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○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について

1わめ@管理人 ◆TJ9qoWuqvA:2005/06/17(金) 12:30:37
 生命とは生体の生存維持活動に必要不可欠な意識(自意識・自己「エゴ」)である。
この自意識は実在ではない。脳が創り出す生存維持に不可欠な要素である。
この意識はおそらく動植物にも備わっているものと推測する。
この意識の主体が死亡(脳死含む)することで消滅する。
自らの意識と他者の意識は互いに影響を与え合う。
 しかしこのことにより、影響(他者・他物「書物・メディア等」)を受け合う対象たる生物は、その影響の度合いに応じて自らの行動・言動に変化が現れる。そしてその行動・言動が連鎖的に他の生物に影響を与え、また影響を受けて行く。この意味において、一人の人間の死は、そのものが生存中に他の人間を含むあらゆる生物の意識に影響を与え、この影響の連鎖を、影響を与え合うすべての生物の死滅を除いて止めることはできない。また、その生物の生存中に残した遺物が、後の世の生物の意識にも影響を与えるものである。一人の人間の意識は、ある意味宇宙やすべてのものが消えてなくなるまで消滅することは無いのかもしれない。
 またこの意識は、生存中の様々な経験を、脳かあるいは何らかの器官を通じ、物質(生化学的)的に記録しているものとおもわれる。これは遺伝的要素として子孫にも影響を与えていくものである。
これらを総括して、
・1個の生物としての生命(自意識)の永遠性はない。
・1個の生物としての生命(自意識)は、他の生物に永遠に受け継がれていく。

私は現在、釈尊の説かれた縁起の法・空・無我を、このように理解している。

※読まれた方、ご意見(ご批判大歓迎)を頂けましたら幸いです。

86Leo:2005/10/10(月) 18:06:40
わめさん、こんばんは。>>84

> やっぱそれより思想史的方法がいいように思うな。^^

す、するどい。

>仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
>http://freett.com/Libra0000/082.htm

お、中村元氏批判はそこにありましたか。

87わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/11(火) 19:17:44
 Leoさん、わめの重力の話から脱線しちゃいましたが、重力発電機や永久機関にしろ、今までの既成概念に囚われないで、更に探求していく姿勢は学ぶところが大きいと思います。

 友岡さんの「習慣を疑え」も、既成概念を何でも当たり前のように思い込んでしまうことへの警告なのかもしれませんね。

 ところで、『今何をしているかがその人を決めるという「同時存在性」(因果倶時)』の”同時存在性”が、>>76で書いたようにわめには理解しがたいのですが、Leoさんは理解されておりますか?

 もし理解されているようなら、Leoさん流理解で結構ですので、ご意見をいただければ幸いです。

88わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/11(火) 19:31:24
「同時存在性」と言えば量子力学で、各1個の光子を正反対の方向に同時に発射して、その片方を途中から鏡なので曲げると、もう一方も同じ方向に曲がるという話があったような・・・

これは極端な例として、宇宙の端と端までその光が伸びたとしても、その片方を宇宙の端で曲げると、やっぱりもう一方も同時に同じ方向に曲がるとされる理論を読んだことがあります。

この現象には時間の概念が存在しないと言うことで、このようなことが言われているようですが、因果倶時の「同時存在性」もこのような意味合いのものなのかな?

( ̄ヘ ̄;)ウーン

89Leo:2005/10/11(火) 23:08:00
わめさん、こんばんは。

>Leoさん、わめの重力の話から脱線しちゃいましたが、重力発電機や永久機関にしろ、
>今までの既成概念に囚われないで、更に探求していく姿勢は学ぶところが大きいと思います。

(念のため...)私は永久機関否定派でいわゆる疑似科学(トンデモ)を批判するにやはり反証は有用と思いました。

> ところで、『今何をしているかがその人を決めるという「同時存在性」(因果倶時)』の”同時存在性”が、
> >>76で書いたようにわめには理解しがたいのですが、Leoさんは理解されておりますか?

同時存在性とは原因が結果として短時間にあらわれるということではないでしょうか。
たとえばAさんが学会員であるのは、未知の過去世に池田先生の久遠の弟子であったからではなく、
入会したからとか、親が学会員であったからによるものです。

別の見方をすると、卵(原因)と鶏(結果)は同時存在といえないでしょうか。卵が消えて鶏になるので
はなくだんだん成長するわけで、空間方向だけでなく時間方向も一体の存在と捉えることが
できるのではないかと思います。

90Leo:2005/10/11(火) 23:40:29
同時存在性に関係ありそうな時間論はこのようなページがありました。

○時間論
ttp://www.geocities.jp/enten_eller1120/thema/time.html

>「同時存在性」と言えば量子力学で、各1個の光子を正反対の方向に同時に発射して、
>その片方を途中から鏡なので曲げると、もう一方も同じ方向に曲がるという話があったような・・・

もしかして量子テレポーテーションですね。その話題に行く前に、わめさんの以前「光」の
話で疑問点が出てきました。光は一種のエネルギーですが、ビッグバン理論によって無から
宇宙が生じたとすると、光などのエネルギーが宇宙のはじめにそれ自体存在し、
縁起説が危機になるように思います。ありゃ?

○ビッグバン
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%B3

無といっても「エネルギーの揺らぎがあってそこから物質と反物質がポット生まれてすぐ消える、ゆらいだ状態」
(量子論的無)からの宇宙の発生だったら縁起説に反しないかな?

○現代の宇宙論
ttp://www1.fctv.ne.jp/~ken-yao/Recent.htm

91Leo:2005/10/11(火) 23:50:14
そういえば時間も実体のないものですね。
ものごとが変化しなければ(地球が自転したり、時計が動いたりその他諸々)時間も存在しないでしょう。

92わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/12(水) 00:31:18
Leoさん、こんばんは〜^^

> (念のため...)私は永久機関否定派でいわゆる疑似科学(トンデモ)を批判するにやはり反証は有用と思いました。

わめは否定はしないけど永久機関は、第一種・第二種ともにまず無理でしょうとは思っておりますが、既成概念は否定的でもそれに屈せず探求する姿勢は好きですよ。^^

> 同時存在性とは原因が結果として短時間にあらわれるということではないでしょうか。

これだとわめの思う、昨日の今日の結果と明日の今日の原因とが、共に同じ事柄を指すということでの因果倶時かなっとは思いますが、その意味だと原因と結果に時間のズレがありますから”同時”存在性とはならないような・・・

時間方向で言えば、最初は分かりませんが整数と考えて、2は1の果で3の因、3は2の果で4の因・・・となってそれぞれの数字は因果両方含むわけで、つまりは因果倶時ではないかと。

> もしかして量子テレポーテーションですね。その話題に行く前に、わめさんの以前「光」の
> 話で疑問点が出てきました。光は一種のエネルギーですが、ビッグバン理論によって無から
> 宇宙が生じたとすると、光などのエネルギーが宇宙のはじめにそれ自体存在し、
> 縁起説が危機になるように思います。ありゃ?

ビッグバン理論によって宇宙は生まれたのでしょうか? わめには分かりませんw汗 ただ時間が流れているわけですから、始まりはあったのではないかと思うのです。と言うのはわめは始まりがないと、時間が流れないと思ったりしてるわけですけど。(怪しい?)

> 無といっても「エネルギーの揺らぎがあってそこから物質と反物質がポット生まれてすぐ消える、ゆらいだ状態」
> (量子論的無)からの宇宙の発生だったら縁起説に反しないかな?

それが本当のことなら縁起に反するのかな? てか縁起が成り立たない? 成り立たなければ棄てましょう。(^^;;

> そういえば時間も実体のないものですね。
> ものごとが変化しなければ(地球が自転したり、時計が動いたりその他諸々)時間も存在しないでしょう。

わめは物事が変化(壊れていく?)するのは、時間の矢が過去から未来に向かっているからで、それは宇宙の膨張=エントロピーの増大が原因じゃないかと思ったりしています。^^

93Leo:2005/10/12(水) 00:42:08
>> 無といっても「エネルギーの揺らぎがあってそこから物質と反物質がポット生まれてすぐ消える、ゆらいだ状態」
>> (量子論的無)からの宇宙の発生だったら縁起説に反しないかな?
>
>それが本当のことなら縁起に反するのかな? てか縁起が成り立たない? 成り立たなければ棄てましょう。(^^;;

宇宙が完全な無から発生したとすると縁起説に反するけど、量子論的無から発生したとすると縁起説に反しないかな
と思いました。
でも縁起説に固執するのも縁起的でないし、縁起説に反証が出てきてもおかしくないです。
そうでなければ縁起信仰になってしまう(^^;

>わめは物事が変化(壊れていく?)するのは、時間の矢が過去から未来に向かっているからで、
>それは宇宙の膨張=エントロピーの増大が原因じゃないかと思ったりしています。^^

なるほど。物事が変化するのはエントロピーが増加するということで。

94Leo:2005/10/12(水) 23:41:50
わめさん、勉強になります。ありがとうです。

時間
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82
「簡単にいえばエントロピーが増大する方向に時間は流れるのである。」

「仏教
 龍樹に代表される空思想においても時間は、現在意識を軸に考察されている。」

「同時存在性」って「現在意識を軸」が関係するのかもしれないですね。

他の話ですが、量子テレポーテーションはこのようなサイトがありました。
ttp://www.nanoelectronics.jp/kaitai/qteleportation/

絶対盗聴不可能、三菱の量子暗号通信システムが87kmの長距離通信に成功
ttp://pcweb.mycom.co.jp/news/2002/11/14/07.html
へえ!
でも7.2bpsってまだ1秒間にアルファベットか数字1文字しかおくれない。

95わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/13(木) 00:04:56
Leoさん、こんばんは。^^

> わめさん、勉強になります。ありがとうです。

Σ(^∇^;)えええええ〜 初めてお役に立てましたか!♪ d(⌒o⌒)b♪

> 時間
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82
> 「簡単にいえばエントロピーが増大する方向に時間は流れるのである。」

んでこれは、宇宙の膨張が成せる業じゃないかと・・・
縮小を始めると時間も過去に戻るのかもw汗

>  龍樹に代表される空思想においても時間は、現在意識を軸に考察されている。」
> 「同時存在性」って「現在意識を軸」が関係するのかもしれないですね。

「同時存在性」って「現在意識を軸」ですか・・・ 同時って現世を指すことならわめの思う因果倶時と同じですけど。^^

> 他の話ですが、はこのようなサイトがありました。
> ttp://www.nanoelectronics.jp/kaitai/qteleportation/

わめの言ってたのは「双子のパラドックス」だわ。
量子テレポーテーションはそれの応用なのね。

> 絶対盗聴不可能、三菱の量子暗号通信システムが87kmの長距離通信に成功
> ttp://pcweb.mycom.co.jp/news/2002/11/14/07.html
> へえ!
> でも7.2bpsってまだ1秒間にアルファベットか数字1文字しかおくれない。

