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○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について

1わめ@管理人 ◆TJ9qoWuqvA:2005/06/17(金) 12:30:37
 生命とは生体の生存維持活動に必要不可欠な意識(自意識・自己「エゴ」)である。
この自意識は実在ではない。脳が創り出す生存維持に不可欠な要素である。
この意識はおそらく動植物にも備わっているものと推測する。
この意識の主体が死亡(脳死含む)することで消滅する。
自らの意識と他者の意識は互いに影響を与え合う。
 しかしこのことにより、影響(他者・他物「書物・メディア等」)を受け合う対象たる生物は、その影響の度合いに応じて自らの行動・言動に変化が現れる。そしてその行動・言動が連鎖的に他の生物に影響を与え、また影響を受けて行く。この意味において、一人の人間の死は、そのものが生存中に他の人間を含むあらゆる生物の意識に影響を与え、この影響の連鎖を、影響を与え合うすべての生物の死滅を除いて止めることはできない。また、その生物の生存中に残した遺物が、後の世の生物の意識にも影響を与えるものである。一人の人間の意識は、ある意味宇宙やすべてのものが消えてなくなるまで消滅することは無いのかもしれない。
 またこの意識は、生存中の様々な経験を、脳かあるいは何らかの器官を通じ、物質(生化学的)的に記録しているものとおもわれる。これは遺伝的要素として子孫にも影響を与えていくものである。
これらを総括して、
・1個の生物としての生命(自意識)の永遠性はない。
・1個の生物としての生命(自意識)は、他の生物に永遠に受け継がれていく。

私は現在、釈尊の説かれた縁起の法・空・無我を、このように理解している。

※読まれた方、ご意見(ご批判大歓迎)を頂けましたら幸いです。

146わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/25(金) 10:00:38
Leoさん(*゜ー゜)vオハヨ♪

もう気が付いてられますけど、やっぱすごく妄想が入っていると思います。(^^;;

> というか、「創価学会万歳!」、「仏敵を倒せ」、「邪宗撲滅」が「妄信・狂信」と思っているという(ヒステリックな?)「妄信・狂信」が存在するということなのかな。やはり色々考えてみるものですね。

「創価学会万歳!」は今もやったりしてますが、一人ひとりの心の中はああまたやんのかよと形ばかりだったり、これでそろそろ終わりだなこの後どうしようとか、俺はやらんぞと立ってるだけの方とか、また”その場だけ”としてもやってる言ってるように本気で思っている方が果たして何人いるのか、参加していた当時を先入観をいれずに思い浮かべてみるのもいいかもしれませんよ。

> 瞑想者(わめさん)の指摘は一味違うものがあります。

瞑想とかじゃなくて、オシログラフが”死んだ状態”を指すみたいな(爆)そんな状態から反射的・自然にじゃなく、意識的に思考して”生きた状態”に移していくといった(分からないかもw汗)感じがいいかなって思います。^^

147Leo:2005/11/25(金) 22:58:11
>参加していた当時を先入観をいれずに思い浮かべてみるのもいいかもしれませんよ。

成果がでたり功徳を得たり?順調だった時は心から万歳していたかも(をい

>瞑想とかじゃなくて、オシログラフが”死んだ状態”を指すみたいな(爆)そんな状態から反射的・自然にじゃなく、

グラフが平坦だから機械的にああ止まっているあらダメだとあきらめるんじゃなく?

>意識的に思考して”生きた状態”に移していくといった(分からないかもw汗)感じがいいかなって思います。^^

んー、やはり「妙とは蘇生の義なり」(最近は誰も引用しないか)ですか(← んー、まだ妄想入ってるかも)。

148Leo:2005/11/25(金) 22:59:13
やっぱわめさんはヒューマンだな。

149わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/25(金) 23:16:24
Leoさん、こんばんは。^^

> >参加していた当時を先入観をいれずに思い浮かべてみるのもいいかもしれませんよ。
>
> 成果がでたり功徳を得たり?順調だった時は心から万歳していたかも(をい

あう、周囲のことじゃなく自分のことに置き換えちゃったのねw汗 その時代でも刷り込まれたことに縁してる時以外は、学会マンセーって学会スィッチは入らなかったでしょ?(^^;;

> グラフが平坦だから機械的にああ止まっているあらダメだとあきらめるんじゃなく?

いやそのw、平静というか平静な自分を見てるというか、そのような状態です。^^

> >意識的に思考して”生きた状態”に移していくといった(分からないかもw汗)感じがいいかなって思います。^^
>
> んー、やはり「妙とは蘇生の義なり」(最近は誰も引用しないか)ですか(← んー、まだ妄想入ってるかも)。

何かに縁すると体験・習慣・習性的にそれに対応した心とか出ようとするじゃない。それを観察してるとひねってみるというか試行錯誤してというか、今回はどの心を出していこうかと意識していけるということです。でも縁する直前からイライラしてたりするとよからぬ心を意識的に出しちゃう場合もあるので、直前までは平静でいる(観察状態)ことも大事じゃないかと。

150Libra:2005/11/26(土) 02:02:25
 こんばんは、みなさん。

 くまりんさんのところにコメントしたのですが、投稿に失敗したのか、すぐ
には反映されないのか、現時点で反映されていないので、念のためにこちらに
もコピペしておきます。

───────────────────────────────────
 くまりんさん、はじめまして。Leo さん、わめさん、こんばんは。

1.「よく言われる無我説」(くまりんさん)の中身について

 くまりんさんは、《ブッダの中心思想は「よく言われる無我説」ではない》
といわれているようですね。

 実際によく言われている無我説というのは、「常住的な実体の存在はこれを
認めない」[*1]とする説(以下、「無我説A」と略記します)だろうとおもい
ますが、くまりんさんがブッダの中心思想ではないと主張される無我説(以下、
「無我説B」と略記します)も無我説Aと内容的に同じでしょうか。

 わたしは、ブッダの中心思想は無我説Aであると考えます。というのも、わ
たしも、くまりんさんと同じく、ブッダの中心思想は縁起説であるとおもって
いるところ、わたしには、縁起説と無我説Aは同一の事態を別様に記述してい
る(両者の論理的な内容は同一である)としか思えないからです。

 ちなみに、松本先生の無我説も無我説Aだとおもいます[*2]。

2.「認識主体は「理性」である」という主張について

 くまりんさんは、袴谷先生や松本先生が「認識主体は「理性」である」と主
張しているといわれていますが、具体的にはどのようにいわれているのでしょ
うか。

3.認識の主体としてのアートマンを語る仏典の記述

 Leo さんがいわれている「認識の主体としてのアートマン」と完全に一致す
るかどうかはわかりませんが、曽我さんの解説[*3]が参考になるのではないで
しょうか。

 そもそも、「認識の主体などは無い」というような主張(以下、「無我説C」
と略記します)を、自らが支持する説として「無我説」と称している人などは
いないでしょう。このような主張が不合理であることはあまりにも明らかです
から。

 もし、「認識の主体などは無い」などという不合理な主張を「無我説」と称
することがあるとすれば、それは、自らが支持する説としてではなく、論敵が
支持している説として述べられる場合だけなのではないでしょうか。


  [*1] 原始仏教における生命観(高橋審也)
     http://freett.com/Libra0000/059.htm
     
  [*2] 学問と礼節、無我と慈悲、宗教的時間と日常的時間(松本史朗)、引用者註2
     http://page.freett.com/Libra0000/068.htm#2
     
  [*3] 安部さんより「自己を拠り所に」の自己とは?(曽我逸郎)
     http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha146.html
───────────────────────────────────

151わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/26(土) 02:48:43
Libra師匠、こんばんは。^^

>  くまりんさんのところにコメントしたのですが、投稿に失敗したのか、すぐ
> には反映されないのか、現時点で反映されていないので、念のためにこちらに
> もコピペしておきます。

 投稿のテキストにURLが含まれていると引っかかるようです。わめもそうでした。(^^;;
 でもくまりんさんがチェックしてくれて、今夜は無理かもしれませんが近いうちに反映されると思います。

 Libra師匠の質問に対して、くまりんさんがどのようにお答えくださるか、またくまりんさんが言っておられた『バラモン教に見られた輪廻説を形而上学的戯論として退けてしまう十二支縁起説と、輪廻的生存の根本要因である十二支縁起の無明とテーラワーダ仏教の言う「とてつもなく大きなエネルギーとしての心」の関係に話を進めたいと思います。』と予告をしてもらっていることのその内容と関係するのかわめも非常に関心があります。

『業と輪廻に纏う心 仏教の混乱とエポケー』
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=879

152Leo:2005/11/26(土) 09:36:26
Libraさん、おはようございます。

わめさんが言われているようにくまりんさんの予告も興味あります。
くまりんさんの「ブッダが偈を感興の言葉を述べられたという伝承は仏典中に認められますし」は
「ウダーナヴァルガ」(「感興のことば」、岩波文庫 訳あり)かとも一瞬思いましたが(確かに偈はある)、
別の仏典があるのかもしれません。

わめさん、おはようございます。

>何かに縁すると体験・習慣・習性的にそれに対応した心とか出ようとするじゃない。
>それを観察してるとひねってみるというか試行錯誤してというか、今回はどの心を出していこうかと意識していけるということです。
>でも縁する直前からイライラしてたりするとよからぬ心を意識的に出しちゃう場合もあるので、
>直前までは平静でいる(観察状態)ことも大事じゃないかと。

なるほど。不要な心の働き(たとえば観察を阻害する感情など)を止めたり観察したり「止観」ぽいことなのですね。

153Leo:2005/11/29(火) 00:53:09
わめさん、こんばんは。

スマナサーラ長老の巧みな行為。科学を結構方便として引用されているようです。
他にも興味深い話があります。
(別にテーラワーダ仏教の肩を持つのでもなんでなく興味深いと思っているだけです)
実際にやりなさいといわれると困ってしまいますが。
(特定の宗教団体の方でなくブッダに直接教わる方法(ブッダ直結)はないものでしょうか)

○「心の速度について」(2002.1月)
http://www.j-theravada.net/qa/qahp32.html
「心の波動は光の速度の17倍くらい速い」
「なぜこころは17回変化するかと言う問いにAbhidhamma説は物質の瞬間はこころの瞬間の17倍ということになっています。」
「17倍かないかは関係がないのです。「こころは早い」。「物質より早い」。
 こころを清らかにしようとする人に必要なのはこれだけです。」

○救うことが大事では?(2001.7月)
http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html
「「救う事」は非仏教的な行為です。」

○ヴィパッサナー冥想
http://www.j-theravada.net/pali/key-vipassana.html#2
「自己観察には 「sati (気づき)」という心のはたらきが欠かせません。」
「智慧や悟りについて我々が理解しようとしても、できることではないのです」
「実際の話、ただ素直に実践する人々は、とても早く心が成長します。
 徹底的に理屈で理解しようとする人々は、残念なことに、心が全く成長しないのです。」
「でも、もうひとつ、もっと簡単なことがあります。今の自分を見るのです。」
「ヴィパッサナーの狙いは「苦」そのものをなくすことです。」
「日常的な問題は置いておいて、すごく大きなスケールで、「苦」を根本からなくすことを目指す。」

154わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/29(火) 01:09:14
Leoさん、こんばんは。^^

 実際目の前でスマナサーラ長老って方のお話を聞けばどうかは分かりませんが、テキストを読むとわめの心が汚いからか傲慢に思えてきて仕方ないのです。(^^;;

 わかったつもりになることが、わめには一番怖いことのように思えてしまうのです。

155わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/29(火) 01:14:49
Libra師匠もおっしゃってましたが、やっぱ一番大切なものは善き友じゃないかな。
ブッダのおっちゃんも善き友じゃないですか?^^

156わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/29(火) 01:28:23
> (特定の宗教団体の方でなくブッダに直接教わる方法(ブッダ直結)はないものでしょうか)

それができたとして何になると言うのでしょうか?
ブッダが説くことは絶対に正しいのですか?もしそう思うのならブッダは悲しむように思います。
自身を含めLeoさんには善き友、善き仲間が沢山おられるし、それ以上を求めるのは贅沢すぎるのではないでしょうか?笑

157Leo:2005/11/29(火) 08:05:39
>それができたとして何になると言うのでしょうか?

