[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
法華経について
1
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/07/05(火) 00:31:49
まずは何といっても 佐倉哲さんの「わたしの『法華経』概論」
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud120.html
ペガサス師匠の掲示板から、わめの書き込みを転載
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
○○さんのおっしゃること、学会教学的であり、私も以前はそのように解釈してました。
でもそれは法華経も含め、小乗〜大乗経の釈迦一代聖教と言われる経々が、在世中、あるいは滅後すぐに著されたものならまだしも、”釈迦滅後約五百年後”になって著された法華経に、「正直捨方便・但説無上道」と釈尊が説いていたというのはどう考えても矛盾がありませんか?
もし仮に、釈尊が在世中に法華経の内容を説いていたとして、そこでそれ以前の経々を「正直捨方便・但説無上道」と言っていたとするなら、滅後約五百年の間、釈尊の直弟子、孫弟子、代々の仏弟子達は一体何を学んでいたのでしょう? おばかさん弟子ばっかりだったのでしょうか?
また法華経を著した大乗仏教徒は、誰からこの「正直捨方便・但説無上道」との教えを聞いたのでしょう? また約五百年の間どのような系譜を辿り、法華経を著した大乗仏教徒に伝えたのでしょうか? そして日蓮正宗の唯授一人の血脈相承のように、その法華経の教えの内容は何らかの理由により秘していて、滅後約五百年後に、時来たりとばかりに法華経を著したのでしょうか?
このようなことは非常に考えにくいし、また歴史・背景から考えも、後になって出てくる経典ほど、今まである経典を凌駕しようとするのが必然的で、自教団の教えの優位性をその創作された経典に盛り込んだと考えるのが自然ではないかと思います。
そして最終的に密教に至ると・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
115
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/14(金) 17:04:08
青空さん、こんにちは。^^
> 日蓮仏法では、釈化の菩薩とされていますね。
これは迹化の菩薩かな?
> 既に備わる本有の観音という仏性
仏性と言う言葉が出てくると、ヒンドゥー教のお話かな?って思ってしまうわめです。(^^;;
『如来蔵思想は仏教ではない(松本史朗)』
http://freett.com/Libra0000/001.html
116
:
青空(男)
:2005/10/14(金) 17:13:33
仏性と仏種との違いを指摘してるのを以前見たことがあります。
字が^^;迹化の菩薩でした^^
ヒンドゥー教って多神教だからね〜自在天も釈迦も大黒さんもみんな居るしね^^;
仏性って、ヒンドゥー教の考えなんだね@@?
117
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/14(金) 17:18:59
仏種も仏性も意味合いとしては、人に本源的に仏となる因があると言う意味で同じかもですよ。^^
んで仏種も仏性どちらも、縁起・空と相反する非仏教じゃないかな。
うん、どうもヒンドゥー教が仏教に混入しちゃったみたいね。涙
118
:
青空(男)
:2005/10/14(金) 17:21:45
印度での生き残作戦は過酷だったのね^^;
119
:
青空(男)
:2005/10/14(金) 17:24:47
空って縁起とかの要素が入ってくると、ややこしくて^^;
でも、スレは読んでましたよ。
にしても、レベルが高い@@;
って、私が勉強不足ですね^^;
120
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/14(金) 17:30:31
青空さん、縁起(無我・無常・空含む)のみが、仏教の特徴・特異性じゃないかな?
まずはここからってわめは思います。^^
121
:
青空(男)
:2005/10/14(金) 19:11:28
お釈迦様の悟りって、縁起ということなの?
竜樹や世親は、縁起から 空という思想を確立した人だと思っていたから、お釈迦様の悟りは 後の弟子達が 掘り下げていく事が悟りの全容に迫ることなのだと思ってました。
122
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/14(金) 19:39:16
> お釈迦様の悟りって、縁起ということなの?
