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東日本大震災

42NAME:2012/04/03(火) 20:02:28
震災がれきの広域処理が分からない
http://damhantaikanuma.web.infoseek.co.jp/Sonota/debris.html

●処理費用が高すぎる

広域処理以前の問題として災害廃棄物の処理費用が今回高すぎるという話があります。 zakzakの復興特需で“札束”飛び交う東北...政策不在、増税が不安 には、次のように書かれています。 仙台へのカネの出所は地震保険支払い、義援金などがまず挙げられるが、8月以降は本格化したがれ き処理の代金が高額消費へとなだれ込んでいる。何しろ、民主党政権はがれき処理を急ぐあまり、地 元自治体のいい値を丸のみして法外とも見えるがれき処理費を100%出している。1995年1月 の阪神大震災のがれき処理コストはトン当たり2万2000円。その後、人件費や資材価格が下がる デフレ時代が続いていることから、コスト上昇はないはずなのに、仙台周辺や岩手県ではトン当たり 10万円もかかるケースがあるという。処理単価について2011年11月17日付け記事「産経震災がれきの処理費用膨張 阪神大震災大幅に上回る洗浄、放射線検査の必要」は次のように報じます。 環境省によると、阪神大震災のがれき処理費用の総額は約3246億円で、1トン当たりの処理単価 は約2万2千円。これに対し岩手県の場合、当初の見通しは総額3千億円で、1トン当たりは阪神の 3倍弱の6万3千円。

宮城県は総額7700億円で、1トン当たりは阪神の2倍超の約5万円と、両 県とも阪神のコストを大幅に上回る見通し。放射性物質の付着が懸念される福島県は費用の概算も 立っていない。 処理単価が高くなる理由は、見出しにも書かれいるように、洗浄、放射線検査の必要があるからだそうですが、洗浄と放射線検査で費用が3倍や5倍にもなるのでしょうか。 ただでさえ処理単価が高いのに、なぜ更にカネをかけて全国に運ぶのかという疑問はあります。

●新聞広告に6,000万円かかった

国(環境省)は、2012年3月6日の朝日新聞に全面見開き広告を出しました。「みんなの力でが れき処理」(http://twitpic.com/8sjy1wで写真が見られます。) の広告です。 これだけの広告を打つには、新聞社にだけでも四千数百万円以上払うことになり、広告代理店に払う カネを含めると約6,000万円かかると言われています。今後、朝日が広域処理に対して、細かい注文はつけることがあっても、根本的な疑問を投げかけるようなことはないと思います。 ちなみに、読売新聞は社説で「がれき広域処理 受け入れ拒否が復興を妨げる」(2012年3月7日付け)と書いています。3月7日付け産経もほぼ同旨。

●地元の焼却施設を壊すのか

河野太郎氏は「焼却炉のほとんどはがれき処理が終わると解体され、地権者に土地を戻すことになります。」(震災がれき Q&A その2 )と決めつけますが、山内知也氏(神戸大学大学院教授)は、「発電装置を備えた焼却施設をつくれ ば、がれき処理を終えた後も、森林の間伐材を使った木質バイオマス発電として活用できます。」 (3月16日付け朝日)と提案しています。

「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。」(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師)

43NAME:2012/07/22(日) 00:08:40
復興予算どうして余るのか
2012.7.21 20:16 (1/2ページ)[東日本大震災]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120721/plc12072120170015-n1.htm

 東日本大震災からの復旧・復興を一日も早く進めるための国のお金が、被災者になかなか届かない。平成23年度の復旧・復興関連予算14兆9243億円のうち、年度内に使い切れなかったのは約4割にあたる5兆8728億円。このうち1兆1034億円が不用になった。人手不足、計画の遅れ、国と自治体での認識のずれ…、いずれも見込みの甘さが「通常では考えられないような積み上げ」(復興庁)につながった。

 「全国の市町村から応援の職員に来てもらっているが、人手がまだ足りない」

 被災者の高台移転事業に従事する宮城県の関係者は、そうため息まじりに打ち明けた。被災地の1万4500戸を対象にした事業費は総額8300億円と見込んだが、実際に国から交付されたのは4分の1弱。移転候補地や土地の買い取り価格など解決が難しい問題が多い。

 事業の遅れにつながっているのは、そうした問題に対処する専門性のある職員の不足。政府は4月以降、都市計画の専門家などを被災地に派遣しているが、なお足りない状況だ。

 計画が遅れ、事業ができなかったり、なかなか始まらないケースも多い。

 国土交通省の災害公営住宅等整備事業費(1116億円)は、ほぼ全額の1112億円が「不用額」となった。「自治体がまちづくりの計画を決めるのに時間がかかった」(国交省)ため用地確保が進まず、事業を実施できなかった。

 環境省による除染事業は、2459億円の約7割が24年度に繰り越された。福島県南相馬市が、放射性物質を含む土の仮置き場を確保し、事業を始めたのは今年6月上旬。同市の担当者は「周辺住民の理解を得るのに時間がかかった」と遅れた理由を説明する。

 国と自治体との意思疎通がうまくいかなかったケースも散見された。

 宮城県は今年3月に配分された第1回復興交付金で、道路に盛り土して津波被害を低減する多重防御事業を申請したが、大半が却下された。「事業の中身が国の交付基準と合致していなかった」(宮城県の担当者)ためだ。宮城県栗原市は総額4億9千万円の交付金申請に対し、第1回の配分はゼロ。第2回の申請では災害公営住宅に絞り、「復興庁の求めに合う事業を申請した」(栗原市の担当者)ことで一部が認められた。

 財務省は、「学校の復旧費など被害額が想定より少なかったケースもあった。過去にない大震災だったので予算を多めに計上した側面もある」と認める。不用額のうち約7500億円は24年度に新しく設けた復興特別会計に繰り入れる予定。25年度は各省庁が同会計で予算を要求する。

44掟頭=弖十(Ten10)=優多野手頭=野祀燦(讃):2012/08/23(木) 00:11:14
地震も大雨洪水も朝鮮工作員(従軍慰安婦)一族の戦争兵器による電気操作である。
呂雉が平壤で産んだ狒狒『雉』…朝鮮総連 元蛭 級畜 ダニ网 止洟犯 国際手配犯 戦争犯罪者也 鈴木あゆみ殊朝鮮総連 支那畜ダニアミは小学校入学迄、実の兄 2人を『ヨウマ』名で脅迫し、性交渉を強要し出産を繰り返した。小学校入学前(当時58歳)には 兄2人との性的関係は疎遠となり、アミ本人が個人的に人工受精での妊娠、出産を繰り返して来たが7年前の中絶手術時に寄生虫による内臓破壊が酷く、女性のみの臓器等を全摘出。更に3年10ヶ月前に両性具だった身体を女性の身体にする為に一般的には『性転換』と言われる手術で『無性別』の身体となり、今日に至る。
横須賀に数年前に脅迫で建てさせた『コンサートホール状要塞』に世界中から 脅迫で集めた人質のメンバーと人数を知らず、隣の建物で同じく集めた一般人にドラッグと脅迫で性交渉を強要し出産させ、カニバリズム(食人行為)を繰り返したのは3年前になる。立て籠り場所内外の仲間の援護で 人質監禁立て籠り事件は3年半になる。朝鮮 秘密結社 『八咫烏(ヤタガラス)』や自民党、朝鮮を壊滅に追いやった凶悪国際指名手配犯を庇う親族の気が知れない。何処にも逃げる事が出来なくなった理由は『捕まりたくない。』だったのだ。愚かな一族である。
://twtr.jp/user/arena8order/status ://blog.m.livedoor.jp/arena8order/ ://blogs.mobile.yahoo.co.jp/arena_oda_v_lanc_st ://yaplog.jp/cannonbell/
Freemasonrey EALOM ZAOH -ELOMVYZ- 織田繪璃奈(横濱・野島えり)Microsoft USA
掟頭=弖十(Ten10)=優多野手頭=野祀燦(讃) νξδεζηθ еёЬЭЮЯХЛθ Eleonora de' Medici. A(E)rena Lancasta Oda Medici Vintevecom Yokohama (Zaoh) A(E)rena L.O.M.V.Y.(Z.)

45NAME:2012/09/19(水) 00:26:24
2012年9月18日 14:15 (シネマトゥデイ)
国生さゆり、被災地での番組スタッフの横暴さを激白…急な昼食の要求や予定の変更など
http://topics.jp.msn.com/entertainment/movie/article.aspx?articleid=1396388

女優でタレントの国生さゆりが、東日本大震災の被災地を旅番組の収録のため訪れたものの、番組スタッフの横暴な態度により「最悪の旅番組の収録」になったと17日のオフィシャルブログで激白している。

 いまだ東日本大震災の爪痕が残る被災地での3日間の番組収録の方法を、「突然思い立って行くことと 行く場所のデリケートさと 前々から決まっていることをいとも簡単にくつがえす収録のやり方」と表現した国生。例として、予定には入っていなかった、6メートルの津波に襲われ250人の方々が亡くなったという場所へ心の準備もないままに連れていかれたことや、それに伴い、前々から決まっていた海苔(のり)漁師さんへの取材をキャンセルすることになったことを挙げている。

 国生は「その人は震災当初から取材を続けているらしい それは本当に素晴らしいことだと思う」と番組スタッフへ一定の理解を示した上で、「それと打合せにないのに お願いしていないのにお昼ご飯出してもらえますか?といきなり取材先の人に言ったり、さんまの加工風景を撮りたいと言って、聞いていませんけどと工場の方を困惑させ 明後日また来るのでその時にお願いします。と言ってみたりすることとは違うと思う」とその取材方法に疑問を呈している。

 「どこの被災地の方々も『忘れないで』『風化させたくない』のお気持ちで取材に協力を惜しまず時間をさいてくださる。そのお気持ちにオンブに抱っこを繰り返すことはどうなんだろう?」と苦しい胸の内を明かした国生は、「今回の撮影にご協力頂きました 三陸のみなさまありがとうございました。そして不手際がたくさんあってごめんなさい」と番組スタッフに代わって謝罪している。(朝倉健人)

46NAME:2012/10/18(木) 04:47:49
震災復興予算の流用問題 大メディアと国会は2か月も頬被り
2012.10.16 07:00
http://www.news-postseven.com/archives/20121016_149218.html

本誌が8月10日号(7月30日発売)でスクープした震災復興予算の流用問題がここにきて大騒ぎになっている。9月9日のNHKスペシャルが「追跡 復興予算19兆円」と題して報じると、朝日、毎日、読売など各紙や民放各局が10月に入って一斉に批判報道を展開し、国会にも飛び火。自民党は衆院決算行政監視委員会の閉会中審査を要求し、政権側は委員会を開かせないために民主党委員を欠席させる暴挙に出た。

 あまりにも白々しい騒ぎである。

 NHKなど各メディアの報道は、総額19兆円の復興予算が、東京の税務署改修や北海道・沖縄の道路建設、果ては捕鯨反対運動への対策費まで復興とは関係のない事業に役人によって流用されているという、本誌報道の丸パクリである。それもそのはず。各紙記事は衆院の決算行政監視委員会の調査をもとにしているが、そもそも調査の発端は、本誌記事に関心を持った委員の提案によるものだったからだ。

 いや、パクられたことに目くじら立てるつもりはない。重大なのは、大メディアと国会は、本誌が8月はじめにこの事実を報じてから2か月以上、頬被りを決め込んでいたことにある。知らなかったとはいわせない。

 当時は国会で消費増税法案の審議がヤマ場を迎えていたが、本誌が取材した自民党議員たちは「この記事は重大。国会で追及する」と意気込み、財務省は「消費増税法案が吹き飛びかねない」(主計局若手)と飛び上がって国会追及に備えた想定問答集を作成し、新聞もただちに後追い取材に取りかかっていた。ところが、そうした動きはピタリと立ち消えになった。コトが重大すぎたからである。

 この復興予算流用問題の本質は、財務省をはじめとするシロアリ役人と政治家が「復興のため」と国民に増税を強いながら、巻き上げた税金を被災者のためではなく、庁舎の改修やハコ物公共事業などシロアリの利権拡大に好き放題使っていた「騙し増税」の構造にある。

 消費増税も同じだ。国民には「社会保障のため」と説明しているが、実際は社会保障の充実には使われず、民自公3党と霞が関の間には、「増税による税収のうち毎年5兆円は防災の公共事業にあてるという暗黙の合意がある」(自民党大蔵族のベテラン議員)という。

 あのとき、国会追及や大メディアの報道が行なわれていれば、消費増税法案への批判が一層高まって廃案になる可能性があった。

 だからこそ、増税推進派の大メディアと自民党は、消費増税法案成立まで黙殺し続けたのではないか。NHKスペシャルで“報道解禁”となったのは増税法案成立の1か月後だった。

47NAME:2012/10/18(木) 04:48:29
それなのに通常国会が閉幕してから「閉会中審査」を要求する自民党もちゃんちゃらおかしいし、「増税が決まったから安心だ」といわんばかりの大メディアの2か月遅れの追及報道は、シロアリの“パシリ”だったことを隠すアリバイにすぎない。

 当然、パシリにも分け前がある。大メディアは決して報じないが、復興予算には、総額30億円超にのぼる「新聞・テレビへの口止め料」が含まれているのだ。

 東日本大震災から3か月後の昨年7月から1か月半、TBSは『夏サカス2011〜笑顔の扉〜』と題したイベントの一環で、本社のある複合商業施設・赤坂サカスで被災地の農産品を即売、『旬の食べ頃』など自社のテレビ番組とタイアップして被災地の復興を応援する企画を行なった。

 実は、そのイベントは農水省の「農産物等消費拡大事業」という復興予算で行なわれ、イベント関連に525万円、番組に2500万円の補助金が流れていた。

 同社は今年9月、赤坂サカスで実施した地産地消の普及イベント(2009年実施)で、農水省の補助金に補助対象外の土地使用料やスタッフの人件費などを水増し請求していたことが発覚し、2990万円を返還すると発表した。この復興支援イベントは、農水省の同じ課が担当した同じスキームの事業である。

 また、TBSは今年2〜3月にかけて、BS番組『ニッポン美味しい笑顔紀行〜東日本ギョギョうま編〜』を5回にわたって放映。萩本欽一、農水省「お魚大使」のさかなクンらが石巻、気仙沼、釜石など被災地の漁港を回っておいしい魚の食べ方を紹介した。

 これも農水省の「食べて応援しよう!」事業であり、復興予算から5250万円の制作・放映料が支払われている。税金丸抱えの復興支援番組である。

 テレビ局がスポンサーを募り、自前で被災地支援番組を作るなら異論はない。しかし、復興予算の使い方には優先順位があるはずだ。農水省が、「被災地の魚を食べよう」という宣伝番組に復興予算を注ぎ込む一方で、岩手県・大槌漁協は震災の被害が大きすぎて再建できずに破綻した。それが被災地が切実に必要としている税金の使い方といえるだろうか。

 TBSはバラエティ番組『ひるおび!』で、「ココがヘンだよ復興予算」と題して流用問題を取り上げたが、補助金水増し請求までしていた同社はシロアリの同類であり、税金の使途を批判する資格があるとは思えない。

 復興予算ではほとんどのキー局で大量のテレビCMが放映された。TOKIOのメンバーが野菜を食べる「食べて応援しよう」のスポットCMは昨年夏に首都圏各局で800回、今年春には全国のテレビ局で1200回放映された。農水省がテレビ局に支払ったCM料は首都圏分で総額7860万円、全国分は8700万円だ。ちなみに、このCMに出演したTOKIOは出演料無料のボランティアだった。復興予算をあてにするばかりのメディアは爪の垢でも煎じて飲んだらどうなのか。

 復興予算のメディア対策費はローカル局にも流れていた。

 被災地のテレビ局、ラジオでは復興予算で支援番組が放映されている。例えばテレビ岩手(日本テレビ系列)では毎週土曜日『手を、つなごう。岩手』という約3分の内閣府提供番組を放映。

 番組制作費・放映料は1本80万円で、2年間の総額は4億5200万円。これは生活再建に取り組む被災者を紹介する内容だが、目的は住民支援というよりスポンサー難に苦しむローカル局支援の色合いが強い。

※週刊ポスト2012年10月26日号

48NAME:2012/12/08(土) 00:10:06
三陸沖地震 青森や岩手で震度5弱 宮城・石巻で1メートルの津波観測
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/612889/

7日午後5時18分ごろ、青森、岩手、宮城、茨城、栃木の各県で震度5弱を観測する地震があった。震源は三陸沖で、震源の深さは約10キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は7.3と推定される。平成7年1月の阪神大震災と同じ規模。気象庁は宮城県に津波警報を、青森県太平洋沿岸、岩手県、福島県、茨城県に津波注意報を出したが、同7時20分、いずれも解除した。

 津波警報は23年4月11日に福島・浜通りを震源に発生したM7.0の地震で茨城県に出て以来、約1年8カ月ぶり。沿岸部各自治体では住民に避難指示や避難勧告を出し、防災無線で避難を呼びかけるなどした。

 気象庁によると、宮城県石巻市鮎川で同6時2分に1メートルの津波を観測したほか、同6時50分までに仙台市、福島県相馬市で40センチ、岩手県大船渡市で20センチの津波が確認されるなどした。

 宮城県名取市消防本部に入った連絡によると、地震の揺れで2歳ぐらいの男児が転倒、テーブルに頭部をぶつけて、けがをした。宮城県の石巻地区広域行政事務組合消防本部によると、石巻市で避難中の女性(75)が転倒し軽傷を負い、70代の男性も体調不良を訴え、病院に搬送された。警察庁によると、茨城県土浦市の女性(36)、栃木県の男性(65)、千葉県習志野市の女性(50)が、倒れてきた家具で膝や腹部を打つなどして軽傷を負った。

49NAME:2013/01/02(水) 01:43:57
身に危険が迫っても逃げぬ人々 ゲリラ豪雨による神戸・都賀川の事故の教訓は…
2013.1.1 18:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130101/waf13010118010006-n2.htm

直後に現場近くの兵庫県警灘署の署員がパトカーによる巡回を開始。上流の甲橋付近で、家族連れ6人と大学生グループ23人がバーベキューをしているのを確認していたため、急速な水位上昇の危険性を訴え、避難を要請した。これに対し、大学生グループは避難しようとしなかったという。

 一方、ほぼ同じ時間帯に灘消防署もパトロールを始め、さらに南側でバーベキューをしていた22人や散策していた数人に、川からの引き上げを呼びかけた。この際、やはり、バーベキューをなかなか中断しないグループがみられた。

 警察や消防が巡回を始めてから約10分後に最高67センチの水位上昇がみられ、上流から濁流が押し寄せた。

川遊びやバーベキューに夢中になっているうちに、視覚に訴えるさまざまな警告や上流の空模様に気付きにくく、「視覚のみでは身に迫る危険を認識できない状況となっている」とし、音声など聴覚に訴える警告の必要性についての検討を求めている。

 兵庫県河川整備課は「回転灯と連動し警告音を発することを地元と協議してきたが、環境公害を訴える声があり実現していない」と説明する。

50NAME:2013/01/13(日) 00:35:14
「街の人を守る」 弟2人亡くした消防団員は決意した
2013.1.12 11:57
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130112/wlf13011212020008-n1.htm

あの日の伯父の叫び声が今も耳に残っている。「あかんぞ。弟2人は助けられへん」。燃えさかる炎は下敷きになった弟たちを残したまま、全壊した自宅をのみ込んだ。あのとき、幼かった自分は、その光景をただ見つめることしかできなかった。だから、僕は消防団員になった−。

 昨年10月、神戸市須磨区の市立太田中学校。壇上に立った隣接区の長田消防団員の柴田大輔(25)は中学生たちを真っすぐに見つめ、静かに語った。

 「自分は弟たちを守れなかった。だからこそ、自分の命に代えてでも、人を守っていきたい」

気がつくと、車で駆けつけた伯父が両手を血で真っ赤にしながら家具をどけているのが見えた。6時間後に自分が、父はさらに3時間後に救い出された。そのとき、「シュー」という音とともに、強烈なガスの臭いが鼻をついた。周囲から上がった火の手がすぐそこまで迫っている。「爆発する」。誰かが叫んだ。恐怖で体が固まった。

 倒れた家具などに足をはさまれ、身動きのとれない母の悲鳴にも似た声も聞こえた。「私のことはかまへんから、先に子供たちを助けて」。弟たちの声は聞こえなかった。

最初の揺れから12時間以上たった夕方、母が救出された直後、自宅は炎に包まれた。弟たちの遺体が見つかったのは数カ月後だった。2人はどこかで生きていると思っていたから、信じられなかった。

 何度も「忘れたい」と思ったが、刻み込まれた記憶はどうしても消えず、忘れられない。目を閉じれば、あの日の悲惨な情景、「2人がどこにいるかわからへん…」と肩を震わせていた伯父の姿が浮かぶ。

 だからこそ、「人を助けたい」という思いが込み上げてきた。年齢制限をクリアした18歳の誕生日の翌日、平成17年9月16日に消防団に入団した。以来、会社勤めの傍ら、いち早く現場に駆けつけ、消火活動にあたった。消防団のイベントがあると、毎週のように参加し、住民たちの防災意識の向上も図ってきた。太田中学校で行われた講演会で、初めて自らの震災体験を語ったのも、こうした活動の一環だ。「大災害が起きたときこそ、普段のコミュニケーションが生きる」と地域住民へのあいさつは欠かさない。

平成7年1月、兵庫県南部を中心とする近畿地方を襲った阪神大震災は17日で発生から18年となる。死者6434人、負傷者4万3792人、全半壊した住宅約25万戸…(消防庁まとめ)。未曽有(みぞう)の大災害を経験したことで、使命感を背負って今を生きる人たちの姿を追う。(文中敬称略)

51NAME:2013/02/25(月) 14:22:05
大震災 「義捐金」と「支援金」「救援募金」の違いとは何か
2011.04.09 16:00
http://www.news-postseven.com/archives/20110409_16884.html

寄付は、被災者に直接見舞金として渡される「義捐金」と、被災地で支援にあたる団体の活動資金になる「支援金」のふたつに大まかに分けられる。

義捐金は日本赤十字社や中央共同募金会(いわゆる「赤い羽根」)などが窓口となって集められ、被災した都道府県が設置する義捐金配分委員会に全額渡される。委員会には両団体や報道機関なども参加し、分配対象や金額が検討され、最終的に被災者に届けられる。

一方、支援金は被災地で活動するボランティア団体や各種NPOを支えるために使われる。もちろん支援金を救援物資購入に充てて被災者に配ることもあるだろうが、それは各団体の判断だ。中央共同募金会も災害ボランティア・NPO活動支援のための支援金を義捐金とは別途募っている。

被災者やボランティア団体ではなく被災した自治体に復興資金として使ってもらいたい人は、各自治体が設けている口座に直接振り込むことになる。なお、日本赤十字や中央共同募金会への義捐金や、最終的に国または地方公共団体に対して直接寄付したお金は、国税庁が指定する「特別寄付金」に該当するため、寄付金控除の対象となる。申告には募金の窓口となっている団体から届く証明書が必要だ。個人の場合は募金額から2000円を引いた額が経費(控除の対象)となり、所得の40%が上限。法人の場合は全額が経費となる。

義捐金、支援金に加えて、「救援金」という呼称も存在するからややこしい。

大手新聞社は「救援募金」という名で寄付を呼びかけている。たとえば朝日新聞は募金の目的を「送られた寄付は被災者支援に携わる各種の団体に寄託するとともに、一部は朝日新聞厚生文化事業団の救援事業にも充てます」と説明している。これは団体への寄付なので厳密には「支援金」に該当する。しかし、全額を日本赤十字社経由で被災地に送るとする「救援募金」もあり、厳密には使い分けられていないようだ。

※週刊ポスト2011年4月15日号

52NAME:2013/02/25(月) 14:28:03
日本ユニセフの募金者から「これじゃユ偽フだ」との批判殺到
2011.04.04 16:00
http://www.news-postseven.com/archives/20110404_16633.html

東日本大震災では善意の募金が世界中から多数寄せられた。だが、募金を巡るトラブルも発生した。そのひとつが日本ユニセフ協会(日ユニ)を巡るものだ。問題の発端は、日ユニが震災発生3日後(3月14日)にHP上で「1億円の緊急支援」を告知したことにある。その告知には、以下の「但し書き」があった。

〈必要な資金を上回るご協力をいただいた場合、ユニセフが実施する他国・地域での紛争・自然災害などによる緊急・復興支援に活用させていただくことがあります〉 募金が被災者に渡らないと気づいた募金者から、次のような声が上がるのは当然だった。

「俺の募金はアフリカに行ってしまうのか」「これでは“ユ偽フ”じゃないか」

 批判が殺到した日ユニは、24日にHP上で「東日本大震災の募金は、通常の募金とは別の口座で管理しています」と掲載し、「全額を被災者に渡す」と釈明した。 方針転換の理由を日ユニ広報室はこう説明する。

「ユニセフ(国連児童基金)は開発途上国の子供たちへの支援を目的としており、日本への支援は1964年で終了しました。しかし、震災後にユニセフが日本支援を決めたので、募金の全額をお渡しできるようになった」

 当初から「大震災支援」を謳いながら、被災者に募金を渡すことを表明したのは10日後だったのである。 世界の子供たちへの支援が悪いわけではない。それが日ユニの目的である以上、日本の子供たちが対象とならないことにも問題はない。だが、被災者に届かないのであれば、「東日本大震災の緊急募金」などやるべきではない。10日間にわたって、被災者支援を口実に募金を掻き集めていたと見られても仕方ないだろう。

※週刊ポスト2011年4月15日号

53NAME:2013/03/11(月) 12:10:54
「ただ、あなたに会いたい」 津波到達まで避難放送し続けた娘へ父が手紙読み上げ
2013.3.8 23:28
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130308/wlf13030823380032-n1.htm

「ただ、あなたに会いたい」−。東日本大震災で、宮城県南三陸町の職員として防災無線で避難を呼びかけ続け、津波の犠牲になった遠藤未希さん=当時(24)=の父、清喜(せいき)さん(58)が8日、奈良市の薬師寺で営まれた三回忌法要に参列。娘に宛てた手紙を声を詰まらせながら読み上げた。手紙で心境を語るのは初めてで、清喜さんの悲痛な叫びに参列者は悲しみに包まれた。

 薬師寺は昨年3月、被災地に僧侶を派遣し、家族を亡くした遺族や被災者に般若心経(はんにゃしんぎょう)を写経してもらう「供養写経」を開始。清喜さんは妻の美恵子さんと一緒に参加したことが縁で、今回の法要に参列した。「震災から1年では書けなかった」と清喜さん。約250人の参加者が見守る中、前の晩に一睡もせず、泣きながら書き上げたという手紙を朗読した。

 町の防災対策庁舎で、高さ約12メートルの津波が到達するまで、防災無線で「早く高台に逃げてください」と避難を呼びかけ続けた娘を、「あの大地震の揺れの中、よく声を出し、放送し続けましたね。怖かったろう、逃げたかったろう。それでも冷静に避難を呼びかけ続けたこと、本当にご苦労さまでした」とねぎらった。

未希さんの遺体が自宅近くの沖合で発見され、自宅に運び入れた際に家の前に虹が現れ、これまで一度も見たことがなかったホタルが庭にやってきたエピソードを紹介。美しい夕焼けや、青空に雲がまっすぐ走っているのを見たときにも娘の気配を感じ取ったという。「私たちは未希が姿を変えて現れてくれたと感じている。ただ、あなたに会いたい」と肩を震わせた。