いやいや、暗号キーのみそれで送って、後は通常通信で問題ないのだからこれは実用レベルですよ。^^

96わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/16(水) 19:26:52
Leoさん、くまりんさんの、曽我さんのサイトをちゃんと読んでいないにも関わらず、その印象というか、それを

> このかたはどうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?程度の認識しかありませんでしたのでこんどちゃんと読んでみます。

と鋭く観察されているように思います。^^

 それはわめも感じておりましたが、曽我さんは慈悲心(これ自体も縁起・無我の捉え方かも)をもって、原始仏教を捉えられているのかなって思ってました。

 縁起を関係性と捉えるわめには、曽我さんの思いにも感銘してますし、縁起を基調としていますが、仏教という枠に自分をはめ込みたくはないし、また仏教を引き入れたいとも思ってはいないように思うのだけど、客観的な思考と、縁起の思想の関係性からの思い(他者の存在の必要性・あるいは他者の不存在?)と、バランスなのか立て分けなのか分からないけど、結構難しく感じます。

97Leo:2005/11/16(水) 23:41:12
わめさん、こんばんは。

わめさんがくまりんさんのリンクを引用していたのでてっきりお知り合いと
思ってしまいました。

くまりんさんの「どうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」
の指摘は考えさせられますね。
ブッダをタイムスリップさせて現代に連れて来れないですが、文献や最新の研究成果などから
素直にブッダの声に耳をかたむけてみるという点もよいと思います。

曽我さんとajitaさんの間で大激論があったり、曽我さんがヴィパッサーナ合宿に参加したり
色々あったのですね。

98わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/17(木) 01:13:29
Leoさん、こんばんは。^^

> わめさんがくまりんさんのリンクを引用していたのでてっきりお知り合いと
> 思ってしまいました。

(o_ _)ノ彡☆ギャハハ!! バンバン!
 ってわめは、くまりんさんのブログ内でトップページや記事ごとのリンクについてご自由に、連絡も無用とのコメントを発見しておりましたので、お構いなしに活用させていただいておりました。汗
 誤解させて(^∧^) ゴメンゴメーン

> くまりんさんの「どうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」
> の指摘は考えさせられますね。

( ̄  ̄) (_ _)うんうん
 ブッダを尊敬すればするほどそうなってしまうのかもしれませんね。ましてそれに強い慈悲心も伴えば尚更かもしれませんが、わめ如きにはやっぱり曽我さんやくまりんさんのテキストに触れても、そうなのかぁ〜程度にしかわかっていないかもです。涙

> ブッダをタイムスリップさせて現代に連れて来れないですが、文献や最新の研究成果などから
> 素直にブッダの声に耳をかたむけてみるという点もよいと思います。

 Leoさんはそっちにいきますか。^^
 わめは師匠'sやくまりんさんやLeoさんのその成果を教えていただくだけで十分かもです。♪
 わめはどちらかと言えば仏教以外に目を向けていきたいと思っちょりますばい。笑

> 曽我さんとajitaさんの間で大激論があったり、曽我さんがヴィパッサーナ合宿に参加したり
> 色々あったのですね。

 曽我さんのヴィパッサーナ合宿でのお話は同サイトにアップされて読ませて頂きましたが、大激論のテキストは見つけられませんでした。(´・ω・`)ショボーン

99わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/17(木) 17:29:30
Leoさん

早速くまりんさんの「どうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」から連想して、「どうして日蓮(大聖人)を自分の思うあるべき仏法に引き入れるんだろう?」に置き換えて記事にしてみました。^^
http://wame.seesaa.net/article/9440778.html

でも当たってると思わない?

100Leo:2005/11/17(木) 22:58:18

わめさん、こんばんは。

>早速くまりんさんの「どうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」から連想して、「どうして日蓮(大聖人)を自分の思うあるべき仏法に引き入れるんだろう?」に置き換えて記事にしてみました。^^
>http://wame.seesaa.net/article/9440778.html
>でも当たってると思わない?

確かにそうですね。

『聖徳太子』というドラマで、蘇我馬子が机の上で小さい仏像をぐるぐる回していたアレですよ。
どんなお偉い方であっても「信心利用」はいけないってことですね。

それにたとえば「分断は悪」という指導は全体主義であり独裁なのでしょう。

ぜんたいしゅぎ 【全体主義】
「〔totalitarianism〕個人は全体を構成する部分であるとし、個人の一切の活動は、
 全体の成長・発展のために行われなければならないという思想または体制。
 そこでは、国家・民族が優先し、個人の自由・権利が無視される。」
(「大辞林 第二版」)

どくさい【独裁】
「絶対的な権力を握る一定の個人または集団・階級が独断によって全体を治めること。また、そのような体制。」
(「大辞林 第二版」)

>大激論のテキストは見つけられませんでした。(´・ω・`)ショボーン

くまりんさんの話で大激論があったとわかったのですが、大激論の直接のテキストはないようです。
曽我さんのテキストの力こぶから推測するしかないようです。

101Leo:2005/11/18(金) 00:54:08
「創価学会は日蓮(大聖人)仏法を基調とし、日蓮(大聖人)の残された遺文(御書)を教義の中心思想としています。
この遺文(御書)を集めたものが御書全集と言われるものですが、その御書全集に収められている日蓮(大聖人)の
遺文(御書)には、日蓮(大聖人)がほんとに書かれたとされるものは半数をやや越える程度で、
真偽未決や後世で加筆されたであろうと予測されるものや偽書の疑いの濃いものが半数近くを占めています。」
http://wame.seesaa.net/article/9440778.html

そうですね。
日蓮(大聖人)は創価学会の会員でもなく創価学会版御書を手元においていたのではなかったですね
(註法華経を手元におかれていた)。

日蓮(大聖人)をタイムスリップさせて現代に連れて来れないですが、文献や最新の研究成果などから
素直に日蓮(大聖人)の声に耳をかたむけてみるのもよいと思います
(本を出された山中講一郎さんがやっておられるのもそういうことなのですね)。

102くまりん:2005/11/18(金) 05:35:34
わめさん、Leoさん、おはようございます。
 いろいろとご紹介有り難うございます。曾我さんと ajita さんのやりとりは以下にあります。曾我さんへの僕の感想はこのやりとりから生まれたものです。

http://d.hatena.ne.jp/ajita/searchdiary?word=%C1%BE%B2%E6%B0%EF%CF%BA&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha251.html

103わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/18(金) 11:11:08
くまりんさん、わざわざありがとうございます。\(^▽^)/

早速読ませていただこうと思います。
Leoさんもきっと大喜びしそう。(⌒〜⌒)ニンマリ

104わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/18(金) 18:17:24
やっと読めた。^^ くまりんさん感謝です。ぺこ <(_ _)>

 うーん、どちらかと言うとテーラワーダの教えがブッダの正当な教えで間違いはないと、ajitaさんが拘っておられるのが印象的でした。
 曽我さんは”疑”をもって不純物を取り去り、ブッダの教えを知ろうとされているような印象かな。

 わめはブッダが、縁起と呼んだ暫定真理のようなものがすげ〜って思っていて、縁起に限らず暫定真理(カケラ含む)のようなものを仏教と言うものにも拘らず、わめの視界から見える世界に目を”凝”らし、みつけ活用(楽しむ・楽しませるため)していきたいなって思ってますが、ブッダの教えに対しては何がそうで何が不純物かなんてことにはあまり興味が湧いてこない。

 それはわめが悟りとか解脱とか言うものにあまり興味がない、願ってもいないからかもしれないな。

 楽しむ・楽しませるに強く拘る、我執の塊のようなわめでした。(T▽T)アハハ!

105Leo:2005/11/19(土) 00:27:18
くまりんさん、わめさん、こんばんは。

>曾我さんと ajita さんのやりとりは以下にあります。

資料があったのですね。くまりんさん資料ご紹介ありがとうございます。
ajitaさんでもなく曾我さんでもなくがよいのかなとふと思いました。

>楽しむ・楽しませるに強く拘る、我執の塊のようなわめでした。(T▽T)アハハ!

エンターティメントですか?!
なんだかんだの昨今ですから、色々学ぶか、エンジョイするしかないです(^^;
人間、生きてるだけで丸儲けです。

106Leo:2005/11/19(土) 00:51:58
>ajitaさんでもなく曾我さんでもなくがよいのかなとふと思いました。

なんですけど、ajitaさんきついところもあるけど色々考えさせられます。

107わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/19(土) 02:40:48
Leoさん

> ajitaさんでもなく曾我さんでもなくがよいのかなとふと思いました。

 こんなこと言ったら顰蹙を買いそうだけど、どうして個に向かおうとばかりするのかがわめにはよく分からない・・・(曽我さんが個に向かうのは開いていくためなのかなって思いますが)
 どうせ壊れて(拡散)いくってのがわめから見える世界だから、時間が逆戻りしてない限り、方向は内から外って思うのだけどな。
 外から内に還元されて( ゚Д゚)ウマーってのもありそうだし。

> >ajitaさんでもなく曾我さんでもなくがよいのかなとふと思いました。
>
> なんですけど、ajitaさんきついところもあるけど色々考えさせられます。

曽我さんもajitaさんもすごい人だなって思うけどね。思うけどだな・・・

108Leo:2005/11/20(日) 00:22:11
わめさん、

わめさんは仏教に拘らないと思いますが...
仏教で「我見」は「自己の内部に不変の実体、本質が存在するとする、非仏教的な考え」だそうですよ。
くまりんさんの掲示板のご挨拶で「我執・我見もあり」と仰っていたので...

