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法華経について

1わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/05(火) 00:31:49
まずは何といっても 佐倉哲さんの「わたしの『法華経』概論」
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud120.html

ペガサス師匠の掲示板から、わめの書き込みを転載
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○○さんのおっしゃること、学会教学的であり、私も以前はそのように解釈してました。
でもそれは法華経も含め、小乗〜大乗経の釈迦一代聖教と言われる経々が、在世中、あるいは滅後すぐに著されたものならまだしも、”釈迦滅後約五百年後”になって著された法華経に、「正直捨方便・但説無上道」と釈尊が説いていたというのはどう考えても矛盾がありませんか?
もし仮に、釈尊が在世中に法華経の内容を説いていたとして、そこでそれ以前の経々を「正直捨方便・但説無上道」と言っていたとするなら、滅後約五百年の間、釈尊の直弟子、孫弟子、代々の仏弟子達は一体何を学んでいたのでしょう? おばかさん弟子ばっかりだったのでしょうか?

また法華経を著した大乗仏教徒は、誰からこの「正直捨方便・但説無上道」との教えを聞いたのでしょう? また約五百年の間どのような系譜を辿り、法華経を著した大乗仏教徒に伝えたのでしょうか? そして日蓮正宗の唯授一人の血脈相承のように、その法華経の教えの内容は何らかの理由により秘していて、滅後約五百年後に、時来たりとばかりに法華経を著したのでしょうか?

このようなことは非常に考えにくいし、また歴史・背景から考えも、後になって出てくる経典ほど、今まである経典を凌駕しようとするのが必然的で、自教団の教えの優位性をその創作された経典に盛り込んだと考えるのが自然ではないかと思います。

そして最終的に密教に至ると・・・
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40わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/09/29(木) 01:43:57
 わめの浅学でいい加減・超短縮して日蓮仏法を簡単に解説します。汗
 誤りがあればどちら様も遠慮なくご指摘ください。<(_ _)>
 
 日蓮の立場から言えば、当時日本国中の人々が誤った宗教(日蓮から言えば)を信じて、それによって不幸になる、また国が滅ぶと考えていたわけで、この法華経に帰依してこそ国も安泰、人々も幸せ(一生成仏)になれると法華経の教え説いた。

 そして日蓮は自らも含め菩薩行こそが最高の生き方、それが法華経の行者(地涌の菩薩)であり、成仏への唯一の道であると信じていたわけです。

 『誤った宗教から法華経の教えに導きたい、また法華経に帰依した者が退転しないよう』に、この”業”とか、”功徳”とか、法華経を捨てると”地獄に堕ちる”とか、諸御書(日蓮のお手紙等)で指導されたのだと思います。

 言わば日蓮仏法は、”法華経の行者”となるための教えなのです。

 さてっと、やっとsnowさんへのレス部分。^^

> では、この学会の指導にあるように、信心を頑張ったことで、明らかに「業」が無くなったと思える方、または「業」が少なくなった、と言う方はいらっしゃるのでしょうか。

 これは心の持ち様次第ですから、証明はできないと思います。(^▽^;)

> 「学会員であろうが非学会員であろうが、悲運も幸運も訪れる。」って気がして仕方ないので、
> なんでも「業」とか「功徳」とかに結びつけているように見えてしまいます。

 学会員・非学会員に関係なく、 悪いことが起こったら、
 軽く済んだ方だなと思う、運がいい=非学会員、
 宿業を軽く受けることができた(転重軽受)=学会員
 いいことがあったら、
 運がいいな〜とか、ラッキー♪=非学会員
 功徳を貰った=学会員

 学会員はこのように信仰と結び付けているわけですが、信仰していようがしていまいが、このように心の持ち様なだけで、現実はどちらもまったく変わりないように思います。(^^;;

41snow:2005/09/29(木) 13:57:20
わめさん、ありがとうございます(^-^)
「納得!」の部分と、「新たな疑問」がわきました。
「納得!」部分…
「日蓮は"業"とか"功徳"とかを、
 民衆を法華経の行者にするための"方法"として、
 わかりやすく誘導するために用いた。
 究極的には"業"とか"功徳"よりも、
 法華経の説く考えに従った生き方をすることを目指した」

「非学会員の前向きな物事のとらえ方(軽くすんだ、など)と、
 学会員の"業""功徳"のとらえ方は、同じ、またはとても似通っている」
(↑繰り返しますが、違うところがあったらご指摘ください)

「新たな疑問」部分…
「熱心で、勉強もしている学会員さんが、
 いつまでたっても法華経に帰依する生き方そのものよりも、
 "業""功徳""罰"などの、
 いわば入口段階で止まってしまっているように感じられるのは、なぜか。」

 例)実家の近所の激しく活動熱心な婦人部さんの言
  「うちは私がしっかり信心しているから、
   いろんな困難が起きても、軽くすんでいる。
   功徳だ!
   しかし、家族が反対し続けているから、いつまで経っても
   完全に業を取り除くことができない」

「学会の論理に寄らなくても、
 同じような前向きな考え方に到達する人はたくさんいるのに、
 それでもなお他を排して自分たちの論理だけを最高とするのか。
 または、同じような考え方に到達した人を見たときに、
 本当に自分たちの持つ理論だけが最高なのかどうかを検証する人はいないのか。
 なぜ、他の理論からでも同じ考え方に到達できるのかを検証しないのか。」

ふ〜、お昼休みの割に、小難しいこと考えちゃった(苦笑)
またのぞきに来ます。

42わめ★:2005/09/29(木) 15:45:13
(ノ´▽`)ノオオオオッ♪ snowさん、わめの拙いテキストから、よくぞ意を汲んでいただき感涙です。

>  究極的には"業"とか"功徳"よりも、
>  法華経の説く考えに従った生き方をすることを目指した

 その通りです、そもそも法華経の行者は菩薩であり能救済者です。業とか功徳とか福運なんてまったく関係ないのです。
 法華経の行者にはそのかわりっと言っちゃ何ですが、遠い未来世において、必ず仏に成れるという記別(約束)が与えられているのです。 この記別以外に何も求めてはいけないのです。宿命転換とか功徳とか福運なんてものは、非救済者に与えるものだからです。

> 「新たな疑問」部分…

 学会員さんはおかしなことに、上記”能救済者”と”非救済者”を兼業しているのです。笑
 まぁ、マルチ商法みたいなものといったらいいのか・・・w

43わめ★:2005/09/29(木) 15:49:43
> 宿命転換とか功徳とか福運なんてものは、非救済者に与えるものだからです。

は、snowさんの、

> 日蓮は"業"とか"功徳"とかを、民衆を法華経の行者にするための"方法"として、わかりやすく誘導するために用いた。

と、同義語ですね。^^
言わば方便みたいなものです。(いやいや方便そのものかも)

44わめ★:2005/09/29(木) 15:58:24
方便と言うのも変だな・・・w汗

宿命転換とか功徳とか福運と言うのは、最上の功徳である記別(未来世での成仏の約束)を与えられることかな。

45snow:2005/09/30(金) 16:54:46
昨夜はバタンキュ〜(←死語?・汗)でした。スミマセン

「能救済者」=人々を救済する力を持つ人間
「非救済者」=誰かに救ってもらうべき人間

って感じでいいんでしょうか。
「非救済者」って、「"被"救済者」ってイメージなんですが。

また、日蓮が最高の功徳としたのは、現世で「地涌の菩薩」となり、
未来世で「仏」そのものとなること、ってことでいいんでしょうか。

「現世利益」も追求するのが創価学会の特性であると聞いたことがあります。
実際、「病気が治った」だの「事業が上手くいった」だの、
「現世」での「実証」とやら(←わたしにはそうは見えないのでちょっと不遜)を
強調する学会員さんの弁を、元カレからも聞いたし、ネット上でもよく見かけます。

実際には「過去世」「未来世」の存在を証明することも、信じることも難しいので、
一番わかりやすい「現世」での利益を強調しているのだと思いますが。

解釈はイロイロなんでしょうが、日蓮の教えというのが私が↑でとらえたようなものなのなら、
「現世利益」を強調した時点で、日蓮の教えそのものからかけ離れているように思うのですが。
学会では「学会こそが日蓮の教えを正統に受け継ぐもの!」って言われてるそうなので、
この辺の矛盾は学会ではどう説明されているのか教えてください。

46snow:2005/09/30(金) 17:30:15
あと、やっぱりわからないのが、前回書いた「新たな疑問」の2つ目です。

どうしても仏教用語、まだなじめない部分が多いので、ひらったく言います。

仏教だろうとイスラム教だろうとキリスト教だろうと。
人格を磨いて、人々のためになる人間になる事
(「地涌の菩薩」について、大意そう解釈しています)を目標とする、
という点においては、大差ないと思うのです。
「人々のためになる人間」になるのなら、何教でもいいと思うのですが。

学会員さんが、「いいや、そうじゃなく、学会でなきゃダメなんだ!」と言うのも
何度か聞いたことあります(元カレ含む)
その根拠は、示されても、納得できたことがありません。

同じように、学会ではこのことをどう説明されているのか、教えてください。

う〜ん、うまく伝わってるかなぁ。
やっかいなことばかり聞いてごめんなさいm(_ _)m

47わめ:2005/09/30(金) 18:15:42
> 昨夜はバタンキュ〜(←死語?・汗)でした。スミマセン

(⌒▽⌒)アハハ! 昨夜わめはジョゼさんと、メールのやり取り107通です。(^^;;

> 「能救済者」=人々を救済する力を持つ人間
> 「非救済者」=誰かに救ってもらうべき人間

 ああw 非は"被"です。はいw 誤字(*_ _)人ゴメンナサイ
 力はともかく、救済する側と救済される側ですね。誤字でも正しく解釈してくれて感謝!

> また、日蓮が最高の功徳としたのは、現世で「地涌の菩薩」となり、
> 未来世で「仏」そのものとなること、ってことでいいんでしょうか。

 うーん、菩薩であること自体が最高の功徳なのかな。
 仏となる記別は、その認証みたいなものかもしれませんね。

> 「現世利益」も追求するのが創価学会の特性であると聞いたことがあります。

 わめには仏法の話と、学会の話は、まったく別物のように思いますので、同列にお話しするのは大変です。(^^;;

 ってことで取り合えずここまで。

48わめ:2005/09/30(金) 18:37:58
> 「現世利益」を強調した時点で、日蓮の教えそのものからかけ離れているように思うのですが。

ああ、snowさん自ら答えを出してますが、かけ離れているのは「現世利益」だけではないでしょうけど、その通りだと思いますよ。

> 学会では「学会こそが日蓮の教えを正統に受け継ぐもの!」って言われてるそうなので、
> この辺の矛盾は学会ではどう説明されているのか教えてください。

そう信じることがそうなのでしょう。^^
批判的なものは、すべてウソ・誹謗と受け止めること、それが大事なのでしょう。
ってそのような指導だったと思いますよ。(御書の切り文引用もあるかもしれませんが)

> 学会員さんが、「いいや、そうじゃなく、学会でなきゃダメなんだ!」と言うのも
> 何度か聞いたことあります(元カレ含む)

これはわめ的に振り返って思うことで、学会員さんが皆そうだとは一概に言えませんが、”成仏”への憧れなんじゃないかと思うのです。
仏になることは、なんかすごいものなるというか、スーパーヒーローと言うか、永遠の命を持って過去も未来も見渡せて、何でもできちゃう想像も絶する存在、それが仏。
そのような仏になるためには、この学会の信心じゃなきゃダメって教え込まれているわけですから、それを信じる方はそうなっても仕方ないことかもしれないです。