 未希さんは、震災半年後に披露宴を控え、楽しそうに準備していた。前年12月の衣装合わせの際には美恵子さんに、「3月にはウエディングドレスの新作が出るの。お母さん一緒に見に行こうね」と約束していたという。「せめてもう少し、一緒にいたかった。一番悔しいのは未希ですよね」と語り、「これから自分自身の人生を歩もうとした矢先でした。私たちが泣き言を言ってはいられない」と奮い立たせた。

 「いつかあなたと同じ世界に行ったときにはまた家族として過ごしてください」と清喜さん。声を振り絞るように、娘にこう語りかけた。 「未希、あなたの姿は見えなくても、私たちの心の中で生きています」

54NAME:2013/03/11(月) 12:14:28
診療で気づかされた東北人の強さ 国際支援チームの米国籍医師
2013.3.11 00:00
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130311/dst13031100040000-n1.htm

東日本大震災で各国から派遣された国際支援チームの中に米国籍の医師、生原(いくはら)睦夫さん(50)の姿があった。平成23年3月28日付の本紙で「母国、日本の力になりたい」と語った生原さん。支援活動を通じて心を動かされたのは「日本人、東北人の我慢強さ」だった。

 生原さんは「アイク生原」の愛称で日米間の野球交流発展に尽力した昭宏氏の長男として幼少時から米国で育った。長らく内科医として病院勤務をしていたが、2010年ごろから「苦境に立つ人々に希望を持ってもらえるような活動をしたい」とボランティア活動に身を投じた。

 震災時に米国の緊急災害医療支援チームの一員として最初に訪れた宮城県東松島市の避難所。家族を亡くした若い女性看護師が何十時間も休みなしで働いていた姿が印象に残っている。自分自身も悲しいであろう境遇の中、体調も心配だったので「大丈夫ですか」と尋ねると、女性は毅然(きぜん)とした様子で「他の人の方がもっと大変だから。嘆いている時間はないんです」と気丈に答え、被災者の世話を続けていた。

 「日本人は冷静で感情を表に出さないといわれるけど、他人への感情、思いを人一倍持っている。自分を犠牲にしてでも奉仕する」 生原さんはその後も被災地をたびたび訪問。昨年12月には宮城県南三陸町の中学校に、米ロサンゼルスの中学生がつづった励ましの絵はがきや手紙を届けた。「あなたたちのことを忘れてはいない」。被災地の子供にこう伝えたいとの思いからだった。

 生原さんは日本人に感謝しているという。「本当に苦しいときにこそ見せた、人間の『好意』を見ることができてうれしかった。あのときの日本人の振る舞いを私は忘れない」(福田涼太郎)

55NAME:2013/03/11(月) 12:25:41
「孫のために前を向かなきゃ。強くなると約束したから」 宮城・奥田江利子さん
2013.3.7 22:01
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130307/dst13030722040011-n1.htm

最近、初孫が「あーちゃん」と呼ぶ。まだ「ばあちゃん」とは発音できない。女の子なのに、目元は身重の妻を残して逝った長男にそっくり。生まれ変わりのように思えてならない。

 津波で両親と長男、長女を失い、昨年3月11日の政府主催追悼式で宮城県代表として言葉を述べた石巻市の会社員、奥田江利子さん(48)。携帯電話には東日本大震災の4カ月後に産声を上げ、1歳7カ月になる孫の梨智(りさと)ちゃんの成長が写真で記録されている。

 1年前にはハイハイもできなかった。あの日には生まれてすらいなかった。 「時間がたつとはこういうことなのかと思う。苦しくても、孫のためにも、前をむかなきゃと思う。受け止めきれない現実を受け止めて、何とか消化してきたような2年だった」

 梨智ちゃんは週末になると、嫁に連れられて奥田さんが暮らす仮設代わりのマンションを訪れる。10畳ほどのワンルームに家族3人で川の字になって寝る。棚には4つの位牌(いはい)が並ぶ。悲しみと隣り合わせの幸せ。

 「孫が元気に育つことが生きるための目標。ただ、この子もいずれ境遇を知るときが来る。それがふびんでならない」《悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。だから、もっと強くなるしかありません。涙を越えて強くなるしかありません》

 奥田さんは1年前の追悼式で読み上げた約束を振り返り、静かにつぶやいた。 「あの時ね、会場の最前列の席にうちの子たちがいるような気がしたんだよね。遠いところにいても、一番近くにいるんだよね」

 震災の日、1週間前に結婚式を挙げたばかりの長男、智史さん=当時(23)=は妹の梨吏佳(りりか)さん=当時(9)=と祖父母のいる避難所に向かい、一緒に津波で亡くなった。 「せめて妹だけでも連れて逃げていれば…、そう思う私は薄情なのかもしれない。息子は困っている人を見捨てて逃げられる性格じゃないと知っているのに」

 追悼の言葉をつづろうと1カ月間、毎晩机に向かったが、1行すら書けなかった。「私が代わってあげられれば」「長男だけでも」「長女だけでも」。堂々巡りの悲しみに3キロ痩せた。 「多くの人が家族を失ったのに、なぜ私が代表に選ばれたのか、子供たちが立ち直れと用意してくれた場所としか思えなかった」 締め切りを過ぎた翌日、一晩で書き上げた。

 4月からは、孫と嫁と一緒に暮らす。津波に流された自宅から北に17キロほど離れた場所に新築中の2階建ての家ができつつある。新しい仏壇も買った。 「孫と嫁、それに長男と長女、両親。家族7人で一緒に暮らすの」。奥田さんは笑顔を浮かべ、続けた。 「私は孫が生まれてきてくれて、おばあちゃんになれた。新しい家では家長としてお父さんの役目も増えるからね。春からは、どんなことがあってもくじけるわけにはいかないね。強くなると約束したのだから」

56NAME:2013/03/11(月) 12:39:59
悲劇も美談も…語り部の葛藤「忘れられるのが一番怖い」
2013.3.10 11:01
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130310/dst13031011030004-n1.htm

東日本大震災の体験を語り継ぐ「語り部」たちは「悲劇を風化させてはならない」との思いを深める一方で、遺族からは「苦しみを忘れたい」という声も少なくない。被災地では「あの日の記憶」をめぐる葛藤が、今もなお続いている。

 宮城県南三陸町の浜に残された赤い骨組みだけとなった防災庁舎の下で、「語り部」の鴻巣(こうのす)修治さん(67)が語り始めた。 「防災無線で淡々と避難を呼びかけた若い女性職員の声が忘れられません…」

 庁舎を見上げる10人ほどの観光客の目に涙が浮かんだ。震災前、観光ガイドだった鴻巣さんは震災の後、11人の仲間とともに観光客に被災体験を語り継ぐ「語り部」を始め、これまで3万5000人以上に「あの日の記憶」を伝えてきた。

 南三陸を皮切りに、観光ガイドや市民団体などによる語り部が沿岸部の被災地で相次いで立ち上がった。気仙沼、石巻、岩手県の宮古、陸前高田…。いずれも明治と昭和の2度の三陸地震で繰り返し津波に襲われた歴史を持つ土地だ。

 鴻巣さんは「取り返しのつかない大きな犠牲を払って学ぶこと。それが真の供養になる。全国からこの場所へ訪れて考えてもらいたい。私は忘れられるのが、一番怖い」と話した。

南三陸の語り部は、防災の教訓を語り継ぐ活動の一方、防災庁舎を震災のモニュメントとして保存を呼びかけている。広島の原爆ドームのように、歴史の教訓を忘れないための場所にしたいと考えている。 再び町に活気を取り戻したいという期待もある。平成22年に108万人を数えた観光客は、震災後の24年には89万人にまで落ち込んだ。故郷が生き残るためには、外からの人の流れがなければ立ちゆかない。

 しかし、悲しみの記憶を継承するには葛藤が伴う。庁舎で長男を亡くした南三陸町の牧野駿さん(74)は「いまだに船を出して網を張り行方不明の家族を捜している遺族もいる。悪夢のような記憶を庁舎を見るたびに思い出す。家族が死んだ場所を観光地にしてほしくない」。 「被災地を物見遊山の見せ物にするのか」という語り部への批判もある。

 鴻巣さんは語りの途中、感情がこみ上げ不意に涙が止まらなくなることもある。その夜は寝付けず、こう自らに言い聞かせる。 「観光とは、光を見ることだ。悲劇もあれば、美談もある。訪れた人は被災地の光る部分を、復興する姿を必ず見てくれるはずだ」

57NAME:2013/03/11(月) 12:41:48
「回復力と品位に世界感嘆」 復興への歩み、米国務長官が称賛
2013.3.10 07:56
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130310/dst13031007590000-n1.htm

【ワシントン=犬塚陽介】ケリー米国務長官は8日、東日本大震災の発生から2年となる11日を前に声明を発表し、日本人が悲劇を乗り越えるために示した「回復力と品位に世界が感嘆した」と称賛。復興に向けて着実に進んでいるとして、米国も「役割を果たしていることをうれしく思う」と両国の強い絆を強調した。

 ケリー長官は声明で、日米関係は「相互に助け合うことなど、共通の価値観を基盤に構築されている」と指摘。2005年のハリケーン「カトリーナ」で日本が米国を支援したように、「米国も日本の援助にためらいはなかった」と回想した。

 米軍と自衛隊が協力した救援活動「トモダチ作戦」は多くの被災者を救い、全世界に日米関係の「深遠で永続的な強さを示した」とも述べ、若者を中心とした今後の人的交流の継続にも期待を示した。

 ケリー長官は犠牲者遺族に弔意を示し「悲しい日に思いをはせながら、太平洋を隔ててつなぐ深い絆と友情を思い出し、(絆と友情を)新たにしたい」と強調した。

58NAME:2013/03/11(月) 12:49:08
復興への願いを音色に託して…一本松で合奏
http://video.jp.msn.com/watch/video/%E5%BE%A9%E8%88%88%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%A1%98%E3%81%84%E3%82%92%E9%9F%B3%E8%89%B2%E3%81%AB%E8%A8%97%E3%81%97%E3%81%A6-%E4%B8%80%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E3%81%A7%E5%90%88%E5%A5%8F/2r5es8h9h?cpkey=dc2c3d9a-5397-dfc9-f77e-6726b6a26afb%257c%257c%257c%257c

東日本大震災のモニュメントとして残すため、復元作業が行われている岩手・陸前高田市の「奇跡の一本松」の前で2日、被災した松で作った木の笛・コカリナの大合奏が行われた。
Date: 13/03/04 再生回数: 446

59NAME:2013/03/11(月) 13:12:03
「支援継続を約束」在日米軍司令官
2013.3.11 12:12
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130311/dst13031112130021-n1.htm

 在日米軍のアンジェレラ司令官(空軍中将)は11日、東日本大震災から2年に当たって犠牲者に追悼の意を表し「日米関係は太平洋地域における礎であり、友情と支援の継続を約束する」とのコメントを出した。

 被災後の日本の状況について「災害対応と絶望から立ち上がる回復力の強さを、世界中が目の当たりにした」と指摘。米軍が自衛隊と連携して被災地を支援した「トモダチ作戦」にも触れ、「東北は迅速に、効果的に復興の道を歩んでいると思う」とした。

60NAME:2013/03/12(火) 01:22:52
【東日本大震災2年】中国が追悼式ボイコット 台湾の「指名献花」に反発
2013.3.11 22:31 [中国]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130311/plc13031122320020-n1.htm

 中国の韓志強(かんしきょう)駐日臨時代理大使が11日に行われた東日本大震災の二周年追悼式を急遽(きゅうきょ)、欠席した。式典の献花に際して国名を読み上げる「指名献花」に、今年から台湾が加わったことを受けた、事実上のボイコットとみられる。

 中国外務省は11日、公式サイトに「追悼式で台湾の関係者を外交使節や国際機構と同等に扱った」として、「日本のすべての行いに強烈な不満と抗議を表す」とする華春瑩(かしゅんえい)報道官の談話を掲載した。

 台湾の待遇をめぐっては、昨年の式典で、多額の義援金を寄付した台湾を指名献花から外して冷遇したことが批判され、今回、安倍晋三政権が是正した。

 11日の式典には、台湾の対日窓口機関「台北駐日経済文化代表処」の沈斯淳(しんしじゅん)代表(駐日大使に相当)が出席した。沈氏は各国外交団や国際機関の代表が並ぶ来賓席に着席し、指名献花も行った。昨年は同代表処の副代表が企業や民間機関の関係者を集めた一般席に案内された上、一般参加者として献花した。

 政府は今回、150以上の国・地域の代表を招待し、120以上の国・地域の代表者が参列した。韓国代表は欠席した。

61NAME:2013/03/12(火) 01:28:11
【東日本大震災2年】菅官房長官「あらゆる方策で復興加速化」
2013.3.11 12:02
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130311/plc13031112030007-n1.htm

菅義偉官房長官は11日の記者会見で、東日本大震災から2年を迎えたことに関し「政府としてあらゆる方策を講じて復興の加速化を進めていく」と述べ、復興強化への決意を改めて示した。 また、菅氏は「亡くなられた方のご冥福を慎んでお祈りを申し上げる。さらに遺族の方やいまなお困難な状態にある方に心よりお見舞いを申し上げる」と語った。

首相、汚染土壌「平成27年1月に搬入開始」
2013.3.11 21:23
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130311/plc13031121250018-n1.htm

安倍晋三首相は東日本大震災から2年を迎えた11日、官邸で記者会見し、東京電力福島第1原発事故の汚染土壌などを保管する中間貯蔵施設について「安全性に配慮して、平成27年1月から搬入を開始できるよう地元の理解を得たい」と述べた。施設の建設をめぐっては地元の反発で候補地決定がずれ込んでいる。 住居の高台移転に関しては「行政手続きを大胆に簡素化する」と移転の加速化を約束した。原発被災地の道路や医療などの復旧時期を明示した工程表を、今夏をめどに公表する考えも示した。

62NAME:2013/03/12(火) 01:30:21
安倍首相が動画メッセージ「東北に春が来ないと日本の春も来ない」
2013.3.11 08:55
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130311/plc13031108570004-n1.htm

安倍晋三首相は11日朝、東日本大震災から2年にあたり、自身の動画メッセージを動画投稿サイト「ユーチューブ」で公開した。首相は「東北に春が来ない限り日本に本当の春はやって来ない。一日一日の重さを忘れることなく、必ずや復興を加速させていく」と表明、国民にも東北へのさまざまな支援を呼び掛けた。

 メッセージでは、冒頭、家族を失った被災者らに哀悼の意をささげた。続いて、首相の被災地訪問の様子を映しながら「仮設住宅でいまだ続く皆さまのご苦労を痛感した一方で、助け合いながら懸命に前を向く姿に確かな希望を見つけることができた」と述べた。

 さらに、ボランティアや寄付、東北産品の購入などを通じ「私たちの東北を皆で支えていこう。東北から芽生え始めている日本の未来を切り開く新しい可能性を、皆で育んでいこう」と訴えた。

スマトラ被災地でも追悼 インドネシア・アチェ
2013.3.11 16:50
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130311/asi13031116510002-n1.htm

2004年のスマトラ沖地震による大津波の被災地、インドネシア・アチェ州で11日、発生から2年となった東日本大震災の犠牲者を追悼する式典が開かれた。 式典は州都バンダアチェの中学校で行われ、地元の子供たちも参加。日本語の歌を歌うなどして、東日本大震災の復興を祈念。

 バンダアチェ市は日本の被災地との交流を深めており、今月、市職員2人を研修生として宮城県東松島市に派遣した。再建への知恵と経験を共有しようとの取り組みだ。 04年の大津波ではインド洋沿岸諸国で計22万人以上が死亡した。アチェ州は最大の被災地で16万人以上が犠牲になり、インフラなどが壊滅的被害を受けた。(共同)

ニューヨークでも追悼式典 同時テロの遺族らも参加
2013.3.11 10:03
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130311/amr13031110060001-n1.htm

【ニューヨーク=黒沢潤】米ニューヨーク市の教会で10日午後(日本時間11日午前)、東日本大震災から2年の追悼式典が開かれた。ニューヨーク在住の日本人や訪日経験のある米国人、米中枢同時テロの遺族ら約550人が参加した。

 主催者の1人でニューヨーク在住のシンガーソングライター、AK(柿原朱美)さんは、復興に向けた被災地での取り組みは不十分だと強調し、震災の記憶を風化させてはならないと訴えた。

 一方、同時テロで消防士の親族を失ったグロリア・ウィリアムズさんは「愛する人を失った痛みはよく分かる」などとスピーチし、震災の遺族や被災者らを励ました。

 式典会場では、震災で被害を受けた福島県相馬市の「みなと保育園」の園児らの元気な様子がビデオを通じて紹介された。不自由な暮らしを強いられつつ、支援への感謝の言葉を伝える園児らの姿に、涙ぐむ年配の参加者もいた。

63NAME:2013/03/12(火) 12:30:03
震災式典欠席、中国に「極めて残念」と外相 韓国からは「欠席の意図なかった」
2013.3.12 10:08 [韓国]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130312/plc13031210090004-n1.htm

 岸田文雄外相は12日午前の記者会見で、中国の韓志強駐日臨時代理大使が11日の東日本大震災二周年追悼式を欠席したことについて「台湾の扱いを理由として欠席する旨の連絡が事前にあった。極めて残念なことだ」と述べた。中国側は式典の献花で国名を読み上げる「指名献花」に今年から台湾が加わったことを問題視したという。

 日本側は事前に台湾の指名献花について「台湾に関するわが国の立場を変更するものではない」と、理解を求めていた。岸田氏は会見で「日中関係については大局的な見地から、戦略的互恵関係の原点に立ち戻ってしっかりと対応していきたい」と強調した。

 一方、式典に欠席した韓国の申(シン)●秀(カクス)駐日大使は11日夜、外務省の河相周夫事務次官に「欠席する意図はまったくなかった。事務的なミスによるものだ」と説明した。 ●王へんに玉

64NAME:2013/03/16(土) 00:50:11
仙台に国内最大規模の複合書店 「蔦屋書店」が16日開店
2013.3.15 19:36
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130315/biz13031519370028-n1.htm

蔦屋書店を運営するトップカルチャー(新潟市)は15日、店舗面積約3千坪と国内最大規模となる複合書店「蔦屋書店仙台泉店」(仙台市泉区大沢)を報道陣らに公開した。16日に開店する。

 1階では約80万冊の書籍、ワインなどの輸入食品を販売。玩具や児童書を充実させたキッズエリアも設けた。2階は、団塊の世代を意識し往年の名画や音楽のDVDやCDをそろえた。旅行や台所、ペット用品なども扱う。カフェを併設し、3世代の家族連れが楽しめる店舗を目指す。

 同社の清水秀雄社長は記者会見し「県外の企業が出店することで、被災地は安心安全というイメージを広めたい」と話した。

仙台市内に東北最大級の水族館を 三井物産など6社が建設、2年後開業へ
2013.2.15 18:19
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130215/biz13021518200020-n1.htm

三井物産は15日、横浜・八景島シーパラダイスなどを運営する横浜八景島や地元企業との6社共同で新会社を設立し、宮城県仙台市に東北最大級の水族館を作ると発表した。総事業費は約65億円で、2015年の開業を目指す。被災地復興のシンボルとして、三陸の豊かな海をアピールする新たな観光名所に育てる。

 新会社「仙台水族館開発」の資本金は2500万円で月内に設立する。三井物産が47.6%を出資。残りをカメイ、横浜八景島、ユアテック、河北新報社、仙台三越が出資する。

 横浜八景島が新会社から賃貸する形で運営し、初年度約130万人の来場を見込む。

 三井物産が水族館事業に参画するのは初。プロジェクト全体の管理に加え、飲食や物販、一定エリアを企業に貸し出し、エンターテインメント性も高める。今後、宮城野区高砂中央公園整備地の一部を借り受けることで関係機関と協議するほか、老朽化が進むマリンピア松島水族館の飼育魚類や飼育員らを迎え入れることも検討している。

65NAME:2013/03/19(火) 05:08:53
国生さゆりが宝くじ当選金100万円を震災被災地へ寄付
2011年3月16日(水) 13時35分
http://www.rbbtoday.com/article/2011/03/16/75227.html

タレントの国生さゆりが、昨年11月に宝くじで当てた100万円全額を東日本大震災の被災地へ寄付することを自身のブログで明らかにした。

 「私にできること…」と題した15日付け日記では、地震や原発のことを気になりながらも日常を過ごしている自分がいると述懐。そして「わたしも日本国民の1人として協力したい!」として、「昨年末の宝くじ当選金100万円を全額寄付させて頂こうと思います」と当選金を寄付する考えを明らかにした。

 ブログでは「みんなで力を合わせ自分が出来ることから被災地の人たちを援助しましょう。一日でも早く復興し平和な日々が訪れますように…」と結んでいる。こういった芸能人たちの震災支援の輪が広まっている。

66NAME:2013/05/03(金) 18:18:37
【中国BBS】震災後にはっきり分かった「日中の民度の違い」
2013年4月26日 10:23 (サーチナ)
http://topics.jp.msn.com/wadai/searchina/article.aspx?articleid=1804562

スレ主は、東日本大震災の被災者と中国四川省で発生した地震の被災者がそれぞれ、救援物資を受け取る際の様子を撮影した写真を紹介した。中国の被災者は我先にと物資に群がる一方、日本の被災者たちは長い行列を作り、秩序が保たれている様子が分かる。

「民度が低いというより中国人は頭が良いと言ったほうが適切だ。日本人は割り込むなんてことは考えつかず、常識にとらわれている。割り込むことの利益を考えられないのだ」と列の割り込みを正当化しているのか、あるいは皮肉ともとれる意見もあった。

東日本大震災が発生した際、極めて甚大な被害が出たにもかかわらず、被災地の秩序は正常に保たれていたことに世界中が驚いたという。

 中国に限らず、米国ニューオリンズでハリケーンによる災害が発生した際は略奪なども発生、治安が大幅に悪化した。災害発生時に日本人のように行動できる国民や民族は世界中でも少ないはずで、中国や米国での民度が低いというよりも、日本人の民度が高いと言うほうが適切だろう。(編集担当:畠山栄)

67NAME:2013/05/05(日) 04:58:15
中国系メガソーラー、続々と東北進出 国産後退、エネルギー安保に影
2013.5.1 10:27
http://sankei.jp.msn.com/science/news/130501/scn13050110290000-n1.htm

東日本大震災で代替エネルギーに注目が集まる中、大規模太陽光発電所(メガソーラー)を展開する中国系を中心とした外資系企業が、東北で土地確保を本格化させている。国が固定価格買い取り制度を開始して「採算ベースに乗った」(資源エネルギー庁)という背景があるが、地元からは「制度を利用して利益をあげたら撤退するのでは」と不安の声もあがる。国はエネルギーセキュリティーの重視を掲げるが、国内メーカーの競争力低下を勘案しないままの門戸開放に疑問符が付いている。(大泉晋之助、渡辺陽子)

 「未利用地の有効活用につながる」。市有地2カ所で中国系企業によるメガソーラー事業が予定される岩手県奥州市では、担当者が参入を歓迎した。場所の一つは、解散手続きをしていた土地開発公社の未利用地約4・3ヘクタール。処分しようとしていたところ落札したのが、メガソーラーを開発し世界で事業展開する中国系企業だった。

 一方、不安を口にする自治体もある。「海外資本の進出なんて、これまでなかった」。岩手県金ケ崎町の担当者の表情は複雑だ。同町では、国が太陽光発電の固定価格買い取り制度を開始した平成24年7月前後にメガソーラー事業が急増。民有地4カ所で事業契約が締結され、うち1件が大手中国企業の子会社だった。同町のケースは民有地への進出のため、細かな契約内容に町が介入できない。

後れ取る国産

 メガソーラー市場は17年ごろまで、日本企業が世界シェアの大半を占めていた。その後、安価な中国系・台湾系企業が急伸し、22年には中国・台湾で世界シェアの6割程度、日本は1割を切るまでに低迷する。資源エネルギー庁新エネルギー対策課によると、国内で稼働するメガソーラーのうち、8割は中国・台湾などの海外製品という。

国内メーカーの競争力底上げをなおざりにしたまま、急速に門戸を開いた国の施策に、東北大学大学院の桑山渉特任教授は「国内メーカーを中心とした仕組みを作らず、中途半端な施策を進める国のあり方には疑問。電力料金でまかなわれる買い取り制度は、国民の税金を投入しているようなもので、それが海外メーカーに吸い取られるのは問題だ」と指摘している。

68NAME:2013/05/24(金) 22:39:44
紀伊半島に大津波の痕跡みつかる 過去最大規模か
2013.5.22 12:35
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130522/wlf13052212390015-n1.htm

紀伊半島で約8千年前から巨大津波が起こっていたことを示すとみられる堆積物を発見したと、産業技術総合研究所(茨城県つくば市)などが明らかにした。津波規模は過去最大とされる宝永地震(1707年)と同程度とみられる。

 約8千年前の津波の痕跡とみられる層は、繰り返しを示すものとしては過去に見つかった六千数百年前より古く、最古という。 チームは昨年末、紀伊半島にある高校(和歌山県串本町)の校庭でボーリング調査を実施、深さ4〜9メートルの地層を柱状に6本掘削した。その中に、津波によって運ばれたとみられる砂の層が含まれていた。

 掘削場所周辺は、南海トラフ沿いで安政(1854年)、昭和(1944、46年)の地震で津波による大きな被害は確認されておらず、それらより大きな地震でおきた津波で運ばれた可能性がある。

69NAME:2013/07/28(日) 01:33:16
「震災起きて、時代に追いつかれた」 宮崎駿監督の発言でまた物議
2013/7/27 18:01
http://www.j-cast.com/2013/07/27180307.html?p=all

「従軍慰安婦」に関する発言などで度々話題になる宮崎駿監督(72)が、またしてもネットを騒がせている。 インタビューの中で、東日本大震災についての発言に目を付けられ、「これは酷い」「さすがにドン引き」などと批判されている。

「時代の先を行っているつもりだった」2013年7月27日、日本経済新聞の電子版に宮崎監督のインタビューが掲載された。

現在公開中の新作映画「風立ちぬ」はこれまでのようなファンタジーではなく、初めて実在の人物を主人公にし、関東大震災の描写もリアルさを追求して盛り込んだことについて、監督はこう述べた。

「(前作の)『崖の上のポニョ』をやっている時には僕の方が先に行っているつもりだったのに、時代の方が追いついてきた。(今回の映画で描いた)関東大震災のシーンの絵コンテを書き上げた翌日に震災(東日本大震災)が起き、追いつかれたと実感した」 この発言がネットユーザーの目に留まり、「えええ 震災を自分が導き起こしたと言うのか?」「震災を持ち出して、時代が追い付いたは酷い物言いではないかなぁ」「さすがにこの発言にはドン引きっすわ…」「ジブリ作品は見る価値がなくなった」など、「不謹慎」ととらえた人から批判の声が上がった。

NHKでも、同様な発言をしていた
一方、ネット上では、「これからの辛い時代を予期して描いていたら、とうとう震災も起こってしまった」「崩壊目前の近大社会に警鐘を鳴らそうと作品作ってたら社会の方がそれより早くえらいことになったから間に合わなかったと感じた」という意味で発言したのでは、という指摘も上がっている。

宮崎監督はNHKが13年7月15日に放送したインタビューでも、自身の作品と「時代」との関連についてこう語っている。「時代を読むというか、今何がいるんだろうということを考えて映画を作ってきたが、だんだん追いつかれて、(大津波のシーンがある)ポニョを作った後すぐ3月11日が来て、風立ちぬを作ってたら時代に先を越されたような感じになって…」

70NAME:2013/07/31(水) 20:59:41
復興予算1兆2,000億円が宙に浮く 入札不調などが要因
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00250950.html