縁起に集約されると思いますよ。^^ それに縁起のほかは仏教以外でも説かれたりしてますからね。
三法印(3つの仏教の根本思想)も縁起がベースになっていると思います。
諸行無常(一切の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある)
諸法無我(一切の存在には形成されたものでないもの、アートマンのような実体はない)
涅槃寂静(苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である)
> 竜樹や世親は、縁起から 空という思想を確立した人だと思っていたから、お釈迦様の悟りは 後の弟子達が 掘り下げていく事が悟りの全容に迫ることなのだと思ってました。
竜樹は分かるけど、世親は縁起からちょっと逸脱してるような・・・w
それに掘り下げていくというのも何か変かもw 展開ならいいかもと思うけど。
悟りの全容ですか、わめは縁起に尽きると思います。
縁起だから無我であり、無常であり、空であると。
123
:
青空(男)
:2005/10/14(金) 19:51:04
世親は違いますね^^;
展開ですね^^;
ふむ・・・。
124
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/14(金) 20:59:42
ただわめはこの涅槃寂静(苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である)は、望んでいないかもです。
わめは楽しいことが大好きと言うか、楽しくないことはやらないみたいなwぉぃ、だから苦がなくなると楽しみも感じられなくなるように思うので、苦も必要かなって思うのです。
ゲームなんかも簡単なだけでは面白くないもの。
むむっって苦しんでクリアしていくのが (・∀・)ィィ
って考えると、苦もまた楽しって思えない?
125
:
Leo
:2005/10/15(土) 01:24:16
>んで仏種も仏性どちらも、縁起・空と相反する非仏教じゃないかな。
ブッシュって大統領じゃなかったでしたっけ(違
インドでもアートマンを否定する仏教は歴史的には少数派だったわけで、
ヒンドゥー教が仏教に混入しやすかったのですね。
仏種はそういう実体があるのでなく、「仏になる可能性」と捉えれば
(捉えなおせば)縁起・空と相反しないです。
仏教は有を否定する少数派の教えなんだけども、空はひとつの戒めかもしれないと
思ってます。
「あると思うな、ないとも思うな」という感じで。
また、有を否定すると現実世界で頑張れないので(皆が有を信じているので)仮(け)という
考え方があるように思います。
126
:
Leo
:2005/10/15(土) 01:31:26
>わめは楽しいことが大好きと言うか、楽しくないことはやらないみたいなwぉぃ、
「衆生諸遊楽」(皆楽しむ為にこの世界に生まれたのだ)って法華経的す。
>だから苦がなくなると楽しみも感じられなくなるように思うので、苦も必要かなって思うのです。
>って考えると、苦もまた楽しって思えない?
お、それって「煩悩即菩提」の境涯ぽいですね。
127
:
ドプチェク
◆UILiye31iI
:2005/10/15(土) 02:39:11
わめさん、こんにちわ(^_^)。
青空(男)さん、初めまして(^_^)。
わめさん
>>113
>それよりわめにはまだ、ほぼ確実にあり、わめに影響を与えている事象について、
>まだ知らないことが多過ぎて、また知ってることもどこまで実生活で活かしてるか
>が怪しくて、ドプチェクさんの境涯に至っていないです。涙
いや、私の境涯云々なんて、それはまったくの買い被りというものですよ(^o^;)。
この私なんぞ、しょっちゅう迷路に入り込んでしまい、一度そうなったら、迷いを通り越して諦めの状態になるのが早く、その後、なかなかそこから脱出できないでいるという事を何度も繰り返しているのですから(^_^;)。
いくら祈っても思いどおりに事が運ばず、これまで何度も、御本尊へ向かってお題目を唱えながら、散々愚痴や文句を言った挙句に、「もう信じるもんか、やめてやる」と癇癪を起こしたものの、それでも、結局、また祈り始めるという、仏様から見れば、多分、悪態をつくわがままな幼児の姿として映っているのではないかと思える困った人間の私なのです(--;)。
お釈迦様や日蓮聖人といった偉大な覚者の方々は、常人にはわからない“何か”が信仰を通して心の目?とでもいうもので見えていた、信仰の力で“何か”を感じ取っていたのではないか?と思っていて、私も何らかの形でそれを実感し、信仰の確信が掴めればと願っています。
無論、それは未だに叶っていませんけど、ただ、祈る時には、絶対に自分の祈りは通じると信じて、何らかの形で最善・最良の結果が齎されるようにと願っているのです。
正直、半ば自分に暗示をかけるような感じでいる事もあるのですが、そのような時には、日蓮聖人に関する記述を読みながら祈っています。
最近、私の掲示板に日蓮関係の書籍からの引用文を載せましたけど、それは、書き込む事で自分自身に強く言い聞かせている面もあるのです。
とにかく、「私は絶対に諦めない!私は屈服しない!」L(・O・)」という気持ちで(^_^)。
ガッツだぜ! ヽ(~-~(・_・ )ゝ
↑
これ、パクらせていただきました(^ー^)。←ドロボウ!(・O・)(^〇^!)
