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ストーム・オーヴァー・ジャパン改

1サラ:2007/01/29(月) 23:10:05
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その1

1950年12月8日 新京郊外

 いつの間にか風が止んでいた。
 空は鉛色。生気のない空。雪が止んでいた。雪原に視界が開ける。そこは一面の雪景色だった。地平線の向こうでは月面のように死に絶えた雪原が続く。
 疲れているせいか、その単調な風景はどこか黄色に見えた。きっと黄疸のせいだ。肝臓の調子が随分前からおかしい。軍医は酒をやめろという。勝手なものだ。軍医はこの凍えて世界を知らない。世界はこんなにも冷たい。酒精を入れなければ凍えてしまう。
 空気は酷く冷えていた。吐いた息が白く凍る。吸った息は肺の中で熱を奪いながら溶ける。
 解凍されたばかりの酸素を吸い、アルコールを含んだ二酸化炭素を吐く。
 丸太のような体躯に達磨のような顔を乗せた岸和田戦車軍曹は上気した頬とは裏腹に冷たい視線で周囲を観察していた。
 戦車の回りには無闇に危険があつまる傾向がある。
 その傾向はここ数年で決定的になり、どこにあっても戦車には過剰な火力が集まるようになっている。戦車に発展にやや遅れる形で発展した対戦車兵器は、最近では歩兵にさえ有力な対戦車火力を携帯させるようになった。
 例えば、パンツァーファウストだ。
 ドイツ第3帝国が開発し、帝國陸軍にも採用されたそれは熱エネルギーで120mmの装甲板を易々と貫通する。
 10年前なら、戦車は敵戦車と対戦車砲と地雷だけに注意していれば良かった。それが今では対戦車ロケットや戦車狩りの攻撃機まで心配しなければならなくなっている。陣地突破には甚大な損害がでるようになり、戦車の機動は迂回が基本になった。さらに最近は戦車の移動は夜間か、対空援護がある場合に限られる。敵の攻撃機が前線を飛びまわり、動くものを片っ端から攻撃するからだ。
 高度に、複雑に発展する戦場。
 帝國陸軍はその発展に乗り遅れた。
 大陸での中国人を相手にした小競り合いでは戦車は歩兵の補助兵器だった。戦車が歩兵の補助兵器であるとことは現在でも疑いの余地はない。戦場を制するのはいつでも歩兵だ。しかし、戦車の発展が歩兵と戦車の関係に別の形を齎した。その変化に帝國陸軍は長く気がつかなかった。
 欧州でソビエトがポーランドを相手に電撃戦を行なったとき、陸軍は遅まきながらも戦車について別の運用法があることに気付き、戦車隊の増勢を図った。陸軍は多分にドイツびいきだったので、ドイツ流の機甲戦術の導入を模索した。
 しかし、結果として帝国はマトモな戦車を作れなかった。戦車の製造に必要な技術も、生産設備もなかったからだ。戦術については見るべきものもないわけではなかったが、それは紙の上での話だ。現場にある戦車は97式中戦車やその改良型であり、機動性は場合によってはトラックにも劣る。機動戦など望むべくもなかった。
 しかし、そうした問題が露見することは結局なかった。
 帝国は第2次世界大戦において中立を守り、その前の大戦と同様に欧州の戦争に介入せず、金儲けに徹したからだ。前の大戦で儲けそこなった分を取り戻すように、徹底的な金儲けをした。戦争が終っても、欧州が赤化したおかげで日本は世界中の植民地に武器と商品を売って金儲けを続けることができた。
 帝国は経済的に大いに発展し、その経済力で亡命したドイツやイギリスから最新式の武器を買い、国産化し、或いは亡命したドイツ人将校から戦車戦のノウハウを得ることで、軍備の総合的な近代化を図った。
 満州にソ連が侵攻したとき、岸和田軍曹がパンター戦車を愛車にしていたのはそのような背景があった。
 パンターはいい戦車だった。
 既に型は古いが、改良を繰り返したパンターは世界最強級の戦車の1つだ。
 岸和田軍曹のパンターはJF型と呼ばれる日本製パンターの決定版である。
 装甲の合理的な強化、小型砲塔の採用、車体前面のボールマウント機銃の廃止による装甲強化。火砲は75mm70口径砲のままだったが、照準器にステレオ式照準器を採用していた。遠距離砲戦能力はきわめて高い。夜戦装備として赤外線暗視装置も中隊に3台配備されている。弱点だった変速機も最新型に換装して、エンジンの換装(900馬力)と合わせてパンターの弱点は全て克服した。
 1個中隊のパンターが1個大隊のT−34を葬り去ることも珍しくない。
 ドイツ人の真似をして砲身に刻んだ撃破マークはそろそろ30本を超えようとしている。岸和田軍曹は細心の注意と配慮で愛車を縦横無人に駆使し、愛車がそれに答えた結果だ。
 これが97式戦車やその改良型だったのなら、岸和田軍曹の努力はかなり初期に無に帰していただろう。
 士魂と小さく書かれた砲塔が沈黙のままに雪風を浴びている。
 岸和田はそっと砲塔を撫でる。
 ライオンの鬣をなでるようなしぐさだった。

