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ストーム・オーヴァー・ジャパン改

5サラ:2007/02/04(日) 20:21:11
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その5

 第2次世界大戦の勝者は誰か?
 単純に考えれば、それはソヴィエト連邦と言えた。1945年8月15日に戦略爆撃と機雷封鎖で英国を無条件降伏に追い込んだソヴィエト連邦は今や全欧州を赤化し、ユーラシア大陸の過半を掌握するに至った。
 1939年のポーランド電撃戦に始まり、フィンランド、バルト三国を電撃的に制圧したソヴィエト軍は3年にわたる消耗戦を経て1945年1月にベルリンを占領、その1ヶ月後にパリを占領。そして半年にわたる戦略爆撃で英国本土を焦土し、航空機から投下する機雷によって港湾を封鎖したことで英国の戦時経済は崩壊し、本土決戦を経ることなく英国はソヴィエト連邦の軍門に下った。
 レッドストーム・オーヴァー・ヨーロッパ。
 欧州はクレムリンの夢想家、鉄の男・スターリンに征服されたのである
 戦争に参加しなかった北欧諸国、イタリア、スペイン、南欧諸国は赤化ドミノによって全て共産化し、伝統あるローマ・カトリックは壊滅。教皇はソヴィエトに引き渡され、その後の行方はようとして知れない。
 極々単純に考えれば、大戦の勝者はソヴィエトである。
 しかし、足掛け6年にわたる戦争によって欧州は荒廃し、植民地は宗主国のコントロールを離れて独立。アジアには日本の支援を受けた新興国が乱立し、アフリカもそれに続こうとしている。経済的な観点においては、第2次世界大戦の勝者は単純にソ連と言うことはできない。
 大戦に参加しなかった日米は第1次世界大戦に続いて欧州での戦争でぼろ儲けをし、米国は深刻な経済不況を完全に克服し、日本は欧州が赤化したことで宗主国を失ったアジア市場を完全に掌握した。
 大日本帝国は30年代後半から日本は中国大陸での国共内戦によって既に戦争特需によって好景気を迎えていたが、40年代前半の大戦特需と大戦終結後の欧州赤化によるアジア市場の掌握によって10年に渡って好景気が続き、その経済力は在りし日の英連邦に匹敵するか、それ以上にまで拡大、肥大化していた。国家予算だけで1930年にそれに対して5倍以上、第2次世界大戦が終結したとき、日本の経済力は米ソに続く世界第3位に達したのである。
 欧州各国はその資本、インフラ、有形無形の文化財をソヴィエトに渡さないために海外に脱出させたことも日本経済にとってプラスに働いた。経済発展に必要な元手が向こうかたやってきたからだ。特にドイツと日本は友好関係にあり、数千億マルクの資本が日本に脱出した。英連邦はカナダやオーストラリアと資本を脱出させ、フランスは世界中に散らばった植民地に分散させることで対応した。
 ソヴィエトによる没収を恐れて海外に流出した資本はドル換算で数兆ドルに達すると言われており、赤化した欧州各国の大半が没落しソヴィエト連邦を含めて深刻な経済的停滞に見舞われたのは、ある意味必然だったといえる。
 そうした経済的な停滞を、有り余る武力によって解消する方策として日本の傀儡国家でありながら、驚異的な経済発展を続ける満州国への武力侵攻が計画された。満州には欧州から亡命してきた多数の資本と膨大な労働力が存在し、これを接収することで傾いたソヴィエト経済の回復を図る。満州国を占領すれば、シベリア地域の防衛も容易になりその分の軍事費を節約できる。
 経済が停滞を続ける中で、満州への武力侵攻が強行されたのはそのような背景があった。
 満州国占領のスケジュールは半年とされた。それ以上の遅延はソヴィエト経済に対して致命的な悪影響を及ぼし、また米国の参戦を誘う可能性があった。米国では親ソ派だったルーズベルトが死去し、代わって反共主義者のトルーマンが就任していた。日米は決して友好関係にはないが、国家間の関係にはどのようなことでもありえた。不可侵条約を結んだドイツに対してソヴィエトが一方的な奇襲攻撃をしかけたように。
 動員された戦力は狙撃師団90、機械化師団2、騎兵師団6、戦車師団2、戦車旅団40を基幹するとする兵員約220万、火砲約30000門、戦車5000両、飛行機4000機に達した。
 欧州開放作戦『赤い10月』に匹敵する大戦力だった。装備については大戦終結から5年を経てやや旧式化していたが、それでも関東軍70万を叩き潰すには十分であると考えられた。
 この戦力はソヴィエト軍の第1線級師団のほぼ全力である。
 対して、大日本帝国は前述のとおり関東軍70万を展開させ、さらにソヴィエト軍のシベリア集結に呼応する形で動員を進めており、最終的に100万の大軍を満州に送る計画だった。それでもソヴィエト軍に対して劣勢だったが、最低でも朝鮮半島の保持が図ることが求められた。