青空(男)さん
>>114
>また、学会の別の指導で、一切衆生の声を観じて現れる慈悲の働きとも習いました。
>私達の中にある、観音菩薩の生命が、縁にふれて、慈悲の働きをなすとも習いました。
>
>念彼観音力は、既に備わる本有の観音という仏性を呼び起こす力を称えたものなのかもしれませんね。
>
>阿弥陀に備わる働きが、私達の念ずる心に現れるという事をもいえると思います。
人間の心に現われる働きが、法華経の中で比喩として表現されたという事なのですかね。
法華経は比喩による表現が多いという事で、表面的な記述を読んだだけでは、確かにあまりにも非現実的な御伽噺・SFとしか思えない事柄がほとんどですが、しかし、その奥に何が秘められているのか?が重要なのでしょうか。
もしかすると、日蓮聖人には、法華経の奥底に秘められている何かが見えていたのでしょうかね。
ところで、
>>111
で、私は日蓮宗の教本(100円ショップダイソー版?)を使用していると述べましたけど、それと同時に、富士門流系の学会版の教本も使用しているという二刀流?なのです(^_^;)。
まぁ、今現在の私は、基本的に単独日蓮・法華経信仰者のスタンスをとっている為、門流云々といった事にはほとんど拘っていないのです。
それと、もうずいぶん前から学会版の教本を使用する時、御観念文を自分流のそれに読み替えていて、また、日蓮宗の教本を使用する際には、これも自己流で読経しているんですよ(^o^;)。
それに、一昨年の秋から、ネットでダウンロードした日蓮聖人真筆御本尊の画像をプリントし、それを仏壇に掲げて自身の御本尊として拝んでいるという私であり、もはや、ほとんど単独信仰者、もしくは、日蓮系の無党派?とでも言うべき人間なのかもしれませんね(^_^;)。
それでは、このあたりで失礼させていただきます(^_^)。
128
:
Leo
:2005/10/15(土) 14:43:33
なんか日蓮宗では大聖人の本懐が折伏であったか摂受であったかの議論が起こっているとのことですね。
(私の気になっていることシリーズ)
平成の摂受・折伏論をめぐって
http://www3.cnet-ta.ne.jp/o/otowatid/p4c2.htm
富士門流の掲示板でもスレがあります
摂受と折伏について
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/l100
94 犀角独歩さん
「今成師の言を借りれば、摂受・折伏は蓮師の主要な教義ではないということと思えます。
要は法難、特に龍口の擬刎頭、さらに死罪と同義の佐渡流罪の説明原理としたけれど、
赦免、隠遁のなかで、忘れ去られていったという感じですね。」
摂受・折伏の立てわけと折伏重視は誤解だっとして、学会等が誤解によって行動していたとすると
間違いであっても人の行動の原動力になるということですね。
戦争なんかも間違いでしょうが歴史ってそういうものなのかな。
129
:
Libra
:2005/10/15(土) 15:04:03
時間がないので詳しくは書けませんが、少しだけコメントします。レスはで
きないとおもいます。
1.「縁起法頌」(「法身偈」ともいいます)について
「縁起法頌」で締めくくられている法華経もあるようです。
本尊論メモ(Libra)、「経題釈」との関係
http://freett.com/Libra0000/z013.htm
#kyoudaisyaku
130
:
Libra
:2005/10/15(土) 15:04:52
2.涅槃(ニルヴァーナ)について
涅槃とは「たえざる否定と二重否定とのうちに、どこまでも上昇し、あるい
は深化する」「一種の立体的な螺旋」のプロセスに入ることであるという三枝
先生の説明[*1]をわたしは支持します。友岡さんの表現だと、「常に自らを相
対化し、自らの立場を突破しつづける」[*2]プロセスに入ることだとおもいま
す。
涅槃とは「「何か」と言う言葉で表される実体的、固定的なもの“を”知」
[*3]ることではないとおもいます。「「何か」という固定的、実体的なものは
「悟るべき対象」ではなく、そこから「離れるべき呪縛」「目覚めるべき夢」」
[*4]だとおもいます。
[*1] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
http://freett.com/Libra0000/020.html
[*2] 『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://freett.com/Libra0000/016.html
[*3] 同上
[*4] 同上
131
:
Libra
:2005/10/15(土) 15:06:32
3.仏性について
仏性については、まず以下を参照して頂きたいです。
大乗『涅槃経』の後半で説かれる仏性思想(藤井教公)
http://freett.com/Libra0000/047.htm
無自性=正因仏性(藤井教公)