2サラ:2007/01/30(火) 23:07:57
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その2

1950年12月8日 新京郊外 夜

 夜になってから、岸和田は会議のために呼び出された。
 偵察機と斥候、捕虜から得た情報によれば、近日中にソビエト軍の大規模攻勢が予想された。
 中隊規模に磨り減った大隊を率いる少佐は妙に元気そうな声色で暗い現実を告げた。
 地下に掘られた指揮所に集まった面々はもはや絶望になれきっているので、どうとも思わなかった。悪運はいつものことだった。
 そのなかで少佐の明るさが妙に浮いていた。
 こいつはひょっとして状況を楽しんでいるのか?
 岸和田軍曹は微かに眉を顰めた。しかし、それは違うようだった。少佐の元気は妙に乾いていた。中が空洞なのだ。笑顔はどこか虚ろだった。
 岸和田軍曹は少佐にまつわるあまり聞こえのよくない噂話を思い出した。
 除鬱薬という薬がある。
 上官の命令か許可があれば軍医に処方してもらえる極ありふれた薬だ。疲労を吹き飛ばし、神経の集中を高める。疲労回復に効果があり、夜間戦闘の前に処方されることもある。最近は内地でも24時間操業の工場で利用されているらしい。
 正式にはアンフェタミンという。覚せい剤だ。
 1950年の満州においては合法である。戦時ならなおさらだった。
 中毒者は不穏、うつ、不眠、自殺衝動、精神分裂病に似た行動に走ることもある。
 もちろん、誰もがそれを知っていた。しかし、全ての兵士はそれを忌避し、やがて受け入れる。悲惨窮まる現実をせめて一瞬でも忘れたくて、アルコールかアンフェタミンに一夜の夢を見るのだ。
「軍曹殿。夜食をお持ちしました」
「もうそんな時間か」
 満州人の少年兵が大事そうに飯ごうを抱えて岸和田を見上げていた。満州国軍は開戦の早い段階でソ連に寝返ったが、即座に撃滅された。当然だ。傀儡軍がその主に勝てるわけがない。しかし、失われた時間と混乱は致命的だった。関東軍は決定的な瞬間に統制を失い、大敗した。
 満州国軍の将校は大半が地下に潜った。彼らはソビエトのシンパだった。割りを食うのは現場の兵士だ。彼らは裏切り者として多くが処刑された。相次ぐ敗走の憂さ晴らしだ。罪状は特になかった。理由などどうでもよかった。とにかく、自分以外の誰かができるだけ下らない理由で死ぬのがよかった。それは自分の代わりに贖罪の羊を死神に捧げるある種の儀式だった。
 金という朝鮮族の少年兵はそうした理由で処刑されかけた兵士の1人だった。
 金は世界を知らない。自分の死なねばならない仕組みも理解できていなかった。農村から動員で引っ張られたただの被害者だ。そうした子供が何の理由もなく処刑されることが岸和田には少しばかり不愉快だった。
 もちろん、岸和田はそうした不条理など見飽きていた。
 軍隊こそ不条理の塊だ。イエスといっても殴られるし、ノーと言っても殴られる。何も言わなくても殴られる。新兵のころ、延々と38式歩兵銃に謝り続けたこともある。何の意味あるのか、今でも疑問だ。
 それでも、それを不条理と思う心があればこそ、こうして生きている意味もあると思える。それがなければ、自分には何も残らない。残るのは肝臓の調子がおかしい、アルコールに殺されかけた中年だけになる。家族はいなかった。岸和田が満州に渡った後、結婚して10年連れ添った妻は何の前触れもなく離婚届を郵送してきた。岸和田は離婚届を破いた後、その欠片を糊で修復し、歪んだそれにサインし、血判を押して送り返した。仲間は何も言わなかった。
 不思議と哀しくはなかった。翌日には普通に勤務することができた。いつもどおりに戦車を指揮し、破壊と殺戮をばら撒いた。気分は、少しばかり爽快だった。しかし、直に何も感じなくなった。今では、何にも感動しなくなった。何にも価値が感じられなくなった。
 きっと、俺は心が死にかけているのだ。
 岸和田は無表情の下で泣き叫びたい衝動にかられた。
「どうされましたか、軍曹殿?懐炉の交換ですか」
 少年兵は先輩達の懐炉を直に交換できるように懐にいつも予備を沢山抱えていた。ある種の生活の知恵だった。
「軍曹どの?」
 疑うことを知らない幼い瞳が肺腑に刺さる。小さくない痛みだった。
「いや、なんでもない。もう行っていいぞ」
 分厚く無表情のコートを纏い、岸和田は少年兵をぞんざいに帰るように指示した。
 それでも少年兵は嬉しそうだった。
 岸和田は飯ごうを受け取り、車内の部下に交代で夕食をとるように指示した。岸和田の順番はいつでも最後だった。
 岸和田は少年兵が消えた夜の雪原を目で追っていた。そうすれば、白い闇の向こうからまたあの少年が来てくれるような、そんな淡い期待を抱いて。しかし、少年が来るのは配色の時だけだった。
 砲手が赤外線暗視装置に反応があったことを告げたのはそれから数分後のことだった。