ブッダの言葉は目からウロコが多いですが、弟子の人は色々アレンジしてしまっているようで、
直接聞きたいと思っただけなんです。現代では仏典から推測するしかないですが。

あと別の特定の宗教団体に走るのもないです。とにかく利害のある団体という縄張りが嫌いなんで。

それから別に盲目的崇拝を目指しているわけで全然ないんですが、ブッダは自分の思い至らぬところを示す師匠
であり自ら語られたように善き友なんじゃないかと。そして現代の善き友がいる。これだけで確かに
贅沢ですよね。

159わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/29(火) 11:59:41
Leoさん、(ノ゚Д゚)おはよう

> ブッダの言葉は目からウロコが多いですが、弟子の人は色々アレンジしてしまっているようで、直接聞きたいと思っただけなんです。現代では仏典から推測するしかないですが。

 わめが思うに直接ブッダから話が聞けても相手に応じて教えを説くと思いますし、またもし同じことを聞いたとしても人それぞれの捉え方になってアレンジされていくと思います。そうじゃなければ縁起でもないし、ブッダの言葉も虚妄になってしまいそうです。涙

 ブッダはこの世界の沢山のことをわかった(悟った?)方だと思いますが、そのわかったことに言葉はないことが多いと思うわけで、言葉に当てはめる作業自体に既にわかったことそのものではなくなっていくような気がします。またブッダが分かったことの中には、分からないことがあるということも分かったのだと思いますし、だからそこで止まることもなく「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、”この道のすべて”である」もそのようなことを指しているのかなって妄想してしまいました。

160マターリ:2005/11/29(火) 23:00:53
今、スッタニパータを読んでいるところです。この経典より古い仏教経典
はまだ見つかっていません。
この経典には、後世の仏典に見られるような煩瑣な教理は少しもありません。
わかりやすい言葉で、道徳・倫理を説いているようです。
無我というような言葉は出てきますが、縁起の法・空というような言葉は
見当たりませんでした。空という概念は、小乗経典にはなく、釈尊滅後、
4〜5百年経過してから、般若経で初めて説かれたと認識しています。

空という概念が創り出されて、初めて、救済宗教としての仏教の道が開けた
のだと思います。空という概念を創ったのは、修行僧のグループなのか、
在家のグループなのかは、意見が分かれているようです。

161わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/29(火) 23:56:25
>>160
マターリさん、こんばんは。^^

 無我や無常や空は、縁起の法のそのものの現れ方?なのじゃないかと思うのですが、スッタニパータで無我が出てくるということはそれは縁起であると思うのですが。

それと >>84 のリンク先などもお読みになられましたでしょうか?まだでしたら読んでいただいてのご意見もお聞きしたいです。

 またわめは読んでいないのですが読んだ方からのコメントとして岩波文庫の「ブッダのことば スッタニパータ」の「二種の観察」の項で、『諸々の真理がある――このような出だしから始まり、更にこれに続く話の中には、「縁起」であるとか「一切皆苦」などの話が読み取ることができる』とおっしゃっておりました。手許にこの本があるようでしたら該当箇所をご覧になってのご感想などもお聞きしたいです。

162Leo:2005/11/30(水) 06:28:11
わめさん、どうも。

>わめが思うに直接ブッダから話が聞けても相手に応じて教えを説くと思いますし、
>またもし同じことを聞いたとしても人それぞれの捉え方になってアレンジされていくと思います。
>そうじゃなければ縁起でもないし、ブッダの言葉も虚妄になってしまいそうです。涙

筒井氏の日蓮(大聖人)とソウカが出てくるショートSFじゃないけれどもし私がブッダに会って対機説法を
聞いたとしてあなたはブッダじゃないと言い出すかもしれません。そのように捉われ過ぎは滑稽なものです。

ですが一種の伝言ゲームのようなものとすると原点回帰は必要でしょう。

また現代においてブッダに会うということは生き続ける形のない釈尊に会うということであり、
法を見ない者は、ブッダを見ないということかもしれないですね。
これらは一見崇拝主義のように見えるしビミョーと思われると思いますが、
ブッダの教えに基ずかなければ仏教でないということで当然なのかもしれません。

○生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
http://freett.com/Libra0000/020.html

「ただ姿はなく、形はない。その肉身は消滅しても、教えは「法(ほう)(ダンマ、ダルマ)」として、
 ますます尊く、いよいよ高く、深い。」

○「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄) 
http://freett.com/Libra0000/085.htm

「比丘たちよ、かの比丘は法を見ず、法を見ざる者はわたしを見ないからである」
「比丘たちよ、かの比丘は法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである」

163Leo:2005/11/30(水) 06:37:00
お、「二種の観察」ですか。
その部分注目してなかったけど今ページをめくってみたらよいことが書いてある。
やはり私は法を見ざる者だったのかな。

164わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/30(水) 11:59:41
Leoさん、こんにちは。^^

>>162-163 いい感じに思いますので一個だけレス。

原点回帰という意味では、この世界がそれだと思うのですが・・・

165Leo:2005/11/30(水) 22:54:31
わめさん、おこんばんは。

>原点回帰という意味では、この世界がそれだと思うのですが・

はい、この世界すなわち現世。

でも、教えに気づかなければそのまんまLeo。
でも、心が現世でなくどっか逝ってしまってたらハイそれまでよ。

で、世法を深く識れば仏法。うーん、深い。

「天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云」(開目抄)

166マターリ:2005/11/30(水) 23:19:13
>わめさん、今晩は(σ´∀`)σ

スッタニパータによれば、「縁によって起こる」と、何度も書いてあります
ので、これが縁起の法、と言うのでしょうか?
しかし、「縁起の法」と漢字で書くと、その言葉自体が一人歩きするような
気がします。表意文字である漢字の特異性でしょうか。
「一切皆苦」という表現は、まだ見つけられません。

84のリンク先を拝見しましたが、難解で何を言おうとしているのか、よく
わかりません。筆者は、どういう立場の方なのでしょうか?
私は中村元さんの本「スッタニパータ」を読んでいますが、平易かつ、すっき
りした翻訳と解説で、すぐ理解できました。

168わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/01(木) 02:08:24
Leoさん、マターリさん、こんばんは。^^ うっかり夕飯後ねてしまい起きたらこの時間です。(^^;;

> で、世法を深く識れば仏法。うーん、深い。

そういや学会でも世法は仏法とよく言いますね。でもそのまんまで深くないじゃんw汗

マターリさん

> スッタニパータによれば、「縁によって起こる」と、何度も書いてありますので、これが縁起の法、と言うのでしょうか?

(ノ´▽`)ノオオオオッ♪ 「縁によって起こる」はまさに縁起ですね。

> しかし、「縁起の法」と漢字で書くと、その言葉自体が一人歩きするような気がします。表意文字である漢字の特異性でしょうか。

そうなんですよ。言葉って何かを表すのには便利なのですが、現象そのものを表しきれないし、人の捉え方にもよるわけだし、やっぱその言葉の指し示す現象そのものをみていかないといけないように思います。

> 「一切皆苦」という表現は、まだ見つけられません。

これが見つかると仏教は苦を抜く教えというのも納得しやすいかもしれませんね。^^
でもわめはだから(苦を抜く教え)仏教に心底馴染めない面も感じております。

> 84のリンク先を拝見しましたが、難解で何を言おうとしているのか、よくわかりません。筆者は、どういう立場の方なのでしょうか?

松本史朗で検索すると沢山引っ掛かりますが、立場と言うことまではよくわかりません。
ここで言われている方法は「スッタニパータ」などもブッダ滅後100〜数百年かけて成立していて、仏教以外の教えも混入してしまっているので、経典そのものから純粋にブッダの教えを抜き出すことは不可能に近く、それよりも思想的方法からブッダの教えを抜き出すほうがより正確であると言っているように思います。
わめはブッダの”中心思想を知る”意味においては思想的方法がいいように思います。

> 私は中村元さんの本「スッタニパータ」を読んでいますが、平易かつ、すっきりした翻訳と解説で、すぐ理解できました。

ブッダと同じ立場になることが仏教では理想のように思うのですが、教法を探る意味では最古層の仏典を読むことも有意義だと思います。

169Leo:2005/12/01(木) 23:33:36
>そういや学会でも世法は仏法とよく言いますね。でもそのまんまで深くないじゃんw汗

ちっとひねって「人生は勝負」でGoogle検索したら大川隆法氏が「常勝の法」だそうな。学会のパクリ?

それはともかく、世法を【深く】識るとは、「世間を縁起・空・無我と観る」ことではないかと思うのですが...