http://freett.com/Libra0000/075.htm
「如来蔵思想批判」の批判的検討(Libra)の2章
http://freett.com/Libra0000/ronbun01.html
#chapter2
「縁因仏性」は「仏の言葉を信じて聞くこと」であるというのが上の論文で
のわたしの主張でした。現在のわたしは、この解釈をもっとひろげて、「縁因
仏性」は「善き仲間のなかにあるということ」[*1]だとおもっています。この
点については、三枝先生のいわれる「他者の発見」[*2]という視点がキーにな
るとおもいます。
[*1] 「われを善き友として」(増谷文雄)
http://freett.com/Libra0000/012.html
[*2] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
http://freett.com/Libra0000/019.html
132
:
Leo[TRACKBACK]
:2005/10/15(土) 15:09:55
大聖人の中心思想
(私の気になっていることシリーズ)
このスレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120491109/r52
Libraさん
「日蓮の中心思想は、日蓮の本尊観をみればよくわかるとおもいます。
日蓮の本尊は法華経です[*1]。法華経の中でも「上行菩薩所伝の妙法蓮華経
の五字」[*2]です。この五字の中身は何か、すなわち、五字には何がつつまれ
ているのかというと、それは「一念三千の法門」です[*3]。「一念三千の法門」
というと難しく聞こえるかもしれませんが、その本質は、「空・縁起の思想」
です[*4]。」
大聖人の中心思想が「空・縁起の思想」である(可能性が大きい)わけですが、
どのように体験(実感?)・実践すればよいか、現代においても意味のあることなのか
気になってきました。
133
:
Leo
:2005/10/15(土) 15:12:47
あ、Libraさん、おひさしぶりです。
134
:
Libra
:2005/10/15(土) 15:19:11
>>128
おおー。Leo さんとほぼ同時に書き込んだようですね。
つい最近、わたしのホームページの読者の方からメールを頂きまして、昨日
書いたその方への返信の中でこの掲示板を紹介しました。それでちょっと来て
みました。
摂受と折伏については、「教義」というよりも、日蓮が実際にどう生きたか
を見るのがいいのではないかとおもいます。わたしは伊藤先生のようなお考え
に共感を持ちます。
真の知性人とは(伊藤瑞叡)
http://freett.com/Libra0000/005.html
135
:
Libra
:2005/10/15(土) 15:53:12
> 大聖人の中心思想が「空・縁起の思想」である(可能性が大きい)わけですが、
> どのように体験(実感?)・実践すればよいか(Leo さん、
>>132
)
わたしにとっては、勤行し、題目をあげて、「善き仲間のなかにある」[*1]
ことが「体験・実践」です。もちろん、学習・思考[*2]がその前提として必要
です。
わたしは、勤行したり題目をあげているとき、頭の中では、久遠仏(永遠に
説法する釈尊)と向かい合っています(
>>68
)。久遠仏と向かい合っている先
頭には日蓮(上行)の背中が見えます。龍樹とか天台の背中も見えます。
この久遠仏のイメージは、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されてい
る釈尊[*2]であり、法を見る者が見る釈尊[*3]です。日蓮の「観心の本尊」と
いうのは、このようなイメージだったとわたしはおもっています。
そして、もっとも重要なのが、「善き仲間のなかにある」ことだとおもいま
す。この点については、
>>131
にも書いたように、三枝先生のいわれる「他者
の発見」[*2]という視点がキーになるとおもいます。
[*1] 「われを善き友として」(増谷文雄)
http://freett.com/Libra0000/012.html
[*2] …現時点の私の仏教理解の総括…(曽我逸郎)
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/summary.html
136
:
Libra
:2005/10/15(土) 15:58:16
訂正です。
> この久遠仏のイメージは、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されてい
> る釈尊[*2]であり、法を見る者が見る釈尊[*3]です。(
>>135
)
↓
この久遠仏のイメージは、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されてい
る釈尊[*3]であり、法を見る者が見る釈尊[*4]です。
