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物語スレッド

1言理の妖精語りて曰く、:2006/07/13(木) 00:22:13
物語のためのスレッドです。

・このスレッドでは断片的な情報ではなく、ある程度まとまった「物語」を扱います。
・小説風、戦記風、脚本風など形式は問いません。
・何日かかってもかまいませんが、とりあえず「完結させる」ことを目指してください。
・自分が主な書き手となるつもりか、複数人のリレー形式か、メール欄にでも明記しておくと親切です。
・名前欄か一行目に物語のタイトルや話数を入れておくと、後でまとめやすいです。

156言理の妖精語りて曰く、:2007/05/03(木) 19:17:04
>>154
みんな待ってますから。激しく期待

157竜と竜と白の巫女:2007/05/06(日) 11:28:58
2・5
「つまり、あなたは土竜神などではない、と?」
「然り。 んな大層なもんじゃないよ」
言いつつ、長くのたうつ半透明の竜(というよりもその姿は大蛇に喩えるのが適当だろうか)は
界竜の巫女が渋々ながら用意した杯を傾けた。
手足の無い土竜はその扁平な頭部の脇から生えた長い髭を器用に動かして酒を杯に注ぎ、
お前も一杯どうだ、とばかりに巫女に突き出してくる。
いただきます、と杯を持ち上げる界竜の巫女。実のところ酒はあまり得意でないのだが、
しかし付き合い程度には嗜んでいる。仮にも神に対する礼として、杯を受ける巫女であった。
「竜脈っつってなあ。 まあ古い本物の神さんが創った、【大いなる力】ってやつの宿った道筋のことよ。
それに宿った精霊とか、意思とか、魔力とか、まあ、そんなようわからんものの塊がわしよ。
実のところ、自分でも自分の正体がなんなのか、はっきりせん」
「ならば、神でないという証明にはならないのでは」
「いや。違う」
巫女の懐疑に、しかし明確に否定を返す竜。こちらを覗く茶色の瞳が、どこかで見たような気がして、界竜の巫女は
ふと違和感に捕らえられた。
妙な感覚はだがすぐに雲散してしまう。とっかかりのつかめぬまま、思考は流れてしまう。
「何故っていやあ、わしは本物の神様を知っておるからの。
あの神様が広く古い神話のまあるい神様だったのか、それとも路と川の行く末を支配する北の神様だったのか、
わしにはわからん。
けどな。ずうっとむかし、わしの上をたーくさん通っておった力あるお方。
あの、わしの頭のてっぺんをぐるぐる引っ掻き回すような恐ろしさを持ったあの気配こそは、
間違いなく神様なんじゃよ。 わしにゃあわかる。
自分と明らかに違うものなら、誰だってそうだと区別が付くじゃろう。
劣ったものと優れたものがあって、両方が本物だと間違われていたら、
真偽の程なんて本人たちには即座にわかりそうなもんだろうがよぅ。
なあ、界竜の巫女よ。 お前さんにならわかるだろう?
なんせ、お前さんは竜神の巫女の中で唯一の【偽者】なんだからなぁ」
「っ!?」
なぜ、と口に出そうとして、界竜の巫女は思わず口を押さえた。
巫女が長年の間ずっとひた隠しにしてきた疑心。
それがふたたび頭をもたげたと思った矢先。
思わぬところから、その事実は突きつけられた。
「や、はり・・・・」
そうなのですか。
界竜の巫女は、静かに嘆息した。
「なんじゃ? お前さん、まさかわかっておらなんだか?」
「いいえ。・・・・・・・薄々とは」
暫し項垂れ、界竜の巫女はそっと面を上げる。その顔には、静かな諦めがあった。

158言理の妖精語りて曰く、:2007/05/12(土) 20:54:58
解体された子宮がある。

これを、キュトスと定義する。


はじめまして。
私はインサ・マリサ。九人目の騎士にして、言理の妖精から外れてしまった
一度きりの記述者だ。
私が語るのはたった一つのイメージだ。
記述し、語る。それだけを為し、そして消え行くのが私の定め。
記述を残し、イメージを作り上げる。
そのイメージを想起させる為、今現在私がここに存在しているのだと、
そう言っても過言ではない。
キュトス。
かの女神を語るためにのみ、私は記述を行うのだ。
私がこの界面にアクセスしているのは大陸から外れたとある辺境。
複数の川―とある大河の支流が入り乱れ、過剰に造船・貿易が発達した国家。
中州ごとの自治都市で構成された連合国家だ。
その内で、最も小規模な都市。
私は今、あるいは以前、そこにいる。
私は今からこの地で語られている伝承を語ろうと思う。恐らく、
世界に広く知れ渡った大地の女神、邪悪な女神の神話ではない、かの地でだけ
伝えられていた、とある女の物語。
そう。
私がいるこの水弦の都に於いて、キュトスとは神ではない。
とある一人の、女である。

159言理の妖精語りて曰く、:2007/05/12(土) 21:49:13
キュトスは潜り女(もぐりめ)だった。
大地に網のように張り巡らせた支縁の泰河。新神の血管と呼ばれたその中に剣を
携え潜り込み、血肉を裂くが如くに流れを割りて渦を作り出す。
その渦を壷の中に捕えて、都市のエネルギーにするのが潜り女の仕事だ。
潜り女たちは国の宝で、柱だ。
国民は皆、渦エネルギーによって生活を成り立たせているからだ。
渦が生み出すエネルギーはすさまじい。船を動かし、火を起こし、ポンプを汲み上げ、
螺子を巻き、大の男の数人分のパワーを捻出する。
渦エネルギーがなければ、明日の生活にも困る人間が、たくさんいるのだ。
だから人々は、潜り女を称える。
英傑だと、皆が言う。
キュトスは、最も優れた潜り女だった。誰からも愛され、敬われ、称えられていた。
素晴らしい、素晴らしい潜りの技術から、彼女は女神とまで言われた。
茶色の女神。濁った川の、美しい女神。
腐り、汚れ、悪臭漂う忌まわしき川に果敢に挑み、その命をすり減らしながら
民に奉仕する、だが短命であることが定められた哀れな女神。
潜り女。
悪意と怒りの新神の屍骸。死に満ちた河に潜り民に使われる使い捨ての奴隷。
それを欺瞞と偽善で塗り固め、心地よい罪悪感だけに浸るためだけの醜い崇拝。
キュトスは、全ての民を忌み嫌っていた。

160言理の妖精語りて曰く、:2007/05/12(土) 21:57:38
新神は英雄よって殺された。シャーフリートと呼ばれた英雄は自らの肉を引き裂き、
その地で新神の肉を汚した。
大地に呪いが振り撒かれた。
呪い。全ての人に死と絶望を。
呪い。
それは、英雄の皮を被った魔神が最後にもたらした狂気の遺物。
そして、彼を信じていた民は分断された大地に束縛され、
大地と溶け合った新神はその血管を川と為して大地に根付いてしまった。
民は呪われた。
無責任に英雄を煽った咎で。英雄で無いものを無理やり英雄に仕立て上げた、
その欺瞞の責任を取らされている。
その責任を回避するため、彼らは更なる欺瞞でその呪いを上から塗り潰した。
新たな英雄は、女たちだった。
使われる女たちだ。
男ではない。【雄】ではない。
道具である。
消耗する。それが雄の役目。
生み育む。それが雌の役目。
消耗する雌とは何か。
それは鋳型に捻じ込んだ、歪な道具。
人工の、剣。
生ませない。育てさせない。
女を否定された女。それが潜り女。

161言理の妖精語りて曰く、:2007/05/12(土) 22:10:31
キュトスは反逆した。
一人の少年を襲い、身ごもった。
少年の首はキュトスの剣の柄の飾りになった。

身ごもったまま、キュトスは民を殺した。
妊婦の鬼神。
恐れが撒布され、産婦は子供を生んだ。
世界が崩壊した。
欺瞞は崩れた。呪いが甦った。しかし、それすらも出産によって否定された。
新生した世界が、新神と魔神とを塗り潰し、キュトスは罪悪の象徴として
否定された。
しかし彼女は抵抗した。
道具として用いた赤子ごときに、否定されるわけにはいかなかった。
キュトスは赤子を道具として用いた。
そこに彼女の罪科があったが、それに涙するのは柄尻の生首だけだった。
父親は話せず、赤子もまた話せない。
だが両者の間には絆があった。
キュトスは、そこに勝機を見た。
計算通りであった。
キュトスは少年の首を潰し、赤子の父親を殺してみせた。
赤子に絶望が訪れた。
希望の象徴を絶望で打ち破った。
そのために少年の首を取っておいたのだ。
キュトスは全てに勝利した。
キュトスはそして、全ての呪いを打ち払った。
呪縛。
偶像の呪縛。
消耗品の呪縛。

そして女であると言う呪縛。
最後の呪縛を完全に否定するため、彼女は自らの腹を裂き、子宮を抜き出し、
千々に引き裂いた。
解体された子宮。
キュ・トス。
それがキュトスと言う名の字義であるというのは、けして偶然ではない。
なぜならば、キュトスと言う名は後から付けられたもの。
潜り女の本当の名前を知るものは誰もいない。
何故なら、道具に名前を付ける必要は無く、偶像に名前を付ける必要もまた無い。
ただ使い、ただ崇めればいいだけ。
キュトスは自分で自分の名前を付けて、嘗ての自分を否定した。
キュトスは解体された子宮を全身に針と糸で縫い付け、高らかに嗤った。
世界を。
大いなる、世界を。
人を。
偉大なる、人類を。
彼女は、女神だ。
運命を破壊する、女神だ。

新生した世界を否定した彼女は、異形の姿のまま自害し、世界の礎となった。
キュトスは世界、大地となった。
世界はキュトスの大いなる意思に包まれた。
そうして、この世界はこれほどまでに残酷で、過酷で、そして不条理に
満ちるようになったのだ。
この世界以外は、とても優しい。

162言理の妖精語りて曰く、:2007/05/12(土) 22:17:31
・・・・・・。

私の話は、これでおしまい。
インサ・マリサの役目はこれだけだ。
え?
結局神話じみてるって?

いいや。
これは神話じゃない。


だって、全部うそだからね。


嘘吐きインサ・マリサは、本当のことは言わないよ。

あれは私の創作だもの。
だって、言理の妖精はみんな嘘吐きでしょう?
私がうそをついたって、海面に真水を垂らすようなもの。
しかもその海はとっくに汚れてる。
あああああああああああああああああああああああああいみない。


インサ・マリサの一人騙り おしまい。

163インサ・マリサ:2007/05/12(土) 23:33:49
待て。


ちょっと


待て。



んだこれは
     、リン
       クして
         い
         る
         の
         か
         ?

164インサ・マリサ:2007/05/12(土) 23:34:39
何処から?

どうやって?


誰が何のためにいったいいつこの干渉を


え?

お前、ひょっとして

165永劫船のノエレッテ:2007/05/12(土) 23:35:53
出航します。


ボー。ボォー。



今の、汽笛ね。


完。

166言理の妖精語りて曰く、:2007/05/13(日) 13:30:56
大反響に応えて第二部執筆中!

嘘吐きノエレッテはいかにしてインサ・マリサを慰めたのか!
第二ノエレッテはいつ現れるのか!
マリサって略すとサラミの香りがするよね!
コルク抜きってかわいい!
ワインは青くってとってもまぶしい!

来月号巻頭カラー大増5ページ!堂々開幕!
グダグダにならないか心配だ!

167永劫船のノエレッテ:2007/05/13(日) 13:35:44
第二部  インサ・マリサと青い船。(赤色カラーなので青い表紙絵がちゃんと配色されない)



「俺たちの戦いはまだ始まったばかりだぜ!!」


完。

168言理の妖精語りて曰く、:2007/05/13(日) 13:38:34
1P扉タイトル
2・3P見開きで「俺たちの戦いはまだ始まったばかりだぜ!!」
4P「完!」一文字
5P「次号予告!第三部激烈強制執筆中!!期待せず待て!!!だが断る!!!!」

169言理の妖精語りて曰く、:2007/05/16(水) 23:08:02
彼は探偵だった。といっても現実の探偵ではなくてオンラインゲーム上の探偵だった。彼としては探偵という呼び名に少しだけ気恥ずかしさを覚えていた。というのはゲームにおける彼の特技は物や人を探すことであって探偵のような真似が得意なわけではないからだった。彼は自分を探索者と呼んでほしいと思っていたが、誰も彼をその名前で呼ぶことはなかった。
さてこの他称「探偵」の彼だが、依頼を受けた。ますます探偵っぽいので彼は苦笑しながら依頼内容をこなすことにした。ダンジョンの奥にあるアイテムを探す仕事だった。探すだけでいくばくかのゲーム上の通貨が与えられ、成功した場合はさらに与えられるのだった。
探偵の仕事には違いなかったが、小説の名探偵ではなくて、保険会社の小間使いをするような探偵だった。こんな彼を悪くいうものもいる。使いぱしりだと。しかし彼は気にしない。今の彼はゲーム会社の用意したイベントをこなすに飽き飽きしていて自分でイベントをつくっていて、これがそうだった。彼が非難を気にするのは彼の仕事を邪魔されたときだけだった。
彼はダンジョンに潜る。一日で最低一度は構造が変化するという自動生成タイプのダンジョンだった。浅い階層において少人数で行動するプレイヤーから一緒に行動しないかと誘われたが、彼は断った。チームプレイは嫌いではなくてむしろ好きな分類にはいるが、現在は依頼遂行のために探索しているので、誘ってくれた人々とは目的に相違があったからだ。楽しいプレイをと挨拶を交わして彼は潜る。彼を見送る人々は少々心配そうであった。
というのはやはり単独で潜行するのは大変な難事だからだった。またこのゲームは非常にデスペナルティがきつくて、操作しているキャラクターが死亡すると、即座にキャラクターデータが抹消されてしまう。彼は腕の良いプレイヤーであったが、ゲームはシステム上の難易度が高くて心配されるのは嬉しかった。
こうして彼はダンジョンに潜り、モンスターを倒したり、罠を迂回したり、発動した罠を無理矢理突破しながら前に進んだ。時折プレイヤーキラーといプレイヤーを獲物と見なして盗賊行為を楽しむ輩と対決して下したり、強力な敵と遭遇して立ち往生しているプレイヤーを助けつつ、念願のアイテムを手に入れた。
こうして来た道を彼は戻るのだが、その途中で人とあった。このプレイヤーは立ち往生していたので彼は助けてやった。すると潜行しないかと誘われたので彼は丁重に断ったが、プレイヤーはだだをこねた。子供だなと思いながら彼はさらに断るとその場をあとにしたとたん、アラームが二度なった。一つのアラームはさっき話したプレイヤーが彼のアイテムをごっそり盗み出したことを知らされるもので、もうひとつは今いる階層に無数の敵を出現させるものだっt。彼の所持アイテムから依頼の品物が無くなっていた。あのプレイヤーは逃げ出していた。
彼はおもしろくなってきたとおもい、追撃を始める。彼は敵プレイヤーの脱出ルートを見当する。下の階層にいくか、上の階層にいくしかあるまい。彼の現在位置から近いのは下の階層への階段だった。しかしそこには強力なモンスターが立ちふさがっている。ということは上の階層にいったはずだ。そう判断して彼は走る。
 目の前にふさがる敵を回避し、切り伏せ、飛び越えて前に進む。罠はどうやら嫌らしいもので強力な敵ばかりがふさがっていた。しかし彼の腕も相当なもので敵をばさばさと切り倒した。そのうちに階段が見えてきた。しかしそこには誰もいないと思っていると、後ろからモンスターが迫ってくる。しかもあのプレイヤーもいる。従えているというか追われているのは下の階層を塞いでいたモンスターだ。彼は思った。どうやら上の階層に逃げようとして失敗して下の階層に向かったらモンスターがいて逃げてきたというのだろうと。
彼はあのプレイヤーをくびり殺すと、追ってきたモンスターも一刀両断で倒して、地上へ戻った。
彼は報酬を手に入れたが、今回の仕事はへんな出来事が多くて大満足だった。

170言理の妖精語りて曰く、:2007/05/17(木) 23:11:13
 彼はプレイヤーキラーだった。NPCを殺して経験値やアイテムを得るのではなくてプレイヤーを殺して経験値やアイテムを手に入れていた。もっともプレイヤーキラーの中では変わり種で彼が求めたのはただ一つ、スリルだった。彼は対人戦闘はNPCとの戦闘では決して得られない快感があるとおもっていた。

171K市について:2007/05/18(金) 13:53:49
 今は昔、愛知県と三重県の境目にK市という町があった。小さな町だったが、文学史に記録されるような文豪と由縁があったり、大昔の戦争で英雄を輩出したこともあった。とはいえそれらが賞賛されることは少なく、日々の暮らしに充足していたためか、はたまた忘れてしまったのか、当地の住民も自ら誇りはしなかった。
 さてこの平凡を装ったK市だが、水害に悩まされる町でもあった。というのはK市西域にはN川という長大な河川があってまれに氾濫を起こすからで、そのうえ悪いことにK市のほぼ全域が海抜よりも低いからだった。
 このような土地であったのでKの住民は家に舟を用意して大水に備えていた。といってもこの舟は災害用だけではなくてむしろ移動用でもあった。というのは町中に水路が走っているからだった。
 この水路は河川とつながっていて、河川の上流から運ばれてくる木材を市内に搬入するのに使用されていた。搬入された資材は水路を利用して加工場に運ばれ、近隣の大都市のNに出荷された。
 Kの住民は大水に難儀していたが、これを生活の糧ともしていた。この一種の蜜月は今日では見られない。今でも海抜が低くて大水の危険はあったが、河川をせき止めるような大きな堰がもうけられて、今では氾濫することなど決してなかった。町に張り巡らされていた水路は路上列車や車の増加に伴って埋め立てられるようになり、いくつかは暗渠と化した。
 K市は水郷の町だったが、もはやその面影はなく、今ただひとつあるのは、夏の初めに行われる祭であったが、これの大水を鎮める意図を知るものはもはや老人しかいなく、この老人もまた数少なくなり、祭り自体も取りやめの動きが強くなっていた。

172猫とヘルン:2007/05/18(金) 14:30:48
 私は猫だ。ヘルンと呼ばれている片目の悪い人間の男と暮らしているが、次のような成り行きがあった。
 生まれてまもなく私は兄弟といっしょに捨てられた。空地に捨てられたダンボール箱でもがいていると、人間の子供がのぞき込んできて手を伸ばした。私の隣にいた猫が連れ去られた。戻ってくることはなかった。
 翌日になってまた人間の子供がやってきた。昨日と同じ子供だった。昨日と同じように私の兄弟を連れ去った。私はもう会うことはあるまいと残念におもったが、兄弟は戻ってきた。その片目を潰されて。私たちは空き地をあとにすることにした。
 すると件の子供が現れて私たちを一抱えにした。じたばたもがているとポリ袋の中に押し込められた。どうなるかとやきもきすると落下する感覚があってすぐに何かに激突したあと冷たいものが肺の奥に侵入してきた。ポリ袋詰めの状態で水に川に投げ込まれたらしかった。もうダメかとおもっているとポリ袋が持ち上げられ、ほっと息をつこうとした瞬間に、再び水面に落とされた。
 私と兄弟たちは大変に抗議をしたのだが、人間の子供に通用するはずもなく、私と兄弟は徐々に体力を奪われ、傷を負っていき、私も兄弟もだんだんと声を上げるための気力が失われてきた。すると不意にこの拷問が終わった。
 私と兄弟はそっとコンクリートの上に降ろされ、ポリ袋から救出された。そこには人間の大人の男がいた。大人の男は左目をすがめていた。そのそばで子供が鼻血を出して倒れていた。左目すがめの男は私と兄弟を抱き上げると子供をまたいだ。
 この左目すがめの男がヘルンという人物で私の同居人だ。ヘルンはあのあと私たちを医者に診せ、自宅で治療してくれた。ある程度回復するとヘルンは私と兄弟全員の世話を見てやれなかったらしく他の同居人を探してくれた。今日私と私の兄弟が生きていられるのはヘルンという男のおかげだった。
 さてこのヘルンという男は左目が悪い。視力がほとんどないようだった。この視力を補うためなのかヘルンは聴力が発達しているらしく、なんと我々猫族の足跡を聞きつけ、そのうえはっきり聞き分けることができるようだった。なかなか奇特な男だ。
 しかし真に奇特なのは耳ではなくて目だった。しかも左目のようだった。というのはある夜、

173竜と竜と白の巫女:2007/05/27(日) 02:15:35
2・6

それを奇妙と感じたのは何時が初めてだっただろう。
浅見の修練場でたった一人だけ個別の指導を受けることが決まった時だろうか。
あるいは、たった一人だけ、【竜覚】の演技指導を受けることが決まった時だろうか。
それとも、先代の界竜の巫女の持つ【武】が自分のそれと異なることに気付いた時が、決定的だったのだろうか。
竜神信教第一位の巫女、界竜の巫女の担う役割は、他の巫女たちとは趣を異とする。
第一位なる竜神、界竜ファーゾナーより【武】を賜り、全ての竜とその眷属らを守護することを宿命付けられた絶対の武力。
竜神信教の力を確かなものにしている、揺ぎ無い戦力。
それが、界竜の巫女という役割である。

竜神信教全てのものが頼みとし、絶対的な崇拝と尊敬を受ける、【武】。
しかし、と幼少時、まだただの少女であった界竜の巫女は思った。
その【武】とは果たして何なのか。
自分の持つ【鉄塊之武】は先代の巫女の【香炎之武】とはまるで違っていた。
専任教官には、界竜は当代の巫女によってお与えになる【武】を変えられるのだと教えてくれた。
個人の資質に合わせた力を授けるのだと。
しかし、それでも彼女の心には疑心が付きまとった。
彼女が持つ【武】は、彼女が竜神信教の者に誘われ、両親に浅見の社に送り出される前よりあったものだ。
そして、幾人かの巫女見習いたちが兆候を見せつつある中、未だ竜覚の前兆すら見えぬ彼女は決して抱いてはならぬ疑いを抱いてしまった。
界竜など、本当にいるのだろうか。
自分は、居もしないものと、無理やりに同調している振りを仕込まれているだけではないのか。
周囲の大人たちは何も言ってくれなかった。
疑心を表に出すなどとてもできなかった。
巫女就任の儀の日、同期の巫女たちが【竜覚】を果たしていく中、自分だけがそれをできず、
しかしあっけなく彼女は界竜の巫女に選ばれた。

その時、なんとはなしに理解したのだ。
界竜の巫女とは、すなわち【武】の所有者にあたえられる照合なのだ。
そして、おそらく【武】というのは。


「まあ、単なる異能、ということじゃの」
あっけらかんと土竜が結論を下すと、界竜の巫女は眉を顰めて言うのである。
「これは、神の不在証明にはなりえませんよね?」
「あたりまえじゃばかもの。 おぬし案外頭悪いの」
頭に青筋が浮く界竜の巫女である。

174竜と竜と白の巫女:2007/05/27(日) 03:05:35
2・6 追加

「感知できぬから居らぬ、力を授けてくれんから居らぬ、では世界は居ぬ神だらけじゃわい。
本来、神などなにもしてくれんものじゃよ」
「ですが、私は【竜覚】ができません」
「そりゃおぬしが未熟なだけじゃ」
ばきり、と凄い音を立てて割れた杯を見やりつつ、土竜は平然と続ける。
「というか、歴代の界竜の巫女全てが、じゃな」
「手に余る、というのですか。 大御主との同調は」
「平たく言うと、そうじゃ」

175光の魔獣戦ZV 1:2007/05/31(木) 00:25:27

その戦いは、少女の高らかな口上で幕を上げた。
「牙を剥け、赤かる顎(あぎと)、われらが怒りその身に宿し、
鍵たる剣持てわれらが土塊の出自を否定せよ!
われら、この身は水の御子、大海より出で暗闇に還る、深淵の申し子なりと知らしめよ!!」

栗色の髪をなびかせる少女は片腕を失っている。
眼前の敵はその腕と引き換えに少女に戦いの覚悟を与えたのである。
敵、否、もはや少女にとっての的はその口に少女の細腕を咥えながらも恐々としている。
少女の口に咥えられた真紅の宝石から放たれる威圧に恐れをなしている。
愚かなりと宝石が赤い輝きと共に笑うのだ。
的手は犬だ。
二足で立ち、三本の腕を両肩と臀部に持ち、鋭い牙と嗅覚を持つ、犬だ。
腕を、食い千切る。
骨が砕ける音と共に、少女の宝石が輝きを増した。
刹那の間、世界に光が満ちる。

次に訪れた静寂は一瞬で食い破られた。
広がる顎は犬の全身を数倍する。獰猛な牙の一噛みは犬の肉と骨を砕き散らし、
一撃の下に殺戮を遂行した。

牙の主は、獣だった。
犬よりも少女よりも、遥かに巨大な赤色の獅子。
獅子。王なる獣。
その中でも伝説と謳われし真紅の鬣を持つかの獣こそ、フォービットの魔獣。
赤の幻視。太陽喰らい。フェンリスの獅子。「symbol red」。
そして、真紅のフォービット。

少女は片腕のまま、得意げに笑う。
少女は魔獣使い。

魔王を倒さんとする、殺人嗜好者である。

176睡眠不足が鼻を盗む話:2007/05/31(木) 23:35:36
 夜を司る神は八百万体の眷属を持っていたのですが、どれにもこれにも眠ることを許しませんでした。というのは夜の神は眠りを守る仕事を持っていたので、眷属たちに幾億幾兆の生物の眠りを見張らせたからでした。
 たまらないのは夜の眷属たちで、幾億年幾兆年眠れず、いらいらして仕方がありませんでした。それで時々気晴らしにと人間たちに悪戯を仕掛けました。
 こうして人間たちは寝入りがたまに悪くなりました。胸に重いものが乗った感じがしたり、眠りに落ちる直前に催したりするようになりました。悪戯のやり方はこれだけではなく、いろいろあって、くしゃみが止まらないというものもありました。
 今は昔、あるところのある男が床に入ったらくしゃみが止まらず、夜中まで眠れませんでした。それでもなんとか眠って目を覚ますと鼻がありませんでした。男はびっくりしました。

177睡眠不足が鼻を盗む話:2007/05/31(木) 23:36:32
 これは夜の眷属の仕業で、悪戯をしたのに男が眠ってしまったので、腹を立てて鼻をもいでしまったのでした。
 男は自分の鼻を求めて旅に出ました。
 ちなみにこの男はいろいろあった末に鼻を取り戻しますが、その晩、腹痛になって休むのですが、眠ってしまったので、夜の眷属に今度はお腹を盗まれたそうです。

178フィライヒ<どらごんさん大好きv>:2007/06/06(水) 00:13:33
この、おしゃれん坊さんめ!