こんなこといっているバヤイじゃないのは承知ですが...
とはいえ昔「本質が」「本質が」とさかんにいっていた人がいたなあ。

がけん 【我見】
(1)自分だけの狭くかたよった意見や見方。
(2)〔仏〕「我執(がしゆう)」に同じ。
(「大辞林 第二版」)

がしゅう【我執】
(1)〔仏〕 自己の内部に不変の実体、本質が存在するとする、非仏教的な考え。我見。
(2)自分中心の狭い考え。また、それにとらわれること。
(「大辞林 第二版」)

109Leo:2005/11/20(日) 00:26:03
なんか仏教用語だけでなく、こんなことを思ってしまった。

我見・我執

・特定の宗教団体だけの狭くかたよった意見や見方。
・特定の宗教団体中心の狭い考え。また、それにとらわれること。

110わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/20(日) 00:54:34
Leoさん、こんばんは〜^^

わめは仏教に拘っていないといっても、その教えには一番関心があるのは事実です。(^^;

「自己の内部に不変の実体、本質が存在するとする、非仏教的な考え」も、Leoさんの我見のご意見もいいですね。(*´∇`*)

なんだかわめとよく似たことを考えるものだと不思議になりました。

> ・特定の宗教団体だけの狭くかたよった意見や見方。
> ・特定の宗教団体中心の狭い考え。また、それにとらわれること。

現実問題としてね、どんなに唯一正しい教えと言うものがあったとして(ないと思うけど)、それが何かの宗教団体とか組織とか、あるいは名称がつくだけにしても、教えを広げていこうとしたらそしてそれが大きく広がっていくとしたらどうなるでしょう?
円滑に他の宗教者(組織)や政治、また他国の宗教者(組織)・政治・国家との中で問題となって血で血を洗うことになるなんてことはないと思いますか?

個々の人がその教えを信じるとしても、信じる段階でもうそれはその人特有の教えの信じ方になってその教えに拘っているわけで、他の教えを信じる方とは”異質”な信じ方であって、教えの内にも争いが起こらないとは言えないと思います。

111わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/20(日) 00:57:10
補足
信じる段階でその人特有の”教え”になってしまうのじゃないかと思ったりする・
正しい教えだから世の中がよくなったり、人々が幸せになると考えるのは短絡的ではないかと思う。

112Leo:2005/11/20(日) 00:57:47
で、さらにこんなこともいえる(自虐的?)。

我見・我執

・特定の宗教団体を諸悪の根源と考えるだけの狭くかたよった意見や見方。
・特定の宗教団体を諸悪の根源と考える狭い考え。また、それにとらわれること。

我見・我執

・仏教だけの狭くかたよった意見や見方。
・仏教中心の狭い考え。また、それにとらわれること。

113わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/20(日) 01:15:50
Leoさん

> 我見・我執
>
> ・特定の宗教団体を諸悪の根源と考えるだけの狭くかたよった意見や見方。
> ・特定の宗教団体を諸悪の根源と考える狭い考え。また、それにとらわれること。

これは微妙だな・・・

すべての宗教や思想や慣習などを諸悪の根源とまではいかなくとも唯一正しいとは言えないと切っていくことは、我見・我執先をなくしていくことになって悪くはないと思ったりするのですが・・・

114Leo:2005/11/20(日) 01:17:50
わめさん、こんばんは。

>現実問題としてね、どんなに唯一正しい教えと言うものがあったとして(ないと思うけど)、
>それが何かの宗教団体とか組織とか、あるいは名称がつくだけにしても、
>教えを広げていこうとしたらそしてそれが大きく広がっていくとしたらどうなるでしょう?
>円滑に他の宗教者(組織)や政治、また他国の宗教者(組織)・政治・国家との中で問題となって
>血で血を洗うことになるなんてことはないと思いますか?

そうなんですよ。
それに世界を征服できた覇者はいないし、覇者だって滅ぶのですね。
で、覇者は意外と宗教に関しては寛容だったりします。
なので到底宗教で世界征服はできないでしょう。

>個々の人がその教えを信じるとしても、信じる段階でもうそれはその人特有の教えの信じ方に
>なってその教えに拘っているわけで、他の教えを信じる方とは”異質”な信じ方であって、
>教えの内にも争いが起こらないとは言えないと思います。

「生きとし生けるものに幸いあれ」というのはよい(正しい?)教えかなと最近思ってます。
まあ、超強力に「正しい」と主張する宗教があるとすると、その「正しい」の微妙なズレで
「正しくない」が生じ争いや分派が生じるのですね(既にそういう歴史は見たような)。

バベルの塔という逸話がありましたが、バベルの本堂があったとかなかったとか。

>信じる段階でその人特有の”教え”になってしまうのじゃないかと思ったりする・
>正しい教えだから世の中がよくなったり、人々が幸せになると考えるのは短絡的ではないかと思う。

やはり「教え」で「不幸」はなくならなく、「不幸」の除去(解決)で「幸福」はもたらされるのでは
ないでしょうか。

115Leo:2005/11/20(日) 01:23:49
>すべての宗教や思想や慣習などを諸悪の根源とまではいかなくとも唯一正しいとは言えないと切っていくことは、
>我見・我執先をなくしていくことになって悪くはないと思ったりするのですが・・・

ええ。それはそうと思います。

yahooや2chなどでの特定の宗教団体に対する論調や、僕が目の前の宗教団体に対して思うことへの
批判や反省なんです(説明不足ですみません)。

116わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/20(日) 01:29:07
Leoさん、今夜は時間が合うね。^^

> 「生きとし生けるものに幸いあれ」というのはよい(正しい?)教えかなと最近思ってます。

自身への言い聞かせの言葉としてはいいと思います。
でもさりげない言葉、こんにちは。こんばんは。今日はよい天気ですね。お変わりありませんか。などに自他共の関係性の思いを込めるほうが、聞く側に妙な不信感・違和感(関係性に距離ができる)を与えることが少なくていいようにも思うのですが・・・

> やはり「教え」で「不幸」はなくならなく、「不幸」の除去(解決)で「幸福」はもたらされるのではないでしょうか。

この不幸の定義は難しいかもw汗 そういった意味では宗教の教えも活きてくると思うけどね。^^

117わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/20(日) 01:39:33
> やはり「教え」で「不幸」はなくならなく、「不幸」の除去(解決)で「幸福」はもたらされるのではないでしょうか。

覚悟(ちょっと意味深として)ができなくてどうしようもなく苦しい(不幸?)方には、副作用はあるにしても麻酔も致し方ないのではないかと思います。幸福は個人の価値観の問題だと思うからわめには何とも言えませんが。

118Leo:2005/11/20(日) 01:48:24
>Leoさん、今夜は時間が合うね。^^

チャット状態ですね(^^;

>自身への言い聞かせの言葉としてはいいと思います。
>でもさりげない言葉、こんにちは。こんばんは。今日はよい天気ですね。お変わりありませんか。
>などに自他共の関係性の思いを込めるほうが、聞く側に妙な不信感・違和感(関係性に距離ができる)
>を与えることが少なくていいようにも思うのですが・・・

想像ですが...何か世界を世界各国語で挨拶して回る現代の不軽菩薩をイメージしてしまいました。
インドの手を合わせて「ナマステ」という挨拶は宗教じゃないけど(よい意味の)宗教ぽくていい。

>この不幸の定義は難しいかもw汗 そういった意味では宗教の教えも活きてくると思うけどね。^^

こんなこというと偽善になるかもしれませんが、『もし世界が100人の村だったら』の
80人、70人、50人や1人、あるいは99人の状況を思います

119わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/20(日) 01:55:56
> こんなこというと偽善になるかもしれませんが、『もし世界が100人の村だったら』の
> 80人、70人、50人や1人、あるいは99人の状況を思います

わめなんて納得のいく生き方をしているつもりなんだけど、でもいざとなったら思うように覚悟ができるかほんとのところは不安だし、それが親が子が兄弟が殺されていく、また食べるものもない、こんな状況にある人にこれが現実です、覚悟を決めなさいとわめには言えません。

そういった意味では宗教の教えの麻酔も必要に思いますし、麻酔で痛みを和らげている間に、できる人たちが、このような悲惨な状況を解消していく努力をしていくべきじゃないかと思います。

120Leo:2005/11/20(日) 02:00:47
>覚悟(ちょっと意味深として)ができなくてどうしようもなく苦しい(不幸?)方には、
>副作用はあるにしても麻酔も致し方ないのではないかと思います。
>幸福は個人の価値観の問題だと思うからわめには何とも言えませんが。

映画の『マトリクス』などを例にすると...目覚めることをよしとする人もいれば、目覚たくない人もいます。
覚悟が出来なければ目覚めることはかえって不幸になることです。
でも目覚めないほうがよいかという深ーい世界がありますね。

121Leo:2005/11/20(日) 02:04:10
>そういった意味では宗教の教えの麻酔も必要に思いますし、麻酔で痛みを和らげている間に、
>できる人たちが、このような悲惨な状況を解消していく努力をしていくべきじゃないかと思います。

やはり、それですね。

色々ありがとうございます。今日は眠くなったのでそろそろネット落ちします。ではでは。

122わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/20(日) 02:07:39
でも人の心(意識)には何かおかしなものがあって、それがこのような世界を作ってしまっているようにも思うのです。そういった意味では、その”おかしなもの”も何とかできないのかな、していかなきゃいけないんじゃないかな思ったりしています。

おかしなものというのは、絵の具を海に落とせば、その成分は時間とともに拡散し、長い時間がたってもしかしたらその絵の具の成分はもう考えられないくらいに薄まるにしても、世界中の海のどこにでもそれがあるようになる。それがこの世界の常識のように思うのに、なんで人間の社会は偏りが解消されないのかといったことから、何か”おかしなもの”が人の心(意識)にはあるんじゃないかと思ったりするのです。

おかしなものとは、それの是非の判断は個々に違うとしても、何となく誰でもがわかっていると思いますが・・・

Leoさん。オ(*゜o゜*)ヤ(*^0^*)ス(*゜▽゜*)ミィ(゜-^*)ノ""マタネ♪

123Leo:2005/11/20(日) 18:53:37
わめさん、こんばんは。

>でも人の心(意識)には何かおかしなものがあって、それがこのような世界を作ってしまっているようにも思うのです。
>そういった意味では、その”おかしなもの”も何とかできないのかな、
>していかなきゃいけないんじゃないかな思ったりしています。

「おかしなもの」って理にかなわないことや正当化や相対主義なのかもしれません。
Libraさんの批判的合理理主義の啓蒙はよかったです。
「おかしなもの」の判断基準を(暫定的にせよ)示しましたから。

124Leo:2005/11/20(日) 19:10:25
あ、もちろん、
「おかしなもの」の判断基準がありそれらを活用するとして、
”「理性や合理性,客観的事実認識を駆使してもどうにもならないこと」が人の世には在る”
ことは認めた上でですね。

”「理性や合理性,客観的事実認識を駆使してもどうにもならないこと」が人の世には在る”
から何でもアリで勝負が肝要とかやったら元の木阿弥になってしまう(笑)。

125わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/20(日) 21:14:17
Leoさん、こんばんは〜^^