2012年度の東日本大震災の復興予算の中で、使われるめどが立っていない予算の総額は、1兆2,000億円にのぼる。
復興とは直接関係のない事業への予算が問題になる中で、なぜ、多額の予算が宙に浮いてしまったのか。
宮城・石巻市雄勝町は、大型バスが公民館の屋上に乗り上げるなど、津波で甚大な被害が出た。
漁港は、およそ1メートルも地盤沈下が進み、大潮の時期には、海水が岸壁を乗り越え、一面が冠水してしまう。
地元の漁師の佐藤 重兵衛さんは「満潮だと、ここまで(水が)来るから、船を停船できないんですよ。わたしたちも、お願いしているんだけどね。なかなか(復旧工事が)前に進まないね」と話した。
石巻市は、岸壁をかさ上げする復旧工事を計画し、これまでに5回にわたって入札が行われたが、受注したいという業者が集まらず、入札不調が続き、今も工事は行われていない。
地元の漁師の佐藤 重兵衛さんは「乗り場を安全に確保するために、自分でやった」と話した。
地元の漁業関係者らは、資金を出し合って、応急処置で漁船の船着き場周辺をかさ上げしたが、依然、冠水は続いている。
被災地の復興事業が進んでいない現状。
それは、31日に発表された復興予算の執行状況でも明らかになった。
2012年度に計上された復興予算、およそ9兆7,000億円のうち、およそ1兆2,000億円が、使うめどの立たない「不用額」となっていたことがわかった。
この復興予算をめぐっては、ご当地アイドルやゆるキャラなど、震災とは直接関係がない活動予算に充てられるケースが、次々と問題化している。
その一方で、肝心の被災地での復興事業に充てられた予算が、執行できない現実がある。
宮城県では、復興予算で行われるはずの工事が、入札不調で進まないケースが、2012年度は全体の29%に及んだという。
その原因は何にあるのか、宮城県の担当者を直撃した。
宮城県出納局契約課の佐藤幸夫課長は「大量工事の発注が多いというのが、一番の原因なんですけれども。それにともない、業者さんにしても、それに対応できる労働者・技術者がいないと。それが、復興スピードを遅らせて、工事の完成が遅くなると」と話した。
宮城・女川町で、2013年2月に行われた、復旧工事の入札会の様子を映した映像がある。
漁港のかさ上げ工事の指名競争入札で、指名を受けた16社のうち、14社が入札を辞退した。
その後、2度目の入札を経て、ようやく工事の受注先が決定した。
宮城県出納局契約課の佐藤幸夫課長は「(入札不調のほかの要因は?)(工事の)材料が少なくなってきている。特に、生コンクリート。(復興関連工事の)平成25年度(2013年度)の発注見込みでは、平成24年度(2012年度)に比べて、約2.7倍の発注件数を見込んでいる。(入札不調を)想像するだけで、ちょっと怖いところがある」と話した。
宮城県の建設業者は「もう、ぎりぎりですよね。施工の方も大変です」と話した。
復興庁では、復興事業が進まない原因として、こうした入札不調に加え、まちづくり計画で、地元住民との調整がつかないケースなどを挙げている。
復興庁によると、事業の遅れなどで、年度内に実施できなかった総額は、3兆4,000億円と、復興予算全体の35%にのぼるという。
こうした予算は、2013年度以降に繰り越され、復興財源になるということだが、あらためて復興事業の遅れが浮き彫りになった形となる。
宮城県出納局契約課の佐藤幸夫課長は「国からいただいている復興予算で、(平成)27年度(2015年度)までと言われているんですけど、業者からは『工事を平準化してくれ』と、要請もあります。ですから、27年度を超えて、もう少し長くして、平準化することによって、(工事の)集中化をなくす」と話した。
使われていない復興予算には、さまざまなものがある。
自宅再建などの支援金については、およそ1,400億円が、使うめどすら立っていない状況となっている。
これは、住宅の解体の遅れや、再建場所となる高台への移転が進まないのが、その理由となっている。
さらに、除染費の予算は、6,556億円の予算のうち、およそ4分の1にあたる、1,500億円以上が使われなかった。
汚染した落ち葉や、土壌などの仮置き場を確保できないことが、大きな原因となっている。

71NAME:2013/07/31(水) 21:12:06
復興予算 1.2兆円使われず
7月31日 11時56分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130731/k10013424211000.html

昨年度の東日本大震災の復興予算のうち実際に使われたのは全体の64%にとどまり、およそ1兆2000億円が使いみちがない「不用額」となったことが分かり、復興事業が円滑に進んでいない実態が改めて浮き彫りになりました。

昨年度の国の決算によりますと、一般会計と特別会計で震災からの復興事業に充てられた9兆7402億円のうち、実際に執行されたのは6兆3131億円で全体の64.8%にとどまりました。
執行されなかった3兆円余りのうち、およそ2兆2000億円は今年度の繰り越しとなりましたが、1兆2240億円については、新たな町づくりや除染の実施計画の策定などで地元との調整に時間がかかったことなどから事業のめどが立たず、使いみちのない「不用額」となりました。
内訳は▽漁港や道路などの復旧事業がおよそ6300億円、▽除染などにかかる事業がおよそ1500億円、▽住宅再建の支援事業が1400億円などとなっていて、復興事業が円滑に進んでいない実態が改めて浮き彫りになりました。政府は、昨年度の「不用額」を今後、特別会計に繰り入れ、復興事業の財源に充てることにしていますが、事業の停滞は被災地の再建の遅れにつながるだけに、復興予算の執行を着実に進める体制の整備が急がれます。

72NAME:2013/09/16(月) 12:32:18
【子供たちと震災 2年半のいま】
(4)増える児童虐待 避難都市 ゆがむ母子
2013.9.16 07:00
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130916/dst13091607000003-n1.htm

「ママは悪くないんだよ、僕が悪いんだよ」 小学1年の男児は母親にたたかれても、尻をけられても、母親をかばった。東日本大震災で被災した宮城県沿岸部で自宅を流され、仮設住宅で暮らす一家。母親が長男を虐待し始めたきっかけは、父親が仕事をしないことだった。

 祖父母と両親、5歳の弟との6人家族。父親は仕事を失い、祖父母の年金で暮らしていた。祖母は嫁である母親につらく当たり、孫の男児が食卓の料理をこぼしたり、狭い仮設を走り回ったりすると、「うるさい」と言ってしかった。

 追い込まれた母親は「あんたが騒ぐからいけないんでしょ」と男児をたたき、突き飛ばした。大きな声を上げ、えり首をつかんで引っ張ることもあった。 男児は「おばあちゃんが怒るからママが怒るんだ。僕が悪いんだ」と自分を責めた。一方の母親は、子供に手を上げた夜、自責の念からふとんの中で泣いた。一家を支援する塩釜市の支援団体代表、阿部泰幸さん(51)は「みんな仮設の中で息を詰めながら生活している。こうした家庭内の人間関係の問題が今、非常に増えている」と話す。

突出する「いわき市」

 児童虐待の対応件数が昨年度、仙台市を除く宮城県と福島県でいずれも前年度から1・2倍増え、全国平均より増加率が高かった。 ただ同じ被災地でも地域差がみられる。突出して増えたのは東京電力福島第1原発のある「浜通り」地方を管轄する浜児童相談所の管内。前年度の56件から120件と2・1倍増えた。 福島虐待問題研究会「エフパネットふくしま」の影山和輝理事(48)は「浜通りの中心都市であるいわき市で、地域の異常事態が2年半続いていることを考える必要がある」と指摘する。 人口32万7千人のいわき市に、原発事故の避難者2万4千人が流入し、仮設や借り上げ住宅で暮らす。さらに原発事故の収束作業や除染の「後方基地」として全国から作業員が集まる。

浜児童相談所の安部智彦所長(58)は「元々の住民からすれば、地域の中に知らない人々が入ってきた格好だ。また仮設住宅は壁が薄く泣き声が聞こえやすい」と話し、こう続けた。 「結果的に、近隣住民からの『泣き声通報』が増えた。子供の安否を確認すると『念のため対応しておいたほうがいい』という事例がどうしても多くなった」

まずは親の生活再建

 浜児童相談所によると、現在は子供を親から引き離さなければならないほど深刻な虐待が増えているわけではないという。子供を一時保護する割合は全体の3割、児童養護施設など施設へ入所させる割合は1割で、いずれも原発事故の前から変わらない。 福島県南の児童養護施設「堀川愛生園」の伊藤信彦施設長(51)は「親を取り巻く状況が変わらなければ、ストレスはたまる一方となる。今後は施設で受け入れる子供が増えるのではないか」と懸念する。

昨年7月の薄曇りの夜、福岡県久留米市の公営住宅近くで、5歳の女児が泣きながら歩いているところを保護された。30歳の母親が、自宅で女児の首を絞めたとして逮捕された。母親は原発事故後、郡山市から女児ら娘4人を連れて自主避難していた。傷害罪に問われ、懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。

 郡山市などを管轄する県中児童相談所の市川英雄次長(56)は言う。 「夫を残しての自主避難は生活費も二重になり、母子だけの生活は虐待のリスク要因ともなる。自主避難に限らず、親の生活を再建できなければ、子供の生活、成長を保障できない」

児童虐待

 児童虐待防止法は、(1)体に暴行を加える身体的虐待(2)わいせつな行為をしたり、させたりする性的虐待(3)食事をさせないといったネグレクト(育児放棄)(4)暴言などで傷つける心理的虐待−の4類型を規定。厚生労働省によると、全国の児童相談所が対応した虐待は平成2年度から増え続け、24年度に初めて6万件を超え6万6807件。前年度から1・1倍増えた。

73NAME:2013/10/09(水) 00:43:55
津波巨大化メカニズム解明 発生域2カ所、初の特定
2013.10.8 11:42
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131008/trd13100812450001-n1.htm

東日本大震災で想定外の巨大津波が発生したことについて、三陸沖の別々の2カ所で発生した津波が重なったため巨大化したことを海洋研究開発機構などのチームが突き止め、7日付の英科学誌に発表した。大震災の津波はこれまでも、地震の震源近くで発生した波と、別の場所でできた波が重なった可能性が指摘されていたが、発生地域が特定されたのは初めてという。

 新たに特定されたのは震源の北東約150キロの海域。この場所は、甚大な被害が出た明治29年の明治三陸津波の発生源と同じ地域。海洋機構の市原寛技術研究副主任は「近くで地震が起きた場合に、影響を受けて津波を起こしやすい地形的な特徴があるのかもしれない」と話した。

 チームは岩手県沖で、日本海溝から東へ約50キロの海底に設置していた、地球の磁場を観測する装置を震災後に回収。磁場に急激な変動があったことが分かり、津波の影響だと判明した。詳しく分析し、震源で起きた津波とは異なる周期の津波が、震源から離れた場所で起きていたことを突き止めた。

 チームによると、震災の津波は、震源周辺で起きた長周期の津波に、今回判明した海域から発生した短周期の津波が重なり巨大化した。津波の遡上(そじょう)高が20メートル以上の地域が岩手県中部に集中した理由も、これで説明できるという。

74NAME:2013/10/11(金) 02:51:30
東日本大震災の人工地震証拠! 3箇所同時核爆発による海底地盤破壊によっておきる福島原発を狙った津波。科学的な数値計算シミュレーションを重ねて引き起した3連発の核爆弾による人工地震。そしてその結果としての波の重ね合わせによって見事に日本側だけに大津波が押し寄せたこれだけの証拠。放射能汚染が震源地の海底に高濃度なのが核の確たる証拠。
更新日: 2013年04月25日
http://matome.naver.jp/odai/2133857093200105701

福島第一原発はなぜ狙われたのか。
http://cosmo-world.seesaa.net/article/194452018.html

1944 東南海地震・1945 三河地震
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1944-tounankaiJISHIN/index.html

3・11[人工地震説の根拠]衝撃検証
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library512.html

震源地で、なぜか放射線濃度が高い!
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library512.html

75NAME:2013/10/11(金) 04:15:59
3.11は核爆弾による人工地震ですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1083935215

東日本大震災は5連続地震+海底崩壊→核爆発テロの痕跡 京大の川辺先生、身辺に気を付けて
http://ameblo.jp/ruroibrown/entry-11625127019.html

76NAME:2013/10/27(日) 03:42:33
被災地復興予算の流用問題
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7745060.html
2012-10-12 17:25:55

予算の検証委員会に民主党議員が欠席したことも納得いかない。民主党側は委員会のメンバーが決まってないとかなんとかいっており、復興予算の使い道の正当性を主張しています。これはもう一刻も早く解散総選挙、民主党には任せておけませんね。

消費税増税法案通過の際に、その話はすでに既定の事実としてニュースその他で広く語られていました。にもかかわらず、法案を通過させたのは、民主党ならびに自民党ですから、どちらにも任せておけないとなります。

与党である民主党。野党である自民・創価学会で合意した予算配分(使い道)です。既に、復興予算を沖縄に消費する事は正当性があります。日本は、中国・韓国と異なり法治国家ですよね。国会で議決した内容に従って、予算を使っているに過ぎません。

77NAME:2013/10/27(日) 03:46:20
復興予算の無駄遣いについて民主政権が批判されていますが、自公政権だったら表にすら出なかった?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7792748.html
投稿日時 - 2012-11-11 18:32:58

大体カルト創価が母体のヌエ/信念が無くアッチコチふらふらで都合の良い所とくっ付くがヌエ/政党公明とくっ付いてて、創価信者の応援が無ければバッチ付けれ無い人が2ケタ単位でいる、でそれを同じ自民党員が同僚を批判出来ない体たらくこんな政党が何偉そうな事言ってるのって感じです、安倍.石破等自民幹部は反省してるのって感じなんですが、あの河野談話自体未だ取消も出来ない癖に復興予算無駄遣いで偉そうに民主批判するのはオコマガシイんですが。親シナ.朝鮮.米議員だらけで好き勝手に今迄政治を持て遊んで繰れた結果が糞民主政権で全体に良く成るどころか逆が今の現実かと。

78NAME:2013/10/27(日) 03:50:40
復興予算を流用してしまった社民党と福島瑞穂の今後
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7925450.html
投稿日時 - 2013-02-03 10:24:16

こともあろうか 国会やメディアで復興予算不正流 用問題に関して政府を厳しく追及していたま さに同じ時期に、社民党の本部が入っていた 社会文化会館(東京都千代田区)で昨年中に 実施された耐震診断費用の一部や解体費用の 助成の一部に、東日本大震災の復興予算がま さに使われていたのです。(朝日新聞スクープ)

朝日記事によれば、「福島党首は1日、朝 日新聞の取材に応じず、コメントしなかった 」コメント拒否している模様です。 社民党はもう終わりだと思いますか?終わりだとしたら、福島瑞穂の今後は?私は、福島瑞穂は今後は民間人として従軍慰安婦問題に積極的に関わりそうな気がします。鳩山さんや加藤さんが中国に行ったように、福島瑞穂は韓国に行って積極的な活動を始めるのではないでしょうか?

旧日本社会党は土井たか子が党首の頃は、朝鮮総連と協力して日本人拉致事件にかかわった北朝鮮労働党保衛部の日本支部のような働きをしておりました。 その事実が国民に知れ渡り、多くの党員は売国行為を隠すために民主党に逃げ込み、残党も社民党と名前を変えて出直そうとしたが、その甲斐なく遂には壊滅状態になってしまったのです。

 だから、今回の民主党会館の引越しにも、復興支援予算の一部を使用した事は言語道断の行為だと思います。 支持母体である朝鮮総連のパチンコマネーや北朝鮮の支援金に委ねるべきだったと思います。

 今後は、福島瑞穂は、岡崎トミ子など反日在日議員と一緒になって、「強制連行ニダ!」「従軍慰安婦ニダ!」「謝罪と賠償をしろ!」と叫んで、日本国民の血税に強請りタカリをすることや、そのデモに参加して反日活動をしていく事でしょう。

社民党は国民に対し、害をなす政党です、旧社会党時代にも、電力労連に対し停電ストを強要してきました、あの当時それにより数千人の人の命が奪われると聞いています。社民党になっても、北朝鮮の拉致問題はないと断言し、警察の捜査を妨げています、スパイ防止法においても断固反対し、成立していません。

オウム問題でも破防法適用を反対し、壊滅できませんでした、いまだに被害者が増えています。過去のあやまちを反省せず、また繰り返す、ろくでもない政党です。

79NAME:2013/10/28(月) 03:20:19
震災復興の遅れは何が原因ですか?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7878238.html

神戸では我さきにと復興を自力で急いで何とか元の街を再建しなければならないと言う雰囲気が支配的でした
一方東日本大震災の時には責任問題が復興を複雑且つ長期化させている一因である事は明らかです
(1)地震と津波と放射能と政策上の災害である
(2)人心が西と東ではかなり差異がある
(3)まだ二年にも満たない期間で一体何が出来るのか
(4)報道やマスコミが扱いすぎて常に国民の衆目を集めているが為に長引いている様に見えてしまう
(5)既存政権とは違う社会党(阪神大震災)と民主党(東日本大震災)と言う反体制派の時期に発生している と言う事実
(6)18年前とは社会情勢や景気の上で大きな違いが存在している事
(7)自助努力が完全に不足していると言う事実
(8)自然災害である大震災が社会問題化した事実
(9)理由は数え上げれば限がないでしょう と言う状況から来る焦り

お話を伺って感じたのは、もしかすると、(被災者の方からお叱りを受けそうですが)やはり国や自治体が何をしてくれるのをジット待っているという姿勢が最大の原因なのかなとも感じました。この辺は西日本の巨大な経済地である阪神地域と、東北の貧しい地域に住んでおられる人たちの県民性の違いに由来するのかも知れませんが ・・・

80NAME:2013/10/28(月) 23:15:38
東日本大震災 NGO 詐欺
ご存知ですか 義援金は誰に渡るのか  経済の死角 (現代ビジネス [講談社])
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/107.html

警察庁に寄せられた義援金詐欺の相談件数は3月29日の時点で158件にも上った。「相談は1日10件ペースで増えていて、被害届もすでに10件受理しています。『震災で不足している注射針を送るために金やプラチナを集めている』と老女を騙して指輪2個を詐取したケースなど、さまざまな詐欺が横行しています」(警察庁関係者) 募金詐欺が横行するのには、こんな事情があった。「実は募金には法的な規制がほとんどありません。どこからも許可をとる必要はないし、領収書も発行する必要もない。収支報告を公表している団体もありますが、ほとんどはしていない。ごまかそうと思えばいくらでもごまかせるのが実状です。

歌手のGACKTが設立した『SHOW YOUR HEART』基金は当初振り込み先に民間企業の口座を使ったことで疑惑を持たれた。「実はGACKTは、新潟県中越沖地震のときにもチャリティを謳ったアクセサリーを販売して7000万円以上稼いだのに、寄付はたった200万円という・前歴・がある。今回も約1億円の募金を集めたと聞いていますが、被災者のもとに全額届くのか不明です」(所属事務所関係者)

前述したような詐欺的なものを除けば、義援金の行く先は大きく分けて3つ。

 1つは日赤などから被災者それぞれに現金で分配されるもの。 2つ目は現地の復興支援活動団体へ寄付され、物資や活動経費として使われるもの。 3つ目は被災地の自治体に直接送って、被災地の復興に充てられるものだ。 最も信頼性の高い募金団体として義援金の半分以上を集める日赤には、30日現在で約594億円がプールされており、今も1日10億円単位で増え続けている。募金のペースは阪神・淡路大震災の際の約2・4倍で、このままいけば単純計算で4000億円を突破する勢いだ。

義援金が届くのは当分先

義援金配分委員会が組織されない以上、金は被災者に流れない しかし実はこの金が日赤から被災者のもとに届くのは当分先になるという。被災地が多数の県にまたがっているせいだ。 義援金は、被災した都道府県が設置する「義援金配分委員会」が決定する被災状況に応じた配分基準にしたがって、被災者に分けられるのが通例。

 阪神・淡路大震災のときは、被災1週間後の1月25日に前身団体にあたる義援金募集委員会を兵庫県が設置した。しかし今回は被災地が複数県にわたり、被災状況もつかみきれないため、どこがいつどのように委員会を組織するか目処も立たない状態だ。「現在検討されているのは、配分委員会を、被災地全体、被災県、被災市町村の3段階で開いて義援金を分配するかたちです。これなら県や市町村に直接寄せられた分の義援金をその自治体で配分することができます」(茨城県保健福祉部福祉指導課担当者)

81NAME:2013/10/28(月) 23:20:24
復興予算の8億円をムダ遣い、NPO「大雪りばぁねっと。」  出張先では贅沢三昧、オカマショーも
http://hayablog00.blog.fc2.com/blog-entry-387.html
岩手・山田町NPO問題 町民、事業委託した町議会のリコール請求

岩手・山田町の震災復興事業を請け負っていたNPO法人「大雪りばぁねっと。」の代表が、
受け取っていたおよそ8億円の事業費の一部を不正に使っていた疑いがあるとして、批判の声があがっていた。
東日本大震災の被災地、岩手・山田町で発覚した復興事業支援の使途不明問題。
7億9,000万円余りの事業費を使い果たし、雇用していた被災者の町民らおよそ140人を解雇したのが、
NPO法人「大雪りばぁねっと。」の岡田栄悟代表理事。
問題が発覚した当時、岡田代表は「町には、今まで誠心誠意、説明してきたと、
自分の中では解釈していたのですが、ご迷惑をおかけしたという部分で、おわびしたいと思っています」
などと謝罪の言葉を口にしていた。
しかし、これまでの取材で明らかになったのは、耳を疑うような岡田代表らの無駄遣いの実態だった。
解雇された町民は「やっぱり出張ですね。オカマバーでミーティングですか。あるいは、どこかに行って、
いろんなごちそうを食べたりとか。(なぜオカマバーでミーティング?)それはわからないですけど、
好きなんでしょうね」と語った。
頻繁にあったという、研修と称した出張先での贅沢三昧。支払いは全て、岡田代表が行っていたという。
NPO法人の部署には、「被災地支援小隊」、「車両小隊」、「警備小隊」、「産業復興・振興招待」などと、
あたかも軍隊のような名前がつけられている。

また、問題が発覚する1カ月前の2012年10月には、従業員の慰労という名目で 北海道のオカマバーから人を呼び寄せ、ショーも行われた。
岡田代表は、スーパーニュースの電話取材に対し、「(今、電話で言えるとしたら?) 私的流用は絶対していませんからね」と話していた。
そして1日、町民は、岡田代表らに事業を委託した町の側にも責任があるとして、町議会のリコールを請求した。
山田町は今後、岡田代表らに対して、町が負担した事業予算の返還を求めるとともに、刑事告訴も検討しているという。
今回問題となっているNPO法人「大雪りばぁねっと。」に町が多額の予算をつけた経緯は、
山田町によると、「大雪りばぁねっと。」は2011年、3月11日の東日本大震災から2週間ほどで、
山田町に入って、行方不明者の捜索活動をしていたという。 このことがきっかけで、山田町は緊急雇用創出事業をするにあたって、
「大雪りばぁねっと。」に事業を依頼した。当初は、1,500万円の事業だったが、
町側はもっと雇用を創出したいと、予算を増やし、最終的な事業規模は7億9,000万円にまで膨れ上がったという。

82NAME:2013/10/28(月) 23:22:29
民主・蓮舫議員「被災地の復興に無駄な予算が執行されている」→安倍首相「復興基金を作ったのは民主党政権ですよね」
http://hayablog00.blog.fc2.com/blog-entry-521.html

蓮舫議員「安倍首相、水ぶくれした予算を徹底的に洗っていただけないでしょうか。今そこにある無駄があるのであれば、
それは止めていただいて、戻していただいて、被災地に使っていただきたいというのが私の要請です」

 安倍首相「こういう仕組み(復興基金)を作ったのはみなさんですよね。反省していないんですか。我々の政権としては、
まさにみなさんがつくった負の遺産を背負っているんですよ。その中においてしっかりと我々、
基金については各所管閣僚の責任の下で適切に執行をされるものと承知している」

 蓮舫議員は、現在も復興基金が不適切に使われているとして予算の執行を停止するよう求めた。これに対し、
安倍首相は「すでに執行中のものはあるが、厳正な運用が極めて重要だ」とした上で、「担当閣僚と協議しながら適切な執行をしていく」と強調した。

83NAME:2013/10/29(火) 01:21:18
大震災復興支援財団 × ソフトバンク 真っ黒 詐欺
http://minnade-ganbaro.jp/

84NAME:2013/11/04(月) 03:14:10
福留功男 妻に背中を押された「再登板」
2013.11.3 18:00 (2/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131103/ent13110318000004-n2.htm

「ザ・スター リバイバル」BSフジ、土曜午後9時 テレビのレギュラー番組で司会を務めるのは4年ぶり。3度の心臓手術や顔面まひを患って第一線から退き、「卒業したつもりだった。はじめは断りました」と明かす。“再登板”を決意させたのは、妻をはじめとする家族の言葉だった。 「妻に『あなたと一緒にテレビの黄金時代を築いた方と仕事したいんじゃないの?』と言われたんです。これは『いぐっかねえか』って感じでしたね」と朗らかに笑う。 昭和56年にフジテレビ関東ローカルで放送されていた歌番組「ザ・スター」の秘蔵映像を交えつつ、当時の出演者らを32年ぶりに招き、思い出や生歌を聴く本格派音楽番組。八代亜紀、西城秀樹といった大物歌手が出演し、9日の放送では美空ひばりさんを特集する。

 「浮き沈みの激しい世界でトップを走り続けている方々に話を聞けるのはうれしい。互いが年輪を重ねたからこそ、リラックスしつつ、一歩踏み込んで話せる部分もある」 日本テレビ系「アメリカ横断ウルトラクイズ」や「ズームイン!!朝!」での快活な司会で親しまれてきたが、歌番組出演は56年のピンク・レディーの解散コンサート中継以来。ホスト役も「32年越し」の巡り合わせを楽しんでいるようだ。

もっとも、一視聴者として見つめる最近のテレビ番組には「作り手のハードルが低すぎる」と手厳しい。「時間と手間とお金をかけた、僕たちがやっていたような番組の作り方は今の時代、許されないのでしょう」と寂しげな表情も浮かべる。 福島県猪苗代町に別宅を持つ縁で、東日本大震災以降は復興支援活動にも力を注いでいる。タイの日本支援に心を打たれ、昨年3月11日にはバンコクでのチャリティーマラソン開催にも尽力した。来年3月には、タイの若者を東北に呼び、地元住民らと交流する復興イベント開催も準備しているという。

 「震災から僕の人生も変わりました。人々に笑顔が帰ってくるのを見たい。71歳を過ぎたし、人のために時間を使いたいんです」 ほほえんだ表情は、優しさと芯の強さを感じさせる「トメさん」そのものだった。(三品貴志)

85NAME:2013/11/07(木) 05:49:21
東日本大震災って終末感あったよな
2013年07月06日00:09
http://asigasu-sh.doorblog.jp/archives/30132023.html

86NAME:2013/11/12(火) 02:06:11
震災2年8カ月 「まだ住めた」「思い出の品が」…津波耐えた住宅を行政が無断解体、損賠請求相次ぐ
2013.11.11 23:26
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131111/dst13111123280017-n1.htm

東日本大震災の発生から11日で2年8カ月となる中、震災直後、津波で流失を免れた住宅などを無断で解体されたとして被災者が行政側へ損害賠償を求める事態が続いている。裁判外紛争解決手続き(ADR)のほか、来月には同種の訴訟の判決が盛岡地裁で言い渡される。専門家は「震災のような緊急時の実態に即した対応をもっと検討する必要がある」と指摘する。