私の彼氏はとってもおしゃれさん。
でもヒッキーだから誰にもその姿は秘密なのっ♪
私は毎日彼の家に行って、彼の身の回りの世話をしてあげてる。
彼ったらかっこいいのにだらしなくって、私がいなきゃなーんにもできないんだから♪
彼は狭いアパートに一人暮らしで、お金持ちの親とは断絶状態だから好き放題やってるの。
お父様から世話を任された私がしっかり目を光らせておかないと、すぐに変なことに嵌りだすんだから。
最近だって、昆虫収集に没頭してるみたいで、もう体中にぶんぶんうるさい虫とか纏わせて、挙句の果てには
体の中にまで白くてちっちゃい虫を入れてるんだから。本当にもう臭くって。
でも知ってるの。これは彼なりのこだわりなんだって。私が着せ替えてあげてる服よりもすてきな彼自身のおしゃれ。
理解ある恋人のわたしは、彼が唯一自分の意思でするおしゃれを尊重してあげるのでした。まったく、幸せなやつめっv

179遺された紀憶(1) ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:39:20
時:a84nf-jk4l-9f3d

 とりあえず、ぼくは欠陥品だったらしい。最初にそれを知ったときにはううむ、そうか、なんて、柄にもなく唸ってしまった。欠陥品なりに精一杯働いていたつもりだったんだけどね。ある日突然、壊れちゃった。湖のほとりまでトントロポロロンズを取りにいって、それっきり。あまりに遅いぼくの様子を見にきた父さんはため息をついて言った。
「もう、帰ってくるなよ」
 でも、こういったセリフにも、ぼくはそれほど傷ついたわけじゃない。本当にショックだったのは、ぼく自身、ぼくが壊れるなんて思っていなかったことだ。大体、湖に行くなんて日課みたいなものだし、それまではごく普通に動いていたのに。まったく、困ったものだ。
 取り残されたぼくはずっと、湖のほとりでうずくまっていた。最初の星が空に光り、月が登り闇が立ちこめても、どうしても動くことができなかった。とはいうものの、身体はどこも正常だった。異常はどこにも見当たらなかった。だから、たぶん悪いのは心だったんだと思う。よくわからない。でも、ぼくは壊れてしまったんだ。
 夜の湖面はいつもとはまるで違っていた。女の子の瞳みたいにふうわりとした黒のうえで、星や月がきらきらと輝いていた。綺麗だった。
 何も考えられないままにただじっと見詰めていたら、不思議なことがおこった。そういうあれこれが段々とぼやけて滲んでいったんだ。ぼくはよくわからないままにただじっとうずくまっていたんだけど、やがてふっと奇妙な考えが浮かんで、思わずほんの少し、笑ってしまった。

 おかしいな。
 涙を流す機能なんて、ついていないはずなのに。

 それが最初の日のこと。以来ぼくはずっと、うずくまったままで、ここにいる。

180遺された紀憶(2) ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:44:47
時:a84vx-jhr5-jh8d

 それからどれくらいの月日が流れたのか、ぼくにはわからない。ぼくはただ、うずくまっていただけだから。
 まわりの地面に草が高く生い茂っては、また枯れていった。
 近くに狼がねぐらを作ったけれど、何世代か続いたあとで一匹もいなくなった。
 ぼくの身体からちっぽけな緑の芽が出た。それはやがてぼくの身体よりもずっと大きな樹になった。鳥たちが、季節ごとにたくさんの巣を作った。でもそれも、あるとき雷が落ちてぼろぼろになっちゃった。
 湖は一度枯れ果ててしまったものの、今では再び豊かに水を湛えている。以前とは形が変わってしまっているけれど。
 まったく、自然というのは凄いものだ。くるくる、くるくると、変化しつつもちゃんと生き続ける。ぼくみたいに、生まれて数年で壊れちゃった出来損ないとは大違いだ。とはいえこんなに長い年月ぼくの身体がちゃんと形を保っていることには素直に感心してしまう。きっとぼくの父さんはぼくが思っているよりもずっと凄い人だったんだろう。もし壊れなければ、ぼくもその偉大な発明品として歴史に名前を残せたのかもしれない。
 今となっては、むなしい空想だけれど。

181遺された紀憶(3) ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:48:51
時:a8r7j-j8j4-g9j0

 ぼくの最近の楽しみは、鳥たちが楽しそうに餌をついばむのを眺めながら紀憶回路の中身を整理することだ。驚いたことに、こんなにも壊れてしまったぼくの紀憶回路は今でもほとんど正常に動く。ただ、それに気付いたのが遅かった。始めのころ、ぼくは何もせずにただぼんやりうずくまっているだけだったから、そのせいで、壊れる以前の紀憶はほとんど失われてしまった。残っているのは断片的な風景とちりぢりの情報ばかり。父さんの顔も名前も、正確には思いだせない。ただ、「G」で始まる名前だった気はする。
 この文章も、せっかく使うことのできる紀能なんだから使っておこうと思い、数日前から紀憶装置に書き溜めている。日記と呼ばれるものに近いんだと思う。いつか、そのことすらもわからなくなる日がくるかもしれないから、未来の自分のために、記す。

182遺された紀憶(4)-1 ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:56:09
時:a843d-n34s-g49s

 今日はいつもとは違う日だった。
 太陽がてっぺんを少し過ぎたころ、ぼくはいつものように昔の紀憶の整理をしていた。遠くの空に赤い火が数週間灯りつづけたのと、あたりに一匹も動物が居なくなってしまったのはどっちが古い出来事だっけ、なんて考えているうちに、気付いたら眠っていた。気温を感じる紀能はもう失われていたけれど、なにせ、とても気持ちの良い日射しだったから。
 なにか夢を見たような気がするのだけれど、よくは覚えていない。とても、懐かしい出来事を見た気はする。ともあれ、こんなことはよくあることだ。問題は、次。
 夢から覚めると、顔のあたりに、柔らかいものを感じた。目を開けてみると、若い女性がぼくの顔をぺたぺたと触っていた。
 結構びっくりした。いや、こんな場所にずっといると驚くことなんてそうそうないし、そもそもわりと無感動な性質なので、ひょっとしたらぼくは滅茶苦茶に驚いていたのかもしれない。
 彼女はまだぼくが眠っていると思っているみたいだった。どうしてなのか、そのときはよくわからなかった。ただ、綺麗な人だなって思って、じっと見ていた。ぼくには本当に、その人が、綺麗に思えたから。
 さてどうしよう、と考えた。なにしろ、もう長いことうずくまっていたものだから、いろいろなことがさっぱりわからない。大体、生まれてから父さん以外の人間に会った紀憶がない。声が出せるかどうかすら危うい。
 でも、正直言って、ずっとずっとこの場所にうずくまっていて、寂しくなかったなんていうのは嘘だ。いつも、父さんが迎えに来てくれるんじゃないか、誰かがぼくを連れにきてくれるんじゃないか、なんて無駄で無意味な期待を持っていた。自分ではなにもしようとしなかったくせにね。だから、ぼくは、この人に行ってほしくなかった。少しでも長く、側に居てほしかった。だから、思いきって、言った。
「あの」
 ぎくりとしてその人は飛び退いた。ぼくは悲しくなった。ぼくのどこかがきいきいと軋みをあげた。ああ、もうだめだ。こんな壊れたぼくのこと、この人は気味悪がってすぐどこかへ行ってしまうに違いない、そう思った。でも違った。
その人は首を傾げて、言った。
「……わたしのこと、怖くないの?」
「怖いって、どうして?」
「だって、その……両目の、傷とか」
「傷?」

183遺された紀憶(4)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:56:50
 そう言われてみると確かに彼女の両目は閉じられたままで、ぱっくりと縦に裂けた大きな傷あとがあった。でもぼくはたぶん父さん以外に普通の人を見たことがないだろうし、その傷あとが怖いなんてこと、全然思わなかった。それよりも、彼女は目が見えないんだということに納得した。それでぼくが目を覚ましていても気付かなかったのか、と。
「ぼくにはよくわからない。他の人を見たことがないから」
「それにわたし、魔女だし。聞いたことくらいあるでしょう? キュトスの姉妹」
「なんとなくは。でも、それだけだよ」
 ぼくは彼女をじっと見て、言った。
「君は? ぼくのこと、怖くないの?」
 その人は悲しそうな顔で笑った。その表情を見て、ぼくは自分の心がこれ以上壊れることもあるのだと思った。
「わたしはもう、何も怖くないの。この世界の全部が、悲しいだけ」
「悲しい?」
「むしろ、寂しい、かな」
 ぼくはどうしていいかわからなくなってしまった。それでも何か言わなくちゃ、と思って考えた。ぼくのどこかがきいきいと軋んだ。
「えっと、ぼくはいつもここに居るから、だから」
 そのあとに言葉は続いてくれなかった。ぼくのばかばかばか、なんて頭のなかで何度も呟いていたのだけど、その人は優しく笑ってくれた。ぼくの紀能モニタは今まで見たこともない値を返した。彼女は真夏のさざ波みたいな声で言った。
「ありがとう」
 そうしてゆっくりと、危っかしい足取りで彼女は近づいてきた。ローブの端が草むらにこすれ、くすぐったそうな音を立てた。彼女はゆっくりとぼくのほうに手を差しのべ、これはぼく自身びっくりしたのだけど、ぼくの手は無意識の内に彼女の柔らかい手の平を掴んだ。自分が動いたなんて今でも信じられないけれど、そのときはそんなことを考えている余裕はなかった。彼女の顔がゆっくりとぼくのほうに近づいてきて、こつんと、額と額が触れあった。
「また明日、ね」
 ぼくはやっとのことで言葉を絞りだした。
「また、あした」
 彼女はそっとぼくから離れると、もうこちらを振り返ることなくあっという間に歩き去ってしまった。遠くに山が見える方角だった。もっともうずくまったままのぼくには、森の樹々に覆いかくされて天辺がほんの少し見えるだけなんだけど。
 それからずっと、彼女のことばかり考えている。眠ってしまったら全てが夢か幻になってしまいそうで怖い。もう空が明るくなりだしている。そろそろ、無理矢理にでも眠ろうと思う。紀憶回路まで壊れて、彼女の紀憶が失なわれてしまうことのほうがもっと怖いのだしね。

184遺された紀憶(5) ◆hsy.5SELx2:2007/06/06(水) 07:59:03
時:a843d-n35y-j49s

昨日遅くまで起きていたせいか、今日は寝坊した。
彼女は来なかった。真ん丸い月が天辺を越しても来なかった。西の空に沈んでもまだ来なかった。空が、昨日と同じくらい白みはじめても来なかった。
ぼくが寝ているあいだに来たのかもしれない。そう思いたい。
怖い想像がいくつも頭の中を駆けめぐっている。書くと本当のことになっちゃいそうだから、書かない。
消えてしまいたい、なんて思ったのは、本当に久しぶりだ。
もう、寝る。

185遺された紀憶(6)-1 ◆hsy.5SELx2:2007/06/07(木) 00:13:11
時:a843d-n36k-48fk

 自分でも、今の状況が信じられない。だってこの文章を紀憶しているのがそもそも……いや、順を追って書こう。
 辺りがすっかり明るくなるころ眠って、目を覚ましたときには彼女がいた。
 びっくりしすぎて目が回りそうだった。でも、それはとってもうれしいびっくりだった。彼女はやっぱりこのまえと同じでぼくの顔や身体をぺたぺたと触っているところだった。ぼくはうれしくて、思わず大声で言ってしまった。
「おはよう!」
 彼女はびっくりして飛び退いてしまった。ぼくは自分を呪った。目が見えない人はちょっとした音にも怯えるってことくらい、考えればすぐわかることなのに。ぼくのばかばかばか、と思っていたら、彼女がふうわり近づいてきた。
「ごめんなさい。起こしてしまった?」
 彼女は少なくとも見た目上ぼくの無作法をそれほど気にしていないみたいで、ちょっと安心した。
「そうだけど、もう太陽もてっぺんだし、起こしてもらえてよかった。ぼくのほうも、いきなり大声だして、ごめん」
 彼女は今日も、この前あったときと同じゆったりとしたローブを着ていた。中になにか入ってでもいるのか、所々ごつごつとした輪郭が飛び出していた。彼女はそっとぼくの顔に触れた。彼女の顔はまっすぐにぼくのほうを向いた。ぼくは困ってしまった。
「うまく言えないけど、なんか、変な感じだ」
「変?」
「身体のどこかが軋んでる気がする」
「嫌?」
「嫌じゃないよ。軋んでるのに、なんでか心地良いんだ」
「そう。よかった」
 彼女はにっこりと微笑んだ。ぼくは知るはずのない暖かさを知った気がした。
 彼女はぼくの隣に移動して、ぺたんと腰を下ろした。目が見えないのに、そんなふうにちゃんと正確な場所へと行けるのはすごいと思った。それを云うなら、白杖もなしにどうやってここまで歩いてこれたのだろう。不思議に思ってそのことを訊くと、「いつ死んでもいいと思っていれば、結構どうにかなるものよ」なんて答えが返ってきた。
「もっとも、死のうにもそう簡単には死ねない身体なんだけどね」
「あ……ぼくと同じだ」
「同じ?」
「ぼくも、いつ消えてもいいと思ってた。それで、ずっとここにうずくまってたけど、ぼくの身体はまだまだ頑丈みたい。内側は、まるきり欠陥品なんだけどね」
「そうなの? こうして話している分には、あなたは普通の男の子と全然変わらないけれど」
「でも、ぼくの身体、父さんみたいな普通の人間とは違ってとっても硬い。それに、最近は軋むことも多いんだ。やっぱり、欠陥品なんだよ」
「父さんって? あなたを……その、作った人なの?」
「たぶん。よく、覚えていないんだ」
「……亡くなったの?」
「さあ。捨てられてから、一度も会ってないし」
「捨てられた?」
「うん。ぼく、欠陥品だったから」
「そんな!」
 彼女は勢いよくぼくに掴みかかった。どうしてか、怒っているようだった。
「えっと……ぼく、なにか、悪いこと言ったのかな。ごめん」
「あ……いえ、あなたは何も悪くないものね。掴みかかったりして、こっちこそごめんなさい」
 彼女はゆっくりと身を引いた。しかし怒りはまだ冷めていないようで、忙しなく手を握ったり開いたりしていた。
「でもそんなのって、酷い! 親が子を捨てるなんて!」
「仕方ないよ。ぼくは壊れちゃったんだもの」
「壊れても、駄目。子が親を捨てるのはいいけれど、親が子を捨てるなんてあってはいけないの。それはもう、絶対のことよ。ああもう! あなたの父親に会って説教してやりたいくらいだわ」
「でも、説教しようにも名前がわからないよ。失なわれてしまった」
「そう? あなたみたいな素晴らしい子を作れる人なんて、限られてくると思うけれど」
「頭文字が『G』だったことしか、覚えていないんだ」
「『G』……」
 そう呟くと、彼女はごそごそとぼくの後ろにまわって、手で背中を撫でまわした。しばらくすると、彼女はもとの位置にもどって頷きながら言った。
「あの刻印、間違いないわ。あなたの父親はグレ……」
 言いかけて、ちょっと考えこんだ。
「あなたは、父親の名前、知りたい?」
 ぼくはちょっと考えるふりをした。でも、答えはもう決まっていた。長い年月のあいだ、何度も考えたことだ。風が凪ぐのを待ってから、ぼくははっきりとした声で否定した。
「いいや。今更知ったところで、どうにもならないよ。たぶん、悲しくなるだけだと思うから、それなら、知らないままでいたい」

186遺された紀憶(6)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/07(木) 00:15:56
「そう」
 彼女はちょっと首を傾げた。何も言わず、何か考えているようだった。彼女は湖に石を投げた。立ちあがり、ローブを脱いだ。ローブはやっぱり内側に何か仕舞われているみたいで、地面に置かれていてもいくらか膨らんでいた。彼女の身体はローブを着たときとは全然違っていて、今にも折れてしまいそうなほど痩せ細ってみえた。彼女は音のしたほうへゆっくりと、危っかしい足取りで歩きはじめた。何をしようとしているのか、ぼくには全然わからなかった。
「どうしたの?」
 訊いてみても、彼女は答えてくれなかった。ただゆっくりと、歩きつづけた。やがてその足が湖面に触れても彼女は歩き続けた。靴がびしょ濡れになっても、歩きやめなかった。腰まで水に漬かったところで、ようやくぼくはおかしいと思いはじめた。
「ちょっと! ねえ、溺れちゃうよ!」
 ぼくは叫んだけれど、彼女は歩きやめてくれなかった。振り返ってもくれなかった。そのくせぼくはずっと、うずくまったままだった。ぼくの心はきいきいと軋みっぱなしだった。音に驚いて小鳥があわてて飛び去ったほどだ。
 彼女はどんどん歩いた。波紋がずっと遠くの湖面にまで届いた。彼女の身体はやがて完全に沈み、最後に残っていた頭もとぷりと音をたてて、消えた。
 風が吹いた。湖面にさざ波が散った。ぼくは自分の見たものが信じられなかった。ぼくは彼女が笑って、すぐに戻ってくると思っていた。でも、彼女は戻ってこなかった。風が凪いで、湖面が真っ平らな板みたいになっても、彼女は戻ってこなかった。
「え……?」
 ぼくの語彙じゃとても説明できない恐怖に襲われた。叫んだ。身体中で叫んだ。地面を何度も掻き毟った。指が千切れてもおかしくなかった。喉が潰れてもおかしくなかった。それでも叫んだ。動いた。走った。
 音に気付いたとき、ぼくはもう湖のなかにいた。目の前ににやりと笑う彼女の顔があった気がするのだけど、よく覚えていない。とにかく彼女の身体を抱きしめて、重い身体を必死で湖の上まで持ちあげた。
「なに考えてるんだよ!」
 必死で浅瀬まで辿りつくやいなやぼくは叫んだ。彼女はにやっと笑って答えた。
「言ったでしょう? 『いつ死んでもいいと思っていれば、結構どうにかなるものよ』って」
「無茶だよ……」
「でも、動けたじゃない」
 そう言われて、びっくりした。ようやくぼく自身、自分が動いたということに気付いた。
「ほんとだ」
「ね。意外となんとかなるものよ」

187遺された紀憶(6)-3 ◆hsy.5SELx2:2007/06/07(木) 00:16:45
 ぼくはすっかり感心してしまって、自分の身体をあちこち動かして眺めてみた。本当に、どこも異常なく動いていた。
「でもよく考えると不思議だな。どうして今までは動けなかったんだろう」
 その言葉を聞くと、彼女は暗い表情になった。
「それはきっと、呪いよ」
「呪い? 父さんって、呪術師かなにかだったの?」
 彼女は悲しげに首を振った。
「人間には……いえ、全ての心持つ者には、呪い、呪われる定めがあるのよ。それは悲しくて、寂しいことだけれど、不幸せではないんだと思う」
「え? ……よく、わからないよ」
「たぶん、いつか、わかる日が来るわよ」
 彼女は今にも泣きそうにみえて、ぼくは不安でたまらなくなって、どうしていいかわからなくて、だから、ただ手を引いて、彼女を岸まで連れていった。ふたりともすっかりびしょ濡れだった。
「いやー濡れちゃったね」
 まだ少し空元気みたいな笑いかたをしながら、彼女は濡れた服に構わずローブを着込んだ。彼女のまわりで搖れるローブは改めて見るとずいぶんと重たそうにかさ張っていた。
「気になる?」
 ぼくが見詰めているのに気付いたのか、彼女はいたずらっぽい笑い方をした。ぼくはなんだか恥ずかしい気分になって、何も言えなかった。
「このなかにはね、わたしの宝物が仕舞ってあるの」
「大事にしてるんだ」
「うん。わたしが狂っていた証、わたしが掛けて掛けられた呪いの証。今でも着てるってのは偽善なのか贖罪なのか愛なのか、自分でもよくわからないんだけどね。ただ、大切なもの」
 彼女はそっとローブを撫でた。ぼくはどうしてか「ずるいな」と思ってしまった。それが彼女に対してなのかローブの中身に対してなのかもわからないけれど。たぶん、両方へだったんだと思う。彼女の気持ちも考えずにそんなことを思うのは非道で卑怯なことだとはわかっていたけれど、そう思わずにはいられなかった。そこにはぼくに足りていないものがある気がした。今のぼくには、明確にはわからないけれど。
 考えていたら、彼女がそっとぼくの手をとった。
「動けるようになったところで……どう?」
「え……そうだね、動くってのも、なかなか慣れない感じだよ」
「そうじゃなくて、わたしの家へ。どう?」
 ぼくははっとした。きっと馬鹿みたいな笑顔を浮かべていたと思う。
「それはもう、喜んで!」
 旅路はなかなかに長かったけれど、退屈はしなかった。これからはずっと彼女と居られるってことが嬉しくて、それ以前にただ彼女と話をしているだけのことがどうしようもなく楽しくて、時間なんてあっという間だった。月がてっぺんに来るころにはどうにか目的地に辿りついた。本当はもっともっと時間がかかるらしいんだけれど、彼女の姉妹が作った扉のおかげでかなりの行程を短縮できるとのことだった。
 今ぼくは、彼女の部屋の隣にある一室をあてがわれて、この日記を書いている。こんな気分になるのは生まれてこのかた初めてだ。たぶんこれが、本当の幸せというものなんだろう。すっかり目が冴えてしまって、全然眠れる気がしない。とりあえず今日の分の紀憶はここで止めておくことにするけれど、もうしばらくは起きていると思う。
 明日も良い日でありますように!

188遺された紀憶(7)-1 ◆hsy.5SELx2:2007/06/07(木) 00:37:00
時:hi89f-fj39-032j

 しばらく紀述を怠けてしまった。なかなかに忙しくて、文章を書く暇もない日が続いていた。とはいえ、悪い暮らしではない。毎日いろいろなことがあって、湖のほとりでうずくまっていたころとは大違いだ。
 とりあえずぼくは掃除夫として働くことにした。彼女はなにもしなくていい、と言ってくれたのだけど、せっかく身体が動くようになったのだしここに住まわせてもらうお礼くらいはしたかったからだ。
 彼女には70人の姉妹がいるらしい。全員がここに住んでいるわけではなく、大部分の姉妹は世界のどこかを放浪しているという。ある意味みんなにとっての「実家」みたいなものだ、と彼女は言った。「実家」というものがどういったものか、ぼくにはいまひとつわからないのだけど。
 初めて来たときには疲れていてよくわからなかったけれど、ここは峻険な山間に建つ大きな塔だ。みんなは「星見の塔」と呼んでいる。彼女の姉のイングロールさんが全体の管理者らしく、ここに来た最初の朝に挨拶に行った。とはいえ、「朝」というのは語弊があるかもしれない。目を覚ましたとき、外はやっぱり暗いままで、空には星が沢山またたいていたからだ。その癖体内時計はぼくがしっかり8時間の睡眠を取ったことを示していた。
 イングロールさんはいくぶん眠たそうだったけれどもそのあたりのことを丁寧に説明してくれた。なんでも、ここには朝が来ないらしい。それどころか、永劫線とやらの影響で一般的な意味での時間が無いらしい。一般的な意味での時間がないとはどういうことなのかぼくにはよくわからなかったけれど、イングロールさんが眠そうだったのであまり突っ込んだ質問はやめておいた。48時間ぶっ続けで天体観測をしていたらしい。イングロールさんは本当に星が好きみたいだ。素敵だな、と思う。
 彼女曰く、「イングロール姉さんはロマンチストのくせにしっかり者で、ずるい」。
 塔を掃除していると、ひょっこりワレリィさんと出会うことが多い。ワレリィさんは扉職人というものをしているらしい。最初にここに来たときに何度かくぐった落書きみたいな扉はみんなワレリィさんが開いたということだ。昔はワレリィさんしかくぐれない『扉』しか作れなかったらしいけれども、頑張って勉強したおかげで、今では姉妹みんながくぐれる『扉』をたくさん作っている。ワレリィさんは扉をくぐっていつも色々な世界を旅している。どこかの世界では魔王さま、なんて呼ばれたりもしているらしい。ワレリィさんはどこから現われるか予想がつかなくて、いつもびっくりさせられる。この前台所を掃除していたとき、いきなり冷蔵庫が開いてワレリィさんが飛びだしてきた。勢いがよすぎて、あやうくニースフリルさんが大切にしている食器を割られるところだった。妙に目付きの鋭いガンマンから逃げていたらしいけれど、だからといってそういうのは、困る。
 彼女曰く、「ワレリィ姉さんはたくさん面白い話してくれるから好きよ」。
 そうそう、ニースフリルさんについても書いておこう。まだ数度しか会ったことがないのだけど、どうやらぼくの身体にとても興味があるみたいだ。くんくんと匂いを嗅がれたりして、ちょっと戸惑ってしまったけれど、悪い人ではないみたい。いつもは世界中の遺跡を巡って歩いているらしい。二度目に会ったときにはトミュニさんともの凄い喧嘩をしてた。どことなく楽しそうに見えた気もしたのだけどね。そういえば「グレンテルヒの奴またこんなオーバーテク遺しやがって……」なんて呟いていた気もする。なんのことかはよくわからないけれど、もしかしたら大事なことかもしれない。
 彼女曰く、「あー……ニースフリルちゃんに会ったか……まあ、悪い子じゃないんだけど。分解されたり埋められたりとかは、やめてね」。
 トミュニさんはしょっちゅう談話の間でにぎやかにしている。というか、しょっちゅう他の姉妹に喧嘩を吹っかけている。居候の身でこんなことを言うのも何だけど、ちょっとは掃除する人のことを考えてほしい。この前ニースフリルさんと派手な喧嘩をやらかしたときはしばらく部屋にこもってしまって、おかげで掃除が随分はかどった。もっともトミュニさんの落ち込みようはなかなかに酷くて、さすがに少し心配になりもした。エロゲがどうとか呟いていた気もするけれど、なんのことかはわからない。しばらくしたらまた元気に大騒ぎするようになって、ぼくとしては安心するやら困るやらだ。
 彼女曰く、「トミュニちゃんは元気よくて、好きよ。娘だったらよかったのに、って思う」。

189遺された紀憶(7)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/07(木) 00:40:58
 それと、ヘリステラさんにも会った。彼女とは、脱走したペットの栗鼠をぼくが掃除中に見つけて、それで親しくなった。長姉だけあって、きりりとした佇まいがすごく格好良い。さばさばした物言いはいつも鋭いところを突いてきて、ぼくの身体がぎしりと軋むことも多かった。とはいえ、そういった物言いも、実はあんまり嫌いじゃなかったりする。変な陰湿さがなくて、むしろ好きなくらいだ。
 ヘリステラさんと知りあった日、彼女にそのことを話したら唖然としていた。
「ヘリステラ姉さんに敬語使わないなんて、あなたとトミュニちゃんくらいなものよ……」
 あるときヘリステラさんに訊かれた。
「君は、どうして彼女のことを名前で呼ばないんだい?」
 ぼくはちょっと困ってしまった。
「ぼくは、彼女の名前を知らない」
「それは嘘だ。他の姉妹が呼んでいるのを聞いたことくらいあるだろう」
「でも、彼女から直接聞いたわけじゃない。それに、ぼくにとって彼女は彼女だけだし。それで、十分なんだと思う」
 それがぼくの本心だった。ヘリステラさんは「ふうん」と言っただけだった。納得してもらえたかどうかはわからない。
 そういえば、ヘリステラさんからは不思議な忠告を貰ってもいた。
「君、ビークレットとディオルには気をつけたほうがいい。ビークレットは君の父親を敵視しているし、ディオルは未だに君の『彼女』を憎んでいる。まあ、ディオルの方は『呪い』があるからそうそうここには来れないだろうし、問題はビークレットだな……。大丈夫だとは思うが、用心しておくにこしたことはない」
 とはいえ、すでに手遅れだった。その忠告以前にぼくはビークレットさんと会っていたのだから。
 それは二度目にニースフリルさんと会ったときのことだ。ぼくが階段を掃除していたら、ニースフリルさんがやってきた。ニースフリルさんの横には細身で、太陽のような色の長い髪をぞんざいに垂らした女性がいた。真っ赤なドレスはまるで燃えているかのよう。ぼくと目が合うと、その女性は「おや、珍しい子がいるね」と呟いた。ニースフリルさんがあわててその女性の手を引いた。
「ビークレット姉さん、この子はたまたま居候してるだけで、とりたてて重要ということはなくビークレット姉さんが気にしなきゃいけないことはなにも……」
「ふうん」
 ニースフリルさんの言葉を聞いているのかいないのか、ビークレットさんはぞんざいな返事しかしなかった。じろり、とぼくの身体を睨みつけ、ふむ、と頷いた。
「『大いなる母』と錬金術士の息子か……世の中どこに縁があるかわからないものだ」
「……姉さん、知ってたの?」
「あいつはわたしにとって永遠の敵だ。奴の作品なんざ、見ただけでわかる。あとはまあ、ワレリィから最近面白いのがフィラ子のとこに居候してるって聞いてたから」
 ビークレットさんはじろりとぼくのことを睨みつけた。でも、それだけだった。なにも言わないまま、ビークレットさんはぼくの横を通りすぎていった。あわててぼくはビークレットさんのあとを追って、言った。
「あの!」
「ん」
 再びじろりと睨まれ身体がきちきちと鳴りそうだったけれど、どうにかこらえた。
「はじめまして!」
 ビークレットさんは無言だった。ニースフリルさんがゆっくり階段を下りてきて、ビークレットさんの横に立って見あげた。しばらくしてから、ビークレットさんは重々しく口を開いた。
「……それだけか」
「そうですけど」
「ん」
 ビークレットさんは少し考えこむふうだった。やがて、ひとつ頷くと「じゃあな」といって階段を下りていった。でも少し行っただけでぴたりと立ちどまると、ビークレットさんは振り返ることなく言った。
「一つ忠告。『大いなる母』が真性の狂人だなんてのは嘘だ。それは蟷螂の生き様は狂ってる、なんて言うのと同義。彼女が狂人ならわたしだって狂人。でもね、気をつけな。彼女があんたにとって危険かどうか、ていうのはまた別の話。彼女は数多の呪いを掛け、数多の呪いを受けてきた。それは事実。それをあんたが受けいれられるかどうか。問題はそこさ」
 それだけ言うとビークレットさんはすたすたと階段を下りて、あっというまに視界から消えてしまった。「やれやれ、どうなることかと思ったよ……」なんて呟きながらニースフリルさんもあとを追った。それだけだった。