6サラ:2007/02/04(日) 23:45:52
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その6

1950年12月20日 新京郊外

 坂田少尉は新生した大日本帝国空軍(IJAF)が独自に教育を施して最初に送り出した最初のパイロットだった。
 大日本帝国は長く陸海軍のみを保持し、航空機が戦力としてカウントされるようになった後でも独自に軍、つまり空軍をおかなかった。航空戦力は陸軍航空隊、海軍航空隊として整備され、航空機は海軍戦略、陸軍戦略の中にあった。
 それはつまり航空戦力を陸海軍の補助戦力として見なすことであり、航空機の進歩によって独自の戦略体系を持つに至った現在においては陸海軍から全く独立した軍種、空軍が必要とされるのは必然だった。
 そうした必要性を陸海軍の航空機関係者は認識していたが、セクショナリズムと予算の制約により長く空軍は建軍されず、空軍が陸海軍航空隊を統合する形で生まれたのは1947年になってからだった。
「ゲルプ01より、02。もうちょい低く飛べ」
 坂田は僚機に短く告げた。
 亡命ドイツ軍人の支援を受け、ドイツ空軍を模範として建軍されたIJAFは殆ど全てにおいてドイツ空軍の影響を強く受けていた。
「ヤヴォール」
 ゲルプ02は高度をそろそろと落す。
 プロペラ後流を浴びた雪が引きちぎれ、乱れ舞う。流れ去る風景は一面の銀世界だった。雪原は遥か彼方まで続いていた。地平線の果てまで。照り返しは強く、直視すると目が眩む。坂田は薄い色のサングラスをしていた。時折、太陽の中を見る。警戒のためだ。空は晴れていた。雲ひとつない。連日の吹雪が嘘のようだ。抜けるような青空。凍てついた零下30度の空だ。
 塵1つ落ちていない清涼な空をエンジン排気で汚しつつ、5式戦爆『飛燕改』は低空を飛んだ。
 黒いエンジン排気が細くたなびく。
 坂田は気が気ではない。
 翼下にはロケット弾と250kg爆弾を満載した5式戦爆はいいカモだからだ。
 エンジンをDB605G(2000馬力)に換装し、同時に機体の再設計を行なった飛燕改は高高度なら時速700kmを発揮する究極のレシプロ戦闘機の1つだったが、1950年の満州においては既に戦闘機として運用には無理が生じていた。 
 そうした飛燕改を戦闘爆撃機として対地攻撃に投入することは理にかなった戦術だったが、坂田はさっさとジェット攻撃機を配備して欲しいと思った。