 「津波で無事だった娘たちのひな人形を、後になって行政に壊された。悔しさは忘れられない」 仙台市沿岸部の荒浜地区に自宅があった住宅建築業、根元文夫さん(63)は今も割り切れない思いでいる。自宅は2階建ての2階部分の半分が内陸へ900メートルほど流された。大阪の長女宅に避難していた平成23年4月初め、無断で市側に解体、撤去された。 婚約指輪や和だんす、和服、ステレオ…。根元さんは弁護士に相談し、損害額を71点で824万円と見積もって市へ賠償を求めた。市は、環境省が当時、都道府県知事へ通知した「損壊家屋の撤去に関する指針」に基づくものであり、落ち度はないと主張。議論は平行線をたどっている。

 仙台市の佐藤裕一弁護士(58)は震災以来、同様の事案の相談を10件余り受けた。うち5件ほどは提訴や調停、ADRなどの法的手続きを取り、現在も2件が係争中という。佐藤弁護士は「震災直後よりも、ある程度落ち着いてから問題化してきた」と話す。

仙台弁護士会によると、同会紛争解決支援センターの「震災ADR」へ申し立てられた住宅や家財の無断解体、撤去をめぐる訴えは4件。このうち宮城県女川町の住宅は昨年8月、町が所有者へ賠償金2千万円を支払うことで和解し、町長ら5人が減給となった。 来月6日には、岩手県釜石市の男性が「まだ住めた住宅を無断で解体された」として、市に1500万円の賠償を求めた訴訟の判決が盛岡地裁である。双方の代理人弁護士によると、市は落ち度を認める一方で、住宅の価値は32万4千円だったと主張している。

 仙台市の根元さんは「今さらと思われるかもしれないが、やはり納得がいかない。行政は住民の立場で対応してほしい」と訴える。 佐藤弁護士は「緊急時は所有者の意思確認法など難しい問題も多い。今後起きるかもしれない災害のためにも解決しておかなければならない課題だ」と話す。

 ■裁判外紛争解決手続き(ADR) 裁判所を通さず、当事者間で自主的に紛争解決を図る手続き。期間が比較的短いのが特徴。東日本大震災では仙台弁護士会による震災ADRのほか、政府の原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)が設けられている。

87NAME:2013/12/04(水) 17:37:56
「東北被災地の防潮堤建設見直して」 昭恵夫人、自民部会で異例の訴え
2013.12.4 12:17
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131204/plc13120412180011-n1.htm

「反対運動をするつもりはないが、巨額の税金を使う以上、必要がない所はやめればいい」と述べた。首相夫人が党部会に出席するのは極めて異例だ。 昭恵さんは、現地に足を運んだ経験を踏まえ「行政に声が届かないところで反対意見がたくさんある。景観が崩れて、住みたくないと言っている人もいる」と指摘した。

 震災直後には高い防潮堤建設の要請を受けたとの安倍首相の発言を紹介しながらも、「震災から2年半以上がたち、被災者の思いは変わっている。政治への不信感が広がらないように考え直したい」と訴えた。 昭恵夫人は市民団体のインタビューでも防潮堤建設に疑問を呈している。

88NAME:2013/12/05(木) 14:25:32
アッキー「精査して見直しを」vs進次郎氏「後世のためにも必要」 被災地の防潮堤是非めぐり論戦
2013.12.4 23:45
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131204/stt13120423490003-n1.htm

安倍晋三首相夫人の昭恵さんは4日、自民党環境部会が党本部で開いたシンポジウムに出席し、東日本大震災の被災地で計画されている防潮堤建設について「きちんと精査して見直していただきたい」と述べ、撤回を求めた。 昭恵さんは被災地に足を運んだ経験を踏まえ、「行政に意見が届かないところで反対意見がたくさんある」と主張。「政治への不信感や諦めが住民の間に広がってしまわないように、みんなで考え直していきたい」と訴えた。 これに対し、小泉進次郎内閣府兼復興政務官は、岩手県普代村で高さ15メートルの堤防と水門が津波被害を食い止めた実例を挙げ「批判を受けても、後世に『これが命を守った』と言われるなら、やらなければいけない」と指摘。その上で「住民の声を大切にする形で調整を続けていきたい」と応じた。

89NAME:2013/12/23(月) 02:25:51
たろう観光ホテルに2億1000万円 岩手
2013.11.30 02:20
http://sankei.jp.msn.com/region/news/131130/iwt13113002200000-n1.htm

 ■復興庁、震災遺構保存で初の交付金

 復興庁は29日、東日本大震災の津波で被災した岩手県宮古市の「たろう観光ホテル」を保存するため、同市に2億1千万円を配分すると発表した。被災地に配る第7回の復興交付金の一部で、津波の猛威を伝える震災遺構の保存に充てられる初のケース。

 6階建ての同ホテルには津波が4階まで押し寄せ、現在は1階と2階部分の骨組みがむき出しになっている。市が貴重な建物として保存を決め、支援を求めていた。

 交付金は破損部分の改修や、さび止め処置などに充てられる。国は被災市町村ごとに1カ所の震災遺構の保存について初期費用を支出するが、維持管理費は負担しないため、今後は市が寄付などで賄う。

 今回の決定受け、たろう観光ホテルの松本勇毅(ゆうき)社長(57)は「市やツアーのガイドさんたちの残したいという熱意が国に伝わったのだと思う。ありがたい」とほっとした様子。「次世代に津波の恐ろしさを伝えるとき、言葉以上に遺構がすごさを伝えてくれる」と力を込めた。

 同ホテルは被災前は6階建てで160人を収容していたが、来夏のオープンに向け、高台に4階建て約50人収容のホテルを新設する準備を進めている。

 交付金を申請していた宮古市も「防災教育の拠点として活用法を考えていく」と喜ぶ。市によると、県外から被災や復興の状況を見学にくる「学ぶ防災ツアー」に24年度は約1万9千人、今年度はすでに約2万人が訪れている。滝沢肇(はじめ)復興推進課長は「たろう観光ホテルを『災害記憶の伝承』というプロジェクトの拠点施設として位置づけていく」と説明。今後、市議会への補正予算提案を経て保存工事を開始する一方、市として早急に利活用計画を策定するという。

90NAME:2013/12/23(月) 04:43:01
震災ツアー 
http://matome.naver.jp/odai/2133138768831962601
http://www.jreast.co.jp/tabidoki/tohokuouen/
http://www.his-j.com/kokunai/kanto/volunteer/

支援者の方へ
http://jdgs.jp/4supporter/mental_att.html

震災遺構で体感 津波の恐怖 岩手県宮古市 たろう観光ホテル
2013.11.10 11:03
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131110/art13111011040003-n1.htm

「逃げて、逃げて!」。迫る津波に子供たちが声をあげた。「バキバキバキ…」。濁流が町を破壊する不気味な音に思わず耳をふさぐ子も。岩手県宮古市田老の「たろう観光ホテル」で、見学者に公開されている津波映像には、町が黒い波にのみ込まれていく生々しい様子が映っていた。 田老地区は“万里の長城”ともいわれる海抜10メートルの防潮堤で全国的に知られ、津波防災の象徴だった。しかし、東日本大震災の巨大津波は「防災のシンボル」を軽々と越えた。たろう観光ホテルは4階まで被災。1−2階は激しい流れで破壊され鉄骨だけとなった。

 解体か保存か。あの日から2年半以上が経過し、被災各地で津波の威力を物語る震災遺構が今、岐路に立たされている。忌まわしい記憶は消し去るべきか、後世に伝えるべきなのか−。たろう観光ホテルは保存される見通しで、「三陸ジオパーク」の構成遺産にも認定された。 ジオパークとは、地質学的に貴重な自然と人間との関わりなどを学べる自然公園。三陸ジオパークには風光明媚(めいび)な地質遺産だけでなく震災の遺構も含まれた。

 津波の記憶を語り継ぐ取り組みも始まっている。田老地区では宮古観光協会の主催で、防潮堤とたろう観光ホテルを舞台に防災教育を実施。「学ぶ防災」プログラムと呼ばれ、来訪者はガイドの説明を聞きながら周辺を巡った後、無残な姿のホテル6階に上り、そこから撮影された津波の動画を見る。 この試みは全国から注目を集め、小中高校生の社会科見学や行政視察なども絶えない。同ホテルの松本勇毅社長(57)は「被災したホテルで当時の映像を見ることで、津波の恐ろしさを知ってもらえれば…」と力を込めた。(写真報道局 三尾郁恵)

91NAME:2013/12/23(月) 06:02:43
学ぶ防災ガイド 津波被害を考えるガイドツアー
http://4travel.jp/dm_hotel_tips_each-10376994.html

現在、宮古市観光協会では「学ぶ防災ガイド」ツアーを実施しています。個人でも申し込み可能です。激しい現場の状況をご覧になって、防災や復興について今一度考える機会になればと思います。

詳細は宮古市観光協会学ぶ防災係
防災ガイド・・田老地区の3.11を語り継ぐ その7
http://www.kankou385.jp/pickup/401.html

「学ぶ防災田老案内図」
http://www.kankou385.jp/files/taroumap.pdf
→ 学ぶ防災ガイド概要

92NAME:2014/02/24(月) 21:50:54
東日本大震災から間もなく3年
2014.2.23 15:40
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140223/wlf14022315400026-n1.htm

東日本大震災で大きな被害に見舞われた岩手県の仮設住宅の住民への住まいに関するアンケート取材のため、今月中旬、被災地へと出張した。現地はあいにくの大雪の影響で真っ白。昨年と一昨年も同じ頃に訪ねたが、初めて見る光景だった。 雪が収まった日、仮設住宅が立ち並ぶ一角には、太ももの高さほどに積もった雪の間に、人ひとりがやっと通れるくらいの道ができていた。停電の中、住民らが早朝から雪かきをしたという。各戸の玄関前の段差やスロープもきれいに雪が取り除かれていた。それに対し、「転居しました」という張り紙がされ、雪が玄関前をふさいだままの住宅も何軒か見かけた。 雪かきをしていた男性は「住む所があるだけでありがてえと思っていたけれど、不便だ」とつぶやいた。冬場に雪が降ると、夜に帰宅したときには玄関の引き戸が凍結していることがあるという。男性らは、そうした事態に備えて保温ポットに入れて持ち歩いている湯をかけてから、部屋に入るそうだ。

「自宅を再建に目処」人と「将来を考える気になれぬ」人と

住人に話を聞いていると「自宅を建てる土地のめどがついた」という人がいる一方で、夫を失った悲しみが癒えず「将来のことを考える気持ちになれない」という人もいた。前を向いて歩こうとしている人と、それがかなわない人との意識の差が徐々に広がっているように感じた。来月11日、被災地はあの日から丸3年を迎える。

93NAME:2014/03/11(火) 22:43:24
東日本大震災から2年。
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/blog-entry-950.html

昨年のエントリ:
天皇陛下のご入場・ご退場時に起立せず。台湾代表に献花させず。;
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/blog-entry-508.html
コチラにも転載されています。 http://blog.goo.ne.jp/azuma-kurabu/e/540fbab8fc8207e0697d2a02d73e5a1c

そして本日、NHK総合:東日本大震災から2年
陛下ご入場・ご退場時に、当然、起立しています。 政権が代わってほんとうに良かったですね。

日本は世界でも特別な国です。
日本には正義と力があります。そのような凄い国は世界にありません。
ゆえに、米国は、対戦後、日本を恐れて堕落させました。

94NAME:2014/03/11(火) 22:45:17
震災で頂いた恩を、世界にどんどん返していかなければなりません。 いやそれだけではなく、
世界を変えていく使命を担うべきです。

今年も皆さん、当たり前ですが、陛下ご入場・ご退場時に起立しています。 日本の政権が、「朝鮮人から日本人に」取り戻され、本当に良かったですね。
しかしこれからです。
さあ、どんどん、復興へ、震災で亡くなった方々、大東亜戦争で散った英霊たちのためにもしっかり生きて行きましょう。
そして、嘘吐き韓国朝鮮人+中華人どもの謀略を暴き、日本人の真髄を、世界に示して行きましょう。

一般人 2014.03.11 22:33

95NAME:2014/03/14(金) 17:37:41
震災から3年、不明の妻を探し続ける男性に中国が感動=「愛の力は無限大」「涙が止まらない」―中国ネット
2014年3月12日 12:33 (Record China)
http://topics.jp.msn.com/wadai/recordchina/article.aspx?articleid=3640485

2013年3月12日、東日本大震災から3年が経った昨日、日本のみならず世界各地で追悼イベントが開催された。中国でも多くのメディアが震災関連の記事を報道。中でも、津波に流され行方不明になった妻を依然探し続ける男性の記事は中国のネットで注目を集めている。中国メディアの報道によれば、男性は今年潜水の免許を取得し、今では自ら海に潜り捜索を続けているという。以下はネットに寄せられた代表的なコメント。

「彼の妻に対する愛は不変なのだろう。3年にわたり妻を探すなど、誰にでもできることではない」「彼の願いがかなうことを願っている」「彼の妻に対する愛情は、尊敬に値する」「彼の心にはまだ希望が残っているのだ。最終的に見つからなくても、彼は責任を果たし、できることをすべてやった」「愛の力は無限大だ」「感動!良い行いは必ず報われる」「こんな素晴らしい男性に嫁げて、妻も幸せだっただろうな」「感動のあまり、涙が止まらない」(翻訳・編集/内山)

96NAME:2014/04/01(火) 23:09:28
被災者ら、不安と憤り 住宅再建費、ガソリン代…生活圧迫
2014.4.1 20:57 [消費税率引き上げ]
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140401/trd14040121000011-n1.htm

 「これ以上、ガソリン価格が上がるとどこにも行けなくなる」。岩手県大船渡市の仮設住宅に住む主婦、新沼和子さん(47)は消費税8%を嘆く。 宮城県北部から岩手県の沿岸部は、流通コストがかかることなどを理由に、もともとガソリン価格が高い地域。復興工事関連の需要などが見込まれ、高止まりが続き、内陸部に比べて1リットル当たり10円以上高い傾向にある。今回の増税で、4〜5円値上がりしたレギュラーガソリンは1リットル当たり170円近くになった。 震災の影響で公共交通機関は寸断され、買い物や通院に自家用車は欠かせない。ガソリン価格の高騰は確実に家計を圧迫する。

 また、今回の増税は3%という数字以上の負担が被災者の心理にのしかかる。1年半後に10%への引き上げが予定される。復興の先は見えず、仙台市太白区の主婦(60)は「8%でもきついのに10%になったらどうしよう」と表情を曇らせる。岩手県陸前高田市の無職男性(62)は「高台整備は数年かかるといわれている。住宅再建は次の増税にも間に合わない」と憤った。

97NAME:2014/04/19(土) 20:08:29
【日本を創る】東日本大震災がもたらした未曾有の惨禍からどう立ち上がり、新しい日本をいかに創るか
http://www.47news.jp/47topics/e/tsukuru.html

98NAME:2014/05/05(月) 15:54:52
災害の記録、生かしきれない日本
濱口和久(3)史料が記録する「自然災害」、いまだ生かしきれない「現代人」
2014.5.5 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140505/wlf14050507000013-n1.htm

最古は日本書紀の416年、記録を読み解く

 1万8千人を超える死者・行方不明者を出した東日本大震災から3年が過ぎた。復興庁によると、2月13日現在、約26万7千人が避難し、約9万7千人が仮設住宅に暮らしている。日本は地震国、火山国であり、日本人は昔から大地の急激な変動がもたらす脅威にさらされてきた。マグニチュード9・0を記録した東日本大震災は、日本の観測史上最大規模であるだけでなく、世界的に見ても超弩級の巨大地震であった。 日本における文字に書かれた最古の地震記録は、日本書紀に登場する。允恭(いんぎょう)天皇5(416)年に、「五年秋、七月丙子朔、己丑、地震」とある。この地震は、ただ「地震」とあるだけで、いったいどこで起き、被害の規模がどの程度だったかを推測することはできない。 被害をともなった地震として記録されている最古のものは、同じく日本書紀に記録されている推古天皇7(599)年の地震だ。地震は古語で「なゐ」と呼ばれていたが、「なゐふりて、舎屋(やかす)悉(ことごと)く破たれぬ。則(すなわ)ち四方に令して、地震の神を祭らしむ」とある。家屋がみな破壊されたというのだから、かなりの揺れだったのだろう。もっとも、当時の家屋は地面に穴を掘り、そこに柱を立てただけの構造であり、地震動の強さは少し割り引いて考えなければならない。

日本書紀には、これ以後もたびたび大地震の記録がある。天武天皇が編纂を命じ、養老4(720)年に完成を見た官撰の史書だが、6世紀なかばの欽明朝以後は自然現象について実に詳しく記録され、後世に役立つことが多い。たとえば天武天皇13(684)年には、彗星が西北の空に出て長い尾を引いていたという記述があり、計算してみると、これは日本最古のハレー彗星出現の記録であることが分かる。

来るべき南海地震に向けても生きる史料

 この年に発生した日本最初の巨大地震の記述も、日本書紀には残されている。現在の高知県の沿岸で、田畑が五十余万頃(しろ)(約12平方キロ)、沈下して海になったというもので、明らかに地殻変動のあったことを意味している。さらにこのあと、土佐の国司からの報告として、南岸一帯に大津波が襲来し、貢物を運ぶ船がたくさん流されたという記述が見られる。 被害の大きさ、地殻変動、大津波などから総合的に判断すると、この地震は嘉永7(1854)年の安政南海地震や、昭和21(1946)年の昭和南海地震などとほほ同じ、南海トラフを震源とする巨大地震だったことが推測できる。のちにこの地震は「白鳳地震」と命名された。

99NAME:2014/05/05(月) 15:55:45
古代の人々の優れた観測記録が、1300年も前の地震の様子を明らかにしたのだ。この記録が、今後起きると予想されている南海巨大地震の再来周期を推しはかるうえでも、あるいは今後の災害予測を立てるうえでも、貴重な史料として現代に生きているのである。 日本書紀以後の数々の文書にも、地震や火山噴火にまつわる記述は続々と登場する。それらは、日本列島の地震災害史、火山災害史そのものともいえる。

 富士山の噴火ひとつをとってみても、古くは万葉集に詠まれ、平安時代になると日本三代実録のような史書のほかに、さまざまな文学作品に登場する。 平安文学を代表する更科日記や竹取物語には、富士山の活動が続いている状況を描写した文章がある。歴史時代になってからの富士山最大の噴火といわれる貞観6(864)年の貞観大噴火については、日本三代実録の詳細な記述と地質学的調査とが手を携えて、噴火の全貌を知ることができるようになった。

災害と向き合う運命の日本人、「次」に向けて「備災力」を

 以上は、災害史に詳しい一般財団法人防災検定協会副理事長の伊藤和明氏による論文「現代に生きる地震史・噴火史」(日本災害保険協会)を参考にした。

日本列島に生まれたからには、日本人は自然災害と向き合う運命にある。人間の力では自然災害を未然に防ぐことが難しいならば、自然災害に対する備えを整備しておかなければならない。しかし、いまだに日本には、緊急事態法も整備されていないのが現状だ。 次に来る巨大な自然災害に対する「備災力」を、国家、そして日本人一人ひとりが持たなければならないのである。

 古来、日本人は危機にどう対応し、克服してきたのか。拓殖大学日本文化研究所客員教授の濱口和久さんが歴史をひもときます。濱口さんは昭和43年、熊本県菊池市生まれ。防衛大学校卒業後、陸上自衛隊を経て、日本政策研究センター研究員などを歴任。著書に『だれが日本の領土を守るのか?』(たちばな出版)、『探訪 日本の名城』(青林堂)など。

100NAME:2014/05/11(日) 20:44:20
4年目の被災地「ボランティアとは何なのか」…葛藤と模索を続ける和歌山大生たちは考える
2014.5.11 12:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140511/wlf14051112000009-n4.htm

「体力仕事のボランティアはもう必要ない」

 出発前にはこんな声を聞いたという。実際に訪れた被災地は草地が広がり、工事用の車両が行き交い、ある学生は「やっぱり力仕事は必要なさそうだった」と振り返った。 一方で、住民らからは「支援に心から感謝しています」と声をかけられ、復興が思うように進まない焦りや親しい人には話せない悩みも打ち明けられたという。「被害を繰り返さないで」「和歌山で伝えてほしい」。むき出しの大地や廃虚となった建物を見た彼らに住民はこう訴えもした。 ボランティアとして、どう被災地と関わるのか悩んでいた学生たちだったが、「求められているのは、アフターケアとともに被災地の状況を多くの人に発信することでは」とも感じたという。

101NAME:2014/05/18(日) 23:40:39
韓国沈没事故と東日本大震災の共通点とは?―中国メディア
配信日時:2014年5月1日 22時40分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=87478

2014年5月1日、韓国・珍島沖で発生した旅客船「セウォル」号沈没事故では、船が大きく傾いているにもかかわらず、救命胴着を着た学生らが、「その場を動かないように」という船内放送に従って、船内にとどまる様子に、多くの人が「なぜ外に出て、海に飛び込まないのか」と驚きと苛立ちを隠せない。大人の指示に従った学生らは最後まで船内にとどまり、脱出の機会を逃してしまった。北京青年報が報じた。 災害や事故が発生すると、さまざまな判断を下すための時間は往々にして数分、ひいては数秒しか残されていないことがある。そしてその判断が、生死さえ分けてしまう。

日本の小中学校では毎年、地震に備える防災訓練が3〜4回実施される。その訓練では、教師らが、「先生の指示に従いなさい」と生徒に教えてきた。そのため、生徒らも指示に従うことに慣れ、考える前に行動することが習慣になっている。しかし、2011年3月11日に東日本大震災が発生して以降は、教師が現場におらず、生徒が自分でどのように行動するかを判断する訓練が増えた。 当時、宮城県石巻市大川小学校の教師は、生徒を裏山の高台ではなく、校庭に集合させていた。そして教師と住民との間で2次避難先の話し合いをしたため、避難に手間取り、結局地震から避難開始まで約40分かかり、避難のための貴重な時間を無駄にしてしまった。結果、生徒74人と教職員10人が、避難の途中に襲ってきた津波に呑み込まれ、犠牲になった。 この状況と、今回の「セウォル」号沈没事故では、一方は校庭で、もう一方は船内で、いずれも生徒が「待っていた」という類似点がある。そして、本来は残されていた避難のための時間が、指示に従ったために奪われてしまった点も同じだ。

大川小学校とは対照的だったのは岩手県釜石市市立東中学校だ。海からわずか500m足らずの近距離に位置しているにもかかわらず、同中学校と鵜住居(うのすまい)小学校の児童・生徒、約570人は全員、押し寄せる津波から生き延び、「釜石の奇跡」と言われている。同中学校は、「自分の命は自分で守る」という考えを防災教育で生徒らに徹底して教えている。災害がやって来た時は避難を優先する訓練を徹底し、緊急時に一緒にいない家族の事を考える必要はなく、まず自分の安全を確保するようにと生徒に教えているのだ。 例えば、ただ避難するだけではなく、訓練の中に様々なアクシデントを盛り込んで、生徒が自分で考え判断して行動できるようにしている。わざとケガ人を作って、保健室に待機させ、警報が鳴り、点呼時に生徒が一人足りない時に、生徒らがどのような行動を取るか観察したりしているのだ。そして、その行動に反省点があれば、教師らはすぐに指示ではなく、アドバイスを送る。

102NAME:2014/05/18(日) 23:42:25
また09年には、「EAST‐レスキュー」という全校防災学習を発足した。East=東中生、Assist=手助け、Study=学習する、Tsunami=津波から取った言葉だ。同活動では、道路を挟んで真向いに隣接する鵜住居小学校と合同避難訓練を実施し、高学年の生徒が低学年の生徒を助けたり、負傷した生徒を助けたりする方法を教えている。そして、「ぼうさい大賞」に輝いた同県宮古市の県立宮古工業高校生徒を招き、自作の津波浸水模型を使って津波がどう押し寄せるかを実演してもらったりもしている。ある生徒は、「津波の怖さをあらためて知った。そして、どう行動するかを考え、実行しなければならないと強く思った」と感想を述べている。 死者・行方不明者が1000人を超えた釜石市において、放課後で指示を聞くことができなかった小中学生が、自己の判断に基づいて避難し、一人の犠牲者も出すことがなかったのは、正に「奇跡」だ。これらの生徒は、「セウォル」号沈没事故において、船内放送が聞こえなかったため、自分の判断や直感を頼りに、避難し救出された生徒と似ている。このような自主能力は、命を守るための「本能」だけでなく、「教育」により身に付くものだ。

従うことしかできない子供が大人になればロボットのようになってしまいかねない。東日本大震災が発生した3月11日午後2時46分、宮城県東松島市のJR仙石線「野蒜(のびる)駅」を出発した上下2本の電車があった。共に一時行方不明と報じられたが、下り電車は丘の上で停止、地元住民のアドバイスに従って乗客は車内にとどまり無事だった。一方、上り電車はJR東日本の内規に従って誘導された指定避難所が津波に襲われ、数人が命を落とした。規定は人が制定しているもので、単にマニュアル通りに物事を進めるやり方では、規定が束縛に変わってしまう。単に従うだけの子供達が大人になれば、内規に従って乗客を誘導した車掌のようになってしまうのだ。(文:田芳(ティエン・ファン)。二松學舍大学中国文学科の修士課程を修了。現在は博士課程在学中。1997年より日本に定住し、教育や翻訳など中日文化交流事業にも携わっている。)(提供/人民網日本語版・翻訳/KN・編集/武藤)

103NAME:2014/06/21(土) 14:38:34
遅刻、失言…懲りない石原環境相
やはり出た! 懲りない石原伸晃環境相
2014.6.21 07:00
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140621/stt14062107000001-n1.htm

「最後は金目でしょ」 東京電力福島第1原発事故に伴う除染廃棄物の中間貯蔵施設をめぐり、交渉が難航している状況について、こう記者団に漏らしてしまった石原伸晃環境相。 政策通として知られる石原氏は、閣僚として国土交通相などを歴任し、自民党でも政調会長、幹事長と要職を務めてきた。

 以前、別の失言をしてしまった石原氏を皮肉った自民党議員の言葉を思い出した。 「それが彼の持ち味だ」 平成24年の自民党総裁選で安倍晋三首相や石破茂幹事長らと争い、党総裁、首相の座をつかみかけた石原氏だが、その言動を振り返るといささか心許ない。 19日の菅義偉官房長官の記者会見では、記者団とこんな質疑があった。

 記者「石原氏の職務の適格性について、福島県民に対してどう理解を得ていくか」 菅氏「今日まで石原氏は、復興のために全力で取り組んできたと思う。ただ、その発言が誤解され、不快な思いを県民がしたということで、本人がおわびして撤回したのだと思う」 記者「長官は石原氏は復興に全力で取りくんできたと言ったが、本当にそう思うか」 菅氏「もちろんそうだ」

野党各党は「閣僚としての資質を欠く」と批判し、衆院に不信任決議案、参院に問責決議案を提出。いずれも与党の反対多数で否決されたが、野党は「今回の発言で中間貯蔵施設の稼働は間違いなく遅れ、福島の復興も遅れる。『石原氏の罷免なくして復興なし』だ」(民主党の辻元清美衆院議員)と手厳しかった。 同じ自民党からも吉野正芳衆院議員が20日の衆院本会議で、石原氏の不信任決議案採決を棄権した。福島県出身の吉野氏はその理由を記者団に「これが私の精いっぱいの抗議だ」と語った。