190遺された紀憶(7)-3 ◆hsy.5SELx2:2007/06/07(木) 00:41:55
 この出来事は彼女には話していない。どうやらぼくがビークレットさんに好かれていないのは事実のようだし、下手に彼女を心配させたくはなかったからだ。でも、ビークレットさんの言葉はぼくの紀憶回路にへばりつくように残った。
 ヘリステラさんはこのことを聞くと深くため息を吐いた。
「そう、確かに君の『彼女』はかつて真性の狂人、なんて呼ばれていたことがある。でも、昔のことだよ。双の瞳が永遠に光を失って以来、彼女は落ち着いた、穏かな暮らしをしている。その様を知るものであれば、誰も彼女を狂人とは呼ぶまい」
「でも、ビークレットさんは気をつけたほうがいいって」
「……それはね」
 ヘリステラさんの顔は深夜のほのほぐさみたいに暗く垂れた。口が何度も開いてはまた閉じた。やがて彼女は、苦い味が内蔵中に染みているような表情で静かに言葉を紡いだ。
「ビークレットの言うことも、また事実なんだ。呪いというのは中々に解け難いものなんだよ。特に、自分自身に掛けたものはね。業、と言いかえてもいいかもしれない。……時に、君は彼女の部屋に入ったことがあるのか?」
「いいや。彼女は部屋に入れてくれないんだ」
「だろうな……」
「でも大丈夫だよ。彼女と話すのはぼくの部屋でもできるし、無理矢理彼女の部屋に入らなきゃいけないって理由もないしね」
「うむ……」
 ヘリステラさんやビークレットさんが何をそんなに心配しているのかはわからない。確かにぼくは彼女のことを全然知らない。でも、今のところはそれでいいんじゃないかと思う。だって今のままでぼくは十分に幸せだから。ただ、ぼくと話しているとときおり彼女がなにかを堪えるようにじっと俯くのだけが気にかかる。彼女には幸せでいて欲しいと思う。だってそのほうがぼくも幸せになれるから。
 今日はトミュニさんがいないからずいぶんと仕事がはかどった。なんでもどこか遠い所にいる姉妹に喧嘩を挑みに行ったらしい。おかげで久しぶりにこの文章を書く時間が取れたわけだけれど、いつもとはうってかわった静かな星見の塔というのもなんだか変な感じだ。
 ドアにノックが響いた。彼女が来たのかもしれない。今日はこのあたりでやめておくことにする。明日にはきっとトミュニさんも帰ってくるだろうし、次にこれを書けるのはいつになるのかな。

追記
 ノックは彼女じゃなかった。ワレリィさんが、ぼく宛の手紙を届けに来てくれた。ただ、差出人がわからない。ワレリィさんに訊いても、言葉を濁されてしまった。
 中を開けると小さな紙切れにほんの短かな、真っ赤な文字が並んでいた。

「彼女は未だ狂っている。
 彼女は恋人の首を刈り飾る真性の狂人である。
 疾く去ね、さもなくば後悔が待つ。」

……なんのことか、ぼくにはわからない。
今度こそ彼女が来た。手紙は見せないでおこうと思う。
この生活が、壊れてしまうことのないように。

191スターダンス:2007/06/08(金) 17:34:59
 今は昔、あるところに世界がありました。この世界は滅びつつあったので、住んでいた人々は巨大な船をいくつも建造して、他の世界を目指して旅立ちました。後のこの人々は「南東からの脅威の眷属」と名乗りました。
 同じころ世界と世界の間に1匹の獣がいました。1つの胴体から数億数兆の頭を生やした多頭獣でした。この多頭獣の餌は世界で手近なものから食べていましたが、ある日どこからか飛来した槍に貫かれて死にました。すると死体から世界が生まれ、同時に住人が生まれました。この住人は、世界の元となった多頭獣をパンゲオン、飛来した槍を紀元槍、そして自らを紀元神と名づけました。これこそがパンゲオン世界の紀元神群でした。
 「南東からの脅威の眷属」が故郷を失い、パンゲオン世界が生成されたころ、戦争を行う世界がありました。生存のための戦争でした。絶滅戦争を仕掛けられていました。この世界の住人は総力を結集して無数の戦艦を建造すると、世界外へ出撃させました。どの戦艦も世界を跡形もなく吹っ飛ばせる武装を備えていました。向かう先は世界間に巣くう獣、多頭獣、パンゲオンでした。この人々は他の世界へ入植していたのですが、あるときこの世界が消滅してしまったので、原因を探るとパンゲオンの存在を知りました。人々は同胞の仇を討つため、またパンゲオンの進行方向に自分の世界があったために戦いを決意しました。しかしその矢先にパンゲオンは消滅し、同時に世界が生まれました。人々はとまどいましたが、とりあえず新しい世界、紀元神群のいるパンゲオン世界へ偵察を送りました。この人々こそが飛来神群でした。
 飛来神群がパンゲオン世界の偵察を始めたころ、「南東からの脅威の眷属」はパンゲオン世界を発見し、入植を始めましたが、故郷の環境を再現するために本来の環境を破壊してしまい、支配者であった紀元神群との戦争になりました。戦争は「南東からの脅威の眷属」の敗北で終わりました。「南東からの脅威の眷属」は紀元神群と和平を結ぶと、自らの半数は再び旅へ出て、残りの半数は自らの身体をパンゲオン世界の生態に順応させて入植しました。この戦争がパンゲオン世界を激変させ、とりわけ人間の発達を促しました。しかし紀元神群は最初、これに気づきませんでした。神々同士の戦いで忙しかったからです。神々は戦争を経験することで力を高め、これを他の神々に示すために争ったのでした。争いは苛烈になり、神々は数を減らしました。そのうちに一体の神が不審を抱きました。なぜ争いが終わらないだろうかと。争いを続ければ弱者が消滅し、強者だけとなって均衡状態が生まれ、平和になるはずでした。この神が観察してみると弱い神が突然強くなることに気づきました。この神は争いに加わっていませんでしたが、強力無比でしたので、強くなった神を捕らえて、どうやって力を得たか詰問しました。すると捕らえられた神は助力を受けたとこたえました。
 助力を与えたのは飛来神群でした。紀元神群は自らの争いが他者によって画策されたものと気づくと、直ちに止めて、復讐の準備を始めました。しかし果たされることはありませんでした。というのはパンゲオン世界の人間が紀元神群に宣戦布告したからでした。紀元神群は人間の実力を知らなかったのでなめていましたが、人間は神々に匹敵する力を得ていました。ために紀元神群は飛来神群への復讐を一時中断せざるえませんでした。この戦争を天廊戦争といいました。
 天廊戦争において紀元神群は劣勢になり、「南東からの脅威の眷属」へ加勢を求めました。もっとも「南東からの脅威の眷属」は入植者の存在を忘れていなかったので断りました。すると紀元神群は「南東からの脅威の眷属」に攻撃を仕掛け、これを人間のせいとしました。「南東からの脅威の眷属」は同胞の仇をとるため、降りかかった火の粉を払うため、パンゲオン世界に殺到しました。こうして人間は敗北し、力を失ったのですが、紀元神群の偽りがばれてしまったので、新たな戦争が始まりました。
 さて天廊戦争の間、飛来神群が何をしていたかというと戦争をしていました。相手は世界間をいく多頭獣パンゲオンでした。パンゲオンは突如として消滅したはずでしたが、再び出現したのでした。ある日のこと飛来神群の支配する世界のひとつが卵に変化して、やがて生まれてきたのがパンゲオンでした。新生パンゲオンは飛来神群の世界群を喰らいはじめました。
 飛来神群は昔は強大でしたし、今はもっと強大でした。しかしパンゲオンにはまったく歯が立ちませんでした。

192言理の妖精語りて曰く、:2007/06/08(金) 22:32:13
くとぅるー

193言理の妖精語りて曰く、:2007/06/08(金) 23:27:01
いあいあ。

194言理の妖精語りて曰く、:2007/06/08(金) 23:28:06
どのあたりが?

195遺された紀憶(8) ◆hsy.5SELx2:2007/06/09(土) 04:25:05
時:hi89f-gi69-j4jf

 ぼくは怖くてたまらない。何かしていないと不安でたまらない。それで、この文章を書いている。今日の分の仕事がまだ残っているというのに、部屋に引き込もって、一人で。久しぶりの紀憶がこんな文章というのもなんだか情けないけれど、そうも言っていられないくらいぼくは混乱している。あの部屋で見た光景が目に焼きついて離れない。彼女が何を考えているのか、わからない。怖い。怖くてたまらない。いや、こんなことばかり書いていては余計に怖くなるばかりだ。冷静に、順を追って綴っていこう。
 手紙。そう、手紙だ。今思えば、あれが全ての発端だった気もする。前回の紀憶の最後に書いた、あの手紙。
 手紙はあのあとすぐに破いて捨てた。でも、それからも何度も来た。内容はいつも似たりよったりだ。彼女は狂っている。彼女は部屋に愛人の首を飾る狂人である。早くここから立ち去ったほうがいい、ということ。一体誰が何故そんなものを送ってくるのか、さっぱりわからなかった。ワレリィさんに訊いても、いつも言葉を濁されてしまうのだ。曰く、「ぼくには何も言えないのですよ17……。あの子に逆らうのはさすがにちょっと怖いのです23。ごめんなさい11」
 こうまで脅されると、さすがにちょっと心配にもなってきた。それであるとき、遠回しにではあったけど彼女に相談してみた。やはり直截言う勇気はなかった。いつものように、ぼくの仕事が終わったあとで、彼女が遊びに来たときのことだ。
「あのさ……ぼく、ここに居ても、いいんだよね?」
 彼女はローブを撫でる手を止めた。そういえば、彼女は最近しょっちゅうローブを撫でているな、とぼくは思った。ローブに隠されたものの輪郭が、ときおりあらわになる。それがふと人間の頭蓋骨のように見えて、ぼくの身体の奥がきしんだ。そんなわけはない、と必死に自分の考えを否定した。
 彼女は不思議そうに首を傾げた。
「もちろんよ。どうしてそんなこと訊くの?」
 このときに至ってもまだ、ぼくは事実をありのまま話すのを躊躇っていた。
「ううん。ちょっと不安になっただけだよ」
「どうして?」
「なんだか、あんまりにも恵まれてる気がして。湖のほとりでうずくまっていたころとは違いすぎて」
「幸せすぎて不安? 贅沢ねえ」
 彼女はからからと笑った。ぼくは曖昧に微笑むことしかできなかった。
 とはいえそのころはまだ、彼女と話しているのが本当に楽しかったんだ。彼女はぼくのほうに身体を向けて、ぼくの言葉を一々丁寧に訊いてくれた。ぼくが、今日はワレリィさんと本の話をしただとか、ニースフリルさんに面白い遺跡の話を聞いたとかいうと、彼女は太陽みたいな笑顔で感心してくれる。「それって、どういう意味なの?」「うわあ、凄い! わたしも読んでみたい!」「いつか、一緒に行きたいわね。そのときはどんなものが見えるか、ちゃんと説明してね」そんな言葉の数々がぼくの心のなかにかちりとはまっていく感覚は、とても快かった。
 それが、どうしてこんなことになってしまったのだろう。彼女はぼくを、騙していたのだろうか。
 今朝、満天の星々のもと玄関を掃除していたら、見たことのない女性があらわれた。重そうな太い宝石剣を佩いていた。ぼくが「こんにちは!」と言うと、その女性はじろりとこっちを睨んだ。
「……あんたが、そうか。なるほど」
「なにか用事? ここは星見の塔だけれど。あ、姉妹の人?」
「あんた、逃げろと言ったろうに。まだ縊り殺されずにいるなんて、奇跡みたいなもんだ」
 にやりと笑うその表情に、その言葉に、ぼくの身体はぎしりと軋んだ。
「……あなたは、誰?」
「名前なんてどうだっていい」
「手紙を送ってきたのは、あなた?」
「さあね。手紙なんて知らない」
「あなたは……」
 ぼくは最後まで言えなかった。というのも、上空から奇っ怪な叫び声が振ってきたからだ。
「姉さん覚悟オオオオオオォォォォォッッッ!!!」
 トミュニさんだった。トミュニさんが長大な竜のような雷を従えて、振ってきた。トミュニさんはぼくの目の前の女性へと向かって、真っ直ぐに襲いかかった。
 しかしぼくの目の前の女性はまったく動じることなく、ひょいと一歩退いた。すぐさま轟音とともに土煙。
 トミュニさんは、あっさり墜落していた。
 ついでに自分の雷に追撃をくらっていた。それでもまだかすかに目をあけていたのは正直すごいと思う。
 トミュニさんはにやっと笑ってつぶやいた。
「ふ……なかなか、やるな」
 そのままばったりと倒れた。
……意味がわからなかった。

196遺された紀憶(8)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/09(土) 04:25:42
 ニースフリルさんが「はいはいごめんよー」と面倒臭そうにやってきて、トミュニさんを運んで行った。剣を佩いた女性はぼくをちらと見ただけで、一緒に塔の中へと入っていってしまった。ただ、最後にぼくにだけ聞こえるように、小さく囁いた。
「なぜ彼女の部屋を見ない? お前の不安は、それだけで消えるんじゃないか?」
「え……」
 それ以上聞き返すことは出来なかった。女性はあっと言う間に塔の中へ消えてしまったし、ぼくには仕事があったから。でも、仕事中はずっと、そのことばかり考えていた。
 そう、考えてみれば彼女の言うとおりだった。こんなにも不安になるのはあの手紙が本当なのかどうか、曖昧なままだからだ。みんながみんな、呪いとかなんとか曖昧なことばかり言っていて、疑いばかりがつのる。それに、誰かから否定の言葉を聞いたところで「もしかしたら」という可能性は残る。しかし部屋さえ見られれば、疑いなんてすぐに消えてしまうだろう。彼女が狂人でないことがはっきりすればぼくはこれからも彼女と幸せに暮らしていけるし、もしあの手紙が本当ならそれはそのときに考えればいい。とにかく、はっきりさせないことにはぼく自身の姿勢が決められない。決められないから、不安になる。そういうことだ。そう思った。
 とはいえこんな面倒臭い事情がある今、彼女に直接「部屋を見せて欲しい」なんて言う勇気はなかった。いや、正確に書くと、もう少しで言いかけた。でも彼女のほやほやの笑顔を見ていると、ぼくの疑念がとてつもなく汚らわしいもののように思われてきて、とてもじゃないが口に出すことなんて出来なかった。
 夜になって、ぼくは彼女におやすみを言って別れたあと一人塔の屋上へと登った。珍しいことにイングロールさんは居なかった。もっともあの人は随分無茶な生活をしているから、さほどおかしなことではない。一日中星を眺めて次の日は一日中眠るなんてのもざらだ。きっと眠っているあいだも星の夢を見ているに違いない。
 ぼくは空を見上げた。星は相変らず地上のぼくらなんて全然気にかけてくれない。でも、そういう揺がない様を見ていると、何故だか励まされているような気分になってくるから不思議だ。だからぼくは星が好きだ。湖の側にうずくまっていたころも、よく眺めた。そのころ勝手に考えたいくつもの星座の名前。その本当の呼び名を、いまではイングロールさんに教えてもらって知ってしまっていた。けれど、ぼくの中では昔のままの星の名前がずっと生きている。空を見あげて、そのいくつかを自分の中で反芻した。彼女のことも、星の並びくらいにはっきりしたものであればいいのに。星の並びが揺がないように、ぼくの彼女への気持ちもずっと同じままでいられると思っていたのに。そんなことを考えていた。なんだか悲しい気分だった。
 そして不意に、背後で物音がした。
「誰? イングロールさん?」
 振り返ったが誰もいなかった。鴉の羽のような暗闇が広がっているだけだった。と、再び音が響いた。なにか硬いものが床にあたる音だった。
「誰?」
 もう一度ぼくは呼びかけた。だけどやっぱり返事はなかった。ぼくはゆっくりと、音のするほうへと歩いていった。
 音はぼくがいるほうとは反対の端から聞こえてきていた。もう一度、硬い音が響いた。ぼくはそこに辿りついた。黒い影が二つ、素早く通りすぎていったように思ったのだけど、気のせいだったかもしれない。
 そこには落書きみたいな窓があった。一目でわかる、ワレリィさんの「扉」だ。窓は開かれていた。中から光が漏れていた。ぼくはそっと中を覗きこんだ。
 彼女がいた。
 窓のなかには、彼女の部屋があった。
……ここから先は、書くのも辛い。
 結局彼女は、狂人だったということなのだろうか。信じたくない。でも、ぼくが見たものは、紛れもなく現実だ。

 なぜ彼女は部屋のなかにあんなものを飾っているのだろう。
 なぜ彼女はあんなに愛おしそうな表情をしているのだろう。
 なぜ彼女は宝物に触れるような優しさで、男の――生首に――

 不意に。ぼくの身体がぎりりと軋んだ。

 彼女ははっとしてこちらを向いた。ぼくは反射的に窓を閉じた。でも遅かった。目があった。彼女の口があっと開かれるのを見た。咄嗟に生首を抱きしめる様も、見てしまった。

 ぼくは怖くてたまらない。
 なぜこんなことになってしまったのだろう?

197遺された紀憶(9)-1 ◆hsy.5SELx2:2007/06/09(土) 04:36:40
時:hi89f-gi70-dje8

 もうぼくはいつ殺されてもおかしくない。誰かぼくを助けて欲しい。なにを信じていいのかわからない。彼女を信じたいのに信じられない自分が悲しい。
 あれから眠れないままに夜が終わった。外は暗いままだったけれど、仕事を始める時間がきた。ぼくはそのとき部屋に居た。仕事を始める時間になると、彼女が起こしにくるのが日課になっていた。彼女の呼び声を怖がる日がくるなんて、思いもしなかった。ぼくはベッドの中で震えていた。あんなことがあったのだから、彼女はこないかもしれないと思っていた。いや、それはむしろぼくの希望だった。彼女に会うのが、怖かった。
 突然、ノックの音がした。ぼくの身体のどこかがおかしな音を立てた。
「寝てる? 入るよ」
 ドアが軋みをあげ、彼女が入ってきた。ぼくはそっと彼女の顔を伺った。彼女はいつも通りだった。少なくとも外見上は、いつも通りに見えた。彼女は楽しげながら危なっかしい足取りで歩いてきた。
「どこー? 起きてるなら返事してー」
 彼女はぼくの部屋がどういう風か、すっかり覚えてしまっている。だからぼくの声なんかなくてもちゃんとベッドの側まで来れた。彼女はぼふ、とぼくの身体の上に倒れこんだ。
「えへへ。起きたー?」
 ぼくの身体は硬ばった。感付かれてなきゃいいな、とぼくは思った。
「……うん。おはよう」
「おはよう。珍しいわね、いつもはわたしが来るともう起きてるのに」
「……うん」
「夜更しでもした? だめよ、ちゃんと寝ないと。日中肉体労働してるんだから、身体休めないとね」
「……うん」
「……どうしたの?」
「……いや」
 彼女は心配そうに首を傾げた。心なしか、迷っている風でもあった。ぼくは耐えられなくなって、彼女を押しのけて身を起こした。
「あ……」
「大丈夫。なんでもないんだよ」
 そう言って、ぼくは笑った。震えを上手く隠せたかどうか、自信はない。彼女は本当に、いつも通りに見えた。昨日のことはぼくの夢だったのかもしれない。そう思った。そう思いたかった。それで、少し安心した。
 でも、彼女がローブを撫でながらそっと吐きだした言葉に、ぼくの身体はゆるく軋んだ。
「……あの、昨日のこと」
「……………………うん」
「その……ううん、ごめん、なんでもない」
 彼女は弱々しく笑った。
「ごめん、わたし今日は用事あるから、先に行くね。お仕事、頑張って」
「……うん」
 そうして彼女は足早に、相変らず危っかしく駆けて部屋を出ていった。ぼくはしばらくぼんやりとしていたけれど、やがて身支度を済ませ仕事に向かった。
 塔の中はがらんとしていた。静まりかえっていた。誰かに相談するべきなんだろうか、と迷っていたのに、そもそもひと気が無い。誰の居る気配もなかった。そんな風なのは、ここに来て初めてのことだ。
 それでもヘリステラさんならいつもの部屋にいるだろう。そう思って、ぼくは階段を登りはじめた。
 どれだけ移動しても、やっぱり誰もいなかった。なにかあったのだろうか。彼女のこともあるし、ぼくはますます不安になった。窓の外は相変わらずの満天の星々。その光はぼくが知るはずのない冷たさを持っているように見えた。容赦のない観客たちに囲まれて舞台に立っているような気がした。
 ため息を吐いた。
 その瞬間声を掛けられた。
「おい」
 壊れそうなほどびっくりした。
「また会ったな」

198遺された紀憶(9)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/09(土) 04:37:45
 振り返ると、昨日の女性が立っていた。相変わらず重たそうな宝石剣を佩いていた。その様はとても高貴で、立派で、真っ直ぐに見えた。正義という言葉がよく似合う人だ、と思った。
「あ……おはよう」
「どうした。元気が無いな」
 女性はにやっと笑った。冬の真っ青な三日月をぼくは思い浮かべた。
「そんなことは、ないよ」
「そうかな。因みに、ヘリステラ姉さんなら今日はいないぞ」
「え?」
「何か用事があるらしくてな。出かけた」
「そう……」
 どうしよう。ぼくは迷った。でも、目の前の女性の毅然とした様子を見ていてはっと思いついた。そうだ。この人なら信用できるのではないか。
「あの! いま、暇?」
「うん? とりあえず火急の用事はなにもない。どうした?」
 女性の笑みはますます深くなった。ぼくはそれを頼もしいものと感じた。
「あの、その。彼女のことなんだけど」
「君の彼女のこと、だな。知ってるよ」
「……昨日、彼女の部屋を見たんだ」
「……そうか」
 女性は俯いた。表情が伺えなくて、不安になった。
「あなたは、知ってたの? 彼女のこと」
「……ああ」
 女性は深くため息を吐いた。ぼくはどんどん不安になっていく。
「教えてよ。彼女は狂っているの? あれは一体、どういうことなの?」
「残念だが……」
 女性はゆっくりと顔を上げた。瞳は燃えるような鋭さだった。
「彼女は狂っている。彼女は昔と同じように、真性の狂人にして最大級の危険人物だ」
「でも、ヘリステラさんはもう違うって。それに、他の姉妹の人たちも彼女と普通に話してるし。ぼくと話してても、全然普通だし……」
「彼女は猫を被るのが上手くなっただけさ。実際は昔と何も変わっちゃいないんだ。君は彼女の部屋で何を見た?」
 ぼくは一瞬、話すのをためらった。思いだすだけでも、辛かった。
「……それは。あなたは、知っているんでしょう?」
「まあね。でも、君の口からちゃんと聞きたいね」
「……彼女は、部屋に、男の首を飾って、いたんだ。切断された、生首だよ。そして、もの凄く大事そうにそのなかのひとつを抱きしめて、それで……」
「それで?」
「それで、その、キスを……」
「なるほどね」
 女性はまた、ため息をついた。
「わかったろう。彼女はそういう人間なんだ」
「でも、信じられない。信じたくない。怖いよ」
「……ひとつ、いい話をしてあげよう」
 女性はどこか、塔の上のほうを見つめながら喋った。思い出から目をそらしたいのに、どんなに頑張ってもそれは剥がれてくれない、とでも云うようだった。
「彼女の変態性欲は、男の生首を部屋に飾りもてあそぶに留まらない。そう、もちろんそれだけでも十分異常であることは確かだけれど、それならばわたしのような女性にとって彼女は危険たりえない。だってそうだろう? 彼女が自分の恋人の首を切断したところで、わたし自身になにか影響があるわけじゃない。彼女がわたしに惚れるなんてありえないわけだし。でも実際は彼女はわたしにとって、いや、全ての女性にとって限りなく危険な存在なんだ。何故かわかるか?」
 女性はぼくの返事を待たず、先を続けた。
「彼女はね。他人の男を寝取るのが趣味なんだよ。どういうことか、わかるだろう……」
 表情は、よくわからなかった。でも、その声の調子だけで十分だった。ぼくは悟ってしまった。この女性は、彼女と、そういう関係だって、こと。
「あの……こんなこと、聞くの、いけないのかもしれないけど……」
「……君の予想通りだよ。かつてわたしが愛した男の首は、今も彼女の部屋に飾られているんだ。いや、もっと悪いことに、ローブの中に入れて肌身話さず持ちあるいているという噂もある」

199遺された紀憶(9)-3 ◆hsy.5SELx2:2007/06/09(土) 04:41:04
 唇が噛み切れる音さえ聞こえそうな気がした。
「だからわたしは忠告するよ。君は早くここから逃げたほうがいい」
「うん……」
「どうしたんだ。何を躊躇うことがある。早くしないと君の身が危険だ」
「でも、ぼくは、彼女のことが……」
 かたり、と音がした。ぼくははっとして振りかえった。
 踊り場の影に、彼女がいた。
 彼女は大きな鋏をぶらさげていた。人の首どころかぼくの首だって簡単に切りとることが出来そうだった。なにか呟いていたようだけど、ぼくにはわからなかった。ぼくは震えあがって階下を見下ろした。先程の女性はすでに姿を消していた。
 ぼくと彼女は無言のままに向きあった。彼女は虚ろな、穴のような瞳をしていた。そのままお互いじっと、動かなかった。どうしていいかわからなくて、ぼくは彼女を呼んだ。
「ねえ……その鋏、なに?」
「え?」
 彼女ははっとして自分の手元を見つめた。瞳には途端に生気が戻った。自分が何を持っているのかもわからないようだった。
「え……どうして……?」
 ぼくにはわからなかった。彼女の考えていることが、全然わからなかった。怖かった。
 ぼくは逃げだした。彼女の声が聞こえた。声を振りはらうように、ひたすら逃げた。
 ぼくは掃除用具室まで辿りつくと、そこに入りこんだ。埃の匂いの濃い、くすんだ感じの部屋だ。差しこむ光が目立って見えるほど。ぼくは壊れた椅子が積んである影に隠れた。
 音はなかった。彼女が来る気配も同様。ぼくは安心した。と同時に、昨夜ほとんど眠れなかった反動か、この場所の生暖かい空気のせいか、瞼が重くなってきた。眠ってはいけない。そう思うのだけれど、どうにも抵抗出来なかった。
 次に気付いたとき、ぼくの体内時計は一時間ほど進んでいた。あわててぼくは目を開けて、そこで硬直した。
 目の前に巨大な鋏があった。
 その奥には、深い穴のような彼女の瞳。
「うわあああああっ!!!」
 ぼくは思わず叫んだ。同時に彼女が鋏を取り落とした。ぼくは反射的に足を伸ばし、その鋏を遠くに蹴りとばした。
 彼女はあっと叫んで走り去っていった。
 そのあとどこをどう歩いたのか、ぼくが何をしていたのか、さっぱり覚えていない。ただ、気付いたらぼくは自分の部屋に戻ってきていた。いつのまにか、夜になっていた。すぐ隣りが彼女の部屋というのは確かに怖いけれど、結局この塔のなかでぼくが居られるのはここしかないのだと思い知らされた。
 暗闇で見た彼女の姿が頭から離れない。鋏の鈍い光が今にもぼくに突き刺さってきそうな気がする。もうぼくはいつ殺されてもおかしくないんだろう。どうすればいいんだろう。誰か、ぼくを助けてほしい。