>>123-124

大まかに異論はありませんが、相対主義ってのはまずいことなのですか?
というか相対主義そのものがわめにはよく分からないw汗

> ”「理性や合理性,客観的事実認識を駆使してもどうにもならないこと」が人の世には在る”
> から何でもアリで勝負が肝要とかやったら元の木阿弥になってしまう(笑)。

どこぞの宗教団体に恨みでもおありのような・・・w笑

126Leo:2005/11/20(日) 21:30:00
わめさん。

>大まかに異論はありませんが、相対主義ってのはまずいことなのですか?
>というか相対主義そのものがわめにはよく分からないw汗

ええと、それはLibra師匠の資料集が参考になると思います。
相対主義批判(小河原誠)
http://page.freett.com/Libra0000/039.htm
「楽天的相対主義の主張は、簡単に言えば、あなたもわたくしも正しい、ということになるだろう。」
「悲観的相対主義の主張は、簡単に言えば、あなたもわたくしも間違っている、ということになるだろう。」
Livedoor的相対主義なってのはもちろんありません(^^;

>どこぞの宗教団体に恨みでもおありのような・・・w笑

「恨み」でなく「怒り」(あるいは叱咤激励愛のムチ)です(^^; 惜しいと思うんですよ。

127わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/20(日) 21:47:17
相対主義は矛盾を抱かえていると言うことですね。^^
そう言えばそこ読んでたのに忘れてた。汗

> 惜しいと思うんですよ。

今年も莫大な浄財が集まりそうですが、よい使い方をして欲しいですね。

128Leo:2005/11/21(月) 01:28:09
>今年も莫大な浄財が集まりそうですが、よい使い方をして欲しいですね。

そうですね。
何も考えずにポロッと寄付するのですし、結果集まるのだなこれが、やはり妄信って最高ということなのですね。
でも大規模宗教団体なんかも寄付される側から寄付する側へのチェンジが必要なのではないでしょうか。
(世界に貢献するって名誉を得ることでなくて世界の困っている人に手をさしのべることでしょう)
関係ないけど年収が下がって300百億円のポパーの弟子ジョージ・ソロスは投機でガッポリ儲けて、東欧にバンバン寄付した。
私なぞ経済力は微々たるものだが、寄付される側より寄付する側がエライっ(キーを握っている)てことで、考えさせて貰います。

「何も知らなくても活動はできる」とはよくいったもので大規宗教模団の指導層が難しいこと知らなくても
今の地位を得たのだから「知らなくてもできるんだよ」、妙に納得しますね。
まあ、(私を含め)貧乏人の基本は金持ちに金をくれてやるということだったのですなあ。

未来とは人の世の希望じゃ。

129Leo:2005/11/21(月) 22:01:25
...ですが、目くじらたてる必要はないかもしれませんね。
ギャンブル、宝くじ、酒タバコのような嗜好品、などと同じで、個人の自由、
夢や気分を買うもよし、傍からトヤカクいえないし、自分が嫌だったらやらなきゃ良いだけ。

少しは達観できたかな自分(^^;

130わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/22(火) 00:05:38
Leoさん、くまりんさんは常に自身の先頭ある認識主体を、アートマンと呼んでいるようですね。^^
認識主体がないと自身を含めすべてが認識不可になってしまうと。

ここはわめ的な考えだけど、その認識主体は五蘊に依存していて肉体の死によって消滅する。

このような認識主体のアートマンなら合理的ではないでしょうか?

131わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/22(火) 03:16:02
うーん、認識主体は現在の自分で、客体は過去の自分ってことかな。
認識主体と客体との時間差を極力詰めていくことが瞑想行には含まれているのかも。

132Leo:2005/11/22(火) 23:39:53
わめさん、こんばんは。

>Leoさん、くまりんさんは常に自身の先頭ある認識主体を、アートマンと呼んでいるようですね。^^
>認識主体がないと自身を含めすべてが認識不可になってしまうと。
>ここはわめ的な考えだけど、その認識主体は五蘊に依存していて肉体の死によって消滅する。
>このような認識主体のアートマンなら合理的ではないでしょうか?

そのことなんですが...
Libraさんの指摘では「認識主体など無い」と主張している研究者はいないとのことでした。

○輪廻説は仏教ではない(Libraさん)
http://page.freett.com/Libra0000/z006.html
「いずれも、ブッダの否定するところが、つぎの三点にあることを語っている。
1 我所(mama)の否定
2 我(attan)の否定
3 我体(me atta(_))の否定」

ブッダは「我所有」と、「梵我一致の我」と、「自我の不変なる我体」を否定したのであって、「認識主体など無い」と
主張していないとのこと。

○原始仏教における生命観(高橋審也)
http://freett.com/Libra0000/059.htm
「この世における一切の存在が無常であり無我であることは原始仏教における一貫した基本的立場であった。
 そこにはいかなる固定的な恒常的な存在は認められない。
 その流動的な無常なる在り方に自己というものが仮構されている。
 それが諸行(sabbe sam・kha(_)ra(_))であり五蘊であった。
 それがまた、凡夫的自己の在り様であった。」

「固定的でない自己、固定的でない生命それが原始仏教の立脚点であるといえよう。」

流動的な無常なる在り方に自己というものが仮構とのこと。

松本史朗博士は「アートマンと聞くだけで拒否反応を示しちゃって」るわけでなく論理的に主張されているし、
主張に妥当性があると思います。「批判仏教と聞くだけで拒否反応を示しちゃって」る方がいるという
ことが今回よくわかりました。やはり色々な方に話を聞いてみるものと思いました。

○仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
http://page.freett.com/Libra0000/082.htm
「すなわち、釈尊の思想とは何かを考える場合、釈尊以後の仏教思想史の流れを考慮する必要があろう。
 紀元後十三世紀にいたるまでのインド仏教思想の流れ、八世紀以来のチベット仏教思想史、
 そして、二世紀以来の中国仏教、および朝鮮や日本の仏教思想の流れを見渡すとき、
 そこに雑多ななかにも、きわめて一貫した特異な思想の流れが認められる。」

「たとえば〝仏教〟が主張する〝無我〟ほど常識に反した奇妙な考え方もないであろう。」

「私は、この意味において、思想史的考察にもとづく推理の結果として、〝釈尊は縁起説を悟った〟と主張する。
 しかるに、この主張自体は、何ら新奇なものではない。先に見た道元や宇井伯寿の言葉にも示されているように、
 〝釈尊は縁起説を悟った〟とか〝仏教とは縁起説である〟と見なすことは、仏教の伝統的理解においても、
 また近代的な仏教学においても、ごく一般的なことだからである。」

「大乗仏教は妄想」ななかにも「きわめて一貫した特異な思想の流れが認められる」ということなのですね。

133Leo:2005/11/22(火) 23:50:07
あと、こういう点にも気をつけなければならないのですね。

肯定的証拠をいくら積み重ねても理論の正しさは証明されない(小河原誠)
http://page.freett.com/Libra0000/057.htm

「さて、ここに述べてきた話は、科学とは証拠をたくさん集めて理論を立証することだと信じている人にとっては
 相当にショッキングなことがらであろう。
 理論の真なることを立証するのが科学だという考えが根本から揺さぶられることになるからである。」

「しかしながら、少なくともここには観念体系の内部にいてさえその体系への反証実験を考えることができるのであり、
 そして反証が生じるならばそれを通じて、体系の囚人であることから逃れでる可能性のあることが示唆されている。」

「ポパーは、科学的理論は反証にさらされうるものであり、そして科学的態度とはなによりもまず理論をそうした
 反証にさらそうとする批判的態度であると考えたのである。」

134くまりん:2005/11/23(水) 02:06:52
Loe さん、こんばんは。
 僕はあなたと無意味な論争をしようと思っているわけではないのです。がちょっと誤解があるようです。
引用された各氏のテキストは僕の申し上げていることと噛み合っていないのですね。

 僕もブッダが「認識主体など無い」と主張したなどと主張していないのです。高橋先生の「固定的でない自己、固定的でない生命それが原始仏教の立脚点であるといえよう。」もその通りだと思いますし、松本先生の「仏教とは縁起説である」になんらの異論もありません。問題にしているのは縁起する無常なるこころ(=色受想行識のはたらきとしての)の時間の先頭にたって過去と過去から予測される未来を選択し峻別する暗黙の了解の自己のことです。それを他者との関係を含む過去を分別的に観察して認識していくことは確かに理性でしょう。しかし未来を選択するのも、今現在、即今の刹那に認識を取捨選別するのは変わり続けている自己そのものじゃないですか?ここで自己(永遠不変のなどではなく)が峻別しなければ認識が認識を選択し峻別することになってしまっておかしいですよと。ですからその自己を口伝で伝承され最初期のと言われる経典ではブッダがアートマンと言っているのですよと言うことと、それはなんらヒンドゥ的要素が入り込んだというようなものではなく、そのまま受け取ればいいのではないですかと申し上げているのです。サンスクリットで言えば anArtman にはかわりがないのですけどね。

 パーリ律蔵マハーヴァッカで説かれる十二支縁起もその前後に挟まれる成道のウダーナ(自らの境涯を説いた感興詩)が母体になって仏弟子達に伝承されたものでしょう。松本博士が「仏伝中のいかなる記述も、釈尊が詩をつくったことなど伝えていない」と述べておられますが、博士ご自身が「縁起と空」において十二支縁起を説明されるとき引かれたパーリ律蔵マハーヴァッカにブッダが自ら口をついて出たと伝承される成道に関する初夜の偈、中夜の偈、後夜の偈がウダーナヴァルガから引かれもしています。ブッダの説いた聖なるものとされる重要なものは口伝で伝承されたと推察出来る、それらは韻文やウダーナのみでなく仏典に何度も繰り返し説かれる散文の定型句なども含まれると推測されるとは榎本文雄博士をはじめとして宮元啓一博士、下田正弘博士などもそのご研究成果から指摘されていますが、そうしたご成果に依れば十二支縁起は「釈尊の思想とは何かを考える場合、釈尊以後の仏教思想史の流れを考慮」をせずとも最初から口伝で伝承されていた仏教の思想ということになります。

 「批判仏教」については拒否反応を示すどころかその成果の恩恵は積極的に受けています。「批判仏教」がなければそれ以後の反省も仏教学の多様な展開もありえなかったでしょう。ただ僕は下田博士の以下のことばに非常にシンパシーを感じます。