 石原氏は、皇居での国賓の歓迎行事に出席が可能であったにもかかわらず欠席し、委員会に遅刻するなど問題が続いた。安定的な政権運営を続けている第2次安倍内閣だけに、こうした石原氏の言動が余計に目立ってしまっている。安倍首相も「国会で質問に答えるのは閣僚の重要な責務だ。遅刻はあってはならない」と苦言を呈した。 野党だった幹事長時代には、舌鋒鋭く民主党政権を批判していたことを考えれば、非常に残念だ。

 「用地補償など最後は予算措置の規模を示すことが重要だとの趣旨だった。お金ですべて解決する意図では全くない。品位を欠き、誤解を招く表現で心からおわびしたい」 「国会閉会後、速やかに福島を訪れ、直接謝罪したい。発言が意図せざる理解をされた。撤回したい」 石原氏は今回の「金目」発言について、19日の参院環境委員会でこう釈明し、謝罪した。

104NAME:2014/06/21(土) 14:39:27
首相周辺は、石原氏の発言について「言葉足らずだ」と指摘する。24年2月のテレビ番組では、病院で腹部に開けた穴から栄養剤を送る「胃ろう」措置を見学した際の感想として「エイリアン」と発言してしまった。終末期医療が抱える問題を指摘したかったという思いがあったのだろうが、明らかな“失言”だった。 石原氏は、大所帯ではないものの、「近未来政治研究会」(石原派)を率いる。政策に明るく、これまでの経歴も申し分ない。自民党内には「選挙の顔」として期待される場面も出てくるだろう。そう遠くない将来、宰相の座を射止める可能性を十分に持つ。

 確かに石原氏の今回の発言は、記者会見ではなく、首相官邸で歩きながら記者団の問いかけに答えたものだ。だが、想定問答がある記者会見の場ではないだけに、それが“本音”とも受け取られかねない。 福島県民の心に寄り添う−。政権が掲げるこの基本的な姿勢すら疑われかねない発言だっただけに、今度は福島に尽くす姿を行動で示してほしい。(峯匡孝)

105NAME:2014/07/13(日) 21:15:29
被災者の戸籍が大量に乗っ取られる危険な事態になっている
2013年9月21日土曜日
http://www.bllackz.com/2013/09/blog-post_21.html#OKhTW5w.twitter_tweet_count_m

106NAME:2014/09/01(月) 04:16:06
畳の上の遺体に話しかけていた子供…阪神大震災の「地獄」と原爆の「地獄」
2014.8.31 18:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140831/wlf14083118000002-n1.htm

「口で言うてもわからん」。父の口癖だった。 私の父・良展は、20歳の時に広島で原爆に被爆し、その50年後、西宮で阪神大震災で被災した。多くを語らない人だったが“その言葉”は記憶の奥に残っている。父は広島市東白島で軍事教練の最中に被爆した。爆心地から1・5キロ、死んでいてもおかしくない距離だが、倒壊した建物の下敷きになったことで、大量の被爆を免れた。

父と行った被爆者健康診断

 大正14年、広島に生まれた父は戦後、兵庫県西宮市に住み、大阪で板前として暮らしを立てた。小学生の頃、店で仕込みをする父から料理人としての心構えを聞かされた。 レイテ沖海戦(昭和19年)の話を聞いたことがある。「厳しい戦いやった。仲間がたくさん戦死した。勝てる戦争ではなかったかもしれん」といい、それでも「開戦は仕方なかった。ABCDラインが日本を追い込んだ」と話した。

 ただ、父は原爆となると重い口がさらに重くなった。「地獄やった」と話すと口を閉ざした。 被爆2世でありながら、原爆とは縁遠い生活だった。年に1度、西宮市が行う被爆者健康診断の時だけが、他の被爆者の方と出会える機会だった。 なぜ、父がその場所に私を連れて行ったのかよく分からない。今思えば、原爆のことを知ってほしいという思いがあったのかもしれない。手続きが終わると原爆手帳(被爆者健康手帳)とジュースを手渡された。薄い原爆手帳に書かれた「1号被爆」など被爆時のデータが、子供心に原爆の不気味さを感じさせた。

震災で生き埋めとなった父

70歳になった父は、平成7年1月17日、阪神大震災で被災する。今度は西宮市の自宅で生き埋めとなった。近所の方に助けてもらったが背骨を骨折して満足に歩けないようになった。 当時、神戸支局(現神戸総局)でカメラマンをしていた私は、取材に追われて、1カ月ほど自宅に戻らず両親と会うこともなかった。

 1月17日の神戸は戦場のようだった。倒壊したビルから聞こえる「助けてくれ」という細い声。猛煙を上げる自宅にバケツで水をかけるおばあさん。タタミに寝かされた遺体に話しかける小さな子供…。 焼け野原となった町と数多くの遺体に、やり場のない怒りをおぼえた。私も地獄を見たと思った。 年を取った父に、改めて原爆と地震のことを聞こうと思ったが、口に出すことはできなかった。

 父の死後、広島の墓に参り原爆資料館で被爆した方の話を聞いた。本やテレビで見聞きした知識とは違う静かな迫力があった。語り伝えることの大切さを教えられた。阪神大震災でも多くの語り部の方が震災の記憶を残そうとしている。 だが、“語ることのできない”記憶もまた、戦争や震災の悲惨さを伝えていると思う。 (写真報道局 土井繁孝)

107NAME:2014/10/10(金) 11:44:26
米軍トモダチ作戦、予算は最大で68億円 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
2011/04/06 11:12
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110406-OYT1T00031.htm

東日本大震災を受けて米軍が展開中の被災地支援「TOMODACHI(トモダチ)作戦」を巡り、米政府は同作戦の予算が最大8000万ドル(約68億円)であることを日本政府側に伝えた。 両政府は予算が超過した場合に備え、日本側の負担割合も含め、対応の協議に着手した。ただ、東京電力福島第一原子力発電所の事故対応予算に関しては、米政府内でも扱いが決まっていないという。複数の日米関係筋が5日、明らかにした。 予算は米国防総省が「人道支援費」として計上した。震災発生直後、ゲーツ国防長官は人道支援費として最大3500万ドル...

→ だけど、思いやり予算(1881億円)はもらうんですね。

【トモダチ作戦の請求書】孫崎享氏『無償でないことに愕然』2011年4月6日読売「米軍トモダチ作戦、予算は最大で68億円」「両政府は予算超過の場合に備え、日本側負担割合も含め、対応の協議に着手」+トモダチ作戦の見返りはおもいやり予算1880億円×5年。週刊ポスト2011年4月29日号
http://enzai.9-11.jp/?p=12061&utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2580%2590%25e3%2583%2588%25e3%2583%25a2%25e3%2583%2580%25e3%2583%2581%25e4%25bd%259c%25e6%2588%25a6%25e3%2581%25ae%25e8%25ab%258b%25e6%25b1%2582%25e6%259b%25b8%25e3%2580%2591%25e5%25ad%25ab%25e5%25b4%258e%25e4%25ba%25ab%25e6%25b0%258f%25e3%2580%258e%25e7%2584%25a1%25e5%2584%259f%25e3%2581%25a7%25e3%2581%25aa%25e3%2581%2584

【2011/4/6】6日読売「米軍トモダチ作戦、予算は最大で68億円」、「両政府は予算超過の場合に備え、日本側負担割合も含め、対応の協議に着手」。 「国防長官は最大約30億円と表明してた」。金をくれでは「トモダチ」作戦でなくなる。

災害救助をPRの絶好の機会、当然無償と思っていた。読売によれば、「両政府は米側予算の超過の場合に備え、日本側負担割合も含め、対応の協議に着手」という。無償でないことに愕然とした。先ず、主力艦撤退したが、今まだ五千名程度展開しているので、早々に引き上げてもらったらいい。同じ金を使うなら日本側になすべき事は多い。

・孫崎享氏 2011年4月6日の tweets より

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

年度末の3月31日には民主、自民などの賛成多数で「思いやり予算の特別協定」が可決された。有効期限は従来の3年から5年に延長され、今後5年間、日本は米軍に現行水準(約1880億円)を支払い続けることを決めた。

・週刊ポスト2011年4月29日号

108NAME:2015/02/01(日) 22:40:56
【被災地を歩く】
判決は津波の「予見可能性」を否定しながら、なぜ賠償を命じたか…常磐山元自動車学校訴訟
2015.2.1 17:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/150201/prm1502010014-n1.html

東日本大震災の津波で被害を受けた宮城県山元町の海岸を進み、県道沿いの常磐山元自動車学校を目指す。教習生らが通った同校の敷地は現在は更地になり、跡地には花が供えられている。 同校の教習生25人とアルバイト従業員の女性=当時(27)=の遺族が学校側に約19億7千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が13日、仙台地裁であり、地裁は「教習所に津波が襲来する可能性を予見し、速やかに教習生らを避難させるなどの義務があった」として学校側の責任を認め、計約19億1千万円の賠償を命じた。 判決では、津波の予見可能性をめぐり「海岸から約750メートル離れた教習所に津波が襲来することを予見し、情報を収集するべき義務があったとはいえない」とした。同校跡地から道路の奥を見ると、生い茂る草の向こう側に防潮堤が見え、距離を数字で聞くよりも海岸までは遠く感じられる。

■安全責任と判断

 ただ、そう地裁が判断しながら、原告勝訴の判決を言い渡したのは、消防車両が教習所の前を走り、避難を呼び掛けていたという事実だった。高宮健二裁判長は「教習所に津波が襲来することを具体的に予期し得た」と指摘し、「速やかに教習生らを避難させ、安全なルートを通って送迎先に送り届けるなどの安全配慮義務があった」として、教習生らの死亡には相当な因果関係があると判断した。 判決は消防の呼びかけを教官の誰が、どのタイミングで聞いたのか判断せず、「校長や教官の全てが広報を聞いていなかったとは考えがたい」とした上で「少なくとも一部は広報を聞いたと推認できる」とした。 現在は復興工事のための車両が行き交う道路は教習所のすぐ目の前だ。証人尋問で、生存した元教習生らが「消防車が避難を呼びかけていたのが聞こえた」と証言した通り、ここで呼びかけを行えば、教習所まで聞こえたと考えるのが自然だと感じる。

■裁判やってよかった

 教習生のうち2人は教官とともに路上教習へ出ていたが地震発生後、教官の指示で教習所へ戻った。待機後、2人は県道を教習所から南へ徒歩で帰宅中に津波に巻き込まれて死亡した。 判決後に、建築士の作間正孝さん(59)は徒歩で帰宅中に津波に巻き込まれた梓さん=当時(18)=の遺影を抱きながら会見に臨んだ。「あと10分早ければ…」。梓さんが被災した場所は山元町の自宅から約1キロの距離だった。 作間さんは梓さんが津波にあった場所を通るたびに「どんなに怖かっただろうか」と考えてきた。判決を受けて「これでやっと『父さんは頑張ったよ』と報告できる」と話した。

 昨年5月21日、高宮裁判長は遺族らと現地視察を行った。同校跡や指定避難場所とされていた坂元中学校、送迎バスの被災現場などを視察した際に、2人が津波に巻き込まれた場所も歩いていた。 その道を、今一度歩いてみる。約400メートル、学校から5分もかからない距離だ。2人が教習先から教習所に戻ったのは午後3時半ごろ、津波襲来は3時52分ごろ。「あと10分早ければ…」。作間さんの言葉が再び浮かんだ。 判決後、遺族からは「少しでも真実が分かった。裁判をやってよかった」「役員個人の責任も認めてほしかった」「この判決が今後の防災対策に生かされれば」など、さまざまな声を聞いた。未曾有の災害をめぐって起こされたこの訴訟が、震災の教訓を伝える役割を担ってくれることを願うばかりだ。(上田直輝、写真も)

109NAME:2015/02/13(金) 00:34:09
東日本大震災なんて、西日本には関係ねいよなあ。 それが、今の日本人の本音だろ?www

110NAME:2015/05/05(火) 02:23:31
【世界遺産登録へ】
GWに吉報、被災地「復興の弾み」
2015.5.5 01:46更新
http://www.sankei.com/life/news/150505/lif1505050011-n1.html

「首を長くして待っていた」。岩手から鹿児島まで全国8県にわたる「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録が4日、勧告された。大型連休に飛び込んできた吉報に、地元の関係者は喜び、正式登録に向けて気を引き締めた。

 ■鉄の町に興味

 東北で唯一の構成資産、橋野鉄鉱山・高炉跡がある東日本大震災の被災地、岩手県釜石市からも喜びの声が上がった。 「近代工業の誕生した場所だと思うと感慨深い。世界遺産になれば復興の弾みにもなるのでは」。ゴールデンウイーク中とあって県内外から多くの観光客らでにぎわう高炉跡。同県紫波町から家族と訪れていた会社員、中村浩さん(59)は声を弾ませた。 高炉跡やその周辺にある自然を観光に生かそうと、エコツアーの企画などに取り組む一般社団法人「三陸ひとつなぎ自然学校」の伊藤聡代表(35)は「昔の人が守ってきたものの良さを見直し、地元に誇りを取り戻すことが復興につながる」と登録勧告を歓迎。

 釜石の製鉄に関する歴史資料を展示している「鉄の歴史館」を訪れた千葉県柏市の飲食店経営、並木育雄さん(66)は「近代史と密接な関わりを持っていたとは知らなかった…」と“鉄の町”の歴史に興味をそそられた様子だった。 幕府が大砲鋳造のために建設した韮山反射炉がある静岡県伊豆の国市で清掃活動などに携わってきた前中区長、川合基也さん(68)は「世界中からのお客さんを迎えるために準備することが山ほどある。忙しくなりそうだ」と正式登録を見据え気を引き締めた。

■企業も沸いた

 産業革命遺産の特徴の一つは、官営八幡製鉄所(北九州市)や三菱長崎造船所(長崎市)が導入し、1世紀以上稼働し続けている現役の施設も含まれることだ。両社も喜びに沸いた。 八幡製鉄所の登録勧告について、新日鉄住金の佐藤直樹執行役員・八幡製鉄所長は「これまでの関係各位のご尽力に改めて敬意を表する。6月末から開催される世界遺産委員会の最終判断に向けてこれまで通り行政等関係者と連携をとりながら最大限の協力を図っていきたい」とコメント。 三菱長崎造船所に明治期に導入され、現在も利用されているドックやクレーンが登録勧告されたことについて、三菱重工業の長崎総務グループは「光栄であり、大変うれしく思います。(最終的な結論については)世界遺産委員会での審議結果を待ちたいと思っております」とのコメントを発表した。

111NAME:2015/05/10(日) 23:26:06
松島水族館88年の歴史に幕 復興のシンボル、老朽化で
2015.5.10 22:08更新
http://www.sankei.com/life/news/150510/lif1505100051-n1.html

東日本大震災の津波で被災しながら、営業を続けた宮城県松島町の「マリンピア松島水族館」が10日、閉館した。同館によると、国内では富山県の魚津水族館に次ぐ88年の歴史を誇ったが、老朽化などで本格再建を断念。好天に恵まれた最終日、多くの家族連れらが訪れ、別れを惜しんだ。 松島水族館は昭和2年にオープン。震災時は高さ約1・8メートルまで浸水し、一部の動物が犠牲になった。約1カ月半後に再開し、観光地・松島復興のシンボルとなったが、来場者数の減少も重なり、施設の更新はかなわなかった。

 閉館時刻の午後7時、出入り口では手を振るスタッフを客が「お疲れさま」とねぎらい、一緒に記念撮影をしたりハイタッチを交わしたりして大混雑。その後、タコや魚の形をした100発の花火が夜空を彩った。飼育する294種、約8500匹の動物のほとんどは、仙台市で7月に開業する「仙台うみの杜水族館」へ移される予定。

112NAME:2015/07/11(土) 20:06:20
首相、宮城の復興確認 慰霊碑で献花
2015.7.11 10:18更新
http://www.sankei.com/politics/news/150711/plt1507110016-n1.html

安倍晋三首相は11日午前、東日本大震災からの復興状況を確認するため宮城県を訪問した。甚大な津波被害を受けた名取市で亡くなった944人の名前が刻まれた閖上地区の慰霊碑で献花、黙祷(もくとう)をささげた。 首相は、同市下増田地区の災害公営住宅の住民と意見交換し「住み慣れた場所とは違うかもしれないが、新しい場所で元気に頑張ってほしい」と激励した。

 同市では、収益力の高めるため生産や加工、販売を一体的に進める「6次産業化」に取り組む商業施設も見学。地元産の新鮮なトマトや卵などを購入し、「卵かけごはんを食べる」と食材をアピールした。 午後には南三陸町に移り、被災した商店主らでつくる仮設の「南三陸さんさん商店街」を見て回った。 また、町役場では被災者の「心のケア」に当たる医師やNPO関係者らと会う予定だ。首相は、視察などを通し被災者に寄り添う「心の復興」の取り組みを訴えるとともに、平成28年度から被災自治体にも復興事業費の一部負担を求める政府の新たな復興方針への理解を得たい考えだ。

113laa:2015/08/30(日) 15:30:34
この震災詐欺師をみんなでつかまえよう!

【牧野明美】
警察の工作員。背の低い40前後の女。肌は浅黒く、皮膚は汚い。変装多し。
以前は[白石のり子]と名乗り山梨県薬師岳小屋に勤務。
自分勝手で嫉妬深いなまけもの。社会性なし。各警察署をたらいまわしにされていた過去がある。
自作自演で犯罪者を作り出し、横暴横領くり返す警察の作った粗大ゴミである。

東日本大震災をネタに、架空のトラウマを作り出し詐欺行為に及ぶ。





また皇太子殿下や皇宮警察の名前を使った詐欺行為は牧野の18番である。


警察内部のテログループの主犯格です。国家の許容を越えた横暴が内部で話題となり、本名をさらされていますのでご安心を。
責任追求されて逃げてます。お近く にいましたら報告お願いします。

htティーp://ameblo.jp/tairahouse

114NAME:2016/03/11(金) 03:54:14
大震災5年:これまで26.3兆円投入 今後6.5兆円
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%a4%a7%e9%9c%87%e7%81%bd%ef%bc%95%e5%b9%b4%e3%81%93%e3%82%8c%e3%81%be%e3%81%a7%ef%bc%92%ef%bc%96%ef%bc%8e%ef%bc%93%e5%85%86%e5%86%86%e6%8a%95%e5%85%a5-%e4%bb%8a%e5%be%8c%ef%bc%96%ef%bc%8e%ef%bc%95%e5%85%86%e5%86%86/ar-AAgBOli#page=2

空前の被害をもたらした東日本大震災からの復興事業に充てる予算の支出額は、今年度末までの5年間で26.3兆円に上る見通しだ。全額を国費で賄う前半5年の予算総額は、当初見込まれていた19兆円から大きく膨らんだ。2016年度からの5年間には6.5兆円を投じる方針で、一部は地方自治体に負担を求める。 復興庁によると、26.3兆円のうち、分野別で最も支出が多いのが「住宅再建・復興まちづくり」の10兆円。住宅の高台移転や、防潮堤の建設などの公共工事などに充てられた。

 そのほか、中小企業支援などの「産業・なりわいの再生」に4.1兆円、生活や健康に関する「被災者支援」は2.1兆円、福島第1原発事故の風評被害対策など「原子力災害からの復興・再生」に1.6兆円を支出。大半の除染費用などは行政が立て替えた上で東京電力に請求するため、復興事業費に含まれない。

 政府は、東日本大震災による被害の大きさから、復興に莫大(ばくだい)な予算がかかることを見込み、国の一般会計とは別に「復興特別会計」を設置。所得税や住民税などの「復興増税」などで財源を確保することにした。 11年当時の民主党政権は、復興期間を10年間と定め、前半5年間を「集中復興期間」と位置付けて、19兆円の支出を見込んでいた。自民党への政権交代後、安倍晋三首相は「復興の加速」を掲げ、13年1月に予算総額を25兆円に増額。更に15年度当初予算では、25兆円を超えて26.3兆円まで膨らむ見通しとなった。 ただ、被災地では建設業を中心に「復興特需」が続くが、全額国費負担とした結果、高台移転用に整備した土地が余るなど一部で無駄も指摘される。「負担のない地元自治体が身の丈を越えた予算を要求し、査定で削りきれなかった」(復興庁関係者)との声が出ている。

 また、会計検査院は13年度までに約5兆円の予算が消化されていないと指摘するなど、予算執行のあり方も課題になっている。 来年度からの5年間は「復興・創生期間」と位置付け、6.5兆円の支出を見込む。内陸部の道路建設など復興との関わりが比較的薄い事業に限り、地元自治体が事業費の1〜3%程度を負担することになっており、220億円程度が自治体負担となる見通しだ。【宮島寛】

115NAME:2016/03/11(金) 04:12:33
「忘れず私が伝える」=6歳娘亡くした悲しみ―宮城県石巻市の佐藤さん・大震災5年
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e5%bf%98%e3%82%8c%e3%81%9a%e7%a7%81%e3%81%8c%e4%bc%9d%e3%81%88%e3%82%8b%e3%80%8d%ef%bc%9d%ef%bc%96%e6%ad%b3%e5%a8%98%e4%ba%a1%e3%81%8f%e3%81%97%e3%81%9f%e6%82%b2%e3%81%97%e3%81%bf%e2%80%95%e5%ae%ae%e5%9f%8e%e7%9c%8c%e7%9f%b3%e5%b7%bb%e5%b8%82%e3%81%ae%e4%bd%90%e8%97%a4%e3%81%95%e3%82%93%e3%83%bb%e5%a4%a7%e9%9c%87%e7%81%bd%ef%bc%95%e5%b9%b4/ar-AAgAx9E#page=2

宮城県石巻市の佐藤美香さん(41)は今、東日本大震災で亡くした長女愛梨ちゃん=当時(6)=が通っていた日和幼稚園で語り部をしている。園の周辺では土地のかさ上げ工事が進み、風景は5年前と様変わりした。「手を合わせる場所もなくなった。伝えなければ忘れ去られる」 「黒焦げで赤ちゃんくらいの大きさしかない。表情すら分からず、抱き締めることもできませんでした」。2月13日、佐藤さんは関東方面から訪れた震災ボランティアを前に、まな娘の変わり果てた姿を生々しく語った。浸水域に集まったがれきの中で漏れた石油燃料に火が付く「津波火災」が発生。園の送迎バスが巻き込まれ、愛梨ちゃんを含む園児5人が亡くなった。

 大きな揺れに襲われたあの日、「津波が来る」と直感。幼稚園は高台にあり、愛梨ちゃんは助かっているはずだった。しかし、3日後に幼稚園の目と鼻の先の場所で遺体を発見した。焼け残った上着の一部で判明したという。 なぜ娘を乗せたバスは高台を下りてしまったのか。園側は「早く親元に帰したかった」と説明していたが、「真相が知りたい」と訴訟を起こした。3年以上を費やし、園の責任が認められたが、いまだに直接の謝罪はない。真実を求め駆けまわった日々が終わり、気持ちは自然と風化防止に傾いていた。

 語り部は1年ほど前から他の遺族と始めた。活動を紹介するフェイスブックを通じ、依頼が来る。聞き手には何度も「自分の目で見て感じてください」と言う。大地震の後は高台へ。避難が遅れれば、愛梨のような悲劇が再び繰り返される。 語りの最後に、次女珠梨ちゃん(8)の手紙を紹介する。「あいりがいればたのしいのに、じゅりはたのしくない。あいりにかえってきてほしい。ねがいはそれだけ」。涙をこらえ読み上げる。 5年間、愛梨ちゃんを側に感じながら過ごしてきた。「元気でいてくれることがうれしいからね。きょうもママは頑張ります」。毎朝、仏壇の写真に声を掛ける。不意に涙がこぼれることもあるが、落ち込むことは少なくなった。「私が伝えることで娘の命を生かしてあげられる」と感じている。

116NAME:2016/03/11(金) 04:20:12
【あの日そして5年(6)】《記憶》津波逃れた孤立列車 あの日の「切符」捨てられない
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e3%81%82%e3%81%ae%e6%97%a5%e3%81%9d%e3%81%97%e3%81%a6%ef%bc%95%e5%b9%b4%ef%bc%88%ef%bc%96%ef%bc%89%e3%80%91%e3%80%8a%e8%a8%98%e6%86%b6%e3%80%8b%e6%b4%a5%e6%b3%a2%e9%80%83%e3%82%8c%e3%81%9f%e5%ad%a4%e7%ab%8b%e5%88%97%e8%bb%8a-%e3%81%82%e3%81%ae%e6%97%a5%e3%81%ae%e3%80%8c%e5%88%87%e7%ac%a6%e3%80%8d%e6%8d%a8%e3%81%a6%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%aa%e3%81%84/ar-BBqolrW#page=2

高台で津波回避、母待ち続けた数時間

 勉強机の引き出しを開ける。宮城県東松島市の仮住まい。中学2年の大槻陽平さん(14)は中から1枚の切符を取り出した。 「家が流され、全てをなくした。震災前からの持ち物で残っているのはこの切符しかない」 捨てられず、避難先が変わっても持ち続けている。

 <23・3・11 14:40> 切符には発券日時が印字されている。 5年前のあの日。

 東松島市のJR仙石線野蒜(のびる)駅。小学3年の少年は発券されたばかりの切符を手に列車に飛び乗った。週1回、同県石巻市の絵画教室に通う。 列車はあおば通(仙台市)発石巻行き下り快速(4両)。少年ら60人を乗せ、定刻通りに発車した。 発券時刻の6分後、大きな揺れに見舞われた。駅から600メートル先で緊急停車する。車内灯が落ちた。乗客は息をのむ。 乗客の誰かが「野蒜小に避難しよう」と提案した。緊急避難所に指定されている。地元の人らしき男性が「津波が来る。ここにとどまるべきだ」と制止した。 男性の予言は当たった。50分後、巨大津波が押し寄せた。列車はたまたま高台に止まり、難を逃れた。地震発生が先か後に30秒ずれていたら一巻の終わりだった。野蒜小は浸水し、13人の犠牲者が出たことを後に知る。

 乗客は最も高い位置の3両目に集まった。 「大丈夫だよ、坊や」 少年が心細そうにしているのを見かね、乗客が声を掛けた。小学低学年の子に動揺を抑える力はなく、何の受け答えもできない。 大槻由季さんは夢中で列車の居所を捜していた。当時39歳。息子を駅に送り届けてそれきりになっている。他の3人の子供を保養施設に預けて安全を確保し、車で引き返した。 列車が見えた。よじ登り、ドアをこじ開ける。午後5時。車内は薄暗く、人影しか見えない。息子の名を呼び、歩を進めた。

 半べそ顔でこっちを見ている男の子がいる。 「陽平」 足早に近寄り、胸に引き寄せた。息子はせきを切ったように泣きだす。自分も涙が止まらない。 母子はきつく抱き合った。乗客から拍手が起きた。 暖房の切れた車内で15時間耐えた

 日は落ちた。 JR仙石線下り快速列車は立ち往生が続いている。 60人の乗客は車内で一夜を過ごす覚悟を決めた。大槻由季さんは息子の陽平さんを抱き寄せている。 暖房は切れた。ドアから隙間風が吹き込む。中づり広告を引きはがし、間に突っ込んだ。車内に空のごみ袋があり、頭からかぶって寒さしのぎの足しにした。 車内は落ち着いていた。取り乱す人はいない。地元の人がいる。家族の安否を気にしていた。旅行者の姿も。仙台駅で足止めを食い、1本遅れたという。前の便だったら津波に巻き込まれたかもしれず、「命拾いした」と言っていた。 手元に弁当が回ってきた。乗客の女性が「少しずつどうぞ」と差し出してくれた。一口食べて次の人に回す。かりんとうもペットボトルの水も。他の人も手持ちのわずかな食料を提供した。分かち合いの輪が広がる。