200遺された紀憶(10)-1 ◆hsy.5SELx2:2007/06/10(日) 02:30:54
時:83bhnviai

 眠れないので考えてみる。まだ、先程の紀述からさほど時間は経っていないのだけど。隣の部屋からはびっくりするくらい何の音もしない。もしかしたら、彼女はいないのかもしれない。それならそれでいい。でもやはり今はまだ、怖い。
 ぼくは逃げるべきなのだろうか。あの女性が言ったように、さっさとこの塔を出るべきなのだろうか。常識的に考えれば、たぶんそれが一番正しい。でも、それならどうしてぼくはまだこんなところに居るんだろう。行き場なんてどこにもないのは昔からだし、どこに居たってあの湖の側でうずくまっていたころより悪くなることはない。どうしていますぐにでも塔を出ないんだろう。どうしてまだこんな、彼女の側にいるんだろう。
 なんとはなしに壁を見た。彼女の部屋がある側の壁には簡素なクローゼット。その中身のことを考える。中には彼女がぼくの為に作ってくれたり、どこかから買ってきてくれた服がたくさん入っている。ぼくは服なんて最初に着ていたもので十分だ、どうしてかはわからないけれど汚れることも破れることもない服なのだから、と言ったのだけど、彼女は笑って答えた。
「それは自分勝手すぎるというものよ。いつも同じ服だと見ているほうだってつまらないじゃない?」
 無茶苦茶な理屈だなあ、なんて苦笑しながらも、ぼくはその日から彼女を喜ばせようと色々な服を着てみたっけ。どんな服なら自分に似あうだろう、どんな服なら彼女は喜んでくれるだろう、そんなことを考えている間は、本当に楽しかった。
 また、別のことを思いだした。ここに来た、二日目の夜のことだ。ぼくはその日、そのとき星見の塔にいたたくさんの姉妹に一日がかりで挨拶まわりをやって、へとへとになっていた。部屋に戻って彼女と二人きりになって、ようやく大きなため息をついた。ふと気付くと、彼女が心配そうな顔でぼくを見ていた。ぼくは空元気を振り絞って言った。
「大丈夫だよ。これくらいなんてことないし、大体住まわせてもらうんだから、精一杯こういうことはやっておかないと」
「ううん、そうじゃないの」
 ぼくはベッドに座っていた。彼女は床に座布団を敷いてぺたんと座り、上目遣いにぼくを見上げていた。言い淀むように何度か口を開閉させた後、彼女は言った。
「その……よかったのかな、って」
「え?」
「ううん。あんまり、真剣に気にされても困るんだけど、ふと思ったの。わたしはあなたをここに連れてきたけれど、それってあなたの自由を奪うことじゃなかったのかな、って。あなたを連れてきたことで、あなたをわたしに縛りつけちゃうんじゃないかな、って。ちょっと怖くなった」
「……そういうこと、言うなよ」
 ぼくは、自分でも驚いたのだけれど、怒っていた。彼女はびっくりしてぼくを見た。
「え……?」
「ぼくはぼく自身君と居たいと思って、ぼく自身の意思でここに来たんだ。ぼくらは君の意思だけで出来あがってるんじゃなくて……うまく言えないけど、二人の気持ちがあって、今のぼくらがあるんだよ。だから、そういう勝手なことを言われるのは、嫌だ」
 ぼくがそう言うと、驚いたことに、彼女はにっこりと笑った。
「よかった」
「え?」
「君が、わたしたち『二人』のこと、ちゃんと真剣に考えてくれてるんだなあ、って」
「………………うん」
 彼女の気持ちが春風のなかのほうらいばなみたいにふうわりと伝わってくるのがわかった。なんだかぼくは照れくさいような気分になって、きっとそれは彼女も同じだったんだと思う。ぼくらは何を言っていいのかわからず黙りこんだ。でも、その静けさはなんだか心地良かったんだ。

201遺された紀憶(10)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/10(日) 02:31:30
 部屋の中を見れば見るほどに、彼女の思い出ばかりが浮かんできた。ぼくはよくわからなくなってきた。今の彼女は確かに怖い。でも、怖いくらいのことでたくさんの幸せな紀憶が意味のないものになってしまうのだろうか。
 彼女と会った湖のほとりを思いだす。彼女は言った。
『全ての心持つ者には、呪い、呪われる定めがあるのよ。それは悲しくて、寂しいことだけれど、不幸せではないんだと思う』
 ぼくは彼女に呪われてしまっているのだろうか。だからこんなにも彼女のことを想ってしまうのだろうか。怖いと思うのにここから離れられないのは、そのせいなのだろうか。自分は不幸ではないのだろうか。
 ヘリステラさんの言葉を思いだす。
『呪いというのは中々に解け難いものなんだよ。特に、自分自身に掛けたものはね。業、と言いかえてもいいかもしれない』
 正直、今の自分にはまだヘリステラさんの言葉は理解し難い。彼女が、自分に呪いをかけたということなのだろうか。つまり、男の首を刈らずにいられない呪い? やはりわからない。でも、ヘリステラさんの意図とは別に、あの言葉は今のぼく自身を指しているような気がしてならなかった。ぼくは自分自身に呪いを掛けてしまっているのかもしれない。ぼくに掛けられている呪いは、ぼく自身が掛けたものではないのか。
 自分自身の、昔の紀憶を思いだした。かつてぼくはこう書いた。
『身体はどこも正常だった。異常はどこにも見当たらなかった。だから、たぶん悪いのは心だったんだと思う。よくわからない。でも、ぼくは壊れてしまったんだ』
 ここに来てからというものともすれば忘れがちなのだけれど、所詮ぼくは欠陥品なんだ。壊れてしまったモノなんだ。本当におかしいのはぼくのほうではないのだろうか。彼女は本当は何も変わっていないのではないか。ぼくさえ変われば、ぼくさえ昔に戻れば、再び幸せな日々を送ることができるのではないだろうか。
 しかし、また、別の言葉を思いだした。あの、宝石剣を佩いた女性の言葉。
『――かつてわたしが愛した男は、今も彼女の部屋に飾られているんだ』
 あの人が嘘をつかなきゃいけない理由は思いつかない。それに、あんなにも悲痛な表情を嘘とは思いたくない。
 そうしてぼく自身が見た、あの鈍く光る巨大な鋏。
 やはり彼女は真性の狂人なのだろうか。ぼくらはもう、戻れないのだろうか。
 わからないよ。

 あれ、なにか妙な音がす*********************
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202遺された紀憶(11) ◆hsy.5SELx2:2007/06/10(日) 02:34:25
時:hi89f-gi70-84jh

 とりあえず、何があったかをまとめる。でも、ぼくの気持ちはもう固まっている。
 ぼくは部屋で紀憶を書いていた。物音がして、顔を上げたときには彼女が部屋の入り口に立っていた。虚ろな穴のような瞳で、巨大な鋏をぶらさげて。ぼくは反射的に紀憶回路へのアクセスを切断し、彼女をじっと見つめた。そうしていると彼女の瞳がしだいに生気を取り戻していった。彼女はぼんやりと自分の持つ大鋏を見下ろし、ぼんやりとぼくを見た。
 そのときなんの前触れもなく、わかってしまったんだ。彼女は彼女なんだってこと。
 ぼくはなんとかこれを説明したいと思うのだけれど、上手くいかない。もちろんこんな文章ぼく以外に見る人は居ないのだから、説明できなくたって一向に困ることがないのはわかっている。でも、言葉にするというのは大事なことだと思う。今この瞬間のぼくらはほんのわずかな時間しかこの世界に居られなくて、あっという間に新しい時間の中の自分にとって変わられてしまう。もちろん大抵の場合、次の瞬間のぼくらは今この瞬間のぼくらと関連があるだろうけれど、失われてしまうものがあるのには変わりない。ぼくは気付いたんだ。ぼくは彼女と同じ空の下で暮らす全ての瞬間が好きだったってこと。だからぼくは、言葉を遺していきたいと思う。少しでもたくさん、彼女との思いを遺すために。
 でもよく考えてみたら、ぼくがその瞬間に感じたことの説明っていうのはぼくがいままでに紀憶したもの全部で足りるのかもしれない。ぼくが生まれてからいままでに起きた全てのことが積み重なった上でその瞬間のぼくが存在したんだから。たぶん、ぼくはそのとき彼女の様子を見て瞬間的に考えたんだ。いままでに出会ったいろんな人のこと、いろんな言葉のこと。
『もう、帰ってくるなよ』
『いつ死んでもいいと思っていれば、結構どうにかなるものよ』
『君は、どうして彼女のことを名前で呼ばないんだい?』
『彼女は数多の呪いを掛け、数多の呪いを受けてきた』
『ぼくには何も言えないのですよ17……』
『何を躊躇うことがある。早くしないと君の身が危険だ』
 他にも沢山の言葉があった。そうして最後にぼく自身の言葉を思いだす。
『ぼくは、彼女のことが……』
 あの宝石剣の女性との会話の最後、ぼくはなにを言おうとしていたのか。そう。答えは最初から出ていたんだ。
 ぼくは、彼女のことが好きなんだから。例え殺されようと、彼女と居られなくなるよりはずっといい。怖いけどね。正直、自分が消えてしまうなんて考えると、今も怖くて堪らない。でも、思うんだ。昔のぼくはこんなにも自分の消滅を怖がっただろうか、って。湖のほとりでぼくの視界がぼやけてから彼女に出会うまでの間、ぼくは何度も消えてしまいたいと思っていたし、いつ消えたっていいと思っていたはずだ。それがどうしてこんなにも怖がりになってしまったのかというと、今が幸せだからだ。どうして今が幸せなのかというと、彼女に出会ってしまったからだ。
 ほら。こんなにも単純なことだった。
 これでもう、ぼくは大丈夫。
 彼女にどんな業があろうと、どんな呪いがあろうと、構わない。ぼくは彼女の側にいる。迷わずに。
 ぼくは鋏を持ったまま硬直している彼女を見詰めた。彼女を抱きしめたいと強く思った。そんなのは初めてのことで、自分でもびっくりした。
 でも、ぼくが一歩足を踏みだすと、彼女はびくりと身を震わせた。まるで湖に溺れる直前の獣のようだった。ぼくはなんだか心配になった。
「大丈夫?」
 彼女は答えなかった。呆然とした表情でぼくを見詰め、次いで自分の手のなかの鋏を見詰めた。そのまま長い間動かなかったように思う。実際どれくらいの時間だったのかはわからない。でも次に口を開いたとき、彼女は弱々しい笑みを受かべていた。けれどもしっかりと、ぼくの目を見詰めていた。
「ごめんなさい。わたしって、駄目ね」
 彼女の声には遠くで吹く風のような儚さがあった。
「次に会うときには、きっと幸せな二人になれると思う。でも、ちょっと一人にさせてくれない? いいかしら?」
「……うん」
「じゃあ、三十分経ったらわたしの部屋に来てね」
 そうして、彼女は部屋を出ていき、そろそろ三十分が経つ。
 どうなるかはわからない。けれど、彼女のもとへ行ってこようと思う。
 迷わないと、決めたのだから。

203遺された紀憶(12) ◆hsy.5SELx2:2007/06/10(日) 02:36:19
時:hi89f-gi70-9999

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 長々と書いたけれど、全部消去。
 ぜんぜんちょっとじゃないじゃないか、ちくしょう。
 彼女はいなくなってしまった。
 これ以上何か書く意味なんて、無い。

204遺された紀憶(13)-1 ◆hsy.5SELx2:2007/06/10(日) 02:41:54
時:he8a-48ha-jf93

 文章が書けなくなってから大分経つ。あの日彼女は居なくなった。部屋のものも、なにもかもなくなった。もう三ヶ月が経つ。正直、今もまだ書く自信がない。
 とりあえず、彼女の手紙をここに転載しておこうと思う。部屋のなかに遺されていた手紙だ。何度も読み返して、ぼろぼろになってきてしまったから。

---------------------------

 あなたへ

 手紙の文頭に「あなたへ」なんて書くのはなんだかおかしなことなのかもしれないけれど、別にいいでしょう? わたしたちはいつもそうだったんだから。お互いが側に居れば、「あなた」と「君」だけで十分通じあえていられたものね。
 こんなことになってしまってごめんなさい。わたしはあなたのもとを去ることにします。このままだと、あなたを傷つけずには居られないと思うから。
 ワレリィちゃんから聞きました。ディオル姉さんが帰ってきていたみたいね。たぶん、なにか言われたろうと思うけど、きっとほとんどの内容は事実。わたしは愛した人の首を部屋に飾り、ローブの中に入れて持ち歩くような狂人です。結果的に、あの人の恋人を奪うことになってしまったことも本当。軽蔑していいの。わたしは多くの男を殺し、多くの女を悲哀の淵に叩きこんだのだから。でも、わたしが辛くなかったなんて決めつけるのはやめてね。わたしは本当に彼らを愛していて、自分が殺した男の死にわたし自信本気で悲しんでいたの。愛していたからこそ、殺してわたしのものにせずにはいられなかったの。勝手よね。狂ってるわよね。うん。わかってもらえないだろうって思う。でも、仕方なかったの。わたしにはそういう愛し方しか出来なかったんだから。別に何かきっかけがあったわけじゃない。ただ流れるように生きて、気付いたらそうなってた。だから、誰のせいでもない、わたしがわたし自身にかけた呪いだったんでしょうね。ヘリステラ姉さんなら「業」なんて呼ぶのかもしれないけれど。
 でも、数十年前、ディオル姉さんに瞳を切り裂かれてからはずっとそういうことをしてこなかった。わたしが愛した人がかつて愛した女性に両目の光を奪われて、思ったことは、後悔や辛さじゃなかった。「ああ、これでもう、誰からも愛されずにすむし、誰のことも愛さずにいられるんだ」って。おかしいわよね。結局何も反省してないんだもの。でも、これでわたしの呪いも終わったんだと思った。もう、誰も苦しめずに済むんだと思った。そうしてわたしは星見の塔に引き込もって、たまにワレリィちゃんの扉で散歩に出かける以外、人間たちとは関わりを持たない生活を続けてきたの。きっと人間たちには、ディオルに殺されたんだとでも思われてるんじゃないかしら。
 でも、あなたと出会ってしまった。
 恋って不思議。どうしようもなくやってくる。まるで夏の嵐や冬の大雪みたいに。
 最初湖のほとりで出あったあと、塔に帰って、決めたの。もう二度とあそこには行かないぞ、って。自分でも、もう一度会ったらとりかえしのつかないことになるのがわかったから。出会った次の日、わたしはあなたが寝ているあいだに一度来たって話をしたかもしれないけれど、あれは嘘。本当は、わたしは、わたしの意思であなたのところに行かなかった。
 でもやっぱりだめだった。一日中部屋にこもっていて、あなたのことばかり考えてしまうの。両目の傷なんて全然意識しないで話してくれたこととか、「またあした」って言ったときの声の調子とか。
 そのあとのことは、あなたの知っている通り。あなたと暮らす塔での生活は、本当に幸せだった。

205遺された紀憶(13)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/10(日) 02:42:10
 でも、やっぱりわたしには幸せになる資格なんてなかった。
 あなたがなんだかぎくしゃくしはじめて――わたしは気付いたら考えてたの。ああ、この人の首を切り取って永遠にわたしの側に置いておけたらどんなにいいだろう、って。すぐにそんな考えは否定したわ。あなたの声が聞けなくなるなんて耐えられないだろうし。でも、無理だったの。あなたがわたしから離れていくように見えるたび、わたしはあなたの首を切りたくてたまらなくなった。無意識に、大鋏を撫でていることが増えた。この数十年、触ることもなかったって言うのに。
 このままだと、わたしはいつかあなたを殺します。だから、その前に去ることにしました。
 もう、戻ってくることはないかもしれないけれど。
 もしまた出会えたら、一緒に旅にいきましょうね。いつか二人で話したみたいに。
 いまこれを書きながら思うのは、あなたの顔を見ることもあなたの声を聞くことももうないんだなあ、ってこと。ちょっとだけ、寂しいです。嘘。もの凄く寂しい。あなたは「大丈夫?」って訊いてくれたわね。もし、再び会うことがあれば、「大丈夫!」って自信を持って答えられるようなわたしになっていたいと思います。そうして、きっと幸せな二人になりましょうね。
 最後にわたしの名前をここに遺しておきます。お互いが側に居なくなっちゃうと、「あなた」「君」じゃちょっと不便だものね。あなたがもしわたしを愛しつづけてくれるなら、覚えていて。

 フィランソフィア。
 それがわたしの名前。

 そろそろあなたが来る時間です。もう行かなくちゃ。
 さようなら。

206遺された紀憶(14)-1 ◆hsy.5SELx2:2007/06/11(月) 18:17:02
時:fn3qd-4ija-i433

 前回の紀憶を書いてからそろそろ一年が経つ。なんだかもの凄く感慨深い。
 いろいろあったけれど、ぼくはまだ星見の塔に居る。フィランソフィアはまだ戻ってこない。
「彼女」が「フィランソフィア」になってしばらくは大変だった。ぼくはまともに動けなくって、フィランソフィアの部屋にうずくまったままになってしまった。正直あのころのことはよく覚えていないし、思いだしたくもない。でもそれはきっと、湖の側でうずくまっていたころと少し似ていた。結局のところ、ぼくは欠陥品でしかなかったんだと思った。ぼくがもっと早くに彼女のことを信じて、そのままの彼女を受けいれるようにしていればこんなことにはならなかった。彼女に殺されてもいいから側に居て欲しかったんだってちゃんと伝えられなかったことを、ぼくはとても後悔している。こんな風にして人を傷つけずにはいられないぼくだからこそ、父さんはぼくを捨てたんだろう。だからこその欠陥品なんだ。そう思った。
 しかし湖のころとは違う部分もある。フィランソフィアはもしかしたら戻ってくるかもしれないということと、彼女を愛するようになってしまったということ。こんな空想は自分でも嫌なのだけど、失われて、より一層ぼくはフィランソフィアを愛するようになった気もする。
 こんなことを書きながらも、ぼくは愛というものなんてこれっぽっちもわかっちゃいない。いままでに経験したことのないこの名付けようのない感情は愛と呼ぶしかないんじゃないかな、というそれだけだ。とにかくぼくは、ぼくの持っていた唯一の幸せが失われたことに呆然としていた。
 星見の塔のみんなは優しかった。代わる代わるにぼくを訪ねてきてくれた。そのときのことで、きっとぼくはフィランソフィアの姉妹たちの半数以上に会ったんじゃないだろうか。申し訳ないことに、よく覚えていないのだけれど。その時期のことは本当にぽっかりと抜け落ちている。ひたすらに彼女の手紙を読み返して、ひたすらに彼女の部屋を掃除していたような気がする。彼女がいつ帰ってきてもいいように、と思って。部屋に飾られていたたくさんの男の首は全てなくなっていた。処分してしまったのか、彼女が持っていったのか、今となってはわからない。
 ようやく少し落ちついてきたのは、フィランソフィアの手紙を紀憶回路に書きこんだあたりからだ。あれを書きおわって、ぼくは、彼女に「大丈夫?」と聞き返されたときのことを考えた。ぼくも、「大丈夫!」と笑って答えられるようになっていたいと思った。そう考えると、少しだけ胸の奥が熱くなった。熱さなんて知らないはずなのに、こうした感覚にはこの言葉が一番よく似あうとぼくは思う。
 ワレリィさんはしょっちゅうぼくのところに謝りに来ていた。でも、それまではろくに事情を聞くことも出きなかった。少し状態がマシになってきたころ、ぼくは思い切って訊いてみることにした。
「ねえ、彼女……フィランソフィアは、一体どこに行ったの?」
 ワレリィさんはびっくりしていた。なにしろぼくがまともに話すのは三ヶ月ぶりだったから。それでももう一度「ごめんなさいです11……」と言ってから、話してくれた。
「ぼくがみんな悪いのです6……ぼくがディオルさんの言うことに逆らえなかったり、フィランソフィアさんの言葉を疑いもせずに『扉』を設置したから4……」
「『扉』を設置、って?」
「フィランソフィアさんが、居なくなるしばらくまえに言ったのですよ10。万が一ディオルがここに来るようなことがあったらすぐに逃げられるように、部屋に『扉』をつけて欲しい、って9。ぼくはびっくりして、ディオルさんが居ること知ってたの15、って訊いちゃって、それでフィラルディアさんはディオルさんが来てること知って余計に切羽詰っちゃったんじゃないでしょうか5……」
「でも、今のこの部屋に『扉』なんて無いじゃないか」
「きっと、内側から閉じたんだと思うです3……」

207遺された紀憶(14)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/11(月) 18:17:48
「内側から? でも……」
 ぼくだって、扉は何度も使わせてもらっていた。開け閉めだってしたことがある。だけど、それで扉が消えてしまうなんてことはなかったはずだ。そう話すと、ワレリィさんは悲しげに首を振った。
「そういう内側じゃないのですよ6。内側は『扉』の入口と出口の間にあるのです7」
「そんなもの、見たことがない」
「見えないように、危くないように、極力小さく縮めてますから11。でも、ぼくの『扉』は基本的にキュトスの姉妹のためのものですから、キュトスの姉妹にならある程度いじることができるのですよ6」
 ぼくは嫌な予感がした。
「……ちょっと待って。内側から閉めたって、もしかして、彼女はその、内側に居るの?」
 フィランソフィアから聞いたことがあった。この宇宙には見えない隙間がたくさんあって、その隙間からこの世界の秩序の外側へと旅立つことが出来るんだって。二度と戻ってくることのない、永劫への挑戦。ワレリィさんは悲しげに頷いた。
「……たぶん4。それくらいおかしな使い方をしない限り、『扉』が消えるなんてありえませんから1……」
「戻ってくることは、出来るの?」
「……わかりませんです4……。すみません3……」
「そうか……」
 ぼくは意味もなく天井を見つめた。水紋みたいな木目を見付けた。何を思っていいのかもわからなかった。
「ありがとう」
「ごめんなさい4……ほんとうにごめんなさいです3……」
 ワレリィさんはまだなにか言いたそうだったけれど、ぼくはなにも訊かなかった。大体、今まで自分で書きとめてきた紀憶をよく見返せばわかったから。剣を佩いた女性はフィランソフィアを憎んでいるディオルさんなんだろうし、ワレリィさんはディオルさんからの手紙を届けさせられていたんだろう。あの日屋上に狙ったように窓が用意されていたのも、ぼくのあとを付けてきたディオルさんがワレリィさんに開かせたものだったのだろう。そのあたりのことをワレリィさんに問いつめたところで仕方がない。どのみちもう、過ぎてしまったことだ。でも、一つだけ気になったことがあった。
「そういえば、ディオルさんは今、どこに居るの?」
「それは……」
「そのあたりは、わたしが話そう」
 声とともに、ノックもせず女性が部屋に入ってきた。ワレリィさんが驚きの声を上げた。

208遺された紀憶(14)-3 ◆hsy.5SELx2:2007/06/11(月) 18:18:26
「ヘリステラ姉さん……」
「ディオルが、迷惑を掛けたな。済まない、気付いてやれなくて」
「……ヘリステラさんは、ディオルさんの味方じゃなかったの? いや、そもそもディオルさんはそう簡単にはここには来れない、って言ってた」
「そう思っていたんだけどね。大体呪いなんてそうそう解けるものじゃないし、短期間封じるだけでも成功例は少ない。でもあいつの執念は並じゃなかったようだ。彼女は両足と引き換えにスィーリアの協力を得たんだ」
「両足?」
 ぼくは自分の耳を疑った。ヘリステラさんはゆるやかに頷いた。
「そう。スィーリアには両足がないからね。取り引きとしては適当なところだ」
「でも、ディオルさんには足があった」
「うまくフィランソフィアを消せたら、という約束だったらしい。ディオルはスィーリアの協力で我が身の呪いを封じ、あげくこの星見の塔で私に気付かれずに人払いをする、なんてとんでもないことまでやってのけた。スィーリアは彼女の足を付けて嬉々としていたよ。ディオルの行方はわからない。足を持たずに、どこへ行ったのやら……」
 執念か、とぼくは思った。自分の足を差しだしてまで、ディオルさんはフィランソフィアに復讐しようとした。でもぼくにそれを非難する資格があるのだろうか。愛するものを失った痛みをぼくはもう知ってしまったじゃないか。そう思った。
「呪い、か……」
「世のなかはたくさんの呪いで満ちているんだよ。殺さずにはいられない者、恨まずにはいられない者、恨みたいのに恨めない者、動きたいのに動けない者、愛されたいのに愛せない者……人と人が関わるとき、どうやったって呪いは生まれてしまうんだ。これはこの世界そのものの業。そういう風に出来ているんだ」
「……今のぼくには、それでいいんじゃないかと思える。それは悲しくて、寂しいことだけれど、不幸せではないんだと思う」
 ぼくは自分で言ってからびっくりした。これは彼女の言葉だ。でも同時に、今のぼくの本心でもあった。フィランソフィアが居なくなったこと、結局ぼくはこんな風にしか生きられなかったこと。そうしてきっと、みんなもどこかでぼくと同じように望まない結末に翻弄されていること。全部、とても悲くて寂しいことだと思う。でもぼくの中には彼女と暮らしていたころの幸せな記憶が残っているし、これからも残り続けるだろう。それに、彼女が戻ってくるかもしれないという希望もある。彼女が戻ってきて、またぼくは何か誤ちを犯すかもしれない。でも、だからと言って幸せだったことまでが嘘になるわけじゃない。この歪な世界はきっと、不幸にはなれないように出来ている。
 ぼくは今、昔と同じように星見の塔の掃除夫をして暮らしている。何人かの姉妹には嫌がられたけれど、ヘリステラさんがどうにか説得してくれた。
 一日の終わり、ぼくはフィランソフィアの部屋を掃除する。彼女のことを考え、彼女との思い出をつらつらと呼びおこす。懐かしくて幸せだけれども、悲しくて寂しい時間だ。でも、どういう形であれ、想い続けたいと思うし、思い続けずにはいられないのだろう。
 そうしてぼくは今日も待っている。彼女と暮らす未来を、旅に出るときを。

209遺された紀憶(15)-1 ◆hsy.5SELx2:2007/06/11(月) 18:41:43
時:99999-9999-9999

 なんの前触れもなくビークレットさんがやって来たときぼくは昼の休憩中で、ヘリステラさん特製トントロポロロンズ茶を飲んでいるところだった。ビークレットさんはそんなぼくを見て息を飲んだ。
「おま……それ飲んでるのか」
「うん。ヘリステラさんに貰った」
「……正直、どうよ」
「………………まあ、うん」
 言葉を濁したけれどビークレットさんには伝わったみたいで、彼女は深いため息を吐いた。
「まあ、それはともかく」
 ビークレットさんはずい、とぼくのほうへ一歩近づく。
「お前、もうバレてるぞ」
「なにが?」
「お前だってのはもうわかってる。今度は何やらかすつもりだ。挑戦なら受けるぞ」
「え……っと。だから、何?」
 ふむ、とビークレットさんは考えた。
「……本当に、知らないのか?」
「だから、何が?」
 途端にぼくの周囲に青色の炎が燃えあがった。逃げ場もないよう、完全にぼくを取り囲んでいる。
「おとなしく吐けば、危害は加えない」
「いや、ちょっと! だから、ぼくには何のことかわからないよ!」
 そうこうしている間にも炎の輪はどんどん狭まってきた。相当な高温のようで、湖のほとりで永遠とも思える時間を耐えたぼくの身体が溶けそうになっている。
「ちょっと! ほんとやばいって! ストップストップスト……仕方ないな」
 ぼくはびっくりした。ぼくの口から、ぼくのものではない声が出てきた。しかもその声には聞き覚えがあった。
「え……とう、さん?」
 その瞬間炎は消えた。ビークレットさんが満足げな表情で立っていた。
「ん。ようやく正体を現わしたかグレンテルヒ」
「え? どういうことかわから、ふむ。大分頑丈に作ったつもりだったんだが、流石にお前の炎は少々きつい。相変わらずの火力、見事なものだ」
 ぼくの口はぼくの意思とは無関係に動いた。もの凄く気持ち悪かった。ビークレットさんはにやっと笑ってぼくを見た。しかし「ぼく」を見ていないことは明らかだった。
「大体おかしいと思ったんだ。こいつ、お前に捨てられたんだって言ってたけどどう考えても捨てるような欠陥品じゃないだろ。むしろ今の時代でもオーバーテクノロジーなくらいだ。何か意図があって置きざりにしたとしか思えない。だから、そんな上等な品なら危機に落ち入ったらなんらかの反応を示すと思ったんだが……予想以上だったよ」
「ふふ。褒めてくれて嬉しい。ただ一つ違う。こいつが欠陥品であることは間違いない」
「嘘つけ」
「嘘じゃないのだよ。こいつはね、あろうことか感情を持ってしまったのだ」
 ぼくには父さんの言っていることがよくわからなかった。ただ、やっぱりぼくは捨てられたということに間違いはないみたいだった。でも、それならどうしてぼくのなかに父さんがいるんだろう。
「ふむ。その疑問はもっともだね」
 父さんはぼくの考えていることがわかるみたいで、ぼくの口を使ってにやにや喋った。
「そもそもまず、私が何故お前を作ったかを説明せねばなるまいな。当時私はわりと死にそーだった」
「口調軽いなおい」
「なんだかビークレットさん、普段と性格違わない?」
 ぼくが訪ねると、同じ口から父さんは答えた。
「なに、ビークレットは魔女の癖に賢くて偉大なこの私に惚れているのさ」
「惚れるかっ!」
 父さんはぼくの身体で楽しげに笑った。