----- 以下引用
情報の収集や分析に回ればよいとった安心感が、いつの間にか共有されているようです。たまたま仏教学において〈批判〉ということを正面から問題にする貴重な試みが生まれても、それは〈仏教学〉を問い直そうするのではなく、むしろ近代仏教学が前提とする〈理性的ブッダが説いた哲学としての仏教〉という理念を極端に推し進め、曖昧さが排除され明晰判明となった〈仏教〉という認識の観念をもって仏教自身を批判しようとする試みであります。それは私には、近代仏教学の見出した〈仏教〉という観念をさらに観念化するような作業に思えてしまいます。 --- 中略 --- 私は、近代仏教学を否定しようとしているのでは、毛頭ありません。近代的な学問としての仏教が明確になってきたというこの大きな土台の上にこそ、こぼれ落ちた世界をもう一度考察の対象に取り上げようとする私のささやかな反省も意味を持ってくるのであります。研究の継続とはこうした努力の継続でありましょう。私は長い伝統の仏教世界を経て、その上で近代仏教学を経験してきた現在の仏教学という学問に、心から期待をしています。
----- 引用終わり
下田正弘『仏教学セミナー 73号』[大谷大学仏教学会/2001.5]所収 より引用

135Leo:2005/11/23(水) 09:49:41
くまりんさん、こんにちは。

>Loe さん、こんばんは。
> 僕はあなたと無意味な論争をしようと思っているわけではないのです。がちょっと誤解があるようです。
>引用された各氏のテキストは僕の申し上げていることと噛み合っていないのですね。

言葉の端々で早トチリあるいは誤解してしまったようですみません。

「こぼれ落ちた世界をもう一度考察の対象に取り上げようとする私のささやかな反省も意味を持ってくるのであります。」

批判による切捨てだけでなく、拾い上げも重要ということなのですね。

136わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/23(水) 13:17:41
くまりんさん、Leoさん、こんにちは。^^

 またまたわけわかめなことを書かせていただきますと、くまりんさんの『縁起する無常なるこころ(=色受想行識のはたらきとしての)の時間の先頭にたって過去と過去から予測される未来を選択し峻別する暗黙の了解の自己』は、現実わめも生まれてこの方永遠とやっていることで、その自己は今のところやっぱあると思ってしまいます。
 余談ですが、極めて近い過去(0コンマ0何秒とか)を常に意識(あるいは必要に応じ意識)し予測される未来を選択し峻別することができたなら、もしかして衝動的な犯罪や事故やついうっかりやらかす失敗なども少なくなるのではないかと思いを巡らしております。(この点は座禅や瞑想や唱題行なども役に立つかも)

 あと、まったく論理性のないわめのコメントになってしまいそうですが、くまりんさんがご指摘されていることとわめが感じることとに類似性があるのかなぁ〜って思うところがありまして書かせていただきます。

 それは仏教学の学者さんとか、仏教を信仰されている方の多くが、自らが思うところのブッダが理想的の教えを説いたとしたいという願望があって、仏教をより理解することよりも、仏教をより正当な教えであると論証し、ブッダの権威を高めたいとか、ブッダを最極の理想的人間とか、人智を超えた存在としたいといったことが多かれ少なかれその個々の心理にはあるような気がするのです。

 わめも人事ではなく、そのような気持ちが微塵もないかと言えば甚だ怪しく、だから自戒の意味を込めて”人間ブッダ”とか”ブッダおっさん”とかの言葉を使うことがあるのですが、ブッダ及び仏教にことのほか思い入れが強ければそうなってしまうのも人間である以上仕方ないのかもしれないと思ったりします。

 脱線しますが、ブッダの悟られた縁起の法はブッダが作ったものに名が付いたのではなく、この世界にある事象・成り立ち(わめ的には暫定真理)を発見しそれを縁起と呼称しているわけで、もちろんその事象を約2500年前に発見するなどそれはもうものすごいことで、ノーベル賞を100個あげてもいいくらいなように思うのですが、”その教えまでもが絶対に正しい”とすることはできないと思うのです。
 わめとしては、そのブッダの教えに拘ることよりもできることならその縁起(わめ的には暫定真理)や、他の仏教には関係ないかもしれない暫定真理を、自分(人)はいかに捉えるのがよいか、いかに生かしていくのがよいかというところに重点をおいてもいいのじゃないかと思うのです。

137Leo:2005/11/25(金) 00:12:11
わめさん、こんばんは。

僕はくまりんさんの掲示板で僕は思想的には反創価ですって言い切っちゃったけど(実際そうなんだけど)、
考えてみるとLibraさんは秋谷会長に手紙出して事態の改善を求めたのだし、わめさんは現役幹部で
学会や仲間のこと思いやってるし、別に反創価ではないんですよね。僕は一度学会はリセット
された方がよいと思っているし悪友や悪知識になってしまうのかな。ただ、学会がリセットされたら
苦しみを受ける人がいたら考えてしまいますよね。それにリセットされるほどやわでないのだし。
(注 これはくまりんさんへのコメントではありません)やはり僕は脳内で言葉による解体やっているぐらい
しかないかな(ボソ)。

138Leo:2005/11/25(金) 00:29:22
んー、なんかマイナスな生命でいかんいかん。スマソ。
慌てない慌てない一休み一休み(←なんのこっちゃ?)。

140わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/25(金) 00:32:44
Leoさん、こんばんは。^^

 反創価だとか組織改善だとか表現する言葉は違っても、Libra師匠もわめもLeoさんもほとんど変わらないと思いますよ。
 ただほぼ実現不可能なことは考えても仕方ないし、組織なんて生き物じゃないし、結局学会員とか非学会員とか関係なく”人”にどうなっていって欲しいかということだと思うのだけどな。Leoさんもそんな思いだと思うよ。(勝手に推測w)

 話は変わって、実は半月くらい前より『ヴィパッサナー瞑想』ってのもやっていたのですけど、それもわめはヒマだから毎日長い時間ね。笑
 これは普通(普通ってなんだ?w)に生きてる人には結構効果あるかもしれませんよ。^^
 ただわめには目に見えて効果はありませんでしたがw爆

 と言うかわめはこの数年、ぼけ〜って生きてて毎日瞑想状態みたいな時間がかなり長かったようで、”瞑想行”って形式は要らないみたいです。(^^;;

 それと瞑想などしなくても、観察で充分じゃないかと思いました。自分と周囲(ネットの関係含む)を、ああでもないこうでもないと考えないで四六時中しっかり観察することで同じような効果があるように感じてます。

141Leo:2005/11/25(金) 00:47:40
あ、わめさん、こんばんは。

>Leoさんもそんな思いだと思うよ。(勝手に推測w)

んー、確かに僕は別に学会が潰れればいいとか思ってなくて、学会員がもっとやわらかくなればぐらいに思ってます。
ただ相変わらずのことがあるとリセット、リセットって思いますけど。
あと、人をみて狂信じゃなければ妄信ぐらいはいいのかなーとか。

>話は変わって、実は半月くらい前より『ヴィパッサナー瞑想』ってのもやっていたのですけど、それもわめはヒマだから毎日長い時間ね。笑

ええー。そうなんですか。僕は学会の会館でヴィパッサナー瞑想の講習会やって貰えないかなとか(無理なんだけど)、
もっと年食ったら南方仏教で出家しようかなと一瞬妄想にひたることがあります(笑われるかな?)。

>と言うかわめはこの数年、ぼけ〜って生きてて毎日瞑想状態みたいな時間がかなり長かったようで、”瞑想行”って形式は要らないみたいです。(^^;;

唱題って、頭の中に思いがぐるぐる回ったりすっと消えたりして、意外と瞑想だった気がしませんか。
自然的瞑想というのもなんかよいですね。

>自分と周囲(ネットの関係含む)を、ああでもないこうでもないと考えないで四六時中しっかり観察することで同じような効果があるように感じてます。

観察ですかー。

143わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/25(金) 01:03:25
Leoさん、人が妄信・狂信に見えたらもしかしたらこっちがそうなんじゃないかって疑ってみるのも一興です。笑(実は冗談ではないですがw)

ほんとのことは結局分かんないから楽しく生きれたらよしってのもアリだと思いますよ。^^
・・・色々と覚悟はいりますけどもw

観察について自分に対しては、今自分が思っていることを知ること。なんで?って問いかけにそれはって答える自分がいますから、またなんで?って問いかけてというのを続けてみるのも新しい発見があるかもよ。(⌒∇⌒)

144Leo:2005/11/25(金) 07:45:26
わめさん、おはとうございます。

>Leoさん、人が妄信・狂信に見えたらもしかしたらこっちがそうなんじゃないかって疑ってみるのも一興です。笑(実は冗談ではないですがw)

ううむ。たとえば本幹に行って「創価学会万歳!」(今もやっているのか?)とか、人が仏敵を倒せ、邪宗撲滅と口走っていて、
それらは妄信・狂信じゃないかと思ったら、こっちがそうじゃないかと疑ってみるということなのですね(これはものすごく意味深だ)。
批判的合理主義、縁起の法の妄信・狂信者(僕限定)が批判的合理主義、縁起の法で自ら解体されることを望みますです。

というか、「創価学会万歳!」、「仏敵を倒せ」、「邪宗撲滅」が「妄信・狂信」と思っているという(ヒステリックな?)「妄信・狂信」が
存在するということなのかな。やはり色々考えてみるものですね。瞑想者(わめさん)の指摘は一味違うものがあります。

145Leo:2005/11/25(金) 07:46:52
>おはとうございます

造語しちゃったよ(新たな発見?)。おはようございます。

146わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/25(金) 10:00:38
Leoさん(*゜ー゜)vオハヨ♪

もう気が付いてられますけど、やっぱすごく妄想が入っていると思います。(^^;;

> というか、「創価学会万歳!」、「仏敵を倒せ」、「邪宗撲滅」が「妄信・狂信」と思っているという(ヒステリックな?)「妄信・狂信」が存在するということなのかな。やはり色々考えてみるものですね。

「創価学会万歳!」は今もやったりしてますが、一人ひとりの心の中はああまたやんのかよと形ばかりだったり、これでそろそろ終わりだなこの後どうしようとか、俺はやらんぞと立ってるだけの方とか、また”その場だけ”としてもやってる言ってるように本気で思っている方が果たして何人いるのか、参加していた当時を先入観をいれずに思い浮かべてみるのもいいかもしれませんよ。

> 瞑想者(わめさん)の指摘は一味違うものがあります。

瞑想とかじゃなくて、オシログラフが”死んだ状態”を指すみたいな(爆)そんな状態から反射的・自然にじゃなく、意識的に思考して”生きた状態”に移していくといった(分からないかもw汗)感じがいいかなって思います。^^

147Leo:2005/11/25(金) 22:58:11
>参加していた当時を先入観をいれずに思い浮かべてみるのもいいかもしれませんよ。

成果がでたり功徳を得たり?順調だった時は心から万歳していたかも(をい

>瞑想とかじゃなくて、オシログラフが”死んだ状態”を指すみたいな(爆)そんな状態から反射的・自然にじゃなく、

グラフが平坦だから機械的にああ止まっているあらダメだとあきらめるんじゃなく?