49わめ:2005/09/30(金) 18:53:42
学会員経験者の方、ジョゼさんや、しずくちゃんや葉末さん、Leoさんもそうだし、
あ、青空さんどうしちゃったんだろ最近見ないし
沢山の学会経験者な方のコメントが貰えたらいいのにな・・・

50Libra:2005/10/01(土) 04:35:08
1.わたしの立場の前提

 わたしは「法華経の中心思想」および「日蓮の中心思想」を支持しています。
「法華経の中心思想」を支持するというのは、法華経の中で主張されているこ
とのすべてを支持するわけではないという意味でもあります。日蓮の思想につ
いても同様です。

 わたしが支持する「法華経の中心思想」および「日蓮の中心思想」の中身に
ついては、わたしのホームページ[*]に記録されているわたしの発言(「書写」
と「過去ログ」)や発表している拙文(「論文集」と「雑記」)を参照して頂
けるとありがたいのですが、それではあまりにも不親切だろうとおもいますの
で、以下に、単純化して述べておきます。

  [*] ----NOTHING TO YOU----
     http://freett.com/Libra0000/index.html

51Libra:2005/10/01(土) 04:42:19
2.法華経の中心思想

 法華経の中心思想は「空の思想」であり、法華経はそれを「もっぱら実践的
関心に即して表現しようとした」[*1]ものであるとわたしは理解しています。

 「空の思想」の実践とは菩薩行であり[*2]、法華経は全編にわたって菩薩行
(=「空の思想」の実践)を説いています。

 法華経は、「空の思想」についての哲学的な議論を展開するものではないと
はいえ、空について直接説いている箇所もあります[*3]。

 同じ「空」という用語を用いる場合でも、経典によって意味が異なる場合が
ありますが[*4]、わたしが支持する「空」は、釈尊が説いた「アートマンの存
在を否認する意味での「無我説」」[*5]と同じ内容を表現する「空」です。


  [*1] 藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、
     1969年、p. 400。

  [*2] 仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得
     ない(小川一乗)
     http://page.freett.com/Libra0000/069.htm

  [*3] 本尊論メモ(Libra)、〔05.09.24 補足1〕
     http://freett.com/Libra0000/z013.htm#hosoku050924a

  [*4] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
     http://freett.com/Libra0000/019.html

  [*5] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
     http://freett.com/Libra0000/082.htm

52Libra:2005/10/01(土) 04:45:03
3.日蓮の中心思想

 日蓮の中心思想は、日蓮の本尊観をみればよくわかるとおもいます。
 日蓮の本尊は法華経です[*1]。法華経の中でも「上行菩薩所伝の妙法蓮華経
の五字」[*2]です。この五字の中身は何か、すなわち、五字には何がつつまれ
ているのかというと、それは「一念三千の法門」です[*3]。「一念三千の法門」
というと難しく聞こえるかもしれませんが、その本質は、「空・縁起の思想」
です[*4]。

  [*1]「法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。 釈迦・大日総じて十方の諸
     仏は法華経より生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり。」
     (「本尊問答抄」)

  [*2]「日蓮は広略を捨てて肝要を好む。所謂、上行菩薩所伝の妙法蓮華経
     の五字也。」(「法華取要抄」)

  [*3]「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み
     末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(「観心本尊抄」)

  [*4] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
     http://freett.com/Libra0000/122.html

53Libra:2005/10/01(土) 04:48:06
4.久遠仏は三身(法身仏・報身仏・応身仏)のうちの報身仏

 寿量品には「我本行菩薩道」とありますから、《久遠仏は菩薩行によって仏
となった》と説かれているわけです。ですから、久遠仏は報身仏(有始無終)
です。

 わたしがイメージする久遠仏(永遠に説法する釈尊)とは、三枝充悳先生が
「形のない釈尊」と表現されている釈尊[*1]であり、法を見る者が見る釈尊[*2]
です。

 日蓮は報身を中心に据えており[*3]、そのことは日蓮の曼荼羅にもよくあら
われているとおもいます[*4]。

  [*1] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
     http://freett.com/Libra0000/020.html

  [*2] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
     http://freett.com/Libra0000/085.htm

  [*3] 日蓮聖人は報身仏を中心に据えている(浅井円道)
     http://page.freett.com/Libra0000/106.html

  [*4] 本尊論メモ(Libra)、〔05.08.26 補足2〕
     http://freett.com/Libra0000/z013.htm#hosoku050826b

54Libra:2005/10/01(土) 04:55:30
5.日蓮にとって久遠仏(永遠に説法する釈尊)とは法華経である

 日蓮にとっては《法華経=久遠仏》です[*1]。そして、日蓮は、法華経の中
でも「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」[*2]を選んでいます。ですから、日
蓮は、曼荼羅において、「本門の教主釈尊」(=久遠仏)を五字(妙法蓮華経)
で表現しています[*3]。

 《法華経=久遠仏》という考えは、釈尊が説いた教えを釈尊死後の師とみる
考え[*4]や「法を見ざる者はわたしを見ない」という考え[*5]の延長上にある
考えであるとおもいます。釈尊が死んでも釈尊が説いた法はなくなりませんか
ら、法を見る者が見る釈尊は生き続けるということです[*6]。法華経では以下
のように説かれています。

  ─────────────────────────────────
  この『正しい教えの白蓮』という経説は、偉大な志を持つ求法者の乗物に
  乗り「さとり」を志した者たちにとっては、如来である。

  (岩波文庫『法華経(下)』〔岩本裕他訳注、1967年〕、p. 201)
  ─────────────────────────────────


  [*1] 日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
     http://freett.com/Libra0000/120.html

  [*2]「日蓮は広略を捨てて肝要を好む。所謂、上行菩薩所伝の妙法蓮華経
     の五字也。」(「法華取要抄」)

  [*3] 本尊論メモ
     http://freett.com/Libra0000/z013.htm

  [*4]「アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれな
     い、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられ
     ないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちの
     ためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死
     後にお前たちの師となるのである。」(「大パリニッバーナ経」、
     第六章第一詩。中村元訳『ブッダ最後の旅』〔岩波文庫〕、岩波書店、
     1980年、p. 155)

  [*5] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
     http://freett.com/Libra0000/085.htm

  [*6] 仏身論メモ(Libra)
     http://freett.com/Libra0000/z014.htm

55Libra:2005/10/01(土) 05:12:22
6.業論について

 結論からいいますと、わたしは、仏教徒として、輪廻転生を前提として説か
れる業論(以下、単に「業論」といいます)についてはキッパリと否定する立
場です[*1]。

 日蓮は鎌倉時代の人間ですから、その日蓮に、「阿含の経典は無我を説く経
とともに輪廻思想を説く経をも含んでいる」が、「阿含の経典は果たしてブッ
ダの思想を忠実に伝えたものであるか」[*2]というような視点を要求するのは
酷というものです。したがって、日蓮が「業論は仏説の一部である」という前
提のもとに、自らの思想を構築しているということはむしろ当然のことと言え
るでしょう。

 しかしながら、上記視点をすでに獲得しているわれわれが、ブッダの「教え
と矛盾」し、「ブッダの理想とも相容れない」ものであるところの業論[*3]に
しがみつく必要などは全くないとおもいますし、むしろ、有害であるからキッ
パリと否定すべきだとおもいます。

 日蓮は、一念三千という珠がつつまれた五字[*4]を受持すれば、釈尊の因行
果徳を譲り受けることができるといい[*5]、「南無妙法蓮華経と心に信じぬれ
ば心を宿として釈迦仏懐まれ給う」[*6]といって、一生成仏を説いていますか
ら、業論を否定したとしても、日蓮の中心思想に影響はありません。

 現在の創価学会には、業論を認めつつその意味を読み替えていこうとする立
場[*7]と、業論そのものを否定していこうとする立場[*8]があるようにおもい
ます。前者は、日蓮の思想の解釈としては妥当かもしれませんが、それが現代
において通用するか疑問です。わたしは、後者を支持しています。


  [*1] 輪廻説は仏教ではない(Libra)
     http://freett.com/Libra0000/z006.html

  [*2] 輪廻思想と無我思想の調和は不可能(和辻哲郎)
     http://freett.com/Libra0000/070.htm

  [*3] 梶山先生のお考えについて(Libra)
     http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha097.html

  [*4]「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み
     末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(「観心本尊抄」)

  [*5]「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を
受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(「観心本尊抄」)

  [*6] 「松野殿女房御返事」

  [*7] 「謗法論」再考(魯の人)
     http://www.ginpa.com/column/20000909.html

     「謗法論」再考 Part2
     http://www.ginpa.com/column/20000913.html

  [*8] ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
     http://freett.com/Libra0000/080.htm

56Libra:2005/10/01(土) 05:12:52
7.おわりに

 以上で、わたしが支持する「法華経の中心思想」および「日蓮の中心思想」
の中身についての単純化した説明はおわりです。

 念のためにいっておきますと、今のところ、上記のようなわたしの考えに賛
成される方というのは、ほとんどいないか、ひとりもいません(笑)。

57Leo:2005/10/02(日) 01:41:38
感想です。

日蓮(大)聖人の意図(仏教の復興)をくみとるならば、日蓮(大)聖人(時代)の教学
そのままでなく、Libraさんのように現代わかっている事実を考慮したり過去の教学を取捨選択すべ
きと思います。(そうでなくば真の仏教の復興にはなりません)

しかも、現代の学会教学(その基になった日蓮正宗教学も)は日蓮(大)聖人の教学
そのままでないことも明らかです。

日蓮(大)聖人時代は天台が仏教の最高の理解とされ、日蓮(大)聖人もそこから出発したわけですが、
現代ではパーリ語仏典の訳などからブッダの実像や根本思想(縁起や無我など)が明らかになっています。

58Libra:2005/10/02(日) 04:02:35
>>57

 Leo さん、コメントありがとうございます。

 「わかっている事実を考慮」することを拒否するなら合理性[*1]を欠くこと
になるし、日蓮の言説を絶対の権威とみるなら牧口の理念[*2]と矛盾するとお
もいます。

  [*1] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
     http://freett.com/Libra0000/112.html

  [*2] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
     http://freett.com/Libra0000/024.htm

59わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 04:49:09
 師匠
 衆生縁の慈悲だけはよく分かりますが、法縁の慈悲と無縁の慈悲の区別が、わめには明確には理解できません。涙
 諸行無常と言うことと、空という身の事実を理解することとの差異がイマイチ分からないですw

60わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 07:55:51
分かったかも^^
仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ません。そういうことをはっきりさせておかなければいけないのではないかなと思います。慈悲ということは、空という身の事実においてはたらくとき、無縁の慈悲としての大慈悲となる、それ以外に大慈悲はないのです。したがって、空において慈悲は大慈悲となるのであり、それを無縁の慈悲というのです。空と悲とは相反する事柄ではなく、空なくして悲なく、悲なくして空なしという関係にあるわけです。

61わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 08:40:17
早くも挫折w(^^;;

ブッダの縁起・空を、法華経・題目に当てはめて考えるというのは理解できますし、法華経を創作された仏教徒(達)が、それ(縁起・空)”も”意識して書かれたのだろうと思います。