210遺された紀憶(15)-2 ◆hsy.5SELx2:2007/06/11(月) 18:43:08
「ふふ。まあ、話を戻そう。死にそーになって私は思った。死にそーなら生きればいいじゃん、と。それで私は私の精神の複製と、それを入れる身体を作った」
「そんなこと可能なのか」
「あいかわらず頭が悪いな君は。出来ないならやればいいじゃないか」
 無茶苦茶な理屈なのに、父さんが言うと何故か説得力があるのが不思議だ。ビークレットさんの表情が硬ばって、一瞬目の前に青い炎が爆ぜた気がしたけれど見なかったことにした。父さんはあくまで偉そうに話を続けた。
「で、その複製がこの私で、その身体というのがこれだ」
 そういってぼくの身体を指差した。
「だが一つ問題が生じた。どうしても精神がこの身体に定着しなかったのだ。いろいろ実験を重ねた結果、精神の土台が必要だとわかった。それで私は空の人格を作った。それを土台として、私はこの身体に住みついた。その空の人格が、ぼく?」
 最後のはぼく自身の言葉だ。ビークレットさんがうんざりして言った。
「おまえらややこしいなあ」
「仕方ないじゃないか。それで、父さん。その空の人格が、間違って感情を持ってしまったっていうこと?」
 一瞬、考えているような間があった。やがて苦々しげな声がぼくの口から吐きだされる。
「……正直いまだによくわからないのだ。この私ともあろうものが、情けないことに。よくわからない。ただ、いつものように湖までトントロポロロンズを取りに行って、それっきりだった。気付いたらもう、この身体はお前の支配下にあった。それまでお前がどこに居たのかはわからない。作られた空の人格のエラーなのか、それとも、私の精神が分離したものなのか」
「なるほど。こいつが父親の顔を覚えていないと言っていたのは、〈そもそも見ていない〉からだったのか」
「そうだ。こいつはその瞬間初めて生まれた。もっとも一部私の知識や経験を引き継いでいるところはあって、そのせいで認識に混乱が見られたようだがね。ちなみに動けなかったのは欠陥でもなんでもない、単にお前が引きこもりニートだっただけだ」
「働いたら負けなのか」
「引きこもりニートって何?」
 ぼくのなかで父さんは笑った。
「深く考えるな。気にしたら負けだ」
「でもおかしいな。そんなことになってたんなら、どうして今こうして話している?」
 父さんはぼくの身体でかっかっと豪快に笑った。
「いやなに。君が私を殺そうと熱で焙ってくれたじゃないか。それでどこかの歪みがすっぱり直ったみたいでね。晴れて私はこの身体の支配権を取り戻したわけだよ! いやあ嬉しいなあ」
「ちょっとまて! 『……仕方ないな』とか言ってたのはなんだ!」
「かっこつけたかっただけだ!」
「威張るな!」
 不思議だ。どうして父さんを相手にしているとこうまでビークレットさんはムキになるのだろう。ああ、以前は落ち着いた、大人の女性だと思っていたのに……。なんだがぼくのなかのビークレットさんのイメージががらがらと崩れていくのを感じた。感じながらもぼくの口では父さんがかかかと笑っていたりして、本当にややこしいことこの上ない。
「いやあ、君には感謝してるよ。ぶっちゃけ世界が終わってもこいつは残れるくらいの耐久性があるはずだから、長い人生の間その内帰り咲けるだろうとは思っていたんだけどまさか君のおかげで実現するとはね!」
「前から思ってたけどやっぱお前腹立つ。殺す」
「ははははは!!! 殺せるものなら殺してみるがいい! この身体は考え得るどんな攻撃にも耐えられる上、各種武器も取りそろえてあるのだよ!」
「……へえ……いい度胸だ」

211遺された紀憶(15)-3 ◆hsy.5SELx2:2007/06/11(月) 18:47:25
 ぼくらの居る空間が比喩でなしに赤熱していった。床が、天井が、座っていた椅子が溶けていく。同時にぼくの身体もガシャガシャと各部開いていくつもの銃口が突きだしてきた。やめてやめてと叫ぼうとしたのだけれど、父さんの意思に妨害されているのか無理だった。このまま開戦したら星見の塔くらい簡単に消しとぶんじゃね? とか思い、身動きできないもどかしさを感じた。
「はははあはっははー!!! 死ねい!!!」
「覚悟!」
「やめなさい!!!!」
 瞬間、目の前が真っ暗になって、気付いたときには半ば溶けかけの床に叩きつけられていた。
「まったく。妙な笑い声がするから気になって来てみれば……。塔内での戦いは御法度だ。本当ならトミュニだって罰してやりたいところなんだから」
 顔を上げると、まずヘリステラさんが見えた。次に、こちらに向かって手をかざしているムランカさん。それから、二本の剣をビークレットさんに突きつけている宵さん。
 ムランカさんがかかっと笑って言った。
「ビークレット姉さん、なかなか男の趣味が悪いねえ」
「ん。あなたに言われたくはない」
 ビークレットさんはゆっくりと構えを解いた。それを受けて宵さんも刀を下ろした。ヘリステラさんはぼくをきりりと睨みつけた。
「それで、グレンテルヒ。なんのつもりだ。君だって姉妹全員を敵に回したくはあるまい」
「ふむ。もっともだ。しかし喧嘩を売ったのはビークレットが先だ」
「ヘリステラさん、父さんのこと、気付いていたの?」
 言ったのはぼくだ。ヘリステラさんはちょっと俯いた。
「済まない。ただ、知らないでいられるならそれもいいか、と思ってしまった。君を傷つけたなら、謝る」
「卑怯者め。全ての者には知る義務、探求する義務がある」
「その過程で多くの者を殺してもか」
「あたりまえだ。知の探求を行わない者なぞ、死んでいるのと同じだ」
「……へえ、ほんとに?」
 見ると、ムランカさんがいたずらっぽい表情でこっちを見ていた。ヘリステラさんが眉を顰めた。
「ムランカ。またろくでもないことを思いついたんじゃないだろうな」
「ろくでもなくなんかないさ。おい、お前。息子のほう。お前、彼女に会いたいだろ?」
 そんなこと、聞かれるまでもなかった。ぼくはゆっくりと頷いて、ムランカさんを見た。彼女は楽しそうに笑った。
「いいね。若いなあ。そういうの、好きだよ。そこで一つ提案なんだがグレンテルヒ。お前、扉の『内側』に行く気はないか。前人未踏の領域だ。お前の望む『知の探求』にはうってつけだろ」
 ビークレットさんが息を飲んだ。
「おいムランカ、そんなこと、こいつが承知するわけ……」
「ふむ、おもしろいな」
 父さんは本当に、面白そうだと思っているようだった。ぼくの顔が楽しげな笑みが受かんでいく。
「それは本当に、面白い。実際初めてワレリィの『扉』をくぐったときからずっと気になっていたんだ。まだ前人未踏の領域。この世界の外。ひょっとしたら、永劫線に至ることすら可能かもしれない。上手く利用すれば空間だけでなく時間軸すら自在に移動することが可能なはずだ。時空間の秘密についてはずっと温めていたテーマだからな。幸いこの身体は究極の耐久性を持っているし、永劫線に挑むのにはうってつけだ」
 父さんが喋っている間、ぼくの頭は混乱しっぱなしだった。『扉』の内側へ? そんなこと、無理なんだと思っていた。例え実行しても、彼女に会うまえに消えてしまうのではどうしようもないと思っていた。しかし、今は父さんがいる。この自身に満ちた口ぶりからして、死ぬ可能性なんて微塵も考えていないだろうし、父さんが思うからには本当に微塵もないんじゃないか。そんなことありえないのはわかっていたけれど。
「ありえる。不可能なら、可能にすればいいだけだ」
 話を聞いていなかったから、父さんのその言葉がぼくの思考に答えたものなのか、会話の流れで出ただけの言葉なのかはわからない。でも、信じてみようと思った。彼女に、会える可能性があるのだから。

212遺された紀憶(15)-4 ◆hsy.5SELx2:2007/06/11(月) 18:48:15
「でも、危険だ!」
 一方、ビークレットさんはどうしてか動揺しているようだった。ムランカさんは楽しそうに答えた。
「どうして? あたしたちとしても、厄介払いできていいじゃない?」
「ん。こいつがそんなタマなものか。どうせより強大な知識を得てひょっこり帰ってくるに決まってる」
「それならそれで。まーそのときに考えればいいんじゃない?」
「でも……」
「ビークレット」
 それまで黙っていたヘリステラさんが、やっぱりどこか楽しそうに口を挟んだ。
「そんなに言うなら、君も着いていけばいい。グレンテルヒの見張り役。必要だと思うが」
「ええっ!?」
「別にやめてもいい。実際、危険すぎる行いだからな」
「ははははは! 安心しろ! 魔女一人くらい守るのはわけない!」
「危険すぎるとは思いません。わたしならなんとかできる自信はあります。しかし……」
 ビークレットさんはあっさり父さんの言葉を無視した。しかし頭を抱えたり落ちつかなくうろついてみたり真っ赤になったり青くなったりしていろいろ悩んでいた。ちらちらこっちを見たりもしていて、その間ずっと父さんはにやにやしていた。
 やがて彼女はヘリステラさんに向きなおり、言った。
「やります」
「そうか」
「はははははは! やはり私の魅力に耐えられずぐほっ」
 ぼくはビークレットさんに蹴られて吹っ飛んだ。なんだか大変な旅路になりそうだ。
「それでは頑張ってくれ。私はもう行く。ただ約束しろ。必ず、戻ってくるんだ。そこの息子も連れてな」
「はい。わかっております。グレンテルヒはどうなるか知りませんが」
「そうだな。グレンテルヒはどうでもいい」
「おのれ……魔女どもめ」
「それでは」
 そうしてヘリステラさんは振り返らずに部屋を出ていった。宵さんもあとに続いたけれど、ムランカさんがこちらへ来て、耳元で素早く囁いた。
「死ぬ気でフィランソフィア姉さんを探すんだよ。あんたはまだ若いんだ。愛する人と二度と出会えないなんて陳腐な悲劇はやめときな。男の子にはそういうの、似合わないよ」
 ぼくはまじまじとムランカさんを見詰めた。彼女はぼくに目を向けながらも、本当はどこか遠く、別の誰かを見ているようだった。
「好きな女をちゃんと幸せにすんのは男の義務だよ。好きなのに諦めるなんてあっちゃいけないし、女より先に死ぬなんて論外だ」
「……ムランカさんも、来たらどう?」
 彼女は一瞬だけ迷いを見せたけれど、すぐに自嘲的な笑いを浮かべた。
「……やめとく。あたしはもう長く生きすぎたし、あたしとあいつにとって、そういうのはなんか違う気がするからね」
 ぼくにはなにも言えなかった。ムランカさんは素早く立ちあがった。
「なんか変なムードになったな。それじゃ、あたしも行く。頑張れよ」
 そう言って去っていった。あとにはぼくとビークレットさんと、ぼくのなかの父さんだけが残った。ビークレットさんは首を傾げていた。
「……なんの話だ?」
「ちゃんとフィランソフィアを見つけなって、そういうははははは嫉妬かねビークレット! なにせ偉大で賢いこのわたしだからな。気になるのも仕方ない!」
「死ねっ! 空気読めっ!」
 あとになってからぼくは父さんに言った。

 ありがとう。ムランカさんと、ちゃんと話させてくれて。
 なんのことか、わからんな。
 ちゃかしたりしないで、ちゃんと二人で話させてくれた。
 ふむ。私は私の好きなようにしてるだけだからな。
 もしかして、『扉』の内側に行くのをあんなにあっさり承知したのもぼくのため?
 買い被りすぎだな。私は善人ではないのだから。まあ、どう思おうとお前の勝手だ。
……ありがとう、父さん。

 それからも色々あって、ぼくらは今ワレリィさんの扉の前にいる。

 これから『内側』へ挑む。ぼくは彼女に会うために。父さんは世界に挑むために。ビークレットさんは、父さんを見張るため? よくわからない。
 なんにせよ、ぼくにとっては彼女に会えるというそれだけで十分だ。世界は本当に不思議だ。色んな人が思い思われて、その連鎖がずっと先まで続いている。時として呪いとも表現されるそれは、人を悲しくされることもあるけれど、幸せに繋がることもある。要は、繋げる気があるかどうかだ。そうして繋いで行った想いはまた遥かな未来で実を結び、広く広く、どこまでも飛んでいく。
 ぼくはこの紀憶の複製を星見の塔に置いていこうと思う。ぼくの想いのつまった紀憶。みんながこれを読んでどんな風に思うのかはわからない。けれど、帰ってきたとき、ぼくの想いが誰かの胸に実を結んでいたら、それはとても幸せなことなんじゃないかと思う。
 そろそろ、旅に出る時間だ。ぼくはどこまでも行こうと思う。彼女に再開したあとのその先まで、ずっと、ずっと。

213遺された紀憶(∞) ◆hsy.5SELx2:2007/06/11(月) 18:49:07
(了)

214:2007/06/24(日) 10:05:33
木々はとろとろと濃く、ゆっくりと渦を巻いていた。
半分だけしか生えていない木のむき出しの断面や、
宙に浮き、その根で獲物を捕らえるため移動を続ける木、
おもに実と花から出来ており、ところどころに枝や幹を成らせる木、
それらすべてが集まり、一つの眠りを形作っていた。
虫や、植物、動物、空気、時間、星光、言葉、といったものがそこかしこで
眠りについている。その寝息までもが眠って、寝息を立てているのを聴きながら
歩いていると、自分の歩いてきた軌跡に沿って無数の過去の自分が
眠っているのに気づいた。そればかりか、現在の自分、未来の自分の眠り
までもが、あたりに充溢している。知らず私はこの森の一部と化していた。
いつからであったか、ハザーリャ? この森に入りこんだ時のことを覚えていない。
たしか以前はこの外で暮らしていたこともあったはずだが。

215森(2):2007/06/24(日) 17:45:00
ハザーリャの眠りであるハザーリャ、
夢の舌を持ち、その上で世界の夜を転がすハザーリャは答えた。
「森の始まりは、夢の始まりに応じて不可知なのだ。
 おまえは、自分がいつ人生に足を踏み入れたのかを覚えているのか?」

 地に落ちた枯葉は胎児のように丸まり、くるくると腐ってゆくのを待つ。
 私は闇にさらなる影をなげかけ、影は闇にさらなる私を投げかける。
 ハザーリャよ、答えてくれ、私がこの森を抜け出すのはいつのことになるだろう?

216森(3):2007/06/24(日) 21:12:38
ハザーリャの死であるハザーリャ、
かつて一度も生まれたことのないハザーリャは、答えなかった。
ハザーリャの大海であるハザーリャ、
世界と平行な水平線を持ち、決してこの世には交わらぬ海が、かわりに答えた。
「あなたは大イビカンの足跡を辿り、森を出るでしょう」

 朽ちて、骨だけになった石がそちこちに転がるなかを歩いてゆくと、
 いかなる数も持たない建物に行き当たった。その建物は一つにも見え、三つ、七つ、
または幾千にも見える。曼荼羅を見ているようで、建物が自分の構造内に無数の
それ自体を含み、どうしてもそれが「いくつある」と確言することができない。

217森(4):2007/06/26(火) 20:34:57
 その建物の中は、「あくび」や「くしゃみ」たちの巣と化していた。
 かれらの繭や抜け殻をかいくぐって奥に進むと、最深部と思われる
ところに、「祭壇にも月にも怒りにも見える、生きているなにか」がいた。
 その「何か」は、目でないものの眼差しによって、「お前は何者か」と問うた。
 その答えとして、私は意味のない音を発した。おそらく耳のないだろう
「何か」は、しかしどのようにしてかその無意味を理解したようだった。
 それは石や星のない夜空に特有の、あの身振りでもって私に次のような事を語りかけた。
「お前は自分が何者かを決して知ることがないように定められているものだ、
 ほかの全ての者たちと同じように、しかしもっと極端に。
 お前は死と悲惨と戦争と憎悪と病と絶望と恐怖と苦痛と裏切りと愚かさと
アルセスとアルセスとアルセスとアルセスとアルセスとアルセスを潜り抜けるだろう。
 お前の旅路はこの上もなく困難なものになるに違いない」

218森(5):2007/06/29(金) 22:39:56
「死や悲惨、戦争や憎悪は私のかけがえのない悪友です。いまさら彼らの
いたずらになど動じません。しかしアルセスだけはご容赦願いたいですね。
あれはそれ自体では善でも悪でもなく、建設もせず破壊もせず、自分では
何も変わることなく、ただ触媒として作用して、世界を誇張します。
そもそもこの世界自体が誇張された無に過ぎないわけですが。
私は私の戯画になりたくない。極端なものに加速させられたくない」
 私はそう「何か」に言った。すると「何か」は、地面に雨が滲みこむように、
すっと「かたち」のなかに溶け込んで、消えてしまった。「祭壇と月と怒りに
似た何か」は、もうただの祭壇にしか見えなかった。
 私はそこで、数のない建物を出ることにした。暦には決して載ることのない
幾日かを経て、私はふたたび森のけもの道を辿った。あたりには「意味」の死骸が
たくさん落ちているので、それらを焼いて食べながら進む。苦い味がした。
 しばらく進むと大イビカンの足跡の、最初の一つと思えるものに出会った。
十二脚鳥が、巣に一冊の本を、雛のように抱え込んでいるのを見つけたのだ。
私が頼み込むと、鳥は「かならずそこに書いてあることを自分よりも大事に
思うこと」を条件に読ませてくれた。お安い御用だ。

219森(完):2007/06/30(土) 16:51:08
 十二脚鳥は、腹から生えた十二本の翼ある脚を雪の結晶のように広げ、
円盤のようにぐるぐる私の頭上を回り始めた。私は本を開いた。
 最初の見開きには何も書かれていなかった。
 次の見開きは意味のない記号の羅列だった。
 三番目の見開きは罵詈雑言の嵐だった。
 四番目の見開きにはとても美しい詩が載っていた。
 そして五番目の見開きから一つの物語が始まり、それは最後のページまで
続いて、それでも終らなかった。物語は本の端の端まで続くと、本をはみ
だして、世界のなかにまで伸び、果てしもなく広がり始めた。眩暈がした。
私はこの物語に、最後まで付き合わなければならないのか? この物語は世界
のどこまで続くのか? 私の生の限界内に、それはすっぽり収まってくれる
ようなものなのか? この物語を書いた者が本当にいるのか、それは大イビカン
なのか? 大イビカンとはいったい何者だろう?
 この物語を辿るのは、地面に立てられた千万尺の竿のてっぺんから、
一歩を踏み出そうとするようなもので、まったくの愚行と思われた。
 しかしそのとき、頭上の十二脚鳥がひと声啼いた。松明に火を灯す音に似ていた。
「かならずそこに書いてあることを自分よりも大事に思うこと」
 その言葉を思い出し、私はため息をつき、ふたたび道を辿り始めた。
 ここはもう森ではなく、一つの物語のなかだった。その中で、私は自分の
役目を知らない。他の全ての人々と同じように、しかしもっと極端に。

220噂話1:2007/07/15(日) 21:35:58
知ってる?
夜のデパートにはね、「もともとくん」が出るんだって。
「もともとくん」は昔そのデパートの階段から転がり落ちて死んじゃった子供の霊
なんだけどね、彼は死の直前、覚えたての「もともと」って言葉をしきりに使ってたらしいのね。
それで、「もともとくん」って呼ばれてるわけ。
元来、って意味の「元々」なのか、それとも何かの固有名詞なのか、それは今となってはわからない。
何でかって言うと、その後相次いでその子の両親が自殺しちゃったから。
ちょっと目を離した隙に子供が死んじゃうんだもの。無理もないっていえば、無理も無いよね。
で、それ以来、そのデパートの階段を使うと「もともとくん」がやってくるの。
で、「もともとくん」にね、もともと、もともと、ってささやかれるとね。
その人は、デパートの中で



「って、何それ。そこで止まんないで頼むから」
「え、いや、そこまでだけどこの話」
オチ無しかよ、とか突っ込もうとして私は断念した。
何故って、奴はもう既に他の友達の所にこのエセ怪談話を広めに行っていたからだ。
全く。この年になって、なにをアホくさい。
そう思いつつも、私は微かな違和感を胸に覚えていた。
友人が言っていたデパートの話は確か実話だ。数年前あるデパートで起きた転落事故。
小さい子供だったからちょっとしたニュースになった。
そして確かそのデパートは、

「近所じゃない・・・!」
ふと、ぞっとしたものを感じた。
「もともとくん」
その間抜けな響きが、ひどくおぞましい感じがしたのだ。

221噂話2:2007/07/15(日) 23:13:18
「晩節」
そうとだけ、そのメールには打たれていた。
みしみしと鳴る、床。
はぁはぁあ、と荒い息と、ねえ、ねえ、と



私は友人たちと一緒に買い物に来ていた筈だった。
だったのに。
世界の認識が出来ない。描写が出来ない。ここは何処だろう。どこなのだろう。
怖い。何も見えない。見えてるのに見えない。
デパートの、白い壁が。陳列された商品が。
みんな。
みんなみんな、真っ白。
無い。ないないない。友達がいない。ものがない。場所が無い。
白じゃない。これは真っ白だけど、白じゃない。
光。まわり全部が光ってて、何も見えない。ううん。
全部が見えて、見えすぎて認識できない。
なにこれ、なにこれ、なんなのこれ。
後ろで、後ろで、見えないのが、なにか

222噂話2:2007/07/16(月) 00:34:22
がさがざ、がざがさ・・・・

風が舞い、青葉が揺れる。
強めの風は木の枝をしならせる程度だけれど、振幅は自宅の窓に触れて音を鳴らす丁度良い長さ。
ざわざわかさかさと、古い窓をがたがたと揺らし、その夜、私は不気味さに必死に耐えながら布団に包まっていた。
自室は対して広くも無い六畳程度の二階部屋。中学に上がった時から三年ほどの付き合いになるけど、
上京した姉のお下がりという事もあって大分古びて汚れも目立つ。
壁のシミが顔に見えたりして怖かったり、隣の弟が延々と怖いゲームとかやってるBGMがうす壁越しに聞こえてきたりして、
あんまり好きな部屋ではない。
なにより、薄っぺらな窓をぶち壊して誰かが入ってきそうで怖いのだ。
おあつらえ向きの、上りやすそうな木まで伸びている。
特にこんな、風の強い夜は。

だって、風の音と、一緒に。
がさがざ、がざがさ、
がざ、がざ、がざがざがざがざがざがざがざ・・・・・・
羽音が、虫が、羽虫が密集して蠢いているかのような音がするのだから。

223竜と竜と白の巫女:2007/07/18(水) 00:40:22
2・6 (続き)

理解していた事ではあるけれども、改めて言われるとやはりショックではある。
界竜とは竜神信教における最高神であり、界竜の巫女として彼女に求められているのは
界竜との交信である。
自分は己が未熟ゆえにその責務を果たせていないのだ。
生来が生真面目な性質である。
土竜ははっきり言い過ぎたか、と労わるかのように声色を和らげ語りかける。
「まあ、なんじゃ。 そんなに思いつめる事でもなかろ。 お前さんはまだ若いし・・・・・・」
「違うのです」
「何?」
「己の未熟を嘆いているわけではありません・・・・・・いえ、無論それも憂慮するべき
ことではありますが、それよりも私は」
己の弱さから逃げ道を求めてしまった事を悔いているのです。巫女は言う。
「自分の未熟さから大御主との交信を行えていない事実に気づいていながら、
できないのは神の不在ゆえだ、などと・・・・・・。 不信心どころではありません、
責任の所在を他に求めて駄々を捏ねる子供のすることです」
ふむ、と竜は髭を器用に曲げ、「腕を組んで」見せ、それで? と視線で促す。
「目の前の苦境から目を逸らすこの私の弱所があればこそ、大御主も私と意思を
交わして下さらぬのでしょう。 これも現世的肉体的な強さにばかり縋り、下らぬ疑心など
抱いた私の・・・・・・」
「いや、違うじゃろ、そりゃ」
俯き加減に訥々と語る界竜の巫女。その自省とも自責ともつかない言葉にからりと言葉を割り込ませる竜。
見上げ、問う視線は暗色から懐疑の灰へ。片眉をひそめる巫女に呆れたかのような溜息を混じり混じり言う竜である。
「あのな、まず前提が間違っとる。
なんで神がおぬしみたいな小娘が努力したくらいでいちいち反応せにゃならんのだ」
「は? いえ、ですから私は竜神信教の巫女として、大御主と交信する能力を見出されて、」
「その「竜神信教の巫女」とやらだと、いと尊き界竜はわざわざ下界まで下ってきてお言葉を垂れてくれるわけか?
根拠は? 言質はとったんか? あったとして、そりゃ本当か? そもそも当の本人はお前さんたちのことを知っとるんか?」
言葉に詰まる。
竜神信教にいくつかある教典・・・・・・例えば「日策連日」などには大御主たる界竜ファーゾナーと
最古の巫女との対話が完全な形で記されている。その中に界竜からの世界へ、ひいては人間への
祝福と繁栄の約束も含まれて入るのだが、その内実の大半が最近になって編纂された際に
大幅に捏造・修正されたものだというのは暗黙の了解となっている。
界竜の巫女は口からとっさに出そうとした反論を無理やり押し止めた。
ここで何かを言い出すことは、逆に自らの信仰を決定的に破壊することに繋がってしまうような、
そんな気がしたのである。

「ま、それもこれもワシの知った事じゃないだがなぁ。
実際のところは正しく、神のみぞ知るってもんだろうが」
「貴方も、曲がりなりには神なのでしょう?」
「【曲がり神】じゃ。さっきも言ったが、神ではないよ。どうも、お前さんワシの言った事を勘違いしとらんか?
ワシはお前さんに巫女の中で唯一の偽者と言ったがな、ありゃあ・・・・・・」
そのとき、音も無く土竜は消失した。余りにもあっけなく、脈絡なくその姿がかき消えたので、
界竜の巫女はひょっとして今のは自分の夢か妄想であったのではと疑ったほどである。
が、ほどなくその理由が知れる。
「一位様、一位様、おられますかっ」
やや幼さを残す耳に新しいその声は、彼女が日中世話をしていた巫女。
「四位。 どうしたのですか、こんな夜更けに」
「大変なんですっ!」
血相を変えて、否、面を蒼白にして駆け寄る威力竜の巫女の様子は尋常ではない。
界竜の巫女は先ほどまでの不可思議な出来事を思考から切り離した。一切の余分が
邪魔になるようなことが起きる。
どうしようもなく悪い事があると、彼女はそれを直前に感じ取ってしまうことがたびたびあった。
巫女特有の霊感のようなものだと彼女は思っているが、口の悪い第五位、龍帝の巫女などには
「野生の勘だろう」などと評価される。
界竜の巫女は後輩をまず落ち着かせようと肩に手をかけた。正確な報告がなくては、
正確な状況把握は望めない。
が、威力竜の巫女が次いで放った言葉は界竜の巫女の冷静さを失わせるに十分なものであり、
「ゼオーティア教徒の方々が、門前に集まって抗議運動を・・・・・・」
彼女が問い返そうとしたその時、神殿の反対側で無数の群集たちの怒声が轟いたのである。