[*3] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
http://freett.com/Libra0000/020.html
[*4] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
http://freett.com/Libra0000/085.htm
137
:
Libra
:2005/10/15(土) 16:02:58
さらに訂正です。いそいで書いたので、たぶん、まだおかしなところがある
とおもいます。ご容赦ください。
> 三枝先生のいわれる「他者の発見」[*2]という視点がキーになるとおもいます。(
>>135
)
↓
三枝先生のいわれる「他者の発見」[*5]という視点がキーになるとおもいます。
[*5] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
http://freett.com/Libra0000/019.html
138
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/16(日) 11:19:00
Leoさん
> 仏種はそういう実体があるのでなく、「仏になる可能性」と捉えれば
> (捉えなおせば)縁起・空と相反しないです。
仏教には理ばかりでなく、教法(教導するため)も入っていますから仕方ないのかもしれませんが、わめは何だかこの”仏”って言葉が、仏教が神秘的なイメージになり、多くの人にあらぬ妄想を生ませてしまっているようにも思います。
もっと現代にマッチした、ありきたりの言葉に変換できないかな・・・
ドプチェクさん
> お釈迦様や日蓮聖人といった偉大な覚者の方々は、常人にはわからない“何か”が信仰を通して心の目?とでもいうもので見えていた、信仰の力で“何か”を感じ取っていたのではないか?と思っていて、私も何らかの形でそれを実感し、信仰の確信が掴めればと願っています。
わめは、ブッダや日蓮は、「信仰の力で“何か”を感じ取っていた」とは思えません。汗
ブッダの場合、自ら信仰上の難行・苦行をし、信仰では悟ることができないことを知り、信仰により迷妄する人々の目を覚まさせようとしたように思いますし、日蓮の場合は、当時として法華経を選び取ったことは、極めて合理的であったように思います。
ブッダや日蓮は”理”を悟られ、信仰することにはその警鐘として、厳しき言葉(信仰を棄てよ・排他性)を残されたのではないかなんて思ったりしてw^^
Libra師匠キター━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━>
> 「縁因仏性」は「善き仲間のなかにあるということ」[*1]だとおもっています。この
> 点については、三枝先生のいわれる「他者の発見」[*2]という視点がキーにな
> るとおもいます。
わめ的には、これは縁起を関係性と観る捉え方かなって感じます♪
って安易にコメントする前に、もっと考えてみなくちゃw汗
139
:
Leo
:2005/10/16(日) 17:52:51
わめさん
>仏教には理ばかりでなく、教法(教導するため)も入っていますから仕方ないのかもしれませんが、
>わめは何だかこの”仏”って言葉が、仏教が神秘的なイメージになり、
>多くの人にあらぬ妄想を生ませてしまっているようにも思います。
>もっと現代にマッチした、ありきたりの言葉に変換できないかな・・・
ブッダや、覚者でしょうか?
ブッダのような人格者...
縁起・空・無我を覚知した覚者...
140
:
Leo
:2005/10/16(日) 18:03:47
英国人に「あなたは紳士ですか」と問うと「私は紳士になろうと努力している者です」と答えるとか。謙遜なんだろうけど。
私に「あなたは覚者ですか」と問われたら、謙遜でもなんでもなく、「私はブッダを追い求め、無理かもしれないがほんの少しでも近づけたらと思っている者です」
と答えるでしょう。
141
:
青空(男)
:2005/10/17(月) 13:08:54
>仏教には理ばかりでなく、教法(教導するため)も入っていますから仕方ないのかもしれませんが、
>わめは何だかこの”仏”って言葉が、仏教が神秘的なイメージになり、
>多くの人にあらぬ妄想を生ませてしまっているようにも思います。
>もっと現代にマッチした、ありきたりの言葉に変換できないかな・・・
シンプル ザ ベスト
”人” そうそう、人となれ!!
人が人ととして生きていける教え って事で・・・どうでしょう??
142
:
Leo
:2005/10/18(火) 00:07:23
うーん。確かに仏って(本来は)超人になることでもないし、
「人」が執着や悩みで「人´」(ヒトダッシュ)になっているところを「´」がスーと抜けて本来のあるべき「人」になる
という感じでしょうか。なんかいいなあ。
143
:
青空(男)
:2005/10/18(火) 13:40:21
ね!