117NAME:2016/03/11(金) 04:34:16
 「あれ人か?」 誰かがつぶやいた。男性が流されているのが窓越しに見える。乗客が非常用ロープを取り出し、何人かで助けに出た。水をかき分けて近づく。ロープで引き寄せ、車内に運び込んだ。 男性は意識があった。60代に見える。水浸しで体が冷え切っていた。乗客が服を1人1枚ずつ脱ぎ、男性に着せた。座席を外して寝床にし、横に寝せた。 陽平さんは目をつぶり、由季さんの肩にもたれるように座席に座っている。余震がやまず、寝付けない。悪い夢でも見たのか、時々うめき声を上げた。

 空が白んできた。 全員車外に脱出する。手を取り合って。緊急停止から15時間。乗客に一体感が生まれていた。 陽平さんは由季さんとともに家族と合流し、無事を確かめた。家は流失した。駅も冠水した。「命を取られなかった幸運をかみしめよう」。両親がそう話しているのが聞こえた。

 切符は震災の数週間後に見つかった。財布の中に紛れ込んでいた。被災体験の衝撃が大きく、すっかり頭から抜けていた。 被災体験を話すのは気が進まなかった。思い出すと震えだす。しばらく列車に乗れなかった。 中学1年だった昨年3月、体験談を人前で話す依頼が届いた。原稿を書き始めたが、筆が進まない。由季さんが見かねて半分書いた。当日は気乗りしなかったが、意外にすんなり話せた。嘘のように気が楽になり、震えから解放された。 仙石線は復旧した。野蒜駅も内陸に再建された。新駅前は大規模な宅地開発が進む。大槻さん一家はこの一角に新居を構える。陽平さんが次に野蒜駅発の切符を買うのはその時になる。 (伊藤寿行)

118NAME:2016/03/11(金) 16:16:26
震災直後に営業再開・石巻の風俗店 従業員と客の心の繋がり
2016.03.06 16:00
http://www.news-postseven.com/archives/20160306_389257.html

東日本大震災発生からわずか1週間で営業を再開した風俗店があった。死者1万5894人、行方不明者2562人(2016年2月10日現在)という未曾有の大災害の直後にもかかわらず、普段の倍近い客が殺到。それを「不謹慎」という言葉で切り捨てるのは簡単だろう。  だが極限状態だからこそ、人は肌の温もりを求めずにはいられなかった。3月10日に発売される『震災風俗嬢』(小野一光著)には、テレビや新聞では決して語られることのないドラマが描かれている(本文中の発言は同書より引用)。

 震災直後に営業を再開したデリヘル店がある。“戦場から風俗まで”をテーマに執筆活動をしているノンフィクションライターの小野一光氏は、2011年の4月上旬、被災直後の北上市のバーでそう耳にし、被災地の風俗店を訪ね歩いた。石巻市のデリヘル店は、震災後わずか1週間で営業を再開していた。 「妻子を亡くしたばかりなのに風俗なんて」と思う人もいるかもしれない。しかし肌を重ねる「安心感」や「癒やし」を求めずにはいられない極限状況もあったのだ。そして彼らと同時に風俗嬢も心を癒やされていた。石巻市に住む26歳のアヤさん。被災後は震災の影響によるPTSD(※注)に見舞われた。が、それを風俗の現場で克服しようとした。 【※注:強い精神的ショックが原因で不眠や頭痛、無力感などを起こす精神疾患】

「風俗って一対一の仕事だから人ごみに行く必要ないし、まったく平気だったんですね。そうした環境のなかで人と接していくうちに、人ごみについても大丈夫になっていったんです」  アヤさんが「おカネを持ってると、気持ちに余裕が持てるじゃないですか……」と話すように、様々な商売が停滞するなか、風俗で働くことで経済的に安心できるという側面もあっただろう。しかしそれ以上に、当時は「誰かと一緒にいる」ということがなにより心の支えになっていた。

 44歳のユキコさんは津波で両親を亡くした。 「父の遺体は翌日には見つかったんですけど、母はずっとわからなくて、DNA鑑定で本人だとわかったのは八月末でした」  父親の葬儀の準備や泥だらけになった家の後片付け、母の遺体を探しての遺体安置所回り……忙殺されていた日々が一段落すると、「家に私一人がいることになり、鬱のような状態になってしまったんです」と語った。  このままではいけないと思い、客の前に出ても恥ずかしくないように、震災のストレスで太った体型を整えて、5月28日に仕事に復帰した。そしてデリヘルの仕事の中で癒やしを見いだしていった。

119NAME:2016/03/11(金) 16:17:04
「お客さんのなかには私どころではない、壮絶な体験をした人がいっぱいいることを知りました。そのことで私も、これしきのことで負けてはいられないと思って、一からやり直していけるという気持ちになれたんです」  ユキコさんのもとを訪れた30代後半の客は震災時に仙台に出張中で、両親と妻、娘二人、義理の両親を乗せたワゴン車が津波に流された。後日、車が見つかったとの連絡があり、現地へ行ってみると、車のなかに遺体が残されたままの状態を目の当たりにしたという。遺体搬送の人手がまったく足りていなかったのだ。

「いやーっ、独身になっちゃったんだよね」と最初は明るく振る舞っていた男性客は、「従業員にはそういうこと言えないじゃん。一応、肩書きは社長だから」と打ち明けた。その時をユキコさんが振り返る。 「やっぱり、そういうときは一緒に泣いちゃうんですね」

 別の男性はユキコさんに対し、「俺のタイプだ」「震災で亡くなった俺の女房に似てんだよ」と話し、「あんたと一緒にいると、女房が帰ってきた気になる」と語りかけた。その言葉をユキコさんは嬉しく感じた。大震災で激しく傷ついた風俗嬢と客は、肌と肌を合わせながら、お互いの心を支えあっていた。  今も風俗嬢として働くユキコさんのもとには、「五年越しに来たよ」という客も訪れる。「新しい家を建てることが決まった」と報告しにくる客もいる。

「私はまだ幸せなほうかなって。で、こういう仕事もさせてもらってって言ったらおかしいけど、この仕事のおかげで、いろんな人との出会いがあって、自分の糧になるものもあったから……」  とユキコさんは語った。小野氏がいう。 「他人どうしが肌を合わせる風俗嬢と客との関係は『究極の第三者』なんです。だからこそ身近な人には語れない本音を吐露する場になったのだと思います」

 3月11日が近づけば、テレビや新聞は被災地の特集を組むだろう。だが、取り上げられることのない風俗嬢たちの話の中にこそ、被災地の人々が必死に生きる姿があった。■取材協力/小野一光(ノンフィクションライター)※週刊ポスト2016年3月11日号

120NAME:2016/03/12(土) 01:04:08
津波で亡くなった母、伏せた父 思い受け止めた17歳は
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%b4%a5%e6%b3%a2%e3%81%a7%e4%ba%a1%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%af%8d%e3%80%81%e4%bc%8f%e3%81%9b%e3%81%9f%e7%88%b6-%e6%80%9d%e3%81%84%e5%8f%97%e3%81%91%e6%ad%a2%e3%82%81%e3%81%9f%ef%bc%91%ef%bc%97%e6%ad%b3%e3%81%af/ar-AAgD5LQ#page=2

母はかすみ草が好きだった。どうしてだろう。 「花言葉か何かかな」。今月6日の食卓。戸羽太河(たいが)さん(17)が口にすると、父の太(ふとし)さん(51)は「ちっちゃい花の雰囲気じゃないかな」とほおを緩めた。 震災からしばらくは、母・久美さん(当時38)のことを家族で話すこともできなかった。

 津波に襲われた岩手県陸前高田市の街中に、自宅はあった。家は流され、小学6年生だった太河さんは、2歳下の弟と親戚の家で避難暮らしを始めた。 市長である父は、指揮をとる災害対策本部に泊まり込み、帰ってこない。母の安否はわからないまま。弟はずっと泣いていた。 自分は2階の部屋で、昼寝ばかりしていた。「大丈夫。お母さん見つかるから」。周りの人から声をかけられると、また苦しくなり、布団にもぐって泣いた。 10日ほどして、親戚が父のところへ連れて行ってくれた。久しぶりの父は無精ひげで作業服姿。胸に飛び込み、抱きしめられると、涙が止まらなくなった。 父も泣いていた。そして笑顔で言った。「泣いたってどうにもならないことがあるんだよ。お兄ちゃんなんだから、頼む」 小さい頃から、いつも父や母にくっつき、甘えるのが大好きだった。でも、泣いても母が帰ってくるわけじゃない。 いま父は一番大変な場所にいる。弟はつらそうだ。せめて自分はしっかりしよう。そう決めた。 4月。母が遺体で見つかり、父が対面したことを新聞の記事で知った。

 中学に進学しても親戚宅に身を寄せた。父は多忙ながらも帰ってくるようになった。けれど、母のことはだれも口にしない。たまに家族で出かけると、車の助手席やレストランの座席が空いていた。 5月の連休明けから学校を休みがちになった。「頭が痛い」。うそをついた。勉強や部活も面倒に思えた。 放課後、担任の野口貴弘先生(44)が家を訪ねてきた。休む理由は聞かず、学校に来いとも言わない。「メシ食ってっか?」と、ときどき栄養補給のゼリーを持ってきてくれた。

 夏休み明け。車で送ってもらったときに父の話題になった。「お父さん、がんばってるなあ」。先生はそう言った後、亡くなった自分の父の話をした。 「俺は悩んだとき、おやじならどうするかって心の中で会話するんだ。目の前にはいないけれど、いつも支えられてる気がする」 このころ、父が震災の体験を記した本を出した。親戚宅にも何冊か届いていた。手にとった。 父は母の死を1カ月半伏せていたが、本にはその理由が書かれていた。 《肌の色が黒く変わってしまっていた。子どもたちは「お母さんに会いたい」と言うはず。でも絶対に見せてはいけない。きれいなままのお母さんのイメージだけを子どもの一生の宝物にしてやりたい》 父の思いを初めて知った。

121NAME:2016/03/12(土) 01:11:01
東日本大震災から5年、津波に引き裂かれる被災地の思い
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%8B%E3%82%895%E5%B9%B4%E3%80%81%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E3%81%AB%E5%BC%95%E3%81%8D%E8%A3%82%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84/ar-AAgDTUy#page=2

[陸前高田市(岩手) 11日 ロイター] - 2011年3月11日に発生した東日本大震災からきょうで丸5年。マグニチュード(M)9.0の未曾有の地震が引き起こした大津波は街を飲み込み、1986年のチェルノブイリ事故以来最悪の原発事故を招いた。 震災による死者・行方不明者は約1万8500人、関連死を含めると犠牲者は2万1000人を超える。16万人が住居と生計の手段を失った。

津波により東京電力(9501.T)福島第1原子力発電所の原子炉3基がメルトダウンし、放射能汚染が広がった。原発付近に住む16万人以上が避難を余儀なくされ、その約10%が福島県内の仮設住宅で今でも生活している。 避難した住民の大半は故郷を離れ、新たな生活を始めた。一部の地域は、高い放射線量のため帰還が今なお困難な状況にある。

約17メートルの津波に見舞われ、市街地全体が飲み込まれた岩手県陸前高田市は人口の7%を失った。深い悲しみが今でも住民の心を苦しめている。 消防団員の男性は、同僚51人を失った。ほとんどが救援活動中に命を落としたという。「インフラは回復しつつあるが、心は違う」とこの男性は語る。「亡くなった人たちの顔がいまだに目の前に現れる」。

都内では11日、東日本大震災5周年追悼式が開催され、地震が発生した午後2時46分には犠牲者を悼み、黙とうが行われる。都内の地下鉄もその時間は運転を停止する。 政府はばく大な予算を投じ、津波対策や除染作業などを含む被災地の復興を進めているが、仮設住宅での暮らしを強いられている多くの被災者への支援対策においてはまだ多くのことが残されている。 漁師だったという陸前高田の男性は「何をしたらいいのか分からないという人が増えている気がする。心はずたずたに引き裂かれている」と語る。

政府の復興予算は2016年度から大幅に引き下げられるが、安倍晋三首相は10日、会見を行い、今後5年間を「復興・創生期間」と位置付け、十分な財源を確保したうえで、被災地の自立につながる支援を行う考えを表明した。 「今なお仮設住宅で暮らす方々、まだまだ厳しい状況に置かれている皆さんが、たくさんいる。被災地の皆さんの不安な気持ちに寄り添いながら、地域ごとの多様なニーズに応えた支援を、しっかりと行う」と首相は語った。

122NAME:2016/03/12(土) 01:31:20
東日本大震災から5年、被災地の「復興の歩み」を写真で振り返る
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%8B%E3%82%895%E5%B9%B4%E3%80%81%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%BE%A9%E8%88%88%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF%E3%80%8D%E3%82%92%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81%A7%E6%8C%AF%E3%82%8A%E8%BF%94%E3%82%8B/ss-AAgyMtg#image=26

123NAME:2016/03/12(土) 01:37:13
中国人研修生を救おうとした日本人
大震災5年:程永華・駐日中国大使寄稿の全文
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%a4%a7%e9%9c%87%e7%81%bd%ef%bc%95%e5%b9%b4%e7%a8%8b%e6%b0%b8%e8%8f%af%e3%83%bb%e9%a7%90%e6%97%a5%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e5%a4%a7%e4%bd%bf%e5%af%84%e7%a8%bf%e3%81%ae%e5%85%a8%e6%96%87/ar-AAgBGFI#page=2

東日本大震災5年に合わせ、中国の程永華(てい・えいか)駐日大使が毎日新聞に寄稿し、日中両国が防災や被災地支援での協力を強化する必要性を訴えた。全文は次の通り。

2011年3月11日、午後の東京にはもう早春の暖かさがあった。私は山東省投資説明会に出席するため、在日中国大使館を出ようとしているところだった。突然、強い揺れに襲われ、歩みを止められた。私は外交官として日本に長年勤務しており、1995年に大阪市で阪神淡路大震災を経験したのを含めて、大小の地震をどれほど経験したか知れないが、このように強い揺れを感じたのは初めてだった。すぐに投資説明会への出席を取りやめ、執務室に戻って地震対応の手配に臨んだ。床に落ちた掛け時計は午後2時46分を指したまま。マグニチュード9.0という、世界の地震観測史上第4位に入る東日本大震災の起きた時刻だ。

 5年の歳月が過ぎ、仕事と生活の日々が続いてきたが、当時の状況が記憶から消えたことはない。当時は地震、津波と原発事故の三つの災難が重なり、被災状況に対する未知の不安と恐怖によって、普段はにぎわう六本木の街頭もひっそりとしていた。しかし、在日中国大使館は24時間の緊急態勢に入った。被災地に3万人もの中国国民が滞在しており、早急にその安否を確認し、しかるべき措置を取ることが急務となったからだ。

 震災発生当日からの10日間に、大使館は六つの作業グループを被災地に派遣し、中国国民の救助にあたった。その中で日本各地の自治体と市民の皆様から多大な援助を受けた。日本の方々と中国大使館、総領事館は協力しながら被災地の中国国民が危険な状況から脱するのを助けた。

 日本で働く研修生は最も救援を必要としており、日本の市民の皆様から最も多くの助けを受けていた。宮城県女川町の佐藤充さんは、津波が押し寄せる直前に20人の中国人研修生を救ったが、自らはより多くの人を救出しようとして津波に巻き込まれ、尊い命を失ってしまった。 このほかにも、身の危険を顧みず、自分の家族の安否も確認していない中で中国人の救助に当たり、なかには福島第1原発の近くまで中国人研修生を捜しに行った人もいたという多くの感動的な話を聞いた。このようなことがあるゆえに、多くの中国人研修生が震災後まもなく日本に戻って仕事につき、被災地の復興に身を投じた。

124NAME:2016/03/12(土) 01:38:01
 自然災害の前で個々の人間は弱いものだ。一方、人間の善意と友情と助け合いは絶大な力を示している。中国は日本の隣国として、同じく地震の被害に見舞われてきた。08年に中国四川省で?川大地震が起きた後、日本の各界が援助の手を差し伸べ、日本の救援隊と医療チームが被災地で救出・治療活動に当たったことは、中国の人々にとって記憶に新しく、またその時のことがあるだけに、日本の皆さんの苦しみを我がことのように感じた。中国政府、民間および在日華僑、中国系企業と留学生が次々に立ち上がり、日本の被災地に義援金や物資を届け、見舞いの言葉と声援を送った。

 中国からの最初の支援物資は震災の3日後に届いた。中国国際救援隊は3月13日に日本に入り、津波の被害が大きかった岩手県大船渡市で救援活動を始めた。最も早く被災地に入り、最も長く捜索・救援活動を行った国際救援隊の一つだった。当時の国土交通相が被災地に救援物資を運ぶために燃料油が必要だとして中国に支援を求めた際、中国政府はすぐにガソリン1万トンとディーゼル油1万トンを無償で提供することを決定した。東京電力が福島第1原発の冷却作業のため中国の建機大手「三一重工」の大型ポンプ車を購入したいというと、三一重工は他国に輸出する契約の違反となることもいとわず、売値100万ドルで62メートルのアームを持つポンプ車を無償で提供した。このポンプ車はその後、日本の皆さんに「大キリン」と呼ばれるようになった。

 空前の災難を経験し、我々は自然の怖さを一層深く認識し、また日々の生活をより大切にするようにもなった。東日本大震災発生の年、私は5回にわたって被災地を訪れ、被害の状況をこの目で見た。その後も福島や宮城などを何度も訪れた。この5年間、被災地復興の進展ぶりを目にするとともに、現地の方々の驚くべき意志の強さに深く感銘を受けた。

 この5年間、私は常に考えてきた。中日両国は隣国として、自然災害が発生した時、支援国はいかにしてより的確に必要な物資と援助を提供するか、支援される国はいかにしてこれを有効に活用するか、双方が普段から意思疎通を図り、共通の行動基準を作り上げることが必要だろう。

 命の安全が重大な脅威にさらされた時、両国の間で見過ごせない意見の相違や矛盾はなく、防災や緊急援助にせよ、被災地の再建にせよ、双方がともに協力すべき重要な課題であり、中日両国にとって戦略的互恵関係の重要な中身でもある。中日関係の更なる改善と発展を図るには、この分野から始めてもいいのではないか。 最後に、東日本大震災の被災地の方々に謹んでお見舞い申し上げるとともに、被災地の早期復興を心から祈りたい。

125NAME:2016/03/13(日) 00:23:57
【東日本大震災5年】
台湾で大震災の追悼・感謝式典 日本側、「真の友人」と謝意
2016.3.11 18:32更新
http://www.sankei.com/world/news/160311/wor1603110019-n1.html

【台北=田中靖人】東日本大震災から5年となった11日、台北市内で、台湾日本人会などが主催する「追悼・感謝会」が開かれた。式典には日台の関係者約150人が出席し、台湾側から蘇嘉全立法院長(国会議長に相当)らが献花に訪れた。

 台湾の対日窓口機関、亜東関係協会の李嘉進会長は「台湾は5年前に日本を支援した初心を忘れていない。その気持ちを元に、台湾と日本の関係がますます発展するよう期待する」とあいさつ。対台湾窓口機関、交流協会台北事務所の沼田幹男代表(駐台大使)は、台湾から200億円を超す義援金が送られたことを念頭に、「日本人に台湾という真の友人がいることを強く思い起こさせた」と改めて謝意を表明した。

 式典ではこのほか、台湾の赤十字からの義援金22億円を充当して昨年末、病院を再建した宮城県南三陸町の佐藤仁町長のビデオメッセージや、台湾のロックバンド「滅火器」が被災地で撮影した復興応援ビデオが放映された。

126NAME:2016/03/19(土) 17:27:59
【東日本大震災5年】トモダチ作戦は「義務ではなく、愛によるものだった」 元在日米軍司令官
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%80%90%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%EF%BC%95%E5%B9%B4%E3%80%91%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%81%E4%BD%9C%E6%88%A6%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%BE%A9%E5%8B%99%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E6%84%9B%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D-%E5%85%83%E5%9C%A8%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98/ar-AAgEw0w#page=2

2011年3月11日午後2時46分、横田基地にある在日米軍司令部。バートン・フィールド司令官は、第5空軍の面々と会議を開いていた。「いつもとは違う大きな揺れ」に、建物から外へ飛び出した。 揺れが収まるのを待ち、全ての在日米軍基地に異常がないか確認するよう指示した。問題は他からやってきた。11機の米民間航空機が羽田、成田両空港が閉鎖されたため、横田基地へ向かうというのだ。

 慌ただしくジョン・ルース駐日米大使に電話をした。だが、連絡が取れず、携帯電話も不通だった。折木良一統合幕僚長、ハワイのロバート・ウィラード太平洋軍司令官らとも連絡を取り合った。その直後に、最初の民間機が横田に飛来した。 福島第1原発の1号炉付近では爆発が起き、フィールド司令官らには「損傷の程度や、他の炉が同様の状況にあるのかどうか、分からなかった」。

 頭はせわしなく回り始めていた。「事態がさらに悪化したら、どう対応するのか。(日本政府などから)要請された場合、米国人と他の外国人、日本人をいかに避難させるか」… 自衛隊の依頼を受け米軍が担ったのは、小学校などの清掃と、救援物資を空輸できるよう、使用不能状態にあった仙台空港を再開させることだった。

   ×    ×

 フィールド司令官は仙台へ飛んだ。だが空港には降りられなかった。上空から見た空港は水浸し。「車も家もすべて破壊されているようだ。空港も何カ月も使えないだろう」と思った。 その日の夜、横田へ戻ると、嘉手納基地(沖縄県)に駐留する空軍第353特殊作戦群のロバート・トス大佐が、こう言った。

 「われわれが仙台空港を、できるだけ早く復旧するようにします」 大佐らは宮城県知事、仙台市長と会い、海兵隊などと協力し、がれきなどに覆われた滑走路を整備して、復旧に全力を挙げる。C130輸送機が最初に仙台空港に着陸したのは、16日のことである。 フィールド司令官は「友人、同盟国としてやるべきことをした。それはただ義務ということではなく、愛によるものだった。われわれは手助けをしただけで、真のヒーローは自衛隊だ」と話す。(ワシントン 青木伸行)

127NAME:2016/09/04(日) 22:29:11
【東日本大震災】
津波で亡くなった子供の幽霊が自宅跡地に戻ってきてくれた…遺族の心を癒す「震災怪談」が次々と寄せられ
2016.9.4 18:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/160904/prm1609040017-n1.html

東日本大震災後、津波の被災地では心霊体験が多く語られるようになった。そんな体験談を東北地方の作家らが取材し、「震災怪談」として作品化した。30日で発生から2000日。作品は単なる娯楽ではなく、死者への供養や鎮魂とともに、遺族の心を癒やす効果もあるとして注目を集めている。(大渡美咲、写真も)

 震災怪談集「渚にて あの日からの〈みちのく怪談〉」を出版したのは仙台市の出版社「荒蝦夷(あらえみし)」。実話を基にした10人の作家による45編が収録されている。 荒蝦夷の土方正志代表は「震災怪談は泣ける話ではなく、リアルな死が背景にある。5年たってまだ語れない人も立ち直れない人もいる。怪談が表現のツールになれば」と話す。

 《帰ろうと下駄箱のカギを外して中からブーツを取り出し、脚を入れた瞬間。白い花弁が一房、靴の中にあった。(中略)二週間後、木棺に入れられて、父が帰ってきた。胸の上に、白い花が添えられていた。靴の中に入っていた、あの白い花と同じものだった》 震災で父の勉さん=当時(53)=を亡くした須藤文音(あやね)さん(28)は体験した出来事を怪談「白い花弁」としてつづった。勉さんは宮城県気仙沼市で津波に巻き込まれ、2週間後に遺体で見つかった。その2週間、文音さんの身近で不思議な出来事があった。 「父の亡くなった状況は今でも分からない。でも書いているうちに、成仏してほしいという思いとともに、父の最期が痛くなかったらいいな、苦しくなかったらいいな、と思えるようになった」

文音さんは書くことや話すことで徐々に勉さんの死を受け入れられるようになったといい、「怪談は父と私をつなぐツール。生きている人と亡くなっている人をつないでいる」と語る。 文芸評論家の東雅夫さんによると、関東大震災(大正12年)後もこうした実話を基にした震災怪談が作品になったといい、「怪談は死者の話を生きている人が書いて生きている人が読む。亡くなった人の物語を生者が言葉にし、語り、共有することで鎮魂や供養になっている」と解説する。

 一方、平成7年の阪神大震災後にこうした動きがなかったのは、津波と火災による被害の違いや、「遠野物語」の舞台でもある東北地方ならではの文化に由来するのではないかとも分析する。 《知り合った人から“某所に出る子供の幽霊”の話を聞いた。絶句した。なぜならその子供を知っていたからだ。目撃されたのは、確かにその子の家の跡地。語られた背格好も、その子と一致する》

 被災地出身で怪談作家の小田イ輔さんは知人や顔見知りの人の死を体験した。「自分の身内が流されて5年たって落ち着いたとはいえない。津波で亡くなった、新聞に名前が載った、で終わりじゃない。その人が生きていた証しを拾い上げて残す。誰にも訪れる『死』を突き詰めたのが怪談だ」と話している。

128NAME:2017/03/06(月) 02:53:22
遺族が経験した「3.11後の霊体験」とは何か 亡くなった時間に、お別れのあいさつに
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e9%81%ba%e6%97%8f%e3%81%8c%e7%b5%8c%e9%a8%93%e3%81%97%e3%81%9f%ef%bd%a2311%e5%be%8c%e3%81%ae%e9%9c%8a%e4%bd%93%e9%a8%93%ef%bd%a3%e3%81%a8%e3%81%af%e4%bd%95%e3%81%8b-%e4%ba%a1%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%99%82%e9%96%93%e3%81%ab%ef%bd%a4%e3%81%8a%e5%88%a5%e3%82%8c%e3%81%ae%e3%81%82%e3%81%84%e3%81%95%e3%81%a4%e3%81%ab/ar-AAnM7V6?ocid=iehp#page=2

あの日から、もうすぐ6年の月日が経とうとしているが、今だに震災について語るべき言葉を持っていない。身の回りで大きな被害があったわけでもない。知人や親戚が被災地にいたわけでもない。ボランティア活動に参加したこともない。

 そんな自分が何を語ろうとしても、言葉が軽くなってしまう。同じようなためらいを感じている方は、案外多いのかもしれない。しかし本書『魂でもいいから、そばにいて』は、意外な切り口からそのような壁を取り払ってくれ、最も大切な姿勢が何かを教えてくれた。

 数年前から被災地で、まことしやかに囁かれてきた不思議な体験の数々。多くの人にとってかけがえのないものでありながら、「誰も信じてくれないから」と胸に秘められてきたのは、大切な「亡き人との再会」ともいえる体験談であった。偶然の一言では片付けられない話ばかりが、次々と飛び出してくる。

被災地で囁かれてきた不思議な体験の数々

 中でも圧倒的に多いのは、亡くなった家族が夢に現れるという現象である。夢とは思えないほどリアリティに溢れ、当人と言葉を交わすようなケースも多い。その次に多いのが、「お知らせ」というものだ。亡くなった時間に、お別れの挨拶に来たという証言する人は少なくない。また、携帯電話を通しての不思議な現象も散見された。

 このような霊的体験は、阪神・淡路大震災の時にはほとんど見られなかったという。オガミサマと呼ばれるイタコのような風習が古くから生活の一部になっていたように、東北には土着の宗教心が今も潜在意識の中でしっかり流れている。それが霊を見たり、感じさせたりということにつながっていくのだろうか。

 被災で亡くなった人と残された人。その差に、何か明白な原因があったわけではない。あまりにも理不尽な分断が、ある日突然起こった。だからこそ両者は、その分断を目には見えない何かで埋めようとするのかもしれない。