>意識的に思考して”生きた状態”に移していくといった(分からないかもw汗)感じがいいかなって思います。^^

んー、やはり「妙とは蘇生の義なり」(最近は誰も引用しないか)ですか(← んー、まだ妄想入ってるかも)。

148Leo:2005/11/25(金) 22:59:13
やっぱわめさんはヒューマンだな。

149わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/25(金) 23:16:24
Leoさん、こんばんは。^^

> >参加していた当時を先入観をいれずに思い浮かべてみるのもいいかもしれませんよ。
>
> 成果がでたり功徳を得たり?順調だった時は心から万歳していたかも(をい

あう、周囲のことじゃなく自分のことに置き換えちゃったのねw汗 その時代でも刷り込まれたことに縁してる時以外は、学会マンセーって学会スィッチは入らなかったでしょ?(^^;;

> グラフが平坦だから機械的にああ止まっているあらダメだとあきらめるんじゃなく?

いやそのw、平静というか平静な自分を見てるというか、そのような状態です。^^

> >意識的に思考して”生きた状態”に移していくといった(分からないかもw汗)感じがいいかなって思います。^^
>
> んー、やはり「妙とは蘇生の義なり」(最近は誰も引用しないか)ですか(← んー、まだ妄想入ってるかも)。

何かに縁すると体験・習慣・習性的にそれに対応した心とか出ようとするじゃない。それを観察してるとひねってみるというか試行錯誤してというか、今回はどの心を出していこうかと意識していけるということです。でも縁する直前からイライラしてたりするとよからぬ心を意識的に出しちゃう場合もあるので、直前までは平静でいる(観察状態)ことも大事じゃないかと。

150Libra:2005/11/26(土) 02:02:25
 こんばんは、みなさん。

 くまりんさんのところにコメントしたのですが、投稿に失敗したのか、すぐ
には反映されないのか、現時点で反映されていないので、念のためにこちらに
もコピペしておきます。

───────────────────────────────────
 くまりんさん、はじめまして。Leo さん、わめさん、こんばんは。

1.「よく言われる無我説」(くまりんさん)の中身について

 くまりんさんは、《ブッダの中心思想は「よく言われる無我説」ではない》
といわれているようですね。

 実際によく言われている無我説というのは、「常住的な実体の存在はこれを
認めない」[*1]とする説(以下、「無我説A」と略記します)だろうとおもい
ますが、くまりんさんがブッダの中心思想ではないと主張される無我説(以下、
「無我説B」と略記します)も無我説Aと内容的に同じでしょうか。

 わたしは、ブッダの中心思想は無我説Aであると考えます。というのも、わ
たしも、くまりんさんと同じく、ブッダの中心思想は縁起説であるとおもって
いるところ、わたしには、縁起説と無我説Aは同一の事態を別様に記述してい
る(両者の論理的な内容は同一である)としか思えないからです。

 ちなみに、松本先生の無我説も無我説Aだとおもいます[*2]。

2.「認識主体は「理性」である」という主張について

 くまりんさんは、袴谷先生や松本先生が「認識主体は「理性」である」と主
張しているといわれていますが、具体的にはどのようにいわれているのでしょ
うか。

3.認識の主体としてのアートマンを語る仏典の記述

 Leo さんがいわれている「認識の主体としてのアートマン」と完全に一致す
るかどうかはわかりませんが、曽我さんの解説[*3]が参考になるのではないで
しょうか。

 そもそも、「認識の主体などは無い」というような主張(以下、「無我説C」
と略記します)を、自らが支持する説として「無我説」と称している人などは
いないでしょう。このような主張が不合理であることはあまりにも明らかです
から。

 もし、「認識の主体などは無い」などという不合理な主張を「無我説」と称
することがあるとすれば、それは、自らが支持する説としてではなく、論敵が
支持している説として述べられる場合だけなのではないでしょうか。


  [*1] 原始仏教における生命観(高橋審也)
     http://freett.com/Libra0000/059.htm
     
  [*2] 学問と礼節、無我と慈悲、宗教的時間と日常的時間(松本史朗)、引用者註2
     http://page.freett.com/Libra0000/068.htm#2
     
  [*3] 安部さんより「自己を拠り所に」の自己とは?(曽我逸郎)
     http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha146.html
───────────────────────────────────

151わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/26(土) 02:48:43
Libra師匠、こんばんは。^^

>  くまりんさんのところにコメントしたのですが、投稿に失敗したのか、すぐ
> には反映されないのか、現時点で反映されていないので、念のためにこちらに
> もコピペしておきます。

 投稿のテキストにURLが含まれていると引っかかるようです。わめもそうでした。(^^;;
 でもくまりんさんがチェックしてくれて、今夜は無理かもしれませんが近いうちに反映されると思います。

 Libra師匠の質問に対して、くまりんさんがどのようにお答えくださるか、またくまりんさんが言っておられた『バラモン教に見られた輪廻説を形而上学的戯論として退けてしまう十二支縁起説と、輪廻的生存の根本要因である十二支縁起の無明とテーラワーダ仏教の言う「とてつもなく大きなエネルギーとしての心」の関係に話を進めたいと思います。』と予告をしてもらっていることのその内容と関係するのかわめも非常に関心があります。

『業と輪廻に纏う心 仏教の混乱とエポケー』
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=879

152Leo:2005/11/26(土) 09:36:26
Libraさん、おはようございます。

わめさんが言われているようにくまりんさんの予告も興味あります。
くまりんさんの「ブッダが偈を感興の言葉を述べられたという伝承は仏典中に認められますし」は
「ウダーナヴァルガ」(「感興のことば」、岩波文庫 訳あり)かとも一瞬思いましたが(確かに偈はある)、
別の仏典があるのかもしれません。

わめさん、おはようございます。

>何かに縁すると体験・習慣・習性的にそれに対応した心とか出ようとするじゃない。
>それを観察してるとひねってみるというか試行錯誤してというか、今回はどの心を出していこうかと意識していけるということです。
>でも縁する直前からイライラしてたりするとよからぬ心を意識的に出しちゃう場合もあるので、
>直前までは平静でいる(観察状態)ことも大事じゃないかと。

なるほど。不要な心の働き(たとえば観察を阻害する感情など)を止めたり観察したり「止観」ぽいことなのですね。

153Leo:2005/11/29(火) 00:53:09
わめさん、こんばんは。

スマナサーラ長老の巧みな行為。科学を結構方便として引用されているようです。
他にも興味深い話があります。
(別にテーラワーダ仏教の肩を持つのでもなんでなく興味深いと思っているだけです)
実際にやりなさいといわれると困ってしまいますが。
(特定の宗教団体の方でなくブッダに直接教わる方法(ブッダ直結)はないものでしょうか)

○「心の速度について」(2002.1月)
http://www.j-theravada.net/qa/qahp32.html
「心の波動は光の速度の17倍くらい速い」
「なぜこころは17回変化するかと言う問いにAbhidhamma説は物質の瞬間はこころの瞬間の17倍ということになっています。」
「17倍かないかは関係がないのです。「こころは早い」。「物質より早い」。
 こころを清らかにしようとする人に必要なのはこれだけです。」

○救うことが大事では?(2001.7月)
http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html
「「救う事」は非仏教的な行為です。」

○ヴィパッサナー冥想
http://www.j-theravada.net/pali/key-vipassana.html#2
「自己観察には 「sati (気づき)」という心のはたらきが欠かせません。」
「智慧や悟りについて我々が理解しようとしても、できることではないのです」
「実際の話、ただ素直に実践する人々は、とても早く心が成長します。
 徹底的に理屈で理解しようとする人々は、残念なことに、心が全く成長しないのです。」
「でも、もうひとつ、もっと簡単なことがあります。今の自分を見るのです。」
「ヴィパッサナーの狙いは「苦」そのものをなくすことです。」
「日常的な問題は置いておいて、すごく大きなスケールで、「苦」を根本からなくすことを目指す。」

154わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/29(火) 01:09:14
Leoさん、こんばんは。^^

 実際目の前でスマナサーラ長老って方のお話を聞けばどうかは分かりませんが、テキストを読むとわめの心が汚いからか傲慢に思えてきて仕方ないのです。(^^;;

 わかったつもりになることが、わめには一番怖いことのように思えてしまうのです。

155わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/29(火) 01:14:49
Libra師匠もおっしゃってましたが、やっぱ一番大切なものは善き友じゃないかな。
ブッダのおっちゃんも善き友じゃないですか?^^

156わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/29(火) 01:28:23
> (特定の宗教団体の方でなくブッダに直接教わる方法(ブッダ直結)はないものでしょうか)

それができたとして何になると言うのでしょうか?
ブッダが説くことは絶対に正しいのですか?もしそう思うのならブッダは悲しむように思います。
自身を含めLeoさんには善き友、善き仲間が沢山おられるし、それ以上を求めるのは贅沢すぎるのではないでしょうか?笑

157Leo:2005/11/29(火) 08:05:39
>それができたとして何になると言うのでしょうか?