とはいえ、学会も世間の一部だから「仏法は勝負」と確信する学会も「縁起(学会は世間から孤立無縁に
存在しているのではない)・空(学会という不変の固定的実体はない(教義や指導も時代で微妙に変化する))・無我
(いくら執着しても達成できないことがある)」なのかもしれないと思ったりもします。
実に世間はうまくできております。

170Leo:2005/12/02(金) 01:19:57
わめさん、こんばんは。

くまりんさんとLibraさんの哲学や仏教理解の違いは面白いですね(共通する部分もあるのだけれども)。
くまりんさんは法華経否定派、Libraさんはどちらかというと肯定派。
また、くまりんさんは「犀の角のようにただ一人歩む」を、Libraさんは「われを善き友として」をよりどころとしてます。
くまりんさんは法華経を哲学的凡庸といいます、一方Libraさんは「あらゆる人々は哲学者である」を引用。

「仏教とは知性と分別で形而上学的構築物を脱構築して無常にも縁起する自らの危機的で孤独な時間を
 犀の角のようにただ一人歩む道を切り開くメシアなきメシアニズム」(くまりんさん)

「いくら多くの教団が所為の経典としているから、あるいは日本の仏教の中心的存在であるからといっても
 正当な仏教の相続の流れの中ではいささか異流であるしヒンドゥ的通俗さを大いに取り入れて仏教の世俗化に
 貢献した法華経は所詮それ以下でもそれ以上でもありません。」(くまりんさん)

「法華経は「空・縁起(因縁)」の思想を説いています」(Libraさん)

「われを善き友として」(増谷文雄)(http://page.freett.com/Libra0000/012.html)

「あらゆる人々は哲学者である」(カール・ポパー)(http://freett.com/Libra0000/113.html)
「すべての人は哲学者である。人は、たとえ哲学的な問題を抱えているとは意識していないときでも、
 やはり哲学的な先入見をもっている。そうした先入見の大部分は、人びとによって自明なものとして
 受け入れられている理論である。」

171わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/02(金) 23:19:17
Leoさんこんばんは〜^^

> 世法を【深く】識るとは、「世間を縁起・空・無我と観る」ことではないかと思うのですが

これでは単なる仏教的視点で終始しませんか?
宇宙が広がっていることや量子力学の世界はブッダも知らなかったわけですし同種の粒子(電子は電子と)に相違点がないことなどもですが、それも縁起の範疇と言えなくはないですが縁起に収めて楽観視しているようではいけないように思います。(^^;

> くまりんさんとLibraさんの哲学や仏教理解の違いは面白いですね

違いは非常に少ないと思います。
例えば法華経の中心思想に、一歩下がって法華経にも縁起(空)が説かれているのですから、くまりんさんも全否定じゃないように思います。

自灯明法灯明であると思いますし、自灯明か法灯明かどっちから先に読むかの違いだけかも・・・

172Leo:2005/12/03(土) 00:23:34
わめさん、こんばんは。

>これでは単なる仏教的視点で終始しませんか?
>宇宙が広がっていることや量子力学の世界はブッダも知らなかったわけですし同種の粒子(電子は電子と)に
>相違点がないことなどもですが、それも縁起の範疇と言えなくはないですが縁起に収めて楽観視
>しているようではいけないように思います。(^^;

素粒子まで分解すると違いがないというのは面白い視点と思います。
あと、縁起は楽観視を許さないのではないでしょうか無常(常に変化)ですし。

「ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。
 「永遠の越境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」です。「今の自分に固執して生きること」
 という儚(はかな)き夢から「常に目覚める者」がブッダなのです。」
(『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社)

科学でも分子が究極だと思ったら原子が、原子が究極と思ったら素粒子が、、
素粒子が究極と思ったらクオークが、といった具合に、
古典物理学が究極と思ったら、相対性理論や量子論がといった具合に、
テープレコーダ、CD、MD、MP3プレイヤーといった具合に、
そろばん、電卓、パソコン、インターネットといった具合に、無常がワクククするし楽しいんです。
(別にフツーのことなんですけど、ああすんばらしき世界)

それに無常を固定化(←?!)するとニヒルになってしまうというか。

ただ時には固定化の妄想を夢みるのも癒しになるかもしれないですけど。

173Leo:2005/12/03(土) 00:38:38
ただ時には固定化の妄想を夢みるのも癒しになるかもしれないですけど。

一般的に「究極の何々」というやつです。

しかし、たとえば究極のラーメン屋とか料理屋とかがあったとして、つねに精進してなければたちまち転落してしまう。
(とまた、縁起や無常に戻ってしまう)

というか、なんでもかんでも仏教に思えてしまうというのも固定化なんでしょうな。

174わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/03(土) 00:46:08
Leoさん、いたわ♪

> 縁起は楽観視を許さないのではないでしょうか無常(常に変化)ですし。

わめの言いたかったのは仏教的視点(縁起)で終始という意味での楽観視です。(^^;;
やっぱ世の中縁起だぁ〜って思うことはわめも多いですが(笑)、世の中すべて縁起なの?とか、縁起で世の中のすべての問題が片付くの?とか、こんな世の中(悪い意味でw)作ってるのは自身なんだって自覚と微々たる自身が何をなすべきかなどを置き去りにしちゃいけないんじゃないかと思うのです。

> というか、なんでもかんでも仏教に思えてしまうというのも固定化なんでしょうな。

と言ってたら再投稿がw笑
思ってしまうことも仕方ないとは思いますが、仏教とか縁起という枠組み・言葉・名称では他の思想(組織・国等)と対立してしまうのではないかと思います。

その枠組みを越えた自身、他者との関わりが大事なのではないかと思ったりしています。

175Leo:2005/12/03(土) 01:59:27
>思ってしまうことも仕方ないとは思いますが、仏教とか縁起という枠組み・言葉・名称では他の思想(組織・国等)と
>対立してしまうのではないかと思います。

むしろ対立するからよいのではないでしょうか。

フレームワークの神話(カール・ポパー)
http://freett.com/Libra0000/111.html

「討論というものは実り多ければ多いほど、討論の参加者が討論から学ぶことが多いといえると思う。
 つまり、投げかけられた問いがより興味深く、より困難であればあるほど、討論の参加者はより新しい
 解答を考案するように導かれ、みずからの意見がいっそう揺さぶられ、討論の後では物事を
 よりいっそう違ったふうに眺めることができるようになる。要するに、知的地平が拡大されるのである。」

「この牢獄はフレームワークである。牢獄を好まぬ人びとはフレームワークの神話に反対するであろう。
 こういう人びとは、別の世界から来た相手との討論を歓迎するであろう。
 というのは、この討論によって、みずからがいままで気づいていなかった鎖を発見し、
 それを断ち切り、みずからを超越する機会が与えられるからである。」

それにソクラテスのように国家や組織に付着したあぶのように国家や組織が眠ってしまわないようにするというのも重要と思います。

「だから、アテナイ人諸君、いまのこの弁明も、わたしがわたし自身のためにしているというようなものでは、
 とうていないのでして、むしろ諸君のためなのです。諸君がわたしを有罪処分にして、せっかく神から授けられた
 贈りものについて、あやまちを犯すことのないようにというためなのです。なぜなら、もし諸君がわたしを
 死刑にしてしまうならば、またほかにこういう人間を見つけることは、容易ではないでしょう。
 わたしは何のことはない、すこし滑稽な言い方になるけれども、神によってこの国都(ポリス)に、
 付着させられているものなのです。それはちょうど、ここに一匹の馬があるとして、それは素姓のよい、
 大きな馬なのですが、大きいために、かえって普通よりにぶいところがあって、目をさましているのには、
 何かあぶのようなものが必要だという、そういう場合に当るのです。つまり神は、わたしをちょうど
 そのあぶのようなものとして、この国都に付着させたのではないかと、わたしには思われるのです。
 つまりわたしは、あなたがたを目ざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついて行って、
 膝をまじえて、全日、説得したり、非難したりすることを、少しも止めないものなのです。
 だから、こういう人間を、もう一人さがすといっても、諸君よ、そう容易に諸君には得られないでしょう。
 もし諸君に、わたしの言う意味がわかるならば、諸君はわたしを大切にしておかなければならないことになるでしょう。
 しかし諸君は、多分、眠りかけているところを起こされる人たちのように、腹を立てて、アニュトスの言に従い、
 わたしを叩いて、軽々(けいけい)に殺してしまうでしょう。そしてそれからの一生を、眠りつづけることになるでしょう。
 もしも神が、諸君のことを心配して、誰かもう一人別の者を、諸君のところへ、もう一度つかわされるのでないならばです。」
(『ソクラテスの弁明』、『新装版・世界の大思想19プラトン』)

>その枠組みを越えた自身、他者との関わりが大事なのではないかと思ったりしています。

枠組みは妄想として、確かに自身、他者との関わりは大事ですね。

176わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/03(土) 02:06:06
う〜ん、対立することが決していいとは思えません・・・( ̄へ ̄|||) ウーム

討論・議論は大賛成ですけどね。☆^∇゜) ニパッ!!

177Leo:2005/12/03(土) 10:04:34
>う〜ん、対立することが決していいとは思えません・・・( ̄へ ̄|||) ウーム

そこらじゅうで対立があるような。

討論・議論によって対立を解消なり改善することもできるかと。

決して「やっつけ」られない(撲滅できない)のが人間存在。

179わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/03(土) 11:41:04
 Leoさん、こんにちは。^^

> そこらじゅうで対立があるような。
> 討論・議論によって対立を解消なり改善することもできるかと。

 もちろんそうでしょうけど実際問題として対立から討論・議論を実現することはかなり困難なように思いますし、みんなが完全な人間ではないのですから対立する側の意見より自らの主張に重きを置いてしまう可能性が高いように思います。
 時と場合によるとは思いますが、なるべく対立を避けよりよい方向に向かうための討論・議論のほうが実を結びやすいのではないでしょうか。

 ブッダも対立は避けていたように思いますし・・・

180Leo:2005/12/03(土) 12:34:02
わめさん、こんにちはです。

ちょっとまとまりがつかないのでこのようなことを言ってみます。

Leoです。Leoは対立は好かんとです。でも対立はあるとです。

討論・議論などによって止揚しようとしないとしょうがないとかもです。

たいりつ【対立】
「二つの反対の立場にあるものが並び立っていること。互いに相いれないものが向かい合っていること。対峙(たいじ)。」
(「大辞林 第二版」)

しよう【止揚】
「ヘーゲル弁証法の根本概念。あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。
 矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。揚棄。アウフヘーベン。」
(「大辞林 第二版」)

181わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/03(土) 16:33:14
Leoさん、焼肉うまかったとです。^^

> Leoは対立は好かんとです。でも対立はあるとです。

もちろん対立はありますね。
でも自他の対立なら、他者の意見を排斥せずいっそ飲み込んじゃって、新たな自己の意見を組み立てると言うのはどうでしょう?
これも止揚かもですね。^^

182Leo:2005/12/03(土) 18:47:48
わめさん、こんばんは。

>でも自他の対立なら、他者の意見を排斥せずいっそ飲み込んじゃって、新たな自己の意見を組み立てると言うのはどうでしょう?
>これも止揚かもですね。^^

そうですね。
初期仏教の仏典でも「真のバラモンとは云々である」とかいって、「バラモン教は邪教である」といわないんですね。
「新たな自己の意見を組み立てる」というのは止揚や脱構築なんですね。

脱構築【だつこうちく】
「フランスの哲学者デリダの用語。形而上学の仕組みを解体し,その可能性の要素を抽出して
 再構築を試みる哲学的思考の方法。デコンストラクション。」
(「大辞林 第二版」)

...「形而上学の仕組みを解体」というのがブッダとの共通性があるような。

それにまた討論・議論に勝ち負けは関係ないのだとか...

○論争における勝利にはなんの価値もない(カール・ポパー)
http://freett.com/Libra0000/110.html
「この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、われわれはそれを享受することを学べるのである。
 これはなにも改宗などを目的とはしていない。その期待しているところは慎ましやかなものである。
 われわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったとか、
 真理に少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分なのである。」

183Leo:2005/12/03(土) 18:55:27
>それにまた討論・議論に勝ち負けは関係ないのだとか...