 あの悲劇を一刻も早く忘れたい、でも大切な人のことを忘れたくない。そんな忘却へのジレンマが、その人固有の物語を生み出していく。本書は、そんな人々の物語だ。

129NAME:2017/03/06(月) 02:54:58
 “私は眠ったら妻や娘に逢えると思うから、自分自身が死んだつもりになって寝るんです。(亀井繁さん)”

 妻と娘を喪った、亀井繁さん。遺体が見つかり、火葬を終えた日の夜中のこと、二人が自分に向かって手を振っている姿を目の当たりにする。「ああ逢いに来てくれたんだ」と手を伸ばしたその時、目が醒めたという。繁さんはその後も何度か同じような経験をし、こうした出来事を大学ノートに記録するようになった。

 夢のようなひと時を、夢の中で過ごす。ある時は「私がいないとつまんない?」と妻から尋ねられ、ある時は「どこにも行かないよ」と声を掛けられた。むろん夢から醒めてしまえば、想像を絶する地獄が待っている。だが、夢の中だけでもあの頃に戻れるのであれば、たしかな希望を感じることができるそうだ。

その霊も誰かの大切な家族だった

 “他人の霊を見たら怖いでしょうね。でも私は見方が変わりました。その霊も誰かの大切な家族だったんだと思えば、ちっとも怖くないと思えるようになったんです(永沼恵子さん)”

 当時8歳だった息子の琴君を喪った、永沼恵子さん。何気なく携帯の写メで家の写真を撮ったら、なんと窓に琴君の顔が写っていたのだという。それを皮切りに、次々と不思議なことが起こっていく。風邪もなく窓も閉めきっているのに、ティッシュが激しく揺れたり、どたんと大きな音がしたり、天井や壁を走り回る音がしたり。

 琴くんの足音が聞こえてくるーーそう思えるだけでも亡くなった我が子の気遣いとして感じられ、頑張っている姿を見せなければと前を向けるのだという。子供を喪うことは、未来を奪われることにも等しい。それでも子供との思い出が、確かに未来を創っているのだ。

 “夢の中でお父さんにぐっと手を握られたりハグされたりするでしょ? お父さんの手は大きくて温かいんですよ(菅野佳代子さん)”

 市役所勤務の夫を喪った、菅野佳代子さん。仮設住宅に移った2013年くらいから夢に旦那さんが出てくるようになった。鮮明な映像で音も大きく、現実と錯覚するほどのリアリティであったという。

 生きている「死者」を抱きしめるような感覚が、生活を穏やかに包み込んでくれる。だから現実にはいないはずの仮設住宅でも、旦那さんと二人っきりで生活している気がするそうだ。

生きる力を取り戻し、少しずつ心の復興が進んでいる

 在りし日の思い出、亡くなった悲しみ、夢で再会できた喜び。それらがシームレスにつながり、一つの物語が形成されていく。その過程において、著者は同じ人に最低3回は話を聞いたそうだ。その物語も、決して不変なものばかりではなかった。他者に語ることで語り手が少しずつ変化を加えつつ、自らが納得できる物語として完成したのである。

 それは事実と言えるものなのか。そう指摘することは容易い。しかしその物語で、遺された人たちが生きる力を取り戻し、少しずつ心の復興が進んでいることは、紛れもない「事実」である。

 被災者たちを襲ったのは、津波だけではなかった。時を追うごとに、さまざまな困難が襲いかかってくる。一番キツいのは、「あの時もし、こうしていたら、家族は助かったのかもしれない」と、自分で自分を攻め続けてしまうことだ。その悩みは内省的なものであるがゆえに、表面化しづらく根も深い。だが、当人たちそれぞれの不思議な物語が、彼らを罪の意識から解放してくれるのだ。

 「生者が死者を記憶に刻み続けることで、死者は生き続ける。私は、その記憶を刻む器なのだ」と、著者は語る。それぞれの話が共鳴することによって生まれる、新たな共同体感覚。それがさらに、誰かを孤独から救い出すことへつながっていくのかもしれない。第三者に出来る唯一にして最大のことは、ただひたすら器に描かれた物語を記憶に刻んでいくことだけだろう。

 幸せと絶望があまりにも理不尽に分断されたことで、現実と虚構が入れ替わっていく。だが一体、何が現実で、何が虚構なのか。常識や思い込みといったものこそ、虚構に過ぎないのかもしれない。我々にそれを決めることなど、決して出来はしないはずだ。

130NAME:2017/03/07(火) 20:14:39
東日本大震災
津波の高さ、目で確かめて 銀座のビルに巨大垂れ幕
2017.3.7 18:20
http://www.sankei.com/photo/story/news/170307/sty1703070009-n1.html

東日本大震災の発生から6年を迎えるのを前に、IT大手ヤフーは東京・銀座のソニービル壁面に、岩手県大船渡市を襲った津波の高さを示す巨大な垂れ幕を設置した。防災意識を高めてもらうのが狙い。12日まで。

 垂れ幕は高さ28.5メートルの白地に、黒字で「あの日を忘れない。それが、一番の防災」などのメッセージをつづったシンプルなデザイン。大船渡市で観測された津波と同じ高さ16.7メートルの位置に横に赤い線を引いて、視覚に訴えている。

 ヤフーの広報担当者は「インターネットでも災害情報を伝えているが、ほかにも一人でも多くの方が防災への想像力を高められるきっかけを発信したい」と話している。.

ソニービルに掲出されたYAHOO!の広告。大船渡市で観測された津波の高さ16.7メートルが示されている=7日午後、東京・銀座(桐原正道撮影)

131NAME:2018/07/07(土) 23:48:01
長友、仙台で被災地子供から質問「なんで金髪に?」
2018/7/7(土) 19:34配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180707-00261069-nksports-socc

日本代表DF長友佑都(31=ガラタサライ)がワールドカップ(W杯)ロシア大会から帰国2日後の7日、仙台市内を訪れ、被災地の子どもたちを喜ばせるだけでなく、自身も活力を得た。

少年サッカー大会会場となっていた蒲町小を訪問。ワールドカップ応援の感謝と、夢を持って努力する強い気持ちを持つことを伝えた。質問タイムでは「日本代表で一番仲が良い選手は?」の問いに「香川真司。同じ時期に代表に入ってやってきたし、人間性も素晴らしい。人の見えないところで努力を重ねているからこそ10番を背負える。その裏の努力を僕は見ています」。

 「なんで金髪にしたの?」には「日本代表が6カ月間勝てなくて批判も受けた。『オジサン、オジサン』とも言われていた。自分の気持ちも変えたかったし、チームを明るい雰囲気にしたかった」と明かした。

 甚大な津波被害を受けた沿岸部にも足を運んだ。遺構として保存され、校舎内には写真や映像が展示されている荒浜小も見学した。同小近くにある荒浜慈聖観音の慰霊碑には献花し、合掌。14年W杯ブラジル大会直後にも仙台を訪問しており「4年前に力をもらった感謝もあるし、また元気をもらいたいと思った。このエネルギーで4年後(のワールドカップ)も狙いたい」と力強く話した。

132NAME:2018/07/17(火) 12:37:24
「支援金」と「義援金」、お金が届く相手が違います
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e6%94%af%e6%8f%b4%e9%87%91%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%80%8c%e7%be%a9%e6%8f%b4%e9%87%91%e3%80%8d%e3%80%81%e3%81%8a%e9%87%91%e3%81%8c%e5%b1%8a%e3%81%8f%e7%9b%b8%e6%89%8b%e3%81%8c%e9%81%95%e3%81%84%e3%81%be%e3%81%99/ar-AAA7OFn#page=2
2018/07/16 07:37

支援金とは自分が応援したい団体、関心がある分野の団体を選んで寄付し、被災地の支援活動に役立ててもらうお金。
義援金とは、被災者にお悔やみや応援の気持ちを込めて直接届けるお金。日本赤十字社によると、個人や企業などから寄せられた義援金は、各自治体の義援金配分委員会で協議のうえ、市町村を通じて被災者に直接、届けられる

西日本豪雨災害の被災地に届ける「支援金」や「義援金」の募集が始まっている。「被災地の役に立ちたい」という気持ちがこもったお金だからこそ、使われ方を理解しておきたい。改めて、「支援金」と「義援金」の違いって――。

 被災地への支援金募集を始めた日本財団によると、支援金とは自分が応援したい団体、関心がある分野の団体を選んで寄付し、被災地の支援活動に役立ててもらうお金。財団では、避難所へのトイレ設置、ボランティアセンターの運営などの使い道を想定している。

 一方、義援金とは、被災者にお悔やみや応援の気持ちを込めて直接届けるお金。日本赤十字社によると、個人や企業などから寄せられた義援金は、各自治体の義援金配分委員会で協議のうえ、市町村を通じて被災者に直接、届けられるという。 「義援金と支援金の違い」は、日本財団のHP(https://www.nippon-foundation.or.jp/what/spotlight/tohoku_earthquake/infographics/)で、わかりやすく図解している。(小若理恵)

133NAME:2018/08/06(月) 22:49:13
水害、石碑の訴え届かず 明治に44人死亡の小屋浦地区
2018/08/05 05:03
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%b0%b4%e5%ae%b3%e3%80%81%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%81%ae%e8%a8%b4%e3%81%88%e5%b1%8a%e3%81%8b%e3%81%9a-%e6%98%8e%e6%b2%bb%e3%81%ab%ef%bc%94%ef%bc%94%e4%ba%ba%e6%ad%bb%e4%ba%a1%e3%81%ae%e5%b0%8f%e5%b1%8b%e6%b5%a6%e5%9c%b0%e5%8c%ba/ar-BBLuJ6L?ocid=iehp#page=2

西日本豪雨で大きな被害が出た広島県坂町の小屋浦地区。海の近くまで山が迫り、天地(てんち)川沿いを中心に約800世帯が住む。被害が集中した地域には、100年以上前に44人が死亡した土砂災害を伝える石碑があったが、悲劇は繰り返された。 今回の豪雨で、天地川の河口から1300メートル上流の砂防ダムが崩壊し、土石流が集落を襲った。支流域も含め、地区全体で15人が死亡、1人が行方不明になった。うち上流の小屋浦4丁目の住民が10人、下流の2〜3丁目が6人。16人の平均年齢は78歳だった。

 この地区では1907(明治40)年7月にも大雨で土石流が発生し、甚大な被害が出たことがあった。町史などによると、その3〜4年後の10年と11年、2基の石碑が建立された。被災の生々しい状況が漢文で記され、死没者全員の名前が刻まれている。当初は河口付近にあったが、2004年にいずれも川沿いの公園に移設された。お年寄りがゲートボールを楽しむ一角だ。 4丁目の山あいに住む西山シマ子さん(87)は公園を散歩する時、石碑に手を合わせてきた。犠牲になった祖父母らの名前が刻まれているからだ。小さい頃から「この辺は100年に一度、大事(おおごと)がある」と聞いてきた。砂防ダムの完成は1950年。住民も材料の石を搬入する作業に加わり、「これで100年は持つ」と歓迎したという。

 天地川は堤防の幅が最大10メートルほどの小さな川で、流量も少ない。川の近くに住む女性(76)は泥だらけになった自宅の片付けに追われながら、「昔は泳いだり洗濯をしたりしていた。あんなに荒れた川は初めて見た」と話した。豪雨の後、石碑のことを思い出し、「前もこんなんじゃったんやろか」と初めて身をもって考えたという。 県によると、崩壊した砂防ダムは高さ11・5メートル、幅50メートルの石積み構造。15年2月の定期点検では「経過観察」とされ、補修の緊急性はさほど高くないとされた。県は今回の土石流で崩壊したのは、「せき止め可能な9千立方メートルを上回る土砂が押し寄せた」のが原因とみている。 一方、県は1基では万が一に対応できないとして、4倍の能力を持つ2基目を造る計画を10年以上前に策定していた。現在、工事用道路づくりに着手しているものの、本体着工の時期は決まっていない。その隙間を突くように、今回の水害は起きた。

© 朝日新聞 111年前の被害を伝える公園内の2基の石碑。その前のスペースは天地川をあふれさせた流木などの仮置き場になっている=2018年7月30日、広島県坂町小屋浦4丁目、遠山武撮影

坂町の坂郷土史会は明治の水害から100年が過ぎた08年7月、町内で「水害史料展」を開催し、「山や崖に囲まれた地形では、集中豪雨に遭遇すると被害は必至」と警鐘を鳴らしていた。ただ、同会副会長で地元に住む中屋敷康さん(78)は「実際に起きるとは予想もしなかった」と打ち明けた。 石碑を今の場所に移転させたのは住民組織の「小屋浦講(こう)連合会」。移転した後、お盆前に毎年、石碑周辺の清掃活動を続けてきたが、今年は見送る。会長の山下幸博さん(66)は言う。「川は長い間安全だったので大丈夫と思っていた。自然の恐ろしさを身をもって知った。災害はいつ起こるか分からない」(遠山武)

134NAME:2019/03/11(月) 19:11:11
【東日本大震災5年】
津波にのまれた父を思う…6歳の女の子は一度も髪を切ったことがない 「パパがなでた髪かもしれないから」
2016.3.11 10:30
https://www.sankei.com/affairs/news/160311/afr1603110017-n1.html

髪に宿るパパのぬくもり
宮城県塩釜市・高橋心陽(こはる)ちゃん(6)

 死者、行方不明者合わせて1万8千人を超えた東日本大震災は、発生から11日で5年となる。歳月は流れ、変わるものと変わらぬものが交錯する被災地。人々は胸にさまざまな思いを宿し、復興に向けて歩みを進める。

 「幼稚園で一番長いんだ」。お尻まで伸ばした髪をなびかせ、ほほ笑んだ。 宮城県塩釜市の高橋心陽(こはる)ちゃん(6)は、これまで一度も後ろ髪を切ったことがない。東日本大震災が起きたのは1歳の時。津波のことも、消防団員として避難を呼びかけながら亡くなった父、昌照(まさてる)さん=当時(37)=のことも、ほとんど覚えていない。

 仙台市の自宅にあった家族写真は津波で流された。「パパがなでた髪かもしれないと思うと、切れないんです」。母の陽香(はるか)さん(42)にとって、心陽ちゃんの髪は夫のぬくもりを残す大切な思い出だ。「ラプンツェルみたいに床につくまで伸ばしたい」。グリム童話に登場する少女に憧れる娘のため、冬は20分ほどかけて、ドライヤーで丁寧に髪を乾かす。

「こっちには来るな!」 「おむつが欲しいからそっちに行くね」「こっちには来るな!」。平成23年3月11日、仙台市宮城野区の消防団に所属していた昌照さんは、自宅に戻ろうとしていた陽香さんを電話で制止し、保育園に長男の真心(こころ)君(8)と心陽ちゃんを迎えに行くよう指示。これが最後の会話となった。

 昌照さんが乗っていたポンプ車は自宅から約150メートル離れた場所で大破して見つかったが、連絡はとれないまま。13日に避難先で知人と再会した陽香さんは、思わず泣き崩れた。「パパがいないの」。傍らでは子供たちが不安そうに見つめていた。「もう泣けない」。涙をこらえた。 夜、おぶっていた真心君がつぶやいた。「パパ、死んだんだよね」。思わず否定した。「パパ、生きてるから!」。自分に言い聞かせていたのかもしれない。息子は背中で泣いていた。

同月30日、自宅近くのがれきの中から遺体が見つかった。作業着の胸と肩には家族3人の名前をつなげた「真心陽香」の刺繍(ししゅう)。肌は土色になっていたが、確かに昌照さんだった。死因は頭部損傷。ヘルメットには亀裂が走っていた。

135NAME:2019/03/11(月) 19:11:29
 昌照さんは最後まで住民に「逃げて」と呼びかけ、消防団仲間に「家族を逃がせ」と促していた。夫らしい行動だったと思う。火葬を終え、骨壺に「心陽より軽いよ」と語りかけた。 宮城県塩釜市の実家に3人で身を寄せ、5月には事務職として務めていた仙台市の勤務先に復帰した。

 子供が泣いていても保育園に預け、会社へ向かった。他の子供が父親に迎えに来てもらう様子を見た真心君が、ぐっと何かを我慢するような表情を浮かべていたこともある。陽香さんも子供たちと離れるのはつらかったが、家計を支えるため懸命に働いた。 やがて、心陽ちゃんから一日に何度も「ねえ、ママ笑って?」と言われるようになっていた。笑顔が消えていたことに気付いた。「子供たちの成長を近くで見守りたい」。思い切って仕事を辞めた。

「なんでパパが死ななければならなかったんだ!」。今年1月、真心君が突然、布団で泣きじゃくり、枕をたたいた。震災後、自分から父の話をすることはなかった。父の記憶を封じようとしているのかは分からない。葛藤が垣間見えた瞬間だった。 髪を伸ばし続けてきた心陽ちゃんも時々、「切りたい」と言うようになった。「心陽に決めさせようと思いつつ、迷っている私がいる」と陽香さんは話す。

「今を生きるしかない」 子供の成長とともに訪れる変化を覚悟しながら、変わらないこともある。昌照さんが大切にしていた「556(こころ)」ナンバーの車を使い続け、両手には2つの結婚指輪。毎日、仏壇に「今日もこの子たちをよろしくね」と語りかける。

 今も、子供たちの進路などの重大な選択に向き合うとき「パパだったらどうするだろう」と昌照さんのことを考える。大人の男性にじゃれる子供たちを見ると「お父さんに甘えたいのかな」とも感じるが、周りには頑張っているシングルマザーがたくさんいる。自分の子供たちだけがかわいそうだとは思いたくない。 陽香さんは、避難所でのたった一度を除いて、人に涙を見せたことがない。「薄情だと思われるかもしれないけど泣いている暇はない。今を生きるしかないんです」(滝口亜希)

136NAME:2019/03/11(月) 20:30:04
唯一、手元に残されていた家族4人の写真。高橋昌照さん(右)の遺影になった =平成22年9月4日、仙台市(高橋陽香さん提供)

137NAME:2019/03/12(火) 00:56:10
引き渡した園児9人、津波で犠牲「自分がした判断は許されない」 震災8年、保育園長が語った後悔と教訓「保護者に園児は引き渡さないと決めた」
3/11(月) 6:42配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190311-00000017-asahi-soci
地図上で震災当日に避難した経路をたどりながらインタビューに答える大槌保育園の八木沢弓美子園長=岩手県大槌町

東日本大震災当日、保育園や幼稚園が保護者に引き渡した園児が、その後の避難中、津波にのまれて亡くなった例が相次ぎました。岩手県大槌町の認可保育園「大槌保育園」もそうでした。八木沢弓美子園長(53)は、8年を経て初めて朝日新聞の取材に応じ、胸に秘めていた後悔と問いかけを口にしました。そのわけとは――。

【写真】震災後、大槌保育園の仮設園舎で絵本の整理をする職員たち=2011年5月、葛谷晋吾撮影

 ――震災前から、熱心に避難訓練をしていたと聞きます。

 定期訓練とは別に、事前に職員にも知らせない抜き打ち訓練もしていました。一度はお昼寝中にいきなり始めました。 国の最低配置基準では保育士1人あたりでみる子どもの数は0歳児なら3人ですが、やってみると、1人で3人抱えるのは無理とわかった。そこで、給食の調理師や栄養士も含めてこの子をおんぶするのはこの職員、と担当を決めていました。

 町が一次避難場所として指定していた空き地は雨風もしのげず、子どもの足で歩いて15分はかかった。自治会と相談して、高台のコンビニを独自に津波避難場所と決め、5分で走って逃げる訓練を繰り返していました。

 ――震災当日は、そのコンビニにも津波が?

 当日は揺れを感じてすぐ、「地震です。先生のそばに集まって下さい。大丈夫、こわくないからね」と園内放送し、揺れが収まったらすぐ職員が園児に防災ずきんと上着を着せました。園庭に整列させ点呼をとる決まりになっていましたが、そんな時間はないと判断。職員20人で、110人ほどの子どもを準備できたクラスからすぐ避難させました。

 コンビニの駐車場にいると次々に保護者が迎えに来ました。約70人の子を引き渡した時点で、ふと水門の方を見ると、決壊し、電信柱がなぎ倒されていて津波と気づきました。 残った40人ほどの子どもと国道を駆け上がり、国道沿いの山の急斜面を四つんばいになって必死に登り、何とか助かりました。

 暗くなってきたころ火災が起こり、また内陸側へ避難しました。子どもたちは誰1人泣かず、しーんとして、街が津波にのみこまれ、火に巻かれる様子をじっと見ていました。歩いて迎えに来た保護者に全員を引き渡し終えたのは2日後のことです。

 ――一方で、当日、コンビニで引き渡した園児のうち9人が犠牲となりました。

 多くが保護者とともに亡くなりました。最後に引き渡した子は、遺体安置所で小さな右手を見たとき、すぐわかりました。保育士を辞めなければならないと思った。 今でも、その子が「こわい」と言って私の左足にしがみついていたあの日の感触がよみがえることがあります。ご遺族の気持ちを思えば、自分がした判断は許されないものです。

138NAME:2019/03/12(火) 00:56:32
 ――ほかの子どもたちに変化はありましたか。

 震災から半年後、親子遠足を計画した時、「行かない」という子がいて、子どもたちみんなで話し合うことになりました。その中で、初めて亡くなったお友達の名前が出ました。 ある年中の女の子が、「なんで津波が来たんだろう」と語り始め、「園長先生がさ、(犠牲になったTちゃんたちに)『おうちへ帰らないで!』って言えばよかったじゃん!」と言いました。初めてぶつけてきた本心でした。「Tちゃんに会いたい」と言って、私も含めたみんなで号泣しました。

 親族や家をなくした職員も多く、津波の話は避けていましたが、正直に向き合わない大人たちの心を見抜いていたのです。 子どもの代弁者は大人だけど、大人の代弁者も、子どもたちだと気づきました。言えないことを言ってくれた。以来、私たちも、悲しいときは保育中でも「あの子のこと思い出して泣いちゃったよ」と言って泣き、感情を出すことから逃げないようになりました。

 津波ごっこ、地震ごっこといった遊びも最初は多くて戸惑いましたが、喪失感に打ち勝とうとする子どもの自然な反応だったと思います。 さらに半年経つと、年長児が、クラス全員の写真を飾りたいと言ってきて、部屋の一角にその場所を設けました。子どもたちは、写真の前に給食やおやつをお皿にのせて一口ずつ出して、あげていました。

 ――震災後に園で決めた災害時への備えは?

 いつでも避難できるように昼寝時のパジャマへの着替えをなくし、入園式の時には、保護者の方たちに「引き渡しはしません」と明確に言って了解を得ています。何度も職員どうしで話し合って決めたことです。

 ――全国では、災害時を想定して保護者全員が迎えに来るのを待つ「引き渡し訓練」を実施している園も多いです。

 震災後、ある地域で講演で呼ばれた時に、そういった訓練があることを初めて知りました。なんで引き渡すんでしょう? 海から200メートルの園の園長に質問を受けた時、「立地的にうちの園で全員を守るのは難しいから、すぐ親に引き渡せばいいんですよね」とおっしゃっていて、危機感を感じました。

 津波などの災害時、安全な場所や避難経路は刻々と変わります。現場にいる私たちが、そのつど判断をし、行動をとらないと、子どもの命を守ることはできません。迎えに来る保護者が、途中で被災するリスクもあるうえ、前線で誰かを助けなければならない仕事の保護者もいるでしょう。保育園や幼稚園に子どもがいる間は、そこにいる大人は100%子どもを守るというスタンスに立たないといけない。

 ――ただ、施設側が誤った判断をした場合、引き渡さないと逆に命が守れない危険もあるのでは。教員と避難中に児童が犠牲になった大川小の例もあります。

 もちろん、津波などの水害と他の災害は違いますし、保護者の理解も必要です。全国全ての園で引き渡しが100%よいとは思っていませんが、うちの園では引き渡さないことが「ベスト」だと思う。 (犠牲になった)9人のことを思い返しながら、職員どうしで何度も話し合って決めました。 子どもの命を預かる施設で、どう対応するかを本気で議論するのは完全に大人の仕事で、大人の責任です。私は、自分の判断の責任を一生背負っていかなければならないと思っています。(聞き手・田渕紫織)

139NAME:2019/03/12(火) 02:59:59
「苦しかったろう」 7年9カ月後、帰ってきた妻の遺骨
志村英司 2019年3月11日18時00分
https://digital.asahi.com/articles/ASM3B4HSFM3BUNHB00C.html?_requesturl=articles%2FASM3B4HSFM3BUNHB00C.html&rm=584

 宮城県気仙沼市の佐藤信行さん(68)の元に昨年12月、7年9カ月を経て、妻の才子さん(当時60)の遺骨が帰ってきた。11日、市主催の追悼式で「家族とすべての財産を失いましたが、人とのつながりが財産になりました」と語った。

杉ノ下地区で才子さんと母親のしなをさん(同87)と暮らしていた。妻は家業のイチゴ作りを支え、子ども3人との旅行を楽しみにしていた。 あの日、家に残った2人は市の指定避難場所だった高台に逃げたらしい。だがさらに5メートル以上も高い津波が襲い、地区全体では住民の3割にあたる93人が犠牲になった。

 母はほどなく遺体で見つかった。佐藤さんは毎日のように海岸を歩き、才子さんを捜した。ため池の水を抜き、防潮堤の工事業者に頼み込んで海岸を重機で掘り返してもらった。青森の恐山では、才子さんを口寄せしたイタコが「何かに挟まれて身動きできない。捜さなくていい」と言った。諦めきれず「骨のかけらでも見つかれば区切りがつくから」と捜索を続けた。

 昨年秋、工事業者が、高台から500メートルほど離れた海岸の消波ブロックの陰から、ほぼ全身の骨を見つけた。DNA型や歯型などを照合し、才子さんと分かった。遺骨を警察署で受け取り、「苦しかったろう、つらかったろう、悔しかったろう」と声をかけた。その晩、1人で暮らす災害公営住宅で缶ビールを開け、遺影に向き合った。

 11日朝、冷たい雨に打たれながら、高台の慰霊碑に手を合わせた。 「これまでの3月11日とは違い、うれしいというか。妻も成仏できる。仕事に励むことができる」

 地区は災害危険区域に指定され、家は再建できなくなった。代表を務める農業法人のビニールハウスや農場は広がり、従業員は34人。イチゴは昨年から再び収穫が始まった。 骨が見つかり、身元が判明するケースは減っており、この1年では才子さんを含め2人。杉ノ下地区では十数人の行方が分かっていない。 「早く家族の元に帰れるといい。まだ前を向けない人が大勢いるのも、震災から8年の事実だ」(志村英司)

140NAME:2022/03/12(土) 00:38:58
ただ会いたい 大川小で次女亡くした鈴木典行さん 震災11年
2022/3/11 21:34
本江 希望
https://www.sankei.com/article/20220311-EM5NACF33BMCZMVFVW4MLUF2EA/

津波で教職員と児童84人が犠牲となった石巻市立大川小。6年生だった次女の真衣さん=当時(12)=を亡くした。 今年も3月11日がきた。時計の針が午後2時46分をさした。鈴木典行(のりゆき)さん(57)は遺族らの輪を離れ、近くの山裾まで駆けた。ピンク色のスイートピーの花束をそっと、置いた。サイレンが響いた。

「怖い思いをしたんだろうな。元気に帰ってきてほしかったな」 平成23年3月13日、震災から2日後。がれきが散乱する学び舎。山裾の土を手で少しずつ、かき分ける。たくさんの子供たちが土の中から見つかった。真衣さんの姿もあった。 「立っている状態で、眼鏡もかけたまま。眠っているだけで、起きるんじゃないかと思った」 「真衣!」典行さんは叫んだ。返事はなかった。