僕の場合は ダッシュが前と後ろに付いていて”´人´”よく見ると、必死に拝んでる自分が見えるんだけどね^^;
以前、ある経典に、仏陀の事を”尊極の衆生”と言ってるのを見たことがあったもんで^^;
144
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/10/23(日) 22:46:59
みれいしゃんから教えていただいた、kumarinさんの『くまりんが見てた!はてなダイアリー別館』の9/21記事に、法華経に関する記述がありましたので貼っておきます。
http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20050921
145
:
Leo
:2005/10/28(金) 01:13:39
スマナサーラ長老も説法の中では科学を引用しているようで論理的に崩れているところがあるような気が。
(別スレで指摘したように)。
「スマナサーラ 他のも読んでみたんですけど、論理的に崩れているところっていうのは明確なんですね。
先生もご存じでしょう。例えば『法華経』がありますね。あれはインド人だったら恥じるべき作品なんですよ。
暗記しているものは何でも歴史的順番も全部気にしないでぐちゃぐちゃに入れちゃって、
これからすごいことを言ってやるぞって始まるでしょ。」
スマナサーラ長老は天台も批判して欲しいですね。確かに法華経は哲学的でないかもしれないけど、
なんであんなに中国や日本でもてはやされたのか。羅什の中国語訳がよかったのか。それにしても
天台は非哲学的な法華経を出発点にしてあんなに哲学したんだろうか。謎だ。
それに「バガヴァッド・ギーター」や「ラーマヤナ」や「マハーバーラタ」は哲学的だっていうんかい。
146
:
Leo
:2005/10/29(土) 20:53:42
>それに「バガヴァッド・ギーター」や「ラーマヤナ」や「マハーバーラタ」は哲学的だっていうんかい。
現代インド映画だったら「ムトゥ 踊るマハラジャ」もあるでよ。
ttp://www.k-inet.com/~brown/muthu/
147
:
マターリ
:2005/11/03(木) 23:17:44
初めまして、マターリと申します。シナプスさんの「創価学会を考える」
から参りました。学会三世です。宜しくお願い致します。m(__)m
法華経に書かれている罰論について、図書館から色んな本を借りてきて
勉強しています。
148
:
Leo
:2005/11/03(木) 23:41:04
マターリさん、こんばんは。
私はこのスレで少し脱線してたので、「法華経」の話題に戻って少しばかりコメントしてみたいと思います。
ある研究者の指摘によれば「法華経」のキモは「呪縛からの解放」とのことです。
「法華経」には色々な要素や解釈がありますが、「罰論」は「呪縛からの解放」に相反するように思います。
(現代においては「法華経」のよいところは評価し、よくないところがあれば批判すべきと思います)
○呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/042.htm
「「法華経」は全編を通して、「法を悟る者」となることによってではなく、「法を語る者」となることを主張する。
そうすることによって、「法華経」は、呪縛と閉塞から人々を解放した。ここに、「法華経の宗教性」がある。」
○ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/080.htm
「苦悩からの解放、さらには今まで何度も述べた、権力の呪縛からの解放という、仏教のメインテーマは
どこにいってしまったのでしょう。悪しき業報因果論にはこういう陥穽(かんせい)が潜むのです。」
149
:
Leo
:2005/11/03(木) 23:49:23
○ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/080.htm
の下記部分は結構ポイントと思われます。罰論は業や輪廻思想と同様ではないでしょうか。
「実践的仏教者、堀沢祖門氏は次のように述べています。長文になりますが、
非常に大切な指摘と思われますので引用します。
「現代人であるわれわれは、経典そのものを資料的に徹底的に批判してかからなければならない。
何故ならば、ブッダの思想でも何でもない、もともとバラモンや異教徒の思想であったものをうっかり
『仏説』と受けとってしまうことは、それは結局、正しいブッダの宗教(仏教)でも何でもなく、
それらは巧みに仏教的仮面(かめん)をかむっているが、じつは外道(げどう)や邪道の教えにほかならぬ、
という恐るべき結果になってしまうからである。
仏教思想における、そうした一つの典型(てんけい)が『業(ごう)と輪廻(りんね)』の思想である。
長年月の間に仏教思想のなかに深く浸透(しんとう)したバラモン教の業・輪廻思想は、
今や仏教自身のガン的体質となりきって仏教自体の生命を内部から蝕(むしば)んでいるかのようである」
(『インド仏教の再生』)
(友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年)」
150
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/11/05(土) 17:21:40
マターリさん、初めましてなわめです。^^
> 初めまして、マターリと申します。シナプスさんの「創価学会を考える」
> から参りました。学会三世です。宜しくお願い致します。m(__)m
マターリさんの書き込みは拝見させていただいております。
Leoさんにいいところを根こそぎ持っていかれましたけど、わめからもレスします。(^^;;
Leoさんご紹介の友岡雅弥氏ですが、東洋哲学研究所研究員でもちろん学会員でもあるわけですが、この方が次期会長になっちゃうと、学会も良い方向にいっちゃいそうで嫌なのですがぉぃw、この方の仏教の捉え方には非常に感銘を受けております。
> 法華経に書かれている罰論について、図書館から色んな本を借りてきて