勝ち負けは関係ないでなく、勝ち負けに価値がないですね。

184Leo:2005/12/03(土) 19:53:15
「人は思い込みにより事実を正確に捉えていないことがある。〜フレーミング理論より〜」

...だそうな。

ギロビッチ博士のプロフィール(大和証券グループCMより)
http://www.daiwatv.jp/group/cm/profile01.html
「「なぜ人間は、判断を間違えてしまい、あいまいな信念を形成し、
 合理的とは思えない行動を選択してしまうのか」といった事をテーマに研究しています。」

185Leo:2005/12/04(日) 00:01:50
細々とやっていきますが今日は目先をかえて日蓮(大聖人)と並ぶ鎌倉新仏教の開祖道元禅師について少し。

道元 (フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』)
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%83
「佛道をならふといふは 自己をならふ也 自己をならふといふは 自己をわするるなり
 自己をわするるといふは 萬法に證せらるるなり
 萬法に證せらるるといふは 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり - 一 現成公案」

曹洞宗と現代の哲学者ジャック・デリダとの対話が行われたとのことでこのような本もあります。

デリダから道元へ―「脱構築」と「身心脱落」 ちくま学芸文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480084991/250-2522063-7596246

脱構築(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E6%A7%8B%E7%AF%89
「ヨーロッパで伝統的だった階層的な二項対立の形而上学システムは、こうした脱構築によって済し崩しにされる。
 脱構築によってデリダは、二項対立によって回収されえない他者へのまなざしを呼び起こし、
 更なる哲学の活性化を目指そうとした。従ってデリダの真意は形而上学の転覆にあるのではなく、
 むしろ真の意味での形而上学の新たな可能性を開くところにあると見るべきである。」

186わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/07(水) 01:38:44
Leoさん、くまりんさんには怒られそうだけど、テーラワーダ仏教を知れば知るほど情けなく感じてきます。

たかだか個人の意識レベルのことでああでもないこうでもないと、心のエネルギーがどうのこうの、個に向かう精神ってそんなに大事なのでしょうか?

そんなに自分が大事なのでしょうか。
そんなに自分を高めることが大事なのでしょうか。
何だが自分自分自分自分と、他に見るものはないのでしょうか。

自身を大事にできないものは他者も大事にできないなんてよく言いますけどホントにそうなの?

ホントは他者を大事にできない者は自分を大事にすることもできないような気がする。

そんなに自分が大事なら、ブッダも悟りを開いて自分一人で悦に浸っていたような・・・

ちょっと平常心じゃないわめのたわ言でした。

187わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/07(水) 01:53:36
Leoさん、更に続きます。

人は笑ったり泣いたり感動したり苦しんだりできる特典を持ってますけど、それも他者や環境と切り離しては味わうことができません。

笑ったり泣いたり感動したり苦しんだりできる特典を、自分の中からどれだけ探してみたって見つかりっこないような気がします。

それは自分と他者・環境との関係性の中から生まれるものでしょ?

その特典をわざわざ離れたい人なら他者や余計な環境との関係性を極力縁を切っていけばいいように思うし、その特典を離れたい人はこの社会には必要ないのじゃないかな?

188Leo:2005/12/07(水) 08:04:47
わめさん、おはようございます。

>そんなに自分が大事なのでしょうか。
>そんなに自分を高めることが大事なのでしょうか。
>何だが自分自分自分自分と、他に見るものはないのでしょうか。

本来自分への執着への否定(その最初として自己を観察)が仏教なんではないでしょうか。
わめさんの違和感というのはテーラワーダ仏教の正当化や権威主義なのかもしれないですね。

南方仏教では僧侶が無制限に尊敬を集めているといったこともあるでしょう。

私の仮説として初期の仏弟子のマハーカシャパやアーナンダがすでに権威主義者だったと思ってます。
それに対してひいき目かもしれませんがブッダは権威を否定していたように思うんです。

>その特典をわざわざ離れたい人なら他者や余計な環境との関係性を極力縁を切っていけばいいように思うし、
>その特典を離れたい人はこの社会には必要ないのじゃないかな?

「犀の角のように一人歩め」ということがそういうことなのかなとも思っています。

189くまりん:2005/12/07(水) 11:32:15
わめさん、Leoさん、おはようございます。
 べつに怒りなんかしません。僕は坊主ですけどテーラワーダの会員でも信者でもなく、テーラワーダ仏教をパーリ仏教をストレートに伝える僧伽として尊重しているということです。そして近代仏教学も学ばれて地道な活動をされるスマナサーラ長老に対しては礼拝しますというのが僕の態度であって別に信棒者ではありませんから。僕が学生時代から勉強してきたのは禅学と説一切有部なんです。だからといって説一切有部の思想が全て正しいとは思っていませんけど。

『ちょっと平常心じゃないわめのたわ言でした。』と但し書きが付いているとはいえなにかおイヤなことでもあったのでしょうか。それともご自分で他者に想いを馳せなければとお考えの時にテーラーワーダ仏教のモノイイが不愉快に感じられたのでしょうか。とりあえずこちらに書き込もうと書き出したらちょっと長くなったので自分のほうのエントリにしました。

********
- お幸せでありますように -

190わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/07(水) 15:51:11
Leoさん、くまりんさん、コメントありがとう御座いました。

それにくまりんさんにはエントリまでして頂きまして、わめの感情的なコメントなのでお恥ずかしいやらうれしいやら複雑な気持ち(笑)ではありますが、お気に止め下さり感謝しております。

今回のこの >>186-187 わめのコメントの事の発端?は、わめのブログの記事(*1)のコメント欄でのことなのですが、余りに記事から脱線してしまう内容と思えるテーラワーダ仏教についてのお話なので、近いうちに記事として書いてくまりんさんのブログにTBさせて頂きたいと思っております。

*1
『今、創価学会に思うこと 01』
http://wame.seesaa.net/article/10186449.html

191わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/08(木) 02:39:31
くまりんさん、こんばんは〜

記事は書いたのですが、それだけではくまりんさんが書いてくれたことのコメントにはならないように思いますので、TBもさせてもらおうとは思いますが、お返事はお返事として書けるまでお預けさせていただきます。m(_ _"m)ペコリ

192くまりん:2005/12/08(木) 03:33:14
わめさん、こんばんは。
 ご紹介いただいたエントリを拝見して自分のエントリがちょっと方向違い(^^;。だったと気づきました。
改めてわめさんのブログの方にコメントを付けさせていただきました。お返事の方はどうかお気になさらずに。

********
- お幸せでありますように -

193わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/08(木) 04:02:32
くまりんさん、ブログへのコメントありがとうございました。感涙

お言葉に甘えてそろそろ休ませていただきます。
明日の仕事が終わるまでお返事ができないと思いますがよろしくお願いいたします。<(_ _)>

194わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/08(木) 15:03:56
 Leoさん、くまりんさんがエントリーしてくださった記事ですが、よく読むとLeoさんが言った「テーラワーダ仏教の正当化や権威主義」についてのことと、「犀の角のように一人歩め」についてのくまりんさんからのお返事かもよ。^^

 わめも「テーラワーダ仏教の正当化や権威主義」の正当化ということは感じてましたのでこのとこではTBしてみようと思ってますが、Leoさんもコメントしましょ♪

 あとわめは縁起についての解釈がくまりんさんとは違い(わめは拡大解釈?w汗)ますので、その件をコメントしてみようと思います。

 ではでは。(^^)

195Leo:2005/12/08(木) 22:59:10
わめさん、くまりんさん こんばんは。

お知らせありがとうございます。
くまりんさんのところなのかな?わめさんのところかな?どっちも見てきます。

196わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/09(金) 00:42:14
Leoさん、(;´ρ`)イマオキタヨ

どっちかと言うとくまりんさんのところです。^^

197Leo:2005/12/09(金) 00:49:43
わめさん、おはようございます。

さっきくまりんさんのところに行って記事読みましたよ。
レスも書き込んできました。レスはリンクを含んでいたからすぐに反映されないようです。

198わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/09(金) 01:04:19
そうですか。^^ 早く反映されないかな。。('-'。)(。'-')。ワクワク

ブログでくまりんさんのテキスト貼ってくれてありがとう。^^

> 「人は縁起という真理を知り、無明と記号化された根本的生存欲への無知とその制御を知って
>  人は自己自身の我が身の無常に深く頷きまた人生の苦を我がこととして深く味合うことが出来るようになります。
>  そしてその時始めて人はまた他人の痛みを明確に我がことになぞらえて意識し、
>  自発的な他者に対する慈悲が現れると考えるのです。
>  理想は確かに「始めに大悲ありき」の他者との関係優先の思想でしょう。
>  しかし悲しいかな人間はそんなに良くは出来ていません。
>  だからこそ自分を戒め自己反省の時間の先頭に立って未来を選択し峻別することで他者に応えていくしかないんです。」

”他者との関係優先の思想でしょう。”まで、まったく同意なのですが、と言うかこのようなことをくまりんさんは言われていたのですね。すっごくうれしいです。

でも「しかし悲しいかな人間はそんなに良くは出来ていません。だからこそ自分を戒め自己反省の時間の先頭に立って未来を選択し峻別することで他者に応えていくしかないんです。」ってなっちゃうところが悲しいです。これはこれでいいこととは思うのですが、わめも別に人間は良く出来ているとは思わないのですが、そうではないと思うのです。あ、そうである人もいるかもしれませんが、でもそうであるんだと自戒の念を込めてこのようにおっしゃっているのかな・・・

199わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/09(金) 01:07:56
わめのためのエントリーだったのに気が付かなかった・・・涙

200わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/09(金) 01:15:34
あ、ちょっと違った。

わめへのエントリーは
「理想は確かに「始めに大悲ありき」の他者との関係優先の思想でしょう。しかし悲しいかな人間はそんなに良くは出来ていません。だからこそ自分を戒め自己反省の時間の先頭に立って未来を選択し峻別することで他者に応えていくしかないんです。」

これですね。これ以前に

「説一切有部の瞑想法を再現すると人は縁起という真理を知り、無明と記号化された根本的生存欲への無知とその制御を知って人は自己自身の我が身の無常に深く頷きまた人生の苦を我がこととして深く味合うことが出来るようになります。そしてその時始めて人はまた他人の痛みを明確に我がことになぞらえて意識し、自発的な他者に対する慈悲が現れると考えるのです。」がありました。

やっぱりくまりんさんはこっちを選択しているようですね。
この「縁起という真理」って何を指しているのでしょうね・・・
でも「説一切有部の瞑想法を再現すると」を除けば理解できるような気もしてきました。

201わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/09(金) 01:18:03
あれ? 同じかw汗 なんだかスレ汚ししちゃったよw涙

202わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/09(金) 01:24:28
 くまりんさんは更に「テーラワーダが『自分を大事にし、自分を高めることが大事』というのは僕が申し上げた理由によると思いますよ、多分。」とおっしゃってますが、”テーラワーダが『自分を大事にし、自分を高めることが大事』”これは悲しいかな危ない世界に陥ってしまいそうな危険な香りを感じてしまいます。
 思い込みの慈悲が生まれそうで怖いですw つまり心が洗脳された状態のような・・・

203わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/09(金) 03:05:54
Leoさん、もう寝たかw笑

この件、記事にしましたのでくまりんさんっちへTBしてみます。^^

204わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/09(金) 17:29:08
 記事にしてブログでアップしようかとも思ったのですが、主観モロ出し偏った思考ぽいコメントではやっぱ修正すべき点が多いと言うかだらけ(笑)のようで、ここで書いてLeoさんのご意見や、あわよくばくまりんさんやLibra師匠などから批判的御意見を頂戴できてお話にもならないとぽいするか、手を加えればそれなりに使えそうかなどの悪巧みでここに書いてみます。^^