 純白の冬季迷彩を纏った飛燕改は戦場に到着した。
「チタデレよりゲルプ編隊へ、そちらを目視した。君たちの兵装を確認したい」
 前線航空管制官の問いに坂田は手持ちの兵装を答えた。
 前線航空管制官は最前線で航空機や砲撃の弾着観測、修正、攻撃目標等の指示を行なう。効率的な近接航空支援には無くてはならない。当然、敵は前線航空統制官を目の敵にしていた。極めて死傷率は高い。危険な任務だ。
 ロケット弾が24発。250kg爆弾が4発。20mm機関砲4門にそれぞれ徹甲榴弾が200発装填されている。完全武装。
「これから、目標指示の発煙を行なう。敵はその北50mの距離だ。敵は街道沿いの林の中にいる。目標には東から侵入して、西へ抜けろ。敵の対空火器は確認されていない」
「ヤヴォール。発煙を確認した」
「いいぞ。ロスケを吹き飛ばせ」
 飛燕改は一度高度をとり、緩急降下しながら街道沿いの雑木林に殺到した。
 主翼が風を切り、降下音が高まる。魂を引き裂くような叫び。地上が迫る。染みのように雪原には砲撃の弾着跡が広がっていた。白いカーテンを汚すような、黒い染み。
 射爆照準器に目標を捉える。雪原に伸びる街道を破壊しないように、僅かに目標をずらした。引き金を引く。電気着火で爆発ボルトが吹き飛ぶ。250kg爆弾が爆弾架を離れた。機体が軽くなり、機敏に機首を上げる。機体を水平に戻す。スロットルを全開にして高速で離脱した。
 新京の解囲を目指す日本軍と脱出を阻止しようとするソ連軍との戦闘は寸土を奪い合う激戦だった。街道沿いに多数の抵抗拠点を築いたソ連軍の抵抗は激しい。
 飛燕改は一撃し、離脱した。そしてズーム上昇。反転し、高度をとると再び目標に逆方向から接近した。今度はロケット弾だった。
 飛燕改が装備するのはドイツ製の空対空ロケット弾、R4Mの対地攻撃型だった。高速で直進性高い。機関砲用の光学照準器で狙って当たるほどだ。
 今度は敵の反撃が来た。小火器だ。機関銃か、歩兵のライフルか。曳航弾が見当はずれな方向へ飛ぶ。坂田は全く恐怖を感じなかった。派手なだけで何の危険もない。高速で飛ぶ5式戦爆を小火器が狙ってあてるのは不可能に近い。
 ピカピカ光る射撃炎に向かってロケット弾を全弾斉射すると飛燕改はそのまま離脱した。
 最後に坂田は前線航空統制官に任務の終了と離脱を告げる。
 戦場は見る間に遠くなった。