> 勉強しています。
勉強はいいですが、罰とか功徳とかに囚われちゃうと、悪いことがあると罰がでたとか、良いことがあると功徳だなんて、ついつい思い込んでしまいそうになりそうですよ。汗
友岡雅弥氏の言を借りるなら、心の呪縛からの解放のために説かれた法華経で、心が囚われてしまっては本末転倒になりはしないか心配です。
151
:
マターリ
:2005/11/05(土) 20:15:36
>Leoさん、わめさん、レスありがとうございます。私も皆さんの考え方
とだいたい同じです。子供のころから「罰・功徳論」で教育されたもので
すから、何かにつけて罰ではないかと、びくびくしたりすることが多い
です。そうした心の呪縛から抜けたいと思い、法華経を勉強しています。
次第に考えがまとまりつつありますが、今仕事が少しガタガタしています
ので、落ちついてから、詳しく書かせていただきます。m(__)m
152
:
Leo
:2005/11/06(日) 00:45:59
わめさん、こんばんは。
>Leoさんにいいところを根こそぎ持っていかれましたけど、わめからもレスします。(^^;;
いえいえ。Libraさんの資料を紹介したまでで私の力ではないです(^^;
>Leoさんご紹介の友岡雅弥氏ですが、東洋哲学研究所研究員でもちろん学会員でもあるわけですが、
>この方が次期会長になっちゃうと、学会も良い方向にいっちゃいそうで嫌なのですがぉぃw、
>この方の仏教の捉え方には非常に感銘を受けております。
(次期会長というと、福島源次郎氏(!)と同じ大学出身で(だから)名誉会長に相当しごかれたという
谷川副会長があたりが思いうかびます)
いっそ会長公選制でもやったらバリバリ系にも組織内アンチ系も認める(と思われる)友岡氏が
期待されるかもしれません。
わめさんが学会がよい方向に向かうと嫌というのは、
「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(「報恩抄」)
「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ」(「種種御振舞御書」)
などを念頭におかれているのですね。
学会が疑問な状態でなかったら色々気づかなかったことがあるかもしれないです。
世の中意外とうまくできているのかもしれない。学会はラスト宗教だ(謎
153
:
Leo
:2005/11/06(日) 10:24:48
>いえいえ。Libraさんの資料を紹介したまでで私の力ではないです(^^;
「蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」(「立正安国論」)
ですね。
Libraさんは友岡氏の引用、友岡氏は他の方の引用をしてます...
154
:
Leo
:2005/11/06(日) 17:04:14
(他のスレの話題かもしれませんが...)
創価大教授、国際仏教学高等研究所所長のこの方のこの本は意外と結構よい(宗派に偏っていない)法華経入門書と思います。
菅野博史 『法華経入門』 岩波新書
○唱題思想と一念三千説(菅野博史)
http://page.freett.com/leo020503/note015.html
「要するに、日蓮独自の宗教的立場である南無妙法蓮華経の本尊と題目は、
『法華経』、智邈以来の一念三千の末法における展開顕現として説明されていることがわかる。
もちろん、この場合の一念三千はすでに智邈におけるそれではなく、
日蓮独自の解釈が施された一念三千となっている。」
○日蓮の(法華経の)三種の中心思想の受容(菅野博史)
http://page.freett.com/leo020503/note016.html
「日蓮は、『法華経』に説かれる釈尊死後の無仏の時代を、とりもなおさず自分の生きる末法時代と主体的に捉え、
自身を六万恒河沙の地涌の菩薩の指導的立場にある上行菩薩の再誕と考えた。
それはとりもなおさず末法時代の真の救済者であるという自己認識であった。」
155
:
Leo
:2005/11/06(日) 18:54:45
>(他のスレの話題かもしれませんが...)
このスレでよいのだった...
156
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/11/07(月) 20:36:10
>>151
マターリさん
二世、三世は幼い頃から罰・功徳って染み付いてますよねw
わめもそうやって育ってきた二世ですからよく分かります。(^^;;
> そうした心の呪縛から抜けたいと思い、法華経を勉強しています。
法華経から更にさかのぼって原始仏教もお勉強してね。
わめは、佐倉哲氏のエッセイ集(仏教について)がお薦めです。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/index.html
> 次第に考えがまとまりつつありますが、今仕事が少しガタガタしています
> ので、落ちついてから、詳しく書かせていただきます。m(__)m
はい、ゆっくり楽しみにお待ちします。☆^∇゜) ニパッ!!
157
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/11/07(月) 20:42:10
>>152
Leoさん
> わめさんが学会がよい方向に向かうと嫌というのは、
> 「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(「報恩抄」)
> 「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ」(「種種御振舞御書」)
> などを念頭におかれているのですね。
( ̄ヘ ̄;)ウーン 「提婆達多こそ第一の善知識なれ」かな。^^
とは言え、これから学会も、もっと巧妙になってくると思われw
最高の詐欺師は騙さない詐欺師、騙さなければ詐欺師もそれはそれでいいのかな・・・
158
:
Leo
:2005/11/07(月) 23:38:09
もしかして(何かの間違いだったらよいのですが)...