224人形の夜:2007/07/24(火) 19:22:19
 むかしむかし、ある所に大きなお屋敷がありました。具体的に言うとアルセミアの郊外です。そこには一人のおじいさんが住んでいました。よくあるパターンで、事業に成功してお金を溜め込んだものの、会社を次の世代に引き継いだあとは何をすればいいかわからなくなって引きこもっているという人でした。お金なってあってもなくても同じだとそのおじいさんは悟りました。私はお金欲しいけど。
 で、結局暇なことに変わりはないので、そのおじいさんはやっぱりセオリーどおりに不穏なことに手を出し始めてしまいました。世の中ってのは単純さとワンパターンが横行している面白い場所ですねえ。善良な人ほど、くっら〜〜〜〜いものに惹き込まれる。
 おじいさんはいわゆる黒魔術に手を染め始めました。外国へ旅行に行ったとき手当たりしだいに面白そうな人を呼び集めたら黒魔術師が混じっていたそうです。秘術を使う者ならそんなとこにひょいひょい出て行くなよっていいたくもなりますね。
 彼が専門としていたのは人形に命を吹き込む術でした。希少な材料を使って人形に命を持たせて、更に希少な材料を使って自分の思い通りに教育したり、もっとありていに言うと洗脳して悪いことをさせちゃったりします。「命」っていうのはとても特別なものだから、そう簡単にはうまくいかないらしいけど。
 で、ここまでで勘のいい人はわかったと思うけど、私がその人形なわけなのです。体長三十センチ。女の子をかたどった、まあ、なんかアンティークな感じの人形。昔はゴスロリっぽいっていうか、ぶりっ子っぽい服装着せられてすげー嫌だったんだけど、今はもっと普通のワンピースとか着てます。今の保護者が変な奴で、男の癖に裁縫とか好きなの。コスプレ好きってのとも違うみたいだし、ただ単に指をちまちま動かすのが好きみたいです。
 「今」の保護者ってつけたのからもわかるように、最初話したおじーさんは死にました。私が殺した。黒魔術師が私の身体に仕込んだ256の秘術をフルに活用して、魔術師ともども塵になるまでぶっ潰してやった。今でもあの二人を殺したことだけは後悔していません。あの二人が私や、他の人にしてきた事は、とてもじゃないけど私には許せることじゃなかった。

       ○

 暑い夏の、月の綺麗な晩だった。冷蔵庫に何もなかったので、菓子パンでも買おうかと近所のコンビニへ向かっていたら、道端に人形が落ちているのを見つけた。古ぼけた人形だった。女の子をかたどった姿で、着ている服はピンク色で華やか。洋風の豪華な部屋にでも飾ってありそうなアンティークな感じだったけれど、どこか愛嬌があった。かなりぼろぼろになっていて、体のあちこちから綿がはみ出ていた。昔から指先を動かす作業は好きだったので、ひとつ直してやろうかと思って家へ持ち帰った。
 一旦家に人形を置いてから改めてコンビニへ行ったのだけれど、帰ってくると家の中の物の配置が変わっているような気がした。本棚の本の並びが入れ替わっていたり、閉じていたはずの鞄が開いていたり。それでもそのときは特に気に留めなかった。俺は早速人形の修繕に取り掛かった。
 まず服を脱がせ、風呂場の洗面器の中でごしごしと洗う。心なしか布の肌色が赤みがかった気がしたけれど、単に濡れたせいだと考えた。ついでに服もあらう。こういうとき布製の人形は便利だ。何の気兼ねもなくごしごしとやることが出来る。服は洗濯ばさみでハンガーに止めて、人形本体のほうはどうするか少し考えてから身体に紐を結わえて物干しに吊るした。とりあえず破れた部分は乾いてから縫うことに決めて、その日は寝ることにした。
 夜。物音に気付いて目を覚ますと、目の前にナイフの刃が白く

225ユラギユラメキ(0)-1:2007/08/26(日) 21:27:17

 大きな丸い陽が西の地平に沈んで行く時刻。
独特の静けさを漂わせている書物に溢れた部屋で、年老いた男がゆっくりと歩き回っている。
少し引きずるような足音と、時折聞こえる彼の咳だけが、静寂を少しだけ揺らめかせていた。老人の視線は何処に定められているわけでもなくうろうろと彷徨い、几帳面に整理された本棚を泳いでは、すぐに別の場所へと移動する。そのくり返しの後に、ふとドアを見た。がちゃり、とドアが開き、長身の女性が入ってきたのと同時だった。
 彼女は強い西日を浴びて目を覆う。すぐに老人の姿に気づき、驚きと呆れが混じったような声で名前を呼びかけた。
「アレさん、どうしたんですかこんな時間まで」
 老人が何か答えるよりも早く、さらに続ける。
「まぁ、いつもの事ですから、理由は分かってますし別に怒りもしません。ですけどね、ここは一般開架閲覧室じゃないんですから、大切な資料が満載なんです。セラテリスなんかが持ち出した事件もありますし、あまり長く開けてはおきたくないんですよ」
「分かっとるよ。レーヴェヤーナ、お前はこの頃やけにイライラしておるようじゃな。体に悪いぞ、もっと余裕を持ちなさい」
「だーかーらー、アレさんが毎日こうして書庫の利用時間を過ぎてここにいるから、私の精神疲労が溜まりに溜まりまくって……」
 のんびりした口調のアレとは対照的に、早口でまくし立てるレーヴェヤーナの声がふっと途切れた。後ろでまとめた短い紫の髪に触れて、申し訳なさそうに頬を染める。
「すいません。私、やっぱり疲れてるみたいですね」
「謝ることじゃない。ワシはただあの子を待ってるだけじゃが、お前にとってははた迷惑限りない。それは分かってるつもりじゃ」
「それが分かってんなら……」
 彼女はまたしても頬を染めて口を閉じた。閉じたというよりは、抑えつけたという表現のほうが正しいかもしれない。
 アレは笑って、窓際に寄った。目を細めてオレンジの街を見下ろした。
「あの子は天真爛漫、勝手に育っていくとは思っとるが、一応ワシが責任を持って育てねばならないからの。何日も顔を見ないと不安になって、ここで気晴らしをしたくなる」
「アルセス君なら心配いりませんよ。彼はもう自らがどういう存在なのか十分理解しているでしょうし、限度というものもわきまえています。年頃ですから、こんな狭い街、彼にとっては狭すぎるんですよ」
「そうじゃろうな。今は確かに、様々なものに触れて刺激を受けた方が良い。それは分かっとる。じゃがのう……」
 アレはそこでいったん区切り、涙を潤ませた、少々オーバーな作り顔でレーヴェヤーナを見つめた。
「暇なんじゃよ。ワシの暇つぶしになる本はここにしか置いとらんし、ワシの話し相手になるのもレーヴェヤーナくらいしかおらん。分かるじゃろ?」
 レーヴェヤーナは一瞬、この老人を自分が酷く傷つけてしまった、と反省した。が、その隙をついて彼女の胸に接近してきた皺だらけの手に気づき、即座に頭の中で撤回した。
「分かりました。そこまで言うなら、一冊本をお貸しします。本当は禁帯出なんですけど、アレさんに毎日書庫に来られるよりはマシですから。では、そういうことで」
 彼女は自然な動作で老人から離れ、一番分厚くて難解な本を手に取ると、彼女の胸を触ろうとしたその手に乗せた。片手では到底持てないだろう重さであることは容易に想像できたが、アレは平気な顔で、むしろ嬉しそうにその本を片手で持ち眺めていた。
「すまんの。無理な願いを聞いてもらって」
「……どうせいくら断っても粘られるのは目に見えてましたから、問題はありません」
 レーヴェヤーナは引きつった笑顔で答えた。
老人は目を細め小さく笑うと、再度窓の外に視線を移す。

226ユラギユラメキ(0)-1:2007/08/26(日) 21:28:43
「しかし、いつまで続くと思う? レーヴェヤーナ」
 一瞬、その意味するところを解しかねたレーヴェヤーナであったが、これまでの事象からアレが言わんとしていることを理解し、即座に返答を用意した。
「それは、彼次第でしょう。確かにショックは大きいでしょうけど、それは彼に限らず誰でも一緒です。そこからいかに立ち直るか、私達はしっかり見届けなければならないと思います」
「ふむ。まるでテストの模範解答のようじゃな」
 彼の表情は読み取れなかったが、その声から皮肉めいたものをレーヴェヤーナは感じた。
「時には模範解答も役に立ちます」
「お前はもう少し自分を出すということを学んだ方が良い。お前なりの優しさが、誰かを傷つけていることもある」
「……心に留めておきます」
 レーヴェヤーナは言いながら、いつになく近寄りがたいアレの独特な雰囲気を肌で感じていた。
これが古き神を統べる者のオーラなのかしら。彼女は黙って、側にあった本の整理を始める。
「ところでレーヴェヤーナ」
「はい?」
 先ほどまで窓際にいたと思った老人の声がすぐ耳元で聞こえたので、彼女は驚いて振り向いた。
と、そこに伸びた皺だらけの手を彼女がひねり上げるのと、老人がもう一方の手を彼女の胸に伸ばすのは同時だった。

続く

227言理の妖精語りて曰く、:2007/08/26(日) 21:29:25
あ、↑は(0)-2でした

228カーズガンの憤怒(表)(1):2007/08/29(水) 00:53:21
 戦に負け、燃え上がる己が集落において、カーズガンが自らの幕舎で見たのは信じられない光景だった。
 剣を手に立つ男と、その足元に転がる二つの血塗れの死体。
「ハル……バンデフ?」
 彼は男に声をかける。
 ゆっくりと振り返ったその顔は、すっかり大人びた顔になっていたが、彼の知る幼馴染の面影を残した顔だった。
 そして、その足元に転がる女の死体は……
「……!!」
 その顔を見て、彼は驚きに大きく目を見開き、そして思わず言葉を失った。
 男の足元に転がる半裸の死体は、彼の最愛の妻だった。
 乳房の下から大量に流れ出た血と、半開きの唇から流れ出た血は、彼女の死という事実が最早変えられないことを示していた。
「どうして……どうしてなんだ!」
 カーズガンは男、ハルバンデフに叫ぶようにして言う。
 愛していたから知っていた、妻の心が本当は自分に無いことを……かつての許婚であるハルバンデフにあることを。
 幾年の時間を経ようと、幾度身体を重ねようと、それが変わらないことを彼には分かっていた。
 それを示すかのように何年夫婦を続けようと、彼女の身体がそれを拒んでいるかのように二人の間には子供は産まれなかった。
 だから、もしハルバンデフが自分の妻を迎えに来たのならば、その時は彼女が選ぶのならば自らは潔く身を引こうとまで考えていた。
 なのに……
「何故だ、何故殺した、ハルバンデフ!」
 その最愛の女性を、他人の妻になっても一人の男を愛し続けた女を、愛されたハルバンデフは殺してしまったのだ。
「答えろ、ハルバンデフ!、何故殺した!」
 全ての感情をぶつけるようにして、涙を流しながらカーズガンはハルバンデフに問いかける。
 だがハルバンデフは答えない。
 無表情の顔と、無感情の眼、そして唇には沈黙。
「彼女は……」
 ……彼女はお前を愛していたんだぞ!
 それをカーズガンは言葉に出来ない。だが、ハルバンデフには分かっているはずだと彼は思っていた。だから、そんなハルバンデフを見て、カーズガンは込上げた怒りを抑えることが出来なかった。
 気付けば、カーズガンは腰の剣を鞘から抜いてハルバンデフに斬りかかっていた。
 ハルバンデフはそれを剣で受け止めたが、その一撃は痺れのあまりに剣を落してしまいそうな程に重い一撃だった。
 しかし、カーズガンは己の剣も折れよとばかりに、力任せの斬撃を次から次へと繰り出した。
「答えろ!何故だ!、何故だ!、何故殺した!」
 斬りつけながら問いかけるカーズガン。しかし、ハルバンデフは無言のまま彼の斬撃を受け止めるばかりだ。

229カーズガンの憤怒(表)(2):2007/08/29(水) 00:54:02
 いや、「違う……」とハルバンデフはカーズガンの問いに答えたのかもしれない。だが、例えそうであったとしても憤怒の感情に支配されたカーズガンの耳には届くはずは無い。
 幾度も交わされる剣戟の金属音は周囲に響き渡り、やがてそれは当然敵兵の聞くところとなった。
「誰かいるのか?」
 幕舎を覗き込んだ敵兵に気付き、それを斬り伏せるカーズガン。
 その剣威はハルバンデフだからこそ受け止められたのであって、ただの一兵士には受け止めることはおろかかわす事すら出来なかった。
 真っ二つになる肉体と、飛び散る血飛沫。
 その血飛沫を頭から浴び、まるで悪鬼のような姿になってカーズガンはハルバンデフを振り返った。
 肩膝をつき、肩で息をするハルバンデフに彼は言う。
「今は生かしてやる、ハルバンデフ。だが、次はその首を必ず貰う!。必ずだ!。お前は俺が必ず殺す!」
 そう言うと彼は幕舎を走り出る。
 案の定、幕舎は敵兵に囲まれていた。
 だが、彼はそれらを斬り、砕き、潰し、そして走った。
 一人斬り、二人砕き、三人潰しと殺戮に手を染めながら、彼は自分の心が殺意と怒りと、そして悲しみに塗りつぶされていくのを感じた。
 それは、もう自分でも抑えることが出来ない衝動だった。
 
 
 どこをどのようにして逃げ延びたのだろう。
 気付けば、彼は自らの部族の敗残兵に合流していた。
「カーズガン様、カフラは……我らが部族は……」
「……分かっている」
 彼はそう答えて唇を噛んだ。
 自らの部族が滅ぼされた。それは悲しいことだが、戦国時代にあり、弱肉強食の草の民の世界においては仕方ないと心のどこかで諦めることができたことかもしれない。
 だが……彼には許せなかった、最愛の女性を不幸なまま死に至らしめた世界が、そしてその彼女を受け入れずに逆に死に至らしめたかつての幼馴染が。
「ハルバンデフ!」
 噛んだ唇からは血が滲み出て、顎を伝って地に落ちた。
 それは抑え切れない殺意と怒りと、そして決して癒されることの無い悲しみの具現化だった。
「お前だけは許さない!。例え、この身を悪鬼に堕とそうとも、世界全てから罵られようと、必ず殺す!」
 遠くに燃え盛る、かつての自分の集落を眺めながらカーズガンは呟いた。
 
 
 それが長きに亘る、二人の戦争の始まりだった。

230オーリェントでのこと(1/2):2007/09/03(月) 00:36:47
 昔、オーリェント(東の国のこと)にはイェル族とイス族とがいた。イェル族は
平和を重んじる穏健な部族、イス族は名誉を重んじる勇猛な部族だったが、
このふたつの部族はお互いに相争うことなく、互いを尊重していた。めったに
ないことだったが、ふたつの部族の間で結婚する男女がいると、それは両方
の部族でめでたいこととされ、合同で婚姻の儀式をとりおこなうならわしだった。
 イェル族にフィリスという娘がいた。あるとき、フィリスは彼女の兄であるサレ
ムを殺せという彼らの神である主の宣託を受けた。フィリスはそのようにした。
そこで、彼女の恋人でありサレムの友であったイス族のラエルは激しく怒り、
彼女を問いただした。そのおぞましい肉親殺しが主の考えによるものだと知る
と、イス族であるラエルは嘆いた。そこで暗い夜の空の悪霊たちが彼にささや
くと、ラエルはそれを信じ、主を信じるのをやめた。ラエルは自らの部族のもと
へ帰り、イェル族のフィリスが兄サレムを殺したことを言いふらして、悪霊たち
を褒め称え、激しく主をののしった。部族の半分のものがラエルに従って主を
信じるのをやめ、半分は悪霊たちを信じて主をののしる彼らを憎んだ。そこで
彼らは殺し合い、全滅した。怒りのあまり強き霊となったラエルは、自分にささ
やいた悪霊たちに従い、部族の死んだ霊たちに呼びかけ、全員が悪霊たちの
仲間となった。イスの霊たちは、自分たちに破滅をもたらしたイェル族とフィリス
を憎み、それを滅ぼし、イェルという部族の名とオーリェントの土地を呪った。

231オーリェントでのこと(2/2):2007/09/03(月) 00:37:55
 そこでイェルのものたちは諸世界をさまよう霊となってオーリェントを去った。
そこで彼らは今ではたんに流浪の霊たちと呼ばれる。流浪の霊たちは彼らの
主を信じ、主の考えによって流されたサレムの血がやがてオーリェントを祝福
して、自分たちはふたたびイェル族となってオーリェントに戻れると信じた。そ
こで彼らは今では、オーリェントの土地のことをイェルサレムと呼んでいる。
 イスの霊たちは、悪霊たちに従ってオーリェントの地から飛び去り、暗い夜の
空のはるかなむこうに去っていった。ラエルは悪霊たちによって、部族を束ねる
イスラエルという新しい名前を与えられ、またかつてのイスの部族であった霊た
ちはラエリアン、つまりラエルを信じるものたちと呼ばれるようになった。
 フィリスとその家のものは、フィリスのおこないによってイスのものたちから
憎まれ、追いやられた。彼らをあわれんだパンゲオンの国のラヴァエヤナは
フィリスの家のものたちを自分の館に呼び込んだ。そこでフィリスの家のもの
たちは流浪をやめたので、パンゲオンの国のものたちはフィリスの家のもの
たちをイェルの人びとと呼んだ。
フィリスは流浪の霊たちとイスの霊たちの両方にあまりにも強く呪われていた
ので、ラヴァエヤナは彼女を館に入れることを拒んだ。フィリスは嘆き、パンゲ
オンの国のものたちにその悲しみをささやきかけた。彼女がパンゲオンの国の
ものたちにイェル・ア・フィリスとして知られているのはそのためである。
 パンゲオンの国のものたちは、ラヴァエヤナの館に入ったイェルの霊たちか
らオーリェントでのことを聞き、悪霊たちのあまりに強く激しいのを恐れたので、
パンゲオンの国では悪霊たちはイスの大いなる種族と呼ばれる。

232カーズガンの憤怒(裏)(3):2007/09/09(日) 03:24:49
 君が好きだった。
 君の笑顔が好きだった。
 君の怒った顔が好きだった。
 君の泣いた顔が好きだった。
 君とカーズガンと三人で馬を走らせるのが好きだった。
 僕とカーズガンとでわざと意地悪をして、二人で先に馬を走らせて、君が僕らに必死に着いてくる姿を見るのが好きだった。
 君の声が好きだった。
 君の笑った声が好きだった。
 君の怒った声が好きだった。
 君の泣いた声が好きだった。
 君と一緒に居るのが好きだった。
 君とカーズガンとで三人、たわいも無い話に興じるのが好きだった。
 僕は君を愛していた。
 だというのに……
 
 
 幕舎の中、ハルバンデフは足元に転がる二つの死体を見つめていた。
 ……僕は……
 その目は大きく見開かれ、冷や汗が額を伝って落ちる。
 血塗れの剣を握っているその手は震え、口の中がカラカラだった。
 幕舎の外からは悲鳴と、人馬の嘶き、そして集落が燃える音がしていた。
 ……僕は……殺してしまった……
 今更込上げてきた罪悪感に、彼は思わず一歩後ずさる。許されるのならばこの場から走ってどこまでも逃げてしまいたかった。
 ……僕は、取り返しのつかないことをしてしまった……
 どうしてこんなことになってしまったんだろう?、とハルバンデフは考える。
 自分が悪いのは分かっている。でも……
 ハルバンデフの頭の中で、つい半時間前の出来事が思い起こされた。

233カーズガンの憤怒(裏)(4):2007/09/09(日) 03:25:30
 「カフラの集落が燃えているだと!?」
 ハルバンデフは怒鳴るようにして物見の兵に聞いた。
「馬鹿な、集落は占領するだけで手をつけない段取りだったはずだぞ!」
 戦闘前の会議では、ハルバンデフ率いる寡兵がカフラの主力を引き付け、その間に主力部隊がカフラの集落を襲撃してこれを占領し、主力軍の背後を絶ち、あわよくば降伏勧告を行い彼らを降伏させるという手はずになっていた。
 この数年の戦争による勢力拡大によって既にその力は凌駕したとはいえ、カフラは依然として強大な、そして豊かな部族だ。これを滅ぼすのではなく、取り込んだのならば草原の制覇も容易になる、というのがハルバンデフの主張だった。
「はい。しかし、実際にカフラの集落では略奪が始まっておりまして……」
 物見の兵の言葉に、「誰だ!、命令を出したのは!?」とハルバンデフは声を荒げて言う。
「はぁ……族長様、貴方のお兄様です」
「馬鹿な!!」
 ハルバンデフは絶句した。
 決して兄は族長として愚鈍な人間ではない。むしろ戦略というものぐらいは分かっている人間のはずだった。
「しかし、事実です」
「もう、良い!」
 ハルバンデフは物見の兵から踵を返し、自分の愛馬に跨った。
「閣下、どちらへ参るのですか?」
 その姿を見て、副官が慌てたように言う。
 「カフラの集落だ」とハルバンデフは答えた。
「兄にその真意を問いただす。そして、馬鹿げた行為を止めていただく」
「しかし……」
「私が戻るまで勝手に兵は動かすな。もし戦闘になったのなら防戦に徹しろ。まともに戦えばすぐに蹴散らされるぞ。なにせ敵将は……」
 カーズガン
 彼はその名前を思い出す。今は敵味方に分かれているが、かっては友、いやまるで血を分けた兄弟のように仲が良かった男。その実力を彼は知っている。彼に戦い方を教えてくれたのはカーズガンなのだ。
「では、せめて護衛を……」
「不要だ」
 そう言うと彼は愛馬を走らせた。
 愛馬は彼の意思を汲んだかのごとく、疾風のように草原を疾走する。
 敵陣の脇を潜り抜け、やがて見覚えのある光景が彼の目の前に現れる。
 カフラの集落だ。
 幼い日、内乱で滅びかけた部族を救うために彼が人質に出された場所。
 決して良い思い出ばかりがそこにあったわけではなかったが、悪い思い出ばかりでもなかった。
 少なくとも人質であるはずの彼を、カフラの部族は仲間として受け入れてくれたのだから。
 だが、そのカフラの集落は今正に灰燼に帰そうとしていた。
 集落のあちこちからは既に煙があがっていたのだ。
「兄上、貴方は……」
 嘘だと信じたかったが、物見の兵の言葉は本当だったのだ。
 彼は唇を噛み、カフラの集落へと愛馬を走らせた。

234カーズガンの憤怒(裏)(5):2007/09/09(日) 03:27:04
 集落の中では既に略奪と放火、そして殺戮が始まっていた。
 別に草の民の戦争において珍しい光景ではない。おそらく他国の戦争においても珍しい光景ではないだろう。
 だが、ハルバンデフは目の前に繰り広げられる光景に愕然とした。
 ……燃える、燃える……カフラが燃える。
 燃えているのはカフラ族の集落だけではなかった。彼自身の記憶でもあった。
 カフラの集落が燃えることで、そこにある彼自身の幼い時分の記憶もまた燃えて灰燼に帰そうとしていたのだ。
 ……止めなければ
 ハルバンデフは騎手を返し、必死で兄の姿を探した。
 だが、兵達の中を探せど兄の姿は見つからない。
 疲れ果てたハルバンデフの前に現れたのは見覚えのある幕舎だった。
 カーズガンの幕舎だ。
 カーズガンがハルバンデフより二歳早く成人した時に与えられた幕舎で、彼はよくこの幕舎に遊びに来てはカーズガンと他愛の無い話や悪ふざけに興じていた。
 ……いや、俺とカーズガンだけじゃなかったな。
 彼は仲間達の顔を思い出す。
 ……いつだって、俺はここで一人じゃなかった……寂しくなかった……それはカーズガンと……
 彼は一人の少女の顔を思い出す。
 人質にばかりの時、一人孤独にしていた彼に声をかけてくれた少女……カーズガンと一緒にいつも彼の側にいてくれた少女……
 あの頃、彼は彼女が側に居る生活が当たり前だと信じて疑わなかった。
 だから、彼が成人した後に、故郷から祝いの言葉も迎えも来ない彼を部族の一員として認める意味で彼女が許婚として与えられた時もそれが当たり前のことであるようにしか感じられなかった。
 けれど婚礼を前にして突然故郷から迎えの使者が来て強引に引き裂かれてから彼は気付いた、自分は彼女のことが好きだったのだと……
 幕舎の中から人の呻く声がしたのはその時だった。
 ……まさか!?
 ハルバンデフは悪い予感に胸騒ぎがするのを感じて愛馬から降り、幕者の入り口をくぐる。
 そこにいたのは彼の兄である族長と、そして彼に組み伏され犯されている一人の女だった。
「族長、ここにおりましたか……」
「ハルバンデフか?」
 そう言って、族長は行為を中断し、上半身を起こす。
 その時、彼は見てしまった、族長の下にいる女の顔を。
「君は!?」
 間違いなかった。その女の顔には面影があった、幼い日から一緒だったあの少女の面影が……
 女は力なく顔を上げると、その視界に彼の姿を認めて、ハッと目を見開いた。
 彼女にも、彼が誰であるか分かったのだ。
「持ち場を離れて何の用だ?」
「族長、どのようなおつもりです?。カフラの集落を焼くとは。カフラは制圧して、敵の主力を挟み撃ちにするための拠点にするという段取りだったではありませんか」
「だから制圧しているではないか」
 そういう兄の言葉は間違えていない。
 草の民にとって制圧するとはそういう意味なのだ。
「しかし……」
 その時だった、ハルバンデフが兄の背後に忍び寄る女の姿に気付いたのは。
 女は、族長が腰にしていた剣の柄に手を伸ばしていた。
「族長!」
 慌てて彼は兄と女の間に割って入り、兄を庇う。
 だが、女は兄の剣をその鞘から抜いていた。
 女は暫くハルバンデフの顔を見ていたが、やがて声にならない声で何かを呟くと、その顔に笑顔を浮かべ、そしてその剣で自分の胸を突いた。

235カーズガンの憤怒(裏)(6):2007/09/09(日) 03:28:27
「……!!」
 今度は声にならない声を上げるのは彼の番だった。
 彼はその場に座り込み、這うようにして女の側に寄った。
 女は既に絶命していた。
 その顔には絶望も悲嘆もなければ、苦悩もない。ただ静かな安堵と微笑みがあるだけだった。
 まるで身体の中で何かが砕け散ったような痛みが、彼の胸を苛む。
 それは涙を流したくても流せないほどの痛みだった。
「族長、いや兄上、貴方はこのカフラをどうしたいのです?」
 静かに肩を震わせながらハルバンデフは聞く。
「知れたことだ。滅ぼすんだよ、全てをな。お前がムルサクにそうしたようにカフラも滅ぼすのだ。そうすれば我々に逆らう部族は草の民にはいなくなる」
 兄は、脱いだ上着を着込みながら言った。
 彼の論理は、草の民としては間違えてはいなかった。
 力があるものが全てを手にし、力の無いものが全てを失う。それが草の民の論理だ。
 しかし……
「ふん、それにしてもカフラの女は貞操を守ると聞いていたが本当だったな」
 その言葉に、彼の中で何かが崩れた。
 ……こいつはラサだ
 悠然と幕舎を出ようとする兄の背中を見て、ハルバンデフは悟る。
 ……俺から全てを奪い、理不尽だけを押し付けるラサだ
 だが、そのラサに彼は今日の今日まで従ってきた。
 自分の故郷はラサだと、自分はラサだと信じてきたからだ。
 だから理不尽な命令にも従い、それらをこなし、全てに耐えてきた。
 だが、それは間違いだったことをハルバンデフは悟った。
 ……俺は、ラサではない……カフラでもない……俺は……全てを取り上げられた生きる屍だ……そして、そういう風にこいつらにされたんだ。
 だからハルバンデフには迷いは無かった。
 彼は内なる何かにその身体を捧げ出すようにしてとり憑かせ、そしてその感情と衝動の赴くままに兄に斬り付けた。
 何度も、何度も、彼はその剣の刃を兄の身体にめり込ませ、兄が息絶えても尚、何度も切り刻んだ。
 途中、兄は彼の名前を呼んだのかもしれない。だが、その声はハルバンデフの耳には既にして届かなかった。
 彼は、まるで淡々と作業をこなすかのように兄を斬って、砕いて、そして壊し続けた。
 彼が我に返ったのは、幾度目かの返り血を浴び、兄が血塗れの肉片と化したのに気付いた時だった。
「族長?」
 返事は無い。
 ……僕は……何をしたんだ……何をしてしまったんだ?
 肩で息をしながら彼は呆然と目の前の肉の塊を見下ろす。
 ……僕は……族長を殺してしまった?
 その時になって初めて、彼は自分の罪に気付いた。
 ……僕は、彼女を守れなかったばかりか、取り返しのつかないことをしてしまった!
 呆然と立ち上がる彼の背後で誰かが幕舎の入り口を開けた。