7サラ:2007/02/07(水) 23:20:25
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その7

1950年12月21日 新京郊外 

 帝国陸軍が最初に導入したドイツ製戦車はティーガーⅠだった。
 第2次世界大戦に参戦しなかった大日本帝国は欧州が必要とする様々な軍需物資を輸出して外貨を稼いでいた。同時に欧州製の優れた兵器を輸入、ライセンス生産することで軍備の近代化を図るのにも熱心であり、友好関係にあったドイツから様々な兵器が輸入、或いはライセンス生産された。
 ドイツ側も敗戦を見越して資本や技術の海外移転を考えており、ドイツ製の優れた陸戦兵器を輸入、ライセンス生産したいという日本側の要請は渡りに船だったためにティーガーⅠのライセンス生産に関する交渉は極めて迅速に進んだ。 
 しかし、実際にティーガーⅠはライセンス生産されることはなく、より先進的な設計の5号戦車『パンター』のライセンス生産に帝国陸軍は軸足を置くことになる。
 それでも中古のティーガーⅠが1個大隊分、満州の防衛強化とドイツ軍の戦車戦術導入のために輸入され、実戦配備された。それが1945年のことだった。
 それから5年後の1950年12月20日。ティーガーⅠは最後の戦いに望もうとしていた。
「アドラーよりファウケ。敵戦車多数接近中」
「ファウケ。了解。迎撃する」
 パイパーは新京から脱出するにあたってその突破の先方にパンターを充てた。ティーガーはその遥か後方で後衛戦闘に配置されている。その決定に岸和田軍曹は全く不満はなかった。ここは1950年の満州だった。1942年のワルシャワではない。今は8年後だった。突破の先頭に立つにはティーガーは老いすぎていた。
 雪が待っていた。
 吹雪だ。激しい吹雪。
 ハッチを跳ね上げた途端、岸和田の半身に雪が張り付く。視界は白く暗かった。冥府のような沈黙の向こうに聞き慣れたT−34の履帯の音が響く。雪の帳の向こうに敵がいた。双眼鏡を構えて、薄い視界の向こうに敵の姿を探す。午前11時とは思えないほど日の光は弱かった。まるで真夜中のようだ。
 視界は200m先から完全に失われていた。遠距離砲戦は不可能だ。敵は赤外線暗視装置をもっていないはずだから、近接戦闘になるだろう。ティーガーⅠの主砲旋回速度はお世辞にも良好とはいえず、接近戦になれば不利だった。
 しかも、IS−3やT−54と遠距離砲戦になれば勝ち目はなかった。今やティーガーⅠの装甲はどのような距離からでもソ連製重戦車に撃破されてしまう。
 そうした不利を岸和田は車体を壕に埋めることでカヴァーしようとしていた。
 味方の戦車は12両。新京の倉庫に眠っていた24両のうち、まともに動かせたのは半分だけだった。残りの半分はパーツを取って爆破した。敵に渡すのは忍びない。
 前哨の歩兵の入った陣地のあるあたりで銃声が響いた。
 この吹雪の中で敵が見える距離まで敵が接近したということだった。
 臨時の中隊長から射撃命令が出たのはその直後だった。
「ファウケ01、中隊。弾種徹甲。戦車、撃て!」
 砲手が火蓋を切った。
 距離は300mを切っていた。必中の間合いだ。砲撃と弾着はほぼ同時に発生した。
 弾薬が誘爆し、砲塔が派手に吹き飛ぶ。目もくらむような閃光と赤い炎が待った。しかし、全ては雪の弾幕のせいで妙に曖昧だった。
 ただ、至近距離での誘爆音だけが激しく鼓膜を叩いた。
 臨時の装填手、金少年兵が砲弾を込める。一瞬だけ、岸和田は注意をそらした。金少年が手を閉鎖器に食い千切られないか、心配だったからだ。
 しかし、それは杞憂だった。素早く次弾を装填する。金少年は次の砲弾をラックから外した。訓練どおりのスムーズな動作だった。
 これが最初の実戦とは思えないほどの落ち着きだった。自棄か、あるいは状況が飲み込めていないのかもしれなかった。
 砲手は次弾が装填された瞬間に引き金を引いた。獲物はそこら中にいた。岸和田は何の指示も出す必要はなかった。砲手の好きなようにさせた。繰り返すが、獲物はそこら中にいた。岸和田は指示を出すことを忘れ、車体上部のMGを夢中で乱射した。
 敵が後退を始めたのはそれから30分後のことだった。
 戦車が燃えていた。T−34だった。新型はいない。重戦車でもなかった。敵も先方部隊には重戦車を使うのを避けていた。
 そこに堅陣があると知れているのならともかく、とかく重戦車は鈍く、重い。大切な進撃路を自重で荒らしてしまう。その逆もまた然りだ。
 ティーガーⅠが突破先頭ではなく後衛戦闘に充てられるのも同じ理由だった。
 雪原にはT−34の残骸と敵の死体が転がっている。それも見る間に雪の下へ沈んでいった。猛烈な吹雪が何もかもかき消していく。
 氷点下に下がった空気を切り裂いて砲弾が飛来した。敵の野砲だ。
 やがて猛烈な敵の砲撃が始まった。