金のある者は金を供養し、金のないものは時間を供養する。
新聞啓蒙や法戦で戦い本流を行えば大きな功徳・成長・実証・宿命転換。
組織活動が成仏の近道。広宣流布は永遠の流れ。
ってマルチ商法の一種だったんですか? Σ(゚Д゚;)ガーン
ちょっとカゲキなフレーズが頭をよぎった、
「妄信とは生きる屍になることである」by Leo
159
:
マターリ
:2005/11/08(火) 00:28:45
法華経は、釈尊が直接説いた法だと教わり、自分でも信じていました。
しかし色んな本を読むと、釈迦滅後4〜5百年後に、教団の仏教者達または、
在家の信者グループにより創作された経典であるらしいとわかりました。
教団の仏教者達によるものか、在家の信者グループによるものか、どちら
が本当なのかは、本によって違いがあり、よくわかりません。
160
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/11/08(火) 14:57:51
>>159
教団の仏教者達によるものか、在家の信者グループによるものかは、判明してないようですね。^^
>>144
に貼ったURLのkumarinさんの考察では、教団の仏教者達の創作ではないかと意見です。
よかったらご参考に読んでみてください。<(_ _)>
161
:
Leo
:2005/11/09(水) 22:49:52
如来寿量品第十六 の
「譬如五百千万億那由他阿僧祇三千大千世界。
假使有人末為微塵。過於東方五百千万億那由他阿僧祇国。
乃下一塵。如是東行尽是微塵。諸善男子。於意云何。
是諸世界。可得思惟校計知其数不。」
の部分って、「三世実有・法体恒有」の「説一切有部」への批判と思えるのですが、
「説一切有部」内に組織内アンチがいたってことでしょうか?
162
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/11/10(木) 03:27:28
>>161
> 「説一切有部」内に組織内アンチがいたってことでしょうか?
さて? でもいたって不思議はないと思いますよ。
友岡雅弥氏だってある意味組織内アンチとも言えなくないかもw
163
:
Leo
:2005/11/12(土) 16:21:06
>さて? でもいたって不思議はないと思いますよ。
>友岡雅弥氏だってある意味組織内アンチとも言えなくないかもw
友岡氏は組織内アンチとしては組織批判の話が聞こえてこないのと、
松戸氏を見捨てたから組織内アンチの「鑑」とまではいかないという話もあります(^^;
ですが初期仏教を学会内に紹介したのは大きな意味があったと思います。
164
:
マターリ
:2005/11/13(日) 18:04:22
念仏無間地獄抄に法華経からの引用があります。(P97、2行目)
法華経第二比喩品に云わく「若人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切
世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して
劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」
以上の文は、仏を罵るよりも、法華経の経典を憎む方がはるかに罪が深い
という考え方だと思います。
法華経が作られ始めた昔を振り返ると↓
専門の比丘の教団から考えると、教えといえば、自分達が口伝えに伝えて
きた釈尊の言葉だけを指すはずでした。しかし、専門の比丘でもない在家
の信者たちが、それも釈尊の名によって新しい経典を作ろうというのです
から、専門の比丘の教団の人々は、猛烈に憤慨したと思われます。
したがって彼らは、在家の信者達に猛烈な非難を浴びせかけたと思われる
のです。当然、法華経を受持し、説く者に対する憎しみも相当なものがあっ
たと思われます。そして憎しみがエスカレートすると、言葉だけでなく、
暴力までふるうようになり、在家の信者達への熾烈な迫害となっていきまし
た。
しかし迫害をされればされるほど、法華経を結集した在家の信者達の団結は
強固になり、ついに比丘の教団に対抗する大乗仏教教団に発展していきまし
た。
したがって、法華経の経典に書いてある罰論は、比丘の教団が在家信者に
対して実際に行った迫害に対して、在家信者が反発心とともに、怒りと
憎しみをもって書き綴った文ではないかと、私は考えています。
猛烈な迫害を加えられた被害者であれば、加害者に対し「地獄へ落ちてし
まえ」と呪うのも、人間として自然な感情ではないか?と思われます。
しかし、こうした事情を知らない後世の人々が、経典の一字一句をそのまま
信じ込んでしまった場合、とんでもないことになると思います。
「恐ろしい呪いの言葉」となって人々を、がんじがらめに縛り付ける恐れが
あると思います。こういう点を考慮に入れて、御書を拝読する必要があると
思われます。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板