3サラ:2007/02/01(木) 23:52:54
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その3

1950年12月8日 新京郊外 夜間戦闘

 闇夜を照らす虚ろなる赤い瞳。
 赤外線燈「ウーフー」の照射を浴びた敵戦車が赤外線暗視射撃装置「ツィールゲレート」に捕捉される。赤外線は即座に可視光線に変換され、砲手は夜を視る。
 闇を透過して見えるのは敵の大攻勢軍。雪原が3割、残りが人と鉄。乾いた笑みを張り付かせて砲手は先頭の戦車に狙いを定めていた。哂うしかない。
 彼我の相対距離は2000mを切っていた。
 パンターの70口径75mm戦車砲でもT−34を確実に撃破するには1200mまで待たなければならなかった。
 岸和田軍曹は小隊長の射撃命令を待つ。
 陣前は静まりかえっていた。夜襲は密やかに行なわれなければならない。敵はそのセオリーを守っていた。「フラー」という狂信的な叫びはない。息を殺して、敵は歩を進めていた。
 ただ、大勢の人間が雪を踏む音だけが不気味に静かな夜に響いている。まるでこの世の終りを告げるような音色。
 夜襲は既に失敗していると言えた。敵の沈黙は完全だった。しかし、あまりにも兵の数は多く、その足音だけで十分に味方に位置を暴露していた。
 そのことに敵も気付いているはずだ。しかし、敵が沈黙を守り続ける。既に意味の失われた沈黙の帳を垂れる。ほかに何も彼らに縋るものはなかったからだ。集団自殺する鼠の群れのようにあるはずのない寄る辺を彼らは抱いて前進する。
 先に沈黙を破ったのは日本軍だった。
 5対1の戦力差だ。遠くから敵を打ち崩すのが最善。
「各車、連続、各個に撃て」
 中隊長の命令と同時に砲手は射撃ペダルを踏んでいた。
 ファイアリングピンが砲弾の底を叩き、装薬を燃焼させた。5mもある長大な砲身を弾丸がすべり、音速のおよそ3倍の速度で砲弾が先頭のT−34に向かって飛んだ。
 発砲と着弾はほぼ同時に発生した。
 パンターの主砲はそれほどの初速を発揮する。T−34は砲塔の即応弾が引火誘爆して砲塔を跳ね上げた。
 同時に歩兵が撃ち始めた。闇夜に向けって曳航弾が飛ぶ。シャワーのようだ。新式の機関銃と突撃銃が分厚い弾幕を張った。
 敵の反撃が来る。反応は激烈だった。