 あっと、>>202 の「危ない世界に陥ってしまいそうな危険な香り」にも関係するコメントです。

 模範とすべき心を観察しそれがどのようなものかを表したのが教えであり、その教えからの何かしらの妥当な実践(修行)で模範とすべき心を得ようとの試みではないかと思うのですが、これは物質的に随分乱暴なたとえになりますが、理想的(かどうかも分かりませんが)な実際の建物を詳細・緻密に観察し建物の図面から建物を完成させることが”教え”であり、その建物の図面から建物を現代(自己の心)に復元しようとの試みが教えの実践(修行)で、それは何と言えばいいのか”素材が個々に違い”クローンを作るようにはいかないわけで、それを無理してコピー的に人工的な建造物、模造建物を建てたとしても何か異質と言うか歪(いびつ)さがあるように思います。本来の理想的な建物はそのような建物の図面から出来上がったものではなく、この世界のありのままをありのままにつぶさに観察して出来上がったものなのだ思うのです。ですのでこの世界のありのままをありのままにつぶさに観察して出来上がるものがそれぞれ個人差(建物の形状の差異)があっても、そのそれぞれが理想的な建物と言えるし、元々この世界がそのような”仕組み”になっているわけですからそれが自然じゃないかと思うのです。
 いちいち理想的な建物の図面と自己とを睨めっこして精巧・緻密にそっくりに組み上げていっても、素材が違うためここが違うとかここが足らないここが過剰だとかが出てきて修正を加えていかなければならず、それでもまだそれが素材の違いが原因だと分かることならいいのですが、あるどこか図面どおりじゃない建て方をしてしまった可能性もあって、素材の違いなのか組み立て方のミスなのか分からず、そこに理想的な建物と同じ形にしようとの恣意的な”無理”が働くのではないかと思います。ですのでそのようにして出来上がった建物は理想的な建物とは一見同じようには見えても、その中身は理想的な建物とは異なものとなってしまうのではないでしょうか。言わばTVでお馴染みの芸能人のそっくりさんみたいなものでしょうか。本物じゃないのです。
 ちなみにここで言う素材とは、人間個々の遺伝子の違いや資質や経験や育った環境などの個体差を指して書いてみました。

205わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 00:10:09
>>204 うーん自分で書いたものなのに自分でも理解に苦しむなw汗

それはいいけどLeoさんやわめって、何か宗教とか信仰をしているように何故か見られているような気がする・・・w

あ、Leoさんは何か宗教とか信仰をしてるの? 今頃聞いてどうすんだって?w笑

206Leo:2005/12/10(土) 00:40:18
わめさん、こんばんは。

>くまりんさんは更に「テーラワーダが『自分を大事にし、自分を高めることが大事』というのは僕が申し上げた理由によると思いますよ、
>多分。」とおっしゃってますが、”テーラワーダが『自分を大事にし、自分を高めることが大事』”これは悲しいかな危ない
>世界に陥ってしまいそうな危険な香りを感じてしまいます。
> 思い込みの慈悲が生まれそうで怖いですw つまり心が洗脳された状態のような・・・

やはりそういう危険性はあるのではないでしょうか。危険性を回避するとしたら、ブッダの言葉(仏典)、妥当な先達、
妥当な実践、適度な理論や議論や批判などの助けが必要ではないかと思います。
それに本来仏教は洗脳状態にはならないものだと思います。

>ですのでそのようにして出来上がった建物は理想的な建物とは一見同じようには見えても、その中身は理想的な建物とは異なものとなって
>しまうのではないでしょうか。言わばTVでお馴染みの芸能人のそっくりさんみたいなものでしょうか。本物じゃないのです。
>ちなみにここで言う素材とは、人間個々の遺伝子の違いや資質や経験や育った環境などの個体差を指して書いてみました。

たとえてみれば「自分を高める」なり「成仏」なりの設計図やそのネタがあったらなあと思って私はLibraさんやくまりんさんの話を伺ってます。

「自分を高める」であれば理想の人物を描いてそれにきっちりあてはめようとするのはやはり歪みが生じるのではないでしょうか。
誰もが「山本伸一」(山本伸一でなければブッダでも構いません)になれるものでもありません。

建物であれば「設計図」を何度も何度書き直したり、イラストや3Dパースをつくったり。
重要なのは「構造計算」(笑)をやったり模型をつくったり(検証)。
土地や建物の材料なども熟知しなければならない場合もあるでしょう。

一般に何事Plan(計画)→Do(実践)→See(検証・改善修正) のフィードバックを持ったやり方を行えば理想に近づくことができるのか
なあと思います。

伝統芸能などでも昔のままただ伝えるのでなく現代的アレンジがあるようですし、「教え」と「実践」のバランスがあるのですね。

「クローン」(分身)を思わせるような過去の指導・教義は思い出さないわけでもないですが、単なる「コピー」を作ったり増やしたりしても
何の価値もないように思います。

207Leo:2005/12/10(土) 00:46:09
わめさん

>それはいいけどLeoさんやわめって、何か宗教とか信仰をしているように何故か見られているような気がする・・・w

たとえ創価学会を信じるのをやめたり批判的に思っても、学会員という範囲になってしまうのでは
ないでしょうか。私はまだ退会してないですが、わめさんもまだですよね?

>あ、Leoさんは何か宗教とか信仰をしてるの? 今頃聞いてどうすんだって?w笑

私は日蓮(大聖人)とブッダに関心がありますが、信仰者としてはおはずかしいです。
今の宗旨は自由主義に近いです。

208Leo:2005/12/10(土) 00:50:03
ちなみに、

じゆうしゅぎ【自由主義】

「〔liberalism〕個人の価値や人格の尊厳性を重んじ、人間の自由な思想・活動を可能な限り保障しようとする立場。
 政治的には、市民的自由の擁護・拡大、経済的には自由放任主義の主張としてあらわれる。
 市民革命期、新興ブルジョアジーのイデオロギーとして登場。リベラリズム。」
(大辞林 第二版)

私は別にブルジョアジーじゃないんですが、それはおいといて、
「個人の価値や人格の尊厳性を重んじ、人間の自由な思想・活動を可能な限り保障」がよいですね。
型にはめる、はまるのは嫌じゃ。

209わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 00:57:26
Leoさんにはわめの滅茶苦茶なテキストもある程度理解できたのねw(⌒〜⌒)ニンマリ

 ちょっと補足させていただくと、例えばブッダは図面を見て悟りを開いたわけじゃないし(もしかして悟りを開いたも方便かもしれないけどw汗)、図面どおりにやったって素材が違うんだし同じ悟りは得られない(方便だったら大変だぁw)のだし、ブッダに憧れるんならブッダと同じようにしなくちゃいけないと思う。でもブッダにはなれませんけどもいいじゃんね。

 結局何かを信じちゃうとそこから体験主義に陥っちゃうのかしらん。涙

> 今の宗旨は自由主義に近いです。

わめはここだけがLeoさんと違うな。わめは暫定真理主義かもです。笑

> 「個人の価値や人格の尊厳性を重んじ、人間の自由な思想・活動を可能な限り保障」がよいですね。
> 型にはめる、はまるのは嫌じゃ。

わめも極端にそれよいです。爆

それに型にはめるは業界用語じゃw
絵は描かないでw はまるの(ノ≧ロ)ノ<嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌

211わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 01:07:09
> たとえてみれば「自分を高める」なり「成仏」なりの設計図やそのネタがあったらなあと思って私はLibraさんやくまりんさんの話を伺ってます。

そっそれは妄想・思い込みの始まりじゃないかの?w汗
でもくまりんさんは御僧侶(お坊さん?)なのに妄想・思い込みが極端に少ないと言うか、仏教話は多いのにあそこまで感じさせないのはわめ流に言えば暫定真理の仏さんですよ。^^

いっ、いかん”くまりん(さん)が見てた”だw
おふざけ話までエントリーしないでくださいね。m(。_。;))m ペコペコ…

212わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 01:14:19
> 私は日蓮(大聖人)とブッダに関心がありますが、

これもLeoさんとちょっと違うかも・・・
関係性の観点から(周囲に信奉者が多いから)は関心はあります。以下略

213Leo:2005/12/10(土) 01:22:26
>そっそれは妄想・思い込みの始まりじゃないかの?w汗

私は批判的合理主義や仏教で妄想・思い込みが払拭できると思っているのですがそういうのは妄想・思い込みの始まりなのでしょうか。
わめさんなんか深いです。究極的にはどんなところにも安住してはいけないのですね。

>でもくまりんさんは御僧侶(お坊さん?)なのに妄想・思い込みが極端に少ないと言うか、仏教話は多いのにあそこまで感じさせないのはわめ流に言えば暫定真理の仏さんですよ。^^

私もわめさんも思い込みが激しい宗派の僧侶を見た(僧侶だけでなく)と思いますが、僧侶は皆同じと思ってしまうのも
妄想・思い込みかもしれないですね。

日蓮(大聖人)自身も僧侶だし、「相田みつを」も曹洞宗の僧侶の指導を受けたことがあるのだそうです。
創価学会は僧侶を否定する風潮があると思いますが、僧侶は研鑽者や研究者、教師・指導者としてすぐれた方がいらっしゃいますね。
(これも妄想・思い込みだろうか常に自問自答...)

214わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 01:38:56
わめなんかも超思い込み派なのに、Leoさんに指摘するなんて大変失礼をばしてしまいましたw汗

ブログで最近(特に12/2分から)は結構正直に書いてしまっていますが、わめは関係性に身を置くという思い込みをやっているようです。涙

隠してきました(ばれたたかw)が関係性という暫定真理教に実は1年半以上も前からハマりこんでいるのです・・・

あ、会費はただです。^^

215Leo:2005/12/10(土) 01:50:08
>わめなんかも超思い込み派なのに、Leoさんに指摘するなんて大変失礼をばしてしまいましたw汗

いえいえ、お互い指摘したり批判したりしないと自分だけではわからないことがありますので、
そういうキッカケは重要です。私もはっとしましたよ。天の声と思いました正直。

>ブログで最近(特に12/2分から)は結構正直に書いてしまっていますが、わめは関係性に身を置くという思い込みをやっているようです。涙
>隠してきました(ばれたたかw)が関係性という暫定真理教に実は1年半以上も前からハマりこんでいるのです・・・
>あ、会費はただです。^^

「関係性に身を置く」は悪いことでないように思います。なんでも否定しなくていいと思いますよ。
(それとも照れ隠しかな?)

216わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 01:51:05
Leoさん、思い込みは新たな思い込みで解消していくのかもしれませんね。^^

その繰り返しを一杯して、当たり前が思い込みになったらいいのかもしれないなんてね。(*゜▽゜*)

どう? いい感じ?(⌒▽⌒)アハハ!