8サラ:2007/04/20(金) 23:55:15
火葬世界における戦後日本の歩み

1945年4月1日
 米軍は嘉手納、読谷の飛行場と日本軍の戦力分断を狙って沖縄中部に上陸を開始。オペレーションアイスバーグが始まった。
 当初、米軍はそれまでの戦闘経験から日本軍による強固な水際防御を警戒し、砲爆撃の嵐を上陸予想地点に叩きつけた。しかし、実際には日本軍の反撃は微弱であり、事故による損失以外は損害らしい損害もないままに上陸第1日目は過ぎていった。
 これは沖縄防衛を担当する第32軍(司令官:牛島満大将)の主力だった第9師団がフィリピン戦に引き抜かれ戦力が低下していたことと、それまでの戦闘経験から水際での防御は戦艦の大口径砲の艦砲射撃を受けると容易に破壊されてしまうが判明したためであり、内陸での持久戦は理にかなった選択だった。また、沖縄戦を本土決戦の前哨線であると捉えていた大本営陸軍部にとっても、内陸部で長期間の持久を行なうことは本土決戦のための時間を稼ぐために有効であると判定されていた。
 しかし、早期に嘉手納、読谷飛行場を失ったことは大本営(特に海軍部)とっては大いなる失望だった。海軍は沖縄を米艦隊撃滅のための決戦場であると捉えており、九州の縦深のある航空要塞をして、米空母機動部隊を壊滅させるつもりだった。しかし、嘉手納、読谷の飛行場を失ったことによって、飛行場からはP−51、P−47などの米陸軍航空隊が早期に展開することによって沖縄周辺の制空権は米軍の手におちることになり、米空母機動部隊の分厚い対空防御を合わさって、神風特攻作戦の効果は急減することが予想された。以後、帝国海軍の描いた決戦戦略は半ば破綻したも同然となる。
こうした声は軍令部においては強く、逆に聯合艦隊内部で弱いものだった。海軍内部にはこの時点で奇妙な温度差が生じており、軍令部においては読谷、嘉手納奪回のために再三に渡って陸軍に第32軍による反撃を要求しようとするのを聯合艦隊が諌めることがしばしばであり、ついに第32軍は当初の持久戦略を最後まで維持することになる。
 そうした状況の中で、天一号作戦は開始される。
 戦艦大和を中心とする第2艦隊(司令官:伊藤整一中将)は4月6日、徳山沖を出撃し、豊後水道を通過して沖縄へ向かった。
 既にこの頃になると日本海軍の暗号は完全に解読されており、作戦は完全に筒抜けだった。帝国海軍のただでさえ低い対潜戦闘能力は技量低下と装備の不足によってさらに低下しており、本土近海にも米潜水艦隊は跳梁するようになっており、豊後水道を抜けると同時に米潜水艦に出撃が探知されてしまう。さらにF13(偵察タイプのB29)の航空偵察によって第2艦隊の出撃準備は察知されており、第7艦隊(司令官:スプールアンス)は万全の準備を整えてこれを迎え撃つ用意を整えていた。
 しかし、潜水艦からの報告には当初予定されていなかった未知の巨艦の存在を知らせていた。
 それこそ、日本海軍の最後の正規空母であり、未だに米軍のその所在を掴んでいなかった幻の巨大空母「信濃」だった。
 大和型戦艦の3番艦はミッドウェー海戦で南雲空母機動部隊壊滅を受けて、空母に改装されることになり、乏しい資材と既存艦の修理を優先の方針の中で必死の工事が続けられていた。一時はB29の空襲圏に入った横須賀から呉に移動させようという意見も出されたが、実際はどちらもB29の空襲圏であることが判明し、さらに艦内での火災事故などによりさらに工事が遅れることによって、取りやめになっていた。
 もしも、呉への移動が強行され、工事未了のままで航海に出て潜水艦の雷撃でも受ければ、信濃はダメージコントロールもままならないままに撃沈されてしまっただろう。しかし、火災事故という悪運による工事延長がなされ、呉へ移動することなく横須賀で工事が続けられた。
 さらに信濃には悪運が続き、最低限の工事が終了した後で呉に移動しようとしたその直前で米空母機動部隊による呉空襲があり、呉に在泊した鑑定の殆どが撃沈された大空襲を逃れることに成功している。それどころか撃沈、大破、中破した船から資材と装備を引き剥がすことによって残っていた未完了の工事を早期に完了させることにが出来ていた。
 米軍は日本軍の最後の獲物である巨大空母を血眼になって探していたが、徹底した対空擬装による偵察の目を逃れ、第2艦隊出撃のその日まで信濃は米軍の執拗な追跡を逃れることに成功していた。
 当初、この第2艦隊の出撃を知ったスプールアンス提督は戦艦による迎撃を考えていたが、艦隊に空母が伴うことを知って第58任務部隊(司令官:ミッチャー中将)に航空攻撃を命じた。
 この命令を受けて第58任務部隊の8隻の空母から400機の攻撃隊が発艦し、第2艦隊は激しい空襲を受けることになる。


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