 装填手が次弾を装填する間に最低でも10発の至近弾があった。しかし、パンターは健在。岸和田もかすり傷1つない。車体を埋めたパンターは砲塔だけを地表に出していた。狙って当てるのは至難の業だ。
 パンターの反撃。照準、発砲、廃莢、装填。全てよどみない。薬莢の撃ち殻が自動で廃莢箱へ落ちて、燃えカスがで車外へ強制排出される。
 敵はその所在を隠すのをやめた。叫び声が迫撃砲の阻止砲撃をさえぎるように響く。地鳴りのような叫び。断末魔の悲鳴。ロシア語の、意味不明な解読不可能な雄たけび。
 敵味方の照明弾が乱れ飛ぶ。岸和田は危険を承知でハッチを跳ね上げて敵情を肉眼で偵察した。もはや哂うしかない。
 雪原は黒く染まっていた。地面かと思ったが違った。全てが皮コートを着たソビエト軍兵士の死体だった。そして、そのうちのいくつかはまだ生きていた。
 味方が匍匐で接近するソビエト歩兵に容赦なく機関銃と迫撃砲が銃弾と砲弾を振舞う。
 そして、生きた兵士も死んだ兵士も踏み潰して戦車が突貫してきた。
 見たこともない戦車だった。
 砲手が岸和田の指示を待つことなく発砲した。距離はおよそ1000m。T−34なら必殺の間合い。しかし、射弾は敵の装甲を滑る。跳ねた砲弾が地面に突き刺さり派手な土煙を上げる。
 パンターの主砲弾が弾かれた。
 戦慄が走る。敵戦車の反撃。かすりもしない。敵の遠距離射撃技量が極めて低い。新型でも旧型でもそれは同じだった。故に、敵は接近戦に全てを賭けてくるだろう。接近されてはいけない。ジレンマだった。パンターの主砲もまた接近しなければ敵を仕留められない。パンターの主砲は1000mで130mmの装甲を貫通する。しかし、敵のそれはそれを上回っていた。接近しなければ仕留められない。
 パンターは壕を飛び出し、エンジンを怒らせて前進した。間合いは一瞬で詰まる。
 岸和田は敵戦車を肉眼で直視した。
 御椀型の砲塔に長砲身のおそらく100mmクラスの戦車砲。IS−3に似ていたが、前面装甲は楔形ではなくT−34と同じ傾斜した一枚板だった。パンターよりも一回り小さく、重心は2回り低い。重厚なシルウェットが闇を纏っていた。
 改良型、派生型を含め世界で10万両もの大量生産が行なわれた東側の第1世代型戦車T−54に日本人が始めてであった瞬間だった。
 T−54の砲塔が旋回する。彼我の距離は100mを切っていた。超接近戦。
 パンターとT−54は同時に砲声を響かせた。