釈尊の智慧が法華経に”含まれている”とは思いますが、だからといって法華経が、”釈尊の智慧の結晶”とはわめには思えないです。

62Leo:2005/10/02(日) 09:20:54
わめさん、こんにちは。>>61

>釈尊の智慧が法華経に”含まれている”とは思いますが、だからといって法華経が、”釈尊の智慧の結晶”とはわめには思えないです。

釈迦の知恵を縁起・空として、佐倉哲さんのいうように法華経が擬人化された縁起の法が主人公とすると、
法華経は一貫して縁起の法を語っているわけで、法華経がゴータマ・シッダルタの著作でないものの、
その内容はゴータマ・シッダルタの教えを、法華経成立の時代・地域で信じられていた神話的世界
(たとえばヤクシャ、キンナラ、ガンダルーバとか超人的釈尊とか)を舞台装置として表現していると
はいえないでしょうか。釈迦の「教え」が流れているので「釈尊の智慧の結晶」といってもよいかと。

佐倉哲さんの「わたしの『法華経』概論」
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud120.html
「縁起の法(久遠のブッダ)のおかげ(威光、神通力、因縁、根拠)で、
 ブッダ自身もその他の人々もさとりにいたることができる、というわけです。
 法華経の物語における真の主人公は、この「久遠のブッダ」として擬人化された
 縁起の法そのものだと言えるでしょう。」

63Leo:2005/10/02(日) 10:44:05
>釈迦の「教え」が流れているので「釈尊の智慧の結晶」といってもよいかと。

これは別に法華経を正当化しようというわけではありません。

世の中には法華経がゴータマ・シッダルタの著作じやないからニセモノで不要という考え方も
あるでしょうが(大乗非仏説など)、妥当ではないものを除去しいっても、法華経が縁起の法
を語っているのは妥当ではないでしょうか。

64わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 11:17:14
Leoさん、こんにちは^^

佐倉哲さんのサイトなら、キリスト話も含め何度か目を通してます。(*゜▽゜*)

ただ、縁起の法とか空と言うものは、何も法華経だけに限って表されていると思えないと言うか、ことさら法華経だけを「釈尊の智慧の結晶」と強調してしまうことがどうかなって、疑問を感じてしまうのです。

岩波文庫の法華経(上中下)を三度ほどしか読んでいないわめが言うのも何なのですが(汗)、法華経が縁起・空を、強調・一貫して説かれているとも思えないと言うのもあります。

> 世の中には法華経がゴータマ・シッダルタの著作じやないからニセモノで不要という考え方も
> あるでしょうが(大乗非仏説など)、妥当ではないものを除去しいっても、法華経が縁起の法
> を語っているのは妥当ではないでしょうか。

はい、このLeoさんの言われる妥当には異議なしです。^^

65Libra:2005/10/02(日) 11:59:18
> 空という身の事実を理解すること

 「空という身の事実を理解する」というのは、「私たちは、仮としての存在
であり、確かなものとして存在していない」(小川一乗先生)ということを理
解するということです。このことを実感できる時間を、松本史朗先生は「宗教
的時間」と表現されています[*1]。友岡雅弥さんが、「悟るべき「自己」とい
う考えこそ、我執の最たる者ではないだろうか」[*2]といわれているのも同じ
ことだとおもいます。

  ─────────────────────────────────
  私たちが死んだらどうなるかと考えるのは、どうしてかというと、確かな
  「私」が有ると思っているからでしょう。〔中略〕もともと存在していな
  いのだから、ないものが死んだらどうなるかと考える必要はない。もとも
  と私たちは、仮としての存在であり、確かなものとして存在していないの
  です。

  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 144-145)
  ─────────────────────────────────

 「空の思想」について語っている人はたくさんおられますが、「空という身
の事実を理解」している人はあまりいないとわたしはおもいます。


> 釈尊の智慧が法華経に”含まれている”とは思いますが、だからといって法
> 華経が、”釈尊の智慧の結晶”とはわめには思えないです。

 繰り返しになりますが、法華経の中心思想は「空の思想」であり、法華経は
それを実践的関心に即して表現しようとしたものであるとわたしは理解してい
ます。ここでいう「空」とは、釈尊が説いた「アートマンの存在を否認する意
味での「無我説」」と同じ内容を表現する「空」です。

 法華経の《中心思想を》支持するというのは、法華経の中で主張されている
ことのすべてを支持するわけではないという意味です。

 法華経に「釈尊の智慧(無我説)」をみる人(松本先生、袴谷憲昭先生、友
岡さんなど)と、そうではない人がいます。わたしは前者の仏教理解および法
華経理解を支持しています。

66Libra:2005/10/02(日) 12:13:53
 註を書くのわすれてました(汗)。

  [*1] 学問と礼節、無我と慈悲、宗教的時間と日常的時間(松本史朗)
     http://freett.com/Libra0000/068.htm

  [*2] 呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
     http://freett.com/Libra0000/042.htm

67Libra:2005/10/02(日) 12:34:14
> 縁起の法とか空と言うものは、何も法華経だけに限って表されていると思え
> ない

 「二乗作仏と久遠実成が法華経の2大要義であるのは万人の知るところ」(顕
正居士さん)[*1]だとおもいますが、現代人には、法華経が「二乗作仏」を説
いたことのインパクトはあまり理解できないのかもしれませんね。

 日蓮は、法華経以前の経には二つの欠点があるといいます。ひとつは、「二
乗は成仏できない」といって「万人が平等に成仏できる教え」を説いていない
こと。もう一つは、「永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊」を説いていな
いことです。『法華経』以前の経にはこれら二つの「心髄」が説かれていない
のでダメなんだというのです。

  ─────────────────────────────────
  爾前の経に二つの失あり、一には〔中略〕二乗作仏の法門を説かざる過な
  り、二には〔中略〕久遠実成の寿量品を説かざる過なり、此の二つの大法
  は一代聖教の綱骨一切経の心髄なり

  (「寿量品得意抄」、全集、pp. 1210-1211)
  ─────────────────────────────────

 私も、「万人が平等に成仏できる教え」と「永遠に生き続け、衆生を導き続
ける釈尊」というのは、仏教の「心髄」だと思います。

 もちろん、空は法華経だけに説かれているものではありませんから、他の経
典を参考にするのは有意義でしょう。日蓮も以下のようにいっています。

  ─────────────────────────────────
  法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり
  
  (「一代聖教大意」、全集、p. 397)
  ─────────────────────────────────

 しかし、経典によって「空」の意味が異なることがあります[*2]ので注意が
必要だとおもいます。


  [*1] 仏教とは何か
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog001.html

  [*2] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
     http://freett.com/Libra0000/019.html

68Libra:2005/10/02(日) 12:50:07
 佐倉哲さんは、おそらく、法華経に「釈尊の智慧(無我説)」をみない人だ
ろうとおもいます。なるほど、Leo さんが引用された部分(>>62)だけを見る
と、わたしの考えに近いようにも見えますが、根本的なところで、法華経理解
がわたしとは異なっているとおもいます。

 これも繰り返しになりますが、寿量品からわたしがイメージする久遠仏(永
遠に説法する釈尊)は、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されている釈
尊[*1]であり、いってみれば、法を見る者が見る釈尊[*2]です。日蓮の「観心
の本尊」というのは、まさにそれだろうとおもいます。


  [*1] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
     http://freett.com/Libra0000/020.html

  [*2] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
     http://freett.com/Libra0000/085.htm

69わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 13:10:11
 師匠

 佐倉哲さんは上記「わたしの『法華経』概論」で、縁起の法のことを書かれています。

 わめは縁起の法そのものというか、別名と言うかが、無我・無常・空ではないかと思うのですがいかがでしょう?

70Libra:2005/10/02(日) 15:13:32
>  わめは縁起の法そのものというか、別名と言うかが、無我・無常・空では
> ないかと思うのですがいかがでしょう?

 もちろん、そのお考えには賛成します。

 佐倉哲さんは、「法華経の一乗思想は、〔中略〕仏教の中心思想である縁起
の思想(空の思想、無我の思想)によって裏付けられています」といわれ、そ
の根拠として、わたしと同じく、梵本の第五章の文をあげておられます。

 佐倉哲さんの法華経理解を肯定する立場のわめさんが(このことじたいがわ
たしの誤解かもしれませんが)、「法華経が縁起・空を、強調・一貫して説か
れているとも思えな」といわれていたので、そのことから、わたしは佐倉哲さ
んの法華経理解を誤解してしまったのかもしれません。

 わたしが述べた佐倉哲さんの法華経理解についての評価(>>68)は訂正して
おきたいとおもいます。佐倉哲さんもまた、法華経に「釈尊の智慧(空の思想、
無我の思想)」をみている人でした。

 「法華経の一乗思想」は法華経の中心思想だとおもいますし、法華経はこの
思想を中心思想として「強調・一貫して説」いているとおもいます。

 「空という身の事実を理解」しているのが菩薩です。法華経はこの菩薩の姿
を生き生きと描いています。菩薩は、「私たちは、仮としての存在であり、確
かなものとして存在していない」ということを実感し、「悟るべき「自己」と
いう考えこそ、我執の最たる者で」あることを理解するからこそ、「自分が誰
か一人でも救っているなどという観念を一切持たぬ」(佐倉哲さん)のです。
そういう菩薩の姿を修行者の理想として表現することによって、法華経は「空
の思想」を表現しているとわたしはおもいます。

 ただし、法華経が作られた当時には「巧みな手だて(方便)」といえたもの
であっても、現代においてはもう「巧みな手だて(方便)」とはいえないよう
なものがあるとはおもいます。

71わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 15:34:41
>  佐倉哲さんの法華経理解を肯定する立場のわめさんが(このことじたいがわ
> たしの誤解かもしれませんが)

 誤解ではありません、佐倉哲さんの法華経理解を肯定する立場です。^^
 ただ佐倉哲さんは、ことのほか法華経を重要と捉えていないように思いますし、ブッダの教えが縁起の思想に集約されると言う結論に、重点を置いているように思います。

>  ただし、法華経が作られた当時には「巧みな手だて(方便)」といえたもの
> であっても、現代においてはもう「巧みな手だて(方便)」とはいえないよう
> なものがあるとはおもいます。

 わめの言いたいこともここにあります。わめからすれば、Libra師匠に現代において、法華経の現代語版的『法華経と言うより縁起の法(体系?)の、人としての活用法』を、余計な方便やら回りくどい言説を取っ払って書いていただいたほうが、法華経などより、よほど価値があるものになるのじゃないかと思うのです。

72Libra:2005/10/02(日) 16:39:51
 だいたい議論はおちついたようです。

 わたしは、佐倉哲さんや曽我逸郎さんのような仏教理解は正しいとおもいま
す。そういう理解に到達できるのであれば、どのような道を通ってもよいとお
もいます。

 わたしは、「法華経・日蓮という道を通らなければそこには到達できない」
(A説)とはおもいませんが、「法華経・日蓮という道を通ってしまうとそこ
には到達できない」(B説)という意見には賛成できません。ネット上にもB
説を主張する人がいるので、そういう人には反対していきたいとおもっていま
す。

 わたしの場合、法華経とか日蓮という道を通ってそこに到達しました。もし
その道に出会っていなければ、どうなっていたかわかりません。そういう意味
では、創価学会員の子供として生まれたのはラッキーだったと思っています。

 わたしは、これからも、「法華経・日蓮という古典的な道も、けっこう面白
いですよ」といっていきたいなとおもいます。

73わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 17:02:56
>  だいたい議論はおちついたようです。

 うーん、わめはまだ消化不良です。(^^;;

>  わたしは、「法華経・日蓮という道を通らなければそこには到達できない」
> (A説)とはおもいませんが、「法華経・日蓮という道を通ってしまうとそこ
> には到達できない」(B説)という意見には賛成できません。ネット上にもB
> 説を主張する人がいるので、そういう人には反対していきたいとおもっていま
> す。

 わめもこの点は師匠と同意見です。

>  わたしの場合、法華経とか日蓮という道を通ってそこに到達しました。もし
> その道に出会っていなければ、どうなっていたかわかりません。そういう意味
> では、創価学会員の子供として生まれたのはラッキーだったと思っています。

 これも同意見です。考えたら師匠とわめは、3世2世の違いはありますが、生い立ちは近いものがありますね。^^

>  わたしは、これからも、「法華経・日蓮という古典的な道も、けっこう面白
> いですよ」といっていきたいなとおもいます。

 これも同意見だし、それが師匠の大きな功績でもあると思います。

 その上でも申し上げたいのが、「法華経・日蓮」の教えを(不当に?)汲む日蓮正宗・顕正会・そして創価学会等が、その信徒達の”信じ方”にも問題があるとしても、「法華経・日蓮」の教え(不当な?)が、多く(一部?)の信徒及びその家族、そして社会に対して悪影響を及ぼしてしまっている現実を見るとき、直接原因ではないとしても「法華経・日蓮」の教えそのものが、そのような結果を生み出しているのではないかと思ってしまうのです。

 この点において、わめは消化不良なままです・・・

74Libra:2005/10/02(日) 17:23:23
 わめさんが「消化不良」といわれている最後の点を消化するのはとても簡単
なことのようにわたしには思えます。

1.そのような悪影響は、本当に、「法華経・日蓮の教え」に起因するものと
  いえるか?(誤解・誤読によるものである可能性はないか?)