217Leo:2005/12/10(土) 09:32:30
わめさん、おはようございます。

>僧侶は研鑽者や研究者、教師・指導者としてすぐれた方がいらっしゃいますね。

くまりんさんもその中のお一人かもしれないです。

>Leoさん、思い込みは新たな思い込みで解消していくのかもしれませんね。^^

たとえば臨済禅師はちょっと物騒な表現で「思い込みを捨てよ」ということを説いたとのことですね。

『殺仏』(ほとけをころす)
http://dojuji.ktroad.ne.jp/ippitu43.html

>その繰り返しを一杯して、当たり前が思い込みになったらいいのかもしれないなんてね。(*゜▽゜*)

『ムトゥ 踊るマハラジャ』というインド映画でムトゥという主人公の父上が聖者なんですが、
聖者はごくごく当たり前のことを言っているだけというのが興味深かったです。
(この映画はドタバタ娯楽映画なのですが...)

218わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 10:24:44
Leoさん(ノ゚Д゚)おはよう

> たとえば臨済禅師はちょっと物騒な表現で「思い込みを捨てよ」ということを説いたとのことですね。

面白いですね。coco師匠もみれいしゃんもこのこと書いてくれてたです。^^
でもやっぱり「思い込みを捨てよ」と言う思い込みは残っちゃうんじゃないかな・・・

思い込みはなくならないんじゃないかと。まったく無くなっちゃうのは困ったことになりそうだし。

 話は変わるけど、元々人間も動物も本能的に、あるいは生存していく中での体験的智慧で、あるいはその両方で関係性の重要性を意識の深〜いところで当たり前に分かっていて、だからコミュニケーション手段も生まれ宗教も生まれその他諸々のものも生まれてきたんじゃないかと。というかこれら全部コミュニケーションが関わっていると思うのだけど、ところが当たり前のように分かっていた関係性の重要性が当たり前であったがため、またその手段であるコミュニケーション手段という道具が、関係性の重要性を考えなくても生活を快適にしてくれた。で、人はいつのまにか関係性の重要性を忘れてコミュニケーション手段が関係性の重要性を人の心から排斥していったんじゃないかと思うのだけど。
 だから手段が目的に勝っちゃっている状態の人が多くなったってことじゃないのかな。Leoさんもいい手段を探しているようにも見えなくもない・・・w汗

219わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 11:14:24
Leoさん、くまりんさんがいいこと書いてる!
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=887

 人は関係性から生まれ(わめ的には変化)、ずっと関係性の中で依存しあいながら生きてるけど、種の保存欲・根本的生存欲ってのがやっぱあって、それをうまくコントロールできない(無明だからかコントロール法を知らないからか)から色々な問題も生まれる。

 ブッダを合理的な人としたい願望も分かるな。わめも合理的なのが好きだからブッダに憧れている時はその口だったかもw汗
 十二支縁起がよく分からないので真理かどうか、と言うか暫定が付かない真理なんて思い浮かばないけど、涅槃は真理ではなく体験で、ブッダは方法論を説いたと言うことかな。
 業・輪廻も、捉え方にもよるけど現実にはない(うん 無いよね?)のにブッダがあると言ってるという言明はおかしいと考えるからややこしいけど、ブッダがあると言ってもそれは涅槃に達するための方法論としてなら何にも問題はないんじゃないかな。
 それに涅槃を目指す人にこそ業・輪廻は必要で、涅槃を目指さない人にも関係ないじゃん。と考えると目指す目的のためには思い込みも必要になってくるんじゃないかな。

 でもますますブッダへの好感が薄れていくわめがいる。(´・ω・`)ショボーン

 うぅ仕事があるからしっかり思考できないw 夜には手が空きそうだからもっと色々考えてみよう。♪

220わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/10(土) 12:36:40
メモ

ちょっとショックだわんw
人格・性格を業(カルマ)とするなら脳が壊れていくことにより人格・性格まで変質(壊れる)していくというアルツハイマー病患者の事実と整合性がとれないねw
http://freett.com/Libra0000/z006.html

221わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 02:26:57
Leoさん、こんばんは。^^ もう寝てるって?w笑

 何かを前提(業報と輪廻転生)にしなければ真理と言えない真理って、真理ではなくよくて暫定真理の可能性を残せますが、その前提(業報と輪廻転生)も客観的事実じゃなければ、暫定真理かもしれなかったものも暫定真理とも言えなくなりそうですね。
 前世があると言う客観的事実も見えてこないし、結局これらは客観的事実とも暫定真理ともまして真理とも言えないということかな。
 でも個人の思考の中で何をどう思おうと自由であるとは思いますし、これがブッダの主要な教えで事実としての言明なら色々思うこともありますけどもそれがブッダなのでしょうね。
 Libra師匠なら色々反論もあるかもしれませんが、わめはそんなのどうでもいいかも。^^

 心の呪縛(思い込みか?)から解放されていくのは気持ちいいわ♪

 あ、そうそう、>>218 で書いた「元々人間も動物も本能的に」ってくまりんさんのおっしゃる種の保存欲・根本的生存欲なのかもって考えてます。そこからと体験的に関係性の重要性を学んで(無意識含む)いくのが本来あるべき姿なんじゃないかと思ったりします。あとは >>218 の見解は今のところ変わってないですけど。^^

222Leo:2005/12/11(日) 02:48:34
わめさん、こんばんは。

そろそろ寝るところでした(^^; その前に、 

最近「涅槃」がわからなくなってきたので、くまりんさんのところで質問してみました。
もしかするとわめさん的には「涅槃」はどうでもよいかもしれませんが、私的には何かあるんじゃないかと
思っています。

(たとえがわけわかめですが...)
ブラックホールが体験できなくてもブラックホールの存在が推測されるような...

>心の呪縛(思い込みか?)から解放されていくのは気持ちいいわ♪

私自身への反省もあるですが、物事に凝り固まらないってことでしょうね(^^;

ではまたです。

223わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 02:55:49
おお、Leoさん起きてた。^^

> もしかするとわめさん的には「涅槃」はどうでもよいかもしれませんが、私的には何かあるんじゃないかと思っています。

わめにはどうでもいいですが、涅槃は大いに何かあるでしょう。
わめもそのように認識してます。
ただ2500年くらいも経っているのに社会・世界に与えた影響は?と考えるとどうでもいいかなって思っちゃっているんです。
でも趣味だったら個人の好みがあるし、それが涅槃となったらその醍醐味は想像を絶するのじゃないかとは思いますよ。^^

> ブラックホールが体験できなくてもブラックホールの存在が推測されるような...

いや、心で体験できたとしても存在としては無いということなのではないでしょうか。
もちろん存在としては無いことが無意味だ何ってまったく思っていませんが。

224Libra:2005/12/11(日) 07:34:27
 みなさん、おはようございます。

 多くの方に「そんなのどうでもいい」(わめさん)と思われるであろうこと
をちょこっと書いてみます。

 わたしがブッダの思想だとおもっているところの思想(以下、「思想A」と
略記)をわたしが支持するのは、思想Aがすぐれているようにわたしにはおも
えるからです。思想は、《それが誰によって主張されたか》とは切り離して評
価されるべきです。尊敬する顕正居士さんのご発言をお借りすると、「思想の
評価をその方の身分によって行なうなら、これもトンデモ」[*1]だとおもいま
す。

 思想Aを言い出したのはシャカだろうとわたしはいまのところ思っているわ
けですが、これは、いってみれば歴史の問題です。もし、思想Aを言い出した
のは実は龍樹であった(すなわち、シャカはまだ思想Aには到達していなかっ
た)ということになれば、わたしはなんの躊躇も無く龍樹を選ぶでしょう。そ
ういう意味では、わたしにとって歴史の問題はさほど重要な問題ではありませ
ん。

 次に強調しておきたいのは、わたしは、初期仏典は思想的に矛盾していると
思っているということです。つまり、初期仏典には輪廻転生を肯定する思想と
無我説の両方が含まれており、両者は論理的には両立しないというのがわたし
の理解です[*2]。ややこしくなりそうなので、わたしが理解し支持している無
我説を、以下では「無我説A」ということにします。

 「論理的には両立しない」と書きましたが、わたしは、論理に西洋も東洋も
ないとおもっています。西洋では論理的に両立しない言明が、東洋では両立す
ることになるなどということはありえないだろうとおもいます。もしそのよう
なことがあるとすれば、西洋と東洋との間では相互批判は成立しないというこ
とになるのではないでしょうか。ちなみに、わたしは、「批判とは、あくまで
も言明間の論理的関係の指摘である」[*3]とおもっています。

 「初期仏典には思想的な矛盾などはない」と理解されている人も多くおられ
るようです。このような方がいわれる無我説(以下、「無我説B」と略記)と
無我説Aとは内容的には全く異質のものということになるでしょう(もっとも、
わたしには無我説Bは全く理解不可能であり、矛盾しているとしかおもえない
のでそのように想像するにすぎないわけですが)。もしシャカが無我説Aでは
なく無我説Bを説いた人であるならば、たとえ世界中の人たちがシャカを尊敬
するといっても、わたしはシャカを尊敬しないでしょう。意味不明なことをい
う人を尊敬する趣味はわたしにはありませんので。

225Libra:2005/12/11(日) 07:35:02
 輪廻転生を肯定しない思想は倫理的に破産するというような考えにもわたし
は賛成しません。ポパーは「生命には終わりがあるからといって、これを価値
のないものと考える人もいる。彼らは、終わりがなかったら生命には価値がな
かっただろうという正反対の議論も同様に擁護できることを見過ごしている。
彼らは、人生の価値を理解するのを助けてくれるのは、一部には、生命を失う
という絶えまなく現存する危機であることを見過ごしているのである」[*4]と
いいますが、わたしはこのような倫理観に賛成します。「生命現象の根底にい
かなる生命原理を想定しない仏教においては、その生命現象自体も絶えず変動
にさらされ、崩壊の危機にさらされている。実はこの点に原始仏教において生
命倫理の成立する根拠があるのではないかと思われる」[*5]という高橋先生の
仏教理解も支持します。

 輪廻転生と無我説についての曽我さんと佐藤さんの議論[*6]を拝見しました。
佐藤さんは、曽我さんのお考えを「珍説」であり、「検証不能でまともに相手
にしようがない(何とでも言える)」とコメントされており、くまりんさんの
「このかたはどうしてブッダを自分の思うあるべき仏教に引き入れるんだろう?」
とのコメントも同様の趣旨だろうとわたしは理解しました。おそらく、わたし
の考えに対しても同じような評価が下されることだろうとおもいます。これは
さきにのべた歴史の問題に対するスタンスの違いということになろうかとおも
います。

 わたしにとって歴史の問題はさほど重要ではありませんので、まともに相手
して頂かなくても全然かまわないのですが、思想の問題として、論理的に両立
しない思想を両方とも肯定してしまうというのは大問題だとおもいます。そん
なことをすれば、批判が成立する基盤を自ら放棄することになり、まさに「何
とでも言える」ということになるのではないかとおもいます。

