる人」か否かは分からないが、お話を聞く限りでは良い人のように感じる。

春の県大会初戦で敗退。相変わらずの拙い采配、一冬を越え個々に成長の跡もあまり見えず。
今頃チャレンジャーを連呼して、伝統のユニフォームまで変えようとしている人をこのまま好き勝手にさせて良いの?

チャレンジャーになって40年、まさに群雄割拠の時代故に「持ってる人」が不可欠。
ここを読んでくれている人は少ないが、もし中山さんを御存知の方がいたら、このスレッドを教えてあげてください。

定年退職後、出来ればもう一度ユニに袖を通し昔話を聞かせてやって欲しい。
小沢さんが去りし後、甲子園5勝の全てにベンチ入りしていた「持ってる人」の昔話はとても貴重です。

129名無しさん:2018/04/29(日) 10:15:15
「 甲子園3本のホームラン男   藤沢新六   (倉敷工) 」


倉工バッテリー、小沢と藤沢。
二人は揃って阪神タイガースの入団テストに合格。プロの道へと歩むことになった。

3月8日、阪神タイガース結成試合が行われ、藤沢は早くも4番打者に抜擢された。背番号は39。
しかし、1年が過ぎても、一軍からの呼び出しは来なかった。
そうした時、社会人野球の強豪「 日鉄二瀬 」から声を掛けられたのだった。

「 今の給料の2倍やるから、うちに来ないか?と言われましてね。それで阪神タイガースを
1年で辞めて日鉄二瀬に小沢と二人で行ったんです 」と藤沢。

「 日鉄二瀬は炭鉱の会社でした 」。 移籍してすぐの事だった。
突然、小沢が言った。「 藤沢、わしはもう倉敷に帰るからな 」と。
それは倉敷市長から、小沢が倉工の監督を要請された為だったのである。

倉敷に帰った藤沢は倉紡倉敷で野球を続けていた。
社会人野球の最高峰の大会「 都市対抗 」に岡山鉄道管理局が出場。藤沢は補強選手としてチームに呼ばれた。

「 監督が私を4番打者として使ってくれたんですよ 」 「 都市対抗はベスト4が最高成績でした 」と胸を張る。
「 後楽園球場で行われる都市対抗は当時に於いても凄い応援合戦でしたよ 」と、熱く語る。
「 私は素晴らしい青春時代を過ごさせて頂きました 」。

その後、現役を退いても野球道を歩み続けた。野球の発展に尽くした藤沢。
岡山県軟式野球連盟副会長、倉敷市体育協会野球部部長、倉敷市学童軟式野球連盟顧問を歴任。

確かに見た。後輩たちが死力で掴んだ甲子園を。その目はいつも母校愛に満ち溢れ大きく輝いていた。



練習場の看板を下したの? 「 甲子園25勝 」 「 ベスト4が4回 」 「 ベスト8が2回 」
何で下す必要がある? 県下随一の伝統と実績を掲げて練習に取り組むのは有意義だ。

持っていない人は色々と焦りがある様だね。焦れば焦るほど結果は出ない。
ユニは変えるは、看板は下すは、そのうちに罰が当たる。もう既に当たっているのか。

先輩たちに嫌な悲しい思いをさせる人に幸運は訪れない。早く身を引いた方が良い。
もう少し続けたいなら、自らを律するのが一番。

ユニは変えず、看板は元に戻す、頭を丸め、滝に打たれてお祓いをして貰う。
これ位の事をすれば少しは風向きが変わるだろう。

白のユニには理由、伝統、実績が有る。看板にも理由、実績が有る。
これらを変えようとする人には何の実績も無い。世にも不思議な物語だ。




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