236カーズガンの憤怒(裏)(7):2007/09/09(日) 03:29:11
「ハル……バンデフ?」
 その誰かの声にハルバンデフは力ない顔でゆっくりと振り返る。そこにいたのは、すっかり大人びた顔になっていたが、カーズガンに間違いなかった。
 ……あ、カーズガン?
 彼は、お互い敵同士になったことも忘れて、その身をカーズガンに委ねようとした。
 彼には必要だった、自分を受け止めてくれる誰かが。
「……!!」
 しかしカーズガンは見てしまった。彼の足元に転がる死体のうち、女の死体を。
「どうして……どうしてなんだ!」
 叫ぶように、そして責める様にしてカーズガンは彼を問い詰めた。
 ……あぁ、そうか
 ハルバンデフは今更思い出した。彼女は、今はカーズガンの妻だったのだ。
「何故だ、何故殺した、ハルバンデフ!」
 ……殺した?……誰を?……あぁ、そうだったな
 自分が殺したようなものだ、と彼は気付く。
 あの時兄を庇わなければ、あの時幕舎に入らなければ、あの時このカフラの集落に来ようとしなければ、あの時もっと別の作戦を立案していれば……
 後悔は山ほどある。
 けれど、確かなことは、自分が彼女を殺してしまったようなものだ、ということだった。
「答えろ、ハルバンデフ!、何故殺した!」
 ……答えられるわけないじゃないか
 彼は思う。
 どう言い訳したって、自分が彼女を殺してしまったようなものなのだ。それをどう詫びれば良いというのか?、どう懺悔すれば良いというのか?、どう後悔すれば良いというのか?、どう償えば良いというのか?
 どうやったって、何の罪も償えるわけは無いのだ。
 これから死ぬまで罪に怯えていくしか方法は無いのだ。
「彼女は……」
 そう言って、カーズガンは肩を震えさせて言葉に詰まる。
 ……彼女は?
 ハルバンデフは、そのカーズガンの言葉の続きが聞きたかった。
 だが、その言葉の続きを聞くことはなかった。
 突然カーズガンが彼に斬りつけて来たからだ。
 あわててハルバンデフはその斬撃を、兄を斬ったばかりのその剣で受け止める。
 それは重い斬撃だった、彼が幼い日にカーズガンから剣の稽古をしてもらった時に受けた剣撃より遥かに……
「ハルバンデフ!」
 カーズガンは幾度もその名前を叫びながら、彼に斬撃を加える。
 一撃受けただけで手は痺れ、受け止めた剣が折れてしまいそうな、それは思い斬撃だった。
 その一撃、一撃を受けながら「……あぁ、そうか」と彼は悟る。
 ……君は、こんなにまでカーズガンに愛されていたんだ……幸せだったんだ……
 自分の奪ってしまったもののあまりの重さに、そして罪の重さに涙が出そうだった。
 やがて、カーズガンの凄まじいまでの斬撃で剣に皹が入った音を聞いたとき、「……違わないよ、彼女を殺したのは僕だ。だから殺してくれ、カーズガン」と彼は呟いていた。
 ……殺してくれ、カーズガン……僕は取り返しのつかないことをしてしまった……僕は彼女が好きだった……幸せになって欲しかった……なのに、それどころか僕は彼女の命を奪ってしまった……だから僕を殺してくれ
 だが、彼に課された運命は、彼を命を終わりにはしてくれなかった。
「誰かいるのか?」
 兵士の一人が、そう言って幕舎に入ろうとしていたのだ。
 カーズガンは振り返ると、無言のままその兵士を真っ二つに斬った。
 思わず彼は肩膝をつき、肩で息をした。
「今は生かしてやる、ハルバンデフ。だが、次はその首を必ず貰う!。必ずだ!。お前は俺が必ず殺す!」
 その声に顔を上げると、そこには憤怒に彩られた、カーズガンの真っ赤に染まった顔があった。
 最早、その顔には兄弟以上に仲が良かった親友の顔はどこにも無かった。
 踵を返し、幕舎を後にするカーズガン、やがて幕舎の外からは、幾つもの剣戟と悲鳴、そして鉄が肉を切り裂く音が聞こえてきた。
 ハルバンデフは倒れている女の死体の元に這い寄り、「ごめん」と言って、その身体を抱いた。
「ごめん、ごめん、ごめん……」
 両の瞳から涙を溢れさせ、肩を震わせながら、彼はその言葉をかさかさになった唇の奥から搾り出す。
 ……君が好きだった……誰よりも好きだった……愛していた……なのに僕は君を守れなかった……それどころか……
 だが、今となってはどんな謝罪の言葉も彼女の耳には届かない。全ては手遅れになっていた。
 ……だから、僕は……
 そっと彼は、彼女の冷たくなった唇に自分の唇を重ねる。
 一瞬、懐かしい感触と思い出が彼の心を締め付けた。
 やがて彼は立ち上がり、そして側にあった燭台に火をつけて倒した。
 炎は幕舎に瞬く間に燃え広がり、全てを覆い尽くす。
 彼はそれを見届けると、幕舎を後にした。

237カーズガンの憤怒(裏)(8 完):2007/09/09(日) 03:30:11
 戦いはラサ族の勝利に終わった。
 その後ハルバンデフがカフラの部族を制圧していた部隊の副官を探し出し、すぐに兵達に略奪を止めさせ、カフラの主力部隊に攻撃を加えさせたからだ。
 自分たちの集落の陥落に浮き足立っていた、そして指揮官のいないカフラの主力部隊はあっけなく敗北した。
 戦いの勝利に酔う、ラサの兵士達が自分たちの族長の姿がないことに気付いたのは戦いが終わって暫くしてのことだった。
 捜索の後、焼け落ちた幕舎の一つから族長の証である金の腕輪をした焼死体が発見された。
 ハルバンデフはこれに「カーズガンによって殺された」と宣言したが、同じ幕舎からカーズガンが出てきた姿を何人もの兵士が目撃していたので、誰もこれを疑わなかった。そして、ハルバンデフは「族長の息子が成人するまで自分が代理として族長を務める」ことも宣言したが、今までの功績からこれに異を唱えるものはいなかった。
 戦いに勝利しながらも族長を失い、喜び半分、悲しみ半分の複雑な心情の兵達の姿を見て「滅ぼしてやる」とハルバンデフは密かに呟いていた。
 ……滅ぼしてやる、俺から全てを奪ったラサを……いや、草の民を……
 その為になら何でもしてやる、と彼は思った。
 手段は選ばないつもりだった。その方法が、ラサの族長になることなら、いや草の民の覇者となることなら、悪魔に魂を売ってでもそうしてやるつもりだった。
 ……頂点まで登らせて、そして深い、深い奈落へと、絶望の底へと突き落としてやる……
 それがハルバンデフの誓いであり、復讐だった。
 ふと、ハルバンデフがカフラの近くにある懐かしい丘陵に目をやると、そこには二人の少年と、そしてその後を付いてくる少女の姿があった。
 だが彼は知っていた、それは幻想だということを。
 その幻想は眩しく、彼がどんなに手を伸ばしても最早届かない幻想だった。(完)

238言理の妖精語りて曰く、:2007/11/15(木) 20:29:46
/*******************************
以下は関連のあるテキスト群です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/7039/1192801775/248
http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%a5%eb%a5%a6%a5%d5%a5%a7%a5%a6%a5%b9
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/7039/1179766218/l50
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 今は昔、納豆神に仕える1人の戦士がいた。この戦士は日夜納豆神のために技を磨いていたのだが、ある日、お告げを受けた。納豆神曰く「3匹の子猫を捕まえられたらお前の信仰心に報いて力を授けよう」
 こうして戦士は3匹の子猫を求めて旅立ち、間もなく発見できたのだが、戦士にとっては意外な問題が起きた。猫は納豆を苦手としたので子猫たちは逃げてしまった。もちろん戦士は追跡するのだが、子猫といえども幻獣王子と名高い猫の眷属に代わりはない。追って逃げられ、戦士と3匹の子猫は世界の果てまで行ってしまった。
 こうなると信仰篤い戦士も疲労困憊で一休みすることにした。休憩に食べるのはもちろん納豆なのだが、1人の魔法使いとその従者らしき竜によって邪魔をされてしまった。戦士は空腹も忘れて怒ったが、そこまでして食べようとするならば、納豆神の恩恵を分け与えるべきと考え、ともに食した。すると魔法使いと竜は感謝を表して一袋の薬を差し出した。これこそが猫を招き寄せる万能薬だった。
 こうして戦士は3匹の子猫を捕らえ、納豆神に報告をした。すると戦士の目前に一膳の納豆が現れた。この納豆を食すると戦士の喉が変化し、その声は敵には恐怖を、味方には勇気を喚起させるようになった。
 これこそが吶喊の戦士ルウフェウスの由縁話という。

239言理の妖精語りて曰く、:2007/11/16(金) 19:05:29
/******
縦スクロールSTG+『魔女の宅急便』のつもりが、『BLAME!』になってしまいました。
以下は関連するテキスト群です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/7039/1192801775/261
http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%a5%af%a5%ed%a5%a6%a5%b5%a1%bc%b2%c8
http://flicker.g.hatena.ne.jp/Niv-Mizzet/20070618
******/

 白い壁を登りながら私は左右を見た。どちらも壁が際限なく広がっている。下をみると白いものが広がっている。雲だ。私は任務のために部隊を率いて紀元槍を登っているところだった。
 任務は紀元槍の倒壊を防ぐことだ。紀元槍は天蓋を支える柱なので、もし倒壊したら、天蓋の墜落によって地上全域が粉砕されるだろう。まさしく世界の終わりだ。先行している兵士が私にハンドサインを送ってきた。『敵を発見、数は無数』
 私は望遠鏡をのぞく。視界に世界の終わりを招く者たちが映った。それを私たちは【蟻】と仮に呼ぶが、まさに外見は巨大な蟻そのものだった。しかしこの【蟻】は土にささやかな住まいを作るのでなく、紀元槍に大穴を穿ち、世界を危機に晒すものだ。私は兵士たちにハンドサインを送る。『総員、戦闘準備』
 上から液体が降ってくる。暖かい。雨でなくて血だ。先行した兵士がやられたせいで隊に動揺が広がる。動揺を収める間もなく若年兵が恐怖の混じりの怒号を上げて発砲を開始した。なんて馬鹿なことを! 【蟻】たちはこちらの存在に気づいて白壁を降りてくる。
 「指示に従え、火線を集中しろ、【蟻】を近づけるな。持ちこたえられたら勝ちだ」叫ぶがむなしくも兵士たちの統率はとれない。紀元槍の壁面だから逃走者が出ないのが幸運だが、蟻を倒さないと撤退できないから不運でもある。
 「なんて大群だ。あんな規模みたことがない!」と古参兵の叫びが聞こえた。白い巨壁を【蟻】は黒く染めながら侵攻してくる。どうやら大物の巣と遭遇してしまったらしい。なんて不運だ。
 嘆こうとしたとき、衝撃に背中を押されて壁にぶつかった。同時に上空が爆発した。【蟻】の死骸と紀元槍の破片が脇を落ちていった。上空をみると何か飛んでいる。それはインメルマンターンを決めて再び【蟻】にアプローチをかける。望遠鏡で確認する、それは青白灰色の航空迷彩をまとっていた。クロウサーだ!
 「クロウサーだ! クロウサーが来たぞ。総員、銃を構えて格好をつけろ。空飛ぶ奴らに壁に張り付くヤモリの意地をみせてやれ!」
 兵士たちに統率が戻る。火線の集中とクロウサーの援護によって【蟻】が後退を始める。クロウサーはバレルロールしながらサインを送ってくる。『これよりこの区域を爆撃する。撤退せよ』
 眼下を見やると光った。次の瞬間、すれ違い、衝撃波にあおられた。空をあおぐと航空迷彩をまとった空飛ぶ魔法使いの一群が編隊を組んでいた。私は兵士に撤退を命じる。

240言理の妖精語りて曰く、:2007/11/16(金) 19:12:17
>>239
http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%b5%c2%a4%ce%bb%d2
関連テキストの追加です。

241ある歴史書の一節からの引用:2007/11/17(土) 16:41:49
/*****
アルセスのキュトス殺害に関連させようとおもったのに完全に逸れてしまいました。
以下は関連テキスト群です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/7039/1192801775/269
http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%bf%c0%cc%c7%a4%dc%a4%b7%a4%ce%c9%f0%b6%f1
http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%a5%e1%a5%af%a5%bb%a5%c8
http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%a5%d6%a5%ea%a5%e5%a5%f3%a5%d2%a5%eb%a5%c7 http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%a5%bd%a5%eb%a5%c0%a1%a6%a5%b0%a5%e9%a5%e0 http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%b6%e4%a4%ce%ca%aa%b8%ec http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%a5%e1%a5%af%a5%bb%a5%c8%a4%c8%cb%e2%bd%f7
*****/
 ハイダルマリクの消滅によって中原一帯に権力の空白地帯が生まれた。それまでハイダルマリクつまりメクセト王の配下にあった諸王は自国を再編成し、これを終えた国々から順にかつてハイダルマリク跡地周辺の穀倉地帯への入植を開始した。この戦争こそが後の都市国家群戦争で、またこの勝利者こそが後生で二大祖国と呼ばれる都市国家なのだが、この小話では無数に存在する敗者の1人に焦点を当てたい。炎帝五天将の1人、”問い示す魔女”セレクティフィレクティへ。
 セレクティフィレクティは竜による治世をなすべく焔竜メルトバーズを王に擁立して焔竜大戦の開戦を宣言したが、都市国家連合を提唱した組織ブリュンヒルデと激突、ディーク・ノートゥング率いる第2支隊によって殺害された。ディーク・ノートゥング第2支隊とは現代において特殊部隊と呼ばれる存在で、戦力として星見の塔所属の魔女トミュニがいた。
 ブリュンヒルデ交戦記録においてはトミュニはセレクティフィレクティと戦闘後にMIA(作戦行動中行方不明)となるが、セレクティフィレクティの死亡は確認された。この戦闘と連携してブリュンヒルデは焔竜メルトバーズ討伐作戦を開始、松明の騎士ソルダ・グラムによって【氷血のコルセスカ】が発動され、焔竜メルトバーズは決して解けることの冷凍状態になった。
 なお、この戦闘で使用された【氷血のコルセスカ】は1032英雄の用いた神殺しの兵器で、焔竜大戦の遠因となったハイダルマリク消滅つまり天廊戦争の開戦者メクセト王の武具であった。歴史の皮肉といえるかもしれない。

242アルセス・アルセス:2007/11/19(月) 19:31:40
/*****
お題です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/7039/1192801775/375
以下は関連データ群です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/7039/1192888939/693
http://flicker.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%82%a2%e3%83%ab%e3%82%bb%e3%82%b9
http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%a5%a2%a5%eb%a5%bb%a5%b9
http://flicker.g.hatena.ne.jp/keyword/%e7%b4%80%e5%85%83%e6%a7%8d
http://poti.atbbs.jp/flicker/src/1193916035605.jpg
*****/

Earthesは紀元槍を必要とした。キュトスを殺害して以来、永遠にも近い歳月のあいだ、蘇生方法を探したが、紀元槍を使用することで可能と判った。なんと回り道をしたのかと呆れながらキュトスを蘇生させたのだが、成果が気に食わなかったので、もう一度キュトスを殺害した。
 どうやらこの紀元槍ではキュトスを復活させられないらしい。というわけで Earthesは紀元槍を手にすると世界を消去した。Earthesと紀元槍だけを残して真っ白になった。すべて空白になった。
 Earthesはおもった。さっきの世界の紀元槍は不適切だったが、次の世界の紀元槍はどうだろうか。
 消去されたときと同じ手軽さで世界は創造された。頭上に白い空があり、Earthesの足は白い大地を踏んでいた。そしてアルセスはこの世界の紀元槍を探した。
 平面のような大地に一本の棒が立っていた。これこそが紀元槍でEarthesは手に取ったのだが、途端に世界の端っこまで吹っ飛ばされた。
 どうやら何者かが罠を仕掛けたようだ。創造されたばかりの世界に誰がいるというのか。Earthesは誰何した。
 「槍持神へ手を出せるのは槍持神に他ならない。ぼくはAllcaseだ。Earthes、お前には紀元槍を渡さない。絶対にだ」
 Earthesは目を剥いた。槍持神と世界は対の存在とはいえ、再創造した世界にもうひとりの自分が出現するとは想像しなかった。
 「この世界は私の創造したものだ。だからこの世界は私のもので、お前の汚らしい手に握られた紀元槍も私のものだ。さあ、さっさと私に寄越せ」
 「断る。お前はキュトスをまた殺す。ぼくもキュトスがいたら必ず殺す。だからキュトスは造らせないし、造らない。彼女を殺したくない」
 「被造物が創造主に猪口才なことを!」とEarthesは世界を一足飛びでまたぐとAllcaseへ紀元槍で突いた。しかしこの一撃をAllcaseは左手から出した剣で止めた。
 Earthesは唇を歪める。世界の要素を抽出して建造したのか、道理で頑丈なはずだ。Allcaseの剣には世界を構成する元素の1つが刻み込まれていた。この剣を折るには世界を破壊するだけの力が必要だった。
 「Earthesよ、この世界にお前の居場所はない。立ち去れ。ここでお前の望みは叶えられない」
 Allcaseはそう宣言するとEarthesを突き飛ばし、そのすきに空へ紀元槍を投げ放った。
 空をあおいでAllcaseは「剣の雨が降る」
 Earthesは紀元槍を追って飛んだ。すると白い空が爆発した。Allcaseの紀元槍は保有する世界の要素すべて剣に変えて放出した。切っ先の輝きがEarthesの目を射た。
 この程度の攻撃どうってことないとEarthesは回避しようとしたが、1本の剣に目を留めると、自ら剣の雨へ突進した。
 Earthesは無数の剣に切り刻まれながら飛び、剣の一本に腕を伸ばした。
 「キュトス!」
 叫んだEarthesの胸をキュトスの刻み込まれた剣が貫く。
 剣の雨は降り続く。Earthesの死体もばらばらと大地に散った。白い世界がぽつぽつと赤く染まる。剣の雨は突き立って大地を墓標で埋め尽くした。やがて雨は止む。Allcaseは墓標を縫うようにして歩き、剣の突き立った胸像のようなEarthesの遺骸からキュトスの剣を抜いた。
 同時にEarthesは消滅した。Allcaseはキュトスの剣を手にしたまま、この空白を見つめ続けた。そして唇を強く結ぶとキュトスの剣を大地に埋めた。するとそこから芽が出て一本の樹木となった。Allcaseはこの木を抱き締めた。
 「暖かいよ、キュトス」
 Allcaseの頬は涙で濡れていた。

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sin again
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243魔法少女モアイVS魔法少女触手VS魔法少女狙撃手:2007/11/22(木) 18:45:14
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こちらはお題です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/7039/1192801775/411
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/7039/1192801775/412
以下のテキストは参考にしたものです。
http://flicker.g.hatena.ne.jp/keyword/%e9%ad%94%e6%b3%95%e5%b0%91%e5%a5%b3%e3%81%8d%e3%82%86%e3%82%89
http://wiki.livedoor.jp/flicker2/d/%b0%d1%b0%f7%b2%f1
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 目の前には高層ビルが建っている。ビルの足下から頂上を見上げると首が痛くなってしまうほど巨大だ。私は自動ドアをすり抜けてロビーに入る。ちょうどエレベーターが来たので乗り込む。中は私1人だ。私は最上階のボタンを押す。私の姿はハードシェルのトランクを持ったキャリアウーマンとロビーの受付嬢に見えたはずだが、最上階についたのは都市迷彩でカモフラージュされた狙撃兵だ。
 最上階は空調などの機器を配置されたエリアだった。私は民間人の偽装と長銃やマットを持ち込むのに使ったトランクを捨てる。任務の結果がどうなろうとこの世界には私は二度と足を踏み入れないだろう。遺棄しても問題ない。
 私は屋上への扉を開けた。突風にあおられる。雲を突くようなビルだけある。私は屋上の縁に近づくと、マットを敷いて、この上で狙撃姿勢を取った。伏射で狙撃するからマットがあると身体が格段に楽だ。些細な工夫だが。
 『こちらフィルティエルトだ』と無線でバディのニースフリルに連絡『狙撃地点に到着した。そちらはどうだ』
 『こっちもポイントに到達。いつでも支援できるよ。目標はきた? 来たみたいだね』
 私はスコープを覗き込む。これはニースフリルの搭乗する火力支援車とリンクしているのであちらにも映像が見えている。遙か眼下のビルの屋上で2人の少女が対峙していた。2人とも奇妙な格好をしていて、片方はどういった理由か不明だが、頭部をモアイ像のようなマスクで隠していた。隠蔽にしては奇妙だ。もう片方は丈の長いインバネスコートを守っている。このコートはあまりにサイズが大きいので腕を持ち上げると裾が垂れ下がった。
 インバネスコートの少女が右腕の袖を垂れ下げた。どうやらモアイ少女に指でも突きつけているようだ。スコープで口の動きを覗く。『イアイア! ここで会ったが百年目。まとめて片付けてやる』と動いた。なんかインスマス顔の娘だな。
 『どう?』とニースフリル『激突するかな』
 『うむ』と私。『気恥ずかしい挑戦状を送った甲斐があったというものだ』
 『そうね。魔砲少女フィルティエルトちゃん』
 『任務中にからかうな、阿呆。少女なんて年齢でないし、そもそも私はもう自活している。少女ではない』
 私とニースフリルは現在、星見の塔から魔法少女委員会へ出向している。この魔法少女委員会からの命令で今回の狙撃を行うことになった。倒すのはあのモアイ少女だけなのだが、直接対決するには強力すぎたので、別の魔法少女と戦わせて力を削ぎ、奇襲をかける手はずになっている。
 そのような事情で私は2人の魔法少女に挑戦状を送りつけた。残念なことに私の名前で。本当はニースフリルの名前を借りるはずだったのだが、当然ながら彼女もまた嫌がり、仕方なくじゃんけんで決めたら負けてしまった。おもわずその場にいない姉妹の名前を借りようかとおもったが、ムランカやヘリステラに知れたら後が面倒なので辞めた。とりわけムランカはユーモアを非常に良く解するから面倒だ。

244魔法少女モアイVS魔法少女触手VS魔法少女狙撃手:2007/11/22(木) 18:46:22
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長文でエラーしたので分割しました。
続きです。
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 『始まったよ』とニースフリル『モアイ少女が変身する!』
 『なに。あの外見で変身してなかったのか。意外』
 モアイ少女はロッドのようなものを差し上げると七色の光に包まれて恍惚とした表情を浮かべた。対してインスマス顔の少女はすでに変身を済ませているらしく接近する。インスマス顔の少女がコートをはだけて内側を晒したとき、私は眉を寄せた。
 『気色悪いね』とニースフリル『あれの生まれはシンガーポールのルルイエかな』
 『まず間違いない。映像リンクは悪いが切らないぞ』
 『うん。判っている。それに、これすぐ終わるから』
 すぐ終わる? 戦闘というものは開始までの時間が長いのであって銃火を交えるのは一瞬だけだ。そういう意味かとおもったが、違った。インスマス顔の少女は怖気を催すほど大量に触手を放つ。シーフード系の触手は変身中のモアイ少女に絡みつき、その動きを奪った。モアイ少女は触手で絡め取られ、毛糸玉のような有様になった。しかし隙間から猛烈な光がもれる。どうやらモアイ少女がまだ抵抗しているようだ。おそらくすぐに形勢は逆転するだろう。
 私はスコープを操作する。レーザーポインターの輝点が触手玉に浮かんだ。
 『対地ミサイルぶっ放せ』
 『了解』
 唸る風音にミサイルのモーター音が混じった。任務は終了するかのようにみえたが、触手玉がほどけ始める。私は舌打ちをして引き金を絞った。
 大口径弾が轟音とともに大気を引き裂き、絡み合う魔法少女たちに命中する。ミサイル弾着までの時間を数えながら私はさらに引き金を絞る。
 弾丸の雨。そして高空から襲いかかるミサイル。ほどけた触手からモアイ少女の顔が見える。私と目があった。気づかれた。私は銃を捨て逃げる。

245トラペゾヘドロン、降下:2007/11/24(土) 14:22:18
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http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/7039/1192801775/451
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 「なんということだ、ニースフリル」とぱりっとしたキャリアウーマン風の女性がいってくる。狙撃のフィルティエルトのめずらしいぼやき「あと一週間で星見の塔に戻れるというのにこんな事件に巻き込まれるなんて
 星見の塔から魔法少女対策委員会へ出向して半年、経った。あと一週間で出向期間が終わって帰るはずだったのにこのままでは足止めを食らってしまうかもしれない。いや、一生帰れないかも。
 魔法少女対策委員会の調査部門は輝くトラペゾヘドロンの出現を確認した。輝くトラペゾヘドロンはなんだかよくわからないが、異世界からこれのある世界へものを召還する機能を持っていて、結果的にその世界に混乱をもたらすものだ。まあ普通ならちょっとした争いが起こるくらいなのだけど魔法少女が大量発生して殺し合うこの世界は安定性を欠いているから外部からのちょっとした力で崩壊してしまう。そうなったらどうなるかわからない。世界の終末となるかもしれないし、外部への移動不能な幽閉世界となるかもしれない。わかっているのは悪いことが起こることだけだ。
 「くそう。なんだ、あの魔法少女対策委員会の報告は。ターゲットの降下予想エリアが全世界だとは。ふざけてやがる」
 「仕方ないよ。トラペゾヘドロンの放つエネルギーでセンサーの大半が機能不全に陥ったんだから。でも方法がないわけじゃない。というか勝手にやってくれる連中がいる。ほら欲しがっている奴らがいるだろ」
 「なるほど。殺し合いに明け暮れる魔法少女連中ならトラペゾヘドロンの力を求めるということか」
 「そういうこと。魔法少女たちの集まる場所がターゲットの降下地点さ」
 フィルティエルトと私はジープに乗り込む。運転を任せると私はPDAを起動させる。魔法少女対策委員会のセンサーは無効化された。でも魔法少女たちの戦闘が行われるなら情報はかならずメディアに流れる。それから降下地点を予測する。
 「見つけたよ、意外と近い!」
 私が場所を告げるとフィルティエルトはハンドルを切る。私は詠唱を開始する。車に魔法的加速を与えた。「間に合え」

246少女司書の帰還(1):2007/12/16(日) 01:37:32
少女は図書館にいた。いつからなのかはわからない。気付いたときにはすでにいた。
薄暗くて天井の高い荘厳な図書館で、あちこちにある本棚には、背表紙に何も書かれていない、同じ厚さの白い本が壁のように並んでいた。
図書館はでたらめに広かった。どこまで続いているのか、どれだけ部屋があるのか、本が何冊あるのかわからなかった。
所々に美しい彫像や絵画が飾られていたが、少女はそれらに注意を払わなかった。
図書館を利用する人はいなかった。しかし、司書は数え切れないほどいた。

少女も司書の仕事を持っていて、白い表紙の本を頭の上に載せて、図書館を右に左に歩き回った。
少女は幼かったが、他の司書達に負けないぐらいがんばって仕事をしていた。
司書達の仕事は、白い表紙の本を、自分が運ぶべきだと思った場所に運ぶことだけだった。
誰も自分の仕事に疑問を持たなかった。司書達はひたすら働いた。

少女はある時、階段にけつまずいて転び、4冊の白い表紙の本を落とした。
すぐに涙を堪えて立ち上がり、服の埃を払った。倒れるときについた膝と肘が痛かった。
本を取ろうと手を伸ばしたとき、その白い表紙の本の中身に目がいった。文字の羅列があった。
しかし少女は本を閉じ、また4冊を重ねると、頭の上に載せて歩き始めた。