2.「法華経・日蓮の教え」に起因するといえる場合、それは「法華経・日蓮
  の教え」の中心的な教えか?(中心的な教えでなければ、その部分を修正
  した上で、中心的な教えを保持してよい。)

3.「法華経・日蓮の教え」の中心的な教えが、悪影響をおよぼすといえるな
  ら、「法華経・日蓮の教え」それ自体を捨てればよい。

75わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 17:34:28
 師匠、わめの書き方が悪かったようで、誤解を与えてしまったようです。(^^;;

 わめが()付きで書いた”不当”と言うのは、師匠の書かれた”誤解・誤読”や、中心的な教えでない部分を指す言葉で、「法華経・日蓮の教え」が直接原因ではないと言うことです。

 そのように不当を読み替えていただき及び、直接原因ではないとしながら、

 「法華経・日蓮」の教えを(不当に?)汲む日蓮正宗・顕正会・そして創価学会等が、その信徒達の”信じ方”にも問題があるとしても、「法華経・日蓮」の教え(不当な?)が、多く(一部?)の信徒及びその家族、そして社会に対して悪影響を及ぼしてしまっている現実を見るとき、”直接原因ではない”としても「法華経・日蓮」の教えそのものが、そのような結果を生み出しているのではないかと思ってしまうのです。

 このように言っているわけで、わめの消化不良の原因です。

76わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 17:48:08
 まだわめの表現不足のようです。泣

 例えとして、
 「法華経・日蓮の教え」は最高に良く切れる包丁です。
 それを日蓮正宗・顕正会・創価学会が販売しているわけです。
 でもそれら団体の販売方法は強引で、この包丁の効能や扱い方を誤って(わざとかも)教えているわけです。
 また本来の取り扱い説明書も、これらの団体では間違った取り扱い説明書だと教えられ、これら団体ごとの勝手に作った誤った説明書を配っているわけです。

 そのことによりこの包丁で、買った人やその家族、その恋人、そして一般社会で、重症な怪我人が多く出てる・・・

 何だかこのような現実があるのではないかと思うわけです。(消化不良)

77わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 17:54:23
 重要補足

 本来の取り扱い説明書やこれら団体ごとの勝手に作った誤った説明書は、難解で一般の方達にはなかなか理解しがたい。

78Libra:2005/10/02(日) 18:08:55
 誤解・誤読によるのであれば、「法華経・日蓮」の教えそのものにはなんら
責任はないとおもいます。単純に、誤解・誤読の方を正せばよいだけの話だと
おもいます。

 「法華経・日蓮」の教えにかぎらず、一般的にいって、仏教は「梵我一如型
の思想」の方向に「誤解・誤読」されていくものであろうとおもいます。残念
ながら、この傾向はいかんともしがたいものがあります。しかしながら、仏教
のこのような《「誤解・誤読」されやすい傾向》は、仏教徒の責任であるとは
いえても、釈尊にその責任はないとおもいます。

 中心的な教えでない部分に問題があるのであれば、問題がある部分について
修正を加えた上で、中心的な教えを維持してよいとおもいます。

 わめさんが「消化不良」である理由がいまいちわかりません。

79わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/02(日) 19:29:18
>  誤解・誤読によるのであれば、「法華経・日蓮」の教えそのものにはなんら
> 責任はないとおもいます。単純に、誤解・誤読の方を正せばよいだけの話だと
> おもいます。

 具体的にはどのように正せばよいのでしょう?
 日蓮正宗・顕正会・創価学会が、誤解・誤読をそう簡単には正してくれそうにないように思います。

 正せない現実があり、重症な怪我人が多く出てるわけです。(^^;;

 もちろん釈尊や縁起の法に責任などあろうはずがありません。
 「法華経・日蓮」の教えそのものにも責任はないと思います。

> わめさんが「消化不良」である理由がいまいちわかりません。

 ですが、重症な怪我人が多く出てるわけです。(´・ω・`)ショボーン

 悪い良いや、責任がある無しではなく、現実の上でこのような怪我人を出さないためには、どうすればよいかと言うことを考えたいのです。

 「法華経・日蓮」の教えが誤解・誤読されてしまう原因として、その教義の難しさにあり、その解釈も様々です。そしてその教えの真髄と言うものは縁起の法なわけです。

 縁起の法を説く、それ以外は超スリムに誤解・誤読されようのない、また、誰もがわかるような教え(言説)が必要ではないかと思うのですが・・・

 そしてその教えが批判に耐えるために、「法華経・日蓮」の教えをその証とする為に用いるといった形は成り立たないでしょうか・・・

80Libra:2005/10/02(日) 23:32:25
 「創価学会が、誤解・誤読をそう簡単には正してくれそうにない」というの
は、現状分析としてはその通りでしょう。しかし、それは、あくまでも現実的
な困難ということであって、いまここで議論している《「法華経・日蓮の教え」
の妥当性》の話とは関係がありません。

 創価学会の創立者である牧口は、「一度発せられた意志命令は、仮令それが
間違つて居ることが解つたにしても、それを引込ますことは官の威信に関はる
という理由の下に、無理横暴を通すといふのが専制政治の常套手段で、これで
なければ人民は治るものでないといふのが其の信条である。何ぞ知らん。眼前
一部分の威信はこれによつて保つことは出来ても、永久全体の信用は全く失墜
して仕舞ふことを」[*]といっていますから、もし創価学会が創立者の理念を
思い出すことができれば、自ら積極的に誤解・誤読を正していくはずだとおも
います。問題は、なぜ創価学会は創立者の理念からこうも大きくズレてしまっ
ているのか、創価学会が創立者の理念を思い出すことはなぜ困難なのかという
ことです。

>  現実の上でこのような怪我人を出さないためには、どうすればよいか

 誤解・誤読であることを論理的に指摘することも大事なことだとおもいます。

> 縁起の法を説く

 友岡さんとかはその方向だとおもいます。

> 誤解・誤読されようのない、また、誰もがわかるような教え(言説)が必要

 「誤解・誤読されようのない」というのは無理だとおもいますが、「より開
かれた、より説得力のある、普遍的な教義体系を確立していく必要」(魯の人
さん)はあると思います。

  ─────────────────────────────────
   ところで現在、伝統的な大石寺教学の齟齬が至るところで露見していま
  す。もちろん、それで私たちの信仰がいささかたりとも揺らぐことはあり
  ませんでした。むしろ信心の面から言うならば、ますます意気軒昂ではあ
  ります。なぜならば、日蓮大聖人直結、御本尊直結、御書直結の姿勢があ
  る限り、何ら恐れることが無いからです。

   しかし、広宣流布という運動をさらに広く、深く進めていくためには、
  新しい日蓮教学の確立が強く模索されていることは事実でしょう。より開
  かれた、より説得力のある、普遍的な教義体系を確立していく必要がある
  と思います。それはとてつもない大事業であるとも思います。

  (魯の人「「法華経の智慧」を学ぼう」、2001年2月、
    http://www.ginpa.com/column/20010227.html
  ─────────────────────────────────


  [*] 依法不依人(牧口常三郎)
    http://freett.com/Libra0000/025.htm

81Leo:2005/10/03(月) 01:47:08
Libraさん、こんばんは。>>80

>「創価学会が、誤解・誤読をそう簡単には正してくれそうにない」というの
>は、現状分析としてはその通りでしょう。

創価学会は体験主義や実証主義が幅をきかせていますし、巨大組織は色々しがらみがあって
修正が難しいでしょう。

以前ある方から学会の教学部は無力化されているという話をききましたし、東洋哲学研究所
も『東洋学術研究』の目次に「ガンジー・キング・...」などという有様でこれでは
開店休業状態といってもよく、教学的には暗黒時代であるとさえいえるかもしれません。

であるならばそういう組織には(すぐには)期待しないで、有志(個人個人)が問題意識を持って
いくしかないのだと思います。

>問題は、なぜ創価学会は創立者の理念からこうも大きくズレてしまっ
>ているのか、創価学会が創立者の理念を思い出すことはなぜ困難なのかという
>ことです。

多分、戦後、以前の教育学会の看板を下ろして所謂新興宗教団体になってしまったからであり
(戦後の宗教のニーズに従ったものでしょう)、新興宗教団体は多々ありますが、その中でも会員
数が多いという状況から、現世的なある意味成功者となり、「創立者の理念」が忘れさられて
いる(あるいは意図的に排除している)からだと思います。

『小説人間革命』では戸田氏が牧口氏の「価値論」を摧尊入卑として批判しかわりに「生命論」
をすえたようすが語られています(あくまで小説なんですが「考え」がかたられているわけで...)。

「牧ロの価値論から入った、大善生活を思うとき、そこには、彼独特の、倫理的臭味を帯びてくる。
 さらに、大善生活の実践のために、大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は、価値論の範疇に入ることになってしまう。
 ―ここに摧尊入卑のきらいが影となって射して来るようだ。
 戸田は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込めた。そして、南無妙法蓮華経そのもの自体から出発したのである。
それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。
 彼は、価値論を、現代哲学の最高峰であるとは思っていた。
…しかし、大聖人の大生命哲理からするなちば、時に『九重の劣』とずら思えた。」

しかも戸田氏の生命論は(Libraさんの資料により)新興宗教に共通の面があるのですね。
新宗教における生命主義的救済観(対馬路人 他) 
http://freett.com/Libra0000/041.htm

82snow:2005/10/03(月) 14:23:28
みなさん、こんにちは。

何日かぶりに来てみたら、スレタイ通り「法華経」(…だけではないようですが)についての議論になっていたので、
私の「これってなんなのさ〜」的な素朴な疑問は以降控えさせていただきますね。

理解出来るかどうかは別として、見てますので、いろいろ聞かせてくださいませ〜

スレ汚し失礼しました。

83わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/03(月) 14:49:47
snowさん、こんにちは〜

> 何日かぶりに来てみたら、スレタイ通り「法華経」(…だけではないようですが)についての議論になっていたので、
> 私の「これってなんなのさ〜」的な素朴な疑問は以降控えさせていただきますね。

ヽ(・∀・;)ノ アヒャッ!