ブッダの言葉は目からウロコが多いですが、弟子の人は色々アレンジしてしまっているようで、
直接聞きたいと思っただけなんです。現代では仏典から推測するしかないですが。

あと別の特定の宗教団体に走るのもないです。とにかく利害のある団体という縄張りが嫌いなんで。

それから別に盲目的崇拝を目指しているわけで全然ないんですが、ブッダは自分の思い至らぬところを示す師匠
であり自ら語られたように善き友なんじゃないかと。そして現代の善き友がいる。これだけで確かに
贅沢ですよね。

159わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/29(火) 11:59:41
Leoさん、(ノ゚Д゚)おはよう

> ブッダの言葉は目からウロコが多いですが、弟子の人は色々アレンジしてしまっているようで、直接聞きたいと思っただけなんです。現代では仏典から推測するしかないですが。

 わめが思うに直接ブッダから話が聞けても相手に応じて教えを説くと思いますし、またもし同じことを聞いたとしても人それぞれの捉え方になってアレンジされていくと思います。そうじゃなければ縁起でもないし、ブッダの言葉も虚妄になってしまいそうです。涙

 ブッダはこの世界の沢山のことをわかった(悟った?)方だと思いますが、そのわかったことに言葉はないことが多いと思うわけで、言葉に当てはめる作業自体に既にわかったことそのものではなくなっていくような気がします。またブッダが分かったことの中には、分からないことがあるということも分かったのだと思いますし、だからそこで止まることもなく「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、”この道のすべて”である」もそのようなことを指しているのかなって妄想してしまいました。

160マターリ:2005/11/29(火) 23:00:53
今、スッタニパータを読んでいるところです。この経典より古い仏教経典
はまだ見つかっていません。
この経典には、後世の仏典に見られるような煩瑣な教理は少しもありません。
わかりやすい言葉で、道徳・倫理を説いているようです。
無我というような言葉は出てきますが、縁起の法・空というような言葉は
見当たりませんでした。空という概念は、小乗経典にはなく、釈尊滅後、
4〜5百年経過してから、般若経で初めて説かれたと認識しています。

空という概念が創り出されて、初めて、救済宗教としての仏教の道が開けた
のだと思います。空という概念を創ったのは、修行僧のグループなのか、
在家のグループなのかは、意見が分かれているようです。

161わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/29(火) 23:56:25
>>160
マターリさん、こんばんは。^^

 無我や無常や空は、縁起の法のそのものの現れ方?なのじゃないかと思うのですが、スッタニパータで無我が出てくるということはそれは縁起であると思うのですが。

それと >>84 のリンク先などもお読みになられましたでしょうか?まだでしたら読んでいただいてのご意見もお聞きしたいです。

 またわめは読んでいないのですが読んだ方からのコメントとして岩波文庫の「ブッダのことば スッタニパータ」の「二種の観察」の項で、『諸々の真理がある――このような出だしから始まり、更にこれに続く話の中には、「縁起」であるとか「一切皆苦」などの話が読み取ることができる』とおっしゃっておりました。手許にこの本があるようでしたら該当箇所をご覧になってのご感想などもお聞きしたいです。

162Leo:2005/11/30(水) 06:28:11
わめさん、どうも。

>わめが思うに直接ブッダから話が聞けても相手に応じて教えを説くと思いますし、
>またもし同じことを聞いたとしても人それぞれの捉え方になってアレンジされていくと思います。
>そうじゃなければ縁起でもないし、ブッダの言葉も虚妄になってしまいそうです。涙

筒井氏の日蓮(大聖人)とソウカが出てくるショートSFじゃないけれどもし私がブッダに会って対機説法を
聞いたとしてあなたはブッダじゃないと言い出すかもしれません。そのように捉われ過ぎは滑稽なものです。

ですが一種の伝言ゲームのようなものとすると原点回帰は必要でしょう。

また現代においてブッダに会うということは生き続ける形のない釈尊に会うということであり、
法を見ない者は、ブッダを見ないということかもしれないですね。
これらは一見崇拝主義のように見えるしビミョーと思われると思いますが、
ブッダの教えに基ずかなければ仏教でないということで当然なのかもしれません。

○生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
http://freett.com/Libra0000/020.html

「ただ姿はなく、形はない。その肉身は消滅しても、教えは「法(ほう)(ダンマ、ダルマ)」として、
 ますます尊く、いよいよ高く、深い。」

○「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄) 
http://freett.com/Libra0000/085.htm

「比丘たちよ、かの比丘は法を見ず、法を見ざる者はわたしを見ないからである」
「比丘たちよ、かの比丘は法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである」

163Leo:2005/11/30(水) 06:37:00
お、「二種の観察」ですか。
その部分注目してなかったけど今ページをめくってみたらよいことが書いてある。
やはり私は法を見ざる者だったのかな。

164わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/30(水) 11:59:41
Leoさん、こんにちは。^^

>>162-163 いい感じに思いますので一個だけレス。

原点回帰という意味では、この世界がそれだと思うのですが・・・

165Leo:2005/11/30(水) 22:54:31
わめさん、おこんばんは。

>原点回帰という意味では、この世界がそれだと思うのですが・

はい、この世界すなわち現世。

でも、教えに気づかなければそのまんまLeo。
でも、心が現世でなくどっか逝ってしまってたらハイそれまでよ。

で、世法を深く識れば仏法。うーん、深い。

「天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云」(開目抄)

166マターリ:2005/11/30(水) 23:19:13
>わめさん、今晩は(σ´∀`)σ

スッタニパータによれば、「縁によって起こる」と、何度も書いてあります
ので、これが縁起の法、と言うのでしょうか?
しかし、「縁起の法」と漢字で書くと、その言葉自体が一人歩きするような
気がします。表意文字である漢字の特異性でしょうか。
「一切皆苦」という表現は、まだ見つけられません。

84のリンク先を拝見しましたが、難解で何を言おうとしているのか、よく
わかりません。筆者は、どういう立場の方なのでしょうか?
私は中村元さんの本「スッタニパータ」を読んでいますが、平易かつ、すっき
りした翻訳と解説で、すぐ理解できました。

168わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/01(木) 02:08:24
Leoさん、マターリさん、こんばんは。^^ うっかり夕飯後ねてしまい起きたらこの時間です。(^^;;

> で、世法を深く識れば仏法。うーん、深い。

そういや学会でも世法は仏法とよく言いますね。でもそのまんまで深くないじゃんw汗

マターリさん

> スッタニパータによれば、「縁によって起こる」と、何度も書いてありますので、これが縁起の法、と言うのでしょうか?

(ノ´▽`)ノオオオオッ♪ 「縁によって起こる」はまさに縁起ですね。

> しかし、「縁起の法」と漢字で書くと、その言葉自体が一人歩きするような気がします。表意文字である漢字の特異性でしょうか。

そうなんですよ。言葉って何かを表すのには便利なのですが、現象そのものを表しきれないし、人の捉え方にもよるわけだし、やっぱその言葉の指し示す現象そのものをみていかないといけないように思います。

> 「一切皆苦」という表現は、まだ見つけられません。

これが見つかると仏教は苦を抜く教えというのも納得しやすいかもしれませんね。^^
でもわめはだから(苦を抜く教え)仏教に心底馴染めない面も感じております。

> 84のリンク先を拝見しましたが、難解で何を言おうとしているのか、よくわかりません。筆者は、どういう立場の方なのでしょうか?

松本史朗で検索すると沢山引っ掛かりますが、立場と言うことまではよくわかりません。
ここで言われている方法は「スッタニパータ」などもブッダ滅後100〜数百年かけて成立していて、仏教以外の教えも混入してしまっているので、経典そのものから純粋にブッダの教えを抜き出すことは不可能に近く、それよりも思想的方法からブッダの教えを抜き出すほうがより正確であると言っているように思います。
わめはブッダの”中心思想を知る”意味においては思想的方法がいいように思います。

> 私は中村元さんの本「スッタニパータ」を読んでいますが、平易かつ、すっきりした翻訳と解説で、すぐ理解できました。

ブッダと同じ立場になることが仏教では理想のように思うのですが、教法を探る意味では最古層の仏典を読むことも有意義だと思います。

169Leo:2005/12/01(木) 23:33:36
>そういや学会でも世法は仏法とよく言いますね。でもそのまんまで深くないじゃんw汗

ちっとひねって「人生は勝負」でGoogle検索したら大川隆法氏が「常勝の法」だそうな。学会のパクリ?

それはともかく、世法を【深く】識るとは、「世間を縁起・空・無我と観る」ことではないかと思うのですが...

とはいえ、学会も世間の一部だから「仏法は勝負」と確信する学会も「縁起(学会は世間から孤立無縁に
存在しているのではない)・空(学会という不変の固定的実体はない(教義や指導も時代で微妙に変化する))・無我
(いくら執着しても達成できないことがある)」なのかもしれないと思ったりもします。
実に世間はうまくできております。

170Leo:2005/12/02(金) 01:19:57
わめさん、こんばんは。

くまりんさんとLibraさんの哲学や仏教理解の違いは面白いですね(共通する部分もあるのだけれども)。
くまりんさんは法華経否定派、Libraさんはどちらかというと肯定派。
また、くまりんさんは「犀の角のようにただ一人歩む」を、Libraさんは「われを善き友として」をよりどころとしてます。
くまりんさんは法華経を哲学的凡庸といいます、一方Libraさんは「あらゆる人々は哲学者である」を引用。

「仏教とは知性と分別で形而上学的構築物を脱構築して無常にも縁起する自らの危機的で孤独な時間を
 犀の角のようにただ一人歩む道を切り開くメシアなきメシアニズム」(くまりんさん)

「いくら多くの教団が所為の経典としているから、あるいは日本の仏教の中心的存在であるからといっても
 正当な仏教の相続の流れの中ではいささか異流であるしヒンドゥ的通俗さを大いに取り入れて仏教の世俗化に
 貢献した法華経は所詮それ以下でもそれ以上でもありません。」(くまりんさん)

「法華経は「空・縁起(因縁)」の思想を説いています」(Libraさん)

「われを善き友として」(増谷文雄)(http://page.freett.com/Libra0000/012.html)

「あらゆる人々は哲学者である」(カール・ポパー)(http://freett.com/Libra0000/113.html)
「すべての人は哲学者である。人は、たとえ哲学的な問題を抱えているとは意識していないときでも、
 やはり哲学的な先入見をもっている。そうした先入見の大部分は、人びとによって自明なものとして
 受け入れられている理論である。」

171わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/02(金) 23:19:17
Leoさんこんばんは〜^^

> 世法を【深く】識るとは、「世間を縁起・空・無我と観る」ことではないかと思うのですが

これでは単なる仏教的視点で終始しませんか?
宇宙が広がっていることや量子力学の世界はブッダも知らなかったわけですし同種の粒子(電子は電子と)に相違点がないことなどもですが、それも縁起の範疇と言えなくはないですが縁起に収めて楽観視しているようではいけないように思います。(^^;

> くまりんさんとLibraさんの哲学や仏教理解の違いは面白いですね

違いは非常に少ないと思います。
例えば法華経の中心思想に、一歩下がって法華経にも縁起(空)が説かれているのですから、くまりんさんも全否定じゃないように思います。

自灯明法灯明であると思いますし、自灯明か法灯明かどっちから先に読むかの違いだけかも・・・

172Leo:2005/12/03(土) 00:23:34
わめさん、こんばんは。

>これでは単なる仏教的視点で終始しませんか?
>宇宙が広がっていることや量子力学の世界はブッダも知らなかったわけですし同種の粒子(電子は電子と)に
>相違点がないことなどもですが、それも縁起の範疇と言えなくはないですが縁起に収めて楽観視
>しているようではいけないように思います。(^^;