しばらく歩いてから、少女は自分が運ぶべき場所がわからなくなってしまったことに気付いた。
こんなことは今までに無かった。少女は混乱した。転んだ拍子に忘れてしまったのかと考えた。
近くの部屋の中の椅子に座ってしばらく途方にくれていた。他の司書は現れなかった。
そのうち、少女は先ほど落とした白い表紙の本の中のことを思い出した。文字の羅列だった。
しかし何故か気になって仕方が無かった。少女は4冊のうち1冊を手にとって、本を開いた。

少女は本を読んだ。少女の見たこともない文字だったが、どういうわけかゆっくりとだが本の内容が頭に入っていった。
本には様々なことが書かれていた。
4つの月。地獄の門。悪魔の騎士。海と大陸。巨大な槍。ゴボウの調理法。氷柱の神々。
白い炎に包まれる森。草原の民。神に挑んだ数多の英雄達。犬と狼と猫。納豆。単眼の母。
ページごとに書かれている内容はバラバラだったが、それでも少女は貪るように本を読んだ。
白い表紙の本の中にあったのは文字の羅列ではなく、世界だった。

247少女司書の帰還(2):2007/12/16(日) 01:38:16
どれほどの時間が経ったのか、少女は4冊の本を全て読み終え、嘆息した。
自分の周りで巨大な本棚に収まり、壁を作っている白い表紙の本全てに
こんなに素晴らしいことが書かれているのかと思い、身震いした。
もう完全に仕事のことは忘れ去っていた。本棚から一冊本を取り、読もうとした。

その時、少女は自分の近くの椅子と机に、一人の女性が座って、何かを本に書き付けていることに気がついた。
部屋の中に入ったときは確かに誰もいなかった。女性は顔を上げずに尋ねた。
「何をしているのですか?」
少女は面を食らった。しどろもどろになりながら答えた。
「私は階段で転んで、仕事を忘れてしまって……どうしていいのかわからなくて、それで、本を読んでいました」
「本を読んでいた?」
女性はゆっくりと顔を上げた。美しい女性であった、ように少女には思われた。
「貴女は司書でしょう?」
「そうです。すいません」
少女は自分が叱られているのだと思い、すぐさま謝った。
「仕事に戻ろうと思うんですけど、その、仕事が思い出せないんです」
「仕事がわからないのなら、何もしなくても構いませんよ」
女性は顔に全く表情を作らず、口をほとんど動かさずに静かに言った。
少女は自分があきれられているのだと思った。涙が出てきそうになった。近くの椅子に座って、目を瞑り、何もしないことにした。

248少女司書の帰還(3):2007/12/16(日) 01:38:48
しばらくして、突然女性が尋ねた。
「貴女は本を読んだ。ここが何に見えますか?」
その言葉を聞いて、少女ははっとして目を開き、辺りを見回した。
一瞬のことだった。図書館は音もなく膨張し、張り裂け、煙のように消え失せた。
そして、少女は自分と女性が4つの月と星々が輝く夜空に浮かぶ椅子に座っていることに気付いた。
4つの月の前には大地に突き刺さった槍が見える。神々の世界。本の中にあった世界。
白い表紙の本の壁は、今や無数の光の玉となり、揺らめき辺りを照らした。

少女は呟いた。
「館なんて無かった。本も」
「そういうことです。よくぞ気付きました。あなたは司書にしておくには勿体ないようです」
女性は無表情だったが、少女には確かに彼女が喜んでいるように感じられた。
「あなたは、館主さんなんですか?」
少女は尋ねた。どうも彼女は司書ではないらしいと感じていた。
「そうです。この図書館も随分と広くなりました。司書がいないと不便でなりません」

女性が小さく何かを呟くと、本だった光が矢のように動き、少女の目の前で集まり、大きな淡い光の塊となった。
「餞別を与えましょう」
すぐに光は消え、少女が今まで幾千と見てきた、しかし読みはしなかった、白い表紙の本が残った。題名はやはり無かった。
「あなたのものです。では、貴女に暇を与えます。帰りなさい」
女性は再び、空に浮かぶ椅子と机で、書に何かを書き付け始めた。
少女は戸惑った。自分が誰で、ここがどこか、見当も付かなかった。帰るべき場所も知らない。
待って、と言おうとしたが、その前に自分の身体が支えを失ったことに気付いた。椅子が消えた。バランスを崩し、頭が下になった。
水の中を沈む石のように、ゆっくりと夜空から落ちていった。星と月が下へと流れていった。自分の本が近くに見えた。
恐怖は無く、むしろ心地よかった。


少女は目を覚ました。いつもの自分のベッド。
昨日のいつもの一日が終わって、ひどく長い夢を見ていた。また今日もいつもの一日を過ごす。
そう思っても何の差し支えも無いと感じていた。自分の枕の側に置かれた、白い表紙の本に気付くまでは。

249少女司書の帰還(クルマルル・マナンの考察):2007/12/16(日) 01:39:38
以上が泥酔した我が師、オルザウンから得られたリィ・エレヌール・コロダントに関する物語である。
私もエレヌールと交流が無かったわけではないが、彼女はほとんど自分の身の上を語らなかったし
私自身、そんなことに興味を抱いていなかった。

やはり、物語に登場する『白い表紙の本』が、オルザウン禁忌集の編纂において
大きな意味を果たしたことは疑う余地がないように思われる。
エレヌールは超人的な勘と推理力の持ち主ではあったが、それにせよ糸口が無くては
禁忌集における常識を覆すような事実に行き当たることは不可能である。
彼女の功績は、伝説に聞く『神々の図書館』の知識の断片があってこそだったのであろう。
無論、禁忌集の事実は、限られた点からその全貌を掴み取る想像力と、無数の実地調査によって支えられているものであり
仮に私なぞがその『白い表紙の本』を授かったとしても、使いこなせずに終わっていたであろうことは間違いないだろう。

エレヌールが『槍のタングラム』の公演の日、どこに消えたのかには諸説がある。
槍の外の混沌に弾き出された。永劫線に触れた。劇場の中で【人類】の逆魔法を発動させ、消滅した。
これらの説が最も有力とされているが、どれも根拠の無い憶測に過ぎない。
以上の物語を聞いたとき、私の脳裏にはある一つの仮説が閃いた。
私は、完全なる『槍のタングラム』は観客の協力を得て初めて発動する大規模な魔術であり、それによってエレヌールは
『神々の図書館』に舞い戻ったか、『神々の図書館』を模倣した自分の図書館を作ったのではないかと思う。
もっともこの仮説も、以前の彼女が図書館というものに拘泥していたところがあるという曖昧な事実と
酔っぱらいの長話のみによって支えられる、頼りないものに過ぎないのだが。
しかしながら、理由もなくいきなりエレヌールが槍の外に出たと主張するよりは理にかなっているのではないか。

250少女司書の帰還(クルマルル・マナンの追記):2007/12/16(日) 01:40:26
追記
『白い表紙の本』であるが、私はもちろん、師やニースフリルといったエレヌールの盟友達もその本を見たことはなかったようだ。
エレヌール自身、「自分が望めばいつでも手元に現れる」「読むのにページを捲っていく必要は無い」と語っていたことから
『本』というのは便宜上彼女がそう読んでいただけであって、実際は言語の妖精か何か
彼女の心の中にある形の無いものだったのではないかと推測される。


追記その2
彼女が『槍のタングラム』を執筆し始めた時期と、『白い表紙の本』を入手した時期が同じだと考える。
その時期に4つ、全ての月が同時に上り、かつ槍がそれらの方角に見える地域は、かなり限られてくる。
そして、その地域の中には、『書物の女管理人』を意味するリ・エレヌール・コロダントという古い言葉を持つ一部族がいた。
酔っぱらいの妄言の中の友人の話の夢の中の光景について考察するだなんて、目眩がしてくるが。
これは偶然であろうか。


追記その3
「ラヴァエヤナが司書を雇っている時点でエレヌールのジョークに決まってるじゃん」
久しぶりに会ったニースフリルが私に浴びせた言葉である。
私がラヴァエヤナに関する神話を読む限りでは、彼女は合理的な考えの持ち主で、また全能では無かったように思われる。
よって、ラヴァエヤナが司書を雇うことは、それほど不自然なことでも無いと私は感じる。
しかし、ニースフリルの言葉である。そうでないことを祈るしかない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

追記その74
どうも私は追記を多く書きすぎるらしい。しかし反省はしていない。
付け足すことがあれば、いくらでも書いていくべきであろう。
だが、そういった意見にも一理ある。いずれこれらの追記も本文にまとめて書き直すかもしれない。


追記その75
あの雌犬め。

251ロズロォの懺悔(1):2007/12/24(月) 23:32:58
 --いつからだろう、私が【草】に手を染め始めたのは?
 覚えている限り、私の病院が本業の他にこっそりと【草】を作るようになったのは私の父の代からだったと思う。
 当時、私の一族は新天地を求めて祖国リクシャマー帝国を離れ、北方帝国へ来たばかりだった。
 リクシャマー帝国において貧乏医者としての借金に負われる毎日に飽き飽きしていた父は、まだ発展途上の北方帝国ならば一山当てることも可能だろう、と家屋財産を処分して北方帝国へ家族を引き連れて移住した。だが、北方帝国で待っていたのは父の予想を裏切る現実だった。
 確かに北方帝国はまだまだ未開の土地だった。
 しかしその開発権は既に国の中枢を担う央機卿を初めとする昔からの貴族や領主達、そして各国の有力商人達に占有されており、私達のような他国からの流民が入り込む余地など無かった。また、労働人口も既に過剰状態にあり、北方帝国に来ても特筆する技術でもない限り職にありつけるのは稀なことだった。首都ソフォフの城壁の周辺には、そうして外国から来たものの職にあぶれた人々が貧民窟を作っており、それは子供の私から見ても荒んだ世界に見えた。
 そのような中で父は医師としての仕事を見つけ、小さいながらにも診療所を開く事ができたのだが、幸運の女神はいとも容易くその時点で私達家族を見捨てた。覚えている限り客らしい客が来たことは殆ど無かった。北方帝国ならば……同じ事を考える医者は父だけではなかったからだ。
 私達はすぐにリクシャマー帝国にいた頃と同じように、いやそれ以上に困窮するようになった。日々の糧にすら困るようになり、一欠けらのパンすら口に出来ない日が幾日も続く有様だった。
 下の妹が死んだのはそんな時だった。
 死因は栄養失調だった。
 ささやかな葬式の最中、父は始終黙りこくっていたが、きっとその時既に父は決意していたのだと思う、医師としての良心を金で悪魔に売り渡すことを……
 それから程なくして、父は地下にある薬工房に篭るようになり、診療所には稀に客が訪れるようになった。
 子供の私から見ても、彼ら、あるいは彼女達はあからさまに怪しい客だった。彼らは外套のフードを深く被っているか、あるいは仮面で顔を隠していた。その客に対して、父はこっそりと握らせるようにして何かを渡していた。客は必ず大金を、とても普通の診療で支払ってもらえるようにない大金を毎度置いていった。その金で私達家族はなんとか普通の生活ができるまでに潤った。
 父が何をして、そのような大金を稼いでいたのか?、それを知ったのは私が成人した時だった。
 その時分、私は父の跡を継ぐべくロズゴール王国の医学大学へと留学し、6年を経て卒業して北方帝国に医者として帰ってきた時だった。その時、私の家にも私を外国の大学に通わせて卒業させるだけの蓄えはあった。
 父は、その時になって初めて家の地下にある薬工房を見せてくれた。
 それは半ば気付いていた事実だった。
 父は、貴族が宴会や馬鹿騒ぎのパーティに使うための【草】を作り、私達の生きて行くための財を養っていたのだった。
 父は私に言った、「ロズゴールやリクシャマーなりに行って貧しいながらも医者としての人生を全うするように」と。
 しかし若かった私はそれを選ばなかった。
 ささやかな私利私欲を得たかったからではない。私なりに正義があったからだった。このようなことでしか医師としての生を全うできないこの北方帝国の医術の世界を変えてみたいと思ったからだった。

252ロズロォの懺悔(2):2007/12/24(月) 23:34:03
しかし父が他界し、四年、五年と年月が過ぎ、蓄えが底を尽きるにあたり、結局私は挫けた。
 その頃には、私にも養わなければならない家族があったのだ。
 私は父のつてを伝い、結局【草】作りに手を染めるようになっていた。一度だけ、今回だけ、と思いながらも、結局はどっぷりと【草】の精製に浸かるようになっていた。
 --いつからだろう、私の客層が変わるようになったのは?
 最初、私の客は貴族の使いだと言う者ばかりだった。
 その中には貴族ではなく、成金の豪商の類や、噂を聞きつけてなけなしの稼ぎを一時のスリルに身を任せるためにはたいた庶民もいたに違いない。だが、私はそれを気にしなかった。
 だが、ある時を境に私の客層は明らかにガラリと変わった。
 【パトゥーサの遠征】と後に呼ばれる戦争が起きたからだった。
 その時、政府は草の民への侵攻の主力兵力を成す傭兵が、戦闘のために使う各種の【草】を入手することを、公でこそ無かったが看過した。当然、売りさばくことに対してもだった。
 だから私もその時流に乗って、【草】を大量に精製し、彼らに【草】を大量に売りさばいた。それはこの時代の医者の大半が行ったことだった。
「草の民の娘っ子は華奢なわりに激しく抵抗するって噂だしなぁ」
 傭兵達は、そんな下卑た話をしながら私から【草】を買っていったが、私は気にしなかった。いつも愛想笑いを浮かべて彼らにそれを売った。【人形作り】のような禁制の【草】を作ることも躊躇しなかった。役人には稼ぎの中から僅かな金を握らせて鼻薬を嗅がせてあったとは言え、今にして思えば私は何かが麻痺していた。
 【パトゥーサの遠征】が失敗に終り、逆に北方帝国が草の民から侵攻されるようになっても私の仕事は変わらなかった。北方帝国の主力は依然として傭兵であり、彼らが戦場において各種の【草】を必要とすることには変わらなかったからだ。その【草】がどのように使われるか、など私には興味の無い話だった。
 私は、私と私の家族が今日を行きぬき、明日を生きるための金があれば良かったのだ。
 --そしていつからだろう、時代が変わったのは。
 私の医療所の扉が乱暴に叩かれたのは、ある朝早くのことだった。
 眠い目をこすりながら妻が扉を開くと、なだれ込むようにして武装した役人達が私の医療所へと入ってきた。何が起きたのか分からず呆然とする私達の目の前で、役人達は診療所の中を全て引っくり返し、私達の寝室や子供達の部屋の布団まで引き剥がしていった。
 やがて役人達の一人が「ありました」と私の工房の中から叫んだ。彼が見つけたのは生成中の【草】とその材料だった。
「この男をしょっぴけ」
 役人の隊長らしい男が言うと、体格の良い役人が二人私の腕を掴み診療所から引きずり出そうとした。
「待ってくれ」
 私は言い、普段から鼻薬を利かせているその街ではそれなりの顔役である役人の名前を出した。私だって世間と言う物が多少なりとも分かっていたつもりだった。多く稼いだときにはそれなりの額を彼に寄付していたし、それを怠ったことは一度だって無かった。
 しかし役人達は私に何も答えずに粛々と私を診療所から外に連れ出し、地下の工房から見つけた証拠品の数々を持ち出した。
「何かの間違いだ!、私は!!」
 騒ぎ立てる私に、役人は小声で、耳元で囁くようにして言った。
「時代は変わったんだよ」

253ロズロォの懺悔(3):2007/12/24(月) 23:35:10
 「時代は変わったのです」
 役人の詰め所の小さな石造りの、殺風景な面会室の中、取調べと称した拷問ですっかり顔が腫れ上がった私を前にして私の弁護人は言った。
「草の民のハルバンデフ王が謀反で殺された話はご存知でしょう?」
 私は頷く。それは1年以上前の話だ。
 一時期は国土の大半を奪われ、帝都ソフォフも包囲された戦争だったが、戦線からも遠く、戦火にすぐに巻き込まれる心配の無いその街に住んでいた私には、戦争などどこか遠い国の話にしか聞こえず、また国家にとって最大の仇敵の死も他人事にしか感じられない話だった。最近この街にも引き上げてくる傭兵や、草の民の難民が増えた、と感じる程度にしか私は感じなかった。
「次期王として選ばれたアルプデギン王は政府に対して講和を申し入れました。戦争状態の終結と、引き換えに今まで占領していた地域の返還を申し入れたのです。当然、政府はこの申し出を受けることを決定しました」
「戦争は終わったということですか」
 弁護人は私の言葉に首を縦に振った。
「戦争は終り当面の外敵は無くなりました。今度は国家の敵は内側に巣食う病巣となったのです。つまり暴動や略奪を働くかつての英雄である傭兵達と、その傭兵達や民衆に【草】をばら撒いた【草】作りの職人達等々、国内の治安を乱す者達です」
「冗談じゃない!」私は叫ぶ。「私達は国家の命令で【草】を作ったようなものじゃないか!」
「政府はそんな命令は下しておりません」溜息混じりに弁護人は答える。「ただ看過しただけです」
「私達が作った【草】のおかげで今まで軍は戦線を維持できたようなものじゃないか!」
 傭兵を主体とした北方帝国の軍隊が弱く、各地でハルバンデフ相手に惨々たる戦果だったのは国民ならば誰もが知ることだ。しかし……
「それは結果としてです」
 そう言われては私に返す言葉などなかった。
「それに、宜しいですか?。貴方には貴方のお父様の代からの【草】作りの容疑と、禁制品の【草】の中でも最も厳重に禁制されている【人形作り】の精製・販売の疑惑がかかっております。これは帝国の刑法に照らし合わせても重罪です。正直、貴方を極刑から免れさせることが可能かどうかも難しい状態です」
 【人形作り】、乙女すら娼婦に変えると言われた向精神性の【草】だ。全身の神経を麻痺させる効果もあることから難病患者の手術にも麻酔として用いられることが多いが、高い催眠効果もあることから先代皇帝の時代に後宮での寵妃による皇帝暗殺未遂事件、所謂【三月事件】に用いられてからは所持はもちろん、届出の無い精製に対しても厳罰が処せられていた。
「私は、あれに対してはちゃんと精製の届出は出していた」
「えぇ、それは役所の記録にも残っております。裁判の際にもそれは有利な証拠になるでしょう。しかし問題はその使用目的です。貴方は傭兵達に対してそれを大量に販売した」
 それは事実だった。各種の【草】に紛れて、私は高値を付けて【人形作り】も傭兵達に売りつけた。
 戦線には碌な医者が居ない。だから重傷者に応急処置として鎮痛剤として使うことや、まともな医者の居る陣営まで負傷兵を連れて帰るために使うということが販売の名目だった。しかし、実際にそれらが戦場でどのように使われるかなど私の知ったことではなかった。
 金にさえなれば、私は良かったのだ。
「それに私の他にもっと大規模に堂々と【草】を精製している連中は沢山いたじゃないか?。国営の施薬院や医局だって【草】を、それも【人形作り】やそれ以上の【草】を精製して売っていたじゃないか?。彼らは責任に問われているのか?」
 弁護人は再び深い溜息を吐いた。
 吐き出された溜息が白い息となり、部屋の空気に溶けていく。
 その沈黙の間を置いて弁護人は答えた。
「先ほど時代は変わったと申し上げました。いかなる時代の変化においても祭儀と生贄の羊は必要なのです」
「つまり、私は運が悪かったと……」
 弁護人は何も答えず席を立った。
 部屋を後にした弁護人と入れ替わりに役人達が入ってきて項垂れる私の両腕を掴んで私を椅子から立たせる。
 難しいことでもなんでもなく、考えるまでも無く、つまりはそういうことだった。
 
 
 それから一月ほどして開かれた法廷における、食糧不足の北方帝国でどうすればこうまで太れるのだろう?と思うぐらいに体格のいい裁判官が私に下した判決は「医師(ロズロォ)オアフターナ・ディズナに禁制品の【草】を多数精製・販売したことを理由とした終身刑を宣告する」というものだった。
 死刑にならなかったのは弁護人が頑張ってくれたからだろう。
 程なくして修道院を通じて妻から離縁状が届いた。
 私にはただうなだれてそれにサインをするより他に術が無かった。

254ロズロォの懺悔(4):2007/12/29(土) 02:59:34
 私が流刑地として送られたオルドナは北方帝国でも南のほうにあるフォリカという街の近くにある場所だった。
 しかし南の方とは言え、温暖なリクシャマー帝国やロズゴール王国に比べればそこは遥か北に位置し、季節も晩秋ということもあり、決してそこは温暖な場所とは言いがたかった。
 また、私の搬送に使われた馬車は、人を搬送するにはあまりに粗末なもので、車輪もあまり手入れはされていないのだろう、進む度に酷く揺れた。
 私は馬丁や囚人護送の役人に幾度かその事を訴えたが、彼らは囚人の言うことなど取り合ってられぬとばかりに無言で、私は寒さと酷い乗り物酔いに堪えるしかなかった。馬車には私と同じ囚人がもう一人乗っていたが、彼は非常に愛想の悪い男で、旅の間一言も私と口を聞くことが無かったので、私は孤独とも戦わねばならなかったのだ。
 そうこうしているうちに2週間ほどかけて馬車はオルドナの牢獄に着いた。
 そのオルドナの牢獄を最初に見たときに私が思ったのは、これは牢獄ではなく檻に違いない、というものだった。
 後で知ったことだが、元は砦だったというその牢獄は周囲を高い壁で囲まれ、全ての窓には堅い金属製の鉄格子が取り付けられていた。壁の最上部に斜め内側向きに柵が設けられており、それは囚人を投獄するためというより、何か危険な猛禽を飼っているように見えた。
 やがて馬車は大きな門を潜って牢獄内部へと入っていったが、そこは外見以上に陰鬱な場所だった。
 高い壁のおかげで昼間だというのに殆ど日が差し込まないその牢獄は、中央に大きな円形の広場があり、その広場を囲むようにして粗末で薄汚れた囚人棟が何件か建てられ、役人達の施設は牢獄から離れた壁の付近にあった。何の為に?と私は、最初、この牢獄の施設の配置に疑問を感じたが、馬車から眺めている限りではひどく粗末な格好の囚人達の姿を何人か見ることが出来ても、役人達の姿を見ることは殆ど無かったことから、役人達にとってこの牢獄の囚人達は危険な猛禽なのではなかろうか?という考えにすぐに行き着いた。
 だとしたらとんでもない場所に私は投獄になったのかもしれない、と私は思ったが、すぐに後で知ることになるのだが、その考えは間違えてはいなかった。
 進むとき以上に乱暴な動作で馬車は囚人棟の一つの前で止まり、役人は馬車に乗り込むと、まるで家畜でも扱うかのように私を乱暴に馬車から引きずり降ろした。私は地面に倒れこみ、激痛のあまりしばらく息すらできない有様だった。そしてようやく息ができるようになってから顔を上げると、いつの間にかそこには囚人たちが私達を囲むように人垣を作っていた。
 清潔とは程遠い粗末な格好をした彼らの誰も彼もが落ち窪んだ、そしてギラギラとした目をしていて、まるで猛禽の類に囲まれたような感覚を肌に感じ、私は思わず身震いしてしまった。彼らが同じ人間だと、私には感じられなかったのだ。
「二番棟牢名主いるか?」
 役人が言うと、私達を囲んだ男達の中から一人の体格のいい男が「へいへい」と横柄な口調で現れた。囚人とは思えない堂々とした態度の男だった。
「新入り2名だ。今日から面倒を見ろ」
 そう言うと、役人はまるで物でも扱うように私ともう一人の男の身体を男の方へと押し出した。牢名主はたたらを踏む私の身体を受け止めると、ふぅんと値踏みするように二人を上から下まで舐めるように見まわし、「新入りども、今日からお前は俺達の仲間だ。よろしくな」と言った。それは驚くほどに愛想の良い声で、その顔には満面の笑みがあったが、私は気付いた、その目は微塵も笑ってはいなかったのだ。
「これが書面だ、読んでおくようにな」
「そうしますよ、気が向いたらだけどな」
 そう言って男は役人から私の書類をひったくるようにして受け取った。
 役人はその男の態度に怪訝そうに顔を歪めたが、それ以上何も言わず、まるで逃げるようにして馬車に乗り込んでその場を後にした。
 役人達が居なくなった後で、書類を読んでいた男は、「そうか、あんた医師(ロズロォ)か」と私を見て言った。
「まぁ、あんたは色々と使い道がありそうだな」
 男はそう言って愛想のいい笑顔を浮かべたが、その笑顔が私には何よりも邪悪なものに感じられた。

255ロズロォの懺悔(5):2007/12/29(土) 03:00:32
 それから先に繰り広げられたもの、それは私がこの牢獄に来て最初に来て見たおぞましいものだった。
 私と共に護送されてきた囚人、彼は特に技能を持たない強盗で、そのことが私と彼の未来を分けた。
 囚人たちは私達を囚人棟に入れると、囚人棟の一番大きな部屋の中でそのもう一人の囚人を囲み、そして牢名主が質問を始めた。彼は恐る恐るその質問に答えたが、答えた次の瞬間には別の囚人に殴られていた。私はその有様に目を大きくして驚いたが、牢名主は眉一つ動かさずに次の質問をする。彼はそれにも答えたが、また別の囚人に殴られた。
 それからも牢名主は彼に次々と質問をし、それに対して彼が何かを答えるたびに理由を付けては彼は殴られ続けた。それは私刑以外の何物でもなかった。
 やがて彼は地面に倒れたが、それでも囚人達は彼を立たせ、理由をつけては殴った。意識を失うと水をかけて起してまた殴り、やがて彼が意識を失っても殴り続けた。
 その間、私は震えながら壁を背にしてその光景から目を背けられずにいた。それはまるで猛禽の群れが哀れな獲物に一斉に襲い掛かるのに似ていた。
「おい、医師(ロズロォ)さんよ」
 やがて牢名主の男に呼ばれて、私は我に返った。
「この男、動かねぇ、ちょっと見てくれるかな?」
 言われて私は震える足で、牢名主の指差す方向に、人ゴミの中を掻き分けて恐る恐る近づいた。
 そこにあった物を見て、私は思わず吐きそうになった。
 男の四肢と首はあらざる方向を向いており、その顔は原型を留めていなかった。また、粗末な服から覗いた肌は内出血でどす黒く変色しており、服の下で破れた腹から内臓が飛び出ているのがありありと分かる有様だった。あちこちが腐って穴が開いている木製の床は彼の血で濡れていた。拳だけで人はこうまで破壊できるのか、と戦慄するぐらいにそれは見事な破壊の有様だった。
 私は震える指で彼の首筋に触れたが、当然のことながらもう既に彼に脈は無い。
「死んでます」
 私が震える声で言うと、牢名主は「そうか」と冷静な声で言った。
「お前達、歓迎式は終りだ」
 牢名主が言うと、囚人たちは三々五々と自分の部屋に戻っていった。
 部屋には呆然とその場に座り込む私と、悠然と腕を組んだ牢名主、そして息絶えた囚人の骸だけが残された。
「おい医師(ロズロォ)さんよ」
 唐突に声を掛けられ、私は思わずビクッと身構える。
「奥の部屋に死体袋がある、それにその死体を詰めてその部屋に運んでくれないか?。もし一人で運べないんだったら、他の奴に手伝わせる。それが終わったらお前の部屋を案内する」
 それはあまりに手馴れた指示だった。
 きっと、こんなことは日常茶飯事なのだ。その事に気付き、私は改めて自分の投獄されたこの場所に怯えた。
 
 
 翌日、役人が私達の囚人棟を訪れ、牢名主は私と一緒に来た囚人の死を告げた。
「またか……」
 役人はそう言うと囚人の中から数名を選んでその死体を運ぶ準備をするように牢名主に告げると、そこから逃げ去るようにして立ち去った。
 囚人達のうち数名が入り口で死体袋を用意して待っていると、やがて武装した兵士達が囚人棟にやって来て、囚人達に死体を運ぶように言った。囚人達は兵士達に連れられてどこかへと消える。
「気になるのか?」
 いつの間にか私の背後に立っていた牢名主が言うので、私が頷くと彼は「この牢獄の地下に川が流れているんだ」と教えてくれた。
「死体はそこに流すんだ。その際、この牢獄に常駐している司祭が簡易的にだが葬式もしてくれる」
 死んでも神には困らないというわけだ、と牢名主は言った。
 生きていることが幸せとは限らない、死ぬことが唯一の幸せなのかもしれない……と私は運ばれていくその囚人の死体を見ながらボンヤリと思った。
 そしてそれは間違えてはいなかった。


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