 また年末年始にお邪魔させていただこうとおもっています。


  [*1] 《日蓮本仏論》再考
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog005.html

  [*2] 輪廻説は仏教ではない(Libra)
     http://page.freett.com/Libra0000/z006.html

  [*3] 批判とは言明間の論理的関係の指摘である(小河原誠)
     http://page.freett.com/Libra0000/124.html

  [*4] あらゆる人々は哲学者である(カール・ポパー)
     http://page.freett.com/Libra0000/113.html

  [*5] 原始仏教における生命観(高橋審也)
     http://page.freett.com/Libra0000/059.htm

  [*6] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha251.html

226Leo:2005/12/11(日) 11:41:46
Libraさん、おはようございます。

>もし、思想Aを言い出した
>のは実は龍樹であった(すなわち、シャカはまだ思想Aには到達していなかっ
>た)ということになれば、わたしはなんの躊躇も無く龍樹を選ぶでしょう。

顕正居士さんが大乗仏教は龍樹教という意味のことを仰っておられましたが
そういう意味なのかもしれないと思いました。

>もしシャカが無我説Aでは
>なく無我説Bを説いた人であるならば、たとえ世界中の人たちがシャカを尊敬
>するといっても、わたしはシャカを尊敬しないでしょう。意味不明なことをい
>う人を尊敬する趣味はわたしにはありませんので。

釈迦が意味不明なことをいう人であったならば、初期仏教の不妄語の戒律に反しますね。
だから「釈迦が意味不明なことをいう人であったはずがない」という擬似推論でなく、
思想内容で判断すると。ううむ。

> わたしにとって歴史の問題はさほど重要ではありませんので、まともに相手
>して頂かなくても全然かまわないのですが、思想の問題として、論理的に両立
>しない思想を両方とも肯定してしまうというのは大問題だとおもいます。そん
>なことをすれば、批判が成立する基盤を自ら放棄することになり、まさに「何
>とでも言える」ということになるのではないかとおもいます。

そのご指摘はものすごく気になります。少なくとも私にとっては「どうでもよいこと」
ではないです。

227わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 12:19:35
Libra師匠、Leoさん、こんにちは。^^

今から昼食に出かけますので一言だけ。

くまりんさんの記事(どの記事か調べなくてごめんなさいw)で、輪廻転生を肯定の思想と無我(非我)説と”論理的に両立しない思想”ではないと詳しく書かれていたと思いますが、くまりんさんのテキストは難解なのでわめの勘違いでしたらごめんなさい。

228Libra:2005/12/11(日) 15:20:11
 Leo さん、こんにちは。

 顕正居士さんとわたしとでは意見が異なっている部分もかなり多いです。わ
たしがおかしなことを書いたせいで、顕正居士さんのお考えまでが誤解されて
しまうことをわたしはおそれます。公の場で顕正居士さんのお考えについて述
べられる場合には、直接、顕正居士さんのご発言を参照されることを希望しま
す。

 わたしは、顕正居士さんの以下のようなお考えに賛成です。

  「釈尊の大悟の内容が縁起であったことに異論はないこととおもいます。
   それが十二支の程式か、彼あれば此あり彼無ければ此無し、かには議論
   があります。」[*1]

  「龍樹の空性の説(人法無我の説)は釈尊の縁起説の認識論的発展であり、
   縁起の論と実相の論は対立しないという理解は近代仏教学の成果であり
   ます。」[*2]

 以前、顕正居士さんが、われわれの立場を想定して『理想版・創価学会会則
前文』というものを考えて下さいましたね。わたしはこの『理想版・創価学会
会則前文』に大賛成です。

  「釈尊がお説きになった無我の教えは、聖龍樹の空性の教えに発達し、法
   華経は万人平等(一乗)の精神を唱えた。聖龍樹の空性の教えと、法華
   経の万人平等(一乗)の精神とは不分離であることを、羅什三蔵は中国
   に伝え、智者大師が両箇の教えをよく合揉した後、日本において発達し
   た法華思想を、日蓮は世界に宣布せよと述べた。わたしたちは日蓮のこ
   の訓えを信じるがゆえに、空性の教義と一乗の精神とを世界に伝えたい
   とおもう。」(『理想版・創価学会会則前文』[*3])


  [*1] 素朴な疑問コーナー
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog002.html

  [*2] 素朴な疑問コーナー
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog002.html

  [*3] 仏教とは何か
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog001.html

229Libra:2005/12/11(日) 15:58:43
 わめさん、こんにちは。

 くまりんさんのテキストは、わたしにとっても難解なので、以下に述べるこ
とはわたしの勘違いかもしれません。勘違いでしたらごめんなさい。

 わたしが「論理的には両立しない」というのは、どこにいっても(西洋だろ
うが東洋だろうが)「論理的には両立しない」という意味です。

 くまりんさんは、《西洋論理学的には両立しないが、インド論理学的には両
立する》といわれているように見えます。

 >>224 に書きましたように、わたしは、論理に西洋も東洋もないとおもって
います。西洋では論理的に両立しない言明が、東洋では両立することになるな
どということはありえないだろうとおもいます。

 くまりんさんは「即今此処自己の自己反省の実践は未来を選択することその
ものになるよというのがやっぱりインド論理学なんです」ともいわれています
が、わたしはこのご発言を理解できません。わたしは、論理学というものを
《命題間の論理的関係や推論の妥当性についての学問》であり《命題の内容に
ついては何も語らないもの》であると認識しているからです。

 もちろん、「自己反省の実践」を重視する思想にはわたしも賛成ですが、そ
れはインド論理学の枠内においてのみ主張されうるとはおもいません。また、
「自己反省の実践」と同じくらい「他者による批判」[*]を重視したいとかんが
えています。

  [*] ポパーの倫理思想(小河原誠)
    http://page.freett.com/Libra0000/083.htm

230わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 16:21:02
ヽ(^0^)た(^。^)だ(^-^)い(^O^)ノま

>>229

 Libra師匠、くまりんさんは確かにそのようなこともおっしゃっておられました。でもそれはそれとして、仏教を無我ではなく非我の捉え方として輪廻転生と言うか輪廻だけかもしれませんが、整合性が取れる(東洋・西洋論理関係なく)ともおっしゃっていたように思いますが、わめの読解力では誤解読の可能性もあります。涙

231Leo:2005/12/11(日) 17:51:55
Libraさん、こんにちは。

>公の場で顕正居士さんのお考えについて述べられる場合には、直接、顕正居士さんのご発言を参照されることを希望します。

了解です(汗

> 以前、顕正居士さんが、われわれの立場を想定して『理想版・創価学会会則
>前文』というものを考えて下さいましたね。わたしはこの『理想版・創価学会
>会則前文』に大賛成です。

そのようなご発言がありましたね。しかも私のホームページに記録があるわけで(大汗
確かに『理想版・創価学会会則前文』は希望の持てるものですね。

他のホームページで 顕正居士さんのこのようなご発言があったのも思い出しました。

顕正居士さん発言集より
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/8451/taiwa/kensyou.html(リンク切れ)
http://page.freett.com/leo020503/bbslog001.html(引用)
「>顕正さんはどんな立場(宗派?)の方なんですか?
 大乗仏教です。根本教理は「人法二無我」です。霊魂とか物自体は存在しないと云う立場です。」

「龍樹−月称−宗喀巴と継承する中観帰謬論証派が最高の理解であると考えます。
 ローカル(日本仏教的)には日蓮主義です。何故かと云うと浄土教は絶対者、密教は有我、
 禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。中で日蓮は実践的には唯色論的だからです。」

「縁起(釈尊)や空性(龍樹)の説は霊魂や物自体の否定で唯心論ではないが大勢はそういう
 方向が盛んになった。日蓮的唯色論も自然科学、社会科学的発想を促すのでなく、呪物崇拝、
 呪文信仰に転落して来た。唯心論と迷信を払拭したあとに残る大乗思想、法華思想は
 十分現代でも信仰に価すると云う立場かな。」

232Leo:2005/12/11(日) 17:55:18
わめさん、こんにちは

ちなみに顕正居士さんのホームページは、

顕正居士網站連線
http://www.geocities.jp/xianzhengjp/
最近掲示板はメンテされていないようですし、項目が中国語で書かれているので
ちょっとわかりにくいです。

站長介紹
http://www.geocities.jp/xianzhengjp/zhanzhang.html
宗教近代合理主義
宗旨急進自由主義

だそうです。発言内容的に私の気になっている方の一人です。

233わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 21:16:04
Libra師匠、Leoさん、こんばんは〜

>>134 が参考になるかも。^^
「時間の先頭に立って未来を選択し峻別しゆく認識主体」はある。
そしてそれは変化していくから無常でもある。
これを我とするなら自我はあると言うことになるのかな?
でも認識主体からみたら自分は非我ですね。^^

でも輪廻転送とは結びつかないかw汗


> ちなみに顕正居士さんのホームページは、

Leoさん、かな〜り以前から読んでますよ。^^
でも「時間の逆流する世界 」に興味がいっちゃいましたがw(^^;;

234わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/11(日) 21:17:26
> でも輪廻転送とは結びつかないかw汗

どこに転送するんだwヽ(・∀・;)ノ アヒャッ! 輪廻転生

235Leo:2005/12/11(日) 23:54:05
>どこに転送するんだwヽ(・∀・;)ノ アヒャッ!

それはエンタープライズ号にでしょう(^^;

236くまりん:2005/12/12(月) 01:07:44
Libra さん。わめさん、Leo さん、こんばんは。
 今晩は仏教者にあるまじき酒浸りでサンスカーラびんびんで外しているかも知れません。それを踏まえたうえで、すいません。酔った勢いで行きます。

歴史観のスタンスの違いは Libra さん のご指摘される通りだと思います。
 しかし Libra さん。歴史を無視してしまえば法華経は単なる有部文書をつなぎにつなげたただのパクリでしょ。そこへ非大乗系涅槃経以来のブッダと友に共存する共通の dhaatu で生存しようと思う理念はブッダ在世中からであることは明らかでありその dhaatu は基体であるばかりでなく遺骨をも意味することはなにも松本先生の思想的発見でもなんでももなくてすでに有部の文書に出てきちゃうんですから。その前提と弟子達の想いが無ければ法華経は作られることもなかったでしょう。ブッダと出会い自分の人生そのものをコペルニクス的に転換しえた人々が、自らの感動を託すことはあっても歴史的な正しいブッダを伝承しようなどという学問的な意志でなしに口伝で伝承してきたものが初期仏典であったことを忘れてはなりません。仏教はそうした歴史無しにナーガルジュナも天台大師も日蓮さんもないんです。

 僕にとってはこの世で一番大好きな人であり、また世間の人々からも慕われ敬われた祖父に創価学会の人が邪教の幹部だからと言って石を投げつけ祖父が重体になって救急車で運ばれたこと。それにも関わらず祖父は同じ法華経を授持する人々である、法華経授持者の仲間内のことは世俗の世話になるわけには行かぬと刑事立件を予定した警察に取り下げるように申し出たこと。祖父の寺で寺男をされていたMさんと仰った大工さんが脳溢血で寺の造作仕事をされているときに倒れてなくなられたとき、寺の境内の中にあったMさんのご自宅にお参りに行った父や叔父をご自宅を占拠した学会の人たちが入れてくれなかったこと、そして集まった香典を学会の人たちが持ち去ってしまって明日の生活の途方にも暮れてしまったMさんの未亡人や、幼いころ学会の言い方で言えば邪教のお寺の境内で泥まみれになって一緒に遊んだMさんの息子のK君とその日以来遊ぶことが出来ないばかりかその行方さえ分からないこと。そして祖父の後を継ぐべく東大の印哲を進んだ父の兄、祖父の一番下の息子である僕の叔父が大学に進学しようとする僕におまえ今の身延の考え方では創価学会員は哲学的にもかなうものではない。お前は日蓮宗の坊主などにならずに仏教学へ進め!と。