4サラ:2007/02/03(土) 22:40:41
ストーム・オーヴァー・ジャパン改 その4

1950年12月15日 新京

 岸和田軍曹は生きていた。ソヴィエト軍に包囲された新京で。
 旅団単位で殴りかかるT−54との戦闘で、部隊は壊滅し、戦線は突破された。乗車は撃破され、乗員は岸和田を残して即死した。ほんの数日前のことだった。
 悪運はいつものことだ。
 ただ1人生き残った岸和田軍曹はそう自分に言い聞かせた。しかし、生き残るたびに前よりも酷い光景を見ることになった。今度もそうだった。新京は赤軍に包囲された。市内は混乱していた。市民にまで武器が配られ、外周部で絶望的な市街戦が始まっていた。降伏するものはいなかった。ソヴィエト軍は捕虜をとることに熱心な軍隊ではなかった。また、捕虜がシベリアに送られること知らない日本兵はいなかった。生きて脱出できる望みはなさそうだった。死ぬのが1週間か、1日か、あるいは一時間ほど伸びた程度だった。
 ただ1つよいことがあるとすれば、それは少年兵が生きていたことだった。金少年は満州国軍兵だったので、信頼されず戦線の後方に止め置かれた。それが幸いしたらしかった。
 金が生きていることを知った岸和田は小躍りして喜んだ。そして、金少年は岸和田のたった一人の部下になった。文句を言う者はいなかった。そういう人間は大抵死んでいた。
 さらに良いことが続いた。
 新しい指揮官は金少年が満州人か日本人か、まるで区別がつかない奴だったからだ。
 新しい上官はドイツ人だった。
 そのドイツ人はヨッヘンと呼んでくれと気さくに言った。本名はヨヒアム・パイパー。階級は大佐だった。どうしてドイツ人が日本軍の指揮をとるのかは不明だった。
 ヨッヘンはいたって陽気な性格をしていた。ソヴィエト軍に包囲された新京の絶望的な戦況は、彼には全く無縁のようだった。しかし、横顔はどこまでも苛烈だった。岩を削りだしたような、そんな風貌だった。
 ヨッヘンは妙なイントネーションの日本語で言う。
「戦況はほんまにあかんが、あんじょうよろしくたのんまっせ〜」
 関西弁だった。
 岸和田軍曹は目が点になる。臨時の司令部に集められた他の兵士も同じだった。
 ヨッヘンの妙な発音の日本語を駆使し、状況を可能な限り説明した。
 日本軍の5個師団(実質3個師団)と多数の難民が新京で包囲された。新京は放棄される。まもなく友軍の解囲作戦が発動され、それに呼応してできるだけ多くの兵士と難民を脱出させる。
 要約すれば、そうなった。意外なことだった。岸和田軍曹は死ぬまで戦えと命令されるとばかり思っていた。他の兵士もそうだった。日本軍の辞書に撤退の二文字はないからだ。その代わりに転進と玉砕の二文字が多用された。
 そのことを中隊長の1人がヨッヘンに言った。
「ハルピンでおうじょうこいて、こりたんやろ」
 ヨッヘンは低い声色で、雄雄しく、しかし、関西弁でそう答えた。
 開戦緒戦にハルピンで6個師団が包囲され、難民もろとも包囲殲滅されていた。ハルピンの固守にこだわった関東軍の判断ミスだった。その関東軍の司令部も満州国軍の蜂起によって全滅していた。関東軍司令部は爆撃で全壊している。岸和田は清々したと思った。
 岸和田はこの奇妙なドイツ人を信じる気になっていた。少なくとも、今まで見てきたどんな指揮官よりも有能に見えた。結局死ぬことになっても、犬死以外の死に場所を用意してくれるような気がした。それは悪くないことだった。全く悪くない。
「突破の先頭はうちらパイパー戦闘団や。きばっていくで〜」
 パイパーは極めて峻厳な口調で、しかし関西弁で言った。
「パイパー戦闘団?どこにあるんですか?」
「これからつくるんや」
 岸和田はここは笑うべきところなのか、真剣に悩んだ。
 そこで岸和田は自分の心が驚くほど軽くなっていることに気付いた。
 いつの間にか後悔と虚無は遠くなり、戦いへの闘志と生きるための気力が岸和田の中に甦っていた。金少年の笑顔もまた、岸和田の救いだった。死にかけになるほどの傷を負った心にヨッヘンの明るい関西弁は慈雨のように染みこんだ。手を繋ぐ金少年の小さな手の温もりが忘れていた何かを思い出せた。
 岸和田は生きねばならなかった。
 ヨヒアム・パイパーの才気は絶望的な包囲下にあった日本兵、そして50万人の難民にとって最後の希望だった。
 岸和田は挙手をした。
「なんや?」
「我々は戦車兵です。包囲を突破するにしても、戦車がなければ話になりません」
「そのとおりや。戦車をとりにいこか」
「あるんですか?」
「ええもんを用意したる。期待しとき」
 ヨッヘンは笑って答えた。


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