 でもまぁ、snowさんの素朴な疑問の答えついて、それは今の創価学会が、牧口初代会長の理念に反していることが、原因なのだろうとの結論になっています。>>70以降かな・・・

 だから、”snowさん素朴な疑問路線”は継続中です。^^

 ってことで投稿控えられるとつらいかもw(^^;;”

84葉末:2005/10/03(月) 16:25:31
こんにちは。スレ違いですね、ごめんなさい。
私も数日ぶりに拝見して、内容に驚きました。


「おかげとたたり」話が創価学会の主内容だと言うのを
どこかで読んで、納得していたのですが。

現在の学会が牧口先生の理念と違うと言われても、
初代の理念を詳しく知りません。^^;
知っていた会員も忘れているかもしれませんね。

☆☆
法華経を読んでみようかと。どこのがいいでしょうか?

そうそう実家には、「妙法蓮華経 正宗版」というのがありますが、、
これ開けたこともありませんので。。。一度見てみよう。

85わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/03(月) 19:20:15
葉末さん、こんばんは〜^^

> 現在の学会が牧口先生の理念と違うと言われても、
> 初代の理念を詳しく知りません。^^;

わめもLibra師匠から教えていただいた、下記くらいしか知りません。(^^;;
信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
http://freett.com/Libra0000/024.htm
依法不依人(牧口常三郎) 
http://freett.com/Libra0000/025.htm
英雄は四面楚歌の苦境に堅忍奮闘して漸く勝利を得る(牧口常三郎)
http://freett.com/Libra0000/026.htm
公明正大の方法によつて、最も自由に徹底的の討議を(牧口常三郎)
http://freett.com/Libra0000/055.htm
上行菩薩即日蓮聖人(牧口常三郎)
http://freett.com/Libra0000/065.htm

> 法華経を読んでみようかと。どこのがいいでしょうか?

どっかの教団版のではなく、普通の書店に売っているがいいと思います。^^

わめは岩波文庫の法華経(上中下巻共で計2500円以内)しか読んだことはありません。

86Leo:2005/10/03(月) 23:46:44
葉末さん、こんばんは。>>84

>法華経を読んでみようかと。どこのがいいでしょうか?

>そうそう実家には、「妙法蓮華経 正宗版」というのがありますが、、
>これ開けたこともありませんので。。。一度見てみよう。

わめさんが紹介されている、岩波文庫の法華経(上中下)は結構色々な人が読んでいる
ようです。結構読みやすいように思います。

最近では(別に学会を宣伝するわけではありませんがこのようなものも
あるということで)『妙法蓮華経 並 開結』創価学会、2002年というのもあります。
これは日蓮(大)聖人が手元に置かれて書き込みをされていた「注(註)法華経」に
基づいたものだそうです。古文ですが美文です。日蓮(大)聖人の書き込みも再現
されています。(日蓮(大)聖人はこのような法華経を読んでいなのだなと)

詳しく確認はしていませんが、学会から出版されてはいるものの、一般の仏教系
出版社が出版している「注(註)法華経」と同じ内容ではないかと思います。

87Leo:2005/10/03(月) 23:57:03
わめさん、こんばんは。>>85

法華経から脱線してしまいますが(^^;

(『小説人間革命』で「倫理的臭味」「摧尊入卑」といわれてしまっている)『価値論』は新書版
(レグルス文庫)で出版されてます。 レグルス文庫『価値論』第三文明社

88わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/04(火) 00:14:23
Leoさん、こんばんは^^

牧口初代会長の価値論を、戸田二代会長が「倫理的臭味」「摧尊入卑」と言ってるわけですかw

これでは創価学会が、創立者の理念に立ち返ることは非常に難しいことでしょうね。(^^;;

と言うか、もとより期待はしていなかったのですが・・・

法華経・日蓮にしても色々な解釈があって、Libra師匠のお考えが唯一正当と証明することも難しいように思います。涙

89Leo:2005/10/04(火) 00:28:10
法華経入門で手ごろなのはこの本かもしれません。

菅野博史 『法華経入門』 岩波新書、岩波書店

菅野氏は創価大学の先生で現在は法華経研究所の所長さんだそうですが、
その本は創価学会に偏った内容になってないです。やや出版年が古いですが
このような法華経入門書もあります。

田村芳朗 『法華経 真理・生命・実践』 中公新書、中央公論新社

これらは創価学会で教わらないことが書いてあります。
また、直接法華経の本ではないですが、

末木文美士 『日蓮入門 − 現世を撃つ思想』 ちくま新書、筑摩書房

もお勧めです。末木氏は友人に創価学会の研究者がおられるそうですが、
(創価学会に一定の理解は示されるものの)創価学会に偏った方ではないようです。

ちなみに、学会の【濃い】法華経の入門書にはこのようなものがありました(^^;
『法華経の智慧』聖教新聞社
『池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義』聖教新聞社

90Leo:2005/10/04(火) 00:41:11
わめさん、こんばんは。 >>88

>牧口初代会長の価値論を、戸田二代会長が「倫理的臭味」「摧尊入卑」と言ってるわけですかw

本当に戸田二代会長そう言ったのか、小説なので戸田二代会長の口を借りて著者の考えを
語っているのか定かでないですが...

>法華経・日蓮にしても色々な解釈があって、Libra師匠のお考えが唯一正当と証明することも難しいように思います。涙

Libraさんの主義は非正当化主義であり批判的合理主義なので、もとから「唯一正当と証明する」
ことは目指してないと思います。

学んだり議論したり話したりして自分なりの法華経・日蓮(大)聖人の解釈を持てればよいの
ではないかと思います。

91わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/04(火) 00:59:21
>>90
 Loeさんども^^

> 本当に戸田二代会長そう言ったのか、小説なので戸田二代会長の口を借りて著者の考えを
> 語っているのか定かでないですが...

それはそうでしょうけど、池田氏も監修(執筆?)されているようですから、創立者の価値論は捨てられたのかもしれませんね・・・

> Libraさんの主義は非正当化主義であり批判的合理主義なので、もとから「唯一正当と証明する」
> ことは目指してないと思います。

 人の手を借りて申し訳ありません。<(_ _)> 書こうと思ったのですが面倒になってw汗

 んで、わめの言いたかったのは現実的な意味で、特効薬に成り得ないのが悲しいなと思ったのです。

 わめにとって、学んだり議論したり話したりしたりする目的は・・・ 言葉にするのが難しいw

 あ、わめとわめが関わる人のEnjoyLifeのためです。笑 関わる人(縁起的)

92Leo:2005/10/04(火) 01:05:21
余談です)

『小説新人間革命』の前の『小説人間革命』ではよく読むと「幸福製造機」は「家庭用本尊」でなく「大御本尊」だそうです。
破門前と破門後では(破前・破後)では指導が変化してきています。『小説人間革命』の内容が古くなったので
『小説新人間革命』が出たのです。創価学会の指導にしても時代とともに変化するわけで、暫定的なのですね。

93Leo:2005/10/04(火) 01:24:59
わめさん。>>91

>んで、わめの言いたかったのは現実的な意味で、特効薬に成り得ないのが悲しいなと思ったのです。

Libraさんは「考え方」や「ヒント」(理論)を示されたのであり「現実的な意味で、特効薬」(応用)は
皆で(または各自)考えなければならないのかもしれませんです。

仏教の智慧(縁起・空・無我)は意外と特効薬なのかもしれないですし、
何かに固執しすぎるなとか、自分だけで生きているのではない生かされてるとか。

批判的合理主義の利用は難しいように思いますが、要はある主張を強硬に広めていったり、
固定的に物事考えるのではなく、オープンにワイワイやって新しいものに気付いたり、新しい視点を得られれば
成功かもしれません。それによってなにか悩みが解決できればもっとよいです。

何かを悩んでいる人にすぐに役立つ助けは何だろう...(考えがまとまってませんが)

94葉末:2005/10/04(火) 11:16:07
わめさん、 Leoさん、こんにちは。
 ほんのりキンモクセイの香りがしています。^^

レスありがとうございました。
ほんの数年前に、大乗非仏説を知ったばかりです。
法華経もたとえ話くらいの認識で、学会教学しか知らない学会員でした。

ネットで知りえた仏教の知識で、私は変わったと思います。
数々の情報を提供してくださっている方々に感謝しています。


>何かを悩んでいる人にすぐに役立つ助けは・・・・

 私は、家族や友人からのちょっとした優しい言葉で、
 理解してもらえているという安堵感が嬉しいかな。

95snow:2005/10/04(火) 13:11:30
わめさん >>83

えっ、継続中なんですか?
まぁ、私が「素朴なギモン」を書き込んだことがきっかけとは感じますが、
みなさんでスレタイ通りの「法華経」のお話しを始めたのなら、私は退散した方がいいかな〜と。

私は「法華経」のこと、質問はできても意見は述べられませし、
今の段階ではその質問すら「法華経」のことそのものよりも、
「学会って、変なんじゃないの?いろんな意味(含教学)で。」って疑問から出てるわけで。

仏法の観点(…って言ったら伝わるかな)で、法華経の事を語りたい方々の為のスレを、
自分が聞きたいことをわめさんに答えてもらうために一時的にお借りした、と言う意識があるので、
脱線どころではなく、はじめから違う路線を歩んでいるんだから、
本来の目的の方々がきたのなら、道を空けなきゃ〜って感じなんです。

>わめには仏法の話と、学会の話は、まったく別物のように思いますので、同列にお話しするのは大変です。(^^;;
>>47

っていうわめさんの意見、全く同感なんですが、
元カレも含め、「話が通じないな〜」と感じる学会員さんは、いつもこれを一緒にして話してくださるので(泣)
「話を通じさせる」ためには、こっちも多少は仏法学ばないといけないのかな〜、って感じです。
で、私も混ぜてみました(笑)っていうか、きちんと分離できなかっただけかも、ですが。
仏法は、学んだら学んだでおもしろそうだけど、やんなきゃいけないものでもない、っていうのが感想です。

96わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/05(水) 05:21:05
Leoさん、>>92 とすると、創立者の価値論の復興なんてのも無いとは言えませんね。(^^;;

>>93

> Libraさんは「考え方」や「ヒント」(理論)を示されたのであり「現実的な意味で、特効薬」(応用)は
> 皆で(または各自)考えなければならないのかもしれませんです。

そうですね。 わめの場合は特に学会員だけが対象ではないので、うまくいっても富士門流の信者の特効薬かもしれないし・・・

> 仏教の智慧(縁起・空・無我)は意外と特効薬なのかもしれないですし、
> 何かに固執しすぎるなとか、自分だけで生きているのではない生かされてるとか。

『皆で(または各自)考えなければならない』とするならやっぱこっちかな。^^
というか偉そうなことを言うと、縁起を含む暫定真理を多く学び、その中での私達であると知らしめたいとの思いがあります。

もしも一元的な何かがあるとしても、人間が生きる上でそれを感知しなければまったく意味を成さないものだし、そう言った意味では在るがままをつぶさに観るということは、人任せでその教えを学ぶようなものではなく、指差すことで誰もが充分理解できることであると思うし、それこそ(縁起を含む暫定真理)人が生きる上で、何をおいても考えなければならないことのように思います。