 自意識が出てから大人になるまで僕の敵は創価学会だったのです。いつか創価学会を知性で叩きのめしてやろう(その時点では煩悩だらけ - 爆 -)と叔父のアドバイスに従い仏教学を選択し、祖父の親友でもあった朝比奈宗源老師のところへおもむき、臨済宗で出家した僕は、もちろんその後御利益の為にお題目をあげて良い人生を送ろう、清らかな人生をおくろうとする創価学会の方々と接して、人は組織ばかりでなくやはり個人なんだと思うこともあって理性が身に付くとともに創価学会への個人的敵憎しみは消えては行きました、しかし袴谷先生の導きによって Libra さん、あなたのサイトを知り読ませていただいとき程、嬉しく打たれたことはありません。数十年の時間を超えて祖父の「同じ法華経を授持する人々である」という「ことば」がたった今のことのように蘇り、涙が止まりませんでした。ブッダは2500年という時間を超えて今も僕たちと共存しているのではないかと。
 
 いまお話したことは別に感情的に恩を売ろうとかそんな染汚にまみれたサンスカーラの為すワザではありません。 Libra さんの考える現代科学にも矛盾しない理性的な論理にかなった仏教も、たとえ業報輪廻を否定したとしても仏教のうちに成立すると考えるし僕は尊重します。僕はそういう方々を難解な言葉を用いて論破しようなどとは微塵も思っていません。しかしちょっと考えていただきたいんです。ポパーの哲学に従えば、科学はとは経験から優れた仮説的な法則を導き出す学問であるから、死んだらどうなるかという、経験を超えた領域の問題について、反証を試みるどころではなく発言することがあり得ないのです。したがって、科学的な死生観という概念は成立する議論すら為される筈がありません。にもかかわらず多くの人々は、輪廻説は非科学的な迷信だというんです。しかしポパーの論理に従えば輪廻説は科学的か否かという基準で死生観を論ずることなど、まさに迷信にほかななりません。仏教は苦しみや悩みにあえぐ人々が自覚的に安心を得る教えです。繰り返しになりますがそれはブッダと出会いその「ことば」によって人生そのものをコペルニクス的に転換しえた人々が語りつづけることによって発展してきた思想であって、他者に対しては真理の候補であるということを忘れてはならないと思います。

238わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/12(月) 02:45:03
 くまりんさん、コメントありがとう。^^

 ブッダもくまりんさんのような思いで教えを説いていったのかもしれませんね。
 わめもその”思い”を同じにする者の端くれに加えて頂けるならにどんなにか嬉しいことでしょう。

 ただ悲しいかな思いを同じにすると勝手に思うわめとしては、同調できないとの思いが多々あります。
 これは現在のわめからは、くまりんさん以上にLibra師匠に、そしてLeoさんにも感じていることです。(ごめん)

 仏教が苦しみや悩みにあえぐ多くの人々にとって救いとなっている(きた)のは事実でしょう。それは大いに認めます。
 でも広い意味での仏教として、それがため苦しんでいる人々も多くいると思うのです。
 悲しいことですがそれは最近までよく知らなかった初期仏教とて例外ではないように思えてきました。

 わめはアホだからそれを説明するにはかなり多くの時間が必要だと思いますが、現実重視のわめのたわ言だと思って頂いても構いません。
 ただただ”思い”として端くれに加えて頂きたいとの思いを込めて、失礼とは思いながらもわけわかめなことを書かせて頂きました。m(_ _"m)ペコリ

239Libra:2005/12/13(火) 00:49:49
 くまりんさん、わめさん、Leo さん、こんばんは。

 くまりんさん、貴重なお話をありがとうございました。他のことに集中する
ため、年末までここへの書き込みはひかえようとおもっていましたが、このよ
うなお話を読ませて頂きながら返事をしないというのは失礼だと思い、返事を
書かせて頂きます(おじいさまのように法華経の行者として生き抜くことがこ
のわたしにもできるとはおもいませんが、そのように生きたいと望むことだけ
は許されると信じて)。

1.歴史を無視するのではなく批判する

 わたしは歴史を無視しようとおもっているわけではありません。>>224 に書
きましたように、わたしは、初期仏典には輪廻転生を肯定する思想と無我説が
含まれていると認識しています。初期仏典は初期の仏教理解を伝えているとも
認識しています。ただ、わたしは、その初期の仏教理解の全体をシャカの思想
とイコールだとは見ないということです。曽我さんのお言葉をお借りすれば、
「<経典には、釈尊の教えそのままが書かれている>とナイーブに信じられる
ほど、事は簡単ではない」[*1]とわたしもおもうということです。これがわた
しの歴史の問題に対するスタンスです。

 わたしは、初期経典に含まれている無我説こそがシャカの思想とイコールだ
とおもっています。この無我説がなければ、龍樹もチギも日蓮もないとおもい
ます(>>228)。そして、この無我説は縁起説とイコールだとおもっています。
一方、輪廻転生を肯定する思想はシャカの思想とイコールとはおもいません。

 わたしは、初期の仏教理解(歴史)の一部を肯定的に評価し、一部を否定的
に評価するということです。このような態度をとったとしても、歴史を無視す
ることにはならないとわたしはおもいます。歴史を批判することにはなるとお
もいますが。

  [*1] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha251.html

240Libra:2005/12/13(火) 00:51:31
2.法華経の評価について

 たしかに法華経は初期経典とか律蔵を素材にして作られていますから、形式
に注目して「パクリ」ということは可能だとおもいます。もっとも、わたしな
ら「批判的継承」といいたいところです。しかし、それは法華経の中身につい
ての思想的な評価の問題です。

 わたしは法華経の中心思想を支持しますが、法華経のすべてを支持するわけ
ではありません[*2]。くまりんさんは否定的に評価されているようです[*3]。

 わたしはまだくまりんさんの法華経評価をじっくりと読んだことがありませ
んので、くまりんさんの評価とわたしの評価がどのような関係にあるのかはわ
かりません。ただ、くまりんさんの「ブッダは2500年という時間を超えて今も
僕たちと共存しているのではないか」という表現からは、みかけほどの違いは
ないのではないかと推測します。

  [*2] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120491109/nt50-56

  [*3] 法華経 - その哲学的凡庸さとご都合主義
     http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20050921#p1

241Libra:2005/12/13(火) 00:53:09
3.ポパーの哲学に従えば、死生観を論ずることは可能
 
 くまりんさんは、「ポパーの哲学に従えば、〔中略〕死んだらどうなるかと
いう、経験を超えた領域の問題について、〔中略〕発言することがあり得ない」
といわれていますが、くまりんさんのこのポパー理解には反対です。

 小河原先生は、「ポパーは、大部分の宗教的言明を科学でないものに分類す
るとはいえ、宗教的あるいは形而上学的レベルでの討論の可能性を否定してい
ない。つまり、ポパー的立場に立つかぎり、宗教の内部に立ち入って宗教批判
をおこなうことが可能なのである」[*4]といわれていますが、わたしは小河原
先生のポパー理解を支持します[*5]。

  [*4] 小河原誠『ポパー─批判的合理主義』(講談社、1997年)の70-71
     ページ。

  [*5] 「わけわかめのために・付録2〜3」
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_001.html

242Libra:2005/12/13(火) 00:54:40
4.真実が明らかにされるに至る手段になれれば幸い

 以上に述べたわたしの考えは、これまで、わたしなりに納得がいくまで考え
てきて、今はそのように考えているということを述べたものにすぎません。ど
なたかに同調してほしいともおもいません。どなたかに同調されたところで、
わたしの考えが正しいということには全くなりませんので。

 わたしは、どなたかがわたしの考えの誤りをわたしに気づかせてくれたとき
には、そのかたのご意見を感謝の念をもって受け入れたいとおもいます。

 最後に、ポパーの本によって知ることができたアルブレヒト・デューラーと
いう人の言葉[*6]を引用させて頂いておわりにしたいとおもいます。

 「しかし、わたしよりも有能な者が真実を推察し、その仕事の中でわたしの
  間違いを証明して、論破できるようにするために、わたしが学んだ僅かば
  かりのものを世に出そうと思います。ここにおいて、自分がその真実の明
  らかにされるに至る手段になったということに、わたしは喜びを感じます。」


  [*6] カール・R・ポパー『確定性の世界』(田島裕訳、信山社、1998年)
     の 88 ページから孫引き。

243わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/12/13(火) 01:14:01
Libra師匠、こんばんは。^^

>  わたしは、どなたかがわたしの考えの誤りをわたしに気づかせてくれたとき
> には、そのかたのご意見を感謝の念をもって受け入れたいとおもいます。

さすが師匠です。^^ この点は人それぞれバラバラが大好きわめも激しく同意です。

わめが師匠から未だに推察することができないのは、師匠は何が目的なのかです。
もちろん答えていただけなくてもいいのですが、師匠のご期待にもしかしたらわめも多少はお応えできるかもしれないと微かな期待をもつわめです。^^

244Libra:2005/12/13(火) 01:53:07
 わめさん、こんばんは。もう落ちますが少しだけ。

> 人それぞれバラバラが大好きわめも激しく同意です。

 「人それぞれバラバラ」だから相互批判が実り多いものになりうるのではな
いでしょうか[*1]。「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、こ
の道のすべてである」[*2]というのはそういう意味も含んでいるとわたしはお
もいます。

 わたしは「相対主義ではなくて、多元主義」[*3]が大好きです。

> 師匠は何が目的なのか

 わめさんがわたしにどのような答えを期待されているのか全く想像がつきま
せんが、とりあえずは、創価学会員に創価学会の原点(牧口の理念[*4])をお
もいだしてもらいたいです。そして、会員それぞれが自分の頭をつかって過去
を振りかえったり、反省すべき点についておたがいに討論したりして、その結
果をそれぞれが明確に言葉にするようになればいいなとおもいます。

 では、今日のところはこのへんで。


  [*1] フレームワークの神話(カール・ポパー)
     http://page.freett.com/Libra0000/111.html

  [*2] 「われを善き友として」(増谷文雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/012.html

  [*3] 相対主義批判(小河原誠)
     http://page.freett.com/Libra0000/039.htm

  [*4] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
     http://freett.com/Libra0000/024.htm

245Leo:2005/12/13(火) 01:57:03
わめさん、くまりんさん、Libraさん こんばんは。

今日はコメントできないくらい色々な感慨で一杯です。

かろうじてこのようなことを考えたのですが、
わめさん、皆さん どうでしょうか、もしよろしければLibraさんがご多忙で閉じたLibraさんの掲示板
(NOTHING TO YOU BBS)の内容のいくつかあるいは多くを引き継ぐというのは。

NOTHING TO YOU BBSの記録
http://page.freett.com/leo020503/bbslog.html

この掲示板の目的と使用上のルール(管理人Libraさん)
http://page.freett.com/leo020503/bbslog000.html


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