× × ×

「バスケやったらいい? バレーやったらいい?」 中学の入学を控え、部活の選択に迷っていた真衣さんは典行さんに尋ねた。 好きな方をやればいいと伝えると、「じゃあバスケ」と真衣さんは答えた。 典行さんはミニバスケットボールチームのコーチをしていた。練習場所は大川小の体育館。真衣さんもそのチームの選手で、背番号7番、フォワードだった。 「お父さんがコーチだったのは、嫌だっただろうな、みんなの前で叱られるのも嫌だったと思う」

震災前の2月に行われた試合で真衣さんは突き指をした。「痛いんだったら替えるぞ」。典行さんが厳しく言うと、「頑張る」と、泣きながらコートに戻った。試合に勝ち、真衣さんに笑顔が戻った。 仲が良かった、と思う。車で出かけるとき、真衣さんはいつも助手席に座った。こたつでテレビを見ていると、もたれかかってきた。いつも、そばにいたがった。

× × ×

震災遺構として、昨年7月から一般公開が始まった大川小の校舎だが、保存か、解体か。意見が割れたこともあった。 遺族会の会長だった典行さんは、すべてを残したいと思っていた。大川小で被災した卒業生からも保存を求める声が上がり、建物全体の保存が決まった。 親世代が担ってきた伝承を卒業生ら若い世代が受け継ぐことに期待している。 震災から11年。大川小を取り巻く環境も変わった。それでも変わらない思いがある。 「真衣に会いたい。ただ、抱きしめたい」(本江希望)

141NAME:2022/03/12(土) 02:25:47
「なぜ助けてくれなかったの」 津波に奪われた命…夫婦に亀裂 子供3人が犠牲に 遠藤綾子さん(48)
2017/3/10 13:50
https://www.sankei.com/article/20170310-WKHSFPMO55NJRETQJC5MU622KQ/?ownedutm_source=owned%20site&ownedutm_medium=referral&ownedutm_campaign=ranking&ownedutm_content=%E3%80%90%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8F%20%E9%81%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%88%B6%E6%AF%8D%E3%81%AE%EF%BC%96%E5%B9%B4%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89%E3%80%91%E3%80%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%8A%A9%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%80%8D%20%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E3%81%AB%E5%A5%AA%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%91%BD%E2%80%A6%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E3%81%AB%E4%BA%80%E8%A3%82%20%E5%AD%90%E4%BE%9B%EF%BC%93%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%8A%A0%E7%89%B2%E3%81%AB%20%E9%81%A0%E8%97%A4%E7%B6%BE%E5%AD%90%E3%81%95%E3%82%93%EF%BC%88%EF%BC%94%EF%BC%98%EF%BC%89

東日本大震災の発生から11日で6年となる。震災で最も多くの犠牲者を出した石巻市に暮らす遠藤さん一家は、津波で3人の子供すべてを亡くした。子に先立たれた父と母が生きてきた6年を追った。 「花ちゃんと奏(かな)ちゃんは助からなかった。侃太(かんた)君はまだ見つかっていない」

 宮城県石巻市渡波地区の遠藤綾子(りょうこ)さん(48)。JR石巻駅から数キロ離れた市内の病院に勤めながら、中1の長女、花さん=当時(13)=、小4の長男、侃太君=当時(10)=、小2の次女、奏ちゃん=当時(8)=を育てていた。 あの日、勤務先で激しい揺れに見舞われた。ロッカーに置いていた携帯電話を確認すると侃太君と奏ちゃんが通う市立渡波小から一斉メールが届いていた。 「侃太と奏は学校にいるなら大丈夫」「中学は午前中だけだから、花は家にいるはず」

 急いで自宅へ戻ろうとしたが、市役所の本庁舎にたどり着くのがやっとだった。交通機関はまひし、駅前一帯は冠水していた。身動きが取れず、庁舎内で二晩を過ごした。自家発電でテレビを見ることはできたが、自宅周辺の様子についての情報はまったくなかった。自宅へ向かおうとすると、市役所の渡波支所から本庁舎へ戻ってきたという人に声をかけられた。 「希望を捨てないで」

「皆、変な顔でこちらを見ているんです」 3日目の夕方、綾子さんは庁舎から10キロ弱離れた渡波小の体育館に到着し、侃太君と奏ちゃんを捜した。遠藤さん親子を知る避難者たちは、綾子さんの姿を捉えても、誰一人として声をかけようとしなかった。 しばらくすると、綾子さんの遠縁に当たる女性が歩み寄り、現実を告げた。 「何を言っているのか分からなかった…」

 娘2人が安置されているという自宅近くの渡波保育所へ、がれきをかき分けて歩いた。 保育所には近隣住民が数人避難していた。夫の伸一さん(48)と合流したのもつかの間、横たわる花さんと奏ちゃんが目に飛び込んできた。2人の変わり果てた姿に、ただ泣き崩れた。 「そのときの感情を覚えていない」。現実を受け入れられず、眠れない日々が続いた。口にしたカップ麺は紙のような味にしか感じられなかった。

 「子供たちと一緒に死んでいればよかった」 それから毎日、侃太君を捜して保育所と自宅跡地を往復し、がれきの山を歩き回った。1週間後、自宅のあった場所の近くで侃太君も見つかった。侃太君は左脇に年賀状を挟んでいた。自衛隊員が発見し、あて名を頼りに綾子さんの元にたどり着いた。

 津波が奪った子供たち全員の命。その後、左耳が聞こえなくなった。震災発生から約2カ月後、「突発性難聴」と診断された。 震災当日、市立渡波中1年生だった花さんは卒業式のため午前中だけ登校し、地震の直前は自宅横の別宅で伸一さんの母親と2人で一緒にいた。渡波小に通う侃太君と奏ちゃんは地震発生直後、学校で待機していた。

 学校には保護者が次々とわが子を引き取りに訪れた。市内で仕事中だった伸一さんも侃太君と奏ちゃんを迎えに行き、2人を母と花さんの元へ送り届けた。 伸一さんはその足で連絡の取れなくなった親戚の様子を見るために家を離れた。程なくして巨大津波が襲来した。3人の子供たちと母が身を寄せていた家は、家屋の土台ごと押し流された。 「なぜ助けてくれなかったの…」。最愛の子供たちを失った綾子さんの悔しさや悲しみは、強い感情となって伸一さんに向かった。 「このまま夫婦でいられるのか」

142NAME:2022/03/12(土) 02:30:13
生きていく 遺された父母の6年
(中)子供3人が犠牲に 遠藤伸一さん(48)
2017/3/10 07:04
https://www.sankei.com/article/20170310-XBKHPVK4HBK7DAGPJMJHK4IPMI/

■「守れなかった」自分を恨み 消えぬ後悔「生き地獄」 「父ちゃんなのに守ってやれなかった。生きていてもしようがない」

 津波の犠牲となった遠藤花さん=当時(13)、侃太(かんた)君=当時(10)、奏(かな)ちゃん=当時(8)=きょうだいの父、伸一さん(48)は宮城県石巻市の渡波地区出身の木工職人だ。震災のあった日は市内の漁港で改修工事をしていた。仕事が終わり現場を去った直後、大地震に遭った。

 帰宅しているはずの花さんが心配で、急ぎ自宅へ向かった。自宅横の別宅に伸一さんの母と一緒にいた花さんを確認すると、伸一さんはそこから侃太君と奏ちゃんがいた市立渡波小へ歩いて向かい、2人を花さんのいる母の家に連れ帰った。築30年超の母屋より、新しい別宅が安全と考えた。3人の子供を母に預けた後、連絡が取れなくなった親戚の様子を見にトラックで別宅を後にした。

 伸一さんは女川街道(国道398号)を西進中に津波に襲われた。トラックから飛び出し、流れてきた家屋につかまったまま濁流にのみ込まれた。掛けていた眼鏡はなくなり、周囲がはっきり見えなくなった。 がれきに押され、近くのコンビニの建物にぶつかって止まった。身動きが取れない中、海水は顔まで迫っていた。何時間たっただろう。水が引き始めると同時にがれきの重みが身体にのしかかった。身をよじりながら抜け出した。

 歩いているとたき火が見えた。自宅近くの渡波保育所だった。数人が避難していたが、「皆震えて無口だった」。子供たちを預けた別宅へ向かおうとするが、がれきの山と暗闇で一歩も動けない。後に分かったが、このとき右足首を骨折していた。くぎを踏み抜いて両足も血だらけだった。 「誰かいませんかー」

 翌朝、がれきの棒をつえ代わりにして子供たちを捜し歩いた。しばらくすると母の泣き声が聞こえた。 「奏ちゃん冷たいんだ、冷たいんだ…」。その腕には冷たくなった孫が抱かれていた。 「子供たちを家に戻さなければ、生きていたのに…何やってるんだ」。自分を恨んだ。別宅は土台ごと流されていた。同じ日に、花さんも別宅のがれきの中から見つかった。8人がかりで保育所へ運び入れた。 伸一さんは花さんと奏ちゃんのそばに毎日寄り添った。涙が止まらなかった。「何で守ってやれなかったのか。生き地獄だった」と振り返る。

 それでも、「侃太が見つかるまではくたばるわけにはいかない」と気力を振り絞った。複数の遺体安置所を回った。遺体の顔を覆う布を一枚一枚まくり、知らない人の死に顔もたくさん見た。1週間後、自衛隊員が自宅近くで侃太君を発見した。自分の人生などどうでもよいと絶望した。

 震災から1カ月半ほど、避難所に身を寄せた。「忙しくさせておかないとよからぬことを考えるだろう」。保育所に避難した人たちは伸一さんを気遣い、避難所運営のリーダー役を任せた。がれきから拾い集めた建材で風呂釜を作り、避難者同士で分け合う食料を捜し歩いた。 ある日、市役所から知らせがあった。「仮土葬が決まりました」。避難所を出て東松島市のみなし仮設住宅に夫妻そろって移った後には「火葬の日程が決まりました」と連絡があった。だが、どんなにせわしなく過ごしても、悲しみや無念さは薄れなかった。

 妻の綾子さん(48)が伸一さんに対し「子供たちといながら、なぜ助けられなかったのか」と思っていたことにも気付いていた。「俺を恨まなきゃ生きていけなかっただろう…」と妻を思いやる伸一さんだが、震災直後は一緒にいることすらつらかった。日付が変わるまで工房で仕事をし、妻が眠るころに帰宅する日々を過ごした。

143NAME:2022/03/12(土) 02:41:07
絶望の淵から希望つかむ 石巻市須江・遠藤伸一さん(52)
石巻Days 〜未来都市の生き方〜
2021年3月17日 16:12
https://note.com/hibishinbun/n/n73cdddf1f307

石巻市須江の復興公営住宅に夫婦で住む遠藤伸一さん(52)。震災の津波で3人の子どもたちを失い、自らも津波に飲まれて九死に一生を得た。深い悲しみの中でも渡波保育所に避難していた地域住民に支えられ、避難所代表として未曽有の大災害と向かい合った。「人とのつながりがこれまで生きてこられた糧」と話す。地域、支援者とのつながりは今も変わらず、遠藤さんは復興支援団体「チームわたほい」の代表も務める。【渡邊裕紀】

 遠藤さんは震災当時、石巻市長浜に在住。東松島市大塩の工場で木工を生業とし、あの日は石巻市内で水産会社の改修工事を終えた直後だった。家族の安否が気になり、車で家に戻ったところ母親恵子さん(当時68)、長女花さん(同13)がおり、2人を確認した後、長男侃太さん(同10)、次女奏ちゃん(同8)の通う渡波小学校に向かった。

 2人を車に乗せて家で降ろし、次は親せきの様子を見に出た途中、津波に遭遇した。車を捨てて流れてきた屋根につかまり、何とか水面に顔を出した。店の外壁とがれきの間で挟まれ、押しつぶされないように祈るしかなかった。右足を骨折するが、何とか生き延びることができた。

 「周りを見渡しても人の気配はなく、生きているのは自分だけかと思った」。がれきをかき分けて近くの渡波保育所まで歩き、他の避難者と共に一夜を過ごした。保育所は2階が無事で布団が使える状態だった。

「今を生きる子どもたちのためにできることはある」と話す遠藤さん

 翌朝、家に向かう途中のがれきの中から声が聞こえ、恵子さんを見つけた。一緒にいた奏ちゃんは息がなく、自宅の室内からは花さんの遺体も見つかった。民間病院に勤めていた妻綾子さん(52)とは3日後に再会し、無事が確認できたが、それから1週間後、遺体安置所で侃太さんと対面した。 子ども3人を全て失い、遠藤さんは絶望の中にいた。「そんな私を支えてくれたのは、臨時避難所になった渡波保育所にいた人たちだった」と振り返る。

 遠藤さんは避難所で代表となり、生きるために奔走。23年10月にここの避難所は解消されたが、ここで生まれた絆を絶やしたくないと、支援者や地域の人たちとで「チームわたほい(渡波保育所)」を発足。被災者の見守り活動やイベント開催など、震災で大きな傷を負った地域や人々を支え続けた。

 遠藤さんが代表を務める木工工房(株)木遊木は、テイラー文庫の本棚など、これまで被災地に多くの木工品を届けてきた。その中でも遊具である「虹の架け橋」には、特別な思いがある。「虹はつかめない。子どもたちと生きることをつかめなくなった自分に重ね、流した涙の後に出た虹が人とのつながりを作ってくれたという思いを込めている」と話す。 遠藤さんは震災で親を亡くすなど心に傷を負った子どもたちを支える「こころスマイルプロジェクト」にも力を注ぐ。

子どもの心のケアは 1段目

 震災復興を10段の階段で問うと「ハード面ではほぼ10段。でも子どもたちの心のケアはまだ1段目」。遠藤さん自身は「3人を亡くした事実があり、0段だと思う。ただ、そこから多くの人とつながり、助けられたことでこれまでとは違う階段を上っていると感じる」とした。 震災時に支援を受けた子どもたちは今、積極的に支援する側に回っているという。「思いを受け継ぐ若い世代がいる。石巻の未来は必ず良くなる」と期待を込めた。

144NAME:2022/03/13(日) 23:56:17
遠藤花さん(えんどう・はな/当時13歳) 侃太くん(かんた/当時10歳)奏ちゃん(かな/当時8歳)
宮城県石巻市

3人は、自宅の隣りの祖母の家に避難している時に津波に巻き込まれました。父親の伸一さんは木工作家で、3人とも伸一さんの仕事や作品が大好きでした。
https://www.nhk.or.jp/kokorophoto/photo/137.html

145NAME:2023/02/19(日) 15:50:24
略奪や強盗…被災地で治安悪化、救助活動中断も トルコ・シリア地震
毎日新聞 によるストーリー • 2月12日
https://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E7%95%A5%E5%A5%AA%E3%82%84%E5%BC%B7%E7%9B%97-%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E3%81%A7%E6%B2%BB%E5%AE%89%E6%82%AA%E5%8C%96-%E6%95%91%E5%8A%A9%E6%B4%BB%E5%8B%95%E4%B8%AD%E6%96%AD%E3%82%82-%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%9C%B0%E9%9C%87/ar-AA17o9pZ

トルコ南部を震源とするトルコ・シリア地震の被災地では一部で治安が悪化し、救助活動の妨げとなっている。トルコ治安当局は11日、略奪や強盗、詐欺などの容疑で少なくとも98人を逮捕。住民同士の衝突も発生している模様だ。ドイツやオーストリアの救助隊は、治安の悪化を理由に活動を一時中断した。

トルコ国営アナトリア通信によると、南部ハタイ県では損壊した建物から略奪をした疑いで少なくとも42人が捜査を受けた。治安当局は少なくとも40人を逮捕し、銃やライフル、宝石類、銀行カードなどを押収した。同県では支援者を装って被災者向けの食料を略奪しようとした疑いでも2人が逮捕された。 西部イスタンブールでは、南部ガジアンテプ県の被災者に電話をかけて金をだまし取ったとして少なくとも6人が逮捕された。他にも各地で強盗などの容疑による逮捕者が相次いだ。

 ドイツの公共放送ドイチェ・ウェレなどによると、ハタイ県でグループ同士の衝突が発生しているとして、ドイツの援助団体などは11日、同県での活動を一時停止した。団体はこの状況について「食料不足や水の供給問題に起因している」と述べた。オーストリア軍の報道官も治安状況の悪化で活動を一時中断したと明らかにした。その後、トルコ軍が治安維持に乗り出したため、救助活動は再開可能になったという。 トルコ・シリア地震では、これまでに2万8000人以上の死者が確認されている。【松岡大地】

146NAME:2023/07/16(日) 07:38:11
三陸鉄道、クウェートの復興支援に感謝示す列車運行
東日本大震災10年 2021年3月1日 18:40
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFB017KP0R00C21A3000000/

岩手県沿岸部を縦断して結ぶ三陸鉄道(同県宮古市)は1日、東日本大震災発生から10年を迎えるのを前に、被災した車両の新造などで復興を支援したクウェート政府に対し、新造した車両8両にヘッドマークを掲げるなどして感謝を示す列車の運行を始めた。3月末まで運行する予定。

三陸鉄道はハサン・モハメッド・ザマーン駐日クウェート大使(右から3人目)を出発式に招き、復興支援に感謝する列車の運行を始めた(1日、岩手県宮古市)

初日のこの日は駐日クウェート大使のハサン・モハメッド・ザマーン氏夫妻を招いて宮古駅で出発式を開催。中村一郎社長が「震災では壊滅的な被害を受けたが、クウェートからの力強い支援が大きく貢献して運行再開できた」と謝意を示すと、大使は「三陸鉄道が人々を再びつなげる役割を果たし、復興や未来への希望のメッセージを発信し続けることを願う」などと語った。

被災後、三鉄は同国の支援を受けてお座敷車両とレトロ調車両各1両を含む計8両を新造。この8両を復興支援への謝意を示す列車として同国への謝意を示す4種類のヘッドマークを掲げて今月末まで運行するほか、14日まで宮古駅の窓口担当など一部の社員が同国の民族衣装を着て執務するなどして利用客にクウェートの復興支援を知ってもらう。

また、大使夫妻はこの日午前、岩手県庁を表敬訪問。達増拓也知事は「三陸鉄道が震災からの復旧を果たす力強い姿が復興のシンボルとして被災地を勇気づけた」など、同国の支援に対する謝意を述べた。

2011年の震災では、クウェート政府は日本政府に原油500万バレルを寄贈。日本政府はこの支援をもとに日本赤十字社を通じて被災した各県に交付金を配分した。

岩手県には支援金として84億円が充てられ、三陸鉄道にはこのうち約20億円が配分された。三鉄は被災車両の新造のほか、津波で流された島越駅の再建や十府ケ浦海岸駅の建設などに活用した。

150NAME:2023/08/10(木) 08:31:50
ジェーン・バーキンさんは心のこもった親日家 忘れられないインタビュー中の涙 
[2023年7月17日5時1分]
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202307170000002.html

ジェーン・バーキンさんをインタビューしたのは6年前の夏だ。東日本大震災の支援公演以来6年ぶりの来日だった。 

宿舎は東京・神楽坂の知る人ぞ知る瀟洒(しょうしゃ)なホテルで、招待元のメールを頼りにようやくたどり着けたが、そこが彼女の定宿ということだった。半世紀近いという「親日家ぶり」がうかがえた。 白Tシャツにさりげなくロールアップしたジーンズ、紺のコンバースのスニーカー姿はイメージそのままだった。初対面にもかかわらず、喜怒哀楽を隠さない。時に声を上げて笑い、この4年前に長女の写真家ケイト・バリーさんが急死したことに話が及ぶと涙がほおを伝った。 開けっ広げな「カリスマ」に思わず引き込まれた。○○○○社の社長が、飛行機で隣り合わせただけで、その名を冠したバッグの製作を懇願した理由が分かった気がした。

東日本大震災の一報をフランスで聞いた時、バーキンさんは間を置かずに飛行機に飛び乗ったという。 「日本行きの便はガラガラでした。46年前に次女(シャルロット・ゲンズブール=映画監督)がおなかにいたときに来て以来、日本には特別な思いがありました。避難所ではものすごくつらいはずなのに、レジ袋ひとつ分の生活物資しかなくても、皆さん心穏やかに過ごされていました」

当時バーキンさんはがん治療のさ中だったこともあり、周囲の反対を押し切っての来日だった。行動力に驚くとともに、言葉の端々に日本への深い理解がうかがえて、感激したことを思い出す。

長女ケリーさんが亡くなったのは震災の2年後。「人生で一番のショックでした。その時、震災後の海岸で『孫を(津波に)さらわれた』と遠くを見ていた女性の姿を思い出したんです」 バーキンさんのほおを涙が伝ったのはこの話をした時だった。

亡夫がフランスの著名歌手セルジュ・ゲンズブールだったとはいえ、英ロンドン生まれの彼女がほとんど英語を聞き取れなくなっていることにも驚かされた。通訳を挟んで、インタビューはフランス語で行われ、終了後に英語で話しかけると、何度も聞き返された。こちらの発音の問題かと思ったら、本人が「今はフランス語オンリーなんですよ」と照れながら明かした。

あけすけな感情表現は確かにフランス的なのかもしれない。○○○○の代表的なバッグに名を冠され、仏文化省からその死が発表されたことになんら不自然さを感じないのはそのせいかもしれない。【相原斎】

151NAME:2024/01/17(水) 21:34:01
「岸田政権は鬼か」能登地震被災者への20万円「特例貸付」1週間後にスタートの“遅さ”に国民は猛反発
SmartFLASH によるストーリー • 1 日
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%B2%B8%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AF%E9%AC%BC%E3%81%8B-%E8%83%BD%E7%99%BB%E5%9C%B0%E9%9C%87%E8%A2%AB%E7%81%BD%E8%80%85%E3%81%B8%E3%81%AE20%E4%B8%87%E5%86%86-%E7%89%B9%E4%BE%8B%E8%B2%B8%E4%BB%98-1%E9%80%B1%E9%96%93%E5%BE%8C%E3%81%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE-%E9%81%85%E3%81%95-%E3%81%AB%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AF%E7%8C%9B%E5%8F%8D%E7%99%BA/ar-AA1n3kii

1月14日、避難所となっている石川県輪島市の中学校を訪れた岸田文雄首相(中央)(写真・時事通信) 能登半島地震の発生から、2週間が過ぎた。石川県は1月15日までに死亡者222人、安否不明者22人と発表している。

「救助活動をおこないながら、次のステップである復旧と復興を視野に入れる段階になりました。政府は被災地支援のため、予備費から47億4000万円を支出することを決め、第2弾として、1000億円を上回る規模の支援を表明、さらに『予備費を5000億円から1兆円に倍増する』とも明言しました」(政治担当記者)

とはいえ、発生からすでに2週間が経ち、実際に「いつ、支援が始まるのか」がわからない。ジャーナリストの池上彰氏も15日放送の『大下容子ワイド!スクランブル』(テレビ朝日系)で「スピード感を持ってほしいですね」と苦言を呈したように、岸田政権の対応の遅さは目にあまる。

その最たるものが、厚生労働省が都道府県知事に通達した「緊急小口資金の特例貸付」である。緊急を要して、一時的に生計の維持が困難になった低所得者世帯などに生活費を貸しつける制度を、特例として能登半島地震の被災世帯を加えることを決定したのが、発生から1週間以上経った1月9日のことだった。

この制度、貸付金額は原則10万円以内だが『世帯員の中に死亡者がいる』『世帯員に要介護者がいる』『世帯員が四人以上』『重傷者、妊産婦、学齢児童がいる』などの場合は20万円以内になり、所得要件などはない。ただし、貸付なので返済義務がある。据え置き期間1年の経過後2年以内なので、3年で返済しなければならない。

厚労省は「事情により猶予措置はあります」というが、これに世論が猛反発。SNSには《住むところも失い家族も失い20万貸付って岸田政権と厚生労働省は鬼か》《こんな酷い政府聞いたことないぞ》と、怨嗟のコメントが寄せられた。

さらに国民感情を逆なでしたのが、1月14日に被災地入りした岸田文雄首相が「被災世帯へ緊急小口資金の特例貸付を、1週間後をめどに速やかに受付を開始する」という発言である。

「地方自治体が受付窓口になるのですが、その自治体が被災して混乱しています。そのため、ある程度の準備期間が必要になるのはわかりますが、地震から3週間経っての『受付』というのは、いくらなんでも遅すぎます。このあと、支給されるまでどのくらいの日数が必要になるのでしょうか。生活資金がまったくない被災者がほとんどです。政府の対応は冷たすぎます」(週刊誌記者)

SNSにも《貸付けって悪魔》《厳しいなこれ。一年や二年で生活が安定するとは思えないんだが》と、岸田政権に対する怒りであふれていた。「被災者に寄り添う」という岸田首相の言葉を、みな信じることができない。

152NAME:2024/01/17(水) 22:34:29
岸田首相、地震の被災者に「最大20万円貸します」であふれる憤激「こんなひどい政府聞いたことない」
1/11(木) 18:04配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/49c73339a7e4bdc3dab125d2c197eb9274bedfae

能登半島地震が発生してから10日が過ぎた。石川県によると、1月10日午後2時の時点で、県内で206人の死亡が確認されたという。また、安否がわからない37人の氏名や年齢などを公表、情報の提供を求めている。

【写真あり】「ボクらのパパ」と一言が添えられた卒業アルバムに載る数少ない岸田氏の写真

 余震は続き、ライフラインの復旧も数カ月かかると言われるなかで、心配されるのが被災者の生活再建だ。そのためには生活資金の確保が欠かせない。 厚生労働省は10日までに、低所得者世帯などに生活費を貸し付ける「緊急小口資金」の対象に、特例として能登半島地震の被災世帯を加えることを決定した。

 厚労省のホームページによると、貸付金額は原則10万円以内だが、「世帯員の中に死亡者がいる」「世帯員に要介護者がいる」「世帯員が4人以上」「重傷者、妊産婦、学齢児童がいる」などの場合は20万円以内になるという。所得要件などはない。「返済は、据え置き期間1年の経過後2年以内なので最長3年となりますが、厚労省によると『猶予などにも柔軟に対応しますのでご相談ください。利子はつきません』とのことです。

 当面の生活費として助かるのは間違いありませんが、被災して避難する状況では手続きもままならないはずです。申込書を直接、市区町村社会福祉協議会に出すのですが、役所も混乱しているでしょうから、使い勝手がいいとも思えません」(経済担当記者)

 「X」には《住むところも失い家族も失い20万貸付って岸田政権と厚生労働省は鬼か》《被災地では仕事も無いし働く事も不可能 借金だなんて悪魔の所業だ》《こんな酷い政府聞いたことないぞ》 などのコメントが寄せられている。ニュースサイトのコメント欄にも、《返済しなければいけない貸し付けだから、生活の目途が立たない中で、安易には借りられないと躊躇する人もいるはず。この緊急小口資金は、大半の被災者に利用されない気がする》

《海外にあんなに義援金配ってるのに 国内にはたった20万のしかも貸付? この物価高に何を考えたらこの金額が出るのですか? もう少し検討してあげてください》 など、その少なすぎる金額に批判が集まっていた。 「被災地の現状や課題などを把握することが重要だ」と意気込んでいた岸田首相の姿勢のあらわれが「20万貸付」だとしたら、被災者にあまりにも冷たすぎる。

153NAME:2024/03/01(金) 14:17:42
85・2%「今後も同じ市町で」 被災者の住みたい場所 北國新聞社アンケート(上)
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6493298
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240301/k10014375261000.html
https://www3.nhk.or.jp/news/special/saigai/select-news/20240205_01.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240301/k10014374881000.html


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