> 固定的に物事考えるのではなく、オープンにワイワイやって新しいものに気付いたり、新しい視点を得られれば
> 成功かもしれません。それによってなにか悩みが解決できればもっとよいです。

それはそうだと思います。わめもそれを心掛けています。

> 何かを悩んでいる人にすぐに役立つ助けは何だろう...(考えがまとまってませんが)

このことの答えはなかなか得られそうにはありませんが(涙)、より多くの方がこのことを考え出すと言うことは答えに近づくのことなのかもしれませんね。^^

97わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/05(水) 05:45:44
snowさん

ここは法華経のスレではあるわけですが、Libra師匠の言明から言えば、法華経も縁起・空が中心思想なわけで、snowさんの元彼を含む多くの学会員が、そのことに気が付かないまま学会教学・指導を信じ、言わば盲信状態になっているのです。

わめ的な極論を言えば、日蓮の教えも法華経も含め”縁起の思想”が仏教の真髄なのです。
それは信じないと分からないとかじゃなく、この世の中の在り様を表す言葉で、約2500年もの間、あらゆる批判に耐えている暫定真理だと思っています。

snowさんも、この”縁起の思想”について興味が出てきましたら、『○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について』で、またお話したいと思います。

余談ですが、縁起の思想は宗教でも信仰対象でもないと、わめは思っています。

98Leo:2005/10/05(水) 23:31:33
わめさん、こんばんは。>>97

コメント失礼します。

>ここは法華経のスレではあるわけですが、Libra師匠の言明から言えば、法華経も縁起・空が中心思想なわけで、
>snowさんの元彼を含む多くの学会員が、そのことに気が付かないまま学会教学・指導を信じ、言わば盲信状態になっているのです。

Libraさんの友人に真フィンさんという方がいますが、学会指導を信じていますが盲信になっておらず良識的で紳士的で
そのような方もいるのだと思いました。

なので、学会指導や教義を信じても盲信ならない方もいます。が、指導に強烈な部分があるので
(学会だけが正しく他は正しくない、他は批判するけど学会は批判しないで信じる、敵を攻撃しろなど、あるいは
仏教への「信」が組織や指導者への「信」におきかわっているなど、世界をよくするのではなく組織をよくするなどなど...)
一般的には妄信に陥りやすい傾向にあると思います。

仏教の智慧とは本来は縁起・空・無我の思想とそれに基づく慈悲の行いだと思いますが、学会では永遠の「生命」とか
「仏法は勝負」とか「勝利」とか「栄光」とか「正義」とか「拡大」などが強調され(そういう指導はそういう指導で元気が
出るのでしょうが)本来の仏教の智慧が忘れさられている(あるいは知られていない)のだと思います。

また、創価学会ではバラモン教やヒンドゥー教あるいは密教でポピュラーな凡我一如の思想が強調されること
さえあります。

勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式(「やさしい教学」『聖教新聞』)
http://page.freett.com/Libra0000/063.htm

大宇宙即御本尊(戸田城聖・池田大作)
http://page.freett.com/Libra0000/064.htm

99Leo:2005/10/06(木) 00:35:38
わめさん、少し以前の話になりますが、法華経で直接「空」を語っているところはこのようなところがあります。
特に法師品のところは大聖人の三大秘法に通じるところがあると思います。

>>64 >法華経が縁起・空を、強調・一貫して説かれているとも思えないと言うのもあります。

薬草喩品第五
「如来は是れ一相一味の法なりと知れり。所謂解脱相、離相、滅相、究竟涅槃、常寂滅相にして、終に空に帰す。」

「復禅に住して 神通力を得 諸法の空を聞いて 心大いに歓喜し 無数の光を放って 諸の衆生を度すること有り」

化城喩品第七
「諸の比丘、若し如来、自ら涅槃の時到り、衆又清浄に、信解堅固にして空法を了達し、深く禅定に入れりと知りぬれば、
 便ち諸の菩薩、及び声聞衆を集めて、為に是の経を説く。」

五百弟子受記品第八
「又諸仏所説の空法に於いて、明了に通達し、四無礙智を得て、常に能く審諦に清浄に法を説いて疑惑有ること無く、
 菩薩神通の力を具足し、其の寿命に随って、常に梵行を修しき。」

法師品第十
「如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり、如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり。」

「大慈悲を室と為し 柔和忍辱を衣とし 諸法空を座と為す 此に処して為に法を説け」

提婆達多品第十二
「今皆大乗の空義を修行す。」

安楽行品第十四
「次に菩薩摩訶薩、一切の法を観ずるに、空なり、如実相なり。」

「一切の諸法は 空にして所有無し 常住有ること無く 亦起滅無し 是れを智者の 所親近処と名づく」

100わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/06(木) 00:51:11
Leoさん、こんばんは。^^

法華経から”空”の抜き出し、ありがとうございます。<(_ _)>

結構あるものですね。

> 特に法師品のところは大聖人の三大秘法に通じるところがあると思います。

わめにはこれは三大秘法と言うより、菩薩の心得ととれてしまいます。(^^;;

縁起についてはどうでしょう? 法華経は、縁起は空としての理解だったのかな?

竜樹から羅什へと、空の思想が受け継がれていったのでしょうか・・・

空からも無我・無常は理解できますから、いいのかもしれませんが、縁起のすべてを空で表わせるのかまではわめには分からない。汗

101Leo:2005/10/06(木) 00:51:33
仏の教えの平等と大乗の菩薩をたたえる(大樹とたとえる)薬草喩品第五の次の箇所はよいなあと思います。

「仏の平等の説は 一味の雨の如し 衆生の性に随って 受くる所不同なること 彼の草木の 禀くる所各異なるが如し
 仏此の喩を以って 方便して開示し 種種の言辞をもって 一法を演説すれども 仏の智慧に於いては 海の一滴の如し
 我法雨を雨して 世間に充満す 一味の法を 力に随って修行すること 彼の叢林 薬草諸樹の 其の大小に随って漸く増茂して好しきが如し
 諸仏の法は 常に一味を以って 諸の世間をして 普く具足することを得せしめたもう 漸次に修行して 皆道果を得

 声聞縁覚の 山林に処し 最後身に住して 法を聞いて果を得る 是れを薬草の 各増長することを得と名づく
 若し諸の菩薩 智慧堅固にして 三界を了達し 最上乗を求むる 是れを小樹の 而も増長することを得と名づく
 復禅に住して 神通力を得 諸法の空を聞いて 心大いに歓喜し 無数の光を放って 諸の衆生を度すること有り
 是れを大樹の 而も増長することを得と名づく」

102Leo:2005/10/06(木) 01:11:09
わめさん、こんばんは。>>100

>縁起についてはどうでしょう? 法華経は、縁起は空としての理解だったのかな?

直接「縁起」は1箇所あります。「縁によって起る」の漢文が「縁起」です。

方便品第二
「未来世の諸仏 百千億 無数の諸の法門を説きたもうと雖も 其れ実には一乗の為なり
 諸仏両足尊 法は常に無性なり 仏種は縁によって起ると知しめす 是の故に一乗を説きたまわん」

>竜樹から羅什へと、空の思想が受け継がれていったのでしょうか・・・

仏教の中心的流れに「中観派」がありますが、竜樹は中観派の創始者で、羅什も中観派の影響を
受けています。天台智ギは竜樹の中論や大智度論と羅什訳の法華経に影響を受け、最澄は天台智ギ
の影響を受けています。大聖人は天台智ギと最澄の影響を受けてます。
(空の思想はそのように受け継がれていっていると思います)

釈迦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E5%B0%8A
竜樹
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C%E6%A8%B9
羅什
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E6%91%A9%E7%BE%85%E4%BB%80
智ギ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%BA%E3%82%AE
最澄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%BE%84
日蓮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE

103Leo:2005/10/06(木) 01:27:12
>100 >空からも無我・無常は理解できますから、いいのかもしれませんが、縁起のすべてを空で表わせるのかまではわめには分からない。汗

下記などが参考になると思います(^o^)

空 (仏教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29

「龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っていることを論証している。
 この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹はより深く一般化して説き、
 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっていることを明らかにした。
 これを「空」もしくは「空性」と呼んでいる。
 さらに、関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)
 はないことを明かしている。」

「さらに、龍樹は「無自性空」から「中」もしくは「中道」もほぼ同義語として扱い、釈迦の中道への回帰を説いている。」

104わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/06(木) 01:59:32
Leoさん、わめの愚問・疑問にお答えくださりありがとうございます。

うーむ、竜樹の空は教法でもないように思うし、その意味では縁起をより理解するための解説と取れますし、わめも随分この解説に助けられております。^^

って言うか、わめは我がままで教法は好きじゃないからw笑

でもやっぱり土台は縁起になるのじゃないかな・・・

えっと、無い頭で整理して、法華経は空を縁起の解説・教法として用い、空の指すものは縁起であるわけで、その意味ではすごくいい教典に思えます。

ただ法華経から、現代人がこれを理解し、活かしていくのはかなり難しく感じるのと、解釈次第(意図的含め)ではやっぱり怖いですね。(^^;;

105わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/06(木) 02:07:03
Leoさんがお示し下さった

空 (仏教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29

に、『最高の仏である「如来」は「自性輪身」と呼ばれ、自性であるとされている。』は、証明されようもないように思いますし、縁起からも外れていると思います。

106Leo:2005/10/06(木) 07:45:23
わめさん、こんにちは。>>104-105

>ただ法華経から、現代人がこれを理解し、活かしていくのはかなり難しく感じるのと、解釈次第(意図的含め)ではやっぱり怖いですね。(^^;;

確かにそうです。縁起・空など仏教の智慧にもとづかなければ、ただの自己正当化の経典になってしまいます。

>『最高の仏である「如来」は「自性輪身」と呼ばれ、自性であるとされている。』は、証明されようもないように思いますし、縁起からも外れていると思います。

そのWikiの執筆者が採用している解釈のその部分は問題なように思います。
如来の自性も空だから、結局自性はないのだと思います。

107Leo:2005/10/07(金) 01:47:00
わめさんが即効性のある教法を求めてらっしゃる問題意識や、他の方の素朴な疑問などあると思いますので、
(急にお邪魔して大変お騒がせしましたm(_ _)m)
法華経スレの私の一旦のしめくくりとして、法華経と天台智ギや日蓮(大)聖人との関係を紹介します。
(縁起・空の法を(展開して)天台智ギや日蓮(大)聖人は「一念三千」と表現しています)

一念と三千の相即(田村芳朗)
http://page.freett.com/leo020503/note013.html
「物(色)と心についていえば、一方を主とし、実在とみなし、他方を従とし、
 仮現としてはならないということである。物(色)と心は、あくまでも不二・平等である。」
→一念から三千が発生するのではない

一念三千をめぐる論争(田村芳朗)
http://page.freett.com/leo020503/note014.html
「要するに、一念三千論の根本は全体総合的な世界観の確立にあったのであり、
 変化生滅する多様な具体的現実に即して永遠・絶対の統一的真理ないし
 普遍的世界を見ようとしたものである。」

唱題思想と一念三千説(菅野博史)
http://page.freett.com/leo020503/note015.html
「要するに、日蓮独自の宗教的立場である南無妙法蓮華経の本尊と題目は、『法華経』、
 智邈以来の一念三千の末法における展開顕現として説明されていることがわかる。」

日蓮の(法華経の)三種の中心思想の受容(菅野博史)
http://page.freett.com/leo020503/note016.html
「この万人成仏の思想は、日蓮においては智邈の一念三千説を経由して受容されている。
 後者の衆生の成仏における釈尊の存在の重視については、日蓮は素直にそのまま受け入れたといえる。」

(参考まで)
「日蓮は、『法華経』に説かれる釈尊死後の無仏の時代を、とりもなおさず自分の生きる末法時代と
 主体的に捉え、自身を六万恒河沙の地涌の菩薩の指導的立場にある上行菩薩の再誕と考えた。
 それはとりもなおさず末法時代の真の救済者であるという自己認識であった。」
→上行菩薩再誕論

108わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/08(土) 00:17:32
Leoさん、こんばんは。^^

一念三千について、法華経・智邈・日蓮共に、縁起の観法と捉えていた。
こう考えておかしくないかな?