素粒子まで分解すると違いがないというのは面白い視点と思います。
あと、縁起は楽観視を許さないのではないでしょうか無常(常に変化)ですし。

「ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。
 「永遠の越境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」です。「今の自分に固執して生きること」
 という儚(はかな)き夢から「常に目覚める者」がブッダなのです。」
(『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社)

科学でも分子が究極だと思ったら原子が、原子が究極と思ったら素粒子が、、
素粒子が究極と思ったらクオークが、といった具合に、
古典物理学が究極と思ったら、相対性理論や量子論がといった具合に、
テープレコーダ、CD、MD、MP3プレイヤーといった具合に、
そろばん、電卓、パソコン、インターネットといった具合に、無常がワクククするし楽しいんです。
(別にフツーのことなんですけど、ああすんばらしき世界)

それに無常を固定化(←?!)するとニヒルになってしまうというか。

ただ時には固定化の妄想を夢みるのも癒しになるかもしれないですけど。

173Leo:2005/12/03(土) 00:38:38
ただ時には固定化の妄想を夢みるのも癒しになるかもしれないですけど。

一般的に「究極の何々」というやつです。

しかし、たとえば究極のラーメン屋とか料理屋とかがあったとして、つねに精進してなければたちまち転落してしまう。
(とまた、縁起や無常に戻ってしまう)

というか、なんでもかんでも仏教に思えてしまうというのも固定化なんでしょうな。

174わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/03(土) 00:46:08
Leoさん、いたわ♪

> 縁起は楽観視を許さないのではないでしょうか無常(常に変化)ですし。

わめの言いたかったのは仏教的視点(縁起)で終始という意味での楽観視です。(^^;;
やっぱ世の中縁起だぁ〜って思うことはわめも多いですが(笑)、世の中すべて縁起なの?とか、縁起で世の中のすべての問題が片付くの?とか、こんな世の中(悪い意味でw)作ってるのは自身なんだって自覚と微々たる自身が何をなすべきかなどを置き去りにしちゃいけないんじゃないかと思うのです。

> というか、なんでもかんでも仏教に思えてしまうというのも固定化なんでしょうな。

と言ってたら再投稿がw笑
思ってしまうことも仕方ないとは思いますが、仏教とか縁起という枠組み・言葉・名称では他の思想(組織・国等)と対立してしまうのではないかと思います。

その枠組みを越えた自身、他者との関わりが大事なのではないかと思ったりしています。

175Leo:2005/12/03(土) 01:59:27
>思ってしまうことも仕方ないとは思いますが、仏教とか縁起という枠組み・言葉・名称では他の思想(組織・国等)と
>対立してしまうのではないかと思います。

むしろ対立するからよいのではないでしょうか。

フレームワークの神話(カール・ポパー)
http://freett.com/Libra0000/111.html

「討論というものは実り多ければ多いほど、討論の参加者が討論から学ぶことが多いといえると思う。
 つまり、投げかけられた問いがより興味深く、より困難であればあるほど、討論の参加者はより新しい
 解答を考案するように導かれ、みずからの意見がいっそう揺さぶられ、討論の後では物事を
 よりいっそう違ったふうに眺めることができるようになる。要するに、知的地平が拡大されるのである。」

「この牢獄はフレームワークである。牢獄を好まぬ人びとはフレームワークの神話に反対するであろう。
 こういう人びとは、別の世界から来た相手との討論を歓迎するであろう。
 というのは、この討論によって、みずからがいままで気づいていなかった鎖を発見し、
 それを断ち切り、みずからを超越する機会が与えられるからである。」

それにソクラテスのように国家や組織に付着したあぶのように国家や組織が眠ってしまわないようにするというのも重要と思います。

「だから、アテナイ人諸君、いまのこの弁明も、わたしがわたし自身のためにしているというようなものでは、
 とうていないのでして、むしろ諸君のためなのです。諸君がわたしを有罪処分にして、せっかく神から授けられた
 贈りものについて、あやまちを犯すことのないようにというためなのです。なぜなら、もし諸君がわたしを
 死刑にしてしまうならば、またほかにこういう人間を見つけることは、容易ではないでしょう。
 わたしは何のことはない、すこし滑稽な言い方になるけれども、神によってこの国都(ポリス)に、
 付着させられているものなのです。それはちょうど、ここに一匹の馬があるとして、それは素姓のよい、
 大きな馬なのですが、大きいために、かえって普通よりにぶいところがあって、目をさましているのには、
 何かあぶのようなものが必要だという、そういう場合に当るのです。つまり神は、わたしをちょうど
 そのあぶのようなものとして、この国都に付着させたのではないかと、わたしには思われるのです。
 つまりわたしは、あなたがたを目ざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついて行って、
 膝をまじえて、全日、説得したり、非難したりすることを、少しも止めないものなのです。
 だから、こういう人間を、もう一人さがすといっても、諸君よ、そう容易に諸君には得られないでしょう。
 もし諸君に、わたしの言う意味がわかるならば、諸君はわたしを大切にしておかなければならないことになるでしょう。
 しかし諸君は、多分、眠りかけているところを起こされる人たちのように、腹を立てて、アニュトスの言に従い、
 わたしを叩いて、軽々(けいけい)に殺してしまうでしょう。そしてそれからの一生を、眠りつづけることになるでしょう。
 もしも神が、諸君のことを心配して、誰かもう一人別の者を、諸君のところへ、もう一度つかわされるのでないならばです。」
(『ソクラテスの弁明』、『新装版・世界の大思想19プラトン』)

>その枠組みを越えた自身、他者との関わりが大事なのではないかと思ったりしています。

枠組みは妄想として、確かに自身、他者との関わりは大事ですね。

176わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/03(土) 02:06:06
う〜ん、対立することが決していいとは思えません・・・( ̄へ ̄|||) ウーム

討論・議論は大賛成ですけどね。☆^∇゜) ニパッ!!

177Leo:2005/12/03(土) 10:04:34
>う〜ん、対立することが決していいとは思えません・・・( ̄へ ̄|||) ウーム

そこらじゅうで対立があるような。

討論・議論によって対立を解消なり改善することもできるかと。

決して「やっつけ」られない(撲滅できない)のが人間存在。

179わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/03(土) 11:41:04
 Leoさん、こんにちは。^^

> そこらじゅうで対立があるような。
> 討論・議論によって対立を解消なり改善することもできるかと。

 もちろんそうでしょうけど実際問題として対立から討論・議論を実現することはかなり困難なように思いますし、みんなが完全な人間ではないのですから対立する側の意見より自らの主張に重きを置いてしまう可能性が高いように思います。
 時と場合によるとは思いますが、なるべく対立を避けよりよい方向に向かうための討論・議論のほうが実を結びやすいのではないでしょうか。

 ブッダも対立は避けていたように思いますし・・・

180Leo:2005/12/03(土) 12:34:02
わめさん、こんにちはです。

ちょっとまとまりがつかないのでこのようなことを言ってみます。

Leoです。Leoは対立は好かんとです。でも対立はあるとです。

討論・議論などによって止揚しようとしないとしょうがないとかもです。

たいりつ【対立】
「二つの反対の立場にあるものが並び立っていること。互いに相いれないものが向かい合っていること。対峙(たいじ)。」
(「大辞林 第二版」)

しよう【止揚】
「ヘーゲル弁証法の根本概念。あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。
 矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。揚棄。アウフヘーベン。」
(「大辞林 第二版」)

181わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/03(土) 16:33:14
Leoさん、焼肉うまかったとです。^^

> Leoは対立は好かんとです。でも対立はあるとです。

もちろん対立はありますね。
でも自他の対立なら、他者の意見を排斥せずいっそ飲み込んじゃって、新たな自己の意見を組み立てると言うのはどうでしょう?
これも止揚かもですね。^^

182Leo:2005/12/03(土) 18:47:48
わめさん、こんばんは。

>でも自他の対立なら、他者の意見を排斥せずいっそ飲み込んじゃって、新たな自己の意見を組み立てると言うのはどうでしょう?
>これも止揚かもですね。^^

そうですね。
初期仏教の仏典でも「真のバラモンとは云々である」とかいって、「バラモン教は邪教である」といわないんですね。
「新たな自己の意見を組み立てる」というのは止揚や脱構築なんですね。

脱構築【だつこうちく】
「フランスの哲学者デリダの用語。形而上学の仕組みを解体し,その可能性の要素を抽出して
 再構築を試みる哲学的思考の方法。デコンストラクション。」
(「大辞林 第二版」)

...「形而上学の仕組みを解体」というのがブッダとの共通性があるような。

それにまた討論・議論に勝ち負けは関係ないのだとか...

○論争における勝利にはなんの価値もない(カール・ポパー)
http://freett.com/Libra0000/110.html
「この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、われわれはそれを享受することを学べるのである。
 これはなにも改宗などを目的とはしていない。その期待しているところは慎ましやかなものである。
 われわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったとか、
 真理に少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分なのである。」

183Leo:2005/12/03(土) 18:55:27
>それにまた討論・議論に勝ち負けは関係ないのだとか...

勝ち負けは関係ないでなく、勝ち負けに価値がないですね。

184Leo:2005/12/03(土) 19:53:15
「人は思い込みにより事実を正確に捉えていないことがある。〜フレーミング理論より〜」

...だそうな。

ギロビッチ博士のプロフィール(大和証券グループCMより)
http://www.daiwatv.jp/group/cm/profile01.html
「「なぜ人間は、判断を間違えてしまい、あいまいな信念を形成し、
 合理的とは思えない行動を選択してしまうのか」といった事をテーマに研究しています。」

185Leo:2005/12/04(日) 00:01:50
細々とやっていきますが今日は目先をかえて日蓮(大聖人)と並ぶ鎌倉新仏教の開祖道元禅師について少し。

道元 (フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』)
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%83
「佛道をならふといふは 自己をならふ也 自己をならふといふは 自己をわするるなり
 自己をわするるといふは 萬法に證せらるるなり
 萬法に證せらるるといふは 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり - 一 現成公案」

曹洞宗と現代の哲学者ジャック・デリダとの対話が行われたとのことでこのような本もあります。

デリダから道元へ―「脱構築」と「身心脱落」 ちくま学芸文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480084991/250-2522063-7596246

脱構築(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E6%A7%8B%E7%AF%89
「ヨーロッパで伝統的だった階層的な二項対立の形而上学システムは、こうした脱構築によって済し崩しにされる。
 脱構築によってデリダは、二項対立によって回収されえない他者へのまなざしを呼び起こし、
 更なる哲学の活性化を目指そうとした。従ってデリダの真意は形而上学の転覆にあるのではなく、
 むしろ真の意味での形而上学の新たな可能性を開くところにあると見るべきである。」


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