109Leo:2005/10/08(土) 00:40:20
わめさん、こんばんは。>>108

>一念三千について、法華経・智邈・日蓮共に、縁起の観法と捉えていた。
>こう考えておかしくないかな?

はいそうです。
で、日蓮(大)聖人は一念三千を本尊と題目として示したということで。

「縁起」と「法華経」の両方の話題になってしましますが、実は本尊に向かって題目を唱えるのは
縁起を体験することになるのですね。

「釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
(「観心本尊抄」)

また、縁起・空・一念三千の法脈(血脈)は我々に伝わっているのですね。

「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の
 血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」
(「生死一大事血脈抄」)

110わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/08(土) 00:51:18
>>109 う〜む

「釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」=縁起
「本尊と題目」、正に縁起ですね。^^

111ドプチェク ◆UILiye31iI:2005/10/13(木) 06:43:57
「足跡スレ」で、オーナー(わめさん)から、足跡スレ以外のどこかにも書き込んでぇ〜〜ちょうだい!(・O・)という指令を受けましたので(別に指令じゃないか。^o^; 冗談冗談、マイケル・ジョーダン^O^)、こちらに私の思っている事をちょっとだけ。

7月にほしのしずく☆さんの掲示板で、ほんのちょっとだけ述べましたように、私は100円ショップのダイソーで買った日蓮宗の教本の「観世音菩薩普門品」を読誦しているのですが、観世音菩薩普門品では観音の力を念ずれば(「念彼観音力」)、様々な害から守られると記されていますよね。
日蓮・法華経信仰者の場合、「念彼観音力」をどのように解釈したら良いのかな?と、漠然と思っている私なのです。
観世音菩薩普門品のとおり、実際に心の中で観音を念ずる、もしくは、観音像に手を合わせる必要があるのか?
それとも、観世音菩薩普門品を読誦するだけで良いのか?
あるいは、法華経を信じてお題目を唱えるだけで良いのか?
そして、宗祖・日蓮聖人は、どのような捉え方をされていたのか?
そのような事を思ってみるのです。
私は、個人的に観世音菩薩普門品で記されている内容が好きで、よく読誦しているんですけどね。

いきなり、取るに足らないようなお話で、すいません(^o^;)。

113わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/14(金) 03:24:38
ドプチェクさん、こんばんは〜 そしてリクエストにお答えアリガト!(´▽`)

> 日蓮・法華経信仰者の場合、「念彼観音力」をどのように解釈したら良いのかな?と、漠然と思っている私なのです。

う〜ん、わめやここに来る方は、日蓮宗系の方はほぼいないかもなので、答えに困ってしまうかもw汗

なので信仰心の皆無な罰当たりなわめの意見を述べさせていただきます。<(_ _)>

わめはもしも「念彼観音力」ってのがあっても要らないかもw

寝る前とか夢の中では、結構超人化してるわめですが(笑)、それは夢の中だけに取って置きたいかなって思います。^^

それよりわめにはまだ、ほぼ確実にあり、わめに影響を与えている事象について、まだ知らないことが多過ぎて、また知ってることもどこまで実生活で活かしてるかが怪しくて、ドプチェクさんの境涯に至っていないです。涙

でもいつかドプチェクさんに追いついてやるw ガッツだぜ! ヽ(~-~(・_・ )ゝ

114青空(男):2005/10/14(金) 16:39:57
念彼観音力って、観音力ともいうんですよね。
私は、帝都対戦?という映画で初めて知った。
阿弥陀さんの脇士であり、勢至菩薩と並んで、慈悲と智慧を象徴する存在だとされています
阿弥陀さんの智慧が勢至菩薩に 慈悲の働きが観音菩薩に顕わされているというベストかな^^;
日蓮仏法では、釈化の菩薩とされていますね。
また、学会の別の指導で、一切衆生の声を観じて現れる慈悲の働きとも習いました。
私達の中にある、観音菩薩の生命が、縁にふれて、慈悲の働きをなすとも習いました。

念彼観音力は、既に備わる本有の観音という仏性を呼び起こす力を称えたものなのかもしれませんね。

阿弥陀に備わる働きが、私達の念ずる心に現れるという事をもいえると思います。

115わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/14(金) 17:04:08
青空さん、こんにちは。^^

> 日蓮仏法では、釈化の菩薩とされていますね。

これは迹化の菩薩かな?

> 既に備わる本有の観音という仏性

仏性と言う言葉が出てくると、ヒンドゥー教のお話かな?って思ってしまうわめです。(^^;;

『如来蔵思想は仏教ではない(松本史朗)』
http://freett.com/Libra0000/001.html

116青空(男):2005/10/14(金) 17:13:33
仏性と仏種との違いを指摘してるのを以前見たことがあります。

字が^^;迹化の菩薩でした^^

ヒンドゥー教って多神教だからね〜自在天も釈迦も大黒さんもみんな居るしね^^;

仏性って、ヒンドゥー教の考えなんだね@@?

117わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/14(金) 17:18:59
仏種も仏性も意味合いとしては、人に本源的に仏となる因があると言う意味で同じかもですよ。^^

んで仏種も仏性どちらも、縁起・空と相反する非仏教じゃないかな。

うん、どうもヒンドゥー教が仏教に混入しちゃったみたいね。涙

118青空(男):2005/10/14(金) 17:21:45
印度での生き残作戦は過酷だったのね^^;

119青空(男):2005/10/14(金) 17:24:47
空って縁起とかの要素が入ってくると、ややこしくて^^;

でも、スレは読んでましたよ。

にしても、レベルが高い@@;

って、私が勉強不足ですね^^;

120わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/14(金) 17:30:31
青空さん、縁起(無我・無常・空含む)のみが、仏教の特徴・特異性じゃないかな?

まずはここからってわめは思います。^^

121青空(男):2005/10/14(金) 19:11:28
お釈迦様の悟りって、縁起ということなの?

竜樹や世親は、縁起から 空という思想を確立した人だと思っていたから、お釈迦様の悟りは 後の弟子達が 掘り下げていく事が悟りの全容に迫ることなのだと思ってました。

122わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/14(金) 19:39:16
> お釈迦様の悟りって、縁起ということなの?

縁起に集約されると思いますよ。^^ それに縁起のほかは仏教以外でも説かれたりしてますからね。

三法印(3つの仏教の根本思想)も縁起がベースになっていると思います。

諸行無常(一切の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある)
諸法無我(一切の存在には形成されたものでないもの、アートマンのような実体はない)
涅槃寂静(苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である)

> 竜樹や世親は、縁起から 空という思想を確立した人だと思っていたから、お釈迦様の悟りは 後の弟子達が 掘り下げていく事が悟りの全容に迫ることなのだと思ってました。

竜樹は分かるけど、世親は縁起からちょっと逸脱してるような・・・w
それに掘り下げていくというのも何か変かもw 展開ならいいかもと思うけど。
悟りの全容ですか、わめは縁起に尽きると思います。
縁起だから無我であり、無常であり、空であると。

123青空(男):2005/10/14(金) 19:51:04
世親は違いますね^^;

展開ですね^^;

ふむ・・・。

124わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/14(金) 20:59:42
ただわめはこの涅槃寂静(苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である)は、望んでいないかもです。

わめは楽しいことが大好きと言うか、楽しくないことはやらないみたいなwぉぃ、だから苦がなくなると楽しみも感じられなくなるように思うので、苦も必要かなって思うのです。

ゲームなんかも簡単なだけでは面白くないもの。
むむっって苦しんでクリアしていくのが (・∀・)ィィ

って考えると、苦もまた楽しって思えない?

125Leo:2005/10/15(土) 01:24:16
>んで仏種も仏性どちらも、縁起・空と相反する非仏教じゃないかな。

ブッシュって大統領じゃなかったでしたっけ(違

インドでもアートマンを否定する仏教は歴史的には少数派だったわけで、
ヒンドゥー教が仏教に混入しやすかったのですね。

仏種はそういう実体があるのでなく、「仏になる可能性」と捉えれば
(捉えなおせば)縁起・空と相反しないです。

仏教は有を否定する少数派の教えなんだけども、空はひとつの戒めかもしれないと
思ってます。
「あると思うな、ないとも思うな」という感じで。

また、有を否定すると現実世界で頑張れないので(皆が有を信じているので)仮(け)という
考え方があるように思います。

126Leo:2005/10/15(土) 01:31:26
>わめは楽しいことが大好きと言うか、楽しくないことはやらないみたいなwぉぃ、

「衆生諸遊楽」(皆楽しむ為にこの世界に生まれたのだ)って法華経的す。

>だから苦がなくなると楽しみも感じられなくなるように思うので、苦も必要かなって思うのです。

>って考えると、苦もまた楽しって思えない?

お、それって「煩悩即菩提」の境涯ぽいですね。

127ドプチェク ◆UILiye31iI:2005/10/15(土) 02:39:11
わめさん、こんにちわ(^_^)。
青空(男)さん、初めまして(^_^)。

わめさん
>>113

>それよりわめにはまだ、ほぼ確実にあり、わめに影響を与えている事象について、
>まだ知らないことが多過ぎて、また知ってることもどこまで実生活で活かしてるか
>が怪しくて、ドプチェクさんの境涯に至っていないです。涙

いや、私の境涯云々なんて、それはまったくの買い被りというものですよ(^o^;)。
この私なんぞ、しょっちゅう迷路に入り込んでしまい、一度そうなったら、迷いを通り越して諦めの状態になるのが早く、その後、なかなかそこから脱出できないでいるという事を何度も繰り返しているのですから(^_^;)。
いくら祈っても思いどおりに事が運ばず、これまで何度も、御本尊へ向かってお題目を唱えながら、散々愚痴や文句を言った挙句に、「もう信じるもんか、やめてやる」と癇癪を起こしたものの、それでも、結局、また祈り始めるという、仏様から見れば、多分、悪態をつくわがままな幼児の姿として映っているのではないかと思える困った人間の私なのです(--;)。
お釈迦様や日蓮聖人といった偉大な覚者の方々は、常人にはわからない“何か”が信仰を通して心の目?とでもいうもので見えていた、信仰の力で“何か”を感じ取っていたのではないか?と思っていて、私も何らかの形でそれを実感し、信仰の確信が掴めればと願っています。
無論、それは未だに叶っていませんけど、ただ、祈る時には、絶対に自分の祈りは通じると信じて、何らかの形で最善・最良の結果が齎されるようにと願っているのです。
正直、半ば自分に暗示をかけるような感じでいる事もあるのですが、そのような時には、日蓮聖人に関する記述を読みながら祈っています。
最近、私の掲示板に日蓮関係の書籍からの引用文を載せましたけど、それは、書き込む事で自分自身に強く言い聞かせている面もあるのです。
とにかく、「私は絶対に諦めない!私は屈服しない!」L(・O・)」という気持ちで(^_^)。
ガッツだぜ! ヽ(~-~(・_・ )ゝ

これ、パクらせていただきました(^ー^)。←ドロボウ!(・O・)(^〇^!)

青空(男)さん
>>114

>また、学会の別の指導で、一切衆生の声を観じて現れる慈悲の働きとも習いました。
>私達の中にある、観音菩薩の生命が、縁にふれて、慈悲の働きをなすとも習いました。
>
>念彼観音力は、既に備わる本有の観音という仏性を呼び起こす力を称えたものなのかもしれませんね。
>
>阿弥陀に備わる働きが、私達の念ずる心に現れるという事をもいえると思います。

人間の心に現われる働きが、法華経の中で比喩として表現されたという事なのですかね。
法華経は比喩による表現が多いという事で、表面的な記述を読んだだけでは、確かにあまりにも非現実的な御伽噺・SFとしか思えない事柄がほとんどですが、しかし、その奥に何が秘められているのか?が重要なのでしょうか。
もしかすると、日蓮聖人には、法華経の奥底に秘められている何かが見えていたのでしょうかね。


ところで、>>111で、私は日蓮宗の教本(100円ショップダイソー版?)を使用していると述べましたけど、それと同時に、富士門流系の学会版の教本も使用しているという二刀流?なのです(^_^;)。
まぁ、今現在の私は、基本的に単独日蓮・法華経信仰者のスタンスをとっている為、門流云々といった事にはほとんど拘っていないのです。
それと、もうずいぶん前から学会版の教本を使用する時、御観念文を自分流のそれに読み替えていて、また、日蓮宗の教本を使用する際には、これも自己流で読経しているんですよ(^o^;)。
それに、一昨年の秋から、ネットでダウンロードした日蓮聖人真筆御本尊の画像をプリントし、それを仏壇に掲げて自身の御本尊として拝んでいるという私であり、もはや、ほとんど単独信仰者、もしくは、日蓮系の無党派?とでも言うべき人間なのかもしれませんね(^_^;)。

それでは、このあたりで失礼させていただきます(^_^)。

128Leo:2005/10/15(土) 14:43:33
なんか日蓮宗では大聖人の本懐が折伏であったか摂受であったかの議論が起こっているとのことですね。
(私の気になっていることシリーズ)

平成の摂受・折伏論をめぐって
http://www3.cnet-ta.ne.jp/o/otowatid/p4c2.htm

富士門流の掲示板でもスレがあります
摂受と折伏について
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/l100
94 犀角独歩さん
「今成師の言を借りれば、摂受・折伏は蓮師の主要な教義ではないということと思えます。
 要は法難、特に龍口の擬刎頭、さらに死罪と同義の佐渡流罪の説明原理としたけれど、
 赦免、隠遁のなかで、忘れ去られていったという感じですね。」

摂受・折伏の立てわけと折伏重視は誤解だっとして、学会等が誤解によって行動していたとすると
間違いであっても人の行動の原動力になるということですね。
戦争なんかも間違いでしょうが歴史ってそういうものなのかな。

129Libra:2005/10/15(土) 15:04:03
 時間がないので詳しくは書けませんが、少しだけコメントします。レスはで
きないとおもいます。

1.「縁起法頌」(「法身偈」ともいいます)について

 「縁起法頌」で締めくくられている法華経もあるようです。

    本尊論メモ(Libra)、「経題釈」との関係
    http://freett.com/Libra0000/z013.htm#kyoudaisyaku

130Libra:2005/10/15(土) 15:04:52
2.涅槃(ニルヴァーナ)について

 涅槃とは「たえざる否定と二重否定とのうちに、どこまでも上昇し、あるい
は深化する」「一種の立体的な螺旋」のプロセスに入ることであるという三枝
先生の説明[*1]をわたしは支持します。友岡さんの表現だと、「常に自らを相
対化し、自らの立場を突破しつづける」[*2]プロセスに入ることだとおもいま
す。

 涅槃とは「「何か」と言う言葉で表される実体的、固定的なもの“を”知」
[*3]ることではないとおもいます。「「何か」という固定的、実体的なものは
「悟るべき対象」ではなく、そこから「離れるべき呪縛」「目覚めるべき夢」」
[*4]だとおもいます。

  [*1] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
     http://freett.com/Libra0000/020.html

  [*2] 『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
     http://freett.com/Libra0000/016.html

  [*3] 同上

  [*4] 同上

131Libra:2005/10/15(土) 15:06:32
3.仏性について

 仏性については、まず以下を参照して頂きたいです。

  大乗『涅槃経』の後半で説かれる仏性思想(藤井教公)
  http://freett.com/Libra0000/047.htm

  無自性=正因仏性(藤井教公)
  http://freett.com/Libra0000/075.htm

  「如来蔵思想批判」の批判的検討(Libra)の2章
  http://freett.com/Libra0000/ronbun01.html#chapter2

 「縁因仏性」は「仏の言葉を信じて聞くこと」であるというのが上の論文で
のわたしの主張でした。現在のわたしは、この解釈をもっとひろげて、「縁因
仏性」は「善き仲間のなかにあるということ」[*1]だとおもっています。この
点については、三枝先生のいわれる「他者の発見」[*2]という視点がキーにな
るとおもいます。

  [*1] 「われを善き友として」(増谷文雄)
     http://freett.com/Libra0000/012.html

  [*2] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
     http://freett.com/Libra0000/019.html

132Leo[TRACKBACK]:2005/10/15(土) 15:09:55
大聖人の中心思想
(私の気になっていることシリーズ)

このスレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120491109/r52
Libraさん
「日蓮の中心思想は、日蓮の本尊観をみればよくわかるとおもいます。
 日蓮の本尊は法華経です[*1]。法華経の中でも「上行菩薩所伝の妙法蓮華経
の五字」[*2]です。この五字の中身は何か、すなわち、五字には何がつつまれ
ているのかというと、それは「一念三千の法門」です[*3]。「一念三千の法門」
というと難しく聞こえるかもしれませんが、その本質は、「空・縁起の思想」
です[*4]。」

大聖人の中心思想が「空・縁起の思想」である(可能性が大きい)わけですが、
どのように体験(実感?)・実践すればよいか、現代においても意味のあることなのか
気になってきました。

133Leo:2005/10/15(土) 15:12:47
あ、Libraさん、おひさしぶりです。

134Libra:2005/10/15(土) 15:19:11
>>128

 おおー。Leo さんとほぼ同時に書き込んだようですね。

 つい最近、わたしのホームページの読者の方からメールを頂きまして、昨日
書いたその方への返信の中でこの掲示板を紹介しました。それでちょっと来て
みました。

 摂受と折伏については、「教義」というよりも、日蓮が実際にどう生きたか
を見るのがいいのではないかとおもいます。わたしは伊藤先生のようなお考え
に共感を持ちます。

  真の知性人とは(伊藤瑞叡)
  http://freett.com/Libra0000/005.html

135Libra:2005/10/15(土) 15:53:12
> 大聖人の中心思想が「空・縁起の思想」である(可能性が大きい)わけですが、
> どのように体験(実感?)・実践すればよいか(Leo さん、>>132

 わたしにとっては、勤行し、題目をあげて、「善き仲間のなかにある」[*1]
ことが「体験・実践」です。もちろん、学習・思考[*2]がその前提として必要
です。

 わたしは、勤行したり題目をあげているとき、頭の中では、久遠仏(永遠に
説法する釈尊)と向かい合っています(>>68)。久遠仏と向かい合っている先
頭には日蓮(上行)の背中が見えます。龍樹とか天台の背中も見えます。

 この久遠仏のイメージは、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されてい
る釈尊[*2]であり、法を見る者が見る釈尊[*3]です。日蓮の「観心の本尊」と
いうのは、このようなイメージだったとわたしはおもっています。

 そして、もっとも重要なのが、「善き仲間のなかにある」ことだとおもいま
す。この点については、>>131 にも書いたように、三枝先生のいわれる「他者
の発見」[*2]という視点がキーになるとおもいます。


  [*1] 「われを善き友として」(増谷文雄)
     http://freett.com/Libra0000/012.html

  [*2] …現時点の私の仏教理解の総括…(曽我逸郎)
     http://www.dia.janis.or.jp/~soga/summary.html

136Libra:2005/10/15(土) 15:58:16
 訂正です。

>  この久遠仏のイメージは、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されてい
> る釈尊[*2]であり、法を見る者が見る釈尊[*3]です。(>>135

  ↓

 この久遠仏のイメージは、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されてい
る釈尊[*3]であり、法を見る者が見る釈尊[*4]です。

  [*3] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
     http://freett.com/Libra0000/020.html

  [*4] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
     http://freett.com/Libra0000/085.htm

137Libra:2005/10/15(土) 16:02:58
 さらに訂正です。いそいで書いたので、たぶん、まだおかしなところがある
とおもいます。ご容赦ください。

> 三枝先生のいわれる「他者の発見」[*2]という視点がキーになるとおもいます。(>>135

  ↓

三枝先生のいわれる「他者の発見」[*5]という視点がキーになるとおもいます。

  [*5] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
      http://freett.com/Libra0000/019.html

138わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/16(日) 11:19:00
Leoさん

> 仏種はそういう実体があるのでなく、「仏になる可能性」と捉えれば
> (捉えなおせば)縁起・空と相反しないです。

 仏教には理ばかりでなく、教法(教導するため)も入っていますから仕方ないのかもしれませんが、わめは何だかこの”仏”って言葉が、仏教が神秘的なイメージになり、多くの人にあらぬ妄想を生ませてしまっているようにも思います。
 もっと現代にマッチした、ありきたりの言葉に変換できないかな・・・


ドプチェクさん

> お釈迦様や日蓮聖人といった偉大な覚者の方々は、常人にはわからない“何か”が信仰を通して心の目?とでもいうもので見えていた、信仰の力で“何か”を感じ取っていたのではないか?と思っていて、私も何らかの形でそれを実感し、信仰の確信が掴めればと願っています。

 わめは、ブッダや日蓮は、「信仰の力で“何か”を感じ取っていた」とは思えません。汗
 ブッダの場合、自ら信仰上の難行・苦行をし、信仰では悟ることができないことを知り、信仰により迷妄する人々の目を覚まさせようとしたように思いますし、日蓮の場合は、当時として法華経を選び取ったことは、極めて合理的であったように思います。
 ブッダや日蓮は”理”を悟られ、信仰することにはその警鐘として、厳しき言葉(信仰を棄てよ・排他性)を残されたのではないかなんて思ったりしてw^^


Libra師匠キター━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━>

> 「縁因仏性」は「善き仲間のなかにあるということ」[*1]だとおもっています。この
> 点については、三枝先生のいわれる「他者の発見」[*2]という視点がキーにな
> るとおもいます。

 わめ的には、これは縁起を関係性と観る捉え方かなって感じます♪
 って安易にコメントする前に、もっと考えてみなくちゃw汗

139Leo:2005/10/16(日) 17:52:51
わめさん

>仏教には理ばかりでなく、教法(教導するため)も入っていますから仕方ないのかもしれませんが、
>わめは何だかこの”仏”って言葉が、仏教が神秘的なイメージになり、
>多くの人にあらぬ妄想を生ませてしまっているようにも思います。
>もっと現代にマッチした、ありきたりの言葉に変換できないかな・・・

ブッダや、覚者でしょうか?

ブッダのような人格者...
縁起・空・無我を覚